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日本の教育の歴史的性格と教育改革の方向

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日本の教育の歴史的性格と教育改革の方向

宮 坂 広 作 1.はじめに

本稿でいう「教育」は、学校教育に限定している。筆者は30代の約10年間、お茶の 水女子大学の教育哲学・教育史講座に在籍していたが、当時の学校教育の実態や政策 に憂うべきものがあったことと、教育雑誌からの依頼があったこととで、教育時論を 発表したり、現代の教育、とくに後期中等教育に関する研究を行なっていた。これ は、教育史についてアカデミックな研究に専心すべき学者、とくに若手研究者として 問題がなかった訳ではない。時論では、昇格・昇任の審査の際の「業績」にはならな いし、現代の教育についての研究に割かれた時間と労力のために、学位論文の執筆が 妨げられたのは事実である。

40代以降は、東京大学の社会教育学講座に身を置いたので、歴史研究よりも現代に ついての研究が中心になったが、社会教育というのは「学校教育以外の教育」という ことであるから、学校教育から見れば社会教育は外野ということになる。しかし、筆 者は機会あるたびに、学校教育について発言を行なった。それは、PTA のような、

学校教育と社会教育とが重なる領域の研究をしていたということもあるし、「生涯教 育」とか「生涯学習」とかいう新しいコンセプトは、学校教育と社会教育をつらぬき、

また両者を包含するものだったからである。アカデミズムとジャーナリズムの二つの 分野で発言するというのは、恩師である宮原誠一先生の言論スタイルでもある。もっ とも、文才に欠ける筆者は、師のひそみに倣って醜態を演じたことになる。

学校教育の実態に、受験競争と格差の問題を中心として、深刻な諸問題が現象した ことから、教育学者として発言することは自分の責任だという使命感によるもので あった。そういう発言をまとめて、教育改革についての著作をいくつか刊行もした。

改革を目ざす教育運動に参加したり、自から小さな運動を立ち上げたこともある。本 も売れず、運動にも違和感を覚え、自分の資質・力量の乏しさを痛感して、50代から はアカデミズムに撤退した。1980年代の10年は、講座の主任教授として内向きの仕事 に専念しなければならないという事情もあった。

90年代、筆者は山梨学院の生涯学習センター長としての業務に忙殺され、かつ東京 を離れたことで教育ジャーナリズムとも疎遠になり、学校教育について発言する機会 は少なくなった。ところが、90年代の末にかねて敬愛していた日高六郎先生の懇請を

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ことわりきれず、国民教育文化総合研究所長に就任せざるをえなくなった。そのため に、またも現代の学校教育の諸問題に直面することになった。

今は教職を離れ、閑雲野鶴を友とする身の上なので、陶淵明に憧れつつ農耕に従事 していればそれでよいのだが、日本の学校教育にかかわる問題はますます悪化し、深 刻化しているように思われ、それについて発言をしたい、しなければならないという 思いがつのってきた。そういう発言を求められるポストにいる訳でもないし、発言し たところでさしたる影響力がないことは承知している。現役中の発言でさえ、少数者 の意見として顧みてはもらえなかった。今の筆者はさらに無力であるし、現役の教育 学者たちには有能・優秀な研究者も多く、傾聴すべき発言をしているので、彼らに任 せておけばよいのかもしれない。

しかしながら、筆者の見るところ、こんにちのわが国の学校教育は問題山積であ り、それについて国の審議会の報告はトリビアルなことばかりあげつらっていて、根 本的な解決策を提示できないし、当然文科省の政策も動揺混乱するのみである。座視 するに忍びない心境であり、己れの無力は自覚しつつも、あえて発言しようとするの が本稿である。本稿が老いの繰り言や無責任な評論ではなく、真の教育改革を求める 諸潮流の中の一細流としての存在意義を持つことを願ってやまない。

2.現代教育論への応答〜田中萬年氏の「非教育論」について

前述したように、現代日本が直面する教育諸問題についての立論、問題解決を目ざ しての提言が、さまざまな立場からなされている(1)。それには、いじめや登校拒否、

少年非行や犯罪などの現象について克明に調査し、憂うべき事態であると警鐘を鳴ら しているものもあれば、政府の政策やそれに対峙する教育運動について批判するもの もある。中には、日教組が革命を目ざす集団で諸悪の根源だと非難するものまで見ら れる。この種の評論は、問題をしっかり調査・研究することなく、風評や思い込みで 大声をあげているものが多く、とりあげる価値もない。現象を超えて本質に迫るよう な教育論はそれほど多くないように思われる。

このたび筆者が教育の本質について再考したいと考えるようになった直接の契機 は、田中萬年氏によってもたらされた。氏はつい最近まで職業訓練大学校に在職し て、職業訓練・職業教育について研究し、学生に教えてきた人である。その分野の専 門家として知られ、研究業績もゆたかである。氏の出自は職業訓練の領域であり、一 般の「教育学者」のように、教育学を専攻してきたのではない。しかし、職業訓練に ついて考察していると、必然的に職業教育、さらには労働教育の問題を検討せざるを えなくなる。実は、「訓練」と「教育」を峻別し、前者は技能を伝達し熟練させる実 用的な営為であり、後者はむしろ人間形成を目ざす自己啓発助長の働きかけだと見な

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す考え方が、とくに西洋の教育学の伝統であった。それが、「一般陶治」を「職業訓 練」の上位に置く教育思想である。

田中氏はおそらく、こういう教育学イデオロギーの偏見に接して、疑問や憤懣を感 じられたのであろう。教育学を熱心に研究され、教育学批判の立場を構築されるに 至った。「非教育の論理」である。氏は近年、これを主張する論稿や著書を相ついで 発表してこられた(2)。最近、氏は氏の主張に対する教育学者たちの意見を集めた一巻 の書を編集された(3)。筆者もそのうちのひとりであり、田中氏の主張を批判する文章 を書いた(4)。しかし、ごくわずかなスペースで書かざるをえなかったので、舌足らず に終わっている。田中氏が多年精力と時間を傾注して研究し、情熱を傾けて主張して おられることへのレスポンスとして、非礼な対応ではないかという自責の念が起こっ た。そこで本稿では、田中氏の主張をていねいに見直し、改めて熟考したいと考えた 次第である。

田中氏は、教育の分野ではやや特殊な領域と考えられ、不当にもマージナルな扱い を受けてきた職業訓練・職業教育からスタートし、教育学の本丸というべき聖地に迫 り、その根本的な批判を志向された。筆者もまた社会教育学という、教育学諸分野の 中では冷遇されてきた分野の出身ではあるが、教育学の大学院で教育学者の教育を受 け、自らもまた若くして「教育原理」の講義を担った。教育学の伝統の中で育ち、教 育学の常識を無批判に受け入れている可能性は大である。田中氏の批判に謙虚に耳を 傾け、真摯に考察すべきなのである。

前述の本のばあい、田中氏が自説を論稿にまとめてあらかじめ執筆者に提示し、そ れへの意見を求められた。筆者はそれにもとづいて所見を書いたのであるが、そのあ とで改稿が送られて来て、内容上一次稿とあまりちがわないと思われたので、拙稿は リライトせぬままに提出した。このことも少し気がかりになっている。田中氏の文章 を拙稿で引用したものが、書物の中の田中氏の文章には載っていないなどということ になれば、不体裁であるし、読者には申し訳ないことになる。本稿では氏が公開した 別の論稿にもとづいて、卑見を提示することにする(5)

この論稿で田中氏がもっとも力を入れて主張しているのは、「日本国憲法」や「教 育基本法」に規定されている「教育を受ける権利」というのはまちがっているという ことである。「世界人権宣言」(1948年)や「子どもの権利条約」(1989年)でも、 the right to education ということばがあるが、前者の日本語訳としては「教育を受ける 権利」が一般的であり、後者においては「教育への権利」と訳されていることを田中 氏は指摘する。国際的には、the right to education, Recht auf Bildung が通用してお り、日本国憲法の公式英訳文である the right to receive an equal education では 国際的に通用しない、と氏は言うのである。「教育についての権利」という邦訳もご くまれにあるが、これも正しくはなく、「教育への権利」とすべきだというのが氏の

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主張である。

田中氏の主張は、 to の訳について正誤を争うだけのものでなく、「受ける」とす ることによって、子ども(成人でも)は教育の客体とされ、権利の主体にはならなく なってしまうことを問題にするのである。「人の権利」なら能動的であり、「世界人権 宣言」の簡易テキスト版(1979年)が、「あなたは学校へ通う権利を持っています」と 説明しているのを是とする。しかし、「教育への権利」というのはあいまいなことば である。大正期の教育論によく出てくることばに、「教権」というのがある。これは、

教師の「教育権」を意味した。明治以来、行政権力が教育を支配し、教員を全面的に 統制した。これに対して教師は、専門職としての自律性を尊重することを要求し、教 育行政については教員の中から責任者を任命せよと主張したのであった。

また、教師の教育権をめぐって、なぜ教師は子どもを教育する権利があるのかも議 論になった。さらに、父母の教育権についても問題にされた。「教育への権利」と言っ ただけでは、教師や親がそれを持っているというのがこれまでの通念だったので、そ れが子どもの権利であることを明らかにするために、「教育を受ける権利」と表現さ れたのだ、と考える。受ける対象というのではなく、その権利が子どもに属すること を明記しているのである。教師や親ではなく、子ども自身が権利の主体である、とい う意味である。そういうことでは、教育権は学習権と重なるが、まったく同一ではな い。学習権が保障されるためには、十分な教育条件が必要であり、教育権の規程はそ れを保障しているのである。

田中氏は教育権をめぐってひじょうにナーバスなので、「教育への権利」を重視し ているのかといえば、そうでもないのである。大日本帝国憲法下では、国民に「教育 を受ける義務」が課されたのに対し、日本国憲法においては「教育を受ける権利」と なったことについて、これを教育観念の大転換と見る考え方―おそらく定説―に対し て、田中氏は「義務が権利に変わっただけ」と、まことに冷ややかである。理由は、

「教育を受ける権利」では、「教育を受けさせられる義務」と同義になり、国民の権 利の自己否定になるからだと言う。「教育を受ける権利」という表現は、権利である ことを自己否定するようなものだということに、はたしてなるのだろうか。

田中氏の反ぱつは、「受ける」よりも「教育」ということばに対するものである。

このことばの出典とされる『孟子』で、「得天下英才而教育之。三楽也」を引いて、

田中氏は「この『教育』は国を強大にするために王が家臣を教育をすることを意味し ていた。つまり、『教育』という言葉は権力者の言葉として創られ」た、と述べてい る。これは田中氏の誤読である。孟子は「父母倶存、兄弟無故」・「仰不愧於天、俯不

於人」の二つの次に「教育」をあげ、これを君子の第三の楽しみだとしているので ある。そして「王天下不與存焉」と二度に亘って強調している。王者も国家も孟子の 関心の外である(6)

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中国における「教育」の語義、その実態は問わなくてもよいだろう。日本において、

「教育」ということばの使用が徹底されたのは森有礼文相のときからで、それまでは

「学問」ということばが用いられていたのだという故事来歴も、話の本すじからそれ ることであろう。問うべきは、明治以来の日本の教育がどういうものであったかであ る。これについての田中氏の記述は、ほとんどない。「教育勅語」についても、もと もと表題が付いていなかったものを、文部省が「教育」勅語と命名したことをとがめ るだけである。明治憲法体制下の教育は、「臣民として天皇のために働く」ためのも のだった、と言う。

これではあまりにも粗雑な総括であり、戦前の教育の真相、光と影が明らかになら ない。歴史的認識を欠いているが故に、戦前の教育も戦後の教育も、「教育」という 同じタームを用いているということで、共に「受けるもの」と観念されてきた、と断 定する。田中氏は、鈴木安蔵の言説に賛同して、教育には政治的中立性がなく、為政 者の解釈によってことが決まり、一方的な内容を教えられることになるとして、教育 を非難する。その際、非難されているのは、教育の実態ではなく、教育ということば であるように見える。なにか唯名論を連想させるような verbalism である。教育とい うことばが良くないないのであれば、他の妥当なことばに代えればよいのである。田 中氏は、永六輔氏が「教育」よりも「学習」の方がましだと述べた文章を引用してい る。しかし、両者が異なる概念であることは、教育学者ならだれでも知っている。

教育ということば、そして実態に問題があるのは、永氏が直感したように、それが 具有する「上から下」という方向性である。それ故に、「社会教育」のことばと実態 は、成熟した市民社会にあっては無用・有害なものであるとして、松下圭一氏はその 終焉を主張した。政府の臨時教育審議会は、生涯教育というのは上からの目線なの で、学習者の目線に立って「生涯学習」にすべきだと提唱した。しかし、ほんらいの 教育、つまり人間の成長・発達を助長し、市民としての自己形成を支援するための教 育活動にあっては、教育対象たる子ども・成人を学習主体としてとらえ、その主体性 を実現し、発展させねばならないのである。簡単に言えば、学習者の自立・自主性に 資するのが、真の教育者である。

とはいうものの、これは教育についての理想であり、理念であって、現実の教育は そんなふうにはなかなかならない。田中氏は教育行政によって教育が統制され、学習 内容は為政者の意図によって決められている、と述べている。教育内容が画一的であ り、個性は無視され、差別やいじめが生じていることも指摘されている。しかし、そ うした教育的諸問題の発生が「教育を受ける権利」ということば(観念・論理)のた めだという田中氏の主張は、単純すぎるばかりでなく、見当ちがいである。

田中氏は、「教育」と Education とは同じだとする考え方・慣習が誤ちの元だと して、教育の「教」はがんらい宗教の意味があり、「教育は教化への作用がある」と

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言う(7)。片や、 Education の鍵観念は「能力を開発すること」であり、「教えるこ とではない」と述べている。筆者は浅学で、「教育」・ Education の字義や用法につ いて精査・考証したことはないのだが、管見の限りでは明治時代より前の時代の文献 で「教育」を見た記憶はない。しかし、「教」についてであれば、その数は多い。「人 を教ふ」というように動詞のばあいは、こんにちいうところの「教育」と同義であり、

「家に家の教あり、国に国の教あり、天下に天下の教あり」などと名詞に用いるとき は、「聖教」つまり儒教の学問・道徳をさしている。仏教者が「聖教」と言うときは、

もちろん仏法の意味である。以上、「教」というのは必ずしも宗教に関連している訳 ではない。もっとも、儒学は儒教ともいって、宗教扱いされてきたとも言える。

Education という英語については、その語源としてラテン語の educere が しばしばあげられてきた。語義が「引き出す」であることから、education というの は「子どもの中に内在する先天的な資質を顕現すること」を意味すると、しばしば説 明されてきた。しかし、education には rear(育てあげる)という意味もあって、この ばあいは「教育」に近くなる。Education の元になっているラテン語は educere では なくて educare だという説もある。こちらの方なら、まさに「教育する」とか「し つける」という意味である(8)

以上、少しむきになって田中氏の所論に反論してしまったように思われる。ことば の問題にあまりこだわるのではなく、日本の教育の実態について、過去と現在を吟味 し、なにが問題かを明らかにすべきなのである。田中氏はそれについてほとんど何も 述べていないのであるから、以下でそれに取り組むことにしよう。

3.近代日本における学校制度の成立

(1)近代的な学校制度の発足

日本で欧米のような近代的学校がつくられたのは、明治時代になってからである。

幕末の私塾や藩校には、下級武士や町人にまで教育機会を与えたり、漢学だけでなく 洋学や国学を教授したり、教育課程の系統性や学力の評価法などで近代学校の先駆と されるようなものも現れた。しかし、国民の子弟のすべてを入学させ、政府の決めた 教育内容と方法で教授する近代公教育制度が創設されたのは、1873(明治5)年8月 の「学制」頒布によってである。それは、全国を八つの大学区に分け、各大学区に32 の中学区を設け、各中学区に210の小学校をつくるという、まことに壮大な教育計画 であった。

「学制」が頒布される前に、その趣意書である「学事奨励に関する被仰出書」が、

太政官から布告された。これは明治新政府の教育宣言であり、その内容は注目すべき

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ものである。そこでは、国家のための学校ではなく、「人々」それも萬民が幸福な人 生をおくるためのものだということが、明言されている。明治時代の中期には、後述 するように日本の教育は天皇と国家のためのものということになるのだが、近代学校 発足の時点では、個人がより良い生活を送るために不可欠なものが学問だと述べてい るのである。「人々自ら其身を立て其産を治め其の業を昌」んにすることで「生を遂」

るためには、「身を脩め智を開き才芸を長ずる」ことが必要であり、その手段として の「学」を教えるのが学校だ、と説明する。

学問を身に付けないと、「貧乏破産喪家」の徒になってしまうから、「人能く其才の あるところに応じ勉励して」、学問しなければならない、と説くのである。親たる者 はすべからくこの道理を理解し、「愛育の情を厚くし、其子弟をして必ず学に従事せ しめざるべからず」とし、幼童の子弟を持つ父兄は男女の別なく小学に入れなかった ら、父兄の「越度」である、と述べている。政府(文部省)としては、こんご「必ず 邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」と、国民皆学の実現に向け ての決意を示すのである。

教育は国家のためのものではなく、各人の幸福のためのものだから、国民は自分

(の子弟)のための学校にかかわる費用は自分で負担せよという論理になっている。

もし、教育は国家のためだというふうに言えば、当然国家(政府)が教育費を支出し なければならなくなる。自分の利益のためなのだから、進んで自分が支払えというの は、理屈として筋は通っている。問題は、国民(親たち)がその理屈を納得し、学費 の負担に応じるかである。政府は、学校の教育内容として従来のような「詞章記誦の 末」にはしったり、「空理虚談の途」に陥るようなものを避け、日用常行の言語書算、

士官農商百工技芸、法律政治天文医療などにかかわる実用の学を選ぶことにした。生 活の向上に直接役立つような学問を教えれば、人びとは喜んで子弟を学校に出し、授 業料や学校の建築・運営の費用を甘んじて負担するだろうという目論見である。

こうした教育計画を策定したのは、学制発布の前年に設けられた文部省である。維 新直後の教育行政機構としては、知学事・正権判事・一等〜三等教授の官を昌平校に 置き、教育行政を統べるとともに、開成所、医学所と病院を管理した(9)。さらに翌1869 年昌平校を大学校に改めて大少監・博士・助教等の官を置いたが、ついで大学校を大 学とし、別当・大少監・正権大少丞・大少主簿・大中少博士・大中少助教・大中少得 業生・大中少寮長の諸官を設けた。このときまで、行政官と教官とが兼務あるいは混 在していたが、1871年には大学を廃して文部省を設け、卿・大少輔・大少丞・大少監 ほかの事務官を置いて教育事務および大・中・小学校を管掌させた。

1872(明治5)年に学制を発布すると、省内に大・中・少の督学官を置き、翌1873 年には督学局を設け、大・中・小の視学官を置いた。ここに文部省は全国教育の事務 を管理する体制を整え、督学官は学事を督察し、視学は学区内の学事を視察すること

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と定めた。しかし1877(明治10)年には督学局が廃止され、1879年に官立学務局・地 方学務局などの職制となり、1886(明治19)年の各省官制発布により、学務・編輯・

会計の三局となり、視学官5名が置かれた。翌1887年総務局・専門学務局・普通学務 局などの5局構成となり、ここに文部省の基本的形態が定まったことになる。初代文 部卿は大木喬任(1871年7月〜73年9月)で、学制をつくったのはこの人である。学制 公布時、七大学区の各本部に督学局を設ける方針で、1872年にはまず第一大学区に督 学局を設け、翌73年には第一大学区内を督学が巡視し、文部大少丞以下の諸官が各大 学区を巡視し、学事巡視の制度が始まった。

その後、文部省内にも督学局を設け、各大学区の学事を分担し、督学にも当たるこ とにした。やがて、大学区の学事は文部省が直接監督するようになり、督学は官立学 校の教員、地方官・学務吏員等の勤怠を調査したり、地方官・諸学校に対し、「推問・

照会・督促」したりするようになり、また、視学は地方学事の巡視をしたり、学事の 奨励をしたりした。文部省の地方統制はこうして確立し、以後、督学局を一時廃止し た時期もあったが、視学官制度は重要な役割を果たした。

学制を地方が実施するよう、監視したり督促するための文部官僚がいて、実際に地 方を巡視し、指導に当たった。各地に小学校がつくられ、地方の就学率が着実に高 まっていったのは、督学官や視学官の功績だとは必ずしも言えない。督学局や督学官 が行政整理で廃止された時期もある。しかし、文部省の意向を地方に伝え、地方の実 情を調べて教育政策を現実的なものにするよう具申した彼らの存在は、かなり重要な ものであった。戦前日本の教育行政は、徹底した中央集権制度であり、それによって 国家のための教育が強力に推進されたのである。

しかし、地方にあって新学制の実施のために努力したのは、県令・権令などの地方 長官と部下の官僚たちであり、彼らによってきびしく督促された地域指導者層であっ た。地域指導者層というのは、行政の末端であると同時に住民代表でもあった戸長・

副戸長、地域の名望家であるとともに有識者だった学事掛などである。政府は新学制 実施のために金を出そうとはしなかったので、地域住民が負担するよう説得すること とを地域指導者層は要求された。後述するように、長野県や山梨県では富裕層がかな りの大金を寄付し、ときには壮麗な洋風小学校を建築することもあった。そこには行 政当局者によるしつような要請があったわけで、住民の新教育体制についての期待が 高かったからだと言うことはできない。しかし、まったく一方的な強制だったという ことでもない。

(2)学制の布達と信州の小学校

この節では明治初年に学制が発布された前後、信州の教育はどういう状況だったか について記述する。要は政府の教育政策について、地方はどういう反応を示したかを

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明らかにしたいのである。学制は外国すなわち西欧近代の学校制度を模倣したもので あり、国民にしてみれば上から押しつけられたものである。しかもそのための費用は 政府が負担せず、地域住民が支出するよう要求された。こういう無理難題に地方の人 びとはどう対応したのであろうか。文明開化のためとか、皆さん自身のためだとか言 われて納得したのであろうか。

明治維新のすぐあと、政府がまだ教育政策を立てないうちに、地方住民のあいだで 教育にかかわるうごきが見られた。江戸時代、信州には幕府直轄の天領のほかに11の 小藩が分立していたが、18世紀半ば以降各藩はそれぞれ藩校を開設した(10)。藩の大 小によって、藩校の規模もちがい、各称も稽古所・学問所・読書場などの普通名詞か ら「○○館」を名のるところまで、さまざまであった。明治維新に際して、各藩は藩 政改革の一環として、藩校の改革を実施した。教育目標では、和魂漢才・尊王敬神・

朝廷奉事・皇基振起・皇道遵奉など、王政復古という権力移行に対応しようとしてい る。教育内容としては、漢学・文武両道といった伝統的なもののほかに、国学・洋学 を導入したところもある。高島藩(諏訪)の長善館が卒や平民の希望者に門戸を開い たのは注目される。

庶民のための寺子屋・私塾はふるく16世紀から始まり、幕末にはその数三千近くに なっていた。維新後の1869(明治2)年に、更級郡今里村に日新館という郷学校が設 立されたが、これは住民有志の出資によってつくられた共立学校であり、だれにでも 開かれた学校であった。その後各地に郷学校がつくられ、県当局が郷学校を設置した り、設置を奨励したりした。このかん、政府は1869年2月に「府県政順序」を公布し、

その中で「小学校ヲ設ル事」を掲げた。信州の郷学校設立はこの布告と関係があるだ ろうが、「仮小学所」(伊那県)を名のった一校以外は、日新館のように館を名称にし たり、学問所・脩践社・仮学校などを採っている。1871年以後、長野県は郷学校の設 立をしきりに勧奨している。郷学校の設立は、住民の発意の場合もあったろうが、お かみの意向に沿ってつくられたというケースが多かったのであろう。

信州諸県のうち、旧天領を管理する政府直轄の伊那県が、1868年2月に設けられ、

同年8月飯島町に県庁が置かれた。この県が注目されるのは、ここに中央から送り込 まれた知事のうち、三代目が永山盛輝だったからである。彼はのちに筑摩県権令とし て、学制下の学校づくりに奮闘し、「教育権令」とよばれた人物である。着任時(1870 年)の肩書は小参事であったが、すぐ大参事となって実権をにぎった。上記仮小学所 が開設されたのは永山着任の直後であり、その後「県学」となった。1871年末に全国 府県の統廃合が行われ、信州は長野・筑摩の二県となって、伊那県は廃止された。筑 摩県長官となった永山は1872(明治5)年1月、管下の支庁あてに学校設置計画の立 案と上申を命じた。これは学制発布より半年以上前のことであり、それを先き取りす るものであった。

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旧藩校は1871年7月の廃藩置県によって県学となったが、旧県廃合後の「新県取計 心得」(大蔵省)では、すべての学校を私費(有志金)でまかなう方針だったので、県 学は廃止されることになった。筑摩県は県学の存続のために教員の人件費だけ県負担 とすることを政府に申し出て、学制実施までの暫定措置として認められた。他方、上 述のように永山は郷学校の設立を勧奨し、1872年2月には「学校創立告諭書」を布達 した。それには、「国家ノ富強ヲ謀ルハ人民ノ智力ヲ磨励スルニ有之」とか、「今般管 内各処ニ学校ヲ創立シ臣民一致勉強ノ力ヲ尽シ他ニ率先シテ報国ノ実ヲ顕サシメン」

などの文字が見える。文章には、従来学校がなかった僻地では、才徳を雄飛させる資 質を持った者も「池中ノ物」となってしまったことが学校の開設によって解決すると 述べている部分もあるが、国家のための教育という性格規定は明白である。

告諭書と共に出された学校入費に関する指示では、学校の設立や運営に要する経費 を、なぜ官費ではなく私費にするかについての説明はない。それが官の方針なのだか ら、「有志ノ者ハ多少ヲ論セス其身分ニ応シ加入金可致事」と、高飛車に命じている。

ただし、学校費用の一部を県費で補助し、官費も分に応じて出金する、ともしてい る。これは政府の方針に背くことであり、永山の大英断ということになる。また、金 を出した者の氏名は記録して長くその芳志を顕賞するという策もとった。しかし、他 の県達では、教育費を寄付するよう「有志者」に「説諭ニ及ビ」などの文章もあり、

しつこく説得をしたのである。

筑摩県では、1872年5月に県学を松本に開校したが、開校についての県達では、「方 今開化文明之時勢人材教育之御趣意厚奉戴シ衆庶勉励成業可致もの也」と述べてい る。県の学校掛で旧高遠藩士の中村元起が、県学についての告諭を書いており、聖旨 を奮激感戴し、「他日邦家ノ用ニ供シ……尽忠報国実ニ日東ノ人タルニ愧」ない人間 になれ、と指示している。その後、学制にもとづく学校の設立が、1873年5月から始 まった。既に百校にも達していた郷学校を新制の小学校に移行させ、教員の研修・養 成のための師範講習所を設けた。永山権令は講習所の教官と生徒をひきつれて全県下 を巡回し、模範授業を見せて住民の学事への関心を高めた。筑摩県は1876(明治9)

年8月に廃止され、長野県に合併されたが、筑摩県における学校数、就学率、学校内 容の整備などの教育状況は、旧長野県よりもはるかに上で、日本一という批評さえ あった。筑摩県の教育水準を象徴するのが、1876年4月に竣工した開智学校の擬洋風 校舎である(11)。これは県学を前身とする筑摩県第一番小学校の新校舎で、松本の深 志に建てられた。総工費1万1千百余円、東京の開成学校や医学校をモデルにしたと いう、総面積2,653平方メートル、収容児童約1,300人という堂々たる建築物であっ た。

永山はこの校舎の建築について、管内町村の戸長を説得したという。学区内全戸の 戸別献金と篤志家の寄付でできあがった。地もと新聞の記者は、この学校は山梨県の

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師範学校より華麗で、「目今日本一等の小学校だ」と自慢した。現在重要文化財とし て往時の信州教育の栄光を偲ばせるモニュメントになっているが、当時の国家権力の 忠実なエイジエントだった県当局の、苛斂誅求ともいうべき強請の産物であった。

(3)学制の布達と山梨県の小学校

山梨県における近代学校の創始と発展の過程は、隣県である筑摩県とよく似てい る。ただ、明治維新のあと1872年の学制発布までの期間に、山梨県で近代学校設立へ の胎動がどうだったかについて筆者は知らないので、信州にみられるような「先走っ た」試みの有無について書くことができない。学制発布の当時、甲州の農民は地租改 正に反対し、県庁を襲撃するという行動に出ていた(12)。これは筑摩県のばあいと同 じである。甲州では、武田信玄以来といわれる「大切小切」といわれる税制がつづい ており、農民たちはこれを守りたいと思ったのである。

全国各地の民衆の反政府行動は、地租制度の他に徴兵制や学制、太陽暦の採用など への反対を理由にするものであった。これらの要求が反文明開化というか反近代化で あり、また反対行動のスタイルが百姓一揆的であることから、守旧的で頑迷な農民に よる暴動のようにみられることもあるのだが、農民の生活と結びついた長いあいだの 慣習を一挙に改変しようとした権力のやり方に無理があったと言うべきであろう。官 治というのは、つねに画一的強制になりやすく、民の側のつごうを無視しがちであ る。しかし、官の側が反省することはなく、軍隊まで出動させて反抗する民衆を鎮圧 した。

県令が責任をとって辞めたあと、1873年1月に権令となった藤村紫朗は、殖産興 業・道路建設・学制実施という三つの施策を打ち出した。つまり、維新政府の方針を 忠実に実行しようとした訳である。第一・第二の施策は経済政策であり、実利を示す ことで農・商県民の歓心を買おうとした、ともみられる。問題は経済的利益がただち には期待できず、逆に支出を県民に強いる教育政策である。藤村は「学区取締」に区 長・副区長を任命した。これは、長野県の学区取締が上級士族や名望家だったのと大 きく異なる。行政権力をそのまま使って中央突破的に強行したのである。

学区取締に小学校建設地と児童数を申告させ、それにもとづいて小学校区案をつく り、「日常冗費は省き以て学資を補足せしむる布達」を出した。「無益の散財」として 非難の対象となったのは、道祖神祭などの祭礼や冠婚葬祭などであったが、これらは 甲州独得の慣行であり、習俗であった。それは娯楽・慰安であり、民衆のきびしい生 活に色どりを添える文化でもあった。それへの出費を無意味な浪費と見るのは、絶対 主義官僚の眼である。だいいち、そういうことに大金が出せる水呑み百姓はいない。

県当局は、富裕層に献金を出させて学校建築費に宛てた。

山梨県の近代学校第一号は、巨摩郡天神中条村(現増穂町)の天神中条学校だ、と

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いう(13)。こんにち、増穂町の人びとはそのことを名誉に思っているであろう。先人 たちは、どこの町村の人びとよりも教育熱心であり、先見の明があったのだから。中 条学校の創立(1873年6月)から3年後、同じ中条村の春米に、近代的な洋風校舎が 建築された。これは、長野県松本市の開智小学校とパラレルな建物であり、デザイン の斬新なことでは、開智小を凌駕しているように見える。三階に小さな鐘楼―ただ し、鐘はなくて太鼓が時を告げた―が設けられている。この校舎こそは明治の文明開 化時代の記念塔であり、増穂村民の誇りであるにちがいない。

しかも、建築費はすべて村民の寄付によってまかなわれた、という。ひとりで3553 円余りを献金した人がいて、よほどの金持ちがこの村にいたことで、この校舎はでき たということになろう。大口の寄付者は、他に108名いたが、一般の村民も献金に応 じている。この学校について紹介した本の著者は「大切小切騒動後の荒廃を考えれば 民力不相応の出金であり、藤村県政の強硬策をこえて文明開化に対する村人の期待が あったとも推測できる」と書いている。学制による近代学校の成立過程については、

この著者のような理解でよいのであろう。いちおう「寄付」なのだから。封建時代の 年貢のような経済外的強制ではない。しかし、維新後まだ10年足らず、しかも住民の 反抗を政府が暴力で圧殺した直後のことである。官の要請は命令として受けとめられ たのではないか。

「山梨県の教育は、独裁を思わせるような藤村県令の強力な県政によって推進され た。しかしこれをささえたのは、学校の新築や維持のために献金を惜しまなかった地 域住民であった」というのが、著者の総括である。住民ははたして献金を惜しまな かったか、どうか。より詳細な調査が必要なように思われるが、日本の近代学校はア メリカのそれのように、コミュニティの住民の要求と発意によって下からつくられて いったものではなく、政府官僚の権力的な指導(命令)のもとで生まれたということ は明らかである。それはほんらいの近代学校とは言いがたいものである。

4.天皇制教育体制の確立

明治時代から1945年の敗戦までの、つまり近代日本の教育の特色、さらに本質をひ とくちで言えば、「天皇制教育」ということになる。天皇制というのは、大日本帝国 憲法が規定するような、天皇が統治権者であり、国家の最高の権力者であるという政 治体制のことである。行政権は天皇にあるので、議会も天皇の意志に背くことはでき ない。明治時代には、政府の政策が議会のつよい反対にあっていきづまったときな ど、天皇の「思し召し」ということで難局を切り抜けるというやり方がとられた。ま た、天皇は軍隊の総帥だったので、その統帥権は議会どころか行政権の介入も排除す るものであった。

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「天皇は神聖にして犯すべからず」とし、「現人神」つまり生きている神として、

宗教的信仰の対象に祀りあげたのだから、天皇制というのは「絶対主義」的政治体制 のような形相を示した。しかし、西洋史における絶対主義(絶対王制)とは歴史的位 相を異にしているように思われる。絶対主義というのは、封建体制の最終段階にあら われて、旧い支配勢力である貴族階級(領主層)と新興のブルジョアジー(商工業者・

資本家階級)との二つの階級の上に立脚し、両者のバランスをとる調停者として機能 する支配権力のことである。この権力は、新興勢力の要求にある程度応えなければな らず、国内の統一市場の形成に努めるなど、前向きの政策を実施しはするが、ブル ジョアジーの勢力が増大することは自らの足場が崩れることなので抑制のスタンスを とることになる。

天皇制政府は、維新にあたって旧い封建制度を廃して、近代的な国民国家をつくろ うとした。「文明開化」・「殖産興業」・「富国強兵」などのスローガンは、西欧化・近 代化・資本主義化を目ざすものである。明治前期には、農業政策でさえ大規模化・資 本主義的経営が志向されている。明治政府は、封建制末期の政治権力というより、基 本的には近代国家、つまり資本主義体制としての国民国家を目ざすものであった。し かし、日本の資本主義は政府の指導と保護のもとにようやく成立し、西洋のようにブ ルジョアジーが絶対主義を打倒して自らの権力を確立する市民革命(民主革命)が、

日本では起きなかった。天皇制の直接的支柱である官僚制が権力と権威を持ち、ブル ジョアジーをその統制下に置いた。主産業は依然として農業であり、そこでは前近代 的な地主・小作制が温存され、資本主義化は行なわれなかった。

天皇制とは、単に政治的な権力にとどまらなかった。それは、神道を基盤とし、儒 教を倫理内容とする「天皇教」というイデオロギーをつくり出した。このイデオロ ギーをまとめたのが「教育勅語」である。明治維新以降、日本政府の教育政策は基本 的に近代化・西洋化であった。学制の被仰出書は、明らかにその方向を示し、空理虚 談より実学を尊重し、訓育よりも知育を重視している。近代国家をつくり出す上で、

科学知識が不可欠なものと考えられていた。こういう啓蒙主義的傾向に対して危惧 し、不満を持った人びとは、かつて儒教を学んでそれを生活規範としてきた士族層に 多かった。廃藩置県・四姓百等・廃刀・徴兵制などの一連の近代化施策によって、従 来の特権的地位を奪われた不満分子は、明治初年に各地で反革命の軍事行動に出た。

西南の役のような大規模な反政府暴動を、軍事力で鎮圧した政府であったが、この政 府(国家権力)の正統性についての思想的根拠ははなはだ薄弱であった。

明治国家の理念としては、西洋近代の思想と制度に学んでそれを移植しようとする 開明派―「明六社」同人のような―と、儒教や国学に依拠しようとする守旧派とのあ いだに対立があった。しかし、守旧派の元田永孚は、明治天皇の侍講という位置での 発言によって、道徳教育の必要性と道徳の内容を忠孝とすることとをさかんに主張し

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た。1879(明治12)年、明治天皇は「教学大旨」を文部卿に下した。西南戦争が終わっ て二年後のことであり、政府は自由民権運動への対処に苦慮していた。この年9月、

学制が廃止されて「教育令」を発布したが、学区制をやめて町村連合立を認めたり、

8年間を就学年限としつつも4年間に減らしてもよいとするなど、地域の「状況」や

「便宜」によって柔軟に対処するものだったので、「自由教育令」とよばれるような 内容であった。画一的な強制によって、市町村の教育費負担が過重なことに対する不 満が高まっていたことへの対処であった。

教育制度については文部省が立案し、教育の理念については天皇が指示するとい う、二元的な教育行政が行なわれた訳であるが、これが天皇制というものなのであ る。教学大旨は学制について評価をくだし、それが知識才芸の末にはしって、教育の 根本である徳育をないがしろにした、と批判した。教えるべき道徳の内容は仁義忠孝 であり、それを児童の「脳髄に感覚せしめて培養する」ために、忠臣・義士・孝子・

節婦の画像・写真を掲げて説話するという、具体的な教育方法まで提示している。

天皇はその前年の秋以降、各地に巡幸して学校も参観し、その実態について知ると ころがあり、教育内容が実生活から遠く実際的でないことを問題視していたという が、一国の帝王が教育内容から教育方法にまで及ぶ指示を政府に出すというのは、近 代国家としておかしなことである。伊藤博文は、倫理や国教にかかわることは賢者・

哲人つまり民間有識者に任せるべきで、政府や君主が介入すべきものではない、と論 じた。元田の反論は、君主こそが国民の師として国民道徳のあり方を教示すべきだ、

というにある。教育内容の重点について、伊藤は天下国家を論じるような政治的意識 過剰な輩は漢学徒に多いことを指摘し、高等教育は科学中心にすべきだとした。元田 の方は、もちろん知育よりも徳育の重視を主張した。

その後文部省は徳育重視の方向をとり、修身を全教科の首座に置くようになった。

教科書の中から、開明的洋学者の著作や翻訳道徳書が排除された。1981(明治14)年 に文部卿が頒布した「小学教則綱領」で、日本歴史は「建国ノ体制、神武天皇ノ即位、

仁徳天皇ノ節倹」など「緊要ノ事実」をとりあげ、「尊皇愛国ノ士気ヲ養成セシム」

べきことを指示している。この草案を見た明治天皇が、戦乱のことが多く記述されて いることについて、これでは後世の子孫に乱を思わせる恐れはないか、昔の王政には 治績の見るべきものもあったのではないか、もっと穏やかな叙述にできないかという 趣旨のことを侍従長に述べた。文部省はあわてて「神武ノ東征」を「神武ノ即位」に 修正するなどして、天皇の意を迎えた。

1886(明治19)年、森有礼文相によって各段階の学校制度が整備されたが、「帝国大 学令」では、「国家ノ須要ニ応ズル学術技芸」を教授・攻究するように規定された。

森文相は全国に出張して、国民教育の機関としての小学校の重要性を説き、その重責 を担う小学校教員を激励した。往年の啓蒙家は、愛国心の熱烈な鼓吹者に変わってい

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た。

1889(明治22)年に大日本帝国憲法が発布されて、天皇制の発足を見たが、その翌 年に「教育勅語」が発布された。これは日本の教育が目ざすべき方向についての天皇 の要求であるが、最高権力者の意志であるから、臣民は無条件に服従しなければなら なかった。ひとつの教育観としてみたばあい、批判の余地がまったくないというよう なものではなく、もしこれが行政の高官―たとえば森文相のような―の文章であった ら、賛否両論が湧き起こったことであろう。しかし、「勅語」とは有無を言わせぬ絶 対的権威である。東京帝大の哲学教授は、この勅語の解説書を書き、礼賛のことばを 列ねた。

教育勅語の作成は、きわめて困難な仕事であった。さまざまな立場からの批判を受 けるようなものであってはならず、特定の思想や宗教に偏ってもまずい。当時法制局 長官だった井上毅が書いた原案を、元田永孚がチェックしてできあがった。

教育勅語はそのイントロダクションの部分で、わが国の教育の「淵源」(根源、よっ てきたるところ)は「国体ノ精華」である、としている。「国体」というのは大変分か りにくことばであるが、ふつうは「国家の状態・体裁」、「くにがら・くにぶり」を意 味する。主権(または統治権)の所在によって分類された国家政治体制を意味するば あいは、「立憲君主制」であった。しかし、そうではない国体の方は、歴史や文化が かかわってくるし、愛国的感情もはいってくる。国家の「品格」が問題になったりす る。教育勅語は、「皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣 民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セル」ことが、「国体ノ精華」

だ、と述べている。

こうした記述は、歴史的事実に反する。歴代の天皇には仁慈の深い人物もたしかに いたであろう。しかし、中国の桀・紂のように暴逆無道ではなかったとしても、道徳 的に問題のある君主が、『日本書紀』などに描かれている。そもそも、道徳規範・徳 目というのは時代によって変化するので、遠い昔の天皇が道徳的だったとしても、近 代日本に生きる人間のお手本になれる訳ではない。忠孝というのは言うまでもなく儒 教道徳の根幹であるが、それはいわば外来の思想である。日本人によって、とくに封 建制とマッチした道徳規範として受け入れられ、少なからぬ忠臣・孝子が出たとして も、国体の精華などということにはならないであろう。それに、忠孝というのは、封 建制と結びついた規範であり、近代社会にふさわしいものではない。

教育勅語の本体部分では、父母へ孝行、兄弟は助け合い、夫婦仲良くなど、さまざ まな徳目が掲出されている。なにしろ、教育勅語は徳育の指針を明示してほしいとい う地方官たちの要望に応えるかたちでつくられたものである。この勅語によって、国 民道徳の内容が確定したことになる。学校教育は以後、こうした人間像を理想とし、

造出しなければならなくなった。道徳教育を担ったのは「修身」という科目であっ

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た。筆者は昭和十年代に戦前の教育を受けたが、修身科では教育勅語を暗記する事が 第一に求められ、教育勅語の徳目に沿って選ばれた模範的人物―典型的なのは二宮尊 徳―が載せられている教科書があてがわれた。

さて、教育勅語に掲げられている諸徳目は、忠孝という根幹を除けば、それほど反 動的でも非常識でもない。「博愛」・「公益」などという市民的道徳といってよいよう なものもある。だからこそ教育勅語は、「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ 悖ラス」と、その普遍性について自信を表白していたのである。太平洋戦争のあと、

日本のかなり見識の高い人の中にさえ、教育勅語は護持されるべきだという考えが あった。こんにち、教育勅語の復活を主張するような人びとや団体があるが、その人 びとは教育勅語の普遍性を強調するとともに、伝統的価値や精神的遺産の復活を主張 している(14)。独自性(特殊性)をありがたがっているのである。勅語は結びの部分で、

「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と命じている。す べての徳目は、戦争の際に天皇のために戦死することに収斂されるのである。

こうして、1890年には大日本帝国憲法と教育勅語によって、天皇制教育体制が生み 出された。この体制はその後マイナーな補正や拡充は行なわれたものの、「大東亜戦 争」の終ったあと(1946年)まで存続した。そのかん、日清・日露の両戦役の勝利に よって、国家主義・軍国主義の傾向が濃厚になり、排外的愛国心の教育がさかんに行 なわれた。「朝鮮人」や「支那人」を侮蔑し、併合や侵略をすることが、彼らを救済 することであるかのような、厚顔な帝国主義が、社会・学校をつうじて正当化されて いった。昭和初年における世界恐慌によって、日本資本主義は深刻な危機に陥り、国 民の生活は破綻した。その脱出口として、日本の軍部・政府はまず中国東北部(満洲)

を日本の支配下に置き、さらに中国全土への軍事的攻撃を行なった。ファシズム・国

主義が教育界に流れ込み、精神主義的な鍛錬や軍事教練が子ども・生徒に課され た。

筆者が戦時下の中学校に学んだのは、1944年の4月から、45年の夏までである。も う大東亜戦争末期で、陸軍の多摩航空研究所が校舎に疎開してきた。生徒たちは当番 兵というか使役のような形で、室の掃除などに行かされたが、技術将校たちは研究資 材もなかったのか、所在なげに雑談していることが多かった。「勤労奉仕」というこ とで、農家の手伝いに泊り込んだこともある。上級生たちは故郷を離れて都会の軍需 工場に動員されていた。一年上の生徒の中には、予科練という海軍の飛行機乗りの訓 練所を志願する者もいた。われわれも早晩そこに入るか、または中学二年から入れる 海軍兵学校予科に進むか、どっちかであった。それへの準備として、海軍の下士官が 訓練に当たる海洋道場に入れられた。木銃を担っての軍事教練や、「作業科」におけ る開墾作業など、戦時教育の体験は愚劣で不愉快なものばかりである。

しかし、戦前の教育がすべて暗黒だった訳でもない。筆者は満州事変の年に生ま

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れ、支那事変の年に小学校に入った。つまり、「15年戦争」と共に成長したことにな るが、小学校の低学年のころは村の子どもたちと無邪気な遊びに時を忘れていた。教 師も戦争のことなど話題にはしなかった。教科書から離れることなく、学力向上に努 める授業であった。それは筆者の教わった教師がたまたまそうだったということで、

隣のクラスは担任の若い男性の教員がむやみにはりきって、生徒をきびしく鍛えてい るという話であった。中学校も、明治以来のリベラルな校風で、戦時下でも生徒自治 の伝統がかなりまもられていた。教師たちはそれぞれ自分の専攻する学問を大切にし ており、その学識の深さを尊敬できる教師が何人もいた。敵性語として軽んじられて いた英語の担当教師が、「英語が分からず、米英の国民がどんな連中かも分からない で、戦争に勝てるのか」という言い方で、英語をしっかり学ぶように動機づけをし た。

そういう訳で、筆者のばあいは国家主義・軍国主義・国粹主義を学校で教員から鼓 吹されたという記憶はあまりない。わずかに公民科担当の教員が、戦局の悪化と祖国 の危機について語り、軍関係の学校への入学を勧奨したくらいである。多くの教員 は、時局のことなどにふれず、教科書の進行が課外の諸行事によって妨げられるのを 心配している様子であった。筆者は、教員たちが戦局・時局にあまりにも無関心で、

遠からず戦地に赴き、戦死することを運命づけられているわれわれにとって、この教 科、この知識はどういう意味を持っているのかを教えてもらえないことにつよい不満 をおぼえていた。

筆者が天皇制教育をつよく批判するのは、それを受けた当事者としての体験と、教 育史の研究で知りえた歴史的知識とからである。天皇制教育は、その体制がいったん できあがると、その後進歩・改善をなかなか許さない保守的牙城となってしまった。

天皇によって教育価値が決められ、その天皇に奉仕するための教育とされたのだか ら、一切の批判は受け付けられなくなる。農本主義の立場からの教育批判があって も、それは教育価値の問い直しといった根本的な批判ではなく、天皇崇拝や皇国主義 をさらに徹底させ、知育よりも肉体的・精神的鍛錬を重視するような主張であった。

5.近代公教育体制の矛盾

近代公教育体制というのは、近代国民国家がつくりだした公教育制度のことであ る。それは、すべての国民の子弟が初等教育機関に就学するという、「国民皆学」の 制度を根幹とする。いわゆる「義務教育」の制度である。それは英語で compulsory education というので、直訳では「強制教育」ということになる。では、だれがだ れに強制するのか。戦前の日本の場合には、国家が国民に強制するのだということに なっていた。教育は、兵役・徴税と並んで国民の三大義務のひとつとされた。義務の

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内容は、親が子どもを学校に出すということである。

戦後の日本国憲法・教育基本法のもとでは、教育は国民の義務ではなく権利とされ たので、教育の権利を国民に保障する義務を国家が負うことになった。そして、子ど もには学習権がある訳なので、子どもの学習権が保障されるよう、子どもが教育を受 けられるように配慮する義務が親にはある、ということになる。こうして、教育にお ける権利や義務についての考え方が、戦前と戦後では百八十度転換したようにみえ る。戦前日本の公教育の制度やそれについての考え方が、あまりにも近代的でなかっ たということであるが、実は近代公教育というものには、国家の利益のためのものと いう性格と、国民の利益のためのものという性格とが併存しているのである。戦前日 本では前者の性格が露骨に前面に押し出されているのだが、戦後の教育でも、法文の 規定はともあれ、実質的には二つの性格が存在しているのである。

教育(といえば、近代公教育制度における教育をさすのだが)について、アメリカのあ る百科辞典はつぎのように説明している(15)。「教育の機能には、社会的なものと個人 的なものの二つ」がある。社会的な機能としては、「過去及び現在の集合的な諸経験 を伝達することによって、各個人が社会においてより有能・有用な成員になることを 援助する」働きがある。個人的な機能の方は、「各個人が新しい諸経験をうまく処理 することで、より満足のいく、実り多い人生を送れるようにすること」である。これ については、教育についての二つの視角として、「社会的教育学」と「個人的教育学」

の二流派があるといわれたものである。わが国の代表的百科辞典では、きわめて淡白 に、「教育とは未成熟な人間が独立の生活者にまで成長していけるように、これに成 熟者が働きかけて、これによって社会の成熟発展をはかる活動」だ、と説明してい る(16)。ここでは、社会の成熟・発展が目的で、個人の成熟・成長はそのための手段 ではないにしても、前提としてとらえられている。

日本の百科辞典の説明は教育学者が担当しているが、「社会科学辞典」で「教育」

を担当した社会科学者は、教育は「人づくり」の問題にかかわるもので、社会形成の もっとも重要な側面である、と述べている(17)。彼は、「教育とは人間が本来その中に もっているものをひき出し、育成する手助けをするもの」だという、ルソーやデュー イの個人主義的・人格主義的な教育論があることを承知しつつ、現代のように高度に 発達した社会では、「教育の社会的側面、つまり人間をある社会的価値実現のために 教育・陶冶する必要が大きくなってきている。教育はただ人間性の開発だけではな く、同時に社会的人間の開発でなければならないと考えられてきている」と認識して いる。教育学者よりも社会的視野が広く、かつ歴史的意識も鋭いと言うべきであろ う(18)

さて、ここで問題にすべきは、個人的人間形成と社会的形成とのあいだはうまく いっていて、矛盾などないのかということである。教育勅語の場合は、日本の長い歴

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史をつうじて、君臣ともに一致協力して忠孝を中心とする道徳の修養に努力したこと と、徳目の普遍妥当性とによって、共同一致して教育に励みうるもの、としていた。

前述したように、それが歴史的事実だとも言えないし、忠孝といった道徳は前近代的 な性格のものだから、近代社会において普遍性はないと言わなければならない。個人 的人間形成と社会的形成とが一致するためには、形成の目的となる理想的社会像(国 家像)と人間像において、国民のあいだにひろく合意が存在しなければならない。明 治時代には、あるべき日本のすがたについて、欧米諸国に負けないような富強の国、

天皇に象徴されるようなふるい伝統的文化を保持した国といった国家像や、それに見 合う臣民といった人間像を掲げ、国民の考え方をその方向で統合していくことに政府 はほぼ成功していた。いや、異なる方向での模索や選択を、力をもってしても弾圧し てしまった。

しかし、いくら抑えつけても、疑問や批判は絶えず湧きあがった。なにしろ、義務 教育をまじめに修了しても、必ずしも自立した生活者になれるとは限らなかった。戦 前には、国民の大多数が農民になったのだが、耕地が狭いので生産量はあがらず、集 約農業であるから作業の密度の面でひどく過酷な労働を強いられた。しかも、高額な 小作料のために生活困難な貧農が存在した。自作農民の場合も、農産物価格が安いの に肥料代や生活費は高いという問題を抱え、その価格も市場で変動した。小作争議が しばしば起き、義務教育で優秀な成績を収めた者が、農民運動のリーダーになり、社 会主義を支持するようにもなった。労働者の場合も同様であり、低賃金・重労働の上 に雇用関係が不安定で、失業や病気になると、生活の途を断たれた。それに、戦争で

「兵隊に取られ」、戦地で「名誉の戦死」を遂げても、遺族の生活が保障されはしな かった。

こうなれば、忠孝の国民道徳の普遍性や、君臣一体のイデオロギーは、現実によっ てその虚偽性が暴露されてしまう。それでは、学校に進んで子弟を出すような親はい なくなる。学制被仰出書が宣伝していたような、「身を立てる財本」としての教育の 価値を国民に納得させたのは、「学歴主義」である。大学出のような高学歴者を、官 庁・企業の人事面で優遇し、これに次ぐ専門学校卒業者に準幹部の地位を与えた。中 等学校卒業者は「中堅幹部」であり、ここまでが「社員」であり、初等教育修了のみ の工員に対して、中間管理職・現場監督の役割を与えた。軍隊に入っても、中学卒業 以上が幹部候補生として士官になることができた。筆者の実家は長野県諏訪の山村に あるが、隣家の長男が明治末年に東京帝大を卒業し、中央気象台に就職した。村人た ちは、彼の研究の内容については無関心のまま、「まだ若いのに月給が百円だそう だ」と、羨望の噂話で持切になった。

実は、彼が就職に成功するまで、理学部の大学院に在籍して、ほとんど無給の状態 で研究に従事していた。そのころ彼の父親はわが家に来て、「理学部なんかだめだ。

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大学に行くなら、やはり法学部にしなければいかん」と、しょっちゅうぐちっていた という。その余波であろうが、はるかのちの時代に筆者が大学に進学したとき、それ まで進路について何も言ったことのない父が、「法学部に行かなくて大丈夫かい」と 心配そうに話しかけてきた。倅の方は、生計の途としての大学などとはまったく考え もせず、西洋史の研究が積年の願望であった。収入や職業、地位のことなど眼中にな かったのだから、非現実的な危なかしい存在だったことは確かである。当然の報いと して、大学院でもさらにポスト大学院でも、生活していく上で多くの困難にぶつかっ た。

筆者より九歳年長で中学の先輩だった人がいる。一

の理科から東京帝大の工学部 に進み、技師になったが、温厚な人柄で尊敬すべき人物であった。あるとき雑談の折 に、「先輩はどうして一

を志望したのですか」と聞くと、「なんといっても就職や昇 進で有利だからね」と、淡々とした答が返ってきた。気どらずにそんなことを言う人 柄が信頼できるので、親近感を抱いていたのである。しかし、「やっぱりそうだった のか」と、落胆する思いもあった。一高―東京帝大というのは、かつてエリート・コー スとして知られていた。明治時代には、立身出世を夢みる若者が、このコースを目ざ して受験勉強に熱中したものである。うまく入学すると、天下を取ったような気分に なり、わが世の春を謳歌するのであった。先輩の話を聞いて、「ブルータス、お前も か」という感じだった。この人は、一高時代の友人が準大手の会社の社長の令息だっ たことから、その会社に入り、副社長に登りつめた(19)

エリート・コースに行けたのは、もちろんごく少数である。しかし、家庭が裕福で ないために中等学校には進学できなかった場合も、小学校高等科でよい成績を収める と、師範学校に進学できた。ここはいわゆる官費の学校で、貧しい家の子でも学べる 学校であった。卒業すると、ほとんど全員が小学校の教員になれ、それは農民から見 れば「月給取り」として、楽な労働で高給を取る羨しい存在であった(20)。勤務成績 が良好だと高等師範学校に進むことができ、そこを卒業すれば中等学校の教員になれ た。中等学校の教員は、初等学校の教員に比べて地位・収入がはるかに高く、帝国大 学の卒業者たちでも、そこに就職する例が多かった。

学歴ないし学校歴が就職や昇進に大きく影響したのは過去の話なのであろうか。た しかに、かつてのような力はなくなっているのだが、もう消滅したとは言えない。学 歴の効用と思われる例を再三目にするし、多くの親たちはそれがまだ存続していると 思っている。幼稚園から学校選びをし、有名私大附属学校への進学成績の良い幼稚園 にわが子を入れようとする。小学校に入ってすぐ、学習塾通いが始まり、六年生の卒 業期には受験に狂奔する。日本の公的教育費は、GNP 比で先進国中最低のレベルだ というのに、私費の教育費は最高のレベルである。つまり、親たちは身銭を切って子 どもを塾などに出し、家庭教師までやとっているのである。受験教育という点では公

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