海
外
學
界
の
歩
み
中
村
元
一 イ ン ド の 學 界 デ リ ー 郊 外 に は ラ グ ヴ ィ ー ラ 博 士 の 圭 宰 す る 國 際 イ ン ド 文 化 研 究 所 (International 1 6 ) が も う す つ か り 完 成 し て い る。 一 九 五 六 年 秋 に 訪 れ た と き に は ち よ う ど 定 礎 式 が 行 わ れ た と き で、 プ ラ サ ー ド 大 統 領 が 臨 席 し、 イ ン ド 官 民 並 び に 諸 外 國 の 學 者 を 招 待 し、 張 り め ぐ ら さ れ た テ ン ト の 下 に 人 々 が 一 杯 坐 つ て い た が、 今 度 訪 ね て み て 驚 ろ い た。 廣 い 敷 地 に 赤 褐 色 煉 瓦 造 り の 建 物 が い つ た い 幾 つ あ る の か 解 ら な い。 圖 書 館 そ の 他 研 究 施 設 の ほ か に、 印 刷 所 や 宿 泊 所 さ え も あ り、 い つ も 十 人 の ラ マ を と め て い る と い う。 こ の 研 究 所 の イ ン ド 名 を Sarasvati-Vihara と い い、 標 示 の 看 板 に は ﹁ 大 辮 天 寺 ﹂ と い う 漢 字 名 を も 記 し て い る。 幾 多 の 大 規 模 な 大 出 版 を 行 い、 最 近 は ア ジ ア 佛 像 集 成(Ancient Buddhidt
Pan-と い う ア ル バ ム 集 を 計 豊 し て い る。 他 方 小 さ な テ ク ス ト も 刊 行 し、 例 え ば ﹃ 現 観 荘 嚴 論 ﹄ の チ ベ ッ ト 繹 を チ ペ ッ ト 藏 経 に お け る と 同 じ か た ち で 出 版 し た。 ま た Aurel Stein の 議 見 し た ギ ル ギ ッ ト 爲 本 を 毎 年 六 冊 の 割 で 一 九 五 九 年 か ら 爲 眞 で 刊 行 す る こ と を 開 始 し た。 ( 一 冊 二 五 ル ピ ー )。 大 が か り な 燭 れ 出 し で 有 名 な シ ャ タ ・ ピ タ カ も 古 代 ジ ャ ワ 語 の 典 籍、 チ ベ ッ ト ・ サ ン ス ク リ ッ ト 僻 典 ( 二 ○ 巻 二 ○ 萬 語 一 萬 ペ ー ジ ) の 出 版 の ほ か に、Samaadarya-pra-nese
) ed. by Sushama Devi
一 を 刊 行 し た。 ま た ラ グ ヴ ィ ー ラ 博 士 と 關 係 の 深 い ノ ー ベ ル
博士記念論文集 (jnan-mtali, the Prof.
ed. by Claus Vogel
) を も 出 版 し た。 イ ン ド 文 部 省 か ら は 一 九 五 八 年 に 現 代 ピ ン デ ィ ー 語 基 本 文 典 (A Basic Grammar of Modern Hinodi ) が 刊 行 さ れ た。 ヒ ン デ ィ ー 語 固 有 の 音 と サ ン ス ク リ ッ ト か ら ヒ ン デ ィ ー 語 化 し た 音 の 旺 別 等 を 明 白 に 読 明 し て い る と の こ と で あ る。 ボ ン ベ イ は 學 術 研 究 の 一 つ の 中 心 地 で あ る が、 ボ ン ベ イ 大 學 は 一 九 五 七 年 に 創 立 百 年 記 念 祭 を 行 い、 現 況 概 観 及 び 歴 史 を 刊 行 し た。 ま た ボ ン ベ イ の ア ジ ア 協 會 は 一 九 五 四 年 十 二 月 二 十 六 日 に 創 立 百 五 十 周 年 記 念 式 典 を 學 行 し た が、 そ の 記 念 學 術 論 文 集 が 最 近 刊 行 さ
れた。Sardha-satabdi Special Volme of
Arthur Progsthain イ ン ド の 二 十 八 人 の 學 者 の 論 文 集 で あ る。 海 外 學 界 の 歩 み ( 申 村 )
-335-海 外 學 界 の 歩 み ( 中 村 ) ボ ン ベ イ 大 學 の 梵 語 教 授 K. R. p o td ar 博 士 は 祭 式 を 專 攻 し て い る が、 そ の 學 位 論 文 は 非 常 に 綿 密 な 研 究 で あ る。 (Scrigie in the ま た ボ ン ベ イ 大 學 の パ ー リ 及 び 佛 教 學 科 で はN.K.Bhagwat 教 授 が 教 え て い る が、 Society, Bombay の よ う な 書 が あ る。 プ ー ナ の バ ー ン ダ ー ル カ ー ル 研 究 所 の 大 學 院 圭 任 教 授 で あ る 老 大 家R.Karmarkar 博 士 は 近 年 ヨ ー ガ ヴ ァ ー シ シ タ の 二 部 で あ る ア ル ジ ュ ナ 物 語 を 出 版 し た。 ﹂Arjunopakhya-フ ラ ン ス 人 の ビ ア ル ド ー 女 史 は ポ ン デ ィ チ ェ リ か ら プ ー ナ へ 移 り、 引 き つ ゴ き ス ポ ー タ を 中 心 と し て イ ン ド 哲 學 の 研 究 を つ 貸 け つ つ あ つ た が、 近 年 ﹃ ス ポ ー タ ・ シ ッ デ ィ ﹄ の テ ク ス ト 及 び 佛 課 を 出 版 し た。Sphotasiddhi Pondichery, 1958. そ の 他 同 女 史 に は イ ン ド 哲 學 に 關 す る 論 文 も 多 い。 イ ン ド の 知 識 人 の 雑 誌 と し て 國 際 的 に 知 ら れ て い る United Asia の 刊 行 者G.S.Po-hekar 同 博 士 は 大 の 親 日 家 で あ り、 そ の 編 集 事 務 所 ( 1
2 Rampart Row, Bombay 1
) を 日 印 文 化 協 會 の 事 務 所 と し て い る ほ ど で あ る が、 現 在 日 本 と イ ン ド の 文 化 交 流 の 特 輯 號 の 刊 行 を 計 書 し て お ら れ る。 す で に ト ゥ ッ チ 博 士 編 修 の も と
に India and Italy
が 刊 行 さ れ た の で、 同 じ よ う な も の を 日 本 と イ ン ド と に 關 し て 刊 行 し た い と い う の で あ る。 日 本 人 の 學 者 の 英 文 寄 稿 を 歓 迎 す る 次 第 で あ り、 協 力 さ れ る 方 は 日 印 文 化 協 會 ( 東 京 都 千 代 田 旺 丸 ノ 内、 内 外 ビ ル、 五 一 五 號 室 ) へ 申 込 ま れ た い。 一 九 六 〇 年 五 月 一 一 日 に ボ ソ ペ イ の 日 本 山 妙 法 寺 で 二 五 〇 四 周 年 の ブ ッ ダ ジ ャ ヤ ン テ ィ ー が 開 催 さ れ、 ボ ン ベ イ 市 長 V. N.Desai 氏 が 座 長 と な り、 日 本、 シ ナ、 セ イ ロ ン 風 で 儀 式 が 行 わ れ、 日 本 の 吉 岡 総 領 事 が 挨 拶 を の べ た。 ナ ー グ プ ル に は パ ー リ 研 究 所 が 設 立 さ れ、 Samgranmavijaya 別 名 Journal of Dr.
ces and Buddhism
を 刊 行 し て い る が、 ま だ 通 俗 的 普 及 の 段 階 に と ド ま つ て い る。 こ こ で は ア ン ベ ー ド カ ル 博 士 は 菩 薩 (Bodhisattva
Baba Saheba Dr. Ambedkar
) と よ ば れ て い る。 マ ド ラ ス の 郊 外 の 河 の ほ と り に 神 智 學 協 會 が あ る が、 そ の 圖 書 館 が ア イ デ ヤ ル 圖 書 館 で、 そ れ の 圭 管 者 は バ ー ニ ア ー 夫 人 で あ つ た。 Madras20 ) し か し 學 問 的 に は マ ド ラ ス 大 學 の V. Raghavan 博 士 が 指 導 し て い る。 マ ド ラ ス の サ ン ス ク リ ッ ト 大 學 (madras
Sandkrit college, Mylapore
) の 敷 地 の 二 部 に ク ッ プ ス ワ ー ミ 研 究 所 (the
kuppudwa-mi sastri research institute
) が 二 九 四 五 年 四 月 二 二 日 に 設 立 さ れ た。 そ れ は 偉 大 な サ ン ス ク リ ッ ト 學 者 ク ッ プ ス ワ ー ミ
(mahama-Sastrigal 一 九 四 三 年 残 ) を 記 念 し て 建 て ら れ た も の で、 マ ド ラ ス の 有 名 な 諸 學 者 が こ れ に 關 係 し、 ク ッ プ ス ワ ー ミ が 二 九 二 七 年 に 創 刊 し
た The journal of Oriental Research
を 引 き つ づ き こ こ で 刊 行 し て い る。 大 盤 プ ー ナ の バ ン ダ ー ル カ ー ル 研 究 所 及 び ア ッ ラ ー ハ ー バ ー ド の T h e Jha Institute に な ら つ て つ く ら れ た も の で あ る。 入 口 を 入 る と そ こ に 大 き な 部 屋 が あ り、 机 の 上 に 世 界 諸 國 の 雑 誌 が ひ ろ げ て あ る が、 わ が 國 の ﹁ 印 度 學 佛 教 學 研 究 ﹂ も そ こ に お い て あ つ た。 し か し こ こ の 研 究 所 の 紀 要 に、 マ ド ラ ス 州 釧 事 が、 ﹁ 世 界 の 將 來 は イ ン ド、 シ ナ の 手 中 に あ る。 日 本 と ト ル コ と は 多 分 そ れ に 追 随 す る だ ろ う が、 指 導 は し な い だ ろ う ﹂ と い つ た ホ ワ イ ト ヘ ッ ド の 言 を 引 用 し て い る こ と は、 わ れ わ れ に と つ て い ろ い ろ 考 え さ せ る。 南 イ ン ド に お け る サ ン ス ク リ ッ ト 研 究 の 中 心 地 は 二 つ あ る、 一 つ は コ ン ジ ー ヴ ェ ー ラ ム ( conjeeveram, kancopura ) で 南 の ベ ナ レ ス と よ ば れ る も の で あ る。 も う 一 つ は ク ン バ コ ー ナ (Kumbakonam ) で、 ベ ン ガ ル の ナ ヴ ァ ド ヴ ィ ー パ に 比 せ ら る べ き も の が あ る。 コ ン ジ ー ヴ ェ ー ラ ム に は す で に ア シ ョ ー カ 王 が、 精 舎 を 建 て た と 推 定 さ れ、 ま た 玄 弊 三 藏 も 訪 ね た ら し い。 こ の 地 方 で も サ ン ス ク リ ッ ト は 實 際 に 生 き て い る。 プ ル シ ョ ー タ マ (C.G.Purusho-t h a m a ) と い う 若 い 學 者 は ク ヴ ェ ー ン プ (Ku-vemou ) と い う ヵ ン ナ ー ダ 語 の 原 文 と 封 照 し た 爾 語 の 詩 集 (Kauya Tarngini ) を 出 版 し た。
(Jayruti Publishers, 2269/1
vi-ラ ー マ ー ヌ ジ ャ 派 の 近 年 の 研 究 書 と し て は P.
N.Shrinivasachari: The Philosophy
of Visistadoaita Adyar, 1946. が 最 も 良 い と い わ れ る。 こ れ は シ ュ リ ー ニ ヴ ァ ー サ ー チ ャ ル 博 士 の 親 戚 に あ た る と い う。 な お 傳 統 的 な 學 者 と し て は Prasada Sastri が 重 ん ぜ ら れ て い る と い う。 ま た マ ド ヴ ァ 哲 學 を の べ た 良 書 と し て
は R.Nagaraja Sharma: The
Asyar, Philosopical Library
で あ る と い ち。 カ ル カ ッ タ の t h e Vangiya Samskrita Bengal で は 一 九 五 四 年 か ら Prajna と い う 機 關 誌 を 刊 行 し て い る。 監 修 者 はJ.B. Ohaudhuri 博 士 で あ る。 カ ル カ ッ タ 大 學 で は 言 語 學 の sukumar
Sen 教授監修のもとに bulletin of the
phi-lological society of calcutta が二八五九
年 十 二 月 に 刊 行 さ れ た。 な か な か イ ン ド 人 で な け れ ば で き な い よ う な サ ン ス ク リ ッ ト、 ベ ン ガ ル 語、 オ リ ヤ ー 語 な ど の 研 究 あ り、 ア ラ ビ ア 語 の 中 の イ ン ド 起 源 の 輩 語 を 論 じ た も の や、 奈 良 康 明 講 師 の 悉 曇 史 な ど 多 彩 で あ る。 協 力 者 の 一 人 B. P. Mallik 氏 は い ま ベ ン ガ ル 語 の ス ラ ン グ、 ヨ タ 者 ・ グ レ ン 隊 の こ と ば を 研 究 し て い る そ う で、 日 本 語 に つ い て の そ の よ う な 研 究 者 と 協 力 し た い と の 申 出 が あ つ た。 シ ャ ー ン テ ィ ニ ケ ー タ ン の ヴ ィ シ ヴ ァ バ ー ラ テ ィ ー 大 學 の 副 総 長 で あ つ た バ グ チ
(pra-bodh chandra bagchi 1898-1956
) 博 士 の 短 い 傳 記 が 同 大 學 同 窓 會 (visva bharati Alumni Asaociation ) に よ つ て 刊 行 さ れ た。 か れ は イ ン ド に シ ナ 學 を 導 き 入 れ た 最 初 の 學 者 で あ る が、 フ ラ ン ス を へ て 導 き 入 れ た と い う 黙 は 興 味 深 い。 全インド東洋學會 (All-India Oriental confference ) の 第 二 ○ 同 総 會 が 一 九 五 九 年 オ リ ッ サ の Bhubaneswar で 開 か れ、V.V. Golhale 博 士 が ﹁ パ ー リ と 佛 教 ﹂ の 部 分 の 海 外 學 界 の 歩 み ( 中 村 )
海 外 學 界 の 歩 み ( 中 村 ) 議 長 と し て 研 究 を 嚢 表 し て い る。 ニ イ ン ド の 考 古 學 職 後 の 考 古 學 は 非 常 な 獲 展 を し て い る が、 シ ュ 耳 ー ニ ヴ ァ ー サ ー チ ャ ル 博 士 の 教 示 に よ る と、 次 の 三 つ の 叢 書 を 見 れ ば、 ほ ぼ 大 膿 が 解 る と い
う。Ancient India. Ed. by
Direc-古 文 書 學 に 關 し て は Ojha: Palaeography of India が 最 も 進 歩 し て い る よ う で あ る。 南 方 イ ン ド の ア ン ド ラ 州 に は 碑 文 ・ 銘 文 が 多 い。 イ ン ド 全 髄 で は 約 八 萬 あ る が、 ア ン ド ラ 州 だ け で 約 二 禺 あ る。 こ れ ら の う ち 重 要 な も の
が、Hyderabad Archaeological
Se-ries の う ち に 刊 行 さ れ て い る。 ( 以 前 はPub-zam's Government, 現 在 は published by
the goverment of andhraesh
) 二 九 五 八 年 ま で に N o. 1 9 ま で 刊 行 さ れ て い る . 監 修 者 はp.sreenivasachar 博 士 で あ る。 そ れ ら の 碑 文 は 大 髄 二 二 世 紀 以 降 の も の で あ る。 ハ イ デ ラ バ ー ド の 公 立 博 物 館 は ア ン ド ラ 政 府 の 監 轄 下 に あ り、 シ 晶 リ ー ニ ヴ ァ ー サ ー チ ャ ル 博 士 が 館 長 で、 ア ー メ ー ド 氏 が 助 手 で あ る。 (
Syed Ahmed conservation asst.:
Hyderabad Dt.) こ の 博 物 館 は 相 當 に 立 派 な も の で あ る が、 し か し わ た く し は、 ハ イ デ ラ バ ー ド 郊 外 の 古 城 ( Golconda ) に あ る 臨 時 博 物 館 の 蒐 集 品 が 實 に 面 白 い と 思 つ た。 第 二 に、 そ こ に は イ ン ド 封 建 時 代 に 責 任 を 感 じ て 切 腹 し た 武 士 の 彰 徳 碑 が あ る。 な か に は 文 字 ど お り 腹 を 切 つ て い る 圖 が あ る。 第 二 に、 そ こ に は 民 衆 宗 教 家 で あ つ た ア ー ル ワ ー ル た ち の 石 像 が 多 く 並 べ ら れ て い る。 ま る で お 地 藏 さ ん の よ う に 愛 ら し い。 バ ル フ ー ト の 遺 蹟 の 名 稻 に つ い て は い ろ い ろ 傳 え ら れ て い る が、 シ ュ リ ー ニ ヴ ァ ー サ ー チ ャ ル 博 士 に よ る と ﹁ バ ル ブ ー ト ﹂ と よ む の が よ い と い う。 こ れ も イ ン ド 放 行 に よ つ て た だ し た 二 つ の 疑 問 で あ つ た。 ま た エ ッ ロ ー ラ 窟 院 の 考 古 學 局 監 理 官 に よ る と、 エ ッ ロ ー ラ 窟 院 に 關 し て は、 今 日 な お Burgess の 研 究 が 最 も よ い。 (Wonders of Ellora, 1824etc. ) ま た ア ジ ァ ン タ ー に 關 し て は 職 後 に イ ギ リ ス か ら 出 た yazdani 博 士 の 研 究 が 最 も す ぐ れ て い る。 ま た harrin-ghan やMrs.Devamitra の も の も よ い と い う。 ク リ シ ュ ナ ー 河 に そ つ て ナ ー ガ ー ル ジ ュ 轟 ー ・ コ ー ン ダ よ り も 約 三 ○ マ イ ル ほ ど 下 流 の 方 に ア マ ラ ー ヴ ァ テ ィ ー の 佛 教 遺 跡 が あ る。 し か し そ こ に は 今 は 何 も 残 つ て い な い。 獲 掘 品 の 六 六 パ ー セ ン ト は イ ギ リ ス の 大 英 博 物 館 に 持 ち 去 ら れ た。 残 り が カ ル カ ッ タ、 マ ド ラ ス 博 物 館、 フ ラ ン ス の ギ メ ー 博 物 館 に あ る 程 度 で あ る。 ア マ ラ ー ヴ ァ テ ィ ー 獲 掘 品 に つ い て の 詳 細 な リ ス ト を ロ ン ド ン 大 學 の Douglas Barret が 作 製 し た。 シ ュ リ ー ニ ヴ ァ ー サ ー チ ャ ル 博 士 の 教 示 に よ る と、 古 代 イ ン ド で は 天 文 學 的 時 間 測 定 の 中 心 は ヴ ッ ジ ャ イ ニ ー で あ り、 す で に グ プ タ 時 代 か ら 始 ま つ た。 ヴ ァ ラ ー ハ ミ ヒ ラ も ウ ッ ジ ャ イ ニ ー を も と に し て 述 べ て い る。 ジ ャ イ プ ル に は 古 代 の 観 測 所 が 残 つ て い る と い う。 ボ ン ベ イ 州 サ ウ ラ ー シ ト ラ の 生 ん だ 偉 大 な 古 碑 學 者 バ グ ヴ ァ ー ン ラ ー ル ・ イ ン ド ラ ジ ー の 傳 記 が 刊 行 さ れ た。Javerila Umiasha-三 ロ ー マ 中 東 極 東 研 究 所 の チ ベ ッ ト 研 究
ト ゥ ッ チ 博 士 が 所 長 で ガ ル ガ ノ 博 士 ( A n-tonio Gargano ) の 圭 宰 す る ロ ー マ の 中 東 極 東 研 究 所
(Istituto Italiano il Medio
ed Estremo Oriente ) が チ ベ ッ ト 研 究 に お い て 非 常 な 業 績 を 示 し て い る こ と は 隠 れ も な い 事 實 で あ る が、 わ た く し は ま だ そ の 意 義 を 充 分 に 評 債 す る こ と が で き な か つ た。 こ の 夏 休 に 少 暇 を 得 て そ の 意 義 を 知 る こ と が で き た の で、 以 下 に 紹 介 す る こ と に し よ う。 チ ベ ッ ト の 原 始 宗 教 は ボ ン 教 で あ る が、 職 後 に は ド イ ッ の ホ フ マ ン 教 授 の す ぐ れ た 綜 合 的 歴 史 研 究 が 刊 行 さ れ た。 (Helmut Hoff-こ の 書 の 中 で 教 授 は ボ ン 教 が 今 な お 生 き て い る 宗 教 で あ る と い う こ と を も 相 當 に 力 強 く 述 べ て い る が、 そ れ を 立 誰 す る 研 究 文 鰍 が 職 後 刊 行 さ れ た。 Na-khi と い う の は 西 南 シ ナ に 佳 む 一 種 族 で、 莞 族 の 一 分 派 で あ る。 か れ ら の 問 で は ボ ン 教 の 儀 禮、 特 に 龍 押 崇 葬 が 行 わ れ て い る。 か れ ら は 比 較 的 後 代 に 至 る ま で 佛 教 と 接 燭 す る こ と な 域、 原 始 的 信 仰 を そ の ま ま 傳 え て い る の み な ら ず、 か れ ら は 特 殊 な 糟 文 字 の 文 鰍 を 傳 え て い る。 そ れ は エ ジ プ ト の ヒ エ ロ グ リ フ の よ う な も の で あ る。 こ れ を、 ナ キ 族 と 約 二 十 五 年 間 と も に 暮 し た ア メ リ カ 人 ロ ッ ク 氏 ( ハ ー ヴ ァ ー ド ・ イ ェ ン チ ン 研 究 所 員 ) が、 ナ キ 族 の 僧 侶 か ら 教 え て も ら つ て 解 讃 し、 諸 神 崇 拝 そ の 他 の 宗 教 儀 禮 を 研 究 し た も の で あ る。 ナ キ 族 の 宗 教 文 獄 は、 ビ ル マ の 精 璽 ( N a t ) 崇 拝、 シ ナ の 道 教、 最 後 に チ ベ ッ ト の 佛 教 の 影 響 を 受 け て い る が、 そ の 中 核 は 土 着 部 族 の シ ャ マ ニ ズ ム の 混 じ た ボ ン 教 な の で あ る。 ロ ッ ク 氏 は 龍 紳 崇 葬 以 外 の 諸 儀 式 に つ い て も ノ 見 ー ト を つ く り 資 料 を 整 理 し た が、 一 九 四 四 年 ア ラ ビ ア 海 で、 ﹁ 日 本 人 ﹂ (the Japanese ) が そ の 資 料 を 運 び つ つ あ つ た 船 を 撃 沈 し た の で、 沿 失 し て し ま つ た と い う。 だ か ら 氏 の 研 究 の 第 一 部 し か 刊 行 さ れ な か つ た の で あ る が、 諸 文 獄 を 給 文 字 一 つ 一 つ に つ い て 詳 し く 説 明 し、 ま た 最 後 に は 儀 式 の 實 況 の 爲 眞 三 十 葉 を 牧 め て あ る。 古 代 チ ベ ッ ト の 歴 史 に 關 し て は 史 書 に よ る 以 外 に 資 料 が な か つ た。 そ こ で 學 者 は 疑 問 を い だ き な が ら 史 書 の 記 述 を も と と し て チ ペ ッ ト 史 を 構 成 し て い た。 と こ ろ が ト ゥ ッ チ 博 士 は hphyon rgyas と い う 土 地 で 初 期 諸 王 の 墳 墓 を 獲 見 し た の み な ら ずmtshur phu 王 の 碑 文、 チ ー ソ ン デ ー ツ ァ ン 王 の 墳 墓 の 近 く の 石 桂 の 碑 文、 サ ム ・ イ ェ ー の 石 桂 碑 文 並 び に 鐘 銘 を 獲 見 し、 研 究 出 版 し、 さ ら に チ ー ソ ン デ ー ツ ァ ン 王 の 詔 勅 を も 参 照 し、 ま た す で に リ チ ャ ー ド ソ ン 氏 が 研 究 し た Karchung 寺 院 銘 文 を 再 吟 味 検 討 し て い る。 Giusrppe E. O. 1 9 5 0 こ れ は 全 く チ ベ ッ ト 史 研 究 の た め の 礎 石 と も い う べ き も の で あ り、 イ ン ド 史 に お け る ア シ ョ ー カ 碑 文 の 獲 見 に も 比 せ ら る べ き も の で あ る。 ( こ れ ら の 資 料 に 言 及 し た 日 本 側 の 研 究 と し て は、 佐 藤 長 氏 ﹃ 古 代 チ ベ ッ ト 研 究 ﹄ 上 巻 四 五 -五 五、 二 三 二-二 三 四 頁 参 照。 ) 海 外 學 界 の 歩 み ( 中 村 )
海 外 學 界 の 歩 み ( 中 村 ) 著 者 フ ェ ラ リ 女 史 ( 一 九 二 八-一 九 五 四 ) は ロ ー マ 大 學 を 卒 十業 し て の ち パ リ ー で 研 究 し、 ロ ー マ 大 學 の サ ン ス ク リ ッ ト 講 師 と な つ た が、 病 の た め 若 く し て 天 折 し た 薄 倖 の 學 究 で あ つ た。 そ の 遺 稿 を ペ テ キ 教 授 が 整 理、 加 筆 し、 ま た ラ サ に イ ギ リ ス 最 後 の 駐 在 官 と し て 九 年 滞 在 し チ ベ ッ ト の 實 情 に 通 じ て い る リ チ ャ ー ド ソ ン 氏 が 種 々 の 助 言 を 與 え た も の で あ る。 著 者 Mkhyen brtde ( 三 八 二 〇-一 八 九 二 ) は 十 二 歳 で 出 家 し、 中 央 チ ベ ッ ト を ひ ろ く 族 行 し、 一 生 を 殆 ん ど 旅 に 暮 し た。 こ の 書 は か れ の 著 し た 塞 場 案 内 記 で あ る。 多 数 の 璽 場 の こ と が 記 さ れ て い る が、 巡 禮 者 た ち は そ こ へ 到 達 す る 道、 寺 院 や 僧 院 の こ と も 教 え て く れ る。 最 初 に チ ベ ッ ト 原 典 の 校 訂 版 を の せ、 吹 に そ の 英 課 を の せ て い る が、 最 後 の 註 記 は 特 に 精 細 を 極 め、 註 記 の 数 が 七 一 四 も あ り、 全 く 驚 ろ く べ き 努 力 で あ る。 最 後 の 索 引 を う ま く 利 用 す る な ら ば、 一 種 の チ ベ ッ ト 地 名 辮 典 の 役 割 を 果 す で あ ろ う。 五 三 葉 の 霞 場 の 爲 眞 と、 三 枚 の 詳 し い 地 圖 を 最 後 に の せ て い る。 ネ パ ー ル の 歴 史 に 關 し て は 從
來Kirkpat-rick, Hamilton, Wright, levi
憎 な ど の 研 究 が あ る 程 度 で あ つ た が、 近 年 ト ゥ ッ チ 博 士 が 深 ぐ 鍬 を 入 れ る に 至 つ た。 ト ゥ ッ チ 博 士 は ネ パ ー ル を 五 同 族 行 し て、 ネ パ ー ル の 歴 史 は、 カ ト マ ン ド ゥ、 パ タ ン、Bhatgaon な ど の あ る 漢 谷 の み に 限 ら れ る の で は な い こ と を 知 り、 奥 地 の 族 行 を 企 て、 一 九 五 二 年 に ネ パ ー ル 國 境 ま で 探 瞼 旅 行 し、 ま た 一 九 五 四 年 に 特 に jumka 附 近 の 漢 谷 を 調 査 し た。 そ の た め 幾 多 の 貴 重 な 獲 見 が な さ れ た が、 銘 文 ・ 碑 文 だ け で も 約 三 百 み つ け そ の う ち 約 九 〇 は グ プ タ 文 字 で 書 か れ て い る。 そ の 獲 掘 品 が 非 常 に 重 要 で あ る の で、 い ち お う の 報 告 を 刊 行 し た の が 吹 の 書 で あ る。 殊 に 最 後 に 附 録 と さ れ て い る 爲 眞 六 十 一 葉 は 貴 重 で あ る。 ボ ン 教 め 寺 院、 民 聞 の ス ト ゥ ー パ (mchod-rten ) 信 仰、 チ ベ ッ ト 文 碑 文 な ど が お さ め ら れ て あ る。 し か し グ プ タ 文 字 の サ ン ス ク リ ッ ト 碑 文 の 爲 眞 八 十 九 葉 は 次 の 別 冊 と し て 刊 行 さ れ た。 こ れ ら の 碑 丈 の 解 讃 ( ロ ー マ 字 ) は 次 の 別 冊 と し て 刊 行 さ れ た。 こ こ に は 既 刊 未 刊 す べ て の ネ パ ー ル 獲 見 の グ プ タ 文 字 碑 文 が お さ め ら れ て い る。 從 來 刊 行 さ れ た こ と の あ る も の で も、 新 た に 拓 本 を と つ て 出 版 し た。 必 ら ず し も チ ベ ッ ト 研 究 で は な い が、 そ れ と 關 連 あ る も の と し て、 前 號 紹 介 の 般 若 経 關 係 書 の ほ か に、Edward Coze:Abamaya-lamkara (SOR.VI. 1 9 5 4 精 密 な 語 ﹂彙 を 含 む ) や 律 藏 成 立 過 程 の 研 究 (E.FRAUWALLN-19 56 ) や 古 代 修 鮮 學 に つ い て の 諸 學 者 の 所 説 を 傳 え て い るAbhinavbharti の 二 部 の 出 版 醗 繹
(riero gooli:the aesec e
S O R. X L 1 9 5 6 ) な ど 興 味 深 い も の が 多 い。
と の 研 究 所 と も 關 係 あ る ロ ー マ 大 學 教 授 ペ テ キ (L.etech ) 博 士 は 一 九 六 〇 年 九 月 に ア メ リ カ へ の 途 上 來 日 さ れ た。 同 氏 は ﹃ 水 経 注 ﹄ の 研 究
(Nortbrn INndia According to
the sui-cin-chu,Is.M.E.1950) な ど を 以 て 知 ら れ る 東 洋 史 の 學 者 で あ る。 四 そ の 他 の 國 々 オ ー ス ト リ ァ の ウ ィ ー ン 大 學 で は 一 九 六 〇 年 三 月 二 + 一 日 に イ ン ド 學 研 究 所
(Indolo-gisohes Institut der
Unieritat,Rei-schuloasse 2/11, Wien 1) が 開 創 さ れ た。 所 長 は イ ン ド 哲 學 研 究 の 大 家 フ ラ ウ ワ ル ナ ー 博 士 で あ り、 日 本 か ら も い ず れ 研 究 員 が 参 加 す る 豫 定 で あ る。 ス イ ス で も ヨ ー ガ は は や つ て い る。 萬 國 議 員 連 盟 會 議 で 日 本 に 見 え た ス イ ス のEmil Bosch 博 士 ( 國 會 議 員 ) の 話 に よ る と、 ノ イ ロ ー ゼ に 悩 ん で い る 人 々 は、 精 禪 分 析 家 の と こ ろ へ 行 く か、 ヨ ー ギ ン の と こ ろ へ 赴 く と い う。 チ ュ ー リ ッ ヒ で は イ ン ド か ら 來 た yasu dian と い う ヨ ー ガ 行 者 が 信 望 を 得 て 有 名 で あ る と い う。 ヒ ン ズ ー 敏 の 研 究 で 有 名 な ジ ュ ネ ー ヴ 大 學 の Jean Herbert 教 授 も 再 び 來 日 さ れ た。 ス タ ー リ ン 以 後 の ソ ヴ ィ ッ ト の 東 洋 研 究 に つ い て はN.N.PoPpe 博 士 の 報 告 が あ る
(The East turkic Reviece.Institute for
the study of USSR, Munich 1960.pp.
1 1 2-1 2 4 ) そ れ に よ る と、 佛 敬 哲 學 に 關 し て は ス チ ェ ル バ ッ コ ー イ の 業 績 が 今 な お 椹 威 と さ れ て い る。 有 名 な チ ペ ッ ト 學 者 K u. N. Rerikh (Roerioh) は ロ シ ア に 蹄 つ た が、 ま も な く チ ベ ッ ト 語 及 び 蒙 古 史 に 關 す る 論 文 を 議 表 し た。 (Fundamental Problems of
mmgolskikh mrodov, Mosow 1958)
や が て か れ の チ ベ ッ ト 語 贈 典 及 び 文 法 が 刊 行 さ れ る 豫 定 で あ る。 ロ シ ア の 大 部 分 の イ ン ド 學 者 は マ ル ク ス 圭 義 的 立 場 か ら の 歴 史 研 究 に 從 事 し て い る よ う で あ る。 ユ ダ ヤ 教 と い え ば、 日 本 人 の 眼 に は、 非 常 に 排 他 的 な 宗 敬 と 思 わ れ が ち で あ る。 し か し そ の 一 派 で あ る、 近 世 に 起 つ 売 Haidimは 禪 に 近 い し、 ユ ダ ヤ 思 想 の 傳 統 を 受 け た ス ピ ノ ー ザ の 哲 學 は 多 分 に 東 洋 的 で あ る。 ユ ダ ヤ 教 の 本 家 イ ス ラ エ ル は 最 近 東 洋 哲 學 に 封 す る 興 味 が 高 ま つ て い る。sPizer 博 士 は イ ェ ル サ レ ム の Mosad Bialik か ら パ ー リ 文 佛 教 経 典 を ヘ ブ ラ イ 語 に 醗 課 し た。 ま た ウ パ ニ シ ャ ッドやバガヴァッド・ギーターのヘブライ語 課 も 刊 行 さ れ た。 現 在 の イ ス ラ エ ル 首 相 は 東 洋 思 想 の 書 を 好 ん で よ む そ う で あ る。 六 月 に 來 日 さ れ た 私 立 東 海 大 學 ( 台 中 市 ) の 申 國 文 學 敏 授 で あ る 徐 復 観 博 士 に よ る と、 現 在 毫 溝 で 佛 典 の 刊 行 に 努 力 し て い る 屈 映 光 氏 は も と 官 吏 で 佛 教 信 者 で あ る が、 す で に 八 十 歳 蝕 で あ り、 現 在 塁 北 郊 外 の 桃 園 郷 に お ら れ る。 印 順 法 師 の 諸 著 は 毫 灘 で は 最 も 學 術 性 の あ る も の で あ る が、 現 在 は 新 竹 縣 の 精 舎 に お ら れ る と の こ と で あ る。 現 在 自 由 中 國 の 側 で 國 際 的 に 知 ら れ て い る の は 毫 湾 の 胡 適、 謝 幻 偉 の 諸 博 士、 香 港 の 唐 君 毅 博 士 な ど で あ る が、 徐 復 観 博 士 は 太 極 圖 説 を 中 心 と し て 自 分 ' の 思 想 を ま と め た い と の こ と で あ つ た。 コ ロ ン ビ ア 大 學 教 授 張 鐘 元 (Chung-Kuan Chango ) 博 士 は 現 在 東 京 の 國 際 文 化 會 館 に 滞 在 し、 鈴 木 大 拙 博 士 の 英 課 事 業 に 協 力 し、 ﹃ 景 徳 傳 燈 録 ﹄ な ど を 課 し て お ら れ る。 こ の 頃 は 南 米 の 學 界 に も 佛 敢 に 封 す る 關 心 が 張 ま つ て 來 た。 ア ル ゼ ン チ ン の 首 都 ブ エ ノ ス ・ ア イ レ ス に あ る El salvador 大 學 副 総 長 Ismael duies 博 士 は 佛 敬 及 び 禪 の 研 究 の た め ユ ネ ス コ 交 換 教 授 と 七 て 一 九 六 〇 年 渡 日 さ れ た。 海 外 學 界 の 歩 み ( 中 村 )