鷲家口とニホンオオカミ
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(2) 鷲家 口とニホ ンオオカ ミ. 旧鷲家口 (東 吉野村小川),む こう (南 方)に 左右から 上野写真〕 山が迫 っているところが,鷲 家川の谷の口である。 〔. 2. 鷲 家 口で. 1頭 の. ニ ホ ン オ オ カ ミを 入 手 し た の は , ア メ リ カ 人 動 物 学 者. Malcolm Playfair ANDERSON(1879-4-6-1919-2-21)2)で (明 治. 38)1月 23日. フ ォー ド公 爵. の こ とで あ る. 3)。. 彼 は イ ギ リス の 貴 族. (the eleventh Duke of BEDFORD,本. 名. ぁ る。. l. 1905年. ,第 十 一 代 ベ. ッド. Herbrand Arthur'. RussELL, 1858-1940)4)の 出資 によ って ,東 亜 の小形哺丁L類 蒐集 の 目的 で 派遣 された採集者 で あ る。鷲家 口に来 た ときの彼 は,間 もな く26歳 にな ろ う とい う青年学者 で あ った。 北米 イ ンデ ィアナ州 イ ンデ ィアナ ポ リスの生 まれ で ,ス タンフ ォー ド大学 で 動物学 を専攻 し,日 本 に来 た 1904年 に,B.A。 を 受 けて い る。 その前年 ,1903年 に発表 した 2篇 の鳥 の論文 と,彼 の誠実な人 つKbる ``:Duke of Bedford's Zoological Expedition"5)4 ■, い オ 忍どゝらオ 桁5と が言 に従事 す る こ とにな った ので あ る。 上 に言 ったよ うに, この動物学探検 は. ,. 小形哺手L類 の蒐 集 が 目的 で あ ったが , ったか ら,行 く先 々で鳥 を も集 めた。. ANDERSON. 自身 は,鳥 に も興 味 が あ,.
(3) 上. 野. 益. 91. 三. の 集 まると ころが あるか ,あ るいはまた,狩 猟 を業 とす る者 が少 な くなか っ た こ とを示す もの らしい。事 実 ,鷲 家 回の北約 12km,国 道 69号 線 に沿 って , 11)。. 古来 製革業 で 聞え た岩 崎 とい うと ころがある. 鷲家 口に持 ち出された山 の. 獲物 は, この岩 崎 に運 んで売 り拐1か れた ので はなか ろ うか と,筆 者 は想像 し た。 この推測 は大体 当 っていたが,岩 崎 の一 製革業者 は,同 地で は昔 か ら猟 師 とは直接取 引はせ ず ,仲 買人 の手 を経 て 買 い入 れて い た ,と 筆者 に説 明 し て くれた。 ANDERSONに カ モ シ カを売 った吉 田某 が,猟 師 また は仲買人 か. ,. あ るいは製革業者 で あ ったか はわか らな い。 しか し,鷲 家 口に来 て い る外 国 人 が,獣 類 を買 い入 れ るとい う噂 を伝 え聞 いて ,皮 に売 るよ りは金 にな るだ ろ うと,再 び鷲家 □へ 運 んで. ANDERSONの 手 に渡 したのだ と思 われ る。岩. 崎 には吉 田姓 の家 が多 い。 奈良県庁 あた りで ,獣 類 を手 に入 れた いな ら,鷲 家 口だ位 の示 唆を受 けた. ANDERSON. らは, ため らう こ とな く,一 路同地 を 目差 した と想 像 して 間 ち. が い はな いで あろ う。 1905年 1月 11日. ,奈 良 を発 った AMDERSONら. は,そ の 日は桜井 で一 泊 し. た。 桜井 は奈良平野 の 南 の端 に近 い。 当時 , 鉄 道桜井線 は奈良桜井間のみ で ,そ れ よ り先 は開通 していない。 彼 らは桜井駅前大西 町 (今 ,本 町通 一 丁 目)の 皆花楼 に宿 を とった。 奥 ま った平屋建 の離 れ座敷 を提供 された。 この 離 れ は,今 次 の大戦後 ,隣 家 の火災 に類焼 し,現 在 は三 階建 に改築 されて い る。ANDERSON当 時 の面影 は, この三 階屋 の前 の庭 に残 って い る老松 によ っ て 偲 ぶばか りで あ る。 明治初期 の様 相 を もち伝 えて いる この旅館 の古 い母屋 は,火 難 を免 れたが,既 に戦 時中 にその南半 を桜井木材協 同組合 に譲渡 し. ,. 全体 は. ANDERSON当 時 よ りは るか にガヽさい。. ,桜 井 を後 に した ANDERSONら は,そ の 日は松 山 (今 ,大 宇陀 町 の うち)に 泊 り,13日 に鷲家 口に着 いた。 松 山 か らどの道を とったか はわ 1月 12日. か らな いが,恐 ら く山 口を経 ,佐 倉峠 を越 えて南下 したので あろ う。 この あ た りは,ま だ山が深 い わ けで はな い けれ ども,多 くの荷物 を運 ばねばな らぬ ― 行 の行路 は必 ず しも容易 で はなか ったにちが い な い。乗合馬車 の便 さえ. ,.
(4) 92. 鷲家 口とニホンオオカミ. 彼 が北米 を経 って横浜 に到着 したのは,1904年 (明 治 37年 )7月 18日 で あ る。 この年 は,富 士 山,東 北 な らび に北 海道 を旅行 し,12月 に静岡県下 の採 集 を終 え, 名古屋 に来 たのが 同月29日 で あ る。 年 を越 して , 1905年 1月 10 日,奈 良 に来 た。 鷲家 口で の活動 が この あ とにつづ く。奈良県下 で は ニ ホン オ オカ ミが得 られ るか も知れ ぬ とい う期待で ,同 地 へ赴 いた と思 われ る。静 岡 県 か ら後 の 同行者 は,通 訳兼助手 として雇 い入 れた,当 時第 一 高等学校 の 6)と. 生 徒 で あ った金井清. ,猟 夫石黒平次郎 とで あ る。 ANDERSONは 石 黒 を. ``Black stone"と 呼 んで親 しんだ。 奈良 に来 た. ANDERSONが ,ま. っす ぐに鷲家 口へ 向 った の はなぜ で あろ う. か 。 奈良県下 で哺 乳類 を採集 しよ うとすれば ,吉 野郡下 へ 向 うのが 自然 の帰 趨 で あろ うが ,特 に鷲家 口を選 んだのには,何 らか の理 由 がな けれ ばな るま い。 1月 10日 奈良 に来 た. ANDERSONら は,旭 館月 の家 に宿泊 し,翌. 11日 奈. 良 県庁 に 出頭 して ,狩 猟 の許可 を受 けて い る。 この とき,彼 らは鷲家 口を示 唆 され た ので はなか ろ うか。 鷲家 日の近在 には,古 来狩 猟 を副業 とす る者 が 多 く,専 業者 も稀で はなか った。 山は深 く,シ カや イ ノシシをは じめ とし. ,. 各 種 の獣類 に富 んで い る。 特 に大又 の谷 は,昔 か ら獲物 が 多 く,1935年 ごろ 1847年 (弘 化 4)ご ろ 8)に に で きた ,畔 田翠 山 (源 伴存 )の 『 和州吉野郡 中産物志』 ,「 小川猟人 J 7)。. まで は,四 郷村 には専業 の猟師 が まだ何人 か い た. とい う言葉 が見 え,翠 山 も この地で猟師か ら知識 を得 た ので あ る。 昭和 43年 9)。. 現 在 で も,東 吉 野村全体 の猟師副業者 は 60名 に達 す る. ANDERSONが 鷲 家. 口に来 たか らこそ,偶 然 の機会 で あ った とは いえ ,ニ ホ ンオオカ ミを手 に入 れ る こ とがで きた ので ある。 彼 が来合 わせて い なか ったな らば ,こ の 1頭 の 貴 重 な獣 は空 し く遺棄 されて ,顧 み られなか った にちがいな い。. ANDERSONが 鷲家 口を 目差 した理 由 に 数 え得 る根拠 が もう一 つ あ る。 彼 らが鷲家 口に滞在 中 の 1月 15日 に,宇 陀郡宇陀村 の吉 田某 か ら玲羊 2頭 (1 ,♂. 1♀. 10)。. ,後 出)を 購入 して い る. 宇陀郡 は吉 野郡 のす ぐ北東 にあ る。 宇陀. 郡 の うちで も,克 田野町 と大宇陀町 (と もに現在 )と は,吉 野郡東吉 野村 の す ぐ北 に接す る。 2頭 のカモ シカを入手 した記録 は,宇 陀 の ど こか に,獣 類.
(5) 上. 益. 野. 三. まだ 開 けて は い なか った。 馬車 が通 い 出 した の は大正 にな ってか らで ある。. 3. イギ リスの哺 乳類 学者 01dield THoMASが 1905年 11月 に,ANDERSONが. 12)こ. そ の ときまで に,日 本 で採集 した哺乳類 の 目録 を発表 した 。. の 目録 に戴. せ た哺 乳類 は 50種 (亜 種 を含 む)に 達 し,新 名 を与 え られた ものが 12あ る。総 個 体 数 は 600を 超 え ,THOMASは. ANDERSONが す ぐれ た 採 集 者 だ と折 紙 を. つ け て い る。 この 目録 の 中 で ,THOMASは ,鷲 家 口だ け で ,ま た鷲 家 口で も. ,. 獲 られ た 哺 乳類 と して ,次 の 11種. (2亜 種 を含 む )を あげ て い る。 現 行 の 学. 名 は 彼 の 用 い た の とちが う の が 大 分 あ るが ,本 篇 の主 題 とは 無 関係 で あ るか ら,原 文 の 通 り引用 す る。 それ ぞ れ の 種 の は じめ に つ け た番 号 は ,彼 の 目録 の 番 号 ,ペ ー ジ はそ の 所 載 ペ ー ジで あ る。 日本 名 は今筆 者 が 補 入 した 。 16。. 17. 19。. 20. 22。 23。. Cα π グ s力 θグ9夕 リ ノ α″ Temminck13)1♂ ,p。. 342,ニ ホ ン オ オ カ ミ. θ ″θ s υグ Neθ ′ π′ θ ″γル協s'remlninck, 1♂ , p.343, タ ヌキ υθ ル化に′ θル 綱θ 滋″ πs α′ sグ P%′ θ″グ πsグ ′. bθ ″. ο″ググThomas,. Temminck, 6♂. 2♂. ♂, 2♀ ♀,. ttθ %θ πgα. ♀,p.344,モ. 343,テ ン. ♂, p.343, イ タチ. s′ α ノ P″ απγグ θ πθθgθ ηノs Telnininck, 3♂ ♂, 1♀. θ γ%S Sθ グ %″ ψ ′. p。. , p。. ″η dttJα ノ グThomas(新 亜 種 ),. 344, ム リーナビ. 2♂. ♂, 4♀. モ ンガ. πs. Temminck, 1♂ , 2♀ ♀,p。 347,リ ス (ニ ホ ン リス) Temminck, 2♂ ♂, 2♀ ♀, p.357, ノ ウサギ ン ンヽ πγ α″ Temminck, 1 ♀, p。 357, イ ノヽ θ πθθ夕 42。 Sπ s ノ 43.池 πθγ″″グπs θγグψ πS Temminck, 1♂ , 1♀ ,de 357,カ モ シ カ 44。 Cθ ηπs sttα Temlninck, 1 ♀, p。 357, シ/力 。 25。. Sθ グ πγπs. 40.. 二″形Sb″αθり π″%s S′. 合 計 33頭 で ,牡 が 19頭 ,牝 が 14頭 で ,約. 58%が 牡 で あ る。 本 篇 の主 題 な. る ニ ホ ンオ オ カ ミ(上 掲 ,16号 )は 若 い 牡 で あ った。 この 目録 に ,ネ ズ ミ類 の よ うな小 形 種 が全 く見 当 らぬ の は奇 異 の 観 を与 え るが ,そ れ らは ,彼 の 四 国 旅 行 (1905年. 2∼ 3月 )中. に全 部失 った か らで あ る。それ らの 保 管 を依 頼 し.
(6) 94. 鷲家 口とニホンオオカミ. た神戸 の旅館 が,彼 の旅行 中 に隣 の火災 に類焼 し,鷲 家 口で採集 した ネ ズ ミ 類 は全部焼亡 したためで ある。 なお,鷲 家 口周辺 には,カ ワ ウ ソが多 か った といわれ るが ,. ANDERSON. の採集物 中 には含 まれていない。 キ ツ ネ も同様. で あ る。 筆者 が. THOMASの. SONが 鷲家. 目録 か ら,こ とさ ら上 の 11種 を抄 出 したのは,ANDER―. 口で 何種 を何頭 手 に入 れたかを示 したか った の と,従 来散見す. る記事 中 には,彼 が ニ ホンオオカ ミのみを入手 したか のよ うな印象 を与 え る もの もあるか らで ある。 ANDERSONが 1月 13日 鷲 Zζ 口に来 て ,同 月26日 朝. ,. この地 を後 にす るまで滞在 12日 間 で ある。 1月 23日 には,待 望 の ニ ホ ンオオ カ ミが手 に入 った し,カ モ シカや テ ン,そ の他 の珍 らしい もの も手 に入 った ので ,25日 に同地 で の採集 を打 ち切 った。 そ して ,26日 に往路 と同 じ く桜井 経 由 で ,同 日中 に名古屋 まで行 った。往路 は桜井 ,松 山 と途 中で二 泊 したの・ に,帰 路 は一気 に名古屋 まで 出 たので ある。. 4. 鷲家 口で大形獣 を購入 した当時 の様子 を,金 井清 (前 出,注. 6)の. 日記. 14). には,次 のよ うに誌 された。括 弧 内は上野 が挿入。. 1905年 1月. 14日. , 10余 貫 (約. 40kg)の 女鹿. (上 掲 ,日 録 ,44,. 1♀ ),皮. のみ泉」 いで 4円 50銭 同 , 1月 15日. ,宇 陀村 の吉 田某 か ら玲羊 2頭. (上 掲 ,目 録 ,43,. 1♂ 1♀. ). を購入 ,頭 と尾 とに故障 が あ り, 9円 50銭 。 同 , 1月 22日 同 , 1月 23日. ,猪 1頭 (上 掲 ,日 録 ,42, 1♀ ), 3円 50銭 ,狼 (上 掲 , 日録 ,16, 1♂ ), 8円 50銭. その他 に,タ ヌキ,ム ササ ビ等 も買 い入 れ た。 この 23日 に買 った 1頭 の ニ ホ ンオオカ ミが,「 日本 で採集 された最 後 の狼 にな らうとは当時想像 も及 ば 15)。. な い所 で あ った。」と,33年 後 に,金 井 が当 時 を回想 して書 いてい る 鷲 家 口に来 た. ANDERSONら. は,旅 館芳月楼 ,前 北丈太郎方 に 宿 を とっ.
(7) 上. 野. 益. 三. 千代橋上から見た,か つての芳月楼 (現 在,衣 料店)。. 上野写真〕 〔. た。佐倉峠 を越 え,鷲 家 日か ら川 に沿 って南 へ下 る路 は,や がて川 の左岸 に 移 り,カ ー ブを描 いて 緩 い下 りで ,鷲 家 回の北 の はずれ に入 る。 しば ら く行 くと,上 市 か ら来 る国道 が鷲家川 に架 る千代橋 を渡 った と ころで ,宿 場 を貫. `. く街道 とT字 形 に合 す る。 この T字 の突 当 りに芳月楼 が道路 に面 して立 って いた。 この家か ら見れば,橋 は路 を隔てて真 向 いで あ る。橋 の下 は,岩 盤 が. 千代橋上か ら上流に向 って見 た鷲家川。左方 の岩上 に「 天誅義士 宍戸弥四郎先生戦死之地」 と刻 した石碑 がある。 〔上野写真〕.
(8) 鷲家 日とニホンオオカミ. igδ. 左右 か ら相迫 って ,狭 い川 は奔流 をな して い る。対岸 は急斜面 をな して川 に 落 ち,水 辺 には雑木雑草 が生 い茂 ってい るが ,そ の背後 は杉林 で ある。 道路 に面 した三 階 の座敷 を提供 され た. ANDERSON, 金井 らは,眼 下 に千代橋 や. 対岸 の杉林 を眺 め る こ とがで きた。芳月楼 は楼 主 前北氏 の死没後 ,人 手 に渡 って名 も森本楼 と改 め られ たが,現 在 は改築 されて枡 本衣料店 とい う衣料雑 貨 の店 にな ってい る。 ANDERSON当 時 を街彿 す る ものは,国 道幅拡張 のた め に,改 築 を余 儀 な くされ る こ とがなか った,川 沿 いの民 家数戸 と,芳 月楼 の南 寄 り背後 の一 段 高 い土地 に建 ってい る,上 谷萬吉氏所有 の旧い住宅 のみ 16)。. であ る. ANDERSON. らは,芳 月楼 を根拠 として, 四方 に採集 にでか けた。遠 く四. :郷 村 (大 又 の谷 ,現 在 は東吉 野村 の うち)へ も行 った。 1月 14日 に,牝 シカ. 1頭 を買 った のは, 鷲家川 を遡 った 鷲家谷 の一 猟師 の家 で あ った らしい。 「 我等 の滞在 は間 もな く近村 の話題 にのぼ り種 々の獲物 を売 りに来 た。」 (金 井 ,前 掲注 14)と あ るか ら,追 々居 なが らに して,種 々の動物 を入手す る こ とがで きた ので あ る。 ただ,外 国人 を見 たい とい う物珍 らしさか ら,弁 当携 需で遠 くか ら鷲 家 口へ来 た人 たち も少 な くなか った とい う こ とで あ る。 それ らの人 々が噂 をひろげ るのに役立 った にちがいない。 その うち, 1月 23日 に,思 いが けな く狼 が担 ぎ こまれ た。「 或 る朝 (注. :. 1月 23), その 日に採 集 した鼠 を剥 製 して居 た時 , 二二 人 の退 しい猟 師 が 一 匹 の狼 を指 いでや って来 た。」 (金 井 ,前 掲 )の であ る。「 その 日に採集 し た鼠 」 とあ るのは,前 夜 に罠 を仕 か け,早 朝 それ らにかか った鼠 を指 す。 オ オカ ミは買取 りの値段 で 中 々に折合 が つ かない「 。 杉林 の 中 の 日あた りの良 い 宿屋 の縁側 に初春 の 日光 をあび なが ら長 い 間 か ゝっての 談判 で あ る。」 (金 井 ,前 掲 )。 しか し, 交 渉 は不調 に終 り, 猟師 たちはオオカ ミを担 いで立 ち 去 った。「 此 の時 のア ンダー ソンの失 望 は言語 に絶す る ものだ った。元来無. '誓. あ ア ンダー ソンが買 へ ば良 か った,再 び手 に入 らな いか も知り ぬ ,と 一人. 言 を云 ひなが ら片 足立 て ゝ縁 側 に腰 か けて居 た顔 つ きは 33年 後 の 今 日もな 17)。. .1ま. 僕 の 目にあ りあ りと残 って い る。」と金 井 (前 掲 ,注 15)が 回想 して い る.
(9) 上 野 益 三. 97. ANDERSONが 再 び手 に入 らないか も知れ ぬ と言 った杞憂 は,. 幸 い この 日. 再 び狼 が運 び込 まれ ,彼 の手 に入 った こ とで消え去 った。 しか し, もし,彼 の手 に渡 って い なか ったな らば , この 1頭 の最後 のオオカ ミは空 し く遺棄 さ れて ,ど こに も残 らなか ったか も知 れない。 垂涎万丈 の標 本 が 8円 50銭 で 自分 の ものにな った。金井 は「 ア ンダー ソンと共 に鋭利 なナイ フを持 って 反 いで居 る間 , 3人 の猟師 は煙 管 を吸 ひなが ら眺 めて居 った。腹 は梢青み を祭」. をおびて腐敗 しかけて居 る所からみて数 自前に捕れたもの らしい。 」ことに気 (. がついた。厳冬のさなかに,こ の状態 にな っていたのであるから,死 後相当 の 日が経 って いた こ とは 間違 いない。大 きい獣 の皮 を泉」ぐために,彼 らは前. :. 北 か ら大分苦情 をいわれて いたので ,恐 ら く橋 向 うの杉林 に運 ん で 処 理 した ので あろ う。 さきの値段 の交 渉 の と こ ろで も,「 杉林 の 中 の 日あた りの良 い 宿屋 の縁倶1」 とあ る けれ ども,付 近 の情景 を取 り入 れて 印象 を しる したので はなか ろ うか。 芳月楼 の後 ろは高 い崖 で ,崖 の上 には 2学 級 のみ の鷲家 口尋 常小学校 が建 って いた。 今 は登記 所 にな って い る。 その南西 に隣 して ,東 吉 野村役場 が ある。. 5. ANDERSONが 手 に入 れ た 1頭 の ニ ホ ン オ オ カ ミは ,. 果 た して ど こで 獲 ら ',. れ た ので あ ろ うか。 近 年 トラ ック輸 送 が は じま る まで は ,鷲 家 口 に集 った杉. i. 材 や檜 材 は ,筏 に組 ん で 高 見 川 を流 し,さ らに吉 野 川 を下 して ,上 市 等 まで. :. 運 ん だ 。 鷲 家 の 谷 と大 又 の 谷 とが 合 して ,高 見 川 とな るあ た りに ,秋 の 彼岸 過 に川 を横 断 して 堰 を設 け る。 そ の 上 流 に水 が た ま って ダ ム 湖 の よ うにな る の を待 って ,そ の “ 湖 "上 で 筏 を組 む 。 そ して ,堰 を切 って放 水 と と もに筏 を流 す。 これ を繰 り返 え し,春 に ア ユ が遡上 す るまで に堰 を撤 去 す るの が 習 わ しで あ った。 ANDERSONが 鷲 家 口 に来 た 1905年 の 1月 の 上 旬 は 特別 に寒 気 が 厳 し く,堰 の 上 流 の 停 滞 水 に氷 が張 った。 筏 組 み作 業 中 の 筏 師 らは ,突. 1. :. 如 1頭 の シ カが オ オ カ ミに追 われ て 杉 林 か ら走 り出 て くる の を見 た 。 追 い つ ´.
(10) り8. 鷲家 口とニホ ンオオカミ. 、 め られ た シカ は水殻 上 に乗 り,氷 を突 き破 って 四 ツ足 を取 られ ,迫 って くる オ オカ ミもまた,水 殻 に足 の 自由 を奪 われ た。 筏師 らは有合 せ の得物 を振 っ て この オオ カ ミを撲 殺 した。 そ して ,そ の屍体 をそ の まま打 ち棄 てて あ った 18)。. が ,日 を経て ,外 国 人 が獣 を買 うとい うの を聞 いて 担 ぎ込 んだのだ とい う. さきに述 べ た よ うに,こ の地 には猟師を副業 とす る者 が 多 いか ら,ANDERSON の 前 に現れ た 3人 の猟師 は,筏 師 たちで あ ったか も知れな い。 以上 の話 は少 しで き過 ぎて い るような フシ もあ るが,仮 に この話 に信憑性 が あ る とすれ ば,最 後 の標本 とな った. ANDERSONの 狼 は,奥 地で はな く ,. 鷺 家 口で獲 れ た こととな る。 その頭骨 は,今 ,大 英博物館 (天 産部 )の 所有 19)。. で ある. 毛皮 も同館 の所有 で あろうが ,筆 者 はその詳細 を知 らな い。 屍体. が 運 び こまれた とき既 に腐 りかか っていたのだか ら,毛 皮 は完全 な状態 で保 存 され なか った のか も知れ な い。 前掲. THOMASの 目録 の. 16。. D詢ル″")Temm.の 条下 (p。 342). s力 θ グ グ Cα π. に ,ANDERSONが 標本 につ け ておいた ノー トとして , 次 の一 文 が採 録 して あ る。. The Wolf was purchased in the nesh, and l can learn but little “ about it. It is rare, some say alinost extinct. Japanese name `Okalni'. Or`Aamainu'。. "一 M.PoA.文. 中,“ in the nesh"と ぁ るのは,皮 だ けを剥. いで 買 った ので はな く,肉 つ きの まま,つ ま り屍 体 で手 に入 れ た こ とを記録. almOSt extinct"の 二語 は,1905年 の時点 で重 大 な した ので あ る。 また , “ :意 味 を もつ. (後 述 参照)。 最後 の. `Aamainu'は Yamainuの 誤 記か誤植 か. で あ る。 古来 ニ ホ ンオオカ ミはヤマ イ ヌといいな らわ して来 た もので あ る。 なお,大 英博物館 (天 産部 )に 保管 されて い る ^骨. ANDERSON入 手 の狼 の頭 21)。. には,1905年 5月 30日 大和鷲家 口 と記 した 付箋 が ある. これ は博物館 が. 受領 した 日付 か何 かで ,鷺 家 口で入手 した時 か ら 4カ 月余 を経過 して い るc 工 しい採集時 を記録 した もの とは言 い難 いっ.
(11) 上. 野. 益. 三. 6. ANDERSON. が鷲家 口で 1頭 の ニ ホ ンオオカ ミを手 に入れて か ら, 1968年. の 今 まで に 60年 以上 の歳月 が経 って い る。 その間,た だ の一 度 もニ ホ ンオ オ カ ミが獲 られ た とい う学術的報告 はない。各府県 の 累年狩猟統計 で も仔細 に しらべ て みれ ば, ど こかに狼 の記録 があ るか も知れな いが ,そ れ は今急 には 実 行 で きそ うにない。 また,記 録 に残 らぬ もの も数 多 くあ るにちが いない。 今 ,言 え る こ とは,1905年 とい う,は っき り した年 にで はな く,そ れか ら数 年一一 あ るいは十数年 か も知 れないが一一 の時 の経過 の 間 に,ニ ホ ンオ オカ ミは人 知れず死 に絶 えたのだ ろ うとい う こ とで あ る。 しか し,彼 らが,な お. ,. 22)。. ど こか に生 き残 って い ると信 ず る人 たちが,後 を断 ったわ けで はな い. そ. れ らの残存説者 たちは, しか し,そ の残存 の真相 を究 め つ くして いるとはい い難 い。絶滅 を主張 す るだ け の確実 な根拠 はな い けれ ども,本 種 は もはや. ,. わが国土 か ら姿 を消 した とみて ,ま ず ,誤 りはな いで あろ う。本篇 の これ ま で の記述 も, この前提 に立 って進 めて きた。 そ こで,前 掲 の. ANDERSONの. SOme say almost extinct" とあるのは, 何気 な く書 きつ け ノー トに, “ たので あろ うが ,ニ ホ ンオオカ ミ衰亡史上 に,大 きい重 み を もった言葉 と し て 残 る こ とにな る。. F.P.von SIEBOLDの. Fauna Japonica"日 甫乳類 の部 の執筆 を担 当 した “. ,. lCoenraad JaCOb TEMMINCKが 年 (弘 化. 1)で あ る。. ニ ホ ン オ オ カ ミ の 記 載 を 発 表 し た の が 1844. しか し, 該 書 の ニ ホ ン オ オ カ ミの彩 色 図版. は,既 に 1842年 に 出版 され. 23),. 年 後 の 1881年 (明 治 14)に. ,東 京 大 学 理 学 部 の お 雇. (tab。. 9). この狼 の 存 在 を西 欧 に知 らせ た。 それ か ら37 い ドイ ツ人 地質 学教 師. :David BRAUNS24)が ,ニ ホ ン オ オ カ ミを 詳 し く観 察 して 短文 を発 表 した 25)。 彼 は動 物 学 に も興 味 が あ り造 詣 も深 か った ので あ る。 そ の 文 中 で , は,. ``′. BRAUNS. rhese anilnals are very rare now in the main‐ island, but are. less rare in Yezo."と 書 いて い る。 この 文 章 で は ,本 州 の狼 と,Yezo(北.
(12) D.BRAUNSが. 発 表 し た ニ ホ ンオ オ カ ミの 図. 原 図 は左右. 16。. (1881).. 5cm。. 海 道 )の 狼 とを 同一 種 と考 えて い る らし く見 え るが,「 本 州 には今 で は極 め て 稀 だ」 との一句 は, 彼 の実感 による もの な るべ く, 重 要 な意味 を もづ。 26)は. BRAUNSの 文 に添 えた ニ ホ ンオオカ ミの 図 we11■ gured by our artist" “ え る も ので あ ろ う。 BRAUNSは. , 左右 16。. 5Cmの 大. きさで,. 云 と 自讃 して い るか ら, もっともその真 をイ. ,ま. た ,オ オ カ ミが本 州 で は キ ツ ネや タ ヌキ. の よ う に , われ わ れ が 度 々 出会 う動 物 で な い こ とを 指 摘 す る. (“. all these. other anilnals of the dog‐ tribe are much more frequently met with α″ s λθ洗クリノ ・")。 そ して , それ at least in the main¨ island than the a筋 グ で も,狼 が 日本 人 に は よ く 知 られ て い る 動 物 だ と 指 摘 す る (な お後 出 ,直 良. 27)参. 照 )。. BRAUNSの. この文 の発 表 後. 24年 ,1905年. に ,ANDERSONを して ,“ almost. extinct" と記 録 させ た の は ,恐 ら く真 実 で あ っ た の に ち が い な い 。 つ ま り. ,. 明治初年 ごろには, ニ ホ ンオオカ ミの 個体数 は 既 に著 し く少 な くな って い て ,そ れか ら後 激減 の一途 を辿 った と」lら れ よ う。 そ して ,明 治 30年 代 に は極 めて稀 にな っていた ことは,ほ ぼ 間違 いがないで あろ う。 また,「 狼 が 人 の心 に大 き く姿 を とどめな が らも,実 際 には さほ ど この 日本 に棲息 して い 27))と. なか った …… 」 (直 良信夫. ぃ ぅJ上 方 があ る。 この見方 は上掲. BRAUNS.
(13) 上. 野. 益. 三. lθ r. の観察 と一脈 相通ず るものがあ る。 さ らに,今 か ら 130年 も前 の 1840年 前後 の話 として ,狼 の激減 を記録 した 聞書 が『 遠野物語 』. 28)に. あ る。岩 手県 釜石. 市 の西 ,遠 野郷 (今 ,遠 野 市)で の 間書 で あ るが,「 和野 の佐 々木嘉兵 衛. ,. 或年境木越 (注 :界 木峠 )の 大谷地 へ狩 にゆ きた り。死助 の方 よ り走 れ る原 な り。秋 の暮 の こ とにて木 の 葉 は散 り蓋 し山 もあ らは也。 向 の峯 よ り何百 と も知れ ぬ狼此方 べ群 れて走 り来 るを見 て恐 ろ しさに堪 へ ず ,樹 の梢 lld上 りて あ り しに,其 樹 の下 を彩 しき足 音 して走 り過 ぎ北 の方 へ 行 け り。 そ の 頃 よ り 遠野郷 には狼甚 だ少 な くなれ りとの こ とな り。」とあ る。 この狼 の行方 はわか らな い。. BUNNELLら 29)が ,ニ ホ ンオオカ ミ (Cα πグS力 θグψ カグル″;こ. の グの綴 りを用. う)が ,20世 紀 にな ってか ら 害 獣 として滅んだ として い るのは,北 海 道 の 狼 が作為的 に滅 ぼ され たの と混 同 したので あ る。 この著者 らが,北 海道 の狼. C.れ クπsで はな い と思 って い る ことは BRAuNS と同 じで あ る。 北海道 で は, 狼 の全 滅作戦 が効 を奏 して ,1889年 も. Cα π s力 θ グ ごο 夕リ ル″. であ って ,. ,. 30)。. (明 治 22)ご ろか ら後 , 全 く姿 を消 して再 び見 られな い. それで も,狼 の. 足 跡 を見 た とか ,狼 らしい獣 を見 た とか とい う,残 存 の話 が尾 を引 いた。 こ れ は ニ ホ ンオオカ ミの残存説 が今 で もあ るの とよ く似 て い る。. ANDERSONの. ときか ら,お よそ 50年 後 ,岸 田 日出男 は,「 四五 十年前 (注. 1905年 前後 )迄 は移 し く棲 息 して お った 日本狼 も, 今 日で は,全 く絶滅 し た と信ぜ られ るや うにな った。 が,果 して絶滅 した と断定 して よいか,ど う 31)と. か 。」. 疑 い を残 してい る。 との文 中,「 移 し く棲息 してお った」 とい う言. 葉 は,果 た して 真 で あろ うか。 ちよ うど,. ANDERSONが 鷲家 口に来 た ころ ,. の こ とで あ る。 もっとも,岸 田氏 が もっとも関心 を もった大台 ケ原 山一 帯 に は,明 治初年 にはまだかな りの数 の狼 がいた らしい。 1874年 (明 治 7年 10月 15 日)尾 鷲 を発 して 大台 ケ原 山 に登 った英人 Captain Sto JoHNが ,山 中 に 狼 が多 くて,昼 間 で も近 づ いて来 て 吠 えた. (“. W01Ves are abundant they. howled even during the day tirne close to us.''),32)と 真 彗ぃて い る。l司 ノ、 Syl宙 a"の 艦長 で , 日本沿海測量 の途 次 ,尾 鷲 に入港 は英 国 の小型測量艦 “.
(14) 鷲家 日とニホンオオカミ. 2 =θ. し,停 泊中 の機 会 を利 用 して大台登 山を試み たので あ る。. 前節 に述 べ た よ うに,ニ ホ ン オオカ ミが 明治初年以降激減 の一 途 を辿 った と すれ ば , その原 因は何 で あろ うか。 筆者 は, 彼 らが 自滅す るだ け の原 因 │は. ,彼 ら自らの 中 に発生 したのは もちろん だ と考 え るが,そ の過程 につ いて. は柳 田国男 の考説. 33)が. ,聞 くべ きもの を含んで い ると思 う。 柳 田氏 は,ま ず. ,. 狼 の群 に,何 らか の原 因で解体 と分散がは じま った のが,彼 らの悲劇 の発端 だ と仮 定 す る。 彼 らの数 の減少 , もし くは絶 滅 を信ぜ じ め るよ う にな った .の. は,孤 狼 にな ったか ら で あ る。群行 動 の必要 性 を減退 させ たのは,家 畜. の よ うな ,遁 げ走 らぬ食料 の増 加 が ,食 物 の独 占 に便利 にな ったか らだ ろ う と,柳 田氏 は説 く。 しか し,孤 狼 にな ったがために,一 旦交配期 に入れ ば I配. ,. 偶 を見 つ け難 く,生 殖率 の激減 を来 たす にちがいない。 この柳 田氏 の仮 説. が あ る程 度 当 ってい るとすれば ,そ の過程 にはかな り長 い時間 を要 したで あ ろ う。 そ して,今 か ら 100年 位前 には, 既 に激減 の状態 に近 づ いていた こ 七 は , 前節 に述 べ た通 りで あ る。 さ らに,明 治 改元以降 の急激 な文 明開化 が 1狼. ,. の 衰亡 に拍車 をか け た といえそ うで あ る。狼 の末路 を流行病 による大量 乳. 死 を もって説 明 しよ うとす る人 々があ るが,こ れ には十分 な根拠 を伴 わな い 憾 み があ る。交配 の機会 の著 しい減少 が, 自滅 の一 途 を辿 らざるを得 なか っ た とす る考 えは,無 理 の少 な い見方 で あ ろ う。岸 田氏 (前 掲 )が 彩 し く棲息 ノ て いた と見て い るの とは反対 に, ヒ. ANDERSON. の許 へ狼 を担 ぎ込んだ猟師. た ちは , この獣 が鷲家 口界隈 で は, もはや容易 に手 に入 らぬ ことを熟知 して い たのにちがいな い。 AMDERSONの 垂涎万丈 の表情 を素早 く見 て とった彼 らが ,高 値 を吹 きか け,四 ,五 円値切 られて ,な お,よ うや く8円 50銭 に落 34)。. ち つ いた経緯 は,よ くこの 間 の事情 を物語 って い る. さきに述 べ た よ うに, 明治後急 に狼 が減少 した として も,1880年 ごろに.
(15) 上 Jは. 野. 益. てθθ. 三. ,捕 獲 の可能性 はまだ まだあ った と思 え る例証 があ る。 1878年 (明 治 11). 6月 26日 に, 1頭 の生 きた ニ ホンオオカ ミ (性 不 明)が ,ロ ン ドン動物学会 35)に 卜 の動物 園 寄贈 され た。 寄贈者 は同学会会員. H.Heywood JOHNESと い. う人 で あ る。 どうい う経路で , 日本 か ら入手 したのかわか らな い。 しか し. ,. それ は ロン ドン動物 園がは じめて収容 した動物で ,見 物人 を よろ こばせ た に ちがいな い。 この 1頭 の狼 につ いては該動物学会 の 1878年 11月 5日 の例会 36)。. の席上 で ,学 会秘書 の Philip Lutley ScLATER Iこ よ って報告 され た. lSCLATER は動物地理学上 の業績 に富む,知 名 の動物学者 で あ る。例会 の座 長は. Arthur GROTEで あ った。 この ときの SCLATERの 説 明 で は,今 度新. らし く入 った狼 は,そ の小形 なの と脚 が短 かい点 とで , ヨー ロ ッパ の狼 とは 別種 のよ うだ ,と 述 べ てい る. (“. judging from the present specimen the. s ノ π夕πs,WOuld seem to Japanese w01f, although nearly allied to Cα πグ. be a distinct species, to be recognized by its smaller size and shorter legs.")。. この生 きた ニ ホンオオカ ミを見 た. ThOmaS Henry HuxLEYが. ,. sれ ″ s)の 小形 の ψ″ 滋″ は,た だ狼 (注 :ヨ ー ロ ッパ 狼 ,Cα πグ. ,Cα π s力 θ グ グ. もの らしい。 しか し,そ の頭骨 が手 に入 らぬ 今 は,決 定的 な意見 を述 べ る こ 37)。. とは差十 日え ると書 いた. この ニ ホ ンオオ カ ミがその後 どうな ったか ,よ く. わか らな い。 1頭 き りで あ ったか ら,子 孫 が残 らなか った こ とは確 かで あろ うが,そ の遺骸 は どうな ったで あろ うか。 上言 己 HUXLEYの 文 中 に,. there is a ine specimen now living in “. the Gardens"の 1句 があ って ,わ れわれ 日本 人 を羨 しが らせ る。Gardens は もちろん ロン ドン動物園を指 す。 動物園施設 の著 し く立 ちお くれ た 日本 で は,生 きた ニ ホ ンオオ カ ミを 目の 当 り見 る こ とがで きなか っただ ろ うし,今 ももちろん見 られな い。 あ る国土 に生 を承 け た動 物 が衰 び去 る運命 を担 わね ばな らぬ とは,哀 れ とい わず して何 で あろ うか。 せ めて動 物 園 にその後裔 が 見 られ たな らとは,筆 者 一人 の嘆 きで はあ るまい。 HUXLEYが 待望 した ニ ホ ン オ オ カ ミの 頭 骨 は , 1彼 の没後10年. ANDERSONに. よ っ て ロ ン ドン に 送 ら れ た が. ,そ. れ は. 目で あ った。 もっとも,大 英博物館 (天 産部 )に は,そ れ よ り.
(16) ヨθ4. 鷲家 口 とニ ホ ンオオ カ ミ. 前 に,「 秩父地方産 ,1886年 (注 :明 治 19)1月 28日 , Ee W.JANSON」. と. い う符箋 つ きの ニ ホ ンオオカ ミの頭骨 が 1個 既 に入 って いたか ら,HUXLEY はあ るいは生 前 にそれ を見 たか も知れな い。. 8. 1905年 ,奈 良県鷲家 口で獲 れた 1頭 の ニ ホ ンオオカ ミにつ いて ,そ の入手 の経緯 ,な らび にその動物学史 的意義 につ いて ,さ べ た。 この狼 はよ く研究せ ―. Washikaguchi" の名 とともに,広 く世界 の学者 の知 るところ とな られ , “ った。獲 られた年 が移 り変 らな い うちに,い ち早 く されたか らで あ る。 ANDERSONも. THOMASも ,. THOMASに. よ って報告・. この 1頭 の狼 が, この 島国. で の最後 の標本 にな ろ うとは,全 く予期 しなか ったにちが いない。 この標本 が 日本 国内 に残 らなか った の は残念 で あ るが ,学 界 に貢献 して 永 く名 を とど めた こ とは, 日本 の狼 の最後 を飾 った もの といえ よ う。 筆者 が この一 篇 を つ くった 目的 は, 日本 の動物学史 の一 酌 としたいためで あ る。厳密 な科学史的 な方法 で は,動 物学史 に動 物変遷史 は含 まれな い。 し か し,動 物学 の研究対象 が動 物 で あ ってみ れば ,広 い意味で ,動 物 の栄枯盛. :. 衰 もまた,そ れ らの研究者 との関連 の もとに,動 物学史 で 取 り上 げ るべ きだ とは,筆 者 の持論 で あ る。 それ は,な お,医 学史 において疾病史 が重 要 なの と同様 で あ る。本篇 はそ うい う試 み の一 つ で あ る。. 謝. 辞. 東吉野村村長松山清太郎,同 助役和泉政治郎,同 経済課長中尾稔 の諸氏は,筆 者 に多 `. 大 の便宜を与え られた。特に中尾課長は,同 役場 の上大谷年弘氏 とともに,小 川 (旧 鷲 家 口)お よび周辺を案 内 して,筆 者 に多 くの知識を与え られた。 また,近 畿 日本鉄道株. 式会社鉄道総局営業企画部 の尼崎博氏は, 筆者 と行を倶 に して , 東 道 と斡旋の労を執 られた。 これ ら諸氏 の厚意 に対 し, ここに衷心よ り深謝 の意を表 したい。 さらに,鷲 家 口出身 の上谷萬吉氏 (在 大阪市 )が 特 に筆者を引見 して, 有益な談話 に時間を割 か・.
(17) 上. 野. 益. 三. 5. Zθ. 本学士院会員大島廣先生 が 一高時代同寮生活者 であった金 井清氏 について,有 力な示唆を与え られ たことに対 し. iれ た ことを,感 謝を も って特記 せねばな らぬ。最後 に,日. ,. ,. I厚. くお礼を中 し上げたい。. 注ならびに ノー ト〕 〔. 1)旧 鷲家 回は国道 を挟 んで南 北 に約 500m,戸 数 は 230を 出な い。 2) ANDERSON,Mo R。 :Malcolm Playfair Andersone Cθ ηグθ″,vol。 21,p.115-一-119, 1919。 Mo R.ANDERSONは MalcOlmの 父 。 江崎悌 三 :「 Duke of Bedfordの 動物学探検」。植物及動物 ,. 3)7上 掲 ,江 崎 ,p.1353。. 3巻 7号 ,p。 1349以 下 ,1935。. これ は金 井清氏 の 日記 を もとに した記 録 。本篇 中 の 日付 は. これ に従 う。直良信夫 :『 日本産狼 の研究 』 (東 京 ,校 倉 書房 ,1965)に ,こ の 日付 を “明治 37年 (1904)"と して あ るのは. (p。. 248,252),ANDERSON来 日の. 年 を誤 って 用 いた もので あろ う。. `4)江 崎博士 が上 文 (注 2)を 執筆 当時 ,こ の人 は 77才 (江 崎博 士 は “現在 80才 に近 い高齢 "と 書 いて い る), ANDERSONを 日本 へ 送 った 当時 は 46才 の壮年 で あ っ た。. BEDFORD公 は動物 が好 きで ,BedfOrdshireの 宏大 な邸宅 WOburn Abbey. の庭 園 に,多 くの鳥獣 を集 めて飼育 した。 また,動 物学者 の Sir Peter Calmers MITCHELL(1864--1945)と 協 j力 して , BedfOrdshireり 1l Dunstable tti圧 に 自然 動物 園を設置 した。1899年 か ら 1936年 まで ,ロ ン ドン動物学会 の会頭 で あ った。 この学会 と大 英博物館 との共 同企画 で , ANDERSONを 日本 および東 亜 へ 派遣 し た こ とは ,こ の. BEDFORD公 の興 味 が大 き く物 を言 って い る。 その出資 が直接. その実現 を可能 に したので あ る。. O 濁1崎 , 前 1局 , p。 1348“ 崎)金 井清 (1884-12-7∼ 1966-4-26)は .. , 長野県上諏訪 (今 , 諏訪市大字 上諏. 訪 )の 生 まれて あ る。 1903年 ,第 一高等 学 校 に入 学 ,1907年 卒業 ,引 きつづ いて 東京帝 国大学法科大学 に入 り,1911年 政経学科 を卒業 。 金 井 が 行 動 を と も に した. 1905年. は. ,一. 高 三年 の と きで. ,21才. で あ る。. ANDERSON. と. ANDERSONが. Japan Timesに 出 した求人広告 に応募 した市河三喜 (1886∼ ;現 ,日 本学士院会 員 ,東 京大学名誉教授 )が 急 に支障を生 じたので,同 じ一高生の金井が代 ったの iだ. という。1905年 も次 の 1906年 も,ANDERSONに 協力 したためか, 4年 間を費. して一高を卒業 している。東大卒業 の年 ,鉄 道院書記 とな ったのを振 り出 しに,金 は終始鉄道畑 で活動 し,1925年 (大 正 14年 )に は,鉄 道省書記官 にな っている。 ■926年 以後 の金井は,大 陸 に出て満鉄等 で重要 な地位にあ った。その後,1945∼. :井. 1955年 には,途 中 3年 間 の空白をおいて,前 後 6年 間,選 任 されて郷里諏訪市 に.
(18) 鷲家 口 とニ ホ ンオオ カ ミ. ゴθδ. 市 長 であ った。市 長退職後 は再 び鉄道 に入 り,昭 和 41年 死 没 した ときには ,社 団. │. 法人 世界貿易 セ ンターの理 事 で あ った。 1938年 (昭 和 13)12月 21日 ,立 川飛 行場 を軍用機 で 出発 した金 井 は,「 奈良県 の上空 でふ と下 を見下 す と杉林 の密林 で あ る。その時 33年 前 此 の杉林 の 中 の鷲家 回の宿 に,M.P.ァ ンダ ー ソ ンと共 に二 週 間 ばか り滞在 して多 くの動物 を採集 した事 を思 い 出 した。」 (後 出,注 15)と 当時. :. を述 懐 して い る。 この とき,金 井 は新 たに 中支 那振興株式会社 の理 事 に就任 し ,. 上海 へ 赴 くと ころで あ った。. 7)四 郷 の久保清右衛 門氏談話 。 8)上 野益 三 :「 和 州吉野 郡 中産 /1n志 」 につ いて 。奈良女子大学生物学 会誌 ,No.lo,, p. 70--74, 1960。. 9)東 吉野村役場 の記 録。 10)金 井氏 の 日記 (江 崎,前 掲,p。 1839に 引用 11)現 今 は,中 国, メキ シ ヨ等 か ら輸入 の原 料 皮 の鞣皮 作業 が 中心 で あ る。ANDER‐ SON当 時 は大部分 国産皮 に 依存 し, 特 にイ ノシシ皮 の農 業者 用靴製造 が盛 んで あ った。 また,筏 づ くり用 の藤蔓 を鷲家 口等 へ 供給 す るの も, ここの仕事 の一つ )。. で あ った。. 12)THOMAS,0.:List of mammals obtained by Mr.M.P.Anderson in Japan,. 1905. Pγ θ θ. Zθ θJ. Sθ θ. 二θ ηグθ π, 1905, vOl. 2, p。. 13)哺 乳類 学者 は,現 今, の狼 を. C´. 331--363.. sJ″ πs力 θグの カノ ακ TEMM.な る亜 種 と し,北 海道 Cα πグ. :. J″πS力 αノ ノ αグKISHIDAと す る。 しか し, ここで は,混 雑 を避 け るた. , ANDERSON当 時 通 り ,ニ ホ ン オ オ カ ミ を C。 力θグの り Jα κ,エ ゾ オ オ カ ミ を ′ C・ ″ πSと して記述する。また,古 くか ら用 い られて いるヤマ イヌの称呼を避´ め. け,ニ ホ ンオオカ ミを用 いた。 14)江 崎,前 掲 (注 2),p.1839。 15)金 井清 :「 日本 で捕れた最後の狼」。満洲生物学会会報, 2巻 , 2号 ,p.19-20, 1939。 前出,注 6参 照。 16)こ の家は,上 谷氏 が大阪市在住 のため,平 素は閉 じてある。 この家 の前 の下,つ まり,か っての 芳月楼 のす ぐ南側は, ANDERSON当 時は上谷氏所有 の 畑地 で. `. あ った。当時小学校 の 上級生であ った 上谷氏は, 斜 め下 の三 階座敷 に 起居する. ANDERSONを 時折 目にすることができた。後年,上 谷氏は上記畑 に貸家を建 て 現在は飲食店芳月,果 物屋, 自動車屋 などが 国道 に面 して軒 をな らべている。か、 ,. つ ての芳月楼 と現在 の 芳月 との間 に, 村役場へ登 る狭 い 石段道 がある。 小谷氏. ^. は,造 作家具室内装飾設計施工 の株式会社上谷製作所 の代表取締役 である。. 17)こ. のときのいきさつについて は,い くつかの文 がつ くられて いる。 高島春雄. 「栄枯盛衰両面鑑 (衰 退者 と侵 略者)」. ,図 解科学 t中 央公論社),No。 10,p。. 55,1942;川 合 禎次 :「 狼 の話」,ひ か り. (近 鉄 総務 局),1953-X,p。. :. 4818-‐.
(19) 上. 20;戸 川幸夫. :「 狼. 野. ヱθ7'. 三. 益. と山犬 」,『 戸川幸夫動物文学 全集 』 (冬 樹社 ,東 京 ),巻. 10,. p, 97--131, 1966。. 18)小 川 (旧 鷲家 口 )の 古美術 商亀屋 主人亀井恭蔵氏 の談話 。同氏先代 の見 聞。 19)阿 部余 四男 :「 ヤ マ イヌに就 いて」, 日本犬 , 2巻 , 2号 ,p。 1-9,6 pls.,1934= 〔ANDERSON採 集 の狼 の頭 骨 の写真 を載 せ る。 この写真 は同博士 の次 の文 に も υ,. %α 磁 グ 0〃″θsカ グ 収 む〕。 ABE,Y。 :On the Corean and Japanese wolves.ノ .Sθ グ ser. B, div。 1, vol. 1, p。 33--37, 5 plse, 1930。. 20)TEMMINCKの S力 (Cα πグ. 原著. ""ノ. (Fauna Japonica,Mammalia,p.38)に は ,Chien hodophilei. α″)と な し,図 版. (tab。. 9)tで は ,GZグ S力 θグの カグJα κ と し,ん が. なか った リ ノ が グ にな った り して い る。直良博士 の『 日本産狼 の研究 』 (注 3) で は, この 図版 (こ の方 が さきに出た ことは本文 中 に記 した)通 りに, あθグの 力み Jα. π が使 って あ る. (p。. 233,290)。. 21)阿 倍 ,前 掲,注 19, 日本犬 ,p.4。 22)岸 田 日出男 :「 日本狼物語」,吉 野史談会機 関雑誌『 吉野風土記 』,No.21,p。 141,1964(ト ー シャ版 );津 田松苗 :「 十津川 の鳥獣」′ 『 十津川 の生物 』 (十 津 川村刊 ,1961), p。. 3-14,. 等 に集録 。 また,阿 部余 四男 :「 日本狼 は現 存 す る. か」,ケ ル ン, No。 27,p。 20-24(27),1933。. 阿部博士 は絶滅 を説 きなが ら. ,. な お残存 の余地 を残 して い る。 この文 は もう 35年 も前 の こ とで あ る。 悲太猪之 介氏. (『. _. 奥吉野動物記 』,朝 日新 聞社刊 ,1957)は 大正 10年 (1921)前 後 まで いた. と考 えて い る。 :「 Philipp Franz von Sieboldの. 23)江 崎悌 三. Fauna Japonica解 説」 (植 物文献 刊. 行会 ,東 京 ,1935)に よ る。 Faunaの p.25-40と tab.11-20は 第三 分冊 と して ,1844年 に刊行 され たが,tab。 1-10は p.1-20と とも,第 一分冊 と して ,. 既 に 1842年 に刊 行 されて いた。Tab.9の 材料 とな った ニ ホ ンオオ カ ミは産地 を 明記 して いな い。 SIEBOLDは 江戸 へ 赴 く途 中,大 坂天 王 寺 の動物商 で,「 一 匹 のオオ カ ミと野生 の イヌ (ヤ マ イヌー Jam卜 irlll)を 買 つ た こ とが あ る。」(斎藤信 訳 ,『 江戸参府紀行』,東 洋文庫 87,平 凡社 ,1967,p。. 241)。 呉 秀 三 訳 (異 国叢書 本 ,1928,p.573)で は ,「 狼 (オ カ メ)Okame一 匹 と勿 (ヤ マ イヌ )Jam卜 intL. 一 匹」 とを買入 れ た とな って い る。 この Jama― inuが 斎藤 訳 のよ うに野生 の犬 と な って い るのは,す こぶ る明快 で あ る。オオ カ ミ,す なわ ち,ニ ホ ンオオ カ ミを ヤ マ イヌ と同一 物 す る人 と,別 物 とす る人 とが あ るか らで あ る。. 24)上 野益 三. :『 お雇 い外 国人 , 3, 自然科学 』(鹿 島研究所 出版会 ,東 京 ,1968),. p. 45。. s力 θ グの んノJα κ (Ternminck and Schlegel)Or Japanese 25) BRAUNS,D。 :On Cα πグ. Wolfo rれθ(Cヵ ζ 力θ 夕 2zπ η z, vol. 1, p. 66--67, l fig。 , Febe 1881,Yokohama, ノsα η′. Kelly& Co.上 記 学名 の命 名者 に SCHLEGELが 連記. して あ るが, これ は.
(20) ゴθ8. TEMMINCKた だ 1人 ,ま た命名者名 に括弧 は不要。 26)こ の図 と,TEMMINCKの 図 (注 20)と , どち らが真 を伝え る ものか。 どち らも 耳殻 が小 さい こ とで は一致 して い るが, 脚 が短 い とい う特 徴 では, TEMMINCK の 図 は 少 し ス ラ リ と し過 ぎて い る。 BRAUNS の 図 は, MIVART,St.G.: A Monograph of the Canidae(Ro H.Proter,London,1890)に. 転載 されて い. る。. 27)前 掲,『 日本産狼 の研究 』,p。. 244。. .28)柳 田国男 :『 遠野 物語』。角川文庫本 (83-5,1955),p.31に. よ る。. 29) BUNNELL,Fr(贅 l and Pille:Extinct and Vanishing Anilnals.Revised English edition of V.ZISwILER'S Bedrohte und Ausgerottete Tieree X 「 figse The Heidelberg Science Library, Vol。. 73. 133 pp。. New York lnc., 2.Springer― Verlag, 〕. 1967。. 130)犬 飼哲男. (哲夫 ):「 絶滅 した北 海道 の狼 」。 日本犬 ,. 2巻 , 1号 ,p.5-11,1. pl., 1933.. .31)前 掲 ,注. 22.. .32) Captain st. JOHN, Ro N.:An excursion into the interior parts of Yamato. .[崎απ,V01。 .Sθ θ Province rγ απs 4sグ α′. 3, p。. 35--48, 1875。. .33)柳 田国男 :「 狼 の ゆ くへ ,な らび に狼史雑話」。 ともに,『 孤猿 随筆』(創 元選 書 38,1939),p。 217-283に 収載。 な お,『 定 本柳 田国男 集 』,第 22巻 ,(筑 摩 書 ,. ラ事用 更),. p。. 307--460, 1926,. 34)ANDERSONは. に北【tr。. 全 部 で 30円 に近 い,予 定 以上 の獲物を買 ったので,旅 費 がな くな. り,金 井氏 に借 りてや っと帰 えれ た とい う (金 井,前 掲 15)。 懐 中 が乏 しくな り 支払 いに もい ざ こざが あ ったのか, 1月 26日 早朝 出発 に際 し,芳 月楼 の前 で楼 主 ,. 前北 と. ANDERSON. とが はげ しい口論 を した とい う (上 谷万吉氏談 話 )。 (Gardens)。 ロ ン ドン動物学 会所属 ,同 学 会蒐 集 の野. i35)Regent公 園 にあ る動物 園. 生 動物 を収容 す る。1827年 4月 27日 開園。創 案 者 は Sir ThOmas Stanford RAF‐. FLES(1781-1826)で あ る。 ん,1878, ηグθ 。 θ.Zθ θ′ .Sθ θ ,二 θ i36) The seCretary on additions to the menagerieo Pγ θ p。. 788.. 37) HUXLEY,T.H.:On the cranial and dental characters of the Canidae.P夕 πグθη,1880, p.238-288。 θJ.Sθ θ.二 θ Z「 θ. ´ θθ ..
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