仙台藩青柳館文庫の成立・運営と利用
著者
大友 優香
雑誌名
国史談話会雑誌
巻
52
ページ
47-71
発行年
2012-02-20
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127070
仙台藩青柳館文庫の成立・運営と和用
は じ め に4
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近世期は、出版文化の発展によって設絡の蓄積が盛んにな っ た 時 代 で あ る 。 時 国 抑 制 さ れ た 習 抑 制 群 は 、 地 域 社 会 の 中 で 践 活 として人々の利用に供されていく。 近年、設籍を対象とした研究は、歴史学では多様な観点で 行われている。例えば、出版されたお絡を手に寸る媒介手段 としての資本展の存在に焦点を当てた長友千代治氏の研究 や、ヤ同紛が人々にどう読まれたのかといった読者に着目した 研 究 も 進 ん で い る 。 最 近 で は 、 北 羽 田 地 政 希 氏 や 横 田 冬 彦 氏 な ど の研究で、設籍の内容まで踏み込んで分析することにより、 読設を伴った思想的蛍為が解明されてきている。 政怒は、小林文雄氏や榎本博氏が明らかにしているよう に、地城社会の中で一つの﹁家﹂によって形成されることが大
友
優
香
多い。小林氏は、近散期の各地の村々で名主開聞を中心に球惑 が形成されていたことを明らかにした。渡木氏は、﹁家﹂に おける記録の継承や﹁家﹂の存統と深く関わって球惑が形成 されたことを指摘している。また、橘川俊巾山氏は、近世商家 に残された球明白目録を検討した。この術家は、学者でも地方 文人でもない家であり、橘川氏は、そのような持ち主による 一般的知的世界を見出すため、事例の積み重ねの必要性を提 起 し て い る 。 一 方 、 ﹁ 家 ﹂ で の 球 お と は 異 な り 、 八 一 戸 務 の 務 士 が 書 籍 を 共同購入する﹁お物仲間﹂を組織してお籍を諮駁した事例も あ る 。 政設の形成は、引い絡の持つ知の蓄積を意味している。その 形成過程を明らかにすることは、形成に郎防轡した思想やその 自的を明らかにすることでもある。4
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さらに、形成された勝也が、人々にどのように利用された のかという祝点も注目すべきだろう。小林氏は、先の事例 で、球舎を形成した家が話相紺情報の保管管理と住民への情 報 提 供 と い う ﹁ 役 ﹂ を 抑 一 い 、 地 域 社 会 か ら ﹁ 政 明 治 の 家 ﹂ と し て位置付けられていたことを示した。その上で、政治を形成 することが、村務の情報の拠点や地域の結節点となる役割を 果たすことになるという、政訟の怒義を明らかにしている。 近年では、械設が人々にとってどのような機能を果たしてい たのかという視角からの実証が期待されているのである。 近批後期、仙台滞では、他の地峨と問機に大設のお絡から せいり﹀うかん なる、背柳館文庫が成立している。 青柳館文庫は、青柳文放という仙台議出身者によって収集 されたお籍鮮が仙台滞に寄贈され、その歳出織をもって文庫と して成立したものである。青柳館文時仰は、現在の宮城県図説 附聞の前身となっている点から、仙台務において、庶民一般の 利用に供されていた公開問図怒館的役都を果たしていた(ある いは公共闘怒館の関矢である)といわれている。しかし、そ うした文郎の怒義を指摘した研究は多いものの、実際にどの ように利用されていたのか、といった笑態に迫った研究は見 ら れ な い 。 さらに、先述したように、政滋は、一つの共肉体内におい て形成され、その中で拡充縦承、あるいは利用されていた との指摘が多かった。では、背柳館文郎のような、政書の形 成者と継添者が異なる政設、しかも傭人という私的な存在か ら、務という公的な存在へとその所右者が変わった放設に は、従来指摘されているようなな貌を見出すことができるの だ ろ う か 。 こうした関心に基づき、本稿では、以下の点を検討する。 第一点は、背柳文蔵から仙台務へ球部が移管された経総を概 綴し、その球惑によって成立した青柳館文郎が、滞によって どのように管理・迎悦印されたのかを開明らかにすることであ る。第一一点は、従来の研究では、蔵設の公開性が指摘されて いる背榔館文郎であるが、実際にはどのように利用されてい た の か 、 利 用 者 の 側 か ら の 文 賄 の 笑 態 を 開 明 ら か に し て い く こ とである。これら二点の分析から、倒人が収集した怒籍群 が、務という公的な存在に引き継がれて管理されたことが、 放設や、政設を利用する人々にどのような怒裁をもたらした の か を 明 ら か に し た い 。 本総では、史料として、主に﹁︹総務︺天保八年日誌﹂及 び﹁︹総務︺天保九年日誌﹂(ともに仙台市民間設館蔵)(以 下、﹁八年日誌﹂及び﹁九年日誌﹂と略す。双方全体を指す 場合は単に﹁日誌﹂と表現する。)を使用する。これは、仙 ︿らじ ム 口 務 士 で あ っ た 岡 放 治 ( 一 七 九 二1
一 八 六 一 一 一 ) が 、 一 八 一 一 一 七 年 ( 天 保 八 ) か ら 一 八 一 一 一 八 年 ( 天 保 九 ) の 一 一 年 間 に わ た っ て生活の機子を記録した﹁日誌﹂である。他に用いる史料につ いては、各章で分析に使用する際に適笈詳述する。 第一章 青柳銘文庫の成立
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第 一 節 文 政 天 保 期 の 仙 台 藩 の 文 化 教 育 近世初期以降、江戸京都大坂の﹁一一一部﹂や名市墜を中 心 に 出 版 文 化 が 発 股 し た 。 ま た 、 一 一 一 都 等 だ け で な く 、 金 沢 や 広島、仙台等の地方でも、出版を行った本屋が一O
人以上確 認されている。出版の内容については、仙台務の出版事業に 対する考え方に大きく影響を受け、寺子墜などの初等教育の 場 で 用 い ら れ る 往 来 物 の 出 版 が 多 い こ と が 特 徴 と さ れ て い る 。 一 八 世 紀 半 ば 、 仙 台 藩 七 代 務 主 の 伊 述 重 村 ( 一 七 四 一 一1
九 六)によって整備拡充された務校義貸裳は、一九世紀初頭に 学 践 に 就 任 し た 大 槻 平 泉 ( 一 七 七 一 一 一1
一 人 近O )
によって学 制改革が進められた。大械は、社会不穏を抱える務に対する 危 侠 か ら 、 北 日 開 片 品 説 教 育 の 充 実 を 劉 り 、 有 能 な 人 材 を 育 て 登 用 す る こ と を 跨 指 し た 。 さらに、議賢堂は、議賢堂版と呼ばれる教科書の出版も行 っており、その出版活動は仙台における出版活動に大きな影 響を与えた。先の改革の中で、教育の振興と相侠って、義昭 H 堂の級者も充実が鴎られ、一八一二年(文化九)には、一万 ( 凶 } 一 一 一 百 五 十 一 ニ 聞 を 抱 え る こ と と な る 。 一 方 で 、 医 学 教 育 に も 着 手していた仙台務は、先の延岡 A 裳改革にあたり、医学教育部 門を独立させて医学校を設けることとし、一八一七年(文化 一 間 ) 百 融 制γ
(
現 仙 台 市 東 一 一 番 了 ) に 医 学 校 を 完 成 さ せ た 。 青柳館文郎は、この医学校の構内に設けられ、医学校、青柳 館文庫それぞれに大量の恐慌仰が所蔵されていたといわれてい る。仙台務には、他にも、多くの球混在所有した文時却を抱え ており、こうした文庫の成立も、出版や教育の文化の発展と 切り離せないものであった。 第二節青柳館文庫の成立背景 では、背柳館文郎はどのようにして成立したのだろうか。 蔵書が、由陥没形成者から新たな所有者の手に渡る過程を明ら かにしていくことで、青柳館文庫の成立経緋を追っていきた し ︿ 凶 v 背柳館文庫の誠治は、青柳文政(一七六一1
一 八 一 一 一 九 ) と いう仙台務出身者によって集められたものである。文践は、 一七六一年(宝暦一一)仙台滞領盤井郡東山松川村(現岩手 県一関市東山町松川)に生まれた。松川で父小野寺三迷に倣 い医師を士山すも、途半ばで修行をやめて江戸に上ることとな り、このときに青柳の姓を名乗った。訴漢学派の井上金峨に 学ぶなど勉学に励み、やがて公事師となったという。また、 金微笑を営むなどして財を成し、その資財で、自身の持つ知50 A W } 的欲求や収集心に従って書籍を良い集めたといわれている。 その後、﹃東竪詩文銭円﹃青柳館放泉諮﹄などを若し、一八 二九年(文政二一)、六八歳のときに仙台務に議設の寄贈を 願 い 出 た 。 文政と交流があったと見られる水戸務の学者であった小笹 山楓軒(一七六四
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一 八 四O
)
という人物が、一八二四年 ( 文 政 七 ) に 、 円 抑 制 軒 年 録 ﹄ と い う お 記 の 中 で 文 般 に つ い て 記 述 し て い る 。 ︻史料一︼(傍線部は銭者、以下向) ( 前 略 ) 一定めて御聞及びも可被有候、深川、松井町に伎候、紛 者 、 背 柳 文 蔵 、 州 市 川 市 衣 よ り み へ 申 し 候 よ ふ に 、 出 有 酬 明 抽 出 と 申 候 額をかけ怪キ候由、入り見候へパ、唐本、如山に絞蹴キ、盛 なる事に御座候、大ニ笛み候而、朝川替庵なども、度々、怒 籍を質物に巡し候而、借財いたし候由に御座候、(後略) これによれば、文放は、一八二四年(文政七)に、お籍を 収集していた段階で、﹁背柳抽出﹂という名を錦げて諮絡を所 A M μ } 持していた。また、交流があったと見られる朝川善施(一七 八 一1
一八四九)からお籍を質物にとって金銭を貸していた とされている。官域保閣議館に現存する﹁背柳文賄﹂の誠治 には、背榔文歳以外の政復印が抑されているお絡も多く、こ れらの政滋印は、文放が所蔵する以前に抑されたものである 可 能 性 が 潟 い 。 文 相 胤 は お そ ら く 、 自 ら で 購 入 す る 以 外 に も 、 質物としての収集も含め、知人からもお籍を手に入れて波書 を 形 成 し て い た の で あ ろ う 。 ま た 、 ﹁ 出 H 柳 館 ﹂ と い う 附 加 を 掲 げていたということから、この頃すでに治結の貸し出しを行 っ て い た と も 考 え ら れ る 。 文裁は、一八二九年(文政一二)に仙台務に政視の献上を 願 い 出 た ロ の ち 、 一 八 一 一 一O
年 ( 天 保 一 苅 ) に 寄 贈 さ れ 、 務 の 所 有となった。これについては、仙台務の公的記録である明治 家 記 録 ﹄ に も 古 か れ て い る 。 { 幻 ) 門 史 料 二 ︼ 六代治家記録巻之八十 能山公限 天保元年決寅(中略) 問 一 一 一 月 巳 米 ( 中 略 )O
二 十 八 日 、 商 青 柳 文 蔵 総 所 蔵 ノ 滋 籍 一 一 千 八 百 八 十 余 部 及 ヒ 楽滋ヲ献ス、且ツ封内東山旧里備倉ノタメ金一千円ヲ畏シ、 終身米十人口ヲ給7
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細 川 ( 後 略 )この記録によると、文蔵自身は十人扶持を得、務内に背柳 館文勝として成立することを認められた上での寄贈となって いる。なお、司仙台人名大辞明記によれば、青柳館文賂が附 属する医学校の目付であった谷津直士口という人物が、﹁脊柳 館文庫間開設に就て後々斡旋の労﹂を執ったとある。周阪の人 の 助 カ を 得 て 、 一 八 一 一 二 年 ( 天 保 一 一 ) 、 青 柳 館 文 銀 が 医 学 校 の 附 属 と し て 成 立 し た 。 青柳館文庫の建物付近には、文践と交流のあった漢学者松 帆 問 機 堂 ( 一 七 七 一
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一八四四)によって設かれた脚文﹁背榔 文庫記﹂が刻まれた碑があった。文庫と同時に建立したとい { 郡 一 われる青柳倉の敷地内にも、こちらは文殺が担問者である﹁背 ( 泌 } 柳倉記﹂という碑文が刻まれた碑が建てられていた。これら の碑には、文織は、学ぶ怒士山のある者が貧しくて滋籍を読む ことができないことを謎い、政設を人々の学問に役立てるこ とを目的として背榔館文庫を建てたという内容が刻まれてい た。これら碑文から、文放が習籍群を寄贈した目的を読み取 る こ と が で き る 。 以上、文蔵による書籍収集経緯の一端、その寄贈先であり 新たな政書の所有者となった仙台簿の記録、さらに復籍群を 滞に寄贈した文践の目的を知ることで、絞怒の所有者が移り ゆ く 経 緯 を 追 っ て き た 。 第 三 節 車 一 向 柳 銘 文 庫 の 管 理 ・ 逮 営 では、新たに政治を継承することとなった仙台務のもと で、この蔵役はどのような性質を持ち、文庫としての機能を 付 与 さ れ た の だ ろ う か 。 ま ず は 、 文 時 仰 の 管 現 体 制 か ら 見 て い き た い 。 先の︻史料二︺に、﹁殴吏ヲ置キ務土ノ借覧ヲ許ス﹂とあ るように、背柳館文庫の蔵惑の借覧を許されていたのは務土 に限定されていたことがわかる。これは、次に挙げるこつの 史 料 か ら も 読 み 取 れ る 。 門 史 料 一 一 一 ︼ は 、 務 内 の 学 問 所 に つ い てまとめられ、他に日総所や順造館などの概要についても知 ることができる﹁学問所説﹂である。 門 史 料 一 ニ ︼ ( 前 山 略 ) 設 庫 一 一 一 棟 一 ハ 枯 河 川 口 銭 ニ ア リ 、 堂 中 諸 生 ノ 縦 覧 教 員 ノ 参 考 ニ 供 ス 、 部 数 等前ニ見ユ 一 ハ 治 下 八 幡 町 出 旧 安 寺 中 ニ ア リ 、 法 宝 蔵 卜 称 ス 、 其 品 川 口 仏 籍 多 シ ト ス 、 其 他 経 史 子 集 合 テ 一 万 六 千 四 百 一 一 一 十 三 巻 、 正 徳 四 年 往僧実政主衆ムル所同寺所蔵ニ係ル、実政訪ブテ怒籍ノ監視 力開庫ノ修理ヲ簿ニ於テ管絡ス、務士ノ縦覧ヲ許ス 一ハ治下百騎了ニアリ、出百柳鰭ト称ス、白付弐名ヲ怪キ監視セシム、務士ノ縦覧借覧ヲ許ス、経伝子集法帖図等合テ七千 三 百 十 附 十 凶 帖 一 ニ 板 、 外 ニ 袈 像 一 組 屯 潔 磁 一 一 郎 ・ 古 法 , 一 枚・古銭間十八随御衣断片一帖ヲ放ス、印アリ、下ニ救セル こ の よ う に 、 ﹁ 学 問 所 調 ﹂ に は 、 義 昭 以 裳 、 能 宝 寺 、 出 目 柳 館 それぞれの文庫の概婆が脅かれている。次に、医学校の文時仰 の目録である﹃医学校政怒目録﹄の附録を見ていきたい。 ︻ 史 料 四 ︼ ( 前 略 ) 附 録 一 六 尺 界 風 一 隻 ( 中 略 ) 一 医 学 校 来 二 需 了 。 川 崎 同 ハ ツ 町 鳩 山 町 忌 ハ 本 部 の 地 ナ リ 。 ( 中 略 ) 一 役 員 講師。同添役。助教。補助。制引例例制パ 句 読 師 山 総 附 戸 総 m h q 外 ニ 諸 生 主 立 一 エ 名 。 同 校 御 目 附 二 人 。 施 薬 所 プ リ 。 執 レ u 一名。助教補助ノ内ヨリ兼テ陀校定居。其ノ外 賄 方 ノ 頭 一 名 。 定 附 ト 呼 ブ モ ノ ニ 一 一 一 名 ア リ 。 講 堂 小 供 ト 呼 ブ モノ二名出勤セリ。組殺/叩刀十五歳前後ノモノ命セラル。会 計ガハ両替所本締一名。並役人一名。毎月両三度ノ出動ニ見 受タリ。続的 v w 待 問 恥 お 町 民 炉 開 市 ( 後 略 ) これらによれば、背柳館文庫は隠付二名による監視が行わ ( m v れ、落土の﹁縦覧借覧﹂を許した形で管理されていた。仙台 機の規定では、す柳館文時仰の政滋は、務土に利用を許可して い た こ と が わ か る 。 さ ら に 、 ﹃ 医 学 校 球 誕 百 録 ﹄ の 冒 頭 に は 、 次 の よ う に あ る 。 A m } ︻ 史 料 五 ︺ ( 前 略 ) 右何レモ旧仙台務参政ニテ医学校掛リ中村氏ノ継目判アリ。 乃チ目録本線ト一再フモノナリ。械設ハ同校教員/検閲ニ供シ 他ニ借院を許サス。今ヤ目録ヲ見テ其市議/僅々タルヲ怪シ ム人アラン。同校構内ニ青柳館文勝成セリ。参考ノ設相紺ニ乏 シ カ ラ サ レ ハ 敢 テ 使 シ ム 勿 レ 。 維 新 前 余 隠 校 教 師 帆 ヲ 車 中 ス ル 十 数年、胸臆ニ存スル事ヲ、巻末ニ附録シ、
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籍ノ来歴アル モ ノ ヲ 、 側 棚 上 ニ 朱 筆 ヲ 加 ヘ テ 豚 児 済 ニ 一 ホ ス 耳 。 明治二十七年四月上己ニ当ル前夜燈下ニ於テ。 家廊老人職 ( 後 略 )これには、青柳館文賭が医学校構内にあったことが記され ており、医学校が有していた政訴は、河校の教員の検問闘を受 けて利用するもので、他に﹁借覧﹂は許されていないことが わかる。一方の青柳館文郎は﹁柑博士ノ縦覧借覧﹂は許されて いたのであり、同一敷地出円であってもその利用は区別されて し た 以上、青柳館文庫は、医学校の附腐として設俊されていた が、同じ構内にありながらも独自の運営を行い、利用されて い た こ と が わ か っ た 。 では、青柳銘文郎でのお籍の貸与手続きはどのようなもの だったのだろうか。これについては、仙台務の医師の家系で あった桑原家の、議原如弘(設純)が記した﹁自家記録﹂か ら見ておきたい。﹁自家記録﹂には、如弘が脊柳館文庫で設 絡を借りる許可を得た際の手続きを書き留めた記事がある。 53 門 史 料 六 ︼ ( 前 略 ) 菜 、 氷 一 一 一 年 ( 中 略 ) 脊柳館御在籍相借ニ付、若老衆御間判読取候滋鮒党 捌 者 儀 、 学 門 為 修 行 背 柳 拍 崩 御 市 川 町 抑 制 宅 下 ケ 将 借 被 成 下 度 、 御
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附 中 山 日 間 皮 候 、 御 荒 川 銘 ク 媛 、 医 学 校 講 師 手 前 承 り 合 拝 借 可 仕 候 、 捌者儀、当時御番医師御近習相勤、進退玄米間百侠、 代々木道家業御坐候、以上 草 加 永 三 年 正 月 廿 日 【包1] H fF Un
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l修"1 - ・ ・ ・ ー ー ー ・ 長門殿⑩
桑 原表 叫 れ H 矧 叫 州 出
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年号月見 青柳館・・ 【図2] 第 永 一 一 年 二 月 出w
榔 抽 出 御 諮 籍 宅 下 拝借仕出納通帳 桑原降初O
拙者儀、官榔館御習時制宅下拝借仕候ニ付、其時々 布通帳を以出納罷成候御首問問中受度候、右御情閣 時制御挫之畑地委細承知仕候、拙者儀、御番医師御近習 相勤、進退問百依ニ御坐候、以上 桑原隆朝 薪 永 一 ニ 年 二 月 医学校処総師衆 ⑩ 一- z a 表出認蛾事
【図 3]。
巨 主ノLi
長 捌{韮陸i↓ ↑
( 後 略 ) 55 まず、脊柳館文庫で書籍を借りる際には、﹁若老衆﹂の許 可が必要であり、その許可によって滋籍の借用が可能になる こ と が わ か る 。 そ の 申 請 の 様 式 を 書 き 向 田 め た の が 、 門 殴 l ︼ で あ る 。 こ れ に は 、 ﹁ 拙 者 儀 、 学 問 け 為 修 行 青 柳 館 御 書 籍 宅 下 ケ拝借被成下度﹂と、学問の修行のために脊柳館文庫のお籍 を拝借したいという、書籍を借りる理由が述べられている。 その上で、借りることを諮可した﹁怒附﹂を貰い受けたいと 申請しており、その﹁習附﹂が、利用許可証の役割をするこ と が わ か る 。 統いて、﹁御滋銘之儀、医学校講師手前承り合拝借可仕候﹂ と、医学校講師削の前でお籍を借りることを約束している。さ らに、﹁加者儀、当時御番医師・御近習相勤、進退玄米間百 依、代々木道家業御坐候﹂とあるように、﹁御番医姉﹂﹁御近 習 ﹂ を 勤 め 、 禄 { 日 仰 は 回 世 田 俵 で あ る と い う 自 ら の 身 分 も 明 示 し て い る 。 次 に 、 ︻ 悶 2 ︼は、背柳館文庫の﹁山山納通帳﹂の雛形であ る 。 ﹁ 立 加 永 一 一 一 年 二 月 ﹂ 以 下 は 、 そ の ﹁ 通 帳 ﹂ に 記 載 さ れ た 文 常を怒き写したものであり、この﹁通帳﹂は、文庫の拝借の 際に用いる﹁出約通帳﹂であることがわかる。この﹁通帳﹂ がどのように使われるのかについては、﹁
O
拙者儀﹂以降の 部 分 で 説 明 し て い る 。 こ れ に よ れ ば 、 ﹁ 拙 者 儀 、 出 H 柳 鮪 御 品 川 同 紙 宅 下 拝 借 仕 候 ニ 付 、 共時々右通帳を以出納罷成候﹂とあり、︻図 2 ︼の通帳をも って﹁出納﹂するので、処理して欲しいと述べられている。 これらが脅かれたのが門図3
︺であり、﹁話附﹂を示してい る の だ と 考 え ら れ る 。 つまり、背柳館文勝で怒籍を借りる際には、門図 2 ︼ の ﹁通帳﹂が必要であり、その﹁通帳﹂を作成するために、青 柳抽出文庫の利用目的や自分の身分を証明して、利用許可誌を 申請することが必要であることがわかる。 その許可が必要な﹁若老衆﹂についてであるが、まず、 ﹁ 者 老 衆 ﹂ と は 若 年 寄 の こ と で あ り 、 仙 台 務 の 職 制 を 見 る と 、 務 主i
奉行のもとに、大番一朗や出入司と並列で眠かれてい る。若年寄のもとには、医学校や、先に述べた銭授堂なども 授かれており、したがって、医学校の管轄であった青柳館文 庫も同様に若年寄の指郎系列下にあったと考えられる。よっ て 、 そ の 上 位 の 役 職 で あ る 若 年 寄 の 諮 一 可 を も っ て ﹁ 出 納 通 綬 ﹂ を発行し、利用者はそれを利用の際に示すことが求められて いたのである。この﹁出納通帳﹂があるおかげで、阪省管理 機能を果たすことも可能であったと考えられる。 以上、判明したことについて獲理しておきたい。まず、青 柳館文庫は、仙台滞の医学校に附開削して、日付の殴祝のもと医学校の職員によって管理されていた。利用者は、背柳抽出文 庫 で 怒 町 加 を 借 り 出 す 際 、 若 年 寄 の 許 可 を 得 た ﹁ お 附 ﹂ を も っ て手続きをし、拝借のための﹁出納通帳﹂を作成する。それ を提示することでお絡の貸し出しが行われていた。実際に芯 絡を借りる擦には医学校総師が確認にあたり、これらの手続 き を 経 る こ と で 、 柑 博 士 は 恐 怖 紺 の 借 用 が 可 能 と な っ た 。 前節でも触れたが、仙台務には他にも、議開以堂文庫や医学 校文庫などが存復した。これまでの分析で明らかになった青 柳館文郎の管迎体制と、的問の文庫の管理や手続きには、どの ような共通点あるいは相途点があったのだろうか。例えば、 医学校文庫は背柳館文時仰とは迷い、医学校の所属以外の者に は貸し出しがされていなかったようであるが、では、す榔館 文路での出納の際に必要であった﹁通牒﹂の作成は行われて い た の だ ろ う か 。 議 開 以 堂 文 庫 も 同 様 で あ る 。 務 内 の 文 庫 そ れ ぞれに共通して利 m m 許 可 が 必 市 立 で あ っ た の か 、 あ る い は 、 そ れぞれの利用身分に迷いはあったのか、など突読すべき点は 多くある。背柳館文庫は、政怒の寄贈を受けて成立したもの であるために必要な手続きであったと推定することもでき、 政設の級いに対する区別があったのかという点も踏まえて、 務内の文郎の管理や手続きについて詳しく検討する必要があ る だ ろ う 。 以上、文放が集めてきた惑絡群は、仙台務内において文郎 として利用できるよう整備されていたことを示した。それに より、務内には、制服定にあるように議士を中心として、新た な球数料用者が生まれた可能性を指摘できる。 では、実際には文庫はどのように利用されていたのだろう か。第二章では、岡成治という仙台裕士に焦点を当てる。彼 の﹁日誌﹂を分析することで、務土の悉籍活用の実態も踏ま え つ つ 、 青 柳 抽 出 文 庫 が 果 た し た 役 部 に つ い て 検 討 し て い き た し 第 宝 章 仙台城下における文化的活動交流と謬籍 仙台藩士岡澱治の﹁日誌﹂を中心に 第一郎仙台藩士岡蔵治について 開放治(一七九二
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一 八 六 一 一 一 ) は 、 代 々 仙 台 滞 の 説 記 役 を 勤めた家系である附家の七代当主である。訴は術之、通称政 治といい、格清または静所と号していた。﹁日誌﹂を滋いて い た 一 八 一 一 一 七 年 ( 天 保 八 ) 時 点 で は 、 四 五 歳 で あ る 。 ﹁ 日 誌 ﹂ には、息子である三男世輔、四閉刀鴎輔、五男底納(のちの何 千級)の名前もたびたび笠場する。天保八、九年特点では米 ケ 袋 中 / 坂 通 り に 住 ん で お り 、 一 八 一 一 一 九 年 ( 天 保 一O )
に は A W ω } 土樋に移っている。政治の生活範聞は、﹁日誌﹂によれば、 土樋から琵刊誌回(現仙台市大手町。花凶周辺)、原昨、河原 町などに及ぶ。背仰俗文郎(東一一番丁)との距離も近く、日57 常的に通うには適した場所に住んでいた。 禄 古 川 に つ い て 、 ﹁ 日 誌 ﹂ に よ る と 、 政 治 は 春 と 夏 の 一 一 泊 切 米を支給されていたようである。天保八年八月には、﹁原町 { 討 ) 御放ニ行、米二斗二升、外ニ御役料問升一合受取﹂とあるよ う に 、 ニ ヰ 一 一 升 の 米 と 四 升 一 合 の 役 料 を 支 給 さ れ て い る が 、 春に災い受けている記述は見られない。天保九年には、問問問 { ぬ } 月に﹁原町御蔵にて御役料ふち壱
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四升五合受取﹂と、八月 ( 祁 V に﹁御切米壱俵、御反料四斗弐升五合相波﹂とあり、この年 に は 、 合 わ せ て 、 役 料 一4
閲 升 五 合 、 切 米 一 依 、 反 料 問 ヰ 一 一 升五合を支給されていることがわかる。しかし、この時期の 東 北 地 方 は 天 保 の 飢 鰻 が 続 い て お り 、 一 八 一 一 一 六 年 ( 天 保 七 ) に は 特 に 東 北 地 方 の 陸 奥 州 四 が 大 凶 作 と な っ た こ と か ら 、 そ の 彩繋が天保八、九年に続いていることが予想される。そのた め、このときに支給されている切米が、放治の平時の禄商と は言い切れない。しかし、交友総係があった人物のうち、数 名であるが禄高が判明している者に関しては、禄,同十人分1
戸 仙 台 五段文程度の下級滞土であることがわかり、放治も彼らと悶 程度の階層であったと考えられる。役職としては、務書記役 から一八一六年(文化二ニ)(三四歳)に奉行傷付に進み、 一 八 一 一 二 年 ( 天 保 二 ) ( 一 ニ 九 歳 ) 抑 制 服 に 移 っ て い る 。 そ の 後 、 既方横目、本所取締を歴任し、他所津方横目として、銚子、 A m v 館 山 、 網 代 等 に 一 訪 問 め 、 の ち 千 住 農 政 役 を 勤 め た と い う 。 ﹁ 日 誌 ﹂ を 品 川 附 い て い る 時 刑 期 に 政 治 が ど の 役 職 に 就 い て い た の か は 不 明 で あ り 、 ﹁ 口 H 誌﹂にも、職務に関する↓記述は少ない。し かし、詳しくは次節で検討していくが、﹁日誌﹂には、日常 の出来事の他に、設抑制に関する記事が多く出てくることがわ かる。また、叔父や知人との交流や学問活動の様子について も 知 る こ と が で き る 。 政治の生活において、復籍の貸借及びその利用は、﹁日誌﹂ に 怒 き 向 田 め る 出 来 事 の 中 で も 多 く の 比 重 を 占 め て い た 。 加 え て、政治は、二年闘を通して青柳館文庫を日常的に利用して いた。知人たちとの役籍貸借も含めて、いかにして文化的活 動を行っていたのか、次節以降で考察していく。 第二節岡蔵治の文化的活動 ﹁日誌﹂によれば、政治は、次のような学問的文化的活 動 を 行 っ て い た よ う で あ る 。 ① ﹁ 手 習 ﹂ ( ﹁ 習 会 ﹂ ) ム 相 } ﹁孝子伝をよむ、後手習﹂など、恐慌加を読んだあとに﹁手 習 ﹂ を し て い る こ と が 多 い 。 ﹁ 日 誌 ﹂ の 記 述 か ら 判 断 す る と 、 手本があり、それをもとに﹁手習﹂を行うか、あるいは選終 を 見 な が ら ﹁ 手 習 ﹂ を す る と い う こ と も 考 え ら れ る 。 他 に は 、 夕飯の前や昼寝の前に行うなど、日々の生活の合的に行って い る よ う で あ る 。 ま た 、 知 人 と の ﹁ 習 会 ﹂ ( ﹁ 設 会 ﹂ ) も 闘 いている。借り出している湿抑制には、設道に関連したものも含 ま れ て お り 、 そ の 数 は 一 一 年 間 で 七
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殴 以 上 に の ぼ る 。 ② 読 書 活動の詳しい内容についてはのちに検討していくが、銃密 を行ったという記述も多い。﹁折柴記ヲみる﹂などという表 現で、背柳館文庫から借りている諒籍、知人から係りた沼籍 ともに数罰間にわたって読んでいる様子がわかる。 ③﹁写物﹂ ﹁写物﹂あるいは﹁浄写﹂、また﹁抄滋﹂という表現で設か れている。貸し借りしている怒籍を書写していたり、具体的 な設名は設かれていなくとも、﹁写物﹂と表現して行ってい たりと、数字をしている記述が多くある。脊柳館文席、都世賢 堂の蔵省目録も訟写しているようである。また、投写した V M 籍 を 知 人 に 貸 し て い た と も 考 え ら れ る 。 ③﹁会談﹂ 会談とは、一般的には、何人かの人が集まって読おし、そ れについて話し合うことといった慾味として用いられる。 ﹁ 日 誌 ﹂ 中 で も 、 ﹃ 小 学 ﹄ あ る い は ﹃ 論 週 間 ﹄ な ど の 醤 絡 を 読 む 際に行われていることが多いことから、淡絡を読むための会 か、その殺釈を聞くための会ではないかと考えられる。手戸 A 付 } という人物のもとで、﹁会談﹂あるいは﹁論春之会﹂などを 行った記述が見られる。他にも、﹁会読﹂という表現は使っ ( 必 } ていないにしても、﹁夜依久間来、読史記﹂というように、 知人とともに統訟をしている様子も綴える。また、﹁荘蔵ニ ︹ 括 ) 北 ん 哲 談 ヲ 閉 山 ニ 行 ﹂ な ど の 記 述 が あ り 、 こ れ も 、 お 籍 に 閲 す る 講釈を開くものであると考えられ、﹁会読﹂の一つとして捉 え ら れ る 。 前悶勉氏は、集閉で一つのテキストを読み討論する会読 を、﹁公論﹂を形成する公共空間として注目している。蔵治 たち務士が行っていた﹁会談﹂も、前田氏が指摘する公共設 問の一つであった可能性を指摘できる。そうした﹁会読﹂を 用いた﹁公論﹂形成の場が、仙台滞においても存在しえたの か 、 そ の 安 一 証 は 今 後 の 検 討 諜 題 と な る だ ろ う 。 ⑤﹁歌会﹂ ( 川 幡 } ﹁ 手 一 戸 へ 歌 会 出 席 ﹂ な ど 、 ﹁ 歌 会 ﹂ に 行 く と い う 記 事 が い く つかある。﹃仙台人名大静惑﹄によれば、政治は詩を学んで ︿ 拍 } おり、詩作に長けていたようである。したがって、政治とそ の周りの人々で、持を暗む会を問聞いていたのであろう。歌穏 や漢詩文に関連した諮籍を手に入れていることも、こうした 活 動 に 関 係 が あ る の か も し れ な い 。 ⑥﹁お闘会﹂ ﹁呂誌﹂からは、政治が、菊閉伊洲(一七九01
一 八 五 一 一 ) 及び菊田伊徳(一七八四1
一 八 五 一 ) 、 佐 久 間 消 岳 ( 立 迷 ) ( 一 八 一 八1
一 八 八 五 ) と い う 一 一 一 人 の 画 家 と 交 流 し て い る 総九 印 ) 子も読み取れる。伊川は、現在﹁仙台聞大酒家﹂として知ら れるうちの一人で、仙台務の御用絵師削であった。伊州の陣で ある﹁伊州菊田翁碑﹂の碑文は、誠治の息子阿千仰が撰者と ( m 尚 一 なっていることを考えると、椴当親しくしていた関係だった のだろう。また、菊田伊徳、佐久間附岳も仙台離の闘員であ { 幻 、 っ た 。 ﹁ 九 年 日 誌 ﹂ に は 、 ﹁
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菊田伊徳一所にて怒酒会﹂とあ るように、岡家との交流の中で誠治自身も絵図に親しんでい た様子が窺える。後述する文化的ネットワークの中にいた放 治は、商家たちのネットワークにも加わるだけの紫縫を身に 惹 け て い た と い う こ と で あ る 。 ﹁日誌﹂の記述から判断すると、政治の学問的文化的な 活動と考えられるものとして、以上の六つが挙げられる。絞 治が単独で行っているもの、知人たちとの関わりの中で行っ ているもの、それぞれで活動している様子がわかった。 59 第三節文化的ネットワークと惑籍利用 政 治 が 一 八 一 一 一 七 年 ( 天 保 八 ) か ら 一 八 一 一 一 八 年 ( 天 保 九 ) の 二年間に貸し借りを行い、読書、﹁写物﹂に用いていたもの と し て 、 ﹁ 日 誌 ﹂ に 登 場 す る 設 相 淵 の 数 は 一 四 三 冊 で あ る 。 こ のうち知人たちとの設籍貸借を行った怒絡は五五冊、自ら購 入した書籍は二冊、入手先が不明の書籍は一二問、青柳館文 庫を利用して手に入れたと見られる設籍は六五郎である。 政治が背柳館文庫からの借用以外の方法で手に入れたお籍 七八仰のうち、現在﹃図書総目録﹄により分類が判別できる A M b ︼ 書 籍 六O
冊 を 分 類 し て み る と 、 ﹁ 漢 籍 ﹂ が 一 九 冊 で 最 も 多 く 、 次 い で ﹁ 漢 学 ﹂ と ﹁ 伝 記 ﹂ が 五 附 ず つ で そ れ に 続 く 。 一 方 で 、 青柳館文賄から借りた沼絡について、悶様に分類が判明する 滋 抑 制 五 七 閉 山 を 分 類 す る と 、 ﹁ 漢 籍 ﹂ と ﹁ 地 誌 ﹂ が 間 数 で 八 聞 と最も多く、﹁漢学﹂と﹁随筆﹂が問冊ずつでそれに続く。 こ れ ら か ら 、 蔵 治 は 、 抽 出 絡 を 中 心 に 書 籍 を 入 手 し て い た と い うことがわかる。また、それら漢籍を理解するためか、漢学 の類も多い。この他にも、機々な内容の滋籍を手にしてお り、手にした怒籍は、漢籍が大部分を占めるものの、多岐に わ た っ て い る こ と が わ か る 。 で は 、 こ う し た 沿 い 絡 を ど の よ う に 活 用 し て い た の か 。 こ れ を理解するのに役立つのが、前節で述べた文化的活動の様子 である。﹁日誌﹂の書籍に関する記述が脅かれている筒所を 見ると、貸借の様子を一記した記述のほかには、文化的活動の うち②③③のいずれかの行動に、書籍を用いていることがわ か る 。 さらに、注目したいのが、書籍を貸借する関係にある知人 との交流である。政治の文化的活動には複数人で行うものも あり、いずれも書籍を貸し借りする間柄にある人物とも行っ ている。このことから、殺治の交友関係、すなわち局辺の人物 と の ネ ッ ト ワ ー ク の 存 在 も 、 市 川 悩 籍 利 用 の 実 態 の 理 解 と 切 り 隊せないものとして考えることができる。 こ れ ら を 踏 ま え て 、 ︿ 一 ﹀ 抑 制 籍 貸 借 の ネ ッ ト ワ ー ク と 、 ︿ 二 ﹀ 文化的活動から見た怒籍利用の様子、というこつの観点から お 籍 活 用 の 有 り 様 を 考 察 し て い く 。 ︿ 一 ﹀ お 籍 貸 借 の ネ ッ ト ワ ー ク まず、政治の書籍入手方法としては、知人から借り受けて いる場合、あるいは購入する場合、後述の背榔館文障から借 用 す る 場 合 が 挙 げ ら れ る 。 放治と滋絡の貸し借りをしている知人は、この一一年間でも 一 一 九 名 い た 。 そ の う ち 、 か な り の 数 の 知 人 が 後 数 回 に わ た っ て滋絡のやり取りをしていた。知人が政治に貸し出している 怒殺は、言い換えれば、知人たちが所持していたお籍であ る。政治を取り巻く知人たちの悶でも、政治と同様の投銭入 手経絡があったことが推祭される。統治を合め務士の聞で は、市山絡の貸借も可能なネットワークが形成されていたこと が 窺 え る 。 書籍の貸借が何度も行われている人物の中には、文化的活 動の﹁会読﹂も共に行っている者もいる。政治と知人との附 には、書籍を介した様々な交流の形があったのだろう。先の 闘家との交流の中で挙げた依久間立迷も、﹁九年日誌﹂に、 ﹁朝飯後、立迷より昨夜より病床之出ニ付、可泣き来、前大 ︽ M V 平 記 五 四 川 泣 す ﹂ と あ る よ う に 、 政 治 か ら 滋 籍 を 借 り て お り 、 ﹁密画会﹂のネットワークと怒籍貸借のネットワークに援な り が あ っ た こ と が わ か る 。 ︿二﹀文化的活動から見た怒符利用 門表l︺は、政治が背柳館文庫以外から手に入れた設籍に つ い て 、 文 化 的 活 動 の う ち 、 読 辺 、 之 官 民 匹 、 ﹁ 写 物 ﹂ を 行 っ た設抑制をまとめたものである。複数の活動に跨って用いられ た怒絡は、総掛けで示している。これを見ると、やはり読設 をしている怒籍が、延べ二八冊と絞も多い。﹁写物﹂を行っ ている将織は一九聞であるが、説惑を行って、なおかつ﹁写 物 ﹂ を し て い る 滋 絡 は 一 一 一 郎 の み と な っ て お り 、 読 哨 閣 を し て い る設籍が必ずしも﹁写物﹂もされているとはいえないようで ある。しかも、読習をしているものに多い﹁淡鍔﹂の分類の 怒 籍 は 、 ﹁ 写 物 ﹂ は し て い な い こ と が わ か る 。 読設をした結来、﹁写物﹂をしないと判断したのか、ある いはもともと﹁写物﹂をする丹織は決めていたのか。少なく ともこうした、読設のみを行う在籍と﹁写物﹂をするお箱に は、政治の何らかの判断が存在していたのだろう。﹁写物﹂ の う ち 、 ﹁ 日 誌 ﹂ の 中 で ﹁ 浄 写 ﹂ と 表 現 し て い る 怒 籍 も あ る 。 こ れ に 当 て は ま る 密 籍 は 、 町 剛 山 沢 秘 策 ﹄ 、 明 赤 城 間 胤 伝 ﹄ 、 ﹃ 弁 道
61 文化的活動ごとの謬籍(腎柳館文庫以外で手に入れたもの) 【表1] 間!7:問 (仏浄 日典) 同協資〕天保八4ミ日;とJ及.ur(的資〕天保九平日誌 叫『同誌 H;'ùr'!~誌 1 ょ η 作成(( )内はr問m総円録』による分UD。 叫嗣仰けは、文化的活動のう句、位{数の活動に2なって川いられている市絡を示す。 句「勾 1"J のうち、 11 に「浄?JJ と災現している ~!m には@を付してある。 h A U ﹄ 、 ﹃ 夫 悶 州 之 別 之 新 ﹄ で あ る 。 こ れ ら は 、 他 の ﹁ 写 物 ﹂ という表記とは類別して、きれいに書き写したことを 記していることから、特に手元に残しておきたい書籍 だと区別していたのではないかと考えられる。読書の 刻 聞 は 、 ﹁ 日 誌 ﹂ に 記 し て い る も の の み で 判 断 し て も 、 ﹃論語﹄や﹃小学﹄などの漢籍は、特に数日にわたっ て 、 複 数 回 読 ん で い た よ う で あ る 。 政治のネットワークと開関連するものと考えられる ﹁ 会 談 ﹂ で あ る が 、 こ れ に 利 用 さ れ た 設 籍 は 、 ︻ 表 l ︼ よ り 、 分 類 上 ﹁ 柑 防 総 ﹂ と ﹁ 伝 記 ﹂ の 書 籍 の み で あ る 。 しかもほぼすべてが政治他人でも読んでいるものであ る。つまり、これらの類の怒籍は、手に入れると、自 らの読書に加え、﹁会読﹂を行うことによって、その 理解を深めようとしていたことがわかる。﹁会談﹂を 行 っ て い る 知 人 は 八 名 お り 、 い ず れ も 放 治 と 、 ﹁ 会 読 ﹂ に用いた以外の怒籍の貸し借りも行っている。 ここまで分析してきた絞治を取り巻く人物との聞の 文化約ネットワーク関係を示したのが門図 4 ︼ で あ る 。 こ れ を 見 る と 、 お 籍 貸 借 、 ﹁ 会 読 ﹂ 、 ﹁ 習 会 ﹂ 、 ﹁ 歌 会 ﹂ 、 ﹁初回会﹂それぞれのネットワークが互いに複数のネ ットワークと設なって存夜していることがわかる。誠 治同様、知人たちの中にもいくつかのネットワークで
62 蔵治を取り巻く文化的ネγトワーク図 菊白伊;封
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eん 内位前図町務問回弁長帯河左吾三衛郎門 板古吉橋山岡孫給之四進ml 大和悶 和久探之進 桑村 翠村臨l之助 沼野大助 伊佐佐位本沢Z久藤多問設間鼠惣点滋立繍a右h鎗衛門 手戸太郎右jili門 二つ:金銭ご 江闘 山涯 【図 4] E一宮 ?数禽;λkミ
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{山mrr桁儲〕天保八年!lZtJ)J.r.J f'[桁m】天保九il:11::tJ (ともに仙台 iliJ~rくれ当郎総〉より昨味合 *1 ;百計上どの事ヅトワークにもfすまれる. 2同名刺土、f!1::tJよりlif,がわかるいこ叫、ては耐えし それ以外;閣のみを記した 活動している者がいることがわかる。このような文化的ネッ トワークの中で、放治は滋籍貸借や話器鮒利用を行っていたの で あ る 。 第四節向蔵治の青柳銘文庫利用 さて、ここまで、仙台務の務土であった岡政治の文化的活 動の分析を中心に、政治が設絡の入手、利用にいかに努めて いたのかを検討してきた。では、青柳結文路は、その活動に い か に 爽 献 で き て い た の で あ ろ う か 。 一 八 一 一 二 年 ( 記 入 保 二 ) に仙台滞の管理となった背柳館文庫が成立してから、政治が ﹁ 日 誌 ﹂ に 記 し た 一 八 一 一 一 七 年 ( 天 保 八 ) ま で は 、 六 年 が 経 過 している。利用者側からの視点で青柳館文庫の意義を検討す るため、政治の背柳館文庫利用の様子を追っていきたい。 ま ず 、 背 柳 館 文 路 に 関 す る 記 述 が ﹁ 日 誌 ﹂ に 出 始 め る の は 、 ︽ M V I 人保八年は三月六日からであるが、それ以前にも、知人から お絡を借りている記述は見られる。﹁八年日誌﹂の四月二一一 日条には、﹁背柳館目録浄写﹂と記載されており、政治はこ のときから、背柳館文庫の日銀を写して所持し、手元に置い て、自らが求める脅絡を探していたと考えられる。一方で、 ︽ ω } 天保九年には一月から背柳館文庫に出向いている。これらか ら、それ以前に滋絡を入手していた方法に加えて、天保八年 になって、滋絡を手に入れる新たな手段としてす柳館文郎を6
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活用し始めたという可能性が考えられる。 ︻ 表 2 M は 、 青 柳 抽 出 文 庫 で 借 り た と 見 ら れ る 視 籍 名 ご と に 、 借用日と返却日をまとめたものである。これによれば、天保 八年には三月から十二月までで借りた書籍は九冊であり、天 保九年には一年を通して五六冊の者籍を借りている。 また、古絡を借りた際には、一聞から五冊までヤ揺をまと { 引 v めて記述しており、一聞の利用で五冊までは借り出していた こ と が わ か る 。 表 中 の 通 し 番 号 6 、 印 、 口 、 問 、 幻 、 m u 、 初 、 銭、初、必、灯、日の書籍は、﹁日誌﹂に借りた日と返した 尽を明記しているものである。これにより、設絡の借朋期間 がわかり、政治は議長でもニヵ月強、最短でも一ヵ月ほど投 絡 を 借 り て い た 。 前章で検討した貸与手続きに関しても記述されている。 ( 臼 } ﹁ 九 年 日 誌 ﹂ に は 、 ﹁ 青 柳 館 海 峡 泣 し 、 描 出 品 川 町 全 曲 短 時 話 か り ﹂ な どと記されており、背柳館文庫で怒籍を借りる際に、如弘の 事例で示したような﹁通帳﹂を誠治も使用していたことがわ かる。ただし、﹁背柳館出席、新岡市右衛門通帳ニて職原抄 相借﹂という記事もあり、政治は他人名義の﹁通帳﹂も使っ て書籍を借りていたこともあったようである。 蔵治が手にしたお籍一四三間のうち、中 N 椀 抽 出 文 勝 を 利 用 し て手に入れたのは六五冊であり、これは、役籍入手経路全体 のうち四五・五%にも及ぶ。半数近くのお絡を青柳飴文庫か ら入手していることになり、二年間ほぽ毎月足を迎んでいる こ と か ら も 、 か な り 日 常 的 に 青 柳 館 文 附 仰 を 利 用 し て い た と い え る 。 印刷治が借りた六五仰の書籍のうち、現存している背柳館文 郎の球投白銀の分類に沿って、分類が判明した六割問の書籍 を区分し、全体に占める割合を示したのが︻表 3 ︺ で あ る 。 当時の奇榔館文郎での分類で見ると、その割合は、﹁史部﹂ の ﹁ 正 史 編 年 雑 史 伝 記 史 紗 史 評 ﹂ の 項 が 一 一 九 ・ 七 %と設も多い。次いで悶じく﹁史部﹂の﹁時令地理﹂の項 が 一 一O
一 一 一 % と 多 く な っ て い る 。 特 に ﹁ 史 部 ﹂ の 分 類 の 書 籍 を 中 心 に 借 り 出 し て い た こ と が わ か る 。 次に、前節と同様に、知人とのネットワークと文化的活動 に当てはめて見ていきたい。︻表 4 ︼に示したように、球治 は、青柳館文庫で借りた設絡も、知人に貸し出していること がわかる。その知人とは、まず門図 4 ︼の設籍貸借のネット ワークに該当する人物である。さらに、︻図 4 ︼の文化的ネ ットワークには見られない人物にも貸し出しているのであ る。このことから、背柳館文庫で借りた書籍から類推して、 先の文化的活動に止まらない交友関係の広がりを見ることが で き る 。 ﹁ 日 誌 ﹂ よ り 、 門 表 l ︼と同様に、文化的活動ごとに背柳館 文庫から借りた書籍について分類したものが門表 5 ︼ で あ る 。【表2] 蔵治が督椀館文庫から借りた言書籍 年l_i!1苧L
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"1 .、"戸z千1,:山1争目6.21τ山'"山,.,事事+7免.・ ~i1 ι会議),r(Q,.jj'諸〕天保八年 フ判別できるもσ土それをa 込んは$.6または5 り、百抑館文仰の1111に記紋かあるものでむ二Hl1Il<l5る. 日.23 8.26 自‘自力 s.自力 円 。 η 同ヵ 8. 18 8 199901113888勺η 力n 10. 3 10. :l 10.J:l65 【表31青柳館文庫で借りた言書籍の分類とその割合 世fi1iI s与 令 地F¥i 史郎 │除1'1' 政;11 続 出
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fMK 9.-1 子部 i線虫 7.8 ゆ" m部 日以上にもニfお(i1あるため、分"も→つ討てはめてある.こちらも、複数の活動に当てはまるものは網掛けで示してお り、背榔館文時却のお絡も問機に、談議、﹁写物﹂をしている ことがわかる。こちらで﹁浄写﹂を行ったお籍は﹃水戸義公 行突﹄である。今度は、それぞれの活動に用いる議終に、冊 数の迷いはあまり見られないが、門表lMのお籍と合わせて 考えると、一ニ六冊の怒綴を説諮に、九叩(司史記﹄は重複し ているため一つとして考える)の設絡を﹁会読﹂に、二五聞 の怒籍を﹁写物﹂に用いているなど、全体を過して多くの辺 絡を活用していた様子が窺える。 以 上 、 四 鰯 に わ た っ て 、 仙 台 務 土 問 内 政 治 が 行 っ て い た 、 山 部 抑制を用いた文化的活動の笑態について分析し、そこから見え る 青 柳 抽 出 文 時 の 位 悶 つ け を 検 討 し て き た 。 まず、知人たちとの怨籍貸借 m 関係は、放治が行っていた文 化的活動の人的ネットワ
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クの中にあった。政治は、そのネ ットワークによって、多くの知人とのお籍貸借が可能であっ たと考えられる。引議貸借を行っていた人物は、多くが﹁会 読﹂も共に行う人物でもあるなど、ネットワークに開削する人 々は、いくつかの活動を重複して行っていることが多い。さ らに、それぞれの人物にも悶様の文化的ネットワークが存在 し て い る 可 能 性 も 考 え ら れ る 。 その中で、政治の議籍入手方法として、背柳館文庫からの 借用がその半分近くを占めていたことがわかった。下級滞土 【表4] 青柳館文庫で借りた言書籍の貸し出し先 文化的活動ごとの言書籍(督柳館文庫で借りたもの) " " 、I:U誌J};え"1(郎総〕天保九匂 l"!Jtj(とも1】 附t ・ ,r矧泌総f!UJよりr刊え((I内u.rll1沼fZi1幻jによる分民自司}。 "総掛けは、政誌の文化n~m動のうち、'"えに "に均って111いられている結筋合示す固 吋 刊μ包Jのうち、併にfii>万」と災現しているl!H若には@を什してある句 同 誌 【表5]である政治にとって、簿士への利用を許可した背柳館文庫の 存 夜 は 、 市 引 い 絡 の 入 手 先 と し て 重 要 な 位 校 づ け で あ っ た こ と が わ か る 。 政治の青柳館文庫利用の様子から、その実態について判明 したこともある。書籍借用に使用する﹁通帳﹂は、身分の証 明や、許可を得て手に入れることが必要だったにも関わら ず、政治は、実際にお絡を借りる際には、他人名義の﹁通帳﹂ を用いて借りることもあった。前なで明らかにした仙台務の 規定は厳しいものであったが、利用者である柑博士たちは、そ の規定を潜り設けて柔軟に利用していた可能性がある。 加えて、天保八年から翌九年にかけて、借り出した冊数が 六倍近く鴻えていることは、出 H 柳 抽 出 文 庫 の 利 用 が 、 蔵 治 に と って定着してきたことを怒味するのではないだろうか。 横田氏は、放市立を成しえない附周の人々も、書籍を借用し たり、講釈を聴講したりして、滞在的な読者として存夜して いたことを指摘しているロ中日柳館文庫は、仙台務のそうした 読 者 に と っ て 、 市 前 籍 を 入 手 J 9るための一つの手段としての役 都を来たしていたのであろう。 おわりに 本稿では、仙台市怖の青柳館文郎を素材として、近世郊にお 付る政習が果たした役割やその意義について検討を加えた。 まず、倒人が収集した議籍群が、務に寄贈されるに至った 経線を概観した。それにより、青柳文成から引き継がれた蔵 習が、滞営の文庫として機構整備された背柳館文庫の姿が附明 らかになった。務という公的な機関の管理下に殴かれ、体系 的に整備されたことで、務土による蔵怒利用が可能となった のである。また、文肢は、般市町が多くの人に利用されること を望んでおり、その怒士山は、寄贈先の務にも受け継がれるこ ととなった。青榔館文咋仰の球惑は、それまでの私的な所有か ら公的な所有へと変わり、収集者の窓図が反映されたこと で、多くの務土の利用に供されることとなったのである。 次に、背柳館文開悼の利用の実態を解明するため、仙台滞の 下級務士である凋政治の読書を中心とした文化的活動に焦点 を当てて検討した。その結果、成治とその周辺の知人たちと の聞には、多様な文化的ネットワークが存在していたことが 開明らかになった。そのネットワークの中では、多くの知人と の書籍貸借が行われていた。加えて、自常的に文庫を利用し ていた蔵治にとって、文路が滋籍入手方法の一つとして貢献 していたことを示した。青柳館文庫は、近世後期の仙台務土 にとって、設籍の入手手段として有効に働くとともに、藩士 たちの文化的ネットワークの発展の一幼としての役割を果た し て い た の で あ る 。 ここで、背柳館文践の蔵視の公開の範郎について考えてお
きたい。本稿では、仙台離による規定、その利用の様子とも に、務土に対する利用許可、及び滞士による利用が行われて いたという実態を確認できた。近代以降には、庶民に至るま で蔵設が公開されていたという評側がなされているが、実際 には、史料による限定が悶難なため、また身分制のあった近 世という持代を考えても、庶民一般に公開されていたと断定 す る こ と は 難 し い 。 しかし、たとえ務土による限定的な蹴怒訓判別であったとし ても、その利用規定が示され、実際に'自由に借り出すことが できた環境にあったことは、十分に放滋や文時仰の恕殺として 許制できるのではないだろうか。 さらに、従来の歳滋研究の事例では、蔵潟の形成及びその 継承は、一つの共肉体内において行われているものが多かっ た。それに対し、本稿で検証した事例は、政怒の形成者と、 その継承者が異なるものである。しかし、所有者が変わって も、政辺、すなわち滋絡が有する知の集会の低気は変わるこ とはない。結果、江戸での文践による私的所有の段階から、 仙台簿という公的な存在に引き継がれたことで、蔵書をより 広く活用できる状況をもたらすことになり、その役割を拡大 させることに繋がった。小林氏は、お籍の地域内における流 動性の高さや、それゆえの私的所有物としての政書が持つ脆 ︹ ω ︼ 弱性を指摘しているが、公的な管理のもとにあった青柳館文 庫は、知的所有物である放滋を安定的に維持することができ た と い え る だ ろ う 。 以上により、怒籍の収集者である文戒の窓志と、その寄附 先の仙台務に存夜した務士の知的欲求の聞には、それらを取 り結ぶ簿という公的な存在があったことを示した。その存在 は、放設のより広い利用者を生み出し、既存の文化的ネット ワークをも補完する役割を担っていたのである。 絞後に、今後の課題について述べたい。第一に、殺治の ﹁日誌﹂からは、背柳館文庫の利用者として、多くの務士を 確認することができた。本総では、政治の文成の活用方法を 検証したが、他の利用者の活用方法が、必ずしも絞治と伺様 のものとはいえないだろう。利用者それぞれにとって、青柳 館文時仰の位際づけは異なることが想定されるため、多様な側 面から、多くの利用方法を見出していくことが求められる。 第一一に、現在、多くの研究では、青柳館文時は日本初の公 開劉得飽であったという指摘がなされている。しかし、少な くとも今回の実証が問迷いでないとするならば、近世後期の 管椀館文庫の減滋利用の突路、は、務士に限定して利用が許可 されていたということになる。これまでの指摘は、のちに育 榔館文庫の政辺の一部を間引き継ぎ、明治則に設立された宮城 ( 訂 ) 書籍館の存税と混隠して政解されていたことによるものでは ないだろうか。身分を限定した絞設利用を﹁公開﹂と表現す
ることが適切かどうか、再検討する必要があるだろう。 近世期における蔵書の利用というものをより実態に即して 解き明かすためにも、今後の課題としたい。 註
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( l ) 長 友 千 代 治 ﹃ 近 役 貸 本 屋 の 研 究 恥 ( 東 京 堂 出 版 、 一 九 八 二 年 ) 。 ( 2 ) 横田冬彦﹁近役民衆社会における知的読書の成立l
益軒本を 読む時代 j ﹂ ( 吋 江 戸 の 怒 怨 ﹄ 五 、 一 九 九 六 年 ) 、 若 尾 政 希 ﹃ 太 平 記 読 み の 時 代 ﹄ ( 平 凡 社 、 一 九 九 九 年 ) 。 ( 3 ) 小林文雄﹁近世後期における﹁政治の家﹂の社会的機能につ い て ﹂ ( ﹃ 歴 史 ﹄ 第 七 六 号 、 一 九 九 一 年 ) 、 阪 本 博 ﹁ 近 世 の ﹁ 家 ﹂ と知の継承l
須田新宅家の蔵省伝米過程をめぐってl
﹂ ( ﹃ 国 文 学 研 究 資 料 館 紀 嬰 ア ー カ イ ブ ズ 研 究 開 刷 ﹄ 第 六 号 、 ニO
一O
年 ) 。 ( 4 ) 桶川俊忠﹁近世商家の知的世界﹂(可陵史評論﹄六O
五 号 、 ニO
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年 ) 。 ( 5 ) ﹃ 八 一 戸 市 立 図 説 館 百 年 史 恥 ︿ 八 一 戸 市 立 図 書 館 、 一 九 七 四 年 ) 、 小 林文雄﹁武家の政投と収書活動﹂(﹃歴史評論﹄六 O 五 号 、 二 OOO
年 ) 。 ( 8 ) 政治あるいは波書家を対象とした研究は他に、+吉林淳之﹁村 や町の情報段i
近世文化史研究の一視点﹂(﹃静岡県史研究﹄ 第二号、一九八六年)、向牧佼﹁池沢馬琴引悦絡の蒐集抄録 借 覧 ( 一 ) ﹂ ( ﹃ 聖 心 女 子 大 学 論 絞 ﹄ 第 一 一 五 然 、 ニO
一O
年 ) 、 使木博﹁近世地域社会における政3
と ﹁ 家 ﹂ ﹂ ( 吋 国 史 学 ﹄ 第 二O
一 号 、 ニO
一O
年 ) な ど が あ る 。 お む や M R U せ い M η ゅうか j A ( 7 ) 背榔館文原は、﹁背柳文庫﹂あるいは﹁芯榔館文庫﹂という 名称で認識されていたようである。読み方について、現在は ﹁ 苛 柳 文 郎 ﹂ H ﹁あおやさぶんこ﹂と読まれることが多い。﹁背 榔館﹂と表一心する場合は﹁せいりゅうかん﹂という読み方にな るようである。本稿では、史料引用以外は全て﹁背柳館文庫﹂ と い う 名 称 で 統 一 す る 。 ( B ) 吋 仙 台 市 史 同 通 史 編 五 近 世 一 一 一 ( 仙 台 市 、 一 一OO
四年)第六章 第一節。自治体史をはじめとして、狩柳文践に泌する研究は多 くあり、仙台市南部に悶書館をつくる会抑制者﹃日本公共図書館 の先駆者背柳文放とその文郎の思想像研究報告﹄(東山町教育 委員会、一九九O
年)や、品山嘉一﹃苛柳文放の人となり﹄(郷 土史研究資料、一九じじ年)、大槻文彦﹁青柳結文庫並背柳文政 伝 ﹂ ( 明 岡 市 山 館 雑 誌 ﹄ 第 一 一 一 一 号 、 一 九 一 一 年 ) な ど が あ る 。 ( 9 ) 同 右 。( ω )
岡家旧政授の大部分が吋仙台市民図書館所蔵和漢市出目録恥 ︿ 仙 台 市 民 図 書 館 、 一 一 000 年)に収録されている。なお、問滋 には、凋政治の孫の岡濯︿問時泉)が強理したとされる阿家の写 本 等 の 目 録 明 際 泉 市 計 邦 政 滋 目 録 隔 も 記 枕 さ れ て い る 。 ( 日 ) 前 掲 設 ( 8 ) ﹃ 仙 台 市 史 ﹄ 通 史 編 五 第 五 議 第 一 一 一 筋 。 ( は ) 問 右 。 ( 日 ) 仙 台 北 一 一 一 番 丁 約 機 丁 岡 山 間 角 の ち 、 北 一 番 丁 勾 当 台 汲 ( 宝 勝 一O
年 移 転 ) に 所 在 。 一 七 七 二 年 ( 安 、 一 武 元 ﹀ じ 月 に 義 賢 法 と 改 称 している(小井川百合子・朝倉治彦編集解説﹃球性陣録にみ る仙台離の出版文化﹄ゆまに滋房、ニ OO 六 年 ) 。 (HH ﹀前掲註 ( 8 ) ﹃ 仙 台 市 史 ﹄ 通 史 編 五 第 五 時 昨 第 一 一 一 節 。 ( 日 ) ﹁ 猿 賢 時 五 惣 一 品 ﹂ 一 八 一 一 一 年 ( 文 化 九 ) ( ( 吋 仙 台 市 史 ﹄ 資 料 縦 一 一 近世一務政、一九九六年、仙台市博物館蔵﹃伊迷氏史料三 輯 八 ﹄ ) 。 ( 日 山 ) 前 掲 討 ( 8 ) ﹃ 仙 台 市 史 知 通 史 編 五 第 六 章 第 一 節 。( げ ) 仙 台 の 文 時 と し て は 、 ﹁ 秘 宝 寺 法 宝 蔵 ﹂ ﹁ 名 山 蔵 書 ﹂ ﹁ 滋 賀 堂 文 路 ﹂ ﹁ 医 学 校 文 郎 ﹂ ﹁ 背 柳 他 文 郎 ﹂ ﹁ 臨 滋 神 社 文 時 ﹂ ﹁ 住 柿 合 政 書 後怒﹂があるといわれている(前抑社 ( H ) 小 井 川 勝 倉 編
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( 凶 ) 苛 柳 文 践 と い う 人 物 に 聞 出 し て は 、 品 山 政 M 一氏や佐藤先氏(仙 台市南部に図説館をつくる会)の研究に詳しい。前掲註 ( 8 ) 背 柳 文 践 に 測 す る 研 究 参 照 。 ( 印 ) 早 坂 信 子 ﹁ 背 柳 文 践 と 中 川 柳 文 旅 ﹂ ( 司 社 ﹄ 創 刊 号 、 一 九 七 八 年 ) 、 高橋立剛山﹁苛柳文践の放初形成﹂(﹃文化﹄第六五巻一ニ号、 一 一OO
一 年 ) な ど 。 ( 印 刷 ) 前 掲 設 ( 凶 ) 早 坂 論 文 で 小 宮 山 田 制 軒 に つ い て 触 れ ら れ て い る 。 (幻)﹃楓続年録﹄第一一十七冊一八二凹年(文政七)(国立隠会図 お 館 、 決 域 県 歴 史 館 蔵 ) 。 (幻)朝川都路は、江戸後期の俗学者であり、﹁議席政諮問録﹂(成 立 年 中 市 詳 、 悶 立 公 文 お 館 蔵 ) と い う 目 録 も 作 成 し て い る 。 (お)ヨハ代治家記録龍山公二十﹄(仙台市博物館蔵)。 ( M ) 菊固定郷﹃仙台人名大辞お﹄(仙台人名大辞潟刊行会、一九三 一 一 一 年 ) 一O
間 二 賞 。 ( お ) 中 判 官 柳 倉 と は 、 文 庫 の 設 文 と と も に 、 背 柳 文 郎 の 修 理 と 文 践 の 政郷である東山一円の貧病者の救済のため、籾倉を怖制限したと いうものである。その粉を低利で貸付、その利息をもって救済 などに利用したといわれる。帥日明砧は大肝入や村肝入が担当し た 。 ( 前 掲 註 ( 8 ) 品山論文、宮城県凶お館編吋みやぎの叡酬明) 官 域 県 図 書 飽 食 量 刑 闘 の 世 界 ﹄ 宮 城 県 閣 誕 館 、 一 一OO
八 年 ) 。 ( お ) ﹁ 背 柳 文 庫 記 ﹂ ( 時 間 掲 註 ( 8 ) ﹁背柳館文庫並背柳文政伝﹂一回 ー 一 五 頁 ) 、 ﹁ 背 柳 企 記 ﹂ ( 同 一 五1
一 七 貰 ﹀ 。 な お 、 こ れ ら の 碑 は 、 と も に 背 柳 抽 出 文 停 が 成 立 し た 一 八 一 一 ご 年 ( 天 保 一 一 ) に で き て い る 。 ( 幻 ) ﹁ 学 問 所 制 ﹂ ( 年 来 詐 ) ( 前 掲 設 ( 日 ) ﹃ 的 台 市 史 知 資 料 編 ニ 、 仙 台 市 開 物 館 放 ﹃ 伊 達 氏 史 料 一 一 一 輯 十 四 ﹄ ) 。 (お)﹃医学校球被目録﹄(前掲註(日)小引川棚倉縦泊三 (鈎)苛柳館文郎が目付を眠いて管理されていたことは、早坂総 文、高橋論 X な ど で 指 摘 さ れ て い る 。 (初)﹃医学校成型目録﹄(前掲註(日﹀小引川朝倉編書)。医学校 の講師であった飯川効(繁郎)(一八三七i
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一 一 ) が 明 治 に 入 っ て 記 し た 序 文 で あ る 。 (出)桑原家の家系は以下の通りである。如部(隆朝)純明(議純)i
如則(隆明)
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如 弘 ( 義 純 ) 。 (位)﹁自家記録天﹂﹁自家記録地﹂(ともに宮城県図滋館蔵)。 二 聞 に 分 か れ て い る 記 録 で 、 一 八 一 一 九 年 ( 文 政 一 一 一 ) か ら 一 八 五 一 一 一 年 l ( 務 、 一 部 六 ) ま で 、 如 弘 が 、 父 如 則 ( 時 間 制 ) 、 あ る い は 自 分 が行った願い出や手続きの性状などの写しをおき留めているも のである。そのうち、﹁自家記録地﹂のほうに、一八五O
年 ( 謀 、 武 一 一 一 ) に 父 降 初 が 背 榔 館 文 時 で 行 っ た と さ れ る 手 統 き が 詳 細 に 記 戦 さ れ て い る 。 ( お ) 宇 野 島 介 ﹃ 施 門 間 千 偲 の 生 涯 ﹄ ( 自 家 出 版 、 一 九 七 五 年 ) 。 ( M ) ﹁八年日誌﹂天保八八八条。 ( お ) ﹁ 九 年 日 総 ﹂ 天 保 九 ・ 四 一 九 条 。 (初)﹁九年日誌﹂天保九八一一条。 ( 幻 ) 郊 池 沼 央 ﹃ 近 世 の 飢 餓 知 ( 古 川 弘 文 館 、 一 九 九 七 年 ﹀ 一 九 八 真 。 ( 犯 ) ﹃ 天 保 六 年 三 丹 羽 伊 呂 波 分 似 合 滞 土 人 名 砕 典 ﹄ ( 古 今 堂 訪 問 、 一 九 一 一 一 一 一 一 年 ) 。 ( 却 ) 前 拘 註 ( お ) ﹃ 施 門 岡 千 仰 の 生 涯 加 。 ︿ 叫 ) ﹁ 八 年 日 誌 ﹂ 天 保 入 。 四 ・ 一 一 二 条 。 (HU) ﹁ 桑 村 へ 沼 会 へ 復 行 ﹂ ︿ ﹁ 八 年 日 誌 ﹂ 天 保 八 一0
・ 四 条 ) な ど 。71 (必)﹁八年日誌﹂天保八六二一条。 ( M M ) ﹁会読﹂については、前田勉﹃江戸後期の思想空間同(ペりか ん 社 、 二