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ラヴィルマルケとリューゼル(四) -いわゆる「バルザズ・ブレイス論争」について-

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ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

-いわゆる「パルザズ・プレイス論争」 について-Ⅶ 憧懐から離反へ

リユーゼルとルナン 栄 "   =   u 英     俊 覚えていらっしゃるでしょうか。去る寒い冬の一日'国立図書館であなたに﹃聖ノンの生涯﹄BuheSantesNonnの プルーン語の写本を閲覧したいと申し出た人がいたことを。まった-思いもかけないこの申し出に、あなたの目が突然 輝き帯び'血は騒ぎ'神秘的な声(血の声です)があなたにこう告げたのを。「この人はブルトン人だ。兄弟なのだ」 -h e n e s s o e u r B r e i z a r d , -e u r b r e u r 。 そ し て 次 の 瞬 間 に は ' 私 た ち の 手 は ま る で 本 能 に よ る か の よ う に 互 い に 触 れ あ っ た の で す ( 1 ) 。 一八五八年三月二六日、リユーゼルがルナンに書き送った最初の手紙はこんな風に始まる。彼はこの長文の手紙のなか ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 で'自分が長年ブルターニュ文学の研究に携わってお-tかつその復興を目指していること'また母方の叔父がルユエルー であ-、﹃両世界評論﹄ に掲載されたルナンの 「ケルー民族の詩歌」を読んで以来、彼以外にルユエルーの後継者た-得 る人物はいないという確信を抱いていること、等を緩々として綴っていた。発信地はナンー。リユーゼルは同年二月に' この町のリセの復習教師として赴任したばか-だったのである。 おそらくは叔父の死後'初めて理解者を得たという喜びもあったのだろう。この最初の手紙のなかで、リユーゼルはこ の博識の同郷人に、ブルターニュ演劇とノルマンディーの詩との類似をいかに考えるべきか'またスペイン演劇との類似 をどう考えるべきか、あるいはバス・ブルトン語とサンスクリット語をはじめとするオリエンIの諸語との類似は何によ るのか、等々重要な質問を矢継ぎ早に投げかけていた。 もっとも'ルナンが世を去る一八九二年まで三〇年以上にわたって続-この往復書簡において'話題になったのはなに も学問的な事柄のみではなかった。リユーゼルはしばしばこの年少の同郷人に向かって、自分の身の上を吐露することを ためらわなかった。たとえば一八五八年六月五日付の二通日の手紙で、早-も彼は自分の境遇についてこう訴えていた。 「私が就いているのは'あらゆる職業のなかでももっともつまし- 、もっとも幸いものです。私は 「生徒監督」なのです。 私はもう三十六歳です。そして心のなかでこの境遇がいかに不安定でみじめなものであるかを思うとき、深い嫌悪感が私 の 全 身 を 捉 え る の で す ( 2 ) 」 。 リユーゼルはこの不遇の原因をプルーン人の血に求めていた。「われわれプルーン人はこの人生の過酷な戟いには向い ていません。そこでもっとも当た-前に追求される目的は物質的なもの、つま-は富なのですから。(--) そのうえプ ルーン人は村を離れると、都会や文明化された社会のなかではまった-途方に暮れてしまうのです。そこでは民族や親族 の精神はどんどん消え去-、皆はほとんど自分のためにしか働かず'他人を使うのはもっぱら私的な目的のため'いわば

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自分の富の道具としてなのです。われわれは世知なるものにまった-疎いのです。少なくとも私はそうです。そしていま の 私 の 地 位 は そ の 十 分 な 証 明 な の で す ( 3 ) 」 。 ルナンにたいするリユーゼルのあけすけな態度には'疑いもな-互いにプルーン人であるという気安さがあった。しか も﹃ケルー民族の詩歌﹄の著者であるこの人は'誰よ-もプルーン人の何たるかをよく知るはずの人だったのである。リユー ゼルにとって'その胸の内を明かすのにこれほど相応しい相手もいなかった。一万㌧ ルナンもまた郷土の研究に身を捧げ ようとしている同郷人にたいして、「あなたが自分の仕事にもっと多-の時間を割けるポストを得るために私に何かお役 に立てることがあれば'どうぞ使って-ださい(4)」と申し出るなど'最初から助力を惜しまなかった。 しかし'リユーゼルの教師人生はその後も転変を繰-返す。ルナンへの最初の手紙からわずか六ケ月後の一八五八年十 月、彼はナントの生徒監督の地位を捨て、レンヌの県庁の職員になる(5)。もっともこれも長続きはせず、二年後の一八六 〇年には再び教職に戻-、第五学年の教師としてカンペールのコレージュに赴任するがうそのわずか二年後には'今度は 唐突にランデルノーのコレージュへと転任を命じられている。書簡はこう語る。 ある日学校に行-と'﹃公教育報﹄ の最新号に'私が第七および第八学年の教師としてランデルノーに赴任すると書 かれているということを生徒たちから聞きました。私は一笑に付しました。それほどあ-得ないことに思われたからで す。(--)授業の後、校長-小心者でこびへつらう人物ですがIの部屋に呼ばれ'公報にある嬉し-ない知らせを読 まされました。私は説明を求めました。彼は大学区視学のところへ行って-れと言いました。大学区視学はぼそぼそと 幾つかの理由を口にしました。もっとも重大な理由は (--) 私が生徒たちからちょっとした感謝のしるLを受け取っ たからtということでした。(--)他の理由もあ-ました。駐屯地の将校たちのもとを訪れるとか (--)、カフェに ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 行-とか'上司に会っても挨拶しないときがあるとか、教会に行かないとか'写真を撮ったり'詩を書いた-、ブルター ニュ文学に関わっているとかです。(--) 度重なる懇請があ-ましたが'私はランデルノー行きを固辞しました。以 来'辞表を出したわけでもないのに休職状態になってお-、いまは街から離れてプルアレにある私の姉妹たちの家で失 意 の 日 々 を 送 っ て い る の で す ( 6 ) 。 リユーゼルにとって'ディナンのコレージュに次いで二度目となる学校側との-ラブルだった(7)。そしてこの出来事は' 彼が当時の教師のなかでいかに異質な存在であるかを示していた。第二帝政期末期のこの時代'教職とブルターニュ文学 の研究を両立させることは'けっして容易ではなかったのである。「私は教育の仕事を諦めた方がいいのかもしれません。 私にはあま-にも独立心があ-すぎるのです」と'彼は同じ手紙のなかで付け加えていた。 ともあれ'リユーゼルはこうした出来事の一部始終を'律儀にルナンに向けて伝えていた。そしてその姿勢は、のちに 彼らの間で、ラヴイルマルケや﹃パルザズ・プレイス﹄が頻繁に話題に上るようになっても変わらなかった。二人の往復 書簡が'「パルザズ・プレイス論争」 の具体的な様相を詳細に伝える'ほとんど唯一とも言える貴重な記録となったのも そ の た め だ っ た 。 では'そこから窺えるこの論争の真相とは'いかなるものだったのか。 ラヴィルマルケの心酔者 「貴殿の ﹃パルザズ・プレイス﹄は私が生まれてこの方もっとも称賛してきたもののひとつで (--)、ほかのどんな 言語で書かれた本であれ、私にとってこれに勝るものはあ-ません」。 一八六一年四月、ラヴイルマルケから賞賛の手

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紙を受け取ったリユーゼルは'自らの﹃パルザズ・プレイス﹄ への心酔ぶりを著者にこう書き送った。そればかりではな い。この手紙がよほど嬉しかったのだろう。彼はその後はどな- 、次のような言葉で始まる一篇のソネもものしていたの で あ る 。 ムッシュー・エルサール'パルドよ、いまだ拝顔にあずからぬが' しかし私はあなたを愛す'ブルターニュであれフランスであれ、 人が私の前で'なんであれT冊の本を褒めそやすところでは。 たちまち私は'﹃パルザズ・プレイス﹄を読め! と言う(8)。 後年のリユーゼルを知る人には意外なことに'この時代の彼は、紛れもな-ラヴイルマルケとその﹃パルザズ・プレイ ス﹄ の熱烈な賛美者であった。しかもその心酔は、昨日今日始まったものではな- 、すでに何年も前から続く筋金入りの ものだったのである。たとえば'この詩が書かれる八年前、彼がまだディナンのコレージュにいた一八五〇年頃に執筆さ れた'未発表の ﹃パルザズ・プレイス﹄論には次のようにある。 私以上に﹃パルザズ・プレイス﹄を愛し、心酔している者はいない。(--) このド・ラヴイルマルケ氏の書物には ある深刻な批判が向けられてお-'それは文学界ではある種の信用を獲得しているかに思えるが、私がそれについて一 言する機会をもてるのは嬉しいことだ。作者が本物とする歌'そこで歌われる出来事が起こった時とはぼつねに同時代 に作られたとされる歌が、全てとは言わずとも、部分的には作-物だということで'ひとは著者を非難してきた。(・--) ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 しかし'古のブルターニュ文学の研究に長年たずさわ-、と-わけ民衆歌を研究している身としては'こうした非難は 的外れであるとはっき-と主張することができる。だからといって'彼がオリジナルの表現に手を加えた-、フランス 語風になっていた単語を昔のケルト語に戻した-'都合の悪い (とはいえ'めったにないが) 詩句や詩節を直した-し なかったと言っているわけではない。だが'それだけだ。(--) 私は調査に乗-出した。一度ならず'ド・ラヴイル マルケ氏と同じ筋に当ることもあったが、彼がまった-当らなかった筋から汲むことの方が多かった-- 。だから断言 できるのだが、比べてみると﹃パルザズ・プレイス﹄ のテキストが'いかに忠実に復元されているかに驚-のである(9)。 見ての通-'リユーゼルの ﹃パルザズ・プレイス﹄ への称賛は'たんなる愛読者のそれではなかった。それは同じ歌の 収集に携わる収集家としての'いわば「現場」からの発言だったのである。しかも'そうした立場から'彼は当時すでに 疑惑のなかにあったこの書物の真正性を積極的に擁護してもいたのである(2)。この姿勢がいかに強固なものであったかは' た と え ば そ の 人 年 後 の 一 八 五 八 年 十 月 に ﹃ ラ ・ ル ヴ ユ ・ フ ラ ン セ -ズ ﹄ L a R e v u e F r a n c a i s e 誌 上 に 発 表 さ れ た   「 ブ ル タ I ニ ュ の 詩 歌 -グ ウ エ ル ス と ソ ー ン 」 P o e s i e B r e t o n e s , G w e r z I S o n e s を 見 れ ば い い 。 そ こ で 彼 は   「 ノ ミ ノ エ の 租 税 」   や 「 モ ルヴアン・レズ・プレイス」などの作品を称賛しながら'「私は自分自身でも'ときに若干の相違はあったが、ド・ラヴイ ルマルケ氏が出版した歌の大半を集めたのだ(。)」と断言Lt その真正性に太鼓判を押していた。しかも'ここでリユーゼ ルが擁護した 「ノミノエの租税」を始めとする諸作品こそは、のちに彼自身が贋作の代表として指摘することになる作品 にはかならなかったのである。要するに、この時代のリユーゼルは'後年彼が取ることになる立場とは、正反対の場所に いた。ラヴイルマルケの手紙に興奮を抑えきれなかったのも'いわば当然のことだったのである。 ところで、この年彼がラヴイルマルケから受け取っていたのは手紙ばか-ではなかった。そこにはいまひとつの贈り物

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が あ っ た 。 そ れ は 、 ラ ヴ イ ル マ ル ケ が 主 宰 す る 「 ブ ル タ ー ニ ュ 協 会 」 B r e u r i e z -B r e i z な る 団 体 の 免 状 で あ っ た 。 免 状 の 文 面には'すべてブルトン語で'こう書かれていた。 余 は ' 「 ブ ル タ ー l = 協 会 」   の   「 指 導 者 」 ' 「 言 語 」   の   「 大 教 師 」 ' 「 レ ジ ョ ン ・ ド ヌ ー ル 勲 章 騎 士 章 」   の 受 勲 者 等 と し て、以下の文を読む者に'健康と幸福と'なかんず-不純な「プルーン語」 にたいする激烈なる嫌悪のあらんことを願 、 つ ○ 信頼に足る数多の人々が'○○(氏) は'達意にしてtかつフランス語を一語も含まぬ見事なプルーン語で'一語一 語自らの考えを伝え得る'卓越した演説家であることを余に保証したので、余はこの者を○○と命名したくtかつ当文 書をもってか-命名することとLt よって街の広場であろうが、田舎道であろうが'この者の歩むところではどこであ れ、その前に身を屈めるよう皆に命ずるものである。なお'何者かが無知ゆえにこの行為を怠ることのなきよう'この 文書がただちにブルターニュ全土において'その役目を負う者の手によって公にされんことを希望する。 〇年〇月〇日'カンベルレの館にて記す。 会 長   ケ ル マ ル ケ ル ( ほ ) ラヴイルマルケは少な-とも一八五〇年代の後半から'同様の免状を'自らの命名になるパルドの称号を添えて、これ はと思うブル-ン語の書き手に送っていた。ちなみに、リユーゼルが受け取った称号は「ーレゴール地方のパルド」Barz Tregerであった。もっとも、免状のもったいぶった調子とは裏腹に、それが入会を保証する肝心の「ブルターl三協会」 ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 の方は、なんら実体のある組織ではなかった。それゆえ'せっか-の免状もただラヴイルマルケから与えられたお墨付き を意味するだけで'それ以上の価値をもつことはなかった。しかも'一読すれば分かるように'そこに書かれている内容 は明らかに生真面目に解釈すべき性質のものではなかったのである。 しかし'ラヴイルマルケの心酔者であったリユーゼルは'それをひたすら真面目に受け取った。彼は恐縮してこう礼状 を認める。「こうしたご高配をどんなに私が有-難-思っているかは筆舌に尽-し難いものがあ-ます。どうぞ私の感謝 の気持ちをお受け取-いただければと思います。ただひとつ気がか-なことがあるとすれば'それは私がこのような称号 に値するようなことをしたのか、また今後それに相応しいことができるのかということであ-ます(ほ)」。 ところが'リユーゼルへの免状の授与は、これ一度に止まらなかった。二年後、彼は再び同様の免状を受け取る。ちょ うど詩集﹃つねにブルトン人﹄BepredBreizadを上梓したばかりの頃であった。その免状を届けて-れた友人のルスクー ル L e S c o u r に ' 彼 は こ う 書 い て い る 。 すでに四年前'私は 「-レゴール地方のパルド」という称号で'ラヴイルマルケ氏から「パルドの免状」をいただい ています。あなたがもっていらした免状をいただけば'重複することになるのではないでしょうか。「ブルトン語の大 教 師 に し て 添 削 者 」 A r c ' h k e l e n n e r r e i z e r w a r a r b r e z o u n e k と い う 称 号 は ど う い う 意 味 で す か 。 本 音 を 言 え ば ' た だ 「トレゴール地方のパルド」と呼ばれていた方がまだましだったのですが。(--) こんなつまらない称号を真に受けて いたら'そのうち皆に噸笑されるのではないかと少々心配です(2)。 ここには二年前にラヴイルマルケの前でひたすら恐縮していた人物の姿はない。彼の姿勢は'この二年間で明らかに変

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化していたのである。では'その変化の原因は何だったのか。わずか二年の間に、彼のうちでいったい何が起こったのだ ろ う か 。 「聖トリフィーヌ事件」 リユーゼルの変化の直接のきっかけとなったのはう彼が所有する一冊の写本をめぐって、ラヴイルマルケとの間に起こっ たひとつの事件であった。その経緯はリユーゼルがルナンに宛てた一八六三年十一月六日付の書簡で'詳細に伝えられて いる。以下'多少長-なるのを承知の上で、その一部を引いてみよう。 私の友人でカンベルレに住む医者の先生が、ある日カンペールの私の家にやって来て、私の古い写本に目を留め'そ れをアンリ神父に見せるから貸して-れと一亭っのです (彼はとても喜ぶだろう、と言うのです)。私は快-承諾し、彼 は   ﹃ 聖 ー リ フ ィ ー ヌ ﹄   の 写 本 ( u n m a n u s c r i t )   を も っ て い き ま す 。 数 日 後 ' ラ ヴ ィ ル マ ル ケ 氏 が ア ン リ 神 父 の 家 に 赴 き ます。たぶんご存じではないと思いますが、プルーン語に関しては、ラヴイルマルケ氏はアンリ神父(彼はまさに謙虚 そのものといった人ですが) なしには何もできないのです。オリジナルと異なるものになっていた ﹃パルザズ・プレイ ス﹄ のテキストを復元したのも彼ですし、翻訳もほとんど彼がやっています。パルド (貴殿のアカデミーの同僚がフィ ニステール県で呼ばれている名前に従えばですが) の監視の下、彼の代-に、です。 こうして、ラヴィルマルケ氏はアンリ神父の家に赴きます。私の古いプルーン語の写本を眺め、ばらばらとめ--、 我を忘れ'感きわまってそれを持ち去-ます。それなのに友人の医者は、私にこう書いて-るのです。アンリ神父はラ ヴイルマルケ氏のために写本を筆写するのに忙し- 、またラヴイルマルケ氏は私のことなどおかまいなしに'このブル ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 タ-ニユの聖史劇を翻訳・出版するつも-でいる、と。これを知った私は抗議し、何度も手紙を書いて写本を取-戻そ うとしました。しかし'それも無駄です。この人食い鬼は獲物を手離そうとはしませんでした。ならば彼の家に執達吏 を送るぞt と私はその医者の友人に言いました。友人は友人で'かわいそうな神父をどやしつけ'彼の前で執達吏や帝 国検事の名前を引き合いに出し'信用の濫用の答で訴えられるぞと言います。人の善い神父は身震いします。そして、 彼にたいして不誠実な行いをしようとしていたラヴイルマルケ氏の命令に背いて'私の写本を自ら取った写しとともに 私のところに送-返してきます。すぐに印刷が始ま-ます。しかし怒-心頭の大パルド様は'憤怒に駆られてわれわれ を脅迫するのです。彼は今後自分の許可な-われわれがプルーン語で出版するものをすべて乾してやると言い'加えて われわれが出版するよ-も先に'別のや-方で ﹃聖ーリフィーヌ﹄を出版するつも-だと宣言します。けれども'いか なる算段をしたところで、写本を手に入れることはできません。彼は自分の脅しを引っ込めなければならな-な-ます。 というわけで'われわれはこの怒-狂った鬼のために過酷な労働を強いられました。私はブルトン語のテキストを書き 写し、それをフランス語に訳し、序文を書きました。原稿は出来上がった端から印刷され、ほとんど校正刷-にも目を 通すこともできませんでした。ブルトン語はアンリ神父が手直しして-れました(S)。 見ての通-'ラヴイルマルケとの争いの原因となったのは、﹃聖ーリフィーヌとアーサー王﹄ の写本であった。リユー ゼルは当時'この演劇の校訂本を作成しょうとしてお-'そのために七冊の写本を手に入れていたのである。なかでももっ とも貴重だったのは、生まれ故郷プルアレのパン職人ジャン・ルメナジエJeanLeM針 が筆写した写本であった。民 衆劇の俳優でもあったこの人は'ブルターニュの聖史劇の写本を多数所有してお-、リユーゼルはその幾つかを彼の息子 を通じて手に入れていたのである。この書簡で単数形で語られている 「写本」も'おそら-はこのルメナジエの手になる

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ものに相違なかった。そして'文面から判断する限-'どうやらリユーゼルとラヴイルマルケはこの貴重な写本をめぐっ て主導権争いを繰り広げたらしい。もっとも'そこで具体的に何が起きたのかを知ることは'さほど重要ではない。重要 なのはむしろ、この出来事をきっかけにして'リユーゼルの意識にどのような変化が生じたのかという'そのことの方で あ る 。 さて'それまでのリユーゼルにとって、ラヴイルマルケとはいかなる人物だったか。いうまでもな-、長年の称賛の対 象である﹃パルザズ・プレイス﹄の著者であ-、ブルターニュ文学研究の信頼すべき庇護者であった。しかしこの事件は、 リユーゼルに'それが彼の思い込みである可能性を示唆する。つま-、彼はここで初めて'ラヴイルマルケを自分と同じ 土俵上の競争者として意識するのである。しかも、彼と比べて社会的な信頼もはるかに厚く名声においても比較になら ぬほど大きな競争者として。この事実は、それまでラヴイルマルケに依存する部分が大きかったリユーゼルには、容易に は受け入れ難いものであったに相違ない。少な-とも、この書簡はその動揺を素直に伝えている。以後しばらく'ラヴイ ルマルケは彼にとって、庇護者であ-競争者であるという不安定な位置にあり続けることだろう。 一方、この書簡でいまひとつ注目しなければならないのは、アンリ神父への言及である。既に触れたように、このカン ベルレの救済院の司祭は'二十年来ラヴイルマルケのプルーン語純化運動の重要な協力者であった(2)。その彼について' リユーゼルはここで'ことブルトン語に関して'ラヴイルマルケは彼なしには何もできず'﹃パルザズ・プレイス﹄のプ ルーン語テキスIや翻訳の大半も彼の手になるものだ、と断言していたのである。 それにしても'彼は何を根拠にこのようなことを言っていたのか。アンリ神父から直接聞いたのか。あるいは、当時彼 の周囲でそのような噂があったのか。いや、そもそもそれ以前に、彼はなぜアンリ神父の協力を必要としなければならな かったのか(」)。疑問は尽きないが'いずれにせよ写本をめぐるラヴイルマルケとの確執は'リユーゼルに彼の仕事にたい ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 する根本的な疑念を抱かせることになるのである。以前はあれほど評価していたその仕事に、である。 ともあれ'ラヴィルマルケの 「脅し」は'リユーゼルの仕事を加速させた。﹃聖上リフィーヌ﹄ の校訂本は'先に引い た手紙が書かれたのと同年の一八六三年に出版される。リユーゼルの少年時代に、故郷プルアレの隣村ヴュー・マルシェ でこの劇が上演されてから、実に三十一年目のことであった。冒頭には、ブルターニュ演劇を詳細に論じた、彼自身の手 に な る 四 十 四 ペ ー ジ の   「 序 文 」 i n t r o d u c t i o n が 付 け ら れ た ( e ) . 加 え て 言 え ば 、 同 じ 時 期 に 、 リ ユ ー ゼ ル は も う 一 冊 の 本 の 出 版 に も 携 わ っ て い た 。 ﹃ イ ギ リ ス 憲 法 の 歴 史 ﹄ U H i s t o i r e d e l a C o n s t i t u t i o n a n g l a i s e と 題 さ れ た そ の 書 物 は 、 亡 き 叔 父 ル ユエルーの遺稿集であった。つま-'リユーゼルはこの年'彼にとっていわば積年の課題でもあった二つの仕事に、曲り なりにも形を与えたのである。 ところで、この ﹃聖ーリフィーヌ﹄ の出版はまた'彼に願ってもない恩恵をもたらすことにもなった。というのも'こ の出版をきっかけとして'公教育相からプルーン語による「聖史劇」 の写本と印刷本の調査のための助成金が支給される ことになったからである(2)。収集旅行は一八六四年と六五年の二度に渡って行われ'その足跡は故郷の-レゴール地方は もちろん、レオン'モルビアン'フィニステールの各地方にも及んだ。のちに彼自身が「幸福な時(S)」と呼ぶことになる この旅行がいかに実-多いものであったかは'弟子のアナトール・ルブラ-スによって死後に公にされた ﹃旅日記﹄ J o u r n a l d e r o u t e ( s ) が 愉 悦 的 な 調 子 で 伝 え て い る 。 ﹃ 聖 ー リ フ ィ ー ヌ ﹄ の 校 訂 本 が も た ら し た も の は 、 ラ ヴ イ ル マ ル ケ と の 確執という不快な思い出ばか-ではなかったのである。 離 反 へ いずれにせよ、この事件はこの二人の関係に決定的な転機をもたらした。以後、リユーゼルはラヴイルマルケへの警戒

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心を隠そうとはしな-なる。現に'公教育相からの助成金の獲得を伝えた一八六四年一月のルナン宛ての書簡では、「こ の件に関しては、ラヴイルマルケ氏の世話にならずに済んだので、と-わけ気分がいいのです(S)」と言われ、同年九月の 日付をもつ同じルナン宛ての書簡でも、調査結果の価値を判断するために組織されるはずの「委員会」が話題にされ'こ う書かれていた。 ド・ラヴイルマルケ氏はこの分野でもっとも能力のある者として、間違いな-この委員会に加わるでしょう(もし貴 殿がメンバーになるなら話は別ですが)。さて、私は﹃聖-リフィーヌ﹄の事件以来'大パルド様の厚遇を期待するわ けにはいかない理由があ-ます。そもそもこの人は私が彼の助けを求めず'その栄光の傘下に入らないのを許さないの です。そればか-ではあ-ません。随分前に'この人は新聞や雑誌を使って'自分が「ブルターニュ演劇」に関する 「大仕事」に専念していると報道させていましたが、私が確かな筋から掴んでいるところでは'この人はこの研究を企 てるために必要な資料や素養をもってお-ませんLt加えてこれまでブルターニュの古い聖史劇の幾つかの写本を手に 入れようとして'いまだに果たせていないのです。というわけで、私が懸念しているのは、彼が真っ先に私の研究の成 果を利用して'予告した「大仕事」を成し遂げてしまうのではないかということなのです(鷲 リユーゼルにとってラヴイルマルケは、いまやその仕事の進捗情況や資料の多寡が気になる競争者であった。もっとも、 彼がいかにその影響の及ばぬところで仕事をしたいと望んだところで'ブルターニュ文学の研究に関わる限り、それは不 可能に近かった。というよりも'そもそもこの当時のリユーゼルは'ラヴイルマルケと完全に裸を分かつことなど望んで はいなかったのである。 ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 そ の 証 拠 に 、 翌 一 八 六 五 年 に 彼 が 刊 行 し た 仏 語 対 訳 付 の ブ ル ト ン 語 詩 集 ﹃ つ ね に プ ル ー ン 人 ﹄ B e p r e d B r e i z a d -T o u j o u r s B r e t o n を 紐 解 こ う 。 そ の な か の 一 篇 「 刈 -入 れ 人 の 朝 の 祈 -」 P e d e n a r M e d e r r i e n , e u z a r m i n t i n は ' 冒 頭 に 「 バ ス ・ ブ ル タ ー ニ ュ の パ ル ド 、 テ オ ド ー ル ・ ケ ル マ ル ケ ル 氏 に ( A ) 」 D a V a r z B r e i z -I z e l L a n A o t r o T h . K e r m a r k e r と い う 献 辞 が 掲 げられ'ラヴイルマルケに捧げられていた。しかも'その結びの詩句には'「私はつねにプルーン人なのだ」 (Miezo b e p r e d B r e i z a d ! ) ( " 」 と あ り 、 詩 集 の タ イ ー ル ま で が 含 ま れ て い た 。 つ ま り リ ユ ー ゼ ル は ' こ の 詩 集 全 体 の な か で 疑 い も なくもっとも重要な一篇を、ラヴイルマルケに捧げていたのである。のみならず'この詩集を彼に献本するにあたって、 リユーゼルはそこに手紙を添え、こう記してもいた。「私のブルトン語の詩集が貴殿の惜しみない称賛を得られれば幸甚 に 存 じ ま す 。 貴 殿 か ら の 評 価 を 、 首 を 長 -し て 待 っ て お -ま す ( S ) 」 。 むろん'リユーゼルは 「聖ーリフィーヌ事件」を忘れたわけではなかったろう。にもかかわらず、彼はその詩集の出版 にあたってラヴイルマルケに特別な敬意を払ったのである。論敵から「カメレオン」と呼ばれた'彼の優柔不断な態度の 一端をそこに見るべきだろうか(」)。あるいは、ラヴイルマルケとの関係を修復しょうという隠された意図でもあったのだ ろうか。いずれにせよ'この詩集がラヴイルマルケを意識して編まれたものであることは、冒頭に彼が称賛した詩篇「バ ス ・ ブ ル タ ー ニ ュ 」 B r e i z -I z e l l が 置 か れ て い た こ と か ら も 明 ら か で あ っ た 。 しかし'こうした気遣いにもかかわらず、皮肉なことに、この詩集は二人の溝をさらに深める原因となってしまう。理 由は、なによりもまずラヴィルマルケの態度にあった。リユーゼルは一八六五年二月五日付のルスクール宛の手紙でこう 書いている。「私は方々から私の本について幾つかの手紙を受け取-ました。すべてが称賛の手紙でした。中に一通だけ そ の 冷 た さ と 控 え め さ で 際 立 っ て い る も の が あ -ま し た 。 そ れ が 大 パ ル ド 様 ' 「 会 長 」 P e n n -S t u r i e r の も の で あ る こ と は ' わざわざ言わなくてもお分か-でしょう。彼は 「ご親切に書籍を送っていただき」と感謝してほお-ましたが、称賛の言

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葉 は ひ と 言 も あ -ま せ ん で し た ( R ) 」 。 おそらくこの態度が直接の引き金となったのだろう。以後'リユーゼルの「大パルド様」にたいする姿勢は、急速に 硬化してい-。五カ月後'彼はルナンにこう語る。 私のささやかな書物は大方好意的に迎えられてお-ます。ただしブルターニュ文学の偉大なるラマ、彼が自称すると こ ろ に 従 え ば 「 会 長 」 p e n n -s t u r i e r は 、 そ れ に た い し て 尊 大 な 軽 蔑 を 守 っ て お -ま す し 、 そ の 存 在 す ら 関 知 し な い と い ぅ様なのです(S)。  たぶん彼は誰かがプルーン語で発表するときには、必ず自分の庇護を受け'自分の「ビザ」 をもっていてはしいのでしょう。一方、私の方は無理や-押し付けられる庇護など受けた-もありません。自分ができ ることをやるつもりですが'彼の手など借-ずにいたいのです。私は﹃聖-リフィーヌ﹄の出版のときの私にたいする 彼のやり口を忘れることができません。そのとき彼はこんな御大そうな文句を口にしたのです。「私の世話になりたく ないだって? そうか、それじゃあいつがこれから出すものは、全部乾してやる!」あの人は近々、帝国図書館で掘-出した古い印刷本による﹃受難劇﹄を出版するはずです。冬の間、ずっとカンベルレで過ごして、アンリ神父にそれを 翻訳させていました。というのも'自分ではできないからです(鷲 リユーゼルの不信感は募る一方だった。が'それにしても、ラヴイルマルケは本当にこの手紙に書かれているような言 葉を口にしたのだろうか。文面から判断する限-'リユーゼル自身、それを伝聞で知ったらしい。いずれにせよ、彼はラ ヴイルマルケが実際にその言葉を口にしたと信じた。しかも、この人間的な信頼の失墜の背景には、また学問的な信頼の 失墜が伴ってもいた。ラヴイルマルケのプルーン語能力の貧弱さは、もはや疑うべ-もない事実だったのである。そして' ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 そうである以上'その代表作である﹃パルザズ・プレイス﹄ の真偽性が問題になるのは'もはや時間の問題と言ってもよ か っ た 。 ﹃ イ エ ス の 大 受 難 劇 ﹄ リユーゼルが先の手紙で出版を予告したラヴイルマルケの ﹃受難劇﹄は、その手紙が書かれたのと同じ一八六五年に、 ﹃ イ エ ス の 大 受 難 劇 ﹄ L e G r a n d M y s t e r e d e J e s u s と い う タ イ ト ル で 世 に 出 る 。 「 序 文 」 p r e f a c e の 冒 頭 で ' 著 者 は こ う 述 べ る。「この書物は私のケルト民族の詩歌に関する研究を補完するものである。﹃パルザズ・プレイス﹄ (ブルトン語の民衆 敬)と﹃ブルターニュのパルドたち﹄ で'私は田舎風の詩と彫啄された詩という二つの形式で'彼らの詩的天才を概観し ようとした。﹃円卓物語﹄と﹃古代ブリーン人の民話﹄および ﹃ミイルディンあるいは魔術師メルラン﹄ では'彼らの物 語における才能を評価しょうとした。﹃ケルー伝承﹄ や﹃修道院の詩歌﹄ では、彼らの宗教叙事詩の業績を素描した。こ こではようや-私は彼らの劇作品を扱うのである(;)」。 ブルターニュ演劇の研究は'ラヴイルマルケにとって必ずしも重要な意味をもつ仕事ではな-'いわば落穂拾いにすぎ な か っ た 。 で は ' な ぜ そ れ は 彼 の 関 心 を 惹 き 得 な か っ た の か 。 「 序 文 」   に 続 -「 ケ ル ト 民 族 に お け る 演 劇 」 L e t h e a t r e c h e z l e s n a t i o n s c e l t i q u e s と 題 さ れ た 長 文 の 解 説 の な か で ( 鷲 ラ ヴ ィ ル マ ル ケ は こ う 書 い て い る 。 ブルターニュ地方のパルドたちは'死後に彼らの才能の記念碑以上に、よ-多-信仰のそれを残すことを望んだ。し かしながら'この信仰が輝き、十四世紀のカーリックとブルターニュの魂が比類な-うち震えるナショナルな霊感の琴 線がもしあるとすれば、それはこの時代の演劇なのである。(--) しかし十七世紀になると、それは王室の威光の下

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で色槌せてしまい'司教や騎士を軽蔑する末商たちの手によって幾多の野蛮な陳腐さにまみれ'それを若返らせるとい う目的で採用した手本を下手糞に模倣する、安手なガラス細工と成果ててしまったのである。 十八世紀の街の場末で'職人の間で流行Lt高等法院が取-締まる必要もなかったような、現在の哀れなまがいもの に至っては'ほとんど論評にも値しない(禦。 見ての通-、ラヴイルマルケがブルターニュ演劇に無関心であったのは'それがひとえに彼の関心を惹くに足る魅力を もたなかったからであった。彼にとって'その最盛期はすでに何世紀も前に過ぎ去ってしまっていたのであり、いま残っ ているのはいわば残骸にすぎなかったのである。では'にもかかわらず、なぜ彼はその研究に手を染めたのか。それは疑 いもな- 'リユーゼルの仕事にたいする対抗心からであった。もちろん、そこには'自分がブルターニュにおけるケルト 学の第一人者であるという自負もあったかもしれない。しかし、ここでそれ以上に大きかったのは'いわば二人を隔てる 価値観の相違であった。ラヴイルマルケが自ら受難劇を世に間わざるを得な-なったのは、なによりもそのためだったの で あ る 。 このことをはっきりと示すのは'両者の書物の冒頭に置かれた長文の論考-リユーゼルの場合は「序文」'ラヴイルマ ルケの場合は「ケルー民族における演劇」Iである。一読して明らかなように、ラヴイルマルケがとりわけ力を入れて 論じたのは'自らが選択したテキスIの年代確定の問題であった。彼は種々の歴史的事実を参照しながら、その成立時期 を二二六五年頃であると推定し(S)'こう語っていた。「今日の歴史学の現状では、形式や文体が古いもの'牛皮紙に書か れた古い写本やゴシック体の活字で印刷物として残ったもの、あるいはまった-もって粗野で、飾らず、天真欄漫で、伝 統的でtかつ簡素なもののみが'真に尊重と関心に値するものなのである(g)」。 ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 一見客観的なこの記述は'しかし実際には直接リユーゼルの校訂本を狙っていた。というのも'著者はそこに脚注を付 けて、こう書いていたからである。「私は尊敬すべき教師リユーゼルが'現代プルーン語研究に深い学識をもつアンリ神 父の協力を得て最近出版した、﹃聖ーリフィーヌとアーサー王の聖史劇﹄ については例外としたい。残念ながら'彼らが 公にしたテキストは十八世紀以前には遡らないが(A)」。 見ての通-'著者のリユーゼルにたいする称賛には留保が付いていた。しかも、その留保は明らかに不当なものであっ た。というのも、ラヴイルマルケが「十八世紀以前には遡らない」とした﹃聖上リフィーヌ﹄ のテキストは、リユーゼル 自身が「序文」 のなかで述べていたように'実際にはその起源を辿ることなど不可能なものだったからである(」)。それゆ えこの発言は'その成立が十四世紀まで遡る自らの書物の価値を強調しながら、逆にリユーゼルの仕事を定めようとする ものだと思われても仕方がなかった。しかもこの批判は'リユーゼルの側から見れば明らかに的を外していた。というの も、彼にとって'テキストの選択基準は古きにはなかったからである。彼は 「序文」 にこう書いている。 われわれがブルターニュの聖史劇の典型として聖上リフィーヌを選んだのは、この作品がわれわれの所有する他の写 本に比べて'文学的に価値があるとか、歴史的観点から見て重要だと考えたからではない。そうではなく、それが ﹃エ モ ン の 四 人 の 息 子 ﹄ Q u a t r e f i t s d ' A y m o n と 同 様 、 ブ ル タ ー ニ ュ 演 劇 の 他 の ど の 作 品 よ -も 、 ド ム ノ ネ で よ -知 ら れ 、 よ -上 演 さ れ る 作 品 だ か ら で あ る v c o J 。 つま-、リユーゼルがこの校訂本で残そうとしたのは'民衆文化としてのブルターニュ演劇のありのままの姿だったの である。むろん彼は演劇がブルターニュ文学を代表するほど優れたジャンルでないことや、その内容がケルーの古代を反

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映したものでないことは'十分に承知していた。しかし彼にとってブルターニュ演劇の魅力は'テキス-の古さや'まし てやそれが伝える宗教的・民族的栄光のうちにではな- 、その民衆的な性質そのもののうちにあった。その証拠に'リユー ゼルが「序文」で強調したのは、その上演がいかに祝祭的で、民衆がいかに協力的であったかということであり'文中で 長々と引用してみせたのも、劇中の主要な台詞ではな- 、役者が民衆に直接語-かける「前口上」や「納め口上」の方だっ たのである。いうなれば'ラヴイルマルケにとっての「哀れなまがいもの」こそが'リユーゼルにとってこの上もなく貴 重なものだったのである。要するに'ブルターニュ演劇という同一の対象のなかにこの二人が見ていたものは'いわば正 反対のものだったのである。 いずれにせよ、ブルターニュの民衆劇をめぐる対立は'リユーゼルのラヴイルマルケにたいする反感をいやがうえにも 掻き立てた。なによ-も、その後の彼の行動が、それを雄弁に語っている。 「 ブ ル タ ー ニ ュ 協 会 」 一八六六年八月六日、リユーゼルはルナンに「ひとつ助言をお願いしてよろしいでしょうか」と尋ねてから、こう切り 出 す 。 十 五 年 、 あ る い は そ れ 以 上 前 か ら ( た ぶ ん ご 存 知 な い と 思 い ま す が ) t B r e u r i e z -B r e i z と い う 名 の 「 ブ ル タ ー ニ ュ 委 員会」ないしは「ブルターニュ協会」とでも呼ぶべき組織があ-ます。ブルターニュ研究を後押しし、行方の知れぬ古 のブルターニュ文学の作品を調査かつ証明し、今日かってないほどの危機にあるかに見えるこの言語を能うる限り滅亡 か ら 救 う た め に 創 設 さ れ た 「 ら し い 」 の で す 。 ド ・ ラ ヴ イ ル マ ル ケ 氏 が p e n n -s t u r i e r 、 す な わ ち 「 会 長 」 あ る い は 「 長 」 ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 なる肩書きで'自称ナショナルなこの協会の責任者を務めています。メンバーはあちこちに散らばっていますが、互い に知らないか'あるいは知っているとしても名前だけです。大半の会員にとって、「会長」自身がまさに神話なのです。 なにしろこの人は'擁護という使命のために会員が獲得するはずの利益について話し合うべ-会員を招集したことなど 一度としてな-'まるで彼らの中にいるのが恥ずかしいと言わんばか-なのです。彼が免状とともに贈ったパルドの称 号を真に受け'われらが田舎の言語を純化し、日に日に消えて行-古の詩歌や口頭伝承を蘇らせんと多少なりとも努力 をした人々のために'彼がしたことは何ひとつあ-ません。それどころか、この人はこうした貴重な試みを嫉視してい るのではないか'自分以外の人間がブルトン語やブルターニュ文学について大いに話し書-権利を認めていないのでは な い か t   と さ え 思 い た く な る ほ ど な の で す ( A ) 。 リユーゼルが言うように'それまで 「ブルターニュ協会」 の会員が集まったことは、わずかに一度しかなかった。しか も、そこには会長であるラヴイルマルケの姿はなかった。つま-'すでに言ったように'そもそもこの会はなんら実体の ない会だったのであ-、その唯一の仕事と言えば'会長が適当な会員を見つ-ろって免状を渡すことだけだったのであ る ( S ) 。 しかし、だからと言って'この会に存在意義がまった-なかったわけではない。それどころか'﹃パルザズ・プレイス﹄ がブルターニュ文学に与えた影響を考えれば、その著者を長とする組織の存在は、それだけで少なからぬ意味をもつもの であった。実際'この時代のプルーン語による出版物の興隆には目覚ましいものがあった。しかも、その中心にいたのは、 ほかならぬ 「ブルターニュ協会」 の会員たちだったのである。プルーン語で書かれたものといえば'宗教関係の書物を除 けば歌の刷-物しかなかった﹃パルザズ・プレイス﹄以前の時代と比べれば、それは文字通-雲泥の差だったのである。

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そして'リユーゼルが「ブルターニュ協会」 に実質的な役割を期待するようになった理由もtもとはと言えば'ブルター ニュにおけるこうした文学活動の高ま-が背景にあったからであった。手紙はこう続いていた。 こうしたなかで'「ブルターニュ協会」 の会員の幾人かは'考えを同じ-する他の数人とともに'このいい加減で' ほとんど滑稽とも言うべき状況を打開すべ- '「会長」 に真撃かつ積極的に会のことを考えてもらうべきではないか、 さもなければ辞めてもらおう、ということになったわけです。したがって'目下の問題は'会の改組であ-'また新た な会長の選任です。ラヴイルマルケに会長職を退いてもらうという点に関しては'皆-あるいはほとんど皆Iの意見は 一致しているのですがt では代-に誰がなるのかということになると、いまだに意見の一致が見られません(a)。 つま-、リユーゼルたちが企てたのは'現会長ラヴイルマルケの更迭だったのである。新たな会長の候補者としては、 ルゴニーデックの高弟トルードなど三人の名前が挙がっていたが'なかでも有力視されていたのは'ブルトン語の普及に 深い理解のあったサン・ブリゥIの司教であった。もちろん、司教を会長にすれば'聖職者ばか-が優遇されることにな るのではという懸念はあった。が、「度量の広い人物である」というルナンのお墨付きにも後押しされ'改革派のメンバー たちは本格的に彼との交渉に乗-出そうとしていた。 しかしこの計画は'結局、司教との接触すら得られぬまま、ほどな-頓挫してしまう(g)。リユーゼルは言う。「私や友 人たちは、ラヴィルマルケの息がバス・ブルターニュ地方の修道院すべてにかか-、その善意を曇らせているのだと思っ ています(3)」。結局、彼らは 「ブルターニュ協会」 の改革を諦め'その代わ-に宗教的な要素を排した'まった-新しい 会を立ち上げることを考える。翌一八六七年二月'リユーゼルはルナンにこう書き送る。 ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 昨夏お話しいたしましたブルターニュ協会を作るという件は (例によって聖職者の悪意のために)成功しませんでし たが'いま類似のものを立ち上げようと頑張っています。目的はもっぱらナショナルなものであり'また学問的なもの です。どこからも拘束を受けませんし、メンバーのなかには聖職者もいません。(--) つま-それは、古い辞書や古 い詩や未発表の「聖史劇」や文法書といったような'われわれの古いプルーン語に関わる'興味深-、有用かつ貴重な 資 料 の 出 版 の た め の 組 織 な の で す ( S ) 。 手 紙 は 続 け て 、 こ の 組 織 に よ っ て 近 々 出 版 が 予 定 さ れ て い る 書 物 と し て ' ﹃ カ ト リ コ ン ﹄ C a t h o l i c o n を 挙 げ て い た 。 こ の﹃カーリコン﹄とは、ブルターニュの聖職者たちにラテン語とフランス語を習得させることを目的として、一四九九年 にジャン・ラガドゥツクJehanLagadeucによって出版されたプルーン語・ラテン語・フランス語辞典であった。新たな 版 の 校 訂 の 任 を 負 っ た の は ' フ ィ ニ ス テ ー ル 県 の 古 文 書 保 管 人 ル ネ ・ フ ラ ン ソ ワ ・ ル メ ン R e n e -F r a n c o i s L e M e n 。 そ し て、一八六七年に出版されるこの新しい ﹃カーリコン﹄ こそ、「パルザズ・プレイス論争」 において、ラヴイルマルケに 投げつけられた最初の'そしておそら-はもっとも衝撃的な爆弾だったのである。 ( つ づ -) 東      3 3 2 1 1 :i iE^m: ・王 ニ 〓 口 C o r r e s p o n d a n c e L u z e 1 -R e n a n , P r e s s e s U n i v e r s i t a i r e s d e R e n n e s / T e r r e d e B r u m e , p . 4 1 . I b i d . , p . 5 0 . I b i d . , p p . 5 0 -5 1 .

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( -* )   I b i d . , p . 4 9 . ( ^ )   F r a n c h i s e M o r v a n , F r a n c g i s -M a r i e L u z e l , E n q u e t e s u r u n e e x p e r i e n c e d e c o l l e c t a g e f o l k l o r i q u e e n B r e t a g n e a u X I X e s i e c l e , T e r r e d e B r u m e -P r e s s e s U n i v e r s i t a i r e s d e R e n n e s , 1 9 9 9 , p p . 1 1 3 -1 1 4 . そ こ で の 同 僚 の ひ と り は 、 後 に ポ ー ル ・ セ ビ ヨ P a u l S e b i l l o t と 並 ん で オ ー ー ・ ブ ル タ ー ニ ュ 地 方 の 代 表 的 な 民 俗 学 者 と な る ア ド ル フ ・ オ ラ ン A d o -p h e O r a i n で あ っ た 。 ( ^ -)   C o r r e s p o n d a n c e L u z e 1 -R e n a n , p p . 6 3 -6 4 . ( 7 )   こ こ で ひ と つ 訂 正 し て お き た い 。 前 回 の   「 ラ ヴ イ ル マ ル ケ と リ ユ ー ゼ ル   ( ≡ ) 」   ( 鹿 児 島 大 学 法 文 学 部 紀 要 ﹃ 人 文 学 科 論 集 ﹄ 第 6 0 号、二〇〇四年、四六-四七頁) において、筆者はリユーゼルの職歴について、「最初に教職に就いたのは一八四八年、二十七歳の ときだった。(--)最初に彼が赴任したディナンのコレージュは」と書いたが'彼が最初に教職に就いたのは、正しくは「一八四 七 年 、 二 十 六 歳 の と き ' ロ リ ア ン の コ レ ー ジ ュ 」 で あ る 。 身 分 は 「 生 徒 監 督 」 で あ っ た 。 こ の こ と は 、 F . M o r v a n , o p . c i t . , p . 7 5 で も 確認されている。 ■ ( -)   F . G o u r v i l , T h e o d o r e -C l a u d e -H e n r i H e r s a r t d e l a V i l l e m a r q u e e t l e ォ B a r z a z -B r e i z サ : > O b e r t h u r , 1 9 6 0 , p . 1 5 0 . 0 )   I b i d . , p p . 1 4 8 -1 4 9 . ( 2 )   F . M o r v a n , o p . c i t . y p . 8 4 . 彼 は ま た ボ ン ト ワ -ズ で は 収 集 の で き ぬ 状 態 に あ っ た と き ' ﹃ パ ル ザ ズ ・ プ レ イ ス ﹄ の 詩 を 翻 訳 し て 無 柳 を慰めてもいたという。 ( n )   F . G o u r v i l , o p . c i t . y p . 1 5 0 . ( 2 )   I b i d . , p . 1 4 3 -1 4 4 ; F . M o r v a n , o p . t i t . , p . 1 2 4 . な お 、 K e r m a r k e r と は V i l l e m a r q u e の プ ル ー ン 語 風 の 読 み 方 で あ る 。 2 )   I b i d . , p . 1 4 4 -1 4 5 ; I b i d . , p . 1 2 4 . ( 2 0   F . G o u r v i l , o p . c i t , p . 1 4 5 . ( 2 )   C o r r e s p o n d a n c e L u z e 1 -R e n a n , p p . 6 1 -6 2 0 2 )   拙 論 「 ラ ヴ イ ル マ ル ケ と リ ユ ー ゼ ル   ( 一 ) 」 、 鹿 児 島 大 学 法 文 学 部 紀 要 ﹃ 人 文 学 科 論 集 ﹄ 第 5 7 号 、 二 〇 〇 三 年 ' 八 五 頁 参 照 。 (け) この点について'たとえばAnatoleLeBrazは、この時代の「ブルターニュ協会」 のメンバーの間には、何であれプルーン語で発 表する際には'その前に必ずアンリ神父の添削を仰ぐことが慣例になってお-、リユーゼルもそれに従ったのではないかtと推測 ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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梁     川     英     俊 し て い る 。 C f . M a g i e s d e l a B r e t a g n e , c o l l e c t i o n B o u q u i n s , R o b e r t L a f f o n t , p . 7 0 2 . ● ( 2 2   こ の 「 序 文 」 は 、 同 じ l 八 六 三 年 に L e s m y s t e r e s e t l e t h e a t r e b r e t o n な る 表 題 で R e v u e d e B r e t a g n e e t d e V e n d e e 誌 上 に 発 表 さ れ た論考に'若干の加筆を施したものだった。 」 )   も ち ろ ん ' そ の 裏 に は ル ナ ン の 後 押 し が あ っ た ら し い 。 詳 細 は 、 F . M o r v a n , o p . c i t . y p . 1 4 2 . ( 8 )   L e B r a z が ﹃ 旅 日 記 ﹄ を 発 表 し た の は ' 一 九 一 〇 年 、 A n n a l e s d e B r e t a g n e 誌 上 に お い て で あ る 。 な お 、 リ ユ ー ゼ ル の 直 筆 ノ ー ー は 現 在 行 方 不 明 で あ -、 し た が っ て l 九 九 四 年 に F . M o r v a n に よ っ て 刊 行 さ れ た J o u r n a l d e r o u t e , P U R -T e r r e d e b r u m e , 1 9 9 4 も ' このルブラ-スによって発表されたコピーに基づいている。Mo⊇aロによれば'このコピーには明らかな欠落があり、また時間的な 順 序 に も 混 乱 が あ る と い う 。 C f . J o u r n a l d e r o u t e , p p . 2 6 -2 7 . ( < n )   A n a t o l e L e B r a z , L e T h e a t r e c e l t i q u e , i n M a g i e s d e l a B r e t a 恥 n e y c o l l e c t i o n B o u q u i n s , R o b e r t L a f f o n t , p . 7 0 8 . ( 」 i )   C o r r e s p o n d a n c e L u z e 1 -R e n a n , p . 7 1 . ( * ^ ¥   I b i d . , p . 7 3 . ( S )   F . -M . L u z e l , B a p r e d B r e i z a d , M o r l a i x , H a s l e . N a n t e s , F o r e s t e t G r i m a u d . P a r i s , H a c h e t t e , 1 8 6 5 , p . 5 5 . ( 8 )   I b i d . , p . 7 6 ( c 5 )   F . G o u r v i l , o p . c i t . , p . 1 5 6 . r s i )   F . M o r v a n , o p . c i t . y p . 2 7 4 . ( 2 r 3 )   F . G o u r v i l , o p . t i t . , p . 1 5 6 . 8 )   I b i d . , p p . 8 1 -8 2 ( 8 )   I b i d . , p . 8 2 ( 」 ) 蝣 T h e o d o r e H e r s a r t d e l a V i l l e m a r q u e , L e G e a n d M y s t e r e d e J e s u s , P r e f a c e , L i b r a i r i e A c a d e m i q u e , 1 8 6 5 , p p . I -I I . 著者はそこで、ウェールズとコーンウォールの各地域の演劇について概観した後、ブルターニュのそれに触れていたが、アイル ランドとスコツーランドについては、独自な演劇を残さなかったという理由で言及しなかった。 ( 」 O T . H . d e l a V i l l e m a r q u e , o p . c i t . y L e t h e a t r e c h e z l e s n a t i o n s c e l t i q u e s , p p . c x x x i -c x x x i i .

(25)

( S ) 」 ( S ) f c ) ( 3 ) ( S ) ( -) I b i d . , p . c x v . I b i d . , p . c x x x i i . I b i d . F . -M . L u z e l , S a i n t e T r y p h i n e e t l e r o i A r t h u r , T h . C l a i r e t , 1 8 6 3 , p p . X X X I V -X X X V . I b i d . , p . X X X I X . C o r r e s p o n d a n c e L u z e 1 -R e n a n , p p . 1 0 4 -1 0 5 . 協会の改組がようや-現実になるのは、一八六九年である。そのときでも、長年書記を務めたシャルル・ドゴールが素直に自ら の無為を認めていたということだから、文字通-何もしていないに等しかったのだろう。定期的な集会の開催や機関紙の刊行が決 ま っ た の も ' そ の と き が 初 め て だ っ た 。 c f . F . G o u r v i l , o p . t i t . , p p . 1 6 5 -1 6 6 . C o r r e s p o n d a n c e L u z e 1 -R e n a n y p . 1 0 5 . この事情を、リユーゼルは一八六六年九月二十日付の手紙でこう説明する。「サン・ブリゥIの司教は書面では何も約束していま せんでした。あったのは口約束だけで、要するに確実なことは何もなかったわけです。それでも私たちは、彼に正確な返答と会合 の日時を知らせて欲しいと二度も手紙を書きました。これまでのところ何の返答もあ-ません。もう一ケ月以上経っているのです & J ( I b i d . , p . 1 O 9 ) c Z b i d . I b i d . , p . 1 1 6 . ラヴイルマルケとリユーゼル (四)

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