政 : 福井県を中心として
著者 山本 志保
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 56
ページ 51‑77
発行年 2001‑09‑30
URL http://doi.org/10.15002/00011401
本稿は、福井県の事例を取り上げ、明治一二年から一九年にかけて流行したコレラの実態を把握・分析し、第一に「伝染病予防」あるいは「公衆衛生」という近代的衛生問題の概念が当時の人々にどの様な形で捉えられていたのか、第二にコレラ流行から生じた問題が、衛生行政の確立を目指した行政当局(官)と、旧来の医療・養生に依存する住民(民)との間にいかなる軋礫を引き起こしていったのかを再検討するものである。その際、地方衛生行政の創設過程にも着目し、市町村レベルによる衛生政策の実態を(1)解明していきたい、さて、従来、明治期の衛生行政問題に関しては、小栗史朗氏を始め、尾崎耕司、笠原英彦、小島和貴の各氏らによって、多方面(2)からその分析が進められてきている。まず、小栗氏は地方衛生行政の創設過程を三期に分け、自由民権運動がコレラ流行の際、地方衛生行政と民衆の自主活動に与え
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政(山本) はじめに
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政
l福井県を中心としてI 〈研究ノート〉た影響を指摘する。さらに、これと相対する富国強兵政策によって官治性が強められていく国家的衛生行政の形を独自に「天皇制慈恵医療」として位置付け、その官治性が日本における衛生行政(3)の方向性を大きく左右したとの見解を一示している。次に、神奈川県の事例を取り上げる小島氏は、|二年当時の中央衛生行政と警察権力との関係を論じた上で、神奈川県地方衛生会の動向を分析し、我が国の衛生行政政策には警察権力を拠りどころとした「衛生警察の成立」と、地域的な実状を踏まえた「自治衛生の推進」(4)という二つの傾向があったとの結論を導き出している。笠原氏は、小島氏が提示する「衛生警察」と「自治衛生」の存在を認識した上で、政府当局が抱えた双方に内在する矛盾を後藤新平の衛生思想から分析し、日本独自の衛生行政が展開されていく過程を明ら(5)かにしている。だが、いずれの先行研究においても、行政側(官)と住民側(民)の具体的な関わり方や、それぞれがどのような立場で、いかなる問題点を抱えていたのかについて、さらには地域住民の生活環境、
山本志
五
一
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一コレラ流行と衛生行政
1コレラ流行
コレラは、近代H本において最も人々を震憾させた伝染病の一種である。この病が人々から忌み嫌われた背景にはいくつかの理由が重なっていた。まず第一に、感染、発症から死に至るまでの早さとその死亡率の高さである。「三日コロリ」との別稿がある(7)ように、患者の多くは感染から数日間で死に至り、生還者は極めて少なかった。次に、感染患者がおかれた境遇である。患者本人はもとより、その家族は患者を看病するゆとりもなく、それぞれが二次感染を防ぐ為に、地域社会や日常生活からの隔離を余儀なくされた。さらに、死を迎えてなお、故人との別れを惜しむことさえ性々にして許されなかったのである。第二に、何よりも、凄まじく残酷な病魔の姿である。これを月にしたときに人々の恐怖 衛生意識の実態については詳細な検討が加えられていない。また、市町村レベルの制度分析や予防政策の実態については、尾崎氏が愛知県という都市部を事例として挙げ、後藤新平および愛衆社の(6)活動も含めて踏み込んだ検討をされているが、衛生行政の予算を左右する県会の動向に対しては、主として後藤の行動と県立病院側から論じられ、県側からの分析は不十分である。そこで、本稿は、当該期の地方衛生行政に関して、小島氏が指摘する「衛生警察と自治衛生」の見解に、またその創設過程については小栗氏の解釈にそれぞれ依拠しつつ、前述の課題を解明していきたい。 法政史学第五十六号
感はいっそう現実味を帯びて迫ってきたに違いない。それは健康な日常生活を送っていたはずの人間が、ある日突如として高熱を発し、激しい吐潟の繰り返しに襲われるや否や、確実な治療法も特効薬も施せないまま、僅か数日で屍を晒すが如く死を迎えるのである。だが、この凄惨なコレラという伝染病こそ、日本に初めて「衛生」問題を提起させ、衛生行政機構の構築のみならず、予防医学の発展に多大な影響を与えた。それは、「コレラは衛生の(8)母なり」という一一言葉からも明らかである。(9)明治期の四四年間における死者総数は一二七万人余りに上る。いく度もの流行を繰り返し、全国各地で狛擬を極めたが、特に一二年と一九年は未曾有の大流行となった。全国の患者数は、一二年に約一六万二六○○人、’九年には約一五万五○○○人を数え、(川)死者は両年共に一○万五○○○人を上回る勢いとなった。福井県の統計によれば、一四年の再置以降、一五年が慰者一二八人に対し死者一○九人、一六年から一八年にかけては、患者、死者共に十数人前後と落ち着いていたが、一九年には再び激しい流行を見せ、六六六三人の患者のうち、実に川七七七人が死亡する惨事と(Ⅲ)なっている。同年の五月一一九日、県内における患者は最初に一一一方郡内で発生し、その後、猛烈な勢いで県内各地に伝染、九月から二月にかけて、足羽・坂井・大野・丹生の各郡においていずれ(旧)も千人以上の患者を数』えた。政府は、一二年一月、総合的な伝染病予防規則の必要性を痛感し、太政官に「伝染病予防規則」の公布を図ったが、同年三月か(旧)らの流行に際し、六Ⅱ一一七日、急遅「虎列刺病予防仮規則」(太
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政官布告第二三号、以下、仮規則と略記する)を制定した。そして、この規則に基づき、嶺北・嶺南を含む石川・滋賀両県でも、(u)コレーフ対策を展開したものと見られる。たと量えば、七月四日、医務取締だった山崎悠、皆川帰一の両人が、新たに石川県の検疫委(旧)員として任〈叩されたことは、第五条および第六条に規定される検疫委員設置を受けての措置である。即ち、一○年に制定された「虎列刺病予防法心得」(内務省達乙第七九号、以下、心得と略記する)の第八条および第二条においてコレラ発生の届出先とされていた医務取締が、仮規則においては消滅したのである。仮規則については、すでに尾崎氏が愛知県における事例の中で(肥)分析されているが、主な特徴としては以下のような点が挙げられ(Ⅳ)る。第一に、検疫委員の権限が広範に及ぶ一方で、町村関係者の権限は殆ど含まれていないことが注目される。つまり、検疫委員の任命権が地方長官に委ねられ(第五条)、その選出対象者も医師、衛生掛、警察官吏、郡区吏等に限られていた(第六条)。第二に、患者の避病院送致に関しては、対象者が予め限定されており、それ以外の患者に対しては任意での入院を認可していたため(第一一条)、「消毒法」施行等のプロセスが患者の家族に一任されていたことが注目される(第一二条)。したがって、この段階においては、全てのコレラ患者が避病院に強制送致されていたわけではなく、自宅療養も可能だったことが推察される。そこで問題となるのが、この自宅療養者の処遇である。仮規則には、その明確な対応策は躯われていない。即ち、この時点では行政側、住民側双
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政(山本) 衛生行政に関わる業務は、すでに再置以前から嶺北・嶺南の各地域において開始されていた。即ち、政府は開国以来進めてきた近代化政策の中で、西洋医学に基づく医学教育と衛生制度の確立を急務としていたが、そうした動向は県行政にも反映されていた(囚)のである。たと画えば、敦賀県時代の六年一月には庶務課(後に第(別)一課となる)内に医業掛が設置され、西洋医育成機関として、八(別)年に公立医学所が設置されている。一四年二月七日、福井県は再潰され、石黒務県令の下で新県政を発足させたが、これに伴って衛生行政も本格的な展開を見せ始めた。それは県が定めた行政機構の一端からも窺える。つまり、同年二月中には、衛生課が常務掛と統計掛、他に七人の衛生主務吏員を配して業務を開始しており、さらに、五月二四日には、政府の指示で「町村衛生委員選挙法」(甲第五五号)を制定して衛 方共にコレラに対する認識の甘さが残されたことが指摘出来よ》う。このように、伝染病予防政策の先駆けとして制定された仮規則(肥)は、その条文を見る限り、町村地域への対応を欠き、さらには自宅療養者に対する措置をも明定しないまま、極めて不徹底な側面を残して施行されたのである。そこで、以下、福井県における予防体制および地域住民の動向に視点を移し、各々を分析していく中で、問題点の所在を明らかにしていきたい。
2予防体制の構築
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(、)生事務の徹底化を図っていうC・この法令によれば、該町村に一年以上在住する満二○歳以上の男性が衛生委員の資格対象者となり、選出された者は各町村の戸長を補助し、多岐にわたって衛生事務管理を担当することになった。なお、同年末には、県下一九七八町村で一七四三人の衛生委員が配置され、政府および県の指(羽)一不が町村全域に行き届/、体制が整えられた。町村衛生委員に関する詳細な役割等については、後述することとする。県は機構整備の一方で、積極的な予防対策も打ち出している。即ち、一五年九月一六日に布達された「虎列刺病予防方仮手続」(甲第一四九号、以下、仮手続と略記する)がそれである。同布達は全四章、五三ケ条から構成され、「第一章人民心得」「第一一章衛生委員心得」「第三章警察官吏心得」「第四章郡吏心得」を設け、コレラに対する心得および予防対策が個別にまとめられている。布達はまず、第一章および第二章が町村住民に関するコレラ予防の規定になっている。その内容および分量は充実し、住民への対策を具体的に示している点が特徴である。前節でも述べた通り、政府が制定した仮規則は、殆ど町村に関する規定を欠いていた。また、一三年の「伝染病予防規則」(太政官布告第一一一四号)においても、第二条で「衛生委員」および「郡区長」がそれぞれ患者発生の通知を受け取る媒体として記載されているか、第六条の但書で避病院建設に関して「人民協議ヲ以テ」という文言があるに止まり、これら二ヶ所が唯一町村に関係する条項として認められ(型)フoだけで全のった。 法政史学第五十六号
したがって、政府の法令と比較すれば、県が町村住民に対し予防衛生政策に前向きな姿勢を示していたという解釈も可能である。次に、仮手続後半部の第三章および第四章は、いずれも検疫委員に遇される官吏の規定であり、相互に重複する部分も認められるが、それぞれの任務については詳細な記載が見られる。(妬)このように、仮手続は、一五年の流行に際し、再置後の県が衛生行政機構を固めようとする状況の中で定められ、政府の対策を踏まえつつも、独自性を備えて作成された予防対策だったと推察される。さて、予防措置の実態を、検疫委員として実際の現場に臨んだ検疫医(医師)および警察官吏の動向に着目しつつ、詳しく見てみようoまず、患者発生の一報を受け、直接現場に立ち会って病毒の診断を下すのは検疫医であり、予防措置の最前線にあって中心とな(妬)るべき人材だった。つまり、「医師ハ、危険ノ最モ甚、ンキモノ」(汀)であり、「疾病者二、医師ハ必要欠クベカーフズ」の存在だったのである。彼らは検疫所での患者発見、消毒薬撒布等の防疫活動にもあたっていたが、当時の住民には検疫への理解が得られず、コレラ騒動の犠牲になることも少なくなかった。騒動の概要は次章で取り扱うが、一二年八月、丹生郡梅浦で起きた検疫所襲撃事件は、住民が医師の検疫処置に疑念を抱いたことが直接の動機と見(犯)られている。さらに、このような危険を伴う検疫医となるべき人材の選定基準については、政府が「予防消毒ノ趣意ヲ通暁シタル適当ノ人員」 五四
(四)と一不している程度で、それ以上の規定は見当たらない。では、実際、医師たちはどのようにして検疫医に選ばれていたのだろうか。当時の医師界は、西洋医と漢方医の両者が混在していた。それは福井県においても例外ではなく、一四年の時点で、従来開業医五一○人に対する内訳は、漢方医一一一二三人、西洋医一七一一一人、雑(釦)法医一四人で、漢方医が全体の約六一二パーセントを占めていた。だが、一一一三パーセントはすでに西洋医でもある。そうした背景には、政府および地方官らの行政政策が関与していたと言える。たとえば、六年八月、敦賀県の諭達では「旧古冥漠不切ノ法二拘泥シテ、世二日新究理ノ法アルヲシラス」と、厳しい言葉で漢方医への非難が行われ、「ツトメテ洋法二人学シ、医術研究治療明了ニシテ然ル後、西学一途一一掃スヘシ」(敦賀県第一一二号)(訓)と、ひたすら西洋医学に学ぶことが説諭壁ごれているのである。他方、九年一月には、「医師開業試験法」(内務省達乙第五号)(犯)を以て医師免許制が定められ、西洋医の育成が本格化些ごれようとしていた。即ち、試験合格者は内務省の医師免許状が与えられ、医師としての資格認可を受けたのである。だが、政府は従来からの開業医の存在も無視出来ず、結局、彼等に受験なしで府県限定(羽)の医師免許を与違えるに至った。「武生市医師会一○○年史」によれば、一二年七月一一三日、堺村板取・ニッ屋村の両検疫所に派遣された医師は、沢崎鴎外、山室清香、松原孝斎、増田耕二郎、山内栄、沢崎約老ら六名で、いずれも開業医であった。さらに、これより先の七月四日、すでに検疫委員として任命されていた山崎悠、皆川帰一も開業医であり、
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政(山本) (鈍)旧府中藩医という一肩書き別b持っていた。また、’九年には、福井病院の院長が全県の検疫医監督長となり、医員八一名を動員して検疫が行われ、坂井・大野・小浜の各病院長が郡内の検疫監督に(弱)あたっている。ここに紹介した医師らが西洋医であったか、漢方医であったかは判然としないが、両者が混在して検疫にあたっていたと見られる。検疫医が選ばれる明確な基準が見当たらない限り、そこには、医師間における勢力関係や利害関係を背景に、西洋医と漢方医の間に軋礫や対立関係が生じた可能性がある。県下において、従来開業医数と内務省認可の免許医数(主に西(弧)洋医)が入れ替わるのは、実に一二四年以降のことである。「彼巡査ノ如キハ、ムシロ病者ノ痛苦ヲ増スモ、利益ハナキモ(師)ノナリ」。これは、一九年臨時県会追加予算審議の場で議員の一人が述べた意見である。検疫委員でもある警察官吏にこのような批判が浴びせられた背景には、彼らのいかなる執務実態が影響していたのだろうか。まず、警察官吏が衛生行政に関わっていく端緒から見ていくことにする。明治初年、警察が衛生行政に携わることは法律上明確には定められていなかった。六年五月制定の「取締遜卒法則」では、飲料水となる河川域での洗濯および塵芥投棄をさせないよう清潔を心掛けること(第一―則)、あるいは病犬の撲殺について戸長へ届け出ること(第二○則)等が、唯一衛生に関係するものであつ(犯)た。その後、八年一二月「行政警察規則」制定により、初めて国民
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の「健康ヲ看護スル事」(第一章第三条第二項)が任務として定(羽)められたのである。だが、警察官吏が衛生行政に本格的な関わりを見せるのは、一二年の仮規則制定により、検疫委員として明定(⑩)されてからのことである。県の仮手続「第三章警察官吏心得」は、その任務を比較的詳(側)細に記載している。たとえば、警察官吏は、患者通報〈第二七条)から患者住宅(以下、患家と記す)の臨検および交通遮断(第二八条)に始まり、病者・死者・汚械物等運搬の監護(第三○、三一条)、消毒法施行の監視と交通遮断解除(第三二条)、罹患者の摘発(第三五条)等、幅広い権限を有していた。それは、防疫措置という名目の下に、患者が常時監視され、犯罪者の如く扱われることを意味していた。そして、コレラ発生の一報を聞けば、警察官吏は検疫医らと共に一斉に患家へ押し寄せ、有無を言わせぬ臨検が始められたのである。但し、「治療ハ専ラ各自信用ノ医師一一任スヘシ。医師ヲ迎フルコト能ハサル病家ノ外ハ、強テ指名ス可ラス」(第三一一一条)とされ、治療行為に関しての強制的権限は無く、患者家族の意向に委ねることが前提になっていた。一三年七月一四日、敦賀郡内の村の患家を訪れた中野勇寺囚等(妃)巡査の復命書から臨検の様子が窺箪えるので、その実態を紹介しよ
露7。中野巡査は七月一四日、コレラに罹患したとされる人物の居宅へ戸長美尾谷嘉右衛門らと共に向かい、発病理由や病状等をつぶさに尋問した。そして、医師の診断書に基づきコレラ認定を行う 法政史学第五十六号
と、居宅の状況を調査、患者をして居室の清掃を命じた。さらに、汚穣物となる衣類・寝具等を全て出させ、石炭酸水による消毒を行った後、吐潟物他焼却すべき品々を親戚に持たせて、該村内埋葬場において処理させた。また、子供三人は叔母方へ預ける等、家族の処遇にも指示がおよんでいる。復命書は、医師の診断書、焼却品および残品目録と共に、翌一五日、敦賀警察署長七等警部日下栄保に提出された。では、こうしてコレラ発生の通報を受け、患家へ駆けつける警官の姿は、患者およびその家族、地域住民らのⅡにいかに映っていたのだろうか。「いやだいやだよじゅんさはいやだ(佃)じゅんさコレーフの先走りチョィトチョイト」(“)「亭主持つなら巡査を持つな巡査虎列刺の先走り」これは、当時流行した歌の一節であるが、警官に対する不信感や反感が皮肉を込めて表現され、住民心情の一端を窺うことが出来る。(幅)また、コレーフの伝染性が明確に認識されてくると、従来判然としなかった消毒法の基準が菌の消毒に重点を置くよう改善され、患者の「隔離」を徹底することが予防対策の主眼となっていつ(㈹)た。それは、長與専斎が「なるたけは避病院に送るの傾きにて、実際においても巡査の取計らいにて多くは送院することとなれ(〃)り」と二口ったように、警察官吏の取締が一段と強化される結果を(岨)意味したのである。たとえば、一九年八月一五日の県令第一一口万では清潔法に背いた場合、「刑法第四百二十六条ニ依り罰セラル 五六
衛生行政機構が個々に問題を内包しつつも一通り整い、検疫委員主体の予防政策が機能し始めていたのとは対照的に、運営面には危機的状況が迫っていた。即ち、県会では、衛生対策費を悉く削減しようとする議員の動向が大きな障害となっていた。一九年 (⑬)ル」と処罰を以て臨む旨が規定共どれたが、これは法的強制力によって、予防政策が図られていくことを明示したものである。このように、住民にとってみれば、未だコレラという正体不明の病に加え、警官の強圧的介入という恐怖にも晒されなければならず、ここに隠蔽と忌避が新たな問題として投げかけられたのである。この点については次章に譲る。では、臨検を行う警察官吏はどのような人々だったのか。前出の復命書は囚等巡査によって書かれていたが、この階級は巡査の(卯)中で一番下の等級にあたる。また、エゴ時、県下における殉職警官の階級は半数が巡査であり(等級は不明)、その理由としては.(別)レーフ感染が過半数をトロめている。したがって、実質的に検疫にあたっていたのは、主に巡査だったのである。そして、コレラへの恐怖心は検疫委員である警察官吏と言えども、一般住民同様であった。たとえば、彼らは臨検の際、カンフル剤として酒を飲用し、(皿)気を紛らわす場〈口もあり、常に正常な精神状態で任務に就いていたとはいえないようである。こうして、警察官吏の醜態が露呈した時、住民は彼らにさらなる不信感を抱き、両者の間に確執が生じる原因の一端を作っていったといえよう。
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政(山本) 3県会の動向 の臨時県会では、追加予算審議の場で衛生費が最後まで決定せず、紛糾した状況からも衛生行政には配慮が及ばなかった実状が推察されるのである。(鋼)「福井県議へ蓉史」によれば、再議に掛けられた衛生費の原案額は、四万三六七八円であったが、実際に議決された額は初めの審議で提案された二万九一一九円をも下回る一万五四七三円であつ(別)た。こうした低額予算の背景には次のような意見があった。まず、河端彦造(敦賀郡選出)が看病人の賄い料について削除説を川し、可決された。次に、消毒薬諸費用一万二一二円の見積に対しては、「消毒薬ノ如キハ、無効ナルヲ以テ減ズル見込ミ」「石炭酸ハ、如何ナル原素アルヲ以テ消毒一一有効ナルャ」「コレラ病ハ、神経ヨリ誘発スル者アリ、農家ノ収穫多忙ヲ極メバ、気ヲ転ジテ触者減少スベキ見込アリ」といった意見が各議員から噴出し、結局、一一一四Ⅲ○円という減額修正案が議決された。この他、避病院三ヶ所の建設費用一八○円の削除、交通遮断費についても、「之ガ為メ貧民ハ稼業ノ道ヲ失上、一家アゲテ飢餓一一迫ルモノァリ」と、その弊害のみが訴えられ、削除された。このような議員の意見から察するに、未だ衛生恐想が十分に普及していなかったことは明白であろう。「予防」という漠然とした費川に対する予算計上等は無駄であるとの観念が、衛生費へのたび重なる論議、そして大幅削減へと繋がったのである。他方、警察費や土木費等に対しては原案より減額予算となったものの、おおむね二次会で可決され、衛生費ほどの減額はなかった。ここには、予算計上への緊急性や優先度に明らかな意識の差を認めることが出来る。
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さらに、議会が紛糾する理由として、福井県では置県以来、県庁移転問題等を巡って嶺北出身議員と嶺南出身議員との間に対立(弱)がくすぶり続けていた。即ち、旧滋賀県下に属す嶺南囚郡と、旧石川県下に属す越前七郡との融和が県政の最重要課題だったので(弱)ある。また、県〈万では少人数の嶺南議員が、多数の嶺北議員に圧倒され、嶺北本位の偏重した県政になるのではないかという懸念(印)を常に抱いていた。したがって、議員が審議の趣]日を外れ、個々の感情に執着していたことも十分考えられる。このような状況に対し、石黒務県令はコレラへの防疫活動が緊急課題であると位置付け、再度衛生対策費用を最初の原案に戻し(詔)て審議するよう求めた。それでも、当初の修正額である一万五四(”)七一二円が全会一致で採決された。県令はこれに納得せず、府県会(帥)規則第五条に則り、内務大臣に指示を仰ぐと共に財政窮乏の危機を訴え、国庫補助を懇願したのである。結局、衛生費二万九一一(剛)九円が決定され、そのうち、七○○○円が国庫補助によって補わ(“)れることになった。だが、政府のたび重なる「地方税規則」改正により、県や各市町村が負担する経費は年々増え続け、住民の納(岡)税額も比例して増額される傾向にあった。したがって、県民の逼迫した状況を考慮すれば、衛生思想の希薄な議員が予防費の計上に反対しても、それは当然の成り行きであった。以上のように、予防体制が整備されつつある一方、行政はコレラの猛威を前に改善策を講じる余裕もなく、益々劣悪化する環境下で手探りによる衛生政策に取り組んでいかなければならなかったのである。 法政史学第五十六号
ニコレラ騒動と住民の衛生意識
1コレラ騒動
一○年以降、続発するコレラと行政の強圧的対応は、次第に住民の疑念や不安感を増長させ、強い反発心を抱かせた。その積極的表現がいわゆるコレラ騒動であり、消極的表現が患者隠匿とい(“)這う行為であった。(随)まず、コレラ騒動についてであるが、小栗氏によれば、騒動はおおむね一二年八月に集中している。さらに地域別では、北陸・東海地域が目立っている。その直接的原因および関係者の要求は主として、次の四点にまとめられる□①コレラ病予防措置反対②避病院送致・避病院建設反対③果物・魚介類販売禁止措置撤回④コレラ流行による米価高騰そして騒動がほぼ町村単位で展開していることも確認出来る。福井県下では、丹生郡四ヶ浦(越前町)で騒動が勃発している。(肺)
以下、この騒動の特徴を、「越前町史」あるいは「福井県魎」に
く“)おける僅かな記録や、当時の御布告留を手がかりに、解明し得た範囲で描き出してみたい。そもそも、この騒動は、一二年六月頃から梅浦・道口一帯にコレラが蔓延し、死亡者が続出したことに端を発していた。特に、罹患者は梅浦に集中し、八月までの死亡者は、梅浦一四○名、宿浦一九名、新保城ヶ谷二二名、小樟一○名、大樟八名、道口六名 五八(田)を数麗えた。このような状況に対し、他地域への伝染を防ぐため、行政の防疫措置が徹底された。まず、梅浦と三軒在家の境、片岡喜左衛門前通りに関所を構え、山中峠に番所、梅浦・玉川境界に番人をそ(、)れぞれ設置し、交通遮断が実施された。そのため、一二軒在家関所(、)が梅浦住民の物資調達取次所となった。検疫所は長谷甚五郎宅に設けられ、福井から派遣された医師阿名に加え、地元医師藤井慎(犯)斉・佐々木璽呈が予防措置にあたっている。そして、避病所には梅浦島之滝他、数ヶ所があてられ、さらに県からは(当時、丹生郡(門)は石川県に属す)、衛生担上。書記や警察官吏が出張した。即ち、この態勢を見れば、コレラ患者如何に拘わらず、村が外界との接触をほとんど絶たれたことが分かる。したがって、住民の中には、生活手段を失い窮乏していく者や、生活環境を脅かされて疲弊していく者が増えていったものと推察される。(別)そうしたなか、一一一年八円何六日、梅浦において住民らが検疫所に乱入する暴動が発生した。その直接の動機は、コレラ病による死亡者があまりに多く、住民が医師の検疫措置に疑念を抱き、検疫所へ押しかけたというものだった。だが、この乱人事件が起こった背景にはさらなる理由があったのである。次の史料は、そのことを示唆するものである。「悪疾流行為予防各御地方之海魚於テ、当所売買停止可致」「佃而、暫時魚荷御運荷之義、御見合可被下候。」(乃)これは、御布告留の一部であhソ、悪疾(コレーフ)が流行する折柄、予防のために魚類の売買を停止し、暫く該地方の魚荷を扱う
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政(山本) ことを見合わせよとの趣旨である。つまり、暴動発生前、梅浦には敦賀港より敦賀警察署の指示として、甲楽城浦から小樟浦までの海域で取れた魚類の売買を停止、魚荷の搬入も当面見合わす旨(花)の書面が届けられていたのである。しかし、この地域は海岸部であったため、漁民が多く、魚類の販売が差し止められれば、生業を失うことにもなりかねなかった。このような行政の一方的措置が住民の怒りを爆発させたのである。暴民は、武生警察署の警官、新保村住民らによって鎮圧され(汀)た。その二一日後、郡長内田衛が現地入りし、警官、宿浦・新保両地域住民の加勢を得て、主謀者他一四名が逮捕されるに至り、暴(犯)動はようやく沈静化に向かった。ここで注目されるのは、梅浦と同様にコレラ患者を出している宿浦・新保両地域の住民が警察官吏に加勢している点である。当時、該地域の情勢から考慮すれば、地域住民同士が一体となって行政に抵抗するか、あるいは暴動の展開を見守っていてもよい筈である。それなのに彼らは行政側に付き従い鎮圧に協力している。即ち、同地域に居住しながら集落が異なれば、地域の連帯意識に基づく行動よりも、むしろ差別的、排他的な行動が見られたのである。なお、県下のコレラ騒動については、現時点で梅浦騒動以外に事例が見当たらない。今後、他の事例が発見された際には、梅浦との比較を検討課題としたい。
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前節のように、住民が暴徒化する背景には、彼らのどのような心境が反映されていたのだろうか。コレラ患者は、先にも触れた通り、凄惨な病状に加え、そのほとんどが短期間で死亡するというまさに死病に冒されたされた人々であった。衛生思想がいまだ乏しい時期、眼前に拡がる地獄絵図のような光景と、目に見えない病の姿を人々は、頭は獅子で(ね)(帥)胴は虎、あるいは虎の頭に狼の胴といった奇怪な化け物として描出した。不治の病を怪物や票りに置き換えるという心情は、当時各地で行われていたコレラ除けの祈傭やまじないからも容易に推察出来る。そこには伝統や宗教に依存する人々の意識が浮き彫りにされている。当時の新聞を見ると、「コレラは新暦のためと、伊豆地方の迷信」(一五年二月一六日付「朝野新聞」)、「コレラ除けの怪しげな絵は発売禁止」(一五年八月三○日付「読売新聞」)、「石川県でコレラ送りの行列で紛糾」(一二年八月一五日付「東京曙新聞」)等(肌)の記事が紙面を賑わしている。福井県下では、腰にニンニクを吊し、杉葉造りの神輿を担ぎ廻(皿)ったり(小浜)、天満宮の例祭にコレーフ除けが悪魔祓神事として(鍋)行われたりしている(敦賀)。さらに、「風作大明神・虎列刺大明(別)神」と書かれた紙を一P口に貼付し、縄を張って祈祷したり、「キノニノャノハノモノ北川惣左衛門宿」と記した札がコレラ除けに(鯛)使用されたりしていた(福井市中)。 法政史学第五十六号 2行政の防疫対策と住民意識 (帥)この他、京都府の避病院では金魚の刺身を鎮痛剤と‐して用い、徳島県では予防薬に石炭酸を飲用し、そのために危篤者まで出た(〃)という。このような事例はいずれjb信仰による救済願望や流言・迷信の部類である。だが、確固たる医療保障制度も治療薬もなく、旧慣に依存してきた人々にとって、以上のような行為は、コレラに対する恐怖心や不安感、苦痛を緩和してくれるものであったと推察される。他方、防疫措置は隔離政策が前面に押し出される形となってい(柵)たが、なかで刃b避病院の環境においては、仮規則第九条が一示すよ(閉)うに、徹底した差別化が図られていた。そ-して、避病院送致の決(卯)定権が巡査の意向に一任共どれていく傾向が強まると、思考は摘発対象者であるが故に、患者の家族など関係者による忌避・隠蔽行為へと向かっていったのである。では、患者やその家族らが忌避する避病院とは実際いかなる環境にあったのであろうか。まず、避病院設置に関しては、なるべく人家から隔絶した場所に建設し、構造は極めて簡易であり、建物の大小も患者数や土地(川)の広さにく□わせて決定することになっていた。一九年当時、県下(皿)には四八ヶ所の避病院が設置されているが、所在が確認出来るのは、一五年頃、敦賀郡松原村(現、敦賀市松島町および鋳物師町)に建設されていた「県立伝染病患者隔離治療所」(木造平屋建)で(兜)ある。同所は二二年、町制施行に伴い敦賀町へ移管され、「町立(M)敦濟貝伝染病院」となったが、医師他、詳細な記録は残っていない。次に、避病院の環境であるが、以下のような記録が残されてい
う○○
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避病院ノ組織構造宜シキヲ得ルャ否ヤハ、人民ノ信想如何二関係スベキモノナレバ、完全無欠ノモノヲ設置センコトヲ望ム。避病院ヲ以テ死者ヲ容ルル処ト誤り、之二入ルヲ避ケントスルアリ、其影響ハコレラ蔓延ノ媒介トナル。これは、一九年の県会予算審議において加藤與次兵衛(足羽郡(妬)選出)が衛生費に関して述べた意見である。彼は避病院の構造・環境について、その善し悪しは県民の信頼感の醸成に関わっているので、設備の行き届いた施設を設置するよう要望している。さらに、県民が避病院を死者の収容先と勘違いし、忌避する傾向はコレラの伝染を促進させると述べている。こうした発言は、当時の避病院における環境の劣悪さを窺わせるものといえよう。他方、患者のプライバシーに目を移してみると、当時の新聞等メディアが患者の居住する地域や患者本人を実名報道していた事(妬)例もあり、プーフイバ、ン-保護についてはほとんど無視されていた。即ち、メディアの報道は、たとえ患者が回復治癒しても地域社会からの疎外・差別を余儀なくさせたり、病に冒されること目体が反社会的であるかのような印象を患者本人のみならず、第三者にも与えたのである。このような実状を背景として、住民相互の差別観をもたらす要因が作り出されていった。以下、「福井市史資料編」のうち、一九年八月一日付「福井新聞」の論説「鳴呼終一一蔓延セントス」に、行政の思惑と住民の心(卯)情がそれぞれ明確に報じられているので紹介しよう。(前略、引用者註、以下同じ).、二我力地方政庁ハ是レカ予防一一於ケル最モ精神ヲ注カレ、検疫本部ヲ警察本署二移シ、
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政(山本) 筍クモ警察分署アルノ邑駅ニハ必ラス検疫支部ヲ設ヶ、且シ分署無キノ邑駅一一於テモ必要卜認メラル、所ロヘハ之レヲ増置シ、且ツヤ避病院ノ如キモ到処二之レヲ設ケサル莫ク、ソノ取締法ノ精密ニシテ厳重ナル、大二吾人ノ精神ヲ強カラシムルハ吾惰ノ感謝二堪へサルトコロタルニ拘ハラス、コノ一向前日二至り本日ノ虎列刺彙報欄内二褐ケシコトク驚ロク可キ高度一一増加セルハ抑モ何ソヤ“蓋シ吾惰ノ見ルトコロニ依テ考察ヲ立ルー、前号来屡雑報欄内二於テ注意ヲ読者二呈セル如ク、兎角隠掩セントスルニ汲々タルト将タ自衛ノ精神ノ乏シキトノニ因、則チコノ蔓延ヲ助クルモノナルニ似クリ。ソノ隠掩セントスルニ斯クモ熱中スルハ何故ナルヤヲ尋ヌルニ、医師ヲシテ診断セシムレハ直チニ検疫部へ届ケラレ、黄旗前導ヲ為シテ患者ハ避病院へ送クラレ、自寓ニハ黄紙ヲ貼シテ人々二忌ム可キ虎列刺二催リシヲ喋々セラレ、ソノ死亡ノ後ノ葬送一一於テモ正式ヲ以テスル能ハサルノ感アルカ故二、ソノカ及上得ル限リハ之レヲ隠掩シ、若クハ医師二賄賂シテソノ他病タルヲ証セシメントスルニ至レルモノニシテ、ソノ下等社会無智蒙昧ノ輩ノ如キハ避病院ノ待遇診療ノ行届ケルヲ知ラスシテ、濫リニ避病院二入レハ必ラス死亡スルニ決シタルモノト想像シ、之二入ラサントスルニ在り(後略)この論説は無署名ではあるものの、文章全体の構成・内容から見て行政側の視点で述べられたものと推察される。即ち、行政側は、検疫所を多数設置し、取締を強化しているにも拘わらず、コレラの蔓延を防ぎきれない現状に不満の意を露わにしたのであ
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住民の衛生知識の不足と伝統的な生活環境は、一方で大きな社
●会問題も引き起こしていた。そしてそれは、行政に「衛生環境」 る。さらに、避病院の待遇も行き届いているとして、そのような配慮を知らない住民に対し、「無智蒙昧の輩」と位置付け、伝染する理由に隠蔽と自己管理の乏しさを指摘する。他方、住民の隠蔽行為の背景に言及しているが、住民が極めて差別的な処遇を危倶していたことが窺える。つまり、患者は、コレラと診断された時点で公表され、黄旗の先導で避病院送りとなり、患家は黄紙の貼付によりコレラ発生宅として区別された。そして、人々の心ない噂の対象にされた挙げ句、死亡した後に通常の葬儀さえ行い得なかったのである。したがって、医師に賄賂を使ってでもコレラである事実を隠したいという心情が記述されている。この論説を見る限り、行政側は住民の思いを蔑んでいたのである。以上のような状況を踏まえるならば、コレラ騒動や患者の隠蔽・忌避といった原因については、住民の衛生意識が劣っていたこともあるが、行政側の認識・対応にも大きな問題があったと言わざるを得ない。そして、今Hから見れば最も保護されるべきはずの人権が行政の強制介入やメディアによって侵害されても、患者やその家族、町村地域には正当な抗議手段、あるいは補償制度は確立されていなかったのである。そこに住民の憤りが増幅されていったのは当然であろう。 法政史学第五十六号 3住民の生活環境と衛生問題 という新たな課題を突き付けることになった。その一つが尿尿処理問題である。そもそも、「尿尿」は江戸時代に入ってから、日本独自の多肥(肥)型農業形態を背已泉に、かけが』えのない有価物として扱われてきた。即ち、住民にとって尿尿は有害な排泄汚物として処分するものではなく、有機肥料として貯えになる貴重砧であった。そのため、尿尿を生産する立場の町住民と、それを肥料として買い取る農民との間には売買システムが成立しており、それは明治期に人って(”)も変わらなかった。このような通念が働いている生活環境の中で、排泄物がコレラの感染源になるという事実を知る由もない農民は尿尿を町から村へと運搬し、下肥を撒布して農作物を生産販売していたのである。その農作物が食卓を囲めば、ここにコレラの伝染速度が早められるのは当然である。次の史料は、一九年八月一六日、敦賀櫛林村他一二ヶ村の戸長であった柴田早苗から、市野々村総代人に宛てた通達であり、尿(川)尿運搬について、次のように触れている。(前略)本年流行ノ虎列拉ハ、往年流行セシ同病二比スレバ、其悪症猛烈ナル事前一一十倍スルニモ不抱人民二在テハ如何ナル感覚ナルャ。一向予防二意ヲ注ガザルノミナラズ、日々流行地(敦賀市街)エ往復シ、最モ該地ヨリ糞汁運搬スルガ如キハ恰モ薪ヲ負テ火一一臨ムガ如クニシテ万一該毒ヲ含有スル糞汁ヲ汲来ル時ハ、忽チ数人二伝染シ、遂二村内全体ノ蔓延トナリ、不容易ノ義ニシテ、実二危険モ甚シト調フベシ。(中略)当分該病ノ消尽スル迄、可成的流行地(ツルガマチ)二 一ハーー
立入ラザル様、且シ糞汁汲取ノ如キハ決テ為サやル様(後略)つまり、戸長は、コレラ流行地の市街地へ出向いて糞汁を運搬してくるのは、薪を背負い火の中へ入っていくようなものであると説諭し、それがコレラの蔓延・椙獺に繋がることを指摘している。こうした尿尿を有価物として扱う住民の認識は、行政側の財政(皿)難や下水処理への消極的姿勢と相俟って、日本の環境衛生整備を(M)著しく遅延させる傾向を招いていった。さらに、このような意識は、飲料水等の生活用水に対しても同様に見られる。たとえば、(川)患者の嘔吐物を河川等に投棄する行為が平然と行われたり、灌概(肌)用水をそのまま飲料水に用いる場〈口もあった。また、劣悪な衛生環境下に置かれていた下層民の生活は、「流行病患者ハーノ火元ノゴトシ」と論じられるほど、芥溜処理や腐敗物に対する衛生意(川)識が低く、不潔極まる悲惨なものだった。だが、行政は彼等貧困者および一般住民の生活環境改善等、根本となる問題を解決しようとするのではなく、専ら消毒と強制隔離による伝染病対策を展開してきたのである。そして、さらなる問題として、葬送・埋葬の弊害が浮かび上がる。(前略)虎烈刺病の届けを為し、その取扱ひ□葬送さる、を頻りに忌み、まづ葬式を済まし、而る後、虎烈刺沙汰の止みし後届けんには差支あらざる可しと窃に本葬を営むもの、あ(川)るを(後略)(□は判読不能の文字を一不す)これは、コレラ病死の届出を嫌い、病名を隠蔽した上に葬送を
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政(山本) 行う者があったという新聞記事であるが、埋葬・葬送に関して、病死者にはどのような規定が設けられていたのか。以下、仮手続(川}に沿って見ていくと次のようになる。死体の埋葬は石炭酸水に浸した被いで包み、丈夫な棺に納めた上、石灰を周囲に詰め、土地四坪の区画に一丈以上の穴を掘って埋めること(第七条)、火葬および埋葬場等は町村の協議で決定し、河川や田畑、人家等の付近は避けること(第二阿条)、死者を運搬する際はコレラ患者である旨を昼夜関係なく明示し(第三一条)、人通りの少ない道を選んで警察の監護を受けること(第三○条)、死体は火葬すること(第五一条)等、条文には隔離・消毒が厳しく定められている。だが、繰り返し述べてきているように、患者の死亡後の措置は家族に一任されてきた。したがって、病名を隠蔽し、一般の葬儀で済ませようとする住民心情からすれば、周囲からの差別を恐れるのは勿論、煩雑な埋葬方法に伴う金銭的負担を回避したいという気持ちもあったのではないだろうか。墓地や埋葬・火葬等の法令については、県が一五年一二月「死亡及流産届並埋火葬取締規則」(甲第一六三号)を、一八年六月には「墓地及埋葬取締細則」(甲第六五号)を制定し、警察官吏(伽)の葬祭への関与が着実に制度化されていくことになった。また、火葬に関しては、コレラ予防対策の一環として奨励され、「三昧」(川)と称される火葬場が県内各地に設けられていた。但し、嶺南地域(川)には伝統的な土葬習慣が残り、火葬の定着は遅かったようである。敦賀でも三○年代に入ってようやく火葬場新設が急務とされたほ
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(川)どであった。したがって、埋葬の地域的慣習は、法令から逸脱するものとなる可能性を有しており、コレラ感染を助長する問題点は葬祭においても内包されていた。では、このような社会問題にもかかわらず、衛生思想は全く普及していなかったのだろうか。実は、衛生思想を啓蒙教育によって広く一般へも理解させようとする動きはあった。即ち、一六年、大日本私立衛生会が、全国人民ノ健康ヲ保持増進スルノ方法ヲ討議講明シ、|ニハ衛生上ノ知識ヲ普及シ、一ニハ衛生上ノ施政ヲ翼賛スルニ在(M)ルという目的をもって発足したのである。同会は、佐野常民を会頭に、長與副会頭、北里柴三郎、石黒五十二、後藤新平ら識者が中(川)、心となり、各県各地域に支会も発足した。会員はそのほとんどを(川)医師がトロめ、その活動は主に衛生講話へ云等の開催にあった。武生支会では、副会頭の山崎が「衛生かぞえうた」を聴衆に配(順)布し、衛生思想を親しみあう○民謡にのせて広めようとした。「一つとせ」から始まる歌詞は、コレラ病予防に対する日常生活の摂生法から清潔法に至るまで分かり易く解説されており、歌詞の最後に「予防の力」という言葉を入れ、「衛生」に対する概念を広く知らしめようとした。こうした試みは画期的であった。それ以外には、県内の衛生支会の目立った活動記録は見当たらないが、二○年一○月敦賀において、「医師衛生演説会」が開催されてい(川)る。同会が衛生会主催であったか否かは不明であるが、のべ一一m口間にわたって、「養生の弁」「祭礼は衛生に如何」等といった講演 法政史学第五十六号
三県下における衛生行政政策の展開
1市町村の衛生行政機構
政府は一二年七月、全国の衛生事務に関する要件を審議する機関として内務省に中央衛生会を設け、同年一二月には地方衛生機(Ⅲ)構の改組を行った。まず、「府県衛生課事務条項」(内務省達乙第五五号)の制定によって各府県には衛生課が設けられ、これまで(川)学務課に所属していた該掛が課として独立し、専門化された。また、町村には、「町村衛生事務条項」(内務省達乙第五六号)が制定され、戸長を補助する公選の衛生委員が設置されるよう定めら(伽)れた。さらに、各府県には地方衛生会が置かれ、中央衛生へ言との連携を基盤に府県の衛生法規や通達事項等を審議する機関として(Ⅲ)位置付けられたのである。福井県下における地方衛生会の組織は、衛生官吏・公立病院・(皿)医師・県△戸議員等で構成されていたが、その選出方法や各人数等の詳細は明らかでない。但し、再置後の第一回地方衛生会の衛生委員は、県会議員から嶋勝応・時岡又左衛門・本多鼎介の三名、官許医師から松原才次郎・山本国輔・魚住格の三名、合計六名が(伽)選出されている。この壱うち、県会議員の鴫と時岡は共に医師であ が行われ、その盛況ぶりから当時の住民が衛生に対し強い関心を示していた事実が窺える。その後、私立衛生会は財源難等の理由から全国的に会員数を減(Ⅲ)らし続け、衰退の途を辿っていった一・しかし、会の活動が民間における衛生思想の普及に一石を投じたことは間違いない。 六四
(剛)、リ、結局、本多以外は総て医師で構成されていたことになる。では、このように整備された機構を背景に、現場ではいかなる対応がなされていたのだろうか。まず、各町村に置かれた戸長の存在に着目したい。仮規則においては町村吏、即ち、戸長の役割は患者発生の届出を受け取る媒体として記載されている程度であり、ごく限られていた。だが、(脳)実際には巡査の復命書に見られたように、臨検に同行したhソ、町村内の衛生管理について協議したり、患者家族からの要望や質問にも応答したりしている。他方、各町村の予防委員に対し、予防(伽)法や摂生法を説諭するといった役割等jb担っていた。つまり、ここから戸長の実質的役割が広範にわたっていたこと、また行政および住民双方から信頼されていたことを確認しておきたい。そして、しばしば住民と対立関係を生じた巡査や検疫医らが、住民の代表者である戸長を現場に同行させることで、よりスムーズな対応が出来たであろうと考えられるのである。では、戸長が地域社会の住民全てを総括していたのだろうか。実は、戸長と各町村住民が結び付く手段として町村衛生委員制度が設けられていた。彼らの職務については、毎月の出産・死亡流産の取調、井戸および河川等における飲料水の汚染状況、道路・溝渠・家屋・側の他に、公共施設の清掃・改良、食品衛生管理、(⑪)墓地・埋火葬場の整備、伝染病予防等々を担っていたが、これ程広範な役割がどのような水準を以て、どの程度遂行されていたのかは定かでない。また、同制度の設置により、一六年には町村衛(剛)生会jb発足している。人員は同会規則によれば、医師三名以内、
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政(山本) (剛)衛生委員・一戸長・町村会議員が各町村一名という構成である。即ち、戸長と、戸主の代表者として公選された各町村衛生委員の両者が、衛生会という組織の中で協議していたのである。では、具体的なコレラ予防政策にはどのような形で携わっていたのか。それについて、仮手続「第二章衛生委員心得」を見て(剛)みよう。まず、同委員はコレラ患者発生の通知を受けると、速やかに患者宅へ赴き、吐潟物の処分、罹患者と健常者の区別、予防消毒方法等の説諭を行うと共に、所轄警察署への報告が義務付けられていた(第一四条)。その他、患家の交通遮断(第一五条)、消毒法の実施(第一九条、一一三条)等、従来は検疫委員にのみ限定されていた任務が委ねられた。また、交通遮断に伴う患家への生活支援(第一六条)、避病院・仮病室の設置(第二○条)、死者排泄物等運搬人夫の決定(第二一一条)、理火葬場の選定(第二四条)といった町村全体に関わる業務は、各町村での協議決定に任され、自治性を予め容認した形で政策が図られていた側面が窺える。それはまた、町村において責任が生じてくるということでもある。さらに、罹患者死亡の際は同委員が最初の報告を受けることにな(剛)っていたことから、患者家族との関わりにおいて瓢b密接な関係にあった。さて、町村衛生委員が制度化される以前、すでに各町村では「予(醜)防委員」と称される存在が確認共どれる。彼等の選出方法等を明らかに示す史料は残っていないが、|二年八月、総代が戸長宛に予(剛)防委員の決定を報生口している事実があるので、町村住民から公選
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されていた可能性が高い。そして、予防委員は町村衛生委員が廃(剛)止されてから後も各町村の防疫活動に従事している。たと轡えば、検疫委員に付き添って個別検査に立ち会ったり、戸毎に予防薬の(筋)頒布を実施する等、ほぼ衛生委員に準ずる職務を負っていた。また、一九年九月、敦賀郡疋田村他一二ヶ村の戸長から奥麻生(伽)村「予防掛」に対し出された通達によれば、住民への予防に対する説諭が「予防掛心得書」として添付され、生活環境や摂生法に至るまで細かな指示が記されている。さらに、尿尿処理に関しては、「村内無洩御示諭置相成度」と戸長の意向が申し添えられて(町)いる。即ち、|P長の命を受けた予防掛が、一戸長の代理として町村内から各戸へ指示を伝えていく担い手になっていたのである。但し、町村衛生委員と予防委員、あるいは予防掛が同時期に同職種として混在していたのか、それぞれが時期を異にして別個のものとして存在していたのかは判然としない。しかしながら、いずれも戸長の代理として各町村の防疫活動に従事し、戸長を補助しつつ、住民とのパイプ役を担っていたことが推察されよう。したがって、彼等の役割に則して考えるならば、町村衛生行政は、戸長から戸主の代表者(町村衛生員・予防委員・予防掛)へ、そして町村内各区から各戸別へと間接的に行政の意向が該町村全住民へと伝達されるものであったのである。それは、行政側にとっても予防政策の徹底化を地域住民に洩れなく浸透させる意味で重要な仕組みだった。換一一一一口すれば、行政側が戸長や衛生委員の存在に緩衝的役割を期待する部分も大きかったと言えるのではなかろうか。とりわけ、 法政史学第五十六号
町村衛生委員は、各戸の代表者が直接、戸長や行政側と協議する際の媒介者であり、他方、住民側からの意向を反映させ得る唯一の窓nであったことから、町村内の調和や予防措置の円滑化を図る上で必要不可欠な機構制度であった。そして、このような仕組みの中に、町村衛生行政が創設されていく過程を見て取りたいのである。さらに付け加えるとすれば、これ以後登場する衛生組合(以下、組合と略記する)の創設についても、制度上の変化は確(畑)かに認めざるを得ないものの、組織の構造や組合員の職務内容に(剛)は、町村衛生委員制のそれらが部分的に残されている。したがって、組合に関しては、従来からの町村衛生行政機構の延長線上に位置付けられる制度として見ることができよう。但し、官治性を特徴とする組合の存在は、これまで地域住民と直結していた衛生行政の一端を制度上のみならず、質的にも転換させてし(川)まった。こうした変遷の過程は次節において改めて考察する。
戸長および衛生委員を軸とした町村衛生行政に変化が見え始めたのは、一四年のことである。即ち、この年、内務省ではすでに戸長官選化を内訓として告知し、公選化を切り崩す方向性を進め(川)ていた。さらに、一七年、連〈ロ|戸長制が決定すると、これに対応する形で、翌一八年一Ⅱには衛生委員が町村会議員の投票により選出され、その中から県令が同委員を任命する方式に改められ(即)た。このような動きは、住民の信任を得て選ばれていた一戸長や衛生委員が、一転して官治化されたことを示している。それはまた、 2地方衛生行政の転換期 一ハーハ
住民主体による自治衛生制度確立の芽が摘み取られたことでもあった。さらに、同年八月には、内務省の通達により(甲第二七号)、町村衛生委員自体が廃止される事態となり、その事務運営は戸長(剛)が引き継ぐようになった。そして、各地方衛生〈蚕についても、ほ(川)ぼ同時期に事実上の廃止へと追い込まれたのである。衛生委員が廃止された理由として、第一に行政側自体に予防衛生への理解が(鵬)欠けていたこと、第二に財政面の行き詰まりと、職務の煩雑且つ(川)膨大な事務量から人選難に陥ったこと等が挙げられ、それらが制(W)度の形骸化を促進させた、王な要因として考雪えられている。特に、福井県に関しては、こうした目まぐるしい行政制度上の変化を、施政直後から迎えなければならず、行政の混乱を招いていたのである。このような事態にさらに拍車をかけたのが、一九年七月に制定(剛)された地方官官制である。これにより県下でも行政機構が一新され、衛生事務は兵事・監獄等と共に第二部所属となり、独立課で(剛)あった衛生課は消滅した。さらに、同一二一条により、衛生行政は(剛)警察機構に取り込まれていく方向性も整った。即ち、一九年こそ、長與が言うところの、自治衛生制度が頓挫する時期であり、地方衛生行政が一大転換期を迎えた時期として位置付けられるのであ(皿)る。この年は県政にとっても受難の年であった。それは、新県政発足直後から数年足らずで迎えた官制改革、あるいは折柄のコレラ流行による財政逼迫等を背景に、ようやくまとまりつつあった(唖)県会において亀裂が生じ始めていたからである。それは、紛れもなく旧来の地域間対立が再燃したものであり、嶺北と嶺南、また、
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政(山本) これまで本稿においては、明治初期のコレラ流行を分析し、その中に現出した様々な問題点を検証しつつ、福井県の事例を中心として地方行政の対応および住民の衛生意識について考察を加えてきた。また、町村レベルでは、戸長や衛生委員の役割に着目し、衛生行政に対する取り組み、およびその創設過程を改めて検討し直してみた。その結果、以下のような点が明らかとなった。第一に、地域の予防体制であるが、福井県はコレラ流行に翻弄される中で新県政発足を迎え、施政方針の模索段階で衛生政策にも取り組まなければならなかったという点である。即ち、衛生行政に関する機構整備や予防政策の法制化には前向きな姿勢を示し、政府の方針をおおむね踏襲してはいたものの、県政の動向は不安定な状況にあったと言える。それは、県会において地域間の対立が露呈していた点からも明らかである@したがって、予防体制の確立過程において、県内全域に統一的な施策が図られていたとは考えられないのである。さらに、防疫活動には警察が前面に押し出される事態が目に付き、そのために行政と地域住民との確執は避け難いものとなったと推察される。本稿では詳しく触れ得なかったが、再置後、福井に赴任してき 町部と農村部等で相互の意見を譲らず、審議が難航するという実(脇)に不安{正極まりない情勢を作り出していた。したがって、当該期において機能的な衛生行政の運営がなされていたか否か疑問とせざるを得ない。
おわりに
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た石黒務県令に関して、彼はかつて内務省少書記官という中央における経歴を持ち、地方行政に精通した人物とされているS福井県史」通史編五近現代一、一五○頁)。したがって、第一章で述べたように、衛生費の国庫補助を陳情した際に、財政逼迫の時期にもかかわらず、その実現を見たのは、彼の経歴によるところが大きいといえよう。衛生行政において、政府と県、あるいは内務省と石黒県令との関係にはさらなる検討の余地が残されている。第二に、行政側と住民側との意識の差が各方面で顕著となり、その結果、コレラ流行を促進させる状況を作り出していたという点である。その大きな要因の一つに、両者の衛生思想に対する遅れを指摘することが出来た。即ち、住民は未だ病に対し伝統や宗教に依存する部分が大きく、尿尿処理等の衛生環境に対する意識も希薄であった。他方、行政側も伝染病に対する認識不足から、患者の治療法および家族の看護プロセス等に不徹底な対応を取った。予防政策の重点は、あくまでも「害悪」としてのコレラ患者を隔離・排除する部分に置かれ、それが行き届いているか否かを衛生行政の指標と判断してしまったところに問題があったのである。このように矛盾した行政の方針は、予防衛生に不可欠な環境改善への取り組みを遅らせ、専ら目先の対応のみに追われていくことになったのである。一方、コレラ騒動や忌避・隠蔽に関しては、正確且つ迅速な情報や知識を得られない環境の中で、恐怖感・不安感を露わにした住民の取った行動が注目される。その背景には、住民相互の差別 法政史学第五十六号
観、あるいは人権問題が複雑に絡み合っていたが、そこに強圧的な行政の介入があり、住民の危機感は一層増幅され、そのため流言飛語も飛び交ったのである。その点を敷桁するならば、行政と住民の間に確執をもたらした一因には、当時のメディアの未発達も指摘出来よう。それを克服する手段の一つが私立衛生会の活動であったが、皮肉なことに猛威を奮うコレラの前には、啓蒙教育による衛生思想が全ての人々に浸透していく時間的余裕も、精神的余裕もなかった。さらに、地域慣習にも意識の差異は認められた。即ち、福井県では、火葬が奨励されていたにも拘わらず、嶺南地域では土葬の習慣が根強く残っていたため、行政の指示がそのまま地域住民に受け入れられてはいなかったのである。第三に、戸長や衛生委員らの役割が徐々に明らかになってきたという点である。町村では彼らを中心に据えた向治衛生制度が認められ、運用されていた。即ち、実際の予防対策には彼らが必要不可欠な存在であった。それは、防疫活動の場でたびたび対立する関係にあった検疫委員と住民との間の緩衝装置としての役割を果たしていた点からも推察される。だが、戸長や衛生委員らが民選ではなく、官選になったことによって、その性格は官治性を帯び、地域住民の監視役としての傾向を強めていった。また、衛生委員に関しては、その役割の煩雑さ等から制度自体も形骸化し、廃止へと追い込まれていった。したがって、住民本位の自治衛生制度の確立という点では挫折したと言えよう。しかしながら、町村衛生行政の基盤自体は、当該期に作り上げられたものとして考えるのが妥当であろう。 六八
以上を踏まえるならば、小島氏らが指摘するところの「日本の衛生行政政策には「警察権力への依存」と『自治衛生の推進』という二つの傾向があった」との結論は、本稿においても首肯し得るところである。即ち、コレラ流行が促進剤となって衛生行政システムの枠組みは完成されていったが、結果的に住民本位の展開を待たずして官治化が進められていったのである。しかし、自治衛生制度への取り組みや、啓蒙教育による衛生思想の普及活動は、一定の成果を挙げたと評価すべきであろう。それは、「衛生」というこれまでにはなかった新たな概念が、地域社会および住民の日常生活領域に「健康」あるいは「清潔」への意識として反映されていったからである。さらに、より大きな枠組みで捉えるならば、環境整備事業の実現、予防医学研究の必要性を改めて提起した意義は極めて大きかったと考えられる。なお、近代の衛生行政に関しては、これまで政府、行政といった中央の視点から捉えている事例が多かった。しかし、本稿は、福井県下の事例や地域史料等の考察により、地方行政の対応・予防政策の水準、さらには地元住民における生活意識、慣習等を明らかにしたoもっとも、それは地域を断片的に検証した結果であり、時代も限定される。したがって、福井県の特質とも言うべき嶺北と嶺南の地域関係を視野に入れて衛生行政を捉えていく点では、未だ不十分なものとなった。特に、両地域における行政格差・意識格差は、二一世紀を迎えてなお脈々と続いており、各分野に様々な論議を呼んでいる。また、住民の相互理解という点においても、常
明治前期におけるコレラ流行と衛生行政(山本) に地域的差異が問題として取り上げられる。即ち、行政上の地域区分が確立される明治期の地域行政を検討することにより、新たな展開も予想されるのである。よって、今後、府県分合の過程、あるいは当該期に高揚を見せていた自由民権運動等政治情勢への考察を含めて検討課題にしていきたいと考えている。
註(1)本稿においては、年代表記は和暦(明治)で統一した。なお、史料の引用に際し、旧漢字は新漢字に改め、句読点がない場合は適宜それらを付した。但し、人名表記については旧漢字も使用した。さらに、人名表記を控えた箇所がある.(2)小栗史朗『地方衛生行政の創設過程罠医療図書出版社、一九八一年)、笠原英彦「明治十年代における衛生行政l後藤新平と『日本的」衛生概念の形成l」S法学研究』七○巻八号、慶應義塾大学出版会、’九九七年)、小島和貴「近代日本衛生行政における中央・地方関係l神奈川県の事例を中心としてl」(「政治経済史学」第三六○号、政治経済史学会、’九九六年六月)、同「日本衛生政策の形成をめぐる行政過程」(「法学政治学論究」第四一号、法学政治学論究編集委員会、一九九九年)(3)註(2)小栗前掲書、二七八頁。(4)註(2)小島和貴「近代日本衛生行政における中央・地方関係l神奈川県の事例を中心としてI」四八頁。
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