1.序論―メディア研究者が残したミュージアム論をいかに読むか?
本稿は,イギリスのメディア研究者ロジャー・シルバーストーン
(Roger Silver- stone)
が 1980 年代後半から 1990 年代にかけて残したミュージアム論を手がかり に,ミュージアムというメディアの輪郭を素描し,その形式がメディア研究にお いて持つ理論的な意義を論じることを目標としている。良く知られているように,ロジャー・シルバーストーンはイギリスを代表する メディア研究者であり,日本でも『なぜメディア研究か―経験・テクスト・他者』
が 2003 年に刊行されている。とりわけ,1990 年代に家庭でのメディア消費をエ スノグラフィックに描き出した一連の業績
(Silverstone 1990;1994a, etc.)
は高い 評価を得ている。実は,そのシルバーストーンであるが,1980 年代後半から 1990 年代半ばにかけて多くのミュージアム論を残している。というのも,シル バーストーンは 1988 年からロンドンの科学博物館の常設展示のリニューアル計 画に参加しており,その過程で研究対象としてのミュージアムに関心を抱いたか らである。しかし,メディア研究の領域でこれらのミュージアム論が検討された ことはなく,1990 年代におけるミュージアムのメディア研究としての独創性は もちろんのこと,これらのミュージアム論が,当時のメディア研究の動向,及び シルバーストーンの研究関心に根ざしていたことは知られていない。一方で,シルバーストーンのミュージアム論が書かれた 1990 年代は,ミュー ジアムスタディーズ
(MS
(1))
においてもメディア研究に注目が集まっていた。なぜなぜミュージアムでメディア研究か?®
ロジャー・シルバーストーンの ミュージアム論とその射程
光 岡 寿 郎
(東京大学大学院生)なら,後述するように MS における既存の来館者像に対する批判が強まっていた からである。この来館者像は,1970 年代に行動主義心理学に基づいて来館者調 査法が制度化される過程で定着したものだが,ここで描かれた受動的な来館者像 を更新するために,一部の研究者がメディア研究の成果の導入を図ったのである。
しかしながら,当時の関心は「来館者/オーディエンス」の解釈の能動性や多様 性に専ら向けられており,シルバーストーンの議論に既に胚胎していた,「ミュ ージアム/メディア」の形式の独自性という視点は見落とされてきた。この意味 でも,メディア研究,MS の両者にとって,シルバーストーンのミュージアム論 には未だ検討の余地が残されている。
そこで,まず次節において,シルバーストーンの残したミュージアム論を詳細 に検討し,彼が描く「ミュージアムというメディア」の輪郭を明らかにする。続 いて第三節では,シルバーストーンのミュージアム論の MS に対する優位性を指 摘する。最終節では,ミュージアムをメディアの複合体―メディアコンプレック ス―という様態においてとらえ,この概念を手がかりにミュージアムを現在のメ ディア研究へと架橋し,その重要性を指摘したい。
2.シルバーストーンのミュージアム論
2−1 議論の背景
そもそも,シルバーストーンのミュージアム論が成立する背景には,二つの要 因が存在していた。一方には,シルバーストーンが 1990 年代初頭に,ロンドン の科学博物館
(Science Museum, London)
のリニューアル計画に加わっていたとい う個人的な文脈。他方には,当時のイギリスのミュージアム,とりわけ理工系博 物館のエンターテイメント化がある。まず前者に関しては,シルバーストーンは 1988 年から科学博物館の常設展示 の一部をリニューアルする「Food for Thought」の展示企画に参加している。こ のプロジェクトには,シルバーストーンに加え,文化人類学者のシャロン・マク ドナルド
(Sharon Macdonald)
といった外部の研究者が加わっている。この展示室 は2年後の 1990 年にオープンしており,この前後にミュージアムに関わるシル バーストーンの著作が集中している(Silverstone 1988a;1989;1994b;Macdonald
and Silverstone 1990;1992)
。1991 年に出版された論文の著者紹介欄にも,「現在 の研究関心は,ミュージアムにおける科学の表象4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4と,家庭におけるテクノロジーの消費である(2)」
(Silverstone 1991:110,傍点=引用者)
とあり,当時のシルバース トーンにとってミュージアムが中心的な研究関心の一つであったことは間違いな い。また 1980 年代には,テーマパークのように洒落たカフェやユニフォーム,
IMAX シアターと呼ばれる上映施設がミュージアムに導入され,ミュージアム のエンターテイメント化が進行する。この現象は,サッチャー政権下での公的文 化施設に対する予算の縮小
(Hooper-Greenhill 1995:1-3)
に起因していた。結果と して,ミュージアムは劇場などの異分野の公的文化施設との助成金争奪競争に加 え,映画館やテーマパークといったエンターテイメント産業とも来館者の獲得を 巡って争うことになる。この競争の過程で,娯楽的要素を取り込まざるを得なく なったミュージアムは,「文化・エンターテイメント産業の複雑な配置(complex array)
を構成する一要素」(Silverstone 1994b:161)
へと変貌していく。そこでは,ミュージアムが市民の啓蒙施設の地位に安住することは困難であり,公的教育施 設としての体裁を保ちながらも,一方で来館者を楽しませる娯楽性を提供すると いう義務/ジレンマを負うようになる。そしてこの義務は,「人々に伝え
(to in- form)
,教育し(to educate)
,楽しませる(to entertain)
」という BBC の,つまり イギリスにおける伝統的なマスメディアの役割でもあった。シルバーストーン自 身,ミュージアムの果たすべき役割は「専門職,初心者の両者に,彼らを教育し,伝え,楽しませる
(to educate, inform and entertain)
ためのモノ(objects)
と人工物(artifacts)
を提供する」(Silverstone 1989:140)
ことであると指摘する。そして,この評価軸の共有からミュージアムを広義のマスメディアの一形式として位置づ けることが可能になったことで,メディア研究の視座もまたミュージアムに援用 可能になると考えたのである。ゆえに,シルバーストーンは以下のように述べる。
もしミュージアム,展覧会,展示物―それが美術,科学技術,文化と産業の いずれについてであれ―が,マスコミュニケーションの中で作用している―
また実際より一層作用している―のであれば,それらが機能する方法,その 効果や効率性の理解は,マスコミュニケーションや現代文化の研究において 用いられる手順で知ることが可能なはずである。
(Silverstone 1989:139)
では,具体的にシルバーストーンのミュージアム論を見ていくことにしよう。
2−2 ミュージアムのテクスト
まずシルバーストーンが着目したのは,ミュージアムがテクストを生成するプ ロセスである。シルバーストーンは,当時のミュージアムのエンターテイメント 化を,ミュージアムの社会的機能の変化としてとらえていた。というのも,ミュ ージアムの教育施設としての社会的意義が自明視されていた時期には,その第一 の機能は「モノ=分類学」の提示にあり,個々のモノが持つ安定した学術的価値 にミュージアムは依拠することができた。けれども,娯楽性を強めるミュージア ムにおいては,来館者を楽しませる「物語」が前景化し,モノ固有の価値は相対 化され,物語の中でその都度与えられる意味がより重視されるようになる。この 変化は,分類学に依存した「モノの展示」から,モノに堆積した意味の多層性を 顕在化させる「物語の生成」へと機能が移行したことを示すと考えていたのであ る
(Macdonald and Silverstone 1990:180-182)
。ゆえにシルバーストーンは,「ミュ ージアム,文化遺産そしてテレビドキュメンタリーはともに現実をテクスト的な 事象として作り出している。」(Silverstone 1989:140)
と指摘し,このミュージア ムのテクスト性(textuality)
を手掛かりに,既存のメディア,とりわけテレビと の比較を試みる。このミュージアムが物語を生成する機能への注目には,メディア研究者シルバ ーストーンの当時の関心が反映されている。というのも,1980 年代のシルバー ストーンの主要な関心は,テレビドキュメンタリーのナラティブ分析にあったか らである。とりわけ,「真実」を伝達すると想定されてきたドキュメンタリー番 組のテクストが,神話的な
(mythic)
語りと模倣的な(mimetic)
語りとの間の交渉,緊張,妥協によっていかに最終的に構造化されるのかというテーマが繰り返し表 れる
(Silverstone 1987;1988b)
。だからこそ,シルバーストーンはテレビとミュ ージアムをテクストの生成という平面において論じるのである。彼ら
(ミュージアムのキュレーターとテレビのプロデューサー=引用者)
は,観衆 に対してと同様にその指示対象に対しても「真実」である最終的なテクスト をまとめようと努力しながら,映像やモノ,言葉を扱うことになるだろう。そして,その最終的なテクストは,ミュージアムのなかのモノ,映像,言葉 の見かけ
(appearance)
が,幾分かはその真正性と正確性を保証するという,総じてミュージアム自身の正統性を維持するナラティブに暗黙のうちに訴え ている。そして,彼らはまた意識的であれ無意識的であれ,その実質的な目
標が受け手
(来館者と視聴者=引用者)
の関心と確信を求めるという構造的か つ修辞的な原則に従って,テクストを紡ぎだすであろう。(Silverstone 1988a:
234)
そして,両者のテクストには,馴染みのないもの
(the unfamiliar)
を身近なも の(the familiar)
にし,身近なものを馴染みのないものにするという特徴が共有 されていると考えていた。つまり,ミュージアムやテレビを通さなければ知りえ ない世界が一般の視聴者や来館者に分かりやすく提示され,一方で身の回りの事 象やモノの意味が,日常的な文脈を離れた学術的な水準においても明らかにされ るからである(3)。このようにシルバーストーンは,テクストの生成過程とその性質 という点においては,両者の差異よりはむしろ共通性に目を向けていたのである。2−3 選択する身体とミュージアムの空間性
次に指摘すべきなのは,ミュージアムというメディアの持つ空間的特性へのシ ルバーストーンの関心である。上述のように,シルバーストーンはミュージアム もまたテレビ
(番組)
と同様にテクストとして把握しようと試みており,そのテ クストに媒介されたコミュニケーションの様態に関しても類似性を認めていた。とりわけ,両者のコミュニケーション形式が,「
(意味の=引用者)
生産者,テク スト,受け手の共同的な企図に基づく相互依存関係」(Silverstone 1988a:232)
を 共有している点に注意を喚起している。そのなかでも特にシルバーストーンが注 目していたのは,ミュージアムにおけるコミュニケーションの受け手,すなわち 来館者のテクストの理解とそのプロセスである。まず言えることは,来館者はミュージアムの権威,その分類の全体性,そし て展示の真正性を受け入れようと構える孤立した学者や,教育に餓えた初心 者,もしくは真実の探究者
(the seeker after truth)
ではなく,消費者として 認識される傾向が強くなっている。ミュージアムの来館者は,イメージやア イデア,経験を消費し,刺激に満ちた世界のなかで絶え間なく娯楽を求める 遊覧者(a pleasure seeker)
としてますます認識されるようになっている。(Macdonald and Silverstone 1990:185-186)
ここで指摘すべきなのは,シルバーストーンは「消費者としての来館者」を,
消費社会論に顕著な,絶え間ない差異の戯れに翻弄される受動的な存在としては とらえていない点である。なぜなら,むしろ「教育に餓えた初心者」や「真実の 探究者」こそが,ミュージアムの権威や展示の真正性を自明視し,そのメッセー ジを鵜呑みにする受動的な存在だからである。確かに消費者としての来館者は,
周囲の展示物やメディア環境の刺激に対して移り気で,個々の展示物をじっと鑑 賞することはないかもしれない。しかし一方で,彼らはミュージアムのテクスト の真正性を自明視することはない,もしくは無頓着なのであって,彼ら自身が展4 示室内での動線や鑑賞すべき作品を選択し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4,個々の文脈に応じて空間的に「物語
=ミュージアムのテクスト」を編み上げるのである。従って,シルバーストーン は消費者たる来館者のミュージアムの理解を以下のように記述している。
消費者に対する選択の提供はまた,
(展示の=引用者)
主題の設計やマルチメ ディア環境によっても影響される。来館者がこのギャラリーでとりうるルー トは様々だし,全てのエリアで多様なメディアが利用されているので,来館 者のギャラリーの理解(reading)
は,たった一つや二つの表現様式によって は決定されないのである。ギャラリーは,展示物や文字だけではなく,ヴィ デオや録音された音響素材,そして幅広いインタラクティブな展示物を組み 込んでいる。そして,そうした多様なメディア自身,経験のされ方において よ り 広 範 な 選 択 へ と 開 か れ て い る の で あ る。(Macdonald and Silverstone 1990:184)
この自身の「選択」によってテクストを組み替えていく能動的な来館者像につ いては,シルバーストーンは,ミシェル・ド・セルトー
(Michel de Certeau)
が 1980 年代に論じていた,都市の記号論にヒントを得ていた(Certeau 1980=1987:
第七章)
。ただし,都市空間における恣意的な順路選択のもたらす結果が常にテ クストへと還元されていくセルトーの議論に比して,シルバーストーンは,選択 を繰り返しながら回遊する来館者の身体を想起させている点で,ミュージアムと いうメディアのテクストが持つより物質的な空間性への照準を可能にしている。なぜなら,ミュージアムの提示する空間における順路,展示物,及びそれらを取 り巻くメディアの選択とはすなわち,書籍で言えば頁や節の水準でナラティブを 書き換えていくことを意味しているからである。ゆえにシルバーストーン自身,
ミュージアムは,現代のメディアにおいてはとりわけ,物理的-物質的-に 空間を具現化する。つまり,…
(中略)
…再びミュージアムのコミュニケー ションの様式を特徴づける様々な空間的関係性が持つ重層性を覆い隠すよう な地理的空間,建築的な環境を生み出すのである。(Silverstone 1994b:171)
と指摘し,ミュージアムというメディア形式の持つ空間性を抽出している(4)。実は ここにも,シルバーストーンのメディア研究における関心の推移が表れている。
なぜなら,1990 年代に入るとアンソニー・ギデンズ
(Anthony Giddens)
やドリー ン・マッセイ(Doreen Massay)
らの議論に刺激される形で,多くのイギリスのメ ディア研究者が,日常生活に浸透したメディアによる「時間-空間」の分節に注 目するようになったからである(Giddens 1990=1993;Ma
ssay 1994)
。この傾向は シルバーストーンにも同様であり(Silverstone 1990;1994a)
,その影響が表れた一 例として,シルバーストーンのミュージアム論を理解することが可能だろう。2−4 多感覚(multisensory)性を帯びたミュージアム
上述のシルバーストーンの議論から,私たちはもう一歩議論を進めておく必要 がある。まず,ミュージアムというメディア自身が,メディアの複合体―メディ アコンプレックス―でもあるという点だ。もちろん,マクルーハンの「メディア はメッセージである」
(McLuhan 1965=1967:14)
が示唆するように,あるメディ アはそれ以前のメディアを何らかの形で引き継いでいる。けれども,シルバース トーンが「それら(ミュージアム=引用者)
は,自身の展覧会において,ますます 他のメディア,とりわけヴィデオや双方向的なコンピュータに基礎を置くテクノ ロジーに依存するようになっている。」(Silverstone 1994b:162)
と指摘するとき,その位相は異なっている。というのも,異なる形式のメディアがミュージアムと いうメディアの形式を物理的かつ空間的に構造化しているからである。例えば,
テレビを聴覚メディアと視覚メディアの複合体ととらえたとしても,音声と映像 は互いに強く依存しながらテクストを生成している。しかし,ミュージアムに配 置された個々のメディア-解説パネル,解説映像,双方向型展示物-が生成する テクストは,それ自体は相対的に完結している。にもかかわらず,その独立した テクストの
(時に恣意的な)
総体としてもミュージアムのテクストは経験されてし まう。ここに,テレビという受像機に音声と映像が閉じ込められたメディアと,テレビや音響機器といったメディアの森の中を身体的に巡るミュージアムという
メディアとの間の差異が存在している。
また,上述の論点と表裏一体を成しているのが,来館者のミュージアムのメッ セージ受容における多感覚性と,その非限定性である。ここでも具体例を挙げる とすれば,読書に用いる感覚は原則視覚だし,テレビは視覚・聴覚の両者に訴え るが,基本的にメディアとその消費に用いる感覚は限定的なカップリングを形成 してきた。ところが,ミュージアムというメディアは空間そのものでもある以上,
そこではいかなる感覚も潜在的には作用しうる。シルバーストーンによれば,
ミュージアムは物理的な空間を占有し,来館者がそこにいることを要求する。
そこに提示されている個々の展示物は,その展示
(方法=引用者)
によって実 質的には元の文脈からは引きはがされてきたかもしれないが,それらは,多 感覚的(multisensory)
な反応(視界,音響,触感,臭い,そして味さえも)
を促 す一定の文脈において立ち現われ,この経験という意味において「真実」な のである。(Silverstone 1988a:234)
つまり,複数の異なる形式のメディアによって構造化されたミュージアムとい う空間は,一方でミュージアムを訪れる観衆の多様な身体感覚を作用させる環境 でもある。この性質も,空間的に展開したメディアであるミュージアムの特徴と して指摘することができる。
以上のように,シルバーストーンのミュージアム論は,テクストの空間性とい う視点を手がかりに,ミュージアムというメディアの形式を把握しようとする一 連の試みとして理解することができる。そしてこれらのミュージアム論は,シル バーストーン自身の関心,及び同時代のイギリスのメディア研究のなかで育まれ たものなのである。
3.ミュージアムコミュニケーション論の限界
3−1 ミュージアムスタディーズにおけるメディア研究の導入 前節で論じたシルバーストーンのミュージアム論が,当時のメディア研究にお いては先駆的な研究であったのに対して,MS におけるコミュニケーションへの 関心は,基本的には 1950 年代以降形を変えながらも継続されてきた(5)。ただし,
メディア研究への傾斜が強まるのは 1980 年代後半からであり,その代表的な論
者がイギリスの MS の第一人者であるアイリーン・フーパーグリーンヒル
(Eilean Hooper-Greenhill)
だった。彼女のメディア研究への関心は,1970 年代に MS で定 着した行動主義的なコミュニケーション観に対する批判に由来している。という のも,ミュージアムにおけるコミュニケーションは,MS におけるオーディエン ス研究と考えて差し支えのない来館者研究(Visitor Studies)
がその研究対象とし てきたが,この来館者研究は 1970 年代の来館者調査法の制度化の過程で,当時 の教育心理学で主流だった行動主義の影響を色濃く反映していったからである。結果として,ミュージアムから送られた情報をどれだけ来館者が「吸収する/学 ぶ」ことができるのかという,線条的かつ定量的なコミュニケーションモデルが MS においては支配的になる。フーパーグリーンヒルは,この行動主義に基づい たモデルでは充分に来館者の行動を記述することはできないと考え,同様の困難 を克服したメディア研究の成果の重要性を訴えたのである。
メディア研究においては,すでに 1950 年代にメッセージの受容過程におけ る視聴者の能動性や社会的文脈の重要性を指摘していたのに対して,私たち
(MS 研究者=引用者)
は,いまだ観衆の研究すら始めていないのだ。私たちがミュージアムにおいて用いてきた方法論は,コミュニケーション論や文化 研究の理論家が用いてきた方法には注意を払わずに,観衆が解読する能力の 重要性を示すことができなかった行動主義的,実証主義的な方法に過大な信 頼を寄せていたのである。
(Hooper-Greenhill 1995:9)
ここでフーパーグリーンヒルが言及している 1950 年代の議論というのは,「利 用と満足」研究のことだが,スチュアート・ホール
(Stuart Hall)
の「エンコーデ ィング/ディコーディング」(Hall 1980)
に基礎を置く「能動的な観衆(active audi-
ence)
」論もまた,彼女の議論に影響を与えていた。というのも,既存の行動主義的なコミュニケーションモデルにおいては,来館者もまたメッセージに対して 受動的な一枚岩の集団として認識されてきたからである。フーパーグリーンヒル
自身,「
(来館者の=引用者)
鑑賞する,もしくはメッセージを解読するプロセスは考慮されず,ミュージアムで来館者が取りうる解釈するという行為に対する期待 が依然として低い」
(Hooper-Greenhill 2000:136)
と批判する。けれども,メディ アのメッセージに対して観衆が取りうる「支配的-ヘゲモニー的(dominant-hege-
monic)
」,「折衝的(negotiated)
」,「対抗的(oppositional)
」という三つのポジションを措定したホールのアプローチ
(Hall 1980:136-138)
は,観衆がメッセージを 理解する上での個々の文化的,社会的,政治的な文脈を重視し,「来館者/観衆」がコミュニケーションの過程で果たす積極的な役割を担保することを可能にした。
ゆえに,このメッセージを理解する過程での来館者の能動性を手がかりに,フー パーグリーンヒルは既存の MS における硬直したコミュニケーションモデルの更 新を図ったのである。
3−2 「来館者/オーディエンス」の重視,「ミュージアム/メディア」
の軽視
しかし一方で,1990 年代のミュージアムコミュニケーション論は,フーパー グリーンヒルの議論を自身の限界として内包することになる。端的に言えば,彼 女の限界は「能動的な観衆」論の有効性を理論の水準で理解した点にある。つま り,ミュージアムというメディアが持つテクストの具体的な構造の分析への適用 には至らなかったのである。というのも,そもそも「能動的な観衆」という概念 は,純粋に理論的な概念というよりは,実証研究における分析概念としての色彩 が強かったからである。ゆえに,この観点に基づいたメディア消費の記述とは,
メディアが生成したテクストを受け手が消費する場の分析であると同時に,その テクストが生成されるプロセス,及びそのテクストの性質そのものの分析に他な らない。この作業の反復を通じて,「能動的な観衆」という概念は鍛えられてき たのである。従って,ホール自身の議論にも明らかだったように,「能動的な観 衆」の一連の議論は,受け手のメディア消費の能動性のみに焦点したというより は,むしろコミュニケーションの過程に参加する複数のアクターや,その生成,
消費に影響を与える社会的変数の重層性の全体像を明らかにする分析枠組みとし て有効だったはずである。
ところが当時の MS においては,この方法論的な拡がりが認識されることはな かった。もちろんその主要因として,当時の論点が 1970 年代から続く行動主義 的なコミュニケーションモデルの解体にあったという点は否めない。ただ,結果
「来館者/オーディエンス」という概念への注目の裏で,実は来館者同様決して 十分に MS の文脈では考慮されてこなかった「ミュージアム/メディア」のテク ストへの,もしくは,ミュージアムというメディアの「形式」への問いは後景へ と退いていった。ゆえに,フーパーグリーンヒルのミュージアムというメディア への想像力もまたあまり豊かなものではない。フーパーグリーンヒルは,「ミュ
ージアムにおいては,マスコミュニケーションの多くの形式に一般的な特徴の多 くが存在する。しかし,それに加え,対面式
(face-to-face)
のコミュニケーション も存在する」(Hooper-Greenhill 1994:36)
と指摘する。けれども,この概念化も既 存の「マスコミュニケーション」と「対面コミュニケーション」という二分法自 体は忠実に踏襲しており,では具体的に両者がどのようにミュージアムというメ ディアのテクストを構造化しているのかという分析を残すことはなかった。この 課題は MS に依然として付きまとっている。このミュージアムというメディアの「形式」への問いに対して,シルバースト ーンのミュージアム論はより豊かな示唆を与えてくれる。もちろん,シルバース トーンもまた,ミュージアムというメディアをテレビを参照することで概念化し ようと試みていた。しかし,メディアの生成するテクストという水準を設定する ことで,ミュージアムというメディアの空間性という特徴を導き出している。そ して,この空間的に展開されたテクストというシルバーストーンのアイデアを手 がかりに,私たちはミュージアムというメディアを特徴づける内部に配置された メディアの相互作用や,その相互作用を通して形成されていくミュージアムのテ クストの消費を分析の射程に収めようとしているのである。恐らく,ここに至っ て初めて,ミュージアムのメディア研究が実証研究へと架橋されていく可能性が 生まれる。なぜなら,この分析は展示デザインという現場の実践と不可分だから である。いずれにせよ,当時メディアの形式に着目していたシルバーストーンの ミュージアム論が MS と出会わなかったことは,不幸な巡り合わせだったと言え るだろう。
4.なぜミュージアムでメディア研究か?
前節では,シルバーストーンのミュージアム論が同時代の MS に対して持つ優 位性を指摘した。そこで当節では逆に,ミュージアムを通して4 4 4メディア研究を行 うことの意義について素描してみたい。
4−1 空間に埋め込まれたメディアの関係性を可視化する
シルバーストーンのミュージアム論のなかで示唆されていたのは,ミュージア ムというメディアが生成するテクストは空間的に構造化されていること,そして そのテクストの特性が,異なるメディア形式―テレビ,音響機器,双方向型展示
物
(コンピュータ)
―といった相対的に独立性の高いテクストの相互作用に依存し ているということであった。ただ一方でシルバーストーンは,ミュージアムがメ ディア研究において持ちうる理論的射程を,テレビとの関係性に限定して論じて いる。しかし,むしろシルバーストーンの議論の重要性は,ミュージアムを通し て提起したメディアの空間性への問いが,実は新たなメディア消費の分析枠組み へと展開されうる点,さらに,その枠組みが分析を可能にするメディア消費の諸 空間の関係性のなかに,ミュージアムを再布置しうる点にこそ求めるべきである。この論点を明確にしていく上で重要な示唆を与えてくれるのが,アメリカのメ ディア研究者のアンナ・マッカーシー
(Anna McCarthy)
である。マッカーシーは,メディアの空間性―それはメディア自身の4 4 4空間性であると同時に,メディアを通4 した4 4空間性でもあるが―を,現代美術においては「ある特定の場所や施設のため にデザインされ,他のどこにも移植することのできない作品」
(McCarthy 2001:2)
のジャンルを意味する「サイトスペシフィック
(site-specific)
」という概念を援用 することで議論している。さほど学識ばらない選択肢―つまり空間に置かれたモノとして,そして諸空 間の間の関係性としての弁証法的な性質を留めた選択肢―は,この技術的な 多様性がテレビの場所固有性
(site-specificity)
の反映,つまり環境的なメデ ィア装置としての柔軟性の反映であると認めるだろう。映画とは違い,テレ ビは現場での大規模な物理的かつ技術的な変更を必要としない。テレビは,管理や周囲の光の変更の必要もなしに作動する。そのプログラムのソースへ のアクセスは容易で,スクリーンの大きさや音量も変更可能である。テレビ は,場所に応じて他の電子機器やメディア形式,及び商業ディスプレイと混 ざり合うのである。
(McCarthy 2001:14)
ここで言及されているのは,「環境的なメディア装置」としてのテレビである。
マッカーシーは,病院の待合室,場末の食堂,デパートといった場を具体的に分 析し,場の固有性とメディア受容がいかに相互規定されているのかを説得的に議 論している。そして,彼女のメディア消費における場所固有性の強調は,
1980 年代以降の英米圏の実証的なメディア消費の研究に対して批判性を持つと 同時に,その延長線上にも位置づけられる。というのも,メディアが消費される 空間,及びそこに埋め込まれた文化的・政治的・社会的諸力の固有の関係性を描
くことを目標にしながらも,1980 年代以降の実証研究は一面で「家庭」をメデ ィア消費の空間として肥大化させたからである(6)。結果として,性質を異にするス ポーツパブでの衛星放送の共同視聴,国際線で座席に搭載されたスクリーンの視 聴,そして日本であれば電車内でのワンセグの視聴といったパブリックな空間に おけるメディア消費の分析は後回しにされてきた。一方でまた,延長線上にある と指摘したのは,同様に従来の実証研究で重視されてきた番組制作の過程に影響 を与える人種,ジェンダーに代表される社会的変数,そしてそれらの番組の受容 過程に視聴者が持ち込む個々の文脈に加え,「テレビという受像装置/スクリーン」
が設置された空間的な特性の重要性を改めて提示したからである。
そして,このマッカーシーの議論は,ミュージアムをメディアコンプレックス として分析する際の,ミュージアムというメディアの一形式に組み込まれた個別 のメディアからの視点に他ならない。つまり,環境的なメディア装置であるテレ ビは,ミュージアムという空間において,そのテクスト
(多くの場合展覧会の内容
を補完する番組)
自体が消費されていると同時に,その受容及び理解は,スクリーンが埋め込まれたミュージアムというメディアの形式―展示空間のナラティブ,
そしてそのナラティブを構成する異なるメディア―に依存せざるを得ない。そし て,それは何も「テレビ/視覚メディア」に限ったものではなく,同じ展示空間 を共有する「音響装置/聴覚メディア」,「説明パネル/テクストメディア」にも 同様に当てはまる。このある空間を構造化するメディアの関係性の総体を「メデ ィアコンプレックス」という概念で可視化したいのである。ただし,ミュージア ムを「メディアコンプレックス」と呼ぶ際には,二つの含意があることを確認し ておきたい。一つは,ミュージアムというメディアが,実体的に異なるメディア 形式の複合体として成立している点。この視点は,ミュージアムというメディア の消費の分析を,展覧会全体のメッセージと来館者の理解という従来のマクロな 水準に加え,実際の空間における来館者の身体及びそこに配置されたメディアの 相互作用というミクロな水準に担保しておく点で有効である。そしてもう一点は,
メディアコンプレックスという概念はミュージアムに固有の性質を意味するので はなく,ある空間がメディアによって重層的に構造化されている様態を可視化す るための理論的な枠組みでもあるということである。つまり,ミュージアムだけ ではなく,ショッピングモール,空港,電車の車内といった公共空間においても また,固有のメディアコンプレックスが機能しており,むしろメディアの複合性 という水準において,これら日常生活のなかで訪れる異なる機能を持った空間が,
関係性を持って立ち現われることが重要なのである。つまり,空間的な特性は従 来メディア消費の媒介変数として把握される傾向が強かったが,むしろ私たちの 空間の消費のなかにメディアが重層的に挿入されているという複眼的な視点を維 持しておくための枠組みなのである。これは,メディアが据え置き型から携帯型 へと日々変化し,数多くの空間を横断している現状において,メディア研究に与 えられた古くも新しい課題のはずである。そこで残った紙幅を利用して,ミュー ジアムで機能するメディアコンプレックスの一端を明らかにしておきたい。
4−2 ミュージアムのメディアコンプレックス
ここでは韓国の国立中央博物館を一例として取り上げたい。同館は,2005 年 ソウルの龍山区にリニューアルオープンした非常に美しい歴史系のミュージアム である。各展示室には韓国の歴史的な時代区分が設定され,全体としては時系列 に基づく線条的なナラティブが空間を貫いている。ただし,デジタル化が進んだ 韓国らしく,各展示室には最新の液晶スクリーンが設置され,展示室間にも十分 な双方向型情報端末が設置されている。さらに,館内で貸し出されている携帯ガ イドも PDA を採用したもので,音声,映像がともに利用できる。従来のミュー ジアムのメディア研究であれば,恐らくこれらのメディアは以下のように構造化 されるだろう。まず,展示された文化財と解説パネルが主要なテクストを構成す る。そして,その動線に埋め込まれた解説ヴィデオ,タッチパネル型の情報端末,
そして携帯ガイドがその理解を補完している,と。けれども,この構造はミュー ジアムというメディアの受容を,展示空間のメッセージという字義通りのテクス トの水準に設定しており,空間の消費に基づいてメディアの複合性を描くメディ アコンプレックスという概念に沿えば,もう少しこの空間を通したメディアの拡 がりを認識できるはずである。
同館で撮影した二枚の写真を見て頂きたい
(図1)
。左は展示物を携帯電話のカ メラで撮影する来館者,右は PDA ガイドを利用する来館者の写真である。これ らもまた,展示の鑑賞と同様にミュージアムを彩るコミュニケーションの一例で ある。前者に関しては,カメラつき携帯電話の普及によって,近年展示物の撮影 が非常に増加している。しかも,プライベートな性質が強い携帯電話が利用され ることで,大量の写真が flickr に代表されるインターネット上の画像共有サイト に投稿されるようになった。そこでは,来館者の誕生日の写真や観光地での記念 写真といった日常的なイメージのシンタックスに展示物の写真が挿入されることで,その展示物に本来の分類学的な 意味とは異なる新しい意味が付与さ れていく。さらに,そこで来館者が 写真を分類する際に与える一般的な 用語は,インターネット上でその展 示物を検索する際のキーワードとし て記憶されていく。結果として,専 門知
(technical term)
に基づいた分 類が提示される物理的な空間として のミュージアムと,インターネット 上の空間に顕在化しつつある集合的な分類行為としてのフォークソノミーが,ミュージアムに持ち込まれた携帯電話 というメディアを媒介に折り重なっていく。
一方,右の写真については,この女の子がまだ子供だという点が重要である。
子供たちを観察していればすぐに分かることだが,彼女たちの多くがまずこの PDA の操作自体4 4 4 4 4 4 4 4に夢中になる。というのも,展示の理解を補助するメディアと して携帯ガイドを自明視してしまう大人とは違い,何より子供たちにとってこの PDA は,日常生活における PSP や NintendoDS といったガジェットの延長線上 にあるからである。そして,PDA の操作を一通り覚えると初めて,PDA に表示 された文化財を展示室の中で探し始めるのである。子供たちは,日常的に上述の ようなガジェットの液晶に映る世界がフィクションであることを理解しているが,
ミュージアムは違う。むしろ,そのようなフィクションのはずの世界が実際に自 分の周囲の環境として存在しており,その感覚に刺激を受けている可能性がある。
もちろん,これ自体検証すべき課題だとしても,少なくとも展示物の真贋やメデ ィアの提供する情報の真偽という古典的な水準とは別に,ミュージアムという物 理的なモノによって構造化された空間に,先端技術を搭載した「ガジェット/メ ディア」が持ち込まれることで,子供のリアリティ感覚の揺らぎという主題を見 据えることができる。
このように,メディアコンプレックスとしてのミュージアムは,そのナラティ ブを構成するためにミュージアムに設置されたメディアだけでなく,その消費の ために持ち込まれるメディアまでを射程にとらえることを可能にする。そして同 時に,ミュージアムというメディアを,その空間を通して機能するメディアに媒
図1 韓国国立中央博物館 (左:携帯電話で撮影する来館者 右:PDA ガイドを利用する来館者)
介された多様なコミュニケーションの関係性の総体として描き出すことを可能に してくれるのである。
5.結語―メディア研究はいかにミュージアムを描いていくのか?
以上本稿では,1990 年代にロジャー・シルバーストーンが残したミュージア ム論を詳細に検討してきた。その上で,シルバーストーンの議論の MS に対する 理論的な優位性を指摘し,メディアコンプレックスという概念を援用しながら,
空間的に配置された異なるメディア形式の構造として機能するミュージアムの特 性を描き,メディアの空間性に着目した現在のメディア研究の文脈に位置づけた(7)。 最後にもう一度,ミュージアムをメディアコンプレックスの視点から把握する 意義を確認しておきたい。まず指摘したいのは,実証的なミュージアムのメディ ア研究における理論的な枠組みとしての有効性である。実は MS においても,漸 く「能動的な観衆」論を援用した実証研究の成果が明らかにされた
(Sandell
2007)
。しかし,テクストの空間性への問いが依然として未解決のため,この研究もまた分析対象を「社会における差別の是正を目指す」という明白なメッセー ジを持つミュージアムに限定することとなった。そして,そこでは狭義のテクス トの理解に留まらない,ミュージアムというメディアを通した多様な来館者のコ ミュニケーション活動が十分に検討されることはなかった。さらに,そこで探究 されるべきコミュニケーションは例外なく,ミュージアムを取り巻き,ミュージ アムに設置され,ミュージアムに持ち込まれるメディアに媒介されているのであ り,それらをミュージアムにおける個別のメディア研究ではなく,構造として可 視化し,常に意識するための理論的な枠組みとして,メディアコンプレックスの 視点は有効なはずである。
一方でメディア研究の文脈においては,前述のマッカーシーに代表されるミク ロな水準でのメディアと空間性への関心は,若手の文化研究者であるニック・ク ッドゥリー
(Nick Couldry)
や iPod を中心とした携帯音楽メディアの研究者であ るマイケル・ブル(Michael Bull)
など,英米圏では広く共有されている(8)。彼らの 視点は,1990 年代のギデンズらに顕著だった,交通網や電子メディアの発達に よる時間・空間感覚の分離といったマクロな議論とは位相を異にしている。ただ,一方で彼らは空間性を考慮しながらも,そこで消費されているテレビ受像機/ス クリーン,携帯音楽メディアといった個別のメディアに焦点しており,それらの
メディアの主題化を可能にする背景となる,個々の空間を占めるメディアの構造 という視点は必ずしも明確に反映されていない。この 1990 年代後半以降のメデ ィア研究の流れを補完していく点でも,メディアコンプレックスの枠組みは有効 なはずである。もちろん,この概念は未だ完全なものではないし,むしろ今後の 実証研究のなかで幾度も鍛え直していく必要があるだろう。だとしても,メディ アが重層的に埋め込まれた空間としてミュージアムを描き出すこと,これが現在 のメディア研究に与えられた課題ではないだろうか。
付記:本稿は,平成 21 年度日本学術振興会特別研究員奨励費による研究成果の 一部である。
注
(1) 以降ミュージアムスタディーズの表記として MS を利用する。
(2) 尚,以降本稿の英論文の翻訳は全て引用者による。
(3) ミュージアムに関しては Silverstone(1988a;1994b),ドキュメンタリーに関 しては Silverstone(1988b)を参照のこと。
(4) とはいえ,イデオロギー論の影響が残る都市の記号論から空間性を導いている 点に限界があるという批判は正しい。ただ,これは 1990 年代初頭のメディア研究 の限界でもあり,ゆえにシルバーストーンの議論を記号論に過ぎないと棄却するの は性急である。むしろ,次項でのシルバーストーンの感覚への言及に空間性を媒介 する身体への視線を認め,その示唆がミュージアムというメディアの空間性を論ず る上での有効性を現時点から再構成することが必要だし,それが本稿の目的でもある。
(5) 1950 年代から 1970 年代にかけての英語圏でのミュージアムコミュニケーショ ン論に関しては,拙稿,光岡(2006;2009)を参照されたい。
(6) 代表的な著作として,Morley(1988)が挙げられる。
(7) ただし限られた紙幅から,以下の重要な論点には言及できなかった。まず,ミ ュージアムというメディアの空間性を媒介する「身体」の位置づけ。さらに,展示 のナラティブの多義的な解釈の可能性を示した 1980 年代以降の文化人類学の成果 である。ここでは,前者に関してはフーコーの身体論を援用した Bennett(1998,
特に Part.1),後者に関しては北米インディアンのミュージアムを取り上げた Clif- ford (1997 = 2002,特に第7章)を参照として提示するに留め,別稿の機会を待ち たい。
(8) このメディアの空間性に注目した良著として,Couldry et al. (2004)を参照の こと。ここで紹介した3人の研究者の論文も掲載されている。
引用・参考文献