唐朝における朝鮮半島系遺民 : 特に唐朝からの官
職授与を中心に
著者
安 賢善
雑誌名
人文論究
巻
67
号
4
ページ
119-140
発行年
2018-02-10
URL
http://hdl.handle.net/10236/00026548
唐朝における朝鮮半島系遺民
──特に唐朝からの官職授与を中心に──
安
賢 善
は じ め に
660 年代における百濟・高句麗の滅亡は,東アジアの情勢を急変させる大き な事件であった。その後,唐はそれぞれ故地に羈縻州として熊津都督府・安東 都護府を設け,親唐的な遺民に委ねて地域を統括させた。一方,彼ら遺民たち は唐によって国内外に集団で遷徙され,中には祖国の滅亡に伴って唐の官品を 授けられた人物も少なくない。 従来の朝鮮古代史研究は,そのほとんど全てが朝鮮半島「内」の歴史にもっ ぱら目を向ける一方,「外」にある朝鮮半島系民族の歴史については,詳しく 論じられることがなかった。わずかに黑齒常之・泉男生・高仙芝など,正史列 伝に載せられた人物のみを考察して,唐内地に渡った遺民のあり方一般を推定 しがちであった。史料が乏しいこと,また朝鮮史・中国史という一国の枠組み によって,遺民に対する関心の低かったことが,その理由である。 ところで 21 世紀以後,西安・洛陽を中心に中国内地から唐代の墓誌銘が大 量に出土した。中には百濟・高句麗遺民のものと思われる墓誌銘も少なくな く,王景曜墓誌銘(2000 年に公表)を始め,高乙徳墓誌銘(2015 年に公表) まで凡そ 15 点の墓誌銘が新しく発見された。これらの墓誌銘から得られた新 たな情報のもとで,今まで空白であった遺民の足跡を検証できるようになっ た。 近年の中国学界では,2012 年以来,中国内地で活動した異民族をすべて 119「移民」というようになり,彼らは中国に渡って以来,代々中華文明のもとで 生活したため,時代とともに漢人に融合していったという「漢人融合説」が主 張されている。中心的論者の一人である拝根興氏によると,「遺民」の語は旧 朝を慕って新朝に仕えない旧臣を指す意味が強いので,唐以前より起こってい たすべての民族の移動を包括できる語として「移民」を用いるべきだとい う(1)。また氏は,遺民の子孫の墓誌銘に見える先祖記載の変化は,唐朝の国 際的かつ包容的な異民族政策によるものであり,こうして同化していった人が 現在の中国人の源流であると述べている。 しかしそれらの考察は,彼らが唐内地に入った時期や諸原因(戦争・宗教・ 外交・商業など)を問わず一括して検討しており,歴史的背景を顧慮していな いという問題がある。また拝氏の「遺民」の語の理解は,前朝に忠誠を誓って 隠遁する「遺臣」と混同したものであり,一方,「遺民」の語には「亡国の民」 や「遺風を伝える民」の意味が含まれることを看過している。 次に韓国学界では,ある国家が滅亡する以前より自・他発的に移動した民 と,滅亡によって遷徙せざるを得なかった民を,一様に「移民」の語で包括す ると,それぞれのもつ歴史性を表現できない問題があると指摘されている(2)。 また出自記載の変化にみえる慕華意識(中華を慕う意識)は,唐朝に仕えた一 族の政治的な目的によって意図的に誇張・偽作された可能性があると言われて いる(3)。 他の地域もしくは他国に遷り,定着する過程で貫籍が変わるのは,唐朝のみ ならず他の中国王朝にも見られる現象である。漢人融合説は,近年の中国にお ける歴史問題と密接に関わっており,韓中両国の研究者間のナショナリズムに 根ざす鋭い対立のもと,研究者によって様々な問題が提起されている。 さて,本稿で述べていく遺民とは,祖国の滅亡によって唐の社会に組み入れ られ,唐朝の体制のもとで様々な活動を行った者である。彼らは唐の武官とし て様々な遠征に動員され,また唐内地で生まれた遺民の子孫は,恩蔭によって 官位を授けられることもあった。このようなあり方は百濟・高句麗遺民はもち ろん,突厥・麴氏高昌遺民そしてソグド移民など唐朝に仕えた他の民族にも見 120 唐朝における朝鮮半島系遺民
られる。 そこで,本稿ではまず,唐朝による遺民たちの国家体制内への組み込み(以 下,「遺民政策」の言葉で表現する。)が,どのような目的から始まったかを最 初に考察したい。
(1)唐朝初期の官職授与を通じた遺民政策
−特に突厥と麴氏高昌國を例に−
百濟・高句麗遺民に対する遺民政策を検討する前に,一般的な遺民政策を述 べておこう。唐は,東突厥の頡利可汗 に 右 衛 大 將 軍 を 授 け た の を 始 め と し(4),以後に降附した遺民に対してほとんど全て中央十六衛の武官職を与え ていた。その上で,彼らのあり方は大きく二つに分けることができる。まず大 部分の者は同時に唐の羈縻州になった自らの出身地域で都督として行政を担 い,その地で暮らしていた(類型①)。一方,一部の者は中央十六衛の武官職 を持つのみで長安に暮らしていた(類型②)。この両類型の違いは,旧王の場 合,自発的な帰附であるかいなかによって生じたと考えられる。 まず類型の具体例を一例あげよう。 (史料 1)因りて將軍周範をして太原に屯し以て進取を圖らしむるに,突利乃 ち其の衆を率い來奔し,太宗之を禮すること甚だ厚く,頻りに賜う に御膳を以てす。四年,右衞大將軍を授け,北平郡王に封じ,食邑 は封七百戶,其の下の兵衆を以て順・祐等州に置き,部落を帥いて 蕃に還らしむ。(因令將軍周範屯太原以圖進取,突利乃率其衆來奔,太宗禮 之甚厚,頻賜以御膳。四年,授右衞大將軍,封北平郡王,食邑封七百戶,以 其下兵衆置順・祐等州,帥部落還蕃。)(『舊唐書』卷一百九十四上,突厥 上,突利可汗) とあり,史料(1)の突利可汗は,周辺の情勢に応じて自ら唐に降附した者で ある。彼は貞觀四(630)年に右衞大將軍を授けられ,また順州都督となって 自己の部族長とともに部落民を安撫した。つまりこの場合,彼は原住地の都督 121 唐朝における朝鮮半島系遺民として部落民を支配しつづけたのであり,この順州都督は明らかに実職であ る。 次に類型②の例をあげよう。 (史料 2)仍りて詔して其の家口を還し,太僕に館り,之を廩食せしむ。頡利 鬱鬱として志を得ず,其の家人と或いは相い對して悲歌して泣く。 帝羸憊せるを見,䋓州刺史を授け,彼の土に䍎鹿多きを以て,其の 畋獵を縱いままにし,物性を失わざるを庶う。頡利辭して往くを願 わず,遂に右衞大將軍を授け,賜うに田宅を以てす。(仍詔還其家口, 館於太僕,廩食之。頡利鬱鬱不得志,與其家人或相對悲歌而泣。帝見羸憊, 授䋓州刺史,以彼土多䍎鹿,縱其畋獵,庶不失物性。頡利辭不願往,遂授右 衞大將軍,賜以田宅。)(『舊唐書』卷一百九十四上,突厥上,頡利可 汗) (史料 3)麴氏國を有ち,智盛に至り凡そ九世一百三十四年にして滅ぶ。尋い で智盛を拜して左武衞將軍と爲し,金城郡公に封ず。弟の智湛は右 武衞中郞將,天山縣公と爲す。太宗崩ずるに及び,石を刊り智盛の 形を像り,昭陵玄闕の下に列ぬ。智湛,麟德中に左驍衞大將軍・西 州刺史に終ゆ。天授初,其の子崇裕は左武衞大將軍,交河郡王を授 かる。(麴氏有國,至智盛凡九世一百三十四年而滅。尋拜智盛爲左武衞將軍, 封金城郡公。弟智湛爲右武衞中郞將,天山縣公。及太宗崩,刊石像智盛之 形,列於昭陵玄闕之下。智湛,麟德中終於左驍衞大將軍・西州刺史。天授 初,其子崇裕授左武衞大將軍,交河郡王。)(『舊唐書』卷一百九十八,西 戎高昌) とあり,史料(2)・(3)の場合,頡利可汗・麴智盛は唐の征服戦争によって 国が滅亡し捕虜として長安に入った者である。彼らは一見類型(1)と同様な 官品を与えられたが,それとは異なり実職としての地方官を帯びておらず,内 実は唐の遺民政策のための名目的な官号であり,そうした官号授与の目的は, 彼らを人質として長安に居させ自己の勢力から離脱させるためであったと考え られる。 122 唐朝における朝鮮半島系遺民
これら旧王の場合に対し,旧王以外のほとんど全ての旧支配層は正四品以下 の武官職を授けられ,彼らは長安に宿衛して唐に統制された。また,一部の遺 民や地方豪族は故地に設けられた都督府のもとで地域を統率した。 従来からしばしば述べられているように,唐はほとんど全ての遺民に祖国の 地位に比して唐の官位を授けた。旧王は正三品から從三品の將軍号,王族は正 四品上の中郞將,王族以外の部族長は正五品上の郞將といったようである。た だ,先述のように唐に帰附した背景によって旧王への処遇が異なっており,同 格な將軍号であっても滅亡によって唐に降附した旧王の場合は,実職を伴わな い名目的な官位であった。 しかし,唐初以来,唐に降附して五品以上の官品を授けられた部族長が中国 の人士に相い半ばするようになり(5),対外遠征が頻繁になるにつれて複数の 遺民に定員を超えて同じ武官を与えるなど(6),唐の武官職は短時間のうちに インフレーションが起こっていた。さらに 7 世紀中盤になると,軍功の行賞 によって旧王と同じ官位まで上がる遺民も出るなど,唐の遺民政策は,律令官 制にまで混乱を招くに至った。
(2)百濟・高句麗旧王に対する官職授与を通じた政策
百濟・高句麗遺民の場合,両王と泉氏一族が司平太常伯・九卿などの文官職 を授けられた。その目的は,ほぼ類型(2)のそれと同様であるが,前節でみ 図1 突厥・麴氏高昌國遺民の武官職ピラミッド 123 唐朝における朝鮮半島系遺民た突厥などの旧王が大將軍・將軍といった武官職を与えられたこととは様相を 異にしている。 先学は,百濟・高句麗は古くから中華文明を積極的に受け入れ,儒学的素養 を備えていたため,唐の文官が授けられたという。そのうえで遺民の墓誌銘に 「經典を好む」,「文詞を能くす」のような文句がしばしばあることや,また 「祭告孔子廟文」(『文苑英華』卷十五)に見える扶餘 の孔子廟祭祀(7),泉男 産墓誌銘に見える「象胥の籍,時に之に先んずるもの莫し。」(8)などの記載か ら,彼らは実際に唐の文官として活動したと考察している。しかし以下に述べ る理由から,彼らの帯びた文官号が実職を伴ったとは考えがたい。 (史料 4)十二月,京師に至り,俘を含元宮に獻す。詔して高藏政は己に由ら ざるを以て,司平太常伯を授く。男産先に降り,司宰少卿を授く。 男建黔州に配流す。男生鄉導に功有るを以て,右衞大將軍を授け, 䈠國公に封じ,特進は故の如し。(十二月,至京師,獻俘於含元宮。詔以 高藏政不由己,授司平太常伯。男産先降,授司宰少卿。男建配流黔州。男生 以鄉導有功,授右衞大將軍,封䈠國公,特進如故。)(『舊唐書』卷一百九 十九上,高麗) (史料 5)十二月,帝,含元殿に于いて俘を受く。王(高藏)政は己に出づる に非ざるを以て,赦して以て司平太常伯員外同正と爲す。泉男産を 以て司宰少卿と爲す。僧の信誠銀靑光祿大夫と爲す。泉男生 右衛 大將軍と爲す。(十二月,帝受俘于含元殿。以王政非己出,赦以爲司平太常 伯員外同正。以泉男産爲司宰少卿。僧信誠爲銀靑光祿大夫。泉男生爲右衛大 將軍。)(『三國史記』高句麗本紀,寶藏王下) (史料 6)王病死するや,!紫光祿大夫・衛尉卿を贈り,舊臣の赴"するを許 し,詔して孫皓・陳叔寶の墓側に葬り,䮒びに爲に碑を竪つ。隆に 司稼卿を授く。(王病死,贈!紫光祿大夫・衛尉卿,許舊臣赴",詔葬孫 皓・陳叔寶墓側,䮒爲竪碑。授隆司稼卿。(『三國史記』百濟本紀,義慈 王) (史料 7)義慈病死するや,衞尉卿を贈り,舊臣の赴臨するを許し,詔して孫 124 唐朝における朝鮮半島系遺民
晧・陳叔寶の墓左に葬り,隆に司稼卿を授く。(義慈病死,贈衞尉卿, 許舊臣赴臨,詔葬孫晧・陳叔寶墓左,授隆司稼卿。)(『新唐書』卷二百二 十,百濟) とあり,彼らが授けられた九寺は,六朝以後より発展した六部組織によって重 要性を失い,隋唐代になるとほぼ肩書きのみが残った職事官である。また高藏 の場合も史料(4)に「詔して高藏政は己に由らざるを以て,司平太常伯を授 く。」とあり,これは名目的な肩書きに過ぎないことが明らかである。ちなみ に,司平太常伯は六部の一つである工部尚書のことであるが(9),史料(5)に 「赦して以て司平太常伯員外同正と爲す」とあり,ここに見える「員外同正」 は,正式的な任官ではなくあくまで名目的な官位である(10)。 次に,司宰少卿になった泉男産についても,墓誌銘に「君獨り玉を藁街に鏘 らし,金を棘署に腰にし,晨は北闕に趍り,簪筆を䐿龍に閒え,夕は南隣に宿 し,笙歌を近股に雜え,象胥の籍,時に之に 先 ん ず る も の 莫 し。」と あ る が(11),上述の高藏らの事例から類推すれば,彼の帯びた司宰少卿もやはり実 職のない名目的な官号であったと考えられる。 ところで,百濟・高句麗が滅亡して直後の遺民たちの官位をみると,武官職 においては,前節でみたような君主と臣下との区分がなく,泉男生,李他仁な どの旧臣下が始めから正三品から從三品の高い將軍号を授けられている。一方 で文官職に関しては,旧王らが正三品から從三品の司平太常伯・九卿,部族長 は正四品上の司宰小卿を授かり,前節のような祖国の地位によって官位を区分 していた。 こうした武官と文官の区別については,中央十六衛を機能させるために武官 には実職を伴わせ,名目的な官位としては武官に限定し,実官と虚官を分離さ せる目的があったと考えられる(12)。 なお旧王の下の部族長は,十六衛府武官と同時に彼らはしばしば地方の折衝 府の武官号を帯びたが,このことの意味については章を改めて考察する。 125 唐朝における朝鮮半島系遺民
(3)大小の部族長の官職授与からみた唐の遺民政策
上述のように百濟・高句麗遺民は,旧王及び唐に協力しなかった部族長の場 合は名目的な官位として文官職を授けられるに過ぎない一方,一部の部族長及 び軍功のある者は実職として高い武官号を授けられた。その他の部族長は,正 四品上以下の武官職を授けられ,高句麗・百濟故地での都督府の行政,もしく は折衝府に配属されて府兵の統率を行っていた。 ここで折衝府とは,府兵制のもとで地方(主に関中)に置かれた軍事拠点で あり,折衝都尉以下の軍官によって,農民から徴発された府兵軍団が統括され ていた。唐朝における府兵制については多数の研究成果があるが,遺民を対象 としたものは数少ない。そこで百濟・高句麗遺民を対象にした府兵制について 述べるにあたり,部族長と祖国での官職及び父の官職によって区分し,元の勢 力が王に準ずる者は大部族長に,次を中部族長,次を小部族長と称することに する。 ①大部族長 まず,大部族長に対する官職授与についていきたい。 (史料 8)其の年右衛大將軍を蒙授し,封を卞國公に進め,食邑は三千戶,特 進・勳官は故の如く,兼ねて右羽林軍を檢校し,仍りて仗內に供奉 せしむ。(其年蒙授右衛大將軍,進封卞國公,食邑三千戶,特進勳官如故, 兼檢校右羽林軍,仍令仗內供奉。)(「泉男生墓誌銘」) (史料 9)時に于いて公に柵州都督兼總兵馬を授け,一十二州高麗を管し,三 十七部靺鞨を統べしむ。(…)遂に所部を率い轅門に效款す。(…) !た正朔に歸し,英公に從いて入朝し,特に勞勉を蒙り右戎衛將軍 を蒙授す。(…)公又た詔を奉り扶餘を進討し渠魁を重翦す。(…) 帝焉を嘉みする有り,遷りて同正員右領軍將軍を授かる。(于時授公 柵州都督兼總兵馬,管一十二州高麗,統三十七部靺鞨。(…)遂率所部效款 126 唐朝における朝鮮半島系遺民轅門。(…)!歸正朔,從英公入朝,特蒙勞勉蒙授右戎衛將軍。(…)公又奉 詔進討扶餘重翦渠魁。(…)帝有嘉焉,遷授同正員右領軍將軍。)(「李他仁 墓誌銘」) 泉男生は唐軍に平壌城の攻略に協力した者として知られている。彼はそれ以 来,遼東大都督となって高句麗の故地を安撫するなど,結局は失敗するものの 旧王の高藏の代わりに原住地の都督として一帯を支配しようとした。 また李他仁は,高句麗の滅亡以前より遼東地域の一帯を統率していた人物で ある。彼は李勣の軍に降伏して以来,平壌城の攻略に力を尽くした功績で右戎 衛將軍を授けられた。泉男生のような都督府での活動を明示する史料はないも のの,扶餘城周辺の遺民叛乱を鎮圧するなど,故地の安撫などにある程度関わ っていた。 一方,百濟の遺民である沙䆣忠義(13)・禰寔進(14)は,それぞれ右武威衞大將 軍・左威衛大將軍を授けられていたが,いつ大將軍を授けられたかについては 不明である。しかし高句麗の大部族長の官位授与例から考えると,有力家門で ありかつ唐に協力して大きな功績のあった人物として,二者が從三品以下の武 官職を授かったのでないだろうか。ただし,これは推測の域を出ず後考を俟ち たい。 ②中部族長 中部族長である高牟,高文恊,高乙徳,高足酉,難汗,難武,禰軍,黑齒常 之らは正四品程度の武官職を授けられた。ただし,前節で述べた突厥・麴氏高 昌国の場合は旧王一族が中郞將を授けられたが,以下の史料のように高句麗の 中部族長は折衝都尉府の武官(史料 10, 11),百濟の中部族長は都督府の武官 (史料 12, 13, 14)が授けられている。 (史料 10)公年纔かに立志にして彼の邦に仕え,官は中裏小兄を受け,貴端道 史に任ぜらる。大唐龍朔元年に曁び,天皇大帝敕して義軍を發し, 罪を遼左に問う。公兵を率い敵戰し,遂に生擒せらる。聖上其の拒 抗の愆を捨き,許すに歸降の禮を以てす。二年右衛藍田府折衝長上 127 唐朝における朝鮮半島系遺民
を蒙授す。總章元年に至り,高麗政を東土に失し,命を西朝に歸 す。敕して公國を奉り忠を盡くすを以て,本土の東州長史を檢校せ しむ。咸亨五年に至り,左清道率府頻陽府折衝を蒙授す。(公年纔立 志仕彼邦,官受中裏小兄,任貴端道史。曁兮大唐龍朔元年,天皇大帝敕發 義軍,問罪遼左。公率兵敵戰,遂被生擒。聖上捨其拒抗之愆,許以歸降之 禮。二年蒙授右衛藍田府折衝長上。至總章元年,高麗失政東土,歸命西朝。 敕以公奉國盡忠,令檢校本土東州長史。至咸亨五年,蒙授左清道率府頻陽 府折衝。)(「高乙徳墓誌銘」) (史料 11)曾祖の伏仁,大相水境城道使 東城大首領たり。祖の支于,唐の# 州刺史,長岑縣開國伯,上柱國たり。父の文恊,宣威將軍右衛高陵 府長上折衝都尉,上柱國たり。(曾祖伏仁,大相水境城道使 東城大首 領。祖支于,唐#州刺史,長岑縣開國伯,上柱國。父文恊,宣威將軍右衛 高陵府長上折衝都尉,上柱國。)(「高提昔墓誌銘」) (史料 12)祖の汗,唐に入りて熊津州都督府長史と爲る。父の武,中大夫,使 持節支潯州諸軍事,守支潯州刺史たり。忠武將軍,行右衛翊府中" 將に遷る。(祖汗,入唐爲熊津州都督府長史。父武,中大夫,使持節支潯 州諸軍事,守支潯州刺史。遷忠武將軍,行右衛翊府中"將。)(「難元慶墓 誌銘」) ママ (史料 13)人望を以て折衝都尉を授け,熊津城を鎭せしめ,大いに士衆の悅ぶ 所と爲る。咸亨三年,功を以て忠武將軍行帶方州長史を加え,尋い で使持節沙泮州諸軍事沙泮州刺史に遷り,上柱國を授く。(以人望授 折衝都尉,鎭熊津城,大爲士衆所悅。咸亨三年,以功加忠武將軍行帶方州 長史,尋遷使持節沙泮州諸軍事沙泮州刺史,授上柱國。)(「黑齒常之墓誌 銘」) (史料 14)去る顯慶五年,官軍本藩を平ぐ日,機を見て變を識り,杖劒は歸す るを知る。由余の戎より出づるに似,!䜴の漢に入るが如し。聖上 嘉歎し,擢するに榮班を以てし,右武衛䘸川府折衝都尉を授く。 (…)仍りて大首望に數十人を領し,將て入朝して謁し,特に恩詔 128 唐朝における朝鮮半島系遺民
を蒙り左戎衛"將を授かる。少して選ばれ右領軍衛中郞將兼檢校熊 津都督府司馬に遷る。(去顯慶五年,官軍平本藩日,見機識變,杖劒知 歸。似由余之出戎,如!䜴之入漢。聖上嘉歎,擢以榮班,授右武衛䘸川府 折衝都尉。(…)仍領大首望數十人,將入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛"將。少 選遷右領軍衛中郞將兼檢校熊津都督府司馬。)(「禰軍墓誌銘」) このほか,高足酉が守右威衛眞化府折衝都尉を授けられている(15)。 なお高句麗の中部族長が授けられたのは,京兆府内にある藍田府・高陵府・ 䘸川府・眞化府などの折衝都尉である。一方,百濟の部族長が授けられたのは 熊津都督府の武官であり,彼らは故地を統率していた。高句麗と百濟の部族長 が活躍した地域に大きな違いがあることに注目されるが,この点については別 稿を用意している。 ③小部族長 小部族長は,中部族長と異なり,正五品上以下の郞將や果毅都尉を授けられ ていた。故地の都督府での活動は見られず,主に関内道からその周辺の地域ま で広く分布して府兵の統率を実際に担っていた。 (史料 15)公亂に居りて在らず,幾を見て作す。矯然として木を擇び,北林を 望みて歸する有り。䳩矣たるかな搏扶し,南溟を指して獨り運る。 乃ち昆季を携率し,聖朝に歸款す。䮒びに 恩に沐し, に美秩に 霑う。總章二年四月六日,制して明威將軍,行右衛翊府左郞將を授 く。其の年,又た雲麾將軍,行左威衛翊府中郞將を加う。(公在亂不 居,見幾而作。矯然擇木,望北林而有歸。䳩矣搏扶,指南溟而獨運。乃携 率昆季,歸款聖朝。䮒沐 恩, 霑美秩。總章二年四月六日,制授明威將 軍,行右衛翊府左郞將。其年,又加雲麾將軍,行左威衛翊府中郞將。)(「高 質墓誌銘」) (史料 16)公は舊人に誠にし,實に諳億と爲し,平壤を大破し,最するに先鋒 を以す。之に因って功を立て,宜城府左果毅都尉を授く。(…)垂 拱二年二月に至り,䎮を奉り差行し,神武軍統領と爲る。三年四 129 唐朝における朝鮮半島系遺民
月,賊徒を大破して,薊北は其の英聲に振え,燕南は其の餘"を仰 ぎ,俄にして右玉鈐衛中郞將を蒙授す。又た永昌元年を以て,䎮を 奉り差して諸州をして高麗兵士を簡せしむ。其の年七月,又た䎮を 奉り!州の兵士を簡し,便ち新平道左三軍摠管征行に充つ。天授元 年□月九日,恩制して改めて左豹韜衛行中郞將を授く。(公誠舊人, 實爲諳億,大破平壤,最以先鋒。因之#功,授宜城府左果毅都尉。(…)至 垂拱二年二月,奉䎮差行,爲神武軍統領。三年四月,大破賊徒,薊北振其 英聲,燕南仰其餘",俄而蒙授右玉鈐衛中郞將。又以永昌元年,奉䎮差令 諸州簡高麗兵士。其年七月,又奉䎮簡!州兵士,便充新平道左三軍摠管征 行。天授元年□月九日,恩制改授左豹韜衛行中郞將。)(「高玄墓誌銘」) (史料 17)六年二月十六日。游擊將軍右驍衛政敎府右果毅都尉を制授す。乾封 二年。右衛大平府右果毅都尉に除す。總章二年,改めて 遠將軍右 衛龍亭府折衝都尉を授く。(六年二月十六日。制授游擊將軍右驍衛政敎 府右果毅都尉。乾封二年。除右衛大平府右果毅都尉。總章二年,改授 遠 將軍右衛龍亭府折衝都尉。)(「陳法子墓誌銘」) とあり,これらの中では高質のみは右衛翊府左郞將を授けられているが,他の 者は関中周辺の折衝府に属しており,官位は從五品下である。その他に高提昔 墓誌銘に夫の泉氏が「右驍衛永寧府果毅都尉」であって,高提昔の死亡年から 推定すると遺民第一世代と考えられる。 特に高質・高玄は,郞將もしくは果毅都尉を授かって以来,昇進し様々な戦 争に動員されていた。ところで史料(15)に「又た永昌元年を以て,䎮を奉 り差して諸州をして高麗兵士を簡せしむ。其の年七月,又た䎮を奉り!州の兵 士を簡し…」とあり,また高質墓誌銘に「又た性文の下高麗婦女三人,固く城 隍を守り,敵と苦戰し,各のおの衣服一具を賜り,䮒びに物卅段を賚う。」(16) と記されており,彼らは唐内地に入った高句麗遺民たちと実質的に協力してい た。高質が磨米城で戦死したのは 697 年で,高玄が高句麗の兵士を動員した のは 689 年といずれも故地滅亡から一定の期間を過ぎてなお,遺民たちとの 協力が見られる。先学も従来その存在を推測してきたような遺民集団は,小部 130 唐朝における朝鮮半島系遺民
族長らが主として統率していたものと考えられる。 以上まで,述べてきた百濟・高句麗遺民への武官職授与について図式化すれ ば,《図 2》のようになる。
(4)第二世代における恩蔭による遺民政策
遺民第一世代から時代を降って,その子孫が唐の官位を授けられたことは 様々な史料によく見える。李基天氏は,突厥系遺民の蕃將の第二世代が父もし くは家門の官職を世襲したとことを述べるが(17),こういった状況は百濟と高 句麗の旧王族にも見られる。彼らは代々郡王号や都督を世襲していた。また大 部族長の第二世代でもある泉獻誠も,泉男生の死後に君公号を世襲し,名目的 であるが,父と同様な右衛大將軍を授けられた。 一方,部族長以下の遺民第二世代は,以下のように世襲ではなく恩蔭(父の 官位より数等下の官位から起家すること)によって唐の武官職を授けられてい る。 (史料 18)公父の資を以て入侍し,貴族賢を推す。談笑して坐して軍謨を得, 指麾して暗に行陣を成す。年十五,遊擊將軍長上を授く。(公以父資 入侍,貴族推賢。談笑而坐得軍謨,指麾而暗成行陣。年十五,授遊擊將軍 長上。)(「禰素士墓誌銘」) (史料 19)公少くして父勳を以て,上柱國を廻授し,又た右武衛長上を授か 図2 百濟・高句麗遺民の武官職ピラミッド 131 唐朝における朝鮮半島系遺民り,尋いで遊擊將軍を授かり,舊に依りて長上す。又た汎く寧遠將 軍を加え,舊に依りて長上す。又た恩制を奉り,汎く定遠將軍を加 え,長上すること故の如し。(公少以父勳,廻授上柱國,又授右武衛長 上,尋授遊擊將軍,依舊長上。又汎加寧遠將軍,依舊長上,又奉恩制,汎 加定遠將軍,長上如故。)(「高慈墓誌銘」) (史料 20)高仙芝,本高麗人なり。父の舍鷄,初め河西軍に從いて,勞を累ね て四鎮十將・諸衞將軍に至る。仙芝姿容を美わしく,騎射を善く し,勇は驍果に決す。少くして父に隨いて安西に至り,父に功有る を以て游擊將軍を授かる。(高仙芝,本高麗人也。父舍鷄,初從河西軍, 累勞至四鎮十將・諸衞將軍。仙芝美姿容,善騎射,勇決驍果。少隨父至安 西,以父有功授游擊將軍。)(『舊唐書』卷一百四,高仙芝) このように父の功績によって彼ら遺民第二世代は,「遊擊將軍」という從五 品上の武散官を授けられていた。また恩蔭であることは明記されないものの, 遊擊將軍を授けられた例は,以下の通りである。 (史料 21)君幼くして聰敏なり,精らかにせざる所無し。尋いで游擊將軍,行 檀州白檀府右果毅,直中書省を授く。雄衛を司ると雖も,恒に文軒 を理む。(君幼而聰敏,無所!精。尋授游擊將軍,行檀州白檀府右果毅, 直中書省。雖司雄衛,恒理文軒。)(「難元慶墓誌銘」) (史料 22)嗣子,右威衛平皐府果毅たり。乙孫,右驍衛安信府果毅たり,尊武 等。(…)二男,果毅並びにこれ遊擊將軍たり。(嗣子,右威衛平皐府 果毅。乙孫,右驍衛安信府果毅,尊武等。(…)二男,果毅並是遊擊將軍。) (「李他仁墓誌銘」) (史料 23)公難を皇邸に告げ,剪除して遺すなし,國祚中興するは,實に先覺 に賴る。遊擊將軍,行右衛扶風郡積善府左果毅を拜し,仍りて留ま りて長上す。聖主封禪するに,宣威將軍を加え,左威衛河南洛䗹府 折衝に改む。俄に壯武將軍を加え,左領軍衛翊府右郞將を授く。 (公告難皇邸,剪除無遺,國祚中興,實賴先覺。拜遊擊將軍,行右衛扶風郡 積善府左果毅,仍留長上。聖主封禪,加宣威將軍,改左威衛河南洛䗹府折 132 唐朝における朝鮮半島系遺民
衝。俄加壯武將軍,授左領軍衛翊府右郞將。)(「李懷墓誌銘」) このように,彼らは必ずしも折衝府に属したわけではないが,ほぼ常に起家 官として遊擊將軍が与えられており,遊擊將軍が半島系遺民第二世代の起家官 として定例化していたと言えよう。
(附)墓葬よりみた唐朝の百濟・高句麗に対する認識
最後に,旧王の墓葬地からみた百濟・高句麗に対する唐朝の認識について述 べておきたい。 (史料 24)義慈親に事え孝行を以て聞え,兄弟に友たり,時の人號するに「海 東の曾・閔」と。京に至るに及び,數日して卒す。金紫光祿大夫・ 衞尉卿を贈り,特に其の舊臣の赴哭するを許す。送りて孫皓・陳叔 寶の墓側に就きて之を葬り,并びに爲に碑を豎つ。(義慈事親以孝行 聞,友于兄弟,時人號「海東曾・閔」。及至京,數日而卒。贈金紫光祿大 夫・衞尉卿,特許其舊臣赴哭。送就孫皓・陳叔寶墓側葬之,并 爲 豎 碑。) (『舊唐書』卷一百九十九上 百濟伝) (史料 25)高藏永淳初を以て卒し,衞尉卿を贈り,詔して送りて京師に至り, 頡利墓の左に賜うに葬地を以し,兼ねて爲に碑を樹つ。(高藏以永淳 初卒,贈衞尉卿,詔送至京師,於頡利墓左賜以葬地,兼爲樹碑。)(『舊唐 書』卷一百九十九上 高麗伝) とあるように,唐は扶餘義慈・高藏の死後に特定の人物の側に葬地を置かせ た。つまり扶餘義慈は孫皓・陳叔寶,高藏は頡利可汗の側である。筆者はこう した唐の措置について,江南地域まで唐の支配権を拡げていく一方,隋朝を継 承した唐の正統性を示すことのできる象徴として,意図的に葬地の場所を選ん だと考えられる。 まず,百濟は早くから江南の都市との交流を盛んに行っており,建康に都を 置いた国家に朝貢使節を送って冊封を受けていた。その百濟最後の王であった 扶餘義慈の墓は,江南政権の吳(18)と陳(19),それぞれ最後の君主であった孫皓 133 唐朝における朝鮮半島系遺民と陳叔寶の傍らに作られている。そして孫皓と陳叔寶の降伏後,中国は西晋・ 隋において統一されたのである。江南政権と関係の深かった百濟最後の王をこ うして江南政権最後の君主(彼らはいずれも統一後に洛陽北邙山に葬られ た。)の傍らに葬ることで,唐朝は西晋や隋に続く天下統一をアピールしよう としたのではなかろうか。 そして高句麗は,周知のように隋が滅ぶ決定的な原因となった国家である。 また突厥が煬帝の孫の楊正道を擁立するなど,隋代の残党勢力を吸収して唐に 対抗していた。したがって,唐において突厥と高句麗の存在は,隋代以来の課 題を継承して征服事業を完成させるための大きな目標であり,この両国の服属 は,唐の統一や隋代の継承を同時に実現した,いわゆる吉兆であった。 (史料 26)(總章元年十月)李勣將に至らんとし,上命じて先に高藏等を以て 昭陵に獻じ,軍容を具え,凱歌を奏い,京師に入りて,太廟に獻ぜ しむ。(…)丁卯,上南郊を祀り,高麗を平ぐるを告げ,李勣を以 て亞獻と爲す。己巳,太廟に謁す。((總章元年十月)李勣將至,上命 先以高藏等獻于昭陵,具軍容,奏凱歌,入京師,獻于太廟。(…)丁卯,上 祀南郊,告平高麗,以李勣爲亞獻。己巳,謁太廟。)(『資治通鑑』卷第二 百一,唐紀十七,高宗) とあるように,高宗は高句麗の征服後,まず高藏らを太宗の昭陵や太廟に謁見 させて凱旋儀礼を行った。このことについて蔡美夏氏は,百濟が滅亡した際に はこのような儀礼がなかったことを指摘し,この度の高藏らの儀礼には唐の天 下統一を宣言する意図があったと述べている(20)。ちなみに,前掲の史料(3) にも「太宗崩ずるに及び,石を刊りて智盛の形を像り,昭陵玄闕の下に列ら ぬ。」とあり,高宗は麴氏高昌国の場合も征服した国家の象徴を太宗の昭陵に 刻んでいた。
お わ り に
以上,本稿で明らかにした主要な事実は以下の通りである。 134 唐朝における朝鮮半島系遺民(1)突厥や麴氏高昌の場合と異なり,百濟・高句麗の場合は旧王族クラスに文 官職を授けていた。これら文官職は実職を伴わない名目的なものであっ た。 (2)高句麗の大部族長は,実官として正三品以下の武官職を授けられ,故地の 支配や叛乱の鎮圧などを行っていた。百濟に関しては,中部族長らが代わ りに都督府の行政をつかさどっていた。 (3)中部族長の場合,京兆府内の折衝都尉か都督府の武官となり,官位は正四 品上である。また小部族長は,関中周辺の折衝府で從五品下以下の果毅都 尉を授けられて,いずれも府兵の統率を実際に担っていた。 (3)との府兵制の関係については,従来の研究で看過されていた論点であ る。 彼ら遺民が府兵の官号を帯びたのは,高宗末年から則天朝にかけてであり, ちょうど府兵制が崩壊に向かう時期である。このような中で,唐朝は崩壊しつ つある府兵制を補うために,降附した異民族たちに府兵の役を担わせたのでは なかろうか。ただし,こうした見通しについては,他の異民族集団との比較も 踏まえ,府兵制の全体を再検討する中で,改めて考えなければならない。府兵 に組み込まれた彼ら異民族集団のその後のあり方とともに,今後の検討課題と したい。 注釈 ⑴ 拝根興『唐代高麗百済移民研究:以西安洛陽出土墓志為中心』(中国社会科学出 版社,2012) ⑵ 安政䙩・崔尙基 総論「唐代 3H2A JL 7 %'1 5D @4 CEB 0M」 『=8> N:』第 101 輯(韓国歴史研究会,2016) ⑶ 安政䙩「./(唐代)3H2< +I, G(*?(起源)%'1 @4(遺民)C E(一族)B NO& ) "$(家系)*9−%'1 @4(遺民)B #-& 6F < /K D;!『=8> N:』第 101 輯(韓国歴史研究会,2016) ⑷ 『新唐書』卷四十三下,地理七下,羈縻州を参照。 ⑸ 『貞觀政要』卷第九 自突厥頡利破後,諸部落首領來降者,皆拜將軍中郞將,布 列朝廷,五品已上百餘人,殆與朝士相半。 135 唐朝における朝鮮半島系遺民
⑹ 『舊唐書』卷一百九十四下,突厥下及討平賀魯,乃冊立彌射爲興昔亡可汗兼右衞 大將軍・崑陵都護,分押賀魯下五咄六部落。步眞授繼往 可汗兼右衞大將軍・濛 池都護,仍分押五弩失畢部落。 ⑺ 『文苑英華』卷十五 祭告孔子廟文維乾封元年歳次甲寅二月戊戌朔二日己亥,皇帝遣司稼正卿扶餘 , 以小牢之奠,致祭先聖孔宣父之靈。 なお,彼は唐に入って司稼卿を授けられたが,百濟故地に戻るまでの 3 年間の活 動が記されていない。そのことについて金榮官氏は,扶餘 の 3 年間の空白は父 の三年葬が終わるまでの唐の配慮であろうと推定している。 また方香淑氏は,就利山会盟が終わって泰山封禪に参加し,孔子廟の祭祀をつか さどるなど,扶餘 は司稼卿として活動しつつ熊津都督を兼任したと述べてい る。 ⑻ 金秀鎭氏は,泉男産は高句麗でも唐でも出征した記事がなく,藁街・棘署・北 闕・南隣・象胥などの表現から推測されるように,もとより漢語を能くしたた め,皇帝のもとで通訳と記録の仕事を担当したという。 ⑼ 『舊唐書』卷四十三,職官二,工部 隋初改置工部尚書。龍朔爲司平太常伯,光宅改爲冬官尚書,神龍復舊也。 ⑽ また,扶餘 墓誌銘に「秩は太常卿に遷る」と記されているが,『舊唐書』卷一 百九十九上,百濟に「儀鳳二年,光祿大夫・太常員外卿兼熊津都督・帶方郡王を 拜し,本蕃に歸り,餘衆を安輯せしむ。」とあり,これもまた員外卿とされてい るので名目的な官位である。 扶餘 墓誌銘の拓本を見ると,「遷秩太常卿」の「秩」が「噜」とも見えている。 しかし,文脈から「噜」は解釈ができないので,ここでは「秩」と読んでいる。 ⑾ 「泉男産墓誌銘」 君獨鏘玉於藁街,腰金於棘署,晨趍北闕,閒簪筆於蘷龍,夕宿南隣,雜笙歌於近 股,象胥之籍,時莫先之。 ⑿ 百濟・高句麗が滅亡する以前にも,唐が遺民に対して文官の名目的な官位を授け た事例がある。『舊唐書』卷一百九十九上,高麗に,「延壽・惠眞十五萬六千八百 人を率ひて降るを請い,太宗轅門に引入す。(…)高延壽に鴻臚卿,高惠眞に司 農卿を授く。」とあり,貞觀四十九(645)年の高句麗遠征の際に,高延壽・高惠 眞が降服して文官を授けられた。また貞觀六(632)年に唐に帰順した契苾何力 も,「顯慶二(657)年に左驍衞大將軍に遷り,累ねて墘國公に封じ,兼ねて鴻臚 卿を檢校す。」とあり,この三人も,名目的な官位として鴻臚卿・司農卿を与え られた。 ⒀ 『舊唐書』卷六,則天皇后 (萬歲登封二年)五月,命右金吾大將軍・河內王懿宗爲大總管,右肅政御史大夫 136 唐朝における朝鮮半島系遺民
婁師德爲副大總管,右武威衞大將軍沙䆣忠義爲前軍總管,率兵二十萬以討孫萬 斬。 ⒁ 「禰寔進墓誌銘」 大唐故左威衛大軍來遠縣開國子柱國禰公墓誌銘䮒序(…)方承休寵,荷日用於百 年。遽促浮生,奄塵飄於一瞬。以咸亨三年五月卄五日,因行薨於來州黃縣,春秋 五十有八。 「禰素士墓誌銘」 曾祖眞,帶方州刺史。祖善,隨任萊州刺史。父寔進,入朝爲歸德將軍・東明州刺 史・左威衛大將軍。 ⒂ その他に,高牟が左領軍衛翊府中郞將を授けられた。 ⒃ 「高質墓誌銘」 有勅稱之曰。高性文旣能脫衣,招携遠藩,宜內出衣一副,䮒賜物一百段。又,性 文下高麗婦女三人,固守城隍,與敵苦戰,各賜衣服一具,䮒賚物卅段。但兇狂日 熾,救援不臻。衆寡力殊,安危勢倍。 ⒄ 李基天「唐代 高句麗・百濟系 蕃將1 32-6」『韓國古代史硏究』(韓國古代 史硏究会,2014) 李基天「単子獨立−唐代高句麗・百済系蕃將的待遇及生存策略」(金秉駿・宮宅 潔編『国際学術会議「中国古代における多民族社会の軍事統治」報告書』2015) ⒅ 『三國志』吳書三,孫皓 (天紀四年)三月壬申,王濬最先到,於是受晧之降,解縛焚櫬,延請相見。䍨以 晧致印綬於己,遣使送晧。晧舉家西遷,以太康元年五月丁亥集于京邑。四月甲 申,詔曰。孫晧窮迫歸降,前詔待之以不死,今晧垂至,意猶愍之,其賜號爲歸命 侯。進給衣服車乘,田三十頃,歲給穀五千斛,錢五十萬,絹五百匹,緜五百斤。 晧太子瑾拜中郞,諸子爲王者,拜郞中。五年,晧死于洛陽。 ⒆ 『南史』卷十,後主叔寶 後主以隋仁壽四年十一月壬子,終於洛陽,時年五十二。贈大將軍,封長城縣公, 諡曰煬。葬河南洛陽之芒山。 ⒇ 蔡美夏「666$ !"(1 唐 封禪儀禮 4.0 # 1)」『'*, /+ %5』第 56 号('*,/+2&,2017) 参考文獻 ◎墓誌銘:配列は公表年順にする。 「扶余隆墓誌銘」 羅振玉『芒洛冢墓遺文』第 4 編(卷 3),1917 「泉男生墓誌銘」 羅振玉『芒洛冢墓遺文』第 4 編(補遺),1917 137 唐朝における朝鮮半島系遺民
「高慈墓誌銘」 羅振玉『芒洛冢墓遺文』第 4 編(卷 4),1917 「泉男産墓誌銘」 羅振玉『唐代海東藩閥誌存』1937(1923 年出土) 「泉献誠墓誌銘」 羅振玉『唐代海東藩閥誌存』1937(1926 年出土) 「黒齒常之墓誌銘」 北京圖書館金石組『北京圖書館藏中國歷代石刻"本匯編』(中州古籍出版社,1990) 「高玄墓誌銘」 毛漢光『唐代墓誌彙編附考』卷 11, 501-505 項(中央研究院歴史語言研究所專刊, 1991) 「高足酉墓誌銘」 陳長安『隋唐五代墓誌匯編』洛陽卷,第 7 冊,84 項(天津古籍出版社,1991) 「高徳墓誌銘」 周紹良 主編『唐代墓誌彙編』下卷,1536 項(上海古籍出版社,1992) 「難元慶墓誌銘」 中国文物研究所・河南省文物研究所編『新中国出土墓誌』河南(壹)上 231 項,下 219-220 項(文物出版社,1994) 「李他仁墓誌銘」 孫鐵山「唐!他仁墓誌考釋」『遠望集』下(陝西省考古研究所華誕四十周年紀念文 集)(陝西省人民美術出版社,1998) 「高質墓誌銘」 陝西省古籍整理爲公室編『全唐文補遺 千唐志齋新藏專輯』79-81 項(三秦出版社, 2006) 「禰寔進墓誌銘」 董延壽・趙振華「洛陽・魯山・西安出土的唐代百濟人墓誌探索」『東北史地』2-12 項(東北史地雜誌社,2007)(2006 年発見) 「高鐃苗墓誌銘」 中國 陝西省 西安市 西安碑林博物館所蔵,金栄官「高句麗遺民高鐃苗墓誌檢 討」『韓国古代史研究』56 卷(韓国古代史学会,2009) 「禰軍墓誌銘」 王連龍「百濟人禰軍墓誌考論」『社會科學戰線』第 7 期,123-129 項(社會科學戰 線雜誌社,2011) 「陳法子墓誌銘」 胡 戟・䕯 新 江 主 編『大 唐 西 市 博 物 館 藏 墓 誌』上 270-271 項(北 京 大 學 出 版 社, 2012) 138 唐朝における朝鮮半島系遺民
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李圭皓「0T $&6 Q: Xa% Q:5T 4h」『LCN iF』第 101 輯(韓国歴 史研究会,2016) 李基天「七世紀唐T 諸衛將軍號授与N 蕃將の対応」『東洋史學硏究』(東洋史学会, 2012) 李基天「唐代 高句麗・百濟系 蕃將T [WHd」『韓國古代史硏究』(韓國古代史硏究 会,2014) 李基天「単子獨立−唐代高句麗・百済系蕃將的待遇及生存策略」(金秉駿・宮宅潔編 『国際学術会議「中国古代における多民族社会の軍事統治」報告書』2015) 尹龍九「中国出土 高句麗・百済遺民墓誌銘 研究動向」『韓国古代史研究』第七十五 輯(韓国古代史学会,2014)
Jang Byung-jin「0T $&6 $^(故地)^< ;E% Q:(遺民)T 1S」『L CN iF』第 101 輯(韓国歴史研究会,2016)
蔡美夏「666, $&6T 唐 封禪儀禮 `KN ( T9」『4BG LC .b』第 56 号 (4BGLCW/,2017)
──大学院文学研究科博士課程後期課程── 140 唐朝における朝鮮半島系遺民