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2、どんな方法をつかって探究するのか

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Academic year: 2021

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1、はじめに

認知症高齢者のケアが行き詰まり状態のようだ。昨年行われた認知症ケア研修に参加した老人福祉 施設の職員から、事前に求めたアンケートに以下のような様々な相談が寄せられた。(下線は筆者によ る)

○「認知症重度の方が多く、意思疎通が難しい。時に自分の精神面が不安定になってしまう。どのよ うにしたら自分の精神面の安定を保てるか?」

○「認知症の症状の進行予防策として、一人ひとりに何が適しているのか具体的なものが見つからず、

「これで良いのか?」という気持ちを持ちながら日々が過ぎているのが現状」

○「栄養や体調、不眠、本人の生活習慣など、問題の要因(粗暴・拒否・興奮等)は考えられるもの の、入所施設とは異なる限られた提供時間など様々な制約のあるデイサービスでのケアの限界を感 じる。」

○「認知症業務マニュアルを作成し、定期的に勉強会を開き、職員の周知徹底をおこなっている。」

私自身が25年ほど前におこなっていた高齢者福祉施設での介護経験においても、まったく同じ質の 悩みのなかでケア業務をおこなっていたことを思い起こす。自分のなかでゆれうごく不安、これでよ いのかという迷い、制度や事業所の限界に言及する言い訳、マニュアルをつくり迷いや不安を払拭し ようとする努力などで、めいっぱいになっているのは、今も昔も変わらない。そのことにむしろ驚い ている。

なぜなら認知症の疾患としての知識も、ケア方法に関しても、この20数年で格段に進歩しているの は事実である。けれども、認知症の方とかかわる介護者に生じている悩みや混乱は何も変化していな い。むしろ混乱が増強しているようにも感じられる。これはいったいどうしてなのだろうか。

介護保険制度を含めて高齢者を取り巻く医療保健福祉の対応や対策は数年ごとに修正されながら進

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歩しているようにみえるのであるが、現場の方々が抱く悩みをきくと、ボタンの掛け違いをしたまま、

懸命に服を着込んでいるような感じだ。

認知症ケアから、さらに目を転じてみれば、重症化がすすんだ方に、ほぼ寝たきりの対応しかでき ないケアに対する自責のつぶやき、またこの状態では何もできないという諦め、入所拒否や介護拒否 をされる方々に対してどんな位置にたち、どんな振る舞いをするのかという迷いの言葉等々が聞こえ てくる。

これらの原因は、介護サービス利用者の重度化によっておこっていると論じられている。また事業 所の運営やケア管理が、制度の変化に追いつかないという観方もある。それももっとも思わせる現状 がある。そして介護職員たちは、幾人かは、職場を変えてみようとする。もっとよいケアができるは ず、もっと働きやすい職場があるはずと思って。

もう一度、上記のアンケートの相談内容を丁寧に読み取ってみよう。

① 人間としてコミュニケーションができていない感じがする。生きている喜びや苦しみなどを共感 しあえている感じができない。そして利用者の不安や孤独から生まれているだろう不安な気持ちや その表現に私も一緒に巻き込まれていくつらさ。

② 認知症はひとつの疾患であるという理解がすすみ、介護がめざす方向はその症状を治すことやそ の症状を進行させないことである。そしてそれが、今はみんなの暗黙の了解になっている。しかし 何か腑に落ちない感覚が残る。ほんとうにこれでよいのだろうか?

③ 医学的知識、心理学的知識を学ぶことによって、認知症を生きる人たちのあがきの原因を科学的 に客観的に分析できるとされ、そのように学んできた。しかしそれにもとづいたケアを行うには、

人手が足りない。制度がよくないからだ。

④ 介護職員ごとに介護をするなかで「立ち現れる解釈やケアへの指向性」が異なるのが問題なので あり、業務マニュアルをもって周知徹底することで解決できるはずだ。

このように解釈してみると、客観的で、科学的と思われている医学モデルとそれに基づくアセスメ ントやケア方法モデルが唯一正しいものという認識がみなの暗黙の了解になっているだろうと推測で きる。その反面、実際のケアの場での不全感はぬぐいきれない。良いケアができていると感じられな いから。それは利用者そのものから安心しているよという表情をもらえていないから。

このような思いの根底にあるのは、老い衰えて生きることを通して「呼びかける」声に、その人間 に、一人の人間存在として私はどう答えるのか、どう応答するのかに納得したいということがあると 私は捉える。先にこの状況をボタンの掛け違いと表現したが、老い衰える人を世話することを衣服と 捉えれば、そのボタンは衣服をうまく着るための小道具である。客観的なアセスメントや、認知症ケ アの理念などがこのボタンにあたる。いくら衣服やボタンが美しくすばらしいものであっても、「呼び かける」声に答えることにはならないかもしれない。

その声は、自分の存在の奥を打ち、意味や価値を求める思いがわき上がる。

「いったい、人間の存在(あり方)とは何なの」

「それほど混乱し、苦しむあなたにとって、このわたしは何なの」

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「老い衰える身体とこころをもって、そしてなお生きているということの意味は何なの」

「どうしてこんなに関わることが苦しくて、また、どうしてこんなに愛おしいのか」等々。

時々ケアの瞬間に立ち現れては、また日常のなかで忘れてしまうようなこのような問いの気がかり というものに対して納得したいという気持ちが、日々の不全感の背景にあるのだろう。このような思 いを抱く私自身も含めて、「介護の基本となる人間観」について考えてみたい。

2、どんな方法をつかって探究するのか

1)介護福祉教育における人間論の扱いについて

平成21年4月から、介護福祉士の養成カリキュラムが全面的に改正された。その改訂カリキュラム では、人間の理解がどのように位置づけられ、もしくは位置づけの可能性が示唆されているのかを、

論考の先に確認しておこう。

たしかに新カリキュラムにおいては「人間の理解」が「人間と社会」領域のなかでも基盤となる重 要項目であることは、教育指針にある表現から伺える。

人間と社会 領域の目的 (平成20年3月28日付け 文部科学省・厚生労働省通知:社会福祉士学校 及び介護福祉士学校の設置及び運営に係る指針について)

1 介護を必要とする者に対する全人的な理解や尊厳の保持、介護実践の基盤となる教養、総合的な 判断力及び豊かな人間性を涵養する。

2 利用者に対して、あるいは多職種協働で進めるチームケアにおいて、円滑なコミュニケーション をとるための基礎的なコミュニケーション能力を養う。

3 アカウンタビリティ(説明責任)や根拠に基づく介護の実践のための、わかりやすい説明や的確 な記録・記述を行う能力を養う。

4 介護実践に必要な知識という観点から、介護保険や障害者自立支援法を中心に、社会保障の制度、

施策についての基礎的な知識を養う。また、利用者の権利擁護の視点、職業倫理観を養う。

「人間の尊厳と自立」教育内容

「人間」の理解を基礎として、人間としての尊厳の保持と自立・自律した生活を支える必要性につ いて理解し、介護における倫理的課題について対応できるための基礎となる能力を養う学習とする。

「人間関係とコミュニケーション」教育内容

介護実践のために必要な人間の理解や、他者への情報の伝達に必要な、基礎的なコミュニケーショ ン能力を養うための学習とする。

(下線部は筆者による)

つまり「人間の理解」は、介護教育の基盤となるものであり、その基盤の上に、介護理念、介護実 践が積み上がっていくという構図が描かれていると解釈できる。しかし、改訂カリキュラムでは「人 間の理解」に関しては、その具体的な取り扱い方は示されず、従来の自然科学的な方法による人間理 解のための知識体系であった「解剖学的、生理学的な身体としての人間の理解」また「発達心理学を

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含む、心理学的なこころとしての人間の理解」のままの体系が残されている。

そして、これまでの教育体系では、介護される客体として人間をとらえることが前提となっている。

しかしここで問いたいのは、介護する<わたし>と介護される<相手>のなかにたちあらわれる<存 在意味への探求>を手がかりにして人間とは何かを問いたいのである。

2)現象学的な思考の補助線

(1)なぜ現象学なのか

従来の介護における人間理解の枠組みは、介護される人間を、老い・病気・障害をもつ身体として の人間、発達し老い衰える人間、こころと身体をもち暮らす人間というような様々な側面から、科学 的に客観的に理解するという方法がとられてきた。だが本稿では、「介護の基本となる人間観」につい て、介護という関係の内にある介護される方も介護する方についても包括され、かつ介護という行為 の生きているその場に立ち現れる実存的な意味や価値などを問題にするため、現象学の思考方法を参 考にして考察を進める。なお現象学とは何かを論じるには、私自身の力量が足りない。そこでまず介 護実践の基盤となる「人間の理解」がどのように捉え直されるものかを現象学的な思考をつかい明ら かにすること目的とする。そのために必要となる思考方法をハイデガーによる『存在と時間』および カール・レーヴィットによる『共同存在の現象学』に著された論考を補助線として考察をすすめる。

(2)現象学的な思考方法の要諦

本稿で使う現象学の思考方法のうち、ハイデガーとカール・レーヴィット論考による補助線は以下 の3つの概念を基本にする。

1)存在的問いと存在論的問い

現象学を打ち立てたフッサールは、「現象」は自然科学的な意味において、客観的に規定される性質 をもつものではないとつぎのように論じている。

「......ところが他方、心理的といったもの、《現象》なるものは、やってきてはまた過ぎ去って ゆくものだ、現象は何らかの持続的な自同的な存在―それはそのものとして自然科学的な意味におい て客観的に規定される、たとえば諸成分に客観的に分割されうるものとして本来的な意味において

《分析されうる》ものと思われる―を保持していないのだ。

心理的存在《だ》といわれるところのものは、われわれにあっては物理的なものに対していわれて いるのと同じ意味で経験だということはできないのだ、まして況んや心理的なものは現象するものと しては経験されないのだ、心理的なものは《体験》なのだ、しかも反省において識観された体験だ、

心理的なものは自ら自己自身を通すものとして絶対的な流れといったもののうちに現れる、今そして すでに《消えてゆきながら》、諦観しうる仕方で過去といったものにつねに立ち帰り沈んでゆくもの として現れるのだ。」

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現象学的な思考において「客観」と呼ばれているものは、その物が人間にとって共通して利用可能 な一般的な体系的表示ととらえるのである。たとえば、一つのリンゴを表現するには、「ふじ」という 品種であり、「重さは○○グラム」「セブンイレブンで、○○円で売られ」「ペクチン・カリウム・ポリ フェノールを豊富に含み」「原産地は中央アジアの山岳地帯」などと説明されることを言う。このよう

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に客観的な観点から「りんごとは何」と問うことを「存在的な問い」という。

一方、「存在論的な問い」とは、反省において感取された体験であり、体験自身によって現れてくる 存在の意味や価値を求める問いである。たとえばある人が便秘をしていてとても苦しんでいるとしよ う。その人は便秘の時には、便秘薬を服用するのが習慣だったのだが、最近便秘薬が効き過ぎて下痢 を起こすなどでとても苦しんだことがある。それを心配した実家の母親は家で栽培しているりんごを 送ってくれた。それをすり下ろして食べたその人は「穏やかに便秘に効くりんご」だと体験するので ある。人が生きているこの体験から、そのリンゴの意味や価値を問うこと、すなわち体験のなかに立 ち現れつつ消えていくような、意味や価値と問うことを「存在論的な問い」という。

私たちが「介護の基本となる人間観」を問おうとする際、意味や価値を含んだ立ち現れ方を問題に するわけであるから、「存在論的」な観方を取ることが必要だと理解できるだろう。

2)人間の在り方は「世界=内=存在(「世・に・在ること」)であるという現象学的理解

「世界=内=存在」(『存在と時間』第一篇 第二章)

ハイデガーは、「人間の存在の仕方は「世界=内=存在(「世・に・在ること」)であること」という本 質を言い表すために、この存在論的にとらえた「世界」の構造要素について以下のように規定してい る。

「(三)世界はひるがえって存在的意味に解されることがあるが、しかしいまは、本質的に現存在で はなく、また内世界的に出会いうるところの存在するものとしてでもなくて、事実的な現存在がその ようなものとして「そこにおいて」「生活して」いるところのもの〔場所〕と解されています。世界は ここでは、存在論以前の実存的な意義をもっています。このばあいはさらに、さまざまの可能性が成 り立つのであって、たとえば世界は「公共的な」われわれ=世界、あるいは「自分だけの」身近な

(親しい)環境界を意味します。(略)わたしたちは世界という表現を、述語としては(三)において 確定された意義に用いることを要求します。」

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私たちがふつうに「客観世界」というとき、地球や太陽や、生き物、人間、、、、街、テレビ、、、、等の 普通に考える、物や人や自然のすべてを含むのが一般的である。しかし現象学的な思考では、この

「世界=内=存在」という「世界」とは多くの主体(人間などの意識をもつ生物)が経験して実感して いる世界が関係しあって、「間主観的」に作り出され、共有され、世界そのものと確信されている世界 像と捉える。たとえば、それは趣味などの愛好者が、共有する彼らのみに通じる世界というものを考 えてみるとよく理解できる。また自分の身の回りの世界という言葉で言い表されるような、自分がそ の内部に生きている環境世界などがそれにあたる。

私たちが生きて生活している場面においては、さまざまな領域の確信された像を「世界」と呼んで いることがわかるであろう。わたしたちがこのような文脈でつかう「世界」という概念は、〜にとっ て固有なものとして生きられている「意味と価値の秩序の領域」のことを言う。

ハイデガーは人間が自分固有のひとつの生きられている世界の内に存在〔内・存在〕することにつ いて、その事象について具体的な例をあげ、その事象に共通する本質には〔配慮する〕という要素が 含まれていることをあきらかにしている。

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「現存在が〈世・に・在ること〉は、その事実性とともに、つねにすでに〈に・在ること〉の一定 の仕方に分散したり、あるいは寸断されたりしています。〈内・存在〉のそのようなさまざまの様相は、

たとえば次のような挙げ方によって示すことができます。つまり、〈或るものと関係する〉、〈あるもの を造り出す〉、〈あるものに気を配り、世話をする〉、〈あるものを用いる〉、〈あるものを捨て、かつ失 う〉、〈計画する〉、〈実行する〉、〈探し出す〉、〈訊ねる〉、〈観察する〉、〈語る〉、〈定める〉....などです。

こららの〈内・存在〉の仕方は、配慮という、さらに詳細に特長づけねばならない在り方をもってい ます。」

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「世界=内=存在」にあるとは、私たちが客観的(物理学的)な現実そのものを生きているのではな く、それぞれに固有の、また他者が組み込まれた意味・心情・価値の秩序の領域(=「世界」)を生き ていることをいう。

「世界の世界性」(『存在と時間』第一篇 第三章)

上記のようにハイデガーは「世界」の構造を規定したのち、「世界」が「世界」であること〔世界性〕

をさまざまな述語をつかい分析をしていく。

環境世界のなかで出会う事物の存在の世界性について、「用在性」とそのもとで働く「配慮的な気遣 い」との在り方についてハイデガーはハンマーを例にとり次のように説明し分析する。ハンマーは客 観主義的、科学的な視点でみると、鉄と木によってできた、釘をうつための道具。重さは○○という ふうに言える。しかし、人が生きられる世界から見た場合、道具として使用するそのつどに、手頃な 重さだとか、重すぎてこの狭いところでは使えないとか、といった、そのもののあり方が露わになっ ていくものである。ハイデガーはこの時に働く力を「配慮的な気遣い」と術語をつくり分析を展開し ていく。

またレーヴィットの論考からは、人間の共同相互存在の分析を補助線として活用する。

3)人間は自分と他者という相互補完的にあって、共同相互存在という関係によっておこる様々な意味 によって規定されている

「直接的な〈相互に対する存在〉にぞくする、こうしたいっさいの関係にあっては、だから、両者の いずれの側も自己固有の者として規定されない。互いに帰属する者として規定されるのだ。にもかか わらず、ただ直接的な〈相互に対する存在〉という関係からのみ、そしてそうした関係にとってだけ、

各人がじぶん自身にそくして真に自立的であること(《私自身》と《きみ自身》であること)が、そ れぞれ関係をはなれた現存在であることを相互に承認しあうかたち展開される。」

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私たちは、レーヴィットが説明したように、ただたんに他者のかたわらに在る人という形で生きて いるのではない。たとえば学校という関係において、「教師」は「学生」にとっての教師であり、また

「学生」は「教師」にとての「学生」である。しかしそれぞれはじぶん自身であって、他者ではないの だから、じぶん自身の関心や他者への配慮の仕方によって、また他者が規定されていくという側面を もつ。いわば学校という関係そのものと、じぶんと他者という関係も、関係が関係にそくして規定さ れるように、二重にも四重にも規定されるのである。

このように他者と自分が規定しあう関係が関係にそくしていることが、共同相互存在がもつ非明示 な動機になっていることを、レーヴィットはつぎのような人間的な生における現象を取り上げる。

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「他者を励ますことでひとはじぶん自身を元気づけ、他者の忠告することでじぶん自身に訓戒を与 える。じぶん自身に責めを負うことで他者を許し、他者に自由を与えて、自身が他者から自由になる。

他者からじぶん自身を解放することで、他者にその自由を返還する。じぶんが妻にとってふさわしい 夫ではないと妻に宣言し、そのことで妻に、妻がじぶんにふさわしい妻ではないと宣言する。他者を 批判して自分自身を正当化し、他者を正当化することでじぶん自身を批判する。他者を攻撃して、そ のことでじぶん自身を防御する。第三者に反対して第二の者を護り、じぶん自身を顧慮してこの第二 の者を護る等々である。」

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なぜ、私たちはこのような複雑な言動を行うのだろう。

ここには、まず他者に対して影響をあたえ、その影響から自分を高める行為がある。(反響による存 在確認)たとえば他者を「励ます」、他者に「忠告する」。そして他者の世界のなかにいる自分を確認 し、「元気になる」「訓戒を与える」

また、じぶん自身に対して、他者への影響を贈与する行為もある。たとえば、じぶん自身に「責め をおう」、そして「他者を許す」(さらに反響による自己確認がつづくが隠されている)

また、じぶん自身の他者にたいする場所を先取りする行為もある。たとえば「じぶんが妻にとって ふさわしくない存在と宣言する」、「他者に自由をあたえる」。そのことでじぶん自身の位置を先取りす る。

このように、ひとは自分の行動が他者に及ぼす効果によって、その意味(=じぶんが何者であるか)

を教えられるものであるし、反対にひとは他者にとって自分の意味(=じぶんが何者であるか)を指 示することによって、じぶんの他者にとっての意味を操作しようとするものでもある。いいかえれば 他者をじぶんの理解のなかへ押し込めようともし、じぶんの世界に他者を同化させようともする者で もある。このような両義的なことがおこる構造については、ハイデガーが「配慮的な気遣い」という 本質を見いだしている。

これらの現象学的な思考から導かれた概念を、実証できない概念であるというように科学的、客観 主義的にとらえてしまうことは誤りである。現象学的に「本質」を取り出すという意味は、科学的に 実証できるような限りなく真理に近い概念を創出することではない。だれにとってもそうだと了解で きて、かつあまりの当たり前さの影にかくれて、透明になっていたことやそのしくみを見いだすこと を意味している。ここで現象学に対する誤った解釈に異をとなえてきた竹田の言葉を引いておきたい。

「現象学的な発想の根本は、あることがらの「本質」はふつうの人間の生の経験の中に必ず存在す る、という点にある。たとえば、ハイデガーが「現」の本質を取り出すさいに見たように、「生」の本 質は何かという問いの答えは、各人の「生きることはどういうことか」についての漠然として了解か ら(これを鋭くしていくという形で)取り出されなくてはならない。これがまず第一の原則である。

つぎのこの「本質」を取り出すというのは、「生とは何か」についての何か形而上学的な「真理」を発 見するといったことではない。あることがらの「本質」を取り出すとは、その「言葉」で人々が了解 しているもっとも核心的な共通項を括り出すということを意味する。だから「本質」を取り出すこと は何らかの真理を見出すことではなくて、それまで適切な形で成立していなかった共通了解の土俵を 作りだすことなのである。」

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あることがらの「本質」はふつうの人間の生の経験のなかに必ず存在する、と考えるのが現象学的 思考である。つまり、ふつうに行われている具体的な介護という生の経験のなかで、その「人間存在 とは何か」というものの「本質」が存在するはずである。つぎに、介護福祉士養成教育における実習 で学生が経験した事例をもとに、ハイデガーとレーヴィットの論考の補助線を借りて考察を行ってい く。

3、3つの事例とその解釈

介護福祉学生が行う実習では、介護のおこなわれている実際の現場に立ち会うから、理想と考える ような介護者と利用者の応答場面にも出会うけれど、これは介護なのかとおもわせるような場面にも 出会う。彼女たちのひとりがこんな場面を報告した。

事例1:私だけで〈わたし〉を規定できる一方的な場となりうる介護の不思議さ

私は実習に行き、一部の職員のコミュニケーションで納得のいかないことが何度かありました。その 施設に性格が頑固なのか、もう3日間食事をされない利用者がいました。職員さんは何度も声掛けをし て食べてもらおうとしていましたが、何を言ってもその利用者は食事をしてくれません。その応答のイ ライラもあったようで、ある日職員がいつものように食事をしてもらおうと声掛けをしていました。し かしその利用者は一向に食べてくれる気配はありませんでした。何かぶつぶつと喋っていたのですが職 員は利用者の真後ろで「何喋ってんのか分んないんだよ」と呟いていました。イライラしてしまうこと もあるかもしれませんが、やはり利用者の声をあまり聞かないでそういうことを言うのはよくないと思 いました。利用者も何らかの理由があって食事をするのが嫌だったのだと思います。いくら相手が強気 な態度でいたとしても、介護をする人間がその人よりも強気でいてはならないと思いました。こちらが 心をやわらかくしないかぎり相手の心も硬く閉ざされてしまうのではないかと思いました。

介護という人と人との関係は不思議な世界である。レーヴィットはふつう親子という人と人との関 係にあっては、父が子供である人を「子」として規定しつつ、じぶん自身をその子の「父」として規 定するものであると言う。たんなる顔見知りの関係ですら、ひとびとは相ー互に知り合っている。そ れぞれの者が他方の者の顔見知りであるというのは、よく考えればそうである。私が〈わたし〉であ りうるには、〈他者〉の「世界」のなかに〈わたし〉が確かに存在することを実感することと同義に、

わたしがわたしを感じ確認できるのである。あまりに自明だ。

介護という人と人との関係では、どうなのか。まず〈あなた〉は、〈介護を必要とし、積極的に私を 使いたいと思うあなた〉なのか〈介護はされたくないと思っているあなた〉なのかの違いによって、

〈わたし〉と〈あなた〉の規定のされ方がことなってしまうことがわかる。それも当たり前だ。

たとえば、介護を生業とする〈わたし〉は、介護という世話を必要とする〈あなた〉を、〈要介護者〉

とか、もっとやわらかく〈介護サービス利用者〉と規定しつつ、じぶん自身をその〈利用者〉にとっ ての介護者と規定する。

私は介護職員ですということには、このような前提があって自明になっているわけだ。

しかし、〈わたし〉は他者の他者として規定されるから、〈他者〉である〈あなた〉が、〈介護を必要 とし、積極的に私を使いたいと思うあなた〉なのか、〈介護はされたくないと思っているあなた〉なの

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かによって、〈わたし〉はまったく異なる〈わたし〉として立ち現れるはずだ。ところが、私はいつも 介護する人であり、変わることはない。介護という場の不思議さは、私が〈あなた〉にとっての〈わ たし〉ではなく、私だけで〈わたし〉と規定する一方的な場となりうる不思議さがある。

「あなたのために介護する」という行為は、「あなたのために介護をしてあげる」という意識がしら ぬまに忍び込むことはよく知られていて、たいてい介護者は「介護をさせてもらう」という言葉によ って、そのしのびこみを解消しようと試みてきた。しかし「介護をさせてもらう」ということばの謙 虚さとはうらはらに、「介護をしてあげているのは〈ワタシ〉なんだよ」という〈ワタシ〉が隠れてい ることを見えなくしてしまう。

このトリックはもっと社会的に洗練させることもできる。「あなたのために介護する」という行為に 高い価値をもつ理念という御旗をつけることだ。「あなたのために介護をしてあげる」という意識がし のびこむのではなく、例えば「自立を支援するという理念をもって専門的に介護する(ワタシ)」とい う御旗を立てることによって、大手をふって、〈あなた〉のまえに「介護をしてあげている〈ワタシ〉」 が立ちはだかることができるのである。そして、このときには、(ワタシ)は、この御旗によって規定 されることが起こる。そうする〈あなた〉はもうだれでもよいのだ。この高い理念を掲げ専門性を追 求する〈ワタシ〉には、もう〈あなた〉は必要ないし、〈あなた〉が〈あなた〉であるために、〈わた し〉が必要なことなんて関係ない、のだ。

「介護をさせてもらう」ということで、ひとはワタシ自身の謙虚さを宣言し、「自立を支援するとい う新しい理念をもって、専門的な介護をする」ということで、ひとはじぶん自身のおこないの迷いを 隠そうとする。介護関係のような、共同相互存在の関係においては、ひとのふるまいには両義性がそ の根底にふくまれていくことをしらされる。

レーヴィットの論考の補助線の延長に、介護における生の現象が起こっている。そして、その補助 線はまた逆にも引くことができる。ひとは自分の行動が他者に及ぼす効果によって、その意味(=じ ぶんが何者であるか)を教えられるものである。つまり介護にしても、ほかの対人援助の生業にして も、専門家としての〈ワタシ〉もまた、〈あなた〉とたがいに共にある〈わたし〉であるという観点を みいだし得るのだ。

たとえば、北海道浦河にある「浦河べてるの家」のソーシャルワーカーであった向谷地は、精神障 害者であるメンバーの度重なる混乱と器物破壊におよぶ事態のなかで、かれらの生きる「世界」にた つ自分の位置を「ガッカリしていない」という点であることを見つけ出したことを文章にしている。

その言葉を引いてみよう。

「間もなくその彼が、重い足取りでやってきた。本人だけでなく、実は、精神科病棟のスタッフ全 員が、度重なるこの現実に内心深く傷ついていた。そんな彼を目の前にして、私は、必死になってこ の現実と向き合う言葉を探していた。そして、私は言った。「大変だったな・・・辛いな・・・、恐ら く君は、自分自身に一番今、ガッカリしていると思うけれど、悪いけれど、私は全然ガッカリしてい ないからね・・・」。(略)私は、一人の援助者として、この現実の「どこに立つべきか」を懸命に探 していた。そして見出したのが、「ガッカリしない」という「立つ位置」だったのである。」

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向谷地のいう「この現実」とは、精神障害をかかえた当事者である〈あなた〉の症状による爆発の もたらしたこの生きられている「世界」である。またその苦労の果ての「世界」と重なっているのは、

まぎれもなく巻き込まれつつ生きる向谷地自身の「世界」である。この重なりのなかで、必死に探し だした、その〈あなた〉に向かう立つ位置は、じぶん自身の「世界」にじぶんが向かう立ち位置、そ のものなのである。つまり「ガッカリしない」は、「その事態とはかかわりなく、〈あなた〉に対して ガッカリしない」ことであり、「ガッカリしない」という〈わたし〉の確信は、〈あなた〉のつながり のなかで、補強してもらっていることの発見であったのだ。

事例2:〈あなた〉が〈わたし〉に入り込んでくる余地

実習中でも学生達は容赦なく、こんな共同相互存在の関係の場面に出くわす。実習施設での巡回指 導中に学生のM子にこんな相談をうけた。

M子が利用者さんの言葉をどう理解してよいのか、分からなくて悩んでいた。利用者さんはSさん。

Sさんは最近体調が悪く、今食事はほとんどとれず、飲水も少なく、尿も混濁しているそうだ。実習指 導者から、丁寧な病状の説明を受け、水分をとってもらうために、食堂でM子はSさんがお茶ゼリーを 食べるのを介助していた。その食堂では、レクリエーションが行われ活気が満ちているのに反し、Sさ んは無表情で苦しそうにゼリーを口に放り込まれるように介助されていた。

M子はゆっくりと時間をかけて、Sさんのために用意されたお茶ゼリーを全部食べてもらったうれし さから「ありがとうございました」と言葉をかけたそうだ。

すると、無表情無言だったSさんが

「情けないよ、、、口に入った半分はこぼしてしまうんだから、、、、」 と小さくつぶやかれた。

M子はこの言葉を聞き、無意識で「ありがとうございました」と言った言葉がSさんを傷つけたのだ と思ってしまう。彼女はすぐに気持ちが表情にでるタイプで、「どうしよう。傷つけてしまったわ」と 真剣におろおろと泣き出しそうになる。

私とM子は、一緒に次のような質問をしながら、二人でゆっくりとSさんの気持ちについて考えてみた。

「ちょっと待って、考えてみて! Sさんは多分もううっすらと死も覚悟し、だれにも話せずに自分の 中だけにこもっていたのだとしたら。どう?」

「M子の「ありがとうございました」という言葉と本当に感謝し伝えようとしている姿にSさんは何を 感じたのかなあ?」

「その後Sさんの食欲や表情はどう変わったの?」

「それが、その日の夕食は一人で全部食べられたんですよ。職員さんも不思議だっておっしゃっていま した」

ここでSさんに何が起きたのかは知る由もない。しかしM子のこの「ありがとうございました」と いう言葉やその声の質や、真剣に感謝するその表情が、Sさんに影響した可能性は十分に考えられる。

いつもSさんは介護職員に一方的に介助され、時には「なんでたべられないのかねえ」というよう な表情で心配されるという立場である。だがM子の発した「ありがとうございました」という言葉は

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同義的に、M子に対して「生の体験から介護の仕方を教えてくれる実践的な指導者のSさん」を生み 出した証である。敬意を表す情感と共に、Sさんのこころに響いたのではないだろうか。Sさんのそ のつぶやきは傷ついたからではなく、真剣に介助する若い人への感謝を込めたメッセージでもあり、

「もうちょっとがんばらなければな」という自分自身への言葉だったともとれる応答を生み出していく。

このような場面はごくありふれていて、どこにもありそうだ。M子はSさんの言葉を聞いたままに 素直に受け止め、瞬間的に自分の言葉や行為に冷汗し、なんということをしてしまったのかと反省し た。また本当にM子の言葉は、最初はSさんにとって皮肉にもとれたのかもしれない。そしてそのS さんの返した言葉をすぐに傷つけてしまったと素直に感じ取ったその姿に、Sさんの気持ちが触発さ れたともいえないだろうか。

自分の思い込み的な解釈であいての言葉を聞いてしまったM子の「世界」とSさんが今生きている

「世界」で起こった現象の事例だが、同時に、Sさんの言葉をすぐに理解し、解釈し素直に恥じ入り、

非言語で深くお詫びを示すM子が、意図的ではないからこそ、Sさんのこころも動かし、生きようと いう力を生み出したのではないか。

このように考えると、正しいコミュニケーションというようなマニュアル的なものはありえず、だ からこそ、失敗と思うような応答もまた、人間関係をより深く転じるような機会となるのだと知らさ れる。

介護という場は、介護を受ける人、介護をする人という構図を前提として隠しもつ。そのため、介 護を受ける人も、介護をすると思う人も関係性が固定されてしまい、それぞれのアイデンティティが 固定され、一方通行的な関係となる。とりわけ認知症や失語症などの、コミュニケーション障害をも つ方々との介護関係において、私たちは認知症の方が今感じている世界を思い描くことができず、彼 らをなんだかよく分からない「異質な世界に生き、わけの分からないことばを使う人」として、なん とか自分の理解のなかに押し入れようとする。または同じように専門家としての倫理感・責任感から

「庇護する対象」として、カテゴリー化してしまう。しかしそのようにされて、〈わたし〉の前に立つ 他者は、もう生きている〈あなた〉ではなく、虫ピンで留められ、分類された標本としての他者にな ってしまう。一方的に介助され、時に「なんでたべられないのかねえ」と文字通りひとごとのように 観察される他者となる。

〈わたし〉と〈あなた〉は相互に補完しあい、相互にじぶんを確認しあうことをハイデガーとレー ヴィットの論考の補助線で確認した。〈わたし〉が〈あなた〉を未知の人と規定することは、〈あなた〉

が〈わたし〉に入り込む余地をうしなわせ、共同相互存在を生み出す「共通世界」を痩せさせていく。

〈あなた〉が〈わたし〉に入り込んでくる余地について、介護は何も意識もせず、用意もしてこな かった。ただほんの少しの余地でもよい。エプロンのひもをたて結びしかできないことでよいのだ。

〈あなた〉が〈わたし〉の背中を、「ほら、しっかりしなよ」とぽんと後ろをおしてもらえるような余 地をもつことでよい。心配したり、怒ったり、泣いたりできる「世界」の重なりがあればよい。〈わた し〉と〈あなた〉が相互に補完しあい相互にじぶんを確認しあうことは、人間が互いに共にあること、

それはただ並列しているのではなく相い互いにあることである。相い互いに理解しあうということは、

〈あなた〉のわからさなはそのままに、〈わたし〉は〈あなた〉が応答するそのことば、態度を解釈せ ず、引き受けますというということである。なぜなら、〈あなた〉の応答そのものが、今ここに在る

(12)

〈わたし〉そのものだから。

事例3:互いに共に語り合う応答という場の構造

少々ユーモアがすきな認知症の高齢者(いかにもお婆さんという風貌の佐藤さん)と、中年の介護 職員(高橋さん(仮名)のやりとりを実習生が報告してくれた。

佐藤さん:「早く部屋につれていってくんないかね」「早く部屋につれていってくんないかね」

高橋さん:「食べてからすぐに寝るとなんになるんだっけねえ」

佐藤さん:「うし」

高橋さん:「ちゃんとわかっているじゃないの」

「私、佐藤さんの世話ならいいけど、牛の世話はいやだわ」

佐藤さん:「あんたは冷たい人だねえ。こころが冷たいよ」

高橋さん:「冷たくないよ。私は佐藤さんが好きなの、牛はいやなの」

こんなやりとりの後、その当の認知症高齢者は、部屋に帰りたいことも忘れたのか、おいしそうにご 飯をいただきながら、その職員に笑顔をむけて「モ〜」「モ〜」と牛のなきごえをだして、ご飯の残り を平らげていた。

ここで起きていることは何であろうか。

まず最初に介護者の高橋さんが、佐藤さんに問いかけた言葉に注目してみる。

「食べてからすぐに寝ると何になるんだっけねえ」

たぶん佐藤さんの年代だったら、この言葉は、日々の食事時に行儀の悪い子供達への躾として伝え た言葉であろうし、それはまた自分が親や祖母たちから、聞かされた言葉だったはずである。この躾 の言葉が、佐藤さんを懐かしい思い出の場面へ連れもどしていく。同時に介護者の高橋さんにもおな じ経験をもたないとこの言葉をつかうことができない。ここで二人が相互にやりとりしながら、その うしろで動く二人の「世界」はとても相似した意味をもっているはずである。

そして、高橋さんのその問いかけは、母性的で、子供に話すような話し方だ。福祉の理念でいう

「人間の尊厳」を守るというテーゼからは外れていて、専門家らしくない。

そして、ここで「佐藤さんの世話ならいいけど、牛の世話はいやだわ」と切り返す。

佐藤さんの、「早く部屋につれていって」という症状を「牛」と見立てて、牛の世話はいやだけれど、

佐藤さんの世話なら大好きなんだよと伝えていく。ここは認知行動療法などで多用される「外在化」

という方法が使われている。当人とその症状を「牛」という言葉でわけていく方法であるが、介護者 の高橋さんは、そんな専門的な意図などなく、自然に応答している。

ここで佐藤さんも言い返す「あんたは冷たい人だねえ。こころが冷たいよ」

少々ユーモアのこころもあるが、また意地っ張りでもある佐藤さんらしい応答だろう。その言葉とう らはらに、真意は「あんたは温かい人だねえ。小さかったころの食事の時のあの懐かしい頃を思い出 したよ。」ととれる。ここは意地っ張り同士の生きられた関係としての応酬が続く。

そして介護者の高橋さんが再度「私は佐藤さんが好きなの。牛はいやなの」とだめ押しの応答。そ して、さらに佐藤さんは「モ〜」「モ〜」と牛の鳴き声を出して応答する。

(13)

まさしく、一人の高齢者の認知症状らしき「呼びかけ」と、それに応えた介護者の「応答」のやり とりの間(ま)において、言葉や症状をこえた共同の時空が生まれている。先の事例でみた、共同相 互存在を生み出す「共通世界」を生み出す余地がここにある。

ここには、相手の言いなりになるというネガティブな受け身ではなく、じぶん自身を埋め合わせる だけの認知症の方への特別視も警戒心も献身したい(=癒されたい)という心ももたずに、ただ応答 している。そうしたら、ふたりでこんなところにきちゃった、こんなふうになっちゃったという、や りとりである。この無距離感・無空間感こそ、ふたりの間の共同相互存在を生み出す余地なのである。

先にレーヴィットの論考を解釈し、次のように述べた。ひとは自分の行動が他者に及ぼす効果によ って、その意味(=じぶんが何者であるか)を教えられるものであるし、反対にひとは他者にとって 自分の意味(=じぶんが何者であるか)を指示することによって、じぶんの他者にとっての意味を操 作しようとするものである。いいかえれば他者をじぶんの理解のなかへ押し込めようともし、じぶん の世界に他者を同化させようともする者である。

さらにこの事例を読み、つぎのように付け加えたい。

ひとは、〈わたし〉にとっての〈あなたの存在〉の意味を宣言することによって、〈わたし〉にとっ ての〈わたし自身〉の意味を教えられ、そのことが、〈あなた〉にとっての〈あなた自身〉の意味をみ いだすことになる。

4、考察

本稿論考の目的は、介護実践の基盤となる「人間の理解」がどのように捉え直されるものかを現象 学的な思考をつかい明らかにすることであった。その道筋は、現象学的な思考を補助線にして、学生 が見た介護の場で起こっている現象から、介護の現象でおこる「人間というものの存在の在り方」の 構造について考察してみた。

たしかに現象学的な思考に慣れていないために、論考の精度は甘いことは確かである。しかしここ までのところ、従来強く強調されてきた客観主義的な介護福祉観や人間観とはまた異なる「人間観」

がみいだせると言わざるをえない。

とりわけそう確信させるのは、人はだれもが同じ「客観世界」のなかで暮らしているという暗黙の 思い込みのなかでいたことを強く気づかされたことである。たしかに介護福祉概念において、援助の 対象となる方の生きてきた歴史や価値観や生活習慣などの個別性を大切にするということは大切なテ ーゼである。しかしこの理解には、介護の対象となり観察される者としての「存在的問い」の視点に よる解釈であった。それぞれに固有の、また他者が組み込まれた意味・心情・価値の秩序の領域(=

「世界」)を、過去もそして今も生きていること、そしてその「世界」に観察しているという当のわた しが含まれているという理解の深さはなかった。

この生きられる固有の「世界」には他者である(わたし)が組み込まれているということが、介護 のみならず対人援助の援助観にとって重要な鍵となる概念に発展すると思われる。事実、北海道の浦 河べてるの家で行われてる、向谷地氏らの実践は、この観方から再解釈されはじめている。

 注)

さらに、人間が相互補完的にあって、共同相互存在を生きることの構造によっておこる、他者や自 分、また第三者のやりとりの複雑さと深さが、人間観に加わるであろう。「自立を支援する」「人間の 尊厳を護る」ということがおこりうる瞬間は、それはほんとうに希有なことかもしれないと考えさせ

(14)

る。これらの介護理念がどのように実践ができるのかと問うてみると、やはり人間が他者の他者とし て相互補完的にあって、共同相互存在を生きるという理解がその基本になるであろう。そしてその方 法には、具体的な介護という場でおこっている現象から、その本質を探求する現象学の思考原理も加 えることができるであろう。

引用文献

1)E.フッサール、佐竹哲雄訳「厳密な学としての哲学」1969、岩波書店、55p 2)ハイデガー、桑木務訳、「存在と時間 上」、岩波書店、1960、126-127p 3)ハイデガー、桑木務訳、「存在と時間 上」、岩波書店、1960、111p 4)レーヴィット、熊野純彦訳「共同存在の現象学」2008、岩波書店、178p 5)レーヴィット、熊野純彦訳「共同存在の現象学」2008、岩波書店、189-190P 6)竹田青嗣「ハイデガー入門」講談社、1995、103p

7)石川准編『脈打つ身体 Material身体をめぐるレッスン3』:向谷地生良「もう一つの当事者研究 ―当事 者としての援助者」、2007、岩波書店、206p

注 釈

鷲田清一「老いの空白」弘文堂、2003 、小澤勲編「ケアってなんだろう」医学書院、2006 など

参照

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