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白楽天「老嫗解」考

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Academic year: 2021

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白楽天 ﹁老姫解﹂ 考

一 、 緒 言 白楽天の詩は友人の元微之とともに蘇東城 ︵蘇拭、一〇三六∼一一〇一︶ に ﹁元軽、自俗﹂ ︵元は軽く、白は俗なり︶ と評されて以来、俗っぽいもの として評価が定まった感がある。蘇東披 ﹁祭柳子玉文﹂ ︵﹁柳子玉を祭る 文 ﹂ ︶   に は 、 椅 歎 子 玉 、 南 国 之 秀 、 詩鳴、天錫雄味、元軽、 ︵ ﹃ 東 披 全 集 ﹄ 巻 九 十 一 ︵ あ あ 子 玉 、 南 国 の 秀 、 して、文園に柄蔚たり、 甚敏而文智幸、自幼従横武庫、析蔚文園、燭以 自俗、郊寒、島痩、噴然一吟、衆作卑障。 ﹁ 祭 文 ﹂ ︶ 甚だ敏くして文声発す、幼きより武庫に従横に 独 り 詩 を 以 っ て 鳴 り 、 天 は 雄 味 を 錫 ふ ︵ 注 1 ︶ 。 元は軽く、白は俗、郊は寒く、島は痩せ、噴然として一たび吟ずれば、 衆 卑 随 な り と 作 す 。 ︶ とある︿注2︶。この ﹁卑随﹂ であるとの指摘を承け、同じく末の許顕﹃彦周 詩 話 ﹄ で も 、 東披﹁祭柳子玉文﹂ ﹁郊寒、島痩、元軽、自俗﹂、此語具眼。客見詩 日 ﹁子盛稀自欒天・孟東野詩、又愛元微之詩、而取此語何也。﹂ 僕日

﹁論道富農、取人音怒、此八字、東披論道之語也。﹂ ︵采、許顛﹃彦周 詩 話 ﹄ ︶ ︵東吸の ﹁柳子玉を祭る文﹂ の ﹁郊は寒く、島は痩せ、元は軽く、白は 俗なり﹂ は、此の語具眼なり。客見て詰りて日はく ﹁子は盛んに白楽天 ・孟東野の詩を称へ、又た元微之の詩を愛するに、而るに比の語を取る は何ぞや﹂ と。僕日はく ﹁道を論ずるは当に厳しかるべく、人を取るは 当に恕かるペLとは、比の八字、東披道を論ずるの語なり﹂ と。︶ と、蘇東牧の説を後押しする。白楽天二刀微之らは、人物という点ではとも かくも、詩に載せる道の、雅を傷めてしまう俗っぽさときたら耐えられぬ、 と。 ところで、蘇東被に先立つこと三、四十年前、同じく采の彰乗 ︵生卒年未 詳 ︶ へ 注 3 ︶ は そ の ﹃ 墨 客 揮 犀 ﹄ で 、 白熊天毎作詩令一老姫解之、間日 ﹁解否。﹂ 姫日解則録之、不解則又 復易之。故唐末之詩近於都塵也。︵采、彰乗﹃墨客揮犀﹄巻三︶ ︵白楽天は詩を作るごとに一老姫をして之れを解せしめ、問うて日はく ﹁解するや否や﹂と。姫解すと日へば則ち之れを録し、解せざれば則ち 又た復た之れを易ふ。故に唐末の詩は部侭に近きなり。︶ ・ろフえノ と言っている。いわゆる﹁婆さんにでも分かる詩﹂すなわち﹁老姫の解﹂伝 一貫

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説の始まりであるが、それは、﹁都理に近し﹂すなわち白詩の俗っぽさの原 因が﹁老嬢の解﹂に在ることを指摘していて、以後、自詩評に根強く付き纏 う こ と に な る 。 その後、同じく末の釈恵洪︵徳洪、一〇七一∼二二八︶が、その﹃冷斎 夜話﹄巻一に彰乗のこの評を引用して以来、その他の人士およびその著、た とえば末代では孔平仲﹃談苑﹄︵巻四︶、察正孫﹃詩林広記﹄︵巻十︶、曽憧 ﹃類説﹄︵巻四十八、巻五十五︶等が挙って﹁白楽天は、婆さんにでも分か る詩を作り、俗っぽくなった﹂という一つの伝説を流布させ、寄ってたかっ て﹁白は俗なり﹂ の悪評を鼓吹したため、蘇東被の﹁元軽自俗﹂説と租侯っ て、白楽天は詩人としてもはや一流ではいられない程に旺められてしまっ た。 併せて、同じく采の祝穆も﹃古今事文類衆別集﹄に白楽天の﹁本伝﹂、 ﹁賛﹂、および彰乗﹃墨客挿犀﹄の評語をまとめて引き、 自居易作欒府及詩百線篇、規諷時事、流聞禁中、上見而悦之、召廃翰 林撃士。杜牧之謂、自居易詩織艶不達、非荘人雅士所鳥、流博人間、子 父女母、交口教授、淫言媒語、入人肌骨不可去。或云、欒天毎作詩令一 老姫解之、間日解否、旭日解則録之、不解則不復習之、故唐末之弊至於 任。︵采、祝穆﹃古今事文類衆別集﹄巻九﹁自欒天詩﹂︶ ︵白居易は楽府及び詩百線篇を作り、時事を規諷すれば、禁中に流聞 し、上見て之れを悦び、召きて翰林学士と為す。杜牧之謂ふ、自居易の 詩は織艶にして蓮しからず、荘人雅士の為す所に非ざるも、人間に流伝 し、子父女母、口を交へて教授すれば、淫言媒語、人の肌骨に入りて去 るべからずと。或ひと云ふ、楽天は詩を作る毎に一老姫をして之れを解 せしめ、問うて解するや否やと日ひ、姫解すと日へば則ち之れを録し、 解せざれば則ち復たとは之れに習はず、故に唐末の弊は佳なるに至る と 。 ︶ 二頁 と言っている。彰乗や蘇輪の指摘以前にすでに晩唐の杜牧︵牧之︶も白楽天 の詩を﹁荘人雅士の為す所に非ず﹂と指摘していると付け加え、すなわち白 楽天の ﹁繊艶﹂ であり﹁淫言媒語﹂ であり﹁俗﹂であり﹁僅﹂であるとの評 価はほぼ当初からあったと念押しをする。 これらの評価に対して、たとえば同じく末の胡仔︵生卒年未詳︶は﹃首渓 漁隠叢話﹄︵二四八年成立︶ で、 ﹃冷蘭夜話﹄云、﹁自欒天毎作詩令一老躯解之、間日解否、姫日解則 録之、不解則又復易之、故唐末之詩近於郡促。﹂ 又張文潜︵栗東︶ 云、 ﹁世以欒天詩鳥得於容易、而未嘗於洛中一士人家兄白公詩草敷紙、鮎窺 塗之、及共成篇殆輿初作不件。﹂苔渓漁隙︵胡仔︶ 日、﹁楽天詩経渉浅 近、不至塵如冷評所云。余舌嘗於一小説中骨見此説、心不然之、徳洪 ︵憲洪︶乃取而載之詩話、是豊不思詩至於老姫解烏得成詩也故。余故以 文潜所言、正其謬耳。﹂ ︵采、胡仔﹃漁隠叢話﹄前集巻八︶ ︵﹃冷斎夜話﹄に云ふ、﹁白楽天は詩を作る毎に一老嬢をして之れを解 せしめ、問うて解するや否やと日ひ、姫解すと日へば則ち之れを録し、 解せざれば則ち又た復た之れを易ふ、故に唐末の詩は計理に近し﹂と。 又た張文潜 ︵張未︶ 云ふ、﹁世は楽天の詩を以って容易より得たりと為 すも、而も来嘗て洛中の一士人の家に於いて自公の詩草数紙を見るに、 点宣して之れを塗り、其の成篇に及んでは殆ど初作と倖しからず﹂と。 首渓の漁隠︵胡仔︶ 日はく、﹁楽天の詩は浅近に捗ると錐も、尽くは冷 斎の云ふ所の如きには至らず。余旧と嘗て一小説中に於いて曽て比の説 を見、心に之れを然らずとするに、徳洪︵恵洪︶乃ち取りて之れを詩話 に載す、是れ豊に詩は老躯の解に至りて烏ぞ詩と成るを得んやを思はざ らんや。余故に文潜の言ふ所を以って、其の謬りを正すのみ﹂と。︶ と言い、白楽天を弁護しようとはする。しかし白楽天が﹁浅近﹂であること は少なからず認めており、悪評は払拭し切れてはいない。同じく采の魂慶之

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︵生卒年未詳︶も﹃詩人玉屑﹄巻八 ︵一二四四年成立︶ でこの胡仔の説を繰 り返してはいるが、やはり悪評払拭の力にはなり得ていない。 時代はずいぶん降るが、欧化により文学の通俗性の評価が進んだずっと後 世、﹁老躯の解﹂ ゆえに日韓は俗っぽいという根強い評価に対し、吉川幸次 郎は次のように吾う。 次に ︵白楽天の︶ 第三の主張、或いはこれも主張の一つであったこと を思わせるほどに顆著な現象は、用語の平易さである。その私生活に於 いて平凡の幸福を主張した彼は、詩の表現に於いても、極度に、或いは 過度に、平易な言葉を愛した。日常的な言葉だけでも詩はできる、そう 彼は主張するように見える。また詩の職務は政治への奉仕にある以上、 なるだけ多くの人人に仕え得るように。そう考えたとも見られる。詩が できるたびに、字を知らないばあさんに潰んできかせ、まだどこか分ら ないところは、とたずねたという博説は、倍説ではないかも知れない。 ︵﹃新唐詩選続篇﹄岩波新書一九五四︶ また、郭抹若も次のように言う。 ⋮⋮韓、柳の散文改革は、一種の改良主義にすぎず、彼らは古文の形 式をもちいて封建主義の内容を宣侍した。封建的な支配階級が千年あま りもの間、彼らを歓迎してきたのは昔然である。元、白の ﹁新築府﹂ は いうまでもなく、彼らの ﹁千字律﹂もまたひじょうに人民に近づいたも のであって ー ﹁自欒天の詩はお婆さんにでもよくわかる﹂というのは † ▼   マ マ みんなが知っている ー ﹁荘士雅人﹂ の軽べつや敵視をうけないことの ほうが、むしろ不思議なくらいである。︵﹁片山哲﹃大衆詩人自欒天﹄ 序﹂岩波新書一九五六︶ 吉川、郭抹若ともに白楽天の復権を期し、白楽天は ﹁婆さんにでも分かる 詩﹂ を作り、人民に近づいて、平易で、雅ではない文学を主張したという点 に於いて、好意的な評価を下している。通俗に価値を見出だす近現代では、 この程度の俗っぽさはもはや問題にならず、ここに至って白詩の評価は好転 し て い る 。 ﹁婆さんにでも分かる詩﹂ だから好いという評価が得られたのは良しとし て、そこで問題としたいのは、吉川との評語の差である。片や ﹁字を知らな いばあさん﹂ と言い、片や単に ﹁お婆さんにでも﹂ と言っ・ている。すなわ ち、人民に近づいて、平易で、雅ではない詩とは、﹁字を知らないばあさ ん﹂ にでも解る文学を主張したということなのか、それとも単に ﹁お婆さ ん﹂ にでも解るものを主張したということなのか。両者の見解に、些かの隔 たりが見られる︵注4︶。そして今、この評語の差こそ、一考に値するものと 考 え る 。 そこからは、﹁白は俗なり﹂ という評価と関連する ﹁お婆さん﹂像の問題 が浮上する。もちろん話は伝説ではあるが、吾川は ﹁字を知らない﹂ お婆さ ん像を捉え、郭抹若はいわば ﹁﹃荘士雅人﹄の軽ペつや敵視をうける﹂ お婆 おごそ さん像を捉えていることになる。後者は換言すれば、﹁荘か﹂ ではなく、 ﹁雅﹂ でもないお婆さんである。今その像をさらに換言すれば、いわゆる ﹁ 俗 ﹂   と い う こ と に な る 。 単に ﹁俗な﹂ 婆さんと言うのと、﹁字を知らない﹂ 婆さんと言うのとで は、その像は、やはり異なるであろう。 時代は少し戻り、﹁鬱怒﹂ の詩人と言われる清の爵位二七六五∼一八一 五︶ の絶句﹁又題﹃元日長慶集﹄後﹂ 二首の其一には、 誰識香山絶妙詞、女歌姫解伎弾線。再除一箇鍋林相、肯把黄金買白詩。 ︵誰か識らんや香山絶妙の詞、女は歌ひ姫は解し伎は綿を弾く。再び一 箇の鶏林の相に除せらるれば、肯て黄金を把って自詩を買はん。︶︵注5︶ とある。白香山すなわち楽天の詩に黄金と取り替えてもよい程の購求価値が 三頁

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つまぴ あるのは、ほかでもない ﹁女は歌ひ、姫は解し、伎は綿を弾く﹂ ほどの ﹁絶 妙﹂さが有るからだとし、﹁老躯の解する﹂詩である点を躊躇なく賛美して いる。﹁俗﹂ であることを評価し直そうとする大きな価値の転換がすでに行 われている。誘因は何か︵注6︶。それはやはり、﹁女・姫・伎﹂が理解する詩 ということと関わってこよう。果たして﹁字を知らない﹂老嬢が理解する詩 ということになるのか、再考の余地があると思われる所であって、それを明 らかにするためには、どうしても﹁老躯﹂像を解明する必要がある。 二 、 ﹁ 老 嬉 ﹂ 像 明の愈弁︵一四八八?∼一五四七?︶ は、﹃逸老堂詩話﹄巻下︿注7︶で次 の よ う に 言 う 。 白欒天詩、善用便語、近乎人情物理。元微之錐同稀、差不及也。李西 涯﹃詩話﹄云﹁欒天賦詩、用老嬢解、故失之粗俗。﹂此語蓋出於采僧洪 梵範之妄談、殆無是理也。近世筆者往往因此而蔑裂弗視。呉文定公演 ﹃自氏長慶集﹄有云﹁疏州刺史十編成、句近人情得俗名。重曹請来尤有 味 、 文 人 従 此 真 相 軽 。 ﹂ ︵ 注 8 ︶ ︵白楽天の詩は、善く便語を用ひ、人情物理に近し。元微之は同に称せ らると錐も、差や及ばざるなり。李西涯の﹃詩話﹄に云ふ﹁楽天詩を賦 し、老姫の解を用ふ、故に之れを粗俗に失すJと。比の語蓋し宋僧洪覚 範の妄談より出で、殆ど是の理無きならん。近世の学ぶ者は往々にして 此れに因りて蔑裂として視ず。呉文定公は﹃自氏長慶集﹄を読みて云へ る有り﹁誇州刺史十たび締り成し、句は人情に近く俗たるの名を得。老 に垂んとして読み来たれば尤も味有り、文人此れより相軽んずる莫し﹂ と 。 ︶ 白楽天の詩について﹁老姫の解を用ひ、粗俗に失す﹂と言うのは末の釈恵 四貢 洪︵洪覚範︶﹃冷斎夜話﹄の妄談に過ぎず、そうではなく、白楽天の詩は ﹁人の情、物の理に近し﹂と言える、と評する。とすると、﹁老姫﹂は﹁字 を知らない﹂というのではなく、この愈弁に拠れば、﹁人の情、物の理﹂を 解っているという評価を得られる人ということになる。前掲の杜牧の言って いたような﹁荘人雅士﹂には作ることも解することもできない詩、世俗の人 情と世俗の物の理とを解っている﹁老嬢﹂であってこそ理解できる詩を、白 楽天は当時に在って自らの文学として敢えて主張したことになるのではない か。そして、その点こそ評価に値する、と愈弁は看倣す。﹁俗﹂ の評価とい う点では、古川らに承け継がれる見解である。 そもそも﹁老躯﹂像の原型は、類書などに拠れば、古くは﹃推南子﹄許傍 注に登場する老姫あたりまで遡ることができるのではないか。 歴陽中有老嬢、常行仁義。有雨書生告過之、謂日﹁比国昔投鳥湖、姫 視東城門有血、便走上山、勿反顧也。﹂日比姫敷往視門。門吏間之、姫 封如其言。東門吏殺鶴以血塗門。明日姫早往視門有血、便走上山、固投 鳥潮。︵﹃文運﹄劉孝標r排命諭し李善注引﹃准南子﹄働眞訓﹁夫歴陽 之 都 、 一 夕 反 而 鳥 湖 ﹂ 許 憐 解 ︶ ︵ 注 9 ﹀ ︵歴陽中に老嬢有り、常に仁義を行ふ。両書生の告げて之れに過ぐる有 り、謂ひて日はく﹁此の国は当に没して湖と為るべし、姫東の城門に血 有るを視ば、便ち走りて山に上れ、反り頼る勿かれ﹂と。此れより姫致 しば往きて門を視る。門吏之れに問へば、姫対ふること其の言のごと し。東門の吏鶏を殺して血を以って門に塗る。明日姫早に往きて門に血 有るを視れば、便ち走りて山に上るに、国没して湖と為る。︶ ここの老姫はr仁義﹂を行う人だとある。﹃准南子﹄に於ける ﹁仁義﹂ は、高誘注に﹁仁義小、道徳大也﹂ ︵仁義は小なり、道徳は大なり︶と言う ように、.大道である﹁道徳﹂が廃れた後に登場する下位の道徳概念ではある が、﹁泰族訓﹂ に﹁仁義者治之本也﹂ ︵仁義は治の本なり︶と言い、﹁行仁義

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ル 之道以治人倫﹂ ︵仁義の道を行ひて以って人倫を治む︶ と言うように、人倫 を安定させ得る。﹁本経訓﹂ ではさらに ﹁夫仁者所以救争也、義者所以救失 也﹂ ︵夫れ仁は争ふを救ふ所以なり、義は失ふを救ふ所以なり︶ と言うよう に、﹁仁義﹂ を行えば人倫が安定し、具体的には、争いと失礼とを防ぐ。 ここの老嬢もそのような為人の人物として、欺瞞の役人とは対比的に描か れ、その役人に欺かれながらも書生の告知に従うという﹁仁義﹂ を行い、被 災を免れている。これは類型を成すまでには発展しないものの、後の﹁老 嬢﹂ 像の一つの原型ではあろう。 ﹁凧文韻府﹂・等の類書に拠れば、﹁老嬢﹂像の一つの原型として、さらに 次のような著名な例が挙げられる。漢の高祖の践詐譜である。 高祖被酒、夜経澤中、令一入行前、還報日 ﹁前有大蛇、富樫。顧 還。﹂高祖酔日 ﹁壮士行何畏。﹂ 乃前抜鋤斬蛇、蛇遂分鳥雨、得開、行 数里、酔因臥。後人爽至蛇所有、一老嬢夜笑、人間 ﹁何笑。﹂姫日 ﹁人 殺吉子、故実之。﹂ 人目 ﹁嬉子何烏見殺。﹂ 姫日 r吉子自帝子也。化鳥 蛇書道、今烏赤帝子斬之。﹂因忽不見。⋮⋮︵﹃史記﹄高祖本紀第八︶ ︵高祖酒を被り、夜に沢中を経るに、一人をして前を行かしむれば、還 りて報らせて日はく﹁前に大蛇有り、樫に当たる。願はくは還らんこと を﹂ と。高祖酔ひて日はく ﹁壮士行くに何をか畏れん﹂ と。乃ち前みて 剣を抜きて蛇を斬れば、蛇遂に分かれて両と為り、径開かれ、行くこと 数里、酔ひて因りて臥す。後人来たりて蛇の有る所に至れば、一老躯夜 に実するに、人﹁何をか笑する﹂と間へば、姫日はく﹁人音が子を殺 す、故に之れを果す﹂と。人目はく﹁姫が子何為れぞ殺さる﹂と。姫日 はく﹁吾が子は自帝の子なり。化して蛇と為り道に当たるに、今赤帝の 子のために之れを斬らる﹂ と。因りて忽ち見えず。⋮⋮︶ ﹁吾が子﹂すなわち蛇に身を変えていた﹁自帝の子﹂を、﹁赤帝の子﹂ ︵劉邦︶が斬ったと言って突く﹁老姫﹂は、自帝の妻ということになる。神 仙界の補佐役的、もしくは老母的存在であり、その ﹁老嬢﹂が神託というか たちで結果的に劉邦の将来を告げている。 この原型は、類書などに見られる次の二つの類型に発展する可能性を持つ ものと考えられる。 一つは子や孫を戦で失う老姫、もう一つは若者の将来の成功を告知する老 嬢である。予め言っておけば、前者後者いずれの老嬢も﹁字を知らない﹂人 であることは見えて来ない。そして、前者は ﹁人の情、物の理﹂ に近い。 ア、子や孫を戦で失う老旭 まず前者の ﹁老躯﹂像であるが、時代は降り、よく知られる杜甫の ﹁石壕 吏 ﹂   詩 に 、 ⋮⋮老姫力錐表、請従吏夜蹄。急應河陽役、猶得備展炊。⋮⋮ ︵⋮⋮老躯は力衰ふと錐も、吏に従って夜帰するを請ふ。急かに河陽の 役に応ぜば、猶は展炊に傭ふるを得んと。⋮⋮︶ という句が見える。この ﹁老嬢﹂は、三人の息子を全て徴兵で取られ、年老 いた夫や年端もゆかない孫までも兵役に駆り出されそうになり、それなら自 分を連れて行け、飯炊きくらいはできるから、と役人に詰め寄っている。愈 弁の言う﹁人の情、物の理に近し﹂とは、白楽天﹁諷諭﹂詩に見られる主張 はは に鑑らせば、戦に吾が児や夫を取られて笑する嬢や妻の情等を指すと考えら れるが、この杜甫﹁石壕吏﹂詩には、既にそれをよく解っている﹁老嬢﹂が 浮 上 し て 来 て い る ︵ 注 1 0 ︶ 。 杜甫のこのような﹁老嬢﹂ の捉え方は、同時代では理解されにくかったと 言われるものの、やがては一つの類型となり、次のような詩として承け継が れ て 行 く 。 五頁

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元従追上住、来比避兵興。密教朝充食、松明夜営燈。蔽門麻革奉、護壁 石層層。老姫逢人笑、吉見在謝陵。︵采、戴復古﹃石屏詩集﹄巻二 ﹁望 花 山 張 老 家 ﹂ ︶ ︵元より辺上に従ひて住まひ、此に来たりて兵の興こるを避く。奔挫朝 に食に充て、松明夜に燈に当つ。蔽門は麻草々と、譲壁は石層々たり。 老嬢人に逢ひて芙す、轟が児は謝陵に在りと。︶ 田家老姫倶垂白、敗屋斎條無牡息。翁捕鎌索姫摘箕、日向薄田牧黍稜。 静夜倫香避債家、比明門外巳如麻。筋疲力傲不入腹、未議鯨官租税促。 ︵ 来 、 司 馬 光 ﹃ 温 圃 文 正 司 馬 公 文 集 ﹄ 巻 二   ﹁ 道 傍 田 家 ﹂ ︶ ︵田家の老姫倶に白きに垂んとするに、敗屋斎条として壮息無し。翁は 鎌索を携へ姫は箕を携へ、自ら薄田に向かって黍稜を収む。静夜倫かに お上 呑きて債家を避くるも、明くるに比べば門外巳に麻のごとし。筋疲れ力 絞れて腹に入らざるに、未だ議せざるの県官租税促す。︶ 一首目の采の戴復古 ﹁花山の張老の家を望む﹂詩には、﹁一老姫逢人必大 笑云﹃我見在謝陵、不幹也。﹄光州有謝陵橋、其子奥虜戦死干比。﹂ ︵一老躯 人に連へば必ず大いに果して云ふ ﹁我が児は謝陵に在りて、帰らざるなり﹂ と。光州に謝陵橋有り、其の子虜と戦ひて比に死す。︶ という自注が付いて い る 。 これらに詠まれる ﹁老姫﹂ は杜甫の詠んだ像と同じく、官の横暴により若 き男手を兵に取られ、老いて疲弊しきった民である。したがってこの ﹁老 躯﹂ も身をもってそのような民情を解っている人ということになる。 そのような悲酸な状況ばかりではなく、しばしの憩いといった生活感を得 ている ﹁老姫﹂像も、末代には見られなくもない。たとえば ﹁永嘉の四霊し のひとり徐照の捉える ﹁老姫﹂ には、 漁師得魚続演責、小船横繋柴門外。出門老嬢喚親犬、牧欽蓑衣屋頭晒。 六責 責魚得酒又得銭、蹄来酔倒地上眠。小見嘲嘲問煮米、白鴎飛去崖花煙。 ︵ 采 、 徐 照   ﹁ 分 題 得 漁 村 晩 照 ﹂ ︶ ︵漁師魚を得て湊を練りて売り、小船横に繋ぐ柴門の外。門を出でて老 嬢鶏犬を喚び、蓑衣を収赦して屋頭に晒す。魚を売り酒を得て又た銭を 得、帰り来たり酔ひて地上に倒れて眠る。小児喉々として米を煮るかと 間 へ ば 、 白 鴎 飛 び 去 っ て 産 花 煙 る 。 ︶ と詠まれるような者もある。しかし、類型として捉えるならばこの例は除か れよう。やはり悲酸な者であることの方が多い。それは次の時代にも承け継 がれる。たとえば明の陳基の詩には、 歳暮渉准海、不辞行路難。従軍豊不襲、即事毎長嘆。老嬢八十線、日哺 未朝娘。自云遭乱離、零落途路間。豊無子輿孫、充軍皆不運。男戦陥賊 墨、孫存隔河山。敷月無消息、安能顧飢寒。語畢斐涙垂、使我心悲酸。 上天未悔禍、射虎方措息。近聞山東襲、世路復多端。悠悠顛挿入、何時 即 平 安 。 ︵ 明 、 陳 基 ﹃ 夷 白 倉 藁 ﹄ 巻 三   ﹁ 述 老 嬢 語 ﹂ ︶ ︵歳暮推海に捗り、行路の難きを辞せず。従軍豊に楽しまざる、事に即 ひぐ きては毎に長嘆す。老嬢八十線、日哺るるも未だ朝娘せず。自ら云ふ乱 離に遭ひ、途路の間に零落すと。豊に子と孫と無からんや、軍に充てら れて皆還らず。男は戦ひて賊墨に陥ち、孫は存するも河山を隔つ。数月 消息無し、安んぞ能く飢寒を顧みんや。語畢きて双涙垂れ、我が心をし て悲酸たらしむ。上天未だ禍ひを悔いず、財虎方に息ひを措ふ。近ごろ 聞く山東の変、世路復た多端なりと。悠々たり顛柿の人、何れの時にか 平 安 に 即 か ん や 。 ︶ と見える。明代になっても依然として r老姫﹂ は、細い多き世路に零落し、 男手を子ばかりでなく孫までも戦争に取られ、飢えや寒さに苦しむ、いつま でも平安を得られない顛柿の人である。

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白楽天も、そのような俗世の理不尽に身を疲弊させている﹁老嬢﹂ が、決 して ﹁荘人雅士﹂ ではないからこそ、むしろ我が作る詩の理解者となり得る と考えたのではないだろうか。それを所詮、童習姫解の詩であると旺めてし まえば、当然のことながら ﹁俗﹂ に失して ﹁雅﹂とは評価され得ず、郭沫若 の指摘するように ﹁荘人雅士﹂ の軽蔑、敵視をうけるという結果をももたら す に 至 る 。 . ただし少なくとも、歴代の ﹁老姫﹂ は、以上のような杜甫の詩およびそこ から形成されてきた類型的な像からも分かるように、必ずしも ﹁字を知らな い ﹂   人 だ け を 意 味 し な い 。 ィ、若者の将来の成功を告知する老嬢 次に、前掲の ﹁老姫﹂ 両類型のうちの後者について見たい。 まず、白楽天の俗っぽさを指摘した張本人とされる﹃冷斎夜話﹄の著者、 采の釈恵洪であるが、彼は別の著書﹃石門文字禅﹄では、次のような老嬢を 取 り 上 げ て い る 。 蒋師初輿異僧淋天台、渡渓方悟其馬具也、悔不能早織之、且購折其 脛。而後巳尋、北済値老姫於洛下、輿之語多所鞍築、遂待以師穂、姫知 其非尋常人、倖更謁江西大寂。既至而祖巳化去、捻月臭。而見其子海 公、海以所嘗悟明之縁示之、公悟大法於言下。︵﹃石門文字帝﹄巻二十 五   ﹁ 題 断 際 掃 師 語 録 ﹂ ︶ ︵ 注 目 ︶ ︵禅師初め異僧と天台に淋び、渓を渡りて方めて其の異と為すを悟る や、早に之れを織る能はず、且つ将に其の脛を折らんとするを悔ゆ。而 る後に巳に尋ね、北のかた淋ぶに老姫に洛下に値ひ、之れと語りて発薬 する所多く、遂に師礼を以って待すれば、姫其の尋常の人に非ざるを知 り、更に江西大寂に謁せしむ。既に至れば祖巳に化し去り、月を途えた り。而して其の子の海公を見るに、海嘗て悟明する所の縁を以って之れ に 示 せ ば 、 公 大 法 を 言 下 に 悟 る 。 ︶ 釈恵洪の日に映った ﹁老姫﹂ は、断際禅師に悟りを開く契機を与える老師 格 の 存 在 で あ る 。 こ の 話 は 、 李 白 の   ﹁ 老 姫 磨 鍼 ﹂   の 伝 説 を 想 起 さ せ る ︵ 注 は ︶ 。 磨鍼渓在彰山醇象耳山下。相博、﹁李白韻書山中、撃未成棄去、通過 是演、逢老嬢方磨鱈杵。間何鳥、日欲作鍼。自感遂還卒業。﹂ ︵﹃淵鑑類 ・ 函 ﹄ 巻 三 十 三 引 ﹃ 統 志 ﹄ ︶ ︵磨鍼渓は彰山県象耳山の下に在り。相伝ふ、﹁李自書を山中に読み、 学未だ成らずして棄て去るに、適たま是の渓を過ぎ、老嬢の方に鉄杵を 磨くに逢ふ。何をか為すと間へば、鍼を作らんと欲すと日ふ。自感じて 遂 に 還 り て 業 を 卒 ふ ﹂   と 。 ︶ この ﹁老姫﹂ も、よく知られるように、李白に学業を成就させている。老 師格としての像は、すでにここに見えていることになる。 その原型は、恐らくは更に次のような、出会った若者を非凡の者と見抜く 老嬢の故事まで遡ることができるのではないか。 曹劉道眞遭軋、於河側牽虹、見一老嬢格櫓。道眞嘲之日 ﹁女子何不調 機弄抒、困甚勇河格櫓。﹂ 答日 ﹁丈夫不跨馬捧鞭、因甚勇河牽虹。﹂ 又 嘗興人坤中岡盤共飲、見一姫終繭小見過、並着青衣、嘲之日 ﹁青草引壁 煮。﹂婦人日 ﹁両猪共一槽。﹂道眞無以封。︵采、玩閲﹃詩話練錮﹄前巻 三 十 七   ﹁ 議 論 門 ﹂   下 引 ﹁ 唐 、 趨 境 ﹃ 因 語 録 ﹄ ﹂ ︶ ︵晋の劉道真乱に遭ひ、河の側に於いて虹を牽くに、一老躯の櫓を揺ら なに すを見る。道真之れを嘲りて日はく ﹁女子何ぞ機を調べ梓を弄せず、甚 に因りてか河を勇らにして櫓を揺らす﹂ と。答へて日はく﹁丈夫馬に跨 がりて鞭を拝はず、甚に因りてか河を奔らにして虹を牽く﹂ と。又た嘗 七頁

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て人と州中にて盤を同にし飲を共にするに、一姫の両小児を将ゐて過 ぎ、並びに青衣を着るを見、之れを嘲りて日はく ﹁青草双薫を引く﹂ と。婦人日はく ﹁両猪一槽を共にす﹂ と。道真以って対ふる無し。・︶ 機知を効かせることのうまい、一つ格の上の ﹁老姫﹂が登場している。た だしここではまだ若者の才を見抜く ﹁老嬢﹂ とまでは言えない。劉道真 ︵ 宝 ︶   に は も う 一 つ 逸 話 が あ る 。 劉道眞少時常漁草澤、善歌嘘、間者莫不留連。有⊥老姫、識其非常 人、甚欒其歌噴、乃殺豚進之。道眞食豚轟、了不謝。姫見不飽、又進一 豚、食半飴半乃還之。後鳥吏部郎、姫見鳥小令史。道眞超用之、不知所 由。間母、母告之。於是清牛酒諸道眞、道眞日 ﹁去、去、無可復用相 報 。 ﹂   ︵ ﹃ 世 説 新 語 ﹄ 巻 下 之 上   ﹁ 任 誕 ﹂ 一 七 ︶ ︵劉道真少き時常に草沢に漁し、善く歌哺すれば、聞く者留達せざる美 し。一老躯有り、其の常人に非ざるを放り、甚だ其の歌境を楽しめば、 乃ち豚を殺して之れに進む。道真豚を食して尽くすも、了に謝せず。姫 飽かざるかと見、又た一豚を進むれば、半ばを食し半ばを験して乃ち之 れを還す。後に吏部郎と為り、姫の児は小令史と為る。道真超えて之れ を用ふれば、由る所を知らず。母に開ふに、母之れを告ぐ。是に於いて 牛酒を裔らして道真に謂れば、道真日はく ﹁去れ、去れ、復た用つて相 報 ゆ べ き 無 し ﹂   と 。 ︶ 劉道真の歌っていたのはその志の現れた ﹁歌哺﹂ ではなかったかと推測さ れるが、ここには若者のそのような歌に込められた思いの解る、またそれを 聞き取ることで若者が非凡の人物であることの解る﹁老姫﹂がいる。 このような、若者の将来を占う﹁老姫﹂像は、その原型をさらにある種の 仙人澤まで辿ることができるように思う。 八頁 汝南何比干、字少卿、鳥汝陰栢獄吏決曹操、平活数千人、後篤丹陽都 尉、獄無寛囚。准汝親日 ﹁何公。﹂ 征和三年三月辛亥、天大陰雨、比干 在家、日中夢、貴客車騎蒲門。党以詰責、語末巳、而門有老躯、可八十 線、頭目、求寄避雨、雨甚而衣履不箔潰。雨止、送出門、乃謂比千日 ﹁公有陰徳、今天錫君策、以康公之子孫。﹂ 因出懐中符策、状如鮪、長 九寸、凡九百九十枚、以授比千、日 ﹁子孫侃印綬者、昔随比算。﹂姫東 行忽不見。日比干以下、輿張氏倶授整瑞、累世島名族。三輪者語日 ﹁何 氏策、張氏鈎也。﹂ ︵明、董斯張﹃廣博物志﹄巻十六引 ﹁漠、趨岐﹃三 輪 決 録 ﹄ ﹂ ︶ ︵汝南の何比干、字は少卿、汝陰県の獄吏決曹の操と為り、数千人を平 活し、後に丹陽の都尉と為り、獄には寛囚無し。推汝は号して ﹁何公﹂ と日ふ。征和三年三月辛亥、天大いに陰雨あり、比干家に在り、日中、 貴客の車額の門に満つるを夢みる。覚めて以って妻に語れば、語末だ巳 はらざるに、門に老躯有り、八十線ばかりにして、頭は白く、寄りて雨 を避けんことを求むるに、雨甚しきも衣膚は霹漬せず。雨止み、送りて 門を出づるに、乃ち比千に謂ひて日はく ﹁公には陰徳有り、今天は君に 策を錫ふ、以って公の子孫を広くせん﹂と。因って懐中の符策を出だせ ば、状は蘭のごとく、長さ九寸、凡そ九百九十枚、以って比千に授け て、日はく﹁子孫の印綬を侃する者、当に此れに随ひて算ふべし﹂ と。 姫東のかた行きて忽ち見えず。比千より以下、張氏と倶に霊瑞を授か り、累世名族と為る。三輪旧語に日はく﹁何氏の策、張氏の鈎なり﹂ と。︶︵注13︶ ここで何比千の隠徳を見抜いた不思議なr老姫﹂ は、天帝の使いであり、 仙 界 の 存 在 で あ る ︵ 注 1 4 ︶ 。 以上のような、若者の非凡な才を見出だし、将来を告知する﹁老姫﹂ は、 次の例のように類型化して行く。 一

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襲航遇雲覿夫人、輿詩云 二飲攻妓百感生、玄霜鴇露見雲英。藍橋便 是神仙路、何必匿匝上玉京。﹂ 後経過藍橋渇、一合有老姫、揖之求棟、 姫令雲英撃一顧焚水飲之。航欲襲雲英、姫日 ﹁但得玉梓玉自首輿之。﹂ 後航得杵臼鳥璃桑、遂得要而仙云。︵采、祝穆﹃古今事文類爽前集﹄巻 三 十 四 引 ﹁ 唐 、 襲 鍋 ﹃ 博 奇 ﹄ 襲 航   ︵ ﹁ 藍 橋 遇 仙 ﹂ ︶ ﹂ ︶ ︵襲航は雲勉夫人に遇ひ、詩を与へて云はく ﹁一たび壌燦を飲まば百感 生じ、玄霜摘き尽くして雲英を見ん。藍橋は便ち是れ神仙の路、何ぞ必 ずしも区々として玉東に上らんや﹂と。後に藍橋を経過して渇くに、一 合に老嬢有り、之れに拝して焙を求むれば、姫は雲英をして一甑の焼水 を蟄げて之れに飲ましむ。航は雲英を要らんと欲すれば、旭日はく ﹁但 だ玉杵玉臼を得て当に之れに与ふべきのみ﹂と。後に航は杵臼を得て為 に薬を摘き、遂に要るを得て仙たりと云ふ。︶ ここで襲航に得仙の将来性のあることを見抜いた ﹁老嬉しも、この唐代伝 奇︵製鋼﹁襲航﹂︶ の後半で、月の仙人であることが明かされている︵注は︸。 さらに、次のような例も見られる。 郷人危紋應革探省棟、出門敷歩逢泥棒。老嬢指示秀才可低虞過、危即 従之。看梯最末有名、是歳果及第。︵宋、祝穆﹃古今事文類衆別集﹄巻 三 十 二   ﹁ 出 門 應 譲 ﹂ ︶ ︵郷人の危叙は挙に応じて省接を探すに、門を出づること数歩にして泥 棒に逢ふ。老躯指して秀才低処に過ぐべLと示せば、危は即ち之れに従 ふ。棟を看れば最末に名有り、是の歳果して及第す。︶ ここにも ﹁老姫﹂ の指示に従うことによって科挙及第の託宣を授かる危叙 と い う 若 者 が い る 。 あるいは白楽天もそのような ﹁老嬢﹂ 像のあることは知っていて、自らも その託宣を得るべく老嬢に詩を見せた ︵そのような意図のもとに伝説が作ら れた︶ とすると興味深いが、もはやそれは本題から外れて来よう。 話を戻すが、これら、非凡な若者の将来を告知する不思議な ﹁老嬢し像 も、杜甫詩の類型で捉えたのと同様、一つの類型とは成っているものと考え られる。ただしそこからも、﹁字を知らない﹂ 人は見えて来ないように思わ れ る 。 もっとも、白楽天 ﹁老嬢解﹂ の ﹁老姫﹂ が右のような像にまで辿り着いて しまうと、逆に白楽天が意見を求めた ﹁老躯﹂ 像とはかけ離れてしまうよう に思う。白楽天は自分や自分の文学の将来性を老嬢に占ってもらうために、 その託宣を得たいがために、自作について意見を求めているのではないであ ろう。あくまでも自らの詠んだ民情が民間に通用するかどうかを確認するに 止まるのではないか。 とすれば、白楽天が詩を見せたとする ﹁老姫﹂ は、以上の ﹁二﹂ で捉えた 類書等に見られる両類型のうち、後者、すなわち若者の将来を占う仙人評.の 延長線上に在る像がそれだとするよりも、やはり前者、すなわち杜甫の詩に 詠まれたような像をもってする方が、この両者から選択する限りに於いて、 妥当であるように思われる。 ′ 三、結語 以上の考察からは、白楽天 ﹁老嬢解﹂ の ﹁老躯﹂像として、仙界の老母的 要素を持ちつつも︿注16︶、明の愈弁﹃逸老堂詩話﹄が指摘していた白詩の持 つ ﹁人情物理に近し﹂ という要素が賦与された人物、すなわち俗情民情をよ く理解している人物という像が、やはり浮かび上がってくる。それは例え はは ば、戦に吾が児や夫を取られて突する嬢や妻の情を持つということになる。 つまび 清の許位が白楽天の ﹁女は歌ひ、姫は解し、伎は林を弾く﹂という状況を創 出している自詩に価値を見出だしたのも、彼女たちが女性の立場から自詩の 持つそのような﹁人の情、物の理﹂ を ﹁絶妙﹂ だと評価していたと見てのこ とではないか。そしてそれこそが ﹁老嬢の解﹂ を得て白楽天が表出した自詩 九頁

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の主張そのものであろう。 それを ﹁俗﹂ と呼び、﹁雅﹂ でないとして旺めるのであれば、それはそれ で、また一つの価値観であろう。しかしそれは、少なくとも白楽天が頼った 老躯を ﹁字を知らない﹂ 人物と看撤して醒めている批評としては、管見の及 ぶ限りでは、見えて来ないように思う。 朱日清の r雅俗共寅﹂ 論︵往け︶に拠れば、明清以降は ﹁官は逼り民は反 く﹂ こそが民の ﹁常の惜し としてテーマになり得る。そして通俗文学が始ま る。白楽天は ﹁民反く﹂ とまでは言い切れないまでも、杜甫を承け、﹁諷 諭﹂詩によってすでにその方向を打ち出している。白楽天にとっては、それ こそが主張すべき ﹁人の情、物の理﹂ であったからこそ、伝説に基づけば、 そこで老姫の見解を求めたのではないだろうか。ただ如何せん、宋代以前の 評価基準に鑑らせば、より高く評価されるべき ﹁雅﹂を傷めてしまっている 嫌いはある。そういう意味では、主張を ﹁老姫の解﹂ に託したことは、却っ て ﹁俗しな ﹁お婆さんにでもよく分かる﹂詩でしかなかった。︵本格的な再 評価は明清以降を侯つことになる。︶ なお、白楽天は幼い頃、父は地方官で家にいないことが多く、その教育は 母親や外祖母が担っていたと言う︵注18︶。おそらく、使用人も含め、家の女 性達は皆でこの男の子の教育に当たっていたのではないか。白楽天は後に元 微之に与えた手紙 ︵﹁輿元九書﹂︶ の中で、自らの幼少の頃を次のように回 想 し て い る 。 僕始生六七月時、乳母抱弄於書屏下、有指r無し字﹁之﹂字示僕者、 僕経口未能書、心巳献織。後有間此二字音、錐百十其試、而指之不差。 ︵侯始めて生れて六七か月の時、乳母抱きて書屏の下に弄び、﹁無﹂字 ﹁之﹂字を指して僕に示すこと有り、僕口は未だ言ふ能はずと錐も、心 は巳に黙して織れり。後に比の二字を間ふ者有り、百十たび其れ試みら る と 錐 も 、 雨 も 之 れ を 指 し て 差 は ず 。 ︶ ︵ 注 1 9 ︶ 一〇頁 すでに﹁乳母﹂が幼い白楽天の文字教育に参加していることが知られる。 白楽天が成長したのち自らの詩を読んでもらい、﹁解するや否や﹂ を問うた ﹁老姫﹂も、あるいは家に在ったこのような女性ではなかったか。元の辛文 房﹃唐才子伝﹄巻六には、﹁自居易⋮⋮毎成篇必令其家老姫讃之、間解則 録﹂ ︵自居易は⋮⋮簾を成すごとに必ず其の家の老嬢をして之れを読まし め、問うて解すれば則ち録す︶ とある。勿論﹁老嬢の解し伝説を承けてのこ と で は あ る が 。 注1、﹁味﹂は、鳥のくちばし。ここは詩人としてものを言う座れた口。 注2、朱日清﹃論雅俗共貧﹄︵三聯書店一九八三︶ に拠れば、末代にも﹁稚俗共賞﹂輪は 進められたものの、黄山谷が ﹁以俗鳥雅﹂説を主張し、蘇東被、梅聖魚も﹁俗不傷雅﹂ 説を志向したために、結局は ﹁俗不可耐﹂ となったと言う。 注3、彰乗 ︵彰城︶ は、花仲沌 ︵九八九∼一〇五二︶ と同時代の人。 注4、﹁お婆さんにでも﹂ や ﹁字を知らないばあさんL という青い方は、見方によっては、 そこに偏見や蔑視を認め得る。 注5、許位﹃瓶水粛詩集﹄巻七 ︵塞清新文豊出版公司印行﹁叢書集成新編﹂第七二冊所収︶ による。爵位のこの詩については、王拾遺﹃白居易博﹄︵快西人民出版社一九八三︶ が既に取り上げている。また、紆位の略歴等については、﹃中国詩話辞典﹄︵北京出版社 一九九六︶ に詳しい。なお、絶句中の r鶏林相﹂ は﹃新唐書﹄巻一百十九 r自居易 伸し の ﹁⋮⋮居易於文章締切、然農工詩。初頗以規諷得失及其多更下偶俗好至数千篤、 昔時士人事倍、鶴林行賃曽其圃相、率篇易一金・⋮=﹂ を踏まえる。r鍋林賓﹂ は新羅の 商人。詩文が精美であれば、人が購求するの意。 注6、朱日清r輪雅俗共賞﹄︵三聯書店一九八三︶ は、元明のr西府紀﹄﹁水耕伝b以降、 r官遥民反﹂説が進んだからであると言う。 注7、﹁歴代詩話績篇﹂ ︵蔓楕塾文印書舘一九七四︶ 所収による。 注8、李西渡r詩話﹄は明の李東陽︵貴之︶﹁憬麓堂詩話亘 呉文定公の詩は明の呉寛︵原 博︶ ﹁校白集雑書J六首之二 ︵円熟翁家蔵集﹄巻二十四所収︶ を、それぞれ指す。 注9、この文の前に、許侠解として﹁歴陽、准南之絡名、今属九江郡しとある。 注10、朱日清r論雅俗共賞﹄︵三聯書店一九八三︶ に言う﹁官道民反Jの先行例とも言え る。

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注11、﹁枝美﹂ は、薬を施すように人に善言を勧める意。r大寂j は江西婦の姐、大寂馬祖を い う 。 注は、明の王陽明r王文成公全書﹄附録巻二に r眞武山中久坐無得、欲棄去、感老堰磨針之 喩、復入山中二十年、速成至道﹂ と見え、また同じく明の貝環r清江集﹄にも﹁季候卒 業 於 磨 鍼 ﹂   と 見 え る 。 注13、この ﹁何氏清括﹂ ︵r何氏の策J︶ の故事は、r捜神記﹄巻九にも見える。r平活﹂ は、 寛 囚 を 救 う 意 。 注14、清の銭鎌益はこの故事を典故として好んで用いている。たとえば ﹁凋亮工六十序﹂ に は ﹁史橋、何比干、輿張湯同時、用法仁恕、敷輿湯奉、所清活着以千敷。天帝使老嬉賜 策日r公有陰徳ご帝賜策九十九枚、子孫鳳印綬、営以此算。﹂ ︵r牧膏有拳集b巻第二十 二︶ と何比千の故事を引用し、凋亮工を比千に舞えてその陰徳 ︵隠徳︶を称える。類型 化しているためであろう。 注15、鼓綱r褒航﹂ に ﹁航又開嬢簗蜜、因窺之、有玉免持杵臼、而雪光輝塞、可羞毒芝、於 是航之意愈堅﹂ とある ︵圧砕痩r唐人小説﹄上海古詩出版社一九七八︶。 注16、r鵡記し業記の ﹁勲娼﹂は、体温で温め育てる意であるが、r老嬢﹂は﹁老庭﹂と言う のと同じく、もともと温かさの意をもつ。したがってこの経は、自ずと老親的存在の概 念 を 伴 う 。 注17、朱日清︻鎗雅俗共賞し︵三聯書店一九八三︶ 所収。 注18、王拾遺r白居易侍﹄︵映画人民出版社一九八三︶ に拠る。 注19、中国古典文筆基本叢書r自居易集﹄巻十五 ︵中華書局一九七九︶ による。なお、 r 百 十 j   は 概 数 で 、 数 の 多 い こ と 。 一 一 頁

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