椙山女学園大学
津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(5)
著者
二宮 俊博
雑誌名
椙山女学園大学文化情報学部紀要
巻
4
ページ
125-157
発行年
2004
URL
http://id.nii.ac.jp/1454/00002390/
本稿には、棒阪東陽﹃杜律詳解﹄巻上の﹁至冒遣興奉寄北省旧間
者両院故人二首﹂英一から﹁江村L詩までを収める。原文の﹁メL
は﹁シテ﹂に、﹁﹁﹂は﹁コト﹂に、﹁躇﹂は﹁トモ﹂に、﹁寸﹂は﹁ト
キ﹂にそれぞれ改めた。明らかに訓点が脱落していると思われる箇
所には、これを補った。また詩句の左傍にところどころ附されてい
る和訓は、※をつけて改行して示した。書き下し文は、紙幅の都合
で省略する。なお、詩題の上には便宜的に通し番号を施した。
*本稿は、平成十六年度椙山女学園大学学園研究費︵C︶の研究報告の二郡である。
022至日遣興奉寄北省旧閣老両院故人二首︵英一︶ 023至日遣興奉寄北省旧閣老両院故人二首︵英二︶4
02恨別 025卜居 026堂成 027賓至 028萄相 029狂夫0
3江村0
津阪東陽﹃杜律詳解﹄訳注稿 ㈲
022夏日遮貰ヲ孝二専ス北省ノ奮闘老両院ノ故人三首︵其こ至冒ハ嬰、至。是ノ日、日行コト簡素霜極か、放こ謂二ち。造ハ猶
銅摘最錮鞭縞綱腿鮒絹針 ︵注2︶
鰻 霜害省素面省ぺ中書門下ヲ華北省㌔李撃カ国鶴野宰相ハ呼テ馬
二堂老ぺ両省相呼テ箪海老↓。蓋中書門下両省ノ宮人互。以二間老づ相 ︵注6︶︵注7︶ 呼也。武后ノ時政丙下省ぷ㌘鸞轟二中吉省ヲ畢鳳閣か墜以レ閤ヲ柄⋮之ヲ也。啓開老餅厳武警ノ輩づ。時譲ハ畢給事中∴禦門
下省ぺ。至︿轡起居舎人一、屈孝吉省t㌔露下撃別ス″憲二閣老 両院ノ遺補ペ詩上、又有下寄二繋厳雨間老盲十韻㌔公往三在㌔綾里酬
儀↓、不レ勝二感慨ぺ因テ賦シテ以寄レ懐プ也。
︵注1︶ ﹃唐詩翳珠払 ︵巻五十一、冬至附腺日徐夕︶に﹁孝経緯に日く、至に三義有り。一は陰極の至り。二は陽気始めて生ず。三は日行商に至る﹂と注す
る。これは、﹃太平御覧畠巻二十八、時序部十三、冬至の粂に挙げる﹃孝
経説払に見えるもの。また宇都宮遜魔の両署には南宋・祝穆﹃事文類栄転
二宮俊博
二宮俊博/沖阪東陽『杜律詳解』訳注稿(五) ︵注10︶ ︵注11︶ ︵注12︶ ︵注9︶ ︵注8︶ ︵注7︶ ︵注6︶ ︵注5︶ ︵注4︶ ︵注3︶ ︵注2︶ 前集巻十二に、天暗部、冬至の条に﹁斗、子を指すを冬至と為す。至に三 義有り。山は陰極の至り。二は陽気始めて至る。三は日行商に至る、故に 之を至と謂ふ﹂とあるのを挙げるが、これも、基づくのは﹃孝経説﹄であ ろう。 何か基づくところあるのか、不明。 例えば、﹃字桑﹄に﹁興は、虚陵の切。普聾。作なり、起なりL云々と。 中庸・杜佑︵七三三∼八一二︶ の﹃通典払巷二十一、中書省の条に﹁時 に尚書省を謂ひて両省と為し、門下中書を北省と為す。亦た門下省を謂ひ て左省と為し、中書省を右省と為す﹂と。輯註︵巻五︶に挙げ、宇都宮遜 魔の両署にも棉註を引く。 娩唐・李肇﹃国史補払巻下に﹁宰相は相呼びて元老と為し、或いは堂老 と為す。両省は相呼びて閣老と為し、尚書丞郎郎申は相呼びて曹長と為 す﹂と。﹃唐詩貰珠﹄ に挙げる。 ﹃旧唐苔払巻四十三、職官志、門下省の条に﹁龍朔︵六六一∼六六四︶ 改めて東台と為し、光宅︵六八四︶改めて饗董と為す。神龍︵七〇五∼七 〇六︶ 復す﹂と。 ﹃旧唐畜﹄職官志、中書省の条に﹁龍朔改めて西台と為し、光宅改めて 風間と為す。神龍復た中書省と為す。開元元年︵七一三︶改めて紫徴省と 為し、五年旧に復す﹂と。 給事中は、正五晶上。門下省に属し、制勅駁正の大事を掌る。﹃新唐書﹄ 巻ニー九、威武伝に﹁至徳の初め、粛宗の行在に赴き、房埼、其の名臣の 子為るを以て、薦めて給事申と為す。已に長安を収め、京兆少野に拝せら る﹂とあり、至徳元我︵七五六︶から至徳三我︵七五八〓ニ月に京兆少甲 となるまで、その任にあった。給事申の威武に対しては﹁厳八閣老に贈り 奉るL詩︵詳註巻五︶ がある。 た 起居舎人は、従六品上。中書省に属し、天子の言葉を記録することを掌 る。但し、ここに起居舎人というのは、中書舎人の誤り。訳注稿臼、008﹁欝 至舎人早に大明宮に朝するに率和す﹂詩の ︵注1︶参照。 詳註巻五。 撃些一年︵七五九︶作の﹁岳州の欝司馬六丈、巴州の厳八使雷雨閣老に 寄す五十韻﹂詩︵詳註巻八︶。 訳注稿臼、011﹁省中の院壁に遷すL詩の詳解に1門下省中の諌院の壁に 題するなり。拾道補閑の両職、供奉諷諌を掌る。︵中略︶故に其の直署を 諌院と日ふLと。 ︵注崇 訳注稿臼、008﹁雷至舎人早に大明宮に朝すに奉和す﹂詩の詳解に1︵丹 鳳︶門内の第一の正殿を含元殿と日ふ。之を大朝と謂ふ。︵中略︶元日冬
至の大朝会には之に御す﹂と。
︵至日︶は、冬至にほかならない。この日、太陽が最も南に行く、 それゆえ︵至︶というのだ。︵遣︶は、解とほぼ同じ。︵興を遣る︶ は、懐を述ぶというのとほぼ同じ。︵興︶は、起である。公は︵至日︶ に心感じて悲しみが︵興︶った。されば詠じて自ら解きほぐすのであ る。︵北省︶は、中書・門下の両省のこと。杜氏﹃通典﹄ に﹁唐人は尚書省を南省とし、中書省を北省とした﹂、李肇の﹃国史補﹄に﹁宰
相は堂老と呼び、両省では間者と呼び合った﹂とある。けだし中書・
門下両省の官人は互いに︵閣老︶と呼び合ったのであろう。武后の
時、門下省を鸞台と改称し、中書省を風間とした。それゆえ︵閣︶
字でこれを称する。︵旧閣老︶は、厳武や雷至の輩を指す。当時、厳
武は給事中として門下省に属し、質至は起居舎人として中書省に属
していた。公に﹁質厳二閣老、両院の遺補に留別す﹂詩、また﹁雷
厳雨間老に寄す五十韻﹂詩がある。公は先に液省にありしとき、︵閣
老︶と呼んでいたが、今は昔のことになってしまった。それゆえ︵旧︶字でこれを称している。︵両院︶は、拾遺・補閑のこと。説は前に見
える。即ち公の同僚の友人で、けだし琴参の輩を指すのであろう。
冬至の朝賀では、天子は含元殿に出御なさる。典礼の盛大さは、元
旦につぐ。公は牽州で去年の朝儀を追憶し、感慨にたえず、それで
賦して懐いを寄せたのである。
去歳慧捧竃腱づ 五撃二鮎入窟行︼㍉
※玉淋⋮タカミクラ鶴行⋮レツ
辰ハ日也。宗ハ謂二鍔ヅ。拾遺ハ掌諜奉づ、則大朝合ノ御淋ハ、蓋某 所レ設也。更ハ歴也、経也。故。五二分シテ夜時↓謂二之ヲ更㌔漏刻毎帰更
文化欄報学部紀要,第4巻,200三i年
︵注16︶ ︵注14︶ ︵玉︶字、銭注︵巻十︶及び輯註︵巻五︶ は、︵御︶に作る。 ︵注ほ︶ 訳注稿畠、008﹁望見単に大明宮に朝するに率和す﹂詩、︵注12︶に挙 げた﹃顔氏家訓﹄巻六、書道第十七の記述の後に﹁更は、歴なり、緩なり。 のみ 故に五更と日ふ爾Lと。 ︵注16︶ 南宋・程大呂︵二二三∼山一九五︶の﹃演繁露﹄巻四、更点の条に﹁点 ごと とは則ち漏を下る滴水を以て名と為し、〓翠毎に又た分けて五点と為す なりLと。 ︵泣け︶ 初唐・李幡︵六四五∼七一四︶の﹁反軍公主の東荘にて宴に侍すL詩に ﹁長産額鷺集まり、仙管鳳凰調ふ﹂の句があり、﹃唐詩某誌﹄ ︵巻主︶は、 讐禽経払の注に﹁鷺は白鷺なり。小は大を掩えず。飛ぶに次序有り。百官 摺紳の象なり﹂とあるのを挙げる。 ︵注望 即博﹃集解払に﹁言ふこころは去年至日、朝に侍して同列に放すること を得たり﹂と。 ︵辰︶は、日である。︵玉淋︶は、御淋のこと。拾遺は、供奉を掌る。 とすれば、大朝会の御鉢は、けだし設えたものであろう。︵更︶は、歴、経の意である。されば夜を五等分して︵更︶という。漏刻は、
︵更︶ごとに五点にわける。︵点︶は、漏を下る水の滴りから名づけ た。︵五更三点︶は、寅の刻六分である。︵鶴︶は、鷺の類。飛ぶのに序列があり、小さなやつが大きなものを追い越さない。それで朝
廷の班列に喩え、これを﹁鶴鷺行﹂という。︵鶴行に入る︶は、︵旧閣老︶の︵故人︶に随って、同列に並ぶことができたのを言う。
欲庸ハ知ント過走傷心ノ地↓ ※趨走⋮トテクサスル 満眼⋮ニギノ︵\シキ 趨達ハ言下身異議吏↓、 ︵注21︶ 者猶レ虞ノ。一本作レ虞正二想フ嵐鼠満眼ノ香
傷心⋮アハレカナシキ 鼠鼠=六ルメキクル ︵注知︶ 趨二謁シテ恥璧、不㍗勝二折腰之勢砺地ハ。嵐鼠ハ香煙瓢揚之貌。脊ハ謂二御櫨之香↓。
紺凋鴨ポ絹鰭∵鏑雛飛避
離簾 ル。四字緊ク相呼應ス。輿二羞将笑山同一封法。蓋両省ノ啓侶、若憐二滴
俊之況ぺ欲⋮ハ知㌔傷心何如ぺ郡應趨走之際、正二爾ク想二像シテ朝儀
呼、去年何等ノ清華ソ、今ハ則
欄
︵注19︶ 辞益﹃分壊﹄︵巻二、時序︶に﹁趨走心を傷ましむる地とは、華州の接 と為って、趨走して郡将に参謁するを言ふLと。︵郡将︶は、州の長官のこと。当分類払は宇都宮避魔の増広本にも挙げる。但し、額辰彗註解払や
張遠璃蚕梓﹄︵巻六︶は左拾遺として宮中に趨達したことをかく言うと解 する。︵注31︶ 参照。 よ ︵注空 訳注稿佃、019﹁早秋熟を苦しむ、唯案相偽る﹂詩の︵注9︶参照。 ︵注む 例えば、﹃草堂詩箋﹄︵巻十三︶は︵地︶を︵塵︶に作る。 ︵注望 訳注稿臼、009﹁宣政殿退朝、娩に左絞を出づL詩の詳解。 ︵注警 ﹃文選﹄巻頭十一に漢・李陵の作として載せる﹁蘇武に答ふる書﹂に、いだ
﹁風を望み想いを懐いて、能く依依たらざらんやLと。 ︵注24︶ 顔猿﹃註解﹄に﹁︵正に想ふ︶は、︵知らんと欲せば︶を蒙り来る﹂と。 宇都宮遜魔の両署た挙げる。なお、鈴木虎雄云牡少陵詩集払︵巻六︶は、この一聯を﹁知らむことを欲す傷心の地に超克し、正に嵐鼠たる満眼の香
を想ふことをLと訓じている。 ︵注空 訳注稿拗、021﹁九日崖氏藍関荘L詩の第三、四句﹁羞将短髪還吹帽、笑 ノト∵. 偶傍人為正冠﹂︵短髪を将って還って帽を吹かれんを羞ぢて、笑って傑人やと
を構うて為に冠を正さしむ︶を指す。 ∴∴ ︵注讐 雪唐詩貫珠﹄に﹁所以に感触す、上年は何等の清華ぞ、今は則ち何等ののみ
卑下なる耳Lと。︵趨走︶は、わが身は下役人となって、長官に小走りで拝謁し、ぺ
こぺこ頭を下げる苦労にたえられないのを言う。︵地︶は、処とほぼ 同じ。一に︵庭︶に作る。︵嵐嵐︶は、香煙がゆらゆらとたちのぼる さま。︵香︶は、御櫨の︵香︶のこと。公は拾遺となって、その班列は膏薬に近かった。説は前に見える。︵満眼︶は、二つのことをかけ
二宮俊博/坪阪東陽『杜律詳解』訳注稿(五)
て、昔日はごくお側近くで︵眼に満ち︶ていたのを言い、またずっ
と懐かしく思い出され、眼前にあるかのようだと言う。︵正に想ふ︶
は、︵知らんと欲せば︶を受けている。四字はぴったりと呼応しており、前詩の︵羞将︶と︵笑︶とが呼応しているのと、全く同じ対句
法である。けだし中書・門下の両省にいる昔の仲間が、もしも定論
された今の状況を気の毒に思って、︵傷心︶のほど如何ばかりかと知
りたければ、郡の役所をかけずりまわっているとき、朝廷での儀礼
の様子をこのように想像して、まだありありと眼前に思い浮かべて
おり、とりわけ懐いをなしがたくしているのである。ああ、去年は
何と清華であったことか、今では何と卑隋の身の上であることか。
時節柄、感慨が生じて︵心︶を︵傷︶ましめるゆえんである。
無レ路従容陪㌔。語琴㌦ 有け時鹸倒シテ著”衣裳↓
※従容⋮エツタリトシテ 願倒⋮トテレマチガヘテ
無瞥二等膵″ヲ。公前二所レ云侍臣援歩、過食従容、今憶妄 ︵注謂︶事ぺ避トシテ隔二雲泥て故。日レ無頼路。深ク噴㌔境界之異↓″ヲ也。
従容ハ聞挺。反二親ス趨走−㌦。陪二語笑廃入義行妻忘謡公
弊鱒銅魂縛紺鍼㌍㌍腑調鍼鞭ハ紺
二倒ス衣裳ヅ。蓋恐再失ンヲ期合↓、致H此狼狽づ。吏務周章、動スレハ糀如 ︵注32︶ レ是ノ也。鳴呼、省官清高、僚トシテ若二紳仙↓、琴泰葡雲之上ぺ輿 ︵注33︶ 下風塵ノ俗吏事㌔″簿書期愈ヅ者上、盈然星淵。追二億スレハ去年ノ亥辰づ、恍惚如こ夢幻↓也。
︵注㌘︶ 拓買讐分類﹄に﹁宮守懸隔して、両院の故人の歓に追陪することを得ず﹂と。宇都宮遊魔の増広本に挙げる。宮守は、職務。
︵注讐 訳注稿司009﹁宣政殿退朝、娩に左絞を出づ﹂詩に1侍臣緩歩して背墳つね
より帰り、過食従容として出づること毎に遅し﹂と。
︵注空 この言い方、例えば、自居易の﹁友を傷むL詩︵﹃自民文集﹄巻二︶に﹁昔年洛陽の社、貧賎相提携す。今日長安の道、対面雲泥を隔つ﹂と。下
文の星淵も同義。かつ
︵注30︶ ﹃史記﹄留侯世家に﹁︵張︶良嘗て閤に従容として下部の祀上を歩瀞す﹂ とあり、唐・司馬貞の索隠に﹁問は、閑字なり。従容は間暇なり﹂と。 ︵注聖 ﹃詩経﹄斉風・東方未明。ちなみに、顧窟﹃註解﹄に﹁︵衣裳を願倒す︶ は、即ち詩の束方未明に衣裳を願倒するなり﹂と注した後、﹁四句倶に走 れ︵去歳玄の辰︶を憶ふ﹂とし、︵趨走︶を内廷でのそれと解する。また 張遠﹃会梓﹄︵巻六︶にも﹁此れ追って拾遺為りし時を憤って作る﹂とし、 ﹁︵趨走︶の句、俗解に倶に説きて撃州の操、上官に趨謁すると為し、︵願 倒︶の句、此に頂すと。非なり。昔日趨走の地、今は心を傷ましむるに足 れり。下の︵無銘︶二句の意を含む。︵顕倒︶の句、亦た是れ心に君を忘 れず、恍として朝謁の時の態の若き耳﹂と説いている。﹃註解転は宇都宮 邁魔の両署に、ぷ歪㌘ は詳説に挙げる。 も ︵注望 ちなみに、﹃夜航詩話転巻三に﹁按ずるに青雲は本と晴天を謂ふ。因っ て人の顕著なるを謂ふに、徳を以て言ふ者有り、位を以て言ふ者有り、又 た世外高志を言ふ有り﹂として、それぞれの用例を挙げる。 ︵柱野 ちなみに、﹃夜航詩話﹄肇こに﹁風塵も亦た数義有り﹂として、﹁兵乱を ひろ 言ふ﹂﹁物外に対して人糞を謂ふ﹂﹁俗累を謂ふ﹂﹁泣く官途を指して言ふ﹂ ﹁俗吏の職を謂ふ﹂﹁京官に対して郡県を謂ふ﹂﹁妓坊を謂いて風塵と為 す﹂と説いている。なお、詩語としての︵風塵︶を論じたものに、松本肇 ﹁杜甫美風塵﹄考﹂︵﹁筑波中国文化論輩﹂四、一九八讐があり、後藤秋 正・松本輩編﹃詩語のイメージー唐詩を読むために﹄︵東方書店、二〇〇 〇年︶ の申に﹁風塵﹂の項目︵谷口真由美執筆︶が立てられている。︵路無し︶は、職務がまるっきり隔たってしまったことを言う。公
は前に﹁侍臣援歩﹂﹁退食従容﹂といっていたのが、今そのことを憶
うと、はるか雲泥を隔てたようで、それゆえ︵路無し︶という。境
遇が異なるのを深く嘆いているのである。︵従容︶は、のんびりと暇
なさま。︵趨走︶に対比して際立たせている。︵語笑に陪す︶は、︵鶴行に入る︶に対応している。諸公に陪して朝儀を待つ間に、言談歓
笑したことを言う。これは直ちに︵正に想ふ︶の句を承けている。
︵衣裳を願倒す︶は、︵知らんと欲す︶の句を承け、会計処理に奔走することのあわただしきを言う。﹃詩経﹄斉風に﹁東方未だ明けず、
文化情報学部紀要,第4巻,2004年
衣裳を願倒す﹂と。けだし会計処理の期日を失せんことを恐れ、か
かる狼狽ぶりを招いたのであろう。吏務にあたふたとして、とかく
このような具合であったのである。ああ、省官の清血見なること、神
仙のようであり、まことに青雲の上にいて、魔境にまみれた俗吏で
帳簿をつけたり会計処理を仕事とする者とは、はるか天淵の差があ
る。去年のこの日を追憶すると、ぽうっとして夢か幻のようである。
何人ソ錯テ認ム窮㍑愁ヲ日卜
日日愁ハ随ご線−意力ラン鱒窮愁日⋮メチタキヒカラ
六翁撃空目ヲ儀哀愁之日㌔窮ハ遜也。長至之日、陽長シ陰油ス、故 二
謂二之愁敵城ギ警ヂ家家慶賀シテ忘逐ヲ和歌パルヲ也。此翻案シナ用
レ之言言姦ノ辰愁何ソ曾テ姦ン、乃愁ノ長スル日耳。不レ知何人力錯り認テ
以慧義之日尋。宝達ル犠畜く傷憲ヲ、愁之甚キ也。重
言二至後者始テ長づ。公ノ詩又云、刺繍五紋漆二錫線∵男女工以験パブ
暑ヲ、用二時俗ノ事づ。文昌和琴唐ノ宮中以二至靂㌍冒之長短ぺ冬
至ノ後日暑漸ク長。卜檜二一線之功ぺ是也。此言下自レ定日日随け各ノ長
ぺニ、而吾愁亦應諒レ長キヲ、遮︿不㍑可レ堪也。鶴野云、愁人糞 坤
夜ノ長ヅ、今乃菱二日ノ長てヲ甚シ央。公之愁之切ナル也。此詩首二句言
下往。箪l拾遺↓之発㍍。中二聯言下今夢藤吏↓之努lセ輿恒懸レ閑ヲ思レ友ヲ之切㌔結挽テ到二玄辰傲ギ畷憲節即墜レ愁ブ。二句無数ノ曲折。
︵注ヰ2︶ ︵注41︶ 奮本認作レ憶。、日日作二愁日︼一て鱒蕗。今従ツ朱鶴齢力輯註本㌦東レ之 ヲ0 ︵注34︶ 彗唐詩貫珠払に見える。六壬は、占法の一。六壬督というのは〓鱒的な言い方で、胡以梅の引くのが具体的にどういうものかは不明。
︵注35︶ 那宝﹃集註﹄及び辞益﹃分類﹄に﹁窮愁日とは、長至の冒、陽長じ陰消 す、故に之を愁尽きる目と為すLと。長至は、冬至のこと。﹃分頬﹄は宇都宮遜魔の増広本に引く。
︵注36︶ 王維の﹁九月九日山東の兄弟を憶ふL請︵還議運払巻七︶ に﹁佳節に ・㌻1︰・達ふ毎に倍ます親を思ふ﹂とあるのを踏まえた表現。
︵注37︶ ﹁小室﹂詩︵詳註巻十八︶ に、次のように見える。 ︵注38︶ 還義歯珠払 ︵巻五十山、冬至︶に﹁小室﹂詩を載せ、﹁文昌雑録に日く、 ひかぼ ほか 唐の宮中、女エを以て冒の長短を揆る。冬至の冒各漸く長く、常日に比 して一線の功を増すLと注する。但し、宋・感元英誓文昌雑録転には見あ たらない。﹃集千家注﹄ ︵巻四︶の﹁至日遊興﹂詩の注に讐庸雄録﹄として ほぼ同様の記事が見え、﹁小室﹂詩の銭注︵巻十六︶や﹁至日遊興﹂詩の 蛸註も﹃煩雑録払として挙げる。﹃集千家注払は宇都宮遜魔の増広本にも 挙げる。なお、﹃唐雑録﹄のことは、胡仔﹃箸濠漁隠革話弘前集巻十、杜 少陵五に引く黄庭堅の語に次のように見える。 至日に云ふ、﹁愁日愁は一捷に随って長からん﹂と。釈する者謂ふなら く﹃歳時記﹄に云ふ、﹁宮中紅線を以て日影を盛り、至冒は日影一線を 増す﹂と。而して讐庸雄録﹄に謂ふ、﹁宮中、女エを以て冒の長短を揆 る。冬至の後、目鼻漸く長く、常日に比して∵採の功を増すLと。 ︵注39︶ 晋・樽玄﹁雅語﹂ ︵誓文逆転巻二十九︶ に﹁志士は冒の短きを惜しみ、愁 人は夜の良きを知るLと。 ︵注40︶ 彗唐詩貫珠﹄ に﹁結びは挽きて玄辰傷心に到るなり﹂と。 ︵注41︶ 那博﹃集解払を指す。郡宝﹃集註﹄、辞益彗分類臨も同じ。 ︵注42︶ 銭注及び樽註は、︵認︶を︵憶︶に作り、銭注に﹁一に認に作るLと注 する。また︵日日︶を︵愁日︶に作り、ともに﹁刊は日日に作るLと注す る。蛸註は宇都宮遜魔の増広本にも引く。 ﹃六壬書﹄ に﹁至日を窮愁の日と為すLと。︵窮︶は、尽である。長至の日は、陽の気が生じ陰の気が極まり尽きる。されば、愁尽き
る日という。けだし人々が慶賀し憂いを忘れて歓ぶことを言うので
あろう。ここでは翻案して用い、︵玄の辰︶に︵愁︶がどうして尽き 天時人事日用催 冬至陽生春又釆 刺繍五紋添弱線 吹餞六棺動飛雇 岸容待厳格紆柳 山意衝寒欲放梅 祭物不殊郷隣異 教見且覆掌中杯 天時人事 日相催す 冬至 陽生じて春又た発たる 刺繍の五紋は弱線を添へ 吹覆の六咤は飛灰を動かす = 岸容は脱を待ちて将に柳を鮮べんとし 山意は寒を衝きて梅を放たしめんと欲す 雲物殊ならず郷国異なり 児をしてゑつ覆はしむ掌中の杯 ■.二宮俊博/樺阪東陽『杜律詳解』訳注稿(五) あやま ようか、かえって︵愁︶が︵長︶ずる︵日︶なのだ。︵何人︶が︵鋳 り認︶めて︵愁︶ の尽きる︵日︶とするのかわからない、と言う。 けだし佳節に逢うとかえってますます心を傷める、︵愁︶が甚だしい のである。︵一線︶は、冬至の後、日影がようやく︵長︶くなること
を言う。公の詩に﹁刺繍五紋弱線を添ふ﹂と。女の針仕事が日の長
短で進み具合をはかることを指す。当時の風俗を用いている。﹃文昌
雑録﹄ に﹁唐の宮中では女官の針仕事で日の長短をはかり、冬至の
後は日影がしだいに長くなるので、それにつれ一線ぶん多くできる﹂
とあるのが、それである。ここでは、これより︵日日︶日影が︵長︶くなるにつれ、わが︵愁Yもやはり︵長︶じてゆき、いよいよがま
んならなくなるだろうと言うのである。古詩に﹁愁人は夜の長きに
苦しむ﹂とあるが、今はかえって日の︵長︶くなるのを憂うるのが
甚だしい。公の︵愁︶が切実であるからだ。この詩の首二句は、さ
きに栄えある拾遺となったことを言う。中二聯は、今は下役となっ
て苦労していることと朝廷を慕い友を思う気持ちの切実なこととを
言う。結びは、︵玄の辰︶の︵傷心︶に到り、佳節に却って︵愁︶を 増加させるのを嘆く。二句は無数の曲折がある。旧本は︵認︶を︵憶︶ に作り、︵日日︶を︵愁日︶に作るが、いずれもよくない。今、朱鶴齢の輯証本に従ってこれを改める。
023︵其ニ︶憶フ昨遭造タリ供奉ノ班 去年今日侍㌔龍墾
※昨⋮キノフマデハ 遣遥⋮エツタリ 供奉班⋮オソバノレツ
昨ハ指二鎗遁放歌以前づ。雄三己。禦牛歳ぺ猶如二昨日頚遼遠ハ晴
之貌。追憶
間優肪二朝官之遼遠ぺ益傷二郡操之走趨ぺ所三以特。下 蜜
季肇供奉ハ拾遺之職。唐ノ梅撃拾遺掌謀奉諷諌づ。蓋近侍 ︵注 3︶ シテ供筆て奉引導レ率ヲ、有策惑失ポ毎拾テ而進レ諌ヲ也。班ハ侍 ㍑朝こ序列也。天顔ヲ稗素顔ぺ演高租故事。拾遺ハ近臣讐尺ス和戯 ぺ故。日レ侍㍉龍顔1日レ昨卜日一㌦去年ぺ寓コ流年之感づ。言二事ハ猶 如レ昨ノ、年ハ己一周パ″ヲ也。 ︵注1︶ 何か基づくところあるのか、不明。ちなみに、宇都宮遜魔の詳説には﹃荘 子﹄林希逸注の﹁遭遇は、優湛自在を冨ふ﹂というのを挙げる。さ
な
︵注2︶ 彗大唐六典弘巻八、門下省の条に﹁左補闘左拾遺は供奉諷諌、乗輿に庖 従するを掌る。凡そ令を発して事を挙ぐるに、時に便ならず、道に合はぎ る者有れば、大なるは則ち建議し、小なるは則ち上封す。若し賢良の下に 遺滞し、忠孝の上に聞こえざれば、則ち其の事状を条して之を薦言す﹂と。 ここは、﹃唐詩貰珠﹄ に挙げるのに拠る。 おばよそ ︵注3︶ 彗唐詩貰珠払に﹃唐六典﹄を挙げた後、﹁大約是れ朝廷に奉引近侍する者、 過失する所有らば、則ち拾って諌を進むるなり﹂と。 ︵注4︶ ﹃史記﹄巻八、高祖本紀に﹁高祖人と為り隆準にして龍顔﹂と。 しせき ︵注5︶ ﹃左伝﹄倍公九年に﹁天成、顔を遮ること爬尺ならず﹂と。︵昨︶は、今夏の放歌以前のことを指す。すでに半年を経ているけ
れども、なお昨日のことのようであるのだ。︵遼遠︶は、清閑優済のさま。朝官の︵避退︶たるを追憶し、ますます州の下役の身でかけ
ずり回っているのを傷んでおり、特にこの二字を置くゆえんである。
︵供奉︶は、拾遺の職。﹃唐六典﹄ に﹁拾遺は供奉諷諌を掌る﹂と。けだし近侍して事に供し、行幸の先導をつかさどり、過失があれば、
それを拾いあげて読書を進めるのである。︵班︶は、朝廷に侍する序
列である。天子の顔を︵龍顔︶と称するのは、漢・高祖の故事。拾
遺は、天子のつい冒と鼻の先、ごくお側近くにいるので、︵龍顔に侍
す︶という。︵昨︶といい、︵去年︶というのは、年月の流れに対する感慨を寓する。つい昨日の事のようであるが、年はもう一回りし
たことを言うのである。 麒麟不ルテ動墟煙上り 孔雀徐ク開テ扇影還″も
︵注6︶ 折こ用ス麒麟櫨孔雀扇づ。麒麟ハ瑞獣、御燈ノ祈り鎗、不動二字妙ナリ。見二器之重大、鋳之巧妙づ。言下其勢殆欲二活動てト而帖然トシテ能不㌘
※不動⋮ドッシリトシテ 徐⋮ソロリト文化情報学部紀要,第4巻,2004年
︵注8︶ 勤也。且未レ言レ嘘ヲ、誹汐麒麟㌔是清物、則雷レ動而不レ動、語法も
尤工。又輿二上ノ宇山有二開合元妙。上ハ言二風静。シテ袋粂トシテ而揚⋮ヲ。 孔雀ハ文禽、箪憲ハ尾↓鵠レ扇卜。天子升レ殿。、両謂容以レ崩ブ擁障ス、 ︵▲・江〓︶ 詳こ見二鶉撫−㌦。懲用二雉尾扇づ。開元ノ初、改チタ繍孔雀づ。徐開テ扇 影還ハ、廉儀坐定テ、乃徐。開分レ、於レ是。拉ヒ捧テ退キ還テ入レ内。也。︵注13︶ 綱引当机餉醍醐鰻雛鞭撃鍼摘銅摘銅⋮
侍ルナ朝。所レ見シ、追憶シテ言レ之ヲ。 ︵注6︶ ちなみに、﹃詩轍﹄巻五、句法に﹁用字有二桁閑之法㌔老壮、麒麟不 レ動感煙上り、孔雀徐開テ扇影還。麒麟ノ香焼・孔雀尾扇ヲ折開シタリ。 ︵中略︶ 折開ハ字ノ連綿スル間ヲ、佗字ヲ以テワルナリL云々と。 ︵︰だ7︶ 讐唐詩貰珠払に﹁杜語釈義に日く、麒麟は株数、御感の縛る所なりと﹂。 感語釈義弘については、未詳。訳注稿由、0071脇目﹂詩の︵注工参照。 ︵注8︶ 彗夜航詩話払巻三に﹁杜詩に﹃麒麟動かず櫨煙の上払と。大明宮の朝儀もち
を言ふ。舷は元と敷かざるは、冨を須ひず。而して特に︵動かず︶と日ふ 者は、其の勢ひ殆ど活動せんと欲して帖然として能く動かざるを言ふな りLと0 ︵注9︶ 開合は、詩学用語で展開、収束等の変化をいう。開聞とも表記する。 ︿注10︶ ﹁訳注稿﹂臼、010﹁紫褒殿退朝の口号L詩。 ︵注11︶ ﹃大唐大典払巻十∴ 殿中省、尚筆局の条に﹁孔雀扇∴宵嘉十有六。左 右に分居す。旧と雉尾扇。開元の初め、改めて繍孔雀と為すLと。蛸註に 挙げ、宇都宮遜魔の増広本にこれを引く。なお、詳説にはぷぶ稗﹄︵巻六︶ に挙げるのを引く。 ︵注12︶ 金翠は、昭容が頭につけている金や翳翠の髪飾り。﹃文選払巻十九、懲 櫓の﹁洛神の駅﹂ に﹁金翠の首飾を戴き、明辣の確舶を綴る﹂と。 ︵注13︶ 金蓮は、﹃南史払斉紀下、廃帝東昏侯に﹁金を整って蓮華と為し以て地 に帖し、洒妃をして其の上を行かしめて日く、此れ歩歩金運を隼ずるなり とLと見える。ここでは、昭容の小さな足、もしくはその歩きぷりをいう。 霧容は、ゆったりとしたさま。 ︵注14︶ もとは、四方に窓が多く広々として明るいこと。転じて明々白々で完全 無紋であること。八窓玲礫ともいう。なお、活句は活発生動の句。もとは禅語。﹃漁浪詩話﹄詩評の荒井健訳注参照。
︵注15︶ ﹃左伝﹄嚢公二十九年に、呉の公子、挙札が舜の楽たる詔簡を舞うのを見て感嘆していった言葉の申に、﹁観止む央。若し他楽有るも、苦れ敢へ
のみ
て諮はぎる已﹂と。
︵麒麟臆︶︵孔雀扇︶をそれぞれ二つに分けて用いる。︵麒麟︶は瑞獣で御感に鋳造されたもの。︵不動︶の二手が絶妙である。器物の重
く大きいことや鋳造の巧さが見て取れる。まるで今にも動き出しそ
うな勢いで、それがどっしりとして︵勒︶かないことを言う。それ
にいまだ︵櫨︶と言わないで、ただ︵麒麟︶というのだが、これは
活物で、当然︵勤︶くはずだが実際は︵動︶ かず、語はとりわけ巧
みである。また︵上︶の字と開合があるのも絶妙である。︵上る︶は、風が静かでゆらゆらと揚がることを言う。︵孔雀︶は、綾模様のある
きれいな鳥で、その尾をあつめて︵扇︶ にする。天子が昇殿される
際、二人の昭容が︵扇︶ で覆いさえぎる。詳しくは前に見える。も
とは雉尾扇を用いたが、開元の初めに改めて繍孔雀を用いるように
おもむ
なった。︵徐ろに開いて扇影還る︶は、天子が着座されて、ようやく
︵徐ろ︶に︵開︶き分かれ、そうしてともにそれを捧げて退き︵選︶って内に入るのである。︵影︶の字は、歩むにつれ光きらめき金や薪翠
の飾りがゆらめくのをあらわす。︵還︶の字も、ゆったりと裳裾を曳
いて去るのをあらわす。あたかも冒のあたりみるかのようだ。すべ
て八面玲瀧の清句で、これ以上のものはない。これはいずれも︵去
年︶ の︵今日︶、朝廷に侍って見たものを追憶して言う。玉凡由来天ノ北極 朱衣只夜こ殿ノ中堅
※玉几⋮オキヤウソク 北極⋮オタブカシ 朱衣只⋮オメツケバカリ
︵注16︶ 机諦観絹雛㌶銅鞄鍼綱鍼鍼㍍照
総錦づ。天ノ北極ハ言レ非鵠ヲ復人間之境㌔日レ天t占レ北ト、以三高仰クト ︵注19︶ 興ジ北南蔓責レ之ヲ。蓋御座粛穆深遠、如∵ァ虞㍊天之北極ぺ而朝臣一■■
二宮俊博/津阪東i場『杜律詳解』訳注稿(五) 参謁、如二衆星ノ環扶㌶也。朱衣ハ指二殿中侍御史↓。唐書職翫撃殿
錮摘錮が一般鍼鯛招鮮離鞭絹ほ網ハ絹 ︵注
22︶ 皆班㍊於殿延べ。御史猫升レ殿。、具略僚然ダリ。故。日只在二殿ノ中間一﹁ ︵注23︶ 夫レ御史ハ琴南霜之任∴百僚所二雷恐て官之雄峻、英二之。比パ″焉。 其在二殿上∴僚然相臨ム、緋杉皮曜、厳威稜稜、令コト人ヲシテ粛粛リラ、 在二言外妄。二聯皆自二前首ノ正。想養シ釆″。 ︵注16︶ ﹃礼記﹄曲礼上に﹁天子は穆穆たり、諸侯は皇皇たり﹂と。孔穎達の疏 に﹁穆穆は威儀多き貌﹂。 ︵注17︶ 彗尚書﹄顧命に﹁皇后玉几に憑る﹂と。皇后は大いなる君の意で、周の 成王を指す。ここは、﹃唐詩貫珠﹄ に挙げるのに拠る。 ︵注18︶ ﹃西京雑記﹄巻上に﹁漢制、天子は玉几。冬は則ち総錦を其の上に加ふ。 之を鋸几と謂ふ﹂と。梯錦は、厚く織った錦。ここは、﹃唐詩貰珠﹄に挙 げるのに拠る。 ︵注19︶ 還義歯珠﹄に﹁︵玉几由来天の北極︶は、一に由来天の北極の如くして 而して朝臣衆星の如く環洪するを言ふ。一に御座粛穆深遠、天の北極に処 るが如きを言ふLと。衆星は、還笠澗﹄為政箭の﹁政を為すに徳を以てす るは、撃へば北辰の其の所に居て、衆屋の之を共するが如し﹂を踏まえる。 ︵注20︶ ﹃唐詩貰珠﹄に挙げる。﹃旧唐杏﹄巻四十四、職官憲三に﹁殿中侍御史六 人。従七品下。︵中略︶殿中侍御史は殿延供奉の儀式を掌る。凡そ冬至元 ごと ろば 正の大朝会は、則ち畏服して殿に升る。郊祀巡幸の若きは則ち薗簿中に於 よ いて非違を糾察し、畏服して旗門に従ひ、文物の戯関する所有るを視れ ば、則ち之を糾す﹂と。元正は元旦。なお、︵具服︶を東陽は﹁服を具すL と訓じているが、﹃旧唐書払巻四十五、輿服志に﹁朝服﹂の下に﹁亦名呉 服﹂と注することからすれば、具服のままでよかろう。 ︵注21︶ ﹃唐詩貰珠﹄に挙げる。﹃旧唐書﹄輿服志にそのままの表現は見えないが、 ﹁六品已下、杉するに緋を以てす﹂とある。 ともなんぢみ ︵注22︶ 具臓の語は、﹃詩経﹄小雅・節南山に﹁赫赫たる師ダ、民具に爾を瞼る﹂ とあるのに基づく。 ︵注23︶ 元・馬端臨︵二一五四∼∼︶ の門文献通考﹄巻五十三、職官考七、御史 台の条に﹁隋及び唐は皆な御史台と日ふ。寵朔二年︵六六二︶改めて怒台よ
つか巻ど ひら と為す。威亨元年︵六七〇︶旧に復す。門北開き、陰殺を主る。故に御史 は風霜の任為り、不法を弾糾し、百寮の欝恐す。官の雄峻、之に比する美 し焉﹂ と。上の句は、天子の威厳ある様子を言い、下の句は朝儀の厳粛なあり
がこれをとりまき浜手の礼をしているかのようである。︵朱衣︶は、 た さまを言う。︵玉几︶は、天子が覚りかかるもの。﹃尚書﹄顧命に﹁王、 玉几に憑る﹂、﹃西京雑記﹄ に﹁漢の制度では、天子は玉几を用い、 冬には綿をつける﹂と。︵天の北極︶は、ふつうの人間世界ではない ことを言う。︵天︶といい、︵北︶というのは、群臣が高く仰ぎみる のと天子が北面するのとから言う。けだし御座は厳かに奥深く、︵天︶ の︵北極︶ にあるかのようであり、朝臣が参謁するのは、多くの星殿中侍御史を指す。﹃唐書﹄職官志に﹁殿中侍御史は、六名。殿廷供
奉の儀式を掌る。すべて冬至や元正の大朝会には、朝服を着て殿に
昇り、非違を糾察する﹂、また輿服志に﹁その公服は緋杉﹂とあるの
が、そうである。百官はみな殿廷に整列するが、御史だけは昇殿し、
仰ぎ見るとおごそかである。されば︵只だ殿の中間に在り︶という。そもそも御史の職は風霜の任であって、百官の恐れ震え上がるもの。
官の雄々しく峻厳なること、これに比肩するものはない。殿上にあっ
て、いかめしく脱みをきかせ、緋色の上衣がきらきらと輝き、おご
そかでいつくしく、人を粛然とさせること、言外にあらわれている。
この二聯はいずれも、前首の︵正に想ふ︶から生じて来たものであ
る。 孤城此日堪㍉腸断瑚二 愁テ封ス寒雲白シテ満レ山こ ※白⋮サビレテ 山ハ指二華山ヅ。在二州之西一﹁愁封寒雲白満山、輿二正想気息満眼香 五。相反ス。不二麹傷心﹁ナラ、所二以腸断⋮。前六句追テ述二去年至日 之事づ、慎二想ス朝儀之盛﹁シヲ。結乃述二今日之傷感ペ言二孤城寂蓼、 前官無聯、空山白雲、寒景凄然、猫坐相封シテ、愁腸欲㌶ヲ断ント也。文化情報学郡紀要,第4巻,2004年
一括淡然洗二准ス鉛筆ぺ亦得二停句之妙ぺ而無レ限感慨、亦溢m乎言表萎。白﹁枚挙て非ナリ。
︵注24︶ ﹃分類払及び銭注、樽註は︵雪︶に作り、鴫註に﹁詩説餓永に云ふ、唐 本牡詩、自に作ると﹂と注する。これは彗集千家註﹄ ︵巻四︶に引く遭次公注に既に挙げる。彗詩説構永﹄は、爾来の詩話。著者不明。明・胡仔還口
渓漁隠輩話﹄後集巻八にも引く。
︵山︶は、華山を指す。州の酉にある。︵愁ひて対す寒雲白くして山 に満つ︶は、︵正に想ふ嵐鼠満眼の香︶とまったく相反している。た だ︵傷心︶するのみならず、︵腸断ゆ︶るゆえんである。前の六句は ︵去年︶ の︵至日︶ のことを追述し、朝儀の盛大であることを追懐 回想している。結びでやっと︵今日︶の感傷を述べ、︵孤城︶の寂蓼として、舷諭された身でやるせなく、冬枯れた景色が寒々とし、ぽ
つねんと独り向き合えば、︵愁い︶のあまり︵腺︶が︵断︶ちきれそうになるのを言うのである。結びはさっばりと化粧を洗い落として
いて、ここも均整の妙を得ており、無限の感慨が、やは里冨褒にあ
らわれている。︵白︶字、山に︵雪︶ に作るのは、よくない。 24恨レ別ヲ0
此賽裏作ル。恨下別”家。漂二泊シ遠方山一て諸弟亦離散、不㍗知レ在ジ何 ︵注 1︶ 鹿川冠。乾元二年十二月、公人レ萄。。按㍑。詩中空ハ年老二江連三 語㍍、雷レ在二卜居之後車鮎撃公初至議都ぺ末レ得レ所軍政 ︵注3︶。以レ別ヲ為レ恨卜。不レ知唐室板蕩、故国陥レ虜。、維レ得︰所”依、憲不
㍉以レ別プ雷電卜。公山蒜冊ラン焼酎胡商ノ到虞ヲ男衆ト、一夕垂ハ酵 飽づ、便不レ思レ郷ヲ賓登註家反テ畢作者之累ぺ何ソ其触駁£也。
︵注1︶ 宇都宮遊庵の増広本に挙げる明・単複の年譜に見える。 ︵注2︶ 元・虞集︵字は伯生、山二七二∼一三四八︶撰とされる﹃杜律彪註﹄のこと。但し、これは虞集に偽託したもので、実際は明・張伯成の撰になる
もの︵﹃四庫全書総冒提要﹄集部、別集類存胃︶。案文八年︵〓ハ六八︶の和刻本があり、汲古書院﹃和刻本漢詩集成唐詩第二怖﹄に影印を収む。そ
のなかに、﹁公、官を棄てて筍に入る。未だ依る所を得ず。故に別れを以 て恨みと為すなり﹂という。なお、郡機長集解誓も﹁公、筍に入って未だ 依る所を得ず。故に別れを以て恨むことを賦す﹂と。 ︵注3︶ 世が乱れること。板も蕩も、もとは彗詩経﹄大雅の箇名で、ともに周・ 腐王の無道な政治をそしる歌。 ︵注4︶ 低客は、船を使って移動し商いをする者。楽府惑に﹁借客楽﹂がある。 胡商はペルシャの商人。 なお、133﹁蔑蘭﹂詩に﹁佑客胡商Lの語が見え、東陽の詳解に﹁佑は物 価を論ずるなり。佑客は時価を候って以て利を射る者。江佑・漕佑・塩佑ゆ
たか やす 等有り。皆物価の低昂に因って、低く買ひ牽く売るの徒。胡は本と西北夷 もた みせ の称。其の人貸を蘭らして異邦に適き、留まって雄を開いて交易す。唐の つぬ 時、揚州常に波斯の胡店有り。想ふに亦た古へ既に之有り。後演習馬接が すなは 伝に伏波は西域欝胡に類す。到る処観ち止まる。是れを以て利を失ふ、 ひろ と。足れなり。因って遂に泣く貿を謂ひて胡と為す。辛延年が羽林郎の詩 に将軍の威に依侍して、調笑す酒家の胡の如きに至っては、当櫨の侶女を ひさ 謂ひて胡と為す。故に胡姫の称有り。貸を驚ぐを商と日ふ。胡商は只だ足 れ行翳、必ずしも真の暫胡ならざるなりLと。なお、﹁胡簡﹂には﹁タピ アキンド﹂と左訓を施す。 こうか ︵注5︶ 傑併は、言葉がでたらめで正しくないこと。双声の語。例えば、﹃広韻﹄ に﹁締、健棒。言語度無し﹂、﹃大広益会玉笛﹄に﹁願は胡鈎の反。健棒は、 言正しからざるなりLと。 これは筍での作。家郷に︵別︶れて遠方に漂泊し、弟たちも離散し、どこにいるのかわからないのを︵恨︶んだのである。乾元二年︵七
五九︶十二月、公は萄に入った。詩中の︵五六年︶︵江辺に老ゆ︶の二語を考えるに、当然次の﹁卜居﹂詩の後でなければならない。﹃虞
註﹄ には、公が成都にやって来た当初、身を寄せるところなく、そ
れで別れを恨みに思ったのだという。わからぬのだろうか、唐朝は
乱れ、故郷は胡虜の手に落ちたのに、身を寄せるところがあっても、
どうして︵別れ︶を︵恨み︶に思わずにおられよう。公は、佑客胡
商の行く先々を家となし、存分に酔い腹一杯食うことさえできれば、
二宮俊博/棒阪東陽『枚律詳解』訳注稿(五)
それで故郷のことなどつゆも思わない適中となんで同じであろう
か。注釈家が逆に作者のわざわいとなる、何とでたらめな言い草か。
洛城l別四千里 胡騎長駆ス五六年
︵注6︶ 公骨組以来居二洛陽素意田園㍉放こ公雄レ生首寧、︿準 常二指頭薦二鍔冨二軋軍。萄ノ成都距冠陽プ亨讐里。 ︵注11︶︵注12︶ 胡騎ハ指二安史之乳ヅ。自二天資十五歳安藤山反て其子慶緒及史 ︵注13︶思明父子能テ起り、至‡元元年議就未レ平、已二六年ナリ央。去年秋、
思明陥m洛陽づ、故。此詩哀レ之ヲ也。 ︵注6︶ 杜依蕃のこと。﹁訳注稿﹂H、﹁杜文貞公伝﹂ ︵注4︶参照。 ︵注7︶ 訳注稿H、﹁杜文貞公伝Lに﹁公、杜陵に生まる。其の田園は則ち洛陽 に在り﹂と。なお、鱒註︵巻七︶ に宋・題次公の注を引いて、﹁公田固有り洛陽に在り。故に洛陽を指して家と為す﹂と。輯註は宇都宮遊魔の増広
本にも挙げる。
︵注8︶ 銭注︵巻十〓及び輯註に指摘。輯註は宇都宮遜魔の両署にも挙げる。 ︵注9︶ 何に基づいたか、不明。﹃元和郡県図志転巻三十一、剣南道、成都府の条には﹁東北のかた東都に至る二千八百七十里﹂と。
︵注10︶ 辞益二分額﹄ ︵巻一、紀行︶ に﹁胡騎は安禄山史忠明の乱を指す﹂と。宇都宮遜魔の増広本に挙げる。
︵注11︶ 安禄山が乱を起こしたのは、天宝十四我︵七五五︶十一月のことである。なお、﹃資治通鑑﹄巻ニー五、天宝三我の条に﹁春正月、丙申朔、年を改
めて我と日ふ﹂とあり、この天宝三我︵七四四︶から粛宗の至徳三載︵七 五八︶二月まで我を用いた︵この年の二月、乾元と改元し、我を年に復す る︶。 ︵注12︶ 安禄山・安慶緒父子については、﹃旧唐書﹄巻二二〇上、﹃新唐智﹄巻二 二五上に伝がある。天宝十四載十一月、汚陽︵北京︶で反乱を起こした安禄山は、十二月に洛陽を奪い、十五載一月に大燕皇帝と僧称。六月には長
安を陥れた。しかし翌年の至徳二我︵七五七︶一月、部下の厳荘・李菊児に殺された。安慶緒は、禄山の第二子で、厳荘らに擁立されたが、壁些一
年︵七五九︶ 三月、史思明によって縫殺された。 ︵注13︶ 史思明は、突庶系の雑胡。安禄山とは同郷で、生まれたのもー日適いで あったという。至徳二我、いったん唐朝に降ったが、乾元元年︵七五八︶ 再び叛き、大聖燕王と僧称した。その年の九月に洛陽を占拠。上元二年︵七六こ三月、子の史朝義に殺害された。史忠明が末子の史朝清を溺愛して
朝義を除こうとしたのに不安を抱いたためとされる。史朝義は、宝応二年
︵七六三︶正月、李懐仙に追い詰められて縫死した。史思明・朝義の伝は、﹃旧暦書﹄巻二二〇上、﹃新唐書誌巻二二五上に見える。
公は曾祖以来洛陽に居住し、その地に墳墓や荘園がある。されば公
は長安で生まれたけれども、つねに洛陽を指して故郷としている。
︵四︶は、一に︵三︶に作る。萄の成都は、洛陽から三千幾百里の
かなたにある。︵胡騎︶は、安史の乱を指す。天宝十五載︵七五六︶、安禄山が謀叛を起こしてから、その子の慶緒や史思明父子が相次い
で起こり、上元元年︵七六〇︶ になっても乱は平定されず、もう六
年にもなる。去年は史思明が洛陽を陥れた。この詩は、そのことを
哀しんでいるのである。
草木攣翠ソテ行=部外−㌦ 兵党阻絶シテ老二江遽−t︻※変衰⋮フユガレ 老⋮クチハテル 江辺⋮カタイナカ
宋玉柏雛二草木揺落シテ号攣衰ス。公去年冬入レ禦、放こ云。兼テ喩二人 ︵注15︶ 事ノ攣遭鎚㍉助外ハ釧閣之外。入レ琴蕗甚救難、有二大釦山小針山険峻、整り石ヲ架閣シテ而琴
∴南崖海道ぺ故。謂二之ヲ釧閣ぺ萄道第
﹁危険。自二中原盲頼萄ヲ、西賓励閣之外ペ、放こ日二筋外㌔去歳
普寄木欒衰之候ぺ陵諒闇之誘摘発芋謂坤一﹁追テ嘆二其難難 ↓
リシヲ也。江ハ謂二錦江づ。婆化渓ノ一名。上元元年、公トニ居プチ此−㌦。公自レ入窟。、薦二冠乳靂レ阻、輿二家郷譲㌍逐一∫義花演義 り虚ヲ居⋮之。。放こ日レ老い江連ぺ。時。公年四十八臭。
︵注14︶ ﹃楚辞﹄および﹃文選﹄巻三十三。宇都宮遊魔の増広本は、酵益﹃分類﹄に挙げるのを引く。
︵注15︶ 郡博﹃集解﹄に、剣外の下に﹁剣閣の外﹂と注する。﹃分類﹄にも見える。
︵注16︶ ﹃大明一統志﹄巻六十八、保寧府、古蹟の条に剣閣の項あり、﹁剣州の北三十里に在り。両度峻抜、石を整って閣を楽して桟道を為り、連山絶険、
文化情報学郡紀要,第4巻,2004年
故に之を剣閣と謂ふ﹂と。閣は、かけはし。宇都宮遜魔の増広本にこれを
挙げる。
︵注17︶ 郡機長集解払に、江辺の下に﹁錦江の辺﹂と注する。郡窯彗集註払及び辞益彗分類﹄にも見える。但し、宇都宮遜魔の増広本に﹁袋註分煉共に云
ふ、浣花渓、一名は錦江と。一統志の浣花渓の註に是の説無し﹂という。
︵注18︶ 宇都宮邁魔の増広本に挙げる明・単複の年譜に見える。 ︵注19︶ 上元元年当時、杜甫は四十九才である。東陽の勘違い。宋玉の﹁九弁L に ﹁草木揺落して変衰す﹂と。公は、去年の冬、萄
に入ったので、かくいう。同時に人の身の移ろいに喩えているので
ある。︵剣外︶は、剣閣の外。凝に入る路はとてもは難儀で、大剣山・小剣山があり、同塵は険峻で、石を婁ち架閣して桟道としたので、
これを剣閣という。萄遺第一の難所で、中原から萄を言えば、西の
かた剣閣の外にあるので、︵剣外︶という。去年︵草木変衰︶する季節、剣閣の険を越えて萄にやってきた。今、その難儀であったこと
を追懐して嘆じているのである。︵江︶は、錦江のこと。浣花渓の別
名。上元元年︵七六〇︶、公はこの地に居を卜した。公が筍に入って
以来、外窺内乱に阻まれ、家郷との消息が絶えてしまった。そのま
ま浣花漢の地を卜して草堂をかまえて住んだ。それゆえ︵江辺に老
ゆ︶という。時に公年四十八 ︹九︺ であった。思け家ヲ歩ルテ月。清脅二立 憶け弟ヲ看窟雪白塞こ眠
家ハ指二洛陽づ。哀二其娩撃て夜不レ能レ墾卜、起テ歩首下㌦て清轡 猫立憤然タ″也。公有二四弟∴日二穎観望占↓。唯占ノミ従′け公工入レ撃て 三弟ハ各散シテ在二他方山﹁不レ知レ漂二泊スルヲ何虞山血盲公憤二詣弟嵐ボ
レ弟皆分散、無三家ノ間二死生ぺ故。依依慣望、泣ナ封二浮琴㌦。骨肉之
情、尤不レ勝レ懐。。無聯之極、策け被ヲ而眠ル。定願二倒ス逮夜之常ぺ
︵注22︶ 恨レ別ヲ之切ナル、無レ可こ奈何パ也。胡元瑞云、一聯太夕板、若以二其易 ︵注23︶ 再ヲ而撃頼之ぞ誤罰後生↓桑。沈蹄愚云、考畢嘉何力思若何力憶ぺ情 ︵注24︶ 事易レ姦。歩レ月。看レ雲ヲ有二不ルナ雷神傷ム之妙叫。顧修遠云、日〃歩ト ︵注22︶ 又日レ立七 日け看卜又日レ眠ト、俳掴無聯、忽行忽止、忽起忽訃、種 倒錯乱、不レ能二自定∵。二語潟町J姦ス恨状ヅ。 ︵注20︶ 轟廣彗註解払 に﹁公、四弟有り。穎・観・患、皆乱を他郡に避く。惟だ・−
占のみ公に従って筍に入る﹂と。なお、銭注の﹁少陵先生年譜﹂には﹁簡 の弟に穎・観・塑・占有り。未だ行列を知らず﹂と。行列は、兄弟順。 ちなみに、杜甫が具体的に弟たちの名を挙げて詠じた詩として、広徳元 年︵七六三︶作の﹁舎弟占、草堂に煉りて検校す。聯か此の詩を示すL ︵詳 註巻十二︶、広徳二年作の﹁舎弟穎の斉州に赴くを送る。三首﹂︵巻十四︶、 大暦元年︵七六六︶作の﹁第五弟塑、独り江左に在り、近三四載、寂とし t−Uと て消息無し。使を覚めて此を奪す。二首L︵巻十七︶、大暦二年作の﹁舎弟 ・■、、.、 観が醤を得るに、中部自り江陵に達し、今該者容月末に行李合に愛州に到 あらは るべしと。悲賓相兼ね、団円待つ可し、詩を賦して事に即す。情は詞に見 る﹂︵巻十八︶、﹁観が即ち到らんとするを裔び、復た短篇を癒す、二首﹂ ︵同上︶、﹁舎弟観、藍関に帰りて新婦を迎ふ、送りて示す。二首﹂︵巻十 九︶、﹁舎弟観、藍闇に赴き妻子を取り江陵に到ると、審びて写す三首L︵巻 二十〓、大暦三年作の﹁遠く舎弟穎・観等を懐ふ﹂ ︵同上︶、﹁続ぎて観が 督を得、当陽の居止に迎へ就かしむ。正月中旬、定めて三峡を出でんとす﹂ ︵同上︶等の諸作がある。さらに杜甫には、弟だけでなく、そのほかに資 氏に嫁いだ妹がおり、至徳二我︵七五七︶作の﹁元日奪氏の殊に寄す﹂詩 ︵巻四︶がある。なお、杜甫の弟について考証した論文に、周密﹁杜商会 弟行踪考略L ︵﹁杜甫研究学刊L 二〇〇四年第一期︶ がある。 ︵注21︶ 乾元元年︵七五八︶、泰州︵今の甘粛省天水県︶での作﹁月夜舎弟を憶 ふ﹂詩 ︵詳註巻七︶ に、次のように見える。つ
戌殻絶人行 過秋一雁聾 露従今夜白 月是故郷明 有弟皆分散 無家問死生 寄番長不達 況乃未休兵 胡元瑞は、 戌鼓 入行組砂 辺秋一雁声あり 露は今夜従り自し 月は足れ故郷のごと明らかなり 弟有り債分敬し 衆の死生を問ふ無し 容を寄せるも長く逢せず 況んや乃ち未だ兵を休せしめざるをや 明・胡応鱗︵字は元瑞。一五五一∼〓ハ〇二︶のこと。その二宮俊博/津阪東陽㌢杜樺詳解』訳注稿(五) 著﹃詩薮﹄内篇巻五、近体申、七言に﹁杜の︽桃樹に題す︾等の篇、往復 にして解す可からず。然れども人多く之を知る、後生を誤るに足らず。惟 はなは だ申に太だ板なる者有り。︵家を思ひ月に歩して滞宵立ち、弟を懐ひて雲 を看て白日眠る︶の猥の如し。太だ凡なる有り、︵朝罷めて香煙満袖を携 へ、詩成り珠玉揮竃に在り︶の類。若し其の易きを以て之を学ばば、患を ここ 為すこと斯に大にして、描出せぎるを得ざるなり﹂と見える。︵板︶は、 平板。変化に乏しく生動性に秋ける意。なお、﹃詩薮払には、貞亨三年︵一 六八六︶刊の和刻本があり、汲古書院刊﹃和刻本漢兼随筆集払第十九集に 影印を収む。 もいか ︵注23︶ ﹃杜詩偶評﹄ ︵巻四︶に﹁若し如何が思ふ如何が憶ふと説けば、情事尽く し易し。月に歩み雲を看る、言わずして神傷むの妙有り﹂と。 ︵注24︶ 顧痕﹃註解払に﹁夜立ち昼眠る、昼夜其の常を失ふ。歩と日ひ又た立と も 日ひ、看と日ひ又た眠と日ふ、俳掴無柳、忽ち行き忽ち止まり、忽ち起き 忽ち臥す。願倒錯乱、自ら定むること能はず。二語善く恨の状を写す﹂と。 宇都宮遊魔の両署にも挙げる。
︵衆︶は、洛陽を指す。戴の手に落ちたことを哀しんで、夜寝つか
れず、起きて︵月︶光の下を︵歩︶き回り、︵清宵︶にひとりしょん ぼり︵立︶っている。公には弟が四人いて、穎・観・豊・占という。ただ占のみが公に従って萄に入ったが、他の三人は散り散りばらば
らとなり、どこに漂泊しているのかわからない。公の﹁諸弟を憶ふ﹂
詩に ﹁弟有り皆分散し、家の死生を間ふ無し﹂とある。されば、弟
たちのことが気懸かりで遠くを眺め、涙ながらに浮雲をみて、肉親
を気遣う情にたえきれない。やるせなさのあまり、布団をかぶって
眠ってしまう。これは昼夜さかさまになった状態である。︵別れを恨
む︶ことが切実であって、どうしようもないのだ。胡元瑞が云う、
﹁この一聯は甚だ平板で、もしも平易であるからといってこれを真
似すると、後進を誤ってしまう﹂。沈蹄愚が云う、﹁もし何々と思う、何々と憶うと言えば、心もちを言い尽くすのは容易だ。そうしない
で、︵月に歩し︶︵雲を看る︶というのは、言わず語らずして、心を 傷めていることがわかるという妙味がある﹂。顧簾が云う、﹁︵歩︶と聞”道フヲ河陽近。。衆
道ハ言也。聞軋聴
ヽトトしワl′ いってから︵立︶といい、︵看︶といってから︵眠︶という、やるせなくうろうろとして、歩いたかと思うと立ち止まり、起きたかと思
えば横になる。願倒錯乱して、落ち着くことができない。二語は︵恨
み︶のありさまをみごとに表現し尽くしている﹂と。破二史思明ヲ。明年進テ園こ懐州づ。三月破二安太清ヲ於城下ぺ。四月又
、、 ■、−
フ司徒乗ルテ勢。不レ失レ機ヲ、速。進憲ハヲ而北シ、直。輿蔵ノ唐穴づ、則
胡騎竿テ而洛城復セン奏。特。下ごノ急ノ字づ、東レ膠。破竹之勢、萬萬 ︵注30︶ 不レ容二更。緩再也。初藤山之反ス″、光弼輿二部子儀高下引憲ハブ北取二汚陽づ、覆恒ント其巣穴㍍、惜クハ玄宗不レ用二其策づ、遂。致レ失㌔ヲ天下
づ。公蓋思レ之ヲ、糞三其行㌔。トヲ干今﹁所二以股勒。層㌶望ヲ也。
︵注㍑︶ ﹃疲航詩話﹄巻三にも﹁聞レ道は、人の其の事を道ふを聞くなり。間レ説・聴レ説、並に同じ。見レ説は、親しく其の之を説くを見る。風声を伝
聞するに非ざるを冨ふなり。梅荘の詩語解に、道・説は並に助語と。謬れ
りLと説く。梅荘は、釈大典の字。但し、間道の道は意味のない接尾語とするのが妥当。
ちなみに三浦梅園﹃詩轍﹄巻六、雑記に﹁見説聞説間道ノ類、道モ説モ
イフノ窓ニシテ、見モ聞モ同クキク也。郎レ説ヲハ俗語ニシテ、小説類ニ
キケ、 多ク見エタリ。見ヲ聞卜訓スル事、字書ニハ徐り見ヱ子共、論衡、世見シ
キケ、 黄帝好㌔方術づ、則謂二帝仙﹁央、又見靂湖之名ぺ則冨三龍迎い黄帝づ
央、ナドアレバ、挽近ノ語ニハ非ズ。滑ノ李燵ノ詩、著葦密柳盲難レ
キヽ 見、花隠㌔寒梱−盲不レ分。世二是等ノ説道ノ類ヲ、虚字卜見テ、ナラクトヨミ、又解道ス説遣スナドヨムモアレドモ、聞レ琴聞レ説ヲナド実シ
テ読ベシ。是唐ノ時ノ語也﹂云々と指摘する。王充還澗衡﹄は道虚篇。寛
延三年︵一七五〇︶刊の和刻本がある。李燵及びその詩については、不明。 ﹃随園詩話払補遺巻七にその名が見える李燵︵字は衆生、号は青空。一七㍊ヲ破竹蚕雛づ ⋮
。乾元二年十月、司徒李光絡悉ルテ軍ヲ赴二河陽て大。
町勝二 司徒急こ琴疲苗誘空
間二人ノ停説↓也。河陽ハ河南ノ地名。乗⋮勝。言レ得
︵注28︶文化情報学部紀要,第4巻,2004年 五三∼一八二五︶ は、梅園より三十一歳年下となる。 ︵注26︶ 郡樽﹃集解払 に見える。河陽は、今の河南省孟県の南。