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Kyushu University Institutional Repository

在中朝鮮族のエスニック・バウンダリーの動態に関 する研究 : 歴史的体験に関する語りの分析から

金, 俊華

九州大学教育学部

https://doi.org/10.15017/2320118

出版情報:九州人類学会報. 24, pp.46-58, 1996-12-01. 九州人類学研究会 バージョン:

権利関係:

(2)

在中朝鮮族のエスニック・バウンダリーの動態に関する研究 ー歴史的体験に関する語りの分析から一

九州大学教育学部 金

俊 華

1. 問題の所在

中国には漢族以外に55の少数民族が存在する。東北地方に居住する約200万の朝鮮族もその少数民 族のひとつである。彼らは中国少数民族の中で唯一、「移民」として中国の少数民族に編入された民 族である。従来、戟国人が朝鮮族社会に関心を抱いても、現地調査を実施するのは不可能であり、旧

「満州」関連の文献資料に依存した歴史研究が主流であった。冷戦構造の崩壊による韓・ 中国交正常 化が現実のものとなり 、相互交流の全面的自由化が実現したのは1993年のことである。以後、戟国 内でも朝鮮族社会を対象とした民族誌が幾つか発表されるようになった(1)。

一方、朝鮮族以外の中国少数民族を対象にした民族誌は、すでに欧米の研究者によって多数発表さ れており、特定の分析視点が定着していると言っても過言ではない。それは、漢族と少数民族の対立 関係を自明なものとした分析視点である。例 え ば 、 幾 つ か の 報 告 (ThomasHeberer;l989,Linda  Benson & Ingvar Svanberg;l988)は、中国の少数民族を第3世界でみられるような国家とエスニッ

グループの対立構造の枠の中で捉えている。その結果ドミナント・グループである淡族によって 支配される少数民族のイメージや、欧米の人権感覚や法体系とはほど遠い中国共産党の厳しい少数民 族政策のイメージが浮き彫りにされることになる。特にこのような研究報告が、チペット 内モンゴ ル・新祖などのようにかつて漠族との政治的対立関係がより先鋭であった地区の少数民族に集中して いるのも偶然ではないだろう。それらの地区は彼らが中国少数民族に求めるイメージに符合している からであろう。

筆者は中国社会において少数民族と漢族の間にみられる権力関係を全否定するつもりはない。しか し、中国少数民族の実態はこのような視点だけでは説明できないというのが、 3回にわたる現地調査 から得られた筆者の実感である。少数民族とはいうものの、多かれ少なかれ、 ドミナン ト側の漢族と その支配下の少数民族という図式から逸脱し、漢族と対等に渡り合いながら、自分たちの生活世界を 築いているのである。箪者は本稿で上述したような少数民族研究を詳細に紹介しながら、それらを批 判 検討する余裕を持ち得ない。ここでは、節者が問題としている分析視点 (「支 配 :被支 配」の対 立構 造)だけでは捉えきれない中国少数民族の事例として朝鮮族をとりあげる。

朝鮮族は自分は中国人民の一員だという「国民意識」と自分は漢族とは異なる朝鮮族だという「民 族意識」を何の矛盾なく共存させ、巧みにそのエスニック バウンダリーを使い分けている。彼らの エスニック バウンダリーは固定的ではなく、多様な関係性の中で流動する。換言すれば、他者(漢 族)との相互作用によって、彼らのエスニック・バウンダリーは常に変動する可能性を抱えている。

本稿では、この変動のプロセスを 「エスニック バウンダリーの動態」と呼ぶ。筆者ははこの 動態」

を朝鮮族の歴史的体験に関する語り を題材にして実証的に検討するつもりである。彼らの歴史的体験 が「エスニック バウンダリーの動態」に如何に影響を与えているかについて明らかにし、従来の中

‑46‑

(3)

国少数民族のエスニシティ研究の分析枠組みの再考を迫ることを試みたい。そこに、本稿のねらいが ある。

2. 方 法

朝鮮族は中国の東北地方(吉林省、遼寧省、黒龍江省)に集中して居住する。特に、吉林省延辺朝 鮮族自治州は朝鮮族全人口の63%が集中している最大の朝鮮族居住地域である。この自治州は、東 にロシア、南に朝鮮民主主義人民共和国と国境を接しているため、軍事的にも重要な位樅を占める。 筆者は、この地域で専ら個人面接及び参与観察を中心として次のような日程で現地調査を行った。

第1回調査 :1994年8月1日 8月17日 (17日間)

第2回調査: 1995年3月16日 4月10日 (25日間)

第3回調査 :1995年9月10El  10月8日 (28日間)

本研究はこのような現地調査で得られた朝鮮族の歴史的体験に関する語りを分析するために 「エス ニック バウンダリーの動態」という概念を消入する。ここでまず、エスニック・パウンダリーとい う概念について述べよう。この概念はバース (Barth1969)によって提起された。彼は従来のエスニ シティ研究において重視されてきた民族集団の客観的弁別特性 (生物学的 ・文化的特徴など)より、 主観的帰属意識(エスニック・ アイデンテイティ)によって集団の範疇化が行われる事実に滸目した。

その際、集団の範疇を規定するバウンダリー(境界線)が、自集団の成員と非成員(他集団の成員) の相互作用によって規定されることを指摘した。このような「エスニック ・バウンダリー論」は従来 の民族論を覆すものであり、 当時のアメリカ社会で支配的見解であった 「同化論」に対する新たなパ

ラダイムの提示でもあった。

小田はバースの 「エスニック・バウンダリー論」を、民族とは何かという原理的説明を目的とする 民族論の文脈において、対立する「実体派」と 「虚構派」のなかで捉える。そして、彼はバースが

「虚構派」を代表すると指摘している小田1995:19]。「虚構派」とは民族を客観的弁別属性 (実体的な 要素)によって規定された 「実体」として捉える「実体派」の対極に立つもので、民族を主観的帰属 意識 (虚構的な要素)によって規定される「虚構」とみなす(2)。籠者がバースにこだわるのは、エ スニック ・バウンダリ ーが規定される際の他者 (他集団)との相互作用における関係性を彼が重視し ているからである。この関係性しだいでエスニック・バウンダリーは常に流動的になる。本研究の視 点は、この関係性の分析に力点をおく点で 「虚構派」の立場に近いと言えよう。それは、朝鮮族と漢 族、あるいは、他の少数民族との 「民族間関係」に注目することに他ならない。故に、本稿では、朝 鮮族と他民族との間で行われる相互作用が具体的に表出されるものとして、彼らの「歴史的体験」を 取りあげる。朝鮮族は朝鮮半島を離れ、今日に至るまで、中国の激変する政治的状況を体験した。彼 らがこのような政治的状況をどのように解釈し、どのように対応したかについての分析は、彼らの他 民族との相互作用、あるいは他民族との関係性の変化を明らかにするものである。そこに、まさに

「エスニック・バウンダリーの動態」が見いだされるのである。

「エスニック・バウンダリー論」の検討において、もう一つ重要な議論は特定、エスニック グル ープにおける文化的特徴の捉え方である。小田はバースを「虚構派」に位置づけながら、バース自身 が客観的弁別属性 (文化的特徴と言い換えてもいい)の存在自体を否定しているわけではないと指摘

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している[小田 1995:19‑20)。結果的に、「虚構派」と「実体派」の対立は、研究対象であるエスニッ ク・グループの客観的弁別属性、つまり文化的特徴をどのように捉えるのか、という問題に議論が集 中することになる。この文脈に置いたとき、エスニック・グループの本質を政治的側面から捉えよう

とするコーエンの文化の捉え方は注目に値する。彼は、エスニック・グループを国民国家の枠の中で 限定された社会的資源を争う利益集団とみなし、伝統文化がそれらの競争に集団の象徴として用いら れている事実を指摘しているのである [Cohen.A1974)。また、バースの「エスニック ・バウンダリ ー論」の中で、バース自身が客観的弁別属性(特に文化的特徴)の意義をどのように捉えているかに ついて、江淵は次のように述べている。「実際問題として、文化的特質はアイデンテイティの選択や 連営の戦術として不可欠のものである。だが、その文化的特質は可変的なものであること、したがっ てそれがどのような条件のもとでどのように変わるか 創られるのか)を把握することが、現代のエ スニシティ研究では欠かせないことを彼は主張しようとしたのである」[江淵 1994:132)

江淵の指摘通り、朝鮮族の文化的特徴が彼らのアイデンテイティの選択や運営の戦術として持ち出 される現実を看過するわけにはいかない。逆説めくが、実はその選択や戦術そのものが他者との相互 作用の関係性のなかで恣意的に行われるのである。例えば、朝鮮族は 我々は中国の人民である」と いう意識と「我々は漢族とは異なる民族集団である」という意識を共存させている。彼らはこの2つ の意識(アイデンテイティ)を利用し、絶えず他民族と相互作用を行う。その相互作用の結果、特定 のエスニック パウンダリーが生成されるが、それは常に可変的なものである。時には朝鮮族と漠族 を厳格に区分するバウンダリーが生成されるし、時にはそのバウンダリーが曖昧になったり、消滅し たりするのである。「エスニック・バウンダリーの動態」とはこのような現象を説明する概念である。

このようにバウンダリーを変動させる他者との関係性によって、アイデンテイティの選択や戦術が巧 みに変化するのである。したがって彼らの 文化的特徴」も、この関係性の文脈のなかで捉えるべき である。

3. 語り:歴史的体験

ここでは朝鮮族2世、申 賢淑(仮名、女、 65歳)の歴史的体験を彼女の語りを中心に構成し、そ の分析を試みる(3)。ここで問題になるのは、彼女が日本の植民地支配、中華人民共和国の建国、文 化大革命などの出来事をどのように解釈し、どのように対応したかについての彼女の語りを通して表 れるエスニシティの戦略である。それは、中国の激動の政治状況における朝鮮族の生きざまであるか

も知れない。

3‑1. 植民地時代

1910年、戟・日併合条約によって朝鮮半島は日本の植民地支配下に置かれる。朝鮮族の多くはこの 時期に朝鮮半島を離れ、旧「満州」へ移住した。当時、旧「満州」地域は日本の存亡に関わる 「生 命 線」とまで言われ、日本はこの地域における開拓と利権の獲得を国策的に進めていた(4)。1931年9

月18日、「関東軍」は自作自演の「柳條溝」事件を口実に軍事行動を開始し、 「奉天(現、藩陽)」を 占領するいわゆる、 「9.1 8事変」を起こす。翌年、日本は「浦俄」を皇帝とする「満州国」を樹 立する。以後、中国の東北地方における日本の植民地支配は本格的に行われるようになる(5)。

‑48‑

(5)

く父の死>

申 賢淑(以下、申)は1930年、延吉市近郊農村のY村で生まれた。朝鮮族2世である。父は小 学校の教貝。彼女は幼い時の生活をあまりはっきりと覚えてない。申が3歳の時、 Y村で日本の植民 地政策を批判するピラが流布される事件が起こる。「関東軍」の捜査によって、ピラの制作・流布の 犯人として 6人が逮捕された。申の父もその6人の中に含まれていた。

「父はインテリで、ムンジャン (文章)がとっても上手だったそうだ。独立運動をやっただけで、

別に共産主義者ではなかったらしい。私はオモニ (母) とオっパ (兄)から聞いたけどね…」

「関東軍」はビラの箪跡から申の父を犯人と して割り出したそうである。その後、申の父は 「関東 箪」によって 5人とともに銃殺され、家は放火されるはめになる。残された家族はY村を離れること を決意し、 T市の叔父(父の弟)の家に同居する。

これが申が母や親族から開かされた父の死に関する全てである。申は兄からも父のピラ事件に対し てこれ以上のことは聞いてない。申はそもそもなぜ自分の父が祖父と一緒に旧「満州」に来たかにつ いても別に聞かされてないという。しかし、朝鮮半島の父の本籍地の住所ははっきりと詑えている。 現在、北京にいる兄が申氏家のゾッポ(族譜)らしきものを親族の間で相談し、持ってきたものを目 にしたのも最近のことであるという。

申にはじめて会った時、私は日本に留学している翰国人で、朝鮮族に関心を持っていて延辺に調査 のために来たと自己紹介した。申は私の存在が不思議に思えて仕方がなかったという。普通、韓国人 が延辺朝鮮族自 治州に来る場合、翰国のソウル経由なのになぜ日本から来たか、もしかすると戟国に は家族がいないのではないか、「特務 (スパイ」) かも知れないと苔戒したようである。しかし、 長い 時間同じ家で生活することで彼女の態度も次第に変化した。そして申に移住の経緯を尋ねた際、父の

ピラ事件から話を始めたということに、私はまず注目したい。

申は戟国人である私に何よりも先に、私のルーツはお前と同じ朝鮮半島である、と言いたかったの である。もちろん、彼女の語りの中では、私は中国の一公民である、というメッセージを意図的に伝 えようとする場面もある。しかし、彼女は父のピラ事件を語ることによって、取りあえず、私と彼女 の「韓民族」としての接点を求めたのであろう。

また父のピラ事件についての語りは、不透明な移住の経緯を朝鮮半島の日本の植民地支配に反対す る知識人の移住である、とも推測できる。同時に、抗日運動は中国共産党の反帝国主義眺争のシンボ ルでもあり一後述するが申は熱心な共産党の幹部である一、中国共産党員としても決して恥じるべき 過去ではないわけである(6)。

彼女にとってみれば、父のピラ事件は生まれて始めて接する戟国人である私に、最初にあるいは必 ず、語っておくべき最もふさわしい話題であったに違いない。

く植民地体験>

「日本人は自分たちを一等公民、朝鮮人を二等公民、漢族と満族を三等公民と呼んだね。歌まであ ったよ。「一等公民、イプサル(米)食い、 二等公民、ゾプサル(粟)食う。三等公民、何を食うコ

‑49‑

(6)

ーリャン(高梁)。」日本人は五族協和といいながら民族間を仲違いさせていた。 (植民地支配からの)

解放後、漢族たちに襲われた朝鮮人村もあるよ。漢族と言っても国民党の土匪と内通したやつらだけ ど・・」

中華人民共和国が建国されるまで、「朝鮮族」という名称はまだ生成されておらず、朝鮮半島から の移住者たちは「朝鮮人」と呼ばれていた。申 も語りの中で日本の植民地支配期までの自分を表す際 には、明確に「朝鮮人」という言い方に終始する。しかし、建国以後の話題になると意識的に「朝鮮 族」という表現を用いる。この時期、彼らは朝鮮人だけで村落を形成しており、日常生活の上では支 配/被支配関係にあった日本人との関係が、彼女の「朝鮮人」という意識を意味づけする。

また、申の語りで注目すべきなのは漢族との関係である。東北地方が日本の植民地支配から解放さ れると、植民地政策の清算という名目で一部の朝鮮人は漢族によって「小日本人」と呼ばれ、非難さ れた(7)。申は日本人によって仕組まれた意図的な民族差別が漢族との軋礫を生み出した原因であり、

「朝鮮人」の村を襲った漢族は国民党であって、共産党ではないと解釈する。

申のこの語りは、現在の中国という国家の一員である朝鮮族と しての立場、あるいは、中国共産党 の老幹部としての立場を代弁しており、もしかすると資本主義社会の正体不明の来客のために用意し た解釈かも知れない。

ここで私が問いたいのは、歴史の真相ではない。申の語りにみられるエスニシティの戦略である。

これに関連する考察はこの章の4節で詳しく後述するが、例えば、申の語りの中では日本人/朝鮮人、

漢族/朝鮮族、資本主義世界に属ずる者/社 会主義世界に属する者、韓国人/中国の一員としての朝 鮮族、共産党貝/非共産党員などの二項対立的な自他区分を媒介とした巧みなエスニッ ク・バウンダ

リーの使い分けがみられる。

3‑2. 中華人民共和国の達国

1945年8月15日、日本は連合軍に無粂件降伏した。日本の愧儡政府であった 「満州国」が消滅し、 東北地方は植民地支配から解放される。しかし1946年から、 蒋介石の率いる国民党と毛沢東の共産 党との熾烈な戦いが、東北地方でも繰り広げられる。東北地方におけるいわゆる「解放戦争」の幕開 けである。共産党はこの戦いで勝利し、 1949年10月1日、北京の天安門で中華人民共和国の建国を 宜布する。朝鮮族は人民解放軍の一員としてこの戦争に積極的に参加し、中華人民共和国の建国に大 きく貢献する(8)。また、 1950年6月25日、「朝鮮戦争」が勃発し、朝鮮族は 「抗米援助」という名 目で中国人民支援軍として参戦している。そして、 1952年9月3日、 吉林省に延辺朝鮮民族自治区が 成立し、朝鮮族は新たな転機を迎えた(9)

く人民解放箪の入隊>

1946年から人民解放軍X軍区は解放戦争に必要な幹部を育成するためP軍政大学を開く 。申は 1947年、このP軍政大学への募集に応じ、人民解放箪に入隊することになる。

「人民解放軍が運営するP軍政大学に入学した。その頃、 R医科大学を解放軍が接収し、 P軍政大 学医学院に改名された。 私はそこで教育を受けた。当時、 R医科大学にはまだ日本人がたくさん残っ

‑50‑

(7)

ていた。 1948年冬、教育が修了すると人民解放軍第

x

野戦軍の野戦病院に配骰された。建国まで負楊 兵の治療で本当に一所懸命だった。中国では幹部が定年になると「離休」と「退休jに区分される。

建国前から解放戦争に参加した幹部が定年になると特別待遇を受ける(10)。こういう人々を「離休j と言ってる。私も解放戦争に参加した幹部だから 「離休

J

の待遇だ。中国にはこういう言葉があるん だ。「五星紅旗(中国の国旗)の紅い色には朝鮮族の血も染みている」と言ってね。」

申が「解放戦争」について語る時は、植民地時代の体験を語る時より出来事の年月日、固有名詞な どをはっきりと覚えており、幾分饒舌になる。ここまでが申が人民解放軍の入隊によって「解放戦争」

に参戦し、中華人民共和国の建国とともに共産党幹部になるという一連の過程である。この過程にお いて、 申は自身が中国という国家を構成する人民であるということに積極的な意味を与えている。中 国という国家あるいは中国共産党と分離した朝鮮族としての自分より、国家あるいは党に所属してい る自分を強く主張しているのである。ここで、さらに申の語り を引用してみよう。

「建国後間もなく、朝鮮戦争が始まる前 (1950年4月)に平壌 (朝鮮民主主義人民共和国の首都)

に行った。共産党の命令だったからね。毛主席の息子も参戦して戦死したからね。結局、我々は中国 人民支援軍より早く行ったことになる。人民支援軍は戦争が始まってから参戦するが、我々は人民解 放軍の箪服を着たまま国境まで行って、そこで向こう (朝鮮義勇軍)の軍服に着替えさせられたから ね。これが生まれて初めて行った祖国の経験だね。戦争中、ずっと平壌の野戦病院に配置されてい た。」

最初(一回目の聞き取りの際)、申は朝鮮戦争を韓国の侵略によ って引き起こされた戦争だと主張 した。また、申自身が朝鮮戦争勃発前に平壊に派遣されたことを明らかに しなかった。翰国では反共 教育が徹底して行われているのを申は熟知していた。特に、人民支援軍の参戦以前に中国の兵力が朝 鮮半島に派遣されたのは長い間、間に葬られていた事実であった。故に、私に朝鮮戦争の参戦につい ては、当初語りたくなかったのであろう。

申は朝鮮戦争という出来事によって、初めて朝鮮半島に足を踏みいれることになる。当時の申には 祖国の地に着いたという郷愁に浸っている余裕などない。それは戦争という極限状態に身をおいてい たからであろう。また、彼女は中国人民解放軍の一員として派遣された、という立場を主張している。 共産党の命令だ、毛主席の息子も参戦した、という語りはまさに彼女の立場を代弁している。朝鮮族 だけが参戦したのではない、

i

葵族も参戦している。結局、中国の人民解放軍そのものが国家の政策で 参戦したのである、と言いたかったのでないだろうか。私は彼女の参戦を反共教育を受けた一人の戦 国人として賀めているのではもちろんない。しかし、朝鮮戦争の話題になると申自身が私に気を使い、

上述したような自分の立場を主張するのである。つまり申の語りは、申と私の特定の関係性の中で作 り出されるものである。もし、朝鮮戦争の参戦をめぐる語りの相手が私ではなく、漢族あるいは朝鮮 族であったならば、語りの中で申は別の立場を主張したかも知れない。

く結婚>

1955年5月、朝鮮半島から休暇で中国に戻った申は親戚の勧めでK市出身の朝鮮族2世、朴相吉

‑51‑

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(仮名)と見合いし、その後すぐ結婚することになる。朴は人民解放軍所属の軍医で有望な外科医。

結婚後、この夫は、申が朝鮮半島に戻らず、そのまま人民解放軍に復帰することを人民解放箪の上官 に嘆願し、認められる。

「当時、東北地方では外科医が不足していた。特に、朝鮮族の医師はあまりいなかった。夫はT病 院の院長として赴任することになった。男の子も 2人産まれ、私も夫も、医者として周りから蕗敬さ れ、家庭も仕事も充実していて本当に幸せだった。

植民地時代から解放戦争、建国、朝鮮戦争に続く不安定な生活から、朴との結婚・出産によって、

申も幾分安定した生活を取り戻す。社会的にも延辺朝鮮族自治州が誕生し、少数民族幹部として選ば れ、医療事業に励む毎日が続く。

申が幸せだったと振り返るこの時期は、延辺朝鮮族自治州の少数民族政策も本格的に軌道に乗り始 め、朝鮮族社会全体が新たな希望に満ちていた頃である。少なくとも、朝鮮族であるということが中 国社会において何の負い目も感じさせずに自然に表出された時期であった。逆説的に言えば、朝鮮族 も自分が朝鮮族か否か意識せずに生活できた時期であった。この時期に関する申の語りも、常に自分 の立場(朝鮮族として、人民解放軍として、共産党員として、中国という国家の一成員である)を明 らかにする他の時期とはちがって、単にひとりの女性として、あるいは、母としての幸せを回想して いるようである。

3‑3. 文化大革命

文化大革命 (1966年 1976年)は「大躍進」などの政策の失敗による毛沢東路線の反対者たち、

いわゆる、「実権派(劉少奇など)」の浮上を警戒した江青をはじめとする 「四人柑」が仕掛けた権力 闘争であった。「四人討」は紅衛兵を動貝し、革命の勢いを中国全土に拡大していく。全国各地で連 日のように集会、粛消、破壊が繰り返され、党、政府、箪、大学、工場など社会のあらゆる分野に大 きな被害を与える。少数民族地区も例外ではなかった。特に、文化大革命の被害者の多くは、資本主 義路線を歩む 修正主義者」あるいは「地方民族主義者」という烙印が押された。また、この時期、

都市部の多くの若者(特に、いわゆる「知識青年」)が、農村の現実に学び、新農村を建設するとい うスローガンのもとに、農村地域に送られ染団生活を余俄なくされた。いわゆる、「山上郷下」であ る。

<夫の死>

申は文化大革命によって夫、朴相吉を喪う。 朴が院長を勤めていたT病院でも文化 大革命を支持す る集会が連日のように行われ、朴はがんに冒された身体を治療できず、資本主義路線を歩む反革命分 子という濡れ衣を着せられたまま病死する。夫と死別した申にも反革命分子の要としての断罪が待っ ていた。それは山村の診療所への配置転換であった。長男も「山上郷下」で家族を離れる。申はもう 一人の幼い次男までも親戚に預け、山村で暮らすことになり、結局、そこで文化大革命の終焉を迎え る。

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「がんで苦しむ夫に、鎮痛剤も与えない。病院の一室に設けられた部屋に収容されて、面会もろく にできなかった。昼間、批判大会で夫を罵りながら殴った人が夜になると密かに尋ねてきて、私も仕 方なくやっているんだ、もう少し辛抱したら文化大革命は終わる、心配するな、と励ます。誰を信用 するべきか、わからない。本当に誰が味方で、誰が裏切り者なのか、わからない。」

申は文化大革命の初期、人間不信に陥る。誰かが自分たちを中俄するかわからない、という不安と 誰かが自分たちの苦しみを理解し味方になってくれるかも知れない、という期待が錯綜する毎日であ

ったようである。

「夫の死体を埋葬しようとしても、反革命分子は死体を引き取って墓を作ることも許されないから 本当に苦労した。何とか病院の霊安室の警備に頼んで、死体を引き取ることができた。文化大革命と は関係ない死人だと嘘を付き、親戚がリヤカーを準備し、夜、山に行って埋葬した。酷い雨の夜で足 元は泥活にはまり、大変だった。やっぱり頼れるのは親戚だけだ、やっばり、血肉は違うと思った。

朝鮮族の中にも酷い連中はいた。根も葉もない垂れ込みをしたりね。」

この語りには、親戚の助けで無事に夫の硲を作ることができたことによる、申の親戚に対する信頼 と朝鮮族に対する失望感が表れている。特に、申の朝鮮族に対する失望感は、逆に申自身が朝鮮族に 対して漠然としたある種の期待感を持っていたことを意味する。それは、夫の境遇に哀れみを感じ、

理不尽な批判と罵りから夫をかばうことはできないとしても、同じ民族なのだから、まさか事態をよ り悪化させる側に廻ることはないだろう、という期待であったろう。しかし、その期待とは裏腹に、

文化大革命の異常なほどの狂気に誰もがわが身の安否を気遣うのに必死で、時には護身のために人を 中倍したり、人に罪を転嫁せざるを得なかったのが現実であった。

このように、申は夫が死に至る過程の中で体験した文化大革命の苦しみを、人間不信に陥った出来 事を通して表現している。しかし、文化大革命が「四人財」の逮捕でその幕を閉じ、再び本来の安定 を取り戻す一連の経過を語る時、申は文化大革命を別の文脈で構成し、表現するのである。それでは 次に、その語りに注目してみよう。

「文化大革命が終わると夫の名誉回復大会が盛大に開かれた。親戚が招待され、長男が親族を代表 して演説すると会衆のみんなが泣いて……

私も再びH病院に戻り、息子たちも帰ってきた。以前のように一緒に住めるということが婚しかっ た・・・・・・

今更、文化大革命のことを蒸し返しても仕方がない。私らだけじゃないもの。朱同志(当時の延辺 朝鮮族自治州長で、有名な朝鮮族の指導者)もやられたし、多くの民族指導者、知識人がやられた。

狂った世の中だったからね。

‑53‑

(10)

少数民族地区における文化大革命の実状を、漢族と少数民族の対立の構造だけで説明する報告は数 多い(11)。確かに、文化大革命を引き起こした共産党の中枢は漢族であった。地方の民族主義は批判 され、少数民族の自治が侵害され、多くの少数民族が被害を被ったのも事実である。しかし、多かれ 少なかれ、被害は中国全土に及んでおり、漢族も犠牲者である。また、被害を与えた主体は「四人粗」

とその追従勢力に煽られた不特定多数の大衆である。ここに、文化大革命の被害者の行き場のないや るせなさがある。文化大革命被害者の名券回復大会で強調されたのは「四人柑」及びその追従勢力の 蛮行に対する断罪であって、その不特定多数の大衆に対する断罪ではなかったのである。

ここで、注目するべき事は、少数民族側の文化大革命に対する評価あるいは解釈の文脈である。申 の語りはその文脈の一部を露にしている。申の被った被害は、語りの中に堡場する朱同志の死あるい は多くの民族指祁者の死に遠元されることによって朝鮮族全体が味わった苦しみの中に普遍化されう る。それは、文化大革命の理不尽な被害を訴える対象は当時の政府当局であり、 一般的に漢族という 形で収敏されることの表と裏である。そこでは、当然、漢族と少数民族の対立という文脈で再構成さ れた諸事実が語られる。そして、その際に少数民族のエスニシティもまた戦略的に持ち出されること になる。

私には文化大革命の哀相を語る権利も意志もない。私がここで論じたいのは、申の語りのように文 化大革命を通して味わった個人的出来事が、朝鮮族というエスニック・グループ全体が共有する体験 の一部として表出される仕組みである。そこに現代中国におけるエスニシティの一つのあり方が露呈 されているのではないだろうか。

4. 結論:エスニック・バウンダリーの動態

ここでは申の語りを通して表出された朝鮮族の歴史的体験をめぐる諸問題を簡単に整理してみる。

そこには、現代中国における朝鮮族のエスニシティのあり方をみいだせる視点が内在されている。申 の語りは次の二点に特徴づけられよう。

第一、彼女は様々な出来事を語る中で二項対立の自他区分を媒介とし、エスニック・バウンダリー を使い分ける。しかもその使い分けは、私と彼女の特定の関係性の中で生じていることに注目する必 要がる。換言すれば、ある特定の関係性次第でエスニック バウンダリーは流動的である。従って彼 女は、日本の植民地体験を語る時、私と彼女の共通の接点である「戟民族」としての関係を強調でき る「父のビラ事件」を持ち出す。また、朝鮮戦争の語りはその逆で、中国人民の一貝としての立場を 鮮明にすることで韓国人である私と一定の距離を確保できるのである。

ここで明らかにしておくが、このような彼女の歴史体験は、漢族と彼女の相互作用、つまり、両者 間の関係性のなかで生じた出来事であって、それらの出来事が語りの場における聞き手と語り手との 関係のなかで再構成されたものである。

第二に、彼女の語り全般を通して、中国人民の一員であるという意識と朝鮮族であるという意識が 彼女自身に何の矛盾もなく共存していることが読み取れる。それは、以下のような朝鮮族の歴史観が 背果にあると考えられる。

朝鮮族は「移民 (自発的かどうかは別として)」として中国の東北地方に定着し、中華人民共和国 の建国を迎えた。これは、中国の他の少数民族とは明らかに異なる点である。しかも、その建国の過

‑54‑

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程で 「解放戦争」に参加し、共産党の勝利に大きく貢献した。「五星紅旗の紅色には朝鮮族の血も染 まっている」という表現は、まさに中華人民共和国の建国に纏わる歴史を漢族と共有していることを 意味する。これは近代国民国家の成立過程で多くのエスニック ・マイノリティが強力な政治権力を背 漿にする特定民族の支配に無理矢理組み込まれた、策三世界のケースとは明らかに異なる。従って、

単なる 「移民」としての朝鮮人が、中華人民共和国という国家の出現によって、「朝鮮族」という少 数民族に再編成された過程には漢族との先鋭な対立はみられない。それは、両民族が「解放戦争」の 参戦という歴史を共有し、建国理念である共産主義イデオロギーを共有していたからである。また、

この建国理念及び「解放戦争」が、日本の植民地支配に反対する抗日運動の延長線に位置づけられて いたことも両民族の共有する歴史である。以上のような朝鮮族の歴史観は、彼らの 「国民意識」と

「民族意識」の共存を自明なものとして内面化させるのに有効的である。 従って、朝鮮族は特定の 関係性において、「中国人民の一員だ」という立場と「漢族とは違う朝鮮族だ」という立場を何のた めらいもなく、巧みに使い分けることができるのである。実は、申が複数のアイデンティティ (共産 党貝 朝鮮族・中国人民 医者である自分を意識させるものとして) を共存させていることには以 のような歴史観があったのである。換言すれば、漢族との相互作用の結果、時には朝鮮族と漢族を厳 格に区分するバウンダリーが生成されたり、時にはそのバウンダリーが曖昧になったり、消滅したり するのである。

筆者は本稿を通して、漢族との相互作用の中に存在する朝鮮族のエスニシティに接近する方法とし て「エスニック バウンダリ ーの動態」という概念を用いた。そして、朝鮮族の「エスニック バウ

ンダリーの動態」に影押を与える要素として、彼らの 「歴史的体験」を取りあげたのである。

朝鮮族は中国の55の少数民族の中で、唯一 「移民」であり、中国の国外に祖先の根拠地を持つ少数 民族である。しかしこれは、彼らに「帰るべき祖国がある」という漠然とした祖国志向が存在するこ とを意味するものではない。朝鮮族は 「移民」であったため、 日本の植民地支配下における移住の段 階から中国国民としての今日に至るまで、他の少数民族より 自分たちのエスニック・バウンダリーを 巧みに運営せざるを得なかったのである。それは、歴史の経過の中で培われた 「移民」としての生存 戦略の一つでもあろう。

筆者が朝鮮族2世(申賢淑)の語りを中心に「歴史的体験」を取りあげたのも、上述した「移民」

としての朝鮮族の生存戦略が、彼女の個人的生活史に窟えるからであった。また、彼女の語りは、彼 女自身が内面化している複数のアイデンテイティ (朝鮮族、漢族、共産党員、医者としてのアイデン テイティ )の存在を露呈しているのにとどまらず、それら(複数のアイデンテイティ)が漢族、ある いは他の少数民族との相互作用(特定の関係性)によって選択され、特定のエスニック バウンダリ ーが生成される事実を明らかにしているのである。

朝鮮族は今日の中国社会が直面している近代化という課題に取り組み、 文化の再構築」を行ってい る。それは、決して 「エスニック バウンダリーの動態」とは無関連ではない。近代化に適応しよう とする彼らの諸行為は、かつて 「移民」として中国社会に編入され、新たな国家イデオロギーに適応

しようとして、漢族(国家)との相互作用の中でエスニック・バウンダリーの運営を行った、という 歴史的事実の延長線の上で捉えられる。従って、彼らの「文化の再構築」は「エスニック・バウンダ

リーの動態」に有効な戦略、あるいは、便利な道具として用いられるのである。しかし、「文化の再

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構築」によって築かれた「新たな文化」そのものがエスニック・バウンダリーを規定するのではない。

それはあくまでも 「エスニック・バウンダリ ーの動態」の過程で得られた産物であり、結果であると いうことを押さえておかなければならない。

本研究の意図でもある「漢族(支配) :少数民族(被支配)」の枠組みからの逸脱は、次のような分 析を回避するためであった。「移民」である少数民族の文化的特徴は世代を経ることによって、 1世 が持っていた形とは異なる傾向を示すので、研究者はそれらの現象をホスト文化との比較、あるいは 祖国文化と比較し、文化変容という概念を用いてホスト文化への同化の程度を説明する。そこで、は じめて他者であるドミナント側との権力関係の中で、その原因を求める。この分析には当該エスニッ ク・グループの成員の主体性などは存在する余地がない。

その結果、まるで伝統文化の重みを支えきれないことに引け目を感じながらも、結局はホスト文化 ヘ歩み寄らざるを得ないマイノリティという姿がイメージされることになるのではないだろうか。あ るいは、伝統文化の前近代性を否定しながら、自文化とホス ト文化の境界をさまようマイノリティの 姿がそこから垣間みられてしまうことも否定できない。そのような姿は私には強い違和感を抱かせ

る。

そこで私は、漢族と対等に渡り合いながら主体的に生きている朝鮮族の姿を描写するために、彼ら の 「エスニック・バウンダリーの動態」に着目 し、それをキーワードにして、以上のような分析を試 みてきたのである。

しかし、本稿の作成を通して、新たな研究課題が明らかになったのも事実である。それは、移住の 初期から中華人民共和国の建国、さらに文化大革命へと至る歴史の経過の中で、朝鮮族の「文化的特 徴」に如何なる変化があったかの詳細な検討である。それを通じて、彼らの「エスニック ・バウンダ リーの動態(エスニック・バウンダリーの変動のプロセス)」がよりダイナミックに展開出来るので あろう。しかし、朝鮮族全体の中で、移住当時の状況を知る 1世が占める割合が極端に少ないため、

2世たちの聞き取り調査に頼らざるを得ない現実的問題が横たわっており、今回のような短期間の現 地調査ではそのための十分な査科を収集できなかった。この点はこれからの課題にしたい。

(1[李光奎,1994)、[戟相福・権太換,1993)などがある。

(2)  私は第28回民族学会研究大会において、在日緯国 ・朝鮮人のエスニック ・アイデンテイティに 関する研究の方法論的問題として、この対立を「実体論」と「関係論」という概念で説明する主旨 の口頭発表を行っている。

(3)  私は3回の調査を通して、延ベーか月間、申氏の自宅で住み込み調査を行った。本稿では、彼女 に仮名で登場してもらった。語りの中で、地名や人名を具体的に記述しなかったのも、彼女に迷惑 がかからないよう、細心の注意をはらったためである。

(4日本の旧満州における植民地政策は満史会が編集した「満州開発四十年史、上・下巻

J

(1964年、 満州開発四十年史刊行会)に具体的な資料が提示され、詳細に記録されている。

(5「9. 1 8事変」から日本の敗戦まで、旧満州を舞台に行われた「軍国日本」の植民地統治は、

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(13)

本多勝一の「中国の旅」 (1981年、朝日新聞社)に中国人の証言を中心に生々しく再現されている。

(6)  中国共産党の抗日運動に関する出版物は「解放戦争」の軌跡を辿った「革命史」と同格に位置づ けられており、その数も非常に多い。私が3回目の調査に出かけていた時は、 9月にもかかわらず、

各地方で行われた「抗日戦争勝利50周年記念大会」の模様が連日のようにテレピで放映されてい た。また、滞在期間中の 「延辺日報」の約ーか月間の総紙面の約6割が抗日戦争に関する中国共産 党の「武勇談」で占められていた。

(7居住地域によって状況は微妙に異なるが、特に、日本人の開拓団周辺地域やいわゆる「安全村」

地域に居住した朝鮮人と「関東軍」に協力的だった朝鮮人が非難の対象になった。

(8) 「解放戦争」における朝鮮族の功績は「中国朝鮮民族足跡叢書1‑8」(1989年、中国民族出版社)、

「朝鮮族略史」 (1987年、延辺人民出版社)などに詳しく記述されている。

(9当時の彼らの期待は次の引用によく表れている。「延辺における民族区域自治の実施は自治機関 の民族化を行い、朝鮮民族が延辺地区で自民族の事務を処理できる法的担保を与えてくれた。した がって、朝鮮族人民たちは政治的に他の民族との平等を実現し、経済的に民族地区を活性化させ、

また、自民族の言語 ・文字 文化教育事業を発展させ、固有の風俗習慣を保存 ・改革する権限を持 つようになった」[延辺民族教育研究所教育史研究室 1987:197)。

(IO)  「離休」の場合は、年金面でも破格の待遇が保証されている。

(II}序論で触れたThomasHeberer,Linda Benson & Ingvar Svanbergの報告以外に、ジュリアン・バー ガーの「世界の先住民族」 (1992年、明石書店)の「中国の少数民族」は、このような視点で文化 大革命を描いている。

参考文献

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参照

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