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デューイの教育論的視座から見た野外教育の現代的意義 - 民主主義的態度の育成と総体としての成長の可能性 -

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Academic year: 2021

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岡山大学大学院教育学研究科

〒700-8530 岡山県岡山市北区津島中 3-1-1

Okayama University Graduate School of Education 3-1-1 Tsushimanaka, Kita-ku, Okayama,

The two-fold objectives of this study are first, to elucidate John Dewey’s educational theory and examine its implications for outdoor education; and second, to examine the contemporary significance of outdoor education grounded in Dewey's model of progressive education. This study specifically focuses on three aspects of Dewey's thought: the educational purpose, the concept of experience, and the notion of human growth.

Dewey's pragmatic educational theory aims for social change through the application of its own definition of democracy. According to Dewey, human growth is an evolving process of accumulating experiences through personal interactions with the environment. For such experiences to be generated, occupations labeled manual creation activities must be undertaken by learners. Further, Dewey’s model aims to foster democratic attitudes and ideas through interpersonal occupational collaborations.

In brief, the analysis accomplished by the study allows the following inferences to be drawn: 1) scholars should reevaluate the immense potential of outdoor education to impart knowledge through the extension of diurnal activities and should reexamine its promise of encouraging the holistic growth of children; 2) the present-day social and educational significance of outdoor education vests in the inculcation of democratic attitudes and ideas in children; and 3) the social significance of outdoor education is growing because it can provide children who now encounter more indirect or secondary experiences the opportunity to accumulate direct or primary experiences.

Key words: democracy, concept of experience, direct experience, holistic growth, occupation J-STAGE Advance Published date: Feb.8, 2021

デューイの教育論的視座から見た野外教育の現代的意義

民主主義的態度の育成と総体としての成長の可能性 -

髙橋 徹

The contemporary significance of outdoor education grounded in

Dewey's theory of progressive education

The possibility of cultivating democratic attitude and holistic growth ―

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1.序論 1.1.研究の背景 野外教育の思想的背景の一つには、アメリカ の教育哲学者であるJ.デューイ(Dewey, J)の 存在がある 1)。そして、アメリカの野外教育を 先導したL.B.シャープ(Sharp, B, Lloyd)はデ ューイの教育論の影響を強く受けていたとさ れる。「シャープは、デューイの教育思想であ る学校と社会の関係や経験を通した教育、民主

的 な 課 題 解 決 学 習 を outdoor and camping

education つまり『野外教育』という形で具現 化しようと考えていた」2)という指摘は、この 両者の関係を端的に言い表している。 一方で、日本の野外教育分野においてデュー イの教育論を取り上げた議論に目を向けてみ ると、吉田による研究3)4)は確認できるものの、 それ以外では研究のごく一部としてデューイ の示した「experience」の概念に対して焦点が 当てられ、野外教育での諸活動における体験の 構造やその体験の意義を考察する際の理論的 根拠として研究対象にされてきたことが分か る。例えば、青山は体験に内在する価値に言及 する中でデューイを引用した議論を展開して いる 5)。また、星野は体験と教育との関係を説 明する際にデューイを用いた考察を行った上 で、「デューイが考えた experience(体験)を 『野外教育の視点から』考察する研究もまだま だなされるべきである」6)とも述べている。 なお、これらの研究以外にもデューイに言及 した研究は幾つか確認できるが7)8)9)、野外教育 分野における原理的、思想的、哲学的研究の不 足とその必要性が指摘されていることからも 明らかなように 10)11)、その研究が充実している とは言い難い。また、そもそもデューイが展開 した教育論では何が目的とされていたのか、な ぜそこでは「experience」が重要視されたのか、 野外教育にとってデューイの理論の何が示唆 的なのかなどについても十分に検討されてき たとは言い難く、未だに議論の余地を残してい ると考えられる。 さて、デューイの示した「experience」の概 念が彼の教育論を構成する一要素であること を反省的に捉えるならば、安易にその概念のみ を引用してしまうことが彼の考えを十分に理 解し切らないまま浅薄な議論を展開すること につながる危険性を孕んでいるとも考えられ る。したがって、彼の教育論の全体像を把握し た上でその中に「experience」の概念を位置づ け、あらためて野外教育との関係を考察するこ とが、野外教育分野から見たデューイについて の精緻な理解と今後の研究の発展のためには 必要になるだろう。 1.2.研究目的・研究方法 本研究の目的は第一に、デューイの教育論を 概観し、野外教育分野に対する示唆を読み解く ことである。そして第二に、その教育論的視座 から見た野外教育の現代的な意義を検討する ことである。 なお、本研究は文献研究の手法を用いて行っ たものであり、デューイが発表した代表的な著 作12)13)14)15)16)に加え、関連研究を分析対象とし ている。本論の展開としては、デューイの教育 論の特徴について教育目的、経験概念、成長概 念の3 つの観点から概観した上で、それぞれの 観点に対応する形で野外教育の意義を考察す る。 1.3.用語の定義 本稿で使用する用語については以下に示す 定義で用いることとする。 「野外教育」の意味については、「青少年の 野外教育の振興に関する調査研究協力者会議」 が 1996 年に文部省(当時)に提出した報告書 にて示した、「自然の中で組織的、計画的に、 一定の教育目標をもって行われる自然体験活 動の総称」17)という定義に倣っている。また「自 然体験活動」についても、同報告書で示されて いる「自然の中で、自然を活用して行われる各

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1.序論 1.1.研究の背景 野外教育の思想的背景の一つには、アメリカ の教育哲学者であるJ.デューイ(Dewey, J)の 存在がある 1)。そして、アメリカの野外教育を 先導したL.B.シャープ(Sharp, B, Lloyd)はデ ューイの教育論の影響を強く受けていたとさ れる。「シャープは、デューイの教育思想であ る学校と社会の関係や経験を通した教育、民主

的 な 課 題 解 決 学 習 を outdoor and camping

education つまり『野外教育』という形で具現 化しようと考えていた」2)という指摘は、この 両者の関係を端的に言い表している。 一方で、日本の野外教育分野においてデュー イの教育論を取り上げた議論に目を向けてみ ると、吉田による研究3)4)は確認できるものの、 それ以外では研究のごく一部としてデューイ の示した「experience」の概念に対して焦点が 当てられ、野外教育での諸活動における体験の 構造やその体験の意義を考察する際の理論的 根拠として研究対象にされてきたことが分か る。例えば、青山は体験に内在する価値に言及 する中でデューイを引用した議論を展開して いる 5)。また、星野は体験と教育との関係を説 明する際にデューイを用いた考察を行った上 で、「デューイが考えた experience(体験)を 『野外教育の視点から』考察する研究もまだま だなされるべきである」6)とも述べている。 なお、これらの研究以外にもデューイに言及 した研究は幾つか確認できるが7)8)9)、野外教育 分野における原理的、思想的、哲学的研究の不 足とその必要性が指摘されていることからも 明らかなように 10)11)、その研究が充実している とは言い難い。また、そもそもデューイが展開 した教育論では何が目的とされていたのか、な ぜそこでは「experience」が重要視されたのか、 野外教育にとってデューイの理論の何が示唆 的なのかなどについても十分に検討されてき たとは言い難く、未だに議論の余地を残してい ると考えられる。 さて、デューイの示した「experience」の概 念が彼の教育論を構成する一要素であること を反省的に捉えるならば、安易にその概念のみ を引用してしまうことが彼の考えを十分に理 解し切らないまま浅薄な議論を展開すること につながる危険性を孕んでいるとも考えられ る。したがって、彼の教育論の全体像を把握し た上でその中に「experience」の概念を位置づ け、あらためて野外教育との関係を考察するこ とが、野外教育分野から見たデューイについて の精緻な理解と今後の研究の発展のためには 必要になるだろう。 1.2.研究目的・研究方法 本研究の目的は第一に、デューイの教育論を 概観し、野外教育分野に対する示唆を読み解く ことである。そして第二に、その教育論的視座 から見た野外教育の現代的な意義を検討する ことである。 なお、本研究は文献研究の手法を用いて行っ たものであり、デューイが発表した代表的な著 作12)13)14)15)16)に加え、関連研究を分析対象とし ている。本論の展開としては、デューイの教育 論の特徴について教育目的、経験概念、成長概 念の3 つの観点から概観した上で、それぞれの 観点に対応する形で野外教育の意義を考察す る。 1.3.用語の定義 本稿で使用する用語については以下に示す 定義で用いることとする。 「野外教育」の意味については、「青少年の 野外教育の振興に関する調査研究協力者会議」 が 1996 年に文部省(当時)に提出した報告書 にて示した、「自然の中で組織的、計画的に、 一定の教育目標をもって行われる自然体験活 動の総称」17)という定義に倣っている。また「自 然体験活動」についても、同報告書で示されて いる「自然の中で、自然を活用して行われる各 種活動であり、具体的には、キャンプ、ハイキ ング、スキー、カヌーといった野外活動、動植 物や星の観察といった自然・環境学習活動、自 然物を使った工作や自然の中での音楽会とい った文化・芸術活動などを含んだ総合的な活動 である」18)という定義に倣っている。 「体験」と「経験」という用語については英 語の「experience」に対応する言葉として用い るが、この二つの言葉の定義を規定することは 本研究の目的からは外れることから、区別せず に同義の言葉として使用する。なお、主に「体 験」という表現を使用して議論を進めるが、一 部例外的に「経験」を用いる箇所もある。特に、 本研究で文献の読解対象としているデューイ と リ ー ド の 著 作 、 お よ び そ の 関 連 研 究 で は 「experience」の訳語として「経験」が当てら れることが多いため、それらを引用する際やそ の内容に言及する際には「経験」を用いている 箇所もある。 2.デューイの教育論 デューイはアメリカで生まれたプラグマテ ィズムという思想の潮流に位置付けられる人 物である。プラグマティズムとはアメリカの思 想家や哲学者らに共通するものの見方や考え 方の総称であり、その潮流は 19 世紀後半に始 まり、20 世紀に集大成され、21 世紀へと引き 継がれている19)。なお、プラグマティズムの思 想家の中でも特に教育の分野に対し多大な貢 献を果たし、後の教育の世界にも影響を与えた 人物としてデューイは著名である。 2.1.デューイが目指した教育の目的 デ ュ ー イ が 著 し た 代 表 的 著 作 と し て

『Democracy and Education(民主主義と教

育)』、および『The School and Society(学校

と社会)』を挙げることができるが、この表題 からも読み取れるように、彼は社会における学 校と教育の役割について論究した人物であっ た。佐藤はその功績について、「生涯にわたっ て民主主義の実現を促進する教育と倫理の意 義について探求し続け、民主主義の危機を公共 性と共同体の解体において洞察した」20)と表現 している。つまり、デューイは教育を社会変革 の手段として捉えることで、民主主義を実現す るための態度や思考を人々が身につけ、その態 度や思考を共有する人々が生活を営む社会を 作り上げること教育目標に掲げていたのであ る。 なお、デューイの教育論を解釈する上で重要 な意味を持つ民主主義という言葉については、

彼の著作『Democracy and Education(民主主

義と教育)』の中で示された次の定義が広く知 られている。 民主主義は単なる政治形態でなく、それ以 上のものである。つまり、それは、まず第一 に、共同生活の一様式、連帯的な共同経験の 一様式なのである21) しかし、デューイはこの定義を示して以降、 民主主義の定義を限定し、著作を重ねる中でそ の定義に変化が現れたことが指摘されている 22)。したがってデューイの教育論を読み解くに あたり、先行研究においては民主主義という言 葉に関して様々な解釈が示されてきた。 例えば、佐藤は民主主義を生き方の哲学であ り、多様な人々が共に生きることと定義してい る23)。そして民主主義の考え方の上に形作られ る共同体についても、民主主義という信念を中 核として人々が自由に参加し協同して構成す る社会のことを意味しているという見解を示 している24)。他方、大賀によれば、民主主義と は「多様な人びとが協働し連帯し、それによっ て生活を営んでいく際の、人びとの生き方その もの」25)を意味していたとされる。また、宇野 は公教育の使命についての言及とともに、「民 主主義社会を打ち立てるために、人々が共同し て働くための技法を広く教育によって提供し

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ていくこと」26)をデューイは目指していたのだ と考察している。 また、これらの先行研究に加え、「自由の相 互承認の感度」という考え方を用いてデューイ の民主主義についての独自の考察を行ったの が苫野27)である。苫野は竹田が提示した「自由 の相互承認」28)の概念を援用しつつ、民主主義 を解釈している。「自由の相互承認」とはすな わち、次のように説明される。 争いを望まないのなら、わたしたちは、各 人が「自由」に生きたいと願っている存在同 士であることを、まずはお互いに認め合うほ かありません。そしてその上で、相互承認可 能な仕方で調整し合うほかないのです29) 人間は誰しもが自由に生きたいと考えてい る。しかし、皆が自分勝手に自由にやりたいこ とをやってしまったのでは、常に揉め事や争い 事が其処彼処で発生する社会になってしまい、 むしろ不自由な事態を招くことにつながる。し たがって、互いの自由を認め合い、他者の自由 を侵害しない範囲で自由に振る舞うというこ とが、結局のところ皆が自由に生きるためには 必要になる。これが自由の相互承認という考え 方であり、この考え方の感度を高めることこそ が、デューイ的な民主主義の本質ということに なる。すなわち自由の相互承認の感度とは、上 記の先行研究で提示された「多様な人々が共に 生きること」や「多様な人々の協働や連帯」、 「人々が共同して働くための技法」を根底で支 える理念として重要な意味を持つと考えるこ とができるのである。 さて、民主主義を実現するための態度や思考 を共有した人々による社会の形成という教育 目標を実現するための具体的な手法として、デ ューイは「仕事=専心活動(occupation)」30) を 通 し た 教 育 を 重 視 し て い た 。 な お 、 仕 事 (occupation)の具体例としては木工、金工、 調理、裁縫、織物などの手仕事が挙げられてお り31)、それは言わばあらゆる日常的な創作活動 に当てはまるものである。すなわち、デューイ は 人 間 の 生 活 全 般 に 関 わ る 創 作 活 動 を 仕 事 (occupation)と呼び、それらを教育手段とし て重宝していたのである。そして、そのような 仕事(occupation)に他者と協同で取り組むこ とで民主主義的な態度や思考を育むことをデ ューイは教育目的としていたのである。 2.2.経験概念と成長概念 デューイが教育手法として仕事(occupation) と呼ばれる創作活動を重視していた理由とし ては、彼の教育論を支える重要な概念である経 験と成長の過程が仕事(occupation)の過程の 中に内包されていることが挙げられる。特に、 デューイの教育論は時に経験主義教育とも称 されるが、そこで示された経験概念は独自の解 釈に基づく考え方であり、その特徴は経験の 「相互作用の原理」と「連続性の原理」にある。 デューイは「経験の相互作用」について、経 験が人間と環境との相互作用によって生じる 結果であるとし、次のように述べている。 経験は真空のなかで生起するものではな い。言うまでもないことである。経験を引き 起こす源は、個人の外にある。経験はこれらの 源泉によって、絶えず養い育てられている32) これはすなわち、経験というものが人間を取 り囲んでいる物や人、場所や状況、あるいは社 会制度などとの相互作用の結果として生じて いるということを意味している。なお、このよ うに人間を身の周りの環境から独立させて捉 えるのではなく、常に環境の中に存在するもの として捉える視点は経験概念に限らず、デュー イの教育論全体に通底する特徴でもある。 次に、「経験の連続性」とは、現在の経験が 過去の経験から何かを受け取るとともに、将来 の経験に影響を与えることを意味する。それは デューイが、「経験は継続して生起するが、そ

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ていくこと」26)をデューイは目指していたのだ と考察している。 また、これらの先行研究に加え、「自由の相 互承認の感度」という考え方を用いてデューイ の民主主義についての独自の考察を行ったの が苫野27)である。苫野は竹田が提示した「自由 の相互承認」28)の概念を援用しつつ、民主主義 を解釈している。「自由の相互承認」とはすな わち、次のように説明される。 争いを望まないのなら、わたしたちは、各 人が「自由」に生きたいと願っている存在同 士であることを、まずはお互いに認め合うほ かありません。そしてその上で、相互承認可 能な仕方で調整し合うほかないのです29) 人間は誰しもが自由に生きたいと考えてい る。しかし、皆が自分勝手に自由にやりたいこ とをやってしまったのでは、常に揉め事や争い 事が其処彼処で発生する社会になってしまい、 むしろ不自由な事態を招くことにつながる。し たがって、互いの自由を認め合い、他者の自由 を侵害しない範囲で自由に振る舞うというこ とが、結局のところ皆が自由に生きるためには 必要になる。これが自由の相互承認という考え 方であり、この考え方の感度を高めることこそ が、デューイ的な民主主義の本質ということに なる。すなわち自由の相互承認の感度とは、上 記の先行研究で提示された「多様な人々が共に 生きること」や「多様な人々の協働や連帯」、 「人々が共同して働くための技法」を根底で支 える理念として重要な意味を持つと考えるこ とができるのである。 さて、民主主義を実現するための態度や思考 を共有した人々による社会の形成という教育 目標を実現するための具体的な手法として、デ ューイは「仕事=専心活動(occupation)」30) を 通 し た 教 育 を 重 視 し て い た 。 な お 、 仕 事 (occupation)の具体例としては木工、金工、 調理、裁縫、織物などの手仕事が挙げられてお り31)、それは言わばあらゆる日常的な創作活動 に当てはまるものである。すなわち、デューイ は 人 間 の 生 活 全 般 に 関 わ る 創 作 活 動 を 仕 事 (occupation)と呼び、それらを教育手段とし て重宝していたのである。そして、そのような 仕事(occupation)に他者と協同で取り組むこ とで民主主義的な態度や思考を育むことをデ ューイは教育目的としていたのである。 2.2.経験概念と成長概念 デューイが教育手法として仕事(occupation) と呼ばれる創作活動を重視していた理由とし ては、彼の教育論を支える重要な概念である経 験と成長の過程が仕事(occupation)の過程の 中に内包されていることが挙げられる。特に、 デューイの教育論は時に経験主義教育とも称 されるが、そこで示された経験概念は独自の解 釈に基づく考え方であり、その特徴は経験の 「相互作用の原理」と「連続性の原理」にある。 デューイは「経験の相互作用」について、経 験が人間と環境との相互作用によって生じる 結果であるとし、次のように述べている。 経験は真空のなかで生起するものではな い。言うまでもないことである。経験を引き 起こす源は、個人の外にある。経験はこれらの 源泉によって、絶えず養い育てられている32) これはすなわち、経験というものが人間を取 り囲んでいる物や人、場所や状況、あるいは社 会制度などとの相互作用の結果として生じて いるということを意味している。なお、このよ うに人間を身の周りの環境から独立させて捉 えるのではなく、常に環境の中に存在するもの として捉える視点は経験概念に限らず、デュー イの教育論全体に通底する特徴でもある。 次に、「経験の連続性」とは、現在の経験が 過去の経験から何かを受け取るとともに、将来 の経験に影響を与えることを意味する。それは デューイが、「経験は継続して生起するが、そ れは生物と環境的諸条件の相互作用が、生命過 程そのもののなかに含まれているからである」 33)と述べているように、人間は生きている中で 常に経験をくり返しているということである。 すなわち、人間は環境に働きかけ、それによっ て変化する環境からの働きかけに応答し、さら に環境に働きかけ返すという繰り返しによっ て生きているのである。したがって、日常生活 のあらゆる出来事、つまり平凡な事柄から大事 に至る全ての出来事が経験ということになる。 このように、過去-現在-未来へとつながる相互 作用の不断の連続が経験の連続性である。 デューイはこのような経験に関する2つの 原理を示すことで経験の生成過程、および人間 の成長の過程を明らかにしつつ、結局のところ 経験の過程と成長の過程は同義のものである と結論する。そして、教育はそのような経験と 成長の過程を引き出す営みであることを示し ている。 教育とは、経験の意味を増加させ、その後 の経験の進路を方向づける能力を高めるよ うに経験を改造ないし再構成することであ る34) ここで言う経験の意味を増加させるための 経験の再構成とは、ある活動と他の活動を関連 させることでそれぞれの活動の幅を広げ、活動 を深めるということであり、相互の活動の関連 を知ることによって未来の活動に対する見通 しを持つことを意味している 35)。したがって、 デューイにとって教育とは、子どもが自分自身 で経験の意味を増加させ、自分自身で成長して いくための手段を手に入れられるようにする ために、教師が経験を再構成する機会を提供す ることなのである。 そして、デューイが述べる成長とは、環境と の相互作用の積み重ねによって個人の中に意 味や価値が連続的に累積していくという、経験 の連続性による新たな意味の累積運動と考え ることができる36)。つまり、未知の経験を既知 の経験へと変化させながら経験を累積し続け る発展の過程が自己更新の成長過程であり、デ ューイは仕事(occupation)という創作活動を 利用することで、その成長過程を作り出そうと していたのである。 3.デューイの教育論から見た野外教育の意義 ここまで、デューイの教育論について教育目 的、経験概念、成長概念という観点から概観し てきたが、それは言わば、独自の民主主義概念 の下に展開された社会変革を目指した理論で あったと言える。デューイによれば、人間の成 長とは環境との相互作用によって生じる経験 を累積し続ける発展過程であるとされ、その経 験を生む手法として仕事(occupation)という 創作活動が活用されていた。さらに、その活動 に一人ではなく他者と協同で取り組むことに よって、民主主義を実現するための態度や思考 を育む事ができると考えたのである。本節では これまでの議論を基にしつつ、デューイの教育 論の観点から見た野外教育の意義を考察する こととする。 3.1. 仕事(occupation)と野外教育との関 係 デ ュ ー イ が 教 育 手 段 と し て 重 視 し た 仕 事 (occupation)と呼ばれる創作活動と野外教育 における各種活動との間には親和性が認めら れる。なお、それは単にデューイの示した仕事 (occupation)の事例が野外教育の諸活動の中 でも行われているということを意味するもの ではない。この関係については、デューイが教 育手法として仕事(occupation)を重視したこ との背景を読み解くことにより、両者のより深 い関係を明らかにすることができる。 デューイが仕事(occupation)と呼ばれる日 常的な創作活動を教育手法として重視してい た理由には、子どもの生活と当時の学校教育と

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の乖離、すなわち子どもが普段生活する世界と 授業で教えられる教科の中の世界との乖離が 挙げられる。デューイの言葉を借りれば、「子 どもの生活は、一つの統一された生活であり、 一つの総体的な生活」37)とされる。そして学校 で教えられる教科は、「端的に言うと、時代ご との科学からの産物であって、子どもの経験か ら産み出されたものではない」38)ということに なり、教科の中の世界というのは子どもの生活 の世界からは乖離した世界になってしまうの である。したがってデューイは、子どもの生活 から乖離した手法で教育を行うのではなく、子 どもの生活の延長線上にある手段を用いて教 育を行うという意図から仕事(occupation)を 重視していたのである。 なお、このように教育を教科という分別され た世界に押し留めるのではなく、子どもの日常 生活のような一つの総体的な世界の中で展開 し て い く と い う 主 張 は 、 シ ャ ー プ が 示 し た

「inside the schoolrooms」に対する「outside」

という野外教育の理念にもつながるものと考 えられる。

That which ought and can best be taught inside the schoolrooms should there be taught, and that which can best be learned through experience dealing directly with native materials and life situations outside the school should there be leaned39).

教室のなかでより良く教えることができ ることは教室内で、学校外(教室外でのさま ざまな状況)で直接体験を通してより良く学 ぶことができることは、学校の外(教室外) で学ばれるべきである40) この一文からは、野外教育が学校の教室の中 だけでなく、学校の外にある子どもの生活の世 界の中でも教育を展開するという理念に基づ く教育活動であることが読み取れる。そして、 この考え方の根底には、一つの総体としての子 どもの日常生活を教育手法として活用しよう と試み、それを仕事(occupation)という創作 活動として具体化したデューイの教育論が深 く関わっていると考えられるのである。 3.2.一つの総体としての野外教育の現代的 意義 世界を分別して捉えるのではなく一つの総 体として捉えようとするデューイの姿勢は、人 間の成長に対する考え方の中でも一貫されて いる。先述した通り、デューイの教育論では環 境との相互作用による経験の積み重ねが人間 にとっての成長である事が示されたが、デュー イが考える人間の成長とは次のように表現さ れるものである。それはすなわち、「身体の発 育発達といった生物学あるいは医学的な観点、 すなわち物理的変化に止まるものではなく、人 格、精神、知性、世界についての考え方といっ た内面(inner world)の変化、変容」41)を指す という意味である。 人間の成長を医学的物理的な変化に止まる ものではなく、一つの総体としての成長として 捉えるというデューイの視点は、エビデンスに よる裏付けが求められがちな現代の社会状況 と比べると、何処か牧歌的な主張にも感じられ る。しかし他方では、科学偏重の現代では数値 による説明が常に求められるなど、現代社会を 覆い尽くす科学的世界観が抱える問題性も指 摘されている。 近代の自然科学は、生活世界の利便性のた めに「自然を測定する」という最初の目標に 始まって、「測定された世界こそ真である」 という逆転をもたらした。いわば、手段と目 的を取り違え、生活世界の現実を数学的理念 で覆い隠したのである42) この指摘からも読み取れるように、科学的に 測定不可能な事象から得られる結果や効果を 懐疑的に捉えるという傾向は現代社会の中で

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の乖離、すなわち子どもが普段生活する世界と 授業で教えられる教科の中の世界との乖離が 挙げられる。デューイの言葉を借りれば、「子 どもの生活は、一つの統一された生活であり、 一つの総体的な生活」37)とされる。そして学校 で教えられる教科は、「端的に言うと、時代ご との科学からの産物であって、子どもの経験か ら産み出されたものではない」38)ということに なり、教科の中の世界というのは子どもの生活 の世界からは乖離した世界になってしまうの である。したがってデューイは、子どもの生活 から乖離した手法で教育を行うのではなく、子 どもの生活の延長線上にある手段を用いて教 育を行うという意図から仕事(occupation)を 重視していたのである。 なお、このように教育を教科という分別され た世界に押し留めるのではなく、子どもの日常 生活のような一つの総体的な世界の中で展開 し て い く と い う 主 張 は 、 シ ャ ー プ が 示 し た

「inside the schoolrooms」に対する「outside」

という野外教育の理念にもつながるものと考 えられる。

That which ought and can best be taught inside the schoolrooms should there be taught, and that which can best be learned through experience dealing directly with native materials and life situations outside the school should there be leaned39).

教室のなかでより良く教えることができ ることは教室内で、学校外(教室外でのさま ざまな状況)で直接体験を通してより良く学 ぶことができることは、学校の外(教室外) で学ばれるべきである40) この一文からは、野外教育が学校の教室の中 だけでなく、学校の外にある子どもの生活の世 界の中でも教育を展開するという理念に基づ く教育活動であることが読み取れる。そして、 この考え方の根底には、一つの総体としての子 どもの日常生活を教育手法として活用しよう と試み、それを仕事(occupation)という創作 活動として具体化したデューイの教育論が深 く関わっていると考えられるのである。 3.2.一つの総体としての野外教育の現代的 意義 世界を分別して捉えるのではなく一つの総 体として捉えようとするデューイの姿勢は、人 間の成長に対する考え方の中でも一貫されて いる。先述した通り、デューイの教育論では環 境との相互作用による経験の積み重ねが人間 にとっての成長である事が示されたが、デュー イが考える人間の成長とは次のように表現さ れるものである。それはすなわち、「身体の発 育発達といった生物学あるいは医学的な観点、 すなわち物理的変化に止まるものではなく、人 格、精神、知性、世界についての考え方といっ た内面(inner world)の変化、変容」41)を指す という意味である。 人間の成長を医学的物理的な変化に止まる ものではなく、一つの総体としての成長として 捉えるというデューイの視点は、エビデンスに よる裏付けが求められがちな現代の社会状況 と比べると、何処か牧歌的な主張にも感じられ る。しかし他方では、科学偏重の現代では数値 による説明が常に求められるなど、現代社会を 覆い尽くす科学的世界観が抱える問題性も指 摘されている。 近代の自然科学は、生活世界の利便性のた めに「自然を測定する」という最初の目標に 始まって、「測定された世界こそ真である」 という逆転をもたらした。いわば、手段と目 的を取り違え、生活世界の現実を数学的理念 で覆い隠したのである42) この指摘からも読み取れるように、科学的に 測定不可能な事象から得られる結果や効果を 懐疑的に捉えるという傾向は現代社会の中で 多々見られるものである。しかし一方で、近年 の教育界に目を向けてみると、2017 年と 2018 年に告示された学習指導要領の中で「学びに向 かう力・人間性」が育成すべき資質・能力の一 つとして掲げられるなど、新たな観点から子ど もの成長を総体として捉えようとする動きも ある43)。そして、おそらく野外教育における自 然体験活動の多くの場面でも、数値としては証 明し難い参加者の成長の側面が数多く認めら れるはずである。例えば、縦走登山や遠泳を終 えた後の子どもの様子、数日間のキャンプから 帰宅した際の子どもの様子などを見たときに、 何が成長したのかは分からないが、以前までと は確かに異なる彼彼女らの姿に気がつく事が できる。このような野外教育を通した成長とい うのは一つの総体としての成長であり、それを 要素に分別して捉えようとしても全ての要素 を把握しきることが困難な成長の姿だと考え られるのである。 なお、もちろん野外教育の効果を客観的な手 法で検証しそれを証明する事は、当該分野の学 術的発展につながるだけでなく、効果的な教育 方法の共有という点でも重要な営みである。し かし、世の中には未だに科学的に証明され得な いながらも効果が認められる事象が存在する ことも事実である。それは、私たちが自然体験 活動を通して既存の方法では証明することが 難しい参加者の成長を感じ取る機会があり、そ の成長を新たな方法で客観的に測定しようと 試みていることからも明らかである。 さて、ここまで見てきた通り、デューイの教 育論では一つ一つの要素に分別することのな い総体的な物事の把握が展開されている。そし て、デューイの教育論の観点から野外教育の現 代的意義を検討するならば、学校内だけでなく 学校外の世界までをも教育の場として活用し ている野外教育の教育手法、および科学的に測 定することが困難な総体としての人間の成長 の可能性を担保しているという点が再評価で きると考えられる。すなわち、科学的に分別さ れた世界ではなく、一つの総体としての子ども の日常生活の延長線上で教育を行い、また測定 可能な特定の要素のみを評価するのではなく、 総体的な子どもの成長の可能性を有している という野外教育の特徴は、今の時代だからこそ、 その意義が評価できると考えられるのである。 3.3.民主主義的態度の育成の場としての野 外教育 次にデューイが目指した民主主義的態度の 育成という教育目的の視点から野外教育の意 義を考察してみることとするが、既にシャープ 自身がこの課題に対する一つの答えを導き出 している。星野はシャープの野外教育に対する 考え方を紹介する中で、彼が提案したスクー ル・コミュニティ・キャンプについて次のよう に説明している。 子ども達を8 名前後の少人数グループに分 け、できるだけ自分たちでキャンプ生活を作 り上げていくとともに、この小集団メンバー の構成は、異人種、異宗教の子ども達で構成 し、キャンプ生活のなかで、仲間とのコミュ ニケーション、日常生活、そして、「真の民 主主義」を学ぶ場としていくことも提案して いる44) このようにシャープは学校教育の一環とし てキャンプを取り入れることによって、「地域 社会の暮らしや生活、アメリカの国家基盤であ る民主主義を学ぶ場」45)としての野外教育の必 要性を説いたとされる。なお、ここで述べられ ている民主主義とはまさに、デューイが教育目 的として提示した民主主義と同義であると捉 えることができる。しかし付言すれば、デュー イやシャープが活躍した19 世紀後半から 20 世 紀前半の時代と比べ、民主主義を学ぶ事の必要 性は現代においてより一層高まってきており、 今や彼らが想定したアメリカという一国内に 止まる考え方ではなく、当然のことながら日本

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においても無関係では無い関心事になってき ている。それは、これからの子どもたちが活躍 する将来の国や社会が抱える問題に目を向け てみれば明らかである。例えば、髙橋は中央教 育審議会 46)47)、および国立政策研究所 48)49) 示した議論をまとめた上で、それらの問題につ いて次の3点を挙げている50) ①知識・情報・技術をめぐる変化が加速度的 となり、環境・経済・国際関係などの各分 野において、専門家でも答えを持たない複 雑な問題が一人ひとりの市民に影響を与 える。 ②正解のないグローバルな問題に対して、一 人ひとりが自分の考えや知識を持ち寄り、 交換して考えを深め、統合することで解を 見出し、その先の課題を見据えることが求 められる社会へと社会全体が転換しよう としている。 ③経済や文化など、社会のあらゆる分野での つながりが国境や地域を越えて活性化す るため、多様な言語や文化、価値観を持つ 人々との交流や協働の機会が増えている。 またこれらに加え、学校内での問題として、 通常の学級においても学習面や行動面で困難 を示す児童生徒が 6.5%程度在籍しているとい う状況や、公立学校に在籍する外国人児童生徒 数が3,700 人を超えるという現状などが、子ど もに直接的に関わる社会問題として近年浮か び上がってきているとされる51) すなわち、現代のようにグローバル化が進ん だ社会では、これまでの時代とは比べ物になら ないほどに人種や文化、アイデンティティ、価 値観、宗教観などが大きく異なる人々との交流 の機会が増え、異質な他者とも良好な関係を築 いていく必要性が生じている。特に近年、海外 からの観光客や外国人労働者を数多く受け入 れている日本にとって、この問題は喫緊の課題 ともなっている。つまり、デューイの教育論で 示された民主主義を実現するための態度や思 考の育成というのは、今の時代だからこそ、そ の必要性がより一層高まっていると考えるこ とができる。そしてこのように考えるとき、シ ャープがキャンプを通して見出したような民 主主義を学ぶ場としての野外教育の教育的意 義も、今一度強く主張することができると考え られるのである。 3.4.野外教育を通した体験の貧困化への警 鐘とその克服 最後にデューイの経験概念、および成長概念 の視座から野外教育を考えることで、現代社会 を生きる人間が直面している自然環境に直接 的に接する機会の減少という問題を考察して みたい。例えば、子どもの体験に対する危機感 として既に多方面 52)53)54)からも指摘されてい るように、現代では子どもがインターネットや スマートフォン、テレビなどと接触している時 間が長いために、擬似的、間接的な体験が多く なり、結果として自然を直接的に体験する機会 が不足するという状況が生まれている。また大 人も同様にソーシャル・ネットワーキング・サ ービスを通してコミュニケーションをとり、イ ンターネットを利用して買い物をし、バーチャ ルリアリティのオンラインゲームに熱中する などの体験をしている。このような状況への警 鐘を促し、自然体験活動の社会的意義を主張す ることは、これまでにも野外教育分野に対して 期待されてきているが55)、デューイの教育論は そのような主張を裏付ける思想的な原理にな り得ると考えられる。 なお、特にこの問題に関しては、デューイの 経験に関する議論を更に発展させ、現代社会が 抱える体験の貧困化とも呼べる現象の問題点 を指摘したことで知られるアメリカの科学哲 学者E.リード(Edward, S, Reed)の主張が参 考になる。したがって、本節ではリードの主張 にも依拠しつつ議論を更に進めることとする。

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においても無関係では無い関心事になってき ている。それは、これからの子どもたちが活躍 する将来の国や社会が抱える問題に目を向け てみれば明らかである。例えば、髙橋は中央教 育審議会 46)47)、および国立政策研究所 48)49) 示した議論をまとめた上で、それらの問題につ いて次の3点を挙げている50) ①知識・情報・技術をめぐる変化が加速度的 となり、環境・経済・国際関係などの各分 野において、専門家でも答えを持たない複 雑な問題が一人ひとりの市民に影響を与 える。 ②正解のないグローバルな問題に対して、一 人ひとりが自分の考えや知識を持ち寄り、 交換して考えを深め、統合することで解を 見出し、その先の課題を見据えることが求 められる社会へと社会全体が転換しよう としている。 ③経済や文化など、社会のあらゆる分野での つながりが国境や地域を越えて活性化す るため、多様な言語や文化、価値観を持つ 人々との交流や協働の機会が増えている。 またこれらに加え、学校内での問題として、 通常の学級においても学習面や行動面で困難 を示す児童生徒が 6.5%程度在籍しているとい う状況や、公立学校に在籍する外国人児童生徒 数が3,700 人を超えるという現状などが、子ど もに直接的に関わる社会問題として近年浮か び上がってきているとされる51) すなわち、現代のようにグローバル化が進ん だ社会では、これまでの時代とは比べ物になら ないほどに人種や文化、アイデンティティ、価 値観、宗教観などが大きく異なる人々との交流 の機会が増え、異質な他者とも良好な関係を築 いていく必要性が生じている。特に近年、海外 からの観光客や外国人労働者を数多く受け入 れている日本にとって、この問題は喫緊の課題 ともなっている。つまり、デューイの教育論で 示された民主主義を実現するための態度や思 考の育成というのは、今の時代だからこそ、そ の必要性がより一層高まっていると考えるこ とができる。そしてこのように考えるとき、シ ャープがキャンプを通して見出したような民 主主義を学ぶ場としての野外教育の教育的意 義も、今一度強く主張することができると考え られるのである。 3.4.野外教育を通した体験の貧困化への警 鐘とその克服 最後にデューイの経験概念、および成長概念 の視座から野外教育を考えることで、現代社会 を生きる人間が直面している自然環境に直接 的に接する機会の減少という問題を考察して みたい。例えば、子どもの体験に対する危機感 として既に多方面 52)53)54)からも指摘されてい るように、現代では子どもがインターネットや スマートフォン、テレビなどと接触している時 間が長いために、擬似的、間接的な体験が多く なり、結果として自然を直接的に体験する機会 が不足するという状況が生まれている。また大 人も同様にソーシャル・ネットワーキング・サ ービスを通してコミュニケーションをとり、イ ンターネットを利用して買い物をし、バーチャ ルリアリティのオンラインゲームに熱中する などの体験をしている。このような状況への警 鐘を促し、自然体験活動の社会的意義を主張す ることは、これまでにも野外教育分野に対して 期待されてきているが55)、デューイの教育論は そのような主張を裏付ける思想的な原理にな り得ると考えられる。 なお、特にこの問題に関しては、デューイの 経験に関する議論を更に発展させ、現代社会が 抱える体験の貧困化とも呼べる現象の問題点 を指摘したことで知られるアメリカの科学哲 学者E.リード(Edward, S, Reed)の主張が参 考になる。したがって、本節ではリードの主張 にも依拠しつつ議論を更に進めることとする。 3.4.1.直接経験と間接経験 リードの主張の特徴は、経験を「直接経験(一 次的経験)」と「間接経験(二次的経験)」とい う2 つの概念によって捉えているところにある。 後者は視覚的・聴覚的メディアが媒介する経験 であり、前者は経験一般から間接経験を差し引 いた残り、つまりメディアが介在しない経験で ある56)。すなわち、直接経験とは「場所や出来 事や人とじかに交流してえられる経験」57)を意 味している。なお、この直接経験において相互 作用の対象となる環境とは、「見ること、聞く こと、触ること、嗅ぐこと、味わうことのでき る環境」58)を意味している。一方、間接経験と は「だれかが一次経験からえたことを種々のメ ディアで表現した経験」59)であり、他者が直接 経験している様子を映像として見たり、人づて に聞いたり、書物で読んだりする経験を意味し ている。 このように、リードが経験を2 つの概念から 捉えた背景には、直接経験と間接経験が本質的 に異なることを強調する意図がある。その両者 の違いについて、リードは以下のように述べて いる。 いまあなたの顔を見る代わりにあなたの 写真を見ているとすると、わたしがあなたに 関して習得できることには本質的な制限が ある。わたしがどれほど綿密に写真を調べて みても、あなたについて学ぶことはある時点 で終わる。…中略…しかし、わたしがあなた と対面するとき、探索や発見の可能性に制限 はない60) つまり、間接経験の場合、必ず他者が選択し た情報を取り入れることになるということで ある。例えば、ある山頂からの綺麗な景色を見 たいと考えた場合、私たちは現地まで足を運び 直接見ることもできれば、テレビ番組やインタ ーネット中継などのメディアを通して見るこ ともできる。当然のことながらこの両者は異な る経験である。なぜなら、メディアという媒体 を経由している時点で、そこで見えているのは 山頂から見える景色全体の一部分が切り取ら れたものでしかなく、そこからは処理された情 報しか獲得できないからである。したがってそ こからは、画面には映らない気温や湿度、日差 しの暖かさや風の冷たさ、生の景色の迫力、山 頂の雰囲気などの全ての情報を獲得すること はできないのである。この点で、「間接経験に は依然として、直接経験にはない重大な制限が ともなう」61)のである。すなわち、環境と接触 する直接経験を擁護することの必要性、それが リードの主張である。 3.4.2.野外教育を通した直接体験の可能 性 リードは直接経験と間接経験の概念を提示 することで、現代社会の特徴を「間接経験が直 接経験を凌駕するという事態、いやそれどころ か時には取って代わるという事態」62)に見てお り、この現代的傾向に対する警鐘を鳴らしてい る。 われわれは、一次経験を衰弱させることに よって世界を組織してきた。われわれが大半 の時間をささげてきた仕事、学校、余暇とい った活動においては特に、いまわれわれはも のごとについての(間接経験を使用する)学 習を強調し、一次経験のための機会を制限し ている。まるで日常生活から一次経験を根絶 することに取りかかっていると言っても過 言ではない63) この主張の背景には、環境と直に触れ合う直 接経験では環境との相互作用に終わりが来る ことはないが、環境を選択するだけの間接経験 にそのような豊富さは無く、その相互作用には いつか終わりが来てしまうという危機感があ る。そして直接経験の必要性を強調する背後に は、人間の成長が環境との終わることのない相

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互作用、つまり経験の連続的再構成によっても たらされるとしたデューイの経験概念と成長 概念からの影響が見て取れるのである。 以上、リードは現代における経験の危機を強 く訴えているが、一方でそれを克服する方途と して新たな経験を育むための教育を学校や職 場で推進することを強調しつつ、加えて次のよ うにも述べている。 ありがたいことに、人は仕事や学校だけで 学ぶのではない。自分だけですること―ハイ キング、手藝、趣味、単に坐ることや考える こと―もまたわれわれが学ぶのを助ける。… 中略…実際、これらの形式ばらない地道な仕 事は、おそらく人が自分たちの環境から学ぶ ことを助ける最善の方法だろう64) この指摘には仕事(occupation)を通した教 育を重視したデューイの教育論からの影響を 読み解くことができるが、ここで示された活動 もまた野外教育における種々の活動へとつな がるものであると考えることもできる。リード の主張を参考にするならば、直接経験の貧困化 が進む現代だからこそ、直接経験の機会を提供 できる野外教育の社会的意義は高まっている という議論が可能になる。また、自然環境との 相互作用による経験の意義を主張する上で、デ ューイの教育論もその思想的背景を提供し得 ると考えられる。デューイの経験概念、および 成長概念で示されたように、人間の成長過程を 経験の積み重ね、すなわち環境との相互作用を 累積し続ける過程の中に見出そうとするなら ば、相互作用の対象となる環境には費えること のない豊富さが求められる。現代社会では学校、 労働、余暇といったあらゆる生活場面で間接経 験が支配的だからこそ、環境との相互作用に終 わりが来ることの無い直接経験を提供し続け られる野外教育の場は非常に貴重な存在であ ると考えられるのである。 4.結論 本研究の目的は、デューイの教育論を概観し、 野外教育分野に対する示唆を読み解くこと、お よびその教育論的視座から見た野外教育の現 代的な意義を検討することであった。特に、デ ューイの教育論の特徴について教育目的、経験 概念、成長概念の3 つの観点から概観した上で、 それぞれの観点に対応する形で考察を行った。 デューイの教育論を端的に表現するならば、 それは独自の民主主義概念の下に展開された 社会変革を目指した教育論であったと言える。 デューイによれば、人間の成長とは環境との相 互作用によって生じる経験を累積し続ける発 展過程であるとされ、その経験を生むための教 育手法として仕事(occupation)と呼ばれる手 作業での創作活動が活用されていた。さらに、 その活動に一人ではなく他者と協同で取り組 むことによって、民主主義を実現するための態 度や思考を育む事ができると考えていたので ある。 デューイの教育論の視座から野外教育の現 代的意義を検討するならば、学校内だけでなく 学校外の世界までをも教育の場として活用し ている野外教育の教育手法、および科学的に測 定することが困難な総体としての人間の成長 の可能性を担保している点を評価することが できる。すなわち、科学的に分別された世界で はなく、一つの総体としての子どもの日常生活 の延長線上で教育を行い、また測定可能な特定 の要素のみを評価するのではなく、総体的な子 どもの成長の可能性を有しているという野外 教育の特徴は、今の時代だからこそ、その意義 が評価できると考えられるのである。 次に挙げられるのは、シャープがキャンプ生 活を民主主義について学ぶ場として提案した ことの意義を改めて評価できるということで ある。例えば、日本ユネスコ国内委員会が推進

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互作用、つまり経験の連続的再構成によっても たらされるとしたデューイの経験概念と成長 概念からの影響が見て取れるのである。 以上、リードは現代における経験の危機を強 く訴えているが、一方でそれを克服する方途と して新たな経験を育むための教育を学校や職 場で推進することを強調しつつ、加えて次のよ うにも述べている。 ありがたいことに、人は仕事や学校だけで 学ぶのではない。自分だけですること―ハイ キング、手藝、趣味、単に坐ることや考える こと―もまたわれわれが学ぶのを助ける。… 中略…実際、これらの形式ばらない地道な仕 事は、おそらく人が自分たちの環境から学ぶ ことを助ける最善の方法だろう64) この指摘には仕事(occupation)を通した教 育を重視したデューイの教育論からの影響を 読み解くことができるが、ここで示された活動 もまた野外教育における種々の活動へとつな がるものであると考えることもできる。リード の主張を参考にするならば、直接経験の貧困化 が進む現代だからこそ、直接経験の機会を提供 できる野外教育の社会的意義は高まっている という議論が可能になる。また、自然環境との 相互作用による経験の意義を主張する上で、デ ューイの教育論もその思想的背景を提供し得 ると考えられる。デューイの経験概念、および 成長概念で示されたように、人間の成長過程を 経験の積み重ね、すなわち環境との相互作用を 累積し続ける過程の中に見出そうとするなら ば、相互作用の対象となる環境には費えること のない豊富さが求められる。現代社会では学校、 労働、余暇といったあらゆる生活場面で間接経 験が支配的だからこそ、環境との相互作用に終 わりが来ることの無い直接経験を提供し続け られる野外教育の場は非常に貴重な存在であ ると考えられるのである。 4.結論 本研究の目的は、デューイの教育論を概観し、 野外教育分野に対する示唆を読み解くこと、お よびその教育論的視座から見た野外教育の現 代的な意義を検討することであった。特に、デ ューイの教育論の特徴について教育目的、経験 概念、成長概念の3 つの観点から概観した上で、 それぞれの観点に対応する形で考察を行った。 デューイの教育論を端的に表現するならば、 それは独自の民主主義概念の下に展開された 社会変革を目指した教育論であったと言える。 デューイによれば、人間の成長とは環境との相 互作用によって生じる経験を累積し続ける発 展過程であるとされ、その経験を生むための教 育手法として仕事(occupation)と呼ばれる手 作業での創作活動が活用されていた。さらに、 その活動に一人ではなく他者と協同で取り組 むことによって、民主主義を実現するための態 度や思考を育む事ができると考えていたので ある。 デューイの教育論の視座から野外教育の現 代的意義を検討するならば、学校内だけでなく 学校外の世界までをも教育の場として活用し ている野外教育の教育手法、および科学的に測 定することが困難な総体としての人間の成長 の可能性を担保している点を評価することが できる。すなわち、科学的に分別された世界で はなく、一つの総体としての子どもの日常生活 の延長線上で教育を行い、また測定可能な特定 の要素のみを評価するのではなく、総体的な子 どもの成長の可能性を有しているという野外 教育の特徴は、今の時代だからこそ、その意義 が評価できると考えられるのである。 次に挙げられるのは、シャープがキャンプ生 活を民主主義について学ぶ場として提案した ことの意義を改めて評価できるということで ある。例えば、日本ユネスコ国内委員会が推進

している「ESD(Education for Sustainable

Development)」(持続可能な開発のための教育) では、貧困や飢餓、エネルギー、気候変動、平 和社会など地球規模の様々な問題の解決に向 けて、コミュニケーションを行う力や他者と協 力する力、つながりを尊重する態度などを育む べき能力・態度として掲げている65)。また、2002 年にイギリスでナショナル・カリキュラムの必 修科目として導入され、その後各国でも注目さ れているシティズンシップ教育の議論におい ても、文化や国籍、人種、民族などの多様な他 者の存在を受容し、その上で同じ人間として共 生、共存の社会を主体的に作り出すことが取り上 げられている66) このように、今や民主主義は当時のシャープ の想定を超えて世界的な関心事となっており、 これからの社会では今まで以上に世界全体で 異質な他者とも関係を築いていくことが求め られるようになる。つまり、野外教育での諸活 動を通して、デューイが教育目的としていたよ うな自由の相互承認の感度に裏付けられた民 主主義的態度と思考を身につける事ができる のであれば、それは現代における野外教育の社 会的教育的な意義として強く主張できるもの であると考えられるのである。 最後に、デューイの経験概念を発展させたリ ードの主張に依拠すれば、経験の貧困化の進行、 すなわち間接経験が直接経験を凌駕する現代 だからこそ、直接経験の機会を提供できる野外 教育の社会的意義は高まっていると考えるこ とができる。デューイの経験概念、および成長 概念で示されたように、人間の成長過程を経験 の積み重ね、すなわち環境との相互作用を累積 し続ける過程の中に見出そうとするならば、相 互作用の対象となる環境には費えることのな い豊富さが求められる。現代社会では学校、労 働、余暇といったあらゆる生活場面で間接経験 が支配的だからこそ、環境との相互作用に終わ りが来ることの無い直接経験を提供し続けら れる野外教育の場は非常に貴重な存在である と考えられるのである。 ここまで議論してきたように、デューイの教 育論は野外教育の思想的背景の一つという言 わば古典的な原理でありながらも、その教育論 的視座から現在の野外教育を見返すことによ って、むしろ現代的な野外教育の重要性を浮き 彫りにすることができた。野外教育分野におけ る哲学的、原理的研究の不足が指摘されて久し いが、本稿での議論はそのような課題の解決に 向けた一つの取り組みであったと解釈するこ ともできる。しかし、野外教育はデューイだけ を思想的背景とするものではなく、他の哲学者 や教育学者の理論からも多大な影響を受けて いることから、今後はそれらについても精緻に 検討することが必要になるだろう。そのような 作業の積み重ねが、野外教育の意義をより一層 深める事にもつながると考えられるのである。 付記:本研究はJSPS 科研費 20K19603 の助成 を受けたものです。 引用文献 1) 井村仁(2018):日本の野外教育の歴史、日 本野外教育学会編、野外教育研究法、杏林 書院、東京、6. 2) 星野敏男(2018a):野外教育の概念、日本 野外教育学会編、野外教育学研究法、杏林 書院、東京、2. 3) 吉田邦子(1981):野外教育とデューイの思 想、筑波大学体育研究科修士論文. 4) 吉田邦子・長谷川純三(1982):デューイの 教育論的立場から見た野外教育の重要性に ついて、日本体育学会第 33 回大会大会号、 日本体育学会、733. 5) 青山鉄兵(2006):体験活動における「体験」 概念の原理的検討、国立オリンピック記念 青少年総合センター研究紀要、第6 巻、9-20. 6) 星野敏男(2018b):ノンバーバル的側面か

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らの研究、日本野外教育学会編、野外教育 学研究法、杏林書院、東京、224-226. 7) 飯田稔・梅田利兵衛・長谷川純三(1968): J. Dewey の教育思想とアメリカのキャンプ、 体育学研究、日本体育学会、第13 巻第 5 号、 4. 8) 星野敏男(1986):アメリカにおける野外教 育の歴史と展望、レクリエーション研究、 日本レジャー・レクリエーション学会、第 16 号、62-69. 9) 佐藤隆之(2005):都市部における自然学習 論―デューイによる自然学習運動批判を中 心として―、論叢 玉川大学教育学部紀要二 〇〇四、玉川大学教育学部、71-91. 10) 井村仁・橘直隆(1997):野外運動に関す る研究論文データベースの作成と研究動向 の分析、野外教育研究、日本野外教育学会、 第1 巻第 1 号、33-44. 11) 金子和正(2018):これまでの研究法を振 り返る、日本野外教育学会編、野外教育学 研究法、杏林書院、東京、201. 12) デューイ:松野安男訳(1975a):民主主義 と教育(上)、岩波書店、東京. 13) デューイ:松野安男訳(1975b):民主主義 と教育(下)、岩波書店、東京. 14) デューイ:市村尚久訳(1998):学校と社 会・子どもとカリキュラム、講談社、東京. 15) デューイ:市村尚久訳(2004):経験と教 育、講談社、東京. 16) デューイ:河村望訳(2003):経験として の芸術、人間の科学新社、東京. 17) 青少年の野外教育の振興に関する調査研 究協力者会議(1996):青少年の野外教育の 充実について(報告)、文部省、2. 18) 青少年の野外教育の振興に関する調査研 究協力者会議(1996):同上書、2. 19) 魚津郁夫(2006):プラグマティズムの思 想、筑摩書房、東京、16. 20) 佐藤学(1998):公衆と教育―戦後日本の民 主主義とデューイ―、杉浦宏編、日本の戦後 教育とデューイ、世界思想社、東京、182. 21) デューイ:松野訳(1975a):前掲書、142. 22) 梶井一暁(2016):日本におけるデューイ 研究史の特色と課題−どうデューイを批判 的に摂取するか?−、岡山大学大学院教育学 研究科研究集録、岡山大学大学院教育学研 究科、第162 号、20-21. 23) 佐藤学(2012):学校改革の哲学、東京大 学出版会、東京、87. 24) 佐藤(1998):前掲書、190. 25) 大賀祐樹(2015):希望の思想プラグマテ ィズム入門、筑摩書房、東京、112. 26) 宇野重規(2013):民主主義のつくり方、 筑摩書房、東京、54. 27) 苫野一徳(2016):学びの「個別化・協同 化・プロジェクト化」の“融合”、リヒテルズ 直子・苫野一徳、公教育をイチから考えよ う、日本評論社、東京、102-138. 28) 竹田青嗣(2010):人間的自由の条件 ヘ ーゲルとポストモダン思想、講談社、東京、 33-34. 29) 苫野一徳(2019):ほんとうの道徳、トラ ンスビュー、東京、49. 30) デューイ:北田佳子・黒田友紀訳(2019): 学校と社会、デューイ:上野正道訳者代表、 デューイ著作集6 教育1 学校と社会ほか、 東京大学出版会、東京、188. 31) デューイ:市村訳(1998):前掲書、71-72. 32) デューイ:市村訳(2004):前掲書、56. 33) デューイ:河村訳(2003):前掲書、52. 34) デューイ:松野訳(1975a):前掲書、127. 35) 川合康文(1997):子どもの経験を重視し た授業のあり方についての一考察、日本デ ューイ学会紀要、日本デューイ学会、第 38 号、118-123. 36) 神野周太郎(2015):体育学における成長 概念の検討―デューイの教育学を中心とし

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