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「地元以上の地元」はどこにあるか : 「地方消滅」 時代の「地方」と「地元」

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

「地元以上の地元」はどこにあるか : 「地方消滅」

時代の「地方」と「地元」

安立, 清史

九州大学大学院人間環境学研究院人間科学部門共生社会学講座

https://doi.org/10.15017/4755929

出版情報:人間科学共生社会学. 7, pp.71-81, 2016-09-16. 九州大学大学院人間環境学研究院 バージョン:

権利関係:

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1 「地方消滅」論とは何か

「地方」が「消滅する」という予測が跋扈している。挑発的で問題提起的だが不思議な議論で ある。この場合の「地方」とは何か、明確には定義されていない。いや「定義できないように 定義されている」と言ってもよい。「地方消滅」論、「限界集落」論、「超少子高齢社会」論、「人 口減少」論、これらにはどこか通底するものがある。何が消滅するのか、なぜ消滅するのか、

腰を落ち着けて論じられることのないまま「このままでは危ない、消滅してしまう」という危 機感があおられる構造になっている。その危機感を梃子にして、何かがめざされているのでは ないか。そこで、まず、「地方消滅」論とは何か、その震源である増田寛也編著『地方消滅』

(2014)をより深く批判的に解読してみたい。

増田らは、人口減少の局面に入った日本の現状が、考えられている以上に深刻で、このまま では多くの地方自治体が早晩、消滅の危機に瀕するという「データ」を示している。その「消 滅可能性自治体」とは「2010年から2040年までの30年間で、20歳~39歳の年齢層の女性数が、

50%以上減少する市区町村」であると言う。若い世代が地方から流出して東京などの大都市圏 に移動して、大都市だけが生き残る「極点社会」になりつつある。ところがその東京がまた問

「地元以上の地元」はどこにあるか

「地方消滅」時代の「地方」と「地元」 

安 立 清 史

要  旨

「地方消滅」論を批判的に解読しながら、「地方」という見方が中央から地方を見下ろす視 線であり、グローバル化の時代、行政だけでなく若者も、「地方」を選別・選択しようとする 見方を内在化させていることを明らかにする。この見方に対抗する「地元」という視点や、

さらにそれをも乗り越えて獲得していくべき「地元以上の地元」という志向がどのように形 成されるかを、フィールドワークや理論的考察から明らかにしていく。

キーワード:「地方消滅」論、地方創生、選択と集中、地方ではない地元、「地元以上の地元」、

否定を介した肯定

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題で「出生率1.09」と全国最低、つまり「人口のブラックホール」と化している。全国から若 い人間を引き寄せるが、そこは結婚や出産も子育ても満足にできないという人口のブラックホー ルなのだ。かつては若い人びとは大都市圏に引きつけられていった(プル要因)が、現在では

「地方に仕事がないので、仕方なく出て行く」(プッシュ要因)に反転している。すべての自治 体が生き残ることは不可能でこのままでは共倒れになるから、バラまきではなく「選択と集中」

を行う必要があるという。やる気のある「地方中核都市」に注力して人口流出の「ダム」にす る計画だ。そのためにも東京に「中央司令塔」をおき、「地方司令塔」を統括して「国家戦略」

を「グランドデザイン」していく必要があるという。その危機感を高めるために「全国の市区 町村別の将来推計人口」を示し、896の「消滅可能性自治体」をリストアップして一覧表を掲載 している。

さてその手法や論法には一見して「中央官庁」の「国家目線」が濃厚である。本書が問題提 起し露払いをしたうえで、安倍政権では「まち・ひと・しごと創生法」を成立させ(平成二十 六年十一月二十八日法律第百三十六号)、現在、「地方創生事業」なるものが走り出している。

また、増田らの議論に対抗して様々な異論や反論もあり、その代表として、『地方消滅の罠』

(山下祐介)、『地方創生の正体』(山下祐介・金井利之)、『限界集落の真実』(山下祐介)、『「地 方創生」で地方消滅は阻止できるか』(高寄昇三)などがあげられよう。

2 「地方消滅論」の論点整理

まずはじめに増田寛也編著『地方消滅』(2014)の論点を整理しておこう。

第1に、本書は中央官庁からの目線や政権からの目線で書かれてはいるが、これまでの政府 の政策にたいする自己批判を含んでいることが注目される。何しろ1990年の「1.57ショック」以 来もう25年もたっているのだ。国家のもっとも基盤となる人口が減り続けている。その間、少 子化対策・人口対策は、いろいろやってはみたものの、結果的にほとんど効果はなかった。少 子化のみならず人口減少、それにつづく「地方消滅」となれば、いずれは「日本消滅」となり かねない。どこか間違っていたのではないか。さすがにこれは政府による政策の自己批判を含 まざるをえない。この大胆な「自己批判」が大きな反響を呼んだ一因だろう。

第2に、本書のロジックは、政府の失敗を認めているかにみえて、そうではない。地方政策 が「中途半端な対策だった」ことが失敗の「原因」とされ、より合理的で集中的な対策をする ことが提唱されている。「より政策を効率的に実施して効果を出すために、今以上の行政・政府 が必要だ」という論理にすり替えられているのだ。「失敗ではない。不十分にしかできなかった からだ」というわけである。ゆえに「地方消滅」は国や政府の失敗ではなく、地方自治体の施 策の不十分さの証しとされてしまう。そして今以上に強力に地方政策を進める政府が必要だ、

という論理に転換されてしまう。「選択と集中」をとおして、従来よりも強力な政府を作ろう、

という提案になり替わっていくのだ。

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第3に、「地方消滅」の根拠とされた肝心の「20歳~39歳の年齢層の女性」の意見や意識が、

真剣に調査・検討された気配がないことも重要だ。若い世代の女性たちは、なぜ「地方」から 出て行ったきり戻ってこないのだろうか。なぜ四半世紀にわたって出生率は低く、晩婚化・非 婚化は進む一方なのか。この「謎」は解けたのだろうか。すくなくとも「当事者」である「20 歳~39歳の年齢層の女性」の意見や意識を、もっと直接に聞き取り、真剣に考慮すべきだった のではないだろうか。

第4に、若者の視線の先にあるものが、いったい何なのか、考察されぬまま放置されている。

そもそも若者自身が「自分たちの求めているもの」を知らない、「若者の目線」を持つことがで きない時代になっている可能性もある。「そういうもの」があれば、もっと早くからそれが調べ られたり、発見されたり、対策がなされたりしていたはずだからだ。だから少子化問題の根本 には「若者自身にも若者のニーズや望む施策や政策が分からない」という「二重の謎」が潜ん でいるのだ。

第5に、結果として「少子化」「人口減少」「高齢社会」「地方消滅」というような表面的なイ メージとかっこつきの「事実」だけが一人歩きしつづけることになる。「問題」の根元には謎が 残されながら、世の中では依然として、上から目線、役所目線での従来と同じような「対策」

が行われることになる。このままでは「国家戦略」と言いながら、戦略でも政策でもない「対 策」が続いていくことになるのではないか。

3 「地方消滅、何が問題なんですか」─若者が否定する「地方」

ところで「地方衰退」の現状や「地方消滅」論を大学で講義した時のことである。何人もの 学生が「地方消滅の何が問題なんですか」という挑戦的な反論をもってやってきた。若者の、

この問いかけは熟考に値するものだ。以下、学生との問答から浮かび上がってきた現在の若者 の「地方」へ否定的な思いを、その潜在意識にまでさかのぼって解きほぐしてみたい。

学生は「地方が消滅していくことは、残念だが、仕方のないことだ」と問いかける。「現在は グローバル化の時代であり、地方が生き残れなくなるのは、世界の趨勢であり、やむを得ない」

と考えるからだ。これはまさに増田らの「地方消滅」論と瓜二つの思考である。受験という「競 争」の世界を生きている若者にとって、グローバル化した世界の資本主義の競争は、近しい発 想なのである。自由な競争の中から、実力ある者、努力した者が勝ち残るという「新自由主義」

的な発想は、2000年代以降、学生だけでなく世界中を駆動してきた流れである。この「自由な 競争による社会変化の結果」として「地方消滅」を見てしまう傾向があるのだ。

また「地方を消滅へと導いてきたのは年長世代であり、若者にその責任はない」とする「問 題状況からの自分の引き剥がし」というべき感覚もある。「たしかに地方は少子・高齢化・人口 減少して衰退しているが、それは私たち若者の責任ではない。それなのに地方に住む若者に連 帯責任を押しつけ、中央や都会に出て行くな、定住せよ、この地方に責任をもて、衰退する地

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方の復興の担い手となれ、というような上から目線での倫理的で義務的な押しつけや圧迫はご めんだ」。そういう反発があるのだ。まったく正当な反発というほかない。若者にとっては、「地 方」を否定し、「地方消滅」を「肯定する」ことが、自分たちを守る前提と感じられるのも当然 だ。消滅しそうな「地方」から自分を引き剥がし、その「地方」から脱出していくことが必要 だと感じられている。もちろんここには若者意識の微妙な葛藤があるのだが、この葛藤を考慮 せずに、「若者に地元志向が生まれている」とするのは早とちりだ。ましてや若者を強引に地方 に定住させ、「地方消滅」を防ごうとしても、無理がある。若者が「地方」を否定する心理的な メカニズムを、まず正当に受け止める必要があるのだ。若者の否定のその先にこそ、肯定があ りうるのではないか。

4 「地方消滅」論の批判的解読

さて、このように論点を整理したうえで、その「先」をさらに深めて考える必要がある。

第1に、「地方」という見方や目線、発想を変える必要がある。政府や行政は「公平・公正」

といいながら、どうしても「上から目線」で政策や施策を考える傾向がある。そういうモード を変えろと主張する著者の増田自身がぬぐいがたく「上から目線」で論じている。増田はむし ろ「中央省庁以上の中央の目線」「中央官庁に指令をだす目線」になっているとも言える。でも そういう発想で行われてきた「少子化対策」や「地方政策」じたいが、結果として「地方消滅」

をもたらしたのではないか。一見、自己批判しているように見えながら、増田の論理では「う まくいかなかった」理由を「中途半端だったからだ」と総括してしまった。したがって「これ まで以上」に実施すべきだという結論が導かれてしまう。

だからここは「地方」ではなく「地元」という見方や発想を、大胆にとりいれる必要がある のではないか。「地元」とは何か。中央から見た「地方」ではなく、現場の当事者の中から生ま れてくる見方や目線のことと定義しておこう。「地方」という見方は一般的・抽象的・行政的す ぎて、当事者のほんとうの愛着や危機感を込めにくい。国や県が考えるのではなく、危機に瀕 したその地域の「当事者」が考えていくことが必要なのだ。少子化や人口減少について役所が 代わりに考えても、役所ができる施策しか出てこない。当事者の若者や「20歳~39歳の年齢層 の女性」という当事者が考えていくことが必要だ。この転換は難しいが、大切な課題だ。

第2に「選択と集中」という発想も転換する必要がある。たしかに「選択と集中」ができな かったから、全国に広く薄く地方政策がばらまかれて、その結果、たいした効果もあがらず、

今日の「地方消滅」がもたらされてしまった、という「自己批判的な結果評価」には同意でき る部分もないではない。しかし、だから「これまで以上に強力な中央政府の司令塔」をつくる という発想は合理的でない。うまくいかなかった理由が「中途半端だった」といえるのだろう か。そもそも多様な「地方」にたいして中央政府のもつ評価基準は均一なものになってしまう。

結果として「選択と集中」を行うほどに、多様な「地方」は失われ、「地方」の潜勢力はますま

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す削がれていかざるをえないだろう。「地方」を「選択と集中」の荒波にさらすことは、ますま す「地方」を消滅させる結果となるのではないか。これが『地方創生の正体』(山下祐介・金井 利之)や『「地方創生」で地方消滅は阻止できるか』( 高寄昇三 ) らの論点であり、大筋におい て首肯できるものだ。つまり「選択と集中」で、中央政府の言うことをきく自治体に「地方創 生」事業のような「これまで以上のこれまで」の政策を押しつけても失敗をくり返すだけにな りかねない。このような中央からの指示というアナクロニズムを転換すべき時ではないか。

第3に、若い世代の若者たちは、なぜ「地方」から出て行ったきり戻ってこないのか。なぜ 四半世紀にわたって出生率は低く、晩婚化・非婚化は進む一方なのか。この「謎」を解かなく てはならないのだが、この「謎」は政府や自治体が「解ける」ものであろうか。むしろ若者に も意識化できない潜在意識の部分にまで立ち降りて、若者の意識内在的に解明していくことが 必要なのではないか。その意味で、若者にとっての「地方」とは何かを解読していく必要があ る。そしてむしろ「地元」という概念や見方を用いて、若者意識の解読を進めていく必要があ るだろう。

第4に、国や行政が「若者」を理解していないのと平行して、若者じしんも若者目線を持っ ていないことに無自覚的だ。むしろ若者目線を獲得する機会を持ち得ていないというべきだ。

現代社会における典型的な若者目線は「消費者目線」である。若者の価値観は、消費者とし ての行動の中に典型的に表れるとされている。若者の消費行動が注目されるゆえんである。も ちろん「若者らしい消費者行動」は、「消費」という枠内での行動であり、全体の一部にすぎな い。しかし「若者らしい消費者行動」以外の行動は、じゅうぶんには発見されていない。若者 じしんが、消費以外に若者らしさを発揮する道を発見していない可能性もある。結果として、

若者の目線とは、消費者としての若者の目線のことに限定されてしまいがちだ。つまり若者じ しんが、自分の「地元」を「地方」として消費者目線でとらえてしまいがちなのである。

第5に、「地方消滅」「限界集落」「消滅可能性都市」「自治体の消滅」等に表れている危機感 は、さらに発想を深めていくきっかけにすることが可能ではないか。「限界集落」論が現れたの は意外と近年のことで2007年である。「限界集落」論が「地方消滅」論へと直接つながったわけ ではないが、通底しているものがある。背景にあるのは「高齢社会」論だろう。「高齢社会」論 は「限界集落」論を生み出し、「地方消滅」論へとつながっていく。人が年をとるのは仕方ない ことだからと、人々はあらかじめ半分諦めてしまう。しかし「人」の高齢化と「社会」の消滅 とはレベルが違う。ましてや少子化と直接のリンクはない。直接に関連しないものを短絡的に 関連づけて「政策」へと誘導させすぎてはいないか。そもそも「限界」や「消滅」を眼前にす ると、これまでにない危機意識やそれに発する生きる知恵の発動が見られるものだ。農村社会 学者・徳野貞雄や山下祐介の研究によれば「限界集落」はたんに高齢化によるものではないし、

高齢化によって「消滅」するものでもない。「限界」に直面しているかに見えて家族や親族の ネットワークが起動して「どっこい生きている」状況が可能となっているという。「反・地方消 滅論」本の多くが、単純な人口減少や若年層の減少で「消滅」するという見方を批判している。

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「社会」はそれほどやわではないのだ。

第6に、「地方消滅」の危機に直面した行政の転換や変身が必要だし、変わりうる可能性があ るのではないか。ジブリの高畑勲監督に「柳川堀割物語」(1987)という作品がある。これは30 年近く前のドキュメンタリー映画だが、当時、汚れてやっかいもの扱いされていた堀割を埋め 立ててしまう行政計画が進められていた。そこにひとりの行政マンが現れて、柳川の「地元」

の心のシンボルである堀割の風景を守ろうと立ち上がった。その担当者の熱意と行動力によっ て堀割の浄化と保存へとV字回復した経緯をたどった記録映画である。映画なのでやや美化さ れている部分もあるかもしれないが、全体を貫くのはシンプルなメッセージだ。「人びとの「地 元」意識こそが出発点になった」「問題を他人や行政に任せるだけでは解決しない」「当事者が 問題を直視し、当事者が問題に取り組まなければ根本的な解決はない」「そのためにも行政自身 が当事者となって汗をかいて行動しなければならない」。いわば行政が既存の「行政」を超え る、つまり「行政以上の行政」になったとき、はじめて問題解決に向けて何かが起動したのだ。

その記録映像がこれなのだ。堀割という「地元」のルーツを見つめる一点からの展開が、30年 前の奇跡を起こした。いま、柳川市は「消滅可能性都市896」のひとつにリスアップされてい る。まさに30年前と同じ危機状況におかれているのだが、もう一度、V字回復が不可能なはず はない。

「地方消滅」論は、以上のように、より集権的な中央政府による「地方創生」へと向かうベク トルとはまったく逆に、「地元」を見直し、「地元」を深める方向、つまり本論で主張する「地 元以上の地元」へむけた議論の出発点になりうるものである。

5 若者にとっての「地方」と「地元」

「地方消滅」論の解読を通して、「地方」という見方や政策ではなく「地元」という見方や行 動が必要だと論じてきた。だがこの「地元」という見方にもまだ問題が残されている。次にそ れを考察しよう。

まず第1に「若者であること」と、「若者らしい見方を持つこと」とは、別のことである。若 者は刻々と変わっていく、変わるために学校にいくのだし、変わろうとして日々学んでいるの だ。学校や大学も知識や情報という「学び」によって若者を変えようとする。そのうえインター ネットやSNSなどの情報環境が若者に絶大な影響を及ぼし、変えていく。こういう時代の中 で、若者らしい見方や目線がそう簡単に成りたつはずがない。「若者」目線を持つまえに「情 報」目線になってしまうのだ。情報目線とは、外部からやってきた情報に影響された見方で「地 元」を見てしまうということを意味する。その結果、若者は「若者だが若者でない目線」を獲 得してしまうのである。しかもこの獲得は、半ば自覚的に、半ば無自覚的に行われるので、やっ かいな問題だ。本人は影響されていないと思っていても、すでに影響されている。この情報目 線をどう克服できるか。大きな課題だ。

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第2に、「若者」とはいったい誰か。年齢や属性や、何をどのように工夫しても、「若者」そ れ自体は、すり抜けていってしまう。たとえば何歳から若者なのか、何歳までが若者なのか、

なぜ「地方消滅」では20歳から39歳までなのか。つまり「若者」とは、恣意的で操作的な概念 なのである。しかし、恣意的だから意味がない、とも言えない。いや、恣意的に意味づけられ る存在だからこそ、若者という概念は、「社会」を動かすのだし、社会学からすると面白いので ある。しかし、若者とは誰かを追い求めていくと、蜃気楼のようにつかみそこなってしまう、

そういう存在なのである。

第3に、若者は「社会」から受動的に意味づけられる存在としても生きている。「社会」が若 者を定義している。その都度「社会」の事情や都合に応じて。就学年齢や選挙権がその良い例 である。なぜ選挙権が20歳だったり18歳に引き下げられたりするのだろう、若者の本質が変わっ たからなのか、そうではない。「社会」の側の事情や判断で定義が変わり、意味づけが変わるの である。若者は「社会」から対象化され、「社会」から定義され、「社会」のあり方に関連して 表れる存在でもあるのだ。もちろん、消費社会と関連して表れる「若者」、情報社会と関連して 表れる「若者」は、「若者」だが「若者のすべて」ではない。むしろ「可能性としての若者」の ごく一部分に過ぎないことはもちろんである。

われわれは次のように考える。若者は「地方」という見方の与えるバイアスに敏感である。

それは「中央」から見た「地方」にほかならず、自らを「地方」に生きる小さな存在だと自己 認識させてしまう。必然的に向上心や希望や可能性を求める若者を「地方」から「中央」へと 引き寄せる社会的な磁力を発生させる。だから「地方」という見方や考え方こそが、若者を「地 方」から流出させる原因のひとつである、と 1 )

それにたいして「地元」という見方や考え方を対置して対抗しようとすることもできる。こ れは客観的で抽象的な「地方」にたいして、主観的で具体的な「地元」という見方から新たな 可能性を探ろうとする試みである。これまで国や行政の施策には「地元」という見方や考え方 は、ほとんど取り入れられてこなかった。近いとすれば、ふるさと納税制度のような「ふるさ と」や「故郷」イメージである。しかしこれではノスタルジックでレトロスペクティヴな概念 にとどまり、若者を引きつける概念にはなりにくい。

6 現代社会はどこへ向かうか─「あまちゃん」からの示唆

若者のこの心理的な葛藤と「地元」意識の獲得の必要性を考えさせてくれる好個の素材があ る。それが2013年に放映された「あまちゃん」という連続TVドラマである 2 )。観ていない人 もいるだろうから「あまちゃん」というドラマを簡単に要約しておこう。東日本大震災をはさ んで「それ以前と以後」の東北と東京とがドラマの舞台になっている。「地方消滅」そのものの ような東北の海辺の町と、一見それとは無縁な東京とが、ドラマの中で対照的に位置づけられ る。主人公のアキは東京の郊外に生まれ育ったのだが、そこもまた鬱々とした閉塞感に覆われ

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ている(「地味で暗くて向上心も協調性も個性も華も無い」と表現されるような日常の中への埋 没)。その逼迫感から脱出する機会が、母親の生まれ故郷北三陸への帰省だった。そこは衰退す る地方の中の地方ともいうべき場所、いわば「地方消滅」そのもののような北三陸だった。と ころがアキは驚くべきことに「ここが私の地元だ」と直感するのだ。そしてこの不思議な直観 を具体化していくように、町おこしをする北三陸鉄道の面々や海女クラブの先輩たちと出会っ て助けられて地元に根付いていく。また同級生のユイや祖母の夏や母の春子たちとともに、東 京と東北とを「地元アイドル」として駆け抜けながら、東日本大震災に直面した地元を復興さ せる様々な活動を展開していくことになる。

このドラマは、たんなるドラマ以上のドラマだった。2000年代の日本の若者の空気や鬱屈感 を活写し、そこからの脱出口を模索する物語だった。「地方消滅」時代は、「地方」だけが消滅 するのではない。東京も同じで、どこにも若者の居場所や役割がない。ドラマの端緒は、そう した閉塞感の中でもがきながら「地方」から流出していく若者の姿を思わせる。しかし、「あま ちゃん」のドラマ構造のもっとも注目すべき点は、その後の展開が「地方消滅」時代のふつう の若者の行動の「真逆」を行くところにある。主人公は「東京に生まれ育った」若者だが、東 京という「中心」から、東北という「地方」へ行って、その「地元」の中に飛び込んでいく。

生まれ育った場所とは違うところで、そこに自分の「地元」を見つけ出すことが、若者にとっ ての大事なブレークスルーになる。これは中央から地方を見下すような現代社会にたいする高 度な批評や批判だと言えよう。若者が普通にやりそうなことの、すべて真逆をゆくことによっ て、時代や社会の閉塞を打ち破って行く、そういう問題提起をしているのだ。

このドラマが画期的だったのは、グローバル化した資本主義の時代に、どこに新しい可能性 があるかを示したことだ。ふつうは「地方」ではなく「東京」に、東京よりも「世界」に可能 性があると思うのだ。ところがそうではなく、グローバルな世界よりも、むしろ徹底的にロー カルな「地元」に、その「地元」をさらに深く掘り下げていくことに、新しい可能性が生まれ るというメッセージを持っていたのだ。

これは、驚くべきことだが、見田宗介が「現代社会はどこに向かうか」で行った問題提起そ のものではないか 3 )。見田によれば、現代社会の課題は、いかにして経済を発展させていくか、

ではない。高度経済成長の終わったあとの時代に、いかにしてこの高原状態を持続させられる かである。「成長できない」ではなく「成長しない」という選択をいかにして行うか、「成長し ない」世界の中で、いかにして「豊かさ」を作り上げていくか、それが現代社会の課題だと論 じる。この問題提起は非常に重要だ。しかし、高度経済成長の時代を経験したことのある中高 年世代には了解可能かもしれないが、若者世代には、にわかには受け入れがたい世界観ではな いだろうか。生まれてからこのかた一度も経済成長を経験したことのない世代、ずっと右肩下 がりを経験してきた若者たちにとって、スタートする前からいきなり「おまえたちの活躍する 場所はもうない、これまでの世界を維持するのがせいぜいだ」と宣言されるようなものだから だ。若者からすれば「こんな世界にしたのは誰なのだ」と叫びだすのが当然だ。見田の未来展

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望は、中高年世代を説得する論理ではあっても、そのままでは若者やその先の未来世代のもの にはなりにくい。したがって、見田の論理を、いかにして若者が納得できるものへと内在化し ていくかが、きわめて重要な社会学的な課題なのである。つまり、このドラマは、見田理論に よる未来展望が、いかにして若者に受け入れられるかを、具体化し、テストするという意味で、

画期的で意義深いものだった。

7 「地方」・「地元」・「地元以上の地元」

「あまちゃん」というドラマの解読を通じて、見田が示した「現代社会はどこに向かうか」と いう未来展望が、若者に受け入れられうるのかを考察してきた。その成否については、まだ結 論が出せないし、様々な議論があるだろう。しかし「あまちゃん」は、若者世代にも空前の議 論を沸騰させた話題のドラマだったことは間違いない。「地方」と「地元」と「地元以上の地 元」をめぐる論点が重要である。整理してみよう。

現代の若者と「地元」との関係は次のように整理できる。

第1に、若者にとっての「地方」は、まずそこから自分たちを引き離し、脱出していくべき 場所として現れる。消滅しそうな「地方」から懸命に脱出していこうとするが、グローバル資 本主義の時代にあっては、東京という中央にも、その脱出口はないかもしれないということを 示唆している。ではどこにあるのか。

第2に、「地方」ではなく「地元」という見方を獲得することが、ひとつの可能性を開くこと を示した。しかしその場合の「地元」とは、今ある「地元」を単純に肯定しているのではない。

若者が「地方」という見方を越えて、現在の「地元」の中に入っていったとしても、そのあと、

さらにもう一段、それを乗り越えることが必要なのだ。

第3に、現在の「地元」の乗り越えは、「地元」の中の「地元」性をさらに掘り下げ深めてい くことで、いわば「地元以上の地元」を獲得していくことによって得られるものだということ が示唆されている 4 )。ではその「地元以上の地元」という深め方は、いかにして可能か。

8 「地元以上の地元」はどこにあるか

現在の地方や地元を乗り越える、あらたな肯定は、どこからやってくるか。否定がどのよう にして肯定へと媒介されていったのか。その理解には「地元以上の地元」という概念が有効で ある。「地方」と「地元」と「地元以上の地元」という3つの概念を、弁証法(dialectic)的な ものと考えてみよう。「地方」の否定が「地元」である、しかし「地元」はたんに「地方」の否 定(反対物)であるだけではない。その先をめざす新たなベクトルが生まれた時に「地元以上 の地元」が可能となるはずだ。

理解のための補助線として「家族」を考えてみよう。家族社会学では、生まれ育った「家族」

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を「定位家族」という。それはいわば生まれ育った「地元」の相似型である。その中で生まれ 育った「家族」や「地元」は大切だが、その中に閉じ込められているだけでは息苦しい。与え られた「家族」の中にいるだけでは、自分の「家族」をつくることができない。そこで「定位 家族」から脱出することが課題となる。恋愛や婚姻や結婚によって「家族」の先に自分の〈家 族〉をつくっていく、それを家族社会学では「生殖家族」の形成という。「家族」は成長にとも なって「家族をこえる家族」へと更新されていくのだ 5 )

「家族」と「地元」はもちろん同じではない。しかし共通するものもある。それは成員の世代 交代によって、同じものが受け継がれていくだけではなく、何かが乗り越えられ、それによっ て、はじめて「受け継がれ」ることも、「展開」することも、更新されることも可能になるとい うことだ。弁証法的な否定を介した肯定が行われることによって、はじめて継承も発展も可能 になる。これが「家族以上の家族」や「地元以上の地元」ということの原イメージである。

「地元」という与えられたものを受け継ぐだけでは縮小再生産になる。それでは「地元以下の 地元」にしか到達できないだろう。現在の「地元」という媒介を通したうえで、「地元以上の地 元」を実現しようとすることが、「地元」にたいするもっとも深いリスペクトであり、逆説的な がら若者を「地元」に向かわせ、引きつける力の源泉になりうるのだ。それこそ、二次元平面 的な「地方」という見方から解き放たれて、三次元的な立体としての深みをもった「地元」へ、

そしてその先の第四次の「地元以上の地元」へと動き出していくメカニズムの要諦である。

「あまちゃん」は東京や「中央」をめざさない。「あまちゃん」は「地元」にとどまらない。

「あまちゃん」というドラマがめざしていたのは、「地元以上の地元」である。このドラマの含 意にこそ、私たちは「地方消滅」論を乗り越える「解」の可能性をみる。

1)地方と地域はどう違うであろうか。「地域」という見方も、基本は「地方自治体」の行政範 域をベースとする客観的な概念と言えるであろう。国や県ほど「上から目線」の見方では ないが、それでもはやり市町村という基礎自治体からの「行政からの見方」なのである。

若者からすれば、地方でも地域でもない「地元」という概念のほうに、問題解決のとき口 があることは、明白ではないだろうか。

2)「あまちゃん」は、東日本大震災から2年後の2013年上半期にNHKの朝の連続TVドラマ として放映された。それは民主党政権の末期でもあった。「あまちゃん」の放映が終了した 後、総選挙で民主党から自民党政権へと政権交代がおこり、2013年12月に安倍晋三内閣が 成立した。いわば「あまちゃんからあべちゃんへの移行」が起こったことになる。つまり

「地元」を重視しようとする流れから、少子・高齢化、人口減少と「地方の衰退」、そして

「地方消滅」を前提とした「地方創生」政策への転換が起こったのだ。このような時代の流 れの中にあって、「あまちゃん」というドラマの画期的な意義の考察にあたっては、大澤真

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幸の議論におおいに触発された。詳しくは「不可能なことは可能である」(大澤真幸他  2016)を参照。また、本書冒頭の安立清史による大澤真幸へのインタビュー「捨ててきた ものの中に希望がある」も参照のこと。

3)(見田宗介 2012,2015)を参照。

4)この「地元」をさらに深めて「地元以上の地元」へ到達していくイメージとしてドラマの 中で象徴的に描かれているのが「海女」の姿である。海に潜っていって、その深さの先に、

ウニという「地元」の宝を発見していく海女の姿に、「地元以上の地元」の本質を探り当て ていく若者の未来の可能性が重ね合わされている。

5)「あまちゃん」というドラマは、祖母の夏、母の春子、主人公のアキという「天野家三代」

の家族の物語でもあった。三代かけて、「地元」を深め続けてきたことが、「地元以上の地 元」へのブレークスルーを準備したのだ。

文   献

大澤真幸他,2016,『ぼくたちは未来にどうこたえるか』,左右社 増田寛也編著,2014,『地方消滅』,中央公論社

増田寛也・富山和彦,2015,『地方消滅・創生戦略編』,中央公論社

見田宗介,2012,「現代社会はどこに向かうか」,『定本見田宗介集Ⅰ』,岩波書店

────,2015,「現代社会はどこに向かうか(2015版)」,『現代思想 総特集 見田宗介』,

29-37,vol43-19,青土社

高寄昇三,2015,『「地方創生」で地方消滅は阻止できるか』,公人社 山下祐介,2012,『限界集落の真実』,筑摩書房

────,2014,『地方消滅の罠』,筑摩書房

山下祐介・金井利之,2015,『地方創生の正体』,筑摩書房

参照

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