現代社会における文化財保護の新しいあり方 : 「パブリック・アーケオロジー」の視座から
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(2) シンポジウム. 「現代社会における文化財保護の新しいあり方. ―「パブリック・アーケオロジー」の視座から―」. 私がやっているのは、その中で建 築の歴史という学問です。自分の学 問の歴史をやるということは、これ は反省せよ、ということです。つま り雨漏りしたら何で雨漏りしたか考 えなさいという単純な話です。自分 の学問に、完璧であるとは誰も思っ てないので反省しなさいと。だから 自分の学問を振り返りましょうとい うのが建築の歴史という学問です。 学問として何をしているかと言え ば、二つのことがあります。一つは、 文化と歴史の成り立ちを示す学問で あり、個々の建物を位置付けて評価 する学問でもあります。最初の話は、 文 化 論 に 大 体 発 展 し て い ま す。「 建 築は最も雄弁に時代を語る存在であ る」と書いてありますが、こういう ことをあまり言い出すと文化論に発 展するわけです。 下の方が今日のタイトルにある文 化財保護に発展するもので、建物を 評価するというものです。建物を見 て、 「いい建物ですよね」と、褒める 学問です。建物を見て、壊さずに残 しましょう、使っていきましょうと 考える学問です。それは今は発展性 があって、今は国土交通省と文化庁 がタッグを組んで歴史まちづくりな んて言い方をしています。それから 物を大切にする教育にも発展してい く問題であるわけです。 建 築 史 は、 す ご く 素 朴 な 手 法 を 採っています。まず一つは文献調査 をしています。しかし、全ての建物 に文献があるわけではないので、分 か ら な い こ と が い っ ぱ い あ り ま す。 また、文献に残らない事実と事象は 多数存在しています。さらに、文献 にも間違いがあります。 したがって、文献調査で分からな いことは、建物そのものを調査する という遺構調査で補います。これは 多分、考古学とか美術史の手法から 来 て い る の で す が、 物 を 調 査 し ま しょうという方法です。しかし、こ れ、もろ刃の刃で、歴史としては不 十分です。取り壊された建物は調査 できませんので。現存物件だけを扱 うことになり、歴史ではないですね。 それから三つ目は、聞き取り調査 で す。 分 か ら な け れ ば 人 に 聞 き ま しょうという、単純な調査です。社 会 学 の 人 た ち が よ く や っ て い ま す。 でも、人間の記憶は曖昧で、臆測で 平気で物を言いますから、これも信 用できない部分が生じます。 失敗した例を言います。私は明治 村の仕事をしているので、明治村で の失敗例を上げます。右上は明治村 に二〇〇七年に移築工事が竣工した 芝川邸という建物です。西宮から移 築しました。武田五一さんという有 名な建築家の作品集に、彼の設計し. た建物として載っています。ところ が、明治四五年一〇月竣工と書いて あります。明治四五年は七月までし かなく、一〇月は大正元年です。こ の記載は誤植で、明治四四年一〇月 竣工です。誤植なのですが、有名な 建築家の作品集に載っているで、よ く間違えます。 下は、土浦邸という、東京の目黒 に建っている木造の二階建の住宅 で す。 こ れ は 伊 勢 神 宮 の 社 殿 の よ う に 土 壁 を 塗 ら な い、 木 を 組 み 合 わせただけで造っている乾式構造 と い う 構 造、 ド イ ツ 語 で ト ロ ッ ケ ン・モンタージュ・バウ( Trocken )、 英 語 で" Dry Montagebau "という構造です。こ Construction のような建物が一九三〇年代の東京 にいくつも建っていたのですが、ほ とんど残ってない。現存調査をする とこれぐらいしかないのですね。世 の中、これ残っていないものだから、 一九七〇年代まで、誰も見向きもし なかった。最近になって、にわかに 注目され、今は、東京都の指定文化 財になっています。 聞き取り調査の曖昧さの例を示し ま し ょ う。 記 憶 の 曖 昧 さ や 臆 測 に よって、俗説がどんどん生まれます。 例えば、長崎に行くとよく聞く話で すが、 「うちの煉瓦の塀は、うちのひ いじいさんが大枚はたいて造った」. 15.
(3) と。「ああ、すごいですね」と相槌を 打 つ と、 そ の 次 に 出 て く る 言 葉 は、 「煉瓦一個一個、油紙に包まれてイギ リスから運ばれて来た」という返事 です。これは、冷静に考えれば、あ り得ない話です。油紙に包んで輸入 した煉瓦があれば、いくらになるで しょうか。塀に使うよりも建物本体 の特に貴重な場所に使うくらい高価 なもののはずです。煉瓦というのは、 ホ ー ム セ ン タ ー で 安 く て 八 〇 円 台、 高くても二〇〇円ぐらいです。一個 一万円もする煉瓦であれば、きっと 積まないでしょう。なぜなら、泥棒 に持って行かれますから。いい加減 な話から生まれた俗説です。 そ の 次、 こ れ も 傑 作 な 俗 説 で す。 古い住宅や商家を見に行くとよくあ ります。「うちの建物は、釘を一本も 使ってない、大したものでしょう」。 みなさん、この類の話、結構信じて いますね。冷静に考えると、釘を買 うお金がなかったから、釘を使って いない、と考えるのが自然な発想で す。 日 本 は 鉄 が 高 い の で、 大 工 は、 釘を使わずに木の特質を生かしてう ち を 造 る こ と を 考 え て い た の で す。 そこで、江戸時代には、たいへんに 精巧な継手仕口を考えて、釘は使わ なくても木の組み合わせで建物を建 てることが出来たのです。それが適 度に揺れてくれるので地震に強いっ ていう結果論ですよね。釘を使って ないのは、逆に言うとお金がなかっ たっていう証拠なのです。 要するに、建物の調査というのは、 建物を位置付けるために、いろいろ なことをやらないといけないわけで す。 次に文化財の話をします。文化財 保護法を読んでみてください。これ は面白いですよ。文化財の概念を幅 広く設定していて面白いですね。文 化財保護法の二条だったと思います け ど、 文 化 財 の 定 義 が し て あ っ て、 例えば建物の場合、次のようになっ ています。「建造物、単体の建造物は 歴史上または芸術上、価値の高いも の」と書いてあるだけです。だから 歴史上または芸術上、価値が高いと 言われれば文化財なのです。 歴史上とは、どういうことかとい い ま す と、「 運 用 で お お む ね 建 築 を 五 〇 年 経 た 建 物 」 と な っ て い ま す。 要は、古いほど価値があるというこ とです。芸術上、これは意匠、様式 意匠の先端性とか普遍性を言ってい るのですが、これには問題がありま す。後ほど言います。もう一つ、伝 統 的 建 造 物 群 と 呼 ば れ る「 街 並 み 」 ですが、「街並みは周囲の環境と一体 となして歴史的風致を形成し、価値 の高いもの」となっています。これ は、街並みは建物だけじゃなくて後. ろの自然・風景・景観、それが調和 を取れているというのが条件にあり ます。 しかし、実態としては建築史上の 価値を重視して建造物文化財の指定 とか伝統的建造物群の選定をしてい ます。また、登録文化財制度という のが一九九六年にできまして、建築 五〇年を過ぎた建造物を登録文化財 として登録するという方法がありま す。ですが、誤解しないでください。 文化財保護法に基づけば、歴史上ま たは芸術上の価値の高いものは、す べて文化財なのです。だから指定さ れてない、選定されてない、登録され てない文化財は山ほどあるのです。 当時、文化庁長官をやられた河合 隼雄さんの駄じゃれで、登録文化財 制度が始まって、登録物件を増やそ うという議論の中で、「どのくらいの 数を目標にしていますか?」と問わ れて、「未指定・未登録物件はごまん とあるから五万だ」と答えたといわ れています。でも、この一言で、目 標は五万ということになったのです が、これを言いかえれば、文化財保護 法で規定されている文化財は山ほど あるということです。その中で、国 にとって重要なものを重要文化財に 指定している。都道府県や市町村も そ れ ぞ れ に 応 じ て 条 例 を つ く っ て、 重要なものをそれぞれの指定文化財. 16.
(4) シンポジウム. 「現代社会における文化財保護の新しいあり方. ―「パブリック・アーケオロジー」の視座から―」. にしている。それから条件が整えば 登録文化財に登録できる。ところが、 それに当てはまらない、未指定、未 登録の文化財が山ほどあるという話 です。 例えば、これは愛知県立芸術大学 の 建 物 で す。 こ れ は も ち ろ ん 未 指 定 物 件、 未 登 録 物 件 で す。 し か し、 と こ れは、 DOCOMOMO JAPAN い う 組 織 が、 現 代 建 築 と し て 非 常 に 重 要 な 建 物 で あ る と い う こ と で、 125に選定しま DOCOMOMO した。日本の国を代表する現代建築 だと選定したわけです。ここでは、こ の芸術上の価値が認められたわけで す。建築後五〇年というたがをはめ ると。これは当然、今は未指定・未 登録の状態になっています。文化財 がごまんとあるっていうことです。 それで、文化財保護の観点からい えば、問題になるのは未指定、未登 録の文化財です。これらは、普通は 取 り 壊 さ れ る こ と が 多 い で す よ ね。 よくあるのは、ジャーナリストも行 政もいい加減で、未指定・未登録の 建物に対して、「この建物は文化財で はない」と言うことです。文化財と しての価値があるにも関わらず、新 聞記者も市町村の文化財担当者も平 気でそういうことを言います。 実はそういうものを保護するとい うのは、いろいろな考え方でやらな いと、単純に文化財保護法に基づい てやるだけでは保護できないという のが実態です。例えば、文化財建造物 の存在意義というのはいろいろな意 義があり、特に、単に文化遺産だと いうことだけではなく、今は環境の 問題があるので、今ある建物は壊し てはいけない、壊せばゴミが出ると い う こ と も 考 え る 必 要 が あ り ま す。 そのようなことをいろいろ組み合わ せないと、実際には未指定・未登録 の文化財保護はできません。 このようなことをずっと常々考え ていたら、瑞穂区役所から二〇〇二 年に「瑞穂区のよいところを調べて く だ さ い 」 と い う 依 頼 が 来 ま し た。 名古屋で、「瑞穂に住んでいます」と 言うと、「いいとこですね」という返 事が返ってきます。瑞穂区役所から の依頼は、なぜ、皆さんがそのよう な会話をするか、調べてほしいとい う依頼なのです。 私は、最初、引き受けるのを躊躇 し ま し た。 ど う や っ て 調 べ る の か、 まったく、見当が付かなかったので す。だけど、考え直して、これを受け ることにしました。受けないと、私 よ り も っ と い い 加 減 な 人 が 受 け て、 いい加減なことを言うのかもしれな い、だったら、私が先にいい加減な ことを言った方がいいだろう、と考 えた結果です。. た だ し、 本 当 に 方 法 が 分 か ら な かったので、まずは、まちを歩きまし た。二〇〇二年九月一〇日だったと 思うのでが、とにかく名古屋市立博 物館の玄関を振り出しに、その周辺 を歩きました。当時、卒論生で近藤 以 久 恵 さ ん と い う 女 性 が い ま し て、 彼女と二人で、とにかく、まちを歩 くことにしました。この近藤さんと い う 学 生 は、 向 陽 高 校 の 卒 業 生 で、 家が八事の近くなので、瑞穂通を自 転車で通っていたということで、土 地勘があります。一緒に歩いて、何 か探そうということになりました。 何を探して、何をみつけたかとい うと、最初の日の夕刻に、この写真 にある建物を見つけました。この日 の午後、名古屋市立博物館の周辺を 歩いて、歩き疲れて、 「今日はこれで も う 帰 ろ う、 疲 れ た ー」 と 言 っ て、 帰りかけた時に見つけたのがこの建 物です。よく見ると、どうも洋間が 張り出しているし、後ろを見ると三 戸つながった長屋になっていて、土 盛りの上に建っていて、玄関は後ろ に 下 が っ て い る の で、 前 庭 が あ る、 というものです。これ、どう見ても 長屋なのですが、洋館が付いて、前 庭があって、盛り土と石垣があって、 こんな長屋は普通にあるのかと疑問 になりました。これ、落語によく出 てくる八っつあん、熊さんの長屋で. 17.
(5) はない、と気づきました。 普通、落語に出てくる江戸の長屋 というのは、よく「九尺二間の棟割 り長屋」と呼ばれ、とんでもなく狭 いものです。狭いから、貧乏人が住 ん で い る と い う こ と で す。 し か し、 この写真の長屋は、どう見ても「九 尺 二 間 」 で は な く、 そ れ ど こ ろ か、 玄関脇に応接間とおぼしき洋間が張 り出し、前庭があるので、確実に広 い長屋なのです。 その後、歩いてみたら、似たような 長屋があちこちにありました。これ は、ある長屋でお借りした図面です。 外から見ていると後ろが分からない ですが、中に入れてもらったらびっ くり。八畳の間が二つあって。その 時、この家のご主人が「古い図面が あるから離れから持ってきます」と 言って、奥に消えていきました。そ れを聞いて、「長屋に離れがあるって どういうこと」と驚きました。敷地 が長いから裏庭があって、離れがあ るのです。スライドに赤く書いてあ るのが九尺二間の大きさです。「九尺 二間」という江戸の裏長屋と比べる と、この長屋はたいへん広いわけで す。この長屋は戸建て住宅と変わら ない大きさなのです。 歩 き 始 め て 二 カ 月 ぐ ら い し た ら、 二階建の長屋が出てきたのです、二 階建になるともう和室が五室あるの です。それだったら戸建て住宅と変 わらないことになります。これはと んでもない話ではないかということ に気が付いたのです。 よく皆さんがイメージする瑞穂区 周辺の住宅はスライドの左上のパ ターンですね。日本家屋の玄関脇に 応接間が洋間で付いている。これは よくある。一方、下のパターン、長屋 です。これも実は探してみたらいっ ぱいある。しかも、戸建住宅と混在 し て い る。 裏 長 屋 で は な い の で す。 表通りに長屋が建っているので、こ れは、立地も違うということに気づ きました。 それで、二〇〇三年に地元の元気 な方々と「瑞穂うるおいまちづくり 会」という会をつくって、みんなでひ たすら歩いて、住宅を調べてみまし た。そして、それらを絵にして、地 図に載せてみました。掲載には、全 部許可を取っています。だから、実 際には、この三倍ぐらいあります。 この地図を作ってみて、気づいた ことは、戸建と長屋が混在しながら、 いずれも当時の日本の住宅として は、比較的広い居住面積を確保して おり、住宅に付いている庭の樹木が 一体となった、良い環境を作ってい る、ということでした。これで、 「瑞 穂 は い い と こ ろ 」 と い う わ け で す。 その後、改訂版を二回出して、その. 間に取り壊しになった建物に丸印を 付けました。よく見ると二割の建物 がなくなりました。これが未指定・ 未登録物件の保護をどうするかって いう話題提供として考えなきゃいけ ないことです。 そ れ で、「 瑞 穂 は い い 所 」 と い つ も言っているのですが、源は何だっ たかということを考えてみたいと思 います。建物はもちろん今は戸建住 宅と長屋が混在している。その周り に植栽がある。これは個人が努力し て植えた庭の木。これがつながって いると緑がある。それが地形をうま く使って存在している。地図には分 からない、歩くと分かる地形の変化 がある。これが「瑞穂はいい所」の 源で、私はこれを「おしゃれ」だと 言っています。 それで一〇年やってみたらいろい ろ分かったのですけど、今日は初め て新しく言うことはこれです。「無名 ブランドによるおしゃれ」というこ とです。有名な建物はほとんどない、 東山荘ぐらいしかない。でも、無名 な建物が集まってくると居住環境は 良くて、みんな、瑞穂はいい所だっ て思ってくれるというわけです。無 名ブランド、そういうものの集合体 として良好な居住環境はできている ということです。それは歴史的に形 成されたものであって、私の判断で. 18.
(6) シンポジウム. 「現代社会における文化財保護の新しいあり方. ―「パブリック・アーケオロジー」の視座から―」. は、名古屋の郊外住宅地の典型的な 例を示すものとして非常に重要なの で、十分に歴史的価値はあるという 判断しています。私はこれらを文化 財だという判断をもちろんしている わけです。そして、どんどんなくなっ ているわけです、未指定・未登録で すから。 ということで、私の話題提供、未 指定・未登録の物件はどうするかと いう単純な話でした。以上です。 司会:西澤先生、どうもありがとう ございました。続きまして、名古屋 市博物館の村木先生にお話をお願い いたします。村木先生は考古学がご 専門で、名古屋市博物館と名古屋市 立大学の連携事業にずっと関わって こられた方です。 村木:それでは、よろしくお願いい たします。名古屋市博物館学芸係長 の村木と申します。 今、ご紹介いただきましたように、 博物館の中で考古学を専門にやって おりまして、今日、最初に基調講演 をいただきました松田先生がお話し されたようなことの一部を勉強して います。今日は名古屋市という枠の 中でそういったパブリック・アーケ オロジーの一部をどのようにやって いるか。埋蔵文化財の保護の取り組. みをどのようにやっているかという 話をさせていただきます。埋蔵文化 財 と い う の も、 難 し い 用 語 で す が、 考古学では遺跡とか遺物と呼んでい るものを、文化財保護法上では埋蔵 されている文化財ということで埋蔵 文化財と呼んでおりますので、今日 は埋蔵文化財という用語でお話しさ せていただきます。 それで、埋蔵文化財の保護につい ての取り組みですけれども、今日は 二つの話をします。ひとつは、埋蔵 文化財の保護のために直接何をして いるかという話、もうひとつは、そ うした保護の活動を、市民の方に理 解していただくための教育普及の活 動についての話です。 ま ず、 保 護 に 直 接 関 わ る 話 で す。 これは名古屋市だけではないんです が、一般的には埋蔵文化財の保護と いいますと、遺跡、あるいは特定の遺. 物 を 史 跡 や 文 化 財 と し て 指 定 し て、 保護するということをしています。 また、開発に伴う対応もしていま す。周知の埋蔵文化財が所在する範 囲内で開発があった場合の対応は名 古屋市もやっております。これはど ういうのかと言いますと、多分、皆 さんのお宅の近くでも実施されてい るの見たことがあると思うんですけ ど、名古屋市の周知の遺跡というの が公表されてまして、その遺跡の範 囲内で住居など建物を造り、遺跡が 壊れるときは発掘調査を行い、その 記録を保存するということにしてい ます。基本的には埋蔵文化財をその まま残していただきたいという立場 なんですが、どうしてもやはり建物 を建てないといけませんので、そう いう場合には記録を残して、記録の 上で保存するということにしており ます。名古屋市内で言いますと、例 えば科学館のプラネタリウムを造る ときなんかも、遺跡の発掘調査をし てからプラネタリウム造るとか。あ るいは金山のボストン美術館のとこ ろ で す ね、 あ そ こ も 遺 跡 で す の で、 そういった所は遺跡の調査をしてか ら造ると、そういった対応をしてい ます。 二つ目の教育普及の取り組みとし ては、先ほど松田先生のお話の中に もありましたけれども、文化財を保. 19.
(7) 護しましょうという言葉だけではな かなか伝わりませんので、それを実 際的に推進するための活動、先ほど の松田先生のお話で言うと、教育的 アプローチといったところに対応す るような事業をいくつかやっており ます。 今日はその二つの取り組みの話を しようと思います。 名古屋市の話をするわけなんです が、 実 は 今 年 の 七 月 か ら 九 月 ま で、 東北地方の岩手県の宮古市という所 で東日本大震災の復興の発掘調査を しておりました。震災の復興のとき でも先ほど申し上げた通り、家を建 てるという時には、埋蔵文化財があ る所は調査をして、その調査が済ん でから家を建てましょうというよう にしています。それが国の、文化庁 の 方 針 で す。 私 は、 宮 古 市 で そ う いった発掘調査に携わっておりまし たので、まずそこで考えたことから ち ょ っ と お 話 し し た い と 思 い ま す。 それを埋蔵文化財の保護という話に つなげていきたいと思います。 ま ず 宮 古 市 を 簡 単 に 紹 介 し ま す。 これは浄土ヶ浜という有名な観光地 です。写真を撮った時はとても静か な海なんですが、ここも津波の被害 がありました。ここで二〇メートル 以上の津波が来たと言われていま す。 次の写真。皆さんつい先日までN HKでやっておった「あまちゃん」っ ていうドラマ、ご存じですかね。あ の「あまちゃん」は久慈市っていう 宮古よりはちょっと北の所が舞台な んですけれども、その「あまちゃん」 の主人公が東京へ行くときに久慈か ら宮古へ向かって電車に乗っていく んですが、その乗っていく電車が三 陸鉄道、ドラマの中では北鉄なんで すが、ドラマの中で出てきた電車と 同じ電車が走っているところです。 これは宮古から山田線で南へ行く 線路。津波の土砂で埋まり、線路と しては使えない状態になったままに なっています。 私が携わったのは災害公営住宅と いって、今は仮設に住んでおられる 被災者の方が移られる住宅の建設に 先立つ発掘調査です。 6月頃、先ほどご紹介いただいた みたいに名古屋市立大学の吉田先生 や阪井先生と一緒にいろいろ授業と かイベントとかをやっておったんで すが、全て放り出して行ってしまい ました。大変申し訳ないと思いまし たが、ここで今日こういうお話をす ることで許していただけるのではと 思っております。 これをきっかけにいろいろ考えた ことをちょっとお話しします。実は 埋蔵文化財ですね、もう皆さんはテ. レビ・新聞等でご覧になったと思う んですが、復興事業にとっては迷惑 だって言われてるんですね。復興事 業を遅らせると。建物やおうちを造 りたい人の計画がどんどん後ろへず れているのは遺跡の発掘調査のせい だ、と復興と対立的に捉えられがち ということです。一部では、埋蔵文化 財の発掘調査、事前に発掘調査をし ないといけないというのは規制であ ると言われています。文化庁や地方 公共団体の指導とか、文化財保護法 による届け出というのがあって、確 かに法律上の仕組みではあるんです が、それが規制と理解されて、その 規 制 が 適 用 さ れ な い 特 区 を 目 指 す、 埋蔵文化財特区を目指す動きってい うのが、実は東北地方に出ています。 そ こ で 考 え な い と い け な い の は、 本来、文化財を保護するっていうの は先ほどの松田先生のお話ではない んですが、行政の側としては、市民の 方にも望まれていることとしてやっ ていると思うんですけれども、実は 一般の方はそうは思っていない。規 制だと。何ていうんですかね、緩和 されるべき規制だっていうような理 解があるわけです。 もちろん特別な、今回みたいに震 災があって急いでおうちを建てな きゃいけないというのは当然、私も 理解できますし、よく分かる論理で. 20.
(8) シンポジウム. 「現代社会における文化財保護の新しいあり方. ―「パブリック・アーケオロジー」の視座から―」. はあります。ただ、それでもやはり ここでそういったものを認めてしま いますと、埋蔵文化財の保護という もの全体が立ちゆかないのかなとい うようなところもありますので、私 は名古屋市という行政におる立場も あって、やはり埋蔵文化財の調査を 行うという意義を皆さんに理解して いただくことは重要で、そのための 理由付けと言いますか、理屈付けと いうのはやっぱり考えていかないと いけないのかなと思いました。 松田先生のお話ではないんです が、埋蔵文化財の保護に賛成の人ば かりではないわけですね。世の中に は当然、遺跡の調査なんかいらない よ っ て い う 人 が い る わ け で す か ら。 そういった方とどういった関係を築 いていくのかという視点が、これか らは行政の人間にも当然求められる のかなと。ここでパブリック・アーケ オロジー、先ほど先生のお話にあっ たような視点が重要になってくるの かなというふうに思った次第です。 ただ、遺跡の保護というのは、昔 はよく皆さんにご理解いただいてい て、皆さんに愛される埋蔵文化財で あったのが、今になって嫌われてき たというわけでは必ずしもなくてで すね、近藤義郎先生という先ほど先 生のスライドにあった月の輪古墳の 発掘調査の主導なんかをされた方な んですが、一九六四年にこんなこと を言われています。 埋蔵文化財、遺跡の保護っていう のは当然であって、国民はそのこと を理解し自覚しなければならないと いうような考え、前提としてそうい うふうに考えるというのは研究者が 陥っている誤りである。歴史の資料 はなぜ大切か。時代もありますので こういった言葉遣いになるのかと思 うんですが、要は国民に対して何か メリットが具体的にあるのかと。そ ういったところをちゃんと国民と言 いますか、相手に対して説明しない と、共感どころかむしろ反感さえも 生じさせかねないというようなこと を、もうこの時点でおっしゃってる わけなんですね。だからその間、今 回のような問題が吹き出してくるま でよくまあ無事に済んできたなとい うようなところではあるわけなんで すが。 後でまたちょっと話をしますけれ ど も、 そ う い っ た と き に ど う い っ た論理でやってきたのかというと こ ろ が 問 題 に な る の か と 思 い ま す。 ちょっとその話は最後にまとめてす ることにしまして、それに先立ちま して名古屋市では、じゃあそういっ た皆さんに理解を得るためにどう いったことをやっているかというよ うな、二番目の教育普及活動を簡単. に紹介させていただきます。 名古屋市で一番特徴的な教育普及 活動は、見晴台遺跡の市民発掘です。 見晴台遺跡といいますのは、これ(ス ライド)、真ん中に見晴台遺跡ってい うのがありますが、南区の笠寺観音 の所にあるんですね。この図で言う と右上の方が博物館、あるいは名古 屋市立大学があるあたりで、そこか ら五キロぐらい南へ行った所にある 遺跡であります。そこでこれ、調査 が始まった時ですね、四、五〇年前の 調査の様子になります。 これは市民発掘といって、そこで 市民の方が実際に発掘調査に参加す るわけですね。先ほどの先生のスラ イドにもありましたけれども、調査 を見ていただくというのも当然、一 つの手段としてあるわけなんです が、名古屋市はもうちょっと市民に 積極的に関わっていただこうという ことで直接発掘調査に参加していた だいているんです。ただ遺跡を掘る のに参加するというのは今よくあり ますよね。一日だけ小学生とか中学 生がやって来て、潮干狩りみたいに やって土器取って帰っていくと。ま あ土器は返していきますけど。そう いったのはよくやっているんです が、ここの特徴としては、ずっと一 カ月ぐらい延々と調査をやっていま して、その間に毎日市民の方が来て. 21.
(9) 参加すると。 これは何がいいかっていうと、一 つは一カ月、単純に一カ月あります ので、市民の方と、それから学芸員 といいますか調査する側が双方向的 な関係を築くことができます。また 先生の話を引用して恐縮ですが、教 育普及活動というのはどうしても一 方的で権威主義的になりがちだって いうところはありますが、一カ月あ りますとさすがに打ち解けてきます のでコミュニケーションが可能であ ると。それから市民の方が全過程に 参加することも重要です。 考古学の発掘調査を見たことある 方はご存じかと思いますが、掘り上 がったところを考古学者が説明して いるところを見るとですね、さも最 初から全部分かって掘っているよう に見えると思うんですけど、実際に は間違いを犯すことが多くありま す。最初にこんな形の穴かなと思っ て掘り出すと間違っていることがあ ります。途中で「あ、間違った」っ て気づくことがあります。それ、市 民の方の前で分かっちゃうわけです ね。私は四角い穴だと、竪穴住居だと 思って掘り始めたんですけど、掘っ ていくと「あ、丸い穴になっちゃっ た」ということがあります。それを見 て市民の方が「間違ってましたね」っ て言うわけですね。そういうところ も、 要 は 失 敗 す る と こ ろ も 含 め て、 いいところだけ、結果的に分かった ことだけじゃなくて、分かっていく 過程まで見てもらえると。まあこれ、 見せない方が良くて、最初から完璧 に分かっていたらそれに越したこと はないんですが。そういった調査の 過程を全部見ていただけるっていう ところが見晴台遺跡の発掘調査のい いところかなというふうに思ってい ます。 特徴と言いますと、今申し上げた 通 り、 一 方 的 な 押 し 付 け で は な く て、実際の調査を経験していただく ことで、自ら考える機会を与えると いう場になっているという点が挙げ られます。より進んで、例えば遺跡 のニュースとかが新聞に出てきたと きに、どうしてそんなことが分かる んだろうと考えてもらえるよう、で きるだけいろんな説明を加えながら やっていこうと思ってます。 それからもう一つ重要だと思って いるのは、楽しく進めるということ です。遺跡の発掘調査っていうのは 本来やっぱり楽しくやるべきものだ と思いますので、その楽しさ、昔の ことが分かっていくっていう楽しさ を共有できるようにというようなイ ベントを心がけています。これが名 古屋市の文化財保護のための教育的 アプローチの一つです。これは全国. 的に見ても極めて珍しい事業だと思 いますので、こういった事業は今後 も続けていけるといいと思っていま す。 最後に今の二つの話を、まとめた 話を二、三分でしたいと思います。今 までですね、最初の埋蔵文化財の発 掘調査を、どういう論理で皆さんに 受け入れてもらってきたかという点 についてです。先ほどの先生のお話 にもあったように、日本は先住民と いう存在が本州の中ではあまりない ため、自分たちの祖先が残した遺跡 だっていうような意識が強くて、郷 土意識といいますか、ここがあなた の育った場所ですよねっていうとこ ろから始まって、みなさんは直接遺 跡を残した人とつながってますよと いうような郷土意識に訴えて遺跡の 保護というのを求めてきたっていう のがあるんだろうと思います。これ は、文化庁におられた坂井秀弥先生 もおっしゃっています。そういった 論 理 が 日 本 の 場 合、 強 く 働 い て き て、だから、先ほど近藤義郎先生が おっしゃったような事態にもかかわ らず、まあだましだましというとこ ろもあってやってこれたんだろうと 思います。しかし、人の移動が激し くなった現在、この論理がどのくら い通用するのかは検討が必要だと思 います。. 22.
(10) シンポジウム. 「現代社会における文化財保護の新しいあり方. ―「パブリック・アーケオロジー」の視座から―」. それからもう一つ、見晴台遺跡の 所で、見晴台遺跡っていうのは弥生 時代の遺跡でして。どういう説明し てきたかっていうと、弥生時代って いうのは農業が始まった時代で、農 業っていうのは今の日本社会を築い ている礎ですよね。だから今の日本 の原風景が弥生時代に築かれたんで すよっていうような説明して、弥生 時代と現代の直接的なつながりをア ピールしてきたと思うんですが。た だ、先ほどの二枚、見晴台遺跡の周辺 の絵を見ていただいたと思うんです が、市街化が進んでいる現代の様子 と、昭和三〇年、調査が始まった時、 本当に水田ばっかりでしたね。その 絵を見比べていただくと分かるんで すが、昭和三〇年代には弥生時代と の連続性はリアリティがあったかも しれませんが、今の特に若い人たち に農業が始まった時との連続性って いうのを都会の真ん中で訴えてもな かなか分かってくれないというよう なところがあるのかなと思います。 あるいはですね、古代史っていう のはなかなか今は若い子たちに人気 がないのかなと思うのは、むしろ古 代史よりは最近の手の届く範囲の歴 史が皆さん好きですよね。近現代の 方が好きなようです。どこかで読ん だことがあるんですが、歴史ってい うのはやっぱり人間の過去を見て未 来を考える上で重要だ、けど、その 中でも近現代は直接関係あるから重 要だけど古代史はそうでもない、み たいなことが書いてあるのを見た覚 えがあります。 こうした現在の状況を考えます と、古代の遺跡の保護を訴える時に、 今まで訴えてきた論理、過去との連 続性といった論理ではなかなか説得 力がないのかなと感じます。だから、 そ う い っ た 説 得 力 の な さ が 原 因 で、 例えば埋蔵文化財の保護と言って遺 跡 の 調 査 を し ま し ょ う と 言 っ て も、 それは規制に過ぎないんじゃないの という意見が出てくるんじゃないか なっていうようなところを今は考え ています。 じゃあ、それに対して、ここから が今日のテーマである新しい時代に ふさわしい保護のあり方というとこ ろになるんですが、どうしたらよい の で し ょ う。 新 し い 論 理 を 考 え て それだけで説得できるかっていう と、私は、ちょっとそれはもう現実 的に無理なのかなと思います。新し い論理を考え出すというよりは、も うちょっと実態のレベルで、例えば 具体的にみんなが参加するとか、あ るいは体験をするといった、本当に 日々のレベルでの実践を通じて、頭 で分かるというよりは体で分かって もらうというようなことを考えて行. くのが良いのではと思います。です から、名古屋市の私の関わる事業と し て は、 そ う い う 方 向 を 目 指 し て やっているというわけです。そうい う点で見晴台遺跡における市民発掘 はとても大きな意義を持っていると 考えています。 実は今年もありましたが、名古屋 市立大学の阪井先生と一緒に、博物 館で夏祭りというのをやっていま す。 そ こ で は 弥 生 時 代 と か で す ね、 博物館の展示の中で学生さんがコン トとか寸劇をするんですけど、考古 学研究者としてはそれはちょっとや めてほしいなというようなこともあ ります。ただ、そういった新しい見 せ 方 と い う か で す ね、 新 し い 味 わ い方を市民の方に見ていただくとい う意味では、私はやめてほしいなと 思っても市民の方にとってそれがい い経験になり、楽しみながら学ぶ良 いきっかけになるならばやったほう がよいだろうというところで、学生 さんの自主性に任せてですね、学生 さんが自由にやっていくというとこ ろを今は進めているところでござい ます。 名古屋市の今と言いますか、私の 今、携わっている部門に関連しまし て、文化財保護のこれまでの取り組 みと、それから今後に向けてのお話 を、まとまりのない話でしたけれど. 23.
(11) もさせていただきました。ありがと うございました。 司会:村木先生、どうもありがとう ございました。では、続いて吉田先 生にお願いをしたいと思います。吉 田先生は歴史学がご専門の本学の先 生です。特に古代史、それから仏教 史にお詳しい先生です。では、よろ しくお願いいたします。 吉田:吉田でございます。簡単に自 己紹介いたします。私は日本の歴史 が専門でありまして、古代史――考 古学の先生方と少し言葉の用法が違 うのかもしれませんが、私ども日本 史の方で古代史というと飛鳥・奈良・ 平安時代を指します――、それから 仏 教 史 に 興 味 を 持 っ て お り ま し て、 これまで研究してまいりました。 大学では古代史や仏教史のゼミを 担当しています。最近ではESDと いいまして、持続可能な開発のため の教育や、地域連携教育について考 えておりまして、そういう中で名古 屋市博物館との連携を強化していき たいと考え、連携活動にも力を入れ ております。 今日は「歴史文化遺産の価値」と いうテーマでお話をしていきたいと 思います。日本史を専門にしており ますと、文化財、特に重要文化財で. あるとか国宝という言葉と長く付き 合ってきましたが、ここ十数年、こ の「 国 宝 」「 重 要 文 化 財 」 と い う 言 葉にだんだん違和感を覚えるように なりました。今日のシンポジウムの 前に、村木先生から松田先生が『考 古学研究』の一番新しい号にお書き になった「パブリック・アーケオロ ジーの観点から見た考古学、文化財、 文化遺産」 (『考古学研究』六〇―二、 二〇一三年)というご論文があるの を教えていただき、コピーを頂戴し て読みました。そこに、先ほどお話 しされたような「文化財」と「文化 遺産」は違うというお話が書かれて おり、非常に勇気づけられました。 私も本年三月に『人間文化研究所 年報』に書かせていただいた小文で は、「 文 化 財 」 と い う 言 葉 が 使 い に く く、「 歴 史 文 化 遺 産 」 と い う 言 葉 を 使 っ て 文 章 を 書 き ま し た(「 契 丹. (遼)の仏教をたずねて」『人間文化 研究所年報』八、二〇一三年)。また、 本 学 で は、「 名 古 屋 と 観 光 」 と い う オムニバスの講義をやっております が、そこでも「歴史文化遺産」とい う言葉を使ってテキストを作りまし た(山田明・吉田一彦編『名古屋の 観光力』風媒社、二〇一三年)。私は 「文化遺産」にはいくつかの下位概念 があって、私が専門とします歴史の 立場からの文化遺産が「歴史文化遺 産」にあたると考えています。この 「歴史文化遺産」という言葉で我々 の身近にあるものを考えていきたい と思います。そのときに「国宝」と か「史跡」という考え方を少し批判 的に見ながら、歴史学の立場からす れば反省的に考えながら、進んでい くべきではないだろうかと考えてお ります。 今日は、最初は、松田先生のご講 演に対してその場でコメントを述べ ようと考えていましたが、日頃考え ていることを何か話題提供として出 した方がいいとも考えまして少し準 備をしてきました。今日のご講演に 対する直接的なコメントに代えまし て、準備してきたこと――それが多 分コメントになると思いますので― ―を述べたいと思います。三点あり ます。それが私からシンポジウムへ の話題提供ということになります。. 24.
(12) シンポジウム. 「現代社会における文化財保護の新しいあり方. ―「パブリック・アーケオロジー」の視座から―」. 一つは、「文化財保護」という概念 の歴史と背景をきちんと考えるべき だということであります。 それから私が日頃、研究課題とし て取り扱っている飛鳥・奈良時代の 歴史を考える上で重要になる書物に 『日本書紀』があります。この『日本 書紀』と遺跡との関係で、いろいろ と思い悩むことが多くあります。こ の話を二番目にします。 さらに、日本のさまざまな歴史文 化遺産の修復、復元と、韓国や中国 などの修復、復元――最近、私はい ろいろ見学に行かせていただく機会 が 多 い の で す が ―― そ こ で の 修 復、 復元の考え方にはいろいろな差異が あります。その差異の中にもしかし たら一つの考える方向性、あるいは ヒントがあるのかもしれない。それ を三番目に取り上げます。 まず文化財保護の歴史の話からい たします。ご専門の方はよくご存じ のことと思いますが、これについて はすでにすぐれた研究があります (高木博志『近代天皇制と古都』岩波 書店、二〇〇六年、鈴木良「文化財の 誕生」『歴史評論』五五五、一九九六 年、同「近代日本文化財問題の課題に ついて」『歴史評論』五七三、一九九八 年、など)。それらを参照しますと、 はいぶつきしゃく 明治維新が起こり、廃仏毀釈が行わ れ、仏教や寺院関係のものに対する 廃仏行為が行われました。このまま ではお寺の貴重な遺産が失われてし まうということで、一八七一年、古 器旧物保存方が太政官布告第二五一 号として出されますが、これがおそ らく今日につながる文化財保護法の 一番最初のものにあたるのだろうと 言われています。やがて、一八九七 年に古社寺保存法という法律ができ ます。これが直接的には今日の文化 財保護法の原形になる法律でありま す。 ここで考えなければいけないの が、 明 治 国 家 と は ど う い う 国 家 で あったかということであります。明 治維新が行われ、新たに欧米列強の 仲間入りをするという時に、欧米の 素晴らしい歴史文化遺産に対抗し て、日本にもこんな立派で素晴らし い宝物がありますよということを 主 張 し た い。 そ の 中 心 に 立 っ た の が 岡 倉 天 心( 岡 倉 覚 三、一 八 六 三 ~ 一九一三)という人物でした。そう した潮流の中で古社寺保存法ができ ました。 歴史学の方は、明治に新しい歴史 しげ の やすつぐ 学が始まって、重野安繹(一八二七 く め くにたけ ~一九一〇)、久米邦武(一八三九~ 一九三一)というような人物が現れ て、「 こ れ は 歴 史 的 事 実 だ が、 こ ち らは歴史的事実でない」という新し い学説を述べました。江戸時代まで. は講釈とか太平記語りなどの世界が あり、歴史と文学とがごちゃごちゃ になっていました。今のNHKの大 河ドラマもその伝統を引いています が、ドラマと歴史とが融合している 時代の中で、重野や久米は「こちら は作り話であるが、こちらは歴史的 事実である」という研究を開始しま した。しかし、こうした新しい歴史 学に対しては、そうした学問ははな はだ危険だ。武蔵坊弁慶は架空の人 物だと言われると困る。あるいは日 蓮聖人辰口の御難は歴史的事実では ないと言われると許せない。という ような反発が生まれました。そうい う中で、久米が「神道ハ祭天ノ古俗」 (『史学会雑誌』掲載、『史海』転載、 一八九一~一八九二年)という論文 を書きまして、これが神道家たちの 強い反発を受けまして、久米邦武が 東京帝国大学を追われるという、久 米事件が起こりました。 そうした動乱の中で歴史学は少し ずつ立場を変えまして、どうも何が 事実で何が事実でないかという近代 的・合理的思想に立って物を言うよ り は、 や は り 国 民 の ア イ デ ン テ ィ ティ、あるいは明治国家の理念を支 え、あるいは補完する学問であるべ きだという立場が出てきました。こ れが岡倉たちの美術史の誇るべき文 化遺産を認定していくという立場と. 25.
(13) 連動いたしまして、古社寺保存法が できました。こうして「国宝」 「特別 保護建造物」といったものが認定さ れていくということになりました。 そ の 後、 こ の 法 律 は 少 し ず つ 変 わっていきまして、一九一九年の史 跡名勝天然紀念物保存法、あるいは 一九二九年の国宝保存法、一九三三 年の重要美術品等ノ保存ニ関スル法 律 と い っ た よ う な も の を 経 ま し て、 戦後の一九五〇年に文化財保護法と して今日の基になる法律ができまし た。文化財保護法は、その後、改訂 を 繰 り 返 し て 今 の 姿 に な り ま す が、 その原形はこの一九五〇年の法律に あります。 そ の 第 三 条 に、「 政 府 及 び 地 方 公 共 団 体 は、 文 化 財 が わ が 国 の 歴 史、 文化等の正しい理解のため欠くこと の で き な い も の で あ り( 後 略 )」 と あります。ここに根本の考え方の一 つがよく出ています。歴史、文化の 「正しい理解」というのを国家が言 うときはなかなかややこしい話にな りますが、この法はこの「正しい理 解」のために重要になるものを政府 および地方公共団体が指定するとい う立場でできております。また、第 二十七条には「文部科学大臣は、有 形文化財のうち重要なものを重要文 化財に指定することができる」とあ ります。それを指定するのは、決し て阪神タイガースのファンでも、た こ焼きのファンでもなく、文部科学 大臣であるとされています。文部科 学大臣は有形文化財のうち重要なも のを重要文化財に指定することがで きます。 ただ、大臣は専門家ではありませ ん。 そ こ で 学 者 が 出 て ま い り ま す。 考 古 学 者、 歴 史 学 者、 建 築 史 学 者、 美術史学者、民俗学者などが出てま いりまして、これは重要だ、これは 重 要 で な い と い う 鑑 定 作 業 を 行 い、 審議会による審査を行います。それ は最初の古社寺保存法の用語で言う と「監査」ということで、その最初 の監査にあたった岡倉天心らの記録 が今日なお残っております。 私自身は、国家が重要だと考える ものを文化財に指定していくという のは、あの時代には必要だったのだ ろうけれども、もう二一世紀になっ たのだから、明治国家的な発想から そろそろ卒業してもいいのではない かと考えています。古代史のブーム が去ったというのも、それときっと 深い関連があるように思います。私 は日本古代史が専攻で、私が大学の 史学科に入学した頃は古代史は花形 学問でした。井上光貞先生、岸俊男 先生などが華々しく活動されている 時代でした。 実は、明治の古社寺保存法の時代. においても古代が重要で、一番重要 なものは法隆寺の品々でした。岡倉 天心の評価がそうでした。フェノロ サ や 岡 倉 天 心 が そ う だ っ た よ う に、 法 隆 寺 が 重 要 だ、 東 大 寺 が 重 要 だ、 薬師寺が重要だとされました。だか ら、お寺や神社の歴史文化遺産に指 定が偏っていましたし、飛鳥、奈良、 平安時代のものに偏った指定が行わ れていました(高木博志前掲書)。 それには理由があります。明治国 家は版籍奉還、廃藩置県、王政復古 ということをやりました。王政復古 とは何か。武家政権の時代を脱却し て天皇中心の政治を行う。では、天 皇中心の政治というのは何なのかと いうと、かつて奈良時代にあった政 治の姿がそれであると。本当に奈良 時代が天皇中心の政治が行なわれた 時代だったかどうかは、奈良時代を 研究していますといろいろな疑問が でてきますが、しかし明治国家はそ う考えました。ですから、王政復古 といえば飛鳥・奈良・平安時代が重 要だとされました。 版籍奉還、廃藩置県といえば何が 重要か。大化の改新が重要だとされ ました。豪族たちの私地私有民を廃 止して「公地公民」にした。これは 明治国家がやっていることと同じで はないか。こうして明治国家にとっ て は、 七 世 紀、 八 世 紀 と い う の は、. 26.
(14) シンポジウム. 「現代社会における文化財保護の新しいあり方. ―「パブリック・アーケオロジー」の視座から―」. もとい. とても素晴らしい、自分たちが理想 り 返 し 読 ん で し ま う と い う こ と で、 の歴史の常識になっていますが、そ とする、つまり復古すべき王政の基 別にこの本が好きなわけではないで れは『日本書紀』の記述を現代語訳 で あ る と 評 価 さ れ ま し た。 そ し て、 す。 した歴史です。では、それが本当な その時代に作られた素晴らしい文物 この本に書いてあることには歴史 のかどうかとなると、いろいろな議 はアジアを代表する素晴らしいもの 的事実でないことが多くあります 論があります。そうしたことを正面 であり、世界に誇るべきものだとい が、その一方、どこか歴史的事実を から議論し、考証することはあるい う評価がなされていきました。 伝えることも書いてあって、どこま は好ましくない学問なのかもしれま しかし、今日から見ますと、本当に でが歴史的事実でどこからが歴史的 せんが、私には重要な論点であると 飛鳥・奈良・平安時代が日本の「古 事実でないかはまだよくわかってい 思 わ れ ま す。『 日 本 書 紀 』 に 書 か れ 代」だったのかどうかはまだよくわ ま せ ん。 こ れ を 研 究 し た 二 〇 世 紀 ている時代のことは、他に同時代の かりません。かつての国家や学者に を代表する歴史学者に津田左右吉 史 料 が ほ と ん ど な い も の で す か ら、 とってはそうだったかもしれないけ (一八七三~一九六一)がおります。 『日本書紀』の記述の信憑性を解明し れども、今の時代から見れば、飛鳥・ 戦前、津田左右吉は『日本書紀』に ようとしましても、手掛かりが少な 奈良時代が「古代」かどうかはわか 書いてある記述のうち、これこれの くて困ります。そこで、歴史学は考 りませんし、平安時代に至っては中 部分は歴史的事実ではないというこ 古学の研究成果を参照して『日本書 期以降は「中世」だと言われる学者 とを言いました。やがて津田の研究 紀』の史料批判に役立てたいと考え の方が多い。あるいは奈良時代もも は批判を受け、本は発売禁止になり、 ました。けれども、全てではないの う「中世」でよいのかもしれないと 早稲田大学教授の地位を追われ、最 ですが、考古学ではしばしば発掘し 私自身は考えております。 後は司法に問われて出版法違反とい て出てきた遺跡・遺物について、こ そう考えますと、かつてと同じよ う形で有罪判決を受けました(禁錮 れ は『 日 本 書 紀 』 の 何 々 に あ た る、 うな感覚で文化財を認定、鑑定、指定 三カ月、執行猶予二年)。津田左右吉 あるいは『日本書紀』の何々と関係 し て い く こ と が 妥 当 な の か ど う か、 事件です。 が深い、といったような推測を提起 再考がせまられます。国家の理念に 今日はそういう時代ではなく、学 します。『日本書紀』を前提にして、 よって何が重要で何が歴史や文化の 問の自由の時代ですから、自由に『日 遺跡を『日本書紀』に関連づけて説 正しい理解かを決めていくというと 本書紀』を研究すればよろしいので 明しようとするのです。 ころからそろそろ脱却してもよいの すけれども、『日本書紀』の影響力は つまり、出土した遺跡・遺物から ではないでしょうか。 今日なおとても大きく、その呪縛は 『日本書紀』を史料批判するのではな そこで、二番目の話題になります いまだに我々の内面を拘束しており く、 む し ろ そ の 遺 跡 を『 日 本 書 紀 』 が、『 日 本 書 紀 』 と い う 書 物 が あ り ます。 と結び付けることによって権威化す ます。私の愛読書の一つで、なぜ愛 推古天皇がおり、聖徳太子が活躍 る。 こ う い っ た こ と が あ り ま し て、 読しているかというと、何度読んで し、大化の改新があり、律令の時代 それがその遺跡の発掘予算の確保 もよくわからない。仕方ないので繰 になる、というのは我々の中で日本 や、史跡認定に連関するという場合. 27.
(15) もあります。私としましては、もっ と『日本書紀』を批判的に扱ってほ しいと考えます。 最後に話題提供の三番目といたし まして、修復・復元の考え方につい て、 今 日 は 建 築 史 の 西 澤 先 生 も い らっしゃいますのでいろいろ教えて いただきたいと考え、発言いたしま す。修復、復元で問題になるのは、土 器であるとか、絵画であるとかの場 合もありますが、やはり一番大きな 問 題 に な る の は 建 造 物 の 復 元 で す。 考え方として、再現的な復元と、新 しい要素を入れた復元、修復とがあ ります。 このスライドは名古屋城の本丸御 殿で、復元作業が進みまして、今年 の五月に部分的に公開されるように な り ま し た。「 名 古 屋 と 観 光 」 の 授 業でもこの本丸御殿の話をよくしま す。戦前は国宝に指定されておりま したが、第二次世界大戦の名古屋大 空襲で焼失しました。本丸御殿を復 元するに際しては、発掘調査をして 位置を確定し、また戦前、名古屋工 業 学 校( 現 名 古 屋 工 業 大 学 ) が 調 査、作成しました詳細な実測図があ りますし、写真資料がたくさんあり ます。これらによって、焼ける前の 状態にかなり近い再現的な復元がで きます。それがこの復元の大きな特 色です。ですから、戦前の本丸御殿 を知っている人から見ても、その時 と近い形の復元がなされているのだ ろうと思われます。 これに対して、こちらのスライド は、先ほどの松田先生のご講演でも 出てまいりました平城宮跡に建ちま し た 大 極 殿 の 復 元 で す。 七 一 〇 年 に 平 城 京 遷 都 が な さ れ ま し た か ら、 二〇一〇年は遷都一三〇〇周年にあ たるということで、復元がなされま した。大極殿は、平城宮の一番中心 になる建物です。 しかし、この大極殿は誰も見たこ とがないですし、写真も残っていま せん。発掘により、柱の穴や、ある いは出土遺物が出てまいりましたか ら、その遺物とそっくりのレプリカ を作って復元の建物に用いることは できます。しかしですね、地上の建 造物はほとんどが想像です。全部想 像で根拠がないとまでは言えません し、これまでの学問の蓄積の成果が 活かされてはいます。しかし、本当 に建物がこうした形をしていたのか どうかは不明の部分が多い。薬師寺 東塔であるとか法隆寺金堂などの同 時代の建物などを参照して復元がな されましたが、こうした創造をまじ えた復元の意味についてはなお考え る必要があると思います。 た だ、 先 ほ ど 松 田 先 生 の お っ しゃった多義的・批判的復元という. 観点に立てば、ある程度の信憑性の ある復元を行うことで折り合いを付 けるというのが重要になるのかもし れませんが。 最後にこのスライドですが、これ は 中 国 の 法 門 寺 と い う 西 安 の 郊 外、 陝西省の宝鶏市扶風県にある寺院で す。見学に行ったことがありますが、 立派な塔(真身宝塔)があります。実 は、この塔はもう一つのこちらの写 真のようにかつてはぼろぼろに崩れ ていて倒壊寸前の状態でした。それ を修復しまして、今のこちらの写真 で見るような立派な塔に修復いたし ました。では、一体これはどの時代 の も の に 戻 し て 修 復 し て あ る の か。 あるいは、どの程度想像をまじえて 修復することが許されるのか、とい うことについて私は考え込んでしま い ま す。 そ う し た 学 問 的 な 立 場 と、 例えばまちおこしであるとか、観光 であるとか、お寺の活性化であると か、そういったことをどのように複 合的に視野に入れて修復、復元して いくのが妥当なあり方なのかという ことを、最近しばしば考えておりま す。 以上、三点の話題提供をさせてい ただきました。また後ほどのシンポ ジウムで議論させていただければと 思います。以上であります。. 28.
(16) シンポジウム. 「現代社会における文化財保護の新しいあり方. ―「パブリック・アーケオロジー」の視座から―」. 司会:吉田先生、どうもありがとう ございました。では、これから松田先 生とパネリストの先生方それぞれに 壇上に登っていただきまして、ディ スカッションを始めていきたいと思 います。 では、最初に松田先生の方から、パ ネリストの方々のプレゼンテーショ ンに対してコメントと質問をいただ ければと思います。よろしくお願い いたします。 松田:三人の先生方、ありがとうご ざいました。いずれのお話にもたく さん考えさせられるところがありま したので、それを時間内でコメント させていただきたいと思います。 まず西澤先生のご発表ですが、非 常 に 勉 強 に な り ま し た。 パ ブ リ ッ ク・アーケオロジーをやっておりま すと、都市計画や町づくりに携わっ ている方にたまに指摘されることが あります。パブリック・アーケオロ ジーの中では、考古学の専門家以外 の人々の声や意見をもっと取り入れ なければならないというようなこと が主張されるのですが、そういうこ とは、町並み保存の中ではもうずっ と 前 か ら や ら れ て き た こ と で あ る、 という指摘です。たしかにその通り だと思います。考古遺跡ではこれま で考古学者が比較的独占的に活動し. てこれたので、そこに考古学の専門 家以外の人の声を取り入れましょ う、という考え方は新しく聞こえる かもしれません。しかし、町には常 に人が住んでいるわけですから、町 並みの保存は必然的に専門家以外の さまざまな人々の声を取り入れる必 要があります。その意味では、パブ リック・アーケオロジーは都市計画 や町づくりの考え方を遅まきながら 取り入れようとしている、と言える のかもしれません。ご発表を聞いて いて、そのことを感じました。 もう一点、西澤先生がおっしゃっ た文化財保護法の中での文化財の取 り扱いですが、先生がおっしゃいま したように、文化財保護法の中では 文化財が何かということが明確に定 義されています。そして、保護を受 けるのは指定を受けた文化財のみで す。逆に言いますと、指定を受けて ない文化財も存在していて、これら には保護の網はかかりません。未指 定の文化財は保護対象外ということ です。その点を文化財保護法は明確 に示しているのですが、意外と忘れ られがちですので、私自身もよく思 い出さねばならない、と再確認でき ました。ありがとうございます。 最後のコメントは質問につなげさ せて頂きたいと思うのですが、先生 のご発表の中で、瑞穂の良い所を調. 29.
(17) べるというお話がありました。それ を 興 味 深 く 思 い ま し た。 と り わ け、 その方法論の話が面白いと思いまし た。瑞穂の良い所を見つけ出す方法 論は、とにかく歩く。そして、歩い て得られた情報を地図上にマッピン グしていく、というものでした。こ の方法論というのは、都市計画の中 ではある程度確立されたものなので しょうか。あるいは西澤先生が独自 で考えられ、これから普及させてい きたいとお考えになっていらっしゃ るのでしょうか。そこをぜひお伺い したいと思います。というのは、その 方法論は、おそらく他の地区や場所 でも適用できるのではないかと思っ たからです。それを一般化された方 法論にすることによって、他の場所 でも適用できれば、素敵なことだと 思いましたので、ぜひお伺いしたい と思います。 続きまして、村木先生のご発表で すが、村木先生ご自身がおっしゃっ ていたように、テーマが考古学とい うことで、私の関心とも非常に近い ものでした。したがいまして、お話 をじっくりとお聞きすることができ ました。まず、近藤義郎先生が既に 一九六〇年代の段階で、考古学者は 傲慢になるなというようなことを おっしゃっていたというのが、非常 に興味深かったです。 次にお話をお伺いしていて思った のは、見晴台における取り組みは、お そらく世界的に見てもかなり進んだ 事例だということです。市民の方々 に発掘をしてもらう、しかも発掘調 査のすべてのプロセスを体験しても ら う、 と 村 木 先 生 は さ ら り と お っ しゃいましたが、世界的に見てもそ うした事例はそうたくさんあるわけ ではありません。ですので、見晴台 に お け る 取 り 組 み の よ う な 事 例 は、 日本の外に発信していくことによっ て、世界からも注目してもらえるの ではと思いました。 私の発表でも少し触れました、保 渡田古墳群における取り組みもあり ますし、日本全国を見ますと世界的 に見ても優れたパブリック・アーケ オロジーの取り組みがたくさんある と思います。それらは実はかなり普 通のことのように行われています が、国外で話しますと結構びっくり されます。ですので、優れた取り組み に関する情報は、海外に向けて発信 することによって、海外から日本に 勉強に来てもらえる、そのような機 会をつくれるのではないか、と思っ ております。 行政が何か新しい取り組みをやる ときに、海外に参考事例を見に行く ことがよくあります。文化に関する 取り組みの場合、日本からよく視察. に行く対象国はアメリカ、イギリス、 フランス、ドイツ、イタリアなどで しょうか。そうした国に行って、海 外ではこうなっています、と情報を 集めて帰ってくることが行政ではよ くあります。これはこれで良い事だ と思いますが、これからは、逆方向 の視察もぜひとも生み出していくべ きだと考えています。日本発で、海 外の人が日本に来て、「見晴台ではこ んなことをやっている」と情報を集 めて本国に持ち帰って、その国の行 政の発展に資する、そのような事例 を 増 や し て い く べ き か と 思 い ま す。 そしてパブリック・アーケオロジー の分野では、見晴台での取り組みは 海外の関係者の関心を十分に引くも のだと思いました。 先生がおっしゃった話の中で、地 域史あるいは古代史がかつてもって いた説得力が減りつつあるというお 話が面白かったです。では、その地 域史あるいは古代史に代わる材料が あるのか。先生は身体化、要するに とにかく作業に参加していただい て、頭で考える前に体で覚えて地元 に日常、日々のレベルでこういうこ とがあったというのを体験してもら う、とおっしゃいました。これはユ ニークな発想だと思いました。 それに関して私が思いましたこと は、地域史あるいは古代史への人々. 30.
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