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評釈ディキンスンの手紙(2)編集者ボウルズと判事 ロードへの手紙

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

評釈ディキンスンの手紙(2)編集者ボウルズと判事 ロードへの手紙

原口, 遼

https://doi.org/10.15017/2559334

出版情報:文學研究. 97, pp.1-40, 2000-03-31. School of Letters, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

評釈デイキンスンの手紙( 2  ) 

一一編集者ボウルズ、と判事ロードへの手紙一一

原 口 遼

Nαture is αHαunted House but Art  a House thαt tries  to  be hαunted." 

( The Letters of Emily Dickinson, p.535) 

目 次

1. 本論の意図・HH・...・H・−−…...・H・−−…...・H・...・H・...・H・....・.HHH・−−…...・H・−…− 2 2.受取人不明の MasterLetters" ・・・・H・...・H・...・H・...・H・...・H・...・H・−−…… 4  3 . Samuel Bowlesへの手紙・HH・...・HHH・−−…...・H・−−…...・H・...・H・...・H・−−… 14

L223  1860年8月 女性たちを馬鹿にしてすみません。

L247  621月 外は満月。アマーストでは涙で眼を曇らせています。

L249  62年初 親切心を驚かせて済みません。

L250  62年初 「聖なる呼び名は私のものJ送ります。

L252  62年初 重荷持つ心は動かないもの。

L256  623月 オースティンはフレイザーが殺されて衝撃を受けています。 L262  62年春 スーとヴィニーは花壇造りをしています。

L266  62年初夏 欧州からアマーストはどう見えますか。

L276  6211月末 お目に掛かれません。ご帰国は嬉しいですが。

L415  746月後半 高貴な手紙に恐縮しています。離れて、

4.  Otis Lordへの手紙 …・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 25  L559  1878年頃 私の愛しいセイラムが微笑みかけます。

L560  78年頃 甥のネッドと私が神について話しておりましたところ L562  78年頃 私がご返事を控えているときが一番の至福のとき L563  78年頃 火曜日はとても落ち込む日です。

L645  80年頃 貴方が何かを美しいとおっしゃったことを聞いたことが L752  82年5月14日 貴方が生還されたと知ったときの私の歓喜

5.  Samuel BowlesとOtisLordの略歴 ....・H・...・H・...・H・....・H・..・.H・−−…..38  6.  Selected Bibliography ...・H・...・H・−−…...・H・...・..H・...・H・...・HHH・−−… 39

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評釈デイキンスンの手紙(2) 

1.本論の意図

エミリ・デイキンスンが1886年55歳で没したとき、妹のLaviniaは姉のエミ リが保存していた手紙類を全部消却したのだが、丁寧に綴じられ小冊子の形で 残されていた数十冊の手書きの詩集の束については、姉の才能を惜しんでそれ を出版すべく手元に保存した。その際、焼却を免れたものの方の書類束の中に 書きかけの手紙が 3通あったが、これら 3通の手紙には宛名か書かれておらず、

相手のことを手紙の中で Master と呼びかけていることから、俗に Mas‑

ter  Letters (「主なる貴方様への手紙

J

) と呼ばれている。それらを『デイキ ンスン書簡集j( The Letters of Emily Dickinson, 1958)の中に編んで、初 めて公表した編者のThomasJohnsonは次のように説明している。「本草稿は、

ED自身の書類束の中に残されていた。この手紙文を元にさらに清書したもの が他にあるのか、或いはまた手紙が相手に送られたのかどうかは不明。相手か らの問い掛けに答えたものであることは、文中その問いに言及されていること から明らかである。あるいはCharlesWads worth牧師のことを「主なる貴方 様」として心の中に抱いていたのかも知れない」と。(The Letters of Emily  Dickinson, p.333) 

この3通の手紙の草稿は、普段はかなりなポーズを作って、気丈なところを 見せていたデイキンスンの詩や表向きの手紙から見ると異例のもので、相手に 対して随分と下手から出ていたり、懇願をしたり、混乱した感情をあからさま に見せている点、ディキンスンの知られざる一面を知る上で貴重なものである。

その手紙の書かれた時期については、トーマス・ジョンスンはそれぞれ1858年 頃、 1861年頃、 1862初ワと推定した。しかし最近になって、イエール大学の R. W. Franklinによって、その筆跡の鑑定およびデイキンスンを取りまくそ の前後の事件などから、その年代がヨリ正確に確定された。(R.W. Franklin,  The Mαster Letters of Emily Dickinson,  1998)それによると、この3通の 手紙の書かれた順番も 1番目はそのままとして、 2番目と 3番目は入れ替わっ

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評釈ディキンスンの手紙(2 ) 

ている。そしてフランクリンはそれぞれの手紙の執筆の時期を前から1858年春、

1861年初、 1861年夏と推定した。

ここでは、フランクリンのTheMaster Letters of Emily Dickinsonを底 本にし、そのうちの MasterLetter l と MasterLetter 3 を翻訳し、

それらが誰に宛てて、どのような文脈の中で書かれたものかを知る手だてとし たいと思う。

が極めて多いこと、また文意が相当に不明であり、草稿のそのまた草稿と考え られることから訳出しなかった。(3通の手紙文の内容及び編集上の問題点に ついては、今夏、小生はR.W.フランクリン博士とイエール大学において一問 一答を交わしたので、「R.W. Franklin博士との面会の記」『九大英文学

J

42号

〔1999年12月干jl〕を参照されたい。)

この MasterLetters,,自体、若干mysteriousな面があり、そこに見られ る唆昧で比織的な表現等から、手紙が宛てられた相手を特定することは困難で ある。書簡集の編者のジョンスンは「あるいはチャールズ・ワズワース牧師の ことを「主なる貴方様」として心の中に抱いていたのかも知れない」と推定し ているが、そのように受け取ることが難しいと思われる部分も多々ある。

そもそも 3通の手紙全部が同一人物に宛てられたものであるかどうかも決定 できないが、少なくとも、手紙の宛先になっている相手は遠方の他の州(ペン シルベニア州)の牧師(ニワズワース)といった遠い存在ではなく、相手とは 相当に親密な仲であること、相手が重篤な病気(結核であろう)を煩っている らしいこと、年齢的には近接している感じであること、アマーストのデイキン スン邸の近辺の森を愛犬カルロを連れて散策した経験があるようであること、

また時にはお互いに意思の阻舗を来たし、誇いもあったような仲であること等 から、私は、 Spring/ield Daily Republican紙の若い編集長SamuelBowles 

(エミリより 4歳年長)のことを Master であると推定している。本年度 (1999年8月)の固際エミリ・デイキンスン学会(於MountHoloyoke Col‑ lege,  Massachusetts)でも、 MasterLetters,,の文体と、その前後の年月

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評釈ディキンスンの手紙(2 ) 

に送られたデイキンスンのボウルズ宛の手紙文の文体とを、コンピュータ分析 し、その類似性について発表したレポートがあったが、しかし、その場合も結 論が出るには至っていない。(John McDermott, A Computerized  Word  Analysis of the Master Letters and Comparison with Letters to  Samuel  Bowles and Susan Gilbert") 

小生のフランクリン博士との対談でも、 Master が誰であるとは特定でき なかった。(特定できないからこそ MasterLetters,,などについての一本が 成立しているという事情もあるのであろう。)

従って、本稿ではその可能性のある者として、彼女の恋人と目されている Samuel BowlesとOtisLordへの手紙文の中から、主要なものを訳出して、

それらを模索してみるのである。

本稿での目的は、エミリ・デイキンスンが呼びかけている Master が誰 だったのかというホシ捜しではない。むしろ、そのようなデイキンスンの生の 感情を手紙文において引き出すような相手、体験とは一体どんなものであった のか。常日頃、詩作と手紙文(特に批評家ヒギンスンとの手紙のやり取り等)

において、超然とした強気のポーズと主張とを繰り返している、自己意識の強 い、ラデイカルなイデオロギーの持主の、他面での悩みと本音とを探り、表出 された詩群の下層部にある、彼女の生の感情・思想を探るための一助とするこ とが狙いとなる。

2.受取人不明の Master Letters" 

本章では、 MasterLetter lと Master Letter 3 を訳出し、その問 題点を考えてみる。

この2通の手紙はペン書きで、丁寧に清書されていて、確かに誰かに向けて 書かれている節が見受けられる。しかし、それらが投函されたかどうかは(ジョ

ンスンが言うように)不明である。またこの 1 と 2 が、 Dear Master,,あるいは Master(「親愛なるご主人様[先生、わが師]

J

)という

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評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

呼びかけから書き始められていること、 1 と 2 の問には3年の開きし かないことから、これらの手紙が同ーの相手に対して書かれていると見なすこ とは自然ではあろう。しかし、その内容からすると、現在病気を養っている相 手に対して、心穏やかにその健康状態を尋ねている手紙 1 と、相手が自 分の急所を厳しく突いて来て、それに対してその傷を見せまいとしながら、相 手の気持ちを逆撫ですることを避けつつ、アマーストの地へ会いに、そして迎 えに来て欲しいと懇願する、悶え苦しんだような手紙 2 とは、受取人が 同一人とは考えがたいことも確かである。はたして、同一人に対してこれほど の対応の変化をするような書き方が可能であろうか。少なくとも手紙 2 については、フイラデルフイアの牧師ワズワースではない(いかにも模範的な 牧師然としたワズワースの返事[後述]を参照)と考えられるので、もし二 つの手紙が同一人に対して書かれていると想定した場合、それらはSamuel Bowlesの方であろうと私は想定する。サミュエル・ボウルズには、実際にこ の手紙の前後にかなりの手紙が送られていること、その中には密かに愛を告白 したような文章も含められていること、手紙の中身を他の人に漏らさないよう にと念押しをしたりしている手紙があること、それに手紙のやり取りの後であ ろう、病気療養目的のヨーロッパの旅からボウルズが帰国して、アマーストの デイキンスン邸を訪問した際、エミリは館の二階の居室に篭って、いわば駄々 をこねて面会をしなかったという風変わりな再会をし、しかもその直後、わざ わざお詫びの手紙を書き送ってもいる等の緊迫した関係から、そのように推定 するのである。

かようにして、 MasterLetter 1 と MasterLetter 3 とが、同一人 に対して書かれたとも断定できないという立場から、 1 がワズワース師へ、

3 (そして 2 も)がサムエル・ボウルズへ書かれたという可能性も否 定できないと、思われる。

さらに、研究者たちの中には、名前が既に上がっているこれらの候補者たち 以外に、未だ知られざる Master と呼ばれた他の男性がいて、その者が今

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評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

後の調査の過程で出てくる可能性も否定できないとしている者たちもいる。

そうした過度の慎重論は、私からみると、確かにアリバイ捜しの手続きとして は当然であり(単に疑わしきのみでは犯人とせずの)合理性があるが、いか にも厳密主義を標梼した逃げの姿勢に思われて、「私の友達は数少ないです」

(1223参照)と自ら宣言しているエミリの文通相手の中から、そのような極め て親密で、自分の情念を抑制なしに惜しげもなく注ぎ込めた相手が、今後出て 来ることはないと、私は考える。

むしろ、これらの手紙は、実は投函されなかった、自らの昂揚した感情を鎮 めんがための、感情の奔出の紙面への定着で、手紙の形を借りた一種の情念詩 であるとすることも可能なわけで、、そうした場合、 Master とは、サミュエ ル・ボウルズやワズワース師等を一種の詩的ミューズとした、架空の相手に対 する手紙、即ち天上への手紙と解することも出来るであろう。そのように考え ると、このように矛盾し、過度に高揚した感情のはけ口の有様も、ある意味で ヨリ理解されやすいであろう。

[ 1858年春不明の受け取り人へ(Master Letter  1 ) ]  親愛なる主なる貴方様

私は病気で伏しております。でも貴方様もご病気との由、さらに悲しん でおります。私は貴方様にお伝えできるよう、長く筆を取っておれるよう に、まだしも余力の残るわが手に力を込めて書いております。貴方様はきっ と天国におられるとばかり存じておりましたので、再び、お声を掛けて下すっ て、こよなく甘美に素晴らしいことに思え、心底驚いてもおります。お元 気であられることを望みます。

私の愛する人たちは皆、ふたたび健康を害することのないよう望みます。

董は今、私の側にあり、駒鳥は近くにおり、そして皆が申しますには今や

「春」。戸口のところを過ぎゆくのは誰でしょうか。

本当にここは神の家で、これは天国の門です。数頭立ての馬車に乗った天

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評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

使たちがあちこちに行き交っています。私にミケランジ.エロの画才があり ますれば、絵に描いて差し上げられるのにと存じます。貴方様はお送りし ました花が何を言おうとしていたのかとお尋ねです。それなら、花は私の 言づけをちゃんと聞いておりません。私は花にご伝言を託しましたはずで すのに。花は夕日の沈む際に西方の唇が申しますこと、それに夜明けが申

しますことを伝えたはずなのですが。

主たる貴方様、もう一度耳を傾けてください。今日がたまたま安息日だっ たこと申しませんでしたね。

船旅の安息日ごとに、私は岸辺で会える日までに何回の安息日があること かと指折り数えております。水夫たちが申しますように正は青いでしょう か。今夜、私はもうこれ以上語ることができません。身体に痛みが走るか

らです。

身体が弱っているとどんなにか記憶力が強まり、愛することは何と易しく なるのでしょう。どうぞ元気になられ次第、私にお便りください。どうぞ お便りくださいませ。

[評釈]この原稿は流麗な字体で清書されており、このままで投函できる状態 になっている。句読点について言うと、ピリオドが黒丸でなく、デイキンスン 独特の横に流れるような短い横棒になっている。R.W.フランクリン博士は、

このピリオド(やときにはコンマ)の機能を果たすデイキンスン独特の句読点 を、ジョンスン版のようにダッシュに置き換えたのでは実際の原稿のそれらに 較べて長すぎるので、ハイフン記号で代用したと言っておられた。ただ、印制 上の問題からその長短は無視し、一律に同じ長さのハイフンにしたとのことで ある。

内容について言うと、相手が病気をしていたということ、それも天国に行っ てしまわれたのではと想像させそうな重篤なる病気をしている様子から、これ は当時結核を病んで転地療養を考えていたサミュエル・ボウルズを手紙の宛先

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評釈デイキンスンの手紙(2) 

者として想定させるような文面である。

一方、フイラデルフイアの牧師(ワズワース師)については、そのような病 気をしたという記録が文献に全く見つからないこと、また結核では牧師業もで きないであろうし、当時は西部の最僻地の寒村であったサンフランシスコまで 赴任して、見知らぬ土地での教会の牧師業に遁進する (1862年3月、船でサン フランシスコに向けて出帆した)といったような活動的なイメージから、ワズ ワース牧師がこれに当たることはないと思われる。

後半の文章の「今日がたまたま安息日だ、ったこと申しませんでしたね。/船 旅の安息日ごとに、私は岸辺で会える日までに何回の安息日があることかと指 折り数えております。水夫たちが申しますように丘は青いでしょうか」につい ては、相手が実際に船旅をしていて、エミリが岸辺で相手の陸地への到着を待っ ているのか、それとも両人が共に船旅をしていて、ともに陸地(天国)到来の 日を待っているのか、そもそもこれは、船旅を模した心象風景の比倫であるの か、といった疑問が湧くであろう。小生は、フランクリン博士にそのことを質 問して見たが、彼の解釈は明快で、、現在二人は一緒に船旅をしていて、天国到 来の日を指折り数えている、従って、その天国とは「水夫たちが申しますよう に青いのでしょうか」という繋がりで、これは両人が晴れて天国で結ぼれる日 を意味している。さらには、これは特にエミリや相手が実際に船旅をしている 必要はなく、比師会であろうという考えであった。(Cf. 

r

九大英文学

J

42号, p.106)私も両者の人生を船旅と取るそのような解釈を取る。

1858年(エミリ27歳)当時に、このように親密に知り合っている人と言えば、 サミュエル・ボウルズ(当時32歳)ではないかと考えられる。極めて豊富な宗 教関連の比聡が横溢していることなどから、ジョンスンが推測するように、相 手がワズワース牧師ということも考えられるが、この解釈は若干苦しい。因み に、デイキンスンからワズワース牧師宛の手紙は一通も残存しておらず、ワズ ワース師からデイキンスン宛の手紙は僅かに一通が残されているが、その短信 の中で、ワズワースはデイキンスンの名前をDickinsonでなく Dickensonと

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評釈デイキンスンの手紙(2) 

誤記しているぐらいである。またその文章は、いかにも模範的な牧師の手紙ら しく、極めて一般的な抽象的な次元での、相手の悩み事への同情の手紙である ので、両人が立ち入ってお互いの個人的な関係を述べあう間柄にはなかったよ うだし、ましてやお

E

い同士感情のすれ違いや意思の組踊があった関係とは考 えられない。参考までに次がワズワース牧師からエミリへ宛てられた唯一の短 信である。

[ L 0248a,年代不明]

親愛なる私のデイケンスン様〔下線は筆者〕

たった今、貴女様からのお便りを受け取り、計り知れなく心配をしてお ります。私は貴女様に降りかかった、また降りかかりつつある御苦しみの ことを、ただご想像してみることができるのみです。

それがいかなるものであったにせよ、必ずやご同情しいつも変わらぬ真 剣なお祈りを捧げるものであります。

私は貴女様のご試練のことについて、もっとはっきりとしたことを是非 ともお窺いしたく。そして、貴女様の悲しみに対して立ち入る権利はない ながら、 一言でも宜しいですからお便りくださいますようにお願いしてお きます。

[1961年夏不明の受け取り人ヘ(Master Letter 3)]  主なる貴方様

取り急ぎ、

心より貴女の者なる、

(署名なし)

もし銃弾が鳥を撃ち抜いたのをご覧になり、その烏が当たりませんでし たよと言ったとしたら、貴方様は鳥の心遣いに対して涙を流されることで

しょう。でも、きっとその言葉をお信じにならないでしょう。

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評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

貴方様の雛菊の胸を染めながら、血が傷口からまたもやほとばしったと したら、そうしたら、お信じになりますか。トーマスの解剖学への信心は、

信仰への信心よりも強かったですよねD 貴方様、神様が私を造られました ので、私が勝手に私自身になったわけではありません。どのようにして、

そのようなことがなされたのか存じあげませんo神様は私の中に心という ものを植え付けられました。それが段々と大きくなり、それは私を追い越 し、まるで小さな母親が大きな子供を抱えたような格好になり、私は子供 を抱え続けることに疲れました。私は「救い」ということを聞いたことが あります。それは男も女をも安らかにするものだとか。私が、これをくだ さるようお願いしたことを覚えておられますよね。そしたら、貴方様は別 のものをくだ、すった。私は「救いjのことを忘れておりました。[私は長 いこと貴方に申し上げませんでしたが、貴方様は救われたる者の中に、私 のことをお変えになったことをご存じです。この私のことを]それで私は もはや疲れなくなりました。[それで、この新たなる者は大変いとおしく なると、あるいは私の呼吸が一一替わりの者をーーその者を投げ棄てて笑っ ております。](鍵括弧内はデイキンスン自身の書き直しの文章)今夜、私は歳 を取りました。しかし愛は、満月や三日月と同様、変わりません。もし私 が貴方様が呼吸しておられる同じ所で呼吸することが、神のご意志であっ たなら、今夜自分の居場所を見つけたら、もし私が貴方様と一緒でないこ とや、悲しみと霜が私よりも近しいことを忘れなければ、もし私が私の地 位は王妃のそれであることを、押さえることができなければ、プランタジ ネット王家の愛が私の唯一の弁解です。教会の内陣よりも貴方様に近しく 寄ること、或いは真新しい上着よりも貴方様の近くに近づくことは一心 が聖なる晴れ着を着て、心と心が一緒になって遊ぶことは一一私には禁じ られております。貴方様は、そのことを何遍も言わせました。そのことが 分からない私のことを恐らくお笑いになるのでは。でも「シオンの城」は 滑稽ではありません口貴方様は胸の中に心臓をお持ちですか。それは私と

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評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

同じように少しばかり左に寄っていて、それは夜目覚めたとき不安にから れるものなのでしょうか。心臓は自身に対しでもタンバリンの音を奏でま

しょうか。それ自身調べを奏でましょうか。

こうしたことは敬度にして神聖なることです。貴方様、私は恭しく敬 慶な心を以て、それらに触れられますが、お祈りをする人たちは一一「父

よリと申します。雛菊は告白し、そして否定致しません。

ヴェスヴイアス火山は黙して語りません。エトナ山も語りません。貴方 様の火山の一つが千年前に一言言い掛けました。するとボンベイはそれを 聞き、永遠に身を隠しました。以後、ボンベイは世界に顔を向けることが できなくなったと思います。恥ずかしがり屋のボンベイ!「貴方様の欠い ているものをおっしゃってください」。蛭のことを今もご存じですね。そ

して雛菊の腕は細いとご記憶ですね。そして、貴方様は水平線をお感じに なりましたね。そのとき海は貸方様をその上で踊らせようとばかりに、近 くにすり寄って来ませんでしたでしょうか。

貴方様が、それについて何がおできになるか分かりませんが、有り難う 存じます。でも私が貴方様同様に頬に髭があり、貴方様が雛菊の花びらを 持って行かれてからも、私のことを想ってくださったら、貴方様はどうな ることでしょう。貴方様は闘いの中でも、逃走の中でも異国の地でも、私 のことをお忘れにはなりますまい。カルロと貴方様と私と牧場を一時間ほ ど歩き、ボボリンク鳥以外に誰も私たちのことを気に掛ける者とでありま せんでしたが、そのポボリンクの心遣いは銀の心遣いでしたよね。(下線 部筆者)

私は死んだらきっと貴方様に会えるとよく考えたものです。それで、私 はできるだけ早くに死んだものです。しかし「団体様ご一行」も天国に来 ておりましたので、永遠という場所はそんなに閑雅なところでもないと分 かりました。天国にて貴方様を待ちもうけてもよろしいとおっしゃってく ださい。見知らぬ人たちと一緒に天国に行く必要はないとおっしゃってく

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評釈デイキンスンの手紙(2) 

ださい。あの行ったこともない窪みへと。私は長い間待ちました。主なる 貴方様、でも私はもっと待つことができます。私の榛色の髪が白髪まじり になり、貴方様が杖をお突きになるときまで。そうなると私は時計を眺め ることができます。そして夕日がずっと傾いて行ったら、私たちは天国へ の機会を掴むことができます。私が「白衣を着て

J

やって来ましたらどう なさいますか。貴方様は生者を入れるような長押をお持ちですか。

主なる貴方様、私はこの世で望みうる限り貴方様をもっと見つめていた いです。そして少し形を変えた私の願いは、天空に対する唯一の願いとな りましょう。ニュー・イングランドへ来て頂けませんか。できましたらこ の夏、アマーストへいらしたくありませんか。(下線部筆者)貴方様、おい でいただけませんか。そうすることは危険なことでしょうか。でも私たち は二人とも神様を恐れておりますよね。雛菊は貴方様を失望させるでしょ うか。いいえ、そんなことはありますまい。主なる貴方様、貴方様が私の 顔を見つめておられるとき、貴方様の御顔を見つめることができれば、永 遠の慰めとなりましょう。そうなったら、私は暗くなるまで森の中で踊り

ます。夕日が私を捜し出すことができないところに、貴方様が連れて行っ てくださるまで。そしたら真実が到来して、街中が一杯になることでしょ う。もしそのおつもりなら、私におっしゃってくださいD 私は貴方様に申 したいとは思いません、貴方様は「白衣を着て」私のところにいらっしゃ らないと。あるいは、私になぜとおっしゃらなかったと。

なぜ、

蕃薮でなくして、私自身、花咲くことを感じ、

鳥なくして、芳香の霊気に乗って飛び去りしか。

[評釈]上記下線部でも分かるように、相手とエミリとは「牧場を一時間ほど 歩き、ボボリンク鳥以外に誰も私たちのことを気に掛ける者とでありませんで した」という、親密で共通の体験を持っている。確かに前年の1860年3月中旬

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評釈デイキンスンの手紙(2) 

に(エミリ29歳時)ワズワース牧師が、アマーストのデイキンスン邸を訪ねた ことは記録にあるが、はるばるフイラデルフイアから訪れた妻子持ちのワズワー スとエミリの両人が、初対面の直後、愛犬のカルロを伴って牧場を一時間ほど 歩き、ボボリンク鳥以外に誰も私たちのことを気に掛ける者とでありませんで

した、という情景はあり得ないことである。

相手のことはともかくとして、ではこの牧場を歩いた時期はいつのことかと いうことであるが、少なくとも愛犬カルロのことは1850年2月の手紙の中に初 出する(George Gould宛の手紙:L34。因みにカルロは1866年1月27日死亡:

L314)ので、 1850頃以降の関係ということになる。ボウルズは、結婚が早く、

1848年(22歳時)、ニューヨーク州Geneva出身のMary Schermerhornと結 婚している。恐らく結婚後に、新聞社の仕事か何かでアマーストに来た際、エ ミリと会って親しくなり、カルロをも伴って、牧場を散策したのだと思われる。

また冒頭で、相手が私の心臓を撃ち抜くような厳しい言葉を発していること、

エミリが相手に心臓の位置を尋ねていること、お互いがかつて親密な関係であっ たことを再確認していること、ついには、私が「白衣を着て

J

やって来たらど うなさいますかなどと緊迫した質問をしているので、相手は、極めて親密で、

緊張した関係を持っていた相手ということになろう。「白衣を着て」とは花嫁 の衣装でという意味であろう。

但し、当時サミュエル・ボウルズは家庭を持ち、アマーストの南60マイルの 地にあるSpringfieldに住んでいたのであるから、この手紙は既婚者に対して の未練の表現という風に取られる。ただ「ニュー ・イングランドへ来て頂けま せんか。できましたらこの夏、アマーストへいらしたくありませんか」につい て、ニューイングランドへ来て頂けませんかとは、元々ニューイングランド在 のサミュエルに、そのように呼びかけるには若干奇異な感じがする。それは恐 らく、相手が、当時ニューイングランドを離れていた一一例えばニューヨーク に滞在していたーということかも知れない。

(15)

評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

3.  Samuel Bowles

への手紙

[ L 223,  1860年8月初]

私はとても恥ずかしいです。今晩、随分と失礼なことをしてしまいまし た。とても後悔しています。私はもう貴方の友達ではなく、ジム・クロウ 夫人です。

女性たちのことを笑ってしまって後悔しています。

考えてみますと、私はフライ夫人やナンチンゲール嬢のような人たちを 尊崇しています。再び軽はずみなことを言いますまい。私のことを許して

ください。小さなボボリンコン鳥を見直して頂けませんか。

私は友達が少ないです口十指にも満たないぐらいです。会えてとても嬉 しかったです。なぜって、貴方はほとんどここにいらっしゃることがない のですから、会えなかったらもっと暗い気持ちになっていたことでしょう。

お休みなさい。神様は私のことを許してくださるでしょう。貴方も許し てくださいますね。

エミリ

[評釈]これは恐らく、ディキンスン邸での卒業式の後、毎年聞かれていたガー デン・パーティか何かでの、エミリの失礼の言について詫びた手紙であろうD ボウルズは、アマースト大の卒業式とその後のデイキンスン邸でのパーティに は常に参加し、その記事を書いていた。サミュエル・ボウルズたちが噂したさ る有名な夫人の業績に対して、エミリがそれを(主として女であるからという 理由から)否定したという事件を指しているのであろう。しかし、すぐにそれ が間違っていたと反省し、それへの詫び状を入れたということであろう。

[註] 1.  Jim Crow :黒人差別主義(JimCrowism)を持つ者の意。ジム・クロウ 夫人とは、そのような差別意識を持った夫人という意味。

2.フライ夫人:ElizabethFry (17801845)イギリスのQuaker派の女性牧師。看

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評釈デイキンスンの手紙(2) 

護活動、刑務所改革で有名。

3.ナンチンゲール嬢:Florence Nightingale (1820‑1910)赤十字社の基を作ったイ ギリスの有名な看護婦。

4.「私は友達が少ないです。十指にも満たないぐらいです。」エミリは少女時代、特に アマースト学園での小・中学校時代は友達も多く、文芸クラブにも所属し、くった くなく暮らしていた。MountHolyokeの女子学院に行った16‑7歳頃から、自分の 生き方には一つの固い芯があることを自覚するようになり、精神的に孤立して行っ た。特に女友達たちが結婚適齢期に差し掛かり、次々に結婚し家庭に入って行くと、

文通と交友関係は見事にばったりと止んでしまった。

エミリが、生涯、どこの教会にも属さなかったことは、大きな事件と言えるが、

実は、父も兄も妹も初めは正式には教会に所属していなかった。しかし、父も兄も 妹も、将来のこと(名士としての立場と土地での活動等)を考えてか、 1850年から 1855年の聞に、正式に FirstCongregational Churchに登録している。エミリ は、後年の1882年(51歳)にも、 OtisLordに「他の方々は教会へ行かれますが、

私は自分の教会に行きます。と申しますのも貴方が教会なのではないのでしょうか」

(L790)と書き送っているので、エミリの教会への非所属ということへのこだわり は、意志的で筋金入りのものであったと解釈される。

[ L 249,  1862年初]

友よ、

もし私が貴方の親切心を驚かせてしまったのなら、私の愛が唯一の弁解 です。[幽閉されている]「シロン城」の人たちにとってはこれで十分でしょ う。私は他の誰にも会っていません。ボウルズ様、貴方の妃に対して要求 をもう少し低めになさってくださいますまいか。

それでは、私は基準を間違えていました。デイジィにとっては、この基 準は毎日与えられているもので、「日曜だけの合計」ではありません。

私の弁明を同封しました。

空気を求める鯨のことをお許しください。もし息をすることが有害とし ましでも、貴方にお礼を言うことを考えるだに恥ずかしいことです。

もし貴方が海上で

(17)

評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

私の姿を望み見ながらも溺れたり、

太陽の横で横たわって 死なれる悲運にあっても、

あるいは天国の戸を叩いても、中から応えがないときは、

貴方が中にはいれるまで、

私は神様をせっついて悩ましてやることでしょう。

[評釈]自分のことを「デイジィ」(「雛菊」)と呼ぶことは、サミユエル・ボウ ルズとの間では、常であった。また、太陽とデイジィとの関係を表現した有名 な詩があり、そこではデイキンスンは、相手を巨大な太陽、自分を密かに身を 潜めて恋い慕うが、報われない雛菊として、イメージ化しているようである。

(Poem 106) 

[ L 250,  1862初]

聖なる呼び名は、私のもの!

署名なしに、妻たること!

鋭い位階が私に与えられた、

カルヴァリーの女王の位階!

冠がないだけで、すでにお后!

私は婚約した。神が女たちに与えられた 喜びの失神はなかったけれど。

ざくろ石にざくろ石

黄金に黄金を互いに交わすとき.、

一日にして、女は

生まれ、花嫁となり、屍衣をまとう、

三重の勝利。

「私の主人」と、女たちは言う。

(18)

評釈デイキンスンの手紙(2) 

旋律をかきならすかのようにして。

これが、それ?[Poem 1072]〔下線部は原文は斜字体〕

貴方に「申しておかなくてはならない」ことがあります。それはこの詩の ことを他人に決して漏らさないでくださいということです。名誉に関わり ますから。

[ジョンスンの註]同じ頃、同ーの詩について若干の詩句を修正して兄嫁のスーザンに も送っている。最後の「名誉に関わりますから」( Honoris  its own pawn")はヒ ギンスン宛の手紙(1862年4月15日付)の最後にも使用されている。

[評釈]相手が結婚していることを思うと、結婚前後に愛の告白みたいな何か があったと考えざるを得ない文章で、それで、エミリの方が未練を述べていると 言うことができょう。エミリその人はかなりテンシヨンの高い人のようであっ て、批評家ヒギンスンが、初めてデイキンスンに会った日の夜、自分の妻への

「僕はこれまで僕の神経の力をそんなにも枯渇させてしまうような人に会った ことがない。相手に触れる先から、私の中のものを全部引き出してしまうのだ。

こんな人の近くに住んでいなくてよかった」(L342b)と書き送っている。知 性が勝って、稲妻のごとく、様々な意見を吐き、印象を述べた女性のようであっ

て、結婚生活の実際には不適切だったと思われる。

逆に、サミュエル・ボウルズは大学を出ておらず、若いときから父の新聞経 営を助け、記事を集めるために東奔西走し、多種類の職業の人々との接触もあ り、実際家であった。新聞の編集者ながら、詩の理解には乏しかった。逆にそ うした活動的男性に惹かれ、恋し、捨てられ、それでも相手に未練が残ったと いうことであろうか。

[ L 252,  1862年初]

親愛なるボウルズ様、

このうえもなく感謝しております。私のことをいつもいつも考えて下すっ

(19)

評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

て有り難う存じます。いつも嘆いてくださいます。この今も。古い言葉は 薄れて無力です。しかも新しい言葉はまだ、見つかっておりません。小川は、

洪水のとき、無力です。

アマーストに来られるとき一一今日がその日であればいいのですが一一 絵のことについてお話し致しましょう。もしできましたら、きっと口

「言論jは「議会」での技術

「涙」は神経の仕業

しかし…一果てもなく重い荷を帯びた心は、

なかなかに動かされず、不動。

エミリ

[ L 256,  1862年3月後半]

親愛なる友よ.

オーステイン〔原文は斜字体〕にもう一度親切にしてくださいませんか。

今回、他の機会と違ってもっと優しくして名前も載せてやってくださいD オーステインは私から貴方にお願いしてくれと頼みましたD彼はお礼を言 えなかったのです口オーステインはがっかりしています。今日是非お会い

したかったのにと。

オーステインは貴方が声をかけることなく出帆されることはないと信じ ています。エミリとヴィニも、オーステインが書いたものを知っているな ら、オーステインに貴方が行かないようお願いしてと熱心に頼むことでしょ

オーステインは、フレイザーが殺されたことについて身を凍らせていま す。オースティンは脳髄が「フレイザーが殺された」と反復して言い続け ていると言っています。丁度、父が発した言葉そのままに「フレイザーが 殺された

J

と。鉛のように重い数語が心に深く落ちて来て、段々とその重 みを増しているのです。

(20)

評釈デイキンスンの手紙(2) 

オースティンに、それを乗り切るよう言ってください!

オースティンは、貴方の病状が思わしくないので随分と心配しています。 彼は貴方のことについて気を使っています。法律事務所にいても、仕事が 終わっても、家にいても、ときには夜半にも目覚めて、貴方のことを心配 しています。日中だけでなく心配しています。オーステインに内緒でこん なことを明かして悪いですから、黙っていてください。またスーにも悪い ですから。

私が内緒でやっていることを、悪く思わないでください。

たまたまスーが、貴方が外国に持って行く水筒を持ち合わせておられる かどうかを知りたがっていました。私はスーのお役に立ちたいので、月曜 までにお手紙で、持っておられるかどうか私に教えてください。もしお持 ちでないときは、スーのためにも、新しく買おうとされないでください。 スーにこちらから持っておられない旨、伝えますから。

メアリーさんから美しい花が送られて来ました。 そのことをお聞きおよびですか。

オースティンからの言づてで、貴方がうんざりなさらないように願っ ているとのことです。

[評釈]ジョンスンの短評に依ると、この手紙を他人に託したかの理由によっ て、なぜか自分のことを兄のオーステインである振りをして手紙を書いている とされる。確かに第1と第2節付近や、後半のオーステインがサミュエルの病 状が思わしくないことを心配しているところなど、兄に仮託して、エミリの心 持ちを表現していると考えてもいいが、特にオーステインの振りをして書いて いると考える必要もないと思われる。

「フレイザーが殺された

J

とは、南北戦争に従軍した、アマースト大学学長 の息子FrazarStearnsが、 1862年3月14日ノース・カロライナ州Newbernの 戦いで、指揮官のウィリアム ・クラーク(1876年ー77年北海道農学校の教官を

(21)

評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

務めたクラーク先生その人で、当時マサチューセッツ農科大の学長をしていた)

の側で、銃弾に当たり死亡したことを指す。

[ L 266,  1862年初夏]

親愛なる友よ、

貴方は行ってしまわれましたが、どこに行かれましたにしても、 一緒に ついて行くわけには参りません。それでも、月々はそれぞれに名前をもっ ており、各月は一年に一回ずつしか訪れません。月日は経たないように見 えても、気がつくと過ぎ去っております。

アメリカにいらしたときよりも、お元気になっておられますよう。そし て貴方に対して外国の人たちが、お優しく誠実であってくださればいいで すね。後にされました当地でのこと、思い出してくださいませD 私たちの ことも少しばかりでも。

貴方の思い出の中で、アマーストがどのように見えるか知りたいです。

恐らく、元よりは小さくなっているのかも知れませんね。でもそれ自身が 本来大きいものなら、離れられるとむしろ物は大きくなるものです。お変 わりのないことを望みますD チャイナ丸でご出帆されましたとき、私たち が悲しんだときのそのままであればよいがと存じます。こちらのニュース をお聞きになりたいですか。私たちは当地にて亡くなってもいませんし、

変わってもおりません。私たちは、これまで同様、お客様をお迎えしてい ます。貴方はご不在ですが。貴方がお出かけになる前と同様、蓄薮は茎か ら垂れています。ヴィニーはすいかずらを手なづけ、駒鳥たちは巣を作る ために、糸くずを盗んで、行きます。以前と全く変わりませんo私は心から の言付けを持っていますが、それをお伝えするのを忘れそうになりました。

家に帰って来てくださいませ。聖書が言っておりますように、長そうにみ える人生の年月も、昔語りの物語のように実は短く、飛ぴ、去って行きます。

それで、私にはなぜかしら、年月を惜しむのは厳粛なことのように思える

(22)

評釈ディキンスンの手紙 (2) 

のです。それで、私は私のものなるものを近くに引き寄せようとして、力 を込めてまさぐるのです。

メアリーさんから手紙を一通貰いました。彼女はきっと我慢されている のだと思います。でもボウルス様、あまり我慢をさせない方がよくはなくっ て。

私たちがお互いに遠くに離れているとき、知りたいと願うのはニュース の切れ端程度でいいものです。もうじき卒業式のシーズンです。ボストン から可愛い従妹が来ています。そしてベルムの町の人たちは一段と浮き立っ ています。友よ、毎年グラヴイテイ園遊会で、私たちと一緒に微笑んでお られた貴方がおられないので淋しいです。ヴ、エイル牧師様ですら、御説教 に対していつもの拍手を得られるかどうか疑問です。

どこにおかれましでも、もし誰かがブラウニング夫人のことを語られた ら、私の代わりに聞いて来てくだきい。そしてもし彼女のお墓に触れられ る機会がありましたら、私の代わりにその頭に手を置いて来てください。

この密やかに喪に服する者のために。

父、母、ヴィニー、それにカルロからも宜しくとのこと、そしてご健康 を祈りますとのことでした。私は今、神様が貴方をお守りになるように、

お祈りの練習をしています。親愛なる友よ、お休みなさい。貴方はそんな にも遠くの地で眠られるのですから、果たして貴方がお聞き届けくださる かどうか分かりませんが。

エミリ

[評釈]ボウルズは、病気の療養を兼ねて、 1862年4月初、チャイナ丸でボス トン港からヨーロッパに船出したが、妻を実家に預けてあったのである。この 手紙が書かれたときは、卒業式の後の恒例のデイキンスン邸での園遊会にボウ ルズは勿論、参加できなかった。

上記の手紙の最後の方に「父、母、ヴイニ一、それにカルロからも宜しく」

(23)

評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

とあるが、愛犬のカルロが出てくることは、相手がカルロと親しく可愛がって いたことを意味している。

Master Letter 3 にも「カルロと貴方と私と牧場を一時間ほど歩き、ボ ボリンク鳥以外に誰も私たちのことを気に掛ける者とでありませんでした

J

と あるが、そうした親密の度合、恋人的な雰囲気は、私がサミュエル・ボウルズ を Master だと取る根拠である。

[ L 276,  1862年11月末]

親愛なる友よ、

お目にかかれませんD そのために信じて下さることの減じませんように。

ご無事にてご帰還されましたこと、夏よりも素晴らしく。階下に貴方の御 声を聞きますこと、いかなる鳥の知らせよりも有り難く存じました。

エミリ

[評釈]妻を実家に預けて半年ほど、ヨーロッパで病気療養をしていたボウル ズに対して、相手が一人身の異国の旅路ということもあり、独身同士のような 調子の手紙を書いたものと思われる口そして、それが段々と昂じて来て、自分 を恋人の立場から、架空の妻の座へと昇格させたのであろう。その高揚した気 持ちと、相手が帰国した際の、二人の現実の関係のギャップを埋めることがで きなかったので、相手がわざわざアマーストまでやって来て、帰朝挨拶をした にも係わらず、相手に「会わす顔

J

が造れなかったということであろう。それ が、両人の奇妙な面会(拒否)の理由だ、ったのではなかろうか。お目に掛かれ ないというのは、眼とか顔とかが変な格好で会うのがみっともないという意味 ではなく、あのように昂揚した関係を手紙の中で取り結んだ相手と、実際に会 うことで、一挙に現実の次元へ、或いは笑って済ますような関係に引き戻され ることが堪らなかったのであろうと私は解釈する。

(24)

評釈デイキンスンの手紙(

[ L415,  1874年6月後半]

貴方はあまりお手紙を受け取っておられないことと存じます。貴方ご自 身からの私への [父への心配りの]お手紙はとても高貴なので、受け取った 者は恐縮してしまいます。貴方のご承認はあまりに有り難く、貴方の深さ が、私たちを罪深い気持ちにさせるので、恐る恐る押し頂くことです。

貴方は、私たちすべてに、水とは水嵩を増すことを終えたとき、即ち引 いて行くということを思い知らして下さいました。それが洪水の法則です よね。私が貴方にお会いした日が、私の人生で一番新しくまた古いものと なりました。

復活は一度きり訪れます。初めての同じ家にて。そのことで、私たちを お教えくださいまして有り難う存じます。

親愛なるお友達の貴方、いつでもご訪問くださいな。どうぞ去って行か れることのありませんように。貴方は、忘れられることを好まないとおっ しゃいましたね。そのように望まれましたが、はたしてお出来になりましょ うか。貴方は、反逆罪を犯したことはありませんよね。

エミリ

[評釈]ボウルズ夫妻はエミリー・デイキンスンの父エドワード・デイキンス ンの葬式のとき(1874年6月)、デイキンスン家を一度訪問したが、 7月中旬 にヨーロッパに向けて出帆した。結局、この時点で、エミリは、ボウルズへの 恋心が水嵩の高まりが頂点に達するや、引いて行くのみであったことを感じ、

両人が愛犬カルロとともに森の中を、胸の高鳴りを以て散策した日のことを唯 一の甘美な思い出として取っておきたかったということなのであろう。「私が 貴方にお会いした日が、私の人生で一番新しくまた古いものとなりました」と

いうことは、最後に会った葬式の日でなく、それまでに会った日々のことであ ろう。しかしエミリは、父エドワードの葬式の日を以て、デイキンスン家の社 交生活がほとんど完全に終わってしまう予感を感じていたということであろう。

(25)

評釈デイキンスンの手紙(2) 

複雑なエミリの生き方の基本を、敢えて簡略化して言うならば、エミリは病 弱だった母の代理者として父の妻代わりを引き受けていたということであろう。

つまり、病弱かつ引っ込み思案だった母のエミリ・ノークロスに代わって、大 学の理事で、代議士で、街の世話役だったエドワードの(妻代わりの)ホステ ス役として、社交上の接待役を務めていたということであろう。従って、エミ リの生き方・態度・好悪・価値観は父の(妻として一心同体化した)それその ものであったと言うことができょう。

人は、彼女のヒギンスンに宛てた手紙で、「私は父の屋敷から出ることがで きませんjとか、「父がついてくれば別ですが、一人でボストンに出ていくこ とはできません。父が許しません」などといった言葉を、中年の女性の言とし て、子供っぽく奇異なものに取らないであろっか。特に、詩の中で個人の意思 を断固貫いたように見える詩人の言として奇異なものに取らないだろうか。

そうしたエミリの立場を、いまT.S.Eliot風に集約的に言ってみるならば、

「政治的にはWhig党の保守主義者、宗教的には(Unitarianではなく) trin‑ ityを信じるCongregationalist。しかし反教会主義。(アマーストの)自然を 愛した自然賛美者。、それに(祖父・父・兄が大学の創設者・理事であったた めに)アマースト大学の熱烈な支持者」ということができょう。さらに付け足 せば、「ピューリタン的で因習的な宗教の信奉者というより、恋愛の信奉者

J

と。エミリの理想の女性が中年の愛を敢行したブラウニング夫人で、あったこと、

また既婚者との同棲生活を敢行したジョージ・エリオットであったことは有名 であり、彼女の居室にはこの両人の肖像画が掛かっていたと言われる。こうし た彼女の中心に据えられた価値観からすると、彼女の一種絹介で孤高な態度が ヨリよく理解できるかと思われる。例えば、批評家ヒギンスンとのつきあい方 においても、相手のヒギンスンが「ユニテアリアンの牧師で、ハーバード神学 校の出身で、 Whig党に反対したFreeSoil  Partyの党員で、社交好きの都会 派のボストンの Brahmin の一人であった」ことに対しては、自分と相入 れぬものとして相当に反発し、詩作上の師として仰ぎつつも、終始、距離をお

(26)

評釈ディキンスンの手紙(2) 

いていた頑なな態度などが理解できるであろう。

4.  Otis  Lord

への手紙

[ L 559,  1878年頃][出だしの2頁のみが残存している]

私の愛しいセイラム1が微笑みかけます。私はそのお顔を何度も何度も 求め続けます。でももう取り繕うのは止めました。

私はその方のことを愛していると告白します。愛していることが嬉しい のです。私にその方を愛するようにと下すった天地の創造主に対して感謝 しております。歓喜は洪水となって私を満たしますものの、私はその水路 をうまく見つけることができません。貴方のことを思いますと、 JIIは海へ と限りなく膨らみます。

私のこと罰されますか。「余儀なき破産

J

それは犯罪なのでしょうか。

貴方ご自身の中に私を閉じこめてください。蓄薮色の処罰。生でもなく 死でもない、この愛しい迷路を貴方とともに縫うようにして辿りたいもの。

この迷路は死の不可解きと生の輝きとを持っています。そして、私が眠り につく前に、貴方という魔力から生じた日のために、貴方のために目覚め ます。

[ジョンスンの註]ロードに宛てられた断簡筆墨の類は、 EDの死後、 EDの書類東の中 に見つけられたが、兄オーステインによって、トッド夫人に預けれられた。A Revela‑ tion, 1‑2『発見: 1、2J参照)。いつの日かエミリとロードとは、 一週間に一度ぐら いずつ手紙を出し合う仰になっていたようである。お互いの親密な関係は1884年のロー ド自身の死の日まで続いた。この手紙とそれに続く、 4通の手紙は1878年頃の筆跡であ る。これらの手紙には日付が記されていないので一纏めにしておく。

[註と評釈]

1.セイラム。Massachusetts州Salem。ボストンの北、約30マイルに位置する港湾 都市。当時オーティス・ロードが住んでいた町。ここにはまたNathanielHaw  thorneの生家があり、ホーソンが一時勤務していた税関もあり、また17世紀末に

(27)

評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

は魔女裁判が行われたことでも有名。

エミリの兄でアマースト大学財務理事のオーステインはアマースト大の天文 学助教授夫人のMabelLoomis Todd夫人と1882年頃から愛人関係にあった が(Cf.  Longsworth, Austin αnd Mabel)、両者の関係は二人の往復書簡及 び残された日記等によってその詳細が知られている。オーステインは、オーテイ ス・ロードよりエミリへの手紙を大切に保存しており、後年それを一つの大き な封筒に入れて、あたかも聖なるもののようにしてMabel Toddに託したと いう。 Toddはその後、その手紙のはいった封筒を娘のMillicentに渡し、ミ リセントは時至って、エミリとロードとの恋愛関係を手紙とともに公表したの であるロ(MillicentTodd Bingham, Emily Dictinson: A Revelation) 

[ L 560,  1878年頃]

ネッドと私が神について話しておりましたところ、ネッドが「エミリー 叔母ちゃま、ロード判事さんは、教会に入っていらっしゃるの

J

と訊きま す。「ネッド、そうじゃないと思うわ。入っておられないと思うわ。」「そ おお、僕、あの人はボストン衆の一人かと,思っていた。あの人たちは教会 員になっていることが立派なのだと思っているのだから。

J

「あの方は見栄 から、イ可かをなさる人ではないわよ、ネッド。

J

「そんならいいけど。うち のお父さんが言うには、この固にあの人のような判事さんが他にもいたら、

法律の仕事は立派なものになるのだがねえって

o J

私は「きっとそうよねD」 と答えました。でも、私は貴方の前で、私自身が裁判をしたことがありま せん。それにしましでも、貴方の優しい助けを借りてでしたし、私は舷く

ことすら致しませんでした。

私は甥の熱弁に対して、思わず抱きしめてやりたくなりました。でも、

区別をつけました。

ご存じでしょうか。貴方は、私の遺志を捨て去り、私は貴方が「うっちゃ られた」その「場所を知らない」ということをD 私はもっと早くに貴方の

(28)

評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

道をお曲げしておくべきだったのでしょうか。「「否」という言葉を惜しめ ば子供を駄目にする

J

のでしょうか。

ああ、こよなく愛する貴方、私たち二人を潰しにかかる偶像崇拝から私 を救ってください。

「そして、海よ、わが終の船路の船の泊り場を記せ。」

[註と評釈]ネッド(Ned):エミリの甥。兄オーステインの長男。

オーティス・ロードはアマースト大の出身でWhig党員であり、アマースト 大の財務理事で同じく Whig党員のエミリの父エドワードとは莫逆の友であっ た。そしてエミリの両親の死後は、頼る者のなくなった晩年のエミリたちと親 密な関係にあった。恐らく半分は父代わりの気持ちで、エミリとヴィニーの姉 妹を鹿護する気持からだったのであろう。しかし、オーテイス自身が妻を失っ た (1877年12月10日で、奇しくもエミリの誕生日に当たる)以降は、両者は一 種奇妙な恋愛関係にあり、お互いに週一度の手紙をやり取りするとともに、ロー ドが巡回裁判でアマースト近辺に立ち寄ったときは、長いことデイキンスン邸 に滞在し、周囲の者たちをやきもきさせるとともに、そのような交際に対して 身内の各所(特にオーテイスの姪AbbieFarleyとエミリの兄嫁スーザン)か ら猛烈な反対に会ったという。

[ L 562,  1878年頃]

ご存じでしょうね。貴方は、私がご返事を控え、言わないでいるときが 一番の至福のときだということを。ご存じでしょうね、「いいえjという 語が、言葉に与えられた最も心乱れる語であることを。

もちろん貴方はご存じです。と言うのは、貴方はすべてのことをご存じ なのですから。[頁の上部が切り取られている] ….貴方の憧れの近くに 横たわり、私が通り過ぎるとき、その憧れに触れることは素晴らしいこと です。と申しますのも、私は頑是なくも眠りこける者で、しばしば貴方の

(29)

評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

腕を通って楽しい夜へと旅して行く者だからです。しかし、どうぞ私のこ とを引っ張って揺り戻してくださいね。私はそこに居させてほしいのです から。私は言います。いっそ私が、私たちのいとしい過去よりも、望みや 憧れを近しいものに感じられたらと。恐らく、私はそれを祝福することに 抗うことはできないのでしょうが、抗わなくてはなりません。なぜなら、

そのことが正しいことだろうからです。

牧場の垣根の踏み越し段は神様用のものです、私の愛しい貴方。貴方の 偉大さのためにあるもので、私のためではありません。私は、貴方をその 踏み越し段を使ってこっちに横切って来られることをさせません。でも、

それはすべて貴方のためのものなのです。そして、正しい時が至れば、垣 根の横棒を外して、貴方を「苔の中に横たえて」差し上げましょう。その 言い方は、貴方が教えて下さいましたよね。

私の指がそうするとき、違った素振りをなさらないよう望みます。私を 焦がれさせたままにして頂くために、私が貴方に長いこと隠していた苦し みなのです。でも、貴方は聖なるパンの皮を望んでおられます。それはパ ンそのものを永久にa駄目にしてしまう運命となるのですが。

あの、稀に咲く花は、

汝を飾り 一一 (価値あり)[紙片が一部切除されている]

私は、あるささやかな本を読んでおりますが、それが私の心を破裂させ ますものですから、その本が貴方の心も破くように望みます。それが正し いことと思われますか。私はその本を度々読んで来ましたが、しかし、貴 方を愛するようになってからはそれまでのように読むことができませんの で、違いが生じました。あらゆることに対して違いが生じました。夜更け て窓の外を通り過ぎる少年の口笛にしましでも、あるいはまた烏の歌い方 の調子にしましても、違いが生じたのです。[頁が一部カットされている]

悪魔」聖書の中にはとても意地悪く書かれています。「旅ゆく男は、

たとえ愚か者でも道を踏み間違えることはない」と。「旅ゆく女」もまた

(30)

評釈デイキンスンの手紙(2) 

道を誤ることはないのでしょうか。貴方の鼓動打つ聖書にはどのように書 かれているのでしょうか。尋ねてみて頂きたく。

私のような [教会にも行かない]者が、神様のことを口に致しますので、

きっと驚かれていることと存じます。私は神様のことをほんの少ししか知 りません。でも愛の天使のキューピッドはエホバの神に、よき指導を得て いなくても、正しく行動する多くの人たちのことを教えました。きっと魔 女の術こそ私たちの知性よりも賢いのでしょう。

[ジョンスンの註] 下から2番目の節で、 EDは、イザヤ書をもじって引用している。

「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる0・・・愚かなる者は、そこに迷い 入ることはない。J(イザヤ書35章8節)

[評釈]これは難解な箇所もあるが、男女の恋愛についてのデイキンスン特有 の考え方が窺えるという意味で注目されるべき手紙である。

ここに窺われる愛についての微妙な考え方に中には、 (1)ロマン的な情念を 追い求めるもの、( 2)愛には障害物が付き物とする考え方、( 3)肉体的愛を罪深 いものとみなすピューリタン的な考え方、(4)そうしたタブーを踏み越えるの はむしろ女の生命力であるかも知れないとする、 HesterPrynne的な生き方を 是とする考え方、(5)しかし、性愛が成就すると、愛の亡骸のみが残るという 逆説的な恐怖心、(6)老いらくの恋を完遂したブラウニング夫人的な生き方を 理想として真似ようとする情動等々が窺えて、興味深い。

また、聖書のイザヤ書からの引用には、女もまた正しい道を取れるのか、そ れとも、むしろ女の方こそが正しい道を取れるのではないだろうかといった問 いかけが提出されている。

ロードとの手紙では、問いかけのスタイルが非常に多い。つまりは、彼を 生き方の指南番として捉え、これまでも一貫してそうであったように、デイキ ンスンは年長で、知的にも秀で、人生経験豊かな指導者的人物に問いかけ、教 わり、それらを岨鴫して自分の中に取り込もうとしている態度がみられるので

(31)

評釈デイキンスンの手紙(2 ) 

ある。

エミリの恋人たちにはいくつかの共通項があるようである。それは(1)エ ミリよりも相当に年輩である、(2)宗教的なほどの厳しい生き方をしている、

(3)時代をある意味で超越している、( 4)多少の文人的な感性を持っている、

(5)そして幸か不幸か家庭持ちであった口しかし、このロードとの聞には、ロー ドの妻の死(1877年)の後は、法律的に結婚のための障害物は取り除かれたの であるから、相手は元裁判官でもあり、世間知もあった政治家であったことか ら、不倫関係では勿論許されないが、その障害がなくなって、エミリの生涯で 唯一、オープンに付き合う地盤はできあがっていたということになる。

因みに、デイキンスンの恋人たちを列挙してみると、まずは彼女が Pre‑ ceptor と呼んだ、BenjaminNewtonがある。ニュートンは学歴はなかったが、

エミリの父エドワードの法律事務所で、エミリの17歳から19歳のときまで働い ていた男性で、エミリよりは10歳年長であり、彼女の詩才を見込んで、エマス ンの詩集を送り(1852年)、エミリが後年、大詩人になることを生きて見届け たいと、言ってくれた詩作上の最初の先生だ、った。

その後は、フィラデルフィアの教会の牧師で、感動的な説教をしたと言われ る、エミリと同様かなり苦悩癖があり、家庭的にも苦労の種を抱えたワズワー ス牧師(1814‑1882)がいる。

また、文芸上のことで教えと指導を請うたThomasWentworth Higginson  がいるD エミリは反抗し決して従順ではなかったが、鍛えられた。そしてヒギ

ンスンはエミリの葬式に参加し、埋葬に当たって、 Emily Bronteの No Coward Soul,,の詩を読んで、ゃったのであった。

またSpring/ield Dαily  Republicαn紙の編集長のSamuelBowlesがいる。

ボウルズは、エミリの父でアマースト大学理事のエドワードが開く、毎年の卒 業式後のガーデン・パーティには常に出席し、その様子をSpringfieldRepub‑ lieαn紙に掲載してくれていた人物でもあった。彼は編集者として、ディキン スンの詩を掲載できる立場にあったが、詩を鑑賞し理解する能力には欠け、デイ

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