可能とする点にある3).③ の説は,一つの補特伽羅(pudgala)において,同時に 二つの心が起こるかどうかが問われている.大衆部は二心が俱に生じることを認 め,有部はそれを認めない.これについて『発智論』は「第二の等無間縁無きが 故」(T26. 919b22)にと述べ,等無間縁との関係で有部は二心の俱生を認めない. 大衆部はこれに対して二心の俱生を主張したとされるが,『大毘婆沙論』の当該箇 所を含む一連の議論(T27. 47a27–50a19)では,大衆部が二心俱生を主張する根拠は 明示されず,この学説の詳細は明らかではない.④ の説は異熟因となりうるダル マについての議論である.AKBh では異熟因とは不善法と善なる有漏法と定義さ れているが4),『発智論』は異熟因となるダルマとして心・心所法,身・語業,心 不相応行法を提示している(T26. 920c27–921a4).これに対して大衆部は「ただ,心 法と心所法とにのみ異熟因及び異熟果がある(唯心心所有異熟因及異熟果)」(T27. 96a28)と主張している.⑤ の説は,仏の生身が有漏か無漏かを論じるものであ り,有部はそれを有漏とし,大衆部は無漏と説く.仏の生身を無漏とするこの学 説は大衆部説として広く知られているものであるが,これはこの部派が仏の生身 を神格化したことを意味するのではなく,経典の記述をめぐる解釈の相違と受け 止めるべきものである.経典解釈の地平で考えれば,有部は仏の法身を無漏と理 解していると指摘できよう5).⑥ の説は初転法輪に関するものである.『発智論』 は法輪(dharmacakra)の自性を八支聖道と定義し(T26. 1018c6),当然,『大毘婆沙 論』もこれを踏襲している.一方,大衆部は「法輪は語を自性とす」(T27. 912b8) と述べ,有部とは異なる理解をしている.有部はもし法輪の自性が仏の言葉であ るならば,仏は鹿野苑における説法に先立って二商人に教えを説いているので, 五比丘への説法が初転法輪ではなくなってしまうとこれを批判する.他方,聖道 を法輪の自性とする有部説については,もしそうであれば仏が聖道を転じたのは 菩提樹の下であろうという批判が提起され,これについては転法輪を自相続にお けるものと,他相続におけるものとに分けて解釈することで解決を図っている. ⑦ の説は,有部は阿羅漢がその境地から退くことがあると説くが,預流果に達し たものはその境地から堕すことはないと主張する.一方,大衆部は預流の境地か らの退出がありうると主張するのである.以上が両毘婆沙論(⑥ と ⑦ 説に関して は『毘婆沙論』に対応する部分がないため『大毘婆沙論』にのみ見いだせる説)から収集 される大衆部説である. 両毘婆沙論における大衆部説について(石 田) (187)
両毘婆沙論における大衆部説について
石 田 一 裕
1.はじめに――問題の所在と先行研究――
本論文は『大毘婆沙論』と『阿毘曇毘婆沙論』における大衆部の学説について 収集,考察を行うことを目的とする.これは渡辺[1954]の成果を批判的に考察 し,両毘婆沙論において大衆部がどのような部派として描かれているかを明らか にしようという試みである.渡辺[1954]は大衆部の学説について,「両婆沙とも に名も説も一致するもの」(p. 379)が六種あると述べ,両毘婆沙論におけるその 出典を明示するとともに,「旧婆沙欠本のために相応を欠くものが少くも」四例あ ると指摘している(p. 459).この調査結果を検討すると,それが正確なものであ ることがわかる.しかしながら,これらの大衆部説は出典が明示されるのみで, 分類や考察はされていない.そこで渡辺の成果に基づきつつ,両毘婆沙論におけ る大衆部の学説を分類し,さらに『異部宗輪論』との接点を確認したい.2.両毘婆沙論における大衆部説の分類
上に指摘した大衆部説は ① 世第一法が欲界と色界に通じるとする,② 一刹那の 智で一切法を知ることができる,③ 一時に二心が生じる,④ 心・心所にのみ異熟 因と異熟果がある,⑤ 仏の生身は無漏である,⑥ 法輪は語を自性とする,⑦ 預 流果に退がある,という七種に分類することができる1). これらについて有部の教義との比較を通じて,その特徴を把握しよう.① の説 であるが,有部は『発智論』において世第一法を色界繫と定義する(T26. 918a18– 20).大衆部は『大•毘• 婆• 沙•論•』に• よ•る•と• ,これを欲界繫であり,また色界繫とす る.『大毘婆沙論』によるととは,『毘婆沙論』によると,大衆部は世第一法が欲 界繫であるとし,色界繫であるという言及はなく,両毘婆沙論に齟齬を来すこと を意味する2).② の説における有部と大衆部の相違は,有部が一智,すなわち一 刹那の智で一切法を知ることはできないと主張するのに対して,大衆部はそれが (186) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月可能とする点にある3).③ の説は,一つの補特伽羅(pudgala)において,同時に 二つの心が起こるかどうかが問われている.大衆部は二心が俱に生じることを認 め,有部はそれを認めない.これについて『発智論』は「第二の等無間縁無きが 故」(T26. 919b22)にと述べ,等無間縁との関係で有部は二心の俱生を認めない. 大衆部はこれに対して二心の俱生を主張したとされるが,『大毘婆沙論』の当該箇 所を含む一連の議論(T27. 47a27–50a19)では,大衆部が二心俱生を主張する根拠は 明示されず,この学説の詳細は明らかではない.④ の説は異熟因となりうるダル マについての議論である.AKBh では異熟因とは不善法と善なる有漏法と定義さ れているが4),『発智論』は異熟因となるダルマとして心・心所法,身・語業,心 不相応行法を提示している(T26. 920c27–921a4).これに対して大衆部は「ただ,心 法と心所法とにのみ異熟因及び異熟果がある(唯心心所有異熟因及異熟果)」(T27. 96a28)と主張している.⑤ の説は,仏の生身が有漏か無漏かを論じるものであ り,有部はそれを有漏とし,大衆部は無漏と説く.仏の生身を無漏とするこの学 説は大衆部説として広く知られているものであるが,これはこの部派が仏の生身 を神格化したことを意味するのではなく,経典の記述をめぐる解釈の相違と受け 止めるべきものである.経典解釈の地平で考えれば,有部は仏の法身を無漏と理 解していると指摘できよう5).⑥ の説は初転法輪に関するものである.『発智論』 は法輪(dharmacakra)の自性を八支聖道と定義し(T26. 1018c6),当然,『大毘婆沙 論』もこれを踏襲している.一方,大衆部は「法輪は語を自性とす」(T27. 912b8) と述べ,有部とは異なる理解をしている.有部はもし法輪の自性が仏の言葉であ るならば,仏は鹿野苑における説法に先立って二商人に教えを説いているので, 五比丘への説法が初転法輪ではなくなってしまうとこれを批判する.他方,聖道 を法輪の自性とする有部説については,もしそうであれば仏が聖道を転じたのは 菩提樹の下であろうという批判が提起され,これについては転法輪を自相続にお けるものと,他相続におけるものとに分けて解釈することで解決を図っている. ⑦ の説は,有部は阿羅漢がその境地から退くことがあると説くが,預流果に達し たものはその境地から堕すことはないと主張する.一方,大衆部は預流の境地か らの退出がありうると主張するのである.以上が両毘婆沙論(⑥ と ⑦ 説に関して は『毘婆沙論』に対応する部分がないため『大毘婆沙論』にのみ見いだせる説)から収集 される大衆部説である. 両毘婆沙論における大衆部説について(石 田) (187)
両毘婆沙論における大衆部説について
石 田 一 裕
1.はじめに――問題の所在と先行研究――
本論文は『大毘婆沙論』と『阿毘曇毘婆沙論』における大衆部の学説について 収集,考察を行うことを目的とする.これは渡辺[1954]の成果を批判的に考察 し,両毘婆沙論において大衆部がどのような部派として描かれているかを明らか にしようという試みである.渡辺[1954]は大衆部の学説について,「両婆沙とも に名も説も一致するもの」(p. 379)が六種あると述べ,両毘婆沙論におけるその 出典を明示するとともに,「旧婆沙欠本のために相応を欠くものが少くも」四例あ ると指摘している(p. 459).この調査結果を検討すると,それが正確なものであ ることがわかる.しかしながら,これらの大衆部説は出典が明示されるのみで, 分類や考察はされていない.そこで渡辺の成果に基づきつつ,両毘婆沙論におけ る大衆部の学説を分類し,さらに『異部宗輪論』との接点を確認したい.2.両毘婆沙論における大衆部説の分類
上に指摘した大衆部説は ① 世第一法が欲界と色界に通じるとする,② 一刹那の 智で一切法を知ることができる,③ 一時に二心が生じる,④ 心・心所にのみ異熟 因と異熟果がある,⑤ 仏の生身は無漏である,⑥ 法輪は語を自性とする,⑦ 預 流果に退がある,という七種に分類することができる1). これらについて有部の教義との比較を通じて,その特徴を把握しよう.① の説 であるが,有部は『発智論』において世第一法を色界繫と定義する(T26. 918a18– 20).大衆部は『大• 毘• 婆•沙•論• 』に•よ•る• と• ,これを欲界繫であり,また色界繫とす る.『大毘婆沙論』によるととは,『毘婆沙論』によると,大衆部は世第一法が欲 界繫であるとし,色界繫であるという言及はなく,両毘婆沙論に齟齬を来すこと を意味する2).② の説における有部と大衆部の相違は,有部が一智,すなわち一 刹那の智で一切法を知ることはできないと主張するのに対して,大衆部はそれが (186) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月4.小結
本論文では,両毘婆沙論における大衆部説の紹介,有部説との相違の確認,『異 部宗輪論』との関係について概説した.各学説について今後より詳細な検討を行 うつもりである.小結として,本作業を通して浮かび上がる大衆部の姿,換言す れば両毘婆沙論から収集された学説に基づいて理解される大衆部像,について言 及しよう. 本論文で収集した七つの大衆部説の内,世第一法と三界との関係を論じている ような学説は,有部とアビダルマ的な枠組みを共有するものと理解できる.また 仏の生身を無漏とする理解は経典解釈から生まれたものである.一般的に大衆部 は進歩的な傾向があると指摘されるが,有部との議論においてその進歩性が際立 つことはない.むしろ仏身の理解では大衆部は解釈を踏まえず経典を理解するが 故に仏の生身を無漏と理解し,有部は経典に解釈を持ち込み経典に説く「仏は世 の法に汚されない」とは法身についての言及だと理解する.また『大毘婆沙論』 の「心性本浄」説は分別論者の学説とされ,大衆部の学説として明示されていな い.つまり両毘婆沙論に基づいて大衆部を理解する限りにおいて,この部派を進 歩的な部派とみなす見解には一考の余地があると指摘できる.これは同時に有部 を保守的とする理解も吟味されるべきことを意味しよう. 1)これら七種の説の出典は以下の通りである.① T27. 14a6–7: T28. 9b12–13, ② T27. 42c11–14: T28. 31c10–12, ③ T27. 47b1–3: T28. 35b4–5, ④ T27. 96b27–28: T28. 80a3–5, ⑤ T27. 229a16–17: T28. 176a25–26, T27. 391c27–28: T28. 293b10–11, T27. 871c2–3, ⑥ T27. 912b7–9, ⑦ T27. 931b22–23, T27. 933c26–27. 2)両毘婆沙論の齟齬に関する言及も含 め,世第一法と三界の関係については石田[2012]において考察した. 3)この問 題については飛田康裕が詳細な研究を行っている.詳しくは飛田[2010],[2015]を参 照. 4)AKBh, p. 89, “vipākahetuḥ katamaḥ/ vipākahetur aśubhāḥ kuśalāś caivasāsravāḥ //54// akuśalāḥ kuśalasāsravāś ca dharmā vipākahetuḥ/ vipākadharmatvāt/” 異熟因と
は何か? 異熟因は不浄と善との諸々の有漏である.異熟因とは不善と善の有漏との諸々 のダルマである.異熟のダルマ〔を生起させるもの〕だからである. 5)従来の上 座部と大衆部の仏身理解の問題点は,新田[2012]が「少なくとも仏身をめぐって上座 部・有部と大衆部のあいだで論争が繰り広げられた理由は,仏について前者がより 「現 実的」 で 「保守的」 な理解を保持していたのに対し,後者は 「神格化」 の進んだ,より 「大乗的」 な理解を有していたからであるといったことではまったくない」(p. 34)と指 摘する通り,批判的に検討されるべきものである.両毘婆沙論におけるこの問題につい ては,経典解釈の側面から再考すべき問題であろう. 6)両毘婆沙論の記述から, 両毘婆沙論における大衆部説について(石 田) (189)
3.
『異部宗輪論』との比較
この七種の学説が『異部宗輪論』における大衆部説とどのような関係をもつか について,次に考察しよう.① 説については,『異部宗輪論』に対応する説は見 いだせないようである.② 説は,大衆部・一説部・説出世部・雞胤部に共通する 説として紹介される「一刹那の心が一切法を了知する.すなわち一刹那の心に相 応する般若が一切法を知るのである(一刹那心了一切法.一刹那心相応般若知一切法)」 (T49. 15c4–5)と一致する.③ 説は上記四部派において共通しない学説(末宗異義) として述べられる「一時に二つの心がともに生起することがある(有於一時二心俱 起)」(同 16a7)と一致する.④ 説は ① 説と同様に『異部宗輪論』に対応する説は 見いだせない.⑤ 説は ② 説と同様に四部共通の説として紹介される「諸仏・世 尊はみな出世間の存在であり,あらゆる如来に有漏法はない(諸仏世尊皆是出世. 一切如来無有漏法)」(同 15b27)と一致するものと考えられよう6).⑥ 説も四部共通 の説として紹介される「諸々の如来の言葉はすべてが転法輪である(諸如来語皆転 法輪)」(同 15b27–28)と一致する.⑦ 説もまた四部共通の説として紹介される「預 流は退することがあり.阿羅漢は退することがない(預流者有退義.阿羅漢無退義)」 (同 15c21–22)というものと一致する. これらの学説の内で,また,有部の教義の紹介においても確認することができ るものがある.まず ⑥ 説に関連するものとして,有部説として「八支聖道是正法 輪.非如来語皆為転法輪」(T49. 16c6–7)と紹介される一文があり,『大毘婆沙論』 における相違が,『異部宗輪論』にも見いだされる.⑦ 説についても同様に「預 流者無退義.阿羅漢有退義」(同 16b5–6)という有部説が紹介されており,大衆部 と有部の相違が理解できよう.このように有部説の中にも大衆部の学説の影響が 見いだせるが,『異部宗輪論』に大衆部・一説部・説出世部・雞胤部に共通する説 として紹介されながらも,両毘婆沙論に大衆部説として見いだせないものもある. たとえば有名な「心性本浄」説がそれである.この説は木村[1968]の指摘通り, 『大毘婆沙論』が分別論者の学説とするものである(pp. 287–288).分別論者につい ても木村が考察を巡らしているが,『大毘婆沙論』と『異部宗輪論』の間におい て,大衆部の学説に対する理解が異なっている点は疑問が残る.もちろん前者は 『発智論』の注釈書であり,後者は分派史を記述するものゆえに,その性格の違い に起因していると推測することができるが,より詳細な考察が必要であろう7). (188) 両毘婆沙論における大衆部説について(石 田)4.小結
本論文では,両毘婆沙論における大衆部説の紹介,有部説との相違の確認,『異 部宗輪論』との関係について概説した.各学説について今後より詳細な検討を行 うつもりである.小結として,本作業を通して浮かび上がる大衆部の姿,換言す れば両毘婆沙論から収集された学説に基づいて理解される大衆部像,について言 及しよう. 本論文で収集した七つの大衆部説の内,世第一法と三界との関係を論じている ような学説は,有部とアビダルマ的な枠組みを共有するものと理解できる.また 仏の生身を無漏とする理解は経典解釈から生まれたものである.一般的に大衆部 は進歩的な傾向があると指摘されるが,有部との議論においてその進歩性が際立 つことはない.むしろ仏身の理解では大衆部は解釈を踏まえず経典を理解するが 故に仏の生身を無漏と理解し,有部は経典に解釈を持ち込み経典に説く「仏は世 の法に汚されない」とは法身についての言及だと理解する.また『大毘婆沙論』 の「心性本浄」説は分別論者の学説とされ,大衆部の学説として明示されていな い.つまり両毘婆沙論に基づいて大衆部を理解する限りにおいて,この部派を進 歩的な部派とみなす見解には一考の余地があると指摘できる.これは同時に有部 を保守的とする理解も吟味されるべきことを意味しよう. 1)これら七種の説の出典は以下の通りである.① T27. 14a6–7: T28. 9b12–13, ② T27. 42c11–14: T28. 31c10–12, ③ T27. 47b1–3: T28. 35b4–5, ④ T27. 96b27–28: T28. 80a3–5, ⑤ T27. 229a16–17: T28. 176a25–26, T27. 391c27–28: T28. 293b10–11, T27. 871c2–3, ⑥ T27. 912b7–9, ⑦ T27. 931b22–23, T27. 933c26–27. 2)両毘婆沙論の齟齬に関する言及も含 め,世第一法と三界の関係については石田[2012]において考察した. 3)この問 題については飛田康裕が詳細な研究を行っている.詳しくは飛田[2010],[2015]を参 照. 4)AKBh, p. 89, “vipākahetuḥ katamaḥ/ vipākahetur aśubhāḥ kuśalāś caivasāsravāḥ //54// akuśalāḥ kuśalasāsravāś ca dharmā vipākahetuḥ/ vipākadharmatvāt/” 異熟因と
は何か? 異熟因は不浄と善との諸々の有漏である.異熟因とは不善と善の有漏との諸々 のダルマである.異熟のダルマ〔を生起させるもの〕だからである. 5)従来の上 座部と大衆部の仏身理解の問題点は,新田[2012]が「少なくとも仏身をめぐって上座 部・有部と大衆部のあいだで論争が繰り広げられた理由は,仏について前者がより 「現 実的」 で 「保守的」 な理解を保持していたのに対し,後者は 「神格化」 の進んだ,より 「大乗的」 な理解を有していたからであるといったことではまったくない」(p. 34)と指 摘する通り,批判的に検討されるべきものである.両毘婆沙論におけるこの問題につい ては,経典解釈の側面から再考すべき問題であろう. 6)両毘婆沙論の記述から, 両毘婆沙論における大衆部説について(石 田) (189)
3.
『異部宗輪論』との比較
この七種の学説が『異部宗輪論』における大衆部説とどのような関係をもつか について,次に考察しよう.① 説については,『異部宗輪論』に対応する説は見 いだせないようである.② 説は,大衆部・一説部・説出世部・雞胤部に共通する 説として紹介される「一刹那の心が一切法を了知する.すなわち一刹那の心に相 応する般若が一切法を知るのである(一刹那心了一切法.一刹那心相応般若知一切法)」 (T49. 15c4–5)と一致する.③ 説は上記四部派において共通しない学説(末宗異義) として述べられる「一時に二つの心がともに生起することがある(有於一時二心俱 起)」(同 16a7)と一致する.④ 説は ① 説と同様に『異部宗輪論』に対応する説は 見いだせない.⑤ 説は ② 説と同様に四部共通の説として紹介される「諸仏・世 尊はみな出世間の存在であり,あらゆる如来に有漏法はない(諸仏世尊皆是出世. 一切如来無有漏法)」(同 15b27)と一致するものと考えられよう6).⑥ 説も四部共通 の説として紹介される「諸々の如来の言葉はすべてが転法輪である(諸如来語皆転 法輪)」(同 15b27–28)と一致する.⑦ 説もまた四部共通の説として紹介される「預 流は退することがあり.阿羅漢は退することがない(預流者有退義.阿羅漢無退義)」 (同 15c21–22)というものと一致する. これらの学説の内で,また,有部の教義の紹介においても確認することができ るものがある.まず ⑥ 説に関連するものとして,有部説として「八支聖道是正法 輪.非如来語皆為転法輪」(T49. 16c6–7)と紹介される一文があり,『大毘婆沙論』 における相違が,『異部宗輪論』にも見いだされる.⑦ 説についても同様に「預 流者無退義.阿羅漢有退義」(同 16b5–6)という有部説が紹介されており,大衆部 と有部の相違が理解できよう.このように有部説の中にも大衆部の学説の影響が 見いだせるが,『異部宗輪論』に大衆部・一説部・説出世部・雞胤部に共通する説 として紹介されながらも,両毘婆沙論に大衆部説として見いだせないものもある. たとえば有名な「心性本浄」説がそれである.この説は木村[1968]の指摘通り, 『大毘婆沙論』が分別論者の学説とするものである(pp. 287–288).分別論者につい ても木村が考察を巡らしているが,『大毘婆沙論』と『異部宗輪論』の間におい て,大衆部の学説に対する理解が異なっている点は疑問が残る.もちろん前者は 『発智論』の注釈書であり,後者は分派史を記述するものゆえに,その性格の違い に起因していると推測することができるが,より詳細な考察が必要であろう7). (188) 両毘婆沙論における大衆部説について(石 田)いわゆる「無表業の誤解」について
青 原 令 知
1.はじめに
ここでいう「無表業の誤解」とは,今から 90 年近く前に,仏教学者加藤精神が 指摘した,説一切有部の無表業に対する誤った理解を意味する.加藤の指摘をめ ぐっては,いくつかの論争を巻き起こしたが,特にその没後に飛躍的に研究が進 み,多くの専門家の検証によってその説は支持され,これを否定する見解は皆無 といってよい.その辺りの事情については,すでに学者の紹介するところであ り1),あらためて加藤の先見性に驚かされる. 本稿の目的は,加藤の指摘する「誤解」がどのような経緯で生じたのかを,当 時の時代背景から探り,無表研究の問題点を明らかにすることにある.2.加藤説の概要
加藤の提言は,間を隔てて二編の論文の中で行われている. 〔最初の提言〕加藤[1928] この論文のテーマは無表だけでなく,タイトルにある有部の業感縁起論に関わ る,無表色と三世実有説それぞれの誤解を提示したものであり,力点はむしろ後 者にある.これに対して舟橋水哉,荻原雲来らが反応し,特に荻原との間に交わ された論争はつとに有名である2). 〔二度目の提言〕加藤[1953] 内容は前稿とほぼ同趣旨である.25 年もの時を隔てて再論したことは,その間 に「誤解」が解消されなかったことを意味する.おそらくその反省もあってか, 前稿よりも明解な論述になっている.この論文に対しては,舟橋一哉(水哉の子) が反論し,何度か意見の応酬があった3). これら一連の論稿で加藤が指摘する無表業の誤解とは「善悪の業が滅した後に も果報が生ずるまで連鎖し因果を連絡する役割」を無表業に与える見解である(加 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月 (191) 仏の生身が有漏か無漏かという議論は,経典の記述に端を発するものであることが理解 できる.『異部宗輪論』では大衆部は「世尊所説無不如義」(T49. 15b28–29)と主張し, 有部は「世尊亦有不如義言.仏所説経非皆了義.仏自説有不了義経」(同 16c7–9)と説い ている.『大毘婆沙論』においても了義・不了義を用いた解釈を見いだすことができる (T27. 176c4–8,同 266c18–24 など).大衆部は経典の言説をすべて了義としてそのまま理 解を試み,一方で有部は不了義の教説を認め,ある観点から経文に対する解釈を試みて いると指摘できよう.『大毘婆沙論』当該箇所についていえば,「如来は世間に生在し, 世間に長在して若しくは行き,若しくは住するも,世法の染汚する所と為らず」(同 229a18–19)という経文に対して,大衆部は「世法の染汚する所と為らず」の意味を仏の 生身についての言及と理解する.ところが有部はこの経文を法身について言及と解釈し, その立場から大衆部の理解を批判するのである.どちらの理解が進歩的,あるいは保守 的かについては議論の余地があろうが,仏身の有漏・無漏をめぐる問題が,繰り返すが, 経典の解釈に端を発していることは注目に値しよう. 7)木村[1968]は分別論者 を大衆部の遊軍派とみなし,このような学派の出現理由を大衆部の発展の中に見いだす. そしてこの大衆部の思想発展の根拠として「宗輪論に顕れるがごとき仏身論や無為論を 初めより主張したものとは断じて受取り難い」(p. 295)と述べているが,仏身論につい ては上に言及したように経典解釈の問題であり,これを大衆部の思想発展の根拠とする ことができるかには検討の余地があろう.新田[2012]の指摘の通り,大衆部の仏身理 解が進歩的なものである文献的な根拠は薄弱である. 〈一次文献・略号〉AKBh: Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Research
Institute, 1967. 『発智論』:『阿毘達磨発智論』T vol. 26, no. 1544. 『大毘婆沙論』:『阿毘
達磨大毘婆沙論』T vol. 27, no. 1545. 『毘婆沙論』:『阿毘曇毘婆沙論』T vol. 28, no. 1546. 『異部宗輪論』:T vol. 49, no. 2031. 〈参考文献〉 石田一裕 2012「両毘婆沙論における諸部派の研究――世第一法の界繫門について――」 『浄土学』49: 55–72. 木村泰賢 1968『阿毘達磨論の研究』大法輪閣. 飛田康裕 2010「説一切有部における自己認識否定の発端」『早稲田大学大学院文学研究科 紀要:第 1 分冊』55: 101–112. ――― 2015「大衆部における自己認識論の形成過程の考察――説一切有部の批判から推 測されるその形成過程のモデル――」『東洋の思想と宗教』32: 1–24. 新田智通 2012「仏身の無漏性・有漏性について」『仏教学セミナー』95: 18–43. 渡辺楳雄 1954『有部阿毘達磨論の研究』平凡社(復刻版,臨川書店,1989). 〈キーワード〉 『大毘婆沙論』,仏陀観,無漏,『異部宗輪論』,大衆部 (大正大学非常勤講師,博士(仏教学)) (190) 両毘婆沙論における大衆部説について(石 田)