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芥川龍之介「虱」論─加賀藩の長州征伐と喜劇活動写真の流行から

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一       芥川龍之介の「虱」(大正

5・

誌デビュー作であったが、その媒体が『希望 5)は、初めて原稿料の出た商業

((

』という小雑誌であったため、同時代評はきわめて少ない。初出から数年後の『文章世界』(大正

8・

がら、次のとおり言及している。 4)で、岡野陽吉はチェーホフを引き合いに出しな     芥川さんは、つまらない虱のことのために斬合までする森権之進と井上典蔵との滑稽な姿をさながらに描いて居る。チ

エホフも芥川さんも人間の姿を描いて居るのである。正しい意味で人間のカリカチユアを描いて居るのである。

  かように、当時から「滑稽な姿」や「人間のカリカチユア」を読む視点が存在した作品である。先行研究については、武藤清吾が研究史

((

を次のとおりまとめている。

  

  安義『芥川龍之介とその時代』筑摩書房一九九九・三・二〇)   有精堂出版一九八五・二・一)、「人間の営みの卑小さ」(関口   「人生、人間を風刺したユーモア譚」(石割透『芥川龍之介』   川龍之介』(要書房一九五四・一〇・一〇→『中村真一郎評論   社一九八七・五・二〇)も提出されている。中村真一郎が『芥 響から結章で破綻したと読む論(吉田俊彦『芥川龍之介』桜楓 による重大な国事の相対化という意図が漱石『夢十夜』の影   精堂出版一九九三・七・一〇)という評や、笑いの批評精神   方を風刺している」(酒井英行『芥川龍之介作品の迷路』有 ることを踏まえ「深層で、西洋(文明)という〈虱〉との関わり と評されてきた。一八六四年の西進する船上での出来事であ

集成

地を残す。 鴎外の歴史小説の模倣と指摘した点も含め、いまだ議論の余   4近代の作家たち』岩波書店一九八四・九・一七)で   武藤の整理によれば、「虱」は大きく二つの観点から論じられてきたことが分かる。一つは、読者におかしさを感じさせる描写、すなわち〈笑い〉の要素から諷刺小説として、もう一つは、漱石や鴎外の作品の影響が色濃い小説としてである。ここには挙げられていない中にも、鴎外作品の影響を指摘する先行研究がいくつかあり、たとえば、山本捨

((

吉は、船という作中空間の共通点から「高瀬

芥川龍之介「虱」論   ──加賀藩の長州征伐と喜劇活動写真の流行から

鷲    㟢    秀    一 文〕

(2)

二 阪南論集 人文・自然科学編

Oct. 2017

舟」(大正

5・

()の影響を、佐々木

(4

啓は、芥川の読書歴から「興津弥五右衛門の遺書」(大正元・

と見ており、「虱」が諷刺小説であることは、ほぼ定着している観 山本は、他作品の影響を指摘しながらも、結論としては諷刺小説 (0)の影響を見ている。ただし、

がある。差異があるとすれば、何を諷刺していたかである。よって、比較的近年に発表された佐々木の論文で、次のように一石を投じられているのも無理はない。

   「虱」一編の主意は、「明治時代の文明開化の風潮」への諷刺というよりも、明治時代を支えてきた思想、つまりは旧時代への思想的距離の宣言ととらえるべきではないだろうか。

  はたして「虱」は諷刺小説として読むべき作品であろうか。あるいは、佐々木が示すように、それ以外にも解釈できる作品なのであろうか。「議論の余地を残」したまま、近年は研究が停滞している。

  いずれにせよ、これまでの先行研究が、「虱」を読むに当たって、作者芥川の意識や背景に拠り過ぎて、読者にどのように映っていたかを看過してきたのは問題がある。かりに芥川の狙いや状況など何も知らない読者の視点に立った場合、たとえば、以下の「虱」の冒頭部はどう映るであろうか。

  元治元年十一月二十六日、京都守護の任に当つてゐた、加州家の同勢は、折からの長州征伐に加はる為、国家老の長大隅守を大将にして、大阪の安治川口から、船を出した。

  小頭は、佃久太夫、山岸三十郎の二人で、佃組の船には白 幟、山岸組の船には赤幟が立つてゐる。五百石積の金毘羅船が、皆それぞれ、紅白の幟を風にひるがへして、川口を海へのり出した時の景色は、如何にも勇ましいものだつたさうである。

  この冒頭部には、同時代の読者の目には否応なしに飛び込んでくる言葉がある。それは「国家老の長大隅 守を大将に」という言葉である。なぜなら、「虱」執筆発表時の内閣総理大臣は、大隈重信であった。「隈」は「すみ」とも読めるので、当時の日本は、くしくも「国家老の長大隅守を大将に」船出した状態とも言え、しかも組閣の経緯が、閥族打破の実現を目指した大正政変を受けていたことを踏まえれば、「長州征伐」という設定さえ意味を勘繰りたくなる。

  だが、それでは、さながら明治期の滑稽小説のごとく、当てこすりのきつい諷刺を読ませるだけの作品となってしまう。それは、本作の文学性を否定することにもなりかねず、一方で、先行研究が指摘するように、人生・社会なるものを茫漠と諷刺した小説というのも、はたして「虱」という作品を読み得ているのであろうか。そもそも芥川の作意を裏付けるものはなく、またそれがあったとしても、読者がそれを額面通り受け取るというものでもない。その上、「虱」には、たとえば、田中実が「作者はこうした人事の卑小さをどこかほのぼのと描き出す」 (5

と指摘するような、諷刺の攻撃性とは相反する描写も随所に見られる。かつて拙論 ((で示したとおり、大正期の喜劇的な作品は、滑稽改良の機運から自然なおか

(3)

Vol. 53 No. 1 芥川龍之介「虱」論

しみであるユーモアが志向されていたことを念頭に置くべきで、「虱」もその文脈上にあったと考えるほうが妥当ではないか。つまり「虱」には、諷刺ともユーモアとも取れるあいまいな部分が存在することは否定できないが、その〈笑い〉には、明治期の諷刺にありがちな、毒々しい露悪趣味とは異なる向きが見られる。かような作品が、同時代的にどのように評価されえたかは、いまだ検討されていない。はたして本作は、どの点に新しさをもつ文学作品であったのか。

  また、先に引用した冒頭部からも明らかなとおり、本作は加賀藩の長州征伐を舞台とした物語である。まずは、この点を踏まえて作品分析されねばならないはずだが、先行研究では「幕府に深く関わりを持つ加州家にとって、長州征伐は家運と国運のかかる重要な聖戦」 ((というような一般的な認識で留められることが多く、それを読解に深く関わらせる試みもみられなかった。本稿では、加賀藩の長州征伐がいかなるものであったのか、まずその実態を

確認するところから始めたい。

   

  加賀藩が参戦した長州征伐について、『芥川龍之介全集

(平成 第一巻』

(・

((岩波書店)

の「注解」には、次のとおりある。

   第一次の長州征伐を指す。旧暦元治元年七月二三日、長州藩追討の朝命が下り、幕府は諸藩に出兵を命じる。当初は 一一月一八日を総攻撃の日と定めていたが、八月の英米仏蘭四国連合艦隊の下関砲撃の後、一一月一一日、長州藩は幕府軍と交戦する前に恭順の意を表し、一二月二七日に征討諸軍に撤兵が命じられている。

  ここでの「諸藩」のうちの一つが加賀藩である。ただ、見てのとおり、諸藩の具体的な動向については触れられていない。他の資料、たとえば昭和期の資料であるが、『石川県史

第二編

(8

』(昭和

石川県刊)には、参戦前後の加賀藩の動向がつぶさに記されているものの、時系列的に執筆当時の芥川が同書を見るべくもなく、しかも、正史の体裁をとっているため、「虱」の典拠となりそうな、末端の藩士のエピソードが描かれているわけでもない。はたして明治・大正期に、加賀藩の長州征伐について具体的に記されたものはどれほど流通していたのか。同書の「緒言」では、編者である郷土史家日置謙が次のような資料を参考にしたと明かしている。

    仮令ば前田侯爵家編集方諸君子の著述に見るも、加賀藩史

稿・瑞龍公世家・加賀松雲公・芳春院夫人小伝・天徳院夫人小伝の如き紀伝あり。本藩歴譜・続本藩歴譜の如き家乗あり。加賀藩史料・旧金沢藩事蹟文書類纂の如き史料あり。

  とはいえ、かような資料を当時誰もが容易に目にすることができたとは考え難い。むろん、作者芥川とて例外ではなかろう。その芥川は、「虱」の典拠について、後日の回想談である「校正の后に」(『新思潮』大正

5・

(()で、次のように述べている。

   新小説へ書いた「煙管」の材料も、加州藩の古老に聞いた話

(4)

四 阪南論集 人文・自然科学編

Oct. 2017

を、やはり少し変へて使つた。前に出した「虱」とこれと、来月出す「明君」とは皆、同じ人の集めてくれた材料である。

  先行する「虱」論で幾度となく引用されてきた、この「加州藩の古老に聞いた話」こそが、「虱」の典拠と目されている。「加州藩の

古老」が何をどのように語ったかは興味深いが、そもそもこの「古老」がいかなる人物であるかが未詳である。たしかに、芥川自身も他で言及しておらず、また関係者からの証言も残されていない。もとより本稿の目的は「虱」の典拠探しにはないのだが、作品を正確に読み解くためには、加賀藩の長州征伐について、当時どの程度読者と情報共有されていたかは把握しておく必要がある。かりに、先の引用中にもある「煙管」の「河内山宗俊」のように、歌舞伎の演目にあるような題材であったとすれば、当然それを踏まえて「虱」は読まれたはずである。「加州藩の古老に聞いた話」は加賀藩の長州征伐を窺う重要な端緒であり、今一度作者の周辺人物を洗い直すことで、なんらかの水脈を見出せる可能性がある。

  たとえば、加賀藩(石川県)出身で、芥川(明治

(5生)

と近かった人物となると、中学校時代の担任であった広瀬雄(明治

学時代に一学年先輩であった岡栄一郎(明治 (生)、大

(明治 ((生)、他には泉鏡花

(生)、室生犀星(明治

とすれば、ここでその話題に触れられてしかるべきだが、それは 後に書簡を受け取っており、もし過去に素材提供の事実があった の関係となると、広瀬か岡かに絞られる。岡からは「煙管」発表直 大正五年当時に芥川と面識があり、かつ素材の提供を受けるほど ((生)などがいる。うち、「虱」執筆の 見られない。とすれば、芥川と面識がある中で、もっとも「加州藩

の古老」に該当する可能性がある人物は、広瀬雄となる。

  広瀬雄は、『芥川龍之介大事典』(平成

(4・

思出」(『臨時増刊文芸』昭和 者と考えて不思議はない。さらに、広瀬の回想談「芥川龍之介君の に近いが、かりに本人がそうでなかったとしても、話の種の媒介 沢前田藩の士族出身」とされていて、この点でも「加州藩の古老」 (勉誠出版)では「金

(9・

芥川に素材提供をしていた節も見受けられる。 (()を読むと、実際に中学時代の    嘗て私が幼くて郷里金沢にいた頃、冬夜炬燵にあたりながら聞いた天狗・人買い・人さらい・神隠しの話、さては冬の夜な夜な地を揺つて聞える海鳴りだのの話をした

  ただ、これでも確証が得られたわけではない。もとより「加州藩の古老」など存在しない可能性も否定できまい。とはいえ、元治元年(一八六四)に加賀藩が長州征伐に参戦したこと自体は史実であるので、やはり芥川が何かを参照して、執筆したことは疑いないのである。

  芥川の旧蔵資料を目録化した『芥川龍之介文庫目録』(昭和

5(・

末小史 長州征伐に関する記述がある書籍となると、わずかに戸川残花『幕 認できる。うち、「虱」が書かれた大正五年以前に出版され、かつ (日本近代文学館)を紐解くと、幕末史に関する書籍が幾冊か確 巻一~三』

(明治

((~

((春陽堂)

のみであった。これも「虱」執筆当時に所持していたかどうかは定かでないのだが、加賀藩の長州征伐について、期待の地平がどの程度形成されえたかを窺う

(5)

Vol. 53 No. 1 芥川龍之介「虱」論

端緒とはなろう。同書の『巻一』には、次のとおりある。

   長州攻に寄手の名前は左の如し(略)最初の長州征伐は斯くの如く整々堂々たる軍備なりき芸州、因州、阿州、肥後、薩州、福岡、佐賀、久留米の諸大藩を助くるに十万石前後の中藩と譜代大名の小藩を以てす試に当時の日本地図を展き西南の都を注視せよ如何ばかり征長の軍備の壮観なりしかを知るべし   かく長州征伐に向かう軍備の様子が勇壮に語られるが、肝心の加賀藩の具体的な動向については記述が見られない。続いて、『巻二』では、この征伐の結末が語られる。

    惣督尾張大納言は去年十一月広島に大旆を進め副惣督松平春嶽は豊前小倉に在り諸藩は兵を其持場に進め毛利氏若し抗戦するならば大挙して長防を掃蕩せむと計れり当時長藩は朝敵となる已ならず薩藩には敵視せられ外国同盟軍の為には征圧せられ殆んど孤立の地位に立ちたれば(略)恭順悔誤の外

なく十一月使者を以て尾張前大納言の陣営へ家老益田右衛門介、福原越後、国司信濃の首級を実検に備へたり(略)十二月十八日尾張公名代石川佐渡守御目附戸川鉡三郎、千賀与八郎実地見届けとして長防を巡見し廿七日広島へ帰りて大膳父子の服罪と国内鎮静の趣を報ず廿八日寄手陣払ひの命あり

  このとおり、本書は史実の概略を辿るものでしかなく、到底本書に拠って「虱」を執筆したとは考え難い。念のため、比較的流通していたと目される幕末史の書籍、福地桜痴『幕府衰亡論』(明治

(5・

((民友社)や、小宮山綏介『徳川太平記第一二編』(明治

(8・

超える熊田葦城『幕府瓦解史 ものはなかった。また、「虱」と同時代の歴史書で、一〇〇〇頁を のはあっても、やはり加賀藩の長州征伐の様子を具体的に記した (博文館)なども確認したが、長州藩や幕府方の動向に詳しいも

後編』(大正

4・

「虱」本文には次のような一文がある。 が、何かの資料を参照していた可能性は否定できず、というのも、 えず、下級藩士の虱騒動などいわずもがなである。ただ、芥川自身 の長州征伐については、少なくとも一般に周知された史実とは言 に入った他の歴史書にも見られる傾向であった。つまり、加賀藩 の捕縛に関係したことのほうが大きく語られている。これは管見 られたものの、むしろ当時の加賀藩の動向としては、水戸天狗党 は、わずかに「加賀の家老長大隅守の兵は石見に参集せしめ」と見 9有朋堂書店)に     小頭は、佃久太夫、山岸三十郎の二人で、佃組の船には白幟、山岸組の船には赤幟が立つてゐる。

  この「佃久太夫、山岸三十郎」の二人の名は、『加賀藩史料

藩末

編下巻』(昭和

設定に合致している。細部に至るまで精巧に作られていたとなる 翌日の出兵に際し、準備している様子が窺え、これも「虱」作中の 九時迄、佃殿小屋にて、山岸殿一統誓詞判形、其節披見物写」と、 写等留」(年次未詳)という資料には、「右十一月廿五日夜六時より できた。また、同書所収の「長州御征伐に付御軍令状並に風説書 次未詳)という資料に見られ、実在した人物であったことが確認 (()に所収されている「御用番方毎日書立書抜」(年

(6)

六 阪南論集 人文・自然科学編

Oct. 2017

と、やはり「加賀藩の古老」経由で、旧藩書類に触れていたと考えるほうが妥当である。

  ただ、繰り返しになるが、「虱」の典拠を特定することが本稿の目的ではない。重要なのは、当時の読者が下知識として持ち得た

情報がある程度整理できるということである。つまり、「虱」の背景となっている第一次長州征伐は、元治元年一一月に長州藩が恭順していたため、同月末に「虱」の登場人物たちが、勇んで「大阪の安治川口から、船を出した」際には、すでに決着を見ていた。そのため彼らが苦労して着任した翌月には、早くも撤兵が命じられ、また結果として交戦なく終える「征伐」であった。これらの情報を踏まえると、作品の読みはどう変化するか。

   

という状況には、おかしさより同情が先に立った可能性もあろう。 らが軍船ではなく「五百石積の金毘羅船」に詰め込まれていたり むろん、歴史に翻弄される藩士たちに憐れさを感じたり、また彼 話の雲行きが、史実どおり怪しいことを示していたことになる。 だつたさうである」という言葉は、単なる伝聞に留まらず、本作も 連続であった。とすれば、冒頭部における「如何にも勇ましいもの おり、加賀藩の長州征伐は、当初から終わりまで力みと空振りの 顛末を頭に入れた上で作品に臨まざるをえない。先に見てきたと   「虱」が史実を背景とした小説である以上、読者は必然的にその 打遣つて置くわけには、猶行かない。そこで、船中の連中は、     しかし、いくら手のつけやうがないと云つても、そのまま かは瞭然である。 だが、船内で、虱が発生した段に至れば、作品が何を志向している

暇さへあれば、虱狩をやつた。上は家老から下は草履取りまで、悉く裸になつて、随所にゐる虱をてんでに茶呑茶碗の中へ、取つては入れ、取つては入れするのである。大きな帆に内海の冬の日をうけた金毘羅船の中で、三十何人かの侍が、湯もじ一つに茶呑茶碗を持つて、帆綱の下、錨の陰と、一生懸命に虱ばかり、さがして歩いた時の事を想像すると、今日では誰しも滑稽だと云ふ感じが先に立つが、「必要」の前に、一切の事が真面目になるのは、維新以前と雖も、今と別に変りはない。―そこで、一船の裸侍は、それ自身が大きな虱のやうに、寒いのを我慢して、毎日根気よく、そこここと歩きながら、丹念に板の間の虱ばかりつぶしてゐた。

  かように、「打遣つて置くわけには、猶行か」ず、文字通り、乗組員総出の虱潰しとなるが、その姿が、「湯もじ一つに茶呑茶碗を持つて」というのだから、語り手も「今日では誰しも滑稽だと云ふ感じが先に立つ」と漏らしたり、「人間を乗せる為の船だか、虱を乗せる為の船だか、判然しない」と述べたりしている。「虱」は先行研究が指摘してきたとおり〈笑い〉に満ちた作品であり、あらためて、加賀藩の長州征伐という、いささか拍子抜けした舞台も、〈笑い〉の描かれる空間として奏功していたように映る。

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Vol. 53 No. 1 芥川龍之介「虱」論

  そこに現れるのが、二人の「妙な男」で、ひとり目は、「森権之進と云ふ中老のつむじ曲りで、身分は七十俵五人扶持の御徒士」である。彼が「妙な男」と呼ばれる所以は、「虱飼ふベし、狩るべからず」という主張に凝縮されている。彼は次のような理由で虱を飼っている。

   人間と云ふものはよくしたもので、痒い痒いと思つて掻いてゐる中に、自然と掻いた所が、熱を持つたやうに温くなつてくる。そこで温くなつてくれば、睡くなつて来る。睡くなつて来れば、痒いのもわからない。―かう云ふ調子で、虱さへ体に沢山ゐれば、睡つきもいいし、風もひかない。だからどうしても、虱飼ふべし、狩るべからずと云ふのである。

  もう一人は、「これも亦妙な男で、虱をとると必ず皆食つてしまふ。」という井上典蔵である。興味深いことに、井上が虱を食う理由は語られていない。狩る必要はあっても「食つてしまふ」必要があろうか。なぜ、井上は虱を「食つてしまふ」人物であるのか。じ

つは、この点が、本作の読解において重要な意味をもつ。

  作中には、井上側の人々が「孝経にも、身体髪膚之を父母に受く、敢へて毀傷せざるは孝の始なり」と諭したり、逆に森が「妄に生類の命を断つなどとは、言語道断」などと反論したりする幕もあるのだが、かようなイデオロギーの対立を演出するために、井上は虱を「食つてしまふ」のではない。

ので見にくいが、もとより井上が「狩る」理由は虱を食すためであ   「飼ふ」森に対し、「狩る」井上という構図にすり替えられている は分からなくても、かような人物が置かれた狙いは読み取れる。 食べる井上の心中は推し量るべくもないが、「食つてしまふ」理由 せの妙で〈笑い〉を演じていることは明白になる。うまそうに虱を あっても、そこに反転的な人物が配置されれば、二人が取り合わ 体では、それぞれただ奇妙な人物として処理されてしまう恐れが 対し、虱に食べられる人物(森)が配置されていたことになる。単 ためであった。つまり、作品としては、虱を食べる人物(井上)に り、一方森が「飼ふ」のは虱に食べられる痛痒により寒さを凌ぐ

  その上、他の人物に目を向ければ、みな裸同然である。実際作中でも「裸侍」たちの「真面目」に取り組む姿が、傍目には「滑稽」に見えるとされている。クライマックスの刃傷沙汰も本質的には同じことに起因する〈笑い〉である。

  

ぢや。」 か。その虱を取つて食ふなどとは、恩を仇でかへすのも同前   「これ、この船中に、一人として虱の恩を蒙らぬ者がござる

  

  「身共は、

虱の恩を着た覚えなどは、毛頭ござらぬ。」

  

とは、言語道断でござらう。」   「いや、たとひ恩を着ぬにもせよ、妄に生類の命を断つなど    二言三言云ひつのつたと思ふと、森がいきなり眼の色を変へて、蝦鞘巻の柄に手をかけた。勿論、井上も負けてはゐない。すぐに、朱鞘の長物をひきよせて、立上る。―裸で虱をとつてゐた連中が、慌てて両人を取押へなかつたなら、或はどちらか一方の命にも関る所であつた。

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八 阪南論集 人文・自然科学編

Oct. 2017

    この騒ぎを実見した人の話によると、二人は、一同に抱きすくめられながら、それでもまだ口角に泡を飛ばせて、「虱。虱。」と叫んでゐたさうである。

  かく、ふざけているわけでもなく、自然と人間が露呈する愚か

な姿こそ、同時代文学に求められていたユーモアではなかったか。また、次のとおり、本作では身分の上下なく、皆が〈笑い〉の演者になっていることも見逃せない。ユーモアは、明治期の滑稽小説や政治小説のように、ある特定の個人を対象とせず、全方位的であることに特徴をもつ。

   上は家老から下は草履取まで、悉く裸になつて、随所にゐる虱をてんでに茶呑茶碗の中へ、取つては入れ、取つては入れするのである。

小説 抜いてしまうという、この場面である。じつは、明治年間の滑稽 ある。それは、いくら激高したとはいえ、些細な口論で、森が刀を なく、表現の面でも、本作は、ある新しさを孕んでいた可能性が 準で完成された作品であったことを窺わせる。また、内容だけで   「虱」は小品ではあるが、同時代の〈笑い〉の文学として、高い水

(9

にも、このような展開は見られなくはないのだが、図らずも先行研究において佐々木啓が「虱をめぐるスラップスティックな騒動」 ((1と評したこの〈笑い〉の表現が、存外同時代的には意義深くあったのではないか。「虱」で描かれるこの身体性と視覚性による〈笑い〉は、徒労に終わる加賀藩の長州征伐において、下級藩士たちが演じる罪のないユーモアであり、加えて、原稿用紙にしてわ ずか十二枚という作品自体の短さも、自ずと同時代に流行していたショートフィルムの喜劇を連想させるに十分である。  ギルバート・セルディスは、『トオキイと映画芸術』 (((において、スラップスティック喜劇の定義を「狂いじみたシチユエイシヨン、

荒々しい出鱈目な動作、一寸の刺激に於ける暴動的怒り、時と場所の全ての法則を破り、物質的世界の全体的否定にまで至つて居る狂つた追つかけ」としているが、「虱」では、船内の侍達は、狭い空間に押し込められ、沢庵付けの臭気に悩まされ、そして寒風に晒されている。そのうえ無数に湧いている虱を上下の隔てなく裸同然で追いかけ、そのうちの或る者は身体で飼育をはじめ、また或る者は嬉々として食べている。佐々木の見立ても故無しとされないはずである。そして、このスラップスティック喜劇の代表格であったのが、当時日本に輸入され人気者となっていたアルコール先生ことチャップリンであった。当時のチャップリンの評価については、すでに拙

((1

稿で触れているので参照されたいが、要点だけ述べると、チャップリンは、そのユーモアをもって、日本でも〈笑い〉の地位を数段高いステージに上げた人物であった。

メリカでの公開年月は『世界の映画作家 の活動写真雑誌から拾い上げてみると、次の図のようになる。ア   「虱」発表時、国内で上映されていたチャップリン作品を、当時

(9』(昭和

48・

報社)を参照した。 (0キネマ旬   このとおり、国内の封切りは、米国より一年ないし半年遅れであった。よって、「虱」が発表された大正五年に国内で公開されて

(9)

Vol. 53 No. 1 芥川龍之介「虱」論

いたものは、おそらくその前年である大正四年までに制作されたものとなるが、最初の「髯のあと」以降は、ほぼ毎月新作が輸入され、封切りという状況であった。かように、国内でチャップリンの 名声が高まる時期は「虱」の執筆発表時期と重複する。「虱」の〈笑い〉も、活動写真的な新しい〈笑い〉として、しかも文学的な表現の一手法として評価されえた可能性はないだろうか。

   

  以前、拙稿 ((1では、芥川龍之介の「片恋」(『文章世界』大正

(・

写真は芥川文学に具体的な形で表出しているのである。 らためて注目すべきで、つまり「虱」のわずか一年後に、喜劇活動 る。その「片恋」の作中フィルムが喜劇活動写真であったことはあ 大衆文化との隣接が避けられない状況にあったことを確認してい (0)という小説に、活動写真が描かれていることから、文学領域も   当時活動写真を、ことに喜劇の活動写真を意識していた文学者は芥川だけではない。周知のとおり、谷崎潤一郎は、近代の文学者の中でも初期から活動写真に関心を寄せた作家で、ほどなく実作

にも注力し始める。彼が大正活動写真株式会社の創設に関わるのは大正九年だが、その設立第一作として書き下ろしたシナリオ『アマチュア倶楽部』は、スラップスティック喜劇であった。チャップリンについても「いち早く日本で発見した」 ((1人物と見られる向きもあり、具体的に「独探」(『新小説』大正

4・

であったかは、先に見たとおりである。 は、チャップリンについて言及している。この言及がいかに早期 (()という作品で   これほどの愛好家であったため、谷崎は、当時から活動写真に

米国公開年月 作品名 本邦公開年月 上映館の例

大正 ( 年 (0 月 髯のあと 大正 4 年 ( 月 帝国館

大正 ( 年 (0 月 チヤプリンのパン屋 大正 4 年 ( 月 電気館

大正 ( 年 (0 月 アルコール自動車競争の巻 大正 4 年 (( 月 帝国館

大正 ( 年 (( 月 他人の外套 大正 4 年 (( 月 キネマ倶楽部

大正 4 年 ( 月 チヤプリンの役者    

大正 4 年 ( 月 アルコール夜通し転宅 大正 4 年 9 月 帝国館

大正 4 年 ( 月 チヤプリンの拳闘    

大正 4 年 ( 月 アルコール先生公園の巻 大正 4 年 (( 月 帝国館

大正 4 年 4 月 チヤプリンの駈落    

大正 4 年 4 月 チヤプリンの失恋    

大正 4 年 4 月 チヤプリンの海水浴 大正 4 年 (0 月 帝国館

大正 4 年 ( 月 チヤプリンのお仕事    

大正 4 年 ( 月 チヤプリンの女装    

大正 4 年 8 月 チヤプリンの掃除番    

大正 4 年 (0 月 チヤプリンの船乗り生活    

大正 4 年 (( 月 チヤプリンの寄席見物    

大正 4 年 (( 月 チヤプリンの珍カルメン    

(10)

一〇 阪南論集 人文・自然科学編

Oct. 2017

ついて発言を求められることが多かった。中でも近代文学と映画関連の研究でつねに引用されるのは、大正六年八月号の『新小説』に掲載された「活動写真の現在と将来」である。このエッセイで、谷崎は、当時の活動写真を批評した上で、次のような提案をして

いる。

   何も最初から、高尚な文芸写真を作れなどとは要求しない。通俗な物で結構であるから、活動写真本来の性質に復り、正しき方法に拠つて、映写して貰ひたいと云ふのである。例の名金や、拳骨なども、極めて俗悪な筋であるが、写真にすると小説では分らない自然の景色や、外国の風俗人情が現はれて来る為めに、大人が見ても充分に興味を感ずる。金色夜叉だとか、己が罪だとか、小説としては余り感心出来ないでも、日本の自然や風俗を巧みに取り入れて、西洋流の活動劇にしたら、きつと面白いに相違ない。

  このエッセイには谷崎の活動写真に関する先見性のみならず、文学作品の映像化という観点も見られ、文学領域も新たなメディアの台頭を無視できなくなっていた雰囲気を窺わせる。もとより、このエッセイが発表された背景には、同年七月公布の活動写真興業取締規則があり、芥川の「片恋」(大正

(・

て規制があるはずもなく、実際はその前年あたりから、よくもわ が文部・内務両省並びに警視庁に提出されている。過熱なくし に目を向けると、同年二月、帝国教育会から「活動写真取締建議」 けて書かれたものであった。さらに、この取締規則発令の半年前 (0)も、これを受 「虱」(大正 るくも活動写真は社会問題化していたと考えてよい。とすれば、

5・

5)も、当時の活動写真の状況や手法を意識して 読解することが可能だったのではないか。当の芥川も、青少年期から活動写真には引かれており、後年には、「〈映画〉的な工夫が随所になされている」 ((1との指摘もある「影」(大正

9・

たり、『新潮』(大正 9)を執筆し

(0・

昭和 り、また自身も活動写真のシナリオ「誘惑」・「浅草公園」(ともに (0)誌上でチャップリンについて言及した

(・

()を執筆したりもしている。

  もとより、大正文壇と活動写真の影響関係を指摘する言説は新しいものではなく、たとえば、石割透は、大正六年前後の文壇状況を横断的に調査し、当時、「活動写真を小説の材料とすることが流行」

((1

と指摘している。

   この時期には、芥川の「片恋」(大

(・

まわっていた。(大 浅草公園見物会を組織、月に二、三回、歌劇、活動写真を見て 動写真を小説の材料とすることが流行する。谷崎、春夫らは 春夫「指紋」そして谷崎潤一郎にも「人面疽」という風に、活 (0「文章世界」)佐藤

(・

(0・

動写真の現在と将来」(大 ((「都新聞」)。谷崎には既に「活

(・

ような記事は、注目に価しよう。 そうした意味で、二十四日の「都新聞」の「人の噂」欄の、次の と『活動写真』と『カフェー』の印象」という特集もくんでいる。 年九月の「中央公論」は「新時代の象徴として観たる『自動車』 9「新小説」)があり、大正七      谷崎潤一郎、芥川龍之助、赤木桁平、有島武郎、小宮豊隆

(11)

一一

Vol. 53 No. 1 芥川龍之介「虱」論

などの文士連は、近頃浅草公園に出かけて、各館の活動写真を見て居る▲これは欧米物の映画に、特殊の強い興味を見出さうためださうで、毎月一二回を極めて出かけて居る。

  また近年の研究では、芥川とほぼ同世代の多くの作家たちが、青少年期から活動写真に親しんでいたことが報告され、作品への影響を詳細に分析する論も増えている。ことに、芥川の映画受容について精力的に調査し、「芥川文学の時代とは、映画の時代の謂でもあり、文学との相関関係は等閑に付せない」 ((1と結論付ける安藤公美は『芥川龍之介

絵画・開化・都市・映画』(平成

(8・

4翰

林書房)にて、同時代の文学と活動写真の関係を次のように述べている。

    芥川とほぼ同時代の作家で、映画に興味を示さなかった作家は少ない。公言であれ私言であれ、少なからぬ映画への言及がみられ、世代により多少内容を異にし、映画と如何なる距離をもっていたかを語りながら、この時代が映画の時代で

あることを物語る。(中略)漱石があからさまに映画へ苦言を述べるのに比べ、世代の下る作家たちである志賀直哉、谷崎潤一郎、菊池寛、萩原朔太郎など多くは、映画に対し好意的である。大正期に書かれた小説には、様々な形に姿を変えて映画が引用されてくる。特に、自らも脚本を書いて積極的に映画に近づいていった谷崎潤一郎や、探偵ものを得意とした佐藤春夫、また萩原朔太郎や宮沢賢治も、映画との関わりを抜きにしてそれぞれの文学を語ることができないほどに映画と 縁が深い。

  また、安藤と同時期に、大正文壇における映画受容の諸相を、当時の資料を丹念に掘り起こして調査していた蔡宜静は、初の本格的な映画理論書として知られるミュンスターバーグの『映画劇―心理学的研究』(大正

大正五・六年という時期に胎動しているという事実が重要である。 ん、その真偽が問題ではなく、理論的な構築と影響までもがこの のエッセイがこの書物に触発された可能性を指摘している。むろ で、当時の知識層の間に波紋を及ぼしただろう」と見ており、谷崎 ((1 5)が「日本にも翻訳を介して紹介されたの   かように当時の文壇では、新たなメディアとして、活動写真が意識されていた節が見られる。これまでの先行研究では、大正七年頃から、文学領域と活動写真の交錯が鮮明になると考えられてきたが、見てきたとおり、実際はその前年の大正六年から活動写真に関する規制や議論が増えており、いわば「虱」が執筆された

大正五年は活動写真時代の前夜であったと考えられる。それゆえに、「虱」は加賀藩の長州征伐という、ユーモアを表現する上で格好の舞台を背景に、当時流行のスラップスティックが描かれた点でも、活動写真的な新しさをもった〈笑い〉の文学であった。

  本稿では、芥川の商業誌デビュー作の「虱」を分析したが、本作に限らず、芥川龍之介の初期作品には、読者の笑いを喚起する場面や文脈が多く見られる。試みに、第一創作集『羅生門』(大正

(・

「鼻」「父」「猿」「孤独地獄」「運」「手市」「尾形了斎覚え書」「虱」「酒 5阿蘭蛇書房)収録作品を掲載順に眺めてみても、「羅生門」

(12)

一二 阪南論集 人文・自然科学編

Oct. 2017

虫」「煙管」「狢」「忠義」「芋粥」というように、多くの作品に〈笑い〉という要素が含まれており、無視できない位置を占めている。一方で、これまでの研究状況を概観するかぎり、いまだ「小説的効果を狙つて誇張的に人間社会を滑稽化する芥川の諷刺精神は冷い理

智に立つて人間の愚を嘲笑するのであるが、その裏に人間の弱点を憐れむ憐憫の温かい心をも蔵する」 ((1というような、作者芥川の言説・姿勢をコードとした読解から大きく抜け出ていない観がある。

  次代を担う新人作家が、わずか一年余りの期間に、これだけ集中して作品に〈笑い〉を仕掛けていったとなると、その背景には、〈笑い〉そのものに対する同時代の要請があり、それが作品にも表れていると考える必要があるのではなかろうか。

   

()雑誌

『希望』に関しては、関口安義『芥川龍之介とその時代』(平成

((・

文芸春秋)に「村松良一(梢風)が、婦女新聞社で発行していた青年雑誌の権利を貰って、唯一人で運営していた個人雑誌」という報告がある。なお、岡野陽吉は、国文学者片岡良一の号。(

成 ()武藤清吾「虱」の項(関口安義・庄司達也編『芥川龍之介全作品事典』(平

((・

( (勉誠出版))

()山本捨吉「「高瀬舟」と「虱」の比較を中心として」(『語文』昭和

(9・

8)

4)佐々木啓「芥川龍之介「虱」小考」(『北見大学論集』平成

(4・

()

典』昭和 5)田中実「虱」の項(菊地弘・久保田芳太郎・関口安義編著『芥川龍之介事

(0・

( ((明治書院)

()拙稿「明治・大正期における〈笑い〉の変容」(『稿本近代文学』平成

(0・

(()

()吉田俊彦『芥川龍之介』(昭和

((・

( 5桜楓社)

『石8)

川県史

第二編』(昭和

(石川県刊)には、参戦前後の加賀藩の動向が、 ( ぜられたるなりき。 が既に幕府に対して恭順の意を表したりしを以て、征討軍の撤退を命 次いで二十七日総督又連恭を召す。連恭乃ち之に応じて至れば、長藩 て東寺町禅林寺を本営とし、同町源勝寺・等覚院に士卒を収容せり。 斥候を派遣してその地の動静を偵察すべきを命ぜられ、二十四日転じ 急の際広島の西口草津を加賀藩の防備区域とすべきを以て、予め常に 高猷を歴訪してその着陣せることを告ぐ。十九日連恭は総督より、緩 翌十五日広島城外に駐れる総督松平慶勝・閣老稲葉正邦及び津侯藤堂 纔かに安芸国安芸郡江波村に上陸することを得て、海宝寺を陣営とし、 然るに強風尚止まずして操舵意の如くならざりしかば、連恭は十四日 分乗して出帆せしめ、七日には連恭も亦藩有の汽船発機丸に搭乗せり。 こと能はざりしが、十二月四日に至り初めて四千余人を船二十二艘に き。時に海上風浪甚だ険悪なりしを以て、諸軍急に大坂より発船する 京・多賀左京の手兵各之に次ぎしが、尚京師に残留するもの若干あり 兵、二十八日には総将長連恭の手兵、二十九日には前田主膳・深見右 二十七日には今枝民部・伴八矢・伊藤平右衞門・富田外記の率ゐる手 衛隊御先手三組を以て先発とし、二十六日には兵士支配並に兵粮方、 を発し、淀川を下りて大坂に向かひき。即ち二十五日の大筒頭並に護 て厚く之を犒はしめ給へり。この日以後連恭配下の士卒陸続として京 参内して天機を奉伺したりしに、孝明天皇は伝奏野々宮中納言をし    既にして十一月廿五日、長連恭は出陣の日將に近きにあるを以て、 次のとおり記されている。

9)南新二「滑稽小説

道中すごろく」(『太陽』明治

(8・

( づ初日から両人は大よはりなり。 本陣の奥へ逃込んでちいさくなつて居る始末故、殿様も大不機嫌でま へ殿様のお着と云ふので馬も按摩もメチヤ〳〵にて珍丹如短も大失敗 嘩とやじ馬が出る今度は本たうに馬がはねる上を下への大騒動の最中 先が通り掛つた台屋の頭へ当り一言二言云ふ内に組討となり、それ喧 い上にひやかし連中のいたづらと思ひ無闇に杖をふり廻はすと此杖の 摩の尻を否と云ふ程ぶつて刎ろ〳〵と云つても按摩だから少しも刎な べたをくらはせるのをあまり急ぐので狼狽して途中から連れて来た按    今殿様のお着だから馬を刎ねさせろトの指揮に宿役人心得て馬の尻 (()上の巻末部

(0) 注

( 4と同じ

(() ギ

ルバート・セルディス『トオキイと映画芸術』(高原富士郎訳、昭和

(13)

一三

Vol. 53 No. 1 芥川龍之介「虱」論

5・

( 5映画評論社)

(() 注

( (と同じ

(() 拙

稿「芥川龍之介「片恋」論―チャップリン流行下における〈西洋の曾我の家〉表象から」(『日本語と日本文学』平成

((・

()

(4) 千

葉信夫『映画と谷崎』(平成元・

   一九一〇(明治 りであったとされる。 ((青蛙房)によれば、谷崎は次のとお

( ち早く日本で発見した。 見ており、そのアメリカにおいての庶民的な後継者・チャプリンを、い 組の過半を占めていた時代に、人気を得ていたマックス・ランデーから 4()年前後の短編喜劇の始まった時代、それが映画番

(5) 三

島譲「芥川龍之介と映画―「影」から二つのシナリオへ―」(『昭和文学研究』平成元・

()

(() 石

割透「芥川龍之介ノート―大正七年(下半期)の芥川」(『駒沢短期大学研究紀要』昭和

((・

()

(() 安

藤公美「芥川文学と映画―幻燈のイメージ・活動と映画・もう一つの筋論争」(『芥川龍之介研究』平成

(9・

9)

(8) 蔡

宜静『日本近代文学と映画(活動写真)の比較研究』(平成

((・

(新

潟大学博士学位請求論文)(

(9) 注

集』を読んで」(『国文学 (と同じ。むろん、代表作の「鼻」だけは、石割透「『芥川龍之介資料

解釈と教材の研究』平成

8・

て、高橋龍夫が「『鼻』―調和への志向―」(『国文学 4)を嚆矢とし 解釈と鑑賞』平成

((・

学』平成 (()や「「鼻」におけるベルグソン哲学の陰影」(『日本語と日本文

((・

作品における〈笑い〉の生成過程を、その一端しか解明できまい。 Rire」))を重ねて論じているが、作者側へのアプローチだけでは、芥川 Le()などで、芥川のベルグソン受容(とくに『笑』(原題「 (二〇一七年七月十四日掲載決定)

参照

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