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昭和初期大阪市の観光事業と水運

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昭和初期大阪市の観光事業と水運

著者

伊藤 敏雄

雑誌名

関西学院経済学研究

40

ページ

181-212

発行年

2009-12-20

URL

http://hdl.handle.net/10236/3760

(2)

昭和初期大阪市の観光事業と水運

The Tourist industry of the City

of Osaka and Water transport

in the early Showa Period

伊 藤 敏 雄

  The purpose of this article is to consider the tourist industry of the city of Osaka in the early Showa period. There were few places of scenic beauty and historic interest in the city. Therefore the city offered industrial facilities as tourist attractions for foreign missions to inspect.

  The city built vessels for tourists, which navigated the river, visiting various factories, Western style buildings, and other places of interest.

Toshio Ito

JEL:N75, N95

キーワード:観光、視察、水運

Key words: tourism, inspect, water transport

はじめに  戦前期の日本の観光に関する研究2)は乏しく、大阪に関しても昭和 11 年 (1936)6 月 1 日より運航を開始した観光艇が、船越幹央氏に取り上げられ 1)  本稿は、2008 年 8 月 1 日に行われた経営史学会関西部会部会大会の報告を加筆修正したも のである。なお、その内容の一部は、拙稿「昭和初期大阪市の観光事業─訪日視察団との 関わりを中心に─」市川文彦・鶴田雅昭編『観光の経営史─ツーリズム・ビジネスとホス ピタリティ・ビジネス─』関西学院大学出版会、2009 年にも掲載されており、併せて参照 されたい。 2)  本稿と特に関連する近年のものとしては、砂本文彦『近代日本の国際リゾート─一九三〇 年代の国際観光ホテルを中心に─』青弓社、2008 年、高媛「『二つの近代』の痕跡─ 一九三〇年代における『国際観光』の展開を中心に─」吉見俊哉編『一九三〇年代のメディ アと身体』青弓社、2002 年などが挙げられる。

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るに止まっていたといえる3)(但し、橋爪紳也氏も、旅行・観光をモダニズム の観点から捉え、この観光艇について言及しているが、そこで注目されてい たのは、流線型のデザインであった4))。しかし、船越氏も参加した、昭和初 期の大阪観光に関する映画の多角的な分析5)により、その研究は大きく前進 した。それでもなお、この観光艇については不明な点が多く、その実態に迫 る余地が多々あるが、その誕生の背景や当該期の大阪観光全体における位置 付け等をも明確にするためには、今後まず、大阪観光に関する全体的な様相 を明らかにする必要がある。その点において、本稿で重視するのは外国人の 動向である。  日本において、外国人を対象とした本格的な観光事業が取り組まれるよう になるのは、昭和 5 年に鉄道省に国際観光局が設置されて以後のことである が、どのような目的をもった外国人が来阪し、また、それに対して大阪市で はいかなる活動がなされていたのかについては、これまで検討されることは なかった。  以上を踏まえ、以下では、昭和 14 年 3 月に設立される、外国人視察団の 斡旋機関である大阪視察団斡旋協議会に焦点を当て、まず第一に、その設立 の経緯と設立直前頃の大阪市における観光事業の状況について述べる。次い で第二に、同協議会の組織面と事業内容、来阪した視察団の人数・種類別内 訳・分類別視察先の見学回数等を検討する。そして第三に、観光艇の運航の 背景や、乗船人数、また河川・沿岸の様相や情緒等についても明らかにする。 3)  船越幹央「大阪人も知らない大阪発見バスツアー 1 いざ、昭和 12 年の大阪遊覧へ ! ── 映像でたどる『大大阪観光』」井ノ上雅浩・宮川享子編『大阪人』大阪都市協会、第 58 巻 7月号、2004 年、33 ∼ 41 頁。同「近代大阪の観光と観光艇『水都』─戦前の産業観光の 一例として─」福山琢磨編『大阪春秋』第 36 巻第 3 号(通巻 132 号)、新風書房、2008 年。 4)  橋爪紳也『モダニズムのニッポン』角川学芸出版、2006 年、74 ∼ 75 頁。 5)  橋爪節也編『映画「大大阪観光」の世界─昭和 12 年のモダン都市─』大阪大学出版会、2009 年、 41頁。同書の基礎となるものに、同編『大大阪イメージ 増殖するマンモス / モダン都市 の幻像』創元社、2007 年がある。

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一、大阪市の観光事業と大阪視察団斡旋協議会 (1)大阪視察団斡旋協議会の設立  大阪市における観光事業は、産業部商工課の前身である勧業係において取 り扱われていたが、昭和 10 年(1935)に初めて同部貿易課内に観光係が設 置された。その後、それは、昭和 12 年の商工課の新設に伴い同課に移管され、 同 14 年秋に庶務課の所属となり、同 15 年 8 月には大阪市全般の職制改革に より観光課に昇格された。大阪市産業部には指導関係団体があり、この観光 課に関係するものとしては、大阪観光打合会・大阪市観光旅館協会・大阪土 産品協会・大阪視察団斡旋協議会が挙げられる6)。本稿で焦点が当てられる のは、大阪視察団斡旋協議会であるが、まず、その設立直前頃の大阪市当局 における観光に対する認識とその状況を以下に述べよう7)  産業経済都市である大阪では、観光事業は等閑視され、関係機関の連携も 行われず、観光協会も観光という先入観にとらわれて設立されなかった。と ころが、満州国が基礎を整え、中華民国・蒙疆等の新政権が確立され8)、視 察団の来日が増加するにつれて、大阪における観光事業も多角的解釈の下に、 とらえられるようになった。すなわち、この時期に大阪において観光事業が 重視される転機が訪れたのである。そして、現地治安の回復と興亜精神の浸 透は、視察団来日の増加にさらに拍車をかけることになり、このような状況 下で、以下に述べるように9)、大阪視察団斡旋協議会が設立されることになっ た。 6)  大阪市産業部編『昭和十五年十二月 大阪市産業部事業要覧』大阪市産業部、1940 年、 79・94 ∼ 98 頁。 7)  「大阪視察団斡旋協議会─今秋視察期を控へ各部会開催─」木村浩編『大大阪』第 15 巻第 9 号、 大阪都市協会、1939 年、150 頁。 8)  各政権等については、前掲「昭和初期大阪市の観光事業─訪日視察団との関わりを中心に ─」30 頁を参照されたい(本稿における満州・蒙古・中国はそれらに基づいている)。ま た、それらの参考文献は次の通りである。国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第四巻、 吉川弘文館、一九八三年、一六八頁、同『国史大辞典』第九巻、一九八八年、四七五∼ 四七六頁、同『国史大辞典』第十三巻、一九九二年、七九二頁)。 9)  大阪市役所産業部庶務課観光係編『大阪観光資料叢書─第五輯─ 大阪に於ける満蒙支 訪日視察団の斡旋機関に就いて─附斡旋視察団統計─』大阪市役所産業部庶務課観光係、 1940年、2 ∼ 4 頁。

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 従来、来阪する海外視察団の斡旋は、大阪府・大阪市・大阪商工会議所・ 領事館らが、相互連絡の下に当たってきたが、この事態に対処するため、昭 和 13 年 11 月、大阪市観光係では、関係各方面が参集され、「時局観光連絡 懇談会」が開催された。そこで、これら視察団来日の今後の情勢と、国策的 観点から根本的対策を樹立すべきことが決議された結果、中部防衛司令部外 事部・大阪府外事課・大阪市観光係等を中心に、大阪視察団斡旋協議会が設 立されることになり、翌 14 年 3 月 14 日、大阪市中央公会堂において、創立 総会が開催された。同協議会の目的や意義は、「帝国の経済産業首都」であ る大阪の都市的性格との関連において次のように述べられている。  まず、満州・蒙古・中国の視察団の来日の目的は、「欧米観光客流の、単 なる風景鑑賞にあるのでなく、日本の文物制度を視察し、真に云ふ如く日本 は依存し提携するに足る国であり、また日本人は信頼し、師事するに足る国 民であるかを身を以て会得しようと云ふのである」とされている。そして、 大阪については、「帝国の経済産業首都」として、東京と並んで、視察団の 主要目的地であるとし、同地の特色と大阪視察団斡旋協議会の意義は次のよ うに述べられていた。その設立の目的は、工場などの諸施設が多数ある大阪 の視察を通じて、外国人、とりわけ満州・蒙古・中国人と日本人との信頼関 係を築き、現地での宣撫工作10)とも呼応して「東亜新秩序」11)を構築するとい うもので、単に一地方の事業としてではなく、国策事業の一翼を担うことも 企図されていた。  さて、この大阪視察団斡旋協議会は、観光協会とまったく異なるものでは なく、同様の性質を備えつつ、風景の観賞よりも産業等の視察への対応をよ り重視することを意図して命名されたものであった。また当初、大阪府・大 阪市・大阪商工会議所は、外国人視察団だけでなく日本人視察団にも同様の 対応を行っており、大阪視察団斡旋協議会は、前者に対象を絞ったものであっ 10)  当該期の宣撫工作等については、難波功士「プロパガンディストたちの読書空間」前掲 『一九三〇年代のメディアと身体』などを参照。 11)  東亜新秩序については、国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第十巻、吉川弘文館、 1989年、19 ∼ 20 頁を参照。

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た12)。但し、同協議会が、日本人視察団にまったく対応しなかったのかにつ いては、今後の課題としたい。 (2)大阪視察団斡旋協議会の構成と事業内容  この大阪視察団斡旋協議会の組織面と事業内容について述べよう13)。同協 議会は役員と賛助員から構成される。前者は、表 1 にあるように、大阪市・ 12)  「陸続たる視察団 府市商工会議所の多忙」小川市太郎編『大大阪』第 10 巻第 7 号、大阪 都市協会、1934 年、82 ∼ 83 頁。 13)  前掲『大阪観光資料叢書 ─第五輯─ 大阪に於ける満蒙支訪日視察団の斡旋機関に就いて ─附斡旋視察団統計─』5 ∼ 7 頁。 表 1 昭和 15 年 2 月における大阪視察団斡旋協議会の役員・職員 所  属 氏名 委 員 長 大 阪 市 産 業 部 長 伊 東 俊 雄 副 委 員 長 中 部 防 衛 司 令 部 外 事 部大 阪 府 警 察 部 外 事 課 長 大賀茂久次野々山重治 大 阪 市 産 業 部 庶 務 課 長 山 本 貞 一 顧問(若干名) ― ― 参与(若干名) ― ― 委 員 大 阪 憲 兵 隊 特 別 高 等 警 察 課 助 川 勝 吉 大 阪 府 商 工 総 務 課 長 塩 原 有 大 阪 府 外 事 課 亜 細 亜 係 長 隈園五之助 大 阪 府 外 事 課 亜 細 亜 係 首 藤 豊 大 阪 府 秘 書 課 中 島 正 一 大 阪 市 産 業 部 貿 易 課 長 古久保立次 大 阪 市 秘 書 課 主 事 長 川 淳 大 阪 市 秘 書 課 的 場 三 郎 大 阪 市 産 業 部 観 光 係 長 宮 崎 武 夫 大 阪 市 産 業 部 観 光 係 貴 志 吉 則 大 阪 商 工 会 議 所 外 国 課 長 桜 井 辰 雄 大 阪 商 工 会 議 所 外 事 課 長 佐 野 嘉 吉 大 阪 商 工 会 議 所 外 事 課 虫 本 正 夫 満 州 国 駐 大 阪 名 誉 領 事 館 磯 谷 明 全 満 州 国 駐 大 阪 名 誉 領 事 館 岩 田 昌 三 満 鉄 大 阪 事 務 所 旅 客 係 主 任 山 屋 八 郎 満 鉄 大 阪 事 務 所 旅 客 係 松 井 寛 二 社団法人日本旅行協会関西支部 田 中 順 治 社団法人日本旅行協会関西支部 栗 田 実 (常 任) 中 部 防 衛 司 令 部 外 事 部大 阪 府 外 事 課 鵜飼勝太郎梶谷道之助 大 阪 市 産 業 部 観 光 係 金 田 政 一 幹事(若干名) 大 阪 市 産 業 部 観 光 係大 阪 市 産 業 部 観 光 係 魚 里 博西 田 一 雄 大 阪 市 産 業 部 観 光 係 赤 松 文 出所) 大阪市役所産業部庶務課観光係編『大阪観光資料叢書 第五輯 大 阪に於ける満蒙支訪日視察団の斡旋機関に就いて―附斡旋視察団統 計―』大阪市役所産業部庶務課観光係、1940 年、10 ∼ 11 頁より作成。

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大阪府・中部防衛司令部・大阪憲兵隊・大阪商工会議所・満州国駐大阪名誉 領事館・満鉄大阪事務所・日本旅行協会らの各機関から成り、大阪市産業部 長が委員長に就任した。また、中部防衛司令部外事部長陸軍歩兵大佐川口清 健を初め、各関係機関より若干名が顧問または参与に就いた。後者は、表 2 に示されているように、学校・博物館・工場・百貨店・料理店・交通業者・ 興行場・華僑団体・旅館等であり、第一部から第七部までの七部会から成っ ていた。便宜上、同協議会の事務所は、大阪市役所産業部庶務課観光係内に 置かれ14)、幹事を兼務する同係員によって事務が担われていたが、各機関と 連絡して行われる諸種の事業は、おおよそ以下の四つであった。  第一は、視察団の斡旋に関するもので、その内容は次の通りである。常任 委員が、緊密な連絡の下に満州国名誉領事館・日本旅行協会・満鉄事務所や 各賛助員らと協力して、大阪における視察観光日程の作成、視察個所への手 配・連絡を行うほか、斡旋者を有しない視察団・特殊視察団に対して、協議 会役員が随行して誘導案内を行う。また、教育・産業など特殊視察を目的と する団体等に対しては、希望により、当事者との懇談会・交歓会の開催を斡 旋する。第二は、見学施設の調査研究に関するものであり、賛助員部会や連 絡座談会を開催して、施設相互の連絡・接遇についての協調研究を行う。第 三は、観光従事員の接遇改善に関するものであり、商店・料理店・旅館等に 対して、満州・蒙古・中国人向けの接客法・調理法・土産品等の指導講習講 演会を開催するほか、各種資料を刊行する。第四は、観光思想の普及に関す るものである。それは、視察観光の対象となる市民に対し、興亜観光思想の 普及徹底を図るため、新聞・雑誌・ラジオ等を通じ、各種視察団に関するニ ユースの発表や講演会・映画会の開催を行うという内容であった。  これまで、大阪市では関係機関の協調や連携がなかったが、以上から、同 協議会は、役員と賛助員との緊密な連絡の下に、視察日程の作成から視察個 所の手配・連絡という斡旋に関する業務をはじめ、見学施設の調査研究・接 遇の改善・観光思想の普及といったことにも取り組んでいたことが分かった。 14)  昭和 17 年には産業部とのみある(大阪市産業部編『昭和十七年三月 大阪市産業部事業 要覧』大阪市産業部、1942 年、111 頁)。

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表 2 大阪視察団斡旋協議会の賛助員 名       称 第一部 (教育関係)大阪帝国大学(北)庫県武庫郡)・天王寺師範学校(天王寺)・都島工業学校(北)・大手前高等女学・大阪商科大学(住吉)・大阪外国語学校(天王寺)・康徳学院(兵 校(東)・清水谷高等女学校(東)・夕陽丘高等女学校(天王寺)・本田尋常高等 小学校(西)・精華尋常小学校(南)・集英尋常小学校(東)・汎愛尋常高等小学 校(東)・市立盲学校(南)・豊崎勤労学校(東淀川)・大阪地方専売局(浪速)・ 大阪朝日新聞社(北)・大阪毎日新聞社(北)・大阪中央放送局(東)・造幣局(北)・ 大阪株式取引所(東)・府立貿易館(東)・大阪中央卸売市場(此花)・北市民館 (北)・西野田宿泊所(此花)・大阪職業紹介所(西)・隣邦児童愛育所(南河内郡)・ 大阪城公園(東)・電気科学館(西)・市立美術館(天王寺)・市立動物園(天王 寺)・農業博物館(泉北郡)・堺市立水族館(堺市)  第二部 (工業関係)鐘淵紡績株式会社(旭)・大日本紡績株式会社(東)・東洋紡績株式会社(北)・堀坂帽子製造所(兵庫県川辺郡)・武田長兵衛商店製薬部(東淀川)・中山太陽堂(浪 速)・桃谷順天館(港)・中央貿易合資会社中央機会農場(三島郡)・内外木材株 式会社(大正)・島田硝子製造所(西成)・日本水産株式会社(南)・グリコ株式 会社(西淀川)・森永製菓株式会社(北)・大日本精糖株式会社(南)・大日本ビー ル株式会社(東)・王子製紙株式会社(此花)・精版印刷株式会社(西淀川)・浅 野セメント株式会社(東)・大阪窯業セメント株式会社(北)・日本ペイント株 式会社(西淀川)・帝国人造肥料株式会社(大正)・日本発送電株式会社(北)・ 大阪瓦斯株式会社(東)・日本ゼネラルモータース株式会社(大正)・汽車製造 株式会社(此花)・大阪製鎖造機株式会社(此花)・大阪鉄工所(此花)・久保田 鉄工所(浪速)・栗本鉄工所(大正)・住友金属工業株式会社(此花)・中山製鋼 所(大正) 第三部 (商業関係)阪急電鉄株式会社百貨店部(北)・株式会社三越(東)・株式会社大丸(南)・株式会社十合呉服店(南)・株式会社高島屋(南)・大阪電気軌道株式会社百貨店 部(天王寺)・株式会社松坂屋(南)・株式会社大鉄百貨店(住吉)・専門大店(北)・ 阪口楼(南)・播半本店(南)・本みやけ(南)・大市(南)・大新楼(西)・天華 倶楽部(西)・紅蘭亭(東)・白蘭(西)・平和楼(西)・南浦園(東)・福園(東)・ アラスカ本店(北)・大阪瓦斯ビル食堂(東)・株式会社野田屋(東)・北極星(南) 第四部 (交通関係)阪神電気鉄道株式会社(北)・阪神急行電気鉄道株式会社(北)・京阪電気鉄道株式会社(北)・大阪電気軌道株式会社(天王寺)・阪和電気鉄道株式会社(天 王寺)・大阪鉄道株式会社(住吉)・南海鉄道株式会社(南)・大阪乗合自動車株 式会社(東)・大阪交通株式会社(西淀川)・大阪商船株式会社(北)・日本郵船 株式会社(西)・東亜海運株式会社(西)  第五部 (芸術関係)松竹株式会社(南)・千日土地建物株式会社(南)・阪神急行電気鉄道株式会社宝塚経営部(兵庫県武庫郡)・株式会社梅田映画劇場(北)・松竹座(南)・歌舞 伎座(南)・大阪劇場(浪速)・文楽座(南)  第六部 (華僑関係)大阪中華総商会(西)  第七部 (旅館関係)新大阪ホテル(北)・大阪ホテル(東)・梅田ホテル(北)・大阪中央ホテル(北)・泉五楼(南)・西大和屋(南)・日本館(南)・大野屋(南)・大黒屋総本店(南)・ 大日館(南)・浪花旅館(南)・山形屋 (南)・前川旅館(南)・牧野家旅館(北)・ あわじや(南)・讃岐屋(南)  出所) 前掲『大阪観光資料叢書 第五輯 大阪に於ける満蒙支訪日視察団の斡旋機関に就いて ─附斡旋視察団統計─』12 ∼ 18 頁より作成。  注)括弧内は区名である。

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 また、庶務課観光係では、おおよそ欧米、満州・蒙古・中国、内地の三つ に分けて、産業・教育・文化・社会事業方面の各種のパンフレットやリーフ レット・地図・絵葉書・大阪市を宣伝するポスター・観光映画が制作されて いる15)。映画に関しては、昭和 14 年には、大阪の文化を紹介する満州・蒙古・ 中国向けのものを制作することが計画されている。これらから大阪市は、制 作した観光映画を満州・蒙古・中国で上映して同市を宣伝し、視察先として 選択されることを企図していたことが分かる。とりわけ満州は日本研究に熱 心であるため、その方法は有効であるとされていた16)。また、観光映画の制 作の背景には、昭和 6 年の満州事変以後の軍事行動の拡大とともになされる、 円ブロックの強化と東亜新秩序の形成ということがあった。後者には、輸出 で深い関わりのある、満州・蒙古・中国人の大阪に関する理解が不可欠であ り、観光映画は、それを深化させることと、視察不可能な場合への補足を目 的として制作された17) (3)大阪視察団斡旋協議会の各部会における活動  次に、この大阪視察団斡旋協議会設立後の、各部会における活動の一端に ついて触れておこう18)。まず、前述した七つの部会が決定されたが、それま では、何等連絡がなく、これにより、軍官民の各方面と緊密な連携がなされ るようになった。一方、各部会でもサービスの向上が図られ、例えば昭和 14 年には、以下のような部会が開催された。  7 月 18 日には、大阪中央放送局における教育関係者による第一部会で、「草 原バルガ」「内鮮満周遊の旅」(満州篇)等の映画が上映され、遊牧民情や風 俗等の理解が図られた。次いで、同月 31 日には、新大阪ホテルにおける旅 館関係者による第七部会で、満州・蒙古・中国人接遇に関する食物・嗜好・ 15)  それらは、前掲『昭和十五年十二月 大阪市産業部事業要覧』80 ∼ 81 頁に具体的に挙げ られている。 16)  草刈孟「大阪市の観光事業と旅館の協力」大阪市役所産業部庶務課観光係編『大阪観光資 料叢書─第三輯─』大阪市役所産業部庶務課観光係、1940 年、12 ∼ 13 頁。 17)  「対満蒙支文化映画 大阪観光 ─大阪市支那語で三巻製作─」木村浩編『大大阪』第 16 巻第 9 号、大阪都市協会、1940 年、53 頁。 18)  「大阪視察団斡旋協議会─今秋視察期を控へ各部会開催─」木村浩編『大大阪』第 15 巻第 9号、大阪都市協会、1939 年、150 ∼ 151 頁。

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風習等の協議が行われた。さらに、8 月 9 日には、阪急百貨店における商業 関係者による第三部会で、中国・満州に多数存在するイスラム教徒の風俗・ 習慣等や、満州国人の食事と土産物についての講話や懇談が行われ、満州・ 蒙古・中国人の嗜好の検討が試みられた。そして、同月 14 日には、そごう 百貨店における工業関係者による第二部会で、工場見学と防諜に関する講演 が行われるとともに、軍用資源や軍機等の漏洩に関する斡旋・工場側双方の 希望等が開陳された。   ここまで大阪市の観光に関する組織とその事業について見てきたが、他の 五大都市(東京・横浜・名古屋・京都・神戸)と少し比較しておきたい。前 述したように、大阪市産業部指導関係団体において、観光課関係のものとし ては、大阪視察団斡旋協議会のほかに、大阪観光打合会・大阪市観光旅館協 会・大阪土産品協会があった。大阪観光打合会については不明であるが、大 阪では、それを除いた三つのいずれもが五大都市に先んじて設立された19)  さて、ここで、来阪視察団の人数・種類別内訳・分類別視察先の見学回数 等を検討しよう。まず、表 3 から全体的な趨勢を見れば、昭和 11 年から同 15年の間に団体数・実人数はそれぞれ 7.9 倍・7.8 倍に増加した。この内、 昭和 12 年から同 13 年には同じく 2.1 倍・2.5 倍、同 13 年から同 14 年にも 2.1 倍・2.5 倍に増加したことが分かる。そして同表には、各年とも満州が団体数・ 実人数ともに半数以上を占め、地域別に比率を産出すれば、昭和 12 年には それぞれ 80.4%・75.0%、同 13 年には 76.5%・77.6% と高い値を示した。  次に表 4 より、満州の視察団の種類別内訳を見れば、昭和 11 年は行政・ 商工がともに首位であったが、同 12・13 年は首位が行政、第 2 位が商工で あった。同 12 年には、この両者を合わせると 80% を上回った。しかし同 14 年以後は、修学が首位で行政が第 2 位となり、同 15 年には商工は第 4 位となっ た。このことは、満州に限られるものではなく、小計に示される全体の傾向 でもほぼ同様であった。一方、平均滞在日数は、表 5・表 6 から、昭和 14 年・ 同 15 年とも総計で見て、修学が最も短く、商工が最も長かった。また、両 19) 前掲「大阪市の観光事業と旅館の協力」15 ∼ 16 頁。

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 表 4 昭和 11 年から同 15 年における各国視察団の種類別団体数 (単位:団体・%) 国名 修学 商工 行政 教育 総計 昭和 11 年 満州 5(23.8) 7(33.3) 7(33.3) 2(9.5) 21(100.0) 中国 3(50.0) ― ( ― ) ― ( ― ) 3(50.0) 6(100.0) 蒙古 ― ( ― ) ― ( ― ) ― ( ― ) ― ( ― ) ― ( ― ) 小計 8(29.6) 7(25.9) 7(25.9) 5(18.5) 27(100.0) 昭和 12 年 満州 4(9.8) 14(34.1) 20(48.8) 3(7.3) 41(100.0) 中国 1(33.3) 1(33.3) ― ( ― ) 1(33.3) 3(100.0) 蒙古 ― ( ― ) ― ( ― ) ― ( ― ) ― ( ― ) ― ( ― ) 小計 5(11.4) 15(34.1) 20(45.5) 4(9.1) 44(100.0) 昭和 13 年 満州 20(24.7) 21(25.9) 30(37.0) 10(12.3) 81(100.0) 中国 7(50.0) 1(7.1) 3(21.4) 3(21.4) 14(100.0) 蒙古 ― ( ― ) 1(14.3) 5(71.4) 1(14.3) 7(100.0) 小計 27(26.5) 23(22.5) 38(37.3) 14(13.7) 102(100.0) 昭和 14 年 満州 62(42.5) 28(19.2) 43(29.5) 13(8.9) 146(100.0) 中国 13(31.0) 6(14.3) 17(40.5) 6(14.3) 42(100.0) 蒙古 4(22.2) 2(11.1) 9(50.0) 3(16.7) 18(100.0) 小計 79(38.3) 36(17.5) 69(33.5) 22(10.7) 206(100.0) 昭和 15 年 満州 69(43.4) 19(11.9) 45(28.3) 26(16.4) 159(100.0) 中国 29(33.3) 3(3.4) 30(34.5) 25(28.7) 87(100.0) 蒙古 1(11.1) 2(22.2) 4(44.4) 2(22.2) 9(100.0) 小計 99(38.8) 24(9.4) 79(31.0) 53(20.8) 255(100.0) 出所) 同上『大阪観光資料叢書 第八輯 来阪海外視察団調―昭和十五年度―』7 頁より作成。  表 3 昭和 11 年から同 15 年における訪日視察団の地域別実人数と団体数 (単位:人・団体) 満州 中国 蒙古 米州 欧州 その他 計 昭和 11 年 844(21) 214(6) ― ( ― ) 218(7) 12(1) ― ( ― ) 1,288(35) 昭和 12 年 1,066(41) 131(3) ― ( ― ) 110(5) ― ( ― ) 87(2) 1,394(51) 昭和 13 年 2,731(81) 565(14) 135(7) 47(2) 35(3) 5(1) 3,518(108) 昭和 14 年 6,302(146) 1,741(42) 439(18) 117(10) 11(1) 189(10) 8,799(227) 昭和 15 年 6,255(159) 3,028(87) 115(9) 562(16) 23(2) 83(4) 10,066(277) 出所) 大阪市役所産業部観光課編『大阪観光資料叢書 第八輯 来阪海外視察団調―昭和十五 年度―』大阪市役所産業部観光課、1941 年、1 頁より作成。  注)括弧内は団体数である。

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 表 5 昭和 14 年における訪日視察団の地域別団体数・各種人数・各種日数 (単位:団体・人・日) 各項目 満州 中国 蒙古 米州 欧州 その他 総計 修 学 旅 行 団 団 体 数 62 13 4 1 ― 1 81 実 人 数 4,483 1,247 143 36 ― 35 5,944 延 人 数 11,851 4,250 461 108 ― 140 16,810 一 団 体 平 均 人 数 72.3 95.9 35.8 36.0 ― 35.0 73.4 延 滞 在 日 数 161 48 12 3 ― 4 228 平 均 滞 在 日 数 2.6 3.7 3.0 3.0 ― 4.0 2.8 商 工 視 察 団 団 体 数 28 6 2 2 ― 1 39 実 人 数 630 115 18 15 ― 31 809 延 人 数 2,581 474 68 42 ― 62 3,227 一 団 体 平 均 人 数 22.5 19.2 9.0 7.5 ― 31.0 20.7 延 滞 在 日 数 113 23 7 7 ― 2 152 平 均 滞 在 日 数 4.0 3.8 3.5 3.5 ― 2.0 3.9 行 政 視 察 団 団 体 数 43 17 9 1 1 2 73 実 人 数 838 251 182 3 11 9 1,294 延 人 数 2,790 874 821 12 22 31 4,550 一 団 体 平 均 人 数 19.5 14.8 20.2 3.0 11.0 4.5 17.7 延 滞 在 日 数 150 60 36 4 2 10 262 平 均 滞 在 日 数 3.5 3.5 4.0 4.0 2.0 5.0 3.6 教 育 視 察 団 団 体 数 13 6 3 6 ― 6 34 実 人 数 351 128 96 63 ― 114 752 延 人 数 906 447 257 187 ― 237 2,034 一 団 体 平 均 人 数 27.0 21.3 32.0 10.5 ― 19.0 22.1 延 滞 在 日 数 36 21 10 17 ― 13 97 平 均 滞 在 日 数 2.8 3.5 3.3 2.8 ― 2.2 2.9 総 計 団 体 数 146 42 18 10 1 10 227 実 人 数 6,302 1,741 439 117 11 189 8,799 延 人 数 18,128 6,045 1,607 349 22 470 26,621 一 団 体 平 均 人 数 43.2 41.5 24.4 11.7 11.0 18.9 38.8 延 滞 在 日 数 460 152 65 31 2 29 739 平 均 滞 在 日 数 3.2 3.6 3.6 3.1 2.0 2.9 3.3 出所) 大阪市役所産業部庶務課観光係編『大阪観光資料叢書 第六輯 来阪の海外視察団に就 いて』大阪市役所産業部観光課、1940 年、7 頁より作成。  注)一団体平均人数は実人数割る団体数、平均滞在日数は延滞在日数割る団体数で算出。

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 表 6 昭和 15 年における訪日視察団の地域別団体数・各種人数・各種日数 (単位:団体・人・日) 各項目 満州 中国 蒙古 米州 欧州 その他 総計 修 学 旅 行 団 団 体 数 69 29 1 5 ― 2 106 実 人 数 3,878 1,837 21 169 ― 66 5,971 延 人 数 10,141 5,918 84 322 ― 432 16,897 一 団 体 平 均 人 数 56.2 63.3 21.0 33.8 ― 33.0 56.3 延 滞 在 日 数 183 96 4 10 ― 11 304 平 均 滞 在 日 数 2.7 3.3 4.0 2.0 ― 5.5 2.9 商 工 視 察 団 団 体 数 19 3 2 4 1 1 30 実 人 数 460 25 23 49 20 6 583 延 人 数 1,594 90 102 252 100 18 2,156 一 団 体 平 均 人 数 24.2 8.3 11.5 12.3 20.0 6.0 19.4 延 滞 在 日 数 71 13 9 21 5 3 122 平 均 滞 在 日 数 3.7 4.3 4.5 5.3 5.0 3.0 4.1 行 政 視 察 団 団 体 数 45 30 4 1 1 ― 81 実 人 数 1,187 682 61 7 3 ― 1,940 延 人 数 3,834 2,304 214 56 6 ― 6,414 一 団 体 平 均 人 数 26.4 22.7 15.3 7.0 3.0 ― 24.0 延 滞 在 日 数 143 111 13 8 2 ― 277 平 均 滞 在 日 数 3.2 3.7 3.3 8.0 2.0 ― 3.4 教 育 視 察 団 団 体 数 26 25 2 6 ― 1 60 実 人 数 730 484 10 337 ― 11 1,572 延 人 数 2,261 1,573 55 380 ― 33 4,302 一 団 体 平 均 人 数 28.1 19.4 5.0 56.2 ― 11.0 26.2 延 滞 在 日 数 79 79 11 9 ― 3 181 平 均 滞 在 日 数 3.0 3.2 5.5 1.5 ― 3.0 3.0 総 計 団 体 数 159 87 9 16 2 4 277 実 人 数 6,255 3,028 115 562 23 83 10,066 延 人 数 17,830 9,885 455 1,010 106 483 29,769 一 団 体 平 均 人 数 39.3 34.8 12.8 35.1 11.5 20.8 36.3 延 滞 在 日 数 476 299 37 48 7 17 884 平 均 滞 在 日 数 3.0 3.4 4.1 3.0 3.5 4.3 3.2 出所)前掲『大阪観光資料叢書 第八輯 来阪海外視察団調―昭和十五年度―』8 頁より作成。  注)一団体平均人数は実人数割る団体数、平均滞在日数は延滞在日数割る団体数で算出。

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表からは、総計で見れば一団体平均人数は、満州が最も多く、それに次ぐ中 国とともに 40 人前後であったことも分かる。  そして、表 7・表 8 によれば、満州からの視察団の分類別視察先として最 も多かったのは工場20)で、後者からは、中国・米州も同様であったことが分 かる。 20)  前掲「昭和初期大阪市の観光事業─訪日視察団との関わりを中心に─」の表 1 では第 3 位 と第 4 位、表 2 では第 4 位と第 5 位にそれぞれ大阪毎日新聞社と大阪朝日新聞社が入って いる。これらは、交通通信に分類されているが、「両社の優秀なる印刷機構と設備は、参 観の為め開放され、観光事業の上に裨益する所が頗る多い」(大阪市役所産業部観光課編『紀 元二千六百年の大阪』大阪市役所産業部観光課、1940 年、4 頁)とされ、印刷工場の見学 と同様と捉えられる。すなわち、工場見学とは、工場に止まらず、より広い意味で捉えて もよいと考えられる。  造幣局・大阪毎日新聞・大阪朝日新聞社の他に、公共団体にのみ見学を許可した施設と しては、大阪中央放送局・大阪株式取引所・大阪中央卸売市場・北市民館・中央授産場が 挙げられる(同書附録五頁)。前掲「昭和初期大阪市の観光事業─訪日視察団との関わり を中心に─」の表 1 には、前四者、表 2 には前三者が上位 20 位以内に見られる。 表 7 昭和 14 年における訪日視察団の地域別に見た分類別視察先の見学回数 (単位:回)  順位 分類 満州 中国 蒙古 米州 欧州 その他 総計 1 工 場 179 76 15 4 1 12 287 2 官 公 衙 120 99 31 1 2 6 259 3 公 園・ 博 物 場 151 45 30 12 ― 9 247 4 通 信・ 交 通 126 69 23 8 2 11 239 5 産 業・ 経 済 58 7 8 ― ― 3 76 6 教 育 42 14 8 1 ― ― 65 7 娯 楽 10 12 4 6 1 1 34 8 社 会 事 業 21 7 3 ― ― ― 31 9 百 貨 店 8 12 2 5 ― 3 30 10 そ の 他 6 8 3 7 ― 1 25 11 社 寺 16 1 3 1 ― 1 22 12 司 法・ 警 察 17 2 2 ― ― ― 21 13 催 物 3 8 5 ― 1 2 19 14 そ の 他 官 公 衙 9 3 3 ― ― ― 15 15 保 健・ 厚 生 2 ― ― ― ― 1 3 総       計 768 363 140 45 7 50 1,373 出所)前掲『大阪観光資料叢書 第六輯 来阪の海外視察団に就いて』8 ∼ 16 頁より作成。

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二、観光地としての特色  以下では、大阪市当局が、同市を一般観光地としてどのように捉えていた のかについて明らかにするが、それは次のようであった21)  まず、大阪市においては、観光は貿易と密接に関連しており産業発展にも 寄与するとの認識の下に、その事業が行われていた。そして、同市では、観 光対象は、名所旧跡よりも教育・社会・保健・土木・電気・港湾・水道等の 近代都市機構が重要とされていた。さらに、これらに加えて、この間を縫う ように流れる河川・運河や慰安施設そして郊外鉄道の沿線といった周辺地域 をも視野に入れれば、同市は純然たる観光地としても成り立っていると捉え られていた。 21)  大阪市産業部編『昭和十三年三月 大阪市産業部事業要覧』大阪市産業部、1938 年、70 ∼ 71 頁。 表 8 昭和 15 年における訪日視察団の地域別に見た分類別視察先の見学回数 (単位:回)  順位 分類 満州 中国 蒙古 米州 欧州 その他 総計 1 工 場 211 129 7 24 2 3 376 2 公 園・ 博 物 場 171 94 11 19 4 5 304 3 通 信・ 交 通 148 89 9 17 2 4 269 4 官 公 衙 115 89 14 23 4 ― 245 5 娯 楽 15 45 4 5 2 3 74 6 教 育 35 29 ― 3 1 ― 68 7 産 業・ 経 済 44 15 1 1 ― ― 61 8 百 貨 店 5 32 6 5 ― ― 48 9 社 寺 11 9 1 ― 1 ― 22 10 社 会 事 業 14 4 ― 3 ― ― 21 11 そ の 他 5 11 ― 4 ― ― 20 12 司 法・ 警 察 16 ― ― ― ― ― 16 12 催 物 3 7 2 1 ― 3 16 14 保 健・ 厚 生 4 5 ― ― ― ― 9 14 そ の 他 官 公 衙 6 2 1 ― ― ― 9 総       計 803 560 56 105 16 18 1,558 出所) 前掲『大阪観光資料叢書 第八輯 来阪海外視察団調―昭和十五年度―』9 ∼ 17 頁より作成。

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 これは昭和 13 年における同市による認識であるが、その後の同 17 年には、 さらに、「東亜新秩序建設の進展と共に、大陸は勿論全世界の日本研究熱の 勃興隆盛は、一躍大阪をして東亜の観光枢要地として嘱目されるに至つた」、 また同地は「啻に近畿観光の中心地たるに止らず、帝都東京と相並んで日本 観光の枢要地である」とされていた22)。この間に、大阪視察団斡旋協議会が 設立されているが、外国からの視察団の増加に伴い大阪が産業観光の都市と して注目され、当局により、アピールされるようにもなったことが、ここか ら分かる。  このように種々の観光資源を有するわけではあるが、特に重要なのは産業 都市としての側面であり、そこには、それに伴う煤煙や汚水などの負の要素 も含まれていた。このことは、昭和 14 年(1939)9 月 4 日に開催された大 阪市観光旅館協会主催の「サービス講習会」における大阪市商工課長、草刈 孟23)の以下の発言から判明する24) 実は大阪を観光するといふやうなことをいひますと大阪に一体何がある んだ、大阪は煙の都だといふやうなことで、非常に同情のない言葉で片 付けられてしまふ、煙の都だといはれると帰りたくなります。同じこと でも水の都といへば美くしく聞え、ヴエニスがすぐに想像される様なも のです。それを煙の都だと云はれると帰りたくなるのであります。実際 大阪は、大阪の産業は煙で発展したのであります。その煙の中に三日で も四日でも引留めて置く方法を考へなければならない。… 22) 前掲『昭和十七年三月 大阪市産業部事業要覧』90 ∼ 91 頁。 23)  草刈は、産業部庶務課長時代に電気局のバスガールの訓練に当たっており、観光艇のマリ ンガールの指導も行った。このマリンガールの数人は市営観光バスのうぐいす嬢から選ば れた(大阪市産業部観光係編「水都観光ルート─流線型観光艇お目見得─」小川市太郎編 『大大阪』第 12 巻第 6 号、大阪都市協会、1936 年、67 頁、赤松文「薄命だった観光艇『水 都』」堀内宏明編『大阪春秋』第 7 巻第 1 号(通巻 19 号)、大阪春秋社、1979 年、62 頁)。 赤松文氏は、明治 42 年(1909)大阪市に生まれ、昭和 14 年の同市役所奉職から終戦前まで、 外国の観光見学団等のため、市内・近郊の名所・産業等の広報などに従事した(山田政弥 編『大阪春秋』第 19 巻第 3 号(通巻 61 号)、大阪春秋社、1990 年、113 頁)。なお、同氏 の名は、本稿の表 1 にも幹事として挙がっている。 24)  伊藤真一「旅館従業員の心掛け」前掲『大阪観光資料叢書─第三輯─』103 頁、前掲「大 阪市の観光事業と旅館の協力」4 ∼ 7 頁。

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先程申しましたやうに、大阪といふものは煙の都でありまして、所謂観 光といふ観念はどうも大阪とはピツタリしない様にも思はれるのであり ますが、然し大体観光といふ言葉は、支那の易経といふ本から出てゐる のであります。国の光を観るといふ言葉から出てゐるのでありますが、 国の光といふことは一体何であるかと申しますと、その国の文化であり ます。産業は勿論風物、その他その地方独特のよい味はひ、香りをいふ のでありまして、単に風光明媚であるといふことだけを云ふのではない のであります。従つてその土地々々によつてその光といふものは違ふ、 大阪でいへば産業上のいろんな施設、あるひはその他都会的な文化とい ふものが大阪の光なのであります。従つて大阪に来て奇麗な山を見よう とか、大阪へ来て奇麗な水を見ようといふことは、これは考へが間違つ てゐるのであります。大阪に来て汚い水を見よう、汚い水を見せようと いふことが本当であります。大阪に来て汚い空気を吸はせようといふの が本当であります。大自然の光もよいが、また鉄で出来上つた精巧な機 械の動き、響は自然の音楽にも優る近代的な妙音を持つてゐます。機械 の響、算盤の音、これは大阪でないと聞かれない。甚だ極端な云ひ方で ありますが、大阪の空気が奇麗で、水が奇麗であれば、一面工場といふ ものは発展してゐない証拠ともなるのであります。この辺の川の水を御 覧になりますと、真黒な水、ずつと下流の方に行くと、染料で染まつた 赤い水青い水が流れてゐる、これは皆大阪の工場から流れてゐる汚い水 であります。これが大阪の光であります。またその川に架つてゐる橋、 これが又大阪の光であります。また煙がドンドン上つてゐる、これが大 阪の光であります。こういふ角度から大阪市を見ますと非常に面白い。 そこで大阪市では僅かな時間で大阪の風光を見て頂くために、観光艇と いふものを作つて二時間ばかりで川を廻つて工場地帯を見せてゐるので あります。観光艇は燃料節約の為めに、今のところ第一、第三の日曜以 外は運転して居りませんが、観光艇──この船は他の遊覧船と非常に趣 きを異にしてゐますが──が動いてゐることによつても、如何に大阪の 文化が他の地方の文化と違ふんだといふことをお考え願ひたいのであり

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ます。  これによれば、大阪市では風光明媚という点よりも、産業施設や都会的文 化に特徴があり、それに伴う汚濁した河川や橋梁及び工場からの煤煙も、観 光の語源25)に則るならば、観光資源であると述べられていることが分かる。 そして、それらを見るため、同市では、短時間で河川を航行して工場地帯を 巡る観光艇が運航されており、他地方の文化とは非常に異なっていることが 主張されている。ここからはまた、観光艇の運航には、大阪市を「煙の都」 としてではなく、汚水を湛えながらもイメージの良い響きをもつ「水の都」 として観光客等に印象付けることが、意図されていたことも窺える。  このように河川の汚濁が問題になっているが、かつて大阪市内の河川はど のような状況であったのかも併せて触れておきたい。以下では、堂島川と土 佐堀川に挟まれた中之島周辺・道頓堀川等の状況について言及する。  第一に中之島周辺の状況について検討する。昭和 17 年 8 月 13 日に大阪都 市協会が主催した座談会において、大阪市保健局作業部長の山崎豊は、「明 治四十二、三年頃は私達も大江橋の日本銀行の脇で水練所があつたので、泳 いだのを覚えてゐる」26)と発言している。同年に、大阪毎日新聞出版局副参 事の上田長太郎も、「昔は河水がもつと綺麗だつた。中之島附近では遊泳も できた。涼み船も出た。その他の支流でも下屋から架け出した桟橋で洗ひ物 などもできた」と記している27)。また同年、大阪水上隣保館長の中村遥は、「大 阪も大江橋の橋下や中ノ島公園から鮎釣りをしたと言ふが如きは今では昔の 夢と化した」と述べている28)。第二に、道頓堀川の状況に関して触れよう。 先の昭和 17 年開催の座談会において、後述する入江新三郎(入江来布)は、 「私は大阪の川の美しかつた水屋時代を知つてゐる。道頓堀も綺麗で附近の 人々は洗濯は勿論、朝の洗面にも使つてゐた。附近の宗右衛門町にも水屋が 25)  観光の語源については、中尾清・浦達雄編『観光学入門』晃洋書房、2006 年、2 頁を参照。 26)  「座談会水の大阪を語る」木村浩編『大大阪』第 18 巻第 9 号、大阪都市協会、1942 年、 46∼ 47・51 頁。 27) 上田長太郎「水都の性格」同上『大大阪』第 18 巻第 9 号、22 頁。 28)  「水上生活者の保健問題 ─水都大阪の河川浄化に就て─大阪水上隣保館長中村遥」同上 『大大阪』第 18 巻第 9 号、24 頁。

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あつた」29)と発言している。これらのほか、巡航船が運航されていた明治 36 年(1903)から大正 2 年(1913)頃には、東横堀川や阿波堀川、その他の川 筋にも川水による布の晒場があった30)  以上から、大阪市では、明治末頃までは、河川を生活に利用することが可 能であり、その後、汚濁が進行していったことが分かる。 三、観光艇の実態 (1)観光艇建造の目的  本節では、前述の草刈の発言にあった観光艇の建造の目的、命名から終焉 までの経緯とその間の運航回数や乗船人数などについて考察していこう。  昭和 10 年(1935)6 月 29 日に開議された大阪市会において、同市助役の 瀧山良一は、観光施設として船舶等を新造するための予算の追加が必要であ るという議案を提出したが、その理由について次のように述べている31) 本案ヲ提出致シマシタノハ、我ガ大阪ガ今日ノ隆盛ヲ見テ居ル所以ノモ ノハ、一ニ本市ノ経営致シテ居リマス港湾ノ施設モダン〵 〳 緒ニツイテ 来テ、海陸両方ヨリ本市ニ入リマス、此ノ多量ノ物資、所謂、産業ノ根 本デアル所ノ活動ヲ、アラユル本市ニ入ツテ来ル多数ノ人々ニ紹介スル トイフコトハ、本市ノ観光施設トシテ、最モ有利デアリ、マタ有意義デ アルトイフコトヲ感ジマシタタメニ、在来、本市ニ来マシテ、直グニ電 29)  前掲「座談会水の大阪を語る」51 頁。水屋は、淀川筋などの川水を「水船」で汲取り回 漕して販売するもので、天保から嘉永期には既に存在していたが、明治 28 年の上水道完 成以後に衰退した(大阪市水道局編『大阪市水道六十年史』大阪市水道局、1956 年、12 ∼ 20 頁)。 30)  塩路吉丁「川柳水都ところどころ」前掲『大大阪』第 18 巻第 9 号、43 頁 31)  大阪市会編『昭和十年六月 大阪市会会議録』大阪市会、1935 年、144 頁。    観光艇の草案は加々美市長によるものであり、市長が市庁舎から見やすい場所ということ で、その南側から発着することに決められたという。しかし、同市長は昭和 11 年 6 月 1 日の就航時には阪大病院に入院中で、堂島川に面した病室の窓から手を振って、艇上から の歓呼に応えたという(「大阪の文化と趣味の観光座談会」瀧山良一編『大大阪』第 15 巻 第 4 号、大阪都市協会、1939 年、65 頁、大阪市コミュニティ研究会編『コミュニティ双 書③ 大阪いまはむかし─市政の逸話とナツメロ─』大阪市コミュニティ研究会、1975 年、 68頁、前掲「薄命だった観光艇『水都』」62 頁)。

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車若ハ其ノ他ノ施設ニ依ツテ陸上ヨリ市ノ一班ヲ見ルコトハ容易デアリ マスガ、市内ヲ多数ニ貫通シテ居ル河川或ハ港湾ヲ一目簡単ニ紹介スル トイフコトハ、何等ノ施設ガナイノデアリマス、コレヲ甚ダ遺憾ニ存ジ マシテ、今日、我ガ大阪産業ヲ完全ニ紹介センガタメニ、此ノ河川ト港 湾トヲ連絡スルニ足ル一隻ノ船ヲ造ヘテ、コレニ約二十名程、三十名足 ラズノ施設ヲシテ、コレニ乗セテ、紹介ノ実ヲ挙ゲタイトイフツモリデ、 先ヅ四万八千円ノ経費ヲ要求シタ次第デアリマス、勿論、港外或ハ船舶 全般ノ関係ヲ調査スルニハ、此ノ一隻ノ船デハ完全トハ申サレナイ、併 ナガラ、コレヲ施行致シマシタ結果、更ニ、大規模ノ観光船ヲ必要トス ル場合ガアルカトモ考ヘテ居リマスガ、取敢ズ本船一隻ヲ要求シタノデ アリマス  これには、大阪の隆盛は産業の根本である海陸両方面からの物流活動など によってもたらされ、それを紹介することが、大阪市内観光には有効かつ有 意義であるとされている。なかでも冒頭からは、その産業発展に市営である 大阪港が深く関わっていることが窺える。そして、陸上からの市内観光は容 易であるが、河川・港湾については何等の施設もないため、両者を連絡する 観光艇の運航が企画されたことが判明する。また将来的には、観光艇は一隻 に止まらず大規模なものが導入される可能性があったことも分かる。  さて、大阪港については、面積・設備・貿易額ではなく「市営の港」であ ることが「本当の誇り」と述べられている。そして、「この事業の規模の大 なること、また、経済、文化方面への貢献の偉大さは、大阪築城と共に、大 阪に於ける古今の二大事業であると言つてもよいであらう」とされていた32) (2)観光艇の命名と終焉  大阪市では、観光艇の命名に当たって、懸賞募集を行うこととし、一般市 民から官製はがき(1 枚に 1 名 1 種限り記載)によって募集するなどの規定 32)  前掲『紀元二千六百年の大阪』60 頁。前述の観光映画の考察において、大阪港は港勢の みから解説されているが(前掲『映画「大大阪観光」の世界─昭和 12 年のモダン都市─』 58頁)、市営である誇りが観光艇建造や観光映画に反映されていたことが看過されてはな らない。

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を昭和 11 年 4 月 21 日に公表した。これは新聞・ラジオによる報道や、大阪 市市電内、市庁舎・公設市場・区役所と同出張所等での掲示によってなされ た。その宛先は大阪市役所産業部懸賞掛で、締切は同年 4 月 30 日着であった。 応募総数は 26,744 通、名称は 5,800 余種にのぼり、5 月 6 日午前 11 時より 中央公会堂において審査委員会が開かれ、審査委員長の瀧山助役をはじめ平 塚電気局長・内山港湾部長・岸本電気局運輸部長・鈴木産業部長・近畿観光 協会大阪支部長・森平兵衛大阪商工会議所交通部長・林安繁の各委員諸氏に よる審議がなされた。同案は先着を採用し、同案同着は天満署員立会の上、 厳重な抽籤がなされた結果、当選は水都、佳作は白鳥・豊国・大淀・かゞみ・ 観光・たかつ・なには・このはな・さきがけ・錦城となり、5 月 10 日に公 表された33)  審査委員長は、前述した観光艇新造のために追加予算を申請した瀧山助役 で、観光映画を制作した電気局と産業部のほかに、港湾部も関わっているこ とが判明する。ここからも、観光艇が大阪港と密接な関係にあったことが分 かる。  この観光艇の規模については既に明らかにされているので、ここでは、主 に室内設備について言及したい。それについては、「船内設備はサロン式に 実用主義を折衷して固定、廻転両様の椅子を取付け、採光、展望、換気は実 に完璧ともいふべき豪華船」であったとされている34)。また、米国サンフラ ンシスコ市の考古学者ウイリアム・エグハト・スケンク氏は「尚船内及連絡 バス、座席の装飾とその調度品が、悉く日本の国産なること、並びにその意 匠が著るしく卓抜せるには感歎した」と述べている35)  この観光艇の運航は毎日午前 9 時(冬季休航)と正午の 2 回で(乗合便)、 夏季日曜と祝祭日はそれらのほかに午後 3 時便が、また団体乗客のため(貸 切便)にも日曜と祝祭日を除き午後 3 時便が設けられていた。乗船料は連絡 33)  大阪市産業部観光係編「水都観光ルート─流線型観光艇お目見得─」小川市太郎編『大大 阪』第 12 巻第 6 号、大阪都市協会、1936 年、65 ∼ 66 頁。 34)  前掲『昭和十三年三月 大阪市産業部事業要覧』72 頁。 35)  「観光艇水都便り 開航第一ケ月の成績(大阪市政ニュース)」小川市太郎編『大大阪』第 12巻第 8 号、大阪都市協会、1936 年、102 頁。

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観光バスを含めて大人 1 円・小人 50 銭であるが、これは観光客・視察客の「産 業都市大阪」に関する認識を向上させるため、営利を排し広く一般の利用を 目的としたからであった。観光艇待合所(淀屋橋北詰桟橋前)は、工費約 9,700 円をかけて、昭和 14 年 5 月に竣工した。  また、観光艇は電気科学館とも連携していた。その場合の料金は、大人 1 円 10 銭、小人 55 銭で、連帯券は淀屋橋の地下鉄切符売場と電気科学館で発 売された。この連携について、大阪市は、水上の観光艇と陸上のバスによる 規定の観光ルートにプラネタリュームでの彗星・天の川といった星空の鑑賞 を加え、大阪市内観光に、さらなる空間的広がりを演出しようとしていたこ とが分かる。   しかし、昭和 13 年 5 月のガソリン規制による自粛から、乗合便の運航は 日曜祭日に限り 1 回となり、貸切便も主として海外団体にのみ利用されるこ とになった。その後の規制強化によって、同 15 年からは一般運航は中止され、 国策遂行上において真に必要と認められる場合、すなわち、海外視察団に対 してのみ運航が行われることになった。また、年代は不明であるが、観光バ スとの連絡も中止となっている。そして最終的に、観光艇は福崎の港湾局の 工場に陸揚げされた後、空襲によって焼失した。その他、観光艇運航には、 地盤沈下により満潮時近くになると橋梁を通過できなくなった、また、定員 超過になっても紹介者を介して乗船を強要する者がいたという問題があっ た36)  ここで、表 9 より、観光艇の運航回数と乗船人数の合計を見ていこう。こ れによれば、昭和 11 年から同 16 年の間に、両者ともに激減したことが分かる。 それは、昭和 13 年以降に顕著になり、前述のガソリン規制の影響が見られる。 一方、同期間内に、満州・蒙古・中国人、その他の外国人の比率は上昇して いるが、それは、既述の国策上の配慮がなされた結果といえる。 36)  前掲『昭和十三年三月 大阪市産業部事業要覧』72 頁、前掲『昭和十五年十二月 大阪 市産業部事業要覧』83・84 頁、前掲「薄命だった観光艇『水都』」62 頁、大阪市産業部編 『観光大阪』大阪市産業部、1937 年、頁付けなし。

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(3)河川沿岸の様相 ①水運による工業発展  以下では、観光艇ルートにおいて、乗船客に特に注目されたのは、どのよ うなものであったのかについて検討していこう。まず、外国人であるロサン ゼルス商業会議所貿易部長シー・エッチ・マットソン夫妻は、大阪港内の水 運と全水路を通じた重要工業の完備に驚嘆したとある。次に、日本人の感想 に関しても、「地方から来市の観光は客は元より、大阪市民の乗客も陸上の 活動は平生日夕目撃してゐても、水を道路とし工場とする真剣の産業大阪の 躍進を、斯くほどまでとは思はなかつた、と今更に驚かれて、次ぎ〵 〳 に宣 伝せられ、連航盛況をつゞけてゐる」とある37)。すなわち、水運による工業 発展は大阪市民にとっても予想外の驚きであり、口コミにより観光艇の盛況 がもたらされたというのである。つまり、これらからは、水運と水運を利用 した工業発展が特に興味深かったことが分かる。以下では、まず、後者の側 面について検討していこう。  この点に関して、作家の吉屋信子が特に熱心に見入っていたのは「造船鉄 工」の盛んな状況であったとされている38)。さらに、昭和 13 年 5 月 13・14 37)  前掲「観光艇水都便り 開航第一ケ月の成績(大阪市政ニュース)」101 ∼ 102 頁。 38)  「観光艇『水都』 盛夏から爽秋の概況」小川市太郎編『大大阪』第 12 巻第 10 号、大阪都 市協会、1936 年、103 頁。 表 9 昭和 11 年から同 16 年における観光艇の運航回数と地域別乗船人数とその比率 (単位:人・%) 運航回数 乗船人数 日本 満州・蒙古・中国 その他の外国 計 昭和 11 年 465 10,952(98.8) 56(0.5) 72(0.6) 11,080(100.0) 昭和 12 年 463 8,367(96.7) 138(1.6) 145(1.7) 8,650(100.0) 昭和 13 年 203 4,601(91.5) 339(6.7) 86(1.7) 5,026(100.0) 昭和 14 年 61 1,582(80.7) 257(13.1) 122(6.2) 1,961(100.0) 昭和 15 年 21 160(40.1) 212(53.1) 27(6.8) 399(100.0) 昭和 16 年 4 37(56.9) 20(30.8) 8(12.3) 65(100.0) 出所) 大阪市産業部編『昭和十七年三月 大阪市産業部事業要覧』大阪市産業部庶務課、1942 年、 94頁より作成。  注 1)括弧内は比率である。  注 2)昭和 11 年は 6 月 1 日から運航開始。

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日の第二回全国都市美協議会(大阪都市協会主催)に参加後、観光艇に乗船 した者の感想等を検討しよう39)。ここでも、鉾流橋が鉾流し神事にまつわり 天神祭の船渡御が出るという説明以外は、工業や近代的な施設に関する風景 の描写が中心で、「進水を了へて今や世界捕鯨戦に乗出さんとする第三図南 丸の偉容を始め、大阪鉄工所の船渠も時節柄超満員だ」と造船業の活況が述 べられていた。また、木津川では、「水都の名物跳上げ橋大船橋と解体船作 業もこゝでゆつくり見られる」とされている。これに関しては、昭和 9 年 7 月 20 日に、大阪都市協会の大阪港見学団によって行われた大阪港湾の巡遊 における記録にも、「木津川両岸に於いては藤永田造船所中山製鋼所等の廃 船解体作業に一行の興味をそゝつた」とあり、解体船作業が興味深いもので あったことが分かる40)  昭和 12 年 7 月に大阪市産業部は、観光艇に沿岸工場主・衛生組合長など 20名を招待して観光ルートを一巡し河川沿岸について語る「観光艇座談会」 を開催した。そこでは、河川やその沿岸における美観・衛生等の問題が取り 上げられたが、そのなかで、大阪商工会議所の川上胤三は「一概に美観とい つても都市の美しさには芸術的な美と経済的、産業的な美と二種類あります よ、二つのうち経済的美観といふのがさし当り大阪の美ですね」と述べてい る。また、参加者が皆、「大阪の美観」と感じた場所は、活発な活動を続け る安治・木津両川下流の重工業地帯であったとされている41)  以上より、水運による工業発展のなかでも、船舶が建造あるいは解体され る様が特に興味深く、また、安治・木津両川下流の重工業地帯が大阪の「美 観」とも考えられていたことが分かる。 ②水運  前述した水運に基づく工業的側面については、説明個所やコースから具体 的な企業名も分かる。一方、シー・エッチ・マットソン夫妻も述べていた大 39)  「視察及び観劇」木村浩編『大大阪』第 14 巻第 7 号、大阪都市協会、1938 年、81 ∼ 83 頁。 40)  「第十二回 大阪港湾見学の記」小川市太郎編『大大阪』第 10 巻第 8 号、大阪都市協会、 1934年、134 頁。 41)  「観光水都あら探し 改善に懸賞美化競争はいかゞ 水都丸で座談会の気炎」『大阪朝日新 聞』昭和 12 年 7 月 14 日。

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阪港内の水運とはどのようなものであったのかは、これまで十分に検討され ていない。そこで次に、その具体的様相を、それに不可欠な荷役をも含めて、 できるだけ明らかにしていくこととする。まず、観光艇運航以前のものであ るが、それとおおよそ同じルートにおける、物理学者で大阪帝国大学初代総 長であった長岡半太郎42)の昭和 8 年 1 月の感想を以下に示そう。 大阪見物といへば、心斎橋筋、堺筋、道頓堀、千日前、各種のデパートや、 劇場であるけれども、市の大動脈である数多の運河を見なければ、市の 真髄に達したとはいはれない。試みにモートル・ボートで、毛馬の閘門 から、安治川へ下り、天保山、築港をみて、木津川口から遡つて、土佐 堀辺まで来ると、その概況を知ることは可能である。左右に大廈高楼を 眺めてボートを走らすかと思へば、傍に白波を蹴立てゝ通るランチがあ る。また荷物を満載して悠々と上下する団平船がある。あはや衝突せん として、急に舵を操り直し、舷々相摩して過ぎ去る船もある。かく数多 の船が輻輳する模様は、恰も雑踏した群衆の間を往来するが如く、安治 川や木津川においては頗る混乱した行動をとらねばならない。しかして 沿岸には倉庫が軒を並べ、市場、諸工場などあつて、まゝ原始的住家と 思はるゝぼろ家もある。そこには洗濯した襤褸を、臆面なく風にぴらつ かせてある。実際目前にちらつく千差万別の景色は、応接に遑がない。 その間にちょつと注目すべき所は、荷物の積み下しである。団平船の集 団は潮汐の工合で、互に接触して毀損する虞があるから、自動車の古い タイヤを幾つとなく、舷側にぶら下げて、接触を緩和してゐる。この廃 物利用の思ひつきは、他所で見当らないが、大阪の船頭さんは、頓智を きかせてゐるところに、観察の価値がある。築港には一万噸余りの船は まだ見えない。運河と港とは互ひに連絡してゐるから荷物は直に荷船に 下して、需要所で揚陸する便がある。かくして運賃は低廉になる点にお いて、運河の妙を実現してゐる。従つて桟橋は乗客用に供せられて、荷 物の揚陸に利用することは欧米大陸にある築港と違ふやうに一見した。 42)  長岡半太郎「大阪といふところ」同『随筆』改造社、1936 年、379 ∼ 380 頁。

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かく無造作に荷が動けば、神戸港も大阪で集散する物資には使用せられ なくなるから、弧城落日の感あるかと推察せらるゝ。大阪の水利は考ふ るより以上に経済的価値を保有してゐる。  まず、長岡は、一般的な大阪の観光資源は各種のデパートや劇場であるが、 同市の大動脈である多数の河川・運河にその真髄があるとしている。次いで、 同人は、団平船などの各種船舶の輻輳及び荷役の様相、なかでも、自動車の 古タイヤによって接触の衝撃を緩和するという廃物利用のアイデアに着目し ている。そして、大阪港で荷船に積み替えた貨物は、河川・運河沿岸で直接 荷揚げできるため運賃が低廉になるなどとして、大阪の水利に、予想以上の 経済的価値を見出している。また、長岡は、美観上の問題も千差万別の風景 を構成するものの一つとしてとらえていたことが分かる。  次に、桜宮から土佐堀堂島の両川、安治川・木津川・尻無川を経て大阪港 へ至るという、観光艇とほぼ同じルートにおける、昭和 17 年の曳船に関し ても触れておこう43)。このルートが大阪の川の幹線であるとされ、曳船は、 これらに出入する大阪及び諸国船舶の運送を助けた。この曳船は、交通信号 もないなかで巧に行き違い、曳船と被曳船の船頭間で、慣れたやり取りなど も見られた。 ③文化・歴史的側面  以上、水運を利用した工業発展と水上交通状態の様相について検討したが、 ここで改めて、観光艇からどのようなものを見ることができたのかについて 検討しよう。これについては、船越氏による「観光艇『水都』遊覧コース」 という表がある44)。しかし、そこには、「観光艇・観光バスの大阪市観光ルー ト」45)という図に示されている、多数の橋梁等の一部は含まれていない。こ の点については、次の通りであった。  観光艇ルートを示すものとしては、他に昭和 11 年の大阪市産業部観光係 によるものがある。ここには、船越氏が挙げていないものが含まれるととも 43)  「曳船 橋の下曳船が吐く輪のけむり」前掲『大大阪』第 18 巻第 9 号、44 頁。 44)  前掲「近代大阪の観光と観光艇『水都』─戦前の産業観光の一例として─」77 頁。 45)  前掲『映画「大大阪観光」の世界─昭和 12 年のモダン都市─』、裏表紙。

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に「説明個所」とある46)。つまり、それらは、観光艇から観賞できるすべて のものではなく、あくまでもマリンガールによる説明対象であり、船越氏作 成の表中のものも、その一部であるといえる。観光艇運航の主要目的は産業 面の観賞であるが、対象物には近代以前のものも含まれている。これらは、 どのような意図をもって選択されたのであろうか。  廣川和花氏は、観光艇のパンフレットで挙げられている、河村瑞軒紀功碑・ 河底地下道と源兵衛渡し(安治川)・明治天皇観艦記念碑(天保山)などは、 観光艇の船上からはっきり見て取ることが可能であったのかという疑問を呈 されている47)。また橋爪節也氏は、豊国神社を近代的都市風景としての中之 島公園一帯における構成上の欠点とする洋画家・小出楢重の随筆を引用しつ つ、観光映画の中で、木村重成の碑や豊国神社などの映像が、モダンな雰囲 気ある空間である中之島の様々な情景のなかに挿入されているのは、「少し 浮いて見えるかもしれない」とされている48)。この木村重成の碑と豊国神社 は、前述の船越氏作成の表にも含まれており、観光艇と無関係ではない。要 するに、両氏の見解からは、観光艇ルートにおける産業的側面以外の近代以 前のものや観賞が困難なものに対する評価が定まっていないことが分かる。 以下では、それらが、どのような意図から取り上げられたのかについて、河 川沿岸の名所旧跡を説明する観光艇の台本を作成した、当時の大阪市観光係 長で俳人でもあった入江新三郎(来布)の考えをもとに検討していく。なお、 観光艇とバスとの連絡も、水陸双方からの観光がふさわしいと考える同人の 46)  前掲「水都観光ルート─流線型観光艇お目見得─」67 ∼ 68 頁。船越氏の表に示されてい ないものは、次のようであった。第一水路では、淀屋橋・大阪市庁舎・銀行集会所・中之 島水上公園・軍艦最上のマスト・八軒家・天満配給場・天満天神、第二水路では朝日会館・ 新船津橋・安治川鉄工所・大阪製鎖所・水上隣保館、第四水路では大日本紡績・東洋紡績・ 船料理・水上生活者(前二者は船越氏作成の表の「紡績工場地帯」に含まれていた可能性 がある)、第五水路では三井物産大阪支店であった。 47)  廣川和花「汚い大大阪─水面にうつるモダン都市・大阪の衛生環境─」前掲『映画「大大 阪観光」の世界─昭和 12 年のモダン都市─』78 頁。 48)  橋爪節也「美観地区・中之島─モダン・イメージを逍遥する─」同上『映画「大大阪観光」 の世界─昭和 12 年のモダン都市─』38 頁。

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案によるものであった49)  昭和 14 年 3 月 3 日に大阪都市協会が主催した観光に関する座談会におい て、入江は、「私が考へて居りますのは、やはり文学的方面でもつと大阪を 知つていたゞきたいといふことを、始終考へて居ます。観光艇が造られまし てから沿道と、少し離れた場所の歴史的の所をちよい〵 〳 説明に取入れて居 るのです。淀川の上流になれば、福島は通らないのですけれども、逆櫓(平 家物語において、源義経と梶原景時が、船の前後進が自在になる逆櫓のとり つけをめぐって、現大阪市福島区福島にある老松の下で論争したという逸話 ─引用者注)の説明をします。福澤諭吉先生が大阪で生れたといふ標柱が現 に沿岸に建つて居るのに誰も知らないのです。慈雲尊者の碑が建つて居るの も知らない。河村瑞軒の碑が建つて居るのも知らないのです」と述べてい 49)  前掲「薄命だった観光艇『水都』」62 頁。  入江は、明治 18 年(1885)に大阪市に生まれ、南区戎橋筋で入江呉服店を経営していたが、 大正 4 年(1915)に大阪市産業部に入り観光係長などを務め、昭和 14 年に退職した。こ の間の昭和 10 年には、産業部勧業係長であったが、関西俳壇の雄として「大阪市庁の名 物三人男」の一人に挙げられていた。俳諧等は、藤沢南岳・松瀬青々に師事した(文司生 「大阪市庁の名物三人男」 小川市太郎編『大大阪』第 11 巻第 3 号、大阪都市協会、1935 年、 86頁、梅花社編『雲外語』梅花社、1956 年、136 ∼ 140 頁)。入江の句集には、この『雲 外語』のほかに、入江来布『銀扇』梅花社、1950 年がある。  なお、松瀬青々については、堀古蝶『俳人松瀬青々』邑書林、1993 年、青木茂夫『評 伝松瀬青々』額田天方、実業印刷、1974 年を参照。  この入江の人柄や作風等については、「法華の熱心な信者になったほど、人間は生真面 目で、その人柄を写した、落着いた好句を残した。…明治四十三年の南の大火で店が焼け てしばらくすると呉服商を廃業して市役所に勤めた。生活の方が不遇で、そのために作句 の中断している時期があるが、句は真面目であった」と述べられている(同上『評伝松瀬 青々』159 頁)。  観光映画に映る水上生活者に関して、「その姿に被せられるマリンガールのナレーショ ンは、全く他人事めいている」(前掲「汚い大大阪─水面にうつるモダン都市・大阪の衛 生環境─」78 頁)とされている。ナレーションを作成したのは入江であるが、上述の同 人の性格や境遇等から考えて、不安定な労働と過酷な環境の中に暮らす水上生活者を他人 事のようには捉えていなかったと思われる。観光映画のナレーション(「映画『大大阪観 光』構成表」前掲『映画「大大阪観光」の世界─昭和 12 年のモダン都市─』88 頁)と、 観光艇水都のナレーション(大阪市編『観光艇「水都」』大阪市、刊行年不詳、頁付けなし) はほぼ同じであることが確認できる。

表 2 大阪視察団斡旋協議会の賛助員 名       称 第一部 (教育関係) 大阪帝国大学(北) ・大阪商科大学(住吉) ・大阪外国語学校(天王寺) ・康徳学院(兵 庫県武庫郡)・天王寺師範学校(天王寺)・都島工業学校(北)・大手前高等女学 校(東)・清水谷高等女学校(東)・夕陽丘高等女学校(天王寺)・本田尋常高等 小学校(西)・精華尋常小学校(南)・集英尋常小学校(東)・汎愛尋常高等小学 校(東)・市立盲学校(南)・豊崎勤労学校(東淀川)・大阪地方専売局(浪速)・ 大阪朝日新聞社(北) ・大阪毎日新聞社

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