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ディーパンカラシュリージュニャーナ研究

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平成 27 年度 博士学位請求論文

ディーパンカラシュリージュニャーナ研究

望月 海慧

(2)
(3)

III

ディーパンカラシュリージュニャーナ研究

序論 1

第1部 予備的考察 第1編 生涯と著作 第1章 はじめに 7

第2章 Dīpaṃkaraśrījñāna の著作 21

第3章 従来の研究 49

第2篇 Dīpaṃkaraśrījñānaの思想背景 第1章 DīpaṃkaraśrījñānaのNāgārjuna観 69

第2章 Śāntideva への依拠 75

第3章 中観の師Bodhibhadra 87

第4章 中観と唯識を融合する「大中観」とは何か 101

第2篇 テキスト研究 第1部 小部文献 第1章 『菩提道灯論』『菩提道灯論細疏』 109

第2章 『入二諦論』 133

第3章 『中観説示』 139

第4章 『心髄集』と『心髄摂集』 199

第5章 『無垢宝書翰』『菩薩摩尼鬘論』『菩薩行略教訓』 211

第6章 『輪廻出離意歌』『行歌』『法界見歌』 227

第7章 『一念説示』 255

第8章 『入菩薩初学道説示』『行集灯論』 261

第9章 『帰依説示』 271

第10章 『大乗道成就語句摂集』『大乗道成就摂集』 279

第11章 『自作次第勧誡語句摂集』『上師所作次第』 293

第12章 『経義集説示』 301

第13章 『十不善業道説示』 311

第14章 『業分別論』 321

第15章 『三昧資糧論』 337

第16章 『罪過懺悔儀軌』『読誦読経前行儀軌』『波羅蜜乗甎仏造作儀軌』 『超世間七支儀軌』『一切業障摧破儀軌』 375

第17章 『発心律儀儀軌次第』 385

(4)

IV

第18章 『種姓誓願』 397

第2部 注釈文献 第1章 『般若波羅蜜多摂義灯論』 405

第2章 『般若心解説』 433

第3章 『経集摂義』 445

第4章 『業障清浄儀軌解説』 453

第5章 『入菩薩行論釈』 467

第6章 『十万頌般若摂義』 509

第3部 アンソロジー文献 第1章 『大経集』 523

第2章 執事を説く経典 539

第3章 非行境を説く経典 547

第4章 星宿を排除する経典 553

第5章 『大経集』における『般若経』の引用 561

第6章 『大経集』における『正法念処経』の引用 571

第4部 真言乗文献 第1章 秘密集会文献 585

第2章 ターラー成就法文献 607

第3章 『金剛座金剛歌』 623

第4章 『根本過犯注』 641

第5章 Dīpaṃkaraśrījñānaの顕教文献における密教文献への言及 659

第5部 チベット仏教に与えた影響 第1章 『ラムリム・タルゲン』に引用される『菩提道灯論』 685

第2章 『ラムリム・チェンモ』に言及されるDīpaṃkaraśrījñāna 697

第3章 Bu ston rin chen grub の『法行楽道』について 709

第4章 Co ne Grags pa bshad sgrubによる『菩提道灯論釈』 755

結論 791

附論 チベット語訳校訂テキスト 1菩提道灯論 (Bodhipathapradīpa) 799

2菩提道灯論細疏 (Bodhimārgadīpapañjikā) 809

3 入二諦論 (Satyadvayāvatāra) 931

4 一念説示 (Ekasmṛtyupadeśa) 937

5中観説示 (Madhyamakopaśa) 941

(5)

V

6 中観説示開宝篋 (Ratnakaraṇḍoghāṭa) 945

7 経集摂義 (Sūtrasamuccayasaṃcayārtha) 993

8 心髄集 (Garbhasaṃgraha) 997

9 心髄摂集 (Hṛdayanikṣepa) 1001

10 菩薩摩尼鬘論 (Bodhisattvamaṇyāvalī) 1005

11 菩薩行略教訓 (Bodhisattvacaryāsūtrīkṛtāvavāda) 1009

12 入菩薩初学道説示 (Bodhisattvādhikarmikamārgāvatāradeśanā) 1015

13 帰依説示 (Śaraṇagamanadeśanā) 1021

14 大乗道成就語句摂集 (Mahāyānapathasādhanavarṇasaṃgraha) 1025

15 大乗道成就摂集 (Mahāyānapathasādhanasaṃgraha) 1039

16 自作次第勧誡語句摂集 (*Saṃcodanasahitasvakṛtyakramavarṇasaṃgraha) 1041

17 経義集説示 (Sūtrārthasamuccayopadeśa) 1045

18 十不善業道説示 (Daśākuśalakarmapathadeśanā) 1053

19 業分別論 (Karmavibhaṅga) 1057

20 行集灯論 (Caryāsaṃgrahapradīpa) 1071

21 発心律儀儀軌次第 (Cittotpādasaṃvaravidhikrama) 1075

22 罪過懺悔儀軌 (Āpattideśanāvidhi) 1083

23 読誦読経前行儀軌 (*Adhyayanpustakapāṭhanapuraskriyāviddhi) 1085

24 波羅蜜乗甎仏造作儀軌 (*Pāramitāyānasācchanirvapaṇavidhi) 1087

25上師所作次第 (Gurukriyākrama) 1089

26 般若心解説 (*Prajñhṛdayavyākhyā) 1091

27 般若波羅蜜多摂義灯論 (Prajñāpāramitāpiṇḍārhapradīpa) 1101

28 業障清浄儀軌解説 (Karmāvaraṇaviśodhanavidhibhāṣya) 1139

29 一切業障摧破儀軌 (Sarvakarmāvaraṇaviśuddhikaravidhi) 1151

30無垢宝書翰 (Vimalaratnalekha) 1153

31 種姓誓願 (Kulapraṇidhāna) 1159

32 三昧資糧論 (Samādhisambhāraparivarta) 1161

33 輪廻出離意歌 (Saṃsāramanoniryāṇīkāranāmasaṃgīti) 1163

34 行歌 (Caryāgīti) 1169

35 法界見歌 (Dharmadhātudarśanagīti) 1173

36 超世間七支儀軌 (Lokottarāṅgasaptakavidhi) 1197

参考文献 1199

(6)

VI

略号

B 中華大蔵経 (bsTan ’gyur〈dpe bsdur ma〉. Edited by Krung go’i bod kyi shes rig zhib ’jug lte gnas kyi bka’ bstan dpe sdur khang. Beijing: Krung go’i bod kyi shes rig dpe skrun khang, 1997)

C チ ョ ネ 版 チ ベ ッ ト 大 蔵 経 ( ア メ リ カ 議 会 図 書 館 所 蔵 マ イ ク ロ フ ィ ル ム, W1GS6603 )

D デルゲ版チベット大蔵経(東京大学文学部印度哲学印度文学研究室編『デルゲ

版チベット大蔵経論疏部』世界聖典刊行協会, Cf. W23703)

G 金写版チベット大蔵経(中国民族文化宮整理『丹珠爾』天津古籍出版社, 1988

年 W23702)

N ナルタン版チベット大蔵経(チベット・ハウス図書館所蔵、ニューデリー, W22704)

P 北京版チベット大蔵経(西蔵大蔵経研究会編『影印北京版西蔵大蔵経―大谷大学

図書館蔵』西蔵大蔵経研究会, 1955-1961年)

T 大正新脩大蔵経(高楠順次郎・渡辺海旭・小野玄妙編『大正新脩大蔵経』大正一

切経刊行会, 1924-34年)

W チベット仏教文献センター (Tibetan Buddhist Resource Center) 電子データ

凡 例

Dīpaṃkaraśrījñāna の偈頌で著された文献については、原則としてパーダの番号で数

える。

人名については、アルファベットで表記したが、和訳においてはカタカナを用いてい る。

(7)

1

序論

11 世紀にチベットに仏教を伝えるためにインドのヴィクラマシーラ僧院からチベッ トに招かれた Dīpaṃkaraśrījñāna (982-1054) は、その後のチベット仏教の形成に大きな 影響を与えたと言われている。同論は、チベット王の要請によりチベットに伝えるべき 仏教の教義をまとめたものであるから、そこには彼が最も重要視した教義が提示されて いると考えられる。また、チベット仏教思想を大成したTsong kha pa Blo bzang grags pa が『菩提道灯論』に基づいて『ラムリム・チェンモ 』を著したことで、同論がチベッ トにおける道次第の思想の基盤を作った、とされている。このことから、従来の

Dīpaṃkaraśrījñāna に対する研究の多くは、その主著ともされる『菩提道灯論』に基づ

いて彼の思想を論述することがなされてきた。

本研究は、『菩提道灯論』だけでなく、彼のすべての著書を総合的に解読することで、

彼の思想を解明しようとするものである。そのための研究対象となるものは、チベット 大蔵経のテンギュルに収録されている彼の著書全体である。ただし、顕教文献を中心に 考察している。密教文献は、特定の者を対象にして説かれたものであり、それを顕教文 献と同列に扱うことはできないからである。Dīpaṃkaraśrījñāna 自身は、自らの著書が 顕教か密教なのかという判断基準を持っており、後者は不特定の者に説いてはならない ものである、という認識を有していたはずである。それ故に、彼の思想を考察する場合 も、顕密の区別を行う必要があるからである。

第1部では、著作を考察する前提として、彼の思想形成の元となる資料を提示する。

その第1編では、予備的考察として、まず、彼の名称について検討した。チベットにお

いて、Atiśa として知られているが、そのサンスクリットの意味が曖昧だけでなく、テ

ンギュルに収録されている彼の著書では、その著者はこの名称で呼ばれていない。すな わち、これらの文献を対象とする本研究において彼をAtiśaと呼ぶ根拠はないので、こ こでは彼を Dīpaṃkaraśrījñānaとする。続いて、彼の伝記を紹介した後、インドにおけ る彼の活動について考察する。また、本研究で扱う文献の書誌情報を提示するとともに、

従来の研究を簡単に紹介する。ただし、著作のうち密教文献については考察の対象とな っていないために、著者性の曖昧なものもリストに含まれている。また、テンギュル所 収の文献を研究対象としたために、蔵外文献についてはリストから外している。

第2編では、彼の思想を形成する背景として、先行する論師の思想的影響を考察する。

まず、彼自身が中観論者と自認しているために、彼のNāgārjuna観を考察する。続いて、

彼の著書において最も多くの著書が引用される Śāntideva への依拠について考察する。

従来の研究では、チベット宗義書の影響で、彼の思想を Candrakīrti の系譜で捉える傾

(8)

2

向にあるが、先行する論師で最も依拠しているのは Śāntideva である。また、彼は

Bodhibhadraを中観の師と述べており、彼の論書も多く引用している。それ故に、彼の

中観思想を形成する上で直接の師となった Bodhibhadra との関係についても考察する。

最後に、これらの先行する師に基づいて形成された彼の中観思想について考察する。そ れは、後代のチベット学者が見るような、中観自立論証派と帰謬派というような思想体 系ではなく、瑜伽行唯識派の止の修行体系の上に中観の無自性論証の観を獲得する実践 的修習に基づくものであり、その上に特別なコースとして真言乗をともなっている。こ のことは、彼独自の見解というよりも、当時の時代的傾向に従ったものである。

第2部では、彼の個々の著作を取り上げ、それぞれの内容を明らかにする。第1編で は、小部文献を取り上げる。テンギュルには、彼の小部文献の多くが二種類収録されて いる。このことは、テンギュル以前に彼の著作集が編纂されており、それらの著書がテ ンギュルに再録された可能性を示すものである。ただし、すでに一つの文献が収録され ているのに、同じ文献をもう一度取り上げた意図については明らかではないが、彼の小 部集が大蔵経の別巻として存在しており、古いナルタン版では中観部の最後の巻に移動 したのであろう。新しいデルゲ版でそれが小部集として独立しているのは、この移動を 修正したように思える。ただし、この小部集に収録されている著書についても、編纂者 の意図があるために、いくつかの問題を含んでいる。すなわち、そこには菩薩行を説く 顕教文献が中心にまとめられているのだが、テンギュルで密教文献とされる文献も数点 含まれている。これは、彼の著作分類に対してテンギュルの編纂者と小部集の編纂者の 見解が異なったからである。個々の文献については、ここで言及しないが、小部集に含 まれない文献についても本研究では言及する。『菩提道灯論細疏』と『中観説示開宝篋』

については、それぞれ『菩提道灯論』と『中観説示』との関連文献なので、ここで取り 上げる。『罪過懺悔儀軌』と『一切業障摧破儀軌』については、小部集に収録されてい ないが、他の儀軌文献と一緒に本編で考察を行う。また、『種姓誓願』も小部集に収録 されていないが、顕教の小部文献であるために本編で考察を行う。

第2編では、注釈書文献を取り上げる。般若部に収録されている『般若波羅蜜多摂義 灯論』と『般若心解説』については、前者は Maitreya の『現観荘厳論』に対する概説 書であり、後者は『般若心経』の解説書である。蔵外文献に、Atiśa に帰される『十万 頌般若摂義』があり、それについても本編の最後に加える。同論は、『十万頌般若経』

を読誦用にまとめた小部文献である。経典の注釈書としては、もう一つ、『三蘊経』の 懺悔儀軌に対する解説書である『業障清浄儀軌解説』がある。また、中観の論書に対す る注釈書としては、Nāgārjuna の『経集』の概説書である『経集摂義』と、Śāntideva の『入菩提行論』に対する注釈書である『入菩薩行論釈』がある。これらの注釈書文献

(9)

3

についての考察を本編で行う。

第3編では、大部のアンソロジーである『大経集』を取り上げる。テンギュルの中観

部には Nāgārjuna の『経集』、Śāntidevaの『集菩薩学論』、著者不明の『修習次経集』

と並んで彼の『大経集』が収録されている。本論については、すでに、A Study of the Mahāsūtrasamuccaya of Dīpaṃkaraśrījñāna, 2 vols., Minobu: Minobusan University,

2001-4 として、その概要と校訂テキストを公表しているが、ここでは、第七章の執事

を説く経典、第十八章の非行境を説く経典、第三十二章の星宿を説く経典について考察 する。また、全体を通して引用が多い『般若経』と『正法念処経』についても、彼の他 の著書での言及も合わせて考察する。

第4編では、密教文献を取り上げる。本研究では、彼の密教思想を研究対象としてい ないのだが、若干の論書を取り上げる。まず、秘密集会タントラ関係の文献については、

彼の伝記資料にその書誌情報が記されているので、その記述を論証するために、著作内 容を考察する。ターラー成就法については、顕教文献においてもターラーへの言及が見 られることから本論に加えている。『金剛座金剛歌』については、小部集に収録されて いる『行歌』と対になる著書であるために、その注釈書とともに考察すべき対象となる。

『根本過犯注』については、小部文献の『十不善業道説示』におけるAśvaghoṣaの著作 との同一性の問題に関連して、新たな問題が明らかになった。すなわち、『根本過犯』

については、Aśvaghoṣa によるものと、Dīpaṃkaraśrījñāna の師でもある Advayavajra のものがあるが、この注釈書はその著者として第三者を提示している。このことは、

Aśvaghoṣaに帰される小部文献の著者性について新たな問題を提示することになる。最

後に、彼の顕教文献における密教文献への言及を取り上げる。これらの密教文献は、彼 の思想基盤の形成に重要な役割を果たしているために、顕教の著作においても無視でき ないものとなっている。そのために、彼が顕教文献において密教文献をどのように利用 していたのかは、考察すべき対象である。

第5編では、彼の思想がチベット仏教に与えた影響について考察する。これについて は、彼の『菩提道灯論』を基軸にしてラムリム思想が形成されているために、同論を中 心に考察する。すなわち、タクポ・カギュ派の開祖であるsGam po pa bSod nam rin chen の『ラムリム・タルゲン』とゲルク派の開祖であるTsong kha paの『ラムリム・チェ ンモ』を取り上げ、それらにおける『菩提見道灯論』への依拠を考察する。また、Bu ston rin chen grubの『法行楽道』については、初学者文献であるDīpaṃkaraśrījñānaの『入 菩薩初学者道説示』との関係から、ここで考察する。また、チベット仏教における『菩 提道灯論』に対する注釈書について分析を行い、その注釈の系譜を明確にするために Grags pa bshad sgrub の注釈を取り上げる。

(10)

4

本研究では、以上のような観点から、Dīpaṃkaraśrījñāna の小部文献を中心に整理し て、それらの文献に説かれている内容を考察することで、彼の思想体系を解明すること を目的としている。彼が、中観論者であることは、自らが明言している。そこで、従来 の研究では、彼の中観に関する論書、特に『入二諦論』を中心に彼の思想を論じ、それ を彼の中観思想として分析してきた。そこには後代のチベット宗義書が行ったような中 観の学派分類の見地から論じるものが多く、彼を帰謬派の論者と断定するものもあった。

しかしながら、上記の文献をすべて考察すれば、そのような理解は一部の著書の僅かな 語句に基づく判断でしかない。本研究では、彼の中観理解だけでなく、瑜伽行唯識思想 の理解、菩薩行の実践論、さまざまな儀軌の解説、大乗経典を含む経論に基づく聖典観、

真言乗に対する言及に基づく密教観などを含めたさまざまな観点から彼の思想を総合 的に考察する。これらを分析することで、彼の思想体系を明らかにすることが本研究の 目的である。

(11)

第1部 予備的考察

第1編 生涯と著作

(12)
(13)

7

第1章 はじめに

第 1 節 「 ア テ ィ シ ャ 」 の 名 称 に つ い て

Dīpaṃkaraśrījñāna(或いはAtiśa / Atīśa)の研究に関して論じる前に、最初に避けら れないことが、彼の名称に関する問題である。従来の日本の研究者の多くは、彼のこと を「アティーシャ」と呼んでおり、御牧克己1はこの呼称を強調している。それに対し て、ヘルムート・アイマー (Helmut Eimer) により「アティシャ」と記すべきであると いう見解が出されてからは、ヨーロッパの学者の間では後者が優勢となった2。学会な どで彼の文献に関する研究を発表するたびに、この何れを支持するのかという質問を受 けた。残念ながら、どちらがサンスクリットとして適当なのかを判断することができな い、と明確な判断を避けていたのだが、それと同時にこれらの呼称を用いることに疑問 を感じるようになった。少なくとも、本研究で扱う文献のコロフォンからはこれらの呼 称を得ることはできず、そこには Dīpaṃkaraśrījñāna に相当するチベット語が記されて いるだけである。第三の呼称を持ち出すことにより、さらなる混乱を引き起こすことを 恐れ、従来の説の何れを選択すべきなのかの判断をしばらくの保留していた。しかしな がら、彼に関する研究論文をいくつか発表する者の立場として、このような曖昧な態度 では問題があると思い、何れかを選択すべき責任を感じるようになった。そこで、私の

選択は Dīpaṃkaraśrījñāna という呼称を選択した。その理由は、私の研究しているテキ

ストのコロフォンにはこの名称が現れているということである。デイヴィッド・セイフ ォ ー ト ・ ル エ ッ グ (David Seyfort Ruegg) の 『 イ ン ド に お け る 中 観 学 派 文 献(The Literature of the Madhyamaka School of Philosophy in India)』 に お い て も 、 彼 は

Dīpaṃkaraśrījñāna と表記されている。しかしながら「アティーシャ」の方が呼びやす

いというのも事実である3

そこで、この「アティーシャ」あるいは「アティシャ」という名称に関して、説明す る必要があろう。アイマーがそれを整理して再論している4ので、それをまとめると次 のようになる:

まず、その名称の典拠となっているものは、カダム派に伝わる二つの伝記資料 である。それによると、彼はある王より “A ti sha”という名称を授与され、その意

1 御牧 1996: 239.

2 それ以前に、芳村1946 は「アティシャ」と表記し、矢崎正見も同じように表記する。小林 1990: 299 は、

「アティーシャ(Atīśa, Dīpaṃkaraśrījñāna, Jo bo)」とするものの、「厳密には Atīśa」とする。

3 なお、『岩波 哲学・思想事典』(福田1998)では、アイマーの説を受けて「アティシャ」とする。

4 Eimer 1997: 10-12. Cf. Eimer 1977: 20-22.

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8

味は “phul du byung ba” で、「特別に勝れている (khyad par du ’phags pa)」に一 致するとされる。その資料の一つに見られる語源的な説明によると、「意楽 (adhyāśaya)」を備えているので “a dhya sha” と呼ばれ、ある言語学者は “a ti sha”

は「とても寂静である(atiśānta)」という意味をもつと述べている。これらの文章か ら、14世紀末までには異なる説が流布していたことがわかる。

ア ラ カ ・ チ ャ ッ タ ウ パ デ ィ ヤ ー ヤ (Alaka Chattopadhyaya) は 、“Atīśa” を

“ati+īśa (the super lord or the great lord)” と説明し、Pāṇini の文法書からの引用を その根拠としている。“atīśa” を説明するためにこの法則を用いると、それは「主 (īśa)を超えている」と理解できる5

ラーフラ・サーンクリトヤーヤナ (Rāhula Sāṅkṛtyāyana) によると、“Atiśa” は サンスクリットの “atiśaya” に由来すると理解し、短母音の “i” とされる。しか し、どうして最後の音節の “ya” が落ちたのであろうか。プラークリットでは、サ ンスクリットの “ya” を単語の中程では落としやすいが、語末ではない。パーリ語 における語尾の “-ya” は、しばしば “-a” と短縮されている。しかしサンスクリ ットの語尾の “-ya” がチベット語の翻訳で “a” と直されている平行句を引用す ることができるかもしれない。

これに基づき、アイマーは「アティシャ」を主張するのだが、御牧は前述のように「ア ティーシャ」を主張する。では、この二つの見解のいずれを選択すべきであろうか。与 えられた資料におけるチベット文字による表記が “a ti sha” であり、この語を基本にす ることは妥当な方法であると思われる6。“atiśānta” などの語源的な説明の伝承が正しい のならば、「アティシャ」という短母音を選択せざるをえない。しかし、いずれかの王 から授かった敬称であることを考えると、「卓越するもの」というよりも「自在神を超 えた」という方が意味を持つのではないだろうか7。ただし、それ以前の問題として、

本研究では、彼の呼称としては Dīpaṃkaraśrījñāna とすべきであることを主張する。

第 2 節 Dīpaṃkaraśrījñāna の 生 涯

チベットでは、偉大な聖者に対して伝記を著す習慣があり、Dīpaṃkaraśrījñāna に対

5 アイマーは、「この語はシヴァ神を意味し、はたして仏教学者にこのような名称を用いるであろうか」と 述べている。

6 ただし、チベット文字には,サンスクリットの長母音を表記する記号はあるものの、チベット語の表記 にその区別はないために、“a ti sha” を「アティシャ」とも「アティーシャ」とも発音することができる。

7 もちろん、いつ誰により与えられたのか、という問題も生じている。すなわち、チベットの王により与 えられたとするのならば、彼のインドの言葉に対する知識も問題となる。

(15)

9

する伝記も複数著されており、それらの伝記資料については、ヘルムート・アイマーに よる詳細な研究がある8。また、チベットの仏教史を著したgZhun nu dpal (1392-1481) の『テプテル・ゴンポ』では、カダム派の章において彼の伝記がまとめられており、こ れについても羽田野伯猷による研究がある9。ここでは、これらの先行研究に基づいて、

彼の生涯を簡単にまとめてみる10

入 蔵 前

Dīpaṃkaraśrījñāna は、東インドのサホール(ベンガル地方)のヴィクラマプリにお

いて領主である Kalyāṇaśrī とその妃 Śrīmārīcī の三子の第二子として誕生したとされ る。

幼少時は Candragarbhaと称し、ターラー尊などを目の当りにする体験などがあり、

密教文献などの聴聞のために他国に出かけるようになった。そこで、密教を学び、

Rāhulaguptaからヘーヴァジュラ・マンダラの灌頂を受け、Jñānaguhyavajraの秘密名を 授かった。さらに師を求めて、Avadhūtipaに出会い、彼に七年間従事した。その後も、

オッディヤーナ国で聚輪の行などの真言乗の修行を続けていた11

そのように修行を続けている際に、夢の中で釈尊による出家の勧告を受け、二十九歳 の 時 に 、Buddhajñāna を 相 承 し た 大 衆 部 の 持 律 師 Śīlarakṣita の も と で 出 家 し 、

Dīpaṃkaraśrījñāna と名付けられた。それから三十一歳になるまでに大小乗の三蔵を学

び、オタンタプーリ寺院においてDharmarakṣitaより『大毘婆沙論』を学んだ。

この間に彼が教えを受けた師としては、Jitāri、Kṛṣṇapāda、Ḍombipa、Nāropaなどが あげられるが、特にBodhibhadraから中観の教義を、Ratnākaraśāntiから唯識の教義を、

スヴァルナドヴィーパ(スマトラ島)出身のDharmakīrti (gSer gling pa)から発菩提心を 主体とする論書を学んだとされる。そのように波羅蜜乗と真言乗の教義を学ぶことで、

ヴィクラマシーラ寺院の上座となり、彼の名声は広まっていった。

チ ベ ッ ト 招 請

西チベットの王家のYe shes ’odとその甥のByang chub ’odはチベットに仏教を広め るために、インドのカシミールに二十一名のチベット人を派遣したが、環境の違いから かRin chen bzang poを含む二名しか残らなかった。そこで、Ye shes ’odは、インドか

8 Eimer 1977, 1979.

9 羽田野1986: 46-191.

10 その他にも、Chattopadyaya 1967, 伏見2010などがある。また、Tsong kha paの『ラムリム・チェンモ』

にも、彼の小伝が述べられている。ツルツィム、藤仲2005: 30-34.

11 2013: 102-103.

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10

ら チ ベ ッ ト に 偉 大 な 学 者 を 招 く こ と を 考 え 、brTson ’grus seng ge に 金 を 託 し て Dīpaṃkaraśrījñānaを招こうとするが、うまくいかなかった。

その後、 Byang chub ’od が Tshul khrims rgyal ba (1011-1064)12にさらなる金を託し て、ヴィクラマシーラ寺院にいるbrTson ’grus seng geと二人がDīpaṃkaraśrījñānaに、

チベットに来られることを請願した。Dīpaṃkaraśrījñāna は、尊母ターラーや瑜伽母ダ ーキニーに尋ねると、「チベットに行けば短命になるものの、教えと優婆塞に利益であ る」という答えが出たので、チベットに行くことを承諾した。

Dīpaṃkaraśrījñāna は、ネパールにあるスヴァヤンブーの仏塔を拝観するために、二

人とともに出発準備をした。その際に、同寺の長老の Śīlākara は、Dīpaṃkaraśrījñāna を三年で送り返すようにTshul khrims rgyal baに伝えた。このようにして、1040年に五 十九歳でインドを発ち、ネパールに一年滞在してから、1042 年にガリ(西チベット)

に到着した。

ガ リ ( 西 チ ベ ッ ト ) 滞 在

ガリでは、Byang chub ’odに歓迎され、チベットに正法を広めることを依頼されたの で、『菩提道灯論』を著した。また、Rin chen bzang po13によりトリン寺に招かれ、彼 にタントラの解説をした。その際に、彼の翻訳した『八千頌般若経』と Haribhadra に よる注釈書のチベット語訳の再校訂の依頼もなされた。さらに、Byang chub ’odが、『秘 密集会タントラ』と観世音菩薩を信じていることを伝えると、ジュニャーナパーダ流の

『秘密集会』の主尊を観世音菩薩にした現観と、マントラと、礼讃の著書も著した14

ウ ・ ツ ァ ン ( 中 央 チ ベ ッ ト ) へ の 招 聘

約束の三年間のガリ滞在の後にインドに戻る途中、プランのギェルシンで ’Brom stong (1006-1064)と出会った15。彼はDīpaṃkaraśrījñānaの評判を聞き、師事するために ガリに向かっていた。二人が出会って三日後に、キーロンに着くと、戦乱のために通行 ができなくなった。そこで’Brom stong は、Śāntarakṣita、Kamalaśīlaがいたサムイェ寺 を紹介し、ウ(中央チベット)に招くと、Dīpaṃkaraśrījñāna は承諾した。この際に、

Tshul khrims rgyal ba は 、 三 年 で 戻 す 、 と い う 長 老 と の 約 束 が 心 配 に な る が 、 Dīpaṃkaraśrījñānaは彼を安堵させた。

12 川越2000, 2001.

13 Tucci 1933, 川越1981, 1982.

14 望月2011c, 2012a.

15 井内2000, 井内、吉水2011: 23-29.

(17)

11

サムイェに到着すると、そこでTshul khrism rgyal baとVasubandhuの『摂大乗論釈』

の翻訳を行った。その後に、ニェタンに移り、Maitreyaの『現観荘厳論』の講義などを 行った。ニェタン滞在の間に、Legs pa’i shes rab16 がDīpaṃkaraśrījñānaをラサに招き、

そこでTshul khrism rgyal baとBhavyaの『中観心論釈思択炎』を翻訳し、大小の二つ の『中観説示』を著述した。その後、イェルパにも出かけ、Byang chub ’byung gnasの 請願によって Asaṅga による『宝性論』の翻訳を行った。また、ランパでも多くの説 法が行われたので、これらの四地域は Dīpaṃkaraśrījñāna が多くの法を説いた地とされ ている。

ニェタンに戻ると、Dīpaṃkaraśrījñāna は体力が衰弱していった。最期は、’Brom stong に教えを付嘱して、1054年の9月18日に亡くなった。

第 3 節 ヴ ィ ク ラ マ シ ー ラ 僧 院 に お け る Dīpaṃkaraśrījñāna

インドからチベットへの仏教伝承に重要な役割をはたした Dīpaṃkaraśrījñāna は、イ ンドのヴィクラマシーラ僧院において活躍していたと伝えられている。しかしながらそ のインドでの活動の実態については、それほど明確な情報は残っていない。彼の生涯や 著作に関する情報のほとんどは、彼がチベットに至ってから著されたものであり、イン ド資料から彼の情報を入手することが困難なことにもその一因がある。彼と同時代のイ ンドの論師たちによる彼への言及などがあれば、彼のインドにおける活躍の実態を知る ことができるが、そのような報告は知られていない17。我々が知り得るのは、チベット において著された歴史書や伝記を通してのみである。ここでは、それらの著作を通して、

彼のヴィクラマシーラ僧院での活動がどのように伝えられていたのかを明らかにして みたい。

伝 記 資 料

最初に、彼の伝記を記録した資料を見る。チベット仏教では、偉大な聖者に対する伝 記文献群が存在するが、多くの伝記資料がそうであるように、それらも脚色などをとも なっている可能性もあり、必ずしも史的事実をすべて伝えているとういう訳ではない。

またその情報源が重複する場合もあり、伝記資料の系譜を考える必要もある。ここでは、

そこまでを明らかにすることを目的としていないため、彼とヴィクラマシーラ僧院の関 係を記録する情報を並記するのみにする。

16 加納2006, 2007, 2009.

17 Chattopadhyaya 1967: 127-142を参照。

(18)

12

彼の伝記については、アイマーによる詳細な研究18が発表されており、彼により出版 されたJo bo rje dpal ldan mar me mdzad ye shes kyi rnam thar rgyas pa (= rNam thar

rgyas pa) を取り上げる。ヴィクラマシーラの名称が見られる最初の記述は、教えの相

承を述べた箇所に出ている。

gSer gling paであるDharmakīrtiは慈愛が大きいのでMaitrīpaとも言われる。三 人のMaitrīpaが誕生した。王子のMaitrīpaは尊者Maitreyaであり、大徳Maitrīpa は尊者 (Jo bo) がヴィクラマシーラから追放したのがそれであり、この gSer gling pa Maitrīpaと言われるものがそれであると説かれている19。[055]

これは、彼の師の異名を説明しただけのものであるが、ここでは彼がヴィクラマシーラ 僧院おいて僧院に適さない人物を追放できる立場の人物であったことがわかる20。続い て彼の経歴を述べる際に、同僧院への言及が見られる。

そのように利他を一心になされた師であるこの偉大な尊者自身がヴィクラマシ ーラに招かれたような物語に加えて、ヴィクラマシーラが建てられた物語が補足 で説かれている21。[170]

この言葉で始まるセクション [170-196] には、彼の同僧院での活動がまとめられてい

る。Kambalaが同僧院の影像を見た話に始まり、同僧院とパーラ朝の諸王の関係が述べ

られ、翻訳官の讃歌が「ヴィクラマシーラには百名の出家者がいた」と引用された後に、

次のように述べられる。

そのようなパンディタと一人の天なる宝がおり、Devapāla 王の後継となった

Mahāpāla 王がなされた吉祥なる恩恵でヴァジュラーサナからヴィクラマシーラ

に招いてから、そこにいるすべての者も頂上の宝石のように尊敬した22。[183]

このことから、彼が僧院に招かれたのは、Mahāpāla の時代ということになる。またこ

18 Eimer 1977.

19 Eimer 1979, 1 Teil: 168, 2 Teil: 39. また括弧の数字は、Eimerがテキストに付した番号であり、彼の著書 では下線が付されている。

20 2015.

21 Eimer 1979, 1. Teil: 205, 2. Teil: 124.

22 Eimer 2009, 1 Teil: 209, 2 Teil: 132-133. これと同じ内容が、[207]でも再び言及される。

(19)

13

こには、同僧院の入り口の右にNāgārjunaの絵が、左にDīpaṃkaraśrījñānaの絵が飾ら れていたことも伝えられている。

続いて、彼がチベットへ招かれる経過を述べる項において、ヴィクラマシーラ僧院が 言及される。

今度は、チベットに有益なパンディタを招くならば招いて、招いていないなら ば会いに行く必要があると考えて、インドの乞食者に報酬を約束してからチベッ トに有益なパンディタがいるのか、いないのかをあらゆる方向で尋ねさせたが、

得られなかったから、ヴィクラマシーラ僧院に至ってから、チベットに有益なパ ンディタがいるのか、いないのかを尋ねたので、尊者の名前が与えら、「ここでは 王族から出家し、仏教徒の頂上の宝石のようなものになっており、五百人の一切 智者の第二になられた者がいる。あなたが招かず、彼がいなければ、チベットに 益はない」と言われた23。[206]

ここでは、チベットからの使者がヴィクラマシーラ僧院において彼と出会う経緯が示さ れている24。これに続き、翻訳官となるrGya Brtson ’grus seng geとTshul khrims rgyal ba との関係が述べられているが、その中にヴィクラマシーラにおける彼の著述に関する情 報も見ることができる。

Gung thang出身の善知識者 (Tshul khrism rgyal ba) はインドに2年間おられて

rGya brTson seng にアビダルマを聞き、翻訳も学んだので、賢者の特別に述べた

ものを知ってから、インドで自分でも法を翻訳し、『入二諦論 (Satyadvayāvatāra)』 とその注釈書と、師自身が著した『心髄摂論 (Garbhasaṃgraha25)』とその注釈書 である Sa’i snying po による著作と、『中観宝鬘論(*Madhyamakaratnāvalī)』と、

『瑜伽論(Yogācāra)』とその摂義 (piṇḍārtha) とをヴィクラマシーラで[rGya と Nag tshoの]大小の二人の翻訳官が翻訳した26。[213]

ここに記されているテキストには未確認のものもあり、実際にインドで著されたものか

23 Eimer 1979, 1. Teil: 217, 2. Teil: 148.

24 この経緯の後に、彼をチベットに招くことにしたとチベット王へ報告することは、[222]に述べられてい る。Eimer 1979, 1. Teil: 222, 2. Teil: 163-164.

25 望月2005a: pp. 47-48を参照。ただし Garbhasaṃgraha の訳者はTshul khrims ’byung gnas であり、

Hṛdayanikṣepaのコロフォンには、チベットのニェタン寺で著されたとある。

26 Eimer 1979, 1. Teil: 219, 2. Teil: 154-155.

(20)

14

については、さらなる調査を必要とするが、彼をチベットに招くために来た二人により インド滞在中に彼の著作をチベット語に翻訳する作業が行われていたことが伝えられ ている。

これらのことから確認できたことをまとめると次のようになる。チベットからの派遣 者はヴィクラマシーラに至り、彼の名声を知り、複数の候補者の中から彼を選び、チベ ッ ト に 招 来 す る こ と に な っ た 。 ま た 、 彼 ら が 同 僧 院 に 滞 在 し て い る 間 に 、

Dīpaṃkaraśrījñāna の著作の翻訳が行われている。ただし、このことは、すでにインド

の言葉で著されていた著作が、彼らにより新たにチベット語に翻訳されたことを必ずし も意味しない。むしろ、彼らが教えを聞いて、それを直接にチベット語に訳したものが そのまま伝えられたということも推測可能である。

イ ン ド 仏 教 史

インドでは、残念なことに、仏教の歴史を記述する文献は著されなかったが、チベッ ト人によるインド仏教史が複数存在する。そのうち、数点を取り上げ、Dīpaṃkaraśrījñāna とヴィクラマシーラ僧院との関係を述べた情報をまとめてみる。

まずBu ston rin chen grub (1290-1364) による仏教史 (bDe bar gshegs pa’i bstan pa’i gsal byed chos kyi ’byung gnas gsung rab rin po che’i mdzod) には、次の記述を見ること ができる。

Byang chunb ’od は Nag tsho Tshul khrims rgyal ba などの五人に金を託し、翻 訳官 rGya brTson ’grus seng ge を長に任命してからよいパンディタを招来するよ うに言われたので、東方の王である Kalyāṇaśrī の息子で、ヴィクラマシーラ僧院 でよく学んだ Dīpaṃkaraśrījñāna が招かれ、ターラーによる授記によって来たので、

rGya brTson seng が途中で亡くなり、Nag tshoの翻訳官がやって来た27

ここでは、rGya brTson ’grus seng ge と Nag tsho tshul khrims rgyal ba の二人が彼の招 来に同僧院に来たことが述べられているが、Dīpaṃkaraśrījñāna については、同僧院で よく学んだとしか記されておらず、そのポジションに関する言及は見られない。

続 い て 、gZhun nu dpal28 (1392-1481)に よ る 『 テ プ テ ル ・ ゴ ン ポ 』 に は 、

Dīpaṃkaraśrījñāna とカダム派に関するまとまった記述を見ることができる。ヴィクラ

マシーラ僧院との関係を示す最初の記述は、伝記の最初に誕生から出家を経て仏教を学

27 Szerb 1990: 86, Obermiller 1932: 213.

28 羽田野1987: 55-65.

(21)

15

ぶ経緯を記した箇所において、その師を列挙した後に、次のように述べられている。

gSer gling paのもとにおられ、最高の発菩提心を主体とする無量の解説をお聞き

になられた。主としてヴィクラマシーラ僧院の偉大な座主になられた偉大であると の名声が十方に遍満してから、lHa btsun pa Byang chub ’od が何度にもわたり多量 の金で請願して招待する者を派遣した29

すなわち、JñānaśrīmitraからDharmakīrti (gSer gling pa) までの十六名の師に学んだ後 に、僧院の座主になったこと、またその名声がチベットに招く根拠となったことが伝え られている。続いてインドより帰国したTshul khrims rgyal baが彼の招請を依頼され、

インドに迎えに行くことになり、ヴィクラマシーラ僧院での二人の出会いが次のように 述べられている。

道中で盗賊の恐怖が生じても、巧みな方法で寂静にした。ヴィクラマシーラに、

或る夜に到着した。そこでチベットの言葉で読誦をしたならば、rGya brTson 'grus

seng geが門館の上にいたので、聞いて、「あなたたちはチベット人なのか。明日確

かに会おう」という言葉を大きな声で放った30

ヴィクラマシーラ僧院の座首として知られている方を招聘するために、チベットから Tshul khrims rgyal ba が同寺に至ったこと、またそこにはチベット語を理解する rGya brTson ’grus seng ge が い た こ と が 伝 え ら れ て い る 。 も ち ろ ん 、 こ の 二 人 は 後 に

Dīpaṃkaraśrījñāna のテキストのチベット語への共訳者でもある。この翌日に三人で会

い、rGya brTson ’grus seng ge が Tshul khrims rgyal ba の意図するところを伝え、それ に対して Dīpaṃkaraśrījñāna は次のように答える。

しかも、ヴィクラマシーラの上座が我々を放つことは難しいので、何らかの巧み な方法を作る必要がある31

彼自身の言葉は、同寺における自らの立場を明言するものではないが、同寺には彼より も上座の者がおり、その言葉に従わなければならない立場であったことがわかる。また、

29 Cf. Deb ther sgon po, Si khron mi rigs dpe skrun kang, 1984: 299; 羽田野1987: 72.

30 Cf. Deb ther sgon po: 301; 羽田野1987: 74.

31 Cf. Deb ther sgon po: 302; 羽田野1987: 75.

(22)

16

彼自身は同寺には必要な人物であることを自認していたようである。これらの『テプテ ル・ゴンポ』の記述をまとめると、次のようになる。Dīpaṃkaraśrījñāna はヴィクラマ シーラ僧院の座首としてチベットに知られており、彼をチベットに招くために Tshul

khrims rgyal baが同寺で面会したが、彼は同寺を離れ難い立場にいたことになる。

チベット仏教のチョナン派のTāranātha Kun dga’ snying po (1575-1634) が著したイ ンド仏教史 (dPal gyi ’byung gnas dam pa’i chos rin po che ’phags pa’i yul du ji ltar dar ba’i tshul gsal bar ston pa dgos ’dod kun ’byung) にもヴィクラマシーラ僧院における

Dīpaṃkaraśrījñāna に関する記述を見ることができる。そのパーラ王に関する項におい

て、次のように述べられている。

それからBheyapāla王は王国を三十二年間だけ治めても、過去の相続を損なわず

に守る面から説かれたものに対する所作が対象に現れることは大きくは生じなか った。ヴィクラマシーラでは七十名のパンディタの称号を越えて設けられず、それ 故に、これも七代のパーラに至らなかった。この王の時には、六賢門が過ぎ去った 次だけで、吉祥をもつ尊者Atiśaとして知られている Dīpaṃkaraśrījñāna が座主と して招聘された。彼はオタンタプーリも守った32

これと同じ内容が後のヴィクラマシーラ僧院における密教に関する項で再び言及され、

六賢門の後の数年は座主がおらず、Dīpaṃkaraśrījñāna が座主になり、その後の七年は 再び座主がいなかったと述べられる33。また、彼が僧院に招かれたのは Bheyapāla 王の 統治年代であったことがわかる。

彼のチベットへの出発については、次のように述べられている。

その Bheyapāla 王の子が Neyapāla である。尊者がチベットに赴いたのはこの 王の統治時代にあたると信頼できる伝記に解説されている。ネパールから彼に送っ た一つの書簡34も見られる35

以上のことから、Tāranātha による Dīpaṃkaraśrījñāna への言及は、パーラ王とヴィク ラマシーラ僧院との関係で言及されている。その内容は、彼が Bheyapāla の統治時代

32 Schiefner 1868: 185; 寺本1928: 326.

33 Schiefner 1868: 198; 寺本: 351.

34 この書簡については、以下のVimalaratnalekhaの項目を参照。

35 Schiefner1868: 184; 寺本: 326.

(23)

17

に同僧院の座主であり、その息子の Neyapāla の統治時代にチベットに発ったというも のである。

イ ン ド に お け る 著 述

Dīpaṃkaraśrījñāna の著作のコロフォンを見ていると、その多くはチベット人の翻訳

官との共訳であることから、チベットの地に至ってから著された著作が多いように思え る。アイマーは、彼の著作のうち、そのコロフォンなどから著述場所の情報が得られる ものをまとめているが36、そのうちヴィクラマシーラ僧院において著述されたものは、

『 輪 廻 出 離 意 歌 (Saṃsāramanoniryāṇīkāranāmasaṃgīti) 』 と 『 身 口 意 善 住 (Kāyavāccittasupratiṣṭhā)』 で あ り 、 翻 訳 さ れ た も の は 『 タ ー ラ ー 三 宝 讃 (*Triratnātārāstotra)』と『ターラー天女讚真珠鬘 (Āryatārādevīstotramuktikāmālā)』と である。

まず、『輪廻出離意歌』のコロフォンには、

インドのその賢者自身と偉大な翻訳官 rGya Brtson ’grus seng ge37 が、ヴィク ラマシーラ僧院で翻訳した38

と記されている39。また『身口意善住』のコロフォンにも、

インドの賢者 Dīpaṃkara と翻訳官 rGya Brtson ’grus seng ge がヴィクラマシ ーラで丁寧に翻訳し、校訂し、決定した40

と記されている。この記述から、この二書は著者がインド滞在時に、それも同時期に著 述されたものであると思われる。したがって、ヴィクラマシーラ寺院においてインドの 仏典のチベット語への翻訳が行われており、Dīpaṃkaraśrījñāna もインドに発つ前にチ

36 Eimer 1977: 114. ただし同書は、『開宝篋 (Ratnakaraṇḍoghāṭa)』もヴィクラマシーラ僧院で著述された とするが、そのような確定はできない。また、その他のインドに滞在中の翻訳として、ナーランダー僧院 における『聖金剛手青衣儀軌陀羅尼注釈 (Āryanīlāmabanadharavajrapāṇikalpanāmadhāraṇīṭīkā)』とソーマ プリにおける『中観宝灯論 (Madhyamakaratnapradīpa)』があげられている。

37 羽田野1987: 99, n. 20において、「蔵のStag tshalの人、優婆塞なり」とするが、Chattopadhyaya 1967は、

彼を「インド人のVīryasiṃha」とする。

38 D. No. 2313, Zhi 254b6-7 (D. No. 4473, P. Nos. 3152, 5386, 望月2007, 2011: 5).

39 ただし、彼の伝記には、彼がチベットのウに滞在中に同論を説いたという記述がある。この短い歌がイ ンドにおいて書かれ、翻訳され、その文献を所持あるいは記憶して、チベットで歌ったということなのだ ろうか。しかしながら初出ではない歌が歌われたことをわざわざ伝記に記録するのも不自然であり、どち らかの伝承が誤りである可能性もある。

40 D. No. 249, Zi 260a1-2 (P. No. 3322, Tshi 322a1)

(24)

18

ベット語をある程度マスターしていた可能性がある41。また、いずれの文献もチベット 大蔵経のテンギュルの秘密部に収録されており42、タントラに関連する著作をインドに おいて著していたことになる。

さらに、『ターラー三宝讃』のコロフォンには、

インドの賢者Dīpaṃkaraśrījñānaとチベットの翻訳官Tshul khrims rgyal baによ りヴィクラマシーラ寺院において、翻訳し、校訂し、決定した43

とある。同じく『ターラー天女讚真珠鬘』のコロフォンにも、

インドの賢者Dīpaṃkaraśrījñāna、チベットの仏教徒の翻訳者であるナクツォの 翻訳官Tshul khrims rgyal baによりヴィクラマシーラ寺院において、翻訳し、校 訂し、決定した44

とある。これらの記述から、この二書も同時期にヴィクラマシーラ僧院において翻訳さ れたと考えられる。また、共訳者がTshul khrims rgyal baであることから、彼もヴィク ラマシーラ僧院に滞在中に、仏典のチベット語への翻訳を行っていたことがわかる45。 もちろんチベット人だけではなく、同僧院には他にも周辺各国からの多くの留学僧が滞 在していた可能性がある。

さらに、『経義集摂義 (Sūtrasamuccayasañcayārtha)』のコロフォンには次のような記 述がある。

軌範師 Dīpaṃkaraśrījñāna にチベットの比丘 Tshul khrims rgyal ba が金14両 の蜂蜜の花を供えてから、チベットに来ることをお願いしてから、修習の浄化を 完全にするために軌範師は十六ヶ月の間[チベットへの]道に入らなかった。そ れからチベットに発つ上で心が清浄な弟子たちが遺言を授けることを請願するの

41 ただし、インドの僧院においてインド人が自らの著作をチベット人の翻訳官とともに他国の言葉である チベット語に翻訳するということには、疑問の余地がないわけではない。もしこの情報が事実であるなら ば、ヴィクラマシーラ寺院にチベット語に堪能なインド人がいたとともに、インド文献をチベット語に翻 訳する需要があったことを意味している。このようなケースを調査することにより、ヴィクラマシーラ寺 院におけるチベット人留学生の存在は注目すべき問題となる。

42 前者は、テンギュルの中観部にも収録されている。

43 Tib. D. No. 1695, Sha 52a7-b1 (P. No. 2567).

44 Tib. P. No. 4869, Zu 181a7-8.

45 『テプテル・ゴンポ』によると、彼はGung thang生まれで、インドで学び、Dīpaṃkaraśrījñānaの教え を受けた、とされる。羽田野1987: 74を参照。

(25)

19

で、経典の意味の概説を著した本書を遺言として与えて下さった。その時にイン ド人の rGya Brtson ’grus seng ge が翻訳を請願なさって、確定した46

これらの記述からは、その著述場所は明らかではないが、インドからチベットに立つ際 に著されたものとなる。ここに登場する Tshul khrims rgyal ba と rGya Brtson ’grus seng ge は、上記の文献のコロフォンからも、 Dīpaṃkaraśrījñāna とヴィクラマシーラ 僧院との関係を結びつける人物である。それ故に、それらと同時期に同じ場所で著され たテキストであると推測することもできる。

また、『中観優婆提舎開宝篋』には、パーラ王との関係が記されている。その末尾の 偈には、次のように述べられている。

シャーキャの比丘で、鋭い慧と智慧と悲と戒をもつ Tshul khrims rgyal ba と言 うよい弟子が請願してから書いた。

Devapāla の誓願によりヴィクラマシーラと言う大寺院において聖なる先生た

ちが説かれたように、その Dīpaṃkaraśrījñāna が書いた47

この文章からは、「誓願により」と「大寺院において」が「説かれた」にかかるのか、

「書いた」にかかるのかで、意味合いが異なってくるが、『テプテル・ゴンポ』の「彼 がラサで大小の二つの『中観説示』を著した48」という記述にしたがうならば、著者は ヴィクラマシーラ寺院に滞在しており、自分の先生たちに対してパーラ王が著述の誓願 を行ったと理解することが適当であろう。少なくとも、彼あるいは彼の師たちは同僧院 にいたことは明らかであり、全く関係がなかったわけではない。

また、『無垢宝書翰 (Vimalaratnalekha)』の第一偈とコロフォンには次のように述べ られている。

偉大な趣に生まれてから、仏説を広め、王政を法により守り、Neyapāla は王になりなさい。[1]

Vimalaratnalekha と言う長老で偉大な賢者 Dīpaṃkaraśrījñāna がパーラ王に送っ

46 Eimer 1977: 117, Chattopadhyaya 1967: 463.

47 宮崎2007: 118参照。

48 Chattopadyaya 1967: 457, Eimer 1977: 114は、本書がヴィクラマシーラ寺院で著されたと読むが、『テプ テル・ゴンポ』の「ラサにおいて大小二つの『中観説示』を著した」(羽田野1987: 86)と言う記述から、

チベットにおいて著述されたと推測できる。

(26)

20

たものを完成する49

前 述 の Tāranātha の 仏 教 史 の 記 述 か ら 、 こ の 手 紙 は お そ ら く ネ パ ー ル に お い て

Neyapāla 王に宛てて記されたものであろう50。ただし、この文献については、同じ著者

の『菩薩摩尼鬘論 (Bodhisattvamaṇyāvalī)』と内容が重複していることから、成立に関 する疑問がないわけではない51。すなわち、パーラ王との関係を強調するために、本書 が編集された可能性もないわけではない。

ま と め

以上の資料から、Dīpaṃkaraśrījñāna のヴィクラマシーラ寺院での滞在情報をまとめ ると次のようになる。パーラ王との関係は、Mahāpāla の時代に僧院に招かれ、Bheyapāla の時代に座首となり、Neyapāla の時代にチベットへ発った、ということになる。同僧 院ではチベット人の Tshul khrims rgyal ba と rGya Brtson ’grus seng ge と著作のチベ ット語への翻訳が行われた。ただし、彼らが Dīpaṃkaraśrījñāna をチベットに招く経緯 についてはテキスト間に相違がある。またテキストの翻訳についても、小さなテキスト であるために、どのような形態で翻訳されたのかについては、さらなる考察が必要であ る。

49 Dietz 1984: 302-3, 318-319. ただしディーツは、王の名前をNiryapālaと修正する。

50 寺本1928を参照。

51 Eimer 1981: 327を参照。ただし、『菩薩摩尼鬘論』にも、版により偈頌の順番が大幅に違うために、こ

ちらのテキストの方に問題がある可能性もある。望月2016bを参照。

(27)

21

第2章

Dīpaṃkaraśrījñāna

の著作

は じ め に

Dīpaṃkaraśrījñāna の著作については、顕教と密教にわたり多数のものが伝えられて

いるが、サンスクリットで書かれものは現存せず、すべてがチベット語に翻訳されたも のである。それらはチベット大蔵経のテンギュルに収録されており、その多くが小部な ものである。これらの小部文献のいくつかは、「小部集」としてもまとめられており、

それらの文献も再びテンギュルにも再録されている。ここでは、チベット大蔵経のテン ギュルに基づき、それらを顕教と密教にわけ、その書誌情報を提示する。

まず、顕教文献としては、次のものがある。

I. 般若部

1. 『般若波羅蜜多摂義 (Prajñāpāramitāpiṇḍārthapradīpa, Shes rab kyi pha rol tu phyin pa'i don bsdus sgron ma) 』Dīpaṃkaraśrījñāna, Tshul khrims rgyal ba 訳

C. Tha 236a1-245a7.

D. No. 3804, Tha 230b1-240a7.

G1. Tha 337a1-350a6.

G2. Nyo 568a1-582b4.

N1. No. 3192, Tha 261b2-272a3.

N2. No. 3865, Nyo 435b7-447a5.

P1. No. 5201, Tha 253a5-262a8.

P2. No. 5873, Nyo 463a5-475a7.

2. 『般若心経解説 (*Prajñāhṛdayavyākhyā, Shes rab snying po'i rnam par bshad pa) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, Tshul khrims rgyal ba 訳

C. Ma 313a1-317a7.

D. No. 3823, Ma 313a4-317a7.

G. Ma 443a3-449b6.

N. No. 3213, Ma 342b6-348a7.

P. No. 5222, Ma 333a6-338b4

II. 中観部

3. 『入二諦論 (Satyadvayāvatāra, bDen pa gnyis la 'jug pa) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, brTson ’grus seng ge 訳

C. A 71b5-73a2

(28)

22

D1. No. 3902, A 72a3-73a7.

D2. No. 4467, 5b3-6b6.

G1. Gi 7b1-9a2.

G2. Ha 90a4-92a2.

N1. No. 3289, Ha 65a3-66b1 N2. No. 3371, Gi 7a1-8a4.

P1. No. 5298, Ha 70a5-71b2.

P2. No. 5380, Gi 6b7-8a8

4. 『一念説示 (Ekasmṛtyupadeśa, Dran pa gcig pa'i man ngag) 』Dīpaṃkaraśrījñāna, Tshul khrims rgyal ba 訳

C. Ki 96b4-97b2

D1. No. 3928, Ki 94b-9561 D2. No. 4476, 20a –b7 G1. A 144b5-46a3 G2. Gi 26a6-27b1b1-9a2 N1. No. 3314, A 103b1-104a7 N2. No. 3380, Gi 21b5-22b2 P1. No. 5323, A 104a7-105a8 P2. No. 5389, Gi 25a6-26a8.

5. 『中観説示 (Madhyamakopadeśa, dBu ma'i man ngag) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, Tshul khrims rgyal ba 訳

C. Ki 97b2-98b2

D1. No. 3929, Ki 95b1-96a7 D2. No. 4468, 6b6-7b3 G1. A 147b1-149a3 G2. A 181b1-182b5.

G3. Gi 9a2-10a4

N1. No. 3315, A 104a7-105b4 N2. No. 3317, A 128b3-129b3 N3. No. 3372, Gi 8a4-9a2 P1. No. 5324, A 105a8-106b6.

P2. No. 5326, A 132b4-133b6 P3. No. 5381, Gi 8a8-9b2.

(29)

23

6. 『中観説示開宝篋 (Madhyamakopadeśaratnakaraṇḍodghāṭa, dBu ma'i man ngag rin po che'i za ma tog kha phye ba) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, brTson ’grus seng ge, Tshul khrims rgyal ba 訳

C. Ki 98b2-119b4

D. No. 3930, Ki 96b1-116b7 G. A 150a1-180a5

N. No. 3316, A 105b4-129b4 P. No. 5325, A 106b6-132b3.

7. 『経集摂義 (Sūtrasamuccayasaṃcayārtha, mDo kun las btus pa'i don bsdus pa) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, brTson seng ge 訳

C. Ki 341b5-343b4

D. No. 3937, Ki 338b7-340b7 G. A 510a1-513a6

N. No. 3324, A 395a6-398a2 P. No. 5333, A 395a4-397b6.

8. 『菩薩行略教訓 (Bodhisattvacaryāsūtrīkṛtāvavāda, Byang chub sems dpa' spyod pa mdo tsam gdams ngag tu byas pa)

C. Khi 241a1-242a5.

D1. No. 3946, Khi 237a3-238a6.

D2. No. 4472, 10a5-11b1.

G1. Ki 375a3-376b6.

G2. Ki 470a3-472a4.

G3. Gi 13b4-15a4.

N1. No. 3333, Ki 269a3-270b1.

N2. No. 3339, Ki 338b1-339b7.

N3. No. 3376, Gi 11b6-13a2.

P1. No. 5342, Ki 273a3-274b1.

P2. No. 5348, Ki 343a2-344b1.

P3. No. 5385, Gi 13a3-14b3.

9. 『菩提道灯論 (Bodhipathapradīpa, Byang chub lam gyi sgron ma) 』Dīpaṃkara- śrījñāna, dGe ba'i blo gros 訳

C. 242a6-245a6.

D1. No. 3947, Khi 238a6-241a4.

(30)

24

D2. No. 4465, 1-4b4.

G1. Ki 377a1-381b5.

G2. Gi 1-6a5.

N1. No. 3334, Ki 270b1-273b5.

N2. No. 3369, Gi 1-6a2.

P1. No. 5343, Ki 274b1-277b6 P2. No. 5378, Gi 1-5b5.

10. 『菩提道灯論細疏 (Bodhimārgadīpapañjikā, Byang chub lam gyi sgron ma'i dka' 'grel) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, Tshul khrims rgyal ba 訳

C. Khi 245a6-299b5.

D. No. 3948, Khi 241a4-293a4.

G. Ki 382a1-463b5.

N. No. 3335, Ki 273b5-335a1.

P. No. 5344, Ki 277b6-339b2.

11. 『心髄摂集 (Garbhasaṃgraha, sNying po bsdus pa) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, Tshul khrims 'byung gnas 訳

C. Khi 299b5-300a7.

D1. No. 3049, Khi 293a4-293b6.

D2. No. 4469, 7b3-8a5.

G1. Ki 464a1-465a6.

G2. Ki 10a4-11a2.

N1. No. 3336, Ki 335a1-b5.

N2. No. 3373, Gi 9a2-b4.

P1. No. 5345, Ki 339b2-340a7.

P2. No. 5382, Gi 9b2-10a7.

12. 『心髄要決 (Hṛdayanikṣepa, sNying po nges par bsdu ba) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, Tshul khrims rgyal ba 訳

C. Khi 300a7-301b1.

D1. No. 3950, Khi 293b6-294b6.

D2. No. 4470, 8a5-9a5.

G1. Ki 465a1-468b1.

G2. Gi 11a2-12a6.

N1. No. 3337, Ki 335b5-337a2.

(31)

25

N2. No. 3374, Gi 9b4-10b5.

P1. No. 5346, Ki 340a7-341b4.

P2. No. 5383, Gi 10a7-11b5.

13. 『菩薩摩尼鬘論 (Bodhisattvamaṇyāvalī, Byang chub sems dpa' nor bu'i phreng ba)

C. Khi 301b2-302b4.

D1. No. 3951, Khi 294b7-296a1.

D2. No. 4471, 9a5-10a5.

G1. Ki 468b2-470a3.

G2. Gi 12a6-13b4.

N1. No. 3338, Ki 227a2-338a7.

N2. No. 3375, Gi 10b5-11b6.

P1. No. 5347, Ki 341b4-343a2.

P2. No. 5384, Gi 11b5-13a3.

14. 『入菩薩初学道説示 (Bodhisattvādikarmikamārgāvatāradeśanā, Byang chub sems dpa'i las dang po pa'i lam la 'jug pa bstan pa) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, Tshul khrims rgyal ba 訳

C. Khi 302b4-304b3.

D1. No. 3952, Khi 296a1-297b6.

D2. No. 4477, 20b7-22b4.

G1. Ki 473a1-476a6.

G2. Gi 27b1-30a1.

N1. No. 3340, Ki 339b7-342a4.

N2. No. 3381, Gi 22b2-24a7.

P1. No. 5349, Ki 344b1-346b4.

P2 No. 5390, Gi 26a8-28b6.

15. 『帰依説示 (Śaraṇagamanadeśanā, sKyabs su 'gro ba bstan pa) 』 C. Khi 304b3-306a2.

D1. No. 3953, Khi 297b6-299a5.

D2. No. 4478, 22b4-24a3.

G1. Ki 477a1-479b5.

G2. Gi 30a2-31b5.

N1. No. 3341, Ki 342a4-343b6

(32)

26

N2. No. 3382, Gi 24b1-25b6.

P1. No. 5350, Ki 346b4-348a5.

P2 No. 5391, Gi 28b7-30b3.

16. 『大乗道成就語句摂集 (Mahāyānapathasādhanavarṇasaṃgraha, Theg pa chen po'i lam gyi sgrub thabs yi ger bsdus pa) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, dGe ba'i blo gros 訳

C. Khi 306a2-309b5.

D1. No. 3954, Khi 299a5-302b6.

D2. No. 4479, 24a3-27b4.

G1. Ki 480a1-486a2.

G2. Gi 31b5-36a6.

N1. No. 3342, Ki 343b7-348a3.

N2. No. 3383, Gi 25b6-29a6.

P.1 No. 5351, Ki 348a5-352a8.

P2 No. 5392, Gi 30b3-35a1.

17. 『大乗道成就摂集 (Mahāyānapathasādhanasaṃgraha, Theg pa chen po'i lam gyi sgrub thabs shin tu bsdus pa) 』 Dīpaṃkaraśrījñāna, dGe ba'i blo gros 訳

C. Khi 309b5-310a5.

D1. No. 3955, Khi 302b6-303a6.

D2. No. 4480, 27b4-28a4.

G1. Ki 487a1-488a4.

G2. Gi 36b1-37a1.

N1. No. 3343, Ki 348a3-b5.

N2. No. 3384, Gi 29a6-b5.

P1. No. 5352, Ki 352a8-353a1.

P2 No. 5393, Gi 35a2-35b2.

18. 『 自 作 次 第 並 勧 誡 語 句 摂 集 (*Saṃcodanasahitasvakṛtyakramavarṇasaṃgraha, Rang gi bya ba'i rim pa bskul ba dang bcas pa yi ger bris pa) 』Dīpaṃkaraśrījñāna, Tshul khrims rgyal ba 訳

C. Khi 310a5-311a6.

D1. No. 3956, Khi 303a6-304a6.

D2. No. 4481, 28a4-29a3.

G1. Ki 488a4-489b5.

参照

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