谷崎潤一郎逸文紹介 ; 2
32
0
0
全文
(2) (52) 谷崎潤 一郎全集逸文紹介 2. 4 . ﹃夏 日 小 品 ﹄ これ ま で初 出 が 不明 であ ったが 、﹁社 会 及 国 家 ﹂の大 正 六年 七 月 号 ︵四 五号 ︶ であ る事 が 判 明 し た。 全 集 本. 年 春 は誤 り で、 実 際 はも う少 し後 の事 だ ったと 思 わ れ. 道 雄︶ は、 共 に る。 な お、 文中 の松 本 藤 四郎 ・伊 沢 ︵ 一匡 社社 員 であ る。. ︾ の間 に、︽さ な か ら に垂 涎 三尺 の品ば か り であ つた。. ︾ と ︽見 る て眺 め たが 、 執 れ も 此 れ も 怪 しく 美 しく 、. る 文章 は、 多 分 そ れ ハヽ 一匡祗 同人 に 依 つて 寄 稿 さ. 書 く 。 ついでと 云 つて は申 課 が な いが 、 同 君 を追 憶 す. 故 人 の噂 を し た ついで に、 亡 友 松本 藤 四郎 君 の事 を. 松 本 藤 四郎 君. が ら パ ウ ル、 ゴ オ ガ ン の給 に接 す る や う な エキゾ テ ィ. れ、 比較 的 交際 の薄 か つた予 の如 きが 口を出 す にも 及. 文 と 比 較 す ると 、 ﹁更 紗 ﹂の ︽予 は いろノヽ の柄 を展げ. ︾ と いう 一句 が 入 る事 、 末 尾 に ﹁松 ツ ク の匂 が 高 く 、. ぶ ま いと 信 ず る から であ る。. 今 でも あ り 低 い聾 で 冗談 を 云 つた 悌 が 、 攣 さ せて、. て居 る。 あ の四角 な顔 の、 眼 の下 の邊 を ピ リノヽ と痙. 交 際が 薄 いと 云 つても、 予 は同 君 を 可成 り よく 知 つ. 本 藤 四 郎 君 ﹂ と 題 す る 一文 が あ る事 、 等 が 主 な異 同 で あ る。 こ こ に は ﹁松 本 藤 四郎 君﹂ と 題 し た 一文 を翻 刻 す る事 にし た。 文 中 にあ る 六七年 前 の同 室 会 と は、 津 島 寿 一 ﹃谷 崎. 郎 ﹃柔 寮 一番 室 ﹄ に よ ると 、大 正 六年 春 に谷 崎 は、友. た大 学 卒 業 前 祝 い の会 を指 す も のと 思 わ れ る。 君 島 一. 岸 通 り の銀 月と 云 ふ蠣 めし屋 へ上 つた事 が あ る。 二人. を催 した婦 り に、 予 は同 君 と た つた 二人 で、 柳 橋 の河. も う 六七 年前 であ るが 、 嘗 て代 地 の柳 光 亭 で同 室 會. ノヽ と頭 に残 つて居 る。. 人 た ち と 共 に、 松 本 藤 四郎 の墓参 り に愛 知 県 新 城 ま で. は其 虎 で、 チ ャブ 蔓 に相 封 しなが ら花更 く る迄 胸 襟 を. 潤 一郎 君 の こと﹄ に 言 う 明 治 四 五年 五月 頃 に 行 われ. 行 った と 言 う。 ただ し、 本 文 の記 述 か ら 見 て、 大 正 六.
(3) 光 江 細. (53). 逸 な と こ ろが あ つて、 而 も 重 厚 な謹厳 な、 非 常 に暖 か. て ほ ん た う に分 つた や う な 心 地が した。何 虎 や ら に瓢. し て居 てく れ た。 予 も そ の時 、 君 の人物 や性 格 が 始 め. 開 いて語 つた 。 君 はよく 予 の性格 や仕 事 を 理解 し同情. 肉 の母 の死 と結 び ついて、 予 に取 つて は永 久 に忘 れ 難. う亡 き 人 の数 に這 入 つて居 た。 松本 君 の死 は、 予 が 骨. であ る。 さ う し て慢 て ゝ東 京 へ婦 つて来 ると、 母 はも. う ち に再 び 予 の妻 か ら、 母危 篤 の電 報 を受 け取 つた の. 君 の訃 報 を受 け取 つた予 は、 そ れ から 一時 間 も 経 な い. 先 日、 學 士會館 で 伊 澤 氏 に會 つた時 、 ﹁故 人 の 郷 里. み のあ る人 間 だ なと 、 予 はそ の折 にし みハヽ 威 じ た。. へ行 つて父 兄 に悔 み を 述 べ た いと思 ふが 、 われ ノヽ の. いも のと な つた。. か つたが 、 何 虎 と 云 つて鋏 貼 のな い、着 賞 な 、 さ う し. 達 者 な姿 を見 ると 故 人 の生前 を想 ひ出 し て断腸 の情 に. 松 木 君 は決 し て豪 傑 のや う にも才 子 のやう にも見 え な. て な か ノヽ 諧 謹 に富 む 人 であ つた。 ち よ いと 見 ると不. 堪 へな いから、暫 く来 訪 を見 合 は せてく れ と、 家 族 の. 几 な や う で、 而 も 取 々 の志 を深 く蔵 し て居 るやう に 戚 ぜ ら れ た。彼 は居常 冷 静 であ つたが 、 そ の賓 熟情 家 で 彼 の病 氣 は腸 結 核 であ つたと 云 ふ。學 校 時 代 に柔 道. 友 人 の老 母が 欣 然 と し て席 に連 つた のを眺 めた折 に、. の間友 人 の結 婚 披 露 に精 養軒 へ招 かれ て、 七十 に近 い. さ う なけ れば な ら な い事 だ と 予 は思 つた。予 と 雖 、 此. 人 々から 云 つて よ こし た﹂と 云 ふ話 であ つた。成 る程 、. を や つて、 あ れ程身 性 を練 磨 した人が 、 結 核 に罹 つて. 亡 母 の事 を想 ひ出 し て思 はず 知 らず 涙 が はら はら と落. あ つた に違 ひな い。. 大 折 す ると は誰 しも 思 ひ設 け ぬ事 であ つた ら う 。 さう. を祠す る母 も あ るも のを予 が 母 は僅 か に 五十 四歳 で斃. ち て来 た。 七 十 にな つて、杖 に槌 り つゝ我 が見 の婚 祀. 腸 結 核 と 云 へば 、今 か ら 七年 前 に十 六歳 で夭折 した. れ た のであ る。 況 んや齢 三十 にし て早 世 し た る松 本 君. 云 へば 松 本 君 の容貌 は、 今 にな つて考 へると 、 何 と な. 予 の妹 も 同 じ病 氣 であ つた。 否 そ れば か り で はな い。. を や。 遺 族 の悲 嘆 は察 す る に餘 りが あ る。. く 影 のう す い所 が あ つた 。. 去 る 五月 十 四 日 の朝、 伊 香保 の温 泉 で津 島 氏 から松 本.
(4) (54) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. 5 。 ﹃ア ツ シ ヤ ア 家 の 覆 滅 ﹄. や う 陰欝 な ア ツ シヤ ア の 邸が 見 え る 所 ま で 辿 り着 い. た。 私 に は 其 れ が ど う 云 ふ 詳 だ か 分 らな い︱︱ が 、. そ の建 物 を 一と 目見 る や否 や、 或 る堪 へ難 い悲 し い氣. 持 ちが 、 私 の胸 に泌 み徹 つて行 つた。 私 は特 に堪 へ難. なき に至 った のであ ろう 。 な お、 谷崎 が こ の翻 訳 を思. な く 父 が 病 床 に つく 等 の事 が あ った為 に、 中 絶 のやむ. 日 か ら ニ カ月 にわ た って中 国 を旅 し、 更 に帰 国 後 間 も. 五分 の 一程 度 で中 絶 し て いる。 谷 崎 は、 こ の年 十 月 九. ^ ′︼ F口 ”o① ぃ ↓ ① ﹁L︼o﹁ ”Q∞”﹃ ヽ 計 ① 一〓〇匡∽ ① o﹁ , , ︶の翻 訳 。 ただ し、 C争 8 ︶ エピ グ ラ フを 欠 き 、 全 体 の. 居 る 一箇 の邸宅 、構 への内 にあ る軍純 な 田園 の風物 、. 自 分 の眼 の前 にあ る景 色 を眺 め た。︱︱ そ こに立 つて. は少 しも そ んな 餘 裕 を許 さ な か つた か ら であ る。 私 は. て牟 は慰 められ る のが 常 であ る の に、 そ の時 の氣持 ち. な に恐 ろし い光 景 に接 し ても 、 詩 的 な威 情 に助 け られ. た と へ世 の中 の最 も 物 凄 い、 ど んな に荒慶 し た、 ど ん. ﹁社 会 及 国 家 ﹂ 大 正 七年 七 、 八月 号 ︵五七 、 五 八号 ︶. い立 った背 景 に は、 嘗 てボ オ ド レ エルが ポ オ を 翻 訳 し. ︱︱ 青 褪 めた土 塀 の壁 、︱︱ が ら んと した眼 玉 のや う. いと 云 ふ。 なぜ かと 云 ふ のに、 人 間 の心と 云 ふも のは. たと いう 事 実 が あ ろう。. な 窓 、 ︱︱ それ から 二三本 の白 い枯 木 の幹 、︱︱ そ れ. 等 の物 を眺 めた折 の切 な い重 苦 し い心持 ち は到底 此 の. も のう い、暗 い、 ひそりと した日のこと であ る。私 は. そ の年 の秋 の、重 々し い雲が杢 に低く垂れ懸 つた、. さ に でも 比較す べき であ らう。 そ こ にはた ゞ心 の臓 を. つ ゝ、︱︱ 醜 悪 な蒻 難 を曝 露 す る人 間 の、 宗 覺 め の悪. 片 の毒 にま 溺 し て、 ︱︱ 日 に日 に傷 ま し い堕 落 を重 ね. ア ツ シ ヤ ア家 の覆 滅 谷 崎 潤 一郎. 終 日、 た つた獨 り馬 に跨 つて怪 しく荒れ果 てた田舎路. 氷 の如 く寒 から し め、 深 く深 く、 病 人 のやう に滅 入 ら. 世 に喩 ふべき も のも な い、 張 ひ て云 ふな らば 其 れ は阿. を通 つて行 つた。さうして日脚が傾 いた時分 に、 やう.
(5) 光 江 細. (55). て見 た、︱ ︱ 一證 ど う いふ詳 で、 アッ シャ ア家 の景 色. 一證 ど う い ふ詳 であ ら う、 ︱︱ 私 は立 ち止 ま つて考 へ. う な、 満 目 荒 凍 た る、 癒 や し難 い観念が あ るば か り。. ても 何 等 の緊 張 し た荘 厳 さ を も戚 ず る事 の出来 な いや. せ るも のが あ るば か り、 ︱︱ いかなる杢想 の力 を藉 り. た。. い激 し い戦 慄 に襲 はれ なが ら︱︱ 敗 お ろした のであ つ. んと し た眼 玉 のや う な窓 の影 を︱︱ 嘗 て覺 え た事 のな. て居 る 灰 色 の葦 薦 や、 幽 霊 じ み た 枯 木 の 幹 や、 が ら. の縁 ま で行 つた、 さ う し て、 水 の面 へ倒 ま に形 を映 し. 邸 の傍 にど ん よ り光 つて居 る暗浩 た る古 沼 の瞼 し い涯. 而も 私 は、今 や此 の憂 欝 な邸 宅 に敷 週間 を途 ら うと. が こんな にま で私 を慄 然 た ら し め るのであ ら うP そ れ は几 べ て解 し難 い謎 であ つて、 考 へれば 考 へる ほど 私. 本 の手 紙 が 、︱ ︱ 彼 の書 いた 一本 の手 紙が、︱︱ 遠 い. ュ プリ ツ し てや つて来 た のであ る。 此 の家 の主人 の、. 田合 の地方 から私 の許 へ届 いた のであ る。そ の恐 ろし. の頭 の中 に は影 のやう な幻 が も やもやと湧 き 上 つて来. つま り、 極 め て軍純 な自 然 物 を或 る 一定 の方 法 で配. く 執 心 な懇願 的 な 調 子 を見 ると 、私 はど う し ても 訪 ね. ク、 ア ツ シヤ アと 云 ふ人 は、 以前 少 年 時代 に は私 と氣. 列す れ ば 、 そ こにわ れ わ れ を 斯 ま でも戚 動 さ せ る や う. て来ず には居 られ な か つた。彼 の神経 が焦 ら立 つて居. たが 、 私 はそ れ さ へも捕 捉 す る事 が出来 な か つた。 私. な力 が 生ず る のであ る。 其 れ は疑 ひも な い事賞 であ る. る事 は、書 信 の面 に 一目瞭 然 と露 れ て居 た。手 紙 の主. の合 つた仲 間 同 士 であ つた のだが 、 そ の後 二人 は長 い. が 、 し か し此 の力 を分 析 す る事 は到底 吾 人 の思 索 の外. は自 分 の肉 證 が 激 烈 な病 氣 に罹 つて居 る こと、︱︱ 精. は結 局 、 不満 足 な が らも かう い ふ結論 に到 着 す る よ り. にあ る のだ 。 そ の書 面 の中 にあ るデ ゴ アイ ル、 そ の風. 年 月 の間 別 れ 別 れ にな つて居 た。 と ころが先 だ つて 一. 景 の中 の箇 々物 の位 置 を ち よ いと取 り換 へれば 、 此 の. 神 上 の惧 憎 の篤 め に苦 し ん で居 る こと、︱︱ など を訴 へて、彼 の最 も 親密 な、 さ う し て而 も唯 一の友 人 であ. 仕 方 が な か つた。. 陰 欝 な 印 象 を制 限 し、 或 ひ は滅 却 す る に充 分 であ ら う と私 は思 つた。 さ う考 へると 共 に、私 は馬 を進 め て、.
(6) (56) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. な る であ ら う から、 是 非 顔 を見 せ てく れ る や う にと 頼. る私が 側 に居 て慰 め てく れ た な ら 、 少 し は容 態 も 軽 く. 事 賓 を も 聞き込 ん で居 た。 と 云 ふ のは、 昔 も今 も憂 ら. を も 知 つて居 た。 私 はま た頗 る注 目 に値 す る斯 う 云 ふ. く はも つと眼立 た な い方 面 へ餘 計 に注 が れ たら し い事. 今 日 に反 ん で居 る。 此 の鋏 陥 が あ る篤 め に、 と、 私 は. ん で来 た の であ つた。 これ 等 の事 が こまご ま と認 めら. 二人 は子 供 の時 分 に、 随 分 仲 の好 い間柄 で はあ つた. 此 の 一家 族 の異 常 な特 色 と 共 に其 の邸 の光 景 の特 色 を. ぬ尊 敬 を受 け て居 る ア ツ シヤ ア 一族 の血統 と 云 ふも の. も の ゝ、 賞 を 云 ふと私 は此 の友 達 の事 をあ ま り よく は. 精 細 に想 ひ浮 べなが ら、 同 時 に叉此 の 二 つの物 が 、数. れ てあ る外 に、 猶 そ れ 以 上 の︱ ︱ 彼 の切 な る表 情 が 生. 知 らな い の であ る。彼 の沈 獣 が ち な性質 はそ の営 時 極. 世 紀 の長 い間 に、 互 ひ に及ぼ し合 つた に違 ひな い影 響. は、 嘗 て いかな る時 代 に於 いても 、 分 家 を出 し た事 が. 端 に走 つて常 に彼 の特 徴 を な し て居 た。尤 も 私 は、 非. の程 度 を考慮 しなが ら、 思 案 し た のであ つた。︱︱ 恐. 々しく 文 字 の底 に逆嚢 し て居 る其 の手紙 の書 き 方 は、. 常 に古 く か ら績 いて居 る彼 の 一家 の人 々が 、 い つと は. らく 此 の、 傍系 を出 さ な か つたと 云 ふ鋏 陥 が あ る篤 め. な い の であ る。語 を換 へて云 へば 、 そ の全催 の家 系 が. 知 れ ぬ時 代 か ら、 或 る獨 特 な 、 天稟 の威 受 性 を備 へて. に、 且 そ の結果 と し て、 代 々同 じ や う な調 子 で世襲 財. 私 に何 等 の躊 躇 をも 興 へな か つた。 そ こで私 は、 いま. 居 て、 そ れ が 累 代 の長 い間 に多 く の高 筒 な藝 術 上 の作. 産 と 家 名 とが親 から子 へと 博 へられ て来 た篤 め に、 二. 一本 の直線 を成 し て伸 び て居 るば か り で、極 めて些細. 品と な つて嚢 露 し た り、 叉近 年 に反 ん で は、 幾 度 か情. つの物 は途 に全 然 同 一にな つて、 そ の領 地 の元来 の名. だ に此 の奇 怪 な る召喚 の理 由 が 分 ら いにも拘 らず 、 兎. 深 い奥 床 し い慈 善 事 業 と な つて現 れ た り し た事 や、 此. 義 は ﹁ア ツ シヤ ア家 ﹂ と 云 ふ漠 然 と し た曖 昧 な稗 呼 の. 一時 的 の憂 化 はあ り なが ら、依 然 と し て其 のま ゝ な、. れ も そ の獲 露 の 一例 であ る熟 烈 な 渇仰 が 、 誰 に でも 氣. 中 に清 え てなく な つて し ま つた のであ ら う。︱︱ 現 に. にも角 にも 直 ち に其 の乞 を容 れ た のであ る。. が つき 易 い美 粘 を持 つた普 通 の音 柴 趣 味 よ りも 、 恐 ら.
(7) 光 江 細. (57). 土地 の百姓が用 ゐ て居 る此 の稀呼 のうちには、そ の家 族と家族 の住 んで居 る邸宅と、雨 様の意味が含 まれ て 居 る のであ る 先 にも 云 つた通 り、 私 のや ゝ子 供 じ みた賞 験 が 費 し た唯 一の結 果 、 ︱ ︱ あ の古 沼 の水 面 を跛 お ろ し た後 の 威 じ は、 最 初 の不思 議 な印 象 を ます ます張 く し た に過 ぎ な か つた。 私 が 自 分 の迷 信 の、︱︱ さ うだ 、 迷 信 と 呼 ん でも 差 支 へはあ るま い。︱ ︱ 急激 に壇 進 し つゝあ る のを意 識 す れ ば す る ほど 、 そ れ は結局 壇 進 そ の物 の 速 度 を倍 加 さ せ る に過 ぎ な い事 は明 か であ つた。 さ う 云 ふ風 にな る のが 、 凡 べ て恐怖 を根底 にし て居 るあ ら ゆ る威情 に共 通 な、 奇 妙 な原 則 であ る事 を、 私 は長 い 経 験 に依 つて知 つて居 る。 さ う し て大方 そ れ が 原 因 で あ つた のかも 知 れ な いが 、 私 が 水 たま り の影 像 から 日 を離 し て賞 際 の家 を見 た時 、 忽 ち其虎 に或 る怪 し い幻 想 が 私 の心 に浮 かび 上 つた のであ る。︱︱ ︵ 未完 ︶ 此れは エドカア、アラ ン、ポオの物語の酬詳なり。 次琥 よ り漸を追うて全部詳出す べし。. ア ツ シ ヤ ア家. の覆 滅 績 き︱ ︱. 谷 崎 潤 一郎. そ の幻 想 は いか にも 荒 唐 無 稽 なも ので、 そ の折 の私. の胸 が 、 ど れ ほど 生 き 生 き と し た力 張 い戚 情 で充 たさ. れ て居 た かを示す篤 め に、 私 は姦 に 一言 せざ るを得 な. い のであ る。私 は賞 際 、 そ こ の邸 宅 や領 地 の全器 が 、. そ の 一匠 域 に特 有 な 一種 の杢 氣 、 外 界 のも のと は違 つ. た、朽 ち腐 つた樹 木 や、 灰 色 の土塀 や、 獣 々た る古 沼. から じ めじ めと 這 ひ上 る 杢 氣 、 ︱︱ だ る い、 も のう. い、微 か に其 れ と分 る や う な、 錯 色 を し た、毒 瓦斯 の. やう な紳 秘 な水蒸 氣 の中 に、 包 まれ て居 る か の如 く想 像 し た のであ つた。. 私 は 此 れ等 の 夢 でな け れば な ら な い 物 を 振 り 排 つ. て、 も つと詳密 に其 の建 物 の賞 際 の姿 を黙検 した。 そ. れ は大器 が極 め て昔 風 な特 色 を備 へた、 見 るから に古. 色 蒼 然 た る建物 であ つて、 細 か い菌 のや う な植 物 が家. 全 性 に蔽 ひ被 さ り、 精 巧 に純 れ 絡 んだ 蜘 蛛 の巣 細 工 の.
(8) (58) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. や う に軒 端 から 垂 れ 下 つて居 る。 け れ ど も 別 段 、 此 れ が 篤 め に 彩 し く 破 損 し た 箇 所 が あ ると 云 ふ 詳 で はな く 、 そ の石造 のど の部 分 にも壊 れ 落 ち て居 ると こ ろ は な い。 さ う し て其 虎 に は、 部 分 部 分 の均 整 が 未 だ に完 全 に維 持 さ れ て居 なが ら、 そ れ を 組 み立 て ゝゐ る 一つ 一つの石 こ ろが ぼ ろぼ ろ に崩 れ か か つて居 ると 云 ふ、 合 難 の行 か な い不 一致 が 存 在 し て居 るや う に見 え る。 そ れ は私 に、 外 側 は立 派 な癖 に目 に付 かな い内 側 の方 の園 天丼 が 、 外 氣 の交 通 を 遮 断 さ れ て長年 の間 に腐 つ て し ま つた、 古 い木 造普 請 の全 催 を 想 は せ るや う な趣 が あ つた。 が 、 此 の全 般 の上 にひ ろが つて居 る衰 頒 の 徴 候 を除 いて し ま へば 、 そ の建 物 に は別 に何等 の不安 定 ら し い所 も な い。 尤 も 、 非 常 に注 意 し て観 察 す る人 さ へあ れば 、 そ の人 は多 分 、 殆 んど 目 に見 え な いく ら ゐ な微 かな 範 裂 が 、 家 の前 方 の屋 根 から稽 妻 型 のひ ゞ を 入 ら せて、 壁 の面 を 這 ひ降 りなが ら、 陰酔 な古 沼 の 水 の中 へ消 え 失 せ て居 る の に氣 が 付 く のだが 。 今回はも つと澤山書く つもりで居たが、執筆 の途中 で風邪 にかゝつたので、 巳むを得す こんな短 い物を載せることにな. ︵ T J 生︶. つた。次琥 には大 いに奮嚢し て澤山載 せる こと にしよう。. 6 . 書. いに面白き つも りなり。且純文藝物と しても立派な債. の大家 な るアメリカのポ オ の翻詳故先 の方 へ行けば大. これ は創作にはあらず、されど探偵並び に怪談小論. ば、も つと かいても ょろし。. から兎 に角 おく ります。来 月 一日頃まで待 つて下され. 電報 ならびに御手紙弄見、今 日此れだけ出来 ました. 。。。。。 。。。 原 稿 に添 へて︶ ○ 谷 崎 潤 一購 氏 よ り 通 信 ︵. は長 尾 優 で、共 に 一匡 社 社 員 。. 匡 一郎 と名 付け られ た。︽笹 沼︾は笹 沼 源之 助 、︽長 尾︾. 前 出 。︽慶 事︾ と は出 産 の事 で、 六月 二三 日男 児誕 生、. 大 正 七年 六月 二六日付 け と 推 定 さ れ る。大 村 正夫 は. 信 ﹂欄. ﹁社 会 及国 家﹂ 大 正 七年 七 月 号 ︵五七 号︶ ﹁社 報 及通. 簡.
(9) 江. 光 細. (59). 一、 七 二、 七 三号︶. 本 文 は長 いので省 略 す る。. 値 あ るも の に候 、 全 部 詳 し た上 で軍行 本 にし て出版 す る つも り です 、今 度 は急 いだ ので詳 し方甚 だ 不満 足 な. 様 々な特 徴 から判断 し て、 久 米 正雄 訳 短 編 集 ﹃ク レ. の英 訳 をも時 に参 照 し つ つ、 若 干 の加筆 を行 ったも の. vと ハア ン フラ ンス語 版 RF”マ♂二①>ヨo匡︼ で、 ①暉∽ ①ν. から の 重 訳 を た たき 台 にし て、 恐 らく は 谷 崎 が 単 独. 芥 川 によ る ラ フカデ ィオ ・ハア ンの英 訳 ぃ ●︼ . 円︼ ヨo●計 ν. オ パ ト ラ の 一夜 ﹄ ︵ 大 三 o十 刊 ︶に収 録 さ れ た同作 品 の. が ら次 琥 よ り は完 全 なも のを出 す べ し。 二十 六 日夜 地 震 の時 刻 大 村 正 夫 様 谷 崎 寿 御 慶 事 はまだ にや伺 上候 笹 沼 長 尾雨 氏 へよ ろしく 。 7 . ﹃朝 鮮 雑 観 ﹄. が これ であ ると推 定 出 来 る。. 本 文 と初 出 と の異 同 は少 な い ので翻 刻 はしな いが 、 初. 大 正 八年 一月 号 ︵六 三号 ︶ であ る事が 判 明 した。 全 集. る事 が 挙 げ られ る。十 二巻 本 の岩 波 の新 版 芥 川 全集 で. るが 、 決 定 的 な証 拠 と し て は、 誤植 の 一致 す る例 のあ. 本 文 と芥 川 の訳文 と を 比 べ て み ただ け でも 明 ら か であ. まず 第 一に、芥 川 の訳文 が 下敷 き にな って いる事 は、. 大 正 八年 正月 七 日記 ︶と 執筆 時 が 明 一 出 末 尾 には、 ︵ 記. 示 す と、 第 一巻 七 四 ペ ージ九 行 日 にあ る ︽婚 約 を した. これ ま で 初 出 が 不明 であ ったが、 ﹁社会 及国 家 ﹂ の. さ れ て いる。. ア ン訳\フラ ンス語 原 文 ︶ の形 で示 す ︶ の、 同 七九 ペ. 悪 人︾ は ︽恋 人 ︵ 以 下 ︵ハ ”訥”R & ざく8\い”R C ︾ ︵. 8. テ オ フイ ー ル・ゴ ー チ エ原作 谷 崎潤 一郎. oく ージ十 三 行 日 に あ る ︽ヒー の牧 師 補 ︾ は ︽CI ︵. . は ︽螺 馬 ︵ ①︶し の、 曰く ol口 ︵ 日匡︼ ①< F 日︼ 8月 ︵ 日匡︼. 0キ草︶ ︾ の、 同 八 二ペ ージ十 一行 日 にあ る 人わ し の馬︾. 芥 川龍 之 介共 訳 ﹃ク ラリ モンド﹄ ﹁社 会 及国 家 ﹂ 大 正 八年 十 、 十 一、 九年 一月 号 ︵ 七.
(10) (60) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. ー ジ九 行 日 にあ る ︽ア ルゲ リ ト ー ン︾ は ︽マルゲ リ ト. へ 同 九 三 ペ ージ 十 四行 日 にあ る ︽ベ ルサ ガ ア ル︾は ︽゛ 多R鶴 2 の、 同 百 一ペ 争 駕 S t””︼ ”①︼ ルサザ ア ル ︵. し、 百 二ペ ージ にあ る ク ラ リ モ ンド の唇 の隅 に付 いた. 降 で は、 芥 川 の訳文 の脱 漏 や誤 訳 を訂 正 し た例が あ る. 語 原 文 にし かな い。 ま た第 三回掲 載 分 の九 七 ペ ージ以. 〓 鶴∞FS ︻ ーン ︵ ” ” o・C ︾ の誤植 であ る o●ヽ 〓 鶴∞F8︼. ハア 血 の滴 の 形 容 は、 芥 川 が ︽露 の滴 つた やう に︾、 ︶であ る のに対 し、 ゴ オ ︼ F① ” 選 ①鮮 o﹁お 蒸︶ ンが R︼. が 、 これ ら はす べ て芥 川 訳 にも 共 訳 にも あ る。 これ は 谷 崎 が 、 英 訳 や フ ラ ン ス語 原 文 に当 た って見ず に、 芥. エはダ ッシ ュを 全 く 使 って いな い のだ が 、 共 訳 の最 初. ア ンの訳が ダ ッシ ュを多 用 す る の に対 し て、ゴ オ テ ィ. ハ と フ ラ ンス語 原 文 を 参 照 し た形 跡 が あ る。 例 えば 、. ジ か ら最後 ま で の 八 ペ ージ に ついてだ け は、 ハア ン訳. 回掲 載 分 の最 初 の 六 ペ ージ と第 三 回掲 載 分 の九 七 ペ ー. な か った のかと 言 う と 、 そ れ はそ う で はなく て、 第 一. し か し、 そ れ な らば 谷 崎 は、 全 く 芥 川 の訳 文 し か見. し か った事が 分 か る のであ る。 な こ の共 訳 は、 か よう にお粗 末 な も ので、 誤 訳 や脱 漏. 崎 は冒 頭 と 末尾 を除 く 大部 分 で は、 英 訳す ら殆 ど参 照. や誤 訳 も 直 して いな い場 合 が 殆 ど であ る。 従 って、谷. し か施 し て いな い。 そ し て、 芥 川 の訳文 にあ った脱漏. し て︾ を ︽さ う して︾ と改 め る等 、 ほ ん の僅 かな修 正. ︾、 ︽そ ︾ を ︽︱ だ 。 で は、 ︽わ し︾ を ︽私︾、 ︽︱ ぢ や。. た って いる のであ る。 し か し、 共 訳 は、 そ の中 間部 分. テ ィ ェは ざo日日の C●① ﹃ OXミ 共 訳 は ︽薔 薇 の様 に︾ で、 フラ ンス語 原 文 を参 照 し た事 が 分 か る。 つま り、. の四 ペ ージま で は、 ダ ッシ ュを使 って いな い。 そ し て. も 少 なく な い。 し か し、 所 謂 フ ァム ・フ ァー タ ル、 吸. 川 の訳 をそ のま ま 使 った箇 所 があ る事 の動 か ぬ証 拠 で. そ れ 以 後 は ハア ンと ほぼ 一致 す る使 い方 を し て いる。. 血鬼 女 、 死 んだ女 性 など に自 ら も 深 い関 心 を抱 いて い. 共 訳 は、 冒 頭 と 末 尾 の数 ペ ージ で は、 確 か に原 文 に当. ま た共 訳 の四 ペ ー ジ にあ る ︽私 はそ れ ら の こと を 五 に. た谷 崎 は、 こ の作 品 に対 し て興 味 を抱 いた から こそ翻. あ る。. フラ ン ス 書 き 記 し たく はな い。 ︾ に対 応 す る 文 章 は、.
(11) 光 江 細. (61). ﹁社 会 及国 家 ﹂ が 仲 間 内 の 雑 誌 であ った から こそ、 こ. わ れ、嫌 気 も さ し て、い い加減 に片 付 け た のであ ろう 。. 学 力 の不足 から予 想 以 上 に手 間 取 った為 、時 間 にも 追. フ ラ ン ス語 の勉 強 を 兼 ね る つも り で始 め て見 た所 、 語. 訳 を試 み た に違 いな い のであ る。 恐 らく 谷崎 は、最 初. たと いう事 であ る。. 津 島 に、 ﹃ 羹 ﹄ の 橘 宗 一の モデ ルは 小 林 良 吉 だ と語 っ. 津 島 寿 一の ﹃谷 崎潤 一郎 君 の こと﹄ によれば 、 谷 崎 は. 往 ﹄ 執筆 に、 恐 らく協 力 し て いると 思 われ る。 ま た、. 村 出 身 な ので、 同村出 身 者 を 主人 公 と す る谷 崎 の ﹃紡. 関 係 し て いた事 に ついて は、田中 純 一郎 の﹃日本 映 画発. ︽小 野 法 順︾が ︽早 川 雪 洲 プ ロダ ク シ ヨン︾ の創 立 に. 7 の 第 3 巻後 記 に は、 な お、 没後 版 谷 崎 全 集 月 報 2 2. 達 史 ﹄ 第 七章 第 三 四節 に記 述 が あ り、 そ れ によれば 小. の様 な我 が ま まも 通 った のであ る。. ﹃ク ラ リ モ ンド﹄ は 芥 川 と の 共 訳 な ので 収 録 しな か っ. 野 は、 昭和 五年 、早 川 雪 洲 の友 人 の意 を受 け て阪 急 の. の ﹁質 屋 通 ひ﹂ にも出 て いる。. む か しば な し. き のふ久 しふりで東京 へ出 て来 て偕業園 へ泊 ま つた. 谷 崎 潤 一郎. 谷 崎 が階 段 から転げ 落 ち た話 は、 ﹃当 世鹿 も どき﹄. 小 林 一三ら に図 り、 宝 塚 映 画株 式 会 社 を設 立 す ると 共 に、 自 らそ の重 役 と東 亜 キネ マの重 役 を兼 ね たと 言 う。. た旨 が 記 さ れ て いる 。 9 。 ﹃む か し ば な し ﹄. ﹁社 会 及国 家 ﹂ 昭 和 七年 十 一月 号 ︵ 第 二百号紀 念 号︶ 久 し振 り に寄稿 し た経 緯 は、本 文中 にあ る通 り であ ろう 。 文 中 の ︽岸 巖 ︾ ︽笹 沼 ︵ 源之 助 し ︽額 田 ︵ 晋し ︽大 村 ︵ 正夫 炒 八遠 藤 始 郎︾ は、 いず れ も 一匡社 社員 日記 ﹄ に は実 名 で 登 場 し て いる。 ︽小林 良 吉︾ は、 君. と ころが、今度 一匡祗 から記念琥を出す に ついて何 か. であ る。︽山 田温︾ は 人山 田湿︾ の誤植 で、 ﹃ 嵐頻 老 人. 島 一郎 の ﹃柔寮 一番 室 ﹄ によれば 、 山形 県最 上郡古 口.
(12) (62) 谷崎潤 一 郎全集逸文紹介 2. 筒 一匡 祗 員 であ る か ら諸 君 も 御 承 知 の こと ゝ思 ふが 、. つた であ ら う 。 山塞 同 人 の 一人 であ る遠 藤 始 郎 は今 も. であ り、 私 の放 浪 時 代 であ つて、 多 分 大 正 一二年 頃 だ. つた。 つま り、 此 の岸 の山塞 時 代 が 一匡祗 の創 立時 代. ら、 わ れ ノヽ はそ の家 を ﹁山 塞 ﹂ と稗 へてゐ たも のだ. ろげ 込 ん でゐ て、 全 く 梁 山 伯 のやう な有 様 であ つた か. 温、 小 野 法 順 、 そ れ に私 など ゝ いふ連 中 が ご ろノヽ こ. の寺 嶋 あ た り に所 帯 を 持 つてゐ たが 、 遠 藤 始 郎 、 山 田. あ る。 そ の時 分 、岸 は ま だ 大 學 生 で、前 の細 君 と向 嶋. 祗 ﹂ と い ふ名 前 を つけ た のは岸 であ つた こと は確 か で. なぞ が 馳 せ参 じ た の であ つたと おも ふ。兎 に角 ﹁一匡. 劃 を最 初 に提 案 し た者 は額 田君 か大村 君 で、 そ れ へ岸. た感 慨 に耽 つた こと であ つたが 、 な ん でも 一匡祗 の計. 物 語 にあ の時 分 の こと を い ろノヽ 話 し合 つて老 人 め い. よく 知 つてゐ る。 ゆ う べも 笹 沼 と枕 を な ら べ なが ら寝. 一匡祗 と いふも のが 成 り 立 つに至 つた いき さ つだ け は. 一人 であ る岸 巌 と は営 時 非 常 に親密 にし てゐ た ので、. 祗 の祗 員 で はな いけ れ ど も 、 し か し 一匡祗 創 立委 員 の. 私 にも寄 稿 し ろと い ふ註 文 であ る。成 る程 、 私 は 一匡. のお父 さ ん の友 人 で青森 縣 政 界 の有 力 者 であ る某 氏 か. し た時 の こと であ る。此 の旅 行 の目 的 と いふ のは、 岸. 今 思 ひ出 しても 可笑 し い のは、 山 塞 時 代 の 一二年 前 に、 岸 と私 と 二人 で岸 の故 郷 青 森 縣 鰺 ケ澤 地方 へ旅 行. な い。. の拙 宅 へ訪 ねて来 たき り、 近 頃 は叉杏 と し て音 沙 汰 が. ダ ク シ ヨ ンの創 立 に関係 し てゐ たが 、 そ の頃 一度 岡 本. 後 藤 新不 伯 の秘 書 と な り、後 藤 伯 死後 は早 川 雪 洲 プ ロ. 縁 故 を辿 つて山塞 へころげ 込 んだ の であ る。彼 は後 に. 云 つて殻 蠣 町あ た り へ出 波 し た場 句 の果 て に、 私 と の. 一時 は相 場 師 にな る のだ と はれ て東 京 へ逃げ て来 て、. が ﹁尼 信 ﹂ と い ふ小 読 の モデ ルに使 つた ゝめ に山 を 逐. 要 職 を占 め、華 頂 山塔 頭 の住 職 であ つたが 、 長 田幹彦. と 浮 上 宗 の信侶 で知恩院内 局 の外 交 部 長 と いふやう な. 清 息 は誰 にも よく分 つてゐ な いら し い。 小 野法 順 はも. 病 か何 か で隔 巻 に窮 死 し たさ う であ るが 、 そ の時 分 の. て政 治 科 を出 て から大阪 市役 所 の役 人 にな り、後 に肺. 一 晋家 で、 小 唄 の節 廻 しなど 上 手 な も の であ つた。 そ し. 山 田温 と いふ男 は、 岡山縣 人 で、 道 業 者 で、中 々 の美.
(13) 光 江 細. (63). な つた最 初 の 一と揃 ひな の であ る。私 は此 奴 を取 られ. 下 着 、角 帯 、長 襦袢 等 で、何 し ろ私 が絹物 を着 るやう に. た。 そ の衣類 と いふ のが 、 大 島 の物織、 好貴 織 の袷 と. 貰 つた 一張 羅 の晴 着 を質 入 れ し ようと いふ こと にな つ. であ る。 そ こで よ んど こ ろな く 、 私が偕 柴 園 夫 人 から. さ て出 嚢 と いふ時 にな つて汽 車 賃 の正面 が 出来 な いの. 一部 を岸 の用 途 に充 て よ う と いふ のであ つたが 、 て、. ら 金 を 借 り て、 一部 を 雑 誌 ﹁新 思 潮 ﹂ の 経 螢 費 に 充. ﹁ 傷 は構 はな いが 、質 の値 が 下 つち やあ 大 憂 だ か らね ﹂. 方 を拭 か な い で、一生 懸命 に着 物 の方 を拭 く のであ る。. ら 血が た ら た らと 着 物 の上 へ滴 れ る のを見 て、傷 口の. と 、員 つ先 に岸 が 駈 け着 け て来 た のは い ゝが 、 傷 口か. 途 から 轄げ 落 ち て、 イ ヤと いふ程 眼 のふ ち を裂 いた。. か ら 溜 ま ら な い。 忽 ち 私 は 裾 を引 つかけ て、 段 の中. かけ草 履 か何 か で、 小 意 氣 に梯 子 段 を 下 り よう と した. い着 物 をぞ ろ りと着 流 し て、 懐 ろ手 を し た ま ゝ、突 ツ. 此 の話 は営 時笹 沼 に は内證 にし て お いた ま ゝ つい志. と 、 さ う いひなが ら滴 れ る傍 から着 物 ば か り を拭 く の. れ てゐ た のであ つたが 、 ゆ う べ始 め て披 露 を し て、偕. て しま ふと 、 晴着 にも 不 断着 にも 外 に着 るも のが な い. りも制 服 を着 て行 けば い いと いふ のであ る。 そ の制 服. 柴 園 の 家 族 一同 大 笑 ひを した こと であ つた。 ︵ 昭和 七. であ る。. も 私 は持 つてゐ な いので、 そ れ も 亦誰 か のを借 り ると. のであ つたが 、 旅 行 中 はそ んな ぞ べらノヽ し たも のよ. いふ こと にな つた。 で、 た し か小 林良吉 の泊 ま つてゐ. 年 十月 記 ︶. 紹 介 す る。. 次 に ﹁社 会 及国 家 ﹂ 以外 の場所 に掲 載 さ れ たも のを. た下宿 屋 の 一室 だ つたと 思 ふが 、 岸、 小林 、 遠 藤 など ゝ 一緒 に、 私 は数 時 間後 に は質 屋 の蔵 へ収 ま るべき そ のりゆ う と し た衣類 を着 て、 酒 を 飲 みなが ら今 云 つた や う な相 談 を し てゐ る最 中 に、 ふと便 所 へ行 き たく な つた ので、 と ん、 と ん、 と んと 、 三階 を駈 け 下 り たも のだ つた。 そ れが 酢 つて ゐ た上 に、着 馴 れ な い丈 の長.
(14) 1 。 ﹃手 紙 ﹄. が 氣 に か ゝり なが ら い つも の筆 不精 に て御 無 沙 汰 し て ゐ てす みま せ ん. 君 が 酒 を 飲 み過 ぎ て翌 を こわ し たと 云 ふ話 を 誰 か か. の頃 努 め て酒 を節 し てゐ ます. らき いてゐま した 何卒 催 を氣 を つけ てく れ たま へ. 三年 のも ので、 ︽新 聞 の夕刊 ︾ は、 ﹁大 阪 毎 日新 聞 ﹂ と. 僕 を た よ り にす るな と 云 ふ こと を い つま でも 忘 れず. 昭 和 五年 五月 ︶ 鴇 田英 太 郎 供 養 ﹂ ︵ ﹁歌 と 歌 ﹂ 創 刊 号 ﹁. 昭和 三年 十 二 ﹁東 京 日 日新 聞 ﹂ の夕 刊 に 丁度 こ の日 ︵. に守 つてゐ てく れ る のはま こと にう れ し い いろ い. いく ら丈 夫 でも あ ま り乱 暴 す ると や ら れ る 僕 も 此. 月 四 日︶ か ら連 載 が 始 ま った ﹃蓼 喰 ふ虫 ﹄ を指 す も の. ろ苦 し い ことも あ る で せうが そ こは持 ち前 の勇 氣 を. こ の書 簡 は年 度 の記 載 を欠 いて いるが 、 恐 らく 昭 和. と 思 わ れ る。. 以 つて打 ち克 つてく れ たま へ そ の力 が 君 にあ ると. 思 へば こそ 僕 も あ ゝ云 へた のだ から. こ の書 簡 の中 に出 て来 る ︽僕 を た よ り にす るな︾ と いう 言 葉 は、 谷 崎 が 鴇 田英 太 郎 に繰 り返 し言 って いた. う に會 ひ た いも のだ. そ れ にし てもず ゐ ぶ ん久 しく會 はな いが 一度 ほ ん た. 昭 和 四年 十 月 刊 ︶ に寄 せた ﹁序 詞 ﹂ ﹃現 代 生 活 考 ﹄ ︵. 上 方 にや つて来 る機 會 はあ りま せ ん か 田中 線 一郎. も の で、 そ の事 は、 谷 崎 が 昭 和 四年 五月 、鴇 田 の著 書. に詳 し い。. 氏 と は ょく會 ふ のだ が. 此 の頃 新 聞 の夕刊 を書 き出 し た ので 誠 に忙 が し い. なが ら これ を書 き ま し た. 今 急 に君 のこと を思 ひ出 した のでね む い眼 を こす り 過 日 は手 紙 を あ りが たう. 御 目 に か ゝつた事 はな いが 何卒 奥 様 にも よ ろ しく. 紙. 東 京 か ら若 い人 が来 る度 に対 の噂 は よく出 る のです. 手. (64) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2.
(15) 光 江 細. (65). で は いづ れ 叉 十 二月 四 日午 前 二時. 久 し い間會 はな か つたが 、 つい先達 十年 振 り で ひ よ つ. こり や つて来 た。 そ し て僕 の顔 を見 るな り ﹁た い へん. 歳 を取 りま し た なあ ﹂ と 云 つた。が 、 正 直 のと ころ、. 僕 も 君 を見 て矢 張 り同様 な感 に打 たれ た。 僕 は君 の 一. 谷 崎 潤 一郎 鴇 田粛. 種 不敵 な精 憚 な意 氣 を買 つてゐ た のだ が 、 今 でも 何 虎. 昭 和 三年 十 二月. 谷 崎 潤 一郎. の賣 れ 行 き の好 況 であ る こと を所 つて己 ま な い。. た。僕 は諸 国君 の芝 居 が営 つてゐ る やう に此 の脚 本 集. 依 然 と し て営 年 の意 氣 盛 んな る君 であ る のが 嬉 し か つ. に人 氣 を呼 ん でゐ ると 云 ふ。そ んな話 をす る時 の君 は. れ ら の作 品 は、諸 口君 の舞 墓 上 の手 腕 と相 侯 つて大 い. 君 のた め に多 く の喜 劇 を書 き 卸 したと 云 ふ。そ し てそ. 聞 け ば 此 の数 年 末 諸 国十 九 君と 一緒 に仕 事 を し、 同. き が 出 来 てゐ る のは、歳 は争 はれ な いも のだ と思 つた。. か青 の悌 はあ り なが ら、 さす が に苦 努 人 じ み た落 ち着. 侍史 2 . ﹃は し が き ﹄. 門脇 陽 一郎 著 ﹃お坊 ち ゃん﹄ ︵ 昭和 四年 一月 万 里 閣 書 房 ︶ に掲 載 さ れ たも ので、 松 本克 平 氏 が ﹃私 の古 本 大 学 ﹄ の中 で言 及 さ れ て いる。. はしがき. 僕 は 此 の 本 の 作 者 と は ず ゐ ぶ ん 古 い 知 り合 ひ であ る。 上 山草 人 が ま だ 東 京 の新 橋 にゐ た頃 あ す こ へしき り に出 入 り を し た のが 交 済 の始 ま り であ る から、 た し か大 正 六七年 の時 分 かと 思 ふ。そ の後 君が 村 田榮 子 嬢 と 夫 婦 別 れ を し たと 云 ふ噂 を風 の便 り に聞 いただ け で.
(16) (66ヽ 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. 3 。 ﹃選 者 の 一人 と し て ﹄. 年 六月 の ﹁婦 人 公論 ﹂ に掲 載 さ れ た奈 良 ふみ子 の ﹃谷. 先 生 の女 の好 み は、 崎 潤 一郎 氏 と ペ ルシヤ猫 ﹄ でも 、 ﹁. 日本 趣 味 です か、 そ れ と も モダ ンです か﹂ と いう 問 い. ﹂ と 答 え て いる。 所 詮 谷 崎 の趣 味 は、 支 那 趣 味 る よ。. 一方 に限 ると 、 不便 にな に対 し て ﹁ど ち らも い ゝな 。. ﹁婦 人 公論 ﹂ で は、 昭 和 四年 七 月 号 で、 谷崎 潤 一郎. 谷崎 趣 と も 西 洋趣 味 と も 日本趣 味 と も 片付 かな い、 ″. ﹁婦 人 公論 ﹂ 昭 和 五年 一月 号 な ど 十 人 を選 者 と す る美 人 コンテ ストを 企 画 し、広 く. な お、 本 文 は、 宮 内淳 子 氏 の ﹃﹁蓼 喰 ふ虫 ﹂ の頃 ︱. 味 ″ と でも呼 ぶ他 な いも のな のであ ろう。. か ら も 分 か る よう に、 写 真 のみ に よ る選 考 であ った。. ﹁ r” ﹁①ヨヨこ の消 失 ︱ ﹄ 3 日本 文 学 ﹂ 昭 和 六十 二年. 読 者 に美 人 の写 真 を募 集 し た。後 出 ﹃審 査 員 の言葉 ﹄. 一位 当 選 者 に ついて の七 人 の選 者 の選後 こ の文 章 は、. 六月 号︶ に 一部 引 用 され て いる。. か祝 辞 を呈 し て いる中 で、 ただ 一人 猛 然 と 反対 論 を展. を書 かな か った︶ が 、 概 ね古 風 な 日本 女 性 と し て賛 辞. 此 の営 選 者 の篤 員 は這 入 つてゐ な か つた筈 だ 。 かう 云. 僕 も 選 者 の 一人 であ るが 、 し かし僕 の選 んだ中 に は. 谷 崎 潤 一郎. 選 者 の 一人 と し て. 評 の 内 の 一つと し て 掲 載 さ れ たも の で あ る。 他 の 選 者 、 即 ち菊 池 寛 o有 島 生 馬 o坪内 士 行 o岡 田道 一 ・鶴. 一 開 し て いる所 に、 谷 崎 の個 性 が 歴 然 と 現 れ て いる。. ふ タイプ は甚 だ 僕 の標 準 に合 はな い。積 極 的 にイ ケ ナ. 見 祐 輔 ・石井 漠 ︵ 藤 原 義 江 ・早 川 雪 洲 ・片 岡鉄 兵 は評. 般 に、 谷崎 は こ の時 期 、 日本 回帰 し つ つあ ったと さ れ. 此 の顔 に は近 代 的 な生 き 生 き と し た所 も な け れ ば 、. イ。 そ の不服 の鮎 を 云 は し て貰 はう。. も っと も 何 を 味 は、 決 し て所 謂 純 日本 趣 味 で はな い ︵. 昔 風 のお つと り と し た所 も な い。東 京 風 のキビ キビ し. て いるが 、 こ の文章 を 見 ても 明 ら か な様 に、 谷崎 の趣. 以 て 日本 趣 味 と す る か は甚 だ 曖 味 であ るが ︶。 昭 和 四.
(17) 光 江 細. (67). 成 が あ つても い いだ ら う と思 つて、遠慮 のな いと ころ. 詠草 ﹄ 庵一. た感 じ 、 京 阪 美 人 の豊 艶 さ 、 そ の執方 も 鋏 け てゐ る。. 。 ﹃椅 松. を云 ふ こと にし た。. 4. 就 中 最 も 問 題 な のは鼻 だ 。此 の鼻 は恐 ら く 、中 途 で ち よ つと鼻 梁 骨 が 飛 び 出 て、 や ゝ鷲 鼻 にな つてゐ るだ ら う 。 華 族 の令 嬢 など の鼻 によく あ る型 で、 昔 は かう 云 ふ のが 貴 族 的 な上 品 な鼻 のやう に思 はれ てゐ た ら し. はむ し ろ短 かく 反 封 に中 凹 み に反 つてゐ るも の、 印 ち. 長 い のや中 高 な のは几 そ 近 代 的 の感 じ に最 も 遠 い。鼻. ﹁ 南 紀 芸 術 ﹂ 昭 和 八年 十 月 号 ﹃扉﹄ にも 掲 載 さ れ て い. おと に添 へてす ゝしき 槙 の下 風 於高 野 山 ﹄ 一首 は、. 若 干 の異 同 が あ る。 ま た ﹃朝 な夕 な ひ ゝく 六時 の鍾 の. ﹃谷 崎 潤 一郎 家 集 ﹄ に収 録 され て いるも のも あ るが 、. ﹁スバ ル﹂ 昭 和 七年 三月 号. 獅 子 ツ鼻 の方 が 営 世 であ る。猫 でも鼻 の長 い のは珍 重. ス リ。. いが 、 西 洋 で は猶 太 人 の鼻 であ る。兎 に角 、 鼻 の形 の. さ れ な いが 、 人 間 の女 でも 同 じ ことだ、 そ の證 像 には. 詞書 の中 にあ る ︽西南 院︾は高 野山 にあ る別 院 。︽鈴. ア メリ カ のキネ マ ・スタ ア の鼻 を見 るが い い。 此 の篤 員 のや う な鼻 を持 つてゐ る女優 は 一人 も な い。. 初 めから九 月初 め ま で ︽西南 院︾に滞在 し て いた事 は、. 木 ベ ア トリ ス女 史︾ は鈴 木 大拙 夫 人 で、 昭 和 六年 七 月. 證 格 も 鼻 の感 じ と 同 じ や う に骨張 つてゐ て魅 力 が な い。. 谷崎 丁未 子 の ﹃高 野 山 の生活 ﹄ 翁改造﹂ 昭 六 ・十 二︶. 刊 ﹃相 聞 居 随筆 ﹄ 所 収 ︶ の中 に引 用 され て いる。. 居随筆 ﹂ 中 ﹁谷 崎 君 の歌 ﹂ ︵ 昭和 十 七年 五月 甲 鳥 書 林. な お、 これ ら の歌 と 詞書 の多 く は、吉 井 勇 の ﹁相 聞. にも出 て いる。. 皮 膚 は、 富 員 で は分 ら な いが 、多 分 洩 黒 い人 だ と思 ふ。 か う 云 ふ顔 で色 の白 い人 は め つた にな い。但 し黒 いと 云 ふ こと は必ず しも 鋏 難 で はな いが 。 以 上 の理由 で、 僕 は 不賛 成 であ る。 僕 の想 像 に間 違 つたと こ ろが あ つた ら詫 ま る。 し かし 一人 ぐ ら ゐ 不賛.
(18) (68) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. 椅松庵詠草 谷 崎 潤 一郎. 西南院 にて鈴木 ベアトリ ス女史 に揮豪を 求 められければ. 朝 な 夕 な ひび く 六時 の鐘 の お と にそ へてす ず しき 槙 の. 本年 二月 五日撮津 の國魚崎 に居 を卜す、 隣家 は友人根津. ド風. ただ ひと り今 日ぞ 越 路 の足 羽 川 明 日を さ だ め ぬ旅 のそ. 昭和五年九月、前妻と別れて北陸にあそぶ. ら哉. に かあ る ら ん. う つり来 てと と せ に な り ぬ灘 波 津 の何 に ひ か る る わ れ. り つる如き心地す る こと賞 に我ながらあやしき限りなり. に暇り の庵を結 びたるに、 なんとはなしにふるさと に婦. もなほ山青く水清き撮陽 の地を捨 てかねてふたたび 此虎. は友人 の別業 を頼 り て随所 に暫く の生計を螢む、 かく て. 官市外 に、定 まれる宿もなく て或 は寺 の宿坊を借り、 或. 五六たびを下らず、去年 の夏 よりは紀州 に、 河内 に、西. てより早 や十年 にもなり ぬ、 そ のあ ひだ家 を憂 ふる こと. え、西に住吉 川 の堤 の松 を望む、 思 へばわれ開西に移り. 三階 の窓 より住 み馴れし岡本 の山影も見 氏 の新邸なり、. 十月下旬吉野 にあり み よ し の の吉 野 の川 の川 上 に妹背 の山 はあ り と 知 らす な 上 市 は秋 の日晴 れ て軒 並 の障 子 の紙 の具 白 な る町 昭和六年夏新妻と共 に高野山にあり、 新妻雷を恐るるこ と甚し 南 無 大 師 遍 照金 剛 おそ ろ し や高 野 のや ま の夜 の いかづ ち.
(19) 光 江 細. (69). つ のく に の住 吉 川 のき し に生 ふ る 松 の木 かげ を た の み. 主義 以来 の青臭 い文 学 青 年 趣 味 の、 狭 い文 壇 内 文 学 で. 文 学 ﹂ には 二 つの側 面 が あ る よう であ る。 即 ち、自 然. 新 聞 小 読 を 書 い た経 験. 谷 崎 潤 一郎. 色 彩 が強 ま って行 った事 に は、 注意 す べき であ ろう 。. い﹂や ﹁ 疲 労﹂を感 じ始 め て いた谷 崎 の文 学 に、後 者 の. 学 の 一貫 し た特 徴 で はあ るが 、関 西移 住後 、特 に ﹁老. 談 り と いう 二 つの側 面 であ る。 これ ら は、共 に谷 崎 文. コバ の労 苦 を 忘 れ さ せ︾ 今 心 の故 郷 を 見 出 す文学 0 ︵. はな い、 面 白 い国 民 的 な文 学 と いう 意 味 と、 ︽俗 世 間. てぞ す む さ だ め な き 身 はす み よ し の川 の邊 に憂 ら ぬ ま つ の い ろ を た のま ん 我 が 庵 はす み よ し 川 の岸 邊 な る つ つみ の松 の つゆ しげ き も と. 住 み わび し身 にしあ れ ど も 住 よ し のま つの木 かげ は住 み よ か りけ り. 5 。 ﹃新 聞 小 読 を 書 い た 経 験 ﹄. 新聞小論を書くと いふこと は、私 のやうな遅筆家 に. や ﹃直木君 の歴史小説 に ついて﹄ 翁文芸春秋﹂昭 八 o. べて いるが、同時期 の ﹁云談﹄翁改造﹂昭 八 o三︱ 四︶. ︾ に ついて述 大人 の讀む文學﹂ この中 で谷崎 は、︽﹁. ともあ るが、創作 ならば先づ 四枚 であ る、最後 の十枚. 私 はまる 一日を費 して、随筆 ならば 七、 八枚書け るこ. 書けさうなも のだが、それが私 には容易 でな い。普通. 稿用紙 で四枚乃 至 五枚 であ るから 一、 二時間もあれば. 一回 の分量が 四百字詰 の原 はなかノヽ の仕事 であ る。. 十 一︱九 。一︶ でも同様 の発言をしている事 は注目 に. 一氣 に徹夜 して書き上げ る場 十 五枚ぐらゐ にな ると、. ﹁ 大阪朝 日新 聞﹂昭和 八年 二月九 日 ・十日 ・十 一日. 値す る。 それら の文章 に 徴 してみると、 ﹁大人 の読む.
(20) (70) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. 休 みが あ つた か ら、 そ れ でも ほ つと息 を つく 暇 はあ つ. と いふ こと にな る。昔 は朝 刊 の績 き 物 でも 週 に 一回 は. し て、 朝 か ら 晩 ま でそ れ に没 頭 し なけ れば な ら な い、. ら、 そ の二月 な り 四月 な り の間 、 私 は全 然 書 齋 に籠 居. 論 は短 く ても 二月 や 四月 は 連 載 さ れ る も ので あ る か. 振 り向 け る ま で に 一日ぐ ら ゐ 暇 が か ゝる。 で、新 聞 小. 氣 にな れず 、 張 ひ て書 かさ れ ゝば 再 び 頭 を前 の仕 事 に. しも働 か な い。 二三枚 の感 想 文 でも 手紙 一本 でも 書 く. 或 る仕 事 に か ゝ つてゐ ると 、 そ の間 は外 の事 に頭 が 少. な のであ る。 お ま け に私 は、 随 筆 にせよ創 作 に せ よ、. うが︱ ︱ いや、 自 分 でも 呆 れ てゐ る のだが 、 全 く 事 賞. た 四枚 し か書 け な い のだ か ら、 人 は不思 議 に思 ふだ ら. ち、 ち よ つと の外 出 も せず 、 終 日机 に向 つてゐ て た つ. 杯 であ る。 起 き ると から 寝 る ま で、 一切 の 訪 客 を紹. 筆 にな り つ ゝあ る ので、 不 均 四枚 と いふと こ ろが 精 一. 等 の文 房 具 や身 邊 の器 物 の吟 味 が や かま しく 、 一層 遅. になく 、 殊 に近 年 は書 齋 の探 光 、 温度 、 そ の他 紙 筆 硯. も 油が 乗 つて来 て 六枚 七 枚 、 だ が そ んな こと は め つた. 合 も な い で はな いが 、 最 初 の進 行 は 日 に 一、 二枚 、 最. ら、 責 め塞 ぎ に いや いや筆 を執 る、︱︱ さ う な ると、. と 知 り なが ら、 作 者 自 身 ﹁困 つた困 つた﹂ と思 ひなが. つか ぬ成 り行き を辿 る。 ど う せも う これ は失 敗 の作 だ. ぢ れ て行 き 、書 けば 書 く 程 最 初 のプ ラ ンと は似 ても似. かな い。 そ の 一回 の氣 紛 れ が 原 で筋 が 思 は ぬ方 向 へこ. が 憂 な 工合 に外 れ た時 な ど 、 も う組 封 に取 り返 しが つ. 不出 来 で済 めば い ゝけ れ ど も、筆 の勢 ひ で事 件 の嚢 展. と思 ひなが ら渡 し て し ま ふ。 そ れが 、 そ の 一回だ け の. 現 はれ る。 だ から書 き 直 す 暇 が な い。 みす ノヽ 拙 いな. 回 一回持 つて行 かれ て、 そ れが そ の日そ の日 の紙 上 へ. も 直 き にギ リノヽ ま で追 ひ着 かれ て、書 いた傍 から 一. はそ んな詳 に 行 か な い。 初 め に餘 裕 を作 つてお いて. で、 讀 み返 した り書 き 直 し た りす る暇 が あ るが 、新 聞. の 場 合 だ と、 大概 は全 部 腕 稿 し て から 掲 載 され る の. 何 よ り困 る のは書 き 直 しが 出来 な いこと であ る。 雑 誌. な い。 そ れも仕 事 のた めだ から まあ辛 抱 す ると し て、. 大 支 障 を 生ず る始 末 で、 お ちノヽ 酒 を 飲 む ことも 出来. き 出 し たが最後 、 二、 三時 間客 に居 据 わ られ ても 忽 ち. た のだ が 、 近ご ろ のや う に 一日も休 ま な いのでは、 書.
(21) 江. 光 細. (71). 仕事 に何 の楽 しみもな いから、 いよいよ速力が鈍くな る。小論家稼業も つくハヽ 辛 いと思 ふのはさう いふ時. 遅筆 家 でなけ れば 書 け な い長 所 が あ るが 、 私 は武者 小. の三君 が 速 い。志 賀 君 の文 章 は非 常 に コクが あ つて、. で は、志 賀 粛、久保 田君 が 遅 く、武 者 小 路、里見 、佐藤. であ る。︵つゞく︶. 路 君 の、 頭 に浮 かぶ こと を ど んど ん筆 にし て行 くと い. つた風 な、 飾 り氣 のな い、 素 朴 な、 性 急 な書 き方 にも. 金色夜 る理由 はな い。 紅葉山人 は有名 な 遅筆家 で、﹁. ふ證嫁 にはならな いし、従 つて遅筆 を見えや自慢 にす. ら遅筆 の故 に凝 り性だと か、特別 の苦心を排 ふと か い. が、速筆家 にも遅筆家 に員似 られ な い味があ る。だ か. な のであ る。 遅筆 家 には 遅筆家特有 の 持 ち 味があ る. 遅筆家と いふも のは、巧くも拙 くも速く は書けな い人. 遅くなる、と いふやうな人もな いではな いが、概 して. 速く書けば書 け るけれども、 入念 に仕事をす る ので. と か いふけれど も 、 私 な んぞ に は、 通 俗 物 な ら通俗 物. 通俗物 な らば ﹂と か、﹁程 度 を下げ て書 けば ﹂ てゐ る。 ﹁. 白井 君等 、現代 の大 衆 作 家 諸 君 の筆 の速 い のにも驚 い. たと す れば驚 嘆 に値 す る。 私 は叉、 直 木 君 、 大佛 君、. ラ マゾ フ兄弟 ﹂ や ﹁罪 と 罰 ﹂ が そ んな風 にし て書 かれ. 容 詞 が 一ペ ージ の間 に幾 つも 使 つてあ ると いふが ﹁カ. フ スキ イ は金が ほ しさ に大 急 ぎ で書 いた ので、 同 じ形. たと ころ勝 負 で、 淡 々た る瓢 逸味 が あ る。 ド ストイ エ. 筆 家 の名 文 だ。 コク はな い代 り に、 や り つ放 し で、 出. 新 聞 小 論 を 書 い た経 験 公 し. 妙 味 を感 ず る。 ﹁口で話 す 通 り に書 く﹂と いふ佐 藤 の文. 叉﹂を連載 してゐ る ころしば ノヽ 新聞を休む ので讀賣. のやう に手間が か ゝる ので、 そ のた め に速 く書 け ると. 章 な ど 、 志賀 君 のを 遅筆 家 の名 文 と す れば 、 あ れ は速. や 二六は困 つたと いふが、露件、鏡花等 の諸家 は相営. 谷 崎 潤 一郎. に速 いやう であ る。漱石も、午前中 に新聞 の 一回分 を. いふ詳 に は行 かな い。 も しも 私 が あ の人 達 と同 じ速 さ り た み で物 を計 くと し たら、支 離 だ 翌 、 輝 度 見 る に堪 へざ る. 書 いたと いふから遅 い方 ではな い。われら の友人仲間.
(22) (72) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. こと は殆 ど 生 理 的 に不 可能 であ る。. 白 く 讀 ま せてゐ る。 私 のや う な 遅筆 家 に は、 あ ゝいふ. 一年 中 打 つ通 し にそ れ を績 け て、 し かも相営 に面 て、. が ま る 一日か ゝる仕 事 を 三 つも 四 つも 同 時 に引 き 受 け. も のが 出 来 る であ ら う 。考 へて見 る と あ の人 達 は、 私. る。 そ れ と も う 一つ、 新 進 作 家 時 代 には、 三百 枚、 四. の讀 む 文 學 ﹂ を書 く のに適 す る やう な氣 が し た のであ. た。 あ ゝ いふ例が あ るも のだ か ら、 新 聞 の方 が ﹁大人. 壇 で は敬 遠 され なが ら、 新 聞 に よ つて あ の 大 を 成 し. い、 活祗 會 の知 識階 級が 相 手 であ る。漱 石 氏 なども文. 百 枚 と いふ長篇 は、な かノヽ 雑 誌 へは載 せ てく れ な い。. で、 野 心的 な大作 をす る場 合 に は、 新 聞 の舞 台 を借 り. る よ り道 が な い。そ れ や これ や で引 き受 け る ので、 だ. の創 作 欄 の讀 者 は主 に文 學 青 年 であ る の に反 し、 新 聞. 来 た ので、 あ な が ちさ う は思 はな いが 、 一證 に、 雑 誌. が 好 き だ つた か ら であ る。今 日 で は大 分 事情 が 違 つて. う な ハメにな る。そ れ と いふ のが 、私 は新 聞 へ書 く こと. ツカ リ承 知 を し て、 書 き 出 し て か ら後 悔 す ると いふや. け る ことが無 理 な のだ が 、 そ のく せ頼 ま れば い つも ウ. さ う いふ私 であ る から し て、 元来 新 聞 小 論 を引 き 受. そ の見 営 は はく はず だ け れ ど も 、 これ と ても 決 し て ア. は組 み立 て ヽあ る ので、 ど んな も のが 出 来 上 る か大几. いてゐ る作 者 は 一人 も な い。 尤 も豫 じ め大 翌 の筋 だけ. ば 出来 な い こと で、今 日新 聞 小 論 を そ んな 風 にし て書. のが 理想 的 であ るが 、 そ れ は時 間 と金 に餘 裕 が なけ れ. で書 き 上げ て、 十分 に推 敲 し て、 然 る後 新 聞祗 へ渡 す. て しま ふ の であ る。勿 論 三百 枚 四百 枚 のも のを最後 ま. 遅筆 のた め に長 い間 の辛 抱 が 績 かず 、 途中 で投げ 出 し. 新 聞 小 説 を 書 いた経 験 T じ. は讀 者 層 が廣 いか ら、 ど う いふ所 に隠 れ た理解者 が ゐ. 前 にも いふ通 り、小 論 中 の事 件 の嚢 展 は テ にな ら な い。. から最 初 は非常 な意 氣 込 み で書 き 出 す のだ が 、多 く は. 一方 は狭 い文 壇 の ニキビ青年 ど も な いと も 限 ら な い。. 賞 世 間 の事 件 と 同 じく、 原稿 へ書 き 現 はし た時 に始 め. 谷 崎 潤 一郎. が 相手、 一方 は ロセノヽ し た文 學 理論 など に捉 はれ な.
(23) し て作 者 の意国 に外 れ た方 へ伸 び て行 かれ ると、 も う. と 、 と んと ん拍 子 に筆 が 運 ん で行 くけ れども 、 不幸 に. な る。 そ れ で、 事 件 が 作 者 の思 ふ壷 へ籍 ま つてぐ れ る. 出 来 ず 、 却 つて作 者 が そ れ に引 き 櫂 られ て行 く やう に. る ので、 作 者 の力 を 以 て し ても そ の進行 を遮 る こと が. 語 の筋 は、 物 語 自 身 の勢 ひ で自 然 に 一つの方 向 を たど. つてゐ な い のであ る。従 つて、 回 を追 う て褒 展 す る物. 下 す ま で は作 者 にも ど んな 人 間 が 出来 るか は つき り分. て決 定 す る のであ つて、登 場 人物 の風貌 性格 等 も、筆 を. 者 の罪 で はな いのであ る。. る以 上 、 さ う いふ廻 り合 せ にな つて しま つた ので、作. 一つは名 誉 回復 か が 、 そ し て い つか機 會 が あ つた ら、 た ハヽ 不義 理 の補 ひを し た い のだ が 、 これ も 水物 であ. 日新 聞祗 にはお氣 の毒 で、 済 ま な いと 思 つてゐ る のだ. も彼 と も だ ら し のな いも のば か り であ る。 ま こと に朝. 介 にな つてゐ る詳 だが 一つも ロクな作 品 はなく 、 何 と. そ れ から ﹁ 肉 塊﹂、 ﹁黒白 ﹂、 ﹁乱 菊 物 語 ﹂等 、 随 分 御厄. 、 な つた かも 知 れ な い。 そ の他 は、 古 く は ﹁ 鬼 の面 ﹂. ま つた ので、新 聞紙 上 へ績 け てゐ た ら尻切 れ と んぼ に. も のか朝 日 へ載 せ た小 論 は こと ハヽ く失 敗 し てゐ る。. 東 日 へ書 いたも の は割 合 に成 功 し てゐ るが 、 ど う いふ. 蓼 喰 ふ轟 ﹂ 等 大 毎 を振 り返 ると、 ﹁羹 ﹂ ﹁白 書鬼 語 ﹂ ﹁. 者 自 身 も 思 ひも 寄 ら ぬ不面 目 を招 く。私 の過 去 の成 績. 営 ら な か つた ら、 新 聞正 にも讀 者 にも迷 惑 を かけ 、 作. 物 だ と いふ こと にな る。たま たま営 つた時 には い いが 、. こと はな か つたが 、 あ あ いふ條 件 はさ うさ う望 めな い. 挿 檜 を書 いてくれ た ので、 あ んな に楡 快 に仕 事 を した. つく り筆 を執 る ことが 出 来 、 お まけ に小 出 君 が 立 派 な. 多 か つた せゐ か、幾 日 でも 休 み放 題 休 ま せ てく れ てゆ. る。 ﹁蓼 喰 ふ轟 ﹂ を書 いた時 は政 治 季節 で報 道 記 事が. も書 いてみた いと思 ふ。 た ゞ問 題 はそ の ﹁時 間 ﹂ であ. 書 いて み た い氣 は大 いにあ る。 時 代 物 、 現 代 物 、執方. 私 は、 時 間 の餘 裕 さ へあ つた ら、 今 でも新 聞 小 読 を. 投 げ て しま ふ よ り仕 方 が な い。 餘 人 は知 らず 、 私 の経. ﹁痴 人 の愛 ﹂ だ け は通 俗 物 と し て好評 であ つたが 、 あ. と す ると、今後 は少 く も 三分 の 二以 上 腕稿 し て から で. つま り新 聞 小 諭ば かり は 一種 の水 験 で はさ う な の で、. れ も 中 途 から雑 誌 へ載 せた から 兎 も角 も あ れ だ け に纏. 江. 光 細. (73).
(24) (74) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. そ 書 く の に張 り合 ひが あ るけ れ ど も 、 牛 年 も 一年 も書. 一方 か ら いふと、 書 く も のが 日 に日 に活 字 にな れば こ. な け れ ば 、新 聞 へ書 き 出 す こと は危 険 であ る。 し か し. 見 て貰 ってO Kを取 って掲 載 し たも のであ る。. の仕 事 場 で談 話 を取 り、 文章 化 し、 後 で谷崎 にグ ラを. に、 夙 川 の マン シ ョン、 パイ ンク レ スト にあ った谷崎. た山 口廣 一氏が 、鳴 治 郎 が 入院 し て ま だ 生き て いる間. の思 ひ出 ⋮ ⋮﹂ と いう副題 が 付 さ れ て お り、 ルビ等 に. し てみ ると 、﹁ 東京 日 日新 聞 ﹂ の方 に は、7 ⋮ o 鷹治 郎. 東 京 日 日新 聞 ﹂ 両 紙 の本 文 を比較 ﹁大 阪毎 日新聞 ﹂ ﹁. き 溜 め てゐ ると 、 そ のう ち に腐 つて来 る や う な 心配 も あ る の で、 結 局 新 聞 小 論 は遅筆 家 に は無 理 な仕 事 だ と. つ いでなが ら いふ、 人 は滑稽 に思 ふ であ らうが 、 随. 大 も小異があ るが、翻刻 は、右 のような事由に鑑 み、﹁. い ふ結 論 に復 へる の であ る。. 筆 と いふ にも営 ら な い こ の簡 軍 な 原稿 です ら、 私 は こ. 阪毎 日新聞﹂ の本文 によ った。. 私 は鷹治郎 の舞台をさう澤山見 てな い。東京 にゐた. わ るぐ ち懺 悔. れ を書 く た め に完 全 に 一日潰 し てゐ る の であ る。 ︵ 終︶ 談 話︶ 6 . ﹃わ る ぐ ち 懺 悔 ﹄ ︵. 前 日七 六歳 で死 去 し た初 代 中 村 鷹 治 郎 に ついて の談. ころならそれでも上京中 の鷹治郎 を時 々は見 にも出掛. 谷 崎 潤 一郎 ︻ 談︼. 話 であ る。 ︽悪 口を書 いた時 に 死 な れ て はど うも 寝 醒. け たが、大阪 へ移 つてからもう十幾年、そ の間殆ど見. ﹁大 阪 毎 日新 聞 ﹂ ﹁東 京 日 日新 聞 ﹂ 昭 和 十年 二月 二日. めが 悪 い︾ と いう所 に、 死 を恐 れ 、 死 者 の恨 み を恐 れ. 屋主税﹂あ たりがわづ かに記憶 にあ るぐらゐだ から、. てな いと いつても いゝ。 二三年前歌舞伎座 で見 た ﹁土. ﹃谷 崎 潤 一郎 文 庫 ﹄ ﹁月 報 H﹂ の ﹁特 集 座 談 会 ﹂ によ. いま鷹治郎 についての談話を求 められ ても語 るべき何. て いた谷 崎 の神 経 が 現 れ て いる。. る と 、 こ の文章 は、 当 時 ﹁大 阪 毎 日新 聞 ﹂ 学 芸 部 に い.
(25) 光 江 細. (75). 際 な ので、 こんな悪 口を書 いた時 に死 な れ て はど うも. る のだ が 、 時 たまノヽ 鷹 治 郎 の危 篤 が博 へられ てゐ た. 地 の悪 いと いふほど の悪 口でな いと自 分 で は思 つてゐ. つた意 味 の こと を書 いた こと の弁 明だ 。 これ は別 に意. れ る私 も 鷹 治 郎 だ け はど う し ても 好き にな れ な いと い. に鷹 治 郎 に筆 が 走 つて、 大 阪 のも のな ら大 抵 好き にな. 年の ﹁ 改 造 ﹂ の新年 琥 に載 せ た拙 稿 ﹁大 阪 の藝 人 ﹂中. だ が 、 た ゞこれ を機 會 に 一言 い つて おき た いのは今. 日中 座 の初 春 興 行 を見 たが延若 、 梅 玉、 魁 車 、 壽 三郎. ふ か 一種 の ﹁大 き さ﹂ を持 つてゐ た人 だ と は思 ふ。先. で は大 阪 の役 者 ら し い特 色 と 藝 の巧拙 を離 れ た何 と い. 面 白 さ など 全 然 知 らず にす んだが 、 と に かく 舞 台 の上. は何 ら知 る よ しも な い。従 つて鷹 治郎 の人 間 と し て の. と な ると舞 台 さ へ大 し て見 な いほど だ か ら、 個 人 的 に. も 交 遊 関 係 を持 つてゐ る のでよく 知 つてゐ るが 鷹 治郎. 私 は左 回 次 と か 六代 目と か東 京 の役 者 な ら個 人 的 に. 持 だ け は是 非 聞 いてお いても ら ひ た い氣 持 で 一杯 だ 。. にも ま た遺 族 の方 々にも、 こ の際 以 上 のよう な私 の氣. 寝 醒 めが 悪 いよう で、 賞 は内 心あ ま り氣持 よく な か つ. と 重 立 つた大 阪 役 者が 全部 顔 を揃 へてゐ ても 、 鷹 治郎. の材 料 も持 ち合 せ てゐ な いと いふ のが 本 営 だ 。. た。本 人 は恐 らく讀 ん でゐ な から うが 、 も し家 族 の人. が ゐ ると ゐ な いと で はす べ てが 違 ふ。 鷹 治 郎 を失 つた. も の足 り な い感 じ であ る。昔 み た ﹁河 庄 ﹂ の治 兵 衛 な. 達 でも 讀 んだ な ら こ んな 大 病 人 を つかま へて⋮ ⋮と 、. 私 が 改 造 祗 から頼 ま れ て ﹁大 阪 の藝 人 ﹂ を書 いたと. ど も 、 線 證 に藝 が う るさく細 かす ぎ て感 心出 来 な か つ. 大 阪 芝 居 の淋 しさ を十分 味 はさ れ た。 確 か に淋 し い、. き は東 京 へ旅 行 中 で、 鷹 治 郎 の病 氣 は全 然 知 らな か つ. たが あ の最 初 の花 道 の出 だ け は顔 、姿 の類 のな い美 し. き つと 氣持 を悪 くす る こと だ ら うと 思 つた からだ 。. た。危 篤 だ と いふよ う な こと を少 し でも 知 つてゐ た な. さ が 今 さ ら なが ら紹 品と し て思 ひ出 さ れ る。. は東 京 でな いと駄 目だ と いふ好 みが あ る。. 元来 、 私 は東 京 の芝 居 を見 なれ た せゐ か、 芝 居 だ け. ら、 あ んな悪 口め いた こと は決 し て書 かな か つた のだ が 残 念 な こと を した と 大 阪 へ帰 つてから氣 にな つてゐ た。 そ れ が 今 、 そ の訃 に接 し た。亡 き 鷹 治 郎 さ ん の霊.
(26) (76) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. 秋 新社 ︶所収. ︵ イ︶ 同書 によれば 年 代 は不明 だ が 、 住 所 が 兵 庫 県. 一證 上 方 芝 居 は ﹁ 間 ﹂ を持 たす こと を せず に、 す べ て に動 き が 多 い。 ど こま でも あ く ど く て毒 々し い。 こ. 武 庫 郡精 道 村 打 出 にな って いる事 か ら昭 和 九年 三月 以. めば す ぐ コソ コツと婦 つて参 ります が 性 来 の孤 獨 好. も 御 無 沙 汰致 居 、 た ま に上京 いた しま し ても 用 が す. を な さ います か 私 はと んと 田舎 者 に相 成 誰方 様 に. 註 花 合 せ のこと︶ の方 ハ如 何 、今 でも 時 々御 手 合 せ. の由 御 風流御 羨 敷 存 ます と ころ で例 の合 戦 ︵ 渋沢. 念 に思 つた こと も覺 え て居 り升 其後 給 の方 を御 精 進. 場 の煙突 の答 え てゐ る のが甚 風致 を 害 し てゐ る のを残. 通 つて廣 い御座 敷 へ参 つたら 二 立派 な庭 園 の向 う に工. も 今 以 て よく記 憶 いた し て居 ります 員 つ暗 な 廊 下 を. 糸 君 と同 道 飛鳥 山 へ御 訪 ね し た こと も 愛 蓮 堂 の こと. 過 日 は御 手紙 御 な つかしく寿 見 致 し ま し た 往 年 小. 舞復. 卓 ﹄ の中 にあ る。. は小絲 源 太郎 であ ろう。歌 は旧作 で、 前 掲 ﹃椅 松庵 詠. 降 十 一年 十 一月 以前 のも のと分 か る。 文 中 の︽小 糸 希︾. れ に比 べ ると 東 京 の芝 居 は静 か で動 き の少 い腹 藝 式 で い い。 だ が 、 こ の相 違 は結 局 東 西雨 都 の見 物 人 の観 劇 心 理 の相 違 で、 大 阪 人 の好 みが 大 阪 の芝 居 をあ ゝさ せ て し ま つた のだ ら う。 従 つてそ れ を代 表 す る鳴 治 郎 の あ の藝 風 も や はり こ の大 阪 人 の好 みが自 ら これ を 生 ん だ ので はな から う か。 し か し、 一歩 退 いて考 へて み ると東 京 の芝 居 は国 十 郎 の活 歴 を考 へ合 せて み ても 現 在 で はか な リ モダ ン味 が 多 分 に加 味 さ れ てゐ て歌 舞 伎 劇 本 来 の味 よ りも 新 歌 舞 伎 劇 と い つた風 のも の に近 づ いて来 てゐ る よう でも あ る。 と考 へて来 ると 、 あ る ひ はあ の花 や かだ が 仰 々 し いと 思 はれ た上方 藝 を 代 表 す る鷹 治郎 のほうが 却 つ て本 営 の昔 なが ら の歌 舞 伎 を 博 へた尊 いも の でな か つ た かと 思 ひ合 はされ る。. 7 。渋 沢 秀 雄 宛 書 簡 三 通 手紙随筆﹄ ︵ 昭和三 一年十 一月 文芸春 渋沢秀雄著 ﹃.
(27) 光 江 細. (77). く 舞 見 し ま し た 此 の書 は軍 な る旅 行 記 でな く 、 貴 下. く 、 叉旅 行 さ れ た地方 が 従 来 あ ま り紹 介 さ れ て ゐな. き 故 さ う 人 に會 ひ た いと も 思 ひま せ ん も う近 頃 で. う つり来 てと ゝせ に. か つた方 面 であ るだ け 興 味 も深 く、 就 中 猛 獣 狩 の話 は. の 日常 の 御 生 活 や 趣 味 一端 が 窺 はれ る と こ ろも 面 白. な り ぬ難 波 津 の. 甚 だ 珍 奇 に存 じ ま し た、 それ に挿 入 の篤 員 の出 来 榮 え. ハほ ん たう の大 阪 ッ兄 にな りき つた つも り で居 り ます. 何 にひ か る ゝわ れ. 十 二月 九 日. 澁 澤秀 雄様 侍史. ︵ハ︶ ﹃手 紙随 筆 ﹄ に よれば 、 これ は、 渋 沢秀 雄 が 自. 谷 崎 潤 一郎. まだ 昔 日 の悌 を と ゞめ てを ります 呵 々. た し ま し た、 小 生 の方 は者髪霜 を加 へま し たが 幸 に. を遂 げ て を られ るら し いこと を 御 著 述 に依 て承 知 い. 末筆 な が ら あ な た のお ツ ムリ の状 態 が 其 後 大憂 化. 人 に ハ書 け さ う も あ り ま せ ん. あ な た のや う な教 養 と境 遇 の人 でなけ れば 、 普 通 の文. も 非 常 に光 彩 を 添 へてを ります 、 かう 云 ふ本 は 矢 張 潤 一郎. にかあ るら ん. 先 ハ乍 延引 御 挨 拶 ま で 勿 々 澁 澤秀 雄 様 侍曹 ︵口︶ ﹃手 紙 随 筆 ﹄ によれ ば 、 封 筒 に昭和 十 一年 十 二 月 九 日 の スタ ンプ が あ り、 住 所 は兵庫県 武庫 郡 住 吉 村 反 高 林 にな って いる。 舞啓. 作 物 御 寄 賠 にな り なが ら つ い筆 無 精 にて失 證 のみ致. 著 ﹃皇 軍 慰 問 ﹄ を 贈 った 事 に対 し て、 谷 崎 が 私 家 版. 御 寒 さ の折 柄 御 壮 健 にて大 慶 に存 じます い つも御. し て居 ります が 今 度 の御 高 著 熱 帯 の旅 は非 常 に面 白.
(28) (78) 谷崎潤一郎全集逸文紹介 2. ﹃細 雪 上 巻 ﹄ に添 え て送 った礼 状 で、 昭 和 十 九 年 八 月 十 一日付 け のも のと思 わ れ る。 斉啓. 右 一寸 注 意申 上 作. 談 話︶ 8 . ﹃三 十 分 放 談 ﹄ ︵. の フ ァ ンに て 澄 川 君 ︵ 渋 沢 註 澄 川 久 、 歌手 で、 俳. ﹁日本 古 書 下L ︵ 既 に大 屋 幸 世氏 が、 ﹃P R紙 誌 探索 ︵. ﹁創 元 ﹂ は創 元社 の P R雑 誌 で、 本 文 に つ いて は、. 創 元 ﹂ 昭 和 十 五年 一月 創 刊 号 ﹁. 優 で、腹 話 術 の日本 で の元 祀 ︶ ハ大 好 き な舞 蔓 人 の 一. 通 信 ﹂ 昭 和 六三年 十 二月 号︶ で言 及 さ れ て いる。. 先 般 ハ御 高 著 面 白 く 斉 見 仕 作 小 生 ハ年 久 しき 日劇. 人 に て有 之 従 て腹 話術 もゴ リ ラ等 の寸 劇 も皆 よく存. 拙 著 細 雪 上 巷 一部 御贈 申 上 作間 御 閑 暇 の折 御 寛. 四年 十 二月 五日と 六日 の 二回 に分 け て、 夜 九 時 から全. のラヂ オ放 送 は、 ﹁東 京 朝 日新 聞 ﹂ によ ると 、 昭 和 十. な お、 こ こで谷崎 潤 一郎 が 言 及 し て いる ﹃吉 野 葛 ﹄. ヒ下 度 作 但 し時 節 柄 あ ま り世 間 へば つと せ ぬや う 致. 国 放 送 さ れ たも ので、 脚 色 o依 田義 賢 、 演 出 ・溝 口健. じ 居 り な つか しく 讀 過 仕 作. 度 殊 に文 壇 方 面 の披 露 ハ努 め て差 控 へ居 件 二付 そ. 二、 作 曲 o宮城 道 雄、 配 役 は私 o坂東 蓑 助 、 津 村 ・深. 三十分放談. ど う も 此 の虎 ず つと 忙 しく つてね。 源 氏 が 済 む ま で. 谷 崎 潤 一郎 談. 見 泰 三、 物 語 o和 田信 賢 、 等 々であ った。. のお つも り に て あ ま り御 吹 聴 下 さ ら ぬや う願 上 作 乍 末筆 残 暑 の候 第 自 愛 ヒ下 度 作 十 一日 谷 崎 潤 一郎 澁 澤秀 雄 様 侍史 御 高著 中 峨 眉 山 月 牟輪 秋 の詩 ハ白 柴 天 にあ らず 李 太 白 に御 座 作 叉あ の詩 の峨 眉 山 は四 川省 かと存 件.
関連したドキュメント
する愛情である。父に対しても九首目の一首だけ思いのたけを(詠っているものの、母に対しては三十一首中十三首を占めるほ
この数日前に、K児の母から「最近、家でも参観曰の様子を見ていても、あまり話をし
ともわからず,この世のものともあの世のものとも鼠り知れないwitchesの出
BCI は脳から得られる情報を利用して,思考によりコ
関係委員会のお力で次第に盛り上がりを見せ ているが,その時だけのお祭りで終わらせて
式目おいて「清十即ついぜん」は伝統的な流れの中にあり、その ㈲
このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた
町の中心にある「田中 さん家」は、自分の家 のように、料理をした り、畑を作ったり、時 にはのんびり寝てみた