﹁春城日誌﹂研究会 茫茫二十五年
﹁春城日誌﹂研究会 茫茫二十五年
金 子 宏
昭和でいうと五十九︵一九八四︶年の春であった︒昼休みに図書館員の何人かが日向ぼっこをしながら︑﹁市島先生
の日記を読んでみませんか﹂という話が︑取り留めのない雑談の中であった︒我々が勤務していた早稲田大学図書館
が︑明治年間に春城市島謙吉館長のもとに︑大いなる発展を遂げ︑彼自身が当時の日本文庫協会︵後に日本図書館協会︶
において枢要な役割を果たし︑初代の日本図書館協会会長としてその後の図書館界発展に多大なる貢献があったこと
は周知の事であり︑我々もその事をある程度は承知していた︒その時に集まったメンバー︒
柴辻俊六さんは︑大学院で日本中世史を専攻されて︑図書館の古文書担当として活躍されていた︒
酒井清さんは︑特別資料室に長かった︒そんなことから︑市島館長について強い関心をお持ちだった︒
春城の出身は新潟である︒渡部輝子さんは高田の出で︑早稲田大学理工学部で高木純一先生︵後に学部長︑常任理事︶
と親しくされておられた︒高木先生が早稲田大学の発展の礎となった寄附金募集に奮闘した市島謙吉の記録﹁背水録﹂
を読んでおられ︑そのことを高木先生は渡部さんにお話されたという︒同郷の新潟ということもあり︑深い関心を抱
いておられたのである︒
私も遇々新潟の産であり︑昭和三十九︵一九六四︶年の夏に早稲田大学職員の就職試験の面接で︑当時図書館の副
館長をされていた加藤諄先生︵会津八一の門下生で︑日本金石文の大家︒平成十五︵二〇〇二︶年九二歳でご逝去︶の試問に
潟と早稲田との関係は色々在るが︑どのくらい知っておるか﹂があった︒
私は父が教員で当時赴任していた新潟県北蒲原郡安田町︵現阿賀野市︶で生まれた︒安田町の出身で﹁大日本地名
辞書﹂編纂者吉田東伍のことは︑父から聞いてもいた︒同年に吉田博士生誕百年記念展覧会を早稲田大学図書館で開
催されていたのを見ていた︒また︑当時の小野記念講堂での記念の講演会も聴いた︒父から吉田博士が安田の旗野家
から新津︵今の新潟市秋葉区大鹿︶の吉田家に養子になっていたことも聞いていた︒そんなこともあり︑すっかり加藤
副館長と意気投合したことで︑当時かなり就職が困難な中︑早稲田大学職員︵図書館員︶として採用されたのは幸で
あった︒ 昭和四十︵一九六五︶年に配属されたのが和漢書係であった︒文学部史学科で専攻したのは西洋史︒当時の和漢書
係のスタッフに﹁何故洋書に行かないで和書なのだ﹂と問われたが︑恐らくは願書の希望欄﹁日本の典籍に携わりた
い﹂と書いたことが理由だったのだろう︒
学部時代に教わった教員の一人に定金右源二先生がおられた︒ある日︑教場で﹁君たちは西洋史を学ぶが︑それを
主として卒業後生業とする者は限られていると思う︒しかし︑史学を学ぶということは︑西洋史の分野から離れても
生きていくものだ︒恐らく多くの諸君は日本の文化とかという身近なところに回帰するだろう︒そうした時に学問の
あり方として私達が伝えたものを生かしていって欲しいものだ﹂と定金教授が説いたことが強い印象として今も記憶
するところだ︒
図書館和漢書係での一年間︑法学部教員図書室出向一年半︑受入係︵海外との交渉担当︶︑そして半年間のハワイイー
ストウェストセンター出向︑帰国後和漢書係に戻る︒洋と和との行き来が取り混ざっていた頃であった︒
校費による﹃留学﹄であるから︑ハワイイーストウエストセンター等︑海外からの訪問者が来れば︑接待役が回っ
﹁春城日誌﹂研究会 茫茫二十五年 て来るのも仕事であった︒学生時代に苦とした英会話も半年で︑まあ何とか相手の言うことを理解できて会話が成り立ち︑役目を果たせた︒後に受入係海外との寄贈交換業務に移動した後も︑英文での通信など経験を生かすことが出来た︒ そんな頃︑冒頭の市島先生の日記を読むことが日溜りに集まった人達から提案されたのだった︒想い起せるのは︑今なおご一緒させて戴いている渡部さん︑酒井さんである︒他に山本信男さん︵故人︶︑村井由敬さん等とわいわいやっ
ていた記憶がある︒
当時の図書館長に就任されたのが濱田泰三法学部教授︒法学部出身の山本さんの口添えもあり︑我々の春城日誌の 翻刻・解題の第一回が﹃早稲田大学図書館紀要﹄に掲載されたのが昭和六十一︵一九八六︶年三月だった︒山本さんは︑
図書館紀要の編集担当をされていたと記憶する︒退職されておられたが︑日本図書館協会から出版された﹁市島謙吉﹂︵﹃図書館を育てた人々・日本編Ⅰ﹄一九八三︶の著者である田口親さんと当時参考室の責任者をされていた中沢保さん
人︶には顧問として諸事ご指導を頂いた︒
日誌を読む会は︑渡部さん︑酒井さん︑柴辻さんと私の四人で︑昼休みに当時の教職食堂でスタートした
堂は︑今の大隈会館のある場所︒大正十四︵一九二五︶年に竣工︒大正期に建設された学生ホールに増築されたもの︒学生ホール
そのものは山一證券の創設者であった小池国三の寄附金を基になったもの︶︒
明治三十七年分までは︑その頃年に二回発行されていた﹃図書館紀要﹄に掲載していただいたが︑半年に日誌の一
年分を読み切るのには力不足であったこともあり︑明治三十八年のものからは︑半年分づつ載せることにしてもらっ
た︒ この頃︑柴辻さんが抜けて藤原秀之さんが加わった︒例会は週一回︑昼休みを利用し︑場所は図書館の会議室や渡
部さんの職場であったマイクロ資料室等で行っていたと思う︒その後︑例会を行なう場所は変遷した︒場所を求めて
の苦労は今なお続いている︒
会がスタートした前後︑早稲田大学創立百周年記念事業構想策定の作業が始まっており︑図書館もその対象となっ ていた︒手狭にもなっていたし︑七号館︵雑誌︑学習図書︑視聴覚資料︶や先に触れたマイクロ資料室は十二号館の生
協売店の跡︑に分散せざるを得ない状況だった︒百周年に大図書館を建設するという期待は︑我々図書館員だけでは
なく︑全学的にコンセンサスとなっていった︒図書館は︑理想の大学図書館を目指し︑自らマスタープラン作成する
ことに挑戦するという絶好の機会を与えられたのだった︒濱田館長のご理解もあり︑図書館の持つ機能をあらゆる面
から見直し︑次世代の図書館︑情報発信基地を模索する活動が始まった︒手法としてワーキンググループ︑小集団活
動︑QC理論を取り入れた全館挙げて熱気溢れる時期が続いた︒私も大学の百周年記念事業委員会に書記としての仕
事を与えられ︑その後のワーキンググループ活動の事務局を担当したりして︑かなりの激務の中であったが︑渡部さ
ん︑酒井さんの意欲に励まされて春城日誌研究会も続けていった︒
平成三︵一九九一︶年に安部球場の跡地に新図書館︑早稲田大学学術情報センター︵中央図書館と研究会議棟の複合施設︶
が完成︒WINEという図書館情報システムの始動も伴い︑帰宅も連日夜中という日々だった︒
今思い起しても︑この時期図書館は変わったと言ってもいいのではと思っている︒私自身もこの頃新館準備の仕事
に加えて︑﹁幕末明治のメディア展﹂︑﹁井伏鱒二展﹂等︑数え挙げれば十回以上の展覧会を担当した︒丸善の仙台店︑
名古屋店でも﹁出張展覧会﹂を行なうなど︑所蔵する資料の情報を発信することに携わった︒昭和六十三︵一九八八︶
年に小田急デパートで開催した﹁大隈重信生誕一五〇年記念展覧会﹂はそのハイライトでもあった︒遇々︑時の首相
が校友の竹下登氏であったので︑会期中に来場を期待したのだったが︑政務多忙で同じく校友の小渕恵三内閣官房長
﹁春城日誌﹂研究会 茫茫二十五年 官が竹下首相の代理として臨場︒西原春夫総長と伴に小渕長官に展示資料の説明の役割を担った︒ 図書館の広報誌としての﹃蔦﹄の創刊︑﹃らいぶとびあ﹄︑﹃ふみくら﹄を担当したのもこの時期であった︒
平成三︑四︵一九九一︑二︶年に﹃早稲田大学図書館紀要﹄に市島が遺した﹁館長日誌﹂︵明治三十六〜三十八年︶
翻刻し︑解説をつけて掲載した︒この仕事は春城日誌研究会︵渡部さん︑酒井さん︑藤原さん︑金子︶と当時進められて
いた﹃早稲田大学図書館史﹄の編集委員会から鎌倉喜久恵さん︑中西裕さんのメンバーで行った︒
平成六︵一九九四︶年十一月に図書館主催で開催された﹁市島春城展﹂︵没後五十年記念︶には︑酒井さん︑藤原さん
と私に加えて能登康弘さんが展示委員会として実務に当った︒その後︑能登さんも研究会に参加してもらった︒
平成七︵一九九五︶年に人事部が職員の自主的研究会への助成金交付の制度がスタートしたのを機会として
に応募した︒幸い我々の企画が認められて︑それまで手弁当で賄ってきた資料のコピー︑データ入力などに伴う経費
に宛てる事が出来た︒人事部の自主的研究会助成は︑これを含め計三回認められた事は︑会の運営上︑非常に有難い
ものであった︒
明治四十三年分の読み会から柴辻さんが復帰︒総務部の岸ヤス江さん︑図書館を退職された松井叶子さんと外部の
方だが︑柴辻さんのご紹介で練馬区の松田仙三さんが加わったが一年で退かれた︒明治四十四年分から井口牧二さん
が加わる︒この頃は︑人数の関係もあり業務の終った後に当時の教職員クラブを使った︒回数は週一回だった︒
明治四十三年︑四十四年はこのメンバーで行なっている︒明治四十五年︵大正元︶に進んだころは︑現役の会員が
時間の都合をつけることが難しくなった︒加えて渡部さん︑酒井さんが定年退職されたこともあり︑松井さんを含め
て例会の持ち方がOB︑OG中心にならざるを得ない状況となったのである︒
平成十四︵二〇〇二︶年︑私が定年退職︒大正期の分は酒井さん︑松井さん︑渡部さんと退職者だけで進めて
在に至っている︒
こうした仕事の結果が︑マスコミや研究者から注目されているのは︑担当した我々としては嬉しいことである︒
﹃月刊Asahi﹄平成五︵一九九三︶年の一︑二月合併号で﹁﹇未公刊日記﹈の魅力﹂に春城日誌が﹃早稲田大学
図書館紀要﹄に掲載されていることが紹介された︒平成七︵一九九五︶年十一月二十九日の﹃産経新聞﹄に﹁早大の
初期経営を支えた市島謙吉の日誌出版へ﹂という記事が載った︒
日誌の明治四十一年のものを引用し︑大学基金募集で時の桂太郎首相に会い即座に五百円の申込みを得た︑と市島
の活動を紹介︒大学史編集所がこれを出版するという計画があると記している︒記事のコピーを当時大学の広報課か
ら渡された記憶があるだけで︑取材された記憶は私にはない︒
平成十一︵一九九九︶年六月四日の﹃山陽新聞﹄に﹁大原孫三郎主催倉敷日曜講演で来岡︑大隈重信の行動克明に﹂
として明治四十四年に大隈に随行した市島の日記を取上げている︒これについては当時校友会岡山支部長の原圭一郎
氏︵三十四年商学部卆︶に︑原氏の祖父原澄冶氏について私が書いた論考を紹介したことが縁で︑﹃山陽新聞﹄が取上
げたものだった︒
平成十八︵二〇〇六︶年四月に﹃春城師友録﹄︵知の自由人叢書/国書刊行会刊︶が山口昌男氏の監修で刊行された︒
民俗学が専攻だが︑幅広く社会論などで活躍している山口氏が︑市島の随筆集から交友のあった人々を取上げ編集し
たものである︒山口氏には一度お目に掛かって︑春城日誌翻刻の抜き刷りをお渡ししたことがあった︒この本の解説
で﹁早稲田大学図書館にいったことがあるけれど︑そこで﹃早稲田大学図書館紀要﹄に春城の日記が翻刻されている
のを見つけて︑これがものすごく面白かった﹂と述べている︒
﹁春城日誌﹂研究会 茫茫二十五年 日本近世文芸史研究の川添裕氏には﹁早稲田大学で進行する市島春城および三村竹清の日記の活字化︑公刊
は﹃早稲田大学図書館紀要﹄︑後者は早稲田大学演劇博物刊﹃演劇研究﹄︶は︑きわめて意義の大きい地道な文化的事業﹂と
評価して頂いた︵﹃此花﹄﹃風俗図説﹄解説︑ゆまに書房刊/二〇〇七年︶︒
また︑﹃春城師友録﹄が刊行された平成十八年の五月に市島の生誕地︑新潟県阿賀野市で﹁市島春城展﹂が開催さ
れた︒同地︵旧水原町︶に生家の一部が現存しており︑それが阿賀野市所有となったのを記念し︑地元の有志が市島
を顕彰と生家跡保存を目的としての催しであった︒当時の春城日誌研究会のメンバーも全員参観︑私が記念講演﹁市
島春城の人と生涯﹂を行なった︒会場で来賓として出席された矢吹彰男氏︵母市島二女ヒサ︶にお目にかかれたのも喜
びだった︒
この時代表者︵実行委員長︶の渡辺勇氏︵元水原町町長︶の強い意志で︑市島の顕彰を目的とした﹁春城会﹂が会員
百名余を集めて十月に設立された︒︵この会については︑同会の旗野博氏のご寄稿を参照してもらいたい︶
この間︑市島四女ミツのご養子の栄治氏が平成十八︵二〇〇六︶年にご逝去された︒日誌を読み始めた頃から
しくさせていただき︑ご助言を仰ぐことが多かった︒
栄治氏のご紹介で︑市島宗家の当主の市島信様にお会いしたのが平成十年のことであった︒以来︑翻刻された日誌
をお届けしたりし︑交流をさせていただいた︒新潟県随一の大地主市島家を担ってきた夫人の気概や見識には教えら
れるところが多かった︒昭和十年代にアメリカに渡り︑日舞を広めることも志したという︒伺う度に︑私の知らない
新しい知識を伝えてくださった︒
信様から︑文京区千駄木の土地約五百坪と宅地の早稲田大学への寄贈契約をさせていただいたのも︑﹁春城日誌﹂
をとおしての交流が生んだ賜物であったと思っている︒信様は平成十九︵二〇〇七︶年四月に長逝された︒
八歳であった︒
今回の特集に栄治氏のことは市島真二さん︑信様のことは森治子さんがご寄稿されると聞いている︒私の綴ること
はこの辺に留めたい︒
二十五年の間に︑この日誌を基にし︑発表したものを記して︑終わりとしたい︒
関係論考︵金子宏二執筆︶ 掲載誌等/号/発行者/刊行年月 一.春城・市島謙吉│その生涯と大隈重信 ﹃早稲田フォーラム﹄
57・ 58︵ 89・3︶ 二.市島春城と早稲田大学図書館 ﹃蒲原﹄
85︵ 93・ 10︶ 三.歴史を変えた早稲田人│市島春城︵上・下︶ ﹃新鐘﹄
52︑ 53︵ 95・6
− 11︶ 四.学宛経営の基礎を築く│市島春城と早稲田大学 ﹃早稲田学報﹄
1061︵ 96・4︶ 五.早稲田大学越佐会│新潟県出身学生の活動 ﹃早稲田大学大学史記要﹄
28︵ 96・9︶ 六.日清印刷株式会社の創業について│早稲田大学関係者の起業 ﹃早稲田大学大学史記要﹄
29︵ 97・9︶ 七.早稲田大学越佐会│一九三二年以降の活動 ﹃早稲田大学大学史記要﹄
30︵ 98・7︶
八.大隈老侯記念名流精華集│大隈講堂建設記念事業基金募集美術展覧会図録について
﹃早稲田大学大学史記要﹄
31︵ 99・7︶ 九.市島謙吉書簡︵原澄冶宛四通︶│寺尾元彦留学一件資料 ﹃早稲田大学大学史記要﹄
32︵ 00・7︶ 十.市島謙吉・増子喜一郎 ﹃早稲田実業学校 百年を彩る人びと﹄︵
01・4︶
﹁春城日誌﹂研究会 茫茫二十五年 十一.東京専門学校講師時代の市島謙吉について ﹃早稲田大学大学史記要﹄
33︵ 十二.高田早苗の起業活動 ﹃高田早苗の総合的研究﹄早稲田大学大学史資料センター︵
十三.﹃市島清松小伝﹄ 春城日誌研究会︵
︵かねこ こうじ 元早稲田大学図書館員︶