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日本文化における「影響」の多義性

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日本文化における「影響」の多義性

キーワード

造型芸術における影響、ジャポニスムの潮流 版画の世界性、異文化表現の受容、影響と創造

0.

はじめに

詩人草野心平は、同じ1903(明治36)年生まれの版画家である友人、棟方志 昴(1975年没の前年7月志昴に改名、その年末、志功に再改名)を、こう詠ん でいる。

鍛冶屋の息子は。

相槌の火花を散らしながら。

わだばゴッホになる。

裁判所の給仕をやり。

むじな

の仲間と徒党を組んで。

わだばゴッホになる。

とわめいた。

ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。

ゴッホにならずに。

世界の。

Munakataになった。……

この詩は、《わだばゴッホになるの柵

I will be a V an Gogh》の彩色木版とし

て、棟方自身のダイナミックな生涯そのままを象徴する造型で彫りつけられ た。(

fig. 1

1956(昭和31)年、ヴェネチア・ビエンナーレ展の版画部門で国際大賞を受 賞、その名を世界的にした棟方は、日本の伝統的な木版画に、独自のエネル

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fig. 1 棟方《わだばゴッホになるの柵》部分、1974年

fig. 2 ゴッホ《向日葵》1888年

(『白樺』1921年掲載)、1945年焼失 ギーと深い精神性を刻み込み、すで

に1942(昭和17)年から自らの作品 を「板画」と呼んでいた。

「世界のMunakata」へ、

造型表現の確立へ邁進させた影響力 の源泉は、ゴッホだった。1921(大 正10)年、彼は青森の友人宅で雑誌

『白樺』に掲載されたゴッホの《向 日葵》を見て、非常な感銘を覚え た。それは、当時熱狂的に迎えられ たヨーロッパの造型芸術紹介作品の なかで、唯一、大日本印刷のカラー 口絵であった。(fig. 2)

棟方は晩年、パリ郊外のゴッホ終 焉の地オーヴェル・シュル・オワー ズを訪れ、故郷の青森に、敬愛する

(3)

先達の影響を受けた墓を完成し、自ら墓碑銘を書いている。

こうした造型芸術の「影響」とは、どのような関係を意味し、様相を呈する ものか。『広辞苑 第五版』の語義では、「([書経]影が形に従い、響が音に応 ずる意から)他に作用が及んで、反応・変化があらわれること。またその反 応・変化」とある。異文化の、主として造型芸術のなかにあらわれる「影響」

の多義性を、以下の章で探究していく。

1‑1.

ゴッホと棟方、それぞれの影響

ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853‑90)は、ポスト印象派を代表する画 家であり、1910(明治43)年4月発刊の『白樺』によって、日本の西洋美術受 容に決定的な影響を及ぼした一人である。19世紀末からのヨーロッパ美術界の 巨匠を、ほぼ同時代の時間差で、堰を切ったように紹介した『白樺』は、早く も発刊直後の5、6月号に、帰国した有島生馬の「画家ポール・セザンヌ」を 載せている。近代フランス絵画の動向を見渡したセザンヌの作品論に及ぶ詳細 な論稿であった。次いで同年11月号では、すでに知名度の高かった「ロダン第 七十回誕生紀念號」の、230ページを越える特集号が組まれている。そのなか で、斎藤与里が「バン・ゴッホと云ふ画家がミレエの絵を模写したのを見 た」、と書いたのが、日本におけるゴッホ紹介の最初とされる。その後、児島 喜久男の翻訳「ヴィンツェント・ヴァン・ゴッホの手紙」、武者小路実篤「後 印象派について」、柳宗悦「革命の画家」と続き、1912(明治45)年の11月 号、挿絵入り94ページの「ゴオホ特集號」で、日本におけるゴッホ愛好熱は広 まっていった。棟方が画家ゴッホを知った1921年は、『白樺』終刊の前々年 で、青森への波及効果が見てとれる。

『白樺』がヨーロッパ美術への関心と理解に果たした役割はきわめて大き い。掲載図版か複製画でしか鑑賞できなかった当時の事情からすると、『白 樺』という雑誌のもたらした影響は、造型芸術一般に対する「知」の領域の成 立と拡大に貢献したものといえよう。ちなみに『白樺』刊行の12年間、全160 冊中に掲載された巨匠の作品図版数は、上位からセザンヌ79点、ゴッホ75点、

ロダン70点、ゴーギャン19点であった 。

ゴッホの《向日葵》は、独自の強烈な色彩と絵画表現を追求した画家自身の

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fig. 3 ゴッホ《ジャポネズリー、花魁》、1887年 シンボルであった。1889年6月15日、ゴッホは「糸杉のことがしじゅう頭にあ るが、何とか向日葵の絵のような作品にしたいものだ」(書簡596)と述べてい る 。

青年棟方に雷のような衝撃を与え、「日本のゴッホ」への到達目標をもたら した絵画の印象は、ながらく太陽の花としてのエネルギーを、彫刀を持つ手の 奥に秘められていた。出会いより50年後の1972(昭和47)年、版画の世界を縦 横無尽に彫り極めた末、それは、油彩の《太陽花》シリーズとして思い出の花 を開かせることとなる。

版画家棟方がゴッホに私淑した理由は、何よりもヨーロッパの画家が日本の 木版画、浮世絵に寄せた情熱

を見たからであろう。ゴッホ の浮世絵愛好は、つとに知ら れているが、《ジャポネズリー、

花魁》(fig. 3)は、浮世絵を 背景にして花魁を重ね写して おり、《ジャポネズリー、花 咲く梅の木(広重による)》 の両脇には、懸命に書き写し た漢字が躍っている。ゴッホ は、憧れの浮世絵の表現様式 で、描く対象を見ようとして いた。「(日本美術愛好家の)

ゴンクール兄弟の決まり文句 の ひ と つ は、『ジ ャ ポ ネ ズ リーよ、永遠なれ』だった。

そうだ、この船だまりは素晴 ら し く 日 本 的 だ、 風 変 わ り で、独特だ――少なくともそ のように見ることができるの だ。」(書簡437)

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浮世絵版画は、画家ゴッホに影響を与え、その表現の可能性を拡大していっ たといえよう。

1‑2.

棟方「板画」、「柵」の確立

19世紀末の偉大な画家ゴッホから、棟方はどのような影響を受けたのだろう か。

それは、ゴッホが伝統的な西洋画のタブローの上で、浮世絵という東洋世界 との交換を果敢に試みた造型芸術の創造という行為に心打たれ、発奮し、自ら の伝統的版画に新たな生命を吹き込む触発を得たからと思われる。『白樺』誌 上でゴッホの《向日葵》と運命的な出会いをしたとき棟方は18歳、関東大震災 の翌1924(大正14)年に上京し、当初は油絵を志していた。版画への関心は並 行して続いていたが、全く新しい手法でこれに取り組む決意をしたのは、年譜 によれば、1930(昭和5)年からのことだという。

日本近代は西欧の文物受容とともに始まったが、そのヨーロッパにおいて、

まず印象派が浮世絵に覚醒し、自らの絵画革新の糧とした影響を、日本人は茫 漠然ととらえていた。北斎漫画に端を発する描写の緻密さ、大胆な構図と技法 は、かの地の画家を震撼させた。マネの《ナナ》、モネの《船遊び》、ドガの

《踊り子》などには、浮世絵の卓越した表現と構成の美意識が反映されてい る。これらは、オリジナルからの模倣、借り物ではなくして、異文化からの

「取り込まれた影響」と呼ばれるべきものだろう。

浮 世 絵 の 影 響 は、 印 象 派 か ら ゴ ッ ホ ら の ポ ス ト 印 象 派、 ア ー ル ・ ヌ ー ヴォー、表現主義と、時代と画家のまなざしの変化に呼応し、さらに重層的様 相を呈していく。

ヨーロッパにおける浮世絵の発見は、いわば偶然のもたらした産物であり、

その芸術が18世紀から閉ざされた国において生み出されたことに、はるか極東 の異文化へのエキゾチシズムが定着していった。もともと江戸期においては浮 世絵はサブ・カルチャーであり、浮世絵師は何々派の権威を持つ画家ではな かった。しかし、近代日本に生を享けた棟方の意識には、確立した一人の芸術 家としての「ゴッホになる」挑戦の決意が生まれていた。その時、棟方の視野 には、浮世絵の近代に通じる先進性を超えて、版画という芸術領域に世界性を

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持たせる道筋が広がってきた。草野心平が詠んだ「板にすれすれ独眼の。/そ して近視の眼鏡をぎらつかせ。/彫る。/棟方志昴を彫りつける。」独自性が 生まれた。

それは、自らの版画世界に、明瞭な概念を導入することだった。一つは、前 にも触れたように、「板画」(銅、石、拓その他にも)という用語使用を宣言し たことである。続いて翌1943(昭和18)年からは、作品題名に、《ひまわり男 の柵》のように、「柵」という字を当てることを述べている。自身の言によれ ば、「『柵』というのは、……四国の巡礼の方々が寺々を回られるとき、首に下 げる、寺々へ納める回札、あの意味なのです。この札は一ツ一ツ、自分の願い と、信念をその寺に納めていくという意味で下げるものですが、わたくしの場 所にひとツひとツ願かけの印札を納めていくということ、それがこの柵の本心 なのです。」(『板極道』) とある。

棟方板画は、その仏教世界の表現に力強い本領を発揮し、《二菩薩釈迦十大 弟子》柵は世界的な反響と評価を得た。森羅万象を天衣無縫な彫刀で刻み、生 命力あふれる感動を見る者に与える創造性は、日本の文化的土壌の普遍性を示 すものでもある。

1‑3.

棟方志功、ピカソとの出会い

パブロ・ピカソ(1881―1973)が20世紀最高の芸術家の一人であることは言 を俟たない。スペイン生まれの天才は、造型芸術のあらゆる分野にわたる制作 活動を展開し、絵画のみならず、版画、彫刻、陶芸、舞台装置、タピストリー 等に、時代の変革を刻印していった。旺盛、多彩な活動は、創造と破壊の連鎖 に似て、キュビスムからシュルレアリスムへ向かい、造型上のもっとも重要か つ世界的な潮流の中心的存在であった。影響という点では、ピカソは美術界と 時空を超え、燦然と輝く感化を多方面に及ぼしている。

サンパウロ及びヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展で世界的評価を得て から、いわば功成り名を遂げて後、棟方は世界へ旅立っていく。1959(昭和 34)年、船で出発した10か月の欧米歴訪から、1965年の2か月、1967年の4か 月、1974年の1.5か月と、彼地での巡回展や講演を重ねるが、この計4回のア メリカ旅行の度毎に、ニューヨーク近代美術館を訪れ、ピカソの《ゲルニカ》

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fig. 4 ピカソ《ゲルニカ》、1937年

を見にいっている。(fig. 4)

《ゲルニカ》は、1937年4月6日、ドイツ空軍によるバスク地方の爆撃で破 壊された町を描いた大作である。スペイン内戦で罪のない人々が死に追いやら れた悲劇は、第2次世界大戦前夜の故国を想う、戦争への怒りの比類のない絵 画となった。ピカソは、この題材の表現に、それまでの美術上の軌跡を自ら集 大成し、生きとし生けるものを襲う殺戮の野蛮を形象化した。そこには、ピカ ソ自身の写実主義からシュルレアリスムに至る影響の自在な取り込みが見てと れる。現在《ゲルニカ》は、スペインのプラド美術館の所蔵となり、レイナ・

ソフィア芸術文化センターに展示されているが、この歴史を刻んだ傑作は、黒 とグレーの色調で、その高度な洗練が見る者の心を掴んで離さない。

棟方志功は、4回の滞米中、5回美術館へ足を運び、《ゲルニカ》を双眼鏡 でつぶさに、それこそ彫刀で刻み、筆で線を引くように鑑賞した。感動は後に こう記された。

「わたくしがアメリカでいちばんおどろいた絵といえば、結局はピカソの

《ゲルニカ》でした。あれは本物です。モダン・アート・ミュージアムの 壁面にかけてあったのを見まして、りっぱな作品だと手を打ちました。こ れは、本当にすばらしい絵画と、手を握りました。わたくしは、絵などを 見て、あまり、驚かない方ですが、あれだけはおどろきました。それか ら、パリのユネスコにあるピカソの壁画、これもずいぶん描写の布置を心 得た作品でした。あれは、赤い色が主になって見えましたが、こっちの

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fig. 5 棟方《東北風の柵》、1969年

《ゲルニカ》は、黒 が 基 調 の よ う で し た。なんともいえな い大きさですが、仕 事のりっぱさが、も ういっぱいになって いました。」 東の巨匠は、西の天才 をよく知る。20世紀を全 力疾走したピカソと棟方 の創作期間はほぼ重なっ ている。ピカソとの出会いが、棟方にどのような影響を与えたか。棟方のピカ ソ以前、ピカソ以後の研究は、生誕百年記念展図録の「棟方志功とニューヨー クとピカソ」において《東北風の柵》(fig. 5)が《ゲルニカ》の触発を受けた 作品とされている。影響を軸に考察すれば、ピカソ・棟方ともに世界の芸術潮 流に敏感であり、果敢にそれと対峙し、創作の脱皮再生を計っていたといえる だろう。

2‑1.

パウラ・モーダーゾーン=ベッカーにおけるジャポニスムの影響 表現主義先駆けの女性画家パウラ・モーダーゾン=ベッカー(1876―1907)

は、31年の短い生涯に700点以上の作品を遺した。制作に邁進した最後の10年 間は、世紀の転換期にあたり、芸術潮流の実りがもっともゆたかな時期であっ た。その中心地パリは芸術革新の意気に燃える才能の集うメッカであり、産業 技術の高度化によって市民生活が大きく変動する流れとも重なっていた。時代 の先端と集約は、万国博覧会にあった。

1889年と1900年のパリ万博は、1851年のロンドン博から初めて日本美術工芸 が脚光を浴び、ジャポニスムの影響に彩られた史上空前の博覧会となった。

セーヌ河畔のエッフェル塔の下に連なる電飾まばゆい不夜城のパヴィリオン は、5千万を超えた観客に、アール・ヌーヴォーの新しい美術様式と工業デザ インを提示したのだった。

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世界的な芸術の強力な磁場に引き寄せられるように、1900年のパリに、女性 画家の卵のパウラ・ベッカーと青年ピカソがやってきた。絵画修業の中心地に 結ばれた絆は強く、女性画家はその後、北ドイツの芸術家村ヴォルプスヴェー デから1903年、1905年、1906〜7年と4次にわたる滞在を行い、スペインの天 才は1901年、1902年に短期再訪、1904年からは芸術革新の発信地となるパリに 定住することとなる。

20世紀初頭にもっとも影響力をもった絵画史上の変革運動のひとつフォービ スムは、1905年サロン・ドートンヌのグループ展示「野獣派」から生まれた。

同年、ドイツのドレスデンで上がった表現主義の狼煙は、地下水脈で結ばれた その直接的影響といえる。もうひとつの重要な運動キュビスムは、1907年ピカ ソ《アヴィニヨンの娘たち》の記念碑的作品により、対象を立方体的に造型す る視覚革命となって展開されていく。

女性画家パウラはこれらの運動に加わったわけではなく、5歳年下のピカソ との接点もないまま1907年に没しているが、遺された700点以上の作品には、

時代の雰囲気が色濃く反映されている。端的にいえば、ジャポニスムから受け た影響を、内面のエクスプレションとして、表現主義的に表出し、独自の絵画 世界を構築していったのである。

その切っ掛けを掴んだのは、1903年の第2回パリ滞在で、詩人リルケの招待 による美術商林忠正の浮世絵コレクション売り立て展を見たことだった。2月 15日の日記は、浮世絵版画の世界が見たこともない題材に満ちている興奮を記 している。女性画家が見た浮世絵の内容については、紀要前号論文『パウラ・

モーダーゾーン=ベッカーと林忠正コレクション』において、調査結果を明ら かにし、研究の手つかずの分野に一石を投じた。

欧米の美術史家・研究者にとっては、浮世絵そのものに馴染みが薄く、比較 研究の対象とするには蓋然判断になる可能性が高いためもあってか、対比は敬 遠されがちであるが、日本文化を代表する造型芸術の普遍性という観点から は、一層考察を進める必要がある。

「影響」という切り口で見る場合、芸術家たちに与える異文化の力は、そこ に権力や威厳があってのことではない。ピカソやドレスデンの「ブリュッケ」

が、黒人彫刻に学んでキュビスムや表現主義を生み出した事実が、影響それ自

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fig. 6 歌麿《台所で働く女たち(野菜むき、かまど)》2枚続絵 体の多義性を物語っている。

女性画家の作品を制作年代別に調べると、1903年以降に変化が見られる 。 それは扱う主題への画家のまなざしの移行である。初期のヴォルプスヴェー デの自然を描いた風景は後退していき、北の泥炭地に暮らす農民たちの姿に焦 点が当てられ、人物像には次第に内面性の輝く成熟度が増していく。顕著なの は、静物への関心の高まりが見られ、一貫したテーマである少女像には、新た な画境が追求されていくことである。

前記の拙論では、浮世絵に特徴的な大首絵の肖像への技法的転用、写楽の役 者絵に見る手の表現の効果的応用、相合い傘など二人連れが示す親密さの換骨 奪胎表現等を指摘したが、そうした類似性に直接的影響を見出だすだけでな く、浮世絵世界があらわす間接的影響も、研究の対象として考察の視野に入れ なければならないと思われる。

浮世絵に描かれる人物像は、圧倒的に女性が多い。女性の生活をめぐる姿態 が豊富だ。女性画家パウラ自身の林コレクションを見た印象にも、愛らしいも の、女性的なものと、コケティッシュなもの、という分類がなされている。こ

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fig. 7 豊国《筍掘りの図(両画十二候、五月》3枚続の1

fig. 8 パウラ・M=ベッカー《さかなの静物》、1906年

れらは、子ども、母と子、自画像の主題に、その裸体像へと広がる視点をもた らし、他の追随を許さない女性独自のテーマを深めることとなった。女性の働 く場面は、その迫力で画家を刺激した。食をめぐる題材は、キッチンの静物画

(fig. 8)に、風景には少女が加えられ、画境が拡大された(fig. 9)。浮世絵の 世界は、異文化を超えて、女性画家を触発し、幅広い主題への観察を深める素

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fig. 9 パウラ・M=ベッカー《森の中の笛を吹く少女》、1905年

材を提供しただけでなく、創造への喚起力という影響を与えたといえよう。

2‑2.

「ブリュッケ」の表現主義版画と棟方板画

1905年、パリの「野獣派」が絵画変革を強烈な色彩で訴えたのに呼応して、

同年、ドレスデンのグループ「ブリュッケ」は、文字通りフランスとドイツの 間に新たな芸術運動の橋を架けた。前者はフォーヴィスムの牙城となり、後者 は表現主義の砦となった。

外界のインプレッションを描く印象派に対して、内面の表出エクスプレッ ションを標榜する表現主義は、造型表現そのものの革新を実験した。とった表 現技法は、版画だった。

「ブリュッケ」画家のほとんどが、彫刻刀を握り、印象的な鋭角的表現に取 り組んだ。エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナー(1880―1938)は、「私は

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fig. 10 E.L.キルヒナー

《ブリュッケ年鑑》、1913年

fig. 11 E.ヘッケル

《男の像(自画像)》、1919年 狂わんばかりに描いている」と、仲

間の肖像を彫りつけ、『ブリュッケ 小史』を執筆した。(fig. 10)カー ル ・ シ ュ ミ ッ ト = ロ ッ ト ル フ

(1884 ― 1976) は、 白 黒 の 版 画 を

「もっとも純粋な表現」として、

「名状しがたい憧れ」を彫り込ん だ。表現主義画家たちのなかで、絶 えざる探求者であり詩人であったの は、エーリヒ・ヘッケル(1883―

1970)であった。彼は表現主義版画 の頂点を示す《男性像(自画像)》 を彫った。(

fig. 11

)マックス・ペ ヒシュタイン(1881―1955)が、人 間と自然の合一を探求したように、

彼等は当時の自然主義、象徴主義、

さらに印象主義に対する反発から、

新しい表現を追求するマニフェスト を宣言し、黒白が際立つ木版画を復 活させたのだった。

彼等の触発素材は、素朴な黒人彫 刻と、ゴーギャンやナビ派がジャポ ニスムの影響を受けた絵画だった。

そこから、余白の効果をもつな輪郭 線が切り取られ、平面的な構図のな かに造型のダイナミズムが追求され た。木版画の新たな可能性が開拓さ れたのだ。

ここで、「ブリュッケ」の表現主 義版画と棟方板画について、影響関

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fig. 12 棟方《東西南北頌のうち、

コノハナサクヤの柵》、1941年

係を見てみたい。棟方は、1939(昭 和14)年、《東西南北頌》と題する 4柵の作品を発表した。これは、2 年後の《門舞男女神人頌》16柵に連 なるもので、作者の解説によれば、

「題材は仏さまに類したものがそれ までに多いので、神さまの形をかり てと思い、大和武尊以前の化け物、

歴史の上にまだ姿をあらわさない混 沌たる世界の人物を板画にしようと 思い」制作したものだった。つまり 門を、日本の歴史の分岐点と見立て て、その中と外の世界に住む神々の 踊る姿を、八曲一双の屏風に描き出 していた。東:ヤマトタケル、西:

コノハナサクヤ、南:スサノオ、北

:アメノウズメと配した板画だっ た。(fig. 12)

この作品に関して、鍵岡正謹氏は

『棟方志功』において、「ドイツ表 現主義の作家たちの土俗的で近代的 な表現性の強い木版画の影響を受け ている」(新潮日本美術文庫44)と 見ている。この説の根拠は何か、基 本的なところで疑問を感じざるを得 ない。

まず、ドイツ表現主義のわが国に おける本格的な紹介は、近年になっ てのことである。前にも見たように表 現主義は、フォーヴィスムと同根の芸

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術革新運動であり、美術を中心に音楽、文学、演劇、映画、建築の領域に及ん で1910年代のドイツ語圏を席巻した。その思潮を予見したドイツの美術史家 W.ヴォリンガーの書『抽象と感情移入』は、刊行2年後の1910(明治43)

年、日本でも翻訳が出たが、そこで述べられた新しい認識、「人間が叫ぶ、そ れが表現主義的作品全体の書かれざる標榜だ」という知覚体験は、すぐには日 本にもたらされなかった。その芸術潮流が知られる時差は、ことドイツ表現主 義に関しては、ヒトラーの退廃芸術の刻印に排斥されて、半世紀以上にも及ん だ。日本で表現主義画家の作品が総合的に見られたのは、『20世紀美術の挑 戦――ルートヴィヒ美術館展』、『芸術の危機――ヒトラーと退廃美術展』で、

ともに1995年である。

棟方は、1936(昭和11)年に民芸運動の指導者柳宗悦や造型作家浜田庄司、

河井寛次郎らと、長大な板画《大和し美し》の展示拒否騒動をきっかけとして 知遇を得たが、その交流は表現主義芸術を知らしめるものではなかった。当時 の棟方のモチーフは宗教的なもので、「日本人のわたくしは、日本から生まれ 切れる仕事こそ、本物のモノだと思った」ことから、板画に表現される「日 本」「伝統」の「線」に打ち込んでいた。

「ブリュッケ」の版画は、剛直な彫刀で刻まれる骨太の線であり、棟方板画 は柔軟性に富んだ輪郭線である。両者には、直線と曲線の違いが見てとれる。

そこには、西洋の銅版画を彫る硬質な技法と、東洋の毛筆で限りなく自在に動 く伝統が反映されている。

晩年の10年間、棟方はよく外国へ出かけた。先に挙げた4回の欧米だけでな く、インドにも赴いている。ピカソの他にも、ルーヴルのギリシャ彫刻、フィ レンツェのヴィーナスに触発された作品を残しているが、いずれも《観音経曼 陀羅》に見られる日本風土に根ざした技法と解釈で、力強い黒白コントラスト の世界を彫り進んだのである。

3‑1.

チュルリョーニスにおけるジャポニスムの影響

ミカロユス・コンスタンチナス・チュルリョーニス(1875―1911)は、知ら れざる芸術家である。バルト3国のひとつ、リトアニアの作曲家であり、画家 であるが、その生涯と業績は、異文化における影響を考察するのに、多角的な

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問題を与えてくれる。

教会オルガニストを父にもち、美しい自然と民謡に親しんだ幼年時代を送っ た青年は、1893年ワルシャワ音楽院に入学する。ポーランドと国境を接してい るリトアニアは、ともにカトリック文化圏にあり、地理的にも両国のつながり は密で往復は頻繁であった。

バルト3国でいちばん北に位置するエストニアは、海を隔てたフィンランド と同じ文化・言語圏に属し、その首都タリンは11世紀デンマーク人によって開 かれた後、ドイツのハンザ都市として繁栄した。真ん中の国ラトヴィアは、首 都リガが13世紀ドイツ騎士団によって築かれ、さらにハンザ同盟に加わり、ド イツの影響が19世紀末のユーゲント・シュティール建築にも見られる。中世か らの北欧文化とドイツ文化が混交した雰囲気をもつバルト海の2国に比べる と、同じヨーロッパとロシアを結ぶ交易路上にありながら、内陸にあるリトア ニアの首都ビリニュスは、1570年イエズス会によって創設された最古の歴史を 誇る総合大学をもち、教授招聘によるヨーロッパとのつながりが強かった。

こうした文化的背景から、チュルリョーニスは1902年ライプチヒ音楽院を卒 業し、ふたたびワルシャワで音楽教育・作曲活動を続けながら、芸術学校で絵 画を学んでいく。彼にとって、音楽と絵画は車の両輪であり、創作は相互影響 の産物であった。20世紀初頭は造型芸術が花開き、大きなうねりをもって広 がった時期であり、さまざまな展覧会が開催された。チュルリョーニスは、中 央ヨーロッパのプラハ、ドレスデン、ニュルンベルク、ミュンヘン、ヴィーン へ出かけて行く。美術館ではルネッサンス、バロックの巨匠のみならず、同時 代の画家ベックリン、シュトック、クリンガー、シャヴァンヌ等の作品に大き な感銘を受けた。エッチングの腐食技法に興味を抱き始めていた彼は、世界中 の美術工芸品におどろき、ワルシャワの友人ヴォルマンにこう手紙を書いてい る。

「工芸美術館での私の印象は、とても混沌としています。ここで見たもの すべてを列挙することはできませんが、イタリアのマジョルカ陶器、ギリ シャ・ローマの骨董品、ペルシャの壺、……東洋の磁器、古代ガラス、……

日本の版画や武具や織物などです。」(プラハ、1906年9月1日)

当時、万博を契機として脚光を浴びたジャポニスムの波は、中央ヨーロッパ

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fig. 13 M.K.チュルニョーニス

《海のソナタ、フィナーレ》、1908年

fig. 14 北斎《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》、

1831年 にも伝播した。画家マネ、

ゴ ッ ホ の 浮 世 絵、 ロ ー ト レックの根付・掛軸、オラ ンダのアール・ヌーヴォー 作家ヤン・トーロップが注 目した日本美術愛好は、財 力ある収集家に受け継がれ た。ポーランドの貴族フェ リックス・ヤシェンスキー の収蔵品は、現在古都クラ カウに美術館を創設する内 容を持ち、チュルリョーニ スの時代はジャポニスムの 風がそよいでいた。

テンペラで描かれた《海 の ソ ナ タ》(1908)(

fig.

13)を見るとき、逆巻く波

と小舟に、葛飾北斎の《神 奈川沖浪裏》(

fig. 14

)を 想起せずにはいられない。

3‑2.

ジャポニスムの視覚 から聴覚への2次的影響

《海のソナタ》は、音楽 の章に倣って、アレグロ、

アンダンテ、スケルツォに 次ぐフィナーレが絵画化さ

れた。この他《春》、《夏》、《星》の連作ソナタが創作され、音楽交響詩《森に て》(1901)と《海》(1907)とともに、祖国リトアニアの自然をうたいあげた チュルリョーニスの一大叙事詩となっている。

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fig. 16 M.K.チュルリョーニス

《おとぎ話II》、1907年

fig. 15 廣重(初代)《名所江戸百景

深川洲崎十万坪》、1857年

北斎の浮世絵を連想させる海のソナタ《フィナーレ》は、巨大な波頭が立ち 上がったところに、MKCという画家のイニシャルが泡の粒で読み取れる。し かし真珠を連ねたような波間に翻弄されるのは、日本の帆かけ舟であり、この 着想が浮世絵から得られたことを物語っている。同じく《アレグロ》には、砕 け散る波間を、滑るように飛ぶ白い鳥影が高い位置から描かれている。他にも ヨーロッパのジャポニスムの伝播に貢献した雑誌、ビング編『藝術の日本』に 所収の歌川廣重(初代)《名所江戸百景 深川洲崎十万坪》(fig. 15)の大鷹に 似た構図の《おとぎ話II》(

fig. 16

)など、鳥瞰の視線が数多く見られる。画 家チュルリニョーニスは、浮世絵の自然観に共鳴したと思われる。

カソリックの風土に生を享けた画家の絵画世界は、カオスから生じる天地創 造、自然界の循環、民話を題材とした《王様レックスの物語》に描かれる調和 的パラダイス等、鳥瞰の視点で万物と対話する宇宙観を打ち立て、浮世絵に一 つのヒントを得たのだろう。彼は、先に見た中欧旅行で、同時代の芸術認識を 次のように述べている。

「(シャヴァンヌの作品)これは19世紀の終わりです。わが20世紀の始ま りはそれ自体がカオスのなかにあります。私が見た多くの作品からの印象

(19)

では、絵画は何かに向かって逆らい、のたうちまわり、目下の境界を打ち 壊そうと闘っていますが、今迄のところは自分の枠内にいるようです。い ちばん新しい仕事は、フランスの画家のもので、彼らは革新的で休みを知 りません。ドイツ人では、ヴォルフガンング・ミュラーとホドラーに興味 を覚えました。」(1906年9月6日)

ヴォルフガング・ミュラーは美術史になく、表現主義のオットー・ミュラー の誤りであろうか。ホドラーはスイスの画家で、表現主義の先駆けといわれて いる。いずれにしても、チュルリョーニスは、リトアニアの自然に沈潜し、時 流を見据えつつ、人類共通の宇宙観を溯るものを求め、浮世絵の自然観に共感 を覚えた独自の神秘的世界を創造していった。

彼の音楽は、みずみずしい感性の絵画そのものである。曲想に雄大な自然が 反映され、聴く者を美意識に貫かれた絵画に誘い、包み込む。視覚と聴覚が、

相互に複合的な相乗効果をもたらす。その絵画と音楽は、カンディンスキーに も多大の影響を及ぼしている。

フランスの作曲家クロード・ドビュッシー(1862―1918)が北斎の浮世絵

《神奈川沖浪裏》に感銘を受け、管弦楽曲《海》を1905年に初演したことは知 られている。海の夜明けから真昼まで、波の戯れ、風と海との対話の3楽章 は、絵画の具象表現を聴覚で獲得したものだった。それを音楽の抽象楽曲に再 構築させたことは、ジャポニスムの視覚芸術が聴覚芸術に及ぼした2次的影響 を見てよいだろう。

4.

おわりに

以上、異文化における影響の多義性を、主に造型芸術の面から考察してき た。

一人の芸術家が受ける影響というものは、相互の文化の伝統と時空を超え、

力学的な作用を及ぼしていく。全く異質の文化に対峙したとき、そこに衝撃が 走り、実体に反応し、感化を受け、自己の文化との葛藤が生まれる。それは、

新たな文化生成への喚起力となり、融合、脱皮、革新のエネルギーとなって、

表現の可能性を拡大してゆく。さらに影響は、具象から抽象への飛躍をもたら すものでもあり、人間の内面にも作用を及ぼす相対的な関係のなかで、芸術家

(20)

個人に止まらない総合的な力となって広がる。

画家ゴッホが浮世絵のなかに発見した繊細な色彩、ゆたかな線描、斬新な構 図などは、セザンヌ、ゴーギャンらとともに近代絵画をさらに前進させ、ポス ト印象派の画境を切り拓く起爆剤となった。浮世絵の影響は、狭義から広義 へ、普遍性へと拡大転換した。

武者小路実篤は、『白樺』の「ゴオホ特集號」で、「ゴオホを知つたことを 我々は感謝するものである。(12・10・20)」 と述べている。これは、ゴッホ によって自国文化の浮世絵を再認識させられたことを超えて、画家が日本人の 近代絵画への視界を広げ、異文化の芸術世界に覚醒させてくれたことへの謝辞 に他ならない。

文化を享受する感覚の受信装置は、磨かれていくものである。近代絵画の父 といわれるセザンヌについても、リンゴを複数の視点で描いたその革新性が、

日本人のなかに通奏低音として存在した感覚を揺り動かし、普遍的な芸術思潮 として受容されていく。

棟方志功は、郷土青森の土着的なねぶた絵を自己のなかで発展させ、浮世絵 に通じるその独自性を開拓していった造型作家だが、そのまなざしが日本に埋 没するものでなく世界の表現に向けられていたことは、こうした近代日本の文 化的土壌があってのことである。彼はゴッホにもピカソにも、同じ芸術に携わ る表現者として、自分の到達目標であり、よきライバルであり、精神的支柱で あった先達に、影響を受けた賛を献じたのである。

パウラ・モーダーゾーン=ベッカー、「ブリュッケ」のエルンスト・ルード ヴィヒ・キルヒナー、エーリヒ・ヘッケルらの表現主義作家の場合、ジャポニ スムの影響は少しく様相を異にする。彼らにとって浮世絵版画は、異文化のエ キゾチシズムをとしてではなく、近代に生きる人間の内面あるいは生き方にか かわる表現上の技法として受容されている。自己の絵画世界を表出するため に、時空を超えて求められた普遍的な影響であった。

強烈な表現主義と同時代でありながら、まったく独自の神秘的な自然観・宇 宙観を描く絵画と、限りなく人間存在を慰撫する音楽を残したM.K.チュル リョーニスは、浮世絵から自然界を鳥瞰するまなざしのメッセージを読み取っ た。これは、2次元の版画に分け入り、聴き入り、感情移入して、異次元世界

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Kinder

1897

/98

7

10

7

5

2

1

2

34 1899

19

1

20 1900 Paris I

73

3

5

6

9 4

1

1

2 104

1901

48

10

3

2

30 2

8

4

2

1

2 112

1902

29

5

8

26 8

12

5

2

2

7 104

1903 Paris II

21

4

23

3

21 4

1

5

1

4

5 92

1904

7

1

14

4

39 2

13

1

1

1

2 85

1905 Paris III

3

3

4

10

35 2

8

2

2

6

3

18 96

1906 Paris IV

1

2

14

6

5

5

13 46

1907

2

6

3

6

13

10 40

1907 W orpswede

3

4

3

2

11 23

208

27

23

74

9

189 22

45

9

22

24

34

70 756

へ変容させる影響の多義性を物語っている。 E.H.ゴンブリッジは『芸術 史』で、北斎、歌麿の画期的影響力について、「なぜ一枚の絵が、一場面のあ らゆる形態の本質を示すことになったのだろうか?」 、と問い掛けている。

浮世絵の影響の多義性は、更に考究の対象とされるべきである。

匠秀夫「『白樺』と美術のかかわり」(『日本近代美術と西洋』)、273ページ V incent van Gogh: Sa¨ mtliche Briefe, Band 4, p. 293

ibid., Band 3, p. 342

棟方志功『板極道』、中公文庫、129〜130ページ 同上書、279ページ

「パウラ・モーダーゾーン=ベッカー 年代別作品分類一覧」

(22)

V . Landsbergis: M. K. Ciurlionis, p. 142 ibid., p. 143

武者小路実篤「ゴオホの一面」(『白樺』1912.11特集号)

E. H. Gombrich: Die Geschichite der Kunst, p. 526

主な参考文献・図録

明治美術学会編『日本近代美術と西洋』、中央公論美術出版、平成4年

サミュエル・ビング編『藝術の日本』(Le Japon Artistique)、美術公論社、昭和56年 棟方志功『板極道』、中公文庫、2003年

E. H. Gombrich: Die Geschichte der Kunst (16. Aufl.), S. Fischer, Frankfurt a. M., 1997 V incent van Gogh: Sa¨ mtliche Briefe 4Bde, Henschelverlag, Berlin 1965

Dietmar Elger: Expressionismus, Taschen, Ko¨ ln, 2002

V ytautas Landsbergis: M. K. Ciurlionis. Time and Content, V ilnius Lituanus, 1992

「生誕百年記念展 棟方志功――わだばゴッホになる――」、2003

参照

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