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社会比較の有効性(6): 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Author(s)

組原, 洋

Citation

沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL

OF LAW & ECONOMICS(21): 29-58

Issue Date

2014-03-24

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/18205

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まえがき  本稿は、筆者が担当している比較法文明論の講義で2013年度後期において取りあげた内容を再 構成したものである。  筆者は、沖縄大学地域研究所の「沖縄県の農業実態の総合的把握」班に属して調べているが、 沖縄の農業のあり方を考えるのに沖縄だけの視点では目指すべき方向性が明確に見えないという ことを感じたため、さまざまな地域の農業を現場で見ることを意識的に継続してきている。そこ で、比較法文明論の講義の場で、グローバル化の進展している世界の農業と食について概観する ことを目指した。  講義が始まる前の2013年9月、筆者はブラジルとボリビアを旅行した。また、同年12月末には ミャンマーに行き、2014年1月にはフィリピンのダバオに行った。これらの旅は、沖縄の農業を どうすればよいのかという問題意識を持ちながら行った。  結果的には、比較の結果「格差問題」が大きなテーマとして浮上したが、これは、グローバル 化が進む今後の世界のあり方を考えていく上で不可欠な視点である。  より詳細な報告は、班の成果公表の機会に譲りたい。 [1] アフリカと米国  講義では、自給について考えるところから始めた。食料自給率が高ければ、それを悪いという 人はいないであろうが、現時点ではTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に代表されるように、 貿易をして、安い食料を手に入れる方がいいのだという考え方が強い。日本の場合特にやり玉に あがっているのがコメである。沖縄の場合はサトウキビである。  サトウキビについては、山下一仁「日本の農業を破壊したのは誰か 「農業立国」に舵を切れ」 (文献(1))に次のようなシミュレーションが載っている。  サトウキビ農家の平均的経営状況は、コスト75万円かけて生産しても販売収入は32万円に過ぎ ない。ところが財政からの交付金が86万円もあるので、32万円+86万円=118万円の総収入となり、 【研究ノート】 専 門 分 野:比較農業政策論 キーワード:自給 農地規模 格差問題

Effectiveness to compare societies(6)

組 原   洋*

Hiroshi KUMIHARA

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118万円-75万円=43万円の所得が得られるのである。  こういう状態だと、所得43万円を保障したほうが安上がりではないか。そうすれば86万円の半 分ですむ。つまり、サトウキビを生産しようがするまいが43万円は出すという形にするわけであ る。交付金なしで、借金してまでサトウキビを生産しようという人はいないと思われるが、サト ウキビを生産したいという人に農地を貸せば賃貸料が入る。耕作面積を増やせば生産効率は上が るから、コストは落ちて、引きあうかもしれない。いいことずくめみたいだが、問題はこれで本 当に大規模経営化が進むのだろうかということである。コメも似たような状況になっているが、 大規模化は思うように進んでいない。穀物類というのは規模が大きく影響するので、ちょっとや そっと大規模にしてみたところで、世界規模での競争には到底ついていけないのはハッキリして いる。  では、穀物生産はやめればいいのか。農業でもそんなに大きな場所がなくても競争できる分野 もある。それに集中すべきではないかという主張が、例えば、川島博之「「食料自給率」の罠」(文 献(2))などでなされている。農業生産物の輸出額が大きいオランダなどが日本の見習うべき モデルだとされているのである。  この問題について考えるのに、まず、世界経済の最底辺に位置しているアフリカの状況と自由 貿易推進の先頭に立っている米国の状況とを比較対照してみることにする。 <アフリカ>  2013年6月1日から横浜で第5回アフリカ開発会議(TICAD5)が開かれようとしていて、新 聞にもアフリカ関係の記事がたくさん載っていた。今回大々的に注目されたのは、他の開発途上 地域のテイクオフが進んで、アフリカぐらいしか残っていない状態になってしまったからであろ う。ミャンマーなども似たような意味で注目されているわけである。ということは、アフリカの 後はもうないのである。だから、経済問題を考えたりする場合にも地球全体としての究極的な思 考が必要な段階に入ったということでもある。  勝俣誠「新・現代アフリカ入門-人々が変える大陸」(文献(3))をまとめていて痛感したの は、アフリカには今日でも膨大な天然資源があるのに、なぜかくも貧しいのか、ということであ る。というより、天然資源が豊富な国ほど貧しいという現実がある。直接には内戦が起こり、国 が分裂状態になってしまうためである。  その典型的な例として、コンゴ民主共和国が挙げられよう。人口7000万人近くで、豊かな資源 がある。高温多湿のコンゴ川流域に位置しているため、主食のコメやトウモロコシ、イモ類から、 輸出もできるバナナ、コーヒー、パイナップルまで農業の潜在力は非常に高い。鉱産物について も、チタン、コバルト、タンタル、ダイヤモンドなどは世界有数とされている。にもかかわらず、 2009年の推計では1人あたり国民総所得は100ドル弱で世界の最貧国である。この国は元ベルギー 領であったが、1960年に独立した。ところが、銅産地のカタンガ、ダイヤモンド産地の南カサイ 州での分離独立の動きからコンゴ動乱が起こり、国連PKOが展開された。65年にモブツがクー デターを起こして大統領となり、71年に国名がザイールと変わった。仏・米がテコ入れし、外か ら支えられた政権であった。東西冷戦終結後、対外債務が累積し、ハイパーインフレが襲った。 公共サービス機能はほとんど停止した。軍と警察は「合法的」暴力犯罪組織となった。国内交通

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網はズタズタになり実質的分権化が進んだ。1990年に複数政党制が導入されたが、首相が2人い るという1国2政府状態になった。97年にロラン=カビラが大統領就任し、国名をコンゴ民主共 和国に戻したが、98年に内戦が再発し、近隣諸国が参戦して8カ国以上を巻き込んだ紛争となっ た。99年の停戦協定(ルサカ協定)後、2001年にロラン=カビラは暗殺され、息子のジョゼフ= カビラが継いだ。2002年に内戦終結和平協定が結ばれ、2006年にジョゼフ=カビラ政権が成立し たが、欧米大企業の思惑に沿った外部主導の政権である。  多くのアフリカ諸国は80年代以降「構造調整」と「民主化」とが外部から押しつけられ、 単一 政党政権や権威主義体制から複数政党制へ移行した。影響を受けなかったのは、カダフィのリビ アぐらいだった。  南アフリカはどうだろうか。1990年に国民党のデクラーク大統領が27年間獄中にあったネルソ ン=マンデラを釈放し、94年の全人種参加選挙でマンデラ政権が成立した。白人サイド、黒人サ イド国家構想は力を失い「南アフリカ人」の中に溶解し、内戦が避けられたことはアフリカの他 地域と比較して非常に注目に値する。しかし、いまだに所得格差は高く、不平等値(ジニ係数) はブラジルをも凌いでいる。  アフリカの平和を考えるとき、9・11の影響は非常に大きい。たとえば、ソマリアなどアフ リカの角といわれる地域における武力対立は、かつては米ソ間の代理戦争の形をとっていたが、 2000年代に入ってからは、米国の反テロ戦争への参戦協力という形で新たな代理戦争の側面が見 られるようになっている。  2011年初頭、チュニジアを皮切りに、エジプト、リビア、イエメン、シリアへと「アラブの春」 が波及していった。サハラ以南のアフリカでは民主化の波はすでに経験済みで、それに触発され た新たな政治社会変動は生まれなかったが、サハラ砂漠南縁部のいわゆるサヘル諸国では、カダ フィ政権の崩壊はトゥアレグ人の自決運動やイスラーム急進派に予期せぬ行動のチャンスを与え た。2012年3月にマリ国軍若手が政府の北部対策は不充分としてクーデターを起こした。同年4 月、トゥアレグ人の独立運動体MNLAがトゥアレグ語で自分たちの地域を示す「アザワド独立 宣言」を行った。これを、アルジェリア人中心のイスラーム・マグレブ・アルカイダ(AQMI) が駆逐し、マリ北部問題は一挙に国際問題化したのである。旧宗主国フランスは、2013年1月に マリ北部のAQMIが占拠する都市を爆撃し、マリ軍とともに反政府勢力を排除した。同月、アル ジェリア北東部のリビア国境近くにある天然ガス施設が襲撃され、日本人を含む多くの犠牲者を 出した人質拘束事件が起きた。この事件を起こしたイスラーム急進武装集団のリーダーは、アフ ガニスタンに侵攻したソ連軍を追い出すために戦ったイスラーム戦士であるアフガン帰還組だった。  1970年代まで一般旅行者でもサハラ砂漠は縦断できた。アルジェリアから南下し、マリ北部の ガオまでルートがあった。1981年に筆者がナイロビに行ったときにも、サハラを縦断して来た人 が実際にいた。しかし、やがて山賊が出るようになり四輪駆動の車両が乗っ取られる事件が増加 していった。近年はアラブ系外国人も出没し、麻薬や密輸のビジネス、欧米人を対象とした金銭 目当ての誘拐も多発していた。  この本の152頁に、平和という漢字は万人が公平に食を口にすることから成り立っている、と 書かれている。現在、アフリカの4人に1人が飢餓状態にある。「作れず」(旱魃、戦乱)、「買え ず」(市場で買うお金がない)、「もらえない」(援助物資にアクセスできない)という3つの原因

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が相互に作用するときに大量飢餓という大規模な被害が生まれる。  まず戦乱が極端に大規模な餓死の原因となってきている。  平時も慢性的に食料は不足している。1人あたり食料生産の伸び率は、アフリカではほとんど 停滞していて、穀物の1haあたり収量でみると1.2トン前後。アジア地域が90年代初頭2.4トンだっ たのが2.8トンと著しく改善したのと対照的である。  独立以来、地元業者が中心的なアクターであったが、今日では、加えて、国際援助機関や欧米 のNGOや、欧米日のアグリビジネス企業が乗り出している。これら外部の援助機関や企業が「緑 の革命」をもっとも熱心に説いている。しかし、たとえば、1980年代後半から国際NGOは「ハ イブリッド」という品種のトウモロコシを普及しようとしてきたが、当初こそ従来の品種の数倍 の収穫があったものの、規模を拡大するにつれて、地力低下、生産過剰による値崩れ、種子や輸 入肥料コスト増大などによって期待された効果は生まれなかったという。結局、生産者たる農民 は外国の技術と投入材に振り回され、自らの蓄積してきた技術や品種を放棄することとなった。  こういうやり方ではダメだということで出てきたのが「食料主権」の考え方である(文献(4))。 1996年に国連の食糧農業機関(FAO)がローマで世界食糧サミットを開催した際に、同時並行 して開催されたNGOフォーラムで、世界的な農民組織であるビア・カンペシーナ(農民の道と いう意味のスペイン語)が提案した。この言葉はまだ国際社会で広く受け入れられている概念で はなく、国連ではむしろ「食料への権利」という概念の方が一般的に使われてきていて、世界人 権宣言の第25条に明記されている。食料主権というのは食料への権利より一歩踏み込んだ考え方 あり、その政策的現実性が特にアフリカで高まったのは、アフリカ諸国を中心とする「南」の国々 を直撃した原油と食料価格の高騰によって、2007末から2008年4月にかけてアフリカ諸国の都市 を中心に暴動が起こったことによる。主食だけでなく、生活必需品の高騰による生活苦一般への 不満や怒りがその背景にあった。  アフリカの食料大量輸入国は、穀物の輸入依存をなくすことを政策目標として掲げてきてはい るが、実際には、コーヒー、カカオ豆、木綿、落花生などの輸出換金作物の生産が優先され、国 民が伝統的に消費しているミレット(雑穀)、ソルガム(コーリャン)、イモ類の生産者に対する 政府支援は、資金面でも技術面でもおろそかにされていた。とりわけ80年代から対外累積債務の 返済を迫られたアフリカ諸国は、自国の債務返済繰り延べと引き換えに、欧米諸国とIMFや世 界銀行が要求してきた大幅な輸入の自由化と輸出振興策のために、自前の食料生産を放棄せざる を得なくなった。世界銀行などは、欧米の貸し付けた資金回収に資する換金作物への融資には熱 心だったが、アフリカの人々が消費する食料分野での投資には消極的であった。というより、食 料は国際市場で安く輸入した方がいいという考えであり、それはまさにワシントンで熱心なロ ビー活動を展開する穀物メジャーや遺伝子組み換え作物メーカーの意向にも沿っている。だから、 2007年から08年にかけての食料危機は起こるべくして起きたと言える。  2003年9月、メキシコのカンクンで行われたWTO閣僚会議は、「南」の国々の代表たちの力で 決裂した。その背景には貿易自由化によって苦しむ途上国の農民の声、とりわけ、食べていくこ とさえできない状況に追い込まれてきた西アフリカの綿花栽培農民の声を代弁する社会運動の協 力的な働きかけがあった。  アフリカでこの20年間に起こったのは、「製造業なき経済構造」という中抜き現象である。多

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くのアフリカ諸国で規制緩和を通じて急成長した分野は通信と金融であり、その担い手のほとん どはヨーロッパの巨大企業や銀行である。そしてこの間に、産業構造的には製造業のシェアが減 じて、農業・鉱業とサービス業だけになってしまったのである。工業化のない都市化だと、都市 人口が増えても失業ないしインフォーマル部門に滞留し、個人消費総量は限られている。このよ うな状況の中で、セネガルなどで典型的にみられたのは、麻薬取引や資金洗浄が助長され、経済 の犯罪化現象にもつながったことである。その結果、アフリカの大都市の治安は悪化し、ゲー ティッド・シティやコミュニティが各地で生まれていった。このような状況に直面して世界銀行 にはかつてのような自信に満ちたスタンスは見られなくなっている。  そこにかわって登場したのが、いわゆるBRICs、とりわけ中国である。冷戦が終わるまでは、 中国の対アフリカ政策は、ソ連に対抗した国際協力という政治色が強かった。冷戦後は、中国- アフリカ関係は、新たにビジネス中心へと大きく変わっていった。内政干渉は一切行わず、ビジ ネスに徹したのである。しかも、中国は国連安保理の常任理事国の1つであり、欧米の外圧によっ て弱体化されつつあった国家主権の回復にもつながると考えたアフリカの政権も少なくなかっ た。スーダン国内の非アラブ系住民を弾圧したとして問題となったダルフール問題で、中国が国 連の場でスーダン政府を擁護したのはその好例である。中国の外交ないし援助攻勢の結果、それ まで綿々と稲作技術指導など、地域のニーズにあった国際協力をしてきた台湾の承認国はアフリ カ内でわずか4カ国に減ってしまった。かつてはヨハネスブルグぐらいにしかなかったチャイナ タウンが今アフリカの大都市に急速に誕生してきている。蚊取り線香、自転車、衣料品等々、安 くて便利な中国製品は、アフリカの都市の市場では中国人の大量進出以前から不可欠な商品とし て人々に買い求められてきた。中国人自身がアフリカの各国の都市で大量に登場してきたのはこ の10年あまりのことといわれる。中国人のアフリカ進出は中国政府の明確な国策の結果であり、 市場の論理だけによるものではない。背景に、中国が2001年にWTOに加盟し、グローバル化を 推進するルールを存分に利用できるようになったことが挙げられる。問題点としては、アフリカ の工業化がますます遠のいてしまうことが挙げられる。一般消費財から自動車、電化製品の耐久 財まで中国からの輸入品ですませ、インフラ整備も中国企業に丸投げだと、アフリカの工業化の 展望はますます遠のいてしまう。  この点に関し、80年代初頭のメキシコ金融危機を契機にIMF・政界銀行主導の構造調整受け 入れを余儀なくされた中南米諸国のその後の歩みは非常に参考になる。当初はつぶされ続けた反 貧困の社会運動は、90年代末から政権交代を実現させていった。共通しているのは、ワシントン 発の経済・政治プロジェクトとははっきり一線を画していることで、中南米は北米の裏庭ではな くなりつつある。米軍基地は次々と閉鎖され、経済・金融面では地域内協力が活発化している。 <米国>  米国の農業と食の問題性を端的に示しているのが堤未果「(株)貧困大国アメリカ」(文献(5)) であり、以下にまとめてみる。なお、統計的な裏づけには、斎藤潔「アメリカ農業を読む」(文献(6)) を利用した。

 この本のプロローグは、SNAP(スナップ;Supplemental Nutrition Assistance Program) の話から始まっている。以前フードスタンプといっていたのが2008年10月に名前を変えたのである。

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 これは、米国政府が低所得層や高齢者、障害者、失業者などに提供する支援プログラムであり、 クレジットカードのような形のカードを提携店のレジで専用機械に通すとその分が政府から支払 われる仕組みである。米国の国民の7人に1人がSNAPに依存している。リーマンショック以降 米国の貧困率と失業者数は上がり続けている。国の定める貧困ライン以下の国民は4600万人。う ち1600万人が子ども。失業率は2010年現在9.6%だが、職探しをあきらめた潜在的失業者も加え ると20%。16歳から29歳までの若者の失業率は2000年の33%から45%に上昇。経済的に自立でき ず親と同居している若者は600万人。ワーキングプア人口は1億5000万人(2人に1人)。こんな 数字が並んでいる。オバマが大統領になってからSNAP受給者は増えている。しかし失業率は下 がらない。  国内の貧困児童と子どものⅡ型糖尿病が激増している。Ⅱ型糖尿病というのは、血中にインス リンは存在するのだが肥満などを原因としてインスリンの働きが悪くなるか、あるいは自己免疫 的に破壊された訳ではないが膵臓のβ細胞からのインスリン分泌量が減少し、結果として血糖値 の調整がうまくいかず糖尿病となるものである。貧困児童の肥満率は、そうでない子の7倍であ る。子どもの医療費が増え、それが低所得層の家計をさらに圧迫するという悪循環になっている。  このⅡ型糖尿病については、長寿がもはや幻想となってしまった沖縄でも問題となっているこ とを、青沼陽一郎「食料植民地ニッポン」(文献(7))で知った。  栄養面での改善を図るために、砂糖入りジュースやキャンディ、炭酸飲料等適用外とする法案 が10州から出されているが、1つも成立していない。食品業界が束になって反対の圧力をかけて くるためである。中でもウォルマートはSNAPの食品購入先としてナンバーワンである。SNAP の恩恵を受けているのは食品業界、製薬業界、SNAPカード事業を請け負う金融業界である。  オバマは、当選とともにこの献金大口先への見返りとしてSNAP市場拡大に着手した。SNAP 運営費用は政府と州で折半する仕組みになっている。政府が受給者拡大に力を入れるほど契約先 の大企業への支払いで州の財政は圧迫される。全米の自治体の9割が5年以内に破産するといわ れる。力尽きた自治体は緊縮財政を迫られ、公的機能を切り売りせざるを得なくなる。  オバマは1期目に、アメリカで育った不法移民の子供がアメリカの市民権を得られやすくした。 第2期は、この権利を、不法移民にも拡大しようとしている。これが通ると、約30倍の1100万人 の不法移民が恩赦で市民権を得るかまたは一時的な労働許可を得ることができる。ここ20年、米 国ではヒスパニック移民が驚異的に伸びている。1990年代は、10%にも届かずアフリカ系アメリ カ人よりも少なかったが、現在は、アフリカ系12%に対してヒスパニック16%にまで増えている。  1992年にNAFTA(北米自由貿易協定)を結んだとき、カナダでは農家の7割が米国資本に買 収され、メキシコでは米国製の安い農産物に市場を奪われた農家が次々に倒産し、大量の経済難 民が米国に入国し、最低賃金労働者となり500万人の米国人の職を奪った。もうけたのは労働者 ではなく多国籍企業のアグリビジネス(農産複合体)と製薬業界だった。  NAFTAよりもっと企業寄りなのがTPPである。TPP関係の交渉内容はUSTR(米国通商代表 部)が取り仕切っていて、600社の企業代表だけが閲覧や修正を許可されている。交渉を進めて いるのは米国ではなく、その背後にあるもっと大きな力を持った集団である。  第1章「株式会社奴隷農場」では、養鶏農家が大企業に絡めとられていく様子が具体的に述べ られている。農家は契約すると、逃げるに逃げられないようになっている。デットトラップ(借

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金の罠)といわれる一方的な契約で雪だるま式にふくれあがる借金にからめ取られていく。1950 年代95%が各地域の個人農家経営だったのが、今では98%が親会社(インテグレーター)の条件 の下で働く契約養鶏者である。親会社は飼料、種鶏の供給、生産、と畜、加工、流通など全機能 を傘下に入れた総合事業体である。利益のうち30%は親会社が取り、契約者には2~3%しかい かない。  牛や豚もほぼ同じである。豚の場合、上位3%の大規模養豚工場が全米生産の50%以上である。  1970年代に起きた世界食料危機は米国に大きなチャンスをもたらした。当時穀物貯蔵の95%は 米国民間企業6社が押さえていたからである。米国民は肉の値段が下がって毎日食べられるよう になるのを喜んでいた。肉の安全性については国がしっかりチェックしているだろうと信じて疑 わなかった。だから、2011年8月に告発されたスパボー鶏卵社事件は衝撃であった。年間出荷数 3億個を誇る全米最大の鶏卵工場で労働者が笑いながら鶏を虐待している映像がゴールデンタイ ムのニュースで放映されたのである。これに対応して反内部告発者法が導入されていき、工場内 部の無断撮影は企業秘密漏洩罪として違法とされた。  鶏の屠畜スピードは1970年代に毎分46羽だったのが今や140羽である。成長促進剤を注射され る養鶏工場の鶏は死亡率28%。体重は25年前の8倍。内臓や骨の成長が追いつかず、大半が6週 間目で足が折れたり肺疾患になったりする。  家畜工場は抗生物質や糞尿でひどい衛生環境である。低賃金、組合なしのメキシコ系移民労働 者が雇われる。彼らは米国農業労働者の8割を占める。ホームレスや移民労働者を雇うとその地 域の社会的コストはふくれあがる。治安が悪くなり、メディケイド(低所得者用医療制度)やER(緊 急救命室)の未払い額が上昇する。求人しても集まらないときは刑務所から囚人を連れてくる。  1980年代以降米国内の牧場主と農業従事者の自殺率は急激に増えている。借金漬けになり、そ して働く気がなくなる。米国内ではこの30年間に30万軒の農家が消滅している。  家畜工場と並んで80年代以降の米国の「食」を大きく変えたのがGM(genetically modified) 作物である。現在米国内で作付けされているテンサイの95%、ダイズの95%、トウモロコシの 40%がGM作物である。35カ国がGM作物の輸入を規制もしくは全面禁止している。米国政府は GM作物を他の有機物と実質的に同等だとして強固な安全神話を作り上げてきていて、表示義務 は要らないとしてきた。  第2章「巨大な食品ピラミッド」では、レーガン政権下の独禁法規制緩和が急速な垂直統合ブー ムをもたらしたことが述べられている。垂直統合とは、生産工程の異なる企業による提携・合併・ 買収などによって市場が統合されていくことである。  ウォルマートは1988年の創業以来わずか12年で小売業界のトップに躍り出た。ウォルマートの 最大の「売り」は安さである。人件費を抑え、労組はなく、納入業者は徹底したコストカットを 迫られる。ウォルマート社と全米4大食品生産業者との間にははっきりとした上下関係がつくら れた。多種多様な農作物を育てていた中小農家が消え、農地は集約化された。多国籍企業は原材 料も労働力も最も安値で大量に入る地域から輸入する。自由市場を掲げてきた米国が行き着いた のは少数の企業による市場独占だった。  環境汚染、数えるほどしかない巨大農場が自然災害や疾病にやられた際に失われる食の安全保 障、全国規模の流通が拡大させる化石燃料増加のコストなど、「隠れたコスト」が考慮されてい

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ない。きれいにパックされた肉や加工食品があふれる便利な生活は迫りつつある危機への感覚を 麻痺させてゆく。  米国で住宅バブルが崩壊したときに銀行や機関投資家が次の投資先として選んだのが食料だっ た。だからこそ、2008年前半まで食料価格は高騰し続けた。ロシアの干ばつや中国やインドの需 要急増が原因ではない。  米国ではオーガニック食品市場も伸びている。北米・英国あわせて331店舗を持つ全米トップ の自然食品スーパーホールフーズ・マーケットを筆頭にオーガニック産業が注目されるように なったきっかけは1989年のアラール・スキャンダルである。EPA(環境保護庁)が果物の成長 抑制農薬アラールの発ガン性について発表し、パニックになった。1990年有機農業を正式に認め るオーガニック食品生産法が成立した。USDA(農務省)は、7年後オーガニック認証基準をつくっ たが、見事に骨抜きで、世論の反発を買い、凍結後、2000年12月に新しいガイドラインを発表し た。しかし、家族経営農家や小規模有機農業が有機認証を受けるのは大変である。そして、オー ガニック業界もまた吸収・合併により寡占化していった。  第3章は「GM種子で世界を支配する」である。  企業参入により農業の多国籍化が進んでいる。生産効率と利益拡大を旗印に際限なく加速する 流れの中では、農家も末端で働く歯車として労働者となりつつある。農業を取り巻く付加価値で あった文化や伝統、地域社会や共同体といったものは、企業がその土地や国から遠く離れるほど 意味を持たなくなっていく。  イラクでは、2004年4月のバクダッド陥落後、イラク農業近代化のためのイラク農業再生計画 が立てられ、イラク農民に米国製のGM種子、農薬、農耕器具が提供された。スポンサーはモン サント、カーギル、ダウケミカルである。在来種の種子バンクは米軍に爆撃された。  インドでは、モンサント社が1999年にインド大手種子企業マヒコ社を買収、2001年にインドで のBt綿の販売許可を取得した。これは蛾の幼虫を寄せ付けないGM綿である。しかし、実際には 収穫量が減り、農薬使用量も倍増した。さらに、政府に巨額の補助金で保護された米国産綿花の 過剰供給で市場価格が下落した。農民の自殺者数は2011年までに27万人に達した。にもかかわら ずインド政府は今もGM種子推進を続けている。  アルゼンチンでは、石油危機の際に増えたドル建て債務の金利が70年代末に4倍に引きあげら れた時からアルゼンチンの転落が始まった。IMFが緊急融資と引き換えに国内民営化と規制緩 和を要求し、農地が底値で競売にかけられていた。多国籍企業と海外投資家はアルゼンチンの安 い土地を買い占め、巨額のリターンをもたらす事業としてモンサント社のGMダイズが選ばれた。 1996年にアルゼンチン政府はGMダイズを認可した。同年に1万ha以下だったダイズ畑はわずか 4年で1000万haに拡大した。機械化が進んで数十万人の農民が失業し、単一栽培による土壌劣 化で農薬使用量が増加して、周囲の伝統的農業は大きな被害を受けた。  ハイチでは、2010年1月12日の地震後、モンサント社はトウモロコシをはじめとするGM種子、 肥料、ラウンドアップ除草剤を提供した。GM種子にはEPA(環境保護庁)が使用禁止している 農薬が塗布されていたがそれに対する説明書や防護服などはなかった。増産できたのは最初の数 年だけであった。  1980年代終わりになると再生産しないGM種子が開発された。これがターミネーター種子であ

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る。ターミネーター遺伝子が組み込まれた種子は発芽した時点で枯れてしまうので、特許料支払 いから逃れようと農家がこっそり種子を保存しても、実ができないため翌年使うことはできなく なる。  1970年代の終わりから始まった、「食料は武器だ」という米国の主張はずっとぶれなかった。 食料供給の企業所有を米国内で完成させた後は、米国は、諸外国に「民主主義」「強い農業」「財 政再建」「人道支援」などの理由で介入した。  NAFTAによってメキシコには大量のGM種子が流れ込んだ。米国から大量に入ってきた政府 補助金付きの安価なトウモロコシに国内農業が太刀打ちできず、300万人の零細農家が廃業した。 NAFTA後は4割を輸入に頼らざるを得なくなった。2000年には飢餓暴動が起こった。  カナダでは輸出用穀物の単一栽培を開始し輸出は増えたが、米国内と同じように利益のほとん どは株主の懐に入り、末端の生産者である契約労働者はNAFTA前よりも収入が激減した。  2012年3月施行の米韓FTAは、交渉の前段階で「食」「GM作物」「製薬」については事前に韓 国側が次のような条件をのまされていた。①米国で科学的安全性が認められたGM食品は無条件 で受け入れる。②韓国の国民皆保険が適用されない株式会社経営の病院の参入を認める。③米国 産牛肉の輸入条件を緩和する。安全性に疑いを抱いた際は輸入国側に危険性の立証責任が課せら れる。投資家の権利はFTA中のISD条項(Investor-State Dispute Settlement)が保護してくれ る。例えば、韓国に投資した米国の投資家や企業が韓国の国内政策によって経済的損失をこうむ るかその恐れがある場合は、世界銀行傘下の国際投資紛争仲裁センターに提訴できる。米国の巨 大な食肉チェーンやアグリビジネス企業群にとって最も大きい韓国市場は学校給食である。韓国 は地方自治体が地産地消の給食を提供しているが(いわゆる身土不二)、ISD条項が参入障壁と しての国内法を取り払ってくれるであろう。背景には、1997年のアジア危機後にIMFが敷いて きた下地がある。米韓FTA締結後、韓国国内では2極化がすさまじい勢いで進行した。  EUも負けてはいない。EU経済界は、インドとのFTA協定調印への圧力を強めている。十分 な自給率を持つインドの酪農市場に生産過剰の安価なEUの乳製品が入ってくればNAFTAのト ウモロコシと同じような悲劇が起こるであろう。ジェネリック薬生産大国のインドに対し、EU の製薬会社が特許権を主張すれば、途上国に輸出される医薬品の供給にストップがかかるであろう。  また、GM食品に対する輸入規制措置を続けているEUは企業の障害になっている(文献(8) 第9章参照)ことなどから、EU・米FTA交渉が2013年6月始まっている。 [2] ボリビアとブラジル  筆者は2013年9月7日にブラジルのサンパウロに着き、同月22日まで滞在した。那覇市在住の 野里寿子さんも同行した。この間に、12日~ 16日ボリビアにも行った。 <ボリビア>  ボリビアのコロニアオキナワに行ったのは2度目になる。1度目のことについては、すでに書 いた(文献(9))。  12日(木曜日)、サンタクルスに午後1時頃着いた(サンパウロより1時間遅れ、日本より13 時間遅れ)。空港には、野里寿子さんの親戚にあたる野里栄順さんの5男のウーゴさんと長女の

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マリコさんが出迎えてくれた。マリコさんとは、以前那覇の野里さん宅で会ったことがある。  まずサンタクルス市内にある日系人会館に行って食事した。ご飯が柔らかくておいしかった。 ここで作ったお米だそうだから、コロニアサンフアンで作ったコメだろう。  この後、コロニアオキナワに向かい、午後8時前頃野里栄順さん宅に着いた。栄順さんはマリ コさんと一緒に那覇に来ていたので、会ったことがある。87歳。奥さんの照子さんは83歳。どち らも大宜味村出身である。  栄順さん夫妻は5男1女である。「世界のウチナーンチュ 3」(文献(10))46 ~ 47頁に、30 年以上前の栄順さんが写真入りで載っている。そこに、農業大学で学んだ長男の克也さんに今後 の仕事は任せると書かれている。  13日(金曜日)は朝からコチャバンバに飛行機で行き、夜コロニアオキナワに戻って、野里家 の皆さんから主に農業の話しをきいた。一番の関心は、やっぱり、大土地を今のまま維持できる かということである。現在のボリビア政府は社会主義政権で、大土地所有者の存在を歓迎してい ない。それで、農地改革をして貧乏人にわけたいというのが表向きの方向性である。ボリビアは 西部がアンデス山脈の高地、東部がサンタクルスを中心とする低地で、両地域は全然違う。実際 東部の分離運動があり、そこが反政府運動の地域とダブっているし、米国が肩入れしている地域 でもある。そういう地域の中にコロニアオキナワもコロニアサンフアンもあり、大土地所有の農 業が展開されている。高地から流れてきたボリビア人が農業労働者となって働いている。では、 コロニアオキナワについても農地改革が行われて、大土地所有者の土地が接収されるのかという と、少なくとも現在までそういう事態は起こっていない。ウーゴさんたちがいうのは、農業労働 者に土地をわけても、ちゃんと経営できないから、もたないと。それで、ちゃんと税金を納めて くれれば大土地保有も容認するということのようである。  コロニアオキナワの農牧総合協同組合をカイコ(CAICO)といい、コロニアサンフアンのそ れをカイシ(CAISY)といっているが、このような組合はボリビア人にはできないとウーゴさ んは言う。そして、ラパスやスクレからも組合を視察に来るそうだ。  農業のやり方は米国のレベルとかわらないともウーゴさんは言う。栄順さんから受け継いだ克 也さんの畑が2600ha、ウーゴさんの畑が1300haだそうだ。このような規模の農業だから米国式 の機械農業になるのは当然である。しかしそれと、農協をつくったりすることとはちょっと話が 違う。日本の場合、基本的に土地が狭く、そして水田の水を共同で使う必要があったからまとめ る組織も必要だった。狭い土地で生産性を高めるためにいろいろ工夫した。それが日本の技術力 の背景にあった。CAICOのような組織は、日本の伝統的な農業組織とは背景を異にしていると 考えられる。共同で何かやるにしても、農業に限った組織となるのではないだろうか。  中国でも、いったんは日本のような農地改革をしたのだが、生産を維持できない人たちが多数 出て、そういうことから国有化が進展した。しかしそれでは生産性が高まらず、結局個人請負制 になってしまい現在に至っている。だから、国有化して平等にやらせてもダメだろう。  GM種子については、現政権は導入に反対しているそうだが、裏では、米国、アルゼンチンか ら入ってきているそうである。日本政府がボリビアに無農薬ダイズの栽培を依頼したが、コスト が高くなってダメになったという。  コロニアオキナワの場合、土地がいいので、肥料はブラジルやアルゼンチンのように入れる必

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要はないそうだ。コロニアサンフアンと比べてもいいそうである。川の魚も違っていて、オキナ ワの方がおいしいという。地下水は質がよく、そのまま飲み水にもできる。塩分は含まれていない。 実際飲んでみたら味があって、ボトル入りのミネラルウォーターよりおいしいぐらいだし、下痢 もしなかった。  コロニアオキナワは第1、第2、第3に分かれているが、克也さんやウーゴさんの農地がある 第1の場合ボリビア人が多い。日系人1000人に対してボリビア人6000人。仲良くはしているとい うが、どうだろうか。今後問題が起こるとすれば、国有化ということよりはむしろ、オキナワと いう自治体の内部から発生する問題ではないだろうか。  14日(土曜日)の午前中、ウーゴさんの案内でサンフアンに行った。この前は、道路が封鎖さ れていていけなかったので、今回が初めてである。オキナワはサンタクルスの東方になるのに対 して、サンフアンは西方になり、コチャバンバ県に近い。そのため、オキナワからサンフアンま では思った以上に遠かった。それだけでなく、サンフアンとオキナワとの交流は親密ではないよ うで、結婚で行った人以外ウチナーンチュはいないそうだ。作っているものも、サンフアンはも ともとコメ作りと養鶏が中心だったそうである。  サンフアンのお店などがあるところに着いて、店の前に立っている男の人がウーゴさんの知り 合いで、長崎県出身の人だった。長崎県出身者だったのは偶然ではなく、サンフアンで一番多い のは同県の出身者で、半分近くにまでなる。あと、福岡、北海道、高知、熊本の順である。九州 の出身者は炭坑が廃坑になって来た人たちが多い。北海道の人というのは、もともと東北の人が 北海道に移住して、その後サンフアンに来たということのようである。  現在日本人は、ここから出たり、帰国したりしてだいぶん減ってきているそうだ。理由は、農 薬が今非常に高くなっていること、それから気候がかわって昔みたいに雨が降らなくなったこと、 水に病気があって水田がうまくいかないことなどである。  そんな話をきいているところに、池田さんというウーゴさんの友達がたまたまこの店にやって 来た。彼は親がJICAでオキナワに住んでいた関係でウーゴさんと友達になった。池田さんの話 では、サンフアンは各都道府県から来ていたのでまとまるのが大変で、たとえば結婚式は県別に 別々にやったりしていたらしい。  土曜日で施設は閉まっていたが、博物館で資料をみることができた。さらに、池田さんが連絡 を取ってくれて、CAISY総支配人の近藤勇氏の話をきくことができた。  サンフアンへの入植は1955年に「西川移民」と称される87人が入植後、57年から計画移民がは じまり、93年までに302家族(1684人)が入植した。したがって全部戦後移民である。現在は240 ~ 250家族ぐらいである。所有面積は平均約290haであるが、最初は50haずつもらった。細長い 湿地帯でヘビやアナコンダ、ワニなどがいた。コメと並んで養鶏をやったのはお金が入るからで ある。その他にスイカ、パイン、パパイア、ポンカン、ライム、マカダミアナッツ、ダイズなど 100種類以上の作物が作られていて、多角・複合経営に力を入れている。  現政権になって賃金は3倍に上がった。そのため小農民に太刀打ちできなくなって、集約農業 で収益を上げることが必要になっている。  当初のジャングルを700ha残してありますよ、とのことで、話の後、実際にその原生林に入ら せてくれた。

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 サンフアンを見た後、オキナワに戻り、夕方から大きな体育館みたいなところで開かれた敬老 会に出た。80歳以上の人が40名ぐらいはいた。その中に、戦前ダバオにいて、戦後沖縄に戻った が、その後ボリビアに来たという人もいた。  15日(日曜日)の昼にCAICOの建物の中で、組合長比嘉武浩さんから説明をきいた。  CAICOは第1~3オキナワの農協を統合したものである。1971年に法人化された。98年にオ キナワは独立した自治体(ムニシピオ)になった。  オキナワで中心的な作物はダイズと小麦である。小麦は7割がペルーに輸出されている。  トウモロコシは、国内での生産が不足しているため輸出はできなくなった。  その他の生産物としては、サトウキビ、ソルゴ、ひまわりなどがある。サトウキビは干ばつに 強い作物ということで2003年度から2004年度にかけて導入された。  いったん栄順さん宅に戻って昼食後、役場のそばでやっている文化祭ないし運動会のような行 事を見にいった。助役の比嘉次雄さんがボリビア人のオキナワ村長たち幹部と一緒にいた。オキ ナワといっても、村会議員5人のうちウチナーンチュの議員は2人だけである。そのうちの1人 イケハラサカエさんが同じテントにいて、話をきいた。  イケハラさんは2世だが、親は読谷の楚辺出身で、こちらの高校を卒業後、1981年から19年間 も日本にデカセギで行っていて、電気工学の資格も取ったそうだ。その時の経験から彼は、沖縄 には本土とは違う沖縄の文化があると評価し、その伝統を残していこうと活動している。日本本 土と違って、誰にも指示されず、拘束もされない文化があるというのである。そしてそういう文 化を残さないとさびしいという考えから、彼はここで地域づくりに取り組んでいる。  役場のメンバーが解散した後、比嘉次雄さんが役場内の執務室で話をきかせてくれた。  比嘉さんは昭和28年(1953年)生まれで、1世である。豊見城村嘉数出身で、7歳の時に11次 移民でこちらに来た。末っ子だそうだ。最初の移住地でうるま病が出て、パロメティアに移動し た後、今の場所に移った。たくさんの人が生き延びれたのは野生の動物がいて、それを捕まえて 食料にできたからだという。土・日は食料狩りをした。ヤマバトがたくさんいて、自分で弾をつ くって猟銃で撃った。サル、鳥、ニシキヘビ、山の動物。魚は池でもたくさんとれた。とったも のを保存食料にした。最初は泥水も飲んだ。青い野菜がなくて欠乏症になった。落ちついてやろ うかというという気持ちになっていた1968年に水害があり、4分の3ぐらいもがペルー、アルゼ ンチン、ブラジルに移っていった。残ったのは金持ちと貧乏人で、中間層が抜けた。  現在オキナワのウチナーンチュの人口は900人ぐらい。結婚する人が少なく子どもが生まれな いのが悩みである。30代は少ない。  農地改革については、今の大統領は高地出身で、人口の7割は高地の人なので、不正に手に入 れた土地を没収して彼らに分譲している。税金を払っていない土地を取り上げて高地の人にわ けているということなので、オキナワにいる人たちはこれに該当しないのではないかということ だった。 <ブラジル>  9月19日(木曜日)野里寿子さんも一緒に、サンパウロ近郊に住んでいる田里友憲さんを訪ね た。野里さんは「伊佐浜移民」というのを調べていて、ブラジルに住んでいるその関係者を探し

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ていたら、田里さんが見つかった。伊佐浜移民については、沖縄タイムス2008年5月20日朝刊に 「伊佐浜移民 体験記に 土地接収 一家南米へ 5年で帰国」(文献(11))が載っている。これ は澤岻安三郎さんの体験記である。  田里さんは、サンパウロ州西部のマリリア近くに位置するトゥパンの島袋耕地といわれている ところに10家族一緒に入植した。9家族が残って、1家族が沖縄に帰った。帰ったのが澤岻さん の家族である。  田里さんは現在は、大きなスーパーを複数経営していて、それを見学させてもらったが、他に ブラジリア近くのゴイアス州の田舎に農場を持っていて、2週間ごとに田舎とサンパウロの間を 行き来している。トラクターが入らないところは牧場にしていて、牛を飼っている。つくってい るのは輸出用のダイズ、トウモロコシ、コメである。田里さんが農業をやっているところがちょ うどセラードの中心部にあたる。  ブラジルのセラード開発については本郷豊・細野昭雄「ブラジルの不毛の大地「セラード」開 発の奇跡 日伯国際協力で実現した農業革命の記録」(文献(12))という、開発に関わった当事 者による本が出ている。  「はしがき」にまず1973年の「ダイズショック」のことが書かれている。1972年~ 1973年にか けてソ連を含む世界各地が大凶作に見舞われ、穀物相場、とくにダイズの価格が暴騰した。そこ で、米国内の供給不足を憂慮したニクソン大統領は1973年ダイズ輸出禁止策をとった。当時、ダ イズの供給の大半を米国に頼っていた日本ではダイズや関連製品の価格が高騰して大騒ぎになっ た。これがダイズショックである。これに続いて石油ショックが起こった。これらをきっかけに、 日本では政府・民間を問わず、資源・食料の安定供給を目指す動きが加速した。  その1つが「開発輸入」で、開発途上国で鉱産物や農林水産物の開発を行い、その生産物を輸 入する仕組みである。セラード開発はその代表格と言えるものである。  セラードとは、ブラジルの内陸中西部に広がる熱帯サバンナのことである。元来「閉じられた」 という意味で、不毛の大地といわれてきた。しかしセラードは、1970年代以降わずか四半世紀で 世界有数の穀倉地帯へと変貌を遂げた。驚異的な速さであるとともに、もともとは温帯性の作物 であるダイズやトウモロコシが熱帯のブラジルに導入されて、米国のコーンベルトに匹敵する規 模と生産性で栽培されるようになったという点でも特筆される。  南米大陸西部にはアンデス山脈があり、ブラジルの東部は大西洋岸に沿って海岸山脈が南北に 走っている。アンデス山脈によって西への流れを断たれた大陸の水系は東に向かい、大陸中央で 分断されると北のアマゾン川と南のラプラタ川へと集積されて大西洋へと流れ下る。この2大河 川を南北に押しやるようにして広がっているのがブラジルの中央高原で、そこがセラードである。 ブラジル東部の海岸山脈が長い間、沿岸地域からセラードへの開拓者の侵入を阻んできた。  セラードはなぜ不毛なのか、については、降水量の不足ではなく、土壌が原因だとする説が 1950年代に発表された。それによると、セラードの土壌は世界で最も古い土壌熱帯気候の条件下 で風化が進み、極度に養分の溶脱が進んだ貧栄養状態で、強酸性でアルミニウム毒性が強い。こ れからすれば、土壌改良が可能なら農業開発は可能である。広大で平坦な土地は大規模な機械化 農業に適している。植生が灌木林なので、伐採、開発作業は容易で、農地造成コストは低い。  セラードが初めて国内外の耳目を集めたのは1960年のブラジリアへの遷都によってだった。ブ

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ラジリアはセラードのほぼ中心に位置している。首都に必要な物資は放射線状に整備された道路 網ですべて外部から供給され、野菜などの生鮮食料品だけが近郊の新たな入植農地から補給された。  セラードにおける農業開発のブレークスルーとなったのは1973年にミナスジェライス州南部の サルゴタルドで始まったアルトパラナイーバ地域計画植民事業(PADAP /パダップ計画)であ る。この計画は開発総面積2万4226haの農地において、農業組合主導の入植方式による拠点開 発を採用した事業で、牽引したのは当時ミナスジェライス州政府の農務長官であったアリソン= パウリネリと日系農業協同組合のコチアである。入植農家への土地割当は1区画250haとされた。 栽培作物はコーヒー、ダイズ、陸稲を中心としたが、酸性土壌に強いとされたコメは天候の関係 ではずされた。当初ダイズや裏作の小麦の収量はきわめて少なかったが、熟畑化と技術開発によっ て徐々に生産性は向上していった。川沿いの農家では灌漑施設の導入が進み、様々な野菜栽培が 試みられて多角化していった。  1979年代の末にはパダップが成功したことは明確になっていた。入植したコチアの若者はほと んどが日系2世だった。彼らはサンパウロ州やパラナ州で農業に携わってきた親世代の生き方を 受け継ぎ、多くが大学の農学部で学んだ知識と技術とを身につけていた。また、ダイズや野菜や 果物の研究は、日系農家の方が研究所の研究者よりずっと進んだことをやっていた。そもそもダ イズは、笠戸丸でやって来た日本人移民が日本から持ってきて、入植地に植えてから広がった。 日系人の多くがしょう油や味噌、豆腐、納豆など日本食を食べたい一心でダイズを栽培すること に熱心だった。そういうことでダイズは日系人のお家芸だった。入植した日系2世のほとんどは 若い次男や三男だった。ブラジル南部の親元に独立できる農地がないため、セラードに乗り込ん できたのである。米国でアメリカ式の大規模農業を学んできた者も多くいた。彼らには大規模農 業へのあこがれと、パイオニア精神とが備わっていた。  1974年、ガイゼルは大統領に就任すると、ミナス州のパウリネリ農務長官を連邦政府の農務大 臣に抜擢した。同年9月、日本の田中角栄首相がブラジルを訪問し、ガイゼル大統領と会談した。 会談後の共同声明で、農業開発分野で両国がいっそうの提携をはかり、農産物の生産、企業化、 商品化を推進することが表明された。  ブラジル政府は1975年にセラード農業開発を国策として進めるためにセラード拠点開発計画を 策定した。同年ブラジル農牧研究公社EMBRAPA /エンブラパ)は下部機関としてセラード農 牧研究所(CPAC研究所)を設立した。  ブラジル側の動きに呼応して、日本の国際協力事業団(現国際協力機構/ JICA)は1977年 CPAC研究所との技術協力プロジェクトを開始した。  1978年11月、日伯共同事業の実施調整機関として日伯農業開発株式会社(CAMPO /カンポ社) がミナス州のベロオリゾンチに設立された。日本側49%、ブラジル側51%の出資による合弁会社 である。  1979年に両国は日伯セラード農業開発協力事業(PRODECER /プロデセル事業)をスター トさせた。  プロデセルがスタートするまでに、日本側はセラード農業開発によって生産されるダイズの日 本への供給確約を求めた。これに対してブラジル側は、協力事業のおかげで市場向けダイズの供 給量が増大しても、ブラジル国内の需要は少ないから、国際相場は間違いなく安定し、日本はど

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この供給国からもダイズを輸入できるだろう、とし、あえて約束しなくてもいいだろうとの趣旨 のことを述べたという。この問題で1年かかったというが、曖昧決着となったようである。成果 がハッキリしてきた1990年代に入って、カーギル(米国ミネアポリス)やブンケ(オランダ系) などの国際的な穀物メジャーがブラジルへの投資を活発化させ、寡占的な支配力を高めていった。  プロデセル第1期試験的事業では、農業生産者の形態として、農業生産企業による「栽植企業 方式」と、農家による「入植方式」の2方式を導入した。結果的には、栽植企業として入った2 社はともに倒産してしまった。近代的大規模農場経営についての能力不足、農業技術の不足が原 因だったとされる。このため、プロデセル第2期以降は栽植企業方式は導入されなくなった。  ダイズをはじめとする穀物生産では規模をどうするかが非常に重要である。国際市場において 米国中西部の農業地帯と太刀打ちするには同規模での生産が必要であるということから最低でも 250~300haとされ、400~500haが標準とされた。具体的な入植者は、日系人農家、ミナス州出 身農家、その他の州からの農家に等分に配分された。  その結果、プロデセル第1期事業は当初2年間の予定で3カ所で1979年9月に開始されたが、 後に1カ所追加されて2年間延長されたため1983年9月に終了した。  入植対象者は農地を所有していない者とされ、対象農地を担保として融資金が完済されるまで では転売できないという条件で土地融資制度を設けた。その結果、この土地融資制度はセラード の大規模な不在地主の遊休地を中規模農家へ配分する、いわば無血の農地革命を推進する役割を 果たすこととなった。入植者は入植事業地内か事業地のある郡庁所在地に居住するものとされ、 これによって不在地主を排除したが、子どもの教育上近くの町に居住することは認めた。  プロデセル第1期事業でセラード農業の新しい産業としての事業採算性は確認された。今後 事業をミナス州から他の州へと拡大していくため、ブラジル農務省は第2期事業を開始するにあ たって、まず、1983年にカンポ社をロオリゾンチから首都ブラジリアに移転させた。  1984年5月、中曽根内閣はプロデセル拡大を閣議了承し、来日中のフィゲレード大統領と第2 期事業計画を共同発表した。  内容的には2種類の事業を行う。1つは、第1期でミナス州での事業は採算性が確認されたの で、これと同じような事業を本格的事業として実施することで、ミナス州、ゴイアス州、南マッ トグロッソ州で行うこととされた。もう1つは、ミナス州と比べて自然条件のリスクが高い、よ り困難な事業を試験的事業として行うことで、バイア州とマットグロッソ州で行うこととされた。 バイア州の実施地は、セラードとカアチンガ(ブラジル東北部に広がる半乾燥地帯)との隣接地 帯である。マットグロッソ州の実施地は、セラードとアマゾン(アマゾン川流域の高温多湿帯) との隣接地帯である。  1985年3月、日本の外務省でプロデセル第2期の合意文書が署名され、事業が始まった。事業 面積は20万5000haで、東京都とほぼ同じ面積である。試験的事業は1990年に終了し、本格的事 業は当初4年間の予定が8年間に延長されて、1993年に終了した。この第2期事業期間は、ブラ ジルが驚異的なインフレに見舞われた時期と一致しているが、第2期事業の入植農家の離農率は 35%で、つまり、65%は持ちこたえたのである。このように持ちこたえられたのは、個々の農家 のがんばりももちろんあったが、なんといっても、カンポ社が入植者にかわってブラジルの金融 機関に債務の消滅について交渉し、まとめあげたりするなど、バックアップがしっかりしていた

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ということが最大の理由だろう。  このような状況と、事業が実施されていない州からの実施要請があったことから、1989年には ブラジル農務省から日本政府へ第3期事業の立ち上げが要請された。  第3期事業は1995 ~ 2001年に、セラードの北部地域で、赤道に近いトカンチンス州とマラニョ ン州とで試験的事業が実施された。当時トカンチンス州は新たな州として独立したばかりで、州 の産業発展をセラード農業に求めて、州政府をあげて推進した。マラニョン州のバルサス事業地 はマラニョン州の南に半島のように突き出た地区で、アクセスが悪くて陸の孤島といわれていた 場所であるが、ここで始まったダイズ栽培はその後マラニョン州南部地域へ急速に拡大していった。  セラード開発が緒についた1970年代後半のブラジルの年間穀物生産量は4000 ~ 5000万トン程 度だった。2011年度には1億6300万トンに達した。  ダイズの生産量はブラジルの穀物生産量の約半分である。セラード農業開始前は輸出余力はほ とんどなかったが、1990年代後半から生産量増加に伴って輸出量も急増し、2000年代には米国と 並ぶようになった。2011年は世界第1位である。ダイズの原産国でもある中国は長らくダイズの 重要な輸出国であったが、1996年に輸入国に転落した。現在中国1国で総輸入量の60%にあたる 6000万トンを輸入している。ブラジルから中国への輸出量は2010年度で1900万トンで、ブラジル の輸出量の65.5%である。  トウモロコシの生産量はダイズに次いでいる。そして2005年頃から急速に輸出量を増大させて きた。トウモロコシについても中国の影響があった。中国は長らくトウモロコシ、コメ、小麦を 自給することを原則としてきて、米国に次いで年間1000万トンを超える輸出国だった。ところが 近年経済成長とともに生活が向上し、食肉需要が高まったことから飼料作物でもあるトウモロコ シの輸出量は激減し、2009年に純輸入国に転落した。ブラジルは2010年に米国、アルゼンチンに 次ぐ世界第3位の輸出国となっている。  コメは世界的にみても生産量の7%しか輸出されておらず、自給的な作物である。ブラジルで も、食用となるコメの生産量は年間1200万トン前後で、ダイズやトウモロコシと比較して大幅に 少なく、国内での需給もほぼ均衡している。そして、先に述べたように、セラードでは穂孕(ほ ばらみ)期にベラニコ(雨季の中の小乾季)とぶつかるために粃(しいな)となって生産性が激 減するため、今後もセラードでの大幅な生産量増加は見込めない。  小麦は古くから伝統的な貿易農産品である。貿易比率も20%と、ダイズので36%に次いで高い。 ブラジルは従来から小麦の輸入国で、アルゼンチンやウルグアイから輸入している。しかし、今 後、ダイズの極早生品種によって、ダイズと小麦の二毛作技術が確立できればセラードが小麦の 一大生産地となることが期待されるという。  以上のように、1990年代半ばまでは穀物輸入国であったブラジルは、ダイズとトウモロコシを 基軸とした穀物生産大国へと飛躍し、世界有数の穀物輸出大国となった。しかも、ブラジルは北 半球と2分して、年2回市場を潤すこととなり、世界穀物市場の安定化に貢献している。  ダイズやトウモロコシは国際的な商品であり、しかも荷がかさばるため、内陸部から輸出港ま での流通インフラ整備が絶対条件となる。1997年4月、アマゾン川を経由する新たな輸出ルート が開発された。アマゾン川中流に位置するアマゾナス州イタコアチアラ港である。たとえば、マッ トグロッソ州北西部で生産されたダイズはまず30トン積みのトラックでロンドニア州ポルトベー

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リョ港まで運ばれる。ここでダイズは艀(はしけ)に積み替えられ、イタコアチアラ港まで運ば れる。イタコアチアラからアマゾン川を下降して大西洋に出て、ヨーロッパ、そしてアジアへと 向かうのである。このルートでのコスト削減が認められると、2003年に、イタコチアラよりさら に下流のパラ州サンタレンに穀物メジャーのカーギル社が積出港を開港した。  しかし、流通インフラ整備は生態系・環境面での負の連鎖も懸念されている。  穀物メジャーは潤沢な資金を農家へ青田買いの形で供給し、その生産物を国際市場に流通させ ることで契約栽培システムを確立した。しかし、最近では、欧米系穀物メジャーの寡占化に抗し て、アマギー社のようなブラジルの民族系企業、日本を含むアジア系企業も存在感を増している。 出遅れた日本の商社もダイズの流通分野に進出し、直営農場での生産も始めている。  穀物だけでなく、セラード最大の農地は「改良牧野」である。改良牧野というのは、これまで 伝統的に行われてきた粗放な放牧地ではなく、土壌を改良して優良な牧草を育てた牧野のことで、 セラードの牧野面積は5500万haと推定されるが、そのうち75%が改良牧野として造成されたも ので、セラードの改良牧野はブラジル全土の改良牧野の45%を占めている。ブラジルの商業用牛 の飼育数は2億500万頭で世界第1位である。牛肉の輸出量も2004年以来世界最大で、その市場 占有率は20%である。セラードの土壌は有機質が不足しているから、放牧によって落とされる牛 の糞は土壌改良にもつながり、牧野から畑への転換も容易になる。現在穀物の栽培面積は2000万 haであるが、改良牧野が耕地化されれば米国の耕地面積をはるかに超えるであろう。  コーヒーは現在もブラジルの主要輸出農産物の1つではあるが、その相対的比重は減少し、生 産地も大きく変わってきて、伝統的な栽培地であったサンパウロ州やパラナ州での栽培は減少し、 セラードのミナス州やバイア州での栽培面積が増加している。特にミナス州での栽培面積は突出 していて、全国の栽培面積の50%を占めている。このように、ブラジルのコーヒー生産はセラー ドに移動した。  スケールメリットを生かせる農業として植林(林業)もあげられる。ブラジル全土の造林面積 は650万haであるが、そのほとんどがオーストラリアから導入したユーカリで、全体の73%を占 めている。造林地はミナス州が突出していて24%を占め、サンパウロ州とパラナ州がこれに続い ている。  サトウキビは、サトウ生産のほか自動車用燃料のエタノール生産に使われ、内外の需要に支え られて栽培面積は急増している。ブラジルのサトウキビ栽培面積は843万haで、サンパウロ州が 53%を占めているが、近年ミナス州や、南マットグロッソ州、ゴイアス州などに拡大している。  今ブラジルは世界最大の農産物貿易黒字額を計上し、世界最強の農業国と言われるようになっ ている。  セラード開発とアグリビジネスの発展は世界に貢献したが、同時にそれは、国内の雇用を拡大 し、貧困問題の解決に貢献する「インクルーシブな発展」へとつながってきた。このプロセスを ダイナミックに進めたのが「バリューチェーンの拡大」だった。  1次産品として加工されないダイズを輸出するよりはダイズ油とダイズカスに加工した方が付 加価値が高まり、雇用も拡大する。ダイズカスはそのまま輸出も可能だが、トウモロコシなどと 一緒に飼料として畜産に使用すればいっそう付加価値が高まる。同様に、肉類はそのまま輸出す ることも可能だが、それを加工品にすれば付加価値も高まるし、雇用も拡大する。乳製品につい

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ても同じことが言える。このような動きがバリューチェーンの拡大で、これは、日本で6次産業 化といわれているものと同じである。この動きは1990年代からセラードで確実に発展してきた。 農牧業のGDPは10%以下であっても、GDPに占めるアグリビジネス全体の割合は23.1%に達し (2009年)、また、アグリビジネスによる雇用はブラジルの雇用者数全体の37%(2007年)を占め ているという。  多くの国では分配の改善や格差の縮小を伴う発展(これがすなわち「インクルーシブな発展」 である)を実現できていない。ブラジルでも特に、多くの奴隷が労働力として動員された北東部 と、コーヒー産業とその後工業化で栄えたサンパウロを中心とする南東部との著しい地域格差が 存在してきた。貧困な東北部9州のうち6州はセラードの外側にあり、セラード農業の発展に直 接にはあずかれず、今も貧しい地域にとどまっている。しかし、北東部からもセラード地域への 人口移動が生じており、北東部の貧困層の一部はセラード農業の恩恵に浴すことができた。  セラード地域におけるバリューチェーンの拡大は、「広さの不経済」を逆手にとることから生 まれた。セラード内でのダイズやトウモロコシなどは国際価格よりはるかに安いわけだから、そ れをそのまま農産加工用に使えば、輸入して加工品生産をするより著しく有利になる。ブラジル では、農畜産品の加工技術については南東部の農業地帯に長い蓄積があった。そして、労働力は ブラジル全土に豊富に存在していた。この労働力を利用することによって、セラードは競争力の ある農畜産品加工のバリューチェーンを構築できた。  バリューチェーンが拡大するにつれて、それまで圧倒的に優位に立っていた穀物メジャーによ る、穀物の買い付けから輸送、輸出に至る寡占体制が次第に崩れ始めた。そして、同時に、貧困 の軽減も進んできている。  日伯両国はプロデセルの当初から、環境保全との調和なしに持続可能な農業開発はあり得ない としてセラードの環境保全についても取り組んできた。前述のように2003年カーギル社がサンタ レンにダイズ輸出ターミナルと6万トンの貯蔵サイロを建設した。これは、アマギーグループが 1997年に開設したポルトベーリョからイタコチアラ経由のルートと違い、セラードからアマゾン の熱帯林を縦断する陸路を使うもので、アマゾン熱帯林を南北に縦断する国道163号線の舗装圧 力は急速に高まり、熱帯林破壊が懸念された。道路が敷設されると、それを背骨として両側に脇 道が派生してつくられ、奥へ奥へと森林伐採が進む(その痕跡を魚の骨にたとえてフィッシュボー ン現象という)。  次に、1990年代後半になって、セラード農業のために開発された穀物(特にダイズ)の熱帯性 新品種がアマゾン地域でも使われるようになった。それに伴い、穀物メジャーのアマゾン進出が 懸念されるようになった。2000年9月、タイム誌が特集を組んで、道路造成、森林伐採、山焼き によってアマゾンの環境破壊が進んでいると警告した。ヨーロッパでは、アマゾン産ダイズの不 買運動が起こった。  こうした経緯から、2006年7月、民間主導による「ダイズモラトリアム」が実施された。森林 破壊の元凶とされたアマゾンのダイズ生産を一時的に抑制する措置である。新規伐採地や公有地 でのダイズ生産には資金を提供せず、生産されたダイズの購入もしないものとし、リモートセン シング専門会社の衛星写真と現地調査などで新規伐採地で生産されたものかどうかを特定し、結 果を公表するというものである。モラトリアム期間は2年とされたが、延長されてきた。

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