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洪子誠「50-70 年代の中国文学について」

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【翻訳】

洪子誠「50-70 年代の中国文学について」

  間     ふ さ 子

     甲  斐  勝  二

      宮  下  尚  子

**

  

  呉     紅  華

***

  

 20 世紀の中国文学問題を検討するとき、50-70 年代は相対的に独立した文学時期だ と常に見なされている1。しかし、この時期の性質や特徴に対する描写には、それぞれ の研究者で大きな違いが現れることもある。その代表的な観点の一つは、この 30 年間 の大陸の中国文学は「五四」によって始められた新文学の進行過程を「逆転」させ、

「五四」文学の伝統に「断裂」を作り、「新時期文学」に至って、新文学の伝統がようや く受け継がれたというものである。2

  福岡大学人文学部教授

**  福岡大学共通教育研究センター

*** 九州産業大学国際文化学部

本稿は、洪子誠(北京大学中文系教授)著「関於 50-70 年代的中国文学」(洪子誠『当 代文学的概念』北京大学出版社 2010 年所収、初出は『文学評論』(北京)1996 年第 2 期)

の日本語訳である。岩佐昌暲九州大学名誉教授を中心とした勉強会で、甲斐、宮下、間、

呉が分担して翻訳し、岩佐教授はじめメンバーによって検討されたものを、翻訳担当者 が再度修正し、間が整理してまとめた。その他の勉強会の参加者は以下のとおり(五十 音順)。有働彰子、王雲燕、妹尾加代、谷口由華、辻田正雄、中島文子、西原暁子、平 田直子、武継平。

1 【原注】朱寨主編の『中国当代文学思潮史』は 1949-1978 年の中国大陸の文学を「当 代文学」と名付けて、「それは中国新文学史と新文学思潮史において、ともに相対的に 独立した段階性と独立した研究の意義をもつ」としている(人民文学出版社、1987 年、

3 頁)。私も『当代中国文学的芸術問題』(北京大学出版社、1986 年)の中で同様の観点 を持っている。

2 【原注】黄子平、陳平原、銭理群の『論「二十世紀中国文学」』は、20 世紀の中国文

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 これは更なる掘り下げが必要な問題である。なぜならこのような説明にはある程度の 道理はあるが、別の面から観るならば、指摘される「逆転」と「断裂」は存在しないか らだ。この 30 年間の文学は、総体的に見るなら、やはり「新文学」の範疇に属してい る。これは 20 世紀の初めに起こった、中国文学の現代化を推し進めようとする運動の 産物であり、文言文に代えて現代白話文を表現の道具として、20 世紀の中国人の社会 変革の進展過程における矛盾、焦り及び希望を表現しようとした文学なのである。50-

70 年代の文学は、「五四」の時代が生み育てた、情感豊かな知識人によって選び取られ たものなのであって、その文学は「五四」新文学の精神と深層において連続性を持つと 言うべきなのである。

 このように言うのは当然ながらこの時期が確かに持っている特殊性を曖昧にしようと 考えているからではない。しかし、この特殊性は文学の精神や、形態上の対立や変異と して表れたものではなかった。それは新文学が始まったときから存在した「選び取り」

の結果と「選び取り」の方式として表れているものなのである。中国新文学の主流作家 たちは、至善至高の社会と文学形態の形成という目標に誘惑され、駆り立てられ、張り 詰めた闘争を経験する中で、自分たちは既に「目的地」に到達したと確信した。彼らが 参与し作り出したのは、思想と芸術が高度に集中し、高度に組織化された文学世界とい う文学状況である。この文学世界の中の「文学的事実」――作家の社会的地位や、文学 の社会政治枠組みの中での位置、作品制作の性質と方式、出版流通の状況、読者の読書 心理、批評の性質、題材・主題・風格の特徴――は、それらすべてに統一の「規範」を 実現させたのだ。

 ここでは、新文学発展の背景から、この「当代文学3」規範の状況、性質、変化及び その歴史的なよりどころについて明らかにしたい。

学の総主題、現代審美観の特徴などを検討するとき、50-70 年代文学を「異質」な例 外として扱おうとする理解を含んでいる。たとえば、文学の「悲涼」という審美観の特 徴を例にすれば、魯迅の小説、曹禺の劇作などから、たちまち「新時期文学」の『人到 中年』等に跳んでしまう。唯一の例外が老舎の『茶館』だった。

3 【原注】本論では、『中国当代文学思潮史』にならい、「当代文学」という言い方を用いる。

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当代文学の「伝統」

 「『五四』の陰影から抜け出す」ようにいいかげんに目をさませと私たちに注意をう ながす人がいるにもかかわらず、現在のところ、「五四」は今なおあこがれの時代とし て描かれたままだ。文学上は、「五四」は往々にして、様々な彩りのすばらしい文学が 次々と現れた「多元」的局面の証明とみなされることが多い。それはつまり、世界の(と いっても実はだいたいのところ欧米ということであるが)の近現代各種の哲学・文学思 潮・流派に対する幅広い紹介、数多くの文学的団体の成立、それぞれが特色を持つ文学 流派の出現、及び詩人や作家たちが示す溢れんばかりの才能……確かに存在したこれら の現象は、この時期の「文学精神」についての我々の理解をミスリードしかねない。だ が実際は、「多元」「共生」といった「文学環境4」は、決して当時の多くの作家が喜ん で受け入れた理想の境地というわけではなかった。「伝統」や「封建復古派」に対する 批判や闘争は言うにおよばず、各種の文学思潮・観念や文学流派に対する態度において、

多くの人は共生を認めるという寛容な態度を持っていたわけではない。「五四」文化革 命の「統一戦線」の形成と「分化」に対する論述は、後に出現した一つの解釈ではあるが、

はじめから「共生」という状態への懐疑や破壊の傾向をはっきりと示していた。「五四」

の多くの作家にとって新文学は、多くの可能性を包含する開放的な構えを意味するので はなく、多くの可能性の中の理想的な形態から乖離した、あるいはそれに悖る部分に対 する抑圧や剥奪が最終的に最も価値ある文学形態の確立へと到達することを意味してい た5。別の言い方をすれば、「五四」時期というのは、百花の咲き誇る文学の楽園が実現 していたのではなく、「一体化」へと向かう起点であって、新文学のその後の頻繁にし て激烈な衝突を推し進めたばかりではなく、破壊と選択の尺度をも確立したのである。

まさにこの意義において、50-70 年代の「当代文学」は「五四」新文学への背反や変 異などではなく、その発展が論理に合致していたことの結果なのである。

 「五四」に始まった文学の「一体化」への過程は、40 年代の後期には、すでに郭沫若 が述べたような局面に到達していた。それは、新文学を構成する主要な矛盾のひとつで

4 原文は「文学生態」。文学の構造体系、文学のあり方全体を示す。

5 【原注】韓毓海は『新文学的本体与形式』(遼寧教育出版社、1993 年)において次の ように言う。「彼らの考えはいずれもある多元的有機的な文化秩序を打ち立てることに あるのではなく、すべての有機的な結合を『衝破』し一種の文化的な統一へと向かうこ とにある」(同書 40 頁を参照)

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ある「軟弱な自由主義ブルジョア階級を代表する所謂芸術のための芸術路線」は、その 文学理論が「すでに完全に破綻し」、作品も「すでに読者大衆を失った」が、一方、「プ ロレタリア階級とその他の革命人民を代表する人民のための芸術路線」はすでに絶対的 な主導権を握っていた6というものである。当時、沈従文、朱光潜、蕭乾等の「自由主 義ブルジョア」作家は、「反動文芸」の代表としてすでに「斥け」られており7、自らの 発言権を失っていた。かくして、「左翼文学」は 40 年代の後半から 50 年代の初めにか けての社会的政治的転折8の中で、中国大陸の唯一の文学となり、文学の「一体化」と いう目標は実現された。

 「此の如く長期にわたる苦痛を経て、此の如く喜ばしく誕生した9」――この言葉が指 しているのは新中国成立のことだが、文学も当然その中に含まれていた。しかし「純粋」

や「完全」が先験性を帯びた目標である以上、「五四」から始まった新文学の絶えざる 区分けと排斥と選択の過程が終わることはありえない。実際には「左翼文学」(あるい は「革命文学」)は当初から観念的にも実践面でも一致した統一体ではなかった。20 年 代末の「革命文学」論争から、40 年代の「主観を論ず」に対する批判まで、「左翼」内 部における「正当性」と「純粋性」の名分と地位を争う衝突の激しさの程度が、「自由 主義ブルジョア階級」の矛盾と比べていささかも見劣りしないことは周知の事実であっ た。中国革命が勝利して、「左翼文学」が唯一の合法的な文学事実になるという状態の 到来にともない、衝突はさらに緊張の度合いを増した。問題の核心というのは、その後 まもなく繰り広げられることになる、「当代文学」のために、どのような文学規範をつ くりあげるかということであった。この問題をめぐって、左翼文学の指導者と権威作家 は 40 年代と 50 年代の前期に、主に次の二つの方面の仕事に関心を注いだ。一つは 30 年代以来の、とりわけ 40 年代の左翼文学の理論と実践に対し総括と自己点検を行い、

異なる主張と路線の間の正誤と優劣を判定することである10。もう一つは「当代文学」

6 【原注】郭沫若の全国第一次文学芸術工作者代表大会における「総報告」(『中華全国 文学芸術工作者代表大会紀念文集』新華書店、1950 年、38-39 頁)参照。

7 【原注】郭沫若「斥『反動文芸』」『大衆文芸叢刊』(香港)第一輯、1948 年出版。

8 転折とは、事物の発展において、本来の方向や形勢を変えること。別の方向に進も うとすること。

9 【原注】何其芳「我們最偉大的節日」1949 年 10 月初執筆。

10 【原注】抗日戦争終結の後 1949 年まで、革命文芸運動の理論と実践を系統的に詳述 し、総括した文章や著作のうち主要なものは以下の通りである。馮雪峰「論民主革命的 文芸運動」(1946)、胡風「論現実主義的路」(1948)、邵荃麟「対于当前文芸運動的意見

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の「伝統」に関する論争である。これは各自の主張する文学の規範の根拠であると同時 に、規範の合法性および権威性のために説明を行うことでもあった。この点において、

彼らはみな 20 世紀の二つの歴史的な時間(あるいは事件)を避けて通れなかった。そ れは「寓言化」された「五四」と、まさに「寓言化」されつつある延安文芸整風(「講 話11」)である。40 年代の終わりから 50 年代のはじめにかけて、文学界が「五四」と「講 話」について行った評価は、いずれも単純な学術研究ではなく、だいたいのところ、こ の現実的な問題をめぐる歴史的解釈であった。

 左翼文学界の主要人物は、周揚であれ邵荃麟であれ林黙涵であれ、さらに胡風であれ 馮雪峰であれ、一人の例外もなく新文学を「五四」新文化運動の産物であるとみなして おり、まさに始まらんとする「当代文学」を新文学の延長、発展とみなしていた。彼ら はそれと同時に新文学の歴史における延安文芸整風と「講話」の重要性も、積極的にあ るいはしぶしぶながら承認していたのである。「五四」文学革命を「講話」と共に挙げ 関連づけるというこの態度は、当時の二つの大型文学叢書「新文学選集」(開明書店版)

と「中国人民文芸叢書」(新華書店版)の編集と出版に体現されている12。この二つは、

1942 年を境として、前者が欠陥のある成果(「五四」新文学)を、後者が欠陥を超越し た模範(根拠地と解放区文学)という文学「資源」を「当代文学」に提供した。

 左翼文学界にはこのように一致した態度はあったが、具体的な細かい解釈や評価にお いて、彼らの間の分岐は十分に明らかであった。周揚についていえば、彼は当時すでに 毛沢東文芸思想の権威的解釈者、断固たる執行者という人物像を確立していた。「堅決 貫徹毛沢東文芸路線」〔断固として毛沢東文芸路線を貫徹せよ〕と題する講演で周揚は、

「講話」は「新文芸をもうひとつの新しい歴史段階に推し進めた」と認識し、「中国近代 文学史の最初の文学革命」である「五四」に比べ、「講話」は「より偉大でより深刻な 第二の文学革命」であり、したがって「新中国の文芸運動の闘争の共通の綱領となった」

――検討・批判・和今後的方向」(1948)、及び茅盾、周揚の第一次文代会上での報告「在 反動派圧迫下闘争和発展的革命文芸」「新的人民的文芸」。

11 1942 年 5 月に行われた毛沢東の「延安の文学芸術座談会における講話」を指す。

12 【原注】趙樹理はこの二つの叢書に同時に入れられた唯一の作家である。彼を『新文 学選集』に入れたことは、編集方針の言う 1942 年以前に既に重要作品を世に問うてい た作者という方針とは明らかに合致していない。これは、解放区の文芸を手本として示 したいとは思うが、その思想芸術の水準に対して十分な自信はないという、当時の矛盾 した態度を反映している。

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とした13。この立場から出発して、周揚らは「五四」を回顧する際、この「最初の文学 革命」の「性質」と「主導権」の問題を確定することが最も緊要であると考えた。これは、

「『講話』およびそれが文芸上に起こした変革は、『五四』文学革命が新しい歴史的条件 下で継続発展する14」のに必要であることを論証するためであった。ここで、周揚は「講 話」と「五四」新文学運動の連繋(「継続」)を強調したばかりでなく、両者の間の区別

(「発展」)も強調した。前者についていえば、「五四」文学運動の性質と指導権を確認す ることで、(プロレタリア思想の指導と、「当初から社会主義リアリズムの発展を目指し ていた」)ことに至ったし15、後者についていえば、「五四」文学運動の欠陥(文学が「労 農大衆と結びつく」という「根本的に重要な」問題を解決できなかったこと)の指摘を 通して、両者の「等級」関係(どちらが「より偉大でより深みがあるか」)を確定させ、

そこから、「講話」およびそれが文学において生み出した変革を、当代文学の直接的で より「真理性」を具えた「伝統」にした。

 この問題において、胡風、馮雪峰の見解には多くの異なる点がある。胡風と馮雪峰 は、新文学の歴史における「講話」の意義を重視していると言明したが、「講話」が根 本的な性質を持つ転折だとみなしていたわけではない。彼らから見れば、中国の新文学 の伝統は、「五四」の時期に魯迅を代表とする作家の実践を経てとっくに確定していた。

彼らはむしろ、解放区文芸運動の経験を過大に宣伝し広めることが生み出す悪影響を憂 慮していた。胡風は「意見書」の中で次のように指摘している。1948 年に解放区に入っ て以後の彼の感覚では、「解放区以前と解放区以外で行われる文芸は事実上完全に否定 されてしまっており、五四文学は小ブルジョア階級であり、民間形式を採用しないのは 小ブルジョア階級である」「五四の伝統と魯迅は事実上否定されてしまっている」16。第 一次文芸工作者代表大会以降の何年かの状況を以て言えば、「完全に否定された」とい うのはおそらく実際とあまり符合していないと考えられるが、しかし「五四」文学と「講 話」の影響下の「新しい人民文芸」の等級関係というのは明白である。そのため「五四」

と 30 年代の著名な作家たちは 50 年代のはじめに、次々と過去の創作上の誤りに対する

13 【原注】『光明日報』1951 年 5 月 17 日。他に『周揚文集』(第二巻)50-51 頁、人民 文学出版社、1985 年。この観点は『在中国共産党第一次全国宣伝工作会議上的報告』

等の文章中でくり返し述べられた。『周揚文集』(第二巻)66 頁参照。

14 【原注】周揚「発揚「五四」文学革命的戦闘伝統」『人民文学』1954 年 5 月号。

15 【原注】周揚「発揚「五四」文学革命的戦闘伝統」『人民文学』1954 年 5 月号。

16 【原注】『新文学史料』1988 年第 4 期、7 頁。

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自己批判を行ったのである。それはたとえば、「軽卒にもいわゆる『正義感』を自己の 思想的支柱とみなしていた」のは「非常に幼稚、非常にでたらめ」だった(曹禺)、「悲 観的な懐疑、退廃的傾向を過度に強調した」(茅盾)、「小ブルジョア階級の知識青年の 薄っぺらで安っぽい哀愁ばかりを表現した」(馮至)、「自分が解放前に発表した作品は ほとんど読む勇気がない」(老舎)……などであった。

 「五四文学革命の伝統を守る」ことを文学の理想と実践の中心問題とした胡風と馮雪 峰であるが、彼らの「五四」に対する歴史的な解釈もまた周揚らとは異なっていた。「論 民族形式」〔民族形式を論ず〕(1940)における「市民を盟主とした中国人民大衆の五四 文学革命運動は、まさに市民社会が突起した後の、数百年を積み重ねた、世界の進歩的 文芸伝統の新しく拓かれた支流である17」という主張や、「論民主革命的文芸運動」〔民 主革命の文芸運動を論ず〕(1946)における、「五四」新文芸運動が「根拠とし直接影響 を受けた」のは、19 世紀の批判的リアリズムと反抗的ロマンチシズムであり、「『五四』

はこの近代資本主義の文学の一つの最後のはるかなる支流である」とした馮雪峰の論断 は、「五四」文学革命の性質と領導思想を歪め、纂改するものとして 50 年代に繰り返し 批判を受けた18。論理的に推断すると、彼らは「五四」新文学がプロレタリア思想の指 導のもと、社会主義リアリズムの方向に向かって前進していると強調もしなかったし、

「講話」は「五四」の伝統の「最も正確な」継承であり発揚であり、「五四」が解決でき なかった「根本的な」問題を解決したとも強調していない。とすれば、これは「まさに

『五四』文芸の伝統で毛主席講話の精神に対抗しようとした」ものだ19と理解されるの は当然の成り行きであった。

17 【原注】『胡風評論集(中)』人民文学出版社、1984 年、234 頁。1954 年、「関於解放 以来的文芸実践情況的報告」(「意見書」)の中で、胡風はこの論述に焦点を当てて次の ように述べた。「今日見れば「五四」当時の指導思想の提示の仕方は誤りであり、毛主 席の分析と結論に違反するものであった」。『新文学史料』1988 年第 4 期、第 66 頁参照。

18 【原注】馮雪峰は「魯迅和俄羅斯文学的関係及魯迅創作的独立特色」においても次の ように述べている。「中国の『五四』の後の新文学は、もし近代ブルジョア階級民主革 命の世界文学の範疇という点から言えば、それは 18、19 世紀のあのいわゆる批判的リ アリズムと反抗的ロマン主義を主流とする世界ブルジョア階級民主文学の最後のはるか なる支流であると当然言えるであろう」『論文集(第一巻)』人民文学出版社、1952 年、

第 124-125 頁参照。彼が 1952 年に著した長文「中国文学従古典現実主義道無産階級現 実主義発展的一個輪廓」では、この観点は変化している。

19 【原注】王瑶「関於現代文学史上幾個重要問題的理解――評雪峰『論民主革命的文芸 運動』」『文芸報』1958 年第 1 号。

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 通常我々は「当代文学」の「淵源」を「1919 年の『五四』新文学運動の興起にまで さかのぼる」。そして、当代文学の「直接の源」は「すなわち 1942 年の延安文芸座談会 である」とする20。しかし「淵源」と「直接の源」という表現を用い、両者を結びつけ る描写の下には、左翼文学の領袖と権威作家のこの問題に関する裂け目と衝突の歴史が 隠されているのである。

文学規範をめぐる論争

 当代文学の「伝統」に対してなされた異なる選択や解釈は、現実の必要から出たもの であり、その中心問題は文学路線と文学規範の確立であった。

 第一次21、第二次22文芸工作者代表大会の招集、映画「武訓伝」や蕭也牧の小説に対 する批判、1950 年代の文芸界の整風学習、そして規範に合致した創作の明示を通して、

1950 年代初頭の数年間において当代文学に対して作られた「規範」はすでにくっきり とした輪郭とディテールを持ち、文学の社会的政治的機能を明確に規定していたばかり か、理想的な創作方法をも規定していたし、「何を書くか」(題材、テーマ)だけではな く、「どう書くか」(方法、形式、風格)まで規定していた。

 しかしこの統一的な文学規範も 1957 年以前には強力な、だがいずれ悲劇的結末を迎 えることになる挑戦を受けていた。そのうち重要なものは 2 回ある。1 回は 1954 年に 胡風らが「意見書」の方式で与えた衝撃であり、もう 1 回は、1956 年から 1957 年にか けての「百花時代」の秦兆陽らによる理論および創作上の疑義申立てであった。胡風 は「意見書」において、自分に対する林黙涵と何其芳の批評の主たる観点23を「読者と 作家の頭上に置かれた 5 本の『理論』の刀24」だと概括し、当時の文芸界の問題は、「セ

20 【原注】朱寨主編『中国当代文学思潮史』3 頁。

21 「中華全国文学芸術工作者代表大会」(第 1 次全国文代会)。1949 年 7 月 2 日-19 日 北平で開催。

22 「第 2 次中国文学芸術工作者代表大会」。1953 年 9 月 23 日-10 月 6 日北京で開催。

23 【原注】林黙涵の「胡風的反馬克思主義的文芸思想」、何其芳の「現実主義的路,還 是反現実主義的路」はそれぞれ『文芸報』1953 年第 2 号、第 3 号に掲載された。

24 胡風によれば「5 本の理論の刀」とは、「作家が創作実践に従事するには、第一に完 全無欠の共産主義世界観を身につけていなければならない」「生活とは労・農・兵の生 活だけで、日常生活は生活ではなく、立場がいらないか、少なくてよい」「思想改造し

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クト主義支配、そしてその支配の武器となる主観公式主義(俗流機械論25)の理論によ る支配」だとした。これは分岐の要点の輪郭をほぼ描いており、衝突の手がかりとして 捉えることができる。そして争論・衝突の中心問題は、20 世紀のほとんどの時期を困 惑させてきた、文学と政治という中国文学の基本的問題であった。

 文学と政治の密接な関係はこの 100 年の中国文学の重要な特徴であり、ある段階では 引き剥がすことができぬほど一体化していた。これはすでに誰もが常に言及することで ある。事実としては、「文芸の自由」「芸術のための芸術」といった主張ですら、さまざ まな程度で政治的内容を映し出していたのだ。胡風、馮雪峰、秦兆陽らはもちろん文学 独立・芸術自足を主張する芸術至上論者では絶対にない。文学は一種の戦闘の「武器」

であるという意見を堅持すること、芸術を階級政治の上に置こうとする論者を攻撃する ことにおいて、彼らもまた揺るぎなく、少しもいい加減ではなかった26。だが、文学の 政治的な目的や要求の性質、そしてこの目的や要求をいかに実現するかの道筋(方式)

について、彼らは周揚らとは異なる理解を持っていた。胡風らは、文学は政治から独立 すべきだとは考えていなかったが、文学は政治と同等であるべきだ、あるいは政治に埋 没し取って代わられるべきだとも思っていなかった。彼らが心配していたのは、文学が 一つの特殊な「イデオロギー」となって、その質の規定性を失い、ついには文学を失 い、一つの「武器」としての文学の社会的政治的機能をも失いかねないということであ る。抗日戦争以来、彼らは左翼文学の創作に存在していた「主観公式主義」「概念化」「標 語スローガン化の傾向」「社会科学の概念或いは政治の概念による演繹」という「反リ アリズム」や、理論批評上の「教条主義」「俗流機械論」に対して、再三注意を喚起し、

批判を加えてきた27。これはまさにこういった憂慮に基づく。1950 年代にも、創作や理

てはじめて創作できる」「過去の形式だけが民族形式であり、新文芸の欠点を克服でき るのは「すぐれた伝統」を「継承」し、「発揚」するしかない」「いわゆる「重要な題材」

は必ず光明のあるものでなければならない」という中国共産党の文芸政策をいう(胡風 著、杉本達夫・牧田英二訳「文芸問題に対する意見」(『現代中国文学 12 評論・散文』

河出書房新社 1971 年所収)271-272 頁)。

25 原文は「庸俗機械論」。この訳語は前掲・胡風「文芸問題に対する意見」(『現代中国 文学 12 評論・散文』河出書房新社 1971 年所収)187 頁による。

26 【原注】胡風と馮雪峰はどちらも朱光潜らの主張を痛烈に批判している。胡風「関於 抽骨留皮的文学論」『胡風評論集(中)』302 頁、馮雪峰「『高潔』與『低劣』」『論文集』(第 一巻)81 頁参照。

27 【原注】馮雪峰「論民主革命的文芸運動」、「論芸術力及其他」、「関於創作和批評」、胡 風「民族革命戦争與文芸」、「置身在為民主的闘争裡面」、「論現実主義的路」などを参照。

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論上で上述の傾向が増えこそすれ減っていないことを彼らは見て取った。彼らは、問題 のしこりは以下の点にあると考えた。すなわち、文芸界の指導者が「この領域そのもの のいかなる」問題に「対処する」のにも「すべてごく簡単に政治を頼みとする」こと、「『個 性がないならば普遍性もない』という唯物論の基本原則を全く否定し、文芸の専門的特 徴を全く無視し、文芸の実践は一種の労働でありその労働にはそれ自身の基本的条件と 特殊な規律があるということを全く無視した28」ことである。

 左翼文学に長らく存在している痼疾を解決しようという動機から、胡風や馮雪峰は、

理論面で文学と政治の間の緊張関係を調整して、文学の政治性と芸術性の関係というほ とんどほどきようのない「もつれ」を解きほぐそうとした。彼らは、政治性と芸術性を 分けて語ることや、批評において政治的基準と芸術的基準を別々に規定するやり方に異 議を唱え、それらを「整合」させて文学が持つべき「特質」を保護しようと試みた。馮 雪峰は 1946 年の「題外的話」〔余談〕から一貫して、作品の政治的意義や価値を、芸術 の価値とその具体化以外から見るべきではないと主張していた。馮は「論民主革命的文 芸運動」〔民主革命の文芸運動を論ず〕においても以下のような類似の観点を表明して いる。「政治が文芸を決定するというのは、現実や人民の実践が文芸の実践を決定する という原則である。この原則は、文芸の実践、すなわち政治の任務の実践の際には、文 芸が政治を決定するという原則に変わるべきである」。文学における政治的傾向の問題、

文学作品の中の政治性は、文学本来の基点に置き、文学の構成要素として扱わねばなら ない。この観点は 1950 年に批判された阿壠の「論傾向性」〔傾向性を論ず〕29において は、以下のような比喩を用いて述べられていた。「文学はタマゴに喩えることができる。

政治は卵黄のようにその内部に包み込まれているのだ」。その後、胡風と秦兆陽が「社 会主義リアリズム」というスローガンに疑義を呈したとき30もこれと同様の思考方法に よっていた。すなわち、「芸術」にはその他の要求や制限を強制的に加えるべきではな いという考え方である。つまり、「科学的意義から言えば、『いかなる』あるいは『さま ざまに異なる』反映論がないように、『いかなる』あるいは『さまざまに異なる』リア リズムもあってはならず」、「リアリズム」の規律は、胡らの考えにおいては文学の規律

28 【原注】胡風「意見書」『新文学史料』1988 年第 4 期、102 頁。

29 【原注】『文学学習』(天津)1950 年創刊号。

30 【原注】胡風「意見書」、何直(秦兆陽)「現実主義――広闊的道路」『人民文学』1956 年第 9 期。

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であって、それは一貫した不変のもので、「生活の真実と芸術の真実を追求する」とい う「根本的な前提」があればそれで充分であるということだ。これがすなわち馮雪峰の 言う、「芸術の方法・機能・力がもたらすものを借りて」政治的価値と芸術的価値といっ た問題を考察せねばならないということである。

 1950 年代は、文学に対する政治の決定と政治に対する文学の協力がさらに強調され、

またこの規範のもとでいわゆる「生活を粉飾する」という創作の傾向が登場したため、

文学の「真実性」という、しばしば文学と政治の関係を調整するものとされてきた命題 が、これまでにも増して重要性を増して提出され、しかも 1956 年から 1957 年にかけて の文学思潮の核心的理論問題となっていた。阿壠の「論傾向性」、馮雪峰の「関於創作 和批評」〔創作と批評について〕、胡風の「意見書」、秦兆陽の「現実主義――広闊的道 路」〔リアリズム――この広い道〕、周勃の「論現実主義及其在社会主義時代的発展31」〔リ アリズムおよびその社会主義時代における発展を論ず〕、陳涌の「為文学芸術的現実主 義而闘争的魯迅」〔文学芸術のリアリズムのために闘った魯迅〕、劉紹棠の「我対当前文 芸問題的一些浅見」〔当面の文芸問題への私の浅見〕などはみな、「真実性」の重視は文 学を苦境から脱け出させるための魔法の杖であるとしていた。「芸術の真実性」が「過 去の長い革命文学の歴史において」「往々にして無視されてきた」という状況に対して、

彼らは反駁を許さぬ調子で以下に類した宣言を行っている。「真実は芸術の生命である。

真実がなければ、芸術の生命はない。芸術の政治的価値や社会的価値はいずれも芸術の 真実から離れては存在できないのだ32」。「真実性」を文学の中心(あるいは根本)問題 として提出するというやり方は、1960 年代初め李何林において再び登場することとなっ た。この時は、李は批評の角度から問題を提出した。彼はこう言明している。「思想性 と芸術性が一致していない作品は存在しない」、なぜなら「思想性の高低は、作品が『生 活の真実を反映しているかどうか』で決まり、『生活の真実を反映しているかどうか』

こそがその芸術性の高低だからだ33」。

 ここでは「真実性」は文学の政治性と芸術性の対立関係を統一し「整合」させてその 矛盾を解消するための支点とされ、文学の政治的傾向性と芸術性を測る統一的なものさ

31 原文では「現実主義在社会主義時代的発展」となっているが、他の資料などに拠り 訂正した。

32 【原注】陳涌「為文学芸術的現実主義而闘争的魯迅」『人民文学』1956 年第 10 期。

33 【原注】「十年来文学理論批評上的一個小問題」『河北日報』1960 年 1 月 8 日、『文芸報』

1960 年第 1 期に批判の意味合いを持つ「編者按」を加えて転載された。

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しとなっている。リアリズム文学という古くからある叙事の方法は、「真実性」の擁護 者においては文学の普遍的特質を概括したものだとみなされていた。つまり、真実を以 て生活を反映することを根本的な特徴とするリアリズムの伝統は、「文学上の長年の連 続した相互の影響と経験の積み重ねを経て」「すでに美学上における一種の客観的規律 を有する伝統となって34」いた。これはまたまさしく胡風が言うように「一つのカテゴ リーとして、リアリズムとはすなわち文芸上の唯物主義認識論(方法論)であり」、「真 実性」の要求とは文学の「客観的法則性」の要求でもある。このように 1950 年代にお いては、文学の真実性に対する強調は、政治の過度の関与やコントロールから文学を脱 け出させる方略とされた。この「方略」に対する表明も同様に「真理性」を述べる方法 で行われたのである。

 秦兆陽、陳涌らはいずれも文学の「真実性」の重要性を十分に論述し、「現実の問題 を真実に反映すること」は「文学芸術創作の第一の、そして基本の」問題に「なるべ きである」と述べた。だが彼らは、「真実性」の内包や、如何にすれば「真実に現実を 反映する」ことに到達できるかについての説明がややおろそかだったか、あるいは説明 を回避していた。実際には彼らが理解していた「真実」は決して一致していたわけでは ない。秦兆陽らにとっては、それは客観的生活の尊重であり、生活の本来の様子に基づ いて生活を「反映」することだという認識だったであろう。一方胡風らにとっては、そ れは主体と客体の抱擁であり、格闘であり、主体が客体に突入する感覚や情緒の真実性

(「文芸は生身のものでないというわけにはいかない」)だと考えられていた。「真実論」

者の論述に残された隙間こそが、1957 年下半期ののち、反右派闘争が彼らに対して反 撃を展開した際の論題であった。それはすなわち、生活を真実に反映するのは結構だ が、必要なのはどのような「真実」なのか、どうすれば「真実」に到達できるのか、と いう問題である。問題の前半部分は評価基準および、現象と本質、細部と規律の区分に かかわり、後半部分は、「真実論」者が全力で「覆い隠そう」とした、世界観と創作方 法の関係という古い話題に舞い戻ったのである。

 批判者がつきつけたこの反駁と非難には道理がないわけではない。生活の「真実の本 質」が自ら姿を現すことはできないうえに、創作が一種の「書く」行為でもある以上、「真 実」は人が陳述し明らかにしてみせるものであり、おのずと創作の主体の思想・心理・

34 【原注】馮雪峰「中国文学従古典現実主義到無産階級現実主義発展的一個輪郭」『文 芸報』1952 年第 14、15、17、19、20 号。

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芸術的能力などと関係してくる。だがこれが「真実論」の批判者を有利な位置に立たせ るというわけでもない。真実に生活を反映しているかどうかが作家の思想的立場や世界 観の状況による(で決まる)のなら、「客観的な」「人の主観的意志によって変わらない」

「真実」に対する判断の尺度を確立することはできなくなる。よって、作家は著作の際、

「すでに正確に解決できていると自信を持つことが難しい」という難題に必ずや遭遇す るのである。それはつまり、「自分が感じたのはどんなふうなのか、どうであるべきな のか、実際にはどうなのか35」という難題である。ある作品が真実に現実を反映してい るかどうかの争論は、確証の方法がないがゆえに、当代文学の過程において、人により 時によって変化しながらどこまでも続く争論となってしまった。

啓蒙思想者の悲哀

 実際のところ「真実」および「真実性」が当代文学論争の中で純粋な理論的問題で あったことはなかった。ここで起きた論争は、左翼文学内部のさまざまな派閥間で、文 学の理想や規範の上に長らく積み重なってきた見解の相違を反映している。彼らにとっ ては、「真実性」は特定の含意を持つ概念なのである。「真実論」の批判者から見れば、

真実に生活を反映することはつまり、現実の中の「光明面」を十分に表現して、労農大 衆およびその英雄的人物を肯定し讃え、しかも生活や未来に対して一種の楽観的な態度 を示すことであった。一方、秦兆陽らにとって「真実性」とは明らかに「生活の粉飾」

「無葛藤論」に反対することの別称であった。「真実を描く」とは生活の複雑性を表現し ようとすることであり、「大胆に生活に関与して」生活中の暗黒面を回避せず、一切の 病的なもの、立ち後れた現象をさらけ出すことである。これはまさに、劉賓雁のルポル タージュが発表された際に秦兆陽が「編者的話」で言ったことだ。「我々はこのように 鋭く問題を提起する批判的で風刺性のあるルポルタージュをずっと待っていた」「我々 は斥候兵のように現実生活の中の問題を勇敢に探索しなければならない」36。また、黄 秋耘が一連の短評で「まっすぐな良心とクリアな理智を持つ芸術家として、現実生活の

35 【原注】茅盾「夜読偶記」『文芸報』1958 年第 10 号。

36 【原注】『人民文学』1956 年第 4 期。

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前で、また人民の苦痛の前で、もっともらしく目を閉じて沈黙を保つべきではない37」 と呼びかけたものでもあった。

 これら 50 年代の文学規範の主要な挑戦者の理論的主張と実践が描き出しているのは、

文学上の「啓蒙主義者」の精神的風貌である。彼らは文学思想と精神的な気質の面で、

19 世紀の西洋38、とりわけロシアリアリズム文学の「生活を批判する」という伝統の方 をより多く受け継いでいた。彼らは沈鬱で憂愁な審美的風格に傾倒し、ほとんど例外な く魯迅を自己の精神的な指導者と見て、思想と行動の模範にしていた。当然彼らは自ら の立場から魯迅を理解し魯迅に親しんだのであり、彼らが魯迅から得た「啓示」は、「人 民の運命に対する深い関心に欠け、生活に対する高度の情熱に欠け、『他人の困窮を自 分の責任のように思い、万物と仲良く暮らす39』というヒューマニズムに欠け、『真理を 死守し、以て庸愚を拒む40』という勇気ある精神に欠けるのであれば、崇高な人格は存 在しないし、真正なる芸術も存在しない41」というものであった。中国の歴史と現状に 対する認識において、彼らがより多く目にしてきたのは前進する過程における歴史の重 い負担であって、それは主に民衆の生活や精神に存在する「傷痕」に示されている。こ れは一面では粘り強い生命力と戦闘力であり、もう一面では麻痺、愚昧、奴性の卑しさ や目先の安逸をむさぼることである。そのため、革命作家というものは、馮雪峰が語っ たような「革命の新しい思想と文化の伝統を実際に大衆に媒介する」責任を負い、大衆 に「真理」を語る責任を負うのである。彼らは大衆の中に身を投じて思想感情と立脚点 の転換を求められるという「苦難の歴程」の中で、「個人主義」「個性主義」の立場をな つかしみ、彼らが大切にする思想の自由と個の独立性を可能な限り擁護することを試 み、その基礎の上に、彼らの理想とする人間性の建設のための未来図をデザインした。

50-70 年代の 30 年間、それぞれ時期は異なるが、権威性を確立した「文学規範」と対 立する位置にあった文学勢力が主として体現していたのは、思想的「啓蒙者」と文学現 実主義者の身分や精神地位および芸術的風格を維持し修復するための一群の作家の努力 であったとも言える。ここには要点が 2 つあり、それは文学上の批判精神の合理性と、

37 【原注】黄秋耘「肯定生活和批判生活」『苔花集』新文芸出版社 1957 年参照。

38 原文は「西方」。「東方」と対立する概念としての「西方」である。

39 原文は「己餓己溺、民胞物与」(「己餓己溺」は、餓えた人を見ては己れが餓えさし めたかと思い、弱れた人を見ては、己れが溺れさせたかのように思うこと)、前半の出 典は『孟子』離婁下、後半は宋の張載の「西銘」による。

40 魯迅「摩羅詩力説」(1907 年)

41 【原注】黄秋耘「啓示」『苔花集』参照。

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個の価値・個の精神の自由に対する信念である。これはまた 1956-1957 年の「真実を 描け」「生活に関与せよ」42をスローガンとする創作の二大主題を構成した。それは、一 方では、新しい社会の組織になお潜む、あるいはすでに顕在化した疾患と危機の暴露で あり、一方で精神の自由と個性の発展を追求する「覚醒」した個人と、「大衆」及びそ れを代表する勢力との間の摩擦と拮抗、及び「個」の孤立無援の境遇が現代社会におけ る「啓蒙者」の悲劇的な運命を明らかにしている。王蒙の「組織部新来的青年人」〔組 織部にやってきた青年〕は、知識者と大衆、個と集団の間の矛盾の物語を述べたものだ が、物語の型や叙事の方法から主題の類型に至るまで、丁玲の「在医院中」〔病院にて〕

との相似点を探すのは困難ではない。それは「在医院中」の「当代」版続編であり、林 震は陸萍43に比べてより「体制化」された勢力に対面したというにすぎず、そして作家 が彼らに楽観的な結末を押し付けた時、「組織部新来的青年人」のほうがより信念に欠 けているように見えるのである44。この類似は、問題の連続性を提示しており、中国現 代文学の多くの歴史的な問題は現実の問題でもあることを示している。従って、15 年 前の延安で発生したあれらの「毒草」(「野百合花」「三八節有感」等)を持ち出して、『文 芸報』上で「再批判」が行われたのは当然の成り行きであった。

 50 年代に「文学規範」を巡って出現した争論と衝突が、左翼文学の歴史上の異なる 文学主張および理論派閥の矛盾の継続であったのなら、一方が勝利を得るにともない、

歴史を「清算」することもまた必然的に日程に上ってくることになる。1957 年の下半 期に丁玲、馮雪峰らに対して大々的に行われた闘争45、1958 年のはじめに周揚の名義で

42 「生活に関与する(原文:干預生活)」とは、当時の青年作家によって提唱された文 学執筆上の理念である。建国後、文学の体制化が確立すると、「作家協会」の指導のも とに青年作家の積極的な育成がはかられていく。このなかで王蒙、劉賓雁、劉紹棠ら若 手作家が登場し、文壇の寵児として活躍する。彼らは現実の否定的な側面をとりあげそ の弊害をとりのぞくために「生活に関与する文学」を唱え、高暁聲等は「探求者宣言」

を発表した。そうした中で王蒙は「組織部新来的青年人」を、劉賓雁は「在橋梁工地上」

「本報内部消息」などを書き、官僚主義を批判したが、反右派闘争の中で「右派」と批 判されてしまう。1961 年に大部分の「右派分子」が名誉回復されたあとも、「レッテル だけとれた右派分子」として市民権剥奪状態が続き、1978 年 11 月に「右派」の規定が 全面的に取り消されるまで、20 年以上にわたり執筆の自由を持つことができなかった。

43 林震は「組織部新来的青年人」、陸萍は「在医院中」の主人公の名前。

44 【原注】60 年代のはじめにまたいくばくかの批判的な作品が登場した。たとえば「陶 淵明写『挽歌』」「広陵散」「杜子美還家」等の歴史をテーマにした小説や、「海瑞罷官」「李 慧娘」等の戯劇や和鄧拓等の雑文随筆である。

45 反右派闘争が全面的に展開され、丁玲、馮雪峰、艾青、秦兆陽、王蒙、劉賓雁等多 数の作家が批判対象とされた。

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発表された総括的な長文「文芸戦線上的一場大辯論46」〔文芸戦線上の大弁論〕は、全 て現実問題を契機として歴史の中で放置されていた古い事案を「清算」したことの例証 である。周揚の文章を話し合う会議47で、邵荃麟、林黙涵、袁水拍等も明らかに以下の ような意図を説明している。「周揚の文章は反右派闘争を分析し総括しただけでなく、

この闘争の歴史的および階級的根源を分析し、『長きにわたる我国の左翼文芸運動中の 分岐と争論に対しても、ひとつの真相整理と総括の基礎を提供した』」。「長きにわたり」、

競合と排斥によって最も価値のある文学形態を選択するための過程は、完全無欠の結果 を得たように見え、最終的に以下のような糸口が整理された。20 年代から 50 年代にか けて、革命隊伍に「紛れ込んだ」「ブルジョア分子」によって構成された「ブルジョア 文芸路線」が存在したが、その中には「トロツキスト」の王独清、「第三種人48」、胡風 と馮雪峰、延安時期の王実味、丁玲、艾青、蕭軍、および 50 年代の秦兆陽、鍾惦棐等 が含まれている。闘争の「脈絡」をきちんと整理したうえで、さらに一歩踏み込んでこ の異端の文芸路線の思想と階級的根源を分析し、かつ「ブルジョア階級の個人主義」に 対する批判が展開された。

 周揚はこの文章の中で、「個人主義は社会主義社会にあっては、諸悪の根源である」

という有名な論断を下した。彼は丁玲、馮雪峰が「堕落」して右派分子になった理由を、

彼らが思想の根本のところで「個人主義という重荷」を捨てずに持ち続けていたことに 結びつけたのだ。

 当時「癌49」とみなされた「個人主義」の名目には、政治・哲学・倫理道徳などの様々 な範疇の、批判を要するとされるものが入れられた。たとえば「ひたすら利益のみを追 求すること」、「名誉がほしい、金がほしい、権力がほしい」「奪いたい、盗みたい、かっ さらいたい」と思うこと、「自分の縄張りを作って」「文壇の盟主になる野心」の実現を たくらむこと、精神上の空虚・寂寞・悲観、「人格独立」「個性の解放」の要求と願望、

「個人の奮闘」的な生き方などである。これらの批判は個人の道徳の純潔さのためにな

46 【原注】『文芸報』1958 年第 5 号、文章は張光年、劉白羽、林黙涵等により執筆された。

47 【原注】座談会の発言は『文芸報』1958 年第 6 号に掲載されている。

48 1931 年から 1932 年にかけて胡秋原、蘇汶、杜衡らは自らを資産階級と無産階級の間 にいる「文学にしがみついて離さない」自由人すなわち「第三種人」と考え、超階級的 文学を鼓吹した。

49 【原注】張光年が 1957 年に「個人主義和癌」「再論個人主義和癌」等の文章を発表した。

『文芸辯論集』(作家出版社 1958 年版)参照。

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されたように見えるが、個と社会の関係の規約を制定するためのようにも見える。もち ろんこれは個性や個の尊厳と価値を強調する人文思潮を全面的に徹底して壊そうという 運動でもあった。道徳上の利己主義と人文思潮の個人主義を完全に混同したことがおそ らく批判の際の感情的な憎しみを強め、より容易に「個人主義」を審判される場所に置 いたのであろう。しかし、根本的な目的として批判が達成しようとしたのは、利己主義 的な思想行為だけではなく、最も重要なものとしては個人の思想と精神の「独立性」お よび芸術的創造の「自主性」の破壊と抑圧であり、人の生活と精神上の「プライベート スペース」をなくし、「パブリックスペース」に取って代わらせることであった。この 種の批判は、「五四」啓蒙思想の伝統を受け入れた大多数の作家にとっては、明らかに 不安を掻き立てられるものだった。このことは彼らの「財産」を奪うにも等しいことで あり、彼らの思考と知識を運用する「特権」を剥奪するに等しいことでもあったのだ。

これら革命運動に身を投じた左翼作家たちが、階級と集団に身を投じたことは、彼らが 理想化した「精神の自由」と思想の「自立性」の喪失を意味しているのか。彼らもおそ らくロマン・ロランのように、プロレタリア階級の「集団の沃土」の中に「個人主義」

が新たな生命を得る可能性を探ろうとしたのだろう。しかし、それは永遠に実現しえな い渇望であった。啓蒙思想者はこの時代を知り時代と抱擁するために、より充実した魂 と更に高い理想を追求し、「彼らの内なる生命をもって格闘する」という願望を掲げた。

しかも、「より思想能力のある人」である知識分子が「歴史に対する概括と透視を借り ることで自己の地位を移動させ、人民大衆の路線に加わることができる」という確信、

および「歴史の真理に接近し掘り下げる50」ことへの自覚的責任、これら全ては「個人 主義」に対する批判の中で、譴責と嘲笑を受けたのである。胡風、馮雪峰、丁玲、秦兆 陽等が自ら崇高で悲愴な色彩を帯びていると認識していた問いかけと挑戦は、かなりな までに「戯画化」の処理を施された後に、違法であると宣告された。

周揚の観点の「後退」

 毛沢東によるチェックを経て改修された「文芸戦線上的一場大辯論」の中に、毛沢東

50 【原注】馮雪峰『有進無退』(上海国際文化服務社、1945 年)120-121 頁参照。

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は以下の文を加えていた。「我が国では、1957 年にようやく全国規模で最も徹底した思 想戦線および政治戦線における社会主義の大革命が行われ、ブルショア階級反動思想に 致命的な打撃を与えて、文学芸術界とその後方に控える人々の生産力を解き放ち、旧社 会が彼らにはめていた手枷足枷を解き放ち、反動の空気からの威圧を取り除き、プロレ タリア階級の文学芸術のために広く発展して行く道を切り開いた。それ以前には、この 歴史的任務は完成されていなかったのである。道を切り開くこの仕事はやはり今後も行 い続けねばならないし、反社会主義の拠点の完全な撤去も一年ですべてを終えられるも のではない。しかしながら、基本的な道は切り開かれたといって良く、何十隊、何百隊 もの軍隊のプロレタリア階級の文芸戦士がこの道の上を縦横に走ることができるように なった。文芸も軍を作り、兵を練らねばならない。全く新しい形式のプロレタリア階級 文芸大軍隊が今作りあげられつつある。その軍隊の成立はプロレタリア階級の知識分子 の大軍隊の成立と同時進行でしかありえず、その生産と収穫も概ねのところ同時でしか ありえない。この理屈は歴史唯物主義が理解できる者だけが、正確だと認識するはずで ある。」

 この時の「最も徹底した」「社会主義的大革命」に対する認識、当時の文芸界の情勢 に対する見通しについては、周揚らも毛沢東と同様の考え方を持っていたはずである。

しかしながら、他の問題についての取り扱いについては、また違った可能性もある。周 揚らにとっては、この闘争の一番大きな意義は歴史上そもそももつれ合った「疑問の塊」

を筋道をつけて整理することにあり、それはつまり左翼文学運動の中で衝突している各 種の文学主張、理論グループの性格と功罪に対して結論を出すことで、それが解決した のは「選択」の問題であった51。一方毛沢東の視点からすると、それは「反社会主義勢 力の拠点の完全な撤去」であり、「プロレタリア階級の文芸」のために「道を切り開く」

活動であったのである。この考え方の違いは、当時はまだ表に現れてはいなかったけれ ども、1967 年後に始まったもう一つの「最も徹底した」大革命52の中ですべて露わに

51 選択の問題:本稿のテキスト 32 頁において「大辯論」の論文が「長期以来、衝突・

排斥によって最も価値のある文学形態を選択する過程を通して、完全な結果を手にいれ、

終に以下のような道筋を明快にした……」とある「選択」のこと。

52 もう一つの「最も徹底した」大革命:1966 年に始まる「文化大革命」を指すものと 思われる。これ以後周揚は江青から「実は資産主義文芸黒幕の親玉であり創始者であっ た(黒線総頭目和祖師爺)」(1966 年 2 月部隊文芸工作座談会後に作られた「紀要」)と され、姚文元からも毛沢東の文芸思想への反対者として批判されていく(黄曼君主編『中 国近百年文学理論批評史』湖北教育出版社 1997 年)。

(19)

なる。

 1958 年、経済上の「大躍進」の発動と同時に、文芸界の「大躍進」も巻き起こされた。

この年、毛沢東は民歌を採集せよと指示する。失敗した新詩53の出口は一つが民歌、も う一つが古典であり、その基礎の上に新詩が生み出されると考えていたのである54。こ のため、都市から農村部にあまねく至る「新民歌運動」が全国に出現した。毛沢東は「革 命的リアリズムとロマンチシズムの結合」という創作方法を以て、ソ連から移植された

「社会主義リアリズム」に取り替えてしまうことを提起して、ロマン主義を強調し突出 させたのである55。毛沢東は労働者や農民が各種の「盲目的崇拝」を打ち破り、また文 芸の神秘性に関する迷信を打ち破って、文学創作と批評の分野に大胆に入り込むように 呼びかけた。彼は、プロレタリア階級がもし「真理をつかみとれば、骨董を軽視するよ うになり」、「現在を大切にして過去のものは二の次にする」ようになるのだと示した。

これらの視点や措置はすべて「戦略」的構想の性格を持つものであった。

 我々は当時の文学界の責任者がこれら一切に対して本当はどう考えていたのか、はっ きり知るすべはない。しかし、この年及びもう少し長い期間において、周揚、郭沫若、

邵荃麟および茅盾などは、みな積極的に呼応し推進する態度を示している。「両結合」

の創作方法に対して展開された討論、新詩の発展進路に対する討論、『紅旗歌謡』の編 集出版、「一代の詩風を開く」と言う命題の提起、『文芸工作大躍進 32 条(草案)』の制定、

「大躍進を賛美し、革命史を回顧する」という創作題材や主題への肯定などはこの点を 物語る。毛沢東の「経済建設の高潮の到来に従って、不可避的に文化建設の高まりが出

53 失敗した新詩:「五四」以来の新詩をどう評価するかについては、「新詩は旧詩の形 式上の枠を破り詩体を解放したが、以後人民から遊離していった」というものであった。

岩佐昌暲『 中国現代詩研究』(熊本学園大学付属海外事情研究所叢書 27、2013 年)143 頁参考:「五四以来の新詩詩人は、50 年代以後は多くの部分が詩の世界から消えてしまっ た」「50 年代初めの青年の詩歌の誠実な生命力は、当時の政治規範のなかで重大な損害 と破壊を受けていた」(洪子誠(岩佐昌暲、間ふさ子編訳)『中国当代文学史』上編第四 章「消えていった詩人と詩派」東方書店 2013 年)

54 「新民歌運動」:1958 年 3 月毛沢東の成都の会議での発言「中国诗的出路,第一条是 民歌,第二条是古典,在这个基础上产生出新诗来。」に基づく。(https://zhidao.baidu.

com/question/276953090.html)

55 リアリズムとロマンチシズムの二つの結合については,つとに 30 年代の初めに示さ れていたが,理論主題と創作原則としては 1958 年にできあがった。この時の 3 月に毛 沢東が新詩の発展の道について言及したことに始まる。大躍進運動により盛り上がる時 代の要求を受けたもので、これまで唯心主義として低くみられていたロマンチシズムが 英雄や理想を描く革命的ロマンチシズムとして強調されることになる。(黄曼君主編『中 国近百年文学理論批評史』湖北教育出版社 1997 年 1109 頁~)

(20)

現する」と言う論断を支持し、証明するために、『文芸報』は論文を発表し56、芸術生 産は物質生産の発展と不均衡であるというマルクスの「法則57」は社会主義の時代では もはや過去のものとなって、芸術生産は物質生産に適応するという新しい現象に取って 代わられていると考えた。これは「経典性」に「疑問を呈す」その論断の中に、「共産 主義文学」が中国で必然的に繁栄し、豊作を収めるべき前途の為に、理論的な支えを提 供するものだった。

 とはいえ 1958 年下半期、とりわけ 1959 年より、幾つかの痕跡から周揚たちの憂慮と 心配を察することができるのである。このような情況は、時には個別の作者自身に現れ る時もあったが、やはり文学界の指導者層の考えや心情を体現するものだった。新詩の 発展すべき道に関する討論において、何其芳、卞之琳等が、民歌形式の限界性の指摘か ら、新詩が民歌と古典作品を基礎とする観点に疑問を呈したのである。ある読者が当 時の政治と文化思潮に影響され、抽象的な理論命題から出発して『青春の歌』『鍛錬鍛 錬』58などの作品を否定したときには、茅盾、何其芳、馬鉄丁(陳笑雨)、王西彦等が立 ち上がって作品のために弁護をした。王西彦などは「『鍛錬鍛錬』を守る戦士となるぞ」

とまで宣言したのだった59。骨董を軽視するという態度でトルストイを「軽視」して、

「トルストイ無用論」を宣言する者が出てきたときには、当時の『文芸報』主編の張光 年が反問して、「誰だ、トルストイが役に立たないなどというものは」と言い、さらに 正面から「我が国の古代の優秀な遺産を否定してはならないばかりでなく、外国の古代 の優秀な遺産も否定してはならない。また我が民族の偉大な先人を軽視してはならない し、他の民族の偉大な先人も軽視してはならない」と述べた。「大衆に立ち上がらせて 自分で書くように」させてこそ我々の時代を反映させることができるのだなどの主張に

56 【原注】周来祥「馬克思関於芸術生産与物質生産発展的不平衡規律是否適用於社会主 義文学」『文芸報』1959 年第 2 号。『文芸報』第 4 号には、張懐謹の「馬克思関於芸術 生産与物質生産発展不平衡規律是『過時』了嗎」という疑義の論文が出たが、それは「発 展」の語によって「過去のもの」の代わりにせよと言うに過ぎないものでもあった。

57 マルクスは生産を物質生産と精神生産に分けた。精神生産には哲学・科学・芸術な どが含まれる。芸術生産と物質生産の発展にはアンバランスな関係があるというもの。

(『文学理論辞典』光明日報出版社 1989 参照)

58 『青春の歌』:楊沫による 1958 年の作品。『鍛錬鍛錬』:趙樹理による 1958 年の作品。

59 【原注】茅盾の「怎様評価『青春之歌』」『中国青年』1959 年第 4 期、何其芳「『青春 之歌』不可否定」『中国青年』1959 年第 5 期、馬鉄丁「論『青春之歌』及其論争」『文 芸報』1959 年第 9 号、王西彦「『鍛錬鍛錬』和反映人民内部矛盾」『文芸報』第 10 号を 参照。

(21)

は、張光年は、「詭弁」式に反駁することで、精神的な生産物の主要な創造権の「譲渡」

を拒絶したのだった。それは、文学創作の任務を「忙しい生産労働にたずさわる労農兵 大衆に押しつけるのは」、「文学芸術に工農兵のために奉仕させるのではなく、労農兵が 文学芸術のために奉仕するよう求めるものなのである」というものだった60。「大躍進」

の文芸運動に対して、張光年は「革命的ロマンチシズムの精神は確かに十分にあるが、

革命的リアリズムのほうは、つまり現実に対する科学的分析は、まだ足りないようだ」

と問題の提起をも始めている61

 一般的状況下では、我々は中国左翼文学内部の矛盾と衝突については、通常、胡風、

馮雪峰と周揚がそれぞれが異なる「路線」を代表するものという区別をしている。全体 的に見れば、これは根拠のあることだ。とはいえ、如何なる状況の下でも、あらゆる問 題においてもこのような単純な処理方法を用いて良いというわけにはいかない。ある面 では彼らの間の観点には似ていたり重なっていたりする所があるし、その一方、時期が 異なれば、情勢の変化によって、自己の主張が異なる主張の方向に傾く現象もまたよく 見られるのである。また彼らの中には、文学者でありながら文学官僚、文学政策制定者 及び施行者という二重の役割を兼ねていたものもいて、思想や行動の上での複雑さを作 り上げることになった。胡風、馮雪峰、秦兆陽及び周揚は、彼らがそれぞれ異なる時代 において批判を受ける立場に置かれたとき、しばしば道徳的な面から「表裏を異にし、

言行を異にする」、「誠実ではない」、「陰陽を使い分ける」などの叱責を受けることにな る62。この道徳的な裁定が妥当だとは限らないけれども、彼らの理論や主張等の揺れ動 きと変化がすべて虚構だとはいえないのである。

 多くの情況から見て、周揚は文学の政治的目的、政治の功利性をより一層重視、強調 し、また創作過程における作家の思想や世界観の決定的役割を強調する。それは同時に 一部の研究者がいうところの彼の「理論の徹底性」に対する恋着を表している。しかし 場合によっては、彼のこのような「指針」は別の側面にずれることもある。特に派閥論

60 【原注】「誰説『托爾斯泰没得用』?」『文芸報』1959 年第 4 号。

61 【原注】茅盾「創作問題漫談」『文芸報』1959 年第 5 号。

62 【原注】以群は陳涌がかつて胡風を批判したことがあるのに、1956 年になると、彼は 既に「胡風文芸観の変装宣伝員」になっていたと指摘している(「談陳涌的『真実』論」『文 芸報』1958 年 11 号)。張光年は秦兆陽が 1955 年にまた胡風を批判して、「1 年半を経て」

「彼の視点は変わり」「今日ああいうと思えば,明日は又反対のことをいって、裏表に富 む」と指摘した(「応当老実些」『文芸弁論集』141 頁)。姚文元が周揚を批判した文章 の題目がまさに「評反革命両面派周揚」(『紅旗』1967 年第 1 期)であった。

参照

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