<シンポジウム>フランス革命 ・ナポレオン期のサ
ヴォワとジュネーヴ
著者
上垣 豊
雑誌名
関学西洋史論集
号
34
ページ
9-14
発行年
2011-03-30
URL
http://hdl.handle.net/10236/12784
フ ラ ンス革命 ・ ナポレオ ン期 のサウ、ォワ と ジ ュネ ーウ、
上 垣
豊
は じ めに 1860年、 サ ヴ オワ (Savoie) は フ ラ ン ス に併合 さ れた。 ナ ポ レ オ ン 3 世 は、 イ タ リ ア統一 事業 に援助 す る見返 り に、 サル デーニ ヤ王国か ら サ ヴ オワ と ニ ー ズを獲得 し た ので あ る。 2010年 は サヴ オワ ・ ニ ー ズ併合150周年 に あ た り 、 サウ' ォ ワ で はい く つ も の講演会、 記念行事が組織 さ れた。 サヴ オワの歴史は近代におけ る国境 を考え る上 で は格好 の歴史 の素 材 で あ る が、 と く に サヴ オワ と ジ ュ ネ ー ウ'の関係は複雑 で あ る。 ジ ュ ネ ー ヴはかつ て は サ ウ' ォ ワ公国 の一 部 で あ り 、 宗教改革 に よ っ て サ ウ' ォ ワか ら分離独 立 し た後 も、 両者の経済的結 びつ き は深 く 、 今 で も北 サヴ オワ、 す な わ ち オ ー ト = サ ヴ オワ (Haute-Savoie) 県 の少 な く な い部分 が ジ ュ ネ ー ヴの経済圈 で あ る。 北 サ ヴ オ ワ の自由貿易 ソ゛一 ンの歴史 は、 翻訳 さ れた ポ ール ・ ギ シ ョ ネ の著書 の な か で 詳 し く 書 かれて い る ' ので、 こ こ で は、 そのな かで はあま り 触 れ ら れて い な い革命期 ・ ナポ レ オ ン時 代 の サ ウ' ォ ワ と ジ ュ ネ ー ヴの関 係 を 中心 に、 ギ シ ョ ネ と 並 ぶ サ ヴ オワ史 研究 の 大家 で あ る ア ン ド レ ・ パ リ ュ エ ル= ギヤール (Andre Pa11ue1-Gui11ard) の研究 を中心 に論 じ る こ と に し た い。 自然 の障壁 に よ っ て遮 ら れて い な い サ ヴ オワ ー ジ ュ ネ ー ヴ間 の国境 を決 め た要因 は 三 つ ほ ど あ る。 一 つ は宗 教的要因、 プ ロ テ ス タ ン ト の首都 で あ る ジ ュ ネ ー ヴ と 、 カ ト リ ッ ク 改革のサヴ オワの対立で あ る。 第二は、 都市 と 農村の対立 で あ る。 第三は、 国 際関係 で あ る。 フ ラ ン ス、 オ ー ス ト リ ア (神聖 ロ ーマ帝国) のみな ら ず、 スイ ス連邦 がか ら み、 16世紀後半以降 に な る と、 サ ヴ オワの首都 が ピエ モ ン テ の ト リ ノ に移 る た め、 ト リ ノ の宮廷 の思惑 も加わる。 ジ ュネ ー ウ'は国際的名声、 人的ネ ッ ト ワーク で サ ヴ オワ に比 べ は る か に有利 な立 場 に あ っ た。 人 的 ネ ッ ト ワ ー ク で は、 プ ロ テ ス タ ン ト のネ ッ ト ワ ー ク が重 要 で あ る が、 各地 に散 ら ば っ た ジ ュ ネ ー ヴ出身 者 が宗 派 を 越 え て 織 り な し て い るネ ッ ト ワーク も存在 し た。 こ れ ら に、 フ ラ ンス革命期以降、 人民投票 や署名活動 な どに よ っ て表明 さ れる住民の意思 も重要 な要因 と し て付け加わ る こ と に な る。 現 在 も 続 く サ ヴ オワ の内部 も 忘 れて は な ら な い。 北 サ ウ' ォ ワ と 南 サ ヴ オワの対 立、 ア ス シー (Annecy) と シ ヤンベ リ (Chambery) の対立 に加 え、 北 サヴ オワ内部-
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で も、 ジ ュネ ー ヴの経済圈で あ る シ ヤブ レ (Chablais) 地方 と、 ジ ュネ ー ヴと は交通 の便 が悪 い ア ス シーは対立 し て い た 2。 1 . フ ラ ン ス革命 ま で の サ ヴ オワ と ジ ュ ネ ー ヴ 宗 教改革 に よ っ て サ ヴ オワ と ジ ュ ネ ー ウ'は分離 し 、 敵対状態 に な る。 カ ト リ ッ ク 改 革 の拠点 と な っ た サ ヴ オワか ら 軍勢 が送 ら れ、 何度 か プ ロ テ ス タ ン ト の首都 を包囲 し た。 そ れで も和解 に向け た動 き が始 ま り 、 1603年 のサ ン= ジ ュ リ ア ン (Saint-Julien) 条 約 に よ っ て ジ ュ ネ ー ヴ商品 は サ ヴ オワ国境 で の通 関税 を 免除 さ れ る こ と に な っ た。 続いて1754年 6 月の ト リ ノ 条約で、 カ ルロ=エ マニ ュ エ ー レ 3 世 (Car1o-Emmanuele m ) は完 全 に ジ ュ ネ ー ヴの国境 を 認 め た。 事業 で 富裕化 し た ジ ュ ネ ー ヴの ブル ジ ョ ワ は サウ' ォ ワ領 の土地 を 購入 し 、 その所 有地 は次第 に増大 し て い っ た。 カ ト リ ッ ク の労 働者 と プ ロ テ ス タ ン ト の雇用者 の共 存 が広 が り 、 サ ウ' ォ ワ の貴族 は ジ ュ ネ ー ヴの サロ ン、 ブ テ イ ツク に出入 り し 、 医 者 に かか る よ う に な っ た。 一方、 ジ ュ ネ ー ウ'の ブル ジ ョ ワ シ ーはエ ウ' ィ ア ン (Evian) の温泉 や シ ヤムニ (Chamouny) の氷河 にま で出かけ る よ う に な る。 サ ヴ オワ人 は ジ ュ ネ ー ヴで 資本主義 と 西欧文明 の手 ほ ど き を受 け、 ジ ュ ネ ー ヴ人 は サ ヴ オワ の自然 に惹 か れ る よ う に な っ た の で あ る 3。 千葉治男氏 の 『義賊 マ ン ト ラ ン』 に も 書かれて い る が、 1775年 5 月 に フ ラ ンス当局 が兵団 を組織 し サウ ォ ワ と の国境 を越え て、 武装密輸団の根城 を襲い、 頭領マ ン ト ラ ン を逮捕 し 、 ド フ イネ の ヴ ァ ラ ン ス に護送 し た 4。 事前許可 が な か っ た ので、 ト リ ノ の宮廷 も さ すがに こ れには一応抗議 し て い る。 こ の事件 を考 え る時は、 ト リ ノ の政府 がサウ' ォ ワ人 が個々に行 う 密輸 を黙認 し て いた こ と と そ も そ も国境防衛 が困難 で あ っ た 事 を考 慮 し な け れば な ら な い。 サ ヴ オワは フ ラ ン ス と の国境、 と く に グル ノ ー ブル 方面の国境防衛に問題 を抱え てお り、 フ ラ ン スによ る占領が16世紀か ら18世紀初頭に かけ て計 5 回、 期間 も43年間 にわた っ て い る 5。 他方、 ジ ュ ネ ー ウ'は17世紀 初め には フ ラ ン スに対 す る従属関係が明確 に な り 、 18世紀 には さ ら に従属は深ま っ て い っ た。 投機、 投資、 知的交流の他、 ジ ュネ ー ウ'で革命騒 ぎが起こ る た びご と に、 ジ ュネ ー ヴ 支配層は フ ラ ンスに調停 を頼んだ。 例えば、 1782年 の政治危機に際 し て、 保守派はた め ら わず フ ラ ン ス に直接的軍事介入 を求 めて い る 6。 2 . フ ラ ン ス革命 ・ ナ ポ レ オ ン期 の サ ヴ オワ と ジ ュ ネ ー ヴ サ ウ' ォ ワ と ジ ュ ネ ー ウ'の共生 関係 が発展 し て い き 、 サ ヴ オワ と ト リ ノ の距離 が広 が り 、 ジ ュ ネ ー ウ'が フ ラ ン スへの従属 を深 め る中 で、 フ ラ ン ス革命 が始 ま る。 1792年 9 月 モ ン テ ス キ ュ 一将軍 がサ ヴ オワ に侵入 し 、 こ れま で と 同 じ よ う に、 簡単 に サ ウ' ォ ワ
は征服 さ れた。 サ ウ' ォ ワの住民 は代表 を 選 び、 10月 に ア ロ ブ ロ ー ジ ュ議会 が開 催 さ れ、 フ ラ ン ス へ の併 合支 持 を 議 決 し た。 こ れ を 受 け て、 フ ラ ン ス側 も 、 サ ウ' ォ ワ併 合 を 1792年11月 に決め、 こ う し て モ ン= プ ラ ン県 (M ont-Blanc) が誕生 し た。 他方、 ジ ュ ネ ー ヴ併合は1798年 5 月 に行われた。 不在で あ っ て も亡命者 と はみな さ れず、 不在の 市民 を含 めて ジ ュ ネ ー ヴの全市民 が フ ラ ン ス市民 と さ れたが、 こ れは当時 と し て は異 例の扱 いで あ っ た。 その他の併合条件 も比較的配慮 さ れた も ので あ り 、 同 じ よ う な配 慮 を受 け ら れな か っ た サ ヴ オワ の人 々は こ れ を忌 々 し く 思 っ て い た よ う で あ る 7。 3 世紀以 上 ぶ り に、 ジ ュ ネ ー ウ' と サ ウ' ォ ワは同 じ 国家 の な か に統合 さ れ る こ と に な っ た が、 す ぐ に こ の地域の行政区 分 の再編が問題 に な る。 再編 には、 モ ン= プ ラ ン県 あ る いは ラ ン (1' Ain) 県 に統合、 独立 の県 にす る と い う 三 つ の選択肢があ っ た。 た だ し 、 独立 の県 に す る には ジ ュ ネ ー ウ'市 は小 さ す ぎ、 で き る だけ均等 に分割 す る と い う 革命 の原則 に合 わせ る た め には、 他県 の一部 を編入 さ せ る必要 が あ っ た。 ち よ う ど そ の時、 北 サウ ォ ワの広範囲 な地域か ら ジ ュネ ー ヴへの統合支持の請願運動が起 こ り 、 こ れが功 を奏 し て、 1798年 8 月27 日に北 サウ' ォ ワの一部 を取 り 込んで新 し く レ マ ン (Leman) 県 を創設する法律が成立 し た 8。 ナポ レ オ ン時代 に入 っ た1800年 2 月 の再編で、 レ マ ン県 は拡大 し、 モ ン= プ ラ ンを 帰属 さ せ る と と も に、 ジ ェ ッ ク ス (Gex) 地方 も 統合 す る こ と に な っ た。 ジ ュ ネ ー ヴ は プロ テ ス タ ン ト の首都、 交易 セ ンタ ー と し て の国際的 な名声 を保持 し、 高位要職に あ る ジ ュ ネ ー ウ'出身者 を あ て に で き、 独自 の病院、 コ レ ー ジ ュ、 ジ ュネ ー ウ'人 だけ に 適用 さ れる奨学金 を も つ な ど、 フ ラ ンス帝国 のなかに あ っ て も一定 の恩恵 を受け る こ と がで き た。 外か ら の訪問者 によ っ て自然の風景が賛美 さ れる よ う にな るが、 政治的 に は無力 化 し た サ ヴ オワ が羡 む の も 無 理 が な か っ た。 ナ ポ レ オ ン時代は、 モ ン= スニ (M ont-Cenis) 山 の道路 の整備 な どイ ン フ ラ の整備 が大 き く 進んだ時代で あ る。 後 に大陸封 鎖に よ る経済的 な困難が生 じ る が、 初期にお いては期待感が広が り 、 ア ミ ア ンの講和は新 し い時代の夜明け のよ う に思われて い た。 サヴ オワ と ジ ュネ ー ヴへの徴兵の負担 も全国平均程度で あ り 、 他県 に比べて重か っ た わけ ではない。 帝政への反対は少 な く 、 フ ラ ンス と 両地域 と の結 びつ き は次第に強化 さ れ、 地方名望家層の体制への加担 も増えて い っ た。 た し かに1811年以降の経済危機 と そ の後 の破局 に よ っ て失望感は急速 に広 が っ て い く が、 パ リ ュ エ ル= ギヤールは、 そ れま で の時期 を捨象 し て論 じ る のは公平 で はな く 、 フ ラ ンスへの統合 には十 分 な時 間 が足 ら な か っ た のだ と 論 じ て い る 9。
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3 . ウ ィ ー ン会議 1814年、 ナポ レ オ ンの敗退 によ っ て独立 を回復 し た ジ ュネ ー ウ'政府は、 スイ ス連邦 への加入 と 領土 の拡大 を検討 し た。 こ の案 には、 サル デ ーニ ヤ王 ウ' ィ ッ ト ー リ オ=エ マ ニ ユエ ー レ 1 世 (Vittorio-Emmanuele I) の偏狭 な保守主義 を嫌 う サ ヴ オワの ブル ジ ョ ワ が支持 し た が、 カ ト リ ッ ク が大 量 に流入 し て く る の を恐 れ る ジ ュ ネ ー ヴの プ ロ テ ス タ ン ト と 、 プ ロ テ ス タ ン ト の支配 の も と に入 る 気 は な い サ ヴ オワ の カ ト リ ッ ク 貴 族、 聖職者 の双方 が難色 を示 し た。 他方、 タ レ ー ラ ンは ジ ュネ ー ヴが ジ ェ ッ ク ス方面 に拡大 す る こ と に反対 し、 サル デーニ ヤも 領土 を割譲す る気はなか っ た。 サル デーニ ヤ 王 は領土 を リ ヨ ン、 グル ノ ー ブル、 マルセ イ ユ にま で拡大 す る こ と を夢見 て いた。 ス イ スは と い え ば、 ジ ュネ ー ヴの連邦加入 に同 意 し て い たが、 新 し い ガ ン ト ンの強大化 には賛 成 し な か っ た。 イ ギ リ ス も 全 権代理 ウ ェ リ ン ト ンは ジ ュ ネ ー ヴの要求 に好 意的 で あ っ た が、 外務大 臣 カ ー スル レ イ は ジ ュ ネ ー ヴの要求 に は冷淡 で あ っ た '°。 1814年 5 月、 第一次パ リ 条約が結ばれ、 最初の国境変更が行われ、 サウ' ォ ワは フ ラ ン ス領 と サル デー ニ ヤ領に東西 に分断 さ れた。 し か も交通路 も地域経済 も考慮 さ れな い恣意的 な分け方 で あ っ た。 フ ラ ンス領に残 っ た部分で小 さ な県 が作 り 直 さ れ、 モ ン= プ ラ ン が サル デ ー ニ ヤ領 に 編入 さ れ た に も か か わ ら ず、 モ ン= プ ラ ン県 と 呼ば れ る こ と にな っ た。 ジ ュネ ー ヴも領土拡大が う ま く いかず不満で あ っ たが、 9 月 に始ま る ウ ィ ー ン会議で は、 国際的名声 と 人的ネ ッ ト ワー ク を利用 し て、 サヴ オワに比べは るかに う ま く 立 ち回 る こ と がで き た。 ジ ュネ ー ヴは スイ ス連邦加入 の道 を 選ぶが、 そ れは、 国 際情勢 のな か で 選択肢 がな か っ た のが主 な理由 で あ る が、 ジ ュネ ー ヴ固有 の諸制 度 を 保持す る た めに、 冷徹 な計算 に基づ いた も ので も あ っ た''。 モ ン= プ ラ ン県 で、 サル デ ーニ ヤ王 の も と に サ ヴ オワの一 体性 を 取 り 戻 そ う と す る サウ' ォ ワ王党派のキ ャ ンペ ー ンが始 ま る。 1815年 7 月 に展開 さ れた署名運動 は、 一 ヶ 月 で農村部 を中心 に27,000人近 い署名 を集めた。 こ れはモ ン= プラ ン県の成年男子の 2/3近 く 、 家長の4/5 を占めていた。 こ う し た世論の運動 を前に し て、 百日天下 に加担 し 、 形勢 が悪 か っ た フ ラ ン ス派は な す すべ がな か っ た。 第二王政復古 の フ ラ ン ス政府 がサヴ オワにあま り 関心がなか っ たの も幸 い し た。 1815年11月20日の第二次パ リ 条約 で、 サ ウ' ォ ワ全体 が ピ エ モ ン テ 領 に編入 さ れ る こ と に な っ た。 サ ウ' ォ ワの分割 は不 可 能 で あ る こ と が示 さ れた ので あ る。 だ が ト リ ノ の王 権 に対 す る サ ウ' ォ ワの人 々の態度 は微妙 で あ っ た。 サウ' ォ ワ王党派の中心的人物、 ジ ョ ゼ フ ・ ド ・ メ ー ス ト ル (Joseph de M aistre) に さ え、 ト リ ノ に対 し て あ る 種の冷 め た感情 が認 め ら れ る。 ジ ュ ネ ー ウ' は第二 次パ リ 条約 で、 フ ラ ン スか ら ジ ェ ッ ク ス地方 の 8 つ の コ ミ ュ ー ン (commnues) を獲得 し、 スイ ス連邦 と地続き にな った。 さ らに、 ト リ ノ と の交渉 (1816年 1 月17日一
3 月16 日) で、 カ ル ー ジ ュ (Carouge) な ど を住民 の意思 を問 う こ と な く 併合 し た。 さ ら に そ の背後 に190キ ロ 四方 に お よ ぶ自由貿易 地帯 が設定 さ れ る こ と に な っ た ので あ る 120 おわ り に フ ラ ン ス革命 ・ ナポ レ オ ン時代 を経 て、 国境 の決定 に あ た っ て は住民 の意思 を無視 で き な いよ う に な っ た。 経済的 には貧 し か っ た地方 で、 こ う し た近代的 な政治観念が 保守的 な名望家層 に も広が っ て い た こ と は注目 し て お いて よ いだ ろ う。 こ の経験は、 1860年 の併合 の時 に も 活か さ れ る こ と に な る。 ジ ュ ネ ー ウ'で も 中小 ブル ジ ョ ワ シ ーが 台 頭 し、 かつ て の大 ブル ジ ョ ワ シ ーに よ る寡頭支配 は不可能 に な っ て い た。 フ ラ ン ス 革命の痕跡は消 す こ と がで き なか っ た ので あ る。 サウ' ォ ワ と ジ ュ ネ ー ウ'が同 じ 国家 の中 で共 存 し た革命 ・ ナポ レ オ ン時代 を どのよ う に評価す る のかは、 現在で も政治 と 絡 ん だ生 々 し い問題 で あ る。 ヨ ーロ ッパ統合 のな か で サ ヴ オワ と ジ ュ ネ ー ヴの関 係 も ま た 揺 れて お り 、 北 サ ウ' ォ ワ の一 部 に は フ ラ ン ス か ら分離 し て スイ スへの統合 を主張 す る議論 さ え あ る。 し か し、 革命 ・ ナ ポ レ オ ン時 代 に フ ラ ン ス へ の統合 が確実 に進 ん で い た こ と や、 ジ ュ ネ ー ヴ と サ ウ' ォ ワ の利 害 の違 いや国際舞台 で の影響力 の格差 も見落 と すわけ にはいかない。 歴史解釈に と っ て大事 なのは、 都合のよ い時期や材料 を選 びだす こ と ではな く 、 歴史の全体 を理解す る こ と で あ ろ う 。
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註>
1 Paul Guichonnet, La Savote du Nerd et la Suisse. Neutralizatton. Zones franches, L 'H istozre on Savoie, No 2, nouvelle serie, 2001 (邦訳 内田日出海 ・ 尾崎麻弥子訳 『 フ ラ ンス ・ スイ ス国 境の政治経済史 越境、 中立、 フ リ ー ・ ソ ー ン 』 昭和堂、 2005年) .
2 Pa11ue1-Gui11ard, ォPetite histoire de la frontiere entre Geneve et la Savoieサ, Frontleres d,e Savoie, L 'H istoire on Savoie, 19 annee numero special, septembre 1984, p.25; id., L 'Aigle et la croix.・ Geneve et Ia Savoie 1798-1815, Saint-Gingolf, 1999, pp 21, 25.
3 Pa11ue1-Gui11ard, ォPetite histoireサ, pp.29-32.
4 千葉治男 『義賊マ ン ド ラ ン一伝説 と近世 フ ラ ンヌー』 平凡社、 1987年、 12頁。
5 Bernard Grosperrin, La Savoie et la France de la Rennalssance a ta Revolution, L 'Hzstoire on Savoze, 27 annee no 50, decembre 1992, p 23.
6 Roger Devos et Bernard Grosperrin, La Savoie de la R orme a la Revolution fran also, Rennes, 1985, pp 532-533; Pa1luel-Guillard, L 'Algle el la croix;, p 578.
7 Pa11ue1-Gui llard, L 'Aigle et Ia cro1)c, p 53. 拙稿 「十九 世紀 サ ヴ オワ にお け る歴史 と アイ デ ン
テ イ テ イ」 服部春彦 ・ 谷川稔編 『 フ ラ ンス史か らの問い』 山川出版社、 2000年 を参照。 8 Pa11ue1-Guillard, L 'Aigle et Ia croix, pp 52-59.
9 Ibid., pp 303-312, 345-354.; Pa11ue1-Gui11ard, Christian Sore1, Guido Ratti, Antoine Floury, Jean Loup, La Savoie do ta Revolution a nos Jours,・ X IXe cole, 0 uest France, Rennes, 1986, p 23. 10 Pa11ue1-Guillard, ォPetite histoireサ, p.33.
11 Pa11ue1-Guillard, L 'Aigle et Ia croix, pp.495-528, 581.
12 Ibid., pp.552-555, 578; Guichonnet (sous ta dir do), Haute-Savole, une terre, des hommes, Les Marches, 1990, p.17.