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伏見院の悲秋歌の解釈について

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Academic year: 2021

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(注2)片桐洋一編集 新注和歌文学叢書4『海人手子良集 本院侍従集 義孝集新注』 二〇一〇 年・青 簡舎 項目執 筆三 木麻子。 (注3) 『あめつちの心―伏見院 御歌評釈』笠間書院・一九七九年 。後伏見院兵衛督につい ては、 『京極 派歌人 の研究 』昭和 四九年・ 笠間書 院 第 三章第 五節 に詳しい 。 (注4) 上 野英二 「源氏 物語と 長 恨歌 其二 ・ 其 三」 ( 『 成城国 文 学論集』 三 六 ・ 二 〇一四 年。 (注5)静永健「 〈翻・複〉高松 宮伝来書籍等を中心とする漢籍読 書の歴史とその本文に関 する研究 」 国立 歴史民 俗博物 館研 究報告 198・ 二〇一五年、 静永 健 「 中国から やっ てきた書 物たち ―唐の 詩人白 楽天 の詩巻を 中心に ―」 『歴博 』 178・二〇一三年 。 〔付記〕 こ の研究 は 「中世に おけ る漢故事 のパラ フレー ズ」 ( 科学 研究費基 盤研究 ( C) 、 研 究課題1 6k0 237 9)の 成果 の一部で ある。

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するところにある。主情的に自然をとら えるこ とは和歌 の特色 である が 、 こ こ で は自分だ けでない すべて のも のが秋の 訪れを悲 しむと する ところに 、単なる 悲秋 とはいえない要素がある。 四、まと め 以上、 拙著の補 足と修 正と して、伏 見院の悲 秋歌で ある 『玉葉集 』四六三 番歌 の解釈に ついて述 べてき た。 結論から いえば、 当該歌 は表 現のレベ ルでも、 内容 のレベルでも、 漢詩文の世界から強い影響を受けているといえる。 また、 「露くだ る」の解釈 は、 「くだ る」の 表 現から、 「天 から降る 涙」と も 捉えられう ると考え る。当該歌 は、院 が自ら の詠 草を編纂し た『伏 見院御 集』 の断簡、 「広 沢切」 (書 陵部蔵本)の配列、 秋露」二一 我 玉 葉 もかなし草木も心いたむらし秋風ふれて露くだる比(二一〇五) 草木みな露をふくめり我ひとり秋につれなき袖ならめやは(二一〇六) ちぐさみだれ花の色ちりしほれ野分のかぜのあとぞあれたる (二一〇七) みだれあふちぐさの末は露にふしてまだよるちかき明ぼのゝ庭 (二一〇八) 秋といへば草木露けみ吹かぜの身にしむ時に物ぞかなしき(二一〇九) あきの日の う 筆者注 か 歟 へにくだれる色みれば心もよはくものぞかなしき (二一一〇) 秋のよのね覚のまどやふけぬらんすだれをのぼる在明の月(二一一一) あきはこれもろきあはれの時にあれや草木の露も人の涙も (二一一二) 以下略 「秋露」 の歌群に まとめ られ た中に入 れられて いるこ とか ら、まず 、第一に 悲秋 の歌とし て詠まれ たと考 える べきでは あろう。 しかし なが ら、その 背景には 、七 夕の男女の別れや、 『長恨歌』 の詩句の、 愛する人に死に別れた悲しみなども揺曳 されていることを、十分に考慮しながら読むべきであると考える。 また、 本稿で語 の表現 につ いて分析 する中で 、伏見 院の 和歌表現 には漢文 訓読 調のもの が多く含 まれて おり 、それが 歌境にま で影響 を及 ぼしてい ることが 想定 できた。 今後は、 こうし た漢 文訓読や 、古典化 した漢 詩句 がどのよ うに伏見 院の 和歌に取り入れられ、どのような歌境を作っているかを、更に検討したい。 〔注〕 ※ 和 歌の本 文は、 特 に記さ な い限りは 以下の 通りで ある。 勅 撰 和歌集の ものは 本文 ・ 歌 番号とも に 『国歌 大観』 に拠っ た 。 私家集の ものは 本文 ・ 歌番号 と もに 『私家 集大成 』 に拠 り、 濁 点は私 に符し た。 『和 漢朗詠 集』 は 、 新 潮日本 古典集 成 ( 大曽 根章介 ・ 堀内 秀晃校 注) に拠った。 『長恨歌』は 、 『続国訳 漢文大成 白楽天詩集 第二巻』 (佐久間節訳、日本図書 センター 、一九 七八年 )に拠 った 。 (注1) 中川博 夫 『玉 葉和歌 集 ( 上) 』(明 治書院 ) の補 注では 、 作 者類歌と して 、『伏 見院御 集』の、 秋にいたむ風のこゝろをよもにうけてふるゝ草木はみなしほれけり(八四八) ふきから すよも の草木 のこゝ ろま でなべて かなし き秋か ぜのこ ろ( 九一五) 草木みな 露をふ くめり 我ひと り秋 につれな き袖な らめや は(二 一〇 六) をあげる 。

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では「いたむ」は、通常、 冷泉院春宮と申しける時、百首歌たてまつりけるによめる かぜをいたみいはうつなみのおのれのみくだけてものをおもふころかな (詞花集・二一一・恋上・源重之) のように、 風に対して用いることが多い。 『万葉集』 に、 当 該歌の表現と同じ発想 のものとして、心が「いた」むとするものがある。 讃岐国の 安 益 や の 郡 こほり に幸す時に、 軍 こにきし の 王 おほきみ 、山を見て作る歌 霞 立つ 長 き春日 の 暮れにけ る わづ きも知 らず むらぎ もの 心 を痛 み ぬえ こ鳥 うらな け居れ ば 玉だ すき かけの よろし く 遠つ 神 我 が大君の 行幸 の 山 越す風 の ひと り居る 我が 衣手に 朝夕に かへ らひぬれば(以下略) 幸 二 讃岐国安益郡 一 之時、軍王見レ山作歌 霞 立 長 春 日 乃 晩 家 流 和 豆 肝 之 良 受 村 肝 乃 心 乎 痛 見 奴 要 子 鳥 卜 歎 居 者 珠 手 次 懸 乃 宜 久 遠 神 吾 大 王 乃 行 幸 能 山 越 風 乃 独 座 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 (以下略) (萬葉集・五・ 巻一) 穂積皇子の御歌二首 今朝の朝明 雁が音聞きつ 春日山 もみちにけらし 我が心痛し 今朝之旦開 雁之鳴聞都 春日山 黄葉家良思 吾情痛之 (万葉集・一五一三・巻八・秋雑歌) 小学館古 典文学全 集(小 島憲 之・木下 正俊・佐 竹昭広 校注 )では五 番歌の頭 注に 「心を痛 み―名詞 +ヲ+ 形容 詞語幹は ミ語法と 呼ばれ 、~ が~なの で、とい う意 を表す。 心痛シは 胸が締 めつ けられる ように苦 しいこ と」 とあり、 この「心 を痛 み」 も、 終止形であれば 「心を 痛し」 となる。 『時代別国語大辞典』 (上代篇) では 「いたむ」の考察の項目で、 従来、 イタムの例とされていた万葉の 「そこ思ふに胸こそ痛」 (四六六) 「そ こ思へば胸こそ痛」 (一六二九 ) を、 「そこ思へば心し 伊多思 た し 」(万四 〇〇七) 「衣こそ二重 予耆 キ 」(仁徳紀二二年 )「己が妻こそ常 目 頬 ヅ ラ 次 」(万二六 五 一) 「 最 モ ト も今こそ恋はすべ 無寸 キ 」(万二七八一) 「草こそ 之 既吉 キ 」(万四〇 一一)などにならって「 痛 イタキ 」と訓むと、イタムの例は古訓のみとなる。 と述べ、 「い たむ」と いう語 は 、仮名訓に なかっ たこと を指 摘する。 『万 葉集』一 五一三番 歌は、京 極派の 勅撰 集『風雅 集』秋中 ・五五 二番 歌にも入 集するが 、こ こでも結句は 「我が心いたし」 であり、 「心いたむ」 が和歌 には用いられない表現 であったと考えられる。 また、 『和漢朗詠集』の秋の詩 句を引用してみると、 物 の 色 は 自 ら 客 の 意 を 傷 ま し む る に 堪 へ た り 宜 な り 愁 の 字 を も て 秋 の 心 に作れると 物色自堪傷客意 宜将愁字作秋心 (二二四 ・ 巻上 ・ 秋興 ・ 野) 第 一 に 心 を 傷 ま し む る こ と は 何 れ の 処 か 最 な る 竹 風 葉 を 鳴 ら す 月 の 明 ら かなる前 第一傷心何処最 竹風鳴葉月明前 白 (二二六・巻上・秋興・田達音) のように、 心が 「いたむ」 という表現が定着していることがわかる。 当該歌の 「心 いたむ」 とは、 漢文訓読調の 表現と捉えられるのである。 「心傷む」 は、 悲秋の詩 句にも常 套的に用 いられ てい ることか ら、この 和歌が まず 悲秋の表 現に基づ くこ とは確実 であろう 。この 和歌 の新しさ は、秋の 訪れに 草木 も胸を痛 めている 、と

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歌とする。先述したように、この「幻」 の巻は 、最愛の 紫の上 に先立 た れ た 光 源 氏が、四 季の景物 に触れ るに つけて彼 女を思い だして 悲し むという 記述が主 にな っている 。この巻 につい ては 、唐の詩 人白楽天 の『長 恨歌 』の、楊 貴妃を失 くし た玄宗皇帝の悲しみを下敷きにしていることが指摘されている (注4) 。七夕につい ては、 『長恨歌』 では、 楊貴妃が存命中に七夕の日に玄宗皇帝と誓ったと道士に話 す、 七月七日長生殿、夜半無 レ 人私語時。 在 レ 天願作 二 比翼鳥 一 、在 レ 地願 為 二 連理枝 一 。 (七 月七日長 生殿、 夜半 人無く私 語の時。 天に在 って は願くは 比翼の鳥 とな り、地に在っては願くは連理の枝とならん。 ) が有名であるが、 「幻」 の七夕 の場面では、 ことばのレベルで右の詩句を踏まえて はいない 。しかし ながら 、四 季の季節 の移ろい の中で 、愛 する人を 失った悲 しみ にうちひ しがれる 主人公 とい う設定は 、まさし く『長 恨歌 』を踏ま えたもの であ る。 春 風桃 李花開 夜、 秋雨梧 桐葉落 時。 西宮南 内多 二 秋草 一 、宮葉 満 レ 階 紅不 レ 掃。 〔中略〕 夕殿蛍飛思悄然、孤燈挑盡未 レ 成 レ 眠。遅遅鐘鼓初長夜、耿耿星河欲 レ 曙天。 鴛鴦瓦冷霜華重、翡翠衾寒誰與共。 (春 風桃李花 開く夜 、秋 雨梧桐葉 落つる時 。西宮 南内 秋草多く 、宮葉階 に満 ち紅掃はず。 〔中略〕 夕 殿蛍飛ん で思悄 然、 孤燈挑げ 盡して未 だ眠り を成 さず。遅 遅たる鐘 鼓初 めて長き夜、耿耿たる星河曙けんと欲する天。 鴛鴦の瓦は冷やかにして霜華重く、翡翠の衾は寒うして誰と共にせん。 ) 『長恨歌』 通行本の本文を掲げると右のようであるが、 傍線部の箇所については、 日本に伝わった本文が当初、 異なっていたことが、 『和漢朗 詠集』 に残る詩句など によってわかる。 そのうち、 本稿に直接関わる箇所、 「秋雨 梧桐葉落時」 について は、 『和漢朗詠集』 や伏見院皇子の尊円法親王筆 『長恨歌』 などによって、 次のよ うであったことがわかっている。 春の風に桃李の花の開くる日 秋の露に梧桐の葉の落つる時 春風桃李花開日 秋露梧桐葉落時 同 (和漢朗詠集七八〇・巻下・恋・同じ〔白〕 ) 通行本『 長恨歌』 では「 秋雨 梧桐葉落 時」とあ るとこ ろ、 古い本文 では「秋 露 梧桐葉落時」 であったらしい 。 伏見院皇子の尊円法親王筆 「長恨歌」 も 、「露」 と する。こ れは金沢 文庫本 より 古い、旧 鈔本に基 づいて 書写 したもの と考えら れて いる (注5) 。 古い本文 では、秋 が来て 、草 木に露が 降りて桐 の葉が 落ち るという さまを詠 む ことにな り、草木 に降り る露 が秋の到 来を感じ させる 景物 として扱 われてい るこ とが読み取 れる。 しかも この 詩句は、 『和 漢朗詠集 』で「 恋 」の部に入 ってい る。 『和漢朗詠集』 入集の詩句は、 よく愛誦されたものであり、 右の詩句は有名な 『長 恨歌』の 詩句でも あるこ とか ら、当然 、平安・ 鎌倉期 の歌 人たちに は、この 詩句 が、季節 の移ろい から愛 する 人のいな い喪失を 嘆いた もの として認 識された と考 えられる。 七夕の歌 群の前に 配列さ れ、 露が降り ることに よって 、詠 歌主体が 秋の訪れ を 知り、 悲しむことを詠んだ当該歌にも、 『長恨歌』 の 「秋露 梧桐葉の落つる時」 が 意識されているといえるのではないか。 ここで和歌の解釈に関わる重要な表現として、 「心いたむ」 に注目したい。 和歌

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草木のみの涙ではなく、やはり天も悲しんでいると解釈すべきである。 先に少し触れたように、 当該歌は、 『玉葉集』 では、 七夕 の歌の前に配列されて いる。煩雑を厭わず、前後数首の配列を示せば下記のようになる。 四六〇 人よりもわきて露けき袂かなわがためにくる秋にはあらねど (前大僧正道玄) 四六一 秋のきてけふみか月の雲まより心づくしのかげぞほのめく (早秋の心を・常磐井入道前太政大臣) 四六二 秋にこそまたなりぬれと思ふより心にはやくそふあはれかな (従三位親子) 四六三 われもかなし草木も心いたむらし秋風ふれて露くだる比 (五十番歌合に秋露をよませ給うける・院御製) 四六四 久方の雲ゐはるかに待ちわびしあまつほしあひの秋もきにけり (弘長百首歌に七夕を・前大納言為家) 四六五 ひこぼしのつま恋衣こよひだに袖の露ほせ秋のはつかぜ (おなじ心を・平為時) 秋の来 たことに 気づく 歌、 そこから 秋の到来 を悲し む当 該歌に繋 いだあと で、 七夕の歌へと続けている。 『源 氏物語』 「幻」 (本文は小学館 新編日本古典文学全集 に拠る)で、最愛の紫の上に死なれた光源氏が、七夕に感慨を催す場面で、 七月七日も、 例に変りたること多く、 御遊びなどもしたまはで、 つれづれに ながめ暮らしたまひて、 星逢ひ見る人もなし。 まだ夜深う、 一ところ起きた まひて、 妻戸押し開けたまへるに、 前栽の露いとしげく、 渡殿の戸よりとほ りて見わたさるれば、出でたまひて、 七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見てわかれの庭に露ぞおきそふ と、彦星 と織姫の 別れの 涙か ら想起し て、紫の 上を恋 い慕 う自分の 涙に露を 見立 てる和歌 が見られ る。こ のよ うに、七 夕には、 彦星と 織姫 の涙にな ぞらえて 、露 がよく詠まれた。 中村氏は、 「露くだる」との表 現に、 『礼記』月令「孟秋之月 」の記述、 涼風至、白露降、寒蝉鳴、鷹乃祭 レ 鳥 を直接の 典拠とす ること を指 摘する。 中村氏が 「降」 の訓 点が「ク ダル」で あっ たと指摘するように、 「露くだ る」 という表現自体には、 漢文訓読からの影響が認 められる であろう 。しか しな がら、こ の『礼記 』の記 述か ら、当該 歌を、単 純に 悲秋をテ ーマとし たもの に過 ぎないと 解釈する 中村氏 の主 張が妥当 かどうか は判 断が難しいと考える。 三、 「 心いた む」の 解釈に ついて 当該歌について、 岩佐美代子氏は、 「心いたむ」 の表現や 、 七夕歌の直前にこの 歌が配さ れている ことか ら『 玉葉集』 成立以前 の正和 以前 に亡くな ったと考 えら れる伏見院の愛妾、 後伏見院兵衛督を失った悲しみが投影されているとする (注3) 。 伏見院には、七夕の頃に、愛する人を失った悲しみを詠んだ和歌が散見する。 秋のはじめつかた、ちかくさぶらひなれたる人の身まかりにければ 伏見院御歌 ひこぼしのあふてふ秋はうたてわれ人にわかるる時にぞありける (風雅集・一九八八・雑下) ほしあひはくものよそにてめのまへのわかれを人になげくころかな (伏見院御集・三八〇・七夕) 第二首目 について は、先 ほど 引用した、 『 源氏物 語』 「幻」 での源氏 の和歌を本

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葉集』 四六三番歌と 『礼記』 月令」 (『京都大学国文学論叢』 28 二〇一二年) に おいて、 当該歌が 「悲秋 」で あること について は妥当 とさ れたうえ で、下記 のよ うな指摘をされた。 この場合、 「露」 を天の涙とす るのは当たらないように思う。 「空からこぼ れ 落 ち た 露が 草 や木 に 宿り 、そ れ が あ たか も (草 木 の) 涙の よ う に 見え る 」 と解釈したほうが、 類想歌の内容から言っても、 より自然ではないだろうか。 中村氏は、伏見院の和歌に、 草木みな露をふくめり我ひとり秋につれなき袖ならめやは (伏見院御集・二一〇六・秋露) 秋の風は草木のつゆ に を 歟 吹きしほり( うれ で )にふれても涙をぞなす (伏見院御集・二三二九・秋) のような、 「秋の悲しみが、 人 間においては涙としてあらわれ、 草木においては露 となる 」と いう類 想歌 が多く 見られ る (注1) こ とか ら、 当該 歌の草 木の 露も、 「草 木の涙として描かれている可能性は高い」とする。たしかに、伏見院には、 あきはこれもろきあはれの時にあれや草木の露も人の涙も (伏見院御集・二一一二・秋露) のように 草木の露 を人の 涙と 対応させ た例もあ る。当 該歌 の第二・ 三句「草 木も 心いたむ らし」か ら考え ても 、秋の到 来を草木 も悲し んで の涙が露 である、 と解 釈する方 が、たし かに自 然で はあろう 。拙著を 執筆し た際 も当初は そのよう に考 えたが、 天の涙と したの は、 結句の「 露くだる 」の表 現や 、当該歌 が『玉葉 和歌 集』では七夕の和歌の前に配列されていることからである。 『日本国語大辞典』 (小学館) では、 「くだす」 (下 ・ 降) につ いて、 「天、 空など から下の 方へ移す 。雨な どを 降らす」 とある。 すでに 中村 論文で指 摘がある よう に、 通常、 和歌では、 露は 「置く」 「結ぶ」 と表現され、 「く だる」 と表現する例は 少ない。当該歌に先行するものでは二例あげられる。 露くだす星合の空を詠めつついかでことしの秋をすぐさむ (夫木抄三九九八・秋一 家集、秋歌中 藤原義孝) 雨おもき籬の竹のおれかへりくだればのぼる露のしら玉 (為家集・二〇八三・雨中緑竹) 二首目に ついては 、中村 論文 でも指摘 されてい るよう に、 天から降 ってくる 露 のことを 詠むので はない 。竹 が雨の重 みで曲が れば竹 につ いた露も 枝先に向 かっ て流れ、 竹がもと に戻れ ばそ れにつれ て露も下 の根本 の方 向へと伝 って流れ る。 竹が曲が ったり元 に戻っ たり という動 作を繰り 返すと 、露 も枝先に 流れたり 根本 の方向に 流れたり と忙し いさ まを表す 。中村氏 の「雨 の重 みで竹が しだれて いる ために、 露は枝の 先端へ と流 れてゆく 。露がく だるよ うに 見えても 、実は枝 をの ぼっている」という解釈は一部修正を要する。 一首目は、 『義孝集』 五では、 初句 「露くだる」 であるが、 これは、 冷泉家時雨 亭文庫本の本文系統から、 「露くだす」 であると考えられるという (注2) 。 七夕の夜、 彦星と織姫の涙のような露を天が降らすと詠む。 同様の発想は、 漢詩文にもある。 露は別涙なるべし珠空しく落つ 雲はこれ残粧髻いまだ成らず 露応別涙珠空落 雲是残粧髻未成 (和漢朗詠集・二一四・巻上・七夕・菅) 天が降ら せた露は 彦星と 織姫 の別れを 惜しむ涙 なのだ ろう と詠む。 当該歌は 、 露が「く だる」の である から 、やはり 露が天か ら下り てく る様を表 すと解釈 すべ きであり 、それが 草木に 降り て、結果 として草 木の涙 のよ うにみえ ると、と らえ ることも 可能であ る。だ が、 義孝の和 歌や和漢 朗詠集 の七 夕の詩句 からすれ ば、

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キーワー ド: 伏 見院 悲秋 七夕 和漢朗 詠集 長恨歌 一、伏見 院の悲 秋歌 鎌倉時 代後期の 天皇、 伏見 天皇(以 下、呼称 を院号 であ る伏見院 に統一) は、 中世和歌 に新風を 吹き込 んだ といわれ る歌道の 流派、 京極 派和歌を 代表する 歌人 として知 られる。 伏見院 の代 表歌の一 つに、秋 の到来 を悲 しむ次の ような和 歌が ある。 われもかなし草木も心いたむらし秋風ふれて露くだる比 (玉葉和歌集四六三・秋上・五十番歌合に秋露をよませ給うける) 京極派歌壇で編纂された勅撰和歌集 『玉葉和歌集』 (以下 、『玉葉集』 ) 入 集のこ の歌は、 乾元二年 (一三 〇三 )閏四月 二十九日 催行の 『五 十番歌合 』に出詠 され た歌で、 京極派歌壇の指導者、 京極為兼の歌と番われている。 この和歌について、 判者でもあ った為 兼は、 「心 詞 たくみにし て隔凡 俗之界」 ( 和 歌の内容、 表現いず れも優れ、凡人の域を遠く隔てている)と評し、絶賛した。 かつて、 私は、 拙著 『コレク ション日本歌人選 伏見院』 (笠間書院 ・ 二〇一一 年) にて、 この歌に、 次のような口語訳と解説を加えた。 以下、 煩雑ではあるが、 口語訳は全文、解説は主要な部分を引用する。 口語訳 : 私 も悲しい 。草木 も心 を傷めて いるよう だ。秋 風が 吹いて草 木に触れ 、ま た、その秋を悲しむ天から、涙のような露が草木へこぼれ落ちてくる頃は。 解説 : 「悲 秋」とい う言葉 があ る。万物 が枯れ、 冬の衰 退へ と向かう 秋は、悲 哀の 情をかきたてる。 今から見れ ば、 当たり前のことのようだ が、 『万葉集』 で は 、 草木が紅 葉し彩 りを見 せる秋 は、春と 甲乙つ けがた い美し い季節と して捉え られた。 秋を悲 しいも のと思 うのは、 平安時 代に漢 詩から 影響を受 けた後の 発想であった。 この歌も、 「悲秋」 の発想に基づいている。 すべてが衰退へと向かう秋を、 自分が悲しんでいるように、 草木も秋の到来を悲しんでいるせいか、 秋風と 露に退色して、 やがて枯れ落ちてゆく。 漢詩にも、 「悲シキ 哉、 秋ノ気為ル。 蕭瑟トシテ草木揺落シテ変衰ス」 、「秋風蕭瑟トシテ天気涼 シ。 草木揺落シテ 露 ハ 霜 ト 為ル 。 …君 ガ 客遊 ヲ思 ヒ 腸 ヲ 断ツ 」 など あ るよ うに 、 秋 の 到来 は 、 秋風と露霜に弱り、 枯れ落ちる草木の様子によって、 認識されるものであっ た。 この歌では、 作者も、 草木も、 涙のような露を降らせる天も、 皆が秋を 悲しんでいるという。 この和 歌(以下 、当該 歌) が、秋の 訪れを悲 しむ「 悲秋 」の発想 に基づく もの との私の 見解は、 現在も 変わ っておら ず、他の 評釈や 論文 を見ても それが妥 当と 考える。 しかしな がら、 この 和歌の細 部の表現 につい ては 、まだ検 討の余地 があ ろう。本稿では、拙著での解釈の補足と修正を試みる。 二、 「 露くだ る」の 解釈に ついて 第一節での拙著の口語訳と解説について、 中村健史氏は、 「 伏見院の悲秋歌 : 『玉

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