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ボッシュ・タウン時代の永野さん: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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(1)

Author(s)

西尾, 禎郎

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(9): 19-27

Issue Date

1992-03-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5758

(2)

ポッシュ・タウン時代の永野さん

西尾禎郎 どうしてそう呼ぶようになったものか、私にはわからない。 上智大学の学生寮・ポッンュ・タウンの同期生たちは、永野さんのことを wチョウサン',と呼び習わしていた。

今でも、『チョウサーン」と呼ぶと、すぐ近くの白雲の間から、肩をゆすっ

て、ニコニコ顔の彼が現われてくる。 ●

同じ寮に生活しているので、ナガノさんが永野であることを知らぬ者はいな

い。にもかかわらず、「永」野さんが「チョウ」サンなのである。そして、そ

のことを不思議に思う者は誰一人なく、第一、永野さんも「チョウサン」と聞

くと、『はいよ」と顔を出すのだった。

西尾なる私が、『ニン』と呼ばれていたことから思うと、だれか、永野とい

う姓を、同音の長野と取り違えた結果、チョウサンという略称が生じたのかも

しれない。

けれども、それだけで4年間、学年の上の者までが「チョウサン』「サン』

と呼び続けたのはどうも納得がいかない。やはりそれなりの、特別の理由があ

ったに違いない。

当時は終戦後間もない時代で、まだまだ戦時中の物言いがどこかに残ってお

り、軍隊生活をしてきた彼に中隊長、小隊長のイメージがあったからだろう。

「長」といっても、上から人に圧力をかけて威張る鬼軍曹タイプとはおよそ逆

の人間で、われわれ仲間の中心、何かあるといつでも喜んで相談に乗ってくれ

る人。困った時には黙って助けてくれる人。任せておけば必ず良い様にしてく

れる人。そういった思いが、彼を知るだれにもあって、あの温かい人柄の永野

さんが、敬すべき「チョウサン」だったのだと思う。その証拠に、だれも私の

ことを『ニンサン』とは呼ばなかった。そして、永野さんを『チョウ』とだけ

-19-

(3)

呼び捨てるようなことはなかった。

当時の学生寮には、兵隊生活の後に学生になった者も居たし、学生寮から仕

事場に通っていた社会人もいた。私のように、年齢的には下がった形で、旧制

高校から新制大学の生徒になった者もいて、年を食った者が結構居たのだから、

永野さんが一般の学生よりもかなりの年上であることだけが、特別に一目置か

れる理由だった訳ではない。にもかかわらず、彼は尊敬されるとともに大変に

親しまれろという、幸福な地位を持っていた。

寮の舎監・副舎監は一般の寮生、特に新入生には非常に厳しかった。毎朝の

起床時間には必ず起こしに来るし、自習時間には毎日のように見回りに来る。

門限には学生寮の入口に立っていてチェック。5分でも遅れると大目玉。etc、

この規則のやかましさだけでも、現在の大学生猪君であれば、きっとだれでも、

『何を好んで、刑務所みたいな所に居なければならないんだ!」と、直ちに飛

び出してしまうに違いない。

〔ところが、我々にとってのボッンュ・タウンは、まさに楽園であった。とに

かく寮生は底抜けに明るく、なんでも言い合い、多少の困難、いざこざや失敗

があっても、全員で話し合って解決していた。学生の代表者である寮舎長の選

挙などはお祭り騒ぎだった。

当時は今とは違って、ほかの大学を受験しても入れなかったのに、なんとか

上智に拾ってもらったという格好の者がほとんどで、特に寮生は、経済的に乏

しい世相の中で、親に苦労を掛けながら、「すまん」と思いつつ大学へ出して

もらっていろという事情もあり、それぞれに、苦労を背負っていただけに、辛

棒強い所があり、大して優秀ではない頭を抱えている分、人のいいやつばかり

だった。その上、ボッンュ神父、舎監とはまた一歩離れた立場で学生をよく見

守って下さったシュワイツエル神父など、それらの若者を率いる指導者の包容

力豊かな人間性が、学生寮を心・魂のオアシスとしていたのである。まことに、

人の和ほど尊いものはないなあと、今更思い知らされる次第だ。〕

寮生を厳しく取り締まる寮の舎監・副舎監も、永野さんに対しては絶大な信

頼を寄せておられた。一般の寮生は、3人部屋、しかも隣り合った部屋とは廊

下をへだてて、互いにカーテンで仕切られただけ。中学校の教室で使用する〈

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らいの小ちゃな木製の机で、顔を寄せ合って勉強し、寝るには、敷き布団を縦

に半分にしないと両面からずり落ちてしまう狭いキャンパスベッドを、上手に

くっつけ合わぬと生活できないという窮屈な場所にいたのに、彼は、舎監の監

視外にある、レンガ作りの建物である大学校舎内の-部屋をあてがわれていた。

そこへ、時に、聖心女子大へ留学していた婚約者が訪ねて来られるのが、全 寮生の羨望の的であったことは言うまでもない。一般の寮舎には、女性はたと

え姉妹であっても入ることは許されず、(もっとも、窮屈な部屋なので寮生が

居るところに、他人が入る余地などまったくなかった。)借金取りに来た飲み

屋のおばさんが、寮の柵の外で、随分と長い時間、立ちつくしていたのを見た こともある。ところが、治外法権の永野さんの部屋に行くと、スリムな美人の 女子大生が、静かにお茶など入れておられたのである。

学生寮の普段の生活は、夕食後1時間ぐらいで自習時間が始まり、中間に30

分休憩、そして'0時半には消灯で、休憩時間以外には、飲食はもちろん許され

ず、会話も必要なことのみを小声でしなければならなかった。消灯時間が過ぎ

て明かりをつけていろと、寮舎監の部屋が司祭館の2階か3階にあったので、

舎監から丸見え。ただちに窓をコツコツとやられろ。それでも電灯を消さない

と、呼び出されてお叱りを受けた次第。普段不勉強の私など、テストの前夜に

は勉強はできないし、悪い点を取りそうなので心配ではあるし、誠に困ったも

のであった。

そうした厳しい寮生活の中で、永野さんに対する舎監の信用(自習時間に見

回I)がない!)と、チョウサンのチョウサンたるゆえんを仲間は大いに利用し

た。

1つ例を挙げてみよう。だれかがどこかで、なんと、麻雀牌を工面してきた。

永野さんを御存じの皆様は、彼が麻雀などを好んでする人間でないことは良く

お分かりでしょう。しかし、よそにはチー・ボン・テンパイなど中国語の学習

をする場所はどこにもない。そこで我々はかの神聖な自習時間に、彼の部屋に

押しかけたのである。同室の者に、『舎監の兇回りで尋ねられたら、チョウサ

ンのところへ分からんところを聞きにいった、と言っておいてくれ』と頼んで

おいて。 -21-

(5)

真相が(しれば、即、退寮か、よほど寛大な処置であっても1か月以上の外 出禁止になるのは間違いないような行為だったのに。 退寮になればどうなるか考えて頂きたい。戦争が終わって5年、まだまだひ どく物資の不足する時代で、外で食事をするには政府発行の外食券なる物が必

要。寮生が食べる食料も、一同の食糧配給通張を集めて、隻葉学園の裏の方に

あった配給所まで大八車でもらいにいっていたようなありさま。従って、よほ

ど有力な知人の紹介でもない限り、大学生を下宿させてくれる所など見つから

なかったに違いない。 ところが、こっそりと牌を持って参上した3人組に、チョウサンはニクロ

ム線の電熱器でお湯を沸かし、紅茶のサービスまでして、快く相手をしてくれ

たのである。

私は胴長で、肩幅が狭くひょろ長い俗物である。細井にしても、谷口、川口、

横山、関谷その他、ボッンュ・タウンにたむろしていた面々は、趣味・体型こそ

さまざまであるが、どれも似たり寄ったり。ばか話をしては、がさがさと時を

過ごすだけといった小者、凡人の集まりであった。その中で、がっしりと背が

低く、将棋の駒で言えば王将のような胴体に、大きな造りの頭、なんとも優し

い眼差し、どんな時にも慌てず騒がず、ゆったりのチョウサンは、私どもの軽

薄さを、行動でもって諭すために来た、別天地からの訪問者に思えた。

私の郷里の木曽では、木材としては何の役にも立たない雑木のことをカナギ

と呼ぶ。そのカナギ林の中に、突然、一本の年古りた樫がどんと腰を据えてい

るような趣きと言えよう。

そういうと、永野さんは、なにか異物として存在していたように思われるか

もしれないが、決してそんなことはなく、かなり年齢の離れた面々に実に良く

融合し、身内そのものでもあったので、どうしてあれだけ掛け離れた人物が、

あれだけ掛け離れずにみんなと一体になっていたのか、未だに謎である。

そこで思うのだが、我々はついつい背伸びをして、自分を自分以上にかつC

良く見せたがる。逆に、-ランクでも下だと思っているものに自らの身を落と

して、例えば、猿とか犬になりきって、かれらと全く同等者として交わること

はしようとせず、できもしない。ところが、 -22-

(6)

神は人の子となられて我々のうちに住まわれた。 一度も怒ったことのないチョウサン。それでも、こんなことを言うと、『私 を神様に比さないでほしい」と怒るのではないかと思うのだが、心も体も行動 も、その人間全部をもって神に従おうとしていた彼だからこそ、自然体のまま で、はるかに経験の浅い我々の中にあって、「よう、チョウサン』「西尾〈ん』 と話し合う仲間であり得たのだろう。 (永野さんだけは、仲間内の者でも、「ニン」「バク」などの略称で人を呼ば なかったように覚えている。) 学生寮で最も楽しいのは、夕食後のひとときであった。寮舎は米軍から払い 下げられた旧兵舎、かまぼこ型をした鉄板造りの小建物で、学生が住むだけで いっぱいだった。それで、食事は、大学校舎の地下室まで行ってする事になっ ていた。食後、気の合った者同士がそこで長々と駄弁っていることも多かった が、夏の日の長い時期などは、よく、イグナチオ教会と寮舎に隣接する芝生で、 寮舎と同じ型の建物に住んで居られる教授一家のお子さん達と遊んだり、若者 らしく運動に汗を流したものである。 チョウサンはどちらかというと運動の方はぶきつちょだったからか、それと

も単なるものぐさのためか、遊び回る事はめったになかった。ポケットに手を

突っ込んで、ひょこひょこと、ただ歩いていることが多かったように思う。そ のチョウサンが、どういう風の吹き回しか、ソフトボール球でのキャッチボー ルの相手になったことがある。にこにことして、6~7メートルの近さから、 ゆっくりと投げ返してくる球を受けた私は、「うえっ」となった。どうして? グローブの中の左手がしびれたのである。「ソフト」ボールどころではない。

少々大げさになるが、鉄の球を受け取ったような感触であった。その時、『重

い球を投げろ」という言葉の意味がはっきりと分かった。彼は、ゆっくりした

動作で、その動作を見ている者には全然分からないのだが、全体重を掛けて力

一杯に球を投げていたのである。彼はまるで砲丸投げをするようにキャッチボ ールをした。競技の最中に相手を刺そうとする時ですら、彼はその重い球を、

「どっこいしょ」と投げたのである。これも、私が彼を偉(異)人と思った一

つのエピソード。 -23-

(7)

間違った事は嫌いで、不潔なものには一切近づかない人であったが、寛大と いう言葉そのもののようなところがあった。 よく考えてみろと、我々の生活の中に起こるさまざまな出来事や想念は、善 悪のどちらとも言えない事だらけである。山へ登るのに、尾根道を行こうが谷 筋を行こうが、結局は頂上に着くことになる。右回りをするか左回りをするか は、所詮その人の好みにすぎないといったことが多い。ところが、我々は、そ の場になってみると、どうしても「右でないとならない」ような気持ちになっ てしまう。そして、「左へ行くのはいや』。そして『左へ行くのは間違い』。 そして「左へ行くのは悪い」と思い込み、非難攻撃が始まる。また、我々はせ っかちだから、『今解決すべきだ」と意気込んでしまう。待てないのである。 「寛」というのは、『近道を行こう。」という人があれば、自分は遠回りの 道をゆっくりと登っていこうと思っていても、そのことを内に秘めて相手に悟 らせずに、喜んで一緒に登って行くような感性を持った心の様を言うのではな かろうか。 「大」というのは、悠久の時の中で物事を捕らえることができて、周囲の小 人が焦ってドジを踏み、そのため迷惑を掛けられていることにも、痛痒を感じ ない人を言うのだろう。 永野さんはその名のごとく、「善」であり「治」であった。現在世界の各地 に見られる、特に身近かに多い、饒舌だましやの政治家とは完全にさかさまの、 黙って治める人であった。自分の利権やステータスのために治めるのではなく、 人の幸せをのみ願って治める人であった。 彼は「ことあげ」せぬ人であった。事を起こすことがなく静かで、理屈、言 葉で人に対立するということがない。要するに、彼が言い張るのを聞いた覚え がないのである。 節を曲げることなく、じっくりと相手が正しい方向に変わるのを待っている 人であった。忍耐強く、対立してしまった二つのものを-つにしようとする人 であった。 我々が生活していた上智大学の学生寮は、先にも書いたとおり、屋根と天井 の境目がない、鉄板波板をグリーンのペンキで塗った外観の建物で、その形か -24-

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ら「かまぼこ」と呼ばれていた。学生用の「かまぼこ」は確か6棟ばかりあっ て、そこに百人ほどの学生が居たが、その中で、私や永野さんと同期のうちの 4人が沖縄から来た人だった。 ところで、我々が学生寮で暮らしていた時期に、東京でかなり大きな反米デ モがあり、「ヤンキー・ゴーホーム』のプラカードを持って、人々が街頭を練 り歩くという事があった。私なんぞは、大学で、政治学の講義を聴いてはいた ものの、それはいたって抽象的な観念論。日本が、まして沖縄がどのような政 治的状況にあるのか、恥ずかしい話だが、現実についてはとんと理解していな かった。 ところが、沖縄から来ていた1人のN君が、突然寮から姿を消した。しばら くして、デモ行進に参加していた彼の姿が、たまたま「ニューズ・ウイーク』 の掲載した写真に写っており、それが理由で退学したらしいという噂を聞いた 時には、鈍感な私もさすがに、樗然とせざるを得なかった。今なら、多分大学 に真相を尋ね、N君の復学を要求する運動をしただろうと思う。しかし、意識 の低い私はただ驚くばかりで、指一本動かさなかった。当時、沖縄はアメリカ 軍の統治下にあり、いわゆる本土復帰以前であった。従って、永野さんなどは 日本国ではない沖縄からの留学生で、沖縄の米軍政府発行のピザなしには本士 に滞在できない身分であった。そうした中の1人として、反米デモでしっかり と証拠写真を撮られてしまったことが、N君の一生を左右する重大な意味を持 った出来事であることは、十分に理解して頂けると思う。 同級生のそうした犠牲を身近にして、チョウサンはどんな思いであっただろ うか。 沖縄には『ちむぐりさん」というすばらしい言葉があるそうだ。他人の苦し みに立ち会って、その人と同じ思いで肝が傷み苦しむ、といった意味だと聞い ていろ。あの気持ちの優しいチョムサン。まさしく、「ちtPぐりさん」であっ たに相違ない。しかも、他の人と違って、彼は確か琉球教区からの奨学生とし て派遣されていたはずだ。フェリックス・レイ師からお金をもらっている身分 であり、沖縄の将来のために教育界で働く決意の下に、自分の結婚を延ばして まで東京へやって来ていた以上、彼にはその心の苦しみを、政治的な行動で表 -25-

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現することができなかったのである。なんと重い十字架であったことかと、察

するに余りがある。

チョウサンの沖縄に対する想いの表われで、忘れられないことがある。

私は、大学3年生のクリマスに洗礼を受けた。寮舎監のポッンュ師が、とあ

る日、寮内の道を通りすがりに、何気なく「西尾君、君の友人から、君が僕の

話を聞いてくれるように聞いたのだが』と声をかけて下さったのがきっかけで

あった。さらにさかのぼって、私が上智に入学することになったのは、大阪に

いた時分の恩人が、なぜか、『君に似合いの学校は上智だ。」とすすめてくれ

たお蔭だ。その恩人夫妻はカトリック信者だったのであるd

洗礼を受ける時には、新しく信仰者になる者の信仰生活を見守ってゆく代父

(ゴッド・ファーザー)の立ち合いが必要である。私はぜひとも、大阪の恩人

に代父になって頂きたかった。しかし、その恩人は自分の会社を持つ`忙しい人

で、年末の!忙しい時期に東京に来る都合がつかない。そこで私は、代父の代理

をチョウサンに頼んだ。彼は快く引き受けてくれた。

無事に洗礼の儀式が終わった後、チョウサンが『私の部屋に来て下さい』と

いう。思いも掛けず、祝宴に招かれたわけである。今でも鮮やかに覚えている

が、チョウサンは私のために、当時としては大ど馳走である天ぷらを仕入れて

来て振る舞ってくれた。さらに、一環のロザリオが記念品として用意されてあ

った。

ロザリオの普通の使用方法を解説してから、チョウサンは「これは私がロザ

リオをもらった時に言われたことですが、できればあなたも心に留めておいて

頂きたい。j『初めの10回のメデタン(アベ・マリア)を唱える時には、祈願

として、沖縄が将来平和であるように、次の10回では沖縄が立派に復興してゆ

くように。次の…………と、沖縄の幸福のための祈りを加えるようにしたらよ

いと教えられ、自分はそれを実行しています』と語ってくれた。

そう言われると、彼はいつもロザリオを身につけて、それを指でまさぐって

いたにちがいない。彼にとって、祈りは人に見えるようにしてなどする事では

なかったのだろう。洗礼を受け、ロザリオについて知るまでは、彼が日常祈っ

ていろなど少しも気づかなかった。しかし、自分が使うようになって、彼の手

-26-

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がいつもポケットに入っていることの意味が判然としたのである。彼の最強の 武器は、間違いなく神への祈りであったと思う。 なによりも、永野さんは善なる人であった。それで、上智時代の呼び名とは 少し異なるが、我が家では、妻も娘も、彼のことを「永野のゼンサン」と呼ん でいる。 -27-

参照

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