菊田源兵衛家の社会的ネットワーク : 「壁紙文書
」の発見と分析を通じて
著者
佐藤 大介
雑誌名
東北アジア研究センター報告
号
4
ページ
83-102
発行年
2012-02-28
URL
http://hdl.handle.net/10097/53974
菊
田
源
兵
衛
家
の
社
会
的
ネ
ッ
ト
ワ
ー
ク
―
「
壁
紙
文
書
」
の
発
見
と
分
析
を
通
じ
て
佐
藤
大
介
二〇一〇年 (平成二十二年) 六月十五日に実施した仙台市青葉区通町の通称 「検断屋敷」 の 緊 急 調 査 の 中 で、 屋 敷 の 壁 紙 の 下 材 と し て 再 利 用 さ れ て い た、 こ れ ま で 未 確 認 の 古 文 書 資 料 が 確 認 さ れ た。 こ の「 壁 紙 文 書 」 全 体 の 内 容 は 表 1 の 通 り で あ る。 こ れ ら の 史 料 は、 戦 ( 1 ) 災 や 高 度 経 済 成 長 期 以 降、 現 在 に 至 る 都 市 開 発 に よ り 多 く の 史 料 が 失 わ れ た( 失 わ れ つ つ あ る ) 仙 台 城 下 町 お よ び そ の 周 辺 地 域 に 関 す る 新 出 史 料 と し て 貴 重 だ と い え る。 こ れ ら の 史 料 の 内、 そ の 一 部 は 本 書 所 収 の 拙 )( ( 稿 で 検 討 し、 近 世 後 期 か ら 幕 末 期 に か け て の 菊 田 源兵衛家の社会活動と、仙台城下町の状況について考察したところである。 本 稿 で は、 改 め て 史 料 の 発 見 に 至 る 経 緯 に つ い て 報 告 し、 史 料 の 全 体 像 を 確 認 す る。 そ の 上 で、 前 述 の 拙 稿 で 触 れ な か っ た 史 料 を 検 討 し、 「 検 断 屋 敷 」 の 建 て 主 で あ っ た と さ れ る菊田源兵衛家の社会活動や近世後期の仙台城下町の社会状況について考察したい。 特に、 「 壁 紙 文 書 」 に は 菊 田 源 兵 衛 家 の 贈 答 や 交 際 に 関 す る 史 料 が、 断 片 的 な が ら 多 く 含 ま れ て (1) 一九六一年頃に行われた菊田家子孫からの聞き取り に よ れ ば、 菊 田 家 で は 検 断 屋 敷 か ら 移 転 し た 後 も 多 く の 和 本 や 記 録 を 保 管 し て い た が、 一 九 四 五 年 七月十日の仙台空襲により焼失したという (新田信 寛「菊田屋施本 「善悪種蒔鏡」 」東北学院大学論集 (一 般教養)三八、 一九六一年) 。 ( ()「 天 保 か ら 幕 末 の 通 町 ― 東 昌 寺 門 前・ 菊 田 源 兵 衛 家 の社会活動」いた。これらの史料の内容を、現時点での仙台城下町研究の成果とつきあわせながら分析 することで、菊田源兵衛家の社会的ネットワークについて可能な限り復元することを試み る。そのことを通じて、仙台城下町の都市史を考える上での課題について提示することを 目指したい。 なお、 「壁紙文書」 からの引用は、本書所収の史料編に掲載した史料番号に基づいている。
1
「壁紙文書」の発見―
「検断屋敷」に残されていた古文書
⑴ 文書発見の経緯 「 検 断 屋 敷 」 店 蔵 部 分 の 解 体 に 際 し て は、 建 物 の 構 造 や 間 取 り と と も に、 古 文 書 等 の 歴 史資料の所在についても緊急調査調査を実施した。店蔵の一階および二階の各部屋や収納 部分をくまなく捜索するなかで、調査員の一人である天野真志氏(東北大学東北アジア研 究センター)が、二階北側の部屋の西側に設けられていた押入部分に、壁の下材として古 文 書 が 利 用 さ れ て い る こ と を 発 見 し た( 写 真 1) 。 そ の 後、 下 張 り 文 書 は、 壁 板 が 打 ち 付 け ら れ た 部 分 の 下 側 も 含 め、 押 入 の 壁 四 面 全 て に 貼 り 付 け ら れ て い る こ と が 確 認 さ れ た。 そ こ で、 史 料 を 壁 か ら 引 き は が す こ と と し た( 写 真 2) 。 押 入 は 元 々 日 光 が 入 り に く い 構 造になっており、さらに水分がある程度染みこんでいたこともあって、比較的容易に壁か ら剥がすことが出来たのである。建物解体にともなう緊急調査はこれまでにも何度か経験 し て き た が、 壁 材 と し て 利 用 さ れ て い た 古 文 書 を 剥 が す、 と い う 経 験 は 初 め て の こ と で あった。菊田源兵衛家の社会的ネットワーク― 「壁紙文書」の発見と分析を通じて こ の よ う な こ と も あ り、 我 々 は さ ら に 建 物 の 隅 々 を 調 査 す べ く、 店 蔵 部 分 の 天 井 部 分 に ま で よ じ 登 っ て 史 料 の 捜 索 を 行 っ た。 結 果 的 に は 古 文 書 な ど の 歴 史 資 料 は 確 認 さ れ な か っ た が、 限 ら れ た 時 間 の 中 で、 隅 々 ま で 徹 底 し て 調 査 を 行 い、 消 え ゆ く 検 断 屋 敷 の 記 憶 を 少 しでも留めようとしたのである。 そ の う え で、 こ の 貴 重 な「 壁 紙 文 書 」 の 内 容 に つ い て 概 要 の 把 握 に 務 め た。 一 見 し て 目 に 付 い た の は、 大 き な 文 字 で 書 か れ た 書 類 で あ る。 手 習 い と し て 用 い た 史 料 だ と 考 え ら れ る。 そ の 一 方 で、 細 か な 字 で 書 か れ た 様 々 な 史 料 も 含 ま れ る こ と が 判 明 し た。 よ り 詳 細 な 内 容 の 検 討 を 行 う た め、 屋 敷 の 現 在 の 所 有 者 の 許 可 を 得 た 上 で、 史 料 の 全 体 を デ ジ タ ル カ メ ラ で 撮 影 し た。 短 時 間 で「 壁 紙 文 書 」 に 含 ま れ る 内 容 が 解 読 で き る よ う な 最 低 限 の 記 録 化 を 行 う こ と が 出 来 た。 撮 影 し た 後、 即 座 に デ ー タ が 確 認 で き、 も し 失 敗 し て い れ ば そ の 場 で す ぐ に 取 り 直 し が 出 来 る、 と い う デ ジ タ ル カ メ ラ に し か な い 機 能 の 強 み を、 こ れ ほ ど ありがたく感じた保全活動も、また初めての経験であった。 ⑵ 「壁紙文書」の成立時期―いつ貼られたのか、どの家の古文書か 今 回 確 認 さ れ た「 壁 紙 文 書 」 の う ち、 手 習 書 な ど を 除 き、 あ る 程 度 内 容( 元 々 の 用 途 ) が確認できた史料は表 1の二十九点である。 その多くが、 「菊田源兵衛」 に関する史料であっ た。 こ れ ら の 史 料 は、 い つ ご ろ 壁 紙 へ と 転 用 さ れ た の で あ ろ う か。 ま た、 ど の 家・ 組 織 で 作成された文書が含まれているのであろうか。 本 書 所 収 の 拙 稿 で も 述 べ た よ う に、 「 壁 紙 文 書 」 に は、 こ の 屋 敷 を 江 戸 時 代 に 所 有 し て い た と 伝 え ら れ る 菊 田 源 兵 衛 家 に 関 す る 史 料 が 多 く 含 ま れ て い た。 一 般 に、 ふ す ま の 下 張 写真 ( 壁から文書をはがす
表1「壁紙文書」から確認された古文書資料 番号 内容 年代 1 仙台城下町の流民の様子報知 (天保四年) 2 沢口権平書状(他所流民の埋葬・手当) 天保四年 3 他領流民の書上(秋田・南部・伊達・最上) (天保四年) 4 他領流民の書上(秋田・最上) (天保四年) 5 「菊田」姓御免願 天保六年閏七月 6 銘酒造方につき願書・下書 (年不詳) 7 菊田源兵衛御賞賜につき振舞の報知 嘉永三年七月 8 菊田源兵衛御賞賜につき振舞の報知 嘉永三年七月 9 菊田より瀧屋瀧五郎宛書簡(寒中見舞) (年不詳) 10 菊田文七より永井某宛書簡(年賀挨拶) (年不詳) 11 歳暮品・人名控 午年 1( 歳暮品・人名控 (年不詳) 13 歳暮品・人名控 (年不詳) 14 贈答品書上(海産物) (年不詳) 15 贈答品書上(たばこ・金銭) (年不詳) 16 人名・居所書上 (年不詳) 17 人名・居所書上 (年不詳) 18 銭高・人名書上 (年不詳) 19 銭高・人名書上 (年不詳) (0 七言絶句(大年寺・賓松) (年不詳) (1 人名書上 (年不詳) (( 人名書上(人足関係か) 寅年
菊田源兵衛家の社会的ネットワーク― 「壁紙文書」の発見と分析を通じて り な ど に 江 戸 時 代 の 文 書 が 再 利 用 さ れ て い る 場 合、 そ の 文 書 の 元 の 所 有 者 が 所 蔵 し て き た も の が 再 利 用 さ れ て い る こ と が 多 い。 壁 紙 文 書 中 の 大 半 は、 菊 田 源 兵 衛 家 に よ り 史 料 が 再 利 用 さ れ て 成 立 し た も の だ と 考 え ら れ る。 一 九 九 二 年 度 の 建 築 調 ( 3 ) 査 に よ れ ば、 屋 敷 が 菊 田 家 の 所 有 を 離 れ た の は 一 八 七 七 年( 明 治 十 ) 頃 だ と さ れ る。 こ れ に し た が え ば、 文 書 の 作成された年代は、一八七七年以前ということになろう。 一 方、 壁 紙 文 書 の 中 に は、 「 仙 台 市 大 石 太 吉 」 の「 発 明 」 に よ る「 柔 軟 防 水 紙 」 が 含 ま れ て い た( 写 真 3) 。 こ れ は、 仙 台 柳 生 産 の「 強 製 紙 」 だ と 考 え ら れ る。 仙 台 柳 生( 仙 台 市 太 白 区 ) 産 の 強 製 紙 は、 柳 宗 悦( 一 八 八 九 ─ 一 九 六 一 ) が そ の 価 値 を 高 く 評 価 し、 自 著の装丁に多用したこと で 知 ら れ )4 ( る 。 こ の 強 製 紙 の 開 発 に 当 た っ た の が 、 仙 台 国 分 町( 仙 台 市 青 葉 区 ) の 紙 商 で あ っ た 大 石 太 吉 で あ る。 大 石 に よ る 強 製 紙 開 発 に つ い て は、 寿 岳 文 章・ し づ 夫 妻 に よ る 一 九 三 八 年( 昭 和 十 三 ) 四 月 の 名 取 郡 柳 生 村 に お け る 聞 き 取 り 調 査 (3 金銭・人名書上 (年不詳) (4 金銭・人名書上(貸金関係か) (年不詳) (5 品物受取書 (年不詳) (6 小引換人勤め方につき請書 (年不詳) (7 人名書上(菊田家か) (年不詳) (8 川柳書上(雉) (年不詳) (9 桃生郡中津山村孝勝寺抱地立上金勘定目録 享和 三 年 30 宗門人別帳・落丁(胆沢郡水沢町か) (年不詳) (備考) 番号は、本書所収・史料編の史料番号に対応している。 ( 3) 古建築学会編著 『宮城県の古建築 江戸・明治期の 建造物』宮城県教育委員会 一九九二年。 ( 4)『 仙 台 市 史 』 特 別 編 美 術 工 芸 編( 仙 台 市 一 九 九 六 年 )、 四 五 八 頁、 佐 藤 雅 也「 仙 台 の 柳 生 和 紙 と 松 川 達 摩 」( 『 仙 台 市 歴 史 民 俗 資 料 館 調 査 報 告 書』 (5、二〇〇六年) 。 写真 3 「柔軟防水紙」
に 詳 し )5 ( い 。 大 石 太 吉( 一 八 五 七 ─ 一 九 〇 四 ) は 繭 の 貯 蔵 用 紙 と し て 一 八 八 四 年( 明 治 十七)頃に「柔軟防水強製紙」を創りだして特許を得ており、一九一四年(大正四)には その子の太吉 (一八七二─一九二八。大石太吉家の代替わりについては 『仙台人名大辞書』 同刊行会 一九二八年による)がさらに改良を加えた「防水防虫防黴の強靱包装紙」の特 許 を 得 た と い う。 大 石 家 の 強 製 紙 は、 大 正 初 年 に は 国 内 に 加 え 海 外 に も 輸 出 さ れ て お り、 一 九 一 八 年( 大 正 七 ) に は 資 本 金 一 〇 〇 万 円 で 株 式 会 社 化 し て い )6 ( る 。 大 石 の 事 業 は、 一九二六(大正十五)には柳生の阿部亮作に実質的に引き継がれたという。 ここから、写真3の用紙は、一八八四年に特許が取得された「柔軟防水強製紙」だと考 えられる。さらにその内容を確認すると、 「第四五回内国勧業博覧会有効賞牌」の文字と、 「 仏 国 巴 里 万 国 大 博 覧 会 銀 賞 牌 」 お よ び 「 米 国 聖 路 易 万 国 大 博 覧 会 銀 賞 牌 」 の 文 字 及 び 「 賞 牌」 が印刷され、賞誉を得ていることがわかる。これは、一八九五年(明治二十八)の第四回 および一九〇三年の第五 回 内 国 勧 業 博 覧 会 (「 第 四 五 回 」 は 「四 ・ 五 回 」 の こ と で あ ろ う ) と 、 一 九 〇 〇 年 の パ リ 万 国 博 覧 会、 一 九 〇 四 年 の セ ン ト ル イ ス 万 国 博 覧 会 の こ と で あ る。 以 上 の こ と か ら、 「 壁 紙 文 書 」 の 強 製 紙 は、 一 九 〇 四 年( 明 治 三 十 七 ) 以 降 の 製 造 で あ る こ と がわかる。前述した大石の営業時期からすれば、その製造年代は一九二六年を下ることは ないと考えられる。すなわち、菊田家が通町を去ったとされる時期以降の史料が含まれて いたのである。 この点と関連して、当日に建築調査を行った大沼昌寛氏によれば、店蔵二階は元々倉庫 だった場所を座敷に改築されており、床の間や柱の意匠は大正期の住宅に特徴的だとの指 摘があった。菊田家が通町を去った際に文書を残していき、それが再利用されたという可 ( 6)大正八年度『仙台商工名鑑』仙台商工会議所。 ( 5)寿岳文章・ しづ『紙漉村旅日記』一九四三年(本稿 では同著 『定本 紙漉村旅日記』 春秋社 一九八六 年を参照) 。
菊田源兵衛家の社会的ネットワーク― 「壁紙文書」の発見と分析を通じて 能性もあるが、ひとまず菊田家による近世末期から明治初年の利用と、その後の新たな改 修という二段階をへて現在に至った、という可能性を指摘しておきたい。 な お、 「 壁 紙 文 書 」 に は 菊 田 家 や 仙 台 城 下 町 と は 無 関 係 の 資 料 が 含 ま れ て い る。 史 料 番 号 30は近世の宗門人別帳の落丁であるが、 「瀬台野村」 や 「臨済宗増長寺」 という記載から、 胆沢郡塩釜村水沢町(岩手県奥州市)のものだと考えられる。菊田家と水沢との関係は不 明であるが、近世の村文書が、遅くとも明治末年の段階で廃棄され、反故紙として仙台に 流通していたのであ っ )7 ( た 。 以上の伝来に関する考察をふまえ、実際の分析にはいることにしたい。なお、本稿では 史料引用については、本書所収の史料編から史料番号を引用する形をとる。このうち史料 番号1から6の史料はすでに本書拙稿で考察したので、本稿では史料番号7以下の史料を 分析することになる。
2
「壁紙文書」にみる菊田家の交際―嘉永三年八月酒宴への招待客
史 料 番 号 7 ・ 8 は、 菊 田 家 が、 藩 か ら の 褒 賞 を 受 け た た め、 交 際 が あ っ た と 思 わ れ る 人々への振舞を行う旨連絡した史料である。壁紙の中には同内容の史料が二点含まれてい た。 差出人は「菊田源兵衛」とある。本書拙稿で明らかにしたように、菊田家が苗字帯刀を 許 可 さ れ た の は 天 保 六 年( 一 八 三 五 ) 年 で あ る か ら、 日 付 の「 閏 七 月 」 は、 嘉 永 三 年 ( 一 八 五 〇 ) 閏 七 月 で あ る こ と が 確 実 で あ る。 三 代 源 兵 衛 の 墓 碑 を 建 立 し た、 四 代 目 源 兵 ( 7) 二〇一一年三月十一日に発生した東日本大震災にと も な う 歴 史 資 料 救 済 活 動 で、 今 回 の 被 災 に よ り 解 体 さ れ た 旧 岩 切 郵 便 局 庁 舎( 仙 台 市 宮 城 野 区 ) の ふ す ま 下 張 り 文 書 を 保 全 し た。 そ の 中 に、 仙 台 藩 領 の も の と 見 ら れ る 宗 門 人 別 帳 や 年 貢 関 係 の 帳 簿、 山 林 行 政 に 関 す る 廻 状 が 再 利 用 さ れ て い る こ と が 確認された。これらは、内容から仙台城二の丸 (東 北大学川内キャンパス附近) にあった仙台藩郡方役 所で保管されていた文書の可能性が高い。 検 断 屋 敷 壁 紙 文 書 や 旧 岩 切 郵 便 局 の 事 例 は、 廃 藩後に仙台藩庁文書が廃棄され、 それらが旧城下町 を 中 心 と す る 地 域 の 古 紙 市 場 へ 流 通 し て い っ た 実 態の一端をしめすものだとも考えられる。 仙台藩庁 文 書 の 管 理 の あ り 方 な ど、 今 後 の さ ら な る 検 討 を 待ちたい。衛嘉雅が差し出した史料だと考えられる。 宛 先 で あ る が、 史 料 番 号 7 に は「 苗 字 + 名 前 」 で 表 記 さ れ る 五 名 と、 「~ 屋 」 と 表 記 さ れ る 十 二 名 で あ り、 後 者 に は 女 性 一 名 が 含 ま れ る。 一 方、 史 料 番 号 8 に は「 苗 字 + 名 前 」 が「菊田」姓の四名を含め十二名、 「~屋」表記が五名である。 「菊田」姓の人々は、菊田 源兵衛の親類であろうか。 宛 先 と な っ た 人 々 に つ い て、 「 苗 字 + 名 前 」 表 記 の 人 々 に つ い て は、 史 料 番 号 7 に 登 場 す る「 草 刈 恒 治 」 が 幕 末 期 の 禄 高 五 十 七 )8 ( 石 で あ っ た こ と 以 外、 そ の 禄 高 や 城 下 町 で の 居 ( 8)「伊達家世臣禄」 『仙台藩歴史辞典』 仙台郷土研究会 二〇〇二年所収) 。 表 2 嘉 永 三 年 菊 田 源 兵 衛 御 賞 賜 に つ き 振 舞 宛 名 史 料 番 号 7 史 料 番 号 8 寺 島 泰 蔵 様 草 刈 恒 治 様 石 森 篤 右 衛 門 様 金 津 勇 助 様 伊 藤 屋 勇 治 様 手 塚 屋 平 蔵 様 鳥 海 屋 久 蔵 様 佐 藤 屋 お の へ 様 佐 藤 屋 利 蔵 様 庄 司 屋 清 八 様 佐 藤 又 蔵 様 伊 澤 屋 幸 松 様 菅 井 屋 捨 蔵 様 森 田 屋 菊 五 郎 様 菅 野 屋 喜 右 衛 門 様 升 屋 与 右 衛 門 様 早 川 屋 右 助 様 菊田喜太夫様 菊田喜左衛門様 庄子津左衛門様 菅原平助様 山田屋久右衛門様 江刺平吉様 宍戸屋長七様 大場屋喜右衛門様 菊田十太郎様 菊田喜四郎様 高橋長右衛門様 伊藤権六様 安部平蔵様 伊藤屋伊右衛門様 阿部屋房次郎様 佐藤仁右衛門様 永井今朝吉様
菊田源兵衛家の社会的ネットワーク― 「壁紙文書」の発見と分析を通じて 住 地 は 不 明 で あ )9 ( る 。 苗 字 表 記 の あ る も の と「~ 屋 」 と を 明 確 に 書 き 分 け て い る こ と か ら、 両者の間には何らかの身分的な区別があったことは確実であるが、詳細は不明である。苗 字表記のある人々については、例えば嫡子のような、嘉永三年時点では藩士家の当主では ない人物であったという可能性もあろう。 一方 「~屋」 表記の人々は、東昌寺門前町ないしは仙台城下町の商人たちと見られるが、 こちらも今のところその詳細を明らかにすることができない。ただし、後述する贈答関係 の史料の中に「手塚屋」の名前が見られる。当然、ここに名前の挙がった人々は、菊田源 兵衛家と深い交流のあった人々であることはいうまでもない。 とはいえ、少なくとも藩士と商人の両方が宛先に含まれていることは確実である。史料 が複数の宛先に向けて出されていることからすれば、この史料が士分と商人の両方を含む 廻状の形式であった可能性も指摘できよう。仙台城下町とその周辺地域で、身分を越えた 廻 状 が 成 立 し う る 社 会 関 係 と は ど の よ う な も の で あ ろ う か。 一 つ に は、 菊 田 家 の 生 業 で あった清酒醸造を通じた関係である。菊田家の取引先ということもあるが、藩士自身によ る醸造とのかかわりということも挙げられる。この点に関連して、幕末期に禄高一八五石 で あ っ た 仙 台 藩 士 の 浜 田 縫 殿 之 助 が 一 九 一 五 年 ( 大 正 四 年 ) に 記 し た 回 顧 録 「 な み だ 乃 た )(1 ( ね 」 には、亀岡通(仙台市青葉区川内亀岡町)にあった屋敷地に、荒町の杜氏を招いて清酒や 濁酒醸造を行っていたという。ここから推測すれば、天保飢饉時にも藩から「銘酒屋」と して清酒醸造を認められていた菊田家が、城下町の藩士層による醸造を請け負うことは十 分考えられよう。 もちろん、このほかにも東昌寺を中心とした宗教面でのつながりや、その門前町周辺に ( 9) 居 住 地 に つ い て は「 安 政 修 補 仙 台 城 下 図 」『 地 図・ 絵 図 で 見 る 仙 台 』( 今 野 印 刷 出 版 一 九 九 五 年 ) 所 収 附 録 の 同 図 人 名 一 覧 で 照 合 し た が、 同 一 の 名 前 を確認できなかった。 ( 10) 三 原 良 吉「 大 番 士 の 家 庭 生 活 ― 手 記「 な み だ 乃 た ね」 ─」 『仙台郷土研究』 13─ 14 一九三九年。
居住するといった地縁的な関係、さらには文芸など身分を越えた何らかのサークルによる 人的関係といった様々な社会関係の可能性を指摘できる。仙台城下町における武士と町人 の日常的な関係について、さらに考察を深めてゆく必要があろう。
3
菊田源兵衛家をめぐる贈答
史料番号 11には、 「午年十二月 歳暮扣 在郷計り」と記されている。続けて、 「一大豆 小 角 村・ 治 右 衛 門 殿 」 の よ う に、 品 物 と 村 名( 記 さ れ て い な い 場 合 も あ る )、 人 名 が 記 さ れている。すなわち、この史料は菊田家がやりとりした贈答品と、その相手を記録したも のだと考えられる。同じような性格の史料は 史料番号 12、 13にも見られる。以下、これら の史料をまとめて分析したい。 ⑴ 仙台城下町周辺からの贈答 史料番号 11から 13の史料には、 「小角村」 、「野村」 、「枡沢」および「山田」 、「ねきし(根 岸 )」 、「 川 崎 」 と い っ た 地 名 が 見 ら れ る。 こ れ は、 表 3 に 挙 げ た、 仙 台 城 下 町 近 隣 の 村 々 だと推定される。これらの地域からの贈答品は、納豆や大豆、干しわらびといった農産物 である。後述する城下町の人々からの贈答品は海産物が大半を占めており、これらは購入 によって入手されたと考えられる。すなわち、一連の史料は菊田家に送られた品物を記し たものだといえよう。 それでは、菊田源兵衛家とこれらの村々は、どのような社会関係を取り結んでいたので菊田源兵衛家の社会的ネットワーク― 「壁紙文書」の発見と分析を通じて あろうか。本書齋藤論文で明らかにされたように、菊田家のある東昌寺門前町には「ノミ の市」ともいえる庶民層の市場が広がっていたという。そのような中で、酒を中心に菊田 家との取引関係を結んでいたということが挙げられよう。 こ れ に 加 え て、 森 林 資 源 の 供 給 と い う 点 も 指 摘 し て お き た い。 表 3 に 挙 げ た 村 々 の 内、 柴田郡川崎宿のある同郡前川村は、仙台城下への薪供給地の一つで あ )(( ( り 、川崎宿および名 取郡根岸村(長町)には「中揚場所」と呼ばれる 薪 たきぎ の乾燥場が設けられて い )(1 ( た 。このほか 名取郡山田村、宮城郡小角村、野村も薪の生産地であった。 薪 の 利 用 に つ い て は、 一 つ に は 菊 田 家 の 生 業 で あ っ た 清 酒 醸 造 へ の 利 用 が 考 え ら れ る。 ただし、交際地域の広がりからは、自家での利用を越えた仙台城下町への薪炭供給との関 連についても留意する必要があろう。また、東昌寺門前町に隣接する堤町で暮らす足軽た ちによって行われていた堤焼の生産が、十九世紀初頭の文化・文政期に、近世における最 盛期を迎えたとの口承も あ )(1 ( る 。 ( 11) 以下、薪炭生産の記述については 『日本歴史地名大 系 4 宮 城 県 の 地 名 』( 平 凡 社 一 九 八 七 年 ) を 参 照。 ( 1()『仙台市史』 通史編4近世2 (仙台市 二〇〇三年) 、 四三五頁。 ( 13) 関 善 内『 堤 焼 と 陶 工 た ち 』( 万 葉 堂 書 店 一 九 七 四 年) 、二七─三〇頁。 表3 歳暮品・人名控 地名 推定される村名 推定される村の現在地 史料番号 小角村 宮城郡小角村 仙台市泉区小角 11~ 13 野村 宮城郡野村 仙台市泉区野村 13 枡沢 黒川郡吉田村のうち升沢 大和町吉田 11 成田 黒川郡成田村 富谷町西成田 11 山田 名取郡山田村 仙台市太白区山田 13 ねきし 名取郡根岸村 仙台市太白区長町 13 川崎 柴田郡前川村川崎宿 川崎町前川 13
また、現在の北山地域一帯は、付木(木片の一端に硫黄を塗った着火用品)の産地の一 つであった。この地域での付木生産は、天保年間に木町通(青葉区木町通)居住の仙台藩 足軽・若生丑蔵により創業され、明治維新以前に周辺では十数件の職人がいたと い )(1 ( う 。 以上から類推すれば、各村々と菊田源兵衛家との関わりについては、通町および堤町も 含めた仙台城下町への森林資源供給ということから考える必要があるのかも知れない。関 連して、三代菊田源兵衛が、北山と宮城郡根白石村(仙台市泉区根白石)を結ぶ街道の改 修を行い藩から褒賞を受けて い )(1 ( る 。その動機の一つを、仙台城下町と薪炭・森林資源生産 地の村方との間での輸送の利便性を高めるという点に見ることも可能であろう。 以上の点にについて、仙台城下町と薪生産地との村々との具体的な関係を実証的に明ら かにすることを通じて、さらに検討する必要があるといえる。 ⑵ 仙台城下町内部での贈答 と こ ろ で、 史 料 番 号 11に は「 在 郷 計 り 」 の 歳 暮 だ と あ る が、 一 方 で「 あ ら 町 」( 荒 町 / 仙台市若林区) 、「二日町」 (仙台市青葉区二日町) 、「十番丁」 、「御大工丁」 (仙台市青葉区 川内大工町か)といった、仙台城下町の町名及び通りの名前が見られる。人名には町人や 「~ 屋 」 と 見 ら れ る 商 人 た ち に 加 え、 前 節 の 酒 宴 で の 項 目 と 同 様、 苗 字 が 記 さ れ る、 城 下 町 居 住 の 士 分 と 考 え ら れ る 人 々 も 見 ら れ る。 苗 字 表 記 の あ る 人 物 で は「 十 番 丁・ 青 田 氏 」 が唯一居住地が判明する。ここでの「十番丁」は、通町に隣接する北十番丁(仙台市青葉 区北山)の事であろうか。 一方、 史料番号 11のうち、仙台城下町の人々と考えられる「たはこ屋・利助」以降の九 ( 14) 加藤宏 「仙台付木」 『市史せんだい』 18、二〇〇八年。 ( 15) 拙稿 「天保から幕末の通町─東昌寺門前・菊田源兵 衛家の社会活動」 (本書所収) 。
菊田源兵衛家の社会的ネットワーク― 「壁紙文書」の発見と分析を通じて 名 に つ い て 見 る と、 「 鰹 子 」 お よ び 鰹 節 と い っ た カ ツ オ の 加 工 品 に 加 え、 塩 引( 鮭 ) も 多 く 贈 答 さ れ て い る。 士 分 と 思 わ れ る「 須 藤 様 」 か ら は 白 砂 糖 が 贈 ら れ て い た。 関 連 し て、 史料番号 14にはタイ(鯛)やカナガシラ、ヒラメやカレイ( 鰜 )が見られる。これらはい ずれも、仙台城下の肴町(仙台市青葉区国分町・大町)に、旧暦五月の夏場に入荷される 海産物として名前が挙げられている魚で あ )(1 ( る 。鯛やカナガシラ(金頭)は儀礼に用いられ る魚でもあるから、これらも海産物の贈答記録と推測される。肴町など仙台城下町で取引 されているものを購入してやりとりがなされたと考えられよう。 史料番号 14が作成された時期を特定することは難しいが、カレイが贈答品として扱われ ていることが注目される。仙台の儀礼におけるカレイといえば、年取り魚としてナメタガ レイ(ババガレイ)の煮付けを食する習慣が想起される。これは今のところ明治以降に始 まったものだとされるが、一方で、江戸時代に仙台の庶民がカレイを贈答や儀礼の際の水 産品として扱っていたことが、明治以降の贈答慣行に影響を与えた、という可能性もあろ う。また、 史料番号 11と 14の水産物については、その違いが仙台城下町における人々の所 得差に応じた贈答品のありかたを示しているといえる。現在に続く仙台の習俗を考える上 でも、近世の仙台城下町における水産物贈答の実態について引き続き考察する必要があろ う。 あ わ せ て 注 目 さ れ る の が、 史 料 番 号 11の「 塩 引 」( サ ケ ) と 同 14の「 あ わ ひ 」( ア ワ ビ ) である。これらは、いずれも仙台藩が儀礼用として、生産地の漁村から集荷をしていた商 品であった。漁民たちは藩が必要分を確保した残りを自らの商品として販売していたので あるが、その生産地の一つである追波川河口地域において、十八世紀後半から十九世紀初 ( 16)「 肴 町 五 十 集 物 荷 入 覚 」( 旧 版 )『 仙 台 市 史 』 9( 仙 台市 一九五一年)二三四頁、史料番号六一八。
頭にかけて藩と生産漁民との間でのせめぎ合いが見ら れ )(1 ( た 。いずれも儀礼用、さらにアワ ビについては幕府の長崎貿易への必要量を集荷しようとする藩側に対し、生産漁民は成り 立ち維持の論理で自らの取り分の確保を目指すという構図であった。 漁民の動向の背景には、近世後期における商品としての需要の増加が背景にあると考え ら れ る。 「 壁 紙 文 書 」 中 の 贈 答 史 料 は、 菊 田 家 三 代 の 源 兵 衛 が 活 躍 し た 十 九 世 紀 前 半 以 降 の史料だと考えられるが、仙台領内最大の消費地であった仙台城下町におけるサケやアワ ビの需要のありかたが一つの手がかりになるともいえる。塩引や干しアワビが、仙台城下 町の町人層にまで広まっていた可能性をしめすものだといえよう。
4
菊
田
家
と
仙
台
城
下
町
行
政
の
担
い
手
─
贈
答
か
ら
見
え
る
行
政
ネ
ッ
ト
ワ
ー
ク
史料番号 15には、九件分の贈答品とその相手が記されている。短い史料ではあるが、菊 田源兵衛家の社会活動、特に仙台城下町の行政における立場、さらには仙台藩校養賢堂と の関わりについて示唆に富む内容である。 史料が書かれた年代については、再末尾の「五城先生御袋」が手がかりになる。本稿で は「 壁 紙 文 書 」 を 三 代 菊 田 源 兵 衛 の 活 躍 し た 十 九 世 紀 初 頭 以 降 の 史 料 だ と 考 え て い る が、 この時期に仙台で「五城先生」と呼ばれる人物として、仙台藩の学者として名高い志村三 兄 弟( 五 城、 東 嶼、 蒙 庵 = 篤 治 ) の 長 兄 で あ る 志 村 五 城( 一 七 四 六 ─ 一 八 三 二 ) を 挙 げ る こと が 出 来 る 。「 御 袋 」と は 字 義 通 り か ら す れ ば 母 親 の 意 味 で あ ろ う 。志 村 五 城 の 生 年 か ら「 御 袋 」の 年 齢 を 推 測 す れ ば 、 時 代 の 下 限 が 一 八 〇 〇 年 代 初 頭 を 越 え る こ と は な い と 考 え ら れ る。 ( 17)『 北 上 町 史 』 通 史 編( 宮 城 県 北 上 町 二 〇 〇 四 三四二─三六二頁 (サケ漁/高橋美貴氏執筆) およ び三七五─三八三頁 (アワビ漁/畑井洋樹氏執筆)菊田源兵衛家の社会的ネットワーク― 「壁紙文書」の発見と分析を通じて ま た、 贈 答 品 の「 狼( 野 ) 河 原 」 と は、 十 八 世 紀 中 頃 以 降、 登 米 郡 狼 河 原 村( 登 米 市 東 和 町 米 川 ) 周 辺 の 名 産 と な っ た 煙 草 の こ と で あ る。 後 述 す る よ う に、 史 料 番 号 15に 登 場 す る 贈 答 相 手 は 仙 台 城 下 町 で 一 定 の 社 会 的 地 位 を も つ 人 々 で あ る た め、 こ れ は 菊 田 家 か ら 贈 ら れ た 品 物 や 相 手 を 記 し た 可 能 性 が 高 い。 仙 台 領 内 で 産 出 さ れ た 国 産 品 の 煙 草 が、 遅 く と も 十 九 世 紀 初 頭 に、 仙 台 城 下 町 で 地 位 あ る 人 々 へ の 贈 答 品 と し て 相 応 し い 商 品 と し て の 価 値を確立し、消費されていたのである。 次に、贈答相手を確認していきたい。 ⑴ 藩役人との関係 一 件 目 に は「 御 小 人 町 」 と 記 さ れ て い る。 「 御 小 人 町 」 と い う 地 名 は 仙 台 城 下 町 に は 存 在 し な い が、 藩 主 ら が 外 出 す る 際 に 随 行 す る 小 人 衆 が 居 住 し て い た 御 霊 屋 丁( 仙 台 市 青 葉 区 霊 屋 下 ) の 事 で あ ろ う か。 一 方、 三 件 目 に 見 え る「 同 心 町 」( 仙 台 市 青 葉 区 本 町 ) に は、 城 下 町 の 町 人 町 の 治 安 維 持 の 実 務 を 担 う 町 同 心 た ち が 居 住 し て い た。 こ の 同 心 た ち と と も に、仙台城下町の武士及び町人、 さらには領内の百姓に対する警察活動を担っていたのが、 小 人 た ち の と り ま と め 役 で あ る 小 人 目 付 で あ っ )(1 ( た 。 菊 田 家 は 町 人 お よ び 百 姓 の 警 察 機 能 を 担う立場の人々と交際をもっていたのである。 四 件 目 の「 御 屋 敷 方 」 は、 仙 台 城 下 町 の 武 家 地 を 管 轄 す る 屋 敷 奉 行 お よ び そ の 配 下 の 役 人 た ち を 指 す と 見 ら れ る。 彼 ら と 菊 田 家 と の 接 点 は ど こ に あ っ た の だ ろ う か。 一 つ の 可 能 性 と し て 考 え ら れ る の が、 中 下 級 藩 士 の 不 在 屋 敷 の 管 理 を 行 う 宿 守 の 存 在 で あ )(1 ( る 。 十 八 世 紀 以 降 の 宿 守 は、 本 来 の 役 割 を 越 え、 屋 敷 表 門 な ど で 諸 営 業 を 行 い、 中 に は 酒 造 を お こ ( 18) 同心・小人目付の職掌については、前掲注 (9) 書、 一三六─一五二頁による。 ( 19) 仙 台 城 下 町 の「 宿 守 」 に つ い て は 渡 辺 浩 一『 仙 台・ 江 戸 学 叢 書 (( 仙 台 城 下 の 武 家 屋 敷 』( 大 崎 八 幡 宮 二〇一〇年)を参照。
なったり、遊女を置くなどして罰せられる者も出るなど、近世後期の城下町で町方居住者 の一員となっていた。天明飢饉時には、都市下層民を含むとされる宿守層への救済が政策 課題となっていたのであった。 本書所収の拙稿で指摘したように、菊田家は天保四年から五年の飢饉に際して、河原町 の沢口家とともに、藩から宿守の救済を依頼されている。これについては、菊田家と宿守 の人々との間に何らかの関係があったことが前提だと考察した。菊田家と 「御屋敷方」 が、 宿守となる人々の取締や生活全般への対応をめぐって関係を取り結ぶ可能性は十分考えら れよう。 ⑵ 「青山氏」と「米川氏」―仙台城下町役人と菊田家 五 件 目 の 「 米 川 氏 」 と 六 件 目 の 「 青 山 氏 」 と は 誰 を 指 す の で あ ろ う か 。 仙 台 城 下 町 の 「 青 山」 と「米川」で想起されるのは、大町三四五丁目検断の青山五左衛門家と、大町一二丁目の 年 行 仕( 他 町 の 検 断 に 相 当 ) か ら、 後 に 国 分 町 検 断 を 務 め た 米 川 十 右 衛 門 家 で あ る。 「 壁 紙文書」中の「青山氏」と「米川氏」とは、両家のことであろう。 仙台城下町の検断・年行仕については、十九世紀初頭からは個別町の管轄を越え、赤子 養育や飢饉救済、備荒貯蓄の運用といった城下町全体の行政を担ってゆくようになったと される。その中心的な役割を果たしていたのが、青山と米川の両家であ っ )11 ( た 。一方、菊田 家のある東昌寺門前町は、実は近世の仙台城下町二十四町には含まれていない。青山と米 川両家にとっては管轄外の地域であったが、城下町の北端に隣接する町方の検断を務めて いたとされる菊田家と、贈答を取り交わすような関係を取り結んでいたのであった。 ( (0)『仙台市史』 通史編5近世3 (仙台市 二〇〇四年) 二六五─二八九頁。
菊田源兵衛家の社会的ネットワーク― 「壁紙文書」の発見と分析を通じて ⑶ 五軒茶屋・河原町と菊田家 八 件 目 の「 五 間 茶 や 」 と は、 城 下 河 原 町 に 隣 接 す る 小 泉 村 域 の 奥 州 街 道 沿 い に 成 立 し た 町 場 で あ る 五 軒 茶 屋( 仙 台 市 若 林 区 河 原 町 一 丁 目 ) の 事 で あ ろ う。 同 書 に は そ の 名 の 通 り 藩 主 が 参 勤 交 代 の 際 に 休 息 す る 茶 屋 が 置 か れ て い た。 さ ら に、 本 書 齋 藤 論 文 で 指 摘 さ れ た よ う に、 河 原 町 周 辺 も、 菊 田 家 の 住 む 東 昌 寺 門 前 町 と 同 じ く、 城 下 町 と 近 隣 の 村 々 と の 交 流の場となっていたのである。 菊 田 家 に と っ て、 こ の 地 域 と ど の よ う な 関 わ り が 考 え ら れ る で あ ろ う か。 一 つ に は 清 酒 の 販 売 先 で あ る。 一 方、 拙 稿 で 分 析 し た よ う に、 天 保 飢 饉 時 に 菊 田 家 は 河 原 町 の 沢 口 家 と 連 携 し て、 他 領 か ら 流 入 す る 人 々 を 管 理 し て い た。 そ の こ と か ら、 城 下 町 の 治 安 対 策 の 上 で も 関 わ り の 深 い 地 域 で あ っ た と い え る。 な お、 菊 田 家 と 沢 口 家 と の 関 係 を し め す も の と して、 史料番号 20に挙げた、伊達家四代藩主綱村以降の墓所のある大年寺の宝松 (住職か) が「 菊 田 」 と「 沢 口 」 と と も に 秋 保 温 泉 に 出 か け た 際 に 詠 ん だ 漢 詩( 七 言 絶 句 ) が 残 さ れ ていた。菊田家と河原町の沢口家とは、公私にわたる密接な関係を結んでいたのである。 以 上 の 考 察 か ら、 菊 田 家 と 史 料 番 号 15に 登 場 す る 人 々 と の 関 係 に つ い て、 治 安 維 持 面 を 中 心 と す る 都 市 行 政 へ の 関 わ り と い う 共 通 項 が 浮 か び 上 が っ て き た。 こ の 点 に つ い て は、 菊 田 家 と 各 家・ 地 域 と の 個 別 の 関 係 の み に と ど ま ら ず、 菊 田 家 の 贈 答 に 登 場 し た 藩 の 治 安 担 当 役 人、 城 下 町 の 検 断 な ど 町 役 人、 場 末 町 の 人 々 が 相 互 に ネ ッ ト ワ ー ク を 結 び、 城 下 町 全体の秩序維持に当たっていたということも示唆されよう。
5
菊田家と仙台藩の学者たち
史料番号 15に、仙台藩の儒者で、藩校養賢堂での教育を担った志村五城の名前が見られ たことは前述の通りである。さらに、 史料番号 19には、 「大槻民治様」 の名前も確認できる。 大槻民治とは、文化六年(一八〇九)に養賢堂学頭となり、その改革に尽力した仙台藩学 者の大槻平泉(一七七三─一八五〇)の事である。菊田源兵衛家は、養賢堂運営の中心と して活動していた仙台藩の学者層とも交流があったのである。 それでは、菊田家と仙台藩の学者との関係はどのようなものだったのだろうか。一つに は 、 当 然 の こ と な が ら 菊 田 源 兵 衛 家 の 学 問 受 容 と い う 点 が 推 測 で き る 。 大 槻 民 治「 様 」と 「五 城先生」との表記の比較からすれば、菊田源兵衛は志村五城からの学問的薫陶を受けてい たとも推測できる。 そ れ に く わ え、 平 泉 が 進 め た 養 賢 堂 改 )1( ( 革 と、 菊 田 家 の 生 業 で あ る 酒 造 業 と の 関 わ り と いう点についても指摘しておきたい。平泉による改革の一つは、養賢堂運営のための財政 基盤を確保することであった。そのため、領内に「学田」一万二千石を設置したことはよ く知られている。その一方で、一八九七(明治三十年)に養賢堂の元関係者によって結成 さ れ た「 養 賢 堂 同 窓 会 」の 規 約 に は 、 藩 が 学 田 か ら の 収 入 と 合 わ せ て「 志 願 献 金 ノ 法 」に よっ て 運 営 資 金 を 確 保 し た と の 記 述 が あ )11 ( る 。「 志 願 献 金 」 と は、 藩 に よ る 社 会 政 策 の 資 金 に つ いて、金額に応じた様々な特権を設けて地域から募集し、それに応じた献金者が希望する 特権を「志願」して与えられる制度で あ )11 ( る 。関連して、志願献金と仙台藩学校との関係に ついては、時代は下るが天保十二年(一八四一)年の荒町清酒屋・鈴木伊右衛門家が、医 ( (()「養賢堂同窓会規約」 。本史料は伊達伯爵家所蔵だっ たと考えられる 『伊達氏史料 甲号』 九 (東北大学 附属図書館所蔵)に綴じ込まれていた。 ( (1) 大槻平泉による養賢堂改革については鵜飼幸子 「大 槻家の人々」 (『宮城の研究』 近世編Ⅲ 清文堂出版 一九八三年)による。 ( (3) 拙稿 「仙台藩の献金百姓と領主・地域」 (『東北アジ ア研究』 1( 二〇〇九年) 。菊田源兵衛家の社会的ネットワーク― 「壁紙文書」の発見と分析を通じて 学校への金二〇〇両の献金により、城下町内の一町を範囲とする「永々」の清酒醸造と販 売の特権を確保して い )11 ( る 。実際に、献金が酒造などの営業権許認可と結びつけられること で、都市の有力者から仙台藩校への献金が実現していたことがわかる。いいかえれば、城 下町商人は自らの営業権維持の活動を通じて、学資援助者として藩校と関わっていたので ある。菊田源兵衛家と仙台藩学者との交流についても、藩校への資金確保といった学校経 営面からとらえることもできるのではないだろうか。 なお、菊田源兵衛家が交流した学者たちについて、志村五城の弟で、大槻平泉の下で養 賢堂副学頭を務めた志村篤治が、養賢堂の運営をめぐり平泉と対立していたとの指摘があ る )11 ( 。このような状況に関わらず、双方と交流する菊田源兵衛の動向は、様々な学者と交流 して知識を得ようとする学究者としての姿勢、仙台藩校および学者たちのパトロンとして の対応など、様々な解釈が可能だといえよう。
おわりに
本 稿 で は、 「 検 断 屋 敷 」 で の 壁 紙 文 書 発 見 の 経 緯 と、 菊 田 源 兵 衛 家 の 取 り 結 ん だ 様 々 な 社会関係と、そこから見える仙台城下町の社会状況について考察してきた。解釈の過ぎた 点もあるかもしれないが、これまでの研究成果を基に、菊田源兵衛家を中心に、東昌寺門 前町に関係した人々の交流ができるだけ具体的に浮かび上がるような分析を心がけた。そ の結果、 もっとも情報が豊富な人名や居住地を可能な限り比定するということになったが、 結果的に廃棄文書分析の一つの方法論を提起できたのではないだろうか。 ( (4)前掲注( 18)書、二六〇─二六二頁。 ( (5)前掲注( 18)鵜飼論文。さ ら に、 分 析 の 結 果、 城 下 町 に お け る 武 士 と 町 人 の 関 係、 城 下 町 と 近 隣 村 落 と の 関 係、 城 下 町 に お け る 海 産 物 贈 答 と 消 費 の 実 態、 城 下 町 内 部 の 治 安・ 秩 序 維 持 を め ぐ る 社 会 的 ネットワーク、さらには仙台藩の学者層と商人層との関わりといった、仙台城下町に暮ら した人々の生活を考える上での論点も浮かび上がってきたと考えている。これらの問題に ついて、今後さらなる史料発掘と実証を通じて検証してゆきたい。 本稿が通町や菊田源兵衛家の活動を後世に留めるとともに、仙台城下町やそこで暮らし た人々の歴史を考えるための一助となることを願い、結びとする。 (付記) 「壁紙文書」 も含む検断屋敷の緊急調査に参加したのは、 まち遺産ネット仙台の大沼昌寛、 伊 藤 則 子、 西 大 立 目 祥 子 の 各 氏 と、 東 北 大 学 東 北 ア ジ ア 研 究 セ ン タ ー 平 川 新、 蝦 名 裕 一、 天野真志および佐藤の七名である。本稿はこのメンバーによる壁紙文書発見の成果を踏ま え執筆した。 ま た、 本 稿 作 成 に 当 た り、 水 産 物 贈 答 に つ い て 高 橋 美 貴 氏( 東 京 農 工 大 学 )、 柳 生 和 紙 や仙台の贈答・儀礼習俗について畑井洋樹氏(仙台市歴史民俗資料館)からご教示をいた だいた。末筆ながら記して感謝申し上げたい。