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哲学の限界と二種深信

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Academic year: 2022

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問題設定   清沢満之は死の一週間前に著した絶筆「我は此の如く如来を信ず(我信念)」において、自身が到達した信仰について率直に語っている。そこでは、若い頃から宗教哲学的論考を重ねてきた自らの歩みを振り返りながら、しかし最終的には、宗教的信念は論理や研究によって得られるものではないとの結論に達している。   宗教的信念はコンナものである、と云う様な決着は時々出来ましたが、其が後から後から打ち壊わされてしもうたことが幾度もありました。論理や研究で宗教を建立しようと思うて居る間は、此難を免れませぬ。何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我にはナンニモ分らない、となりた処で、一切の事を挙げて悉く之を如来に信頼する、と云うことになりたのが、私の信念の一大要点であります。 1

《研究論文》

哲学の限界と二種深信

──「中期」清沢満之における宗教哲学の行方──

親鸞仏教センター研究員

       

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  この引用からわかるように、清沢が最終的に行き着いた信仰は、宗教に対する論理や研究の不可能性の自覚と結びついた「他力信仰」である。つまり有限知性による「無限大悲の実在を論定せん」とする企てが潰 ついえ、「我にはナンニモ分からない」となったところではじめて、「一切の事を挙げて悉く如来に信頼する」という信仰が成立するということである。言い換えれば、『宗教哲学骸骨』(以下『骸

骨』と略記)などの著作で自身が行ってきた哲学的な思索が、死を前にして批判的にとらえ直されているとも言えるであろう。

  実際、清沢が晩年に主唱した「精神主義」の立場においては、すでに様々な仕方で哲学の否定 00000が語られている。明治三四年になされた「精神主義」と題された講演で清沢は、「霊魂不滅」や「諸法実相」といった「哲学上の問題」によって宗教の価値を定めようとしてきた明治期の仏教界のあり方を批判し、宗教はそれらを超越した「一種の別天地」を切り開くものであると主張している。そして、そのような哲学的な仏教理解を批判的に乗り越えたところに、「精神主義」の立場を歴史的に位置づけるのである。哲学 に対するこうした否定的な態度は、「学問以上の信仰」というかたちで門弟にも受け継がれ、精神主義を際立たせる特徴とみなされてきた。  しかしながら、ここにひとつの疑問が生じる。清沢が最終的に至った信仰上の立場に何らかの哲学の否定 00000が含まれているとすれば、そこで生じるのはあらゆる合理的探求から切り離された信仰への飛躍 000000なのだろうか。つまりその場合、清沢自身がかつて行っていた宗教哲学的な営みに積極的な意味はもはやないのだろうか。このことを問う必要があるだろう。しかしながら、すでに何らかの仕方で哲学を 000

否定 00し、それを超えたところで成立する信仰 0000000000000000を見出したように見える精神主義以降の清沢においては、哲学と信仰との緊張感を含んだ関係性が主題的に論じられることはなくなっている。

  そこで本稿においては、精神主義に至る直前の時期に、清沢が各所で発表していた哲学的な諸論考に着目してみたい。その時期清沢は、学術雑誌『無尽灯』を中心に信仰を 000

主題とした哲学的な思索 00000000000を精力的に展開していた。それらのテキストは、後の精神主義の立場に繋がるものであると 2

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共に、精神主義では背景に退いてしまった哲学と信仰との緊張関係を直接的に論じたものとして非常に重要である。しかしながら、この時期の一群の公刊論文や講演録は、従来の研究では主題的には扱われてこなかった。精神主義に先立ち、そこへと繋がる清沢の思索としてこれまで重視されてきたのは『臘扇記』であるが、同時期の宗教哲学的な諸論考は、いわばその陰に隠れ、副次的な注意しか与えられてこなかったように思われる。私的な日記である『臘扇記』は、だからこそ生々しい思索を刻み込んだ資料として大きな価値をもつが、公表された諸論考にも、公的な場面で練り上げられたその都度の思索が示されているはずである。本稿ではこうした研究上の間隙を埋めるため、精神主義以前の時期に書かれた清沢のテキストに注目する。そして便宜上、この時期を「中期」清沢満之としてとらえ、そこで見られる哲学と信仰をめぐる一群の思索の展開を辿ってみたい。それにより、「中期」清沢満之における宗教哲学的営みがいかなるものであり、それが後の清沢の思索と信仰にどのように繋がっていったのかを明らかにしてみたい。

  「中期」清沢満之という視座   まずは清沢満之の時期区分について、本稿がとる視点を明確にしておく必要があるだろう。そもそも清沢の生涯を時期によって分けるという発想の嚆矢となったのが、西村見暁の古典的な伝記研究『清澤満之先生』である。西村は清沢が名乗っていた号の違いから、それぞれ「建峯」、「骸骨」、「石水」、「臘扇」(上・下)、「濱風」という時期を区分し、その時期ごとに見られる「清澤先生の心境の展開」を浮き彫りにしている。そうした見方は清沢自身による有名な「回想」文とも相俟って、清沢を理解するための一つの有効な枠組みとなされてきた。

  とはいえ、本稿のように哲学と信仰の関わりを主題とする場合には、五つの区分はやや煩雑であるし、それぞれの号がもつ意味と各時期の清沢の課題を完全に重ね合わせるのも難しい。それゆえここでは、本稿の議論にとってより相応しい時期区分を導入したい。その際、ひとつの参考となるのが、今村仁司による清沢の時代区分である。今村は 6

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『清沢満之と哲学』において、哲学と宗教との関わりを軸に清沢の思想を四つの時期に区分しており、その限りで本稿の問題関心と大きく重なるからである。ただし、今村の清沢解釈は非常に独自のものであるため、本稿では今村の議論を土台としつつそれを修正し、ここでの問題設定にそった時代区分を設定する。

  まずは、今村の提示する清沢の時代区分を整理すると、「表 1」次のようになる。

  今村の時代区分の特徴は、清沢満之を「初期」から「後期」までの四つに分け、哲学が宗教との関わりの中で、最終的に否定されていくプロセスを示しているところにある。この中から、まずは今村によって「哲学と宗教の両立または相互補完」として特徴づけられている「前期」と、「学問知の否定、学問知の否定を学問的に語る」として特徴づけられる「後期」の区分から検討しよう。

  今村が指摘するように、いわゆる「前期」を代表する『宗教哲学骸骨』においては、「哲学と宗教の両立または相互補完」が論じられていることは間違いない。『骸骨』では「哲学の終わる所に宗教の事業始まる」(『岩波』一・ 9

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(明治20年~24年頃)

期間 『宗教哲学骸骨』出版以前

(『純正哲学』、『西洋哲学史』)

特徴 「哲学的言説」の組織化

(明治25年~28年頃)

期間 『宗教哲学骸骨』

「他力門哲学骸骨試稿」

特徴 「哲学と宗教の両立または相互補完」

(明治29年~32年頃)

期間 「我が信念」に至る途中の

「精神主義」関係の諸論文

特徴 「学問はいろいろあってもかまわないが、それら と宗教は別ものだという中間的スタンス」

(明治33年頃~36年頃)

期間 「精神主義」以後の時代

特徴 「学問知の否定、学問知の否定を哲学的に語る」

表1.今村による時代区分と各時代の特徴

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六頁)と言われるように、まずは「無限」についての哲学的探求がなされた上で、信仰はそれに基づいて形成されるべきであると考えられている。それゆえ「若し道理と信仰と違背することあらば寧ろ信仰を棄てゝ道理を取るべきなり」(『岩波』一・七頁)とも言われ、宗教が哲学を超えるものであるとしても、哲学が宗教を修正する可能性も認められているのである。以上のことから、本稿でも今村にならい、「宗教と哲学の両立」を語る『骸骨』の時期を、「前期」清沢と定めることにしたい。ただし、明治二五年に発表された『骸骨』の基本的な枠組みは、すでに明治二一年の『教学誌』に掲載された「宗教哲学講義」に遡ることができるため、「初期」という区分をなくし、東大時代から『骸骨』までを含めて「前期」としておきたい。また今村が「前期」に加えている「他力門哲学骸骨試稿」(明治二八

年)〔以下「試稿」と略〕は、後に示す理由から「前期」ではなく「中期」に区分すべきであると考える。

  次に「後期」についても、今村と同様、精神主義以後の「学問知の否定」を強調する時期としておきたい。ただし今村は、この時期の清沢をあくまでも「宗教哲学」(ある いは今村の言い方では「仏陀学」)の延長線上でとらえようとする。つまり今村は、従来「信仰者」としての側面が強調されてきた晩年の清沢を、あくまでも「哲学者」として評価しようとするわけだが、われわれはこうした見方に全面的に賛成することはできない。先に引いた「我は此の如く如来を信ず(我信念)」に示されているように、清沢における「学問知の否定」は、あくまでも「他力信仰」と深く結びついたものであるからだ。その意味で晩年の清沢は間違いなく「信仰者」であるが、その上で、どの程度、あるいはどのような意味で「哲学者」であるのかについては、踏み込んだ議論が必要である。少なくとも、「学問知の否定」は、「他力信仰」の深まりと根本的に結びついたものであることを忘れるべきではないだろう。  そして最後に「中期」であるが、今村がこの時期の清沢を「学問はいろいろあってもかまわないがそれらと宗教は別物だという中間的スタンスをとっている」と見ていたのは示唆的である。たしかに清沢は精神主義に至る以前の時期に、あくまでも宗教は学問ないし哲学から独立したものであると強調するようになる。そこには「哲学と宗教の両 12

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立」を語る「前期」の立場からの、明確な変化を見てとることができる。そしてわれわれの見るところ、この時期の清沢のテキストを丹念に読んでいくと、哲学と宗教との緊張関係についての思索が徐々に深められていく様子が確認できる。それは「中間的スタンス」というよりは、「移行期の思索」と呼ぶべきものであるかもしれない。本稿が主題とするのは、まさしくこの時期の清沢である。

  とはいえ、問題は今村が設定する「中期」の出発点である。先に見たように、今村は明治二八年の「他力門哲学骸骨試稿」を「前期」に位置づけていた。そのことは、今村が『骸骨』と「試稿」を、「同一の事象を別の角度から扱った」「双子著作」とみなすという観点に基づくものだった。しかしながら、しばしば指摘されることではあるが、「他力門哲学」という思索を開始した「試稿」においては、それ以前には見られなかった新しい鍵概念が登場する。それは「根本の撞着」である。この概念(あるいは非‐概念)は「試稿」において中心的な役割を果たすのみならず、以後、精神主義に至る直前までの間に、清沢のテキストで繰り返し用いられるものである。そしてさらに言えば、「根 本の撞着」は、精神主義の時期になるとほとんど言及されることがなくなり、背景へと退いてしまう。このことから本稿では、「根本の撞着」という概念に着目することにより、「中期」清沢満之を輪郭づけることができると考える。先に見た「前期」の「哲学と宗教の両立」を揺り動かすのが、まさしく「根本の撞着」である。そして「根本の撞着」をめぐって哲学と宗教の緊張関係が主題化され、深化していくことになるが、それについては以下本論で詳しく見ていくことになるだろう。  以上をまとめると、本稿が提起する清沢満之の時期区分は、「表

2」のように表わされる。

  もちろんこうした区分は便宜上のものである。それぞれの時期の中でさらに清沢の何らかの「転機」を見出すこともできれば、逆に「前期」や「後期」を問わない「一貫性」を見出すことも可能である。しかしながらわれわれは、あえてこうしたシンプルな時期区分を導入することにより、これまではその重要性が見過ごされてきた「中期」清沢満之の宗教哲学的思索の展開に光を当てることができると考えている。 16

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二  出発点としての「他力門哲学骸骨試稿」

  明治二八年、結核療養中の垂水にて書かれた「他力門哲学骸骨試稿」は、清沢満之の中でも比較的よく知られたテキストであるだろう。各種全集の他、いくつかの現代語訳も出版されており、「試稿」を主題とした研究も近年増加している。しかしながら、このテキストは、本来は扱いが難しいものでもある。題名に「試稿」と付されていることからもうかがえるが、病床で書かれたこのテキストが決定稿であるかどうかは不明であり、また清沢の生前に公刊されることもなかった。それゆえ、そもそもこのテキストが何のために書かれたのか(出版のためなのか、講義のためな

のか、あるいは自分のためなのか)現在ではわからない。ただ、死に面した状況にありながら、それでも極度の集中力をもって清沢がこのテキストを書き進めたのは事実である。いずれにせよ、以前とは異なる思索がこのテキストから始まり、それが数年かけて展開していくことになる。以下では、「試稿」に登場する「根本の撞着」という概念に着目 21

(明治27年~32年頃)

期間 「他力門哲学骸骨試稿」から「精神主義」の直前まで

特徴 「哲学と宗教の緊張関係」

表2.本稿における清沢の時代区分と各時代の特徴

前 期

(明治17年~26年頃)

期間 東大時代から『宗教哲学骸骨』の頃まで

特徴 「哲学と宗教の両立または相互補完」

(明治33年~36年頃)

期間 浩々洞開始・『精神界』発刊から最晩年まで

特徴 「学問知の否定と他力信仰の確立」

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しながら、「中期」清沢満之における哲学と宗教の関係を見ていくことにしよう。

  そもそも「前期」から一貫して、清沢は宗教の要点を「有限と無限の一致」として押さえていた。つまり有限である人間と、それを超越した無限が関係性を結ぶところに宗教が成立するということである。そして有限無限の基本的な構造は『骸骨』で詳しく論じられており、「試稿」でもそれをそのまま受け継いでいる。簡単にまとめるならば、無数の「有限」が時間的(因果的)・空間的(物理的)に相互に連関し、それらが形成する有機的な全体が「無限」と名指される。それゆえ無限と有限は、「唯一多数」、「全体部分」、「完全不完全」、「絶対相対」、「独立依立」といった関係性の下にとらえられる。こうした有限無限の関係は、主にロッツェの哲学によりながら「万物一体」ないし「主伴互具」という形而上学・宇宙論として理論化され、清沢の「純正哲学」(「形而上学」)の骨子となった。そして有限無限の調和が失われている現状(「迷」の状態)において、その調和をいかにして回復するのかという実践上の問題が、清沢の「宗教哲学」の課題となる。   ところで、「唯一多数」や「絶対相対」とも規定される有限無限の関係には、そもそも矛盾が含まれている。有限無限が異なるものなら両者は「異体」であり、有限無限が一体であるとすれば両者は「同体」であることになるからだ。これに関しては『骸骨』においても、「無限有限の二者同体なるや異体なるや」(『岩波』一・九頁)という問いが提起されているが、しかし『骸骨』では、この矛盾は深刻なものとはみなされていなかった。まず、無限の外側に有限が存在するとすれば、無限が限界をもつことになってしまうため、それはありえない。つまり、「無限有限は同一体」であるということである。これに反して、「一個の有限は無限と同体たる能はず」という視点も同時に示されるのだが、『骸骨』においてこの矛盾は、有限が無数集まったものが無限であるという「有限無数」によって解消されている。つまり『骸骨』では、多数の有限が集まって無限なる統一体を形成するという「万物一体」のビジョンの内に、有限無限関係が孕 はらむ矛盾が乗り越えられているのである。

  「試

稿」で問題とされるのが、まさしくこの有限無限の 22

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矛盾である。「試稿」では有限無限は「同体」であると言うこともできるし、しかしそれとまったく等しく「異体」であると言うこともできるという、「根本の撞着」が真剣に受けとめられる。つまり、無限の定義から導かれる「無限有限は同一体」であるとする考えと、「一個の有限」はあくまでも無限と「同体」ではありえないとする考えは、共に正当な論理として成立するのである。それゆえ有限無限の関係には、論理的には決して解決しえない「根本の撞着」があるというところに「試稿」の出発点がある。『骸骨』では「有限無数」という考えによって矛盾は解消されていたが、しかし「一個の有限」という視点が成立する以上、その有限は、あくまでも無限とは異なるものであるということだ。

  何をか根本の撞着と云ふ。多一の撞着、可分不可分の撞着等、是なり。先つ多一の撞着とは、一は多にあらず、多は一にあらず、而して一は多ならさるを得す、多は一ならさるを得す。即ち、有限は多数なり、無限は唯一なり。而して有限無限同一なりと云ふ。是れ一 即多多即一なりと云ふものにあらすや(中略)有限無限は同一体なりと云ふが、抑根本の撞着なり。絶対相対、自立依立に就て云ふも亦然り。之を要するに有限無限の対立に於ては根本の撞着存在するものなることを明知せさる可からさるなり。(『岩波』二・四六~四七頁)

  そして根本の撞着は、哲学という営みに対しても大きな影響を与えることになる。先に見たように、有限無限が「同体」であるという考えが正当な論理であるとすれば、両者が「別体」であるという論理もやはり正当である。それは要するに、無限と有限のどちらを「基想」とするかの違いなのである。そして、ここから「有限の外に無限あり」という、『骸骨』にはなかった「新論定」が生じる。無限を基想とすれば、有限は無限に包含された存在であるが、有限を基想とすれば、無限はあくまでも有限の外になければならない。「無限有限其体同一たると同時に有限の外に無限の存在することを知らさるべからさるなり」(『岩

波』二・四七頁)ということである。

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  この新論定は宗教において重要なものとなる。というのも、宗教の目的が、有限である人間とそれを超越した無限との一致にあるとすれば、有限者が無限者と出会う場所は、自己の内であるのか、それとも外であるのかという問題が決定的な論点となるからである。しかしながら、清沢によれば、哲学では矛盾するこの二つの説の対立を解消することができない。二つの説はともに正当であり、どこまで推論を突き詰めても両者の調停は到底望みえないからである。「哲理は此の如き反説の両立を許さゞるなり。故に二者を討究して終に契合せしめんとし其論弁停(休)止する所なし」(『岩波』二、四八頁)。つまり、有限無限が形成する根本の撞着は、論理的には矛盾をもってしか考えることができない。ここに哲学の限界が生じているとも言えるだろう。

  そして「試稿」の展開においては、ここに宗教が現れる。有限無限の「同体」と「異体」の間で虚しく揺れ動く哲学とは異なり、宗教の目的は「実際」にある。有限無限の一致という究極的な「安心」の境地に実際に至ることができるかどうか。宗教者にとってはこの点が重要なのである。それゆえ、「宗教は其内に就て或は一を採り或は他を採り て之を信仰するか故に、茲に初めて実践の基趾を得るに至る」(同上)と言われる。宗教とは、二説の内のいずれか一方を選びとり、それに基づいて「安心」のための「実践」を始めることなのである。清沢によれば、有限無限の「同体」を信じる 000者は、有限なる自己の内にも潜在的に「無限の性能」があることを信じて 000、自己の無限性を開展する「自力門」の道を進まなければならない。それに対して、有限無限の「異体」を信じる 000者は、有限なる自己の外に無限があると信じて 000、「無限の妙用に帰順して其光沢に投浴」(同上)することを目指す「他力門」の道を進むことになる。つまり根本の撞着を前にした哲学的論理は無力であり、その無力さが極限に達したところで、信仰による選びが必要となるのである。哲学と宗教が相互補完的に両立することを語っていた『骸骨』とは異なり、「試稿」では哲学の限界に宗教が現れるという新たな関係性が現れていると言えよう。  ただし、「試稿」においては、同体・自力門と、異体・他力門は並列的な関係にある。両者はどちらも論理的に可能であり、その選択は個々の宗教者に委ねられている。あ

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るいはより正確には、どちらを信じるかは、「機(聴者)法(教門)の適否」(『岩波』二・六八頁)にかかっている。いずれにせよ、「試稿」における哲学と宗教との関係は、一方が機能不全に陥ったところで他方が介入するという、ややスタティックな関係性でとらえられているのである。ここにはたしかに「哲学と宗教の両立」から「哲学の否定」へという契機が現れているが、しかし哲学の不可能性がそのまま自己の有限性の自覚へと深められるような、よりダイナミックな関係性については考えられていない。哲学の深化と宗教の深化が共に進むような、ある種の宗教哲学の様相を清沢満之の思索の内に見出すことはできないだろうか。あるいは「機(聴者)法(教門)の適否」を単に個々人の違いに見るのではなく、有限なる知性としての「機」と、それを超えた無限の働きとしての「法」との相関の内に見出すことはできないだろうか。われわれの見るところ、「中期」清沢満之のいくつかのテキストの内に、こうした思索の展開を跡づけることができると思われる。そしてそれは、自力門か他力門かという並列的な二者択一ではなく、哲学の営みそれ自体が他力門的なものになるよ うな、そうした宗教哲学へと向かっていくことになる。

三  信の成立と否定の方法

  これまで見てきた「試稿」における考究は、先述のように、清沢の生前に公刊されることはなかったものだ。しかしそこでの議論は様々な機会に取り上げられ、論文や講演として公表されていった。たとえば明治二九年七月に開かれた大日本仏教青年会の夏期講習会において、清沢は「宗教と道徳の関係」という講演を行っている。そこでは「根本の撞着」から自力門と他力門という二つの「実践の基趾」が導かれ、そこからそれぞれの基礎に立った道徳のあり方が論じられている。基本的にはそこでの論述は、「試稿」で提示したものがそのまま用いられており、「試稿」の枠組みからほとんど外れてはいない。いわばこの講演は、公刊されることのなかった「試稿」の議論を整理し、宗教と道徳というトピックのために組み直したものであると言えるかもしれない。

  「試

稿」における自力門と他力門の二者択一とは別の角 24

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度から信仰を問うようになった論考として興味深いのが、明治三〇年一月、『無尽灯』に掲載された「信の成立」である。宗門改革運動に取り組んでいたことと関係するとも考えられるが、清沢はこの時期盛んに「正信」について論じている。「正信と迷信」(明治三〇年九月)、「破邪顕正談」(明治三二年七月)といった論考で、清沢は「迷信」や「迷妄」から解放された「信仰」がいかなるものであるのかを考察している。それゆえ「信の成立」で問われているのも、「正しい」信仰なのである。

  まず清沢は、広い意味での精神作用としての「信」についての分析を行っている。政治上の信任、経済上の信用など、われわれの日常生活の多くは「信」という精神作用に基づいている。そして通常の信は「吾人の見聞覚知」、すなわち経験に由来する。たとえば他者に対する信頼は、それを裏づける経験によって獲得されるものであるし、裏切りの経験は、他者への信頼を損なうことにもなるだろう。それゆえ、「信の生起は、吾人の見聞覚知に附従するものにして、而も相反撥する所の二信は、其競争によりて、一方に成立し、一方に消滅するものたり」(『岩波』六・一八二 頁)とも言われているのである。しかしながら、一時的に生じる信は、その影響も一時的なものにすぎない。そうした通常の信では、「此世に処して安心せんとするの大信」にはなりえない。つまり、宗教的な安心をもたらすのは、「永久的の信」以外にはありえないのである。しかしここに問題が生じる。永久的な信は、通常の信のように経験を通して獲得することができないからである。同じように、抽象化等を行う智識にしても、「有限を免るゝ」ことはできない。有限の経験や智識からは永久的な信は生じえないのである。  しかしながら同時に清沢は、「吾人の思弁は、全く無限永久的の信を開発する能はざるにはあらざるなり」(『岩

波』六・一八六頁)とも述べている。その手段とされるのが、「否定の方法」である。

  無限は、吾人の思弁にありては、常に否定的反面的にして、決して肯定的正面的にあらざるなり、吾人の正面に肯定し得る所のものは、皆有限の範囲を超脱する能はざるものなり、然れ共肯定には必ず否定を具し、 25

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正面には必ず反面を具す、吾人が正面に一有限を肯定する場合には、常に其反面に一無限(一有限に対して仮

りに一無限と云ふ)を否定し居るなり(吾人が一物を赤色

なりと肯定する場合には、其物は非赤色にあらずと否定する

等の例にて推知すべし)。(『岩波』二・一八六頁)

  そもそも、無限が無限である以上、それは有限的知性の把握を逃れるものである。無限は有限なる知性に対して、「肯定的正面的」に現れてくることはない。しかし同時に無限は、人間的知性に対して「否定的反面的」なものとして現れる。「無限は常に有限の裏面に具して否定されつゝあるものなり」(『岩波』六・一八七頁)と言われるように、無限は知性を否定するという働きの裏側にのみ感得されるということである。

  この議論は、明治三一年九月から一二月にかけて『無尽灯』に発表された、「仏教の効果は消極的なるか」という論考にも登場する。そこでは、「相対有限より絶対無限に進達する」(『岩波』六・一九九頁)に際して、言葉や思索は「一も絶対無限を乗載し得べき器械にあらざるなり」(同 上)と断定しつつも、次のように述べている。  吾人が相対有限より絶対無限を開説せんとするに、吾人は肯定の方法に従ふ能はざるなり、何となれば、吾人は未だ肯定すべき絶対無限を獲得し居らざればなり、故に吾人が相対有限より絶対無限を開説せんとするに当りては、吾人は必ず否定の方法によらざる能はざるなり。(『岩波』六・一九九頁)

  こうして清沢は、人間が無限へと至るための可能な手段として、「相対有限界を否定し尽」すという、「否定の方法」を見出したのであった。ここにおいては、哲学はもはや肯定的に無限を構築できないのみならず、自らを極限において否定するという契機をもってしか、無限へのルートは開かれないことになる。それゆえ逆に言えば、相対有限の徹底的な否定を通して開かれた無限への信仰でなければ、「正信」とはなりえないということでもある。否定の働きが不徹底であるために有限性の残滓が少しでも残されている場合には、それは無限へと向けられた信仰、すなわち 27

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「正信」と言うことはできないことになる。

  さらに議論を進める前に、こうした清沢の考えの思想史的背景について、少しだけ触れておきたい。清沢満之が東大哲学科で外山正一とアーネスト・フェノロサから、スペンサーの思想を学んだことはよく知られていることだろう。実際、清沢の思想の内には、スペンサーの進化論哲学の影響を各所に見出すことができる。しかしこれまでほとんど指摘されてこなかったのが、スペンサーの主著『第一原理』の影響である。筆者はこれまで、特に井上円了の研究を通して明治の仏教思想に対する『第一原理』が果たした役割について論じてきたが、清沢の「否定の方法」という発想にもその影響を見出すことができる。とりわけ注目すべきは、スペンサーの背景となっているヴィクトリア時代英国の「不可知論(agnosticism)」をめぐる議論である。明治期の仏教哲学の展開において「不可称、不可説」なる「真如」とも重ねあわされることになる「不可知的なもの

(TheUnknowable)」を論じるにあたり、スペンサーはウィリアム・ハミルトンとH・L・マンセルによって展開されていた「不可知論」に関わる議論を参照している。『第 一原理』を読んでいた清沢が、スペンサーを通じてそうした議論を学んだことは間違いない。ハミルトンの「無条件的なものの哲学」からの一節を引いておこう。

  無条件的に〈無制約的なもの〉、あるいは〈無限〉ないし〈絶対〉は、肯 定的に心に思い描くことはできない。それらは単に思考それ自体が実現しうる条件を離れるか、それらを捨象するかしなければ、考えることができないものである。したがって、〈無条件的なもの〉の概念は否 定的なものでしかありえない――思考可能なものそれ自体のネガティブである。

  無限なるものは肯定的にとらえることはできず、思考可能性の否定によってのみ示さるというハミルトンの発想は、マンセルとスペンサーに受け継がれ、人間の知性にとってはどこまでも「不可知的なもの」へと向けられた宗教性を論じるための資源となった。

  こうした「不可知論」的な宗教哲学との共通性を、清沢の「否定の方法」に認めることは決して不当ではない。そ 28

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れについてはいくつかの証言もある。たとえば南条文雄の回想では、明治二二年に三河で清沢と共に演説を行ったことが述べられているが、その時の清沢の講題が「不可知的を論ず」であり、「unknowableとか、何とかやりだされた」ことが伝えられている。また門弟の暁烏敏も、清沢が『第一原理』の「アンノーワブル、不可知といふこと」を「当時やかましういはれた」と述べている。ヴィクトリア時代英国の不可知論の残響は、この時期以降にも、絶筆「我信念」における「人生の意義は不可解である」(『岩

波』六・一六一頁)という表現にまで響いていると考えることもできるだろう。

四  機の深信と他力門

  ここまで見たように、否定の方法による無限へのアプローチは、すべて人間知性の有限性の自覚と深く結びついたものである。こうした方向性は、自力門と他力門の二者択一という状況から、他力門哲学そのものを深化させる方向へと向かっていく。つまり無限と有限についての思索を 深めて行くことによって、有限なる人間存在そのものへの省察、すなわち有限の有限性に対する反省がより際立ってくるのである。それは伝統的に「機の深信」と呼ばれる事柄と大きく重なる主題であるだろう。  実際、清沢は「試稿」を書いた後の明治二九年あたりから、哲学的議論の内にも「機」という問題を見出すようになる。たとえば明治二九年三月『無尽灯』に発表された「真理と宗教」では、真理が機と無関係に成立するものではないという見解が示されている。そこでは「万有万化は皆悉く真理の現象なり」という大胆な主張を行っているが、それは宇宙のすべての事柄が、それを受け取る人間にとっての「真理」となりうる可能性を示すものであった。それゆえ真理は一つではなく、「唯物の真理」や「唯心の真理」、「諸法実有」や「諸法皆空」といった様々な真理がありうるが、そうした真理の多元性は、「万有を観察するの心智」の違いに由来すると考えられている。  またこれと関連して、同年七月、『無尽灯』に掲載された「仏教之現利」も注目すべきである。この論考では、有限無限の関係から自力他力の二門を導き出し、そこから実 32

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践へと向かうという「試稿」の枠組みが採用されているが、そこからさらに踏み込んで他力門の内実が論じられている。すなわち、自力門の道に立って自己内の無限性を開発しようとするにしても、個々の資質や能力には差異があり、実力不足や障害によって上手くいかないことがある。それらはすべて「有限者が其有限なる分位を弁知せずして、猥りに無限絶大の事行を速領」(『岩波』二・三一〇頁)することが原因である。それゆえ他力門は「有限無限の分位性能を判別して、無限的の事行は一切之を無限者の能力に帰し、有限者の行為は其有限なる分位中に於て十分の奮発進取を務む」(同上)ものとされるが、しかしそもそも「有限なる分位を弁知」するという営み自体が、有限無限関係の認識一般にとって不可欠の態度ではないだろうか。それは自力門と他力門の二者択一を越えて、有限の有限性と、その否定としての無限性という、機と法との関係そのものへの問いに繋がるものであるだろう。

  「破邪顕正談」における信と知   さて、以上のように「中期」清沢においては、「試稿」を出発点として、いくつかの主題についての考究が深められていくプロセスを見てとることができた。たとえば「否定の方法」や「機」の自覚といった主題は、「試稿」以後その重要性を序々に増していく。そしてわれわれの見るところ、これまでの議論の全体は、精神主義を立ち上げる前年の明治三二年ころまでに、ある程度収斂していくものと考えられる。その中でも、特に密度の高い議論を行っているのが、明治三二年七月の仏教夏期講習会においてなされた講演「破邪顕正談」である。この講演では、やや込み入った議論がなされているが、しかし「中期」清沢における理論的考察としては、最も完成されたものとみなすことができる。

  そのタイトルが示すように、ここで問題となっているのは、宗教的な意味での「破邪顕正」である。そもそも宗教上の真理とは、清沢によれば「有限と無限の一致」であっ 36

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た。宗教にとって必要なのは、「絶対無限と相対有限との両者を達観」(『岩波』二・三七四頁)することである。そしてこの達観を妨げるものがあるとすれば、それは「邪念妄想」である。つまりそうした「邪念妄想」を振り払い、宗教上の真理の達観へと導くことがこの講演の主題となる。

  それでは、「絶対無限と相対有限の両者を達観」するとは、いかなる作用なのか。本稿のこれまでの議論からも明らかなように、それは通常の知によってはありえない。無限は有限のあらゆる規定を逃れるものだからである。それゆえ絶対無限を達観するには、「信」によるしかない。しかし清沢の見るところ、この信は特別な信であった。絶対無限への信仰は、知識や経験に基づいて成立するものではないからである。「吾人は未た無限なるものを知らす  吾人は無限を知識的に構成すへき材料あることなし  而して信は忽然として発現す  是れ豈直接自立的のものにあらすや」(『岩波』二・三七八頁)。つまり、無限を知的に把握し、その上でそれを信じるなどということは大きな誤謬である。そうではなく、「信によりて始めて無限なるものあることを覚知する」(同上)のであると清沢は主張する。だから こそ、「信は忽然として発現す」と言われるのである。

  それでは、信と知、あるいは宗教と哲学は無関係なのかと言うと、決してそうではない。これに関しては、われわれはすでに「否定の方法」について確認した。しかしここではそれに加え、別の視点が提起されている。

  清沢によれば、絶対無限を達観するには信によるしかないが、とはいえ相対有限の領域に生じている邪念妄想を破却することはできるという。たとえば、われわれ自身が絶対無限か相対有限かと考えた場合、われわれは万物に相対したものである以上、相対有限な存在に違いないだろう。ところが自身の行為や思念について考えるとき、われわれは自らを独立自由のものだと思ってしまう。独立自由は絶対無限の徳性以外にはありえず、相対有限が自らを独立自由の絶対無限であるかのように思うことは、まったくの邪念である。このような省察を、清沢はここで「空観」と呼び、真理へと至るための邪念を振り払う「破邪」となると考える。

  空観とは何事なるや  他なし  邪念妄想の虚無空寂

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なることを宣説するものなり  (略)我空の一を以て之を云はんか  吾人か自ら実我なりと思へるものは蓋し人々個々別々の独立体なるへし  然るに此の如き個々別々の独立体は是れ全く妄想にして真実に存在するものにはあらさるなり  若し個々別々の我を以て真有の独立体なりと云はんか  其自家撞着を如何せん 個々別々のものは有限なるものにあらすや  有限なるものは常に他に依て成立するものなり  然るに之を独立体なりと云ふ豈自家撞着にあらすや (『岩波』二・三七九~三八〇頁)

  ここで清沢が論理によって邪念妄想を排除しようとしていることに注目しよう。仏教の伝統においては、必ずしも「空観」を論理的なものに還元することはできないだろうが、しかし少なくとも、相対有限の領域における邪念妄想に対するためには、相対有限の領域を扱う論理も有効であると清沢は考えているのである。われわれは、有限なるものを「独立自由」だと思うことが、論理的にも「邪念」であることを理解することができる。つまり、ここで破邪と 呼ばれているのは、有限がその有限性を論理的に自覚することに他ならない。もちろんそれによって「絶対無限の達観」、あるいは絶対無限への信仰が引き起こされるというわけではない。しかしそれは「信の発現を催促するに於ける要務」(『岩波』二・三七九頁)であり、正信確得のための必要不可欠な準備となるのである。  ただしここでの「空観」は、あくまでも準備でしかない。また、論理の領域でなされる「破邪」によっては、「絶対無限」だけでなく「相対有限」を達観することもできない。そのことは「事物の成立の実際」を考えるだけで明らかになる。  ここでは「因果の必然と意志の自由」という同時期の清沢の論考を参照しよう。因果の関係は本来無窮の連鎖をなすものであるが、単純化して言えば「前後二象の間」(『岩

波』二・三六八頁)に成立するため、甲→乙という二元素が必要となる。しかし甲乙の間をつなぐ何らかの「聯絡」がなければ、そもそも甲から乙に果を伝えることができない。ここには変化の中にありながら同一性を保ち続ける「自」の要素が必要である。つまり変化的な要素とともに不変化 37

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的要素がなければ、変化ということは考えられないというのである。より身近な例をとってみよう。何かの変化を考える時、通常われわれは、同一体が様々な状態へと変化すると考えている。われわれ自身を見てみると、われわれの自己は生まれて以来同一であり、成長にともなって様々な形態に変化すると考えられている。しかし「一定不変なる自己」がいかにして刻々と「変化せる思想活動」を生じうるのかを考えると、十分な解答を与えることはできなくなってしまう。つまり変化と不変化の間には「根本の撞着」があるということだ。このことをわれわれの知性で考えようとすると、必ず矛盾したものにならざるをえない。ここには知性の限界があり、そこに「信」の領域が開かれることになる。

  此説は畢竟自家撞着を主張するものにして正統なる論理となすへからさるなり  変化と不変とは互いに相背反せるものなり  然るを其常に両立並存せることを主張す  豈自家撞着にあらすや  而も吾人は此自家撞着の主張を採用せさる能はす  是れ吾人の思想推理か 其能力を竭尽して正に信仰の門に帰降せるものなり 是れ推理考究の結果によりて来れるものにあらさるなり  否吾人は推理考究の前提に之を根拠とせるなり (中略)之を要するに変化と不変の一致と云ふことは吾人の根本的断信なり  吾人は此断信に根拠せは始めて事物の解釈に従ひ得へし(『岩波』二・三八六頁)

  「変 化と不変の一致」ということをわれわれは考えることができないのだが、しかしそれを退けることもできない。ここに至っては、知性はその「能力を竭尽して正に信仰の門に帰降」せざるをえないという状況が生じる。そして「此変化の要素は是れ有限的にして不変化の要素は無限たるへきこと」(『岩波』二・三八七頁)は言うまでもないだろう。つまり、「変化と不変化の一致」とは「有限と無限の一致」でもあるのだが、このことを前にした人間の知性あるいは哲学は、完全にその能力が尽きてしまうのである。絶対無限が絶対無限であり、相対有限が相対有限である限り両者は矛盾する。にもかかわらず、両者は一致していな 000000

ければならない 0000000ということ。このことを本当に受け入れる

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ためには、信仰によるしかないのである。

  ただし、有限と無限の一致を受け入れるためには、少なくとも有限が有限であるということを理解しておかなければならない。変化的・有限的なるものを不変的・無限的なものと混同することは「吾人の病患」であり、「迷倒の根本」、「罪悪の源泉」であると清沢は言う。有限が有限であるということを知っておかなければ、有限が有限でありながら無限と一致するという「不可思議」を受け入れるということはありえないということでもある。

  以上をまとめよう。「破邪顕正談」においては、哲学はその限界に至るまで事柄を論理的に突き詰めなければならないとされる。つまり有限は有限であり、しかもそうでありながら、有限は無限と一致しているということを明らかにしなければならない。しかしその最後のところに至ると、哲学は完全にその能力を失ってしまう。哲学それ自身が徹底的に否定される極限へと至ったところで、はじめて信仰の場が開かれるのである。これを逆に言えば、「正信」を得るためには、哲学それ自身が否定されるところにまで、哲学的論理を突き詰めなければならないとも言えよう。い ずれにせよ、「中期」清沢における哲学と宗教は、哲学の否定とその反面的な宗教の肯定という、両者の緊張関係を、その極限にまで進めていくプロセスであったと結論づけることができるだろう。

むすびにかえて――他力信仰の発得

  本稿では、「中期」清沢満之における哲学と宗教との関わりを見てきたが、すべては宗教に至る直前ないしその瞬間に関わるものであった。最後にこうした試みの意義について考えておきたい。これまで見てきたように、「中期」清沢において哲学は、宗教にとっての前段階という位置を占めていた。しかし、哲学を極限にまで突き詰めるという作業は、清沢においては、信仰それ自体を徹底的に練り上げることとも重なっていたのではないか。

  明治三二年六月の『仏教』誌に、清沢は「他力信仰の発得」という文章を発表した。発表時期としては「破邪顕正談」とほぼ同時期であるが、そこでなされているのは、宗教哲学的な考究というよりは、より率直な「他力信仰」の 38

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告白であった。「吾人は無限の実在を信するものなり、智慧を欲するものは之を無限の智慧とするを妨けず、慈悲を欲するものは之を無限の慈悲とするを妨けず」(『岩波』

六・二一二頁)といった信仰告白がなされた後、清沢は次のように言う。

  彼の信仰は無限有限の一致にして又平等差別の調和なり、其の実際は不可思議と云はさるべからすと雖とも、強て之を言説せは無限と有限と一致するも而も無 00000000000000

限は有限を滅せさるなり 00000000000、平等と差別と調和するも而も平等と差別を亡せさるなり、故に無限は無限にして有限は有限なり、又平等は平等にして差別は差別なり (『岩波』二・二一四頁、強調:引用者)

  無限は有限の反面なり、吾人にして明に有限を知るを得ば必す随て無限を認知するに至る、故に吾人の最 0000

先とする所は有限を明知するにあり 0000000000000000(中略)嗚呼自己省察なるかな、自己省察なるかな(中略)自己省察は吾人をして吾人の有限不完全なる事を自覚せしむ、吾 0 人の有限不完全なることの自覚は即ち他に無限完全な 000000000000000000000000

るものゝ実在を認知せしむべし 00000000000000

(『岩波』二・二一四~二一五頁、強調:引用者)

  「無

限と有限の一致」それ自体は不可思議であるが、それをあえて言語化すれば、有限無限が一致しながらも、なお無限は無限であり、有限は有限であるということを失わないということであるが、清沢はそれをあくまで信仰の対象として語っている。こうした信仰の内容は、「根本の撞着」に着目し、有限無限の矛盾そのものに敏感になっていく「試稿」以降の歩みと重なるものである。また「根本の撞着」を出発点とすることにより、有限の有限性はそれまで以上に強調され有限性の自覚への省察が重要なものとなっていく。その有限性が自覚されればされる程、その否定的反面として感得される無限の無限性もまた、強く強調されることになるだろう。「根本の撞着」という矛盾した論理を突き詰めていくことは、いわば有限性の自覚としての機の自覚と、無限への感得を共にうながすものであった。「中期」清沢満之における宗教哲学は、哲学と宗教との緊

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張関係を押し進め、「他力信仰の発得」へと到ったと考えることができるのではないだろうか。

凡例一、清沢満之の言葉は、主に大谷大学編『清沢満之全集』(岩波書店、二〇〇二~二〇〇三年)、および旧版全集(法蔵館、暁烏敏・西村見暁編、一九五三~一九五七年)から引用した。それぞれ、『岩波』、『法蔵館』と略記し、巻数・頁数の順に漢数字で示した。一、引用に際して、一部片仮名を平仮名に改め、適宜句読点を付した。

清沢満之「我は此の如く如来を信ず(我信念)」『清沢満之集』、岩波文庫、二〇一二年、一七頁。ここに見られる「智的」不可能性は、清沢の場合「行為」の次元において生じる「意」的「不能力」と重なり合うものでもある。清沢満之「精神主義〔明治三四年講話〕」『岩波』六・二九七頁暁烏敏『歎異抄講話』、講談社学術文庫、一九八一年。この問題に注目したのが、今村仁司の清沢研究である。 今村は次のような問いを提示していた。「清沢の人生がつきつけることは、無限に接触する「宗教的」信念は原理上では有限な理性とは無関係であるのだが、はたして哲学知なしに「宗教的」信念は可能なのか、という問いかけである」。今村仁司『清沢満之と哲学』岩波書店、二〇〇四年、一九頁。今村のこの問いに対して、本稿では、今村が十分な検討を加えていない「中期」清沢満之の諸論考の詳細な読解によってアプローチを試みる。『臘扇記』は私的な日記ではあるが、西村見暁以降の清沢の伝記的研究では非常に重視され、現代では清沢の代表的な思索とみなされている。西村見暁『清澤満之先生』、法蔵館、一九五一年。また『臘扇記』を主題とした近年の研究としては以下が重要である。名和達宣「『臘扇記』を読む――清沢満之における転換期――」『現代と親鸞』第三三号、親鸞仏教センター、二〇一六年。この時期の清沢の雑誌論文の重要性に着目した先駆的な研究としては、以下のものが挙げられる。渡辺和靖『増補版 明治思想史――儒教的伝統と近代認識論』、ぺりかん社、一九七八年。本稿は渡辺が提起する論点から多くを学んでいるが、ただし清沢を明治期における「近代認識論」の展開に位置づけるだけでは、清沢における哲学と信仰の緊張関係を十分にとらえることができないと考える。西村見暁『清澤満之先生』、前掲書。 ()1

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今村仁司『清沢満之と哲学』、前掲書。今村の清沢研究は「哲学者」として清沢の再評価に大きく貢献したが、しかしそれは時に清沢に仮託して今村自身の思想が展開されたものである。子安宣邦が指摘するように、今村の清沢論は読者に「これは清沢なのか、今村なのか?」という戸惑いを起こさせるものでもある。子安宣邦『歎異抄の近代』、白鐸社、二〇一四年。今村仁司『清沢満之と哲学』、前掲書、一二頁。今村はこうした清沢の議論を「仏陀学」と特徴づけている。筆者は以前、このような視座から「前期」清沢を論じた。長谷川琢哉「『宗教哲学骸骨』再考――「前期」清沢満之における哲学と信仰――」『現代と親鸞』第三四号、親鸞仏教センター、二〇一六年。『宗教哲学骸骨』成立の背景については以下に詳しい。「清沢満之『宗教哲学骸骨』関連資料・「解説」」、『真宗総合研究所研究紀要』第一七号、大谷大学真宗総合研究所、二〇〇〇年。この点において注目すべきは、名和達宣による「哲学者」清沢満之という規定である。名和達宣「清沢満之とその門下との「対話」――安藤州一『清沢先生 信仰座談』を読み解く――」『現代と親鸞』第三二号、親鸞仏教センター、二〇一六年。 今村仁司「解題」『現代語訳 清沢満之語録』、岩波書店、二〇〇一年。伊東恵深『親鸞と清沢満之――真宗教学における覚醒の考究』、春秋社、二〇一七年。および、氣田雅子「清沢満之の宗教哲学――自力門・他力門の概念を手引きに」『清沢満之と近代日本』、法蔵館、二〇一六年、など。「試稿」において新しい思索が始められたということは、それが清沢の大きな転機となった結核療養中に書かれたことからもうかがうことができる。清沢の有名な回想文に、「明治廿七八年の養痾に、人生に関する思想を一変し略ぼ自力の迷情を翻転し得たり」(「〔明治三五年当用日記〕」岩波八‐四四一頁)とあるように、結核を罹患した明治二七年から「試稿」を執筆していた二八年あたりにかけて、「自力」を振り払って「他力」へと向かうという大きな宗教的転機を清沢は経験した。おそらくはそれに基づき、「他力門」の宗教思想を哲学的に論じ始めたのが「他力門哲学骸骨試稿」ということになる。たとえば有名なところでは、清沢は明治二三年夏頃に明確な宗教的転機を迎えた。彼は当時「思うところ」があって当時勤めていた京都府尋常中学校校長の職を辞し、僧服を身にまとい質素倹約を旨とする禁欲生活を始めることになった。それゆえ厳密に言えば、『骸骨』はある種の宗教的目覚めの後に書かれたものであり、その前後にひとつの転 ()9

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回があったとも考えられる。碧海寿広『入門近代仏教思想』、ちくま新書、二〇一六年。二〇一七年には、二冊の研究書が出版されている。伊東恵深『親鸞と清沢満之――真宗教学における覚醒の考究』、前掲書。および、脇崇晴『清沢満之の浄土教思想――「他力門哲学」を基軸として』、木星舎、二〇一七年。「試稿」で「無限」を論じる際に、「宗教哲学骸骨第一章有限無限の項参照すべし」(『岩波』二・四四頁)という注記がある。清沢の「純正哲学」形成におけるロッツェの影響、および清沢独自の「宗教哲学」の課題については拙論を参照されたい。長谷川琢哉「『宗教哲学骸骨』再考――「前期」清沢満之における哲学と信仰――」、前掲書。清沢満之「宗教と道徳の関係」(『仏教講話集』、一八九六年十二月所収)『岩波』二。清沢満之「正信と迷信」(『無尽灯』第二巻八号、一八九七年)、『岩波』六。なお清沢の「否定の方法」については、繁田真爾がわれわれとは別の観点から注目している。繁田真爾「清沢満之「精神主義」再考――明治攪拌機の社会と「悪人の宗教」」『佛教史学研究』第五四巻第一号、二〇一一年。清沢満之「仏教の効果は消極的なるか」(『無尽灯』第三巻九号~一二号、一八九八年九月~一二月)『岩波』六。 長谷川琢哉「ラフカディオ・ハーンの〈高等仏教〉と井上円了」『井上円了センター年報』第二三号、東洋大学、二〇一四年など。詳細については拙論を参照されたい。長谷川琢哉「ヴィクトリア時代英国の不可知論と井上円了」『井上円了センター年報』第二五号、二〇一六年。清沢のテキストの中に、ハミルトン、および現在ではほとんど知られていないマンセルの名前をしばしば見つけることができる。とくに清沢がハミルトンの「不可知論」的言説を理解していた根拠としては、「他力信仰の発得」という論考において、自身が信ずる「無限の実在」を、「ヌーメノン」および「アンノーエーブル」〔TheUnknowable〕に加えて、「アンコンデションド」〔TheUnconditioned(無制約者)〕とも言いかえていることが挙げられる。「アンコンデションド」とは、ハミルトンの「無条件的なものの哲学」における絶対者の規定である。清沢満之「他力信仰の発得」(『仏教』第一五一号、一八九九年六月)『岩波』六。SirWilliamHamilton,Discussions on Philosophy and Literature, Edducation and University Reform, NewYork:Harper&Brothers,1861,p.20.『法蔵館』三・六八三頁。暁烏の回想は次のようなものである。「清沢先生のお傍にいるときに、いつもやかましう云はれたことは、スペン ()20

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サーの『ファースト・プリンシプル』(第一原理)といふ書物であります。それに彼は、アンノーワブル、不可知といふことを云っている。ヒュームの懐疑説は、スペンサーのアンノーワブル・ワールド、不可知の世界に関することであります。人間は理性的にものを考へるといふと分らない。が然し、分らん世界といふものがある。人生には、皆分らん世界、不思議な世界がある。不可知な世界、アンノーワブル・ワールド、これが当時やかましういはれた」。『法蔵館』八・三三九頁。清沢のこうした議論の背景には、明治二八年から翌年にかけて生じた「仏教因果説」論争があった。詳しくは拙論を参照されたい。長谷川琢哉「真理と機――仏教因果説論争からみる清沢満之の思想と信仰」『近代仏教』第二五号、二〇一八年。清沢満之「仏教之現利」(『無尽灯』第二巻九号、一八九六年七月)、『岩波』二。清沢満之「破邪顕正談」(『仏教講話集』、一九〇〇年六月所収)、『岩波』二。清沢満之「因果の必然と意志の自由」(『無尽灯』第四巻第六~七号、一八九九年六~七月)、『岩波』二。清沢満之「他力信仰の発得」、前掲書。 ()34

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