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ポリュビオス写本の伝統について―

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Academic year: 2021

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(1)

はじめに ― 写本とは

 写本そのものについて、述べることから、とりあえず始めたい。というの も、我が国において、西洋古代史で取り扱う写本についての知識がまだ多い とはいえないからである。

 いずれにしても、写本はあらゆる古典古代の文学的な知識の源泉である。

「手書き」で「複製」された書物や文書、あるいはその行為そのものを指 し示す言葉として用いられる。この定則の例外として存在するものは、碑 文、例えばアンカラの神殿壁に記されたRes Gestae Divi Augustiとか、オ エノアンダのディオゲネスの哲学的な宣言という碑文によって供与されてい る。その差異は、古代世界で書かれた書物の間でさほど明瞭でなく、普通パ ピルスとして知られていないもので、パピルス巻物が標準的な書物形態とし て古写本という方法を与えていたときに、後世で産み出されたものだけれど も、その間に存在している。時には、オリジナルの原本である正本と対比さ せて、それを書き写した書写本だということを強調するために用いられるこ ともある。

 では、その写本の伝達の歴史としての意義はどうなのか、という点を述べ ておきたい。写本は、古代の作家たちの貴重な言葉を再構成する中で単にそ れを手助けするだけでなく、古典の編集者の関心によるものである。古典が [研究ノート]

ポリュビオス写本の伝統について

― Moore, J. M., The Manuscript Tradition of Polybius, Cambridge, 1965を基にして

楠 田 直 樹

(2)

多数の模写を経て私の手に残っているのは何も珍しいことではない。その中 で、たった一部しか残存していないとか手書きであることが価値を高くして いる。このように、中世初期より古典の散見から利用されていたとはいえ、

写本そのものに関しては無関心この上なく、過小評価され続けてきた。しか し、編者の中には、若干の場合にそうした写本が古代の伝統から転じて価値 ある読み物として供給されていることを示していく者が出てきた。そして明 らかになったことは、そのような写本から中世やルネサンス期の学者を通じ て古典の必要な訂正箇所が具体化されていった。このような古典の構成だけ でなく、写本もまた、文学的、あるいは知性的な文化の歴史に大いに意義を もっているということである。手書き本生産の不可欠な努力はその真意を利 用する必要性を示唆している。ギリシア語で、とりわけラテン古文書学での 進展は、研究者たちがその多くの場合に元来の所有者、また書物が製作され た文化的な環境を明らかにしていった。

 では、写本の性質を見ておこう。

 読者は、手書きの古典が間違いを犯しやすいことに注意をし、写本が相互 に照合し合うこと、とりわけ模範写本との照合を規則的に示している。古代 の購買契約Subscriptioはこの過程に注意を喚起し、中世ではめったにその ようにいわれることはなかった(1)。ときには、濫作によって、あるいは消し 跡ののち、原文に手が加えられた(一枚の羊皮紙は表層からの切れ端張りに 耐えるほどの厚さであった)。変形は余白部、あるいは行間部にも書かれて いた。ときにはそれは特別な史料には欠落しているという指摘(明確に特別 なものとはほとんどいえない類いのものだった)まで携えていた(2)。しかし、

たまにこのような印が原作者自身によって拒絶されていた読み方になってし まったり、作家の中にはそれを模写する際に明らかに古典に訂正を加えよう とするものも出てくる。それは作家の側からすれば、「不正直」とか、「不誠 実」以外の何ものでもないが、むしろ残存古典を理解するための企てである。

作家や学者は印刷術や写真の発明、そして近現代文明の復原力が写本伝統の 詳細な調査をさせるということを知りえるはずがない。そして写本の当初の 長所である判読できることを誠実さにまで高めていったのも知る由がなかっ た。

 次に問題となるのは、余白部の脚注である。ほとんどの古典がかなりの余

(3)

白をもって書かれている。これは幾分かは書物の体裁という観点もあるが、

訂正用というだけでなく、脚注用の余白を確かに準備している。例えば、手 本として与えられたものを読む難しさに解釈を添えていたものだった。プロ ペルティウスPropertiusの最古の写本(3)は余白部に多数の書簡があり、金 言的な行やそれ以外の行に注意を促すように線引きされている。恐らく、そ れらは抜粋する価値を見ていたのではないだろうか。若干の場所ではその印 が無意味なものもあった(4)。それはまさに手本から模写されていたに違いな い。他の場所では、語句注解が内容を伴なって連坐している(5)。そのような 注解は頻繁に出てくる個人名に関わる言葉で、古典の中の困難さを明確にす る手助けにもなっていた。行中あるいは余白部の言葉は語句注解か訂正かの 区別がはっきりと認知されにくいが、これはしばしば模写の変造に拠ってい た。いくつかの場合、解釈は完璧で、古典よりも頁上に書かれた傍注にかな りの言葉が費やされていた(6)。作家たちは頻繁に、欄外への書き込みのため に異なった手書き本を使用した。それはより自由に空きスペースを使い、合 字や省略をそこに用いていた。

 読者への手助けとして、作品間や作品内での分割は方法の多様化の中で区 別されていた。そして題名が、その題名はしばしば創案されるのだが、内 容にある種の考えを与えるべく記憶される(7)。オウィデイウスの『メタモル フォセス』の多数の写本の中で、その題名には語り部のような神話の概要が 同伴している。ファスティFastiの写本には、典拠の最後に補遺された白紙 上の暦がある。伝播最初期には、ギリシア演劇は話し手の首尾一貫した属性 を備えていないように思われているが、これは時の経過とともに次第に付け 加えられていったものである(8)

 写本にはまた、研究家や原文伝承の歴史家に関心を抱かせるようなさ まざまな性質が備わっている。例えばインクとか、羊皮紙か紙(透かし を入れることで年代を識別)、製本のような物質的な貢献は、蒐集物数

Lagenzählung支配統治、もちろん手書き法そのもの、また句読法(9)や装飾

法のように生産状況を見ていくと、年代や出自について実質的な情報を与え ており、本質的な情報を与えてくれているはずである。それは、歴史の空白 を埋めるための簡便な美辞麗句から「啓蒙的な写本」に見る芸術的な装飾作 品まで幅広いものがある。すでに古代のウェルギリウスの写本は、直前ある

(4)

いは直後の典拠を表現した描写を含んでいる(10)。典拠の前後の遊び紙の頁 は、筆写人の筆跡probationes pennaeを試すのに、しばしば利用されてお り、典拠の自立性があるので、写本の歴史を再構成するのには大いに手助け にもなっている。

 さて、単独写本の内容はごまかしがない(例えば、単一作家の収集作品)

はずだが、若干の写本は全く異なっている。すなわち、その古典的な例は Bern 363(s. ix 3/4)で、ディソコリデスDisocoridesによってウェルギリウ スの作品のセルウィウスServius解釈の半分近く、さまざまな修辞学作品、

ホラティウスからの引用、オウィディウスの『メタモルフォーセス』から の引用、ベーデの『教会史』、さまざまな中世の詩文を典拠の中に含んでい (11)。そしてそのうちのほとんどに関して、編者にとって重要な写本だっ た。ギリシア語写本に関しては、特別な意義のある古写本はFlor.Laur.32.9 で、ロードスのアポロニウスの『アルゴナウティカ』だけではなく、アイス キュロスやソフォクレスの7つの現存作品を含んでいる。

 そしてその後の写本については、また稿を改めて考えていきたい。

1.写本研究前史について

 いずれにしても、現代まで伝播してきたものなのだが、そのほとんどは偶 然の成り行きで今日まで残存してきたといえる。その写本の流れを追いなが ら、もともとのポリュビオスの作品とどのように乖離してきたのか、あるい は忠実に原本を踏襲してきたのか、そんなところを検証してみたい。

 近年我が国においても、ポリュビオスに関して、二種類の翻訳がなされ、

その研究の一端が開かれたように思う。ただ、そのいずれも、そのホリュビ オスの作品がどのような経路で私たちのもとに到着したのか、いわゆる写本 伝統に関することはほとんど叙述されないままの、本文の翻訳である。それ がよくないとはいえないが、何かが取り残されたように感じるのは私だけで あろうか。とりわけ、ポリュビオスはその写本伝統が想像以上に厄介なもの である。その研究がなされた上での翻訳であれば、その価値はさらに高くな るはずである。

 写本典拠の批判的な評価を行なった最初のものは、Casaubonのものであ る。そこには若干の有益な業績が見られ、それは、とりわけ最初の五巻で

(5)

写本選択の貧困さを基にしたものであった。そのCasaubonに続くものは、

Schweighäuser、Dindorf、HultschBüttner-Wobstのそれぞれの主要な 版がある。

 Schweighäuserはその中で最初に現代的な感覚で批判的な写本版に何ら かの企てを試みていた。しかしながら、彼の作品は写本伝統の技術的な研究 からさほど価値が見出せるものではなかった。他の研究者たちによってなさ れた部分的な照合検証に基づくものであったし、その照合は、写本典拠のか なりの不十分さから生じていた、たぶんに偶発的な色彩が濃かった。例えば、

彼はA(Vaticanus Gr. 124)の価値を実感したけれども、そこから若干の部分 を読み解いただけであった。写本を読み解く際に、彼は実証なく結論を述べ、

脚注に散在している情報から可能な証拠を拾い集めることだった。彼が自ら の結論に基づく証拠を完全に述べることはほとんどなかった。それにもかか わらず、彼の版はポリュビオス学究の歴史の中である種の関心を残している。

また、校訂箇所の多さという点で不思議な価値を誇っている。彼の結論の多 くは明らかにHultschBüttner-Wobstに受け入れられている。彼は、た とえ不満足であったとしても、いかなるポリュビオス研究よりも多くの写本 を用いていた。

 Dindorfの編集によるトイブナー初版は、作業の大部分はAの議論や写本 中のさまざまな難問に集中していたけれども、その序章で写本に関するかな り多くの作業を含んでいる。Dindorfの主たる主張は、第1巻から第5巻の 現存写本の全てが転用であるということだった。そしてさまざまな他の写本 の読解は典拠の伝達手段の中で能力のさまざまな度合の校訂結果に拠ってい る。この仮説はDindorf版の書評の中でHultschによって直ちに否定され (12)。第6巻から第18巻の写本伝統に関しては何ら議論がなされていない。

  写 本 伝 統 の 次 な る 検 証 は、Hultschの も の で、 そ の 中 に は 彼 の 論 考

”Quaestiones Polybianae”, vol.1, Programm des Gymnasiums zu Zwickau,

1859.が含まれている。写本の中で実証されてきた関係性を踏襲しなかった

が、ただ「価値の順序」のみで、彼が未決integriと偽造interpolatiと叙述 している二つの流れと第1巻から第5巻を分けている。D(Monacensis Gr.

388[Excerpta Antiquaも含んでいる])E(Parisinus, B.N., Gr. 1648)があ る程度まで編集されており、C(Monacensis Gr.157)はかなり広範にわたっ

(6)

て編集されていたが、B(Londiniensis, Mus.Brit., Add. Ms. 11728)A ら転用されたものではないと間違った言明をしていた。彼がF(Vaticanus Urb. Gr. 102[1巻から第18巻のExcerpta Antiqua])の示唆をした立場 は漠然としており、実際正しくはなかった。そのうえ、彼はM(Vaticanus

Gr.73)に十分な重みを与えなかった。これはいずれも写本の不満足な

議 論 で あ っ た。 彼 の 論 考”Quaestiones Polybianae”, II, Programm des Gymnasiums zum Heil. Kreuz, Dresden, 1869.は、写本伝統の研究に何 ら意義深い足跡を残しえなかった。彼の翻訳本(1867-71)の第1巻初版へ

の序はB、C、D、Eに関して、その正確な転用についてよりもAとの密

接な関わりを理解しやすいし、のちにその大部分において問題を取り扱う ように期待していると述べている。ただ、このより完璧な研究は出版され なかった。第1巻から第5巻の他の写本に関して、彼は、Schweighäuser

の原本editio princepsのコピーであるという結論を受け入れながら、文言

C3(Parisinus, B.N., Gr. 1796 Oxoniensis Bodl.Laud. Gr. 4) C4(Parisinus, B.N., Gr. 1649)を言及しているのみである。これでは、写本 伝統の満足のいく議論が考えられるはずがない。

 彼の翻訳本の第二版への序は、初版の序のほとんどを再生し、Zwickau Programmの中で、C、D、EAと同調していないのなら、それらが’aut neglegentia corruptos aut conjecturis virorum criticorum temptatos’であ ると主張していた。しかしながら、これは、すでに彼がDindorf版の書評で 含意によって否定していた。さらに、その自家撞着に解釈を与えていなかっ た。それ以外の付加的な研究には、Bのさらなる研究が価値あるものである べきだとの明言をしていた。

 第6巻から第18巻において、D、G(Mediceus Laurentianus Plut. 69, 9)、

H(Regius D)、K(Parisinus, B.N., Gr. 2967)、L(Oxoniensis)Fから転用 されていることを、典拠の初版への序に述べている。彼はその証拠を挙げて いないし、推測が間違っていることを示している。

 Büttner-Wobstの作品ははるかに完璧な伝統の検証を重ねている。彼は

Dindorf版の序の大部分を再生したのだが、多数の新たな材料を付加してい

る。研究は、第1、2巻の紹介の中で二つの部分に分かれている。その二つ の区分は同じ議論の二つの部分ではないが、第2巻の中で、彼は第1巻の序

(7)

の部分を訂正している。そして多数の点で異なっており、若干の点で結論が 完成されていた。

 彼は第1巻のlxxii頁にその結論を概観していた。あらゆる例証は、10

紀以前に書かれた写本から転用されていた。そこには、脱漏、注解、誤謬が 含まれていた。AMは、この写本からの転記であり(13)、AからBF 模倣されていた。C、D、Eは、十分に校訂された最近の写本である。その 転用は、BFをもう一度正確に落丁調べをするまで、そしてC、D、E さまざまな手法が注意深くその差異を調べるまで述べられなかった。これは

C、D、Eの立場に疑義が生じていたままだったので、不満足すぎる版の基

盤だった。彼はxxx頁に関して、他の全ての写本がAの全ての落丁部分を 分け持っているか、あるいは推測判読によって落丁部分を満たそうとしてい たと述べている。C、D、Eの良識的な読解の全てが推測の結果であり、自 立的な権威ではないという推測を基盤にしているので、正しいとはいえな (14)。彼はこの見解の証明をしていないし、C、D、Eの写本の立場の説明 をするには最も適切な立場ではあった。少なくとも、Aが第15巻を完璧 に含み、Fが第118巻の抄録を含んでいたので、Fの立場を敷衍する必 要があった。

 彼は、1.2.7-81.3.3Aと同様の脱漏を含んでいたので、MAと同 様の史料から生じたものであると述べている。そのような解釈ではなく、M は引用の最後に最初の脱漏を短く止めて、疑問の多い文節を含んでいない。

1.3.3では、Mは、その典拠がAを知覚させるような断片を凝縮するような

ものだったけれども、いかなる脱漏も示していない(15)。Büttner-Wobst 比較的少ない誤記形式の中のこの文節に関して証拠を示すべきである。彼 は、lxviii頁に関して、Schweighäuserの結論、すなわちC3C4がいか なる解釈もなしにeditio princepsから転用されていたことを繰り返してい る。

 結論として、彼は次のように考えている。つまり、A’fides dignus’(p.xlii) という写本のみであり、総合的に不適切だという理由に関して、F(pp.lxx- lxxi)C、D、E(pp.xxxviiff.)の権威を度外視している。第2巻の序を書き終 えた当時の写本間の関係について急激に心変わりしたことを、写本伝統や第1 巻に含まれる典拠の研究から十分な非難があったからとしている。

(8)

 第2巻で到達した写本伝統に関する結論を以下のような系統図をlix頁に 示している(16)

Archetypus contin.I-XVIII

Vaticanus (A) cont.I-V Cod.Ʒ contin.I-XVIII

Urbinas (F)

Florentinus (B) cont.I-V Cod.ƴ cont. Cod.X cont.

exc.ant. I-V et exc.ant.

G H K L C D E

 写本伝統を論じていく中で、彼はC、D、Eがその中間写本を経由してΦ から転じていたこと、CΦにかなり近く、その一方でD、EAにかな り近いと述べている(p.xxix)。しかしながら、彼はそうしなかった。さらに、

いつの時点でこのような系統図を与えたのかを言及している(17)

 写本Z2(Constantinopolitanus, Top Kapu Serai, fonds Ahmet III, 25)

Büttner-Wobstの初版ののちに発見されたのだが、彼はそれをある論考の中

で論じている(18)。さらに、第1巻第2版でそれについて言及している(19)。C、

D、Eとは自立しているが、彼が示していない写本Z(Vaticanus Gr.1005) ら転用されているとはいえないとしてかなり適切に示している。それ以上に、

彼はC、D、Eに関する議論をしていない。

 第6巻から第18巻に関するBüttner-Wobstの研究は、第1巻から第4 ほどに十分であるとはいいがたい(20)。それは第2巻への序に見られ、自ら の結論を概観した上で写本伝統系統図になって示している。D、G、H、K、

LFから転用されていたのではないが、DGが第6巻から第18巻の

Excerpta Antiquaの亜原型から転用され、それぞれの場合に二つの異なっ

た亜原型からさらに転用されたものだといっている。しかし、これは間違っ ているということを示しているはずである。つまり、彼はF、D、G、H、K、

L間の正確な関係を明確にしようとはしていないし、ただ実在の写本の分化 を叙述しているだけである。現実的な伝統は、彼が呈示した形式とは全く異

(9)

なっていることを示しているであろう。

 第1巻の第2版で、Büttner-Wobstは自らの写本研究を再版することも なく、また自らの主題に新たな研究を付け加えることもなかった。

  二 つ の 実 例 は、Büttner-Wobstが 写 本 に 関 す る 研 究 を 不 正 確 な 原 則 に基づいていたことを示すのに十分だった。第1巻で、次のような言質 は、’Quae cum ita sint, quicquid per omnes libros quinque primos in reliquis codicibus recentioribus Bavarico (C) Augustano (D) Regio (E) boni reperitur, id omne est eius modi ut non ex integriori ductum esse appareat exemplari, sed a correctoribus excogitatum….’とある(21)。これは、

C、D、Eをよく読みこなしていたので、自らがこのような読解の基礎とな

るものを熟知していて、写本伝統の自立性を論じていたことを強く示唆して いた。読解上手が写本の自立性を打ち立てるものではないはずである。

 第2巻には、Excerpta Antiquaτου τόπου τούτου συμβουλεύω κρατείν という文節のVII, 12(11), 5で普遍的な遺漏を生じた基盤に、普遍的な祖先 写本があった。これはex homoeoteleutoからの遺漏であり、通常の祖先資 料から転用されていたことを理解させるための有効な手立てになるはずがな い。

 Hultschは、Büttner-Wobstと同じ理由でC、D、Eへの見解の基にして いる。そしてSchweighäuserは、叙述していた時期の避けがたい限界を別 にしても、同様に同じ偽りの原則を用いていることを序の中で示している。

 第1巻から第18巻に関する以前の版の作品は、写本を分類する上でその 偽りの原則に終始しており、間違った不十分な結論に達して、網羅的なもの にはなっておらず、そのいずれにおいても、現存するあらゆる写本を言及し ていない。

 Schulzeが出版したde Legationibusの研究は、現存のあらゆる写本を網 羅しておらず、満足のいくものではなかった(22)。彼の導き出した結論が間 違っていることを公表しただけである。

 その一方で、de Legationibus Gentium ad Romanosに関するde Boor 研究は、有益な材料を含んでいるが、非体系的になりがちである(23)。彼は十 分に、W(Bruxellensis 11301/16)、O(Monacensis 185)、R(codices recentes quinque priorum librorum vel omnes vel complures)の写本の体系化を打

(10)

ち立て、さらに写本X(Ambrosianus N 135)から転用されてきた事実を示し たが、彼が呈示した史料の中には非文献史料との関係性が明らかにされてい なかった。写本U(Vaticanus 1418)、V(Scorialensis R III 14)についての彼 の議論は不明瞭で、自らの結論に達するための十分な史料を与え切れていな い。また、彼のde Legationibus Romanorum ad Gentesに関する研究は他 の主題に関する作品と比べてかなり不十分で、有効な材料がほとんど含まれ ていないのが現状である。

 他の二つの作品については、その要約を述べるだけで十分であろう。

Pauly-WissowaPolybiosの項を担当したK.Zieglerの論考(1952)は写本に 関して一部取り扱っている。彼はBüttner-Wobstの結論を繰り返し、実際写

C、D、EAからの転用であると述べていることにかすかに後退すらし

ている。その問題に対して全く新たな材料がないのも事実である。

 第12巻に関する最近のBudé版は、写本を考察する序に一部が割かれて

いる(24)。編者Pédechは、原型を伴なった第12巻を含んでいるFと他の写

本との関係性を研究するのはポリュビオスの作品の研究目的とはかけ離れた ものになってしまうと述べている(25)

2.ポリュビオス写本記号摘要索引

 ここに、ポリュビオスのあらゆる写本を網羅的に年代に応じて分類してお く。それを「第1巻から第5巻」、「古くからの引用」、「コンスタンティヌス の引用」に分けて整理しておきたい。Moore, J.M., The Manuscript Tradition of Polybius, Cambridge, 1965, pp.184-187.を基にして、整理しておきたい。

a) 第1巻から第5  i.10世紀

   A(Vaticanus Gr. 124) A.D.947年か?(26)  ii.10/11世紀

   F(Vaticanus Urb. Gr. 102[1巻から第18巻のExcerpta Antiqua]) の中の’Urbinas’で、Plate I.

 iii.14世紀

   C(Monacensis Gr.157)の中の’Bavaricus’ (27).

   D(Monacensis Gr. 388[Excerpta Antiquaも含んでいる])の中の

(11)

    Plate IV.

 iv.14/15世紀

   E(Parisinus, B.N., Gr. 1648)の中の’Regius A’.

 v.15世紀

   B(Londiniensis, Mus.Brit., Add. Ms. 11728)の中の’Florentinus’

    1416(28)

   B2(Marcianus Gr. VII, 4)

   B3(Mediceus Laurentianus Plut. 69,9)の中の’Florentinus’ 1435(29)    B4(Marcianus Gr.371)

   B5(Marcianus Gr.369) 1470    C2(Vaticanus Urb. Gr.101)    J(Vindobonensis Phil. Gr.59)    Z(Vaticanus Gr.1005)(30)

   Z2(Constantinopolitanus, Top Kapu Serai, fonds Ahmet III, 25)(31)    Z3(Parisinus, B.N., Gr.1739)

   Z5(Parisinus, B.N., Gr.2376)    Z6(Ambrosianus Gr. F88 sup.)    Z7(Leidensis Scal. Gr.51)  iv.16世紀

   C3(Parisinus, B.N., Gr. 1796Oxoniensis Bodl.Laud. Gr. 4)の中     の’Regius C’

   C4(Parisinus, B.N., Gr. 1649)の中の’Regius B’ 1547    C5(Parisinus, B.N., Coisl.318)

   Z4(Parisinus, B.N., Gr.462) b) 古くからの引用

 i.10/11世紀    F 上述  ii.14世紀    D 上述

   H2(Mediceus Laurentianus Plut. 80, 13)  iii.15世紀

(12)

   F2(Vaticanus Gr.1647) 16世紀か?    H3(Parisinus, B.N., Gr.1643) 16世紀か?    H5(Londiniensis, Mus. Brit., Add. Ms. 5110)    H7(Leidensis Vulc. Gr.2)

   H11(Marcianus Gr. VII, 4)[ = B2]

   H15(Ambrosianus Gr. F 88 sup.)[Z6と同一写本の中で分離した写本]    K(Parisinus, B.N., Gr. 2967)の中の’Regius E’

 iv.16世紀

   D2(Vaticanus Gr.125)

   D3(Oxoniensis, Bodl. Arch. Seld. B 18)    F3(Mediceus Laurentianus Plut.69, 21)

   G(Mediceus Laurentianus Plut. 69, 9)[B3と同一写本の中で分離し     た写本]

   G2(Vaticanus Pal. Gr.50)

   G3(Oxoniensis, Bodl. Arch. Seld. B 20)    G4(Neapolitanus Gr. III B 13)

   G5(Vesontinus 841)の中の’Vesontinus’

   G6(Oxoniensis, Bodl. D’Orvillianus 61)    G7(Parisinus, B.N., Gr.1651)の中の’Regius G’

   G8(Vindobonensis Hist. Gr.25) 1504年か?    G9(Mutinensis Gr. α’T817)

   G10(Parisinus, S. Genovefanus Gr.3396)

   G11(Tubingensis Gr. Mb 9)の中の’Tubingensis’

   G12(Vindobonensis Hist. Gr.30)    G13(Vaticanus Ottob. Gr.50)

   G14(Parisinus, B.N., Gr.1650)の中の’Regius F’

   G15(Matritensis, B.N., Gr.4741)    H4(Parisinus, B.N., Suppl. Gr.598)    H6(Parisinus, B.N., Gr.988)

   H8(Londiniensis, Mus. Brit., Harl.5568)    H9(Vaticanus Barb. Gr.22)

(13)

   H10(Neapolitanus Gr. III B 14)

   H12(Parisinus, B.N., Gr.1652)の中の’Regius D’(32)    H13(Oxoniensis, Bodl. Arch. Seld. B 18)

   L(Oxoniensis, Bodl. Arch. Seld. B37)の中のOxoniensis’

   S(Parisinus, B.N., Coisl.318) [ = C5]

   S2(Parisinus, B.N., Gr.2857)    S3(Vaticanus Gr.1898)    S4

   S5(Scorialensis Y III 10) [三写本が一巻を構成]    S6

   S7(Parisinus, B.N., Gr.2043)

   S8(Parisinus, B.N., Suppl. Gr.598) [H4と同一写本の中で分離した     写本]

   S9(Parisinus, B.N., Gr.2972)

   S10(Oxoniensis, Bodl. Arch. Seld. B38)  v.18世紀

   H14(Monacensis Gr.170) 1729年か? c) コンスタンティヌスの引用

 i.10世紀

   P(Turonensis 980) そのうちのde Virtuibus et Vitiis ‘Peirescianus’.

    11世紀か? (33)

   T(Parisinus, B.N., Suppl. Gr.607) そのうちのde Strategematis  ii.10/11世紀

   M(Vaticanus Gr.73) そのうちのde Sententiis(34)  iii.16世紀

   N(Monacensis Gr.267) そのうちのde Leg. Romanorum    O(Monacensis Gr.185) そのうちのde Leg. Gentium    Q(Scorialensis ωI 11) そのうちのde Insidiis

   R(Vaticani Pal. Gr.410, 411, 412.) そのうちのde Leg. Gentium    Tr(Cantabrigiensis, Coll. Trin., Gr. O. 3.23) そのうちのde Leg.

    Romanorum

(14)

   U(Vaticanus Gr.1418 & Neapolitanus Gr. III B 15)(35)    V(Scorialenses R III 13, 21) そのうちのde Leg. Gentium    あるいは(Scorialensis R III 14) 1574年 そのうちのde Leg.

    Romanorum

   W(Bruxellensis 11301/16) そのうちのde Leg. Romanorum     あるいは(Bruxellensis 11317/21)  そのうちのde Leg. Gentium     の一部

   X(Ambrosianus N 135 sup.) 1574年 そのうちのde Leg. Gentium    Y(Vaticanus Pal. Gr.413.) そのうちのde Leg. Romanorum

というふうに各写本は整理されるようである。これからも理解できるように、

写本は15、16世紀に、すなわちルネサンスの時代にかなり増えていること

がわかる。あるいはそれ以前の写本がさほど残存していなかった証拠なのか もしれない。

 上述した写本のほか、まだ議論を要するものとして、次のような写本が 残っている。

 i.17世紀: Bibliotheca Vallicellana, App.Allatiana 137.

 ii.17、18世紀: Parisinus, B.N., Suppl.Gr.885.

 iii.17/18世紀: Matritensis, B.N., Gr.4821.

また、コンスタンティヌスの引用の中では、

 i.16世紀: Ambrosianus Gr.G72inf.; Parisinus, B.N., Gr.1666.

 ii.17世紀: Parisinus, B.N., Gr.2550; Vaticanus Barb. Gr.237.

 iii.19世紀: Parisinus, B.N., Suppl.Gr.485; 1253.

そしてこれら以外に、

Ambrosianus Gr. D246inf.; Gr. D247inf.; R98sup.; Bruxellensis 8761; Laurentianus, Acq. E Doni 37; Neapolitanus, Gr. IIC32;

Parisinus, B.N., Gr.2463; Suppl. Gr.279; Vaticanus, Gr. 1698;

Vindobonensis Hist. Gr. 113 が存在している。

(15)

3.例えば、ポリュビオス第 1 巻から第 5 巻の写本伝統

 以下に挙げる写本は第1巻から第5巻を含んでおり、写本の単一グループ を形成している。その中には、若干の意義ある遺漏が認められている。その 脚注には、写本伝統の設立に関する重要な視点を含んだリストと承知おきで きる写本の歴史への付言を述べている。

(A)Vaticanus Gr.124(olim 126). ヴァティカン図書館

 これは10世紀の写本であり、恐らく947年に年代づけられる。僧エフラ

イムEphraimによって書写され、末尾は次のようになっている。

   πολυβίου ϊστο/ριών ε’

   εϋτυχώς χ/ρ/ώ

   έγρά<φη> χειρί έφραίμ/μο<να>χ<οϋ>

   μ<ηνί> άπριλλίωι ε’ ίνδ ε’. (fo.304r)(36)

このように、エフライムは15年期の日付を与えているが、年代の表記は ない。エフライムによる写本は三写本が知られており、そのうち、他の Venetus Marcianus Gr.201 (780)(Aristot.) 954 年、Athous Vatopedi 949(747)(Gospels)948年に年代づけられているが、Athous Laura B64 (184)(Acts & Epistles)は年代不詳である。このうち、前後の二写本は模写 が続けられて、真ん中のものは原写本と同様、贅沢で壮麗な写本である。

 ディラー(37)は、ゴスペルズ写本とポリュビオスの原写本との間の手書き の類似性を調べながら、原写本を947年に年代づけた。それは末尾に与えら れた15年期の一致であった。これは全く蓋然的であったのだが、ジーグラー によって容認された(38)。しかしながら、原写本とゴスペルズ写本が明確に他 の二つの写本とは異なった意図で書かれていたという理由に関して、その疑 義は余地を残したままである。さらに、原写本とゴスペルズ写本の手書きが よく類似している一方、差異も少なくはない。この写本に関する947年とい う年代は十分に注意して取り扱う必要がある。ただ、その写本は確かに10 世紀に遡及され、最古のポリュビオス写本であることには疑義がない(39)。ま た、1頁に2列で書かれ、数あるポリュビオス写本の中で孤高を保っている。

 写本A2頁は初出ではない。そしてfo.815世紀の筆写の遺失紙の 置換で、1.11.15-13.8を含んでいる。だから、行間が残りの写本とは総合的 に見ても異なっている。写本Aは恐らく、1455年までにヴァティカン図書

(16)

館に存在していた。それは皮紙のポリュビオスのみが残存しており、1455 年にニコラス5世のもとで組織された図書館のカタログの中に’Librum Polybii in Pergameno’の登録があった(40)

(B)Londiniensis, Mus. Brit., Add. Ms. 11728. ロンドン、大英博物館  写本Bは、コンスタンティノープルの洗礼者ヨハネ修道院の僧ステファー ヌスによって模写されたものである。1416102日に書写し終えた。そ の末尾には次のような文節が残っている。

   έτελειωθη τό παρόν βιβλίον χειρί στεφάνου       ίερομονάχου καί σκευφυλ<α>κος

   τοϋ τιμίου προδρ<ό>μ<ου> τής εύλογημένης πτράς,      μηνί όκτωβρι β’ ίνδ ι’ του ςou ϡou κε έτους

      (fo. 160v)(41)  写本は、普通’La Badia’として言及されるフィレンツェのベネディクトゥ ス派の修道院のカタログ印を付けている(42)。碑文も写本がアントニオ・コ ルビネッリAntonio Corbinelli図書館からバディアに来ていたことを示して いる(43)。この遺贈が1437年までにバディアの手に渡っていた。

 写本BMontfauconに見出されたとき、その当初においては碑文であり、

恐らく遺失されるまで見返り頁に掲載されていたはずだが、以下のように書 写されていたはずである。

   Αντώνιος ό άθηναϊος ό καί λεγόμενος ταύτην τήν   βίβλον είχα άντιβόλεον, καί άντεγραψα όμοιον     ταύτης, έτους άπό τοϋ χριστοϋ ,αυλε’, γραφέν είς    τήν πόλιν σιένα.(44)

このように、写本Bの模写は1435年にシエーナでなされていた。ヤーコ ポ・ディ・ニッコロ・コルビッツィJacopo di Niccolo Corbizziはコルビネッ

Corbinelliの意志のもと、写本がバディアにいってしまう前に、彼の写本

に関心を示した生涯になった。そしてヤーコポもバディアもともにこの写本 Bを模写して保っていた可能性がある。というのも、バディアからこのよう な貸借の記録が残っているからである。

 その写本の行く末の歴史も追跡できるはずである。バディアはフランス人 によって1808年に廃止され、モンフォーコンによって記録された写本のう

(17)

25本が、バディアの図書館からBiblioteca Laurenzianaに移行される際 に、遺失してしまった。そのうち15本は図書館司書ドン・ビジDon Bigi よってフォン・シュラースハイムvon Schellersheimを信用して、「フラン ス人の被害から守るために」預けられた。しかし、その中にはポリュビオス 写本はなかった。そこには次のような注意書きが施されていた。「18405 23日、ペインとフォスの荷造り」と。それで、ポリュビオス写本は大英 博物館に入っていった。

(B2) Marcianus Gr. VII, 4 (1155 年 ). マルキウス図書館、ヴェネツィア(45)  写本B215世紀のものである。末尾には次のように走り書きされている。

   θ<ε>ώ τώ δόντι άρχήν καί τέλος δόξα`

   καϊσαρ στρατηγός λακεδαιμόνιος.

   έξέγραψεν έν φλωρεντία     (fo. 245 v)

ここには、カエサル・ストラテグスCaesar Strategusと呼称される二人 の書写人がいた。1492年に遡及されるPar., B.N., Gr.2159という写本に 位置づけられているたった一人の人物がいる。その人物は単純に’Caesar

Strategus’と署名している。そこに見られる二人はそれぞれ別人であり、一

人は自ら’Lakedaimonios’と、もう一人は’Kres’と呼称している。写本B2 は恐らく、Par., Gr. 2159の手中にあり、その手書きから15世紀後半に年 代づけられるものである(46)。マルキウス図書館に入庫する以前には、写本 はヴェネツィアの聖ジョヴァンニと聖パオロ図書館に存在していた(47) (B3)Mediceus Laurentianus Plut. 69, 9. ラウレンティウス図書館、フィレ

ンツェ(48)

 写本B3はシエーナでアントニウス・アテナエウスAntonius Athenaeus によってフィレルフォFilelphoのために書き上げられ、14351122 に完成した。末尾の走り書きには次のように出ている。

   ώδε πέρας λάβεν ίστοριών πολυβίοιο βίβλος,    ήνπερ άθηναίος γεγρφώς άντώνιός έστι

   φιλέλφου δ’ άναλώμασι τοϋ φρανκίσκοιο κλήσιν:

   έτελειώθη μηνί νοεμβρίου κβον έτους άπό τής    χ<ριστο>ϋ γεννήσεως ,αυλε έν σήνη τής τυρρηνίας

   (fo.2961)

(18)

明らかにこの反対側にあったはずの写本Bの遺失した碑文は、すでに注目 に値するものであった。ここでは、その模写がフランチェスコ・フィレル

フォFrancesco Filelphoに製作されたものであるという付加的な情報を与

えておこう。1427年に長期逗留からコンスタンティノープルに戻り、1428 6月だとされる書簡の中で、ポリュビオスの模写を含んだ多数の写本を抱 えて、次のヴェネツィア艦隊で帰途に就くことを期していた(49)。これは明 らかに写本B3についての言及ではなく、フィレルフォに言及された写本を 同じものと見做すことはできない。写本B3はフィレルフォの手による写本 註を含んでおり、fo. 1rに描かれた自らの紋章があった。

(B4)Marcianus Gr. 371(302). マルキアヌス図書館、ヴェネツィア

 写本B415世紀中庸に模写されたもので、写本系図における位置は、

1435年から1470年の間に模写されたことを示している。写本は10枚の二 折判からなっており、マルキアヌス図書館に戻ってきたものである。綴じた り外したりする過程で、1.62.8-84.3を含んでいた四度目の収集物が五度目 の収集ののちに置き間違えられた。

 写本B4は枢機卿ベッサリオンBessarionのもので、次のように記されて いる。

   Πολυβίου ίστ<ορία>ς βησσαρίωνος καρδιναλ τοϋ τών          τουσκλών Polybius b. Car. Tusculani   (fo. 1r) ベッサリオンは、1468514日に遡及される贈与でマルキアヌス図書館 に自らの蔵書を示した。そして14694月にヴェネツィアで授与された(50) (B5)Marcianus Gr. 369(1045). マルキアヌス図書館、ヴェネツィア

  写 本B51470年 に ジ ョ ー ジ・ ツ ァ ン ガ ロ ポ ー ロ スGeorge

Tzangaropolosによって枢機卿ベッサリオンのために模写された。見返し頁

には、ベッサリオンの手書きで以下の註がつけられている。

   κτήμα βησσαρίωνος έπισκόπου σαβίνων καρδηναλέως    τοϋ νικαίας

この巻には、ポリュビオスの第1巻から第5巻の前にクセノフォンとアー リアノスのものを含んでいる。それがfos.191rから280rまでを占めている。

その全ての写本は一人の手で書写され、単一の構成のもとに公刊されたよう だった。その年代の故に、ベッサリオンの反対でマルキアヌス図書館の蔵書

(19)

になかなかならなかった。彼の死の直後の147211月に、彼の蔵書の残 本が聖マルコ寺院に移された。

(C)Monacensis Gr. 157. 国立バイエルン図書館、ミュンヘン

 この写本は古文書学から14世紀に遡及される。写本内のポリュビオスに 関する部分は、fos.1-91vで、その間の残りの部分はヘロディアヌスとヘリ オドロスのものである。その間は美装丁の皮で覆われ、その被覆が15世紀 に遡及されるものである(51)。いずれにせよ、写本C1453年以後にコンス タンティノープルからやってきた。

   αϋτη ή βίβλος ήνέχθη έκ τής κωνσταντινουπόλεως

  (fo.169r) そ こ か ら ハ ン ガ リ ー の 王 マ ッ テ ィ ア ス・ コ ル ヴ ィ ー ヌ スMatthias Corvinus(1458-90)の蔵書へと移行していった(52)。彼の蔵書は死後散逸し、

写本Cはヨアキム・カメラリウスJoachim Camerariusの手に渡った。彼 はバヴァリアのアルブレヒト5(1550-79)にそれを贈呈した(53)。彼の蔵書 は国立バイエルン図書館の中核を形成している。

(C2)Vaticanus Urb. Gr. 101. ヴァティカン図書館(54)

 写本C2は、ヨハネス・ローソスJohannes Rhosusによって、1455 頃から1474年にかけて模写されていた。彼によって署名され、年代づけら れる写本は、1455年から1497年にかけてのものである(55)。そして fo.1r ’Fredericus comes Feltrensis’の紋章がある。すなわち、のちのウルビー ノの公爵フレデリックのものであり、彼が1474821日にその称号を 認知する以前のものであった。その末尾には次のように書かれている。

   χείρ ίωάννου πρεσβυτέρου ‘ρώσου    τοϋ κρητός    (fo.283r)

また、fos.241-50の順序は乱れたままになっている。その順序は、241、

244、243、242、245、249、248、247、250という順序のはずであるべき である。

(Z)Vaticanus Gr. 1005. ヴァティカン図書館

 古文書学的な理由で、14世紀末に模写されていたと考えられるけれども、

写本Zは恐らく15世紀に遡及されるべきである。写本中には年代を特定す るものは何もない。

(20)

(Z2)Constantinopolitanus, Top Kapu Serai, Fonds Ahmet III, 25. トプカ プ宮殿、イスタンブール

 古文書学的な理由で、写本Z215世紀までに年代づけられるべきである。

写本には二人の手を経ている。一人目はfos.1-82(1.1.1-3.43.8)の模写で、二 人目は透かし模様の変化はなく、写本が単一のものではないことの指摘もな い。

(D)Monacensis Gr. 388. 国立バイエルン図書館、ミュンヘン(56)

 古文書学的な理由で、写本D14世紀までに遡及される。また、fo.1r については、次の文の通りである(57)

   τό παρόν βιβλίον ήφεραν οί τούρκοι μετήν       άρμάδαν τοϋ στεμπε- τανέβοντος, τοϋ ποτέ       σουλτάνου

   αλητζέρις. νϋν δέ πασία τής άρμάδης, καί      πεγλερπεq τής αύτής άλιτζέρις δεσποτάτου

   ναυπάκτου εύρίππου καί ‘ρόδου, τοϋ χαρατήν πασία       [2行と1/4が完全に消去されている] κατά τώ ,αφλζ    έτος, τό άπό τής ένσάρκου οίκονομίας. καί 

     θεογονίας, έπεί τής δυναστικωτάτης βασιλείας τοϋ      μεγαλιοτάτου αύθεντός

   σουλτάν σουλεημάν, αύθεντέβοντος τού εύγενεστάτου       καί λογιωτά- του αύθεντός χουσεην αχ πεq    υίοϋ όντος μεχεμέτ πεει, τού έλκοντος τό γένος      άπό καρούων.

     μεγάλων όντων αύθεντών ηγεμονικής

   κρατών τόν τόπον, καί φλάμπυρον τού άγγελοκάστου,      άγίας μαύ-ρας σπονδίτζης, καί παντός δεσπότου.

   ‘Αρχιερατεύντος τού πανιερωτάτου μητοπολίτου       κυρ<ίου> παχωμίου.

これはάπό τής ένσάρκου οίκονομίαςから明らかなようにキリスト教徒 の手によって書かれたものであるが、スレイマン大帝によって与えられたと 見られる完璧な称号やトルコの将校であったことから、恐らくはトルコの支

(21)

配下にいた人物であるか、あるいは少なくともトルコ領内に居住していた人 物であろう。また、, αφλζから1537年に遡及される(58)。アントニウス・エ パルクスAntonius Eparchusは、写本D1545年にアウグスブルク図書 館に売買した(59)。そしてそこから1806年に他の多数の写本とともに国立バ イエルン図書館に渡った。そこには、,αφιη’すなわち1518年という年代を

含んだfo. 1rに関する断片的な碑文がある。前面の見返し頁の右には、次の

ような碑文が配置されている。

Xystus Betuleius candido lectori S. Cum hoc codice contulimus illud exemplar quo usus est Hervagius in editione Polybiana. Facta est hinc accessio ad illam editionem non poenitenda. Quae autem in Hervagiano exemplari, quod hoc nostro melius erat, auctiora inveniebantur, marginibus hic nostris anno-tavimus….Nostra post collatione in transferendo usus est W. Musculus cum Tiguri exularet. Facta autem collatio est in hyeme anno 1548. Vale

これは、写本D:原版と校合されていて、その結果として出てきた典拠が 1549年のヘルヴァギアヌス版に使用されていたことを示唆している。さら に、ムスクルスMusculusによって第6巻から第17(実際には第6巻か ら第18)の翻訳がなされていたことも示唆している。

(E)Parisinus, Bibl. Nat., Gr. 1648 (olim Mediceus Reg. 1859). 仏国立図書 館、パリ(60)

 写本E14世紀後半か15世紀前半に遡及されるものである。書かれて いる紙の透かしの中には、Briquet 11718があり、1390年だと年代づけら れる文書として使用され、1391年から1412年に年代づけられる近しい異 形を伴なっている。その手書きは14世紀ないしは15世紀初めのものらしい。

そうした理由で、フルッチの年代設定は15世紀後半を指し示し、その年代 を擁護できなくなっている(61)

 写本Eはヨハネス・ラスカリスJohannes Lascarisに属している。ヴァ ティカン図書館の写本Vat. Gr. 1414は、ラスカリスから枢機卿リドルフィ

Ridolphiに渡り、ラスカリスの生徒で、図書館司書であったマシュー・デ

ヴァリスMathieu Devarisによって枢機卿に編纂された写本カタログを含

ん で い た。 こ れ は、 見 出 し 部 分 の’πολυβίου ίστοριών βιβλία πέντε,

(22)

no.23 9a’を含んでいる。写本Eでは、fo. 82 vは、評釈の’No 23 | ca 9’ あり、これがデヴァリスによって言及された模写であることを示している(62) リドルフィの写本はマリア・デ・メディチMaria de’ Mediciのもとに渡り、

その際1599年に写本の大部分はフランス王立図書館に入った(63) (J)Vindobonensis Phil. Gr. 59. オーストリア国立図書館、ウィーン  文書学的には15世紀に遡及されるものである(64)。その巻はさまざまな作 家たちのものを含んでいる。すなわち、fos.121r-166vにはポリュビオスの 1.1.1-705.94.9-111.10がある。各巻構成の四元数頁にはさまざまな頁構 成があり、その中にポリュビオスが分かれた単元に入っていることを示唆し ている。しかしながら、他の頁構成の中に含まれている。ポリュビオス写本 は現在断片のみの存在であり、ある部分では四元数頁が無秩序になっている。

例えば、fos.121-44の正しい部分は四元数頁の三頁は完璧になっており、そ ののちに1.58.2-70.5を含むfos.145-50が続くべきところに他の四元数頁に ポリュビオスの1.45.1-58.2を含むfos.151-8が完全に収まっている。また、

fos.159-66は第5巻の最後の部分を含む別の四元数頁を形成している。こ

のように、かつて第1巻から第5巻の完璧な写本があったはずなのに、4 3/4そして最後の四元数頁が現存している。そうした遺失がいつ生じたの かを特定することは不可能であり、前面カバーに書かれた注意書きに拠れば、

1754年に巻が最後に締められていた。

(F)Vaticanus Urb. Gr. 102. ヴァティカン図書館、第 1 巻から第 18 巻の抄録(65)  フルッチはこの写本F11世紀に遡及しているが、写本Aや他の10 紀の写本とその手書きを比較すると、写本Fは最も新しく見積もって11 紀初めに遡及され、10世紀後半にはすでに模写されていたと考えられる。

 写本は皮紙製であるが、最初の3枚は紙である。そのうちのfos.1-2は、

透かしが1344年の文書に使用されていたBriquet 2750なので、14世紀に 遡及されるものである。この年代はこれら2枚を模写した手書きとよく類 似していた。そして3枚目はポリュビオスを含んでいない(66)。写本は主と して四元数頁で折りたたまれており、各々の四元数頁の最初の頁右頁下に 番号が記されている。最初の四元数頁のは、fo.12rΓ’とあり、Β’fo.4r 上に期待されるのだが、消失している。また、fo.4が原版写本から残存して いる最初の二つ折り判にあるので、完璧な四元数頁が消失しているようであ

(23)

る。

 確かにこの四元数頁がひどくダメージを受けているので、その最初と 最 後 の 部 分 の み が 残 存 し て い る。 ま た、fos.1-2に 関 し て は、1.1.1-3.5 1.6.1-7.11と い う 二 つ の 抄 録 が あ り、fo.4r 1.75.5τού  προσαγορευομένουで 始 ま っ て い る が、 そ の 前 の 数 行 は1.75.4τών  γεωλόφωνで始まり、fo.2vの下側やfo.4rの上方の余白部に最近の別の書き 出しが付加されている。このように、fos.1-2の典拠が失われた最初の四元 数頁の部分から模写されていたようである。これはその写本を権威づけるの に重要な部分である。もちろん、fos.1-2の典拠がこうした抄録を含む他の 写本から転用されていたのではないという絶対的な証拠は何もないが、この ような写本は、写本Fの四元数頁を充足させるに十分な材料を含んでいたよ うである。模写人が巧みに模写したとしても、その損失が利用可能な材料の 一部を模写するだけだったのは、ある意味かなり奇妙なことである。復元が なされた抄録の他の傾向性の軌跡は何もない。写本F中の四元数頁の番号づ けはさらなる問題を提起しているが、第6巻から第18巻の抄録の影響を受 けるので、別の機会に譲りたい。

 末尾書きは部分的に消失している。その中で読むことが可能な部分は次の 通りである。

   μιχαήλ ό παλαι | . ώ . ος έγραψεν | αΰτά.

 以前の書写がこれと末尾書きの訂正との間の違いを区別していなかった。

その訂正部分は次のように読まれていた。

   μιχαήλ ό στρα . | σπ ..ος έγραψεν αΰτά.

 書写人ミカエルMichaelについては何も知られていないし、末尾書きが ほぼ同時代の手書きによって部分的に帰られていたのか、その理由を物語る こともできない。

(C3)Parisinus, Bibl. Nat., Gr. 1796 (olim Reg.3466). 仏国立図書館、パリ Oxoniensis, Bodl. Laud. Gr. 4 (S.C. 498). ボドリーアン図書館、オック

スフォード

 両巻ともにアンゲス・ウェルゲティウスAngelus Vergetiusの手によるも ので、16世紀中庸に遡及される(67)。彼は1535年から1569年を覆ってい る写本を遡及していた。写本C3は瓜二つの2巻からなっており、第1巻と

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