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レジャーの性格と機能

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レジャーの性格と機能

その他のタイトル The nature and functions of leisure in post industrial society

著者 岡田 至雄

雑誌名 関西大学社会学部紀要

11

2

ページ 43‑71

発行年 1980‑03‑28

URL http://hdl.handle.net/10112/00022888

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I. 仕 事 と レ ジ ャ ー の 関 係

仕事とレジャーの双方が人間生活にとって重要な活動であり,充実した仕事から得られる満足 と,稔り多きレジャーから得られる歓喜は,相互補強的に充足されるべき人生の目標であるとい う考え方が,近年になって台頭し,定着しつつある。このような中庸的発想 (goldenmean)  は,実践的には難点を残してはいるものの, 理念的には至極当然のこととして是認されようI) しかし,歴史的にみると,いかなる社会においても,ある種の生活バクーンや生活領域を,他の ものに比べて,より善いもの,より望ましいものとして讃美・奨励する価値体系が見受けられ,

特に,レジャーに対する見方や評価は,もっとも厳密にその価値尺度の適用を受けてきた形跡が 強い。すなわち,レジャーか,仕事かという対峙される対抗関係の中で,一般民衆に焦点を絞れ ば,レジャーは常にその根底に仕事との関係という一項を付して取り扱われてきたし,質的にみ れば,両者は反対感情 (ambivalence)の両極として認知されてきた。そのために,レジャーと 特権階級,仕事と一般民衆というような結着が一般化していたし,この結着を正当化するための シンボル操作も施されてきたわけで,その意味で,現代の先進資本主義諸国ではすでに公然の中 庸信仰とは異質のレジャー観が堅持されてきたのである。レジャーが何か思いがけない奇妙奇態 なものに見え,道徳的に不適当 (unseemly)で,ものぐさ (acedia)で,怠情 (idleness) もの,すなわち悪徳の権化,諸悪の根源であるかのようにみるレジャー観2)ゃ,レジャーを無為 の楽しさ (dolcefar niente), 安逸をむさぼること (lotuseating)と同意に解釈し,有益な 目的に貢献しない浪費的活動とみなす考え方3)などに,レジャーに対して歴史的に課せられてき た偏見の根跡が今もなお根深く残存することが示されている。

レジャーが特定の社会でどのような意義をもつかは,その社会がどのような価値を最優先させ るかということと一義的に係わってくる。仕事は,それが社会の生産的活動に不可欠であるとい う意味で,極めて重要な意義を社会の価値体系の中で保持し続けてきた。とりわけ社会体系の中 で充足すべき価値の序列という点から見れば,仕事なしには人間生活そのものが維持できないと いう宿命もあり,公的・形式的にはレジャーよりも仕事の方が,人間にとっても社会にとっても

1) A. W. Green,  Recreation, Leisure and Politics, 1964, pp. 167168. 

2) J. Pieper,  "Leisure as contemplation" in Mass Leisure edit E. Larrabee and R. Meyerson,  1958, pp. 340342. 

3) R. Glasser,  Leisure, 1970, p. 9. 

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より基礎的であるという理由で,私的にその意義と価値が問われるレジャーは常に仕事に従属す る補欠的位置に位座してきた。社会的秩序および社会的活動の構成という面からみれば, 仕事 が,人間活動のもっとも本質的な側面であり,最優先価値となることは時空を問わず不変である ように思われる4)。 したがって,形式的には私的空間の人間化を問題にする場合にのみレジャー の価値が大きくクローズアップしてくるのである。

人生において,レジャーの本分 (place)が何であるかを明示するにあたっては,その他の生 活領域,特に仕事の本分が何であるかを抜きにして論じることはできない5)。 しかし,ここで大 切なことは,レジャーと仕事が相互に補完・補強し合いながら,人生というコインの両面として 機能し合っているという現状認識に立脚して,両者の意義・機能を社会体系とりわけその構成要 素である価値体系との係わりで考察することである。レジャーをあたかも全知全能的特性をもつ かのように取り扱ったり,レジャーの役割や機能を重視するあまり,その意義を過度に強調する ことは,誤りであり叫 まして,現実にレジャーの意義が仕事との関係で相対的に増大・強化し つつあることで,仕事の意義が低下・弱化しているとみなすのは,根拠のない虚構に過ぎない。

元来,仕事の意義とレジャーの意義とは,別次元のものであって,同一のパイの中での占有領分 の奪い合いにも似た一元的論法では把握できない問題である。そのことは,仕事が公的・社会的 文脈に位置づけられるのに対して,レジャーは純粋に私的・利己的脈絡に属することでも立証さ れよう。仕事の第一義的な意義は,それなしには商品やサービスの生産活動が成立し得ないとい う点に明示され,この特性のゆえにまさに仕事は人間と社会のために (for),また人間生活にと って不可欠の本質的活動として位置づけられてきたのである。

従来「生活の質」 (qualityof life)を問題にする場合の論旨には,伝統的に二つの相対する 潮流があり,その各々がバイアスやイデオロギー的偏向を学んできた7)。一つは,個人の達成 (achievements of individuals)に重点を合わせ,個人が自分達の暮し向きを自分で自由に支 配できる状態を確保することを重視する立場で,個人中心主義 (individualistapproach)と呼 ばれよう。この立場は,一般に,社会に対して個人が優越することを主唱し,個人の福祉や自由 を保獲し,堅持するための秩序の構成(すなわち社会の体系化)に関心を向け,「奪うことので きない人権」 (inalienable rights  of  man)が生存権,幸福追求権にあるという基盤8)に立っ て,社会は,本質的に,個人の目標達成を援助し,そのための障害を除去・制御すべき機構に過 ぎないとみなす。たとえば,個人の自然権の絶対不可侵を力説したロック (J.Locke)の新しい 人間主義の立場,市民階級のイデオロギーの基盤となった個人の尊厳・自由•平等を骨子とする

4) J. Lowe,  Adult Education and Leisure in Contemporary Europe, 1965, p. 26.  5) C. D. Burns,  Leisure in the Modern World, 1932, p. 241. 

6) I.  Appleton,  Leisure Research and Policy, 1974, p. 41. 

J. Ellul,  The Technological Society, 1965, p. 402.  S.  DeGrazia,  of Time, 1962, p. 404. 

7) E. E. Gerson,  "On Quality of Life" American Sociological Review, 1976, vol. 41, p. 793.  8) ibid.,  p. 795. 

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ホップス (T.Hobbes)の自然法的国家観, あるいは民主制の積極的価値を認めつつも, その 中で自由の感情を個人に蘇生させる必要性を叫んだトックヴィル (Ade Tocqueville)の個人 主義重視の立場などに,その典例がみられる。これに対して,他の一つはコミュニティの全体的 秩序に力点を置き,個人の集団帰属性を重視し, コミュニティの利益を強調する社会中心主義 (transcendental approach)9>の立場である。ここでは,社会が個人よりも優越するという視 座から,個人の生活の質は,社会という秩序の中で個人が自分の本分をどの程度完遂できるかと いう基準で評価される。つまり,個人は,社会のために働き,社会の義務や仕事を遂行する中で 満足を得るべきで,この枠外で個人の自己啓発や幸福を狙おうとする衝動を忌避すべきであると いう発想が根底にある。したがって,個人的願望や衝動は抑圧されるべきであると考えられる。

この立場の典例は,中世のカトリシズム,近世のドイツ・ロマンティシズム,ファッシズムなど の思想に顕示されている。これらの二つの思想の流れの中で,一般民衆のレジャーは常に後者の 閾内で取り扱われてきたという経緯がある。そのために,仕事や社会的義務を中心にして生活の 質を考える価値体系がオールマイティであったのである。しかし,現代の先進的資本主義諸国で は,個人と社会との各々に独立の主権 (sovereignty)を認め,両者をうまく統合する観点に立 って生活の質を吟味しようとする風潮を強めている10)。両者は,個人が参与する活動領域の中で 享受できるメリットとデメリットの,あるいは強制・拘束と人間的自由との累積的損益を前提に

しつつ係わり合い,有形無形の交渉を通じて,個人の生活の質を決定するものと考えられる。

その意味で,たとえ現代の大半の仕事 (work)が,その本性において人間に対して (to) 義を有していない,あるいは仕事そのものに人間的価値が内在していないという指摘10には頷づ けるとしても,そのことがストレートに仕事に意義が認められないと短絡的に結論づける根拠と はならない。人間社会の生産活動の構成単位としての仕事の意義は,そのことで,低減するもの ではない。しかし,仕事を,それに従事している人間の私的事項という脈絡で問題にするのであ れば,確かに仕事の意義が急速に低下・変質の途を辿りつつあることは厳然たる事実である。こ のことは,仕事の倫理的特性の変質過程にも明白に現われている。

企業家支配の資本主義 (entrepreneurialcapitalism)の下にあっては,企業家は,自己の経 済的行為ーとりわけかれらの利潤追求と搾取ーの正当性と合理性を証明するために,労働や職業 に一定の精神的価値を注入する必要があった。ここに,宗教的価値と経営イデオロギーの選択親 和力(wahlverwandtschaften:elective affinity)が発生する12)。運命予定説(predestination) を骨子にしつつプロテスタントの倫理を唱導する企業家のイデオロギー的特色は,特に天職(召

9) ibid.,  p.  795.  10) ibid,.  p.  798. 

11) A. Fox,  A Sociology of Work in Industry, 1971, p. 1. 

C. W. Mills,  White collar, 1956, p. 215. 

12) J. A. Winter,  "Elective Affinities between Religious  Beliefs and Ideology of Management" 

American Journal of Sociology, 1974, vol. 99,  pp. 11341137. 

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命)としての職業観 (occupationas a calling)への傾注に示され,企業家の使命や努力を正 当化し,美化するために仕事を天職として,また即目的活動として,さらに人間の最高善の活動 として鼓舞し,仕事(=天職としての義務)を履行することが神の意に適う唯一の生き方である と教導した。そして,具体的には, (1)経済的合理性, (2)世俗的禁欲主義, (3)天職としての職業観 (economic rationality, worldly ascetism, occupation as a calling)の三本柱を礎にした 信条の体系 (beliefsystem)を,かれらは見事に造形し,労働者に対しこれらの虚構への忠誠 と盲信を求めたのである。このような企業家支配の資本主義と宗教との選択親和力をウエーバー は「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」の中で具さに指摘したわけではあるが,その後,

70年を経た現代の資本主義は,ガルプレイスが「新しい産業国家 (J.K. Galbraith,  The  New Industrial State 1967)」として特徴づけるように,その様相を豹変した。ウインクーは,

その概要を,企業家支配の資本主義から経営者支配の資本主義 (managerialcapitalism)への 移行として把握している13)。そして企業家 (entrepreneur)に代って経営者 (manager) 資本主義経済の主役の座に登壇したことによって,従来の信条の体系が崩れ,新しい資本主義の 精神が芽生えるに至ったのである。つまり(1)経済的合理性に代って人間関係 (humaninterrel ations)(2)世俗的禁欲に代って世俗的卑下(worldlyhumility)(3)天職としての職業観に代

って満足源としての仕事観 (workas satisfaction)が経営者イデオロギー (managerialideo  logy)3原則として浮上し14),従来の宗教的価値づけは色褪せ,極めて人間的・世俗的精神に 支えられた価値体系が仕事の倫理的側而に誕生したのである。特に,天職としての職業観に代っ ての,労働の理由づけとして,満足源としての仕事観を強調する点に注目すべきであろう。つま り,神に追従しなければならない人間という視点からの倫理的義務としての仕事(あるいは美徳 (a virtue)  としての仕事)というプロテスタント的発想ではなくて, 満足源 (asource of  satisfaction)としての仕事,すなわち,仕事は個人の好み (preference)の問題であって,人 はすべて仕事を通じて満足や享楽を体得すぺきである というきわめて俗人的な視座から,仕事 への動機づけを把握する傾向が形成・定着・強化されたわけである15)。これと同時に注目すべき 点は,神と人間は対等であり,神は人間を支援する存在とみなされ,神と人間との関係について の新しい視点が崩芽したことである。その意味で,資本主義初期に仕事や職業に注入された宗教 的意義づけは,経営者支配の資本主義の精神体系の中では,もはやその存立根拠さえ失なってし まったということになる。これらの実態は,何よりも,現代の労働や仕事が宗教的・倫理的価値 とは無縁になっていることを示唆している。このことと平行するかのように,現代の仕事や労働 に対する価値づけも変化していくのである。

社会体系の中での中心的活動領域(すなわち仕事・労働)で,栄誉も自尊心も供給し得ない状

13) ibid.,  p. 1139.  14) ibid.,  p. 1140. 

15) R.  Bendix,  Work and Authority in  Industry, 1956, p. 如 .

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況,仕事に栄誉や讃芙を与えるような道徳的美辞麗旬は消減し,仕事や労働を弁護する道徳的な 言葉や韻律が何一つ存在しない状況 を熟視する時,社会体系が要求するものと価値体系が指令 するものとの間に大きなギャップ・矛盾・不一致が発生していることに気付く。労働が人間の道 徳的価値を体現せず,仕事が人間から道徳的一体感や忠誠を得る神通力を失ない,反面,人間は 仕事から道徳的体験を得ることを断念するといった事態は,明らかに社会が仕事に附与してきた 固有の人間的価値についての根深い信仰の崩壊を示唆している17)。つまり,社会体系の規範的統 合の基軸として永年に亘って強固な役割を果してきた仕事の倫理的側而が消失するという事態が の発生し,さらに専門的職業に従事している人でさえも仕事に対する評価基準を改変し,仕事の 内的価値や本質的価値よりも,外的価値や手段的価値の方を評価の対象として重視する傾向が強 まり,一般に仕事そのものに高値をつけなくなってきたのである18)。そして,一方では社会が価 値体系として供給しなければならない人間的価値や精神的満足を,仕事よりもむしろレジャーに 押しつけようとする風潮19)が徐々に増大すると共に,また他方では仕事がもはや創造的な自己表 現の機会を供給し得ないという現実から生じる自己疎外 (selfestrangement)を発条にして,人 は人格完成・満足・挑戦・創造・自律といった人間的価値を仕事遂行のプロセスに求めることを 半ば断念し,まさに適当に (cool)しかも軽い気持で (lightly)仕事をしているにすぎないとい った態度変容20)の成育と相侯って,名実ともに仕事は人間の自己評価 (selfesteem,selfevalu ation)あるいは自己評価に使う価値基準とは無縁の疎外された活動と化したのである。そのた めに,人はアバシー,無力感, 空虚感,無目的感に詞なまれ, これを克服するために,異常な までにレジャーヘの期待と幻想を脹ませ,レジャーに対して必死の動因 (desperatedrive for  leisure)を自己培養している21)。このような仕事に対する社会レベルでの価値変容と個人レベル での態度変容は,否応なしにレジャー社会 (leisureoriented society)へのドリフト (drift) を結果する。ここでは,人間的価値あるいは人間的生活が完全に開花・保証される活動としてレ ジャーが注目を浴びる22)。しかし,このように枯渇したリズムの疎外された労働の代価・代償が レジャーヘの熱中という形体をとるとする代償的レジャー仮説 (compensatoryleisure hypo‑

thesis)23> の説得力は認めるにせよ,レジャー問題はこの仮説によってのみ論じられるべきでは

ない。当面の先決課題は,人間の人格完成や人間的成長にとって決定的機能を仕事が果すという 16)  D. R. Cutler (edit.),  The Religious Situation, 1968,  p.  825. 

17)  H. Swados,  "Work as a Public Issue" Saturday Review 12nd Dec. 1959.  E. 0. Smiegel (edit),  Work and Leisure, 1963, pp. 3233. 

18)  F.  Herzberg,  Work and the Nature of Man, 1968, p.  184.  19)  E. 0. Smiegel,  op. cit.,  pp. 3536. 

20)  H. L.  Wilensky,  "Varieties of  Work Experience" in H. Borow(edit)  Man in a World at Work, 1964, pp.  146149. 

21)  G. Friedman,  The Anatomy of Work (trans. by W. Rawson), 1961,  pp.  105106,  22) J. Ellul,  op. cit.,  p.  400. 

23)  H. L. Wilensky,  "Work. Careers and Social Integration" International Social Science Journal  1960.  12,  p.  544. 

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考え方,人間的成長の中心的な統合原理が仕事にあるという根強い妄想にも似た価値観を根絶す ることであるい。この価値観が,あらゆる意味で,レジャー問題に障害と混乱を挿入する病根と なってきたように思われる。仕事における人間的価値の欠損をレジャーで代償的にカバーしよう いう発想,あるいはレジャーの当為をめぐって仕事の倫理・論理を基準として登用する姿勢も,

そこから派生する帰結に他ならない。

確かに,先述のごとく,人間の生活維持にとって仕事が決定的役割を果すということは明白で ある。しかし,このことが,人間的生活や人間的成長にも決定的意義を果すと錯視されてはなら ない。人は,すべての活動領域で,またあらゆる生活空間で,等しく人間的生活を希求し,人間 的成長を熱望しているのであって,それぞれの活動領域や生活空間に対して生得的・本能的に特 定の価値的オリエンテーションをもっているわけではない。仕事偏重の価値観は,個々の人間が その人間的価値という視点から独創的に捻出したものではなくて,前述のように,多くの場合,

社会的・文化的に形造られたものに過ぎない。この人為的観念表象が,今その妥当性を問われて いるのである。そして,仕事が何ら人間の全人的成長の土壌を提供し得ず,人は自己敗北的な仕 事からの自己疎外を体験するという現実の中で,仕事に体制維持の都合上荷せられてきた倫理的

・内在的価値が脆くも崩壊・消滅の途を辿らざるを得なくなったという事実は,仕事偏重の価値 観がまさに虚構であったことを示唆している。しかし,このことのゆえに,この虚構をそのまま レジャーに転化することは許されない。仕事における失地回復は,レジャーではなくて,仕事に おける失地挽回という形で内的に処理・解決されるべき筋合のものである。その意味で「新しい 生活の中心をレジャーに向けるという転向は,もしも一方で仕事の問題に全然手をつけないとし たら,うまく成功するとは思えない」25)し,「レジャーに生活のすべてを托すことは理想主義に安 楽を求めるもので由々しきこと」26)でもある。その際,原則的には,仕事の問題は仕事の論理で,

レジャーの問題はレジャーの論理で,それぞれ独自に解明されるべきものであるが,実際には仕 事ーレジャーは総体として人間に係わってくるわけであるから,両者の関係をどう捕えるのが現 実理解により適合的であるかという事実認識の問題が浮上してくる。その意味でレジャーの位置 づけを試みる際の始発点は,仕事とレジャーとの関係を明白にするということになろう。この作 業の中から,恐らくレジャーにアプローチする場合の基本的構図が自動的に演繹されるように思 われる。

仕事とレジャーとの関係についての精緻な考察の一つに,パーカー (S.Parker)の労作があ る。かれは,その中で先ず「現代の都市ー産業社会 (urbanindustrialsociety)における諸種 の生活領域 (spheresof life)間の関係をみる場合に,大雑把に言えば二つの思潮がある」27) し,一つは分断主義派 (segmentalist)であり,他の一つは融合主義派 (holist)であると指摘

24) A. Fox,  op. cit.,  p.  8. 

25)  S.  Parker,  The Future of  Work and Leisure, 1971,  p.  118.  26) J. Ellul,  op. cit.,  p. 402. 

27)  S.  Parker,  op. cit.,  p.  99. 

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する。そして分断主義派は,人間の生活が種々の活動領域や関心領域に分断することが可能で,

それぞれの部分領域 (segment)は多かれ少なかれ他の部分領域から独立しているという視点か ら,また融合主義派は,社会が本質的に統合体 (integratedwhole)であり,すべての部分領 域は,他のすべての部分領域に影響し,影響されるという観点から,それぞれ社会現象にアプロ ーチするという特色を有している。この二つの思潮は,仕事ーレジャー関係の考察を進めていく 場合にも適用でき,そのいづれの立場をとるかによって根本的な相違を産み出すことになる28)

1仕事ーレジャー関係の見方と二つの思潮との関連 仕事とレジャーとの関係をみる場合の基本的特徴

一般的見方 個人レベルの関係様式 思 潮

(philosophy)  (general description)  (individual level)  融合主義

(holist) 

分断主義

(,egmenta!Hrt) 

同種・非区別•類似

(identity)  extension) 

対 比 異種・対立

(contrast)  (opposition) 

区 別 区別•非対立

(separateness)  (neutrality) 

(※この図は,パーカーの示した図1と図3を合成したものである)28) 

社会レベルでの関係様式 (societal level) 

融合・統合 (Fusion) 

対立•分極化

(polarity) 

融絶•分化

(containment) 

簡言すれば,分断主義派は,仕事とレジャーを峻別し,それぞれの領域に対照的な,または固 有の価値を認めるという形で両者の関係を把えるわけで,生活構造上は分化 (differentiation) を,人間像として多価的人間 (multivalentman)をそのモデルとして強調するのに対し,融 合主義派は,仕事とレジャーの境界設定 (demarcation)が弱<'すべての領域が密接に関連し 合っているという形で両者の関係を捕らえるので,生活構造上は統合 (integration)を,人間 像としては一価的人間 (monovalentman)をそのモデルとして主唱する29)。パーカーと同様 に,ウィレンスキー (H.L. Wilensky)は,前者を多元論的アプローチ,後者を一元的アプロ ーチと呼び30), この二つの思潮がレジャー問題に迫まる際の決定的な指導原理になることを示唆 している。バーカーは,元来,このモデル(図Iの提示)を仕事とレジャーの関係様式を現実態 に即して範疇化しただけなので,その中でどのタイプの見方が妥当性・有効性を有するかという 判定には一切触れていない。しかし,レジャー問題へのアプローチは,必然的に仕事とレジャー

との関連をどうみるかということについての基本的視座の決定を前提にしているから,この点に ついての吟味が必須となる。

レジャー問題を取り扱う場合の決定的ポイントは,人間が仕事とレジャーの両面で,生活の質 を高め,自己確認・自己表現を枢軸とする人間的生活への機会を得るべきであるという考え方の

28)  ibid.,  p.  101,  p.  109.  29)  ibid.,  p.  100,  pp.  116124. 

30) H. L. Wilensky,  op. cit.,  1960, p.  545. 

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(9)

認否にある。このことに比べれば,仕事とレジャーの因果関係はどうか,どちらが重要なのか,

といった問題はさして重要ではない。もしも研究者がこの考え方を是認するとすれば,実践的に レジャー問題の解決に当って採る方策は,思潮の相違がたとえあったとしても,帰結として多分 同一のもの,あるいは極めて類似・同質のものになるはずである。無論,融合主義と分断主義 が,結果的に,同類の帰結に達するとしても,どちらがより有効かつ妥当であるかは,論理展開 のプロセスの評価を抜きにして判定されるものではない。しかし,この考え方を否定するという ことになれば,仕事とレジャーのうちのどちらかを偏重した生活様式,あるいは両者とも極めて 非人間的生活を強いる体制に向けて,社会を体系化することになろう。こういった概践を前提に しながら,パーカーの三つのタイプの見方を素材に,論理展開の核となる基本的視点の省察・検 討をする時,融合主義,代償的分離主義,中立的分割主義の三つが,仕事ーレジャー関係をみる 場合の思潮としてクローズアップしてくる。

融合主義とは,仕事とレジャーが類似した構造・行動目的から成っており (identity), 両者の 区別は明確でなく (extension)両者は意識の上で同一のものと考えられている とする考え方を 指す。したがって,基本的には,仕事ーレジャー間の分断現象の中に大きな問題が隠されている とし,仕事に基礎を置く生産活動指向の生活観を執る点に,この立場の大きな特質がある。一般 には,仕事からの疎外は生活全体の疎外に波及し,仕事で身につけた精神的な無意味感はレジャ ーにも拡散されるという,いわゆる「こぽれおち仮説」 (spilloverleisure hypothesis)が,こ の融合主義の典型的な見方である31)。代償的分離主義とは,仕事とレジャーを峻別した上で,一 方を他方の反対物,あるいは不足物 (theopposite or absence)とみなし,両者は異質で対立 関係にあるという考え方で,極く一般には,不可避的に抑圧的・疎外的な仕事の領域の外で,人 間的発達を促進するための時間と場所を求めるべきだという立場から,レジャー活動にウエイト を置いて仕事とレジャーの関係を捕える点に特色がある。中立的分割主義とは,仕事とレジャー を仕切った上で,多かれ少なかれ,両者はある程度独立した,自己充足的な並存的関係にあるも のとみなす考え方を指し,レジャーを仕事との関係からアプローチしなければならいという発想 を前二者のように誇示しないところに大きな特質がある。(主要な概念はバーカーの使用した用 語を踏襲している。32)) この三つの基本的視点をベースにして,最適のものをフォローすると,現 代の都市ー産業社会における人間の生活は高度に分化し,各生活領域は明確に仕切られているこ 33)。また,時間的にも,空間的にも各生活領域が分離 (splittingup)され,不連続であるに もかかわらず,完全には独立していないこと34)。さらに,工業化の進展するプロセスで人間のパ ーソナリティが仕事とレジャーの二空間に完全に分断されたということ35),そして,人々の生活

31)  ibid.,  p.  544. 

32)  S.  Parker,  op. cit.,  pp.  101109. 

33) R. Dubin,  "Individual Worker's World" social problem, 1956,  vol.  3,  p.  132.  34) K. Roberts,  Leisure, 1970,  p.  34. 

35) J. Ellul,  op. cit.,  p.  402. 

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