[研究ノート]
“日本型ソーシャルワーク”に必要な要素としての
“東洋的・日本的理解”を読み解く
戸 塚 法 子
※ Key words:日本文化、日本型ソーシャルワーク、東洋的人間把握、日本的人間把握はじめに
昨年(2014年7月)、オーストラリアのメルボルンにおいて開催された、国際ソーシャルワー カー連盟(IFSW)総会及び国際ソーシャルワーク学校連盟(IASSW)総会の席上で、ソーシャ ルワーク専門職のグローバル定義が採択され、その後、日本語版定義が社会福祉専門職団体協議 会と日本社会福祉教育学校連盟による協働作業を受けてIFSWで決定された。定義は以下の通り である。 「ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメン トと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である。社会正義、人権、集団 的責任、および多様性尊重の諸原理は、ソーシャルワークの中核をなす。ソーシャル ワークの理論、社会科学、人文学、および地域・民族固有の知を基盤として、ソーシャ ルワークは、生活課題に取り組みウエルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構 造に働きかける」 今後はこの定義のもと、世界各国、各地域で、諸事情をふまえたさらなる展開が期待されてい くことになるであろう。しかし新定義で謳うソーシャルワーカーのミッションを、我が国ソー シャルワーク実践を通してより一層体現していくためには、本定義に組み込まれている“要”と なるフレーズが発信する意味合いを、我が国のソーシャルワークに関係する私達一人ひとりが、 十分咀嚼することこそ、我が国ソーシャルワーク隆盛に向けての大前提となってくる。 著者はその要となる一つ目のフレーズが、「地域・民族固有(indigenous)の知」であり、二つ ※ 淑徳大学総合福祉学部社会福祉学科教授目はソーシャルワーカーが支援の対象とする「人々やさまざまな構造」と考える。新定義のな かの両フレーズの具体的に意味するところは、各国ソーシャルワークの関係者間で、当該国特有 の諸事情をふまえ、いかに“確認し共有”し得るかにかかってくることとなる。そして我が国の 熟練したソーシャルワーカーにも例外なく、新定義が狙う意図を、自国の若手ワーカーに教示し つつ、柔軟な力を備えた専門職者へと育てあげていく責務が重くのしかかってくることになる。 おりしも筆者は、我が国のソーシャルワークにつきつけられた新定義から派生するこのような ミッションに対し、自身のライフワークとなる研究動機を携えつつ、拙稿(「平成26年度総合福 祉研究 第19号」「淑徳大学研究紀要 第49号 平成27年」)において新たな一歩を踏み出した。 当該作業の続編として、先の新定義において要となるフレーズとして著者が捉える「我が国固有 (indigenous)の知」を具体的に理解すべく、我が国がこれまでに取り込み、洗練させ、文化の域 にまで昇華させてきた(それは我が国の価値観に照らして取り込み普遍化し易いものという意味 での“美学”)ものにはどのようなものがあり、それらは我が国固有のソーシャルワークに真に 必要とされる要素かどうか、そのための研究に本稿が位置づけられればと考える。
展開の方法
本稿の目的は、西洋文化とは一線を画して、多様なジャンルのなかで醸成されてきた東洋的把 握の“読み解き”と、我が国ソーシャルワークへのその汎用的可能性に向けた考察になる。した がって、宗教、言語学、比較文化人類学等、あえてソーシャルワーク以外のジャンルからの情報 を文献研究中心に掘り起こし、それらを読み解くことに重点をおいた。なお、文中に出てくる下 線は筆者によるものである。Ⅰ 環境との“関わりかた”に見られる“東洋的美学”
最初に取り上げたのは、支援の根底を成す“人と環境との関わりかた”における東洋的・日本 的理解の考察である。私たちが人生をまっとうしていくうえで不可欠な、周囲との“関わり(繫が り)かた”の特異性を、この国この地域で育まれてきた風土・文化を抜きに語ることは難しい。 我が国ソーシャルワークの“礎”となるべき環境との“関わりかた”における日本的理解の考 察に際し、まず抑えておかねばならないのが、終戦後に北米より直輸入されてきた翻訳本に頻繫 に登場してきた「人と環境(状況)との相互作用(交互作用)」という捉え方である。そして、 この捉え方を大前提としてさまざまな問題解決アプローチが発展し、今日まで我が国へと紹介さ れてきている。しかし筆者は、ソーシャルワークを専攻する学生の頃より、ソーシャルワークを 語る大前提となるこの「人と環境との相互作用(交互作用)」という訳語にある種の違和感を覚 えてきた。それはソーシャルワークの知が増えた教師となって以降も払拭されることはなかった。具体的にそれは、「人と環境との相互作用(交互作用)」が暗黙のうちに含蓄する“人が環境 と互角に相対する”という意味あいへのある種の違和感であった。 すなわち、人はその存在の維持や成長のために、環境を構成する諸要素との間に絶えることの ないさまざまな相互交換をし続けてきており、そのありようはレベルの差こそあれ、互恵的な関 係(receprocal relation)と言えること。そしてそこからは、互いに影響を及ぼし合うといった双 方の“能動的姿勢”が明確に読み取れる。しかし、ソーシャルワークが戦後北米より盛んに輸入 されてきて以来、我が国ソーシャルワーク展開の礎として長期にわたり君臨し続けてきたこうし た“人と環境との関わりかた”は、果たして日本の風土・文化に馴染んだ形態として定着してき たのだろうか。 『茶の本』を著した岡倉天心は、西洋文明が急速に流入してきた明治期にあって、東洋文明を 必死に守りぬこうとした一人であった。彼は理想とする東洋文明のあり方を、人間対人間のみな らず、物質的・文化的対象との間で「人間が自然の一部として、自然の摂理に組み込まれて生き ること。自然との共生」をくり返し説いていたことが指摘されている(大久保2015:7)。そし て、天心が言及した内容からは「自分のいる環境と自分とが折り合いながら生きることができる 人」「自分が今おかれている状況に完全に没入できる人」「自然の営みとともにつくりあげる人」 といった、人としてのありようが浮かびあがってくる。 比較文化の研究者である大久保は、こうした理解の根底に流れる思想の一つとして、「人が自 然とともに生きる日常にこそ美があるとする道教からの影響をあげている(大久保2015:36、 37)」。一方、作家であり僧侶でもある玄侑は、禅における「主体的な人格」を説くなかで、「自 分の置かれた環境の中で自分を最大限に没入させることができる人」、「自分の意志などという 人為を埋没させ、状況に完全に浸りきれる人」こそが主体的であると指摘している(玄侑2015: 33)。また、「状況に浸りきり」「環境に自分を最大限に没入させる」といった“関わりかた”を、 能という世界において体現していった能役者・世阿弥による捉え方も実に興味深い。場に出て いった際に、そこに満ちている機やリズムを重視した世阿弥は、能を中心とする演劇研究者であ る土屋によれば、「場は生き物であり、いろいろな人がいていろいろなリズムがあり、その波動 と一体となることで初めてその世界を自分のものにできるのであり、その場のリズムは多くの人 によって共有されているため、場のなかでの違和感を自分の中で調整していかねばならない」と の指摘を弟子たちに残していることを明らかにしている(土屋2015:89)。 東洋の思想や、我が国の思想・芸術をリードしてきた先達の残してきた「おかれた状況、場の なかに浸りきる」、「没入する」、「場にある波動と一体となる」、といった“関わりかた”の特徴 は、日本のソーシャルワークにおけるサービス利用者の捉えかたに重要な多くの“示唆”を提供 してくれるように思われる。そしてこの延長線上で捉えていった場合、普段の暮らしのなかで 我々が抱える大小さまざまな“生きづらさ”、“生活のしづらさ”が何故生じるのかといった“リ アルさ”の一端が見えてくるように思われる。
つまり、人は自分の置かれている状況や場(環境)からは容易に逃れることができないがゆ えに、そうしたある種の制約的な状況から生み出される“つらさ”という一面への着目である。 我々一人ひとりが、今の状況や場(環境)に没入し生きていかざるを得ないからこそ直面する “つらさ”であり、しかもそのなかにあって何とか周りの人々や組織・団体等とバランスを取り ながら自分の立ち位置を模索しようとしていく過程で感じる“つらさ”なのである。“環境と能 動的に相対する”とはやや異なる、日本の風土のなかであるからこそ生まれてくるもののように 感じられる。こうした感覚は、我が国ソーシャルワークにおける利用者理解において、ぜひ掬い あげていかねばならない日本的特徴であるように思われる。 日本古典文学の研究者である板坂は、我が国の人生論や処世訓には、自らが今おかれている状 態に満足し、ひたすら心の平安を求めるような教訓(消極的人生観)がくり返し与えられてきて いることに着目している(板坂1971:57)。こうしたことも、我が国ソーシャルワークの利用者 理解を考えるうえで興味深い事実であろう。 そして、中国やインドにまで遡るアジア文明全体のなかでの日本文化の特色、あるいは他の国 では廃れてしまったが日本において再現され、洗練されていったものには何があるのかを模索す るとき、評論家であり作家でもある加藤の「根本的な心情で何かそぐわぬものを感じるのは、そ の内容だけでなく、その関わり方がわたしたちの“関わりかた”ではないのかも知れない」(加 藤2014:99)という指摘が非常に興味深い。加藤の「人種的風土的歴史的産物として受け継が れてきているものはないか、思考の方法と感受性は、それぞれの人に固有でもあると同時にその 住む時代と社会とに固有であるはず。ある時代のある社会に独立の文化があるならば、固有の感 じ方や考え方もある」(加藤2014:98、99)という指摘は、「人と環境との相互作用(交互作用)」 を東洋、日本という風土に即して読み解き直していくことが必要であることをまさに示唆してい るように思われる。
Ⅱ 「主体性」の捉えかたにみられる日本的な特徴
“環境との関わりかた”に見られる特徴は、そのなかで人がどのように自己実現をはかってい きたいのか、どのような生活をおくりたいと考えているのか、といった本人の意思表明の仕方と も深く関わってくることになる。言語の底に流れている思考・感情や文化の様式が、それぞれの 国のソーシャルワーク過程にどう微妙な「差」となって現れてくるのかは一考に値する。 そこでまず前面に出てくるのが、ソーシャルワークの展開における利用者の「主体性」に対す る理解のしかたであろう。先の“環境との関わりかた”で見られた特徴からすれば、自身がおか れている状況下で、どう調和を保って生活していこうとしているのか、周りに対しどう「自分」 を発信していくのか、に対する東洋的、日本的な特徴である。しかしながらそこにおいても「自 らの意志を明確にもって歩んでいく」といった能動的な姿勢は多く見られないように思われる。先の板坂によれば、日本には自分の主張・態度を自らの責任において、明確に顕示して行動と してあらわすという意味の言葉がなかったところに、西洋から戦後間もなく主体性という言葉が 輸入されたことで主体性論争が起こり、その名残は四分の一世紀を経た今日までつづいている (板坂1971:87-88)と指摘する。さらに板坂は、西洋において「主体性」はあるかないかの吟味 をする必要もないために、英語の文章に現れる概念でもなく、非常に翻訳しにくい言葉(板坂 1971:86-88)であるとしている。現代社会で盛んに使われている「コミットする」という言葉 も未だカタカナ表記であることからすれば、「主体性」が十分に日本のなかで咀嚼されてない感 はぬぐえない。 板坂は、逆に英語の表現にないものとして「れる」「られる」「なる」や「やはり」「さすが」 といったMiddle voice(中動相)に値する意志表現をあげている。細かな指摘は割愛するが、自 分の思考、感情、決意を何か与えられた自然発生的なもののように扱ったり、自分の意志を超え て「与えられた自然発生的なもの」と捉えるところに日本の著しい傾向を見出している(板坂 1971:86、91-98)。“みずからがつくり出すもの、建設するもの”というよりは“不可変的自然 的な存在”とみなすところに、西洋との異なりが見えてくる。西洋史を専攻した会田も、多く の論者に指摘されたところであると断ったうえで、ヨーロッパの「作る」、日本人の「なる」と いう観念を対比させて日本人独特の物の考え方、発想の方向性を論じている(会田1972:P36、 37)ところに、板坂と同様の共通した特徴性を感じ取ることができる。
Ⅲ “空”“無”“虚”“不完全”といった捉え方から見えてくる東洋的な捉え方
最後に、筆者が収集したさまざまなジャンルの資料のなかには、西洋にない東洋思想特有の考 え方がいろいろと散見された。特に中国の老荘思想、道教、あるいはそうした流れを汲む禅的な 姿勢のなかにそうした特徴性が見えてきた。なかでも、「空」、「無」、「不完全」といった東洋的 特徴が特筆に値する。比較文化論を専攻する先の大久保は、『茶の本』において天心が語る「不 完全性の美学」に着目している。大久保は、「不完全」であるということは、完成に向けて無限 の可能性が開かれているということを意味し、さらに自分をからっぽにして相手を呼び込み、自 由な発想を引き出すことで、自他一体の境地に達するという天心による理解を、まさに東洋の伝 統的精神文化の奥義であるとしている。そして東洋芸術は、芸術家・鑑賞者・自然の三者が融合 する可能性を最大限に引き出すことであると指摘している(大久保2015:7-10)。 他方、先の会田も相手の気持ちを「察する」ことは、こちらが無心・無念の状態に至ることで あり、こちらの心が無心になるということは、相手の心を鏡のようにこちらの心に映すことであ り、すなわち無念夢想になることであると言及する。また相互理解のためには言葉はむしろ邪魔 である(会田1972:102-104)とも指摘している。 このように、無限で自由な可能性を内包するものとして、東洋的文化背景から生まれ出てきた「空」「無」という発想は、「不完全・未完」だからこそ、そこに生のダイナミズムが流動するの だと捉えられている。これもまさに東洋的特徴として位置づけることができるのであろう。 以上の他にも、明確な意思表示を嫌い、相手を「察し」たり「思いやる」といった感情伝達の 重視や、論理的に向き合う(情報交換をする)という選択肢をあえてはずそうとする日本的考え 方、特質も幅広いジャンルの資料を通して見えてきた。こうした特徴に対し、会田は、風土に関 わる歴史的背景として、狩りが大切な生業であったヨーロッパではむしろ不適当・危険になる不 明確な意志伝達が、収拾や純粋農業の世界(日本)では逆に必要とされた(会田1972:104-105) と指摘する。こうした日本的特徴も、我が国のソーシャルワークにおいて考慮すべき一つである ように思われる。
おわりに
以上、本稿では「研究ノート」として、今後我が国固有のソーシャルワーク実践モデルを考え ていくうえで、ソーシャルワーカーとしての人と環境への関わりかた、利用者に対する理解のし かた、利用者の生活におけるつらさの意味あい等において、宗教、言語学、比較文化人類学等の ジャンルから興味深い示唆を数多く受け取ることができた。 未だ「東洋的なソーシャルワーク」「日本的なソーシャルワーク」は、そのかたちを明確に現 わしてはいないが、本稿で取り上げたような、東洋的、日本的特徴の理解が、この国のソーシャ ルワークのなかへと昇華され、我が国のソーシャルワーカーにとってその実践を力強く後押しし てくれる原理・原則へと取り込まれ、東洋のソーシャルワーク、日本型ソーシャルワークの土台 骨となっていくことを今後期待するとともに、そのための研究作業を微力ながらも継続していき たい。 【引用・参考文献】 会田雄次 1972 日本人の意識構造 風土・歴史・社会 講談社 荒木博之 1973 日本人の行動様式─他律と集団の論理─ 講談社 船曳建夫 2010 「日本人論」再考 講談社 玄侑宗久 2015 荘子 NHK出版 蜂屋邦夫 2013 老子 NHK出版 長谷川櫂 2014 松雄芭蕉 おくのほそ道 NHK出版 長谷川眞理子 2015 種の起源 ダーウィン NHK出版 石井正己 2014 柳田国男 遠野物語 NHK出版 板坂 元 1971 日本人の論理構造 講談社 加藤周一 2014 文学とは何か 株式会社KADOKAWA 南 博 1974 日本人の心理 岩波書店 三浦佑之 2014 古事記 NHK出版岡 潔 2014 春宵十話 株式会社KADOKAWA 岡 潔 2014 春風夏雨 株式会社KADOKAWA 大久保喬樹 2015 岡倉天心 茶の本 NHK出版 佐久 協 2012 孔子 論語 NHK出版 佐々木閑 2014 般若心経 NHK出版 佐々木閑 2015 ブッダ 最期のことば NHK出版 佐々木健一 2010 日本的感性 感覚とずらしの構造 中央公論新社 司馬遼太郎、ドナルド・キーン 1996 日本人と日本文化 中央公論社 鈴木孝夫 1990 日本語と外国語 岩波書店 谷崎潤一郎 2014 陰翳礼讃 株式会社KADOKAWA 土屋惠一郎 2015 世阿弥 風姿花伝 NHK出版 鶴見和子 1973 好奇心と日本人 講談社 山口仲美 2014 清少納言 枕草子 NHK出版 湯浅邦弘 2014 孫子 NHK出版