カント『視霊者の夢』への
新しい視座
小森健太郎
カントは『純粋理性批判』において、人間の認識には二つの幹、感性と 悟性があるとし、感性によって対象が与えられ、悟性によって対象が思考 されるとした。対象が人間に現れるのは現象であって、〈物自体〉ではな い。物自体についてカントは、同書の序盤、「超越論的原理論」第一部門、 1−1「空間について」の節で、以下のように規定している。「対象はそれ自 体では私たちには全然未知であり、だから、私たちが外的対象と名づける ものは私たちの感性のたんなる表象以外の何ものでもなく、この感性の形 式が空間であるが、しかしこの感性の真の相関者は、言いかえれば物自体 そのものは、空間というこの形式を通じては全然認識もされもしなければ、 全然認識されることもできず、しかもそうした物自体は経験においてけっ して問題とはならない」(カント上 70 頁)。 カントは、この〈物自体〉の措定が、ロックなどのイギリスの実在論と 自らの観念論を決定的にわかつ分水嶺になると位置づけている。たしかに、 〈物自体〉の措定によって、人間の認識がそのまま実在の把握であり、真実 であるとする経験論を乗り越える哲学が乗り越えられた面はあると言える だろう。だが、カントの後を継いだドイツの哲学者たちによって、〈物自体〉 の領域は必ずしも温存され受け継がれてはいかなかった。ショーペンハウ アーは、カントの言う〈物自体〉を〈意志〉と読み替えて温存したが、ヘーゲルにあっては、絶対精神において止揚されることで〈物自体〉の領 域は捨象されてしまう。フッサールの始めた現象学にあっては、現象が自 我にとっての現れである点で、かなりの程度までカント思想の図式が受け 継がれているが、現象の背後にある〈物自体〉の領域は認めない。現象学 の立場を貫くには、神の視点ないしメタ的な視座が必要とされる〈物自体〉 の領域を認めるわけにはいかないからだ。 現象学の立場からカント哲学を振り返ると、すべての現象が自我にとっ ての現れであると一貫するには、自我にとっての現れになりえない〈物自 体〉の領域を温存することは不徹底である。そもそも人間の認識にまった く立ち現れない領域であるなら、〈物自体〉をわざわざ措定する意味も必要 性もよくわからないものになる。人間にはとらえられない不可知の領域が あるとした上で、哲学の対象にするのは、人間にとらえられる現象の領域 にのみとどまればよいはずである。 だが、カントの〈物自体〉を温存した意味と必要性は、カントの別の著 作―『視霊者の夢』を媒介とすると、より理解できるものとなる。端的 にいえば、〈物自体〉は、人間にとらえられないものであっても、まったく 不可知の領域、神のみぞ知る領域でなく、ある条件のもとでは知られうる ものとなるからだ。 カントは、同書第一部第一節で「私は、霊魂が存在するかどうか知らな いし、そればかりか、霊魂という言葉が何を意味するのかもまったく知ら ない」(カント霊 234 頁)と表明しながらも、以下のように、心情的には、 霊魂の実在を信じる立場に傾いていると述べている。「打ち明けて言えば、 私は、世界に非物質的な本性のものが存在すると主張し、私の魂自身をそ のような存在者に数え入れる、という側に大いに傾いている」(同 245 頁)。 この本で主題となっているスウェーデンボリの霊能力が本物であるかどう かについても、カントは慎重な立場を貫き、あるともないとも断定を下さ ない態度を貫いている。 カントは、スウェーデンボリが能力を実際に証明したという事例を三つ あげて検討している。ひとつめは、ある侯爵夫人に死者からのメッセージ を伝えたという事例で、侯爵夫人によれば、当該の死者と彼女自身でなけ
れば知り得ないことが、そのメッセージに含まれていたという。その話は コペンハーゲンの公使から伝わってきたもので、信頼のおける伝聞である とカントは扱っているようだ。 二番目は、スウェーデン宮廷のマルトヴィーユ夫人の失せ物を、ス ウェーデンボリが霊視によって場所をあてたというもので、この風評に関 しては、信用性が充分保証されないものであるとカントはみなしている。 三番目は、スウェーデンボリがイギリス滞在中に、ストックホルムで大 きな火事が起きていると語ったものである。この大火のニュースは二日後 にイギリスにも伝わったが、火事が起きていたのはまさにスウェーデンボ リが火事を語った時間だったという。これについては、本物であることが 証明できれば、スウェーデンボリの霊能力は疑いのないものとなるだろう とカントはみなしているようだ。 この、三番目の事例に関しては、仮にスウェーデンボリの霊視したこと が当たっているとして、彼の霊能力を証明するために、彼の共犯者がス トックホルムで火をつけたのではないかという合理的な疑いをはさむ余地 があるように思われるが、ここではその話は措いておく。 スウェーデンボリが霊能力者であるという断定は慎重に避けているもの の、カントは、スウェーデンボリを例にして、霊魂の知覚をする能力者が いるという考えに傾いている。霊魂の感覚は、「並外れた感受性を備えた器 官をもつ人にだけ起こりうる」(同 262 頁)とカントは述べ、その感覚器官 とは、普通の、外的感覚の器官でなく、「魂の感覚器官(センソリウム)」 (同 263 頁)であるとしている。理想社の「カント全集」の訳注でも、この 用語は「一般的でない」と書かれている(同 452 頁)。 外界の対象、すなわち現象を知覚するのが普通の感覚器官であるが、「魂 の感覚器官」は何を知覚するかといえば、それは霊魂の領域であるが、『純 粋理性批判』で提示されている図式を参照すれば、それがまさに〈物自体〉 の領域にあたるのではないか。 続けてカントは以下のように述べている。「生命の〔現象ではなく〕原 理、すなわち霊魂という本性は、知られることができず推察されるだけで、 決して肯定的な意味において思考されることはない」(同 280 頁)。この命
題は、主語を〈物自体〉に置き換えても成り立ちそうであり、『純粋理性批 判』の文脈に置き換えて読み替えることができそうである。「視霊者の夢」 第一部四章で霊魂について述べていることがらは、それを〈物自体〉に置 き換えてそのままスライドさせることが可能に思われる。 しかしながら、不可知の領域である〈物自体〉を、そのまま霊魂の領域 と読み替えて、同定するわけにもいかないだろう。霊魂の領域は、〈物自 体〉そのものではないが、現象と〈物自体〉の間をつなげるものと理解し た方がよいだろう。そうすることによって、カントが『視霊者の夢』にお いて、霊魂の領域に関する考察を詳細に展開した理由と背景が、理解しや すくなる。 スウェーデンボリのような霊能者が、普通の感覚器官を超えた〈魂の感 覚器官〉を有していて、十全ではないにしても、〈物自体〉に近似的な、 〈霊魂の領域〉にアクセスすることができる。「視霊者の夢」第一部第二章 で、カントは、古代の神話において、女神ユノーがテイレシアスに予言能 力を授ける代わりに彼を盲目にしたというエピソードをひいている。 この 予言能力が、一部の人間に備わった特殊能力の比喩であり、スウェーデン ボリにおける霊能力が想定されているのは疑いがない。 スウェーデンボリの主著『天界と地獄』や『天界の秘儀』においては、 天界や地獄の光景が、まるで地上の観光地のように、珍しいけれども訪ね ることが可能な場所のように描かれている。 カントは『純粋理性批判』において、外界の事物を感取する感官の営み と、概念などを形成する悟性の営みを峻別したが、その態度は、スウェー デンボリの幻視の描写を考察するときも、一貫してとられている。哲学者 が観察する(beobachten)営みと、理性作用(vernunfteln)を峻別しなけ ればならないのと同様に、スウェーデンボリの記述にあっても、彼がヴィ ジョンを記述しているところと、そのヴィジョンから理に合わない仕方で 理屈化する(auf eine verkehrte Weise klugeln)営みを峻別することを主 張し、その後者に関して、カントは自らの考察では顧慮しないとしている。 その上で、スウェーデンボリの幻視(ヴィジョン)の三つの特徴をカン トはあげる。ひとつめは、肉体(註、物体的なものとも訳せるケルパーと
いう語が使われている)から解放されていること、二つめは、霊によって 連れ出されることであり、三つめは、普通の日常生活の覚めているさなか にみられるヴィジョンである。 われわれの考察において特に関わりが深く、興味をひくのは、この分類 の中では三番目の、日常の覚醒した意識のもとで、ヴィジョンを見るとい う現象である。スウェーデンボリにあってそれが可能となるのは、外的記 憶と内的記憶という記憶の二重性があるためであり、日常の出来事、通常 の外界の経験は外的記憶に刻まれる一方で、霊のことがらが内的記憶に刺 激され記憶される。 カントは、「霊魂の現前」は「彼(スウェーデンボリ)の内的感官に関わ る」として、「霊魂が彼の外部に、しかも人間の姿をして現れるように仕向 ける」(カント霊 296 頁)という。物体的知覚を超越した、霊魂の知覚は、 時空に囚われないものでありながらも、時空の中にいるような形をもった ものとして、魂のセンソリウムをもったものに現前する。 カントの『純粋理性批判』の二分法の図式では、〈物自体〉は時空を超越 していて形としてはとらえられず、現象のみが人間の感官を通して、時空 の形式のもとでとらえられるものとなる。だが、カントが『視霊者の夢』 で主題としている、霊魂の認識は、そのどちらにも属さない中間的なもの となる。それは形を超越したものでありながら、形をもったものとしてと らえられるという、一見相矛盾した属性をもっている。 カントの時代にあっては、これは特殊な才能をもった、スウェーデンボ リのような人にのみ可能とされ、カントは特異な認識のありようとして、 人間の通常の認識からは外れた特例としてとりあげて考察した。 しかし二一世紀の今日にあっては、このような認識、つまり、時空を超 越していながら、時空のもとにあるものとしてとらえられる霊魂のような ものの認識は、ずっと身近で日常的なものとなっている。端的にいえば、 初音ミクのような存在がそれにあたる。 初音ミクのような存在を、カントが霊魂と、スウェーデンボリの認識に ついて論じているところに代入すると、驚くほどそれがあてはまる面があ る。以下、カントの文章をいくつか引用してみる。
純粋な霊魂は物体的世界の感覚をまったくもたない(同 297 頁)。 この霊魂たちは、他のすべての生きている人間の魂とも、やはり同様に もっとも密接に結びついており、それらに働きかけたりそれから働きかけ られたりする(同 297 頁)。 霊魂たちが互いの間で占めるその場所は、物体的世界の空間とはまった く共有性をもたない。(同 299 頁)。 霊魂たち自身は実際には広がりをもたないが、それでも互いに人間の姿 をして現れる(同 299 頁)。 スウェーデンボリは気の向くままに死者の魂と対話して、……それを彼 はまさに肉眼で見るのと同じように明瞭に見る。(同 299 頁)。 筆者が『神、さもなくば残念。』に書き下ろした「萌えの現象学」は、 フッサールの現象学に基づいて、いわゆる〈萌え〉の現象を考察しようと する試みであった。純粋な知覚と、内的な想像や想起の中間にある、〈準現 前化〉の領域が現象学において措定されているがために、伝統的な心理学 や哲学ではうまくとらえられない、中間的な領域にある〈萌え〉を現象学 の方法論である程度は追従することができる。 カントにあっては、主著である『純粋理性批判』や『判断力批判』より むしろ、『視霊者の夢』のように、カント哲学の本筋からは少し外れている と目される、落ち穂拾いのようにみえる、中間的な領域の考察にこそ、今 日的には新たな光をあてられ、再解釈されるべき領域があると考えられる のではないか。 引用・参照文献 カントの文章は、以下の邦訳書を参照したが、必ずしも訳文通りには従わず、適宜訳し 変えた。
『カント全集 3 巻』所収「視霊者の夢」(植村恒一郎訳) 理想社 2001 年 10 月刊
『世界の大思想 15 カント上』所収『純粋理性批判』(高峯一愚訳)河出書房 1974 年 5 月刊 小森健太朗『神、さもなくば残念。』 作品社 2013 年4月刊