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近代中国知識人における女性観をめぐって ―『婦女雑誌』を中心に―

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近代中国知識人における女性観をめぐって ―『婦

女雑誌』を中心に―

著者

楊 妍

26

学位授与機関

Tohoku University

URL

http://hdl.handle.net/10097/00127965

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論文内容要旨

近代中国知識人における女性観をめぐって

--『婦女雑誌』を中心に--

東北大学大学院国際文化研究科

アジア・アフリカ専攻

楊 妍

指導教員 勝山稔教授

黒田卓教授

大河原知樹教授

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近代中国知識人における女性観をめぐって

-『婦女雑誌』を中心に-

楊 妍

一. 問題の所在

本研究は、近代中国における代表的な女性向け雑誌である『婦女雜志』(婦女雑誌)に 注目し、その刊行過程における欧米及び日本の女性思想の影響と受容を検討するもので ある。具体的には、『婦女雑誌』の各編集長が編集した誌面の内容に対する考察、及び女 性問題の言説を分析すると同時に、同誌の全体像を読みとるとともに、女性向け雑誌と しての歴史的な意味についても吟味していきたい。 今までの研究は主に陳独秀、胡適、魯迅、周作人など代表的な男性知識人の言説のみ スポットライトを当てがちであった。確かに、彼らは新文化運動の代表的な人物とし て、果たした役割が巨大であったことはいうまでもない。しかし、当時の中国では近代 教育の普及とともに、数多くの知識人が誕生し、彼らは新聞や雑誌などのメディアを通 じて進歩的な発言を行い、その影響は決して無視することができないと考える。以前の 研究において、彼らの言論は殆ど看過されてきた存在である。なお、本研究では、「知識 人」と記す場合は、『婦女雑誌』と関わりがある編集者及び読者を示していることが多い ことを記しておく。 『婦女雑誌』は 1915 年から 1931 年まで上海の商務印書館から刊行された最も長期間 にわたって刊行された女性向け雑誌であった。『婦女雑誌』と同時期に創刊された女性向 け雑誌の多くは、2 年以内に廃刊したが、同誌は 17 年間継続して刊行された。村田雄二 郎によれば、『婦女雑誌』は「他に類を見ないほど広範」であり、すなわち「ずば抜けて 大きな影響力を持つ雑誌だったと言える」ということである。そして、陳姃湲によれ ば、1921 年の改革後の『婦女雑誌』の「販売部数は中国女性雑誌史上の新紀元を画 し」、さらに「離婚問題號」や「産児制限號」など特集号について、再版三版が印刷され るほどの異例の成功を収めた。また、「『婦女雑誌』の販売数は当時では最も多かった。 同誌のような影響力があるほかの女性刊行物がない」と示したように、『婦女雑誌』の中 国知識人への影響力を窺うことができる。 本研究では、女性向け雑誌を題材に、近代中国女性学研究をさらに展開しようとし た。このような作業は近代中国の男性知識人が女性にいかなる役割を求めていたのかを 明らかにすることができると考えられる。また、『新女性』、『東方雑誌』など従来の『婦 女雑誌』研究の枠組みでは無視されていた雑誌の分析によって、観点の多様化及び視座 の広域化を図ることを目指す。 もう一つの課題は、『婦女雑誌』の後継としての『東方雑誌』(婦女与家庭欄)の検討 である。『婦女雑誌』の出版元である商務印書館は 1932 年 1 月 28 日の上海事変で日本

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2 軍に爆撃され焼失した。同誌もそのまま廃刊となったが、1932 年 10 月に同誌の「婦女 与家庭欄」がその代わりに女性問題を討論する新しい拠点として作られた。筆者は従来 の研究では注目されなかった新しい『婦女雑誌』の一面や 1930 年代中国の女性問題を 検討したい。

二.研究対象

2.1 『婦女雑誌』について(1915 年~1931 年) 辛亥革命以降の中国では、数多くの女性雑誌が創刊され、近代国家を建築するため に、女性の家庭内での役割をめぐる議論が盛んになった。そのような風潮の中、創刊当 初の 1915 年から 1919 年までの間に、『婦女雑誌』は日本の良妻賢母主義思想を提唱 し、読者から支持を得られた。そして、五四新文化運動の影響で『婦女雑誌』において 「女性解放」に関する議論が大幅に増え、さらに 1922 年 4 月に「離婚問題號」、1923 年 1 月に「婦女運動號」、6 月に「産児制限號」、1925 年 1 月に「新性道徳號」、6 月に 「女学生號」などの特集号も編集され、「貞操問題」、「自由恋愛」、「経済独立」などの女 性解放に関する様々な議論が『婦女雑誌』の誌面に現れた。1920 年代後半以降、先進的 な中国知識人は、伝統的な女性思想に疑問視し、職業に従事する女性に対して労働に参 与して家計を助けることを美徳として主張している。さらに、新生活運動の展開に従っ て家政や育児を中心とする女性の「母性」教育は再び重視されるようになった。このよ うな社会変動の中に、「女性問題」に関する言論を分析するには、長期間にわたって刊行 されていた『婦女雑誌』が適切な資料であるといえよう。 2.2 『新女性』について(1926 年~1929 年) 1926 年 1 月、『新女性』は章錫琛によって上海で創刊され、章錫琛が『婦女雑誌』の 編集長を辞職した後、自らが創刊した雑誌である。『新女性』は 1929 年 12 月に廃刊す るまで全部で 4 巻 48 期刊行され、主に女性問題の解決方法をめぐる討論がなされた女 性雑誌である。総体的に見ると、『新女性』が五四時期『婦女雑誌』の誌面性格を継承 し、1920 年後半を通して維持され続けたことが分かった。 2.3 『東方雑誌』(婦女与家庭欄)について(1932 年~1934 年) 『東方雑誌』は 1904 年 3 月に上海の商務印書館によって創刊され、1948 年 12 月ま で刊行された近代中国史上最長期の総合雑誌と言われている。『婦女雑誌』廃刊後、『東 方雑誌』は『婦女雑誌』の代わりに女性問題を取り上げるようになった。1930 年代とい う戦争の時代において『東方雑誌』の誌面では政治と時事問題が盛り上がる一方、「婦女 与家庭」欄は「婦女回家」という社会風潮の中で中国女性が直面する家庭と社会の問題 は激化していた過程も注目された。

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三.先行研究

『婦女雑誌』が刊行された 17 年間の間に、五四運動を経て雑誌の性格が変化し、ま た編集長も数度交代した。『婦女雑誌』の時期区分について、先行研究の中に頻繁に提起 されたのは Jacqueline Nivard の区分方法であった。彼女が『婦女雑誌』を「The Beginning」、「The Taking off 」、「The Reaction」、「Tentative Revival」の四期に分けて いる。各時期の編集長及び誌面方針を表 1 のようにまとめた。 表 1.『婦女雑誌』の時期区分 時期名 期間 誌面方針 編集長 The Beginning 1915 年 ~ 1920 年 良妻賢母 王蘊章、胡彬夏

The Taking off 1921 年 ~ 1925 年 女性解放 章錫琛 The Reaction 1926 年 ~ 1930 年 反動復古 杜就田 Tentative Revival 1930 年 ~ 1931 年 急進回復 葉聖陶、楊潤余(金仲華)

出典:Jacqueline Nivard、“Women and the women’s Press: The case of the Ladies’ Journal(Funv zazhi)1915-1931”より筆者作成 先行研究の多くが、Nivardの時期区分に沿って『婦女雑誌』を「草創期」、「成長 期」、「保守期」、「中興期」(もしくは再興期)と名付け、それぞれの時代区分に沿って同 誌を研究した。しかし、羽田朝子がNivardの時期区分を説明した際に、『婦女雑誌』の 最後の段階を「中興期」とし、議論を展開した。『広辞苑』によれば、「中興」という言 葉は「いったん衰えたことを再び盛んにすること」で、「再興」という言葉は「再び興す こと」という意味である。また、中国の『現代漢語辞典』によれば、「中兴」は「衰微か ら復興へ」ということで、即ち日本語の「中興」とほぼ同様な意味として理解できる。 そして、Nivardの原文を見てみると、この時期は「Tentative Revival」であって即ち、 「仮の復興」もしくは「暫時の回復」という表現がないと、元の意味と分離されるでは ないかと考えている。 また、『婦女雑誌』の各時期に付与した特徴について、筆者は疑問を抱いている。例え ば、周叙琪は王蘊章と胡彬夏編集期の『婦女雑誌』の内容を考察し、その誌面の性格を 「保守的良妻賢母」と位置付けた。確かに、1915 年頃の『婦女雑誌』は保守的な論調を 持ち、良妻賢母の養成を目指す傾向が強かったが、筆者の調査によれば胡彬夏が提唱し た女性教育は、実際に当時の社会が標榜した「良妻賢母」や「三従四徳」の女性教育と 相違している。また、王蘊章編集期の『婦女雑誌』に掲載された外国から翻訳された記 事の数は、「成長期」と称される章錫琛編集期より多かったと明らかにした。 また、村田雄二郎が指摘するように、これまでの『婦女雑誌』の研究史では、論調が最

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も進歩的になったのは、五四時期を中心に研究されてきた章鍚琛の編集時期であるとされ る。しかしこの時期は、『婦女雑誌』の刊行期間の中で 5~6 年にすぎない。五四時期の女 性問題については先行研究でも度々議論されるが、他の時期の『婦女雑誌』に関する研究 は殆どなされていない状態であると見られる。

Wang Zheng(王政)が Nivard の区分標準を踏襲したほか、周叙琪も Nivard の時代区 分に則っている。彼女の研究では特に王蘊章、章鍚琛の編集期それぞれを「良妻賢母主義」 と「女性解放主義」と名付けて考察したが、それ以降についての考察は殆ど行ってない。 Nivard の時期区分は既に先行研究の中に深く植え込まれたが、『婦女雑誌』全体像を 明白することを目的とする本研究では、17 年間の誌面内容の再検討を加える必要がある と考える。そして、『婦女雑誌』において科学及び女性問題を分析した大部分が日本もし くは欧米からの翻訳文であるため、本誌に表現された外国から受容した文化を如何に翻 訳して理解されたかを本研究の重点に置いている。これに関する考察は「女性解放」あ るいは「女性運動」と名付けた章錫琛の編集期に重んじるだけではなく、全時期の『婦 女雑誌』そのものに目を向ける必要があると思う。

四.研究方法

筆者の修士論文は章錫琛編集期の『婦女雑誌』で繰り返し提唱された「自由恋愛」、 「新性道徳」を扱った。その理由は、当時中国の知識人らが社会に提唱された恋愛の自 由を追求すること、また独身を貫いたり同性愛に傾倒したりすることは、伝統的な家族 制度からの脱却を意味し、女性の解放に直結することと考えたためである。このこと は、五四時期の恋愛問題について、その時期の思想を扱った研究であれば、必ず言及さ れている。しかし、恋愛観、セクシュアリティなど新たな思想の受容に関する研究を具 体的に取り上げたもの自体はそれほど多くない。 本博士論文は、『婦女雑誌』、『新女性』、『東方雑誌』(婦女与家庭欄)の女性問題に関 する分析を加えた。このように、章錫琛編集期だけではなく、全時期の『婦女雑誌』に 対して新たな主張を論証することができたと思われる。勿論、中国の雑誌の外に、女性 問題の多様性を示す同時代の日本の雑誌も併せて利用した。このように、日中比較的な 視点、及び分析視点の多面性によって、『婦女雑誌』の全体像を把握することが期待でき る。 本研究において考察した内容は、具体的には 3 つの要点をまとめられている。 ① 『婦女雑誌』の各編集長の女性観及びその編集方針 ② 『婦女雑誌』と関連する『新女性』と『東方雜誌』(婦女与家庭欄)の考察 ③ 外国の先進的な女性思想の受容と影響 以下、各章での分析によって明らかとなったことを要約しながら、本研究の内容を整 理していきたい。

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五.内容構成

『婦女雑誌』の本文の検討に入る前に、清末における女性雑誌の刊行状況を明らかに したい。第一章では、中国における初期の女性雑誌が誕生した歴史的、社会的背景を把 握した上で、清末の女性雑誌の出版活動について分析している。それらの雑誌の創刊時 期の大部分は 1905 年から 1911 年にかけて集中する。その中から代表的な雑誌である 『中国新女界雑誌』(1907 年~)と『女子世界』(1904 年~1907 年)という二誌を取り 上げ、日本の女性雑誌からどのような部分を受容したのかについて検討する。それによ って、中国女性留学生らの日本出版活動の実態を明らかにした。また、『女學世界』 (1901 年~1925 年)という日本の女性雑誌に掲載された家庭教育に関する記事と、同 時代中国の女性雑誌との比較を通して、その受容された部分と影響した程度を考察し た。 第二章では、上海の大手出版社である商務印書館によって刊行された『婦女雑誌』の 編集状況に注目し、その舞台としての近代上海と商務印書館の創設について論じた。時 代背景と出版社内部の変化によって、『婦女雑誌』の編集長も何度も交代した。そのた め、本章では、最初の編集長としての王蘊章と、短期間編集長の任にあった胡彬夏の編 集方針について紹介し、彼らの記事を当時の西洋及び日本の女性思想との影響関係など の関連を考察し、『婦女雑誌』初期の性格を明らかにした。その上で、「養育」と「教 育」という二つの方面から『婦女雑誌』における子どもの家庭教育を考察した。そし て、「養育」の面で大きく「衣」、「食」、「住」に分類して『婦女雑誌』の記事に注 目し、編集者らが日本の子どもの家庭教育からどのような影響を受けたのか、またその 選択にどのような意図が込められていたかなどを究明することによって、『婦女雑誌』 に現れた理想的な家庭教育を更に詳しく述べる。 第三章では、五四時期の重要なテーマである「恋愛結婚」について、同時代の日本の 女性思想が『婦女雑誌』にどのような影響を与えたのかを論証した。本章では、まず夏 丏尊が翻訳した堺利彦の訳文である『女性中心説』を紹介し、その原作であるレスタ ー・ウォードの『女性中心説』との比較を通して、堺利彦の訳文からどのような影響を 受けるについて分析している。西洋の「恋愛観」が中国でどのように受容されていった かを検討すると共に、近代中国における女性解放の課題は、日本と比べてどのような差 異があったかを考察した。また、日本の女性思想家の平塚らいてうと 1921 年から『婦 女雑誌』の編集長となった章錫琛という二人の人物に焦点を当て、スウェーデンの女性 解放思想家としてのエレン・ケイの「恋愛の自由から引き出された新性道徳」の受容の 差異を通して、二人の観点の相違について提示しようとしている。 第四章では、1926 年に、章錫琛が刊行した雑誌『新女性』について検討を加えた。彼 は商務印書館から離職した後、『婦女雑誌』の精神を引き継いだ『新女性』という雑誌の 創刊に改めて取り掛かった。本章では、『新女性』における章錫琛の性道徳観に関する記 事を取り上げて『婦女雑誌』の記事と比較し、その中でどのような変化が見られ、それ はどのような影響を受けた結果と考えられるのかを分析した。また、1920 年代における

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6 章錫琛の女性観の変化の過程を明らかにすることにより、開明書店の設立と『新女性』 の創刊が章錫琛にとってどのような存在であったのかについて考察を行った。その一 方、杜就田が『婦女雑誌』の新しい編集長として就任すると、同誌では女性参政権、女 性解放思想など先進的な討論は殆ど行われなかった。しかし、杜就田の編集期間は本誌 の中では最も長く、その意義は決して看過することが出来ない。この時期では、西洋の 先進的な思想が中国に導入された際に、西洋と日本の女性思想が、「保守」というレッテ ルを付けられた杜就田編集期の『婦女雑誌』においてどのような紹介と理解が示された のかを検討した。 第五章では、まず『婦女雑誌』の最後 1 年半の誌面内容を研究対象にし、編集長であ る葉聖陶と編集主幹である金仲華の女性思想を検討した上で、この時期の『婦女雑誌』 の編集方針について明らかにした。そして、最後の編集長とした葉聖陶と金仲華の女性 観を明白にすることを目的とし、『婦女雑誌』を検討するほか、その後継としての『東方 雑誌』(婦女与家庭欄)の内容も加えて分析した。1930 年代の「婦女回家」(女は家に帰 れ)論争という風潮の下に、日常的な生活問題の討論が盛り上がった中国の女性雑誌 で、職業女性への考察の面でどのような新たな認識が生じたかを確認する。

六.結論

『婦女雑誌』は常に時代と共に変化する読者の要求に応じていた。周知のように、近 代中国において女性雑誌の発刊は女性の手によるものであったが、女性の編集者による 雑誌はわずかであった。商務印書館など大型出版社の女性雑誌の編集は、殆ど男性編集 者の手に委ねられていた。そこでは、女性教育、家政知識、生活改善、外国の人物など が紹介された。彼らの言論は広範な女性読者に影響を与えた。早期には、纏足、女性教 育の促進など中国社会の封建思想の否定を試み、民国初期に入ると、日本由来の「良妻 賢母」という教育方針の紹介、五四時期以降の男女平等、女性の社会進出について議論 を展開した。『婦女雑誌』が女性雑誌として果たした役割は、中国女性の生活情況を記録 するだけではなく、各方面から当時の女性を支えたことにあるだろう。 そして、『婦女雑誌』で作り上げた様々な理想の「女性像」は決して同様な意味を付与 されたわけではなく、その時代の風潮に応じて変化する流動的な存在であった。しか し、理想的な女性像はメディアで称揚される存在である同時に、社会的な批判を浴びた 存在でもあるような関係と思われる。『婦女雑誌』の「女性像」は、伝統的な「良妻賢 母」にせよ、30 年代初期に現れた「新式女性」にせよ、これらの女性形象を通して、男 性編集者の女性観が社会の「分利」(利益を分け合う)としての存在から社会の「生利」 (利益を生産する)の一員へと変遷する過程を読み取ることが出来る。 そして、本研究では各時期の編集長及び編集者の言論に対する考察を女性教育、女性 職業など極力広いテーマから検討した。もちろん、これで『婦女雑誌』の全体像が鮮明 されたというわけではない。例えば、『婦女雑誌』に紹介された労働女性の生活に対する 考察については、本研究で殆ど検討できなかった。

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7 筆者は最初、Jacqueline Nivardの『婦女雑誌』時期区分(表 1 参照)に関する先行研 究を引用し、それぞれ時期に応じた編集方針の解釈に疑問を投げかけた。『婦女雑誌』全 時期の再考察を通して、改めて新しい認識を得た(表 2 参照)。 表 2. 筆者による『婦女雑誌』各時期の編集方針 期間 編集長 編集方針 外国語能力 女性教育 社会進出 家庭役割 目的 1915 年~1920 年 王蘊章 科学普及 日本語・英語 男女別教育 否定 内職 家庭教育 夫の補助 胡彬夏 高等教育 日本語・英語 高等教育 1921 年~1925 年 章錫琛 女性解放 日本語 男女共学 肯定 無関心 種族改善 1926 年~1930 年 杜就田 感性養成 不明 男女別教育 否定 家庭教育 家庭改革 1930 年~1931 年 葉聖陶 人格独立 不明 男女共学 肯定 無関心 精神改造 金仲華 社会進出 英語 男女共学 肯定 集団保育 社会服務 民国期以来、女性に対する社会的束縛は、様々な角度から揺さぶりがかけられた。男 性知識人の中から、女性を労働力として活用して国家の近代化を目指す意見が現れ、女 性解放運動の先駆けを成した。『婦女雑誌』の考察を通して明らかになった。それぞれ編 集長の女性解放に関する意見は以下のとおりである。 王蘊章 女性が副業に従事することは家庭だけではなく、国家経済の発展に寄与する。 胡彬夏 家庭の中で女性の才能を発揮させることが社会を前進させる源泉となる。 章錫琛 女性教育や経済的自立などの問題の解決は女性解放の手段であって目的ではな い(中略)恋愛問題は一切の婦人問題を解決する最も根本的な方法である。 杜就田 女性が職業を持つことに対してさほど関心を示さなかったが、むしろ女性とし ての感性を磨くことを重要した。

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8 葉聖陶 女性の経済独立が男女平等に繋がる。 金仲華 女性は家庭外作業によって、健全な身躯を持つことが出来る。 以上のように、1920 年代以降の『婦女雑誌』の内容から見ると、家庭内における女性 の役割を強調することによって、女性を間接的に国家と社会のために、「生利」の一員と して付け加えようとする言論と思想には、女性の役割を家庭内に限定する従来的な「良 妻賢母」の規範と異なる進歩的な一面があったことを明らかにした。結局、『婦女雑誌』 の男性知識人らは、中国の儒教的な女性観に対する抵抗を意識しながら、家庭教育、家 政知識などの提供によって外国の先進的な女性思想を中国に導入し、それと同時に科学 的な知識を備えた女性が、主婦として家政管理能力を発揮することで国家発展に貢献す る能力を持つという近代的な「理想的な女性像」を提示しようとしたのではないかと推 測できる。 本研究の検討で明らかになったように、『婦女雑誌』に登場した知識人が中国女性に付 与した役割は、「個人」として、「家庭」と「国家」という二つの側面により示されるも のである。そして、彼らの言論には殆ど女性問題を「国家建設」と関連させる傾向があ ると見られている。『婦女雑誌』の中で最も先進的だと言われるのは章錫琛編集期である が、新思想に染まった章錫琛が自由結婚、自由離婚、産児制限、新性道徳など女性問題 に積極的に取り組んでも、新性道徳を提唱する際に、優生学を第一に考え、女性の生殖 をコントロールし国家の発展と繋げる方法とみなしていた点が注目される。また、金仲 華は結婚後の女性は社会進出を可能にするために、子どもの集団保育を担う保育機関を 早急に設立すべきと主張し、それを実行に移すことは、決して容易ではないことが推察 されるはずと考える。彼らは「科學的」「先進的」な理念を受け入れる一方、それが中国 社会の現状に適応するかどうかについては、彼らの中に明確な答えを持っていなかった 可能性がある。 『婦女雑誌』の歴代の編集長は、女性解放思想を危険視しないことでは共通していた が、その時期の編集方針に従って必ずしも編集者全員の意見は一致してはいなかった。 例えば、杜就田編集期において、杜就田は撮影技術、芸術鑑賞に関する記事を多く採用 し、『婦女雑誌』を「軟性読物」にすることを目指したが、当時一部の記事には女性の職 業の重要性を提唱し、男性の「附属品」にならないように呼び掛ける内容もあった。こ れらの言論からやがて女性の就業が中国の女性解放思想に結びつける思想が生まれるこ とが分かった。 また、『婦女雑誌』初期で称賛された「新良妻賢母」という女性像は決して一般的な理 解がいうように、完全的「封建的」なものではない。そして、1930 年代の中国文化界で 一斉批判された「モダン・ガール」は、経済の発展に従って生まれた新たな階層の女性 であり、ショートカットのヘアスタイル、ハイヒール、それに顔に施された外国の化粧 品など贅沢と逸楽の象徴を身にまとった女性は、同時に職業を持つ知識女性として家庭 や社会に貢献する可能性もあると考えられた。『婦女雑誌』において議論された称賛され

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9 る女性像にせよ、批判される女性像にせよ、男性知識人が想定したすべての女性像は、 彼女らを最終的に「家庭」の中に押し込もうとするものにほかなかった。 本研究では民国期の女性の情況に多く関心を注いたが、メディアを通して男性知識人 からの言論を分析することで、近代中国における女性像の変化と、それに伴う女性問題 の多様性を理解することができたと考える。そして旧い倫理規範や良妻賢母主義などの 問題は、解決が 21 世紀に持ち越され、都市と農村の地域格差の問題と絡み合って、さ らに複雑化しており、中国女性学研究の大きな課題となり続けると考えられる。

七.今後の課題

本研究では、近代中国女性史研究の進展と女性雑誌研究を参照しつつ、『婦女雑誌』で 西洋及び日本の女性思想などが直接的かつ間接的に受容・使用されていることを明らかに した。本研究では、知識人がそれらをそのまま受容したわけではなく、中国の現状に応 じた変更を加え、独自の言論として『婦女雑誌』に発表したと結論づけるに至った。 しかしながら、未だ十分に考察されていない部分がいくつか残る。まず、『婦女雑誌』 に現れた男性知識人の言論に対し、読者及びほかの雑誌が示した反応がどのような役割 を果たしたのかという問題について、本論では初歩的な検討を加えたに留まっており、 より詳細に検証する必要がある。それを踏まえて、次の 3 点を今後の課題としたい。 第 1 に、『婦女雑誌』(1915 年~1931 年)は、民国女性雑誌に関する研究の一環とし て様々な先行研究で紹介された。本研究では、『婦女雑誌』の誌面から西洋と日本からど のような影響があったかを考察したが、実際に、先進国から受けた知識と思想は読者に どのような程度で受け入れたのかについては殆ど論じられなかった。今後は、『婦女雑 誌』の読者投稿を踏まえて、先進国の新しい技術と情報の実際の普及度及び現場での利 用効果などについても検討したい。 第 2 に、商務印書館は数多く日本の出版物を編集して出版したことが明らかにされて いる。本研究では、婦女雑誌が発刊される以前に商務印書館によって刊行された出版物 について殆ど考察しなかった。『婦女雑誌』が刊行された同時期に、日本の女性雑誌ある いは修身教科書が常に翻訳され出版されたことはなかったとしても、一部の内容が雑誌 に取り入れられた可能性は高いと考えられる。今後は、1915 年以前の商務印書館の出版 状況を踏まえて、日本の出版物から影響を受けたかどうか、女性雑誌だけではなく、日 本から取り入れられた修身教科書も視野に入れて考察したい。 第 3 に、『婦女雑誌』の刊行時期は 1931 年 12 月までであり、1930 年代の中国女性史 を研究するには不十分であると思われる。今後は 1930 年代中国女性の表象を研究課題 とし、『玲瓏』、『良友』、『上海婦女』など 30 年代の代表的な雑誌を通して、1930 年代の 女性が抱える問題を分析したい。そして、より広い範囲で新しい研究成果を取り上げ、 近代中国における女性雑誌の考察という課題を、さらに多様な観点から検討し続けた い。

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