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21世紀を見据えた歴史教育の基礎概念に関する一考察 : 「ディアスポラ」概念の検討を中心にして

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Academic year: 2021

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(1)Title. 21世紀を見据えた歴史教育の基礎概念に関する一考察 : 「ディアスポラ 」概念の検討を中心にして. Author(s). 大橋, 信; 宮崎, 正勝. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 52(1): 133-147. Issue Date. 2001-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/718. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (人文科学・社会科学編) 第52巻 第1号. 平成 1 3年 9 月. ) Vo l lsc i i iぢ ofEduca誼on (Hmmani恒e融通dsoc も霊園doUnivers a ences JoumalofHo ‐1 .52 , No. ber Septe 1 m L , 2001. 2 1世紀を見据えた歴史教育の基礎概念に関する-考察 - 「ディ アス ポ ラ」 概念の検討 を中心 に して- ingE1 i icConceptsof Teachi A Studyo l l鮒 一五rstCentuly sto巧rtoSurveytheIWe IBas l. 大橋. 信・宮崎. 正勝. (北海道教育大学釧路校社会科教育研究室). 0 融SHI 雌 o t t s法a su o・M配鯖 皿 Ma i 主由叡doUni KushdroCamQpus iぢof懲du {盟t on vers ,Ho. はじめに 9世紀の人々が, 20世紀に対して楽観的であったのとは異なり, 我々に見える21世紀の姿はバラ色のそれ 1 ではない. そのことは, 「未 開」 から 「文明」 への 「進歩」 を無条件に肯定してきた19世紀的社会諸科学に 基づくパラダイムが限界に達しているということをあらわすものなのだが, 歴史教育においては, こう した 認識がいまだ十分では無いように思われる. その理由のひとつは, 歴史教育の内容が, 「文明」 ・ 「未開」 の二 分法 に 基 づ く 「ヨー ロ ッ パ 中心 史 観」 か ら脱 却 しき れてい な い という と ころ にあ る.. たしかに 「学習指導要領」 においては, 「諸地域世界」 という 概念をも とに, 世界の多様な史的展開を説 明しているが, 学習者のレベルにおいては, 「ヨーロッパ中心史観」 に基づく歴史意識が依然として根強い のではないだろうか. その理由は, 「国家」 や 「民族」 を固定的に見る視点に求められる‐ つまり, 「国家」 や 「民族」 を動かしがたい概念として据えることで, 進んだ/遅れた 「国家」 ・ 「民族」 という区分がなさ れ, 「文明」 ・ 「未開」 の二分法に基づく 「ヨーロッパ中心史観」 の骨格が形作られるのである. 20世紀の大部分において, 「文明」 化=欧米化は, 「進歩」 として肯定的に捉えられてきた. しかし, その 「進歩」 は, 「開発至上主義」 などの考え方と結びつき, 今日では, 深刻な地球環境問題を引き起こしてい る. 21世紀におけるもっ とも重要な人類の課題が地球環境問題であるこ とを考 えれば, 歴史教育において 「ヨー ロ ッ パ 中 心 史観」 か らの 脱 却 を目 指 す こ と が必 要不 可 欠 に なる と 言 え る. そ れ に は 先 ず, 「ヨー ロ ッ. パ中心史観」 の基礎概念になっ ている 「国家」 や 「民族」 を可動的に見るための視点を模索することが必要 になる.. 本稿は, 「ヨーロッパ中心史観」 のどのような点が, 今日の地球社会にそぐわないかを示すとともに, 「国 家」 概念の歴史性と 「民族」 概念の可動性を考察し, それに代わる パラダイムを模索することを目的として い る.. 3 1 3.

(3) . 大橋. 信・宮崎 正勝. 1. 「文明」 ・ 「未開」 の二分法的歴史観の動揺 200 0年10月11日付の北海道新聞に, 「強くなる NG0, 途上国」 と題する特集記事が掲載された. その記 事によると19 99年11月に米国シアトルで開幕した世界貿易機構 (WTO) の閣僚会議で, アフリカな どの途 } 近年 途上国が欧米主導の世界 上国約60ヵ国が, 日米欧主導の閣僚宣言のとりまとめ に反発したという1 . , 統治に異議申し立てを行う傾向が強まっている. こう した事象は, 地球社会がヨーロッパ中心主義から脱却 し, あらたなパラダイムを構築する 「過渡期」 にある ということを示している‐ こうした状況に対応し, 「過渡期」 の歴史教育はヨーロッパ中心の歴史の見方, 「ヨーロッパ中心史観」 か らの脱却の道を模索しなければならない. ヨーロッパ中心史観の特色に関して, 小原友行は次の三点を挙げ ) て い る2 ‐. ① 「古代.中世・近代」 という三時代区分 ②15世紀末から1 6世紀にかけての大航海時代から, 世界の一体化が始まるという解釈 ③産業革命と市民革命を通して, 資本主義社会と近代市民社会を実現し, 国民国家を成立させたという, 近 代国家形成についての解釈. この分析を参考に, 脱ヨーロッパ中心史観の方途考えてみる‐ まず①の見方であるが, この三時代区分は ヨー ロ ッ パ の, そ れも ほ んの 一 部 の地 域 の歴 史展 開 を 説 明す る に過 ぎな い 概 念 であ る と いう こ と が, 指摘 さ. れて久しい. この偏狭な時代区分を, 非ヨーロッパ地域に機械的に適用する歴史の見方が, いまだに流布し て いる こ と が 問 題な の である‐. 三時代区分法での 「近代」 とは, すなわちヨーロッパ自身のことであり, 「古代」 ・ 「中世」 の段階にあ る ア ジ ア・ ア フリ カ 地 域 が, 近代 化 = ヨー ロ ッ パ 化 をめ ざす の は自 明 の理 である とさ れる. しか し, こ の見. 方は, 多様化の進む地球社会の実状や劇的に進行する地球環境問題に対して有効な視点を与えるものである とは言えない‐ ヨーロッパ中心史観の特徴の一つである 「古代・中世・近代」 の三時代区分は, 時代が下る につれ社会が 「良い」 方向に向かう という 認識を内在している. すなわち, 産業革命を経た近代ヨーロッパ を モ デル と し, 非 ヨー ロ ッ パ は 科 学 ・ 技 術 を 進 展 さ せ な け れ ばな ら な い と いう こ と で あ る. しか し, そ れ. は, 生産力の向上を無批判に受け入れる 「開発至上主義」 に結 びつくものであり, 資源の枯渇や地球の浄化 能力の飽和状態が指摘される今日の地球社会において有効な枠組みとは言えない. こう した 「進歩 史観」 は, マ ルクス 主 義 と 結 びつ け て考 え ら れる こ と が多 い‐ マ ルクス 主義 にお い て は,. 共産主義・社会主義の実現を目標とし, 歴史をそれに向かって単線的に発展するものと捉える. そうするこ とで, 共産主義.社会主義の出現を 「必然」 と考えることが可能になるのである‐ しかし生産力の向上=階 級闘争→社会の発展とする単純な考えは, ソ連邦の崩壊, 中国の市場経済への移行な どによってもろくも崩 れ去った. それをフランシス・フクヤマは, 冷戦が終わって西欧流の自由民主主義に逆らう理念が姿を消し ) た以 上, ヘー ゲル 的な意 味 で歴 史 は 終 わ っ たの だと 説 い た3 . しか し, 「過 渡期」 にお い て見 直 しが迫 ら れて いる の は, マ ルク ス 主 義 的 な 発 展 モ デル ばか り で は な い‐. フクヤマが勝利宣言を下した自由主義的な発展モデルも, 科学・技術の無限の進歩を信じる 「進歩史観」 に 基づいていることにはかわりはない‐ こう した 「進歩史観」 に共通した性格について野田宣雄は, 「科学と 技術の進歩・発展には限界がなく, また, 科学や技術が進歩すればするほど文明は発達し, 人間は便利で快 適な生活を送ることができる‐ それ ばかりか, 人間をとりまく物質的条件が向上すれば, 精神的にも倫理的 ) という科学・技術信仰を挙 にも人間は高潔な存在となり, 国家や階級に分 かれて争うこともなくなる」4 . げている‐ こうした科学・技術信仰が自然と人間の対立の図式を作り出し, 地球環境問題を深刻化させたの 134.

(4) . 21世紀を見据えた歴史教育の基礎概念に関する一考察. で はな い だろう か. 科学 ・ 技術 と 人 間, あ る い は 自 然 と の 関係 につ い て, 小 林 道 憲 は こう 述 べ て い る. 「二 十 世 紀 の 技 術 も,. 人間の身体の延長として, 人間と環境を結ぶメディアであっ た. だが, 二十世紀は, この手段であり, 中間 者であり, メディアであっ たものが自己目的化し, それ自身として巨大な膨張を遂げた‐ そのために, 本来 の目的であった人間や自然までが, 逆に手段化してしまった‐ 人間も自然も, 巨大な技術文明をつくるため ) 人間は 道具=メ ディアを通して自然と関わる. その道具が大規模 の資源にす ぎなくなっ たのである」5 ‐ , 化 したも の が科 学 ‐ 技 術 であ る とい える の だ が, そ の 科 学・ 技術 が, さ ら に拡 大する こ と によ っ て 人 間 と自 然 の距 離 が ひらき, 疎 遠 にな っ て い っ たの で ある‐ 人 間 と自然 が疎遠 にな っ て いく こ と で, どの よう な結 果 がも た らさ れた の かと いう こ と につ い ても 小 林 は. 答えを用意している‐ 「それでいて, この自己目的化した巨大な技術文明の膨張の行き着く先 は, 不確定で 無目的なのである‐ ここでは, 人間から道具へ, 道具から自然環境へ, 自然環境から道具へ, 道具から人間 へ と いう 連 続 的 円環 が破 壊 さ れ, そ の代 わり, メ ディ ア そ の もの が た だ ひたす ら 自 己膨 張 して いく‐ そ の た. め, 人間からは自然 が遠ざかり, 自然からは人間 が遠ざかっ てしま っ た‐ そこに目に見えて存在する もの は, 諸メディアが複合して巨大化した機械的世界である‐ 人間はこの巨大化した道具の道具になってしまっ ) 人間は メ ディア=科学・技術 がつくり出 した巨大な機械的世界に取り込まれてしまっ たというの た」6 ‐ , だが, このことは, 科学・技術のために, 人間は自然と戦うことを要求されてきたというこ とを表してい る. 今日, 人間と自然は闘争状態にあるとされるが, こう した状況が続け ば必然的に人間と自然は滅亡して しまうことになる‐ こう した最悪のシナリオをさけ, 持続可能な社会を提案するということが, 今日の地球 社会における歴史教育に課せられた問題であろう‐ 次に②の分析であるが, 15・16世紀からヨーロッパ主導で世界の一体化が進行したという認識は不十分で ある. 現在では, 地球上にくまなく行き渡った人類であるが, アフリカに出現した共通の祖先から始まっ た という仮説が, 近頃示されている. この説に従うなら ば, 人類は, その発生以後, 断続的に世界の一体化の プロ セス の 中 で生 き て き た という こ と になる. そう 考 え れ ば, 人類 史 と は, 地 球 規模 のネ ッ トワーク の 絶 え. ざる 再編の過程であると見なすことができ, 15・16世紀の大航海時代も, 数ある 「過渡期」 の一つであった と いう こ と が で きる‐ ある い は, そ の15.16世 紀 の 「過 渡期」 に して も, ヨー ロ ッ パ 主 導 でネ ッ トワーク の 再編 が なさ れた と い う 認 識 に は疑 問 が残 る‐ つ ま り, ヨー ロ ッ パ は そ れま でネ ッ トワ ーク 帝 国- ア ッ バス 朝, モ ン ゴル 帝 国, ム ガル 帝 国な ど- が担 っ て き たア ジ アー ヨー ロ ッ パ を結 ぶ 交易 網 を力 ずく で奪 い 取 っ た だ けである と考 える こ と がで きる か ら であ る. 川 勝平 太 は, とく にイ ン ド洋 に進 出 した ヨー ロ ッ パ 勢力 に対 して 「ヨー ロ ッ パ の 進 入 によ っ て, イ ン ド洋貿 易 の担 い 手 はイ ス ラム 商 人か ら ヨー ロ ッ パ 商 人 に と っ て かわ ら れた‐ しか し, そ れ. は通商ネッ トワークを破壊したのではなく, 貿易構造はそのままであっ た. イスラム教徒が中東を経て西方 }と 述 べ て いる ヨ ー に伝 え てい た物 を, キリ ス ト教徒 が喜 望 峰 経 由 で 直 接 ヨ ー ロ ッ パ へ 運 ん だの であ る」 7 ‐. 6世紀からはじまる世界の一体化という認識に対し, 歴史の継続性と重 ロッパ中心史観が生み出した, 15・1 要性 を 確 認す る こ と によ り, ヨー ロ ッ パ 中心 史 観 も相 対化 さ れる の である‐. ③の近代国家形成の解釈についてであるが, まずは, それが現在の南北問題の一因となっ ている という点 から分析したい‐ 繰り返す ことになるが, 「近代」 とはヨーロ ッパ の時代であり, 「資本主義」 ・ 「民 主主 義」 などは, その価値基準である ために相対的なものとして考えなければならない. しかし実際には, それ ら諸概念を普遍的なものとしてとらえ, 近代史を, 非ヨーロッパ地域が 「資本主義」 ・ 「民主主義」 を受け 入 れな が ら 「近代 化」 して いく プロ セス, と して 捉 える 傾 向 が依然 と して 根 強 い‐ そ の ため にヨー ロ ッ パ の. 帝国主義支配が非ヨーロッパ地域に 「資本主義」 という 「富」 と 「民主主義」 という 「文明」 をもたらすと 135.

(5) . 大橋. 信・宮崎 正勝. いう誤っ た認識が生じてしまうのである‐ この考え方によれば, 「先進国」 と 「後進国」 という色分けがな され, 「後進国」 は 「先進国」 すなわち 「ヨーロッパ」 になることを目指すべきだということになる. しかしながら, 「後進国」 の 「後進国」 たるゆえんは, 「後進国」 が怠惰だっ たからではなく, 「先進国」 によって 「後進国」 の地位に追いやられたからである. 湯浅越男の言葉を借りれば, たとえば, イギリスに おける開発とインドにお ける低開発はいわばコイ ンの裏表のようなもので, 一つの歴史過程の二つの側面な ) す な わち ヨ ー ロ ッ パ の 非 ヨー ロ ッ パ 地 域へ の 進 出 は 「富」 や 「文 明」 をも た ら した肯 定 的な も の である8 . ,. のではなく, 地域の独自性を見失わせた否定的なものであると考えることが必要なになる. 以上, 「ヨーロッパ中心史観」 は様々な問題をはらみ, 「過渡期」 の社会状況を説明するに足るものではな い と いう こ と につ い て 述べ た. 次 に, こう した見 方 に 基 づ く 歴 史 教 育 の 問 題点 を 検 討 する. 小 原 は 「ヨー ,. ロッパ中心史観」 に基づく歴史教育を批判するポイントとして, 量的な批判, 質的な批判, 今日的な視点か ) らの批判 の三 点 を挙 げている9 . ま ず量 的 な批判 である が, こ れは空 間的 には世 界の 一 地 域 に過 ぎな い 西 ヨー ロ ッ パ の歴 史 に 時 間的 には ,. 18世紀後半以降の約200年間に過ぎない 「ヨーロッパの時代」 に, 世界史授業の約半分の時間が当てられる という 現状 に対する もの である. こ れは 先 に述 べ た ヨー ロ ッ パ 主 導 の 世 界 の 一 体化 と いう 認 識 に基 づ く と , 考え ら れる‐ こ の ヨー ロ ッ パ 重 視 の 考え方 は, た だち にヨー ロ ッ パ 至 上主 義 という 質 的 な もの に転 移する 可 能性 を は ら んでいる. 次 に質 的な批判 である が, こ れはヨ ー ロ ッ パ 的価 値 によ る 非 ヨー ロ ッ パ 世 界 の解 釈 によ っ て, ヨー ロ ッ パ 世 界, ヨー ロ ッ パ 人, ヨー ロ ッ パ 文 化 が最 高 であり▼ , 中心 であ っ た と いう, 一面 的な 見 方 に陥る という も の である. こう したヨー ロ ッ パ 至 上 主 義 は, 「古 代 . 中 世 . 近代」 の ヨ ー ロ ッ パ 的 時代 区 分 を, 非 ヨー ロ ッ パ. 地域に機械的に当てはめることによって起っ たということを既に述べたが, その結果, 南北問題の深刻化, 地球環境問題の発生, 偏見に満ちた異文化理解などが生じることになった. こう したヨー ロ ッ パ 至 上 主 義 が, 最も ダイ レク トに現 れる の は異 文 化 理 解 にお い て で あ ろう. 鴛. サイ ー. ドは, 西欧が非西欧をみるとき, 非西欧の現実をみるのではなく, 西欧が作り上げたイメージでみるという こ と を 「オリ エ ンタリ ズ ム」 という 概 念 で示 した‐ この 「オリ エ ンタリ ズ ム」 と いう 概 念 は そ の名 が示 す , 、. よう に, もともと中東地域に対する言説を分析するものであっ たが, 青木保は 「この言葉は異文化に対する 偏見というものの総称としても使えると私は思うのです‐ 政治的, 経済的, あるいは文化的に優位に立っ た 社会や国が, 違った文化を見て, それを一種の蔑みの対象とする ときに, オリエンタリ ズム的というふうに 0 }と述べ 概念の拡大を図っている それに従えば 近代日本のアジア認識というの 使えると思うのです」1 ‐ , , は, まさに 「オリエンタリ ズム的」 である と言える. 青木の言う 「文化的優位」 とは, ヨーロッパ中心主義 による も の であ り, そ れ に よ っ て ア ジ ア は 差 別 や 軽 蔑 の対 象 と な っ て しまう. グロー バ リ ゼー シ ョ ン が加 速. 度的に進展し, いやおうなく異文化や, 異文化を背負う人々と交流せ ざるをえな い今日の地球社会におい て, ヨー ロ ッ パ 中心 主 義 に基 づ く 「オリ エ ンタリ ズ ム 的」 見 方 は, 克 服 が 目 指 さ れる べ き である.. ヨーロッパ 中心史観に対する量的な批判は, それに高い価値を与えた結果であっ たという点で質的な批判 に通じるものであり, 質的な批判は, 今日の地球社会の現状から見てふさわしい枠組みではないという今日 的な視点からの批判に至る‐ 今日の地球社会を見てみる と, 日常生活において不断に異文化や異文化を背 負っ た人々との交流が拡大するのは避 けられないことである. たとえば, 東京女子医大の李節子の調査によ れば, 東京都区部で1997年に生まれた赤ん坊のうち1 4人に1人 ( 7 7 .0%) .6%) , 大阪市では13人に1人 ( 1 ) こう した現状 の親が外国人であり, 特に東京都渋谷区や豊島区では6人に1人の高い割合であるという1 . に対応するために歴史教育に必要なのは, 異文化との共生を可能にするパラダイムの構築である. こう したパラダイムの構築の障害となるのは, 「国家」 ・ 「民族」 を普遍的な概念と見なす 考え方であ 136.

(6) . 21世紀を見据えた歴史教育の基礎概念に関する一考察. 一の民族 る‐ 「世界史」 レベルで考えてみる と, 多くのエスニシティ が共存する状況こそが常態であり, 単 が一つ の 「国家」 を構成する という特殊な条件に恵まれた地域は殆 ど存在しない. にもかかわらず, 人々が も 「国民文化」 のような 「純粋」 な文化の存在 を信じるの は, 「国家」 とは超歴史的な存在であり, 不変の 的な のである という認識が根底にある と考えられる. また, 「民族」 という概念にしても19世紀以来, 固定 ものとして考えられてきた事実がある‐ 特に, 帝国主義下においては, 植民地獲得の大義名分として, 「民 族」 を生物界における 「種」 と同一視し, 「適者生存」 「優性劣敗」 の原則 から, ヨーロッパ列強の植民地支 配を正当化した 「社会ダーウィ ニズム」 が主張されてきた‐ グローバリゼーショ ンの加速度的進行で, 多様な人間集団の相互依存関係が重要性を増す今日, 歴史教育 と 「民 においても, 異文化共生の視点を強化する必要 があるのだが, そのためには, 「国家」 概念の歴史性 族」 概 念 の複 合性 を明 ら か に し, ヨー ロ ッ パ 中心 史観 を相 対 化す る こ と が必 要 であ る.. ・. 2. 「国民国家」 概念の相対化 よる. ひ 今 日, 世 界 史 を- 国史 の集 積 と して は, も はや 捉 え き れな い 時代 に な っ た. そ れ は, 次 の2 点 に. とつは, 「国民国家システム」 では統制できない事象が激増 したという ことである. 例え ばインターネッ ト による金融取引は, 連日, 莫大な金額のマネーを越境させているし, 航空機, 船舶, 鉄道, 自動車な どの交 通ネッ トワークの発達により大量の商品が世界中を往来している‐ もうひとつ は, 「国民国家システム」 の枠組みでは解決できない 地球規模の問題の増 大である‐ 地球環境 問題や南北問題な どは, 一国の努力だけでは解決しうる問題ではないし, 国境 を越えて移動する人間を, 「国籍」 だけで把握する試みは, 限界に達している といえる. これらの事実から言える ことは, 「国民国家システム」 の限界 は, システムそのものの崩壊をもたらすの ではなく, 「内」 と 「外」 の両面 からシステムの 「壁」 が切り崩されているという ことで, それは経済単位 として, あるいは政治単位 としての 「国民国家システム」 の問題性を指摘することにより明らかになる. まずは経済単位 としての 「国民国家システム」 である が, 今日の グローバルな金融取引を国民経済の枠組 みで捉えることは不可能である‐ しかしな がら, 一見新しくみえる これらの問題点も, システムに内在 して い た も の で ある と 考 える こ と も で き る. 伊 橡 谷 登 士 翁 は, バ ー ネ ッ ト と ガバ ナ ー の 共 著 『グロ ー バ ル・ ド. リーム』 を引用し, 個々の国家の為替レート安定化の努力 と, その結果の為替の変動こそ が, グローバルな 2 1 また, 大量の商品が国境を越えて世界中に運 ばれて 金融商品の価値を高めるという ことを指摘している1 いる という こ と も, 伊線 谷 の指摘 に通 じる も の があ ろう. 例 え ば, サ ケ ・ マス や 「ホ ッ カイ シマ エ ビ」 な ど. の漁業資源に恵まれた北海道東部でもスーパーに行け ば, ノルウェー産のサーモンや東南アジア産のエ ビが 普通に売られている‐ これらは 「国民国家システム」 が, 国家間の価格格差を生じさせたためにおきた事実 であ り, こう した こ と が輸 入 国 の 一 次産 業 に打 撃 を 与 える な ど, い わ ば グロ ー バリ ゼー シ ョ ンの影 響 とも い. うべき深刻な事態を引き起こしているのである. こ れら の事 柄 か ら, 19世 紀 に 一 応 の完 成 を み せ た 「国民 国家 シス テ ム」 は, 20世 紀 の グロ ー バ リ ゼー シ ョ. ンの進展の中で, 自己崩壊をはじめ, 現在は新たな状況に向けての 「過渡期」 である といえよう. こう した 「過渡期」 の状況を捉えるためには, 政治単位としての 「国民国家システム」 の盛衰の プロセスも理解する 必要がある. そのためにはまず, 「国民国家システム」 は, 超歴史的・普遍的なもので はないという事実を 示す必要がある. 「国民国家」 の歴史性を証明するためには, まず 「ナショナリ ズム」 という概念を明確にする必要 があ もつ用語であるが, る‐ 「ナショナリ ズム」 は, 「国民 主義」 , 「民族主義」 な ど多様な含意を , 「国家主義」 137.

(7) . 大橋. 信・宮崎. 正勝. 「国民」 , 「国家」 , 「民族」 の関係を解釈すると, 「国家」 を形成した 「民族」 -多くの場合はマジョリティ ーが 「国民」 となる, ということである. ここから 「国民国家」 形成以前は 「国民主義」 「国家主義」 と , , しての 「ナショナリズム」 は存在しないと考えられるし 「民族主義」 としてのそれも 「民族」 という 概念 , , そのものが 「国民国家」 の産物であると考えられることから やはり 「国民国家」 形成以後の概念であると , 言 える.. もちろん, 「国民国家」 形成以前にも 自らの属する 集団とそれ以外を区別する考え方は洋の 東西をとわ , ず存在した‐ 古代ギリシア人は 自分たちを 「ヘレネス」(女神ヘレンの子孫) マケ ドニア人などそれ以外 , , を「 ノリレバロイ」(訳のわからない言葉を話す者) と読んで区別したし ユダヤ人は 自らを 「選民」 と捉 , , え, 他の民族を 「異邦 人」 (ジェ ンタイル) と呼んだ また今日のベトナムの多数民族-狭義のベトナム人 ‐ の族称である 「キン」 は, もともと r京人」 の意味に由来する 「京人」 とは 都に輝く文明の光が照らす . , 人々という意味であり, 周辺に住む 「蛮人」 とは異なる意識をもっと自負 した1 3 〉 このように集団を 「内」 . と 「外」 に分け さらに自分たちを高貴な民と して捉える一方 それ以外を朽 ち汚くののしると いうこと , , も, 人類史全般にわたって行われてきたことである ‐ しかし, こう した自集団に対す る愛には 「ナショ ナリ ズム」 にある近代的な政治性がない 山内昌之 , ‐ は, 「ナショナリ ズムとは 民族への抽象的な帰属を実体に変えながら 人びとを国家の枠組みに整合する , , 国民に変えようとする思潮と運動」 であるととらえた噂 「ナショナリ ズム」 は 「国家」 によっ てつくられ , たものなのであり, これらは不可分のものである つまり 「ナショナリ ズム」 の歴史的展開を追うことに . , よっ て, 「国民国家」 の普遍性を否定することが可能になるのである . 山 内昌 之 は, アー ネス ト・ ゲル ナー にな らい ナ シ ョ ナリ ズ ム の展 開 の歴 史 を 六 つ の 時期 に区 分 した助 ,. それは以下のようになる. 〔ナショナリ ズムの時期 区分 ※ ( ) は開始期〕 第一期. 帝国秩序の動揺 (フランス革命). 第二期. 国民のナショナリ ズム ( 20~1 18 8 30年代). 第三期. ウィ ルソン主義と民族自決 ( 919年ヴェルサイユ会議) 1. 第 四期. フ ァ シ ズ ム と ス ターリ ン主 義 ( 1930年代). 第五期. 脱植民地主義 ( 19 45~60年代). 第六期. 統合と脱統合 ( 1980年代後半). この 区 分 をも と に ナ シ ョ ナリ ズ ム の展 開過程 を考 える と ま ず第 一期 は ウ ェ ス トフ ァ リ ア条 約 以 降の , , ,. 「主権国家」 体制が, フランス革命によって 「国民国家システム」 へと変化を遂げた時期と考えられる 政 . 治学者フレデリ ック・シューマンは 国家主権 国際法 勢力均衡を基礎とする西欧国家体系の起源を1 6 48 , , , ) た だ し この条 約 によ 年 のウ ェ ス ト フ ァ リ ア条約 に求 め た が そ れ が現在 通 説 と して認 め ら れ て いる1 6 っ , . ,. て誕生したのは, 「国民国家」 ではなく 「主権国家」 であっ たということには留意しなければならない つ . まり, ナショナリ ズムの観点から見て 国民が忠誠を誓う対象は 「国家」 ではなく 依然として国王や諸侯 , , だ っ たの である‐. 17世紀に登場 した 「主権国家」 が, 「国民」 という概念を獲得し 「国民国家」 に変化していくきっ かけと , な っ た の が, フラ ンス 革命 であ っ た フラ ンス 革 命 は 国王 か ら 人民 に権力 を委 譲 さ せ たの みな らず 同 時 . , ,. に 「一民族一国家」 の理念の下に 「エスニシティ ( )」と 呼ばれる諸地方集団, ギル ドな どの特権 tmuc i t e y 138.

(8) . 21世紀を見据えた歴史教育の基礎概念に関する一考察. 7 ) つまり フ た1 , 的集団 (社団) を法律によって抑圧し, 集権的 「国民国家」 を形成していく 過程でもあっ ‐ を形作 ムの原型 っ という西欧的システ ランス革命の意義は, 単なる階級闘争としてではなく, 「国民国家」 た と いう こ と にあ る. イ タリ ア こう して 出来 上 がり た 「国 民 国家 シス テ ム」 は, 第 二期 にな る と, 南 北 アメ リ カ 大 陸や ドイ ツ ・. 60年代 から1870年代にかけての ドイツ・イタリアの 「国民国家」 などの中欧地域に波及していく‐ とくに18 な た 形成 は, 東 欧, 特 に バ ルカ ン諸 国 に 大き なイ ン パ ク トを与 え, 第 一 次大戦 の 遠 因 とも っ ‐ ズム を読 み解 く キー 第 三 期 は, 1919年 の ヴ ェ ルサイ ユ 会議 が画 期 と なる の だ が, こ の 時 期 の ナ シ ョ ナ リ. 多くの 「国民国 ワー ドは 「民族自決」 である‐ 第一次大戦後の東欧には, この原則に-建前として-則り, とし 家」 が建設されたが, その内部には膨大な少数民族が含ま れていた‐ それは, 「民族」 を固定的な実体 -国家」 に基づ て捉え機械的に囲い込むことによってなさ れた. すなわちモ ザイク状の民族分布に 「一民族 次の く 「民族自決」 概念は, 有効な枠組みではなかったのである. こう した問題点 が噴出しはじめたのが, 第 四期 であ っ た‐. が図ら 19 30年代から第二次大戦に至るこの時期には, 国内の少数民族問題 に対し, 否定的な意味での解決 を根 絶や しにす れ た. 象 徴 的なの が ヒ トラ ー とス タ ーリ ンの 政策 である. ヒ トラー はユ ダヤ 人 という 「種」. ることで, 少数民族問題を解決しよう としたのに対し, スターリンが用いたのは 「強制移住」 という手法で イ ン グシ ュ あ っ た‐ 山 内 昌 之 に よ れ ば, 1940年 代 に 強 制 移 住 さ せ ら れ た 人々 は, 朝 鮮 人, チ ェ チ ェ ン 人, と322万6340 人, ク リ ミ ア‐ タ タ ー ル, メ ス ヘ ティ ア 人な ど301万1108人,「自発 的」 に移 住 した 人々 を 含める 8 ) こ の 政策 は エス ニ ッ ク 集 団 と そ の 故 地 (ホ ー ム) を切 り 離 し, エス ニ ッ ク ・ 人 にも 達 して いる という1 ‐ , デンティ ティ に 収鰍 させる こ と が目 的 だう た が, 結 果 と して は全 せ の アイ ア イ デ ンティ ティ を消 滅さ , 国家. くの失敗であっ た. 「強制移住」 させられた人々は, エスニック集団としての慣習, 信仰, (最近では言語) を 保存 しよう と 努力 し, か え っ て エス ニ ッ ク ・ アイ デンティ ティ を 強 化 したの で ある.. 第二次大戦後の第五期になると, ア ジア・アフリカの植民地が続々 と独立を達成し, 国際社会 は平穏の は 「こ の 日々 を む か える かの よう に思 わ れた‐ この ア ジ ア 新 興独 立 諸 国の ナ シ ョ ナリ ズ ム につ い て, 竹 内 好 は 資本主義 ア ジア の ナ シ ョ ナリ ズ ム は, 西 欧 が経 て き た ナ シ ョ ナリ ズ ム と は 質 的 に違う も の で ある‐ 後者 ,. の発達と不可分であって, 自由競争の原理の上に立っ ている. 個人間におけると等しく, 国家間にも, 優勢 劣敗の法則 が支配することを認め, それが人類の進歩をうな がす唯一の原動力 だと考えるのである‐ アジア ズ の ナ シ ョ ナリ ズ ム はこ の 考 え 方 を 否 定する」 と述 べ, ナ シ ョ ナリ ズ ム に は良い ナ シ ョ ナリ ム と悪 い ナショ ) しか し こう し た ア ジア諸 国 の ナ シ ョ ナリ ズ ム も, 国 内 の マイ ノ リ ティ に 同 化 を ナリ ズ ム があ る と した鵬 . , せ ま っ た り, 差 別 や 排 除 を 行 っ た り と いう 点 で は, 従 来 型 の ナ シ ョ ナリ ズ ム と 何 ら 変 わ る と ころ は な か っ た. こう したマイ ノ リ ティ のエス ニ ッ ク 集 団 が「民 族独 立」を 要 求する 動 き が決定 的 とな っ た の が, 次の1980. 年代以降の第六期である. 日ユー ゴスラ ヴィア解体や東ティ モールの独立など 「脱統合」 の動きが活発化す 1980年代以降になると,ー る 反面, EU や 蔑 迅AN な どの 「統 合」 の 動 き も ま た 進 行 して い る. こ の 相 反 す る 二 つ の 事 態 こ そ が, 今. 日, 地球社会が 「過渡期」 にあるということのひとつの証明であろう. すなわち 「民族」 と 「国家」 を固定 的に考え, 「一民族一国家」 の実現を理想と考えたナショナリ ズムの限界が 「脱統合」 の動きとして現れ, 新たなパラ ダイムの提案として 「統合」 の動きが現出 しているのである. 「国民国家」 が, 極めて歴史的な概念であるという ことは明らかである. ここから, 今日の歴史教育にお いて 「国民国家」 概念だけで, 多様な人間集団を説明することは好ま しくないということが言える. 「帝国 主義」 ‐ 「植民地化」 . 「民族運動」 ・ 「ナショナリ ズム」 などを鍵概念とする視点だけでは, 現在の 「国 0 )という指摘を真塾に受け止め, あらたなパ ラダイムを模索し 際社会」 の理解に直結する認識は得られない2 139.

(9) . 大橋. 信・宮崎 正勝. なければならない. 3. 「民族」 概念を可動化するための 「人間集団的ディアスポラ」 20世紀初頭 に30~40であっ た 「国民国家」 の数は 現在 国連に加盟している 国だけでも1 80前後にも及 , , ぶ. しかし 「民族自決」 の名の下に 「ある民族が他の民族の支配を脱して独立国家を形成するや否やそこ , )とされる事実は 「民族」 や 「国家」 を固定的に捉える考 1 には別の少数民族が含まれる のが普通である」2 , え方では, 多文化共生の道を探ることができないことを示している . 人類は, その誕生以来 移動・接触・交流を繰り返 してきた その意味では 純粋な 「民族」 は現実的に , . , はありえず, 「民族」 間の境界は多分に不明確なものなのである それゆえ歴史教育においては 「民族」 も . , 含めた多様な人間集団を捉えるための可動的な視点が必 要なのであるが その一助になるのが 「ディアス , , ポラ」 概念である. 「ディアス ポラ」( d i ) とは, 本来 「ユダヤ人の離散共同体」 をあらわす言葉で 語源はギリシャ a spo ra , 語の 「ディ アス ペイ ロ」 (d iaspe i ) - 様々 な 方 向 に 種 をま き 散 らす と いう 意 味 一 であ る幼 今 日 こ の 概 念 ro .. は, 上野俊哉/毛利嘉孝が指摘するように 本来のユダヤ的文脈をこえて ますます自覚的 戦略的に読み , , , 替えられている. たとえば, アメリカ大陸およびカリブ海地域 における黒人 世界の様々な地域で生きてい , る中国系移民, 難民や亡命者なども 「ディアス ポラ」 と して捉えられているのである この読み替えを 「第 . 一の読み替え」 と呼ぶことにし それによっ て位置づけられるディアス ポラを 「人間集団的ディアス ポラ」 , とする .. .. ノ. 「人間集団的ディアス ポラ」 は 文化的差異のある諸エスニック・グループ間には不断に存在するといえ , るが, そうした認識だけでは不十分である‐ 「過渡期」 の地球社会にお けるこう した 「文化的障壁」 を考え る際に重要な点は, エスニック・グループという考え方自体を問題にするということと 「国民」 「民族」 , , , 「人種」 など19世紀的社会科学に基づく枠組みに還元されない 今日的な 「文化的障壁」 というものを構想 , することである. たとえば 世代間 男女間 収入の差 社会的地位 の差 情報格差な どがそれにあたる , , , , , が, こうした 「文化的障壁」 を設定することで 分析の対象をエスニック・グループから もっ と広範な人 , , 間集団に拡げることができる. そこで まずエスニック.グループという 概念を分析し 「過渡期」 の地球 , , 社会にふさわ しい人間集団の捉え方を探っ ていくことにする ‐ エス ニ ッ ク ・ グルー プの 研 究 に画期 的な視点 を導 入 した バ ル トは エス ニ ッ ク ・ グルー プを 社 会 的 な 組織 , 体 とみ な し, グルー プを成 り 立 たせ て いる の は 集 団 固有 の 統 一 さ れた文化 では なく メ ンバ ー による 集 団 , ,. の境界線の維持活動であると説いた刈 っまりエスニック・グループは その成員により人為 的に作られた , ものなのである. たとえば今日 「イタリ ア料理」 というと真っ 先に 思い 浮 かぶ の が トマ ト味 のス パ ゲ ティ , であるが, これは正確には南イタリ アの郷土料理である しかし アメリカなどに移住した南イタリ ア出身 . , 者が料理店を開いた時に, それらの料理を 「イタリ ア料理」 と して売り出したのである2 4 ) つまり 「イタリ . ア 人」 という エス ニ ッ ク ・ グルー プは 皆 トマ ト味 のス パ ゲテ ィ を食 べる と いう 「神 話」 を 成員 自身 が作 , ,. りだしたと言えよう. こう した 内部 か ら の エス ニ ッ ク ‐ グルー プ組成 に対 し 国民 国家 形 成 以 後 の 外 圧 に よ る エ ス ニ ク . グ ッ , ルー プ組成 も 考 え な け れ ばな らな い こ の 外圧 の典 型 的な例 は 国家 による エス ニ ッ ク ・ グルー プの創 出 で ‐ ,. あり, 国家やその宣伝機関が編みだしてきた言説を分析することで エスニシティの境界の設定のため に , , 差異が創出され, 排除の言説が生み出されてきたのが明らかになる2 5 ) つまり 国家は歴史教育などの手段 . , を講じて, 前近代における社会統合の論理である親族 友人 同僚といっ た 「社会関係性 による同一性」 , , 140.

(10) . 21世紀を見据えた歴史教育の基礎概念に関する一考察. 2 6 ) を, 近代 にお ける 国民, 民 族, 人種 とい っ た 「種 的 同 一 性」 に置 き 換 え てき た の である .. こう考えるとエスニック.グループを強調する ことは, 「過渡期」 の地球社 会において有効 である とは言 えない. それは 「文化主義」 や 「人種主義」 に陥る危 険性をはらんでいる と考えられるからである‐ 酒井直 樹によれば 「文化主義」 とは, 「文化を有機的な統一体 とする見方」 であり, 文化的差異 は, あらかじめ前 } 2 7 とは 提にされた 「文化」 と 「文化」 の差として意識される というものである . 酒井によれば, 文化的差異 こ 了解不可能だからこそ文化的差異なのであり, それは 「意識の対象としては与えられない」 のだという. こ の 「文化主義」 の問題」性が如実にあらわれるの が, 日本に代 表される 「単一民族社会の神話」 である が, の問題の核となるのは, それが日本に住む 「日本民族」 以外の人びとの存在を無視している ということより も, むしろ, 「日本民族」 という概念自体であり, 「民族の同一性が日々の生活において経験可能であるとい ) これからの歴史教育においては 戦前の民族学者, 喜田貞吉 が, 異人種が接触し 8 う認識論」 なのである2 , . て雑種を生み, 異民族が合い寄って 「複合民族」 ができるように, 日本人も同化融合して形成された 「複成 2 9 } 民族」「複合民族」 だという考えを取り入れる必要がある . 一方, 「人種主義」 のもつ危 険性を指摘しているのは山内昌 之である. この 「人種主義」 も 「文化主 義」 と同様に, 社会の内部には有機的な統一体としての人種-あるいは民族-が多数存在する という考え方であ り, こ れに 基 づ け ば, 移 民 な どの エス ニ ッ ク ・ グルー プは 「同 化」 か 「編 入」 の どち ら か 一方 で しかホス ト. 社会に組み込まれないということになる‐ 「同化」 とはアメリ カやカナダな どの移民国で外国人 が 「アメリ カ人」 や 「カナダ人」 になっ てきた事例であり, 移民が保持していた出身国の文化や慣習 を放棄して受け入 ) しかし 実際には 受け入れ国の 0 れ国の文化や慣習 を取り入れ, 別の存在になることを意味する という3 , . , た人びとを 「同 似通 文化や宗教面で とされたために っ 文化や慣習とはすなわちマ ジョリティのそれである , 1 } 化可能」 な移民として選別的に受け入れる傾向が生じた3 . こ の 「同化」 に対 抗 す る た め に, マ イ ノ リ ティ の エス ニ ッ ク ・ グル ー プが主 張 した の が 「編 入」 (ア ン セ. ルシオン) である‐ 「編入」 という概念は, 移民が受け入 れ社会へ参加しても, 文化や信仰 の変更や放棄 を 強制されずに, 民族と宗教のアイデンティティ がそのまま保持される場合に使われ, 異質な文化をもつ集団 ) 3 2 が 「機械的に」 社会の内部に組み入れられるので, 「同化 なき統合」 と呼ばれることもあるという ‐ この 「編入」 の概念は, 「差異への権利」 として捉えることができるが, これを極度に強調すると, アフリ カに おける 「割札」 の習慣な どにも はっ きりと反対の立場 をとることができないばかりか, 「同化」 できないな 『同 らアイデンティティ のより どころである 「ホーム」 へ帰れと言う意見にも反駁することが難しくなる.「 化』 を強制する社会に少数民族が反対するにはエスニック・アイデンティティに立脚して 『差異への権利』 ) 総 を主張すれ ばよいといった単純な構図は, 欧米社会ではもはや有効ではなくなっ ている」 という指摘は, 「Aま たはB」 という単純な二項対立の図式では, 複雑な今日の地球社会が抱える問題をクリアできないと いうことを示 している. このことは先に挙げた 「文化主義」 についても同様である‐ つまり 「人種主義」 に 「文化」 という 「闘争」 の図式 は, エスニック おける 「同化」 対 「編入」 , 「文化主義」 における 「文化」 対 ‐グループ間の壁を厚くし, 「共生」 の可能性を低下させてしまう危険′性をもつのである‐ こう した問題点に対し, 山内は 「統合」 という新たな枠組みを提唱している‐ 「統合」 とは, 社会内部に 共存する各集団が文化的個」性を捨てずに互い に交流しな がら積極的に社会参加する ことを意味する. その 際, 「人権」 や 「平等」 の理念 が前提となる相互依存 が求められるが, 各集団の文化がお互い無関係に分立 するのではなく, 新しい社会をつくるために 「貢献する文化」 となるのだという 鴫 この枠組みは, 「文化 主義」 や 「人種主義」 の二項対立的な図式をうち破り, 「A もBも」 という 「ダブルのアイ デンティティ」 を認めるものである. この 「ダブルのアイ デンティティ」 こそが, 「過渡期」 の地球社会において 「共生」 をめざす 「ディアス ポラ」 の戦略なのである. 141.

(11) . 大橋. 信・宮崎 正勝. 「第一 の 読 み替 え」 に よ る 「人 間集 団的 ディ アス ポ ラ」 は エス ニ ッ ク . グルー プを越 える 広 範 な人 間集 ,. 団を分析の対象 に据え, 「ダブルの アイ デンティティ」 を認めることで 「共生」 の枠組みに転化する 次 . に, こうした視点から 「ディアスポラ」 の概念規定を行っていく ‐ 青木保は 「ディアスポラ」 の概念規定を次のよう に行っ ている 「ディアスポラとは 自文化 にも異文化 . , にもどちらにも属さない, 文化の間を生きることによっ て それを創造の原動力にするような活動をする知 , 識人のことでもあります‐ ディアスポラとは もともとは祖国を追われたユダヤ人の 『離散』 を意味し 流 , , 浪の状態を意味する言葉でしたが ここでいうディアス ポラとは 単に流浪するということだけではありま , , せん. 自分のルーツを失い異国の社会に入って生活する単なる根無 し草ではなく かつて自分が属していた , 文化や新しく属する文化とは違う新しい文化を発展させ 『創造』 していく人々を指します」3 5 ) . また戴エイカのディアスポラ概念は こう である 「新たに概念化しなおされた 『ディアスポラ』 は そ . , , の語源が示唆するように, ダイナミックに移動することにより多様で豊かな経験をし 新たな生を始めるこ , とを意味している‐ ディアスポラ的経験は 多元的で柔軟な視点を形成する契機や 創造的なエネルギーを , , 6 ) 生 み だ していく 可 能 性 を 与 え てく れる の である」3 . さ ら に上 野 / 毛利 は ポー ル・ ギ ル ロイ ら の 定 義 か ら 「ディ アス ポ ラ と は 空 間 的 には 自 ら の起 源 (ル ー , ,. ツ) とのへ だたりをもちながら, いぜんとしてその場所との強い文化的 倫理的 政治的むすびつきを自ら , , の アイ デンテ ィ ティ の支 え に し こ れによる 社 会 的連 帯 の か たち を求め る 生 き 方 や社 会 性 を 指 して いる」3 7 ) , と した.. これらの諸見解に基づいて 「ディアスポラ」 を自分なり に定義すると 「様々な人間集団が社会・文化の , 境 界 を越 え て, あ らた な 環境 の 中 に入 っ て いく 際 一 定 の ア イ デンテ ィ ティ を保ち つつ も多 様な 文化 や ルー ,. ルを受け入れて, ホスト社会に適応していくこと」 となる ただし 「人間集団的ディアス ポラ」 を考える場 . 合, 注意 が必 要な の は 本 来 の 「ディ アス ポ ラ」 が有 して いる 起 源 と なる 土 地 (ルー ツ) へ の帰 還 と いう シ ,. オニズム的発想は重要ではなく むしろその空間的ギャッ プに耐えることが 「共生」 の枠組みを生み出す , , 契機になりうるということである. 上野/毛利も 「自分が今いる場所と 本来帰属していたかもしれない場 , 所の差異, つまり移動=動きをはらんだロケーショ ン (場所的定位) を 自分の 現在の位置と経験の 間に , も っ て い る 亀 裂 に お い て 生 き る こ と そ の 位 置 に 耐 え る こ と が ディ ア ス ポ ラ の 生 と 戦 略 に ほ か な ら な , 8 )と 述 べ て い る い‐」 3 .. こう した 「空間的ギャッ プ」 あるいは 「亀裂」 を サイー ドは 「中間的状況」 と呼んでいる が これは , , 「追放/亡命の身」 あるいは 「故国喪失者」 が置かれている 新たな環境にすっ かり溶けこんでしまうわけ , 9 } パ レス ティ ナ 出 身 で パ でも なく, か と い っ て 故 国 か らま っ たく 切 り 離 さ れている の でも な い 状 態 を 指 す3 .. レス ティナ人の擁護者でもあるサイー ドは そのユダヤ的な含意を嫌って 「ディアスポラ」 という語は用い , ていないが, 彼の 「追放/亡命の身」 あるいは 「故国喪失者」 という用語は 「ディアスポラ」 とオーバー , フ ッ プす る と思 わ れる‐. サイー ドによれば, この 「中間的状況」 におかれる者は 本当に移民であり故国喪失者である必要はない , のだという‐ すなわち, 自らを移民 であり故国喪失者であると想像できる者であれば 「中間的状況」 に赴 , 0 ) そう す る こ と によ り サイ ー ドは 「こ れま で 伝 統 的 な も の や 心 地 よ い も く こ と が で き る の であ る4 の の境 . ,. 界を乗り越えて旅をしたことのない人間には見えないものが かならずや見 えてくるはずである 」4 )と述 1 , . べ て いる.. 「中間的状況」 に身を置くことで これま で見えなかっ たものが見えてくる理由は ディアスポラ的縄験 , , によるアイデンティティの変化により, 自己の存在を客観視できるようになるためである ラダクリシナン . は, このアイデンティティの変化を 「あまり抵抗することなく 受け入れる変化」 と 「意識的に管理された目 142.

(12) . 21世紀を見据 えた歴史教育の基礎概念に関する -考察. 2 4 ) れ 己 形 成 にお ける 変 化」 の 二 つ の タ イ プ に 区別 して い る . 重 要 な の は 後 者 で, ラ ダク リ シ ナ ン の 例 に よ ば, 「イ ン ド人」 という カ テ ゴリ ー はイ ン ドで は 安 定 して い た かも し れな い が, イ ン ドの 地 を 離 れ た と き,. それはもう 自明のものではありえず, 意識的思考の対象になる‐ そのとき ディアスポラを生きる人は, 無批 判 にノ ス タ ル ジ ッ ク にホ ーム ラ ン ドを思 い 出す こ とも でき る が, ディ アス ポラ の 経験 を 踏ま えて, 批判 的な. まなざしを故国にむけることもできるというである‐ こ の よう にア イ デンティ ティ の 変 化 を 受 け入 れ, そ れま で の 自 己 を客 観 視 する こ と が, 「ダ ブル の ア イ デ. ンティティ」 を獲得し, あらたな 「共生」 の枠組みを生み出す原動力になるのだが, その原因は, 異質な者 同士が出会ったときに 「文化摩擦」 が起き, 互いに ぎりぎりの妥協点をさぐる動きが生じることにある. し かし, 「民族」 を固定的に捉える視 点は, アイ デンティティ の変化を認 めないために, こう した 「文化摩 擦」 を否定的に捉えることになる‐ エスニシティ紛争が世界各地で頻発する今日, 「民族」 を固定的に見る視点を用いていたので は, 異文化 の共生をめ ざす歴史教育を行う ことはできない‐ それに対して 「ディアスポラ」 の考え方は, 「文化摩擦」 を肯定的に捉え, アイデンティティの変化を受容する ことで, 「民族」 概念のような人間集団を可動的に見 るのが可能になる. その理由は, 「自己置換」 という現象が起きることにある. 「自己置換」 とは, 自分を他 人の立場に置 き換えて客観認識 を獲得 していく行為, 換言すれ ば 「他人の立場に立つ」 ということであ ) つまり 「文化摩擦」 を肯定的に捉えれば, 立場の異なる相 手の論理 を, 自らの論理に 「変換」 して る服 ‐ , 理解することが可能になる. これが繰り返し述べてきた 「ディアス ポラ」 理論における 「ダブルのアイデン ティティ」 の形成であり, 異文化共生へ向けてのあらたな視点となるのである‐ こう した視点 は, 歴史教育における 異文化理解に有効性を持つと考えられるが, この概念が 「自己置換」 を可能にする視点であることを考えれば, 歴史教育における他の局面への応用も可能である. それは環境教 育や人権教育などである‐ たとえば環境教育とは, 人間の快適な生活とは相容れない 「地球環境」 保全の論 理を, 児童.生徒に理解可能な形に 「変換」 していくものである‐ 環境教育に 「ディアス ポラ」 の視点を組 み込め ば, 人間と地球環境の 「共生」 の枠組みを探ることも可能になると考える. 「ディアス ポラ」 概念 は, 今日的課題を扱うのに利便性を有する歴史教育の概念である. 4. 「ディアスポラ」 理論の環境教育への応用 地球環境問題のような人間集団相互間以外の 「共生」 関係を 「ディアス ポラ」 理論から探っ ていくために は, さらに2段階の概 念の読み替えを行う必要が出てくる. すな わち 「ディアス ポラ」 概念の射程 を 「モ ノ」 や 「システム」 の分析に拡 げ, 視点を 「地球環境」 のように人間集団や人間が作っ た 「システム」 とは 異なる論理の下にあるものへ移すことが求められるのである‐ 前者の概念拡大をここでは, 「第二の読み替 を 「文化的ディアス ポラ」 と呼ぶことにする. 同様に, 後 ポ え」 , この読み替えによる 「ディアス ラ」 概念 者を 「第三の読み替え」 による 「圏域的ディアスポラ」 とする. 表1. 読み替えの段階. 名. ディ アス ポ ラ の 類 型 称. 分. 析. の. 対. 象. 本 来 の 用 法. ・イ アス ポラ デ. ユ ダヤ 人な ど特 定 の エス ニ ッ ク ・ グルー プ. 第一の読み替え. 人間集団的ディアスポラ. あらゆる人間集団. 第二の読み替え. 文化的ディアス ポラ. 世界商品な どの 「モノ」 や 「システム」. 第三の読み替え. 圏 域 的 ディ アス ポ ラ. 「自然圏」 など「人間圏」 とは異なる圏域 143.

(13) . 大橋. 信・宮崎 正勝. しかし, 上野/毛利が 「ディアスポラは ある権力関係 や経済的不均衡の結果 引き起こされる事態で , , あ っ て, 一 時 的な旅 や 観 光 モノ の流 通 と そ れ にとも なう 異 文 化 間コミ ュ ニ ケー シ ョ ンな どと 一緒く た にす ,. )と指摘するように 「文化的ディアス ポラ」 には 権力の側にからめ取られていく危 3 ることはできない」4 , , 険性がある. こう した点も踏まえ, 定義付けを行うと 「文化的 ディアスポラ」 とは 「『モノ』 や 『シス テ , , ム』 が文化的な境界を越えて, 新たな文化的環境の中に入っていくときに 自らの中に文化的汎用性 (ハイ , ブリディティ=ハイブリ ッ ド性) を作りだ していく現象である」 と考えることができる つまり 「ディア . , スポラ」 は 「現象」 ということになる. 「ハイブリッ ド」 という 言葉の意味は 電気信号などによって 2つの異なる機能が お互いに干渉せず , , , に使い分けられるということであるが 「ハイブリ ディティ」 (ハイブリ ッ ド性) とは 文化的境界を越える , , ことによって身に付く文化的汎用性と捉え直すことが出来る この概念は 「ハイ ブリ ッ ド・カー」 のよう . , な言葉から類推できるように, 文化・社会の境界を越えて あらたな環境の中に入っていく際 状況に応じ , , て様々な文化的要素を使い分けること により 移動先のホス ト社会に適応することである ただし この , . , 「 ノ・イ ブリ ディ ティ」 に は2 つ の 種 類 があ る こ の2 つ の 「 ノ・イ ブリ ディ ティ」 を 分 析 す る こ と で 「文 化 . ,. 的ディアス ポラ」 が権力 の側にからめ取られる 場合を特定でき 「共生」 の枠組みづくりに有効な視点を与 , える こ と ができ る.. バキティンは 「ハイブリディティ」 概念を 「意図的ハイ ブリディティ」 と 「有機的ハイ ブリディティ」 , に分けた. 「意図的ハイ ブリディティ」 では 内在する 「ダブルの声」 は 対話的にあるいは対立的に設定 , , されていて, ダブルの声にともなう二つの言語意識や二つの世界観は 融合されることはなく むしろ対立 , , するものとして設定されている. また 「有機的ハイ ブリ ディティ」 とは 言語は混交し融合して 新 しい , , フォームや新 しい世界観を生 みだす. この言 語の融合はしばしば 「クリオール」 化と呼ばれるも のであ } る狸 .. ラ ダクリ シ ナ ンは 「 ノ・イ ブリ ディ ティ」 概 念 を 「メ トロ ポリ タ ンのハ イ ブリ ディ ティ」 と 「ポス トコ ロ , ニ ア ルのハイ ブリ ディ ティ」 に 分 けて いる 「メ トロ ポ リ タ ンのハ イ ブリ ディ ティ」 と は こ の 「ハ イ ブリ . ,. ディティ」 を生きる人びとは, ナショナルな市民権もトランスナショナルな市民権も保持しており 権力の , 脱中心化をする どころか, 反対に中心に居座り続け 中心をハイ ブリッ ド性によっ てさらに強化している , . 「ポス トコ ロニ ア ルのハイ ブリ ディ ティ」 と は 抑圧 さ れ 移動 を強 い ら れ てき た人 びとの 「ハイ ブリ ディ , ,. ティ」 である. こう した人びとは, 移動にともなう 苦痛の中で自己を検 証し 自分自身の 「ハイ ブリ ディ , ティ」 を 形 成 し, そ れ によ っ て 政 治 的 権利 の 拡 張 を して い こう と す る こ の 闘 争 に お い て 「ハ イ ブ リ ディ .. 5 ) ティ」 は, 二項対立の枠組みを超えていく可能性を提示してくれる4 . 二 氏 が 提 起 したハ イ ブリ ディ テ ィ 概 念 は 「意 図 的 ハ イ ブリ ディ ティ」 と 「メ トロ ポリ タ ン の ハ イ ブリ , ディ ティ」 「 , 有機 的ハイ ブリ ディ ティ」 と 「ポス トコ ロ ニ ア ルのハイ ブリ ディ ティ」 が互 い に対応 して いる. と私は考える. 前者は, あらたな環境に適応する際に アイデンティティの変容を被らないという点で共通 , してお り, ここ では 仮 に 「企 業 的ハイ ブリ ディ ティ」 と 呼ぶ こ と にする 後者 は 自 らの アイ デンテ ィ ティ . ,. を変容させることで, あらたな環境に適応 していくという共通性をもつもので ここでは仮に 「自然発生的 , ハイ ブリ ディ ティ」 と 呼ぶ こ と にする.. 表2. 144. ハイ ブリ ディ ティ の類 型. ノぐ キ テ イ ン. ラ ダク リ シ ナ ン. 自然発生的ハイブリ ・ディティ. 有機的ハイ ブリディティ. ポス トコ ロニ ア ルのハ イ ブリ デイ ティ. 企 業 的ハイ ブリ ディ ティ. 意 図 的ハイ ブリ ディ ティ. メ トロ ポリ タ ンのハイ ブリ ディ ティ.

(14) . 21世紀を見据えた歴史教育の基礎概念に関する一考察. 「自然発生的ハイ ブリディティ」 は, 文化的な境界を越えて新たな文化的環境の中に入っ ていく際に, 自 ら の アイ デ ンティ ティ の 一 部 を い わ ば切 り 売 り する 形 で 変 え て い く, こ れ が バ キ テ ィ ン の い う 「ク リ オ ー ル」 化 であり, ラ ダクリ シ ナ ンの いう 「自 己の 検 証 による ハイ ブリ ディ ティ 形成」 な の である. こ れ に対 し て 「企 業 的ハ イ ブリ ディ ティ」 は, 自 ら のアイ デンティ ティ は保 っ たま ま, 新 た な 性 格を付加 していく と い う こ と であ り, どん どん 着 膨 れて いくイメ ー ジである. 「企 業 的ハイ ブリ ディ ティ」 は, 「自 然 発 生 的ハイ ブ. リディティ」 に比べ 「文化的ディアスポラ」 を強力に推進するという特徴を持っているが, 反面, その強力 さ故に 「アイデンティティ」 の押しつけをおこなってしまう危険性も併せ持っ ている. これら2つのハイブリディティ を内在した 「文化的ディアス ポラ」 概念は, 人間集団 ばかりではなく, 人 間が作り出した 「モノ」 や 「システム」 もその射程に含むものである‐ したがっ て, 「人間集団的ディアス ポラ」 と 「文化的ディアス ポラ」 を組み合わせれば, 人間が生活する 「圏域」 である 「人間圏」 での 「共 生」 に対して包括的な視点を与えることが可能になる‐ しかし地球上には, この 「人間圏」 とは異なる論理 のもとに構築さ れている 「圏域」 が存在するということも考えなければならない‐ たとえば地球環境問題な どがそれにあたる‐ そこで, 人間と地球環境という異なる 「圏域」 にあるもの同士の 「共生」 の枠組みを提 案するのが, 「第三の読み替え」 による 「圏域的ディアス ポラ」 なのである‐ 人類史における科学技術の発達 は, 自然を征服すべき対象とみなしたが, 人類は誕生以来, 他の生物と同 様に自然環境に依存して生きてきたのであり, 現在でもその構図に変化はない‐ つまり, 人間の生活の場で ある 「人間圏」 は, 生物一般の生活空間である 「自然圏」 の一部なのであり, 科学技術の発達とは, 「人間 圏」 拡大/ 「自然圏」 縮小の運動であるとも考えられる‐ しかし, この運動は, 「人間圏」 と 「自然圏」 の 「闘争」 である ために, 「自然圏」 からの反作用 が起こ る. たとえば, 地球温暖化, 酸性雨, オゾン層の破壊に伴う紫外線の激増などがそれである. それゆえ今日 の地球社会では, かつては存在しながらも人間が一度破壊してしまった, 人間と自然環境との 「共生」 の枠 組み を作 り 出す こ と が必 要 である‐ しか し, そ れ は今 日 の 快適 な生 活を 捨 て, かつ ての エ コ ロ ジカ ルな 生 活. を目指すような, 単純な 「復旧」 作業は現実的ではない. こう した環境問題 という ジレンマを考える際に も, 「圏域的ディアス ポラ」 概念は, よっ てたつ論理の異なる二者の 「摩擦」 から新たな枠組みを生み出す ものであるために, あらたな 「共生」 の枠組みづくりに有効である. 「人間圏」 と 「自然圏」 の 「共生」 のためには, 循環によっ て成立している 「自然圏」 の論理を 「翻訳」 し 「人間圏」 に取り込 む必要がある‐ たとえば, 従来の経済学では価値 を見いだされない傾向にあっ た大 6 }という概念などは この考えに 気, 土壌, 森林, 河川, 海洋な どを資本として捉える 「社会的共通資本」4 , 当 たる が, こ れ は, 異 なる 二 者 の 「文 化 摩擦」 を 通 じて アイ デンティ ティ の 拡 張を は かる 「ディ アス ポ ラ」. の手法そのものと考えることが可能である. 学校における環境教育 とは, 「人間圏」 に生きる児童・生徒に対 し 「自然圏」 の論理 を 理解可能な形に 「変換」 したものである‐ 言い換えれば, 児童・生徒が, 地球環境の側 に立っ て自らの生活 を客観視する ・を目指すことが環境教育であるとも言えるだろう ‐そう した視点から 「自己置換」 というア 「自己置換」 ‐ , と ポ 「 」 概念は 環境教育に て有効な概念なのである イデンティティの拡張を可能にする ディアス ラ っ . , おわりに. 0年代以降, グロー バリ ゼーショ ンが加速度的に進展し, 政治・経済・社会・文化な どの様々な局面に 197 おいて相互依存関係が重要性を増 してきている‐ こう したなかで, 「国家」 ・ 「民族」 を固定的に捉える19 世紀諸的パラ ダイムは, 地球環境問題な ど今日の地球社会が抱える問題に対し, 有効な視点を提供すること 145.

(15) . 大橋. 信‐宮崎 正勝. が難しい. 本稿では, 「ヨーロッパ 中心史観」 の基礎概念である 「国家」 . 「民族」 のうち 後者をはじめ , とする人間集団を可動的に見る視点として 「ディアス ポラ」 を提案し それが 「自己置換」 を可能にする概 , 念であることから, 環境教育においても有効な枠組みになりうることを示した‐ では, 歴 史 教育 にお い て, こ の 「ディ アス ポラ」 概 念 が依 っ てたつ べ き見 方 と は 何 であろう か. そ れ は ,. 「地球史観」 である と考えている‐ 「地球史観」 とは, 世界を諸国家の集合体とは見なさずに 人類史を全 , 体として捉える歴史観 である. それによれば, 環境問題や南北問題な どの地球規模の問題を 「自分のこ , と」 として考え, 解決することが求められる. いわ ば 人類全体を 「運命共同体」 と見なすパラダイムなの , である. 「地球史観」 のこう した特徴を考えれば, 多様な 「ディアスポラ」 の概念は, 今日の地球社会でま すます重要性を高める相互依存関係に対し, 有効な視点となる‐ 21世紀の歴史教育では, 地球環境問題や南北問題のような 「地球的問題群」 に対処しうる 「地球史観」 が 重要になる. その際 「ディアスポラ」 概念は, 立場の異なる者同士の 「文化摩擦」 を肯定的に捉えることを. 可能にするため,「宇宙船地球号」 ,「地球村」 のような 「共生」 関係を目指す 「地球史観」 に有効な視点を 提供しうると言える. 引用・参考文献. 1) 北海道新聞 2 0 0 0年1 0月1 1日 朝刊 ”ヨーロッパ中心史観” とは=潮流と展望」『教育科学社会科教育 N 4 2) 小原友行「 0 』 明治図普 1 9 9 8 p 2 0 o . 6 3) 野田宣雄 『歴史をいかに学ぶか』 PI IP 研 究所 2000 p21 4) 野田宣雄. 同上書 p23. 5) 小林道憲 『二十世紀とは何であったか』 日本放送出版協会 1 9 9 4 p9 1 6) 小林道憲 同上書 p9 1 7) 川勝平大 『近代はアジアの海から』 日本放送出版協会 1 9 9 9 p5 7 8) 湯浅越男 「世界史の一体化と近代世界システム」『世界史へ』 山川出版社 1 8 p 9 9 3 8 9) Fヨーロ ッ パ 中心史観” とは=潮流と展望」. p22. ) 青木保 『異文化理解への1 0 2章』 日本放送出版協会 1 1 9 9 8 p 4 1 11 ) 朝 日新聞 1999年10月 8日 夕刊 ) 伊橡谷登士翁 「グロー バリ ゼー ショ ンと現代 移民研究の 課題」 『一橋論叢 12. 第120巻. 第4 号』. 1998 p487一489. ) 山内昌之 『民族問題入門』 中央公論社 1 1 3 6一5 7 9 9 6 p 5 『 1 4 ) 山内昌之 民族と国家』 岩波書店 1 9 9 3 1 5 ) 山内昌之 『民族問題入門』 p9 1 ) 宮崎正勝 「グローバリゼーションと社会科教育」『ゆれる世界と知の複合』 p 1 6 2 0 ) 宮崎正勝 17. 同上書 p20一21. 8 ) 山内昌之 『民族問題入門』 p1 1 7 1 ) 西川長夫 『地球時代の民族文化理論』 新曜社 1 1 9 9 9 5 pl 1 3 2 0 ) 宮崎正勝 前掲書 p 2 1 21 ) 西川正雄 「二十世紀とは何だったのか」『地域からの世界史 21 世界史の構想』 朝日新聞社 1 3 p7 9 9 7 22 ) 上野俊哉/毛利 嘉孝 『カルチ ュ ラ ル・スタ ディ ーズ 入門』 筑摩書房 2000 p186. 2 3 ) 戴エイカ 『多文化主義とディアスポラ』 明石書店 1 9 9 9 p1 8 24) 山田史郎他 『近代 ヨーロ ッ パ の探求①移民』 ミネル ヴァ 書房 1998 p68 25 ) 戴エイカ. 前掲 書 p25. 26 ) 戴エイカ. 前掲書 p33. 2 ) 戴エイカ 前掲書 p5 7 9 28 ) 戴エイカ. 1 46. 前掲書 p95.

(16) . 21世紀を見据えた歴史教育の基礎概念に関する-考察. 25 0 ) 山内昌之 『民族問題入門』 p 2 9 ) 山内昌之 『民族問題入門』 p2 0 9 3 0 0 1 3 1 ) 山内昌之 『民族問題入門』 p2 『 2 4 3 2 ) 山内昌之 民族問題入門』 p1 2 4 3 3 ) 山内昌之 『民族問題入門』 p2 21 7一2 1 8 3 4 ) 山内昌之 『民族問題入門』 p 2 ) 青木保 前掲書 p1 3 35 36 ) 戴エイカ. 3 前掲書 pl1. 8 9 ) 上野俊哉/毛利嘉孝 前掲書 p1 37 9 0 3 8 ) 上野俊哉/毛利嘉孝 前掲書 pl ) エ ドワー ド・W・サイ ー ド, 大橋洋一訳 『知識 人とは何 か』 平凡社 1998 p87 39 40 ) エ ドワー ド・W・サイ ー ド. 同上書 plo9. 41 ) エ ドワー ド・W・サイ ー ド 前掲書 plo9 42 ) 戴エイカ. 前掲書 pl17. 2 0 1一2 0 2 4 3 ) 上野俊哉/毛利嘉孝 前掲書 p 44) 戴エイカ. 前掲書 pl05. 45 ) 戴エイカ. 前掲書 p129. 0 0 0 p2 2 4 6 ) 宇沢弘文 『社会的共通資本』 岩波書店 2. 147.

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