渡邉辰五郎の先見性 : 渡邉辰五郎, 那珂通世, 福 沢諭吉を通じて見た女子教育
著者 中村 精二
雑誌名 東京家政大学博物館紀要
巻 17
ページ 39‑54
発行年 2012‑02
出版者 東京家政大学博物館
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00010334/
1 はじめに
渡邉辰五郎と福沢諭吉は同時代を生きた教育家である。この二人の女性教育への関わりは那珂通 世を介して間接的に結びついていた。その発端は初代の千葉県県令(知事)の柴原 和やわらが教育行政 刷新のため有用な人材を福沢諭吉に相談したことから始まった。1)
福沢諭吉は『学問のすヽめ』により学制領布、自由民権運動に大きな影響を与え、明治 10 年代 の教育思想は「文部卿(大臣)は三田にあり」といわれるほどの実力者であった。2)
また、『学問のすすめ』のなかで、千葉の佐倉宗五郎を日本唯一の義人と記し、自由民権運動の 人々に共鳴を呼んだが、殊に千葉県では義民として宗五郎をあがめ、印旛郡公津村(現成田市)の 宗吾霊堂に記念碑を建てることになり、その碑文を諭吉に依頼したといい、千葉と福沢諭吉との関 係が深い。2)
柴原和(1832 〜1905)は播磨国龍野藩の志士であったが、後に明治政府に招かれ「三賢令」と 云われる名県令となった。後に、元老院議官、高等法院陪審席判事、山形県知事等を歴任した人物 である。千葉県令時代には日本で初の県議会の設置、茶、養蚕等殖産の奨励、母性保護のための
「育児取締」、千葉師範学校の設置による教育の近代化など多くの業績を残した。2)3)
さて、福沢諭吉は柴原和の求めに応じ、慶応義塾の卒業生で書生でもあった那珂通世を呼び寄せ た。福沢諭吉は当時、大阪、山口に慶応義塾の分校設置を考えていて、那珂通世はそのために赴任 していたがうまくいかず帰京していた。明治 10 年、那珂通世は千葉師範学校、千葉女子師範学校 の教師長(教頭)として赴任した。2)
学制公布以来、全国に官立の師範学校が設立されていたが、初期にはカリキュラムも教科書も整 わないという状況であった。そこで、那珂通世は県令柴原和からゆだねられた、師範学校経営に際 し、新しい洋式教育を実現しようとした。国語、英語、算数について新しい教育法を試みた。さら
渡邉辰五郎の先見性
渡邉辰五郎、那
な珂
か通
みち世
よ、福沢諭吉を通じて見た女子教育
The Foresight of Tatsugoro Watanabe Seiji N
akamura中村 精二
造形表現学科 住環境造形研究室
に、女子特有の教科としての裁縫科の教授法を考えた。2)
当時、渡邉辰五郎は千葉長南町の長南小学校で裁縫を教え名声を得ていたが、画期的なひな型に よる教授法を考案し、同時に明治7年(1874)最初の裁縫教科書を編集した。那珂通世はその活躍 に着目し明治 12 年千葉師範学校の教師補に抜擢した。このときから和洋裁縫伝習所、東京女子師 範学校、共立女子職業学校等を通じ、終生この二人の交流が続くことになった。
2 渡邉辰五郎、那な か珂通みち世よ、福沢諭吉の略歴 ※巻末年表参照
この3人は幕末から明治の激動の時代を生きた人達である。渡邉辰五郎と福沢諭吉の直接の交流 を示した資料は今のところ見つかっていないが、すでに述べてきた様に那珂通世を介してこの3人 が結びついている。
(1)渡邉辰五郎の略歴
弘化元年(1844)千葉長南町に平民として生まれる。両親に死別、極貧の子供時代を経て、14 才で江戸の仕立て屋に奉公し、和裁、洋裁を学んだ後、地元長南町で仕立て屋を開業した。同時に 裁縫塾を始め多くの女子が学んだことから、明治7年、地元の長南小学校で裁縫を教授するように なり、同年裁縫教科書を編纂した。当時、全国の尋常小学校は女子の就学率が低かったことから、
裁縫を教科に取り入れる効果が認められ、千葉女子師範学校教頭の那珂通世の目にとまり、明治 12 年千葉女子師範の教師補に取り立てられた。その後明治 14 年、東京女子師範の教諭となり、同 年、和洋裁縫伝習所を、明治 19 年共立女子職業学校を併設した。その後、東京裁縫女学校を経て 本学の開祖となった。明治40(1903)63才で没。
(2)那な か珂通みち世よの略歴
嘉永 4(1851)盛岡で藩士の三男に生まれる。8 歳で養子となり 16 才で上京し昌平学に学ぶ。20 才で諭吉の書生となり、慶応義塾に学ぶ。卒業後大阪、萩の義塾分校の教師を経て、諭吉に呼ばれ 千葉師範・千葉女子師範教頭となる。そこで辰五郎を認め、千葉女子師範、東京女子師範学校で教 育をともにし、退職後共立女子職業学校の設立、東京裁縫女学校顧問など一生を通じて辰五郎とと もに生きる。国語学、歴史学を修め『支那通史』等を執筆し、東京師範学校、東京帝国大学等で教 鞭をとった。明治41(1908)53才で没。
(3)福沢諭吉の略歴
天保 5(1834)九州中津藩の下級士族の長男として大阪で生まれる。1 才の時父が死亡、中津で 貧しく育つ。19 才で長崎に遊学、20 才で大阪適塾の緒方洪庵に蘭学を学ぶ。23 才の時藩命で蘭学 塾を開き後の慶応義塾の基を作った。24 才には横浜で英学に転向、勝海舟等と共に咸臨丸でアメ リカに渡る。欧米3回の洋行後、明六社を作るなど、多くの啓蒙書を世に出した。特に『学問のす すめ』は 340 万部を売り、10 人に一人という多くの国民に読まれ学制領布思想の基となった。『日 本婦人論』、『女大学評論』等女子教育について多くの著作がある。明治34(1901)66才で没。
3 明治の女性の自由
「他人の手を借りずに自由に裁縫を行う・・・」。これは辰五郎が裁縫教科書(明治 30)の序文 に書いた言葉である。本学の建学の精神「自主自律」の源がここに記されている。
渡邉辰五郎『裁縫教科書』明治30 (下線筆者)
緒言
余は千葉女子師範学校東京女子師範学校並に共立女子職業学校等に於て、裁縫科の教授を担当 せること、前後殆ど二十年の久きに及ひぬ。・・・・思ふは、従来の裁縫教授法を改良するこ となり。即裁縫の教授法も他の学科と同じやうに学ぶ者をして容や さ し易く覚えしむる工夫をなし、
時間と勤労とを少なくして、好き結果を得しむる方法を施さざるべからざること是れなり况まし て女子は男子に比ぶれば、其の修行の時期、短小なるに於てをや。・・・
そもそ抑
も小学校裁縫科の目的は、裁縫の道筋を一と通り覚えさするにあり。即裁方、縫方、積方 等を容易に覚えさせ、他日退校の後に至り、他人の力を籍らずして自由に裁縫し得らるヽやう に授業するを以て第一の主眼とす。従来の弊とする所は、単に実物によりて縫方一方にのみ力 を尽さしむるが為に、衣服を縫ふことは、巧になれども自ら切地を積りて、之を裁つこと能は ず。彼の呉服店に至りて、番頭の力を籍るにあらざれば、其の要する生地の寸法を積ること能 はざるが如きは、余が 屢しばしば見聞する所なり。是れ全く教授の順序方法を等なおざり閑に附せし結果に外 ならず。世の教師諸君、もし此の書に拠りて、其の弊を除き、全国の女生徒をして、老少なく して、得る所多からしむるを得ば、啻ただに余の光栄のみにあらざるなり。
明治 14 年の政変以来、自由民権運動が弾圧される中で、女性のための自由を述べる事は極めて 注目されるべき事である。この教科書に述べられている「他人」は、積算をする番頭等の事である が、家や夫にしばられ、家の経済も夫に頼っているなかで、技術を得、収入を得る方法を学ぶ事 は、明治の女性が「自由」を得る手段であった。
(1)明治の女性の不平等
明治の女性は江戸時代から続く「女大学」などの女じょ訓くんに従って生きることが強いられた。これは 中国の陰陽思想に基づく儒教の教えによるもので、女性の仕事は家系の存続の為に子を為すことで あり、子が産めないことが離婚の理由とされた。一方男には、江戸時代の大名のように妾を持つ一 夫多妻制が事実上認められた。
「女じょくん訓」には、さんじゅう三従、七しちきょ去、五ご し つ疾など女性の不平等を正当化しようとする教えが盛り込まれてい る。
さんじゅう三従では、女性は父、夫、子に一生従うことが教えられている。
さんじゅう三
従 家に在りては父に従い、人に嫁ゆきては夫に従い、夫死しては子に従う。敢あえて自ら遂とぐ る所なし。(「ひめ鏡」)
七しちきょ去では女性のみの悪い性質として離婚の理由が挙げられている。
七しちきょ
去 されば婦人に七去とて、悪きこと七あり。一には 嫜しゅうとしゅうとめに順はざる女は去さるべし。二に は子なき女は去べし。是、妻を娶めとるは子孫相続の為なれば也。然れども婦人の心正しく行儀能よく
して 妬ねたみごころ心なくば去ずとも同姓の子を養ふべし。或は 妾てかけに子あらば妻に子なくとも去るに及 ばず。三には淫乱なれば去る。四には深ければ去る。五に癩病などの悪き 疾やまいあるは去る。六 に多くちまめ言にて慎みなく物いひ過すは親類とも中悪くなり、家乱るゝものなれば去るべし。七には 物を盗心有は去る。此七去は皆聖人の教也。(「女大学」)
五ご し つ疾では、人間の持っている悪い性格を女性のみの物だとしている。
五ご し つ疾 凡およそ婦人の 心こころ様さまの悪しき病は、 和やわらぎ 順したがわざると、 怒いかり怨うらむと、人を謗そしると、ものを妬ねたむ と、知恵浅きと也。この五の 疾やまいは、十人に七、八は必有り。(「女大学」)
また、明治民法には、男女不平等の離婚の理由が掲げられて云る。例えば、妻の姦通は離婚とな るが、夫の場合は刑を受けた場合に限られている。(資料1参照)
(2)福沢諭吉の女子教育論
福沢諭吉は歴史上で最も女性の幸せを考えた啓蒙家であろう。身分、男女の差別がない平等の立 場から、数多くの女子教育論を著した。諭吉は欧米への 3 回の渡航経験から、西洋の近代女性が、
将来のあるべき日本の女性像と考えた。諭吉が理想とする日本女性は、学校教育を受け、経済的に 自立し男性と同等に活躍する姿である。そこで当時の「女訓」や明治民法にしばられた日本女性に 男女同等の教育により、家庭経営に必要な知識を与え、同時に一夫多妻の悪風を改めて夫婦間に同 等の立場を与えようと考えた。
『学問のすゝめ』は、学制領布の思想の基盤となった書物として知られている。そこには、自由、
独立、平等について分かりやすい言葉で述べられている。「天賦人権」では、有名な「天は人の上 に人を造らず、人の下に人を造らず」と人間の平等についてのべられ、同時に自由について述べて いる。「実学の効用」では、実学を学ぶことで自分、家、国家の独立がかなうと説いている。「自由 の真偽」では、男女それぞれの自由を達するため、他人を妨げないことを説いている。「平民の覚 悟」では、学問を身につけ自身に才徳をつけよ、と説いている。「男尊女卑の悪習」では、男尊女 卑の不合理について、男が女性を腕力で従わせていると述べている。(資料2参照)
女子教育については、『日本婦人論』等多くの著述を行った。明治初期には女子教育の必要性、
西洋の女子と同様な職業の獲得が必要とされるとし、明治 30 年代には国民としての女性に必要な 教育の必要性、女性に必要な実学の分野について述べている。
まず、『女子教育の事』(明治 9)では、女子の教育は従来の家事の教育に加え、読み書き、そろ ばん、母親としての子供の教育のしかたが必要としている。(資料3参照)
次に、日本人を進歩させる為には、日本婦人の心を活発にして身体を壮健にし良い子供を得るこ とが大切で、西洋の女性がその好例であるとしている(『日本婦人論』明治 18)(資料 4 参照)。そし て、西洋では女子は男子と互して多くの職業に就き、そのため経済力により、男子に依存しない独 立の精神を持っていると述べている(『日本婦人論 後編』明治18)(資料5参照)。
しかし、教育の内容については、女子は職分が家庭内を治め子供を養育することにあるので、男 子とは異なり高尚な学問よりも普通の程度で良いとしながら、多妻に見られる男子専横を防ぐべき としている(「女子教育と女権」明治28福翁百話)(資料7参照)。
また、より具体的には、男女共に物理学を土台にして専門を学ぶべきとし、女子は特に、物理生 理衛生法、地理歴史が大切で特に経済と法律が必要である。それは、夫と別れても生計が営めるた めで、西洋にはその例が多く見られると記している(『新女大学』明治32)(資料10参照)。
4 良りょうさい妻と賢け ん ぼ母の教育
東京裁縫女学校規則に「国家ノ良母タルノ資格ヲ有スル婦女子ヲ出サント欲スル・・」(明治 31)の記述がある(資料 25 参照)。また、同教旨(明治 34)として「広く東西文化の機運を察し て、・・・婦道の養成につとめ、・・・嫁しては良妻となり、子を持ちては賢母となり、はた故あ りて独立し、一家の主長となりしときは、・・・適実なる職業を操り、以て婦人の天分を完うせし めんと欲するにあり。」とある。(資料29参照)
「国家の良母」の語は、家庭内に女性を位置づける「良妻賢母」ではなく、国民としての女性の 資格を意味しており、独立し職業を持って婦人の天分を全うする国家適役割を持つことが掲げられ ている。
「良妻賢母」は、「温おんりょう良 貞ていしゅく淑」と並び、戦前の全国女学校の女子修身を代表する思想で、一般に は女性を家庭の中に位置づける考えとして知られている。歴史的に幾つかの変化がある。4)
① 母性の大切さから素朴に男女同等の教育を求める「善良なる母」
② 儒教的女性観から、女性に特有の徳を求める「良妻」と「賢母」
③ 女性に国民としての社会的位置づけを求める「国家的良妻賢母」
①は「善き母となるための女性教育の必要性をを説いたものであり、初代文相の森有礼等が明治 初期に説いた。
②の「良妻」「賢母」の語は、森有礼、三輪田真佐子、河原一郎らによって明治20年代に用いら れ始めた。
冒頭に上げた東京裁縫女学校規則の「国家の良母」は③の「国家的良妻賢母」に相当する。
福沢諭吉は「・・・真実国民の母たるべき女子を造るを目的と定めて其事に注意し、国中の人口を 計かぞ
へて男女の別なく教育普及の実を挙げんこと我輩の希望する所なり。」(『教育普及の実』明治 29)(資料8参照)と国民としての女性の役割を論じた。諭吉は当初から、文明の進歩を担う個人と、
国民国家を担う主体としての国民の形成を大きな課題としてきた(『文明の概略』明治8年)。
この「国家的良妻賢母」は次いで、日本女子大学創設者である成瀬仁蔵の「国家組織の一員たる 婦人妻母」(明治 30)、『女鑑』を発刊し、後に愛国婦人会を結成した三輪田真佐子の「軍国の母」
(明治30)(資料23・28参照)という女子教育の目的に連なっていく。
成瀬は、女子が帝国の臣民であるからその職責を全うするために良妻賢母が必要だとしている。
また、三輪田真佐子は女子教育を国体と一致させるため軍国の母となることに適した思想を与え るべきだとしている。(資料23参照)
これ等とは別に、女性の経済的な救済という立場から、また、近代女性の育成という目的から本 学の職業、技芸の教育が行われたことは特筆すべきである。
福沢諭吉は、「文明開化次第に進みゆくときは、女子に職を執とるは珍しからぬ 例ためしにして」(『日本 婦人論後篇』福沢諭吉 明治 18)(資料 5 参照)、と近代化が進めば女子の職業は珍しくなくなると 述べている。また、渡邉辰五郎、那珂通世等が設立した共立女子職業学校の規則には「女子として 文明の世に身を処する」と女性の社会進出が唱われている。(「共立女子職業学校規則適用」明治 19)(④)(資料16参照)
東京裁縫女学校教旨にある「東西文化の機運を察して」、「適実なる職業を操り」の文言は、福沢 諭吉が目指した近代女性育成の実現に連なり、それを渡邉辰五郎が実現させたのである。
①〜③の3つに区分された考え方を列記すると次のようである。
まず、①「善良なる母」の教育としては、初代文相であった森有礼は明治7年に母性を有効に用 いるには学術、物理の概要を学ぶことが必要だとした。(資料 11 参照)また、東京女子師範学校校 長の中村正直は、「善き母」を造るために男女同等の教養が必要とした。(資料 12 参照)さらに、文 部省は中人以上の女子に「順良適実」の中等教育を授けることを通牒している。(資料13参照)
次に②「良妻」と「賢母」の教育としては、前述の森有礼が明治 20 年に、女性教育の主眼は人 の良妻となり、賢母となると述べたことを始まりとし(資料17参照)、明治20年宮内庁の『婦女鑑』
(資料 18 参照)、明治 24 年三輪田真佐子他の『女鑑』(資料 19 参照)を早い例とし、樺山資紀文相の
「高等女学校制定の理由」(明治 32)(資料 27 参照)、菊池大麗文相の「婦人の使命」(明治 35)(資料 31参照)、小松原文相の教育講習会挨拶(明治43)(資料32参照)、文部省白仁学務課長の「高女令施 行規則」の目的(明治41)(資料33参照)と、文部省を通じて全国に広げられた。
さらに、③「国家的良妻賢母」の教育としては、京都女学校校長であった河原一郎が、明治 25 年に、賢女は国家の品位を高める元素であるとした(資料20参照)。福沢諭吉は明治29年、前述の、
『教育普及の実』のなかで、「国民の母たるべき女子」を造ることを教育の目標としている(資料21 参照)。また、成瀬人蔵の「日本女子大学設立趣意書」(明治29)(資料22参照)、三輪田真佐子の「女 子教育の方針」(明治30)(資料23参照)、高等女子師範学校の教授で共立女子職業学校設立の発起人 の一人であった、中川謙次郎の福島での演説(資料 24 参照)、「東京裁縫女学校規則」(明治 31)(資 料25参照)、福沢諭吉の「女子教育の方針」(明治32)(資料26参照)、成瀬仁蔵の「女子教育の理念」
(明治34)(資料30参照)と続く。
これらとは別に、職業を持った近代女性の育成については、前述のように福沢諭吉の「日本婦人 論 後篇」(明治 18)(資料 14 参照)、「共立女子職業学校設立の趣旨」(明治 19)(資料 15 参照)、「共 立女子職業学校規則適用」(明治 19)(資料 16 参照)、「東京裁縫女学校一覧」(明治 34)(資料 29 参照)
がある。
5 「造人の術」
渡邉辰五郎は晩年の著述である「裁縫は造人の術なり」の中で、裁縫教育の本質は人格の教育に あるとした。技術は容易に教えられるが、人格は講義では教えられず、裁縫の実技を通じてのみ可 能であるとし、それを「造人の術」と呼んだ。さらにそのためには、教育者は高潔な人格を持たな
ければいけないと説いている。以下にその概略をあげる。
「裁縫は造人の術なり」渡邉辰五郎(病中口中筆記を「裁縫と家事」に掲載)5)
「裁縫は造衣の術である事は、大体に於いて異論はないが、唯それだけとしたならば、長年 の月日をかけて、多大の努力を 費ついやして学習する事は、如何にも惜しい様な気がする。今少し 簡単に片付ける方法も考へなくてはなるまい。又男子の中学の様に、むしろ裁縫はぬきにして しまって、大体の学科を中学と同様にし、中学卒業生の力と高女卒業生の力とを同程度にする か、或は男女同一課程の中学に男女共学にするか、そうして卒業後女子に造衣の術の必要な人 だけ、一年ばかりも、別に裁縫を学校で習ふか、仕立屋で習ふかすれば沢山ではないか、さう して造衣の術の必要な人だけ、一年ばかりも、別に裁縫を学校で習ふか、仕立屋で習ふかすれ ば沢山ではないか、さうして造衣の術を必要でないとする人は、之を習はずに、・・・・・各 家庭で裁縫は一切せぬ事とし、・・・家庭外の専門の仕立屋に渡してするか・・・此の方が今 後の学校と家庭と社会との三方向から、自然とそい云う風の傾向となって行くのではなかろう か。かうなって行くと、今日の所謂裁縫家の金科玉条とする『裁縫は日本婦人の天職なり』と 云ふ常套語も、そろそろ根本がぐらつき出しはしないか、ここに於て余は考へるに裁縫は、そ んな単純な且つ軽易な物ではなくて、実に実に重い重い使命を持ったものである。即ち裁縫は 造衣の術なると共に『造人の術である』と云ふのである。(略)」
福沢諭吉は、代表的な著書『文明論之概略』(明治8)(資料34参照)のなかで、智徳の発生が文明 の進歩に関係するとし、「智徳の両者を備え完全な人間となるべき」と、智と徳の両者を兼ね備え るべきことを論じている。
また、徳義を得るには言葉で伝えられるものではなく、「今人の言げんこう行を聞ぶん見けんしてその徳とくぎょう行に倣ならう べき」と人格に備わった言葉や徳行を見習うことこそが必要だと述べている。
さらに、『文明教育論』(明治22)(資料6・35参照))のなかで、教育は知識教育のみではなく、知 識と道徳が一致し、記憶、推理、創造の諸能力平均を保ち「完全な人心」を保つことを理想として いる。
渡邉辰五郎、福沢諭吉の両者は共に、知識教育のみでは完全でなく、徳育教育を併せて行うこと が必要だとしている。福沢諭吉は具体的な教育の方法までには及んでいないが、渡邉辰五郎は、裁 縫の教育こそが「造人の術」として有効であるとし、結果として数多くの女性の指導者を世に送り だした。
6 まとめ
1,2 章では、本稿の前提である渡邉辰五郎、那珂通世、福沢諭吉の関係がなぜ生まれたのか、
また、これら3名の略歴から生きた時代を明らかにした。
3 章では、渡邉辰五郎が掲げた女性の「自由」は、明治時代の女性にとってどのような意味を 持っていたのか、また、福沢諭吉は女性が職業を持ち、実学を学ぶことを理想としたことを述べ た。
4 章では、東京裁縫女学校の校則に掲げられた「国家の良母」等の目標が女性教育の立場からど のような位置にあるかを考え、それが、福沢諭吉が理想とした「国民の母たるべき女子」と共通し ていることを明らかにした。
5 章では、渡邉辰五郎の晩年の言葉である「裁縫は造人の術なり」という考えと、福沢諭吉が教 育の理想とした「知恵と徳義」を比較して考え、この両者が共通していることを延べた。
これらを通して、渡邉辰五郎と福沢諭吉は女性教育への高い理想を持ち、職業を持った近代女性 を育成しようと云う共通の目標を持っていた。そして渡邉辰五郎は、裁縫という方法を用いてその 理想を具現化したのである。
そのことが、本稿のテーマである「渡邉辰五郎の先見性」の大きな一つといえる。
[資料編](下線筆者)
1 「明治の離婚法」(民法親族編第八百十二条)
夫婦ノ一方ハ左ノ場合ニ限リ離婚ノ訴ヲ提起スルコトヲ得 一 配偶者カ重婚ヲ為シタルトキ
二 妻カ姦通ヲ為シタルトキ
三 夫カ姦通罪ニ因リ刑ニ処レラレタルトキ 以下略
2 『学問のすゝめ』初編 福沢諭吉 明治42)
2-1 天賦人権 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といへり。されば、天よ り人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく、万物の霊 たる身と心との働きをもって、天地の間にあるよろづの物を資とり、もって衣食住の用を達し、自 由自在、互いに人の妨げをなさずして、おのおの安楽にこの世を渡らしめたまふの趣しゅ意いなり。
2-2 実学の効用
学問とは、ただむづかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩をつくるなど、
世せじょう
上に実のなき文学をいふにあらず。・・・一科一学も実事を押へ、その事に就きその物に従ひ、
近く物理の道理を求めて、今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎 上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おの おのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきな り。
2-3 自由の真偽 「学問をするには分ぶんげん限を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは繋つながれ ず縛しばられず、一人前の男は男、一人前の女は女にて自由自在なる者なれども、ただ自由自在との み唱えて分限を知らざれば、我わがまま儘放ほうとう蕩に陥ること多し。すなはちその分限とは、天の道理に基づ き、人の情に従い、他人の妨げをなさずして、わが一身の自由を達することなり。・・略・・」
2-4 平民の覚悟
「・・・身に才徳を備へんとするには、物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとす
るには、字を学ばざるべからず。これすなはち学問の急務なるわけなり。昨今のありさまを見る に、農工商の三民は、その身分以前に百倍し、やがて士族と肩を並ぶるにのひに至り、・・・略」
2-5 男尊女卑の悪習(第八編 明治7)
「・・・・そもそも世に生まれたる者は、男も人なり、女も人なり、この世に欠くべからざる 用をなすところをもっていへば、天下一日も男なかるべからず、また女なかるべからず。その効 能いかにも同様なれども、ただその異なるところは、男は強く、女は弱し。大の男の力にて女と 闘わば、必ずこれに勝つべし。すなはちこれ男女の同じからざるところなり。・・・略・・・」
3 『女子教育の事』 福沢諭吉 明治96)
「従来我国とて女子の教育全くなきに非ず。大抵の家の娘は嫁入前に機は た事針仕事も荒あらまし増、一家 の世帯を引受くるの風も一通りは修行するに非ずや。固よりこれを以て充分なりとすべからず。
読み書きの稽古、十そ露ろ ば ん盤の稽け い こ古、又子供の母となりてこれを教育するの仕方も習はざるべから ず。
4 『日本婦人論』福沢諭吉 明治187)
「(略)扨さて我輩が自力に依て人種改良を行はんとするは、先ず日本国の婦人の心を活発にして、
したが随
て其身体を強壮にし以て好子孫を求めんと欲する工夫なり。
・・・西洋の婦人は概して責任の重きものと云わざるを得ず。・・・凡そ男子の為す所のこと にして婦人の為すを禁ずるものなし。学識あるものは文を以て鳴り、世才あるものは才を以て聞 え、少小の教育は以て終身の用をなし、・・・・我輩の所望は、我日本の女子をも其進歩の第一 着として先ず西洋の女子の如くならしめんと欲するに在り、・・・」
5 『日本婦人論 後篇』福沢諭吉 明治188)
「文明開化次第に進みゆくときは、女子に職を執るは珍しからぬ 例ためしにして、既に亜米利加など にては、婦人にして電信の技術そのほか様々の職工たるのみならず、あるいは医師となり、ある いは商人会社の書記、または政府の官員たる者も多くして、その仕事次第にては、男子よりもか えって用便になることありという。・・・・
・・・身に財産を所有して兼ねてたしなみの芸能あれば、生涯男子に依頼するに及ばず、独立 の精神も自じ然ねんにこれによりて生ずべし。」
6 『文明教育論』福沢諭吉 明治229)
「もとより智徳の両者は人間欠くべからざるものにて、知恵あり道徳の心あらざる者は 禽きんじゅう獣に ひとしく、これを人非人という。また徳義のみを脩おさめて知恵の働あらざる者は石の地蔵にひとし く、これまた人にして人にあらざる者なり。・・・・・・
もとより直接に事物を教えんとするもでき難きことなれども、その事にあたり物に接して狼ろうばい狽 せず、よく事物の理を究めてこれに処する能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことに て、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発 育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきな り。・・・・本来、人心発育の理において、人の能力は 一ひとつにして足らず、記憶の能力あり、推
理の能力あり、創造の働ありて、この諸能力が 各おのおのその固有の働をたくましゅうして、たがいに 領 分 を 犯おかさ ず、 ま た 他 に 犯おかさ れ ず し て、 よ く 平 均 を 保 つ も の、 こ れ を 完 全 の 人 心 と い う。・・・・」
7 『女子教育と女権』福沢諭吉 明治29(福翁百話)10)
「女子の教育固より等なおざり閑にすべからず。学問上の心得なくしては飯を炊くことも叶わぬ筈なり。
況まして其以上の針仕事、料理向より、病人の看護、子供の養育等、家事万端に就き無学文盲にて はとても家に居ることは叶はず。学問教育の大切なるは男女共に同様にして相違なしと 雖いえども、
結婚の上にて、婦人に限り家の内を治め又子を養育するの職分ありて外事に関係すること少な く、・・・平均の処にて婦人の為に特に奨励すべきは、唯普通の教育知見のみ、高尚なる学育は 先ず第二の事として差支えなかるべし。・・・ 苟かりそめにも世に多妻の醜風を禁ずるか、仮た と令ひこれ を禁ずるに至らざるもこれを醜視するの風を成して、男子専横の道を塞ぐにあらざれば、婦人社 会は依然として旧時の如くなるべし。」
8 『教育普及の実』福沢諭吉 明治2911)
「・・・・智徳身体の教育に至りては国力の如何に関係するものなれば、男子たるものも眼前 の出来心を抑へて永遠の利害に訴え、真実国民の母たるべき女子を造るを目的と定めて其事に注 意し、国中の人口を計へて男女の別なく教育普及の実を挙げんこと・・・」
9 『女大学評論』福沢諭吉 明治3212)
「成長して他人の家に行くものは必ずしも女子に限らず。男子も女子と同様,総領以下の次三 男は養子として他家に行くの例なり。女子の身に恥ず可きことは男子に於ても亦恥ず可き所のも のなり。・・・・・」
10 『新女大学』(福沢諭吉 明治32)13)
「一 ・・・貴賎富貴に論なく女子教育の通則として、扨さて学問の教育に至りては女子も男子も 相違あることなし。第一物理学を土台にして夫それより諸科専門の研究に及ぶ可し。・・・・今の女 子をして文明普通の常識を得せしめんと欲する者なり。物理生理衛生法の初歩より地理歴史等の 大略を知ることは固もとより大切なることにして、本草なども婦人には面白き 嗜たしなみならん。殊に吾 輩が日本女子に限りて是非とも其知識を開発せんと欲する所は、社会上の経済思想と法律思想の 此二者に在り。
一 ・・・若し万一も早く夫に別れて、・・・吾輩の言う女子に経済の思想を要すとは此辺の意 味なり。・・・但し婦人に財産を与えても自ら之を処理するの法を知らざれば、幾千万の金も有 て無きが如し。・・・詰り自分一人の責任こそあれば、之に処するの法決して安からず。西洋諸 国良家の女子には此辺の事に就て漠然たらざる者多しと言う。」
11① 「妾妻論 四」 明治7 森有礼 明六雑誌14)
「・・・母たるものは常にその意想を高くせざるべからず。・・・ゆえに、女子はまず学術、
物理の大体を得、その知界を大にしてその愛財の用法を通知せざるべからず。」
12① 「善良なる母を造る説」 明治8 中村正直(東京女子師範学校校長)明六雑誌15)
「・・・・さて善き母を造らんには女子を教るにしかず。・・・・男女の教養は同等なるべ し・・・」
13① 女子中等教育についての通牒 明治15 文部省普通学務局4)
「・・・専ラ中人以上ノ女子ニ順良適実ノ教育ヲ授クルヲ主眼とし・・・・」
14④ 『日本婦人論 後篇』福沢諭吉 明治188)
文明開化次第に進みゆくときは、女子に職を執るは珍しからぬ 例ためしにして、既に亜米利加など にては、婦人にして電信の技術そのほか様々の職工たるのみならず、あるいは医師となり、ある いは商人会社の書記、または政府の官員たる者も多くして、その仕事次第にては、男子よりもか えって用便になることありという。・・・・
15④ 「共立女子職業学校設立の趣旨」 明治19年4月16)
・・・自ら生業を営むことを知れる者甚少なし、一朝其柱と頼める父兄良人の不幸あるにあへ ば・・・女子の教育いまだ 遍あまねからずして、実業を授くるの道行はれざるに由るなり、
16④ 「共立女子職業学校規則適用」 明治1917)
「凡そ女子には女子に特有の気性あるものなれど之に適する事業素より少なからざれども従来 我邦にては女子に技芸職業を授くる学校なきにより仮令資性の優れる婦女なりとも其特有の気性 を暢発すること得ず・・・・且諸科を授くるには総て之を学理に徹し女子として文明の世に身を 処するの綱要と知らしめんすこれ余輩が年少の女子をして天賦の特性を暢発せしめ益々世間有用 の人からしめんと欲するの微意に過ぎざる 而のみならんや巳 」
17② 森有礼(文相)明治20 中国地方学事巡業中の説示4)
「女子教育の主眼・・・、人の良妻となり賢母となり一家を整理し子弟を薫陶するに足る気質 才能を要請するに在り、女子教育の興否は国家の安否に関係するを忘るべからず」
18② 『婦女鑑』 明治20 宮内庁4)
「・・・婦女賢にして家道興り、人才育す・・・・一婦の賢否は家道の興衰の閑するところに して、一家の興衰は即ち天下治下隆替の基づくところにして、・・・」
19② 「女鑑」 明治24 「女鑑発刊趣旨」 三輪田真佐子他4)
「女鑑は、貞操節義なる日本女子の特性を啓発し、以て世の良妻賢母たるものを養成するを趣 旨とする」
20③ 「女子教育ニ就テ」河原一郎(京都女学校校長)明治254)
「人材ヲ要請セント欲スレバ先ズ賢母ヲ作ルニ務メザルベカラズ、賢女ハ実ニ国家ノ品位ヲ高 メル元素ニシテ国家ノ品位ハ一ニ女子智徳ノ深浅ニ関スルト云フベシ」
21③ 「教育普及の実」福沢諭吉 明治2918)
「・・・・智徳身体の教育に至りては国力の如何に関係するものなれば、・・・真実国民の母 たるべき女子を造るを目的と定めて其事に注意し、国中の人口を計かぞへて男女の別なく教育普及の 実を挙げんこと我輩の希望する所なり。」
22③② 「日本女子大学設立趣意書」明治29 成瀬仁じんぞう蔵(日本女子大学創設者)4)
「女子も亦帝国の臣民なるが故に・・・・国家組織の一員たる婦人妻母をして、其の職責を完 ふする・・・・」「・・・女子には女子の尽くすべき自然の天職なるものあり。その主旨なるも のは、即ち、賢母良妻となるこれなり。しかるに、良妻賢母たるは、決して容易なるものにあら ず・・・」
23③ 「女子教育の方針」 明治30 三輪田真佐子4)
「国家精神の基なる女子教育は、必ず国体と一致せざるべからず。」「・・・由りて未来の海軍 児、軍国の母たるに適する思想を女子に与えざるべからず」
24③ 「中川謙次郎福島での演説」明治30 中川謙次郎(女高師教授、共立職業学校発起人)4)
「 鞏きょう固こなる国民的観念を有するは、良妻賢母たるべき第一必要の資格なりといふべし」
25③ 「東京裁縫女学校規則」 明治31年改正19)
本校ハ和洋裁縫得思ノ向ノ為メニ設クルモノナレハ主トシテ和洋裁縫及手芸ヲ教授シ併テ修 身、礼式、家事、経済、教育、数学、習字、生花、茶湯ヲ教授シ知得ヲ涵養シテ以テ国家ノ良母 タルノ資格ヲ有スル婦女子ヲ出サント欲スルニアリ
26③ 「女子教育の方針」 明治32 「教育時論」4)
「外国語を 囀さえずり算数理化の学に精しと 雖いへども、家事の整理に拙せつにして、・・・・育児に迂うなる が如き官女的夫人を出すことなく真に此の過渡期時代の国情に適応して次代国民の女たるに足る へき人物を育成せんことを望むもの也」
27② 「高等女学校令制定の理由」 樺山資紀(文相)明治32 「教育時論」4)
「健全ナル中等社会ハ独リ男子ノ教育ヲ以テ養成シ得ルモノニアラス、賢母良妻ト相あい俟まつチテ善 ク其家ヲ斉ヘ 初はじめテ以テ社会ノ福利ヲ増進スルコトヲ得ベシ」
「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故ニ優ゆ う び美高こうしょう尚ノ気風、温おんりょう良 貞ていしゅく淑ノ資質ヲ涵養スル ト倶ともニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス」
28② 「日本女学校(相模女子大学)三輪田真佐子校長挨拶」 明治32 「女鑑」
「本校の目的は、所謂、良妻賢母となり得る資格を作るにあるを以て、文部省の高等女学校令 の通りの学科を課する 積つもりでございます」4)
29④ 「東京裁縫女学校一覧」 明治34年
⃝東京裁縫女学校教旨
我東京裁縫女学校教育の趣旨とする処は、本邦婦人として欠くべからざるの裁縫業を授け、広く 東西文化の機運を察して、服装の改良発達をはかると同時に、婦道の養成につとめ、淑徳優美に して而かも貞烈なる、日本婦人の特質を発揮するにあり。・・・・嫁しては良妻となり、子を持 ちては賢母となり、はた故ありて独立し、一家の主長となりしときは、社会の趨勢に順がひ、適 実なる職業を 操あやつり、以て婦人の天分を完うせしめんと欲するにあり。20)
30③ 「女子教育の理念」 明治34 成瀬仁じんぞう蔵4)
1 女子を、人として教育すること 2 女子を、婦人として教育すること 3 女子を、国民 として教育すること
31② 「婦人の使命」 明治35 菊池大麗(文相)4)
「・・・・結婚して良妻賢母となると云ふことが将来多数の仕事であるから、女子教育と云ふ ものは此の任に適しせしむると云ふことを以て目的とせねばならぬのである。」
32② 「教員講習会挨拶 明治43 小松原文相」(教育時論)4)
「女子教育の要は、一家の主婦として能く其の子女を養成すべき健全の女子を育成するにあり」
「家政科に重きを置き、良妻賢母主義に依って訓育を施し、・・・温良貞淑の女子を養成せざる べからず」
33② 「高女令施行規則」の目的 明治41 白仁学務課長(教育時論)4)
「実際的良妻賢母を養成せん方針にて、従来の規則的詰込主義を変更し、其実情に適合せる教 育を施さしむる」
34 『文明論之概略』(巻の3 第6章 智徳の弁)福沢諭吉 明治821)
「知恵と徳義とは、あたかも人の心を両断して、 各おのおのその一方を支配するものなれば、いずれ を重しと為なしいずれを軽しと為すの理なし。二者を兼備するにあらざれば、これを 十じゅうぜん全 の人類 というべからず。」
「徳義の事は形を以て教ゆべからず。これを 学まなびて得ると得ざるとは、学ぶ人の心の工夫にあり て存せり。譬たとえば、経書に記したる克こ っ き己復ふく礼れいの四字を示して、その字義を知さしむるも、固もとより いまだ道を伝えたりというべからず。故にこの四字の意味をなお 詳つまびらかにして、克己とは一身の 私欲を制することなり、復礼とは自分の本心に 立たちかえり返 て身の分限を知ることなりと、丁寧反復こ れを説得すべし。教師の 働はたらきはただこれまでにて、他に道を 伝つたうるの術なし。この上はただ人にんにん々 の工夫にて、あるいは古こ じ ん人の書を読み、あるいは今人の言げんこう行を聞ぶん見けんしてその徳行に倣うべきの み。いわゆる以心伝心なるものにて、あるいはこれを徳義の風ふ う か化という。」
35 『文明教育論』福沢諭吉 明治2222)
「今日の文明は知恵の文明にして、知恵あらざれば何事もなすべからず、・・・
もとより智徳の両者は人間欠くべからざるものにて、知恵あり道徳の心あらざる者は 禽きんじゅう獣 にひ としく、これを人非人という。また徳義のみを脩おさめて知恵の働あらざる者は石の地蔵にひとし く、これまた人にして人にあらざる者なり。・・・・・・
もとより直接に事物を教えんとするもでき難がたきことなれども、その事にあたり物に接して狼狽 せず、よく事物の理を究めてこれに処する能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことに て、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発 育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきな り。・・・・・
・・・・本来、人心発育の理において、人の能力は 一ひとつにして足らず、記憶の能力あり、推理の 能力あり、創造の働ありて、この諸能力が 各おのおのその固有の働をたくましゅうして、たがいに領分 を犯おかさず、また他に犯おかされずして、よく平均を保つもの、これを完全の人心という。・・・・」
渡邉辰五郎那珂通世福沢諭吉 1834天保5中津藩大阪蔵屋敷に誕生 1837天保71歳 父百助が死亡、大分中津に引き上げ 1844弘化元千葉県長南町に誕生 1851嘉永4盛岡城下で藩士の三男として誕生 1854安政元19歳 蘭学修行のため長崎遊学 1855安政220歳 大阪緒方洪庵の適塾に入塾 1858安政5仕立屋、鳥居清吉に奉公1858安政523才 藩命により江戸で蘭学塾を開く。慶応義塾の 起源 1859安政6江帾家に養われる1859安政624才 横浜で英学に転向 1860万延元25才 咸臨丸で渡米、4カ月後に帰国 1861文久元26才 遣欧使の翻訳方として渡欧、翌年帰国 1866慶応2作人館の句読師となる。養家に入籍1866慶応231才 「西洋事情」他刊行 1867慶応332才 遣米使節で再び渡米、6月帰朝 「人民の教育」 1866明治元 長南町で仕立屋開業1866明治元33才 塾を芝に移し慶応義塾と命名 1867明治2那珂氏に復性、道世と改名。上京し近侍となる 昌平学に入学。藩命で帰国 1868明治3県学大得業生となる 1871明治4上京。北門社明治新塾に寄宿1871明治436才 塾を三田の現地に移転 1872明治5慶応義塾の変則科(速成科)に入学1872明治537才 「学問のすゝめ」初刊行(明治9年まで17編 続刊) 1873明治638才 森有礼らの明六社結成に参加 1874明治7長南小学校で裁縫を教授、雛形尺、袖方、褄型を考 案。裁縫教科書を編纂1874明治7慶応義塾を卒業、大阪分校の教師となる1874明治739才 「男尊女卑の悪習」 1875明治8萩、巴城学舎の教師となる1875明治840才 「教育の力」 1876明治9萩から帰京1876明治941才 「女子教育の事」「疑ひの世界に真理多し」 1877明治10「裁縫掛け図」による一斉授業1877明治10千葉師範学校、女子師範学校の教師長となる 1878明治11市原の舞鶴小学校を兼務1878明治11千葉師範学校長兼千葉女子師範学校総理1878明治1143才 東京府議員、副議長となり直ちに辞任 「教育 説」 1879明治12那珂通世の招きで千葉師範学校の教師補となる1879明治12千葉教育会長。東京女子師範学校訓導兼幹事1879明治1244才 東京学士院初代会長となるが一年で辞任 1880明治13「普通裁縫教授書」著、全国の女子師範学校、女学校 の教科書となる1880明治13教則取調掛兼務。東京女子師範学校摂理補兼訓導1880明治1345才 「教育の目的」 1881明治14湯島に和洋裁縫伝習所設立。「普通裁縫算術書」著1881明治14東京女子師範学校校長兼務1881明治1446才 政府機関新聞の発行を承諾したが政変で中止 東京女子師範学校の教員となる(〜19)。伝習所で洋 裁を50人に教授1882明治1547才 「時事新報」刊行 1882明治15「たちぬひのおしへ」著 1883明治16文部省御用掛となる
「渡邉辰五郎の先見性」関係年表
1884明治17校舎を移転、和洋裁、礼法、点茶、生け花、造花、刺 繍を教授 1885明治18文部省から女子師範学校教員免許状を受ける1885明治18師範学校条例取調委員。東京師範学校教諭となる1885明治1850才 「日本婦人論」「日本婦人論後篇」刊行 1886明治19女子師範学校を離職1886明治19東京師範学校教諭を辞職 伝習所内に「女子職業学校を併設」、その後本郷、神 田に移転 1887明治2052才 「国民の教育」 1888明治21高等師範学校幹事に復職後元老院書記官・奏任官に 転任 1889明治2254才 「文明教育論」 1890明治23元老院廃止で非職。1890明治2355才 慶応義塾大学部設置 1891明治24華族女学校教授兼学監補助。第一高等中学で支那歴 史の授業嘱託 1892明治25東京裁縫女学校に改称 和洋裁、礼法、点茶、生け 花、造花、刺繍に修身、家事、教育、習字を加える 1893明治26華族女学校を非職。高等師範学校等で講義。「高句麗 古碑考」 1894明治27第一高等中学校教授兼高等師範学校教授 1895明治28大日本女学会の通信教育で裁縫を担当(〜40) 共立女子職業学校を辞職 1896明治29帝大文科大学講師嘱託、支那通史を担当1896明治2961才 「女子教育と女権」「教育普及の実」(福翁百 話) 1897明治30「裁縫教科書」3巻を発行1897明治30第一高等学校教授を兼務 1898明治31 東京裁縫女学校規定(31改正)(・・・主として和洋 裁縫及手芸を伝授し併せて修身、礼式、家事、経済、 教育、数学、習字、生け花、茶湯を伝授し知徳を涵養 して以て国家の良母たるの資格を有する婦女子を出 さんと欲するにあり)
1898明治3163才 「女大学評論」「新女大学」「福翁自伝」等刊 行。脳出血発病 1899明治32本郷区東竹町に移転、従来の10科に国語、算数、英 語、編み物を加え造花を廃す1899明治3264才 「女子教育の方法」 1900明治33長男滋、東京裁縫女学校幹事補となり渡米留学(〜 35)1900明治3365才 「婦人もまたその責を免れず」 1902明治35教員養成会(〜40)開設、裁縫教授法・家政・国語・ 算術・教育を開講1901明治34文学博士を授与1901明治3466才 脳出血再発により没 長男滋帰国、新式洋服裁縫を教授 1903明治36早稲田大学で東洋史の講義を嘱託 1904明治37家事科を必須科目とする1904明治37東京帝大文科大学講師を辞職 1903明治4063才、没 1908明治4153才、自宅で没
おわりに
本稿は、平成 23 年に行われた「本学の創立と建学の精神から東京家政大学への歩みに学ぶ日本 の文化と歴史」の連続講演の第5回で発表した際のテキストに加筆したものである。
従って、学生が使いやすいように、できるだけルビをつけ、また、資料として原文を多く取り入 れるように心がけた。
執筆に際し、渡邉辰五郎に関係する資料はすべて、本学博物館より提供されたものです。ここに 深く感謝いたします。
1) 窪寺紘一.東洋学事始.平凡社,2009,p.109.
2) 伊藤正夫校注 福沢諭吉.学問のすヽめ.講談社学術文庫2006,p.323.
3) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
4) 深谷昌志.良妻賢母主義の教育.黎明書房,1998,pp.43〜172.
5) 新治吉太郎.渡邉辰五郎翁伝(複製版).東京家政大学出版部.2009,pp.72〜81.
6) 福沢諭吉.上沼八郎編.福沢諭吉教育論集.明治図書 p.188〜.
7) 福沢諭吉.上沼八郎編.福沢諭吉教育論集.明治図書 p.190〜.
8) 福沢諭吉.中村敏子編.福沢諭吉家族論集.岩波文庫.p.47〜.
9) 福沢諭吉.上沼八郎編.福沢諭吉教育論集.明治図書 p.81〜.
10) 福沢諭吉.福翁百話.慶応大学出版会.2009,p.90〜.
11) 福沢諭吉.上沼八郎編.福沢諭吉教育論集.明治図書 p.199〜.
12) 福沢諭吉.林望監修.女大学評論・新女大学.講談社学術文庫,2001,p.19〜.
13) 福沢諭吉.林望監修.女大学評論・新女大学.講談社学術文庫,2001,p.19〜.
14) 山室信一 中野目徹校注.明六雑誌(中).岩波文庫,1999,p.188〜.
15) 山室信一 中野目徹校注.明六雑誌(下).岩波文庫,1999,p.123〜.
16) 共立女子学園の100年.学校法人共立女子学園 17) 共立女子学園の100年.学校法人共立女子学園
18) 福沢諭吉.上沼八郎編.福沢諭吉教育論集.明治図書 p.199〜.
19) 東京家政大学博物館所蔵 20) 東京家政大学博物館所蔵
21) 福沢諭吉.松沢弘陽校注.文明論之概略.岩波文庫.1995,p.119〜.
22) 福沢諭吉.上沼八郎編.福沢諭吉教育論集.明治図書 p.84〜.
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