第1章 台湾経済の歴史的特質と商品経済
新地 比呂志 冷照彦氏は第1章「台湾経済の歴史的特質と商品経済」において、台湾土着社会経済の 基本的特質について論究している。以下、節ごとに漁民の主張を要約し、疑問点を提起し たい。 第1節 前期的商品経済の発達 1.地主的土地所有形態の生成 1683年台湾が清朝の版図に入った。それ以前は、先住民の蕃族が共同体的占有をしてい た「蕃地」であった。しかし三藩反乱を機に、「富豪紳衿」は流民をかり集めて、私的占 有をしていた土地を分割・分与した。1720年頃には台湾の土地の半分が移住民のものにな っていた。台湾開墾が本格化したのは1760年以後で家族随伴での移住を清朝政府は認め た。土地所有形態は、起業者(墾主・墾戸・業戸・業主)が力墾者(佃戸・佃人)に土地を 譲り、永遠に一定の租額を納めるというものであった。佃戸が実質的な地主となり小租戸 となり、大租戸、小租戸、現行佃人の3階級の成立した。また大租戸が没落する中で、小 租戸中心の土地所有制度が確立した。 1725年台南に島内外を舞台に商業活動を行う台湾府三郊が組織され、米・砂糖・黄蒐・ 樟脳・硫黄を中国大陸に移出し、中国大陸から綿布・磁器・漢方薬・雑貨などを移入する ようになった。これは、台湾の移民による人口増加は農民層の増大だけでなく、商人層の 増大をも意味しており、三郊による対岸貿易は1780年∼95年に全盛期を向かえた。1843 年には、大租戸の政府に納入する税は穀納制から銀納制に移行し、大租・小租も銀納制に 移行した。冷氏によれば、この銀納制移行により、台湾の商品経済は大きく促進されたと のことである。 2.商業的農業の発達 アへン戦争などの結果で、一連の強制開港(1860淡水・安平、186.3基隆・打狗)で、北 部は茶業、南部は砂糖業が勃興した。茶業は外国商社(洋行)が輸出業務をした。当時日 本が開港したので、日本を新たな市場として、台湾の輸出は順調な伸びを示した。 「地主的土地所有形態の生成」「商業的農業の発達」について、冷氏の見解をまとめる と、「台湾では、日本領台以前に、小租戸を中心とした土地所有システムの中で商業的農 業が興隆し、高度に発達した貨幣商品経済の段階に達していた。」ということになる。 3.日本植民地経営の制約 徐氏は外国資本が他国を収奪する場合、前近代的生産形態のもとで流通面から収奪する のが、最も有利であるとし、日本は古い土地所有関係、経済構造を、一定の程度、商品経 済に適応する形に変容させたと論じている。その上で、日本は台湾特有の「遅れた社会経 済関係を形成する」ように導いたとしている。台湾には土着地主制が定着していたので、 ー 95 −土着農民からの収奪形態は、主として土着地主制からの間接方式になり、台湾植民地の社 会経済構造は、日本統治以前の発展段階に大きく規制されていたとの主張である。 第2節 資本主義生成の「基礎工事」 1.警察制度と保甲制度の運用 冷氏によれば、資本主義の台湾への移植は、抗日運動が障害となり、領台から7∼8年 必要であったとのことである。また抗日勢力は島民の支持を得ていたとしている。日本は 軍政統治を実施したが、土匹の抵抗は日本に軍事的支出の巨大化を招き、日本は、軍政統 治の失敗から民政統治への転換を余儀なくされた。台湾総督府は、風俗・習慣・人情など あらゆる条件を科学的に分析した植民政策を掲げ、台湾旧慣調査会を発足させた。また土 地調査や入籍調査を断行した。さらに治安平定に「土匪」を鎮圧から招降の方式に切り替 えた。警察制度・保甲制度の運用を開始した。以後土着抗日勢力は暫時鎮圧され、帰順し ない土匪は討伐された。1900年春,台北地方、1902年夏,中部・南部地方において、日本統 治が実現した。 2.土地調査事業の推進 民政統治と士匪鎮圧により、日本資本の進出の条件ができた。台湾総督府は台湾銀行の 機関活動を基軸とする貨幣金融制度の整備をした。台湾総督府は旧来の封建的土地所有の 形態である上級所有権たる大租戸を政府の手で「買収」し、下級所有権たる小租戸を完全 な土地所有権者とした。徐氏は、土地調査事業は、「無主国有」を建前にして、土着人に 所有権を与えるかわりに、巨額の資金を土着人から強奪したと論じている。 3.貨幣・金融制度の整備 台湾では日常取引に使われている貨幣は百数十種に及び、価値尺度も統一されていなかっ た。そのため台湾総督府は1999年9月、台湾銀行を設立した。当初、台湾銀行は不安定で あったが、1904年6月「幣制改正令」において、金貨制度に移行した。1904年7月には、 台湾銀行の金権発行し、銀相場の変動による発行準備の不安定性を補い、安定した債務・ 債権関係と活発な取引を可能にした。農工業の長期低利資金の供与を開始し、欧米の為替 を買付、製糖業への融資(割引手形・荷 付為替)などが活発化した。 4.日.本帝国主義支配の確立 日本の資本主義は日露戦争(1904年∼1905年)を機に帝国主義に入った。冷氏によれば 「日本の植民地である台湾については、資本主義化への基礎工事が一段落した。」という ことになる。 以上が「台湾経済の歴史的特質と商品経済」の要約であるが、いくつかの疑問点が残っ た。大きく2点列挙する。 1.月本領台前に、どのような意味で、台湾では、高度に発達した貨幣商品経済に − 96 −
達していたと言えるのだろうか。前近代的な土地制度の中での限定された「貨 幣商品経済」と理解できるが、「高度に発達した」については、説得力のある 資料が欲しい。 2.「土匪」と「抗日」は一致する場合も、一致しない場合も想定される。「土匪 二抗日」とするならば根拠を述べる必要があるのではないだろうか。「反抗勢 力が島民の支持を得ていた。」の記述につき、ほぼ全員の支持を得ていたのか。 特定のイデオロギーをもっていた人に支持されたのかが不明である。
第2章 台湾経済の殖民地化過程
池原 一磨 I 近代糖業の勃興 台湾糖業を論ずる場合、それに決定的な影響を与えた歴史的文書として「糖業改良意見 書」を見落とすことはできない。同意見書は新渡戸稲造によって、1901年に総督府に提出 された。新渡戸は、糖業改良を促進するために、保守的な農民を相手に国家の強権を用い ることが不可避であることをとくに強調している(※1)。同意見書を手がかりに展開され た糖業保護政策は大きく見て、資金補助、原料確保、市場保護の3点であった。補助金の 交付は、新式製糖工場に限定された。原料確保のために総督府がとった措置の基本が「原 料採取区域制度」であり、区域内の庶作農家は栽培した甘藤を政府指定の区域内製糖場へ 必ず売り渡さなければならないという制度である。そして1911年に日本が関税自主権を 回復すると台湾糖業は文字通り手厚い関税の保護を受けることとなる。これらの糖業保護 政策は、1920年代初め頃までに近代製糖業は台湾に順調に移植され、台湾経済の基軸産業 となった。近代製糖業は台湾に定着し、安定的発展を保障されたのである。 Ⅲ 蓬莱米の登場と普及 1922年に台湾島に蓬莱米の移植が成功しその後、普及していった。蓬莱米は内地米や朝 鮮米と比べて収穫時期がかけ離れている。価格の面でも朝鮮米の追従を許さず、決定的に 有利な地位にあった。1920年代前半までの台湾の米穀生産は、平均440万石から500万 石であり、そのうち輸移出にまわされた数量は80万石から100万石であった。つまり、 輸移出比率は18%から20%であった。しかし、1930年代後半になると輸移出比率は50% になった。蓬莱米生産高の80%から90%が輸移出に向けられ、もっぱら日本市場向けの もであったことがわかる。蓬莱米がこれほどに大きく発展した理由として、濯漑排水施設 が挙げられる。産米増殖に関する国家の資金投入はもっぱら潅漑排水施設にあった。台湾 農業の基幹作物である米・甘庶が潅漑作物として水に依存する程度が大きいことを考える と、水の支配が台湾の農業開拓にとって重大な意味をもった。蓬莱米の登場と発達にとも ない、1920年代なかば以降に台湾の植民地経済には質的な変化が起きた。今まで砂糖商品 − 97 −を基調とするモノカルチュア(※2)的生産から糖・米二大商品へと移り変わった。 Ⅲ 「糖・米相剋」関係の展開 庶作面積は1912年から1913年における大暴風雨での減少を除いては1918年まで持続 的に拡大した。1918年には最高の15万甲歩(甲とは台湾の面積単位であり1甲=1ha) を記録した。一方、蓬莱米の作付面積は、1922年はわずか413甲であった。しかし、1930 年には13万甲に達し、1935年には30万甲を超えている。中北部地域ではこれまでの甘 源作の進出によって米作が追われるという情勢から一変し、いまや甘煮作地がくいこまれ、 米作との相剋関係が展開された。この「糖・米相剋」の解消策をもっとも典型的に表した ものが嘉南大別の輪作制度であった。三年輪作法(※3)と言われ、事業区域内の土地を 水路系統によってほぼ150甲歩を1給水区として区画し、それをさらに約50甲単位の3 小区に分け、給水量により米作・庶作・雑作の集団耕作的三年輪作体系が設定された。水 の配給体系を通して、嘉南大別は三年輪作を基調とする米作・庶作および雑作の作付割当 をおのずから統制しようとした。 Ⅳ 軍需的「工業化」の始動 台湾経済の植民地化は、1930年代に入ると新たな局面を迎える。1931年の満州事変以 後、次第に軍国主義的色彩を濃くしていくが、それに即応して植民地経営も政策転換を迫 られることになった。日中戦争を契機に、海外侵略が南進に大きく傾斜したことにより、 日本資本主義における台湾の占める軍事的地位が急速に高まった。その中でも、特に化学 工業や金属工業がいち早く台湾に芽生えた。その理由として、1934年の日月渾発電所の完 成が決定的な意味を持つ。それは、化学工業や金属工業は電力を原料とするからである。 低廉かつ豊富な電力供給は、植民地拓殖興業政策と結びついて大きな魅力であった。この 電力開発の先行投資と電力低価供給政策があってこそ、化学・金属を中心とする軍需工業 の急速な移植がなしえたのである。農業の比重が1930年代に入ると多少低下したのに対 して、工業は逆に多少とも増加した。1940年代に入ると工業生産が農業生産を上回るにい たった。 ※1:『新渡戸稲造全集』第5巻(1970年)p.568には「プレデリック大王がプロシアの農 政改革実行の為めに、時には警察権を用ひ、時には憲兵の力をかりたりして、なかな か手きびしくやりました。しかるにここに糖業を基礎として台湾の財政独立を計るに は、フレデリック以上の決心を要するものと思ひます」とある。著者はここを指摘し 「糖業の強制」と述べているが、新渡戸はこれほどの決意がなければ台湾財政は独立 しないと述べているだけである。 ※2:著者は「台湾農業は糖業=庶作のモノカルチュア」と述べているが、田島俊雄『中 国研究月報』46「台湾農業の展開と構造問題」(1991年)において「台湾農業は日 − 98 −
本統治下において、砂糖、米作、バナナ、パイナップルに特化し‥・」と述べられ ており、日本統治下において台湾農業はモノカルチュアではなかったことがわかる。 ※3:著者は嘉南大別における三年輪作制度を「個々の農家の従来もっていた作物選択権 に制限を加え、水稲一期作と庶作とを強制する結果をもたらした」と述べている。松 田吾郎『兵庫教育大学研究紀要』第2分冊18号「嘉南大別事業をめぐって一中島力 男さんよりの聞き取り資料をもとに−」(1坤8年)では「作物輪作は作物の病菌、害 虫を根絶でき、地力の維持にもつながった」とある。このことからも、著者が述べて いるように「強制」していたわけではなく、輪作は当然必要なものであったことがわ かる。
第3章 台湾農業の奇形的再編成
村上 悠史 1.要旨 第3章「台湾農業の奇形的再編成」では、糖・米二大移出商品、軍需的産業の産業を通 じて対日隷属的に発達していった台湾経済の構造を、農村経済との関連から分析している。 まず、第1節「対外経済関係のゆがみ」では、台湾の対外経済関係が、日本の植民地経 営によって出超基調に転ぜられ、その移出商品も糖・米の二大商品に集中化するといった ように、一方的に日本へ従属化していったという指摘がなされている。 第2節「近代製糖業の浸透」では、日本資本による近代製糖業の確立が、台湾農村経済 に与えた影響についての分析がなされている。筆者は、日本資本の製糖会社によって土地 支配の拡大がなされ、台湾の一般庶作農家は極小零細経営へと転落していったとしている。 しかし、台湾の農村経済においては、製糖工場での低賃金水準と、その他工業の未発達に より、完全な貸労働者層創出が妨げられていたため、零細化した庶作農家は、狭められた 猫額大の耕地から完全に分離することができず、農家経済を支えるために、農奴的低賃金 水準にあまんじて製糖工場、あるいは製糖会社の自営農場で季節労働者として働いて家計 補助をせざるを得なかったとしている。また、このことは製糖会社による低価格での甘煮 買収を可能にしたとも指摘している。 第3節「米穀商品経済の発達」では、まず、台湾における米穀生産は、地主一小作関係 を底辺にした零細的小農経営が支配的で、こうした小作面積の高い比率と小作農の大量の 存在とが高い小作料の基盤となっていたと指摘している。そして、製糖会社による土地の 小作権取得方式による進出がさらなる農民の小作地獲得競争を激化させ、高率小作料を招 いたとしている。加えて、蓬莱米の登場と普及は、小作農にとって不利な小作料を改善す るに至らず、むしろ蓬莱米の収益性が、地主をして実収小作料の増大を可能ならしめ、水 田における小作地拡大の要素となったとしている。こうした高率小作料に対し、日本の支 配層は、むしろ台湾の地主制を温存し、その過酷な地代徴収関係の上から農民を収奪する −99 −ことにつとめたとしている。 第4節「農家経済の窮迫化」では、米作及び庶作農家の経済状態を、米作の場合1931 年、庶作の場合1931∼33年のデータから分析している。分析結果から、結局、台湾の米作・ 庶作農家は、たとえ上層・中農層に属す者であっても、日本の零細農ないし小農の生活水 準に相当するか、またはそれ以下の窮迫した状況にあったとしている。 第5節「農民層の分解」では、日本の植民地経営によって台湾の農民が困窮した状況に 追い込まれたため、農民層の分解が進んだと指摘している。また、農民層の分解が土着地 主勢力の退潮に結びついたともしている。 2.問題点 筆者は、一貫して台湾の庶作及び米作農家が日本の植民地経営によって困窮化したとの 旨を主張している。しかし、その根拠と呼べるもののすべては、筆者による統計上の推測 であり、台湾農民困窮化の実例を1つも示していないのである。筆者の主張する通り、本 当に台湾農民が困窮化していたのであれば、『台湾日日新報』の紙上に「生活苦のために農 家が一家心中した」などといった記事の1つや2つが掲載されていてもおかしくはないは ずである。それを示していない以上、筆者が数字の上から農民が困窮していたと想像して いるに過ぎないと捉えられても仕方がないであろう。 また、第4節で、193卜33年のデータから庶作農家の経済状況が分析されているが、こ の時期は、庶価の下落が史上最低という深刻な場面に至っておらず、庶作農家の一般傾向 を示すものではないとしている。筆者は、「庶価が米価よりさらに下落して193卜32年の 50%という低い水準になった場合(1925∼26年、または1936−37年)、自作にしても庶作 農家は米作農家より農業収支が悪くなる」(pp.260)と述べている。しかし、甘庶買収価 格の推移は、次の図の通りである。 0 < U O O O O O ハ U O O O O O 4 2 0 0 U 6 4 2 0 0 U 6 4 2 2 2 2 1 ノ 上 l ・ . − t l トートート一トートートート°ト°ト°ト°トJ ヾト°ト°ヾトJ LJ CJ LJ CJ LJ CJ CJ CJ CJ CJふ一再‘へ
写≡三三……芸這罠冨芸這冨芸冨墓芸芸芸芸芸義…芸銅
Cn 図1.甘煮買収価格の推移(1914−1915年を100として) 徐照彦『日本帝国主義下の台湾』(東京大学出版会、1975)pp.259、第131表より作成。 ー100−上図のように、1925∼26年および1936∼37年における甘庶価格が1931−32年の50%と いう低い水準にないことは一目瞭然である。それどころか、1925−26年および1936∼37 年の庶価は、193ト32年のそれよりも高い水準にある。あくまで193ト32年に米価より も36%割高であった庶価が、両期間においては米価の68%となっているということに過ぎ ないのであり、庶価自体は下落していないのである。しかし、筆者は、庶価自体が50%下 落したものと見徹して両期間における庶作農家の農業収支を計算し、大幅な赤字であると しているのである。確かに、両期間において庶価が米価よりも低価格である以上、庶作農 家の農業収支は米作農家より悪いと言える。しかし、実際には庶価は下落しておらず、寧 ろ高水準にあるため、筆者が示すような大幅な赤字にはならず、黒字となるのである。
第4章 日本資本の支配と膨張
白井 征彰 1.要旨 本章では、日本資本の進出過程と台湾糖業の発達過程を踏まえ、以下の三期に区切って いる。第一期は、日露戦争後の企業勃興(1906)から第一次世界大戦勃発(1914)までの 10年間で、糖業資本の独占成立期。 第二期は、第一次世界大戦勃発(1914)から昭和金融恐慌を含む1920年代末までの15 年間で、日本糖業資本の急速な膨張、かつ少数の日本財閥資本が台湾糖業を分割して寡占 状態期。 第三期は1930年代以降から終戦(1945)までの15年間で、砂糖市場の海外拡大が糖 価の好調をもたらし、糖業資本の利潤は、他産業や証券資本に振り向けられた時期である。 第一節 「台湾銀行の役割」 台湾銀行を枢軸とする糖業金融機構は、日本銀行=日本政府に結びついた緊密な金融関 係があり、糖業金融の本格的な展開は、日露戦争後の1905年以降である。日本糖業資本 は、台湾銀行を枢軸とする糖業金融機構を背景に、潤沢な資金をもって不況の局面にあっ ても拡大再生産を維持し、多額な利潤の獲得を可能とした。 第二節 糖業資本の独占成立 近代的製糖場による機械制工業の出現は、原料採取区域問の拡大をめぐり争いが激化し 製糖業において1909年ごろから第一次の合同運動を惹起した。 合同運動の特徴として、以下3点がある。①土着資本系および欧米資本系の勢力を圧倒 ないし駆逐する過程であったこと。②近代製糖工場の出現は、生産力の飛躍的増大から大 量原料の獲得を必然とし、その点でこの合同運動は市場独占をめぐる企業の合併にしても 原料採取区域の拡大をめぐる色あいを濃くしたこと。③日本資本主義は1907年、はじめ ての不況の慢性化に直面し、カルテルによる市場独占が萌芽的に形成され、また、台湾糖 一101−の生産高も1911年には日本市場の81%を占め、生産過剰の傾向と独占の過程をさけてと おることができなくなったことである。 第三節 糖業資本の膨張と再編成 台湾の日本糖業資本は、第一次世界大戦の勃発による砂糖市場の異変によってあらたな 飛躍をとげる機会に恵まれた。原因の1つは、世界砂糖市場の、供給不足である。糖業資 本はこの砂糖好況を利用して、利益のほか株式市場からあらたな資金を動員し、くわえて 台湾銀行を枢軸とする金融機構から魔大な資金の流入が行われた。 しかし、1920年7月、欧米諸国が買付けを差控えると、糖価は暴落し、戦後の砂糖黄金 時代は幕を閉じなければならなかった。これにより台湾糖業の再編(第二次合同運動)が 展開された。その結果、三井・三菱・藤山(日糖)の三大資本が鼎立して台湾糖業の五分 の四を占めたことは十分注目しなければならない。 一方台湾銀行が内地融資に転向したことは、日本経済にとっても大きな問題であった。 つまり独占段階に移行していた日本内地経済圏で、せいぜい二流または三流の財閥企業と 手を結ぶはかなかった。これらの企業の基盤が脆弱であるだけに、のちの昭和金融恐慌の 打撃で、台湾銀行はみずから破綻の結果を招くことになる。 第四節 日本資本の投資領域の多面化 日本軍国主義の対外膨張に便乗した砂糖市場の拡大と、砂糖生産に付随して発達してき たアルコール、パルプ原料、酵母剤などの関係商品が軍需市場と結びついて増産され、糖 業資本は大きな利潤を得る機会にめぐまれたのである。 糖業資本は島内において「糖・米相克」関係の激化、耕作面積に対する政府の規制など で糖業利潤をめぐる分捕り闘争が激化し、第三次合同運動が展開された。塩水港製糖をの ぞく三大会社が、既有中小製糖会社の買収合併により台湾製糖業全体を掌中に収めること になった。 また、新興産業資本が合併、吸収、または買収により設けた会社はその多くが土着資本 の参与する旧来の会社が土台となっている。日本財閥資本のあらたな進出は、土着資本を 買弁化させさらに低い地位におし下げたといえるものである。 1936年に発足した台湾拓殖も、台湾経済を日本帝国のためのいわゆる「東亜共栄圏」の 一環に編入する過程でもあり、その出現と膨張が日本資本主義の都合による産物であって、 けっして台湾土着民のためのものではなかった。 さらに、地場日系資本も内地財閥資本や大産業会社に結びつき、他方では土着人の資本 を利用して自己の勢力拡大をはかろうとした。 つまり、台湾の植民地経済は、結局、日本の独占資本の支配下におかれたのである。こ れが準戦時体制下におかれた台湾殖民地経済の実態である。 2.問題点 源作農家の経済状況を示す資料がないなか、日本糖業資本が土着庶作農を隷属せしめ ー102−
るという記述や、土着資本に関しても糖業ばかりに焦点をあて、土着資本が活躍した他 業界について言及がないまま、土着資本の隷属化と言い切るのは問題である。また、外 来勢力を駆逐するのに16年間も必要としたことに、日本資本の未熟性と後進性をあらわ すと表現しているが、逆に外来勢力を無碍に駆逐せずに、状況を把握した上で順次手順 を踏まえている点は評価すべきではないだろうか。実際、資本主義経済の過程での淘汰 や植民者と非植民者の関係を踏まえたとしても、土着庶作農家を基本とする台湾糖業が 衰退、没落していない限り、糖業に携わっている土着民が困窮することは考えにくく、 日本資本の支配という側面をより強調した論となっているのではないかと考える。
第5章 土着資本の対応と変貌
井上 敏孝 徐氏は台湾における土着資本勢力が、日本資本主義の展開過程とそれに基づいた植民地 政策の展開に大きく規制され、半世紀の間に多様な変遷を辿ったと述べる。徐氏の指摘す る台湾土着資本勢力の変遷は次の4つの時期に分けることができる。 ① 第一期‥・日本統治下に入る(1895年)∼統治権が確立(1905年)までの10年間。 =土着資本の抵抗と被整理の段階。 ② 第二期・・・日本統治権が確立(1905年)∼第一次大戦勃発(1914年)までの10年間。 ・ 台湾における資本主義化の「基礎工事」がほぼ完了。 ・ 糖業を中心に日本資本が台湾に積極的に進出。 ・ 土着資本勢力は強制的に日本帝国主義の支配下に編入・従属。 =土着資本の従属化の段階。 ③ 発卦‥第⊥次大戦勃発(1915.年)∼満州事件勃発(1931年)までの_.1甘射乳H_ ・ 土着資本は日本帝国主義の再生産構造の中に組み入れられる。 ・ 第一次大戦による変則的好況に刺激され、一時的な勃興局面に入る。 ・ 土着資本の一部は日本の支配勢力との結びつきを固めつつ買弁への転向傾向を強 める。 ・ 他の一部は民族運動に呼応して政治改革を志向。 =土着資本勢力にとって激動と分裂に時期。→半世紀におよぶ日本帝国主義 支配期間のなかで最も変化に富んだ重大な時期。 ④ 第四期∵・満州草作動発(19秒日本帝国崩壊(1945年)に至る15年間。 ・1930年代初期の世界的不況による米・甘庶価格の暴落。 ・ 軍需産業を中心とした日本新興財閥資本の進出と統制経済の強化。 ニ土着資本勢力の退潮ないし衰退の時期。 これらの徐氏の指摘の中から3つの論点を挙げる。 −103−論点1 土着人が多いと考えられる零細な規模の株式会社や合資会社が増加したことを理由に、土 着資本が強権的手段によって日本資本に吸収されたと言えるか? (p.402)(第176表) 徐氏は、1911年∼12年に株式会社数が58社から93社へと60%も増加する一方で資本 金は516万円から635万円へと25%増にとどまっていると指摘している。また土着人が 多い合資会社も同様であり、こうした状況は「土着資本の勢力台頭を抑制し、それを日本 資本の中に組み入れ駆使する強権的手段」(p.402)によっ.て生じたと述べている。しかし、 土着資本のなかの商人階級については、資本規模も少なく零細な土着商人が増加した状況 を「たんに土着商人の資力が薄弱であったためとばかりいうことはできない。」(p.394)と 徐氏自身が述べている。このことから零細な土着資本の増加も土着資本勢力の停滞を意味 するものではなく、必ずしも土着資本の勢力の台頭を抑制するための国家の強権的手段に よって生じたとは考えられない。 論点2 土着資本の衰退の背景を、日本の強権的手段によるものと結論付けることができるのか? (p.402) 総督府は府令第16号によって1910年頃から土着資本が組合・商会と称する団体営利組 織を創設する際に会社名の使用を禁じた。このことについて土着人が単独或いは、中国籍 をもつ土着人のみの共同の会社を組織することを総督府が禁じたことは、日本の強権的手 段であると徐氏は述べる。さらに土着資本は「こうした国家の強権的手段により、日本資 本への従属化をますます強めていった」と指摘する。ただ徐氏は註43(p.410)で総督府の 権限が大きいことを理由に「府令第16号が土着人の会社設立を禁止する効果を上げるの は明らかであるである」と述べるものの、その点を明らかにする明確な資料を提示してい ない。また府令第16号が強権的手段として土着資本が日本資本への従属化を強めていっ たというための根拠が明らかにされていない。 論点 3 族 系 資本 の新 旧勢 力の逆 転 を 、 日本 の 植 民 地 支 配 の 「成 果 」を 示 す も の と 言 い 切 る こ とが で きるか ? (p p .4 4 1 ・4 4 6) 族系資本の新旧勢力が逆転したことを、徐氏は「日本の植民地支配のいわば「成果」の一側 面を示すものにはかならない」と指摘している。その原因の一つとして徐氏は林族系の旧勢 力が社長別に分家していることに対して、顔族系等の新興勢力はそれがほぼ一人にまとま っており、資本集中の面から見ても新興勢力が優位に立ったためと述べている。しかしな ー104−
がら、従来から台湾の家督相続制度は、日本のような家督相続ではなく均等配分であった (『台湾私法』第一巻下pp.401・412)。林族系等に見られる族系資本の分割は、台湾に従来 からある慣習によるものであった。このことから、“族系資本の新旧逆転の背景には、日本 の植民地政策があっだ’とする徐氏の見解には無理があると考える。
終章 総括と展望
浜野 勇貴 一 問題点の再確認 ここでは、これまでに挙げられた問題点の再確認を行っている。 著者は、台湾経済の問題点は『一方では、構造的に米・糖を中心とするいわゆるモノカ ルチュア的生産形態を強く押し付けられ、特定のゆがみを抱え込まざるをえなかったし、 他方では階級的にみても、土着資本勢力がそれによって強大な圧迫を受けて弱体化した』 と述べている。 二 台湾植民地経済の特質 ここでは、台湾植民地経済の特質を挙げている。 著者は、台湾植民地経済の特質は『一方では歴史的に発達した前期商品経済を継承した こと、他方ではそれを基盤として存立していた土着資本勢力は植民地化の進展のなかでむ しろ後退したこと』と述べている。 三 戦後経済への展望 ここでは、戦前から戦後への経済体制の見通し、植民地経済の諸特質、日本の植民地経 営に関して述べている。 著者は、『植民地経営によって土着資本勢力の後退及び弱体化の影響として1949年の農 地改革に関しては、土着資本の基盤でもある地主的蓄積が完全に否定されたことを意味し ている。またこれが、外資依存的商人蓄積形態への全面移行である』と述べている。 植民地経済の諸特質として、『植民地遺制として、戦後経済の内部に新しい歪みを再生産 する事になったこと、高い商品経済の発達は戦後経済の順調な“発展”をもたらした要因 として作用した』と述べている。1920年代半ばごろからの水利潅漑事業や1930年代の工 業化が例として挙げられている。 最後に、日本の植民地経営の特徴を挙げている。『日本資本主義の自己矛盾、工業化の必 要性などによる歪みを台湾社会経済に持ち込んだ』と著者は述べている。 以上が終章のまとめである。ここからは、著者の指摘から問題点を挙げる。 著者は台湾経済の問題点として『一方では、構造的に米・糖を中心とするいわゆるモノ ー105−カルチュア的生産形態を強く押し付けられ、特定のゆがみを抱え込まざるをえなかったし、 他方では階級的にみても、土着資本勢力がそれによって強大な圧迫を受けて弱体化した。』 と述べている。(p491)しかし、実際は米・糖以外にもバナナやパイナップルなどの青果 も生産していたのでモノカルチュア的生産形態ではなくマルチカルチュア的生産形態であ る。著者の考えから支配・非支配の関係しか見ていないのかは文章からは推測出来ない状 況である。 著者は、『土着資本勢力は、ごく一部の特権的買弁的階級を除いて、日本帝国主義支配を うけて大きく後退した。』と述べている。(p491)総督府に従属した土着資本として挙げら れるのは寧顕栄(塩業など)であるが、実際に大きく後退したのは誰を指しているのかは 不明である。 台湾植民地経済の特質にて『後進的性格からして、日本の植民地主義または植民政策は、 明治末期にいたっても国有の体系的基盤を確立するにいたらず、フランスやドイツの植民 地政策を借りてこざるをえなかった』と述べられている。(p494)実際にこの国々から政 策を借りてきたのか、それとも植民地政策を学んだのか、証を参照しても具体的にどのよ うな政策を模倣して実行して失敗したのかが文章では明らかにされていない。 最後のまとめで日本の植民地経営は『日本資本主義の自己矛盾(糖・来相剋問題、事故 都合主義)、工業化などによる歪みを台湾経済に持ち込んだ』と述べている。(p498−499) ここでの自己都合主義がどのような点を指しているのか、また工業化などが歪みとして呼 ばれているのはどうしてなのか。このような点をこれから明らかにしていく必要があるに 違いない。 −106−