著者 長井 純市
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 74
ページ 1‑21
発行年 2010‑09‑30
URL http://doi.org/10.15002/00011595
本稿は、自由民権運動家(政治運動家)から衆議院議員(職業政治家)に転身した河野広中の主に日露戦争から韓国併合の時期における対韓姿勢を明らかにすることを通して、従来知られていなかった同人の一面を明らかにするも(1)のである。具体的には、甥該期政界において不遇をかこっていた河野の周辺にあって、河野を韓国に引き出し、活躍の場を作り州そうとしたⅡ戸勝郎という人物の一一一一口説と行動を取り上げつつ、河野の対韓姿勢を明らかにしたい。周知の通り、河野は明治一○年代半ばに自由民権運動家として全国的にその名を高め、福島事件(明治一五年一二月)後六年余の獄中生活を経て、第一回衆議院議員選挙に
韓国をめぐる河野広中の周辺(長井)
韓国をめぐる河野広中の周辺
はじめに 当選、それ以来大正一二年一二月に亡くなるまでその地位を保った人物である。しかし、初期議会期こそ、由党の領袖の一人として活躍し脚光を浴びたものの、日清戦後の第二次伊藤博文内閣と日由党との提携破綻の責任を取って脱党して以後は、中央政界において不遇をかこった。しかし、不遇の小にも河野が人々の耳目を集め、喝一米を浴びたことがある。それは、第一九議会で衆議院議長として起こした勅語奉答問題(明治三六年一一一月)、次いで日比谷公園で行われたⅡ露講和反対運動の集会における決議声明(明治三八年九月)においてであった。このように河野は民権派としての面と対外硬すなわちナショナリストとしての面を併せ持つ人物であった。まさしく民権派ナショナリストと呼ぶにふさわしい。実は、この
長井純市
管見の限り、河野の朝鮮との関わりについて妓初に日に付くのは、いわゆる防穀令問題によりⅢ朝関係が険悪化し
た情勢の中での河野の朝鮮出張(明治二六年五月に約一ヶ
月間滞在)である。このとき、河野は所属する自由党を代(2)表して防穀令問題および東学党情勢の調査にあたった。防穀令問題とは、明治二二年、朝鮮国成鏡、黄海両道において防穀令を布き、米穀の輸出を禁じたため、朝鮮に居複合的な性格は河野のみに止まらず、河野と同時代に生き
た多くの自由民権運動家に見川されるものであろう。本稿はこの複合的な性格のうち、主に後者の面を検討す
るものである。結論を先取りするならば、後述する様に、河野は明治四○年に対外硬の同志と共に、韓国併合策を政府に建一一一一口しており、河野の対韓姿勢はこれによりひとまず帰着点を迎えた。本稿は、河野の長い政治経歴、すなわち幕末の尊王運動、明治前半期の自由民権運動、明治半ばから大正末年に至る代議上生活を一貫したものと見、そうした活動の延長線上に前述の帰着点を位置付け、それを通して自由民権運
動家そのものの性格の再考を試みるものでもある 法政史学第七十四号大石正己駐韓公使と河野 留する日本人商業者が損害を蒙り、日本政府が朝鮮政府に合計二十一万七千五百余円の賠償を求めた問題である。この問題は、明治一六年に日朝間に締結された通商条約に、朝鮮国において水旱・兵擾のため一時米穀の輸冊を禁止するときは、その一ヶ月前に地方官より日本領事に通知しなければ施行できないとされた条項に違反するものであった。大石正己公使(川治二五年一一一Ⅱ~同一一六年七月)着任(明治二六年一月二四日京城入り)前に、近藤真鋤・梶山鼎介らの公使が交渉にあたったが、いずれも朝鮮政府の遷延策に陥り、問題解決に至らなかった心一防穀令問題の解決を命じられ韓脚に派遣された大石公使の強硬外交についてはすでに先行研究があり、その交渉過(3)程は明らかにされている。本章は、その大石外交については行論上肢小限にとどめ、その時期に朝鮮に出張した河野の対朝鮮姿勢を大石公使の交渉姿勢と絡めて班解することに焦点を絞りたい。元来、河野と大石は自由民権運動以来の知己である。大石は朝鮮に出発する前、河野に自由党の領袖の一人であっ
た星亨が井上馨内相や陸奥宗光外相を介して第二次伊藤博
文内閣に内通していることを耳打ちしており、両者は親し(4)い関係にあったことが知られる。大石のこの行為は、これ 一一より先第三議会で河野が衆議院議長職をめぐって星に敗れ(5)たことについて、「星一派が暗中飛躍の策を講じ」たためであるとして、最初に河野が星への不信感を表したことを受けてのものである。河野と大石は星への反感を共有することにより結びついていた。大石公使の川発に際して束邦協会という団体が送別会を開いたが、河野もその創立以来の会員であった。東邦協会は、川治二三年一月に小沢諮郎・福本誠・白井新太郎の三名が発起し、同一一月に創立された。同会のU的は、「束南洋諸地に係る地理・商況・兵制・殖民・同交・歴史・統計等を探知・講究する」ことにあり、当初副島種(6)臣を創立役員驍理者、のちに〈雪頭とした。同会の機関誌である「束邦協会報告」には、しばしば朝鮮事情に関する記事や講演録が掲載されたが、政論の性格を帯びたものではなかった。しかし、防穀令事件に関しては厳しい朝鮮批判の見解が示された。M事件の決着を見た頃に刊行された「東邦協会報告」第(7)一一五によれば、朝鮮は清露米の一一一カ国に対する依頼、心が強く、他方、朝鮮に対して維新以来「優厚切至」なる「信義」を尽くす日本を「巍視」「軽侮」する「癖」があると批判した。そして、防穀令事件の解決を引き伸ばした朝鮮
韓国をめぐる河野広中の周辺(長井) を、「傲情を極」め「唯利害の末を計りて理義の如何を省みざる」ものと痛烈に非難した。その一方、強硬な交渉姿勢を見せた大石公使を激賞した。同公使は「束邦全局恢隆の大業を成就する」ことを展望しつつ、「非常の熱心精励を以て、夙夜忠烙、其局に当」ったとし、伊藤首相や陸奥外机が眉を鶴めた大石の交渉ぶりを「東邦同行、君子国たる国士の礼即ち一国使節の礼を執りて以て之に処」したと称賛したのである。さらに、大而が直接国王に問題解決を要請する上奏を敢行したことも「急激に類するも亦た臨機至当の処断といふへし」と讃えた。六川に大石公使が帰国した際に、副島種臣らが盛大な慰労会を開催することを企画し、事前にその情報を得た政府がこれを「不都合」と見、中止するよう副島を説得する工(8)作を両策したことがあった。しかし、結局この歓迎〈君は帝(9)国ホテルで開催された。この歓迎会は東邦協会を中、心としたものと思われる。恐らく、河野も大石外交評価において同会の一員として見方を一致させていたと凡て良いである一つo実は、五ヶ月間に及ぶ大石公使の交渉は朝鮮政府の遷延策に引きずられた面が大きい□Ⅱ本政府は大石に実務的で
粘り強い交渉を期待したようであふ洲、大石公使は苛立ち
一一一
法政史学第七十四号
(u)を隠さなかった。結果として六月中旬にいたり、朝鮮政府
が日本の要求した賠償額を約二万円に値引きした上で妥
協を求めてきたために、ようやく決着を付けることができた。実は、その背景には、日本政府の周旋依頼を受けた清
国の実力者である李鴻章・哀世凱の動きや軍艦・警察官の朝鮮派遣案というⅡ本政府の実力行使決意が虹爬、それら が有効に機能したのである。大石の強硬姿勢が功を奏した
(⑬)のではなかった。しかし、政府関係者以外の多くの人々が大石の功績として問題解決を讃えたのであった。大石自身のことばによれば、元来、朝鮮との交渉に臨む以前大石は、問題解決の遷延を「政府の榊怠」「歎ずべき こと」として政府批判に置き換えていた。そして、対朝交
渉姿勢として「朝鮮の如き国に対しては尋常の手段を以てすべからず」「平時に於ても各国公使が彼の政府に対するには正当の手続を履むことなし」「仮りに損害額五万円なりとすれば夫より以上の物を押収し置くべし。左すれば彼
より請求し来るべければ其時に取るべきものを取りて計算すれば可なり」と、当初から居丈高に臨む方針を立ててい
(u)たのである。したがって、五月四日に川化操六参謀総長と共に朝鮮国
王との謁見を行い、川上が辞去したあと、単独で問題の上 奏を行うという外交儀礼に反する行為に及んだことを「Ⅱ本や西洋の積りにて想像すれば、外国の使臣が直接に国王の前に出で、国際上の事を奏上するは如何にも無礼千万のことずもにて、論者の攻撃も決して無理とは恩はれねと、朝鮮のことは速も其筆法にては処し難きf脳」と正当化し
ていた。そして、そうした強硬姿勢は国民の意向に沿い、支えられているとも主張した。五月一一三日に京城南山で開催された日本人居留民主催の「慰労園遊会」で、大石は防穀令問題の解決について「両国人が和好を欲」した結果であるとママし、「不肖正巳の如きはロハ其興塾珈に随」ったのであると述(肥)べた□また、神一Pでの歓迎会でも「彼[朝鮮]の事柄に対して威厳を損すべからず、国権を段損すべからずとの説は都鄙を問わず新聞に、演説に活版摺を廻せし如く一致し外国に向ては党派の別なく、政事家と実業家の別なく、凡て注意して国の体面栄辱に関しては身命財産をも捨て、情ま ざるの意向h肥」と繰り返し世論の後押しに言及した・
大石は政府の〈叩に応じて帰国したのであったが、自身がまとめ上げた解決策に対する政府の同意を求めるため帰国
したとし、「自己の意見の貫徹と否とに依って潔く其進退を決すべ(山」との決意を勇ましく公言した・事実、大石
四
は、朝鮮を出発し帰国する際に居留民に対し、「落し余の
新に考案せし対韓策にして政府の同意を得る能はざれば余
は再び三角山頭の月を見る能はざる可し」と一一一一口っており、それに対して、ある居留民は「将軍独り国に帰りて兵士独
り敵地に取り残し置かる、が如き感」を覚えると嘆いて(旧}いる。結局、大石は防穀令問題を解決に導いたとして、その役割を終え、免官となった。改めて大石の一一一一口動を顧みると、朝鮮に対する国威発揚への執着とポピュリズムに通じる世論へのおもねりが浮かび上壯測。少なくとも後者は伊藤首
相や陸奥外相等いわゆる藩閥政府系指導者とは相容れないものである。しかし、河野はこうした大石の性格を共有していたと思われる。さて、朝鮮滞在中の河野を見てみよう。まず、河野の朝鮮出張情報を得た政府がその悪影響を懸念したことに触れておこう。明治二六年五月五日付伊藤首 相宛陸奥外相隷轆には、「河野広巾、鈴木縢二[三]郎、
佐々友房[衆議院議員、国民協会、熊本県選出]続々朝鮮に渡航之様子新聞に相見へ申候。此節柄彼等の渡韓は後Ⅱ多少之面倒を惹起可致と存し」とある。たとえば、大石公使から河野への機密漏洩や大石への激励あるいは批判が交韓国をめぐる河野広中の周辺(長井) 渉を刺激しかねないこと、さらに朝鮮政府や国内の議会への悪影響を心配したのであろう。陸奥外相は「佐々、河野等渡韓に付而は小生より大石へ私書を発し、公私の別を明(犯)丁にすべき]日申遣し置た」と大石に釘を刺したのであったo河野はすでに朝鮮川発前に「元山防穀損害要求者総代」梶山新介という人物から書翰を受け取り、同封された「元山防穀事件に付朝鮮政府の失当を論し併せて我政府の反省{羽)を要む」と題する長大な聿白類にHを通している。そこには、朝鮮政府が「頑愚にして放漫」であり、交渉を担当する朝鮮側の官吏が「暴慢無礼好俵檸悪」であること、損害
額の内訳、これまで妥結に至らなかった近藤・原ら日本外
交官の「無為主義」と称すべき交渉ぶり、居留民の不満、速やかな問題解決に向けた強硬外交(「震天動地の大決心・大活断この要望、朝鮮駐在清国公使哀世凱の裏面における謀略などが連綿と記されていた。これにより現地居留民の河野への期待がいかなるものであったかは明らかである。河野はこうした期待を背負って朝鮮に渡ったのである。朝鮮に到着した河野を待っていたのは日本人居留民による歓迎会であった。河野は、五月一四日に「在居商人」か五
ら「居留地会議所」における「懇親会」への招待状を受け(型)取っている。彼らは宴席で河野に防穀令問題の理解や解決促進、大石公使への激励などを要請したであろう。仁川在住の「朝鮮新報社」青山好恵という人物は、帰国後の河野
に寄せた葺轆の中で、河野らの朝鮮出張が「居留人氏の志
気を引立たせ申候」と報じている。河野が彼らの期待を裏切らなかったことは、帰国後に河野を批判する報道が見られないことからも明らかであろう。もっとも、朝鮮滞在中に会見した、仁川在住の居留民である沼野義也という人物が帰国後の河野に寄せた豊艶に
は、河野との面談が僅か「数時間実に遺憾を極め申候」と記しており、改めて「朝鮮慶尚全羅両道沿海漁業事情」と題する居留民の漁業に関するリポートを同封している。したがって、河野の調査は必ずしも居留民を満足させるものではなかったことが窺われる。肝心の大石公使との会見については、「大石公使に及び町嘩反覆或は理を以て或は情を以て正論確議する所fw」
(羽)という短い記述のみが知られる程度である。また、防穀令問題に対する河野の見方は、「抑も朝鮮政府の傲慢無礼益其気焔を高め、彼れ眼中人なきか如き、其れ此の挙作は煽動者否な主動者其の者の教唆に因らすんはあらざるなり。 法政史学第七十四号日戸勝郎は、日露戦争の頃から韓国併合前にかけて、河野に渡韓し韓国在野の重鎮となるよう、河野の日本からの引き出しを図った人物である。その背景にはⅡ本政界における河野の衰勢、凋落があった。日戸は河野の韓国雄飛を構想したのである。管見の限り、Ⅱ戸の経歴は不明である。但し、河野宛書翰の封筒裏書きによって、H戸が大阪朝日新聞東京支局誌の記者であったらしいことは判明する。ちなみに、河野宛日戸書翰のほとんどが同支局(京橋区滝山川)あるいは韓国京城(在京城日本領事館の場合もある)から発信されて 一ハ
(羽)彼れ煽動者の頤使の服す又反省の心なきや知る可し」ということばに表れている。但し、これが渡航前、滞在中、帰国後いずれの時期に抱かれたものかは判明しない。いずれにせよ、居留民や大石公使の強硬姿勢に共鳴するものであったことは間違いない。
この朝鮮出張を総括するような史料は見当たらなぃ脚、
少なくとも河野の政治経歴における最初の朝鮮との関わりである防穀令問題において、河野が国威発揚を兼ねた強硬外交に賛同したことを指摘し得るであろう。一一日戸勝郎という人物
いる。おそらく、日戸は日露戦争や韓国政情の取材のためにたびたび韓国に派遣される中で韓国問題に傾倒し、河野の韓国引き出しを構想するようになったものと思われる。
年代不明ではあるが、日戸は河野宛書翰の中で、「|計画
も立て心中決する処あり。此際東洋の舞台に身を挺せんと致し卿」との決意を見せている・ 河野と日戸との密接な関係がいつ頃できたのかも分から ない。これを推察する手がかりとして、年月不明七日付大 隈重信宛日戸獣蝋がある。それによれば、日戸は大隈支持
者であり、「進歩自由」両党の合同による政党内閣の実現を望むとして乢秘。河野が大隈と密接な関係となるのは明
治一一一一年一一川に憲政本党に所属して以後であるから、Ⅱ戸と河野の密接な関係構築はこれ以降のことであろう。日露開戦前年の明治一一一六年九月二日付河野宛n戸書轆に
は、「世界の形勢」を見るために英米両国に行きたいとする志望が述べられている。このとき日戸は「斯道[新聞記
者生活のことであろうか]の工夫に関し判明せざる」と人生行路に迷いを生じていたようである。この書翰は、管見
の限り、河野宛Ⅱ戸書翰の中で年代推定が可能なもののうち最も古いものであり、悩みを率直に打ち明けていることから判断すれば、両者はこの頃すでに密接な関係にあった韓国をめぐる河野広中の周辺(長井) と見て良い。おそらく、この間n戸は河野の自由民権運動以来の政治経歴やその政治的主張を知って心酔すると共に、河野の政界での零落に心を痛めたのであろう。日戸が、いわゆる対外硬の一員であったことは間違いな
い。明治三八年六月二九日付河野宛書鞭には、日露講和へ
の反対運動の開始を促すと見られる河野の秋保親兼に対する働きかけを要請し、自らは島田三郎に対する働きかけを報告していた。さて、すでに批鞭において河野の政界における零藩に心
を痛め、河野の渡韓を提一一一一口した鈴木万次郎の明治一一一八年七月一二H付河野宛薔蝋を紹介したが、日戸はそれにも関 わっている。明治一一一八年八月一四川付河野宛書轆には「鈴 [木]刀〔次郎]・玄・閏上口等大に老兄の下韓を蹟[麺]
望」とあり、日戸の韓国人脈(玄、閏、吉の三人については不明である)と鈴木万次郎が共に河野渡韓工作を話し(鋤)〈口ったことが見えている。ちなみに、日露開戦後に河野渡韓の噂はすでに人の耳に入っていたようであり、「小嶋」栄という在韓日本人が河野渡韓を名目に、勿論河野の知らないところで、皇帝から費用を無心しようと画策したことを日戸は河野に報じて(仰)いる。一七
さて、結論を先取りするならば、日戸は日本が朝鮮に「王道」を敷くこと、そして自らが「日韓の喫子」になる(虹)「ことをめざしていたcそして、その士心を成し遂げるためにふさわしい人物として河野を選んだのである。日戸は「朝
鮮統治の如何はⅡ本の大陸に発展する第一(純」と見てい
た。一方、河野は韓国をどのように認識していたのであろうか。符見の限り、前章で見たように、初期議会期における防穀令問題をめぐる対朝交渉において強硬な姿勢を貫いた大石公使を支持したところから出発する。その後、いわゆる東学党の乱(甲午農民戦争)を迎えた朝鮮について、河野は「是[東学党の乱]間より彼国の政令荒廃し、紀綱失墜し、閥閲権家上に鱒踞し、暴官汚吏下に横行し、所謂上下交利を征して国危しの古諺に洩れす、家に衰へ人に窮し、万民其堵に安んせす、怨望沸々として八道の山河に充(蛸)満したるの結果と調明ふ可し」と、朝鮮社〈蚕の動揺を統治の腐敗に由来するものとして批判的に見ていたことが分かる。さらに、日露開戦後、明治三七年一一月九日付河野宛Ⅱ戸書轆によれば、河野が日戸に対韓策を述べていたことが
判明する。且Pは河野案に対して次のようなコメントを記 法政史学第七十四号している。貴説に付て諭せは、連邦組織は必ずしも国の大小強弱対等なる場合に於てのみ成立せず、随分相互の関係次第にて或強国と或弱国と抱合を余儀なくする場合も可有之。若し対等を以て諭せは寧ろ川盟の性質に近かるべき鍬。此辺御同感に御応候。韓国皇室と臣民との関係を詳知するは対韓策上の吃緊事件なること兼々御承知乍ら切角の御稿山‐一一一一一同此に御論及なきは多少の遺憾と可申候。これによれば、河野はⅡ韓連邦論あるいはH韓川淵論を構想していたといえよう。ただし、河野は韓国の抱えている問題点、すなわち「韓国皇室」と「臣民」との乖離をふまえていなかった。そこに河野の役割を兄川して日戸は河野に渡韓を勧めたのであろう。河野における韓国問題の帰着点は、明治四○年七N付で大竹貫一・小川平吉・国友重章・五百木良三・頭山満ら対外価の五名とともに第一次西園寺公望内閣および伊藤博文統監宛に「日韓両国を合併すること」を求めた建議書にある。同建議書は韓国併合策と皇帝交代による日本の統治権
掌握策の二案を提議しており、前者を「上策」とし池。す
なわち、河野にあって韓国併合策こそは韓国問題にひとま八
日戸の韓国政治に対する見方には厳しいものがある。「韓廷の狐狸に類するは今更乍ら実見実聞、度し難を感し(妬}居候」という見方は、それを象徴するものとい道えよう。n露戦争末期の講和問題に際して、韓廷は「仏独露の連(仰)△口を夢想し漸く排日の精神」を起こす一方、「韓内閣瓦解
し[中略]百鬼夜行の肛鯲」、「韓廷内の激烈なる争権
(⑬)運動」という情景がHlnには見えた。日露講和が無賠償など必ずしも日本の要求を十分には満たさない結果に終わったことを受けて「韓倒的陰謀を企て、此に統監に対立し得る内閣を組織し、|力、外国の後援を求めて急遅に独立を同復せんとし悶々せらる、有様・愚にも亦燗れに被厩脚」と、日戸は欧米列強に依存心を寄
せ独立を保とうとする韓廷に憐燗の情を寄せるのである。 ず決着をつけるものであったのである。この建議害を日戸がどのように受け止めたのかは不明であるが、このあとも日戸は河野渡韓要請を続けた。しかし、現実に明治四三年八月に韓国併合が断行されると、日戸の工作も終わりを告げたようである。1韓国政治批判
韓同をめぐる河野広中の周辺(長井) 一一一日戸と韓国
2日本の対韓政策批判韓国政治批判と同時にH戸はⅡ本の対韓政策をも厳しく批判した。河野渡韓工作の中で日戸が好意的に評価した関(皿)係者は、曾禰荒助韓国副統監のみであった。小村寿太郎外務大臣は、「季容栩を薬篭中の物となし世」き、「裡面より皇帝を動かさんと」するような政治工作を行う「馬鹿物」であり、「其手段の随劣、韓人の遣り方と(兇)撰ぶ処なし」と同外相を酷評する。親Ⅱ派団体である一進会には一貫して批判的であった。日戸は何会を「萩原[守一・在韓公使館一等書記官]や
[朝鮮駐罰軍]司令部の奴等が教唆した秘」ものと見てい
た。萩原書記官は日戸の目には、「切に勧告し細心の注意を用ひて韓の人心収攪に力を尽き、る可からず。航路利権ハーグ密使問題は、Ⅱ戸のⅡには「韓皇の困状も紺鹿」と
映った。このように、日戸は韓廷の国家統治能力を低く評価していた。しかし、H戸が韓国の滅亡を期待したり、日本による植民地化を企図したりした節は見られない。後述するように、日戸はこうした韓国を、皇帝を小心に柵えつつ、救済する万策を模索していたのである。九
等殆んど枝葉問題なる旨事実を陳して討論候へとも観念丸
で別なる故徹底止施」という様に、切実な助言が全く心に
響かない外交官と映っていた。また、一進会は日本の後援を得て、自らの政敵の駆逐に奔走するという「私憤を狭」(邪)み、韓国政治の混乱を増す存在とも捉えていた。日一戸にとって、一進会はまさしく「日韓の厄化棚」であった・
在韓日本人官吏・軍人の横暴についても、「過日一進会を奇貨として全州の人氏官衙と衝突せしめ之れを機として軍事警察を施行し得たりとて其向には自ら得意の色九秘」
ことや、「[日本]軍司令部が鉄道沿線の人民田宅を収めて其買金未た人民の手に入らず、群民白昼内部官邸を叩きて餓死を訴ふるの駁きもあり、吾憲兵隊之れを撃援して断臂折脚死に到らしむる大腿鯉」、「軍隊は鴨緑江の材木を無代
にて徴発し(伐採の半数)、吾官吏か韓人の邸宅を無賃にて横領し一進会を使嗽して気に喰はい韓官を威迫すふ割」
の事態を強く批判した。さらに、日賀川種太郎財政顧問の手法についても「沈ママ首相[副首相格の沈相薑参政のことか]昨夜辞表を出す。是れ目賀田と財政問題に付て激論したる結果なり。目賀田は徴税を担保として金を貸し付けんと強要せしもの、由。殆んと高利貸の遣乢胡」と酷評した。
法政史学第七十四号こうした日露戦争中の批判を受け継ぎ、日戸は、統監府による統治を次のようにシニカルに見ていた。一進会や未乗峻や韓人か蛇蝸の如く嫌ふものを日本が全力を尽して擁護し彼等の為めに利便あれかしと祈るは不可思議千万の政略にして、韓人すらも其政略の拙劣を笑ひ居候。[中略]日本の官吏人氏が韓国に於て為す処は威張ること、、韓人を□[偏が目、妾が扇。願の誤記か]かして財利を貧ること、、官権兵力を冠して掠奪同様のことを繰返へし候・[中略]新協約[明治四○年七月一一四Ⅱに調印された第三次H韓協約]の結果、各省皆日本人を任用し政治の実権吾手に収まりしは祝着に候へとも、政治の実質が此様にては韓人政治と択ふ所なく、官制とか法律とか頻々形式の製造許りにして治績一も拳からず、得る処は韓人の不(⑰)信用のみなり。こうした対韓政策批判は、「伊公[伊藤博文統監]の筆鋒では恐らく大動乱が出来る。特に地方の基督教徒が一斉蛎起する形勢に候へは、来春頃は国際問題に掛かり合ひは
せぬか迂閼の場合に無乙臓」と、韓国における大動乱発生
の懸念へとつながった。最終的に、日戸による日本の対韓政策への批判は、局所 ̄
○
的な視点からより普遍的な視点へと移っていった。たとえば、「昨今政策の拙のみに関するあらず。歴世日本の遣り方が威圧のみを主とし小面憎き手段を弄し去りし結果一朝
治療の難きを知るべき雌」、「英米露の強者に向っては頻り
に人道謙抑を唱へつ、、清韓暹羅の弱国には始終一屑を怒ら(開)して臨む□吾帝国の、心術其物洵に情けなき限り」、「大抱負なき国民や利己心にのみ機敏なる国民にして世界に歓迎せ(船)らる、恐らく此処なし。日本根底の病根此に在り」、「要するに人の衣を奪ふ丈の手腕は有れとも人の身体を捕ふるの手腕なし・人の身体を捕ふるの手腕あれとも人の心魂を収攪するの手腕なきし川」等々は、いずれも日本の二重基 準、すなわち欧米列強には人道を唱えつつ、韓国などの弱
体な国家には威圧的にのぞむという姿勢を批判し、また外交手法の拙劣さを批判しつつ日戸の苛立ちを表したものといえよう。ただし、日戸はこうした批判にもかかわらず日本が対韓政策を行う能力や資格を有しない国であるとは勿論考えていない□むしろ、日本こそが他国に抜きん出て対韓政策の主導権を掌握すべきと考えているのである。それは、後述するように彼の王道論と関わっている。韓国をめぐる河野広中の周辺(長井) 3対韓策提一一三と韓国人脈日戸は、韓国改革において最も必要とされるのは韓国官民の間に立って双方の信頼が得られる日本人指導者であると考えていた。たとえば、「対韓政策に付[中略]先決問題は当局其人を得しや否に有之。政策の如何は第二、第一二
の詮義と厩臓」と述べている。勿論、ここで第一の候補と
して考えられているのは河野である。日本が現下の韓国に対して取るべき具体的な施策としては、日露戦争における日本の敗勢を想定した場合、「韓廷臘躍して排日の手段を公行するに到るべく其際に於ては断して猶予せず日韓条約を放棄して兵力を以て保護国の実を現はすか是第「其次きは形勢の如何に頓着なく倦まで独立扶植の大義名分を重んじ廃国を興し絶世を継ぐ大人の懐次を得て至誠他に推し政治上一切の野心を捨て、唇歯の義を現はすか。之れを為すには先づ公使を交秤し局面を一新するの必要ありと存候。筍くも前者を為し得るものは後者をも能くし得べくこにして一に候、[中略]此決着を付くるには外間有力者の斡旋必要と存候。貴台の御渡韓此時必要なる所以も亦此に存すと謂ふ可し腿」とした。要する
に、日本が韓国を保護国とするか、あるいは韓国の独立を保ちつつ日韓提携を強めるか、前者に重きを置きつついずれかの選択肢を取るべきとした。日戸は、日本が「清韓を包容して此れを吾に従順なる兵卒の如く引廻はし東洋的モンロー主義の主張者たらん」としなければならないとし、「清韓に対して許多の政策を要せず唯真実彼を愛撫誘披する活ける同情を以て臨まぱ此一事百万の政策に勝きり彼亦其国を拳けて吾に信椅し来るの盛況を見ること、固信」していた。そのために、「清韓に危疑せらる、は吾国の忠実に足らさる処あるのみ。只此一事に向って改善を図ること、即ち是れ対東洋の経論と(わ)存候」と日本が清韓両国に対して「中心実」であることを求めた。この間、日戸は韓国朝野にわたってさまざまな工作を試みた。たとえば、朝鮮語に堪能な現地Ⅱ本人を利用して皇(刀)(犯)帝との「無線」とすること、雑誌の創刊、親日派と見られ
る団体の続雌などを行ったようである。明治四○年二月
(河)に発足した著名な大韓協会にもⅡ一円は関わっていた。こうした日本の主導による韓国改革が可能と考えられていたのは、日戸が「韓人は今に於て日本の保護を脱せんとも恩はさる可く、多少の同情の下に誘披し呉る、ならは統監府に楯突くもの恐く一人も無か[る]くし脚」と考えて
いたからである。 法政史学第七十四号1河野の役割n戸は、河野のどのような資質・能力等が韓国問題解決にふさわしいと考えたのか具体的には何も述べていない。河野に心酔するⅡ戸は河野が韓国皇帝第一の側近として重きをなし得る人物とひたすら確信して止まなかったのであ
る。(花)日一円は渡韓した河野が「韓帝を精神的に檎にする」ことを期待し、要請した。「何とか虎穴に人りて虎児を捉らへ(両)東洋撹乱の動機を穏かに捻ち伏せてやり度ものと存居候」ということばも同様の趣旨を言い表したものであろう。日戸は韓国皇帝の耳にもすでに河野の名が達しているとして、「老兄の義に付ては吉大に皇上に勧めし結果、呈上は今は唯一の有力者に頼りて向後の指導を受くる外なき決心を定め、日々老兄の消息を待ち居らる、由。本日、閏来 以上をまとめるならば、u戸は日本の「愛撫誘披」により摩擦を生じることなく日清韓三国による「東洋モンロー主義」とでもいうべき提携関係を創出することを提言していたといえよう。ただし、その場合の選択肢として韓国の保護国化をも構想していた。
四河野への役割期待 一一一
訪の懇談に御座候。[中略]内努金一千元親授せられ行事の日乃ち河野に転送し呉れとの内意のよし。是亦閏の内話に有之候。[中略]全韓の輿望を双肩に荷ふて陰然一敵国の歓を張らろ、は他日の東洋政界に立つに正に是れ内地政党以上の勢力に相成るべく候。[中略]小生は[中略]老兄をして一度徳[川]将軍の地位に立たしめんこと知遇以(門)来の感慨に御座候」と伝』え、韓国皇帝がⅡ|、と気脈を通じる韓国人側近から河野に関する情報を得ていたこと、また皇帝向ら河野の渡韓費川を提供したこと、さらに河野引き出しにかける熱意が述べられている。但し、河野を徳川将軍の位置に立たせたいというH戸の願望が、河野を江戸幕府最後の将軍徳川慶喜に見立てるのだとしたら韓国にとっては皮肉なことになるが、恐らくそうではなかろう。安定した統治が長期にわたって続いた江戸時代を想定して誓えたものであろう。さらに、「韓皇の老兄に於ける如き稀れなる歓待、朝に在る伊藤[博文]侯を除て又一人も無かろ(ね)べく候」と、皇帝の河野に対する信頼がすでに確立していることを報じた□そして、さらに「韓国今の中に薬篭中の物となさずんは数年後如何の変化を呈するや測り難し。皇上の心を獲ること伊[藤博文・韓国統監]侯能せず。公[河野]に非らさ
韓国をめぐる河野広中の周辺(長井) (帥)れは二千万の生霊を如何とjbなし難し」、「韓皇を心檎し得る資格、力量備る人老台を掴て亦誰れかあるべき。時期決
して晩れず。伊侯留守の間こそ却て監督大切と厩憾」と、
いずれも伊藤統監がなし得ていない韓国皇帝の信頼獲得を河野こそがなし得ることを保証するのである。そして、「統監及外相[林董]の為し能はさる処を為すの機会と存候。老台御渡韓のt韓皇と統監との間に立ちて処置を取られ候は叡韓皇を拉してu本観光を為きしむろ十に八、九難しとせず[中略]草履片足、下駄片足にて黒川如水の出立を恩ひ立たれては如何[中略]御熟考の上川判{皿}光春の果断夫と取られては如何に候や」と、韓国皇帝と統驍との間に立つ重鎮となることを急き立てたのであった。「若し老台[河野]の如き人此際京城に現は[る]れは統監の苦痛を救ひ、韓国の全局を統御するの勢隻手為し得るの用意出来胤臓」と伊藤統監を補佐しつつ、韓国の実権を
握ることすら可能であると示唆した。R戸は、「此化少しでも手強く当ったなら[韓国は]如何なる変状を呈するや計られれは、腫物を療治する様に加減せねば相成らず候・(弘)此処は々口医の必要ある所以」として、日本の指導に韓阿が反発しないように配慮する「名医」のような役割を河野に期待した。三
それでもなかなか渡韓要請に応じない河野に対して、「不如単身海を渡りて途に韓国を奪ひ去り満洲の将卒を収撹し得て帰らんには。国士の行動電光の如くにして始て警
世の薬石たらんと湛臓」と苛立ちをみせつつ、早急に韓
同・満州で力量を発揮すべきことを望んだ。Ⅱ戸につながる韓国人脈の一人と思われる閏衡植も、河野に対して「貴国政治家、思想況深精鋭、不惟是東洋之先進、欧美列強亦復欽嘆者也」と親Ⅱ的見解を述べつつ、「若対韓方策、謂以呑井、猶為不襯、有若将滅自種而殖他民焉、此非小生過一一一一口、実輿論如沸」と韓同併合・柿民地化には反対した。その上で、「若韓国有志之輩、慕閣下如泰山、其川若使閣下、遠渡親審、必側然恩救之[中略]閣下若不自知之焉、誠有志者之大恨也」と河野への期待感を表(師)し、渡韓を要請した。日戸の河野への期待は決して河野を鯛すようなものではなかったと思われる。しかし、H戸の韓国における人脈や(師)工作がどの程度現実味を帯びていたのかは不明である。2王道論
日戸は韓国に五趣を敷くことをめざしていた。それは、
いかなる構想なのであろうか。 法政史学第七十四号前述の通り、それは日本の大陸的発展に結びついており、日本中心に考えられていることは間違いない。また、日清韓一一一カ国圏域の「東洋モンロー主義」に結びついていており、欧米列強を排除しつつ日本主導下の提携関係を企図していたことも明らかである。
この他に、日戸は「此地に新日本を作ら脳」と言ってい
る。天皇を中心とする近代国家を構築した日本のあり方を韓国に及ぼそうとするものであり、皇帝を中心に韓国が近代国家として生まれ変わることを構想していたのである。Ⅱ戸の皇室尊崇の念については、明治四四年に同五○年を展望して天皇を顕彰する記念物建設をめざした河野宛薔梛に表れている。そこには、「皇祖以来正を養ひ暉を重
ねし建国の大理想を世界的に体現し玉ふ陛下の御人格(御仁徳とか御盛徳とか云ふ意味の語に換へたし)と吾人民族の信仰は之を何物かに表彰して一大記念を建立するの必要をあろを覚ゆ」として、貴衆両院の全議員を発起人とする記念物を明治五○年に竣工させることをめざすことが記されていた。そして、「今世説く所の帝国主義、国家主義と云へる妄執我讃」や「神系の皇室と神の撰民たる吾人民族[中略]他列国の一指染むるを許さ、る者あり」などの記述もあり、日戸が、第一に「帝国主義」「国家主義」を一
四
「妄執我讃」として批判し、第二に記紀神話に基づいて天皇を中心とする日本の長い歴史を世界に誇る考え方、いわば皇国中心史観を有していたことが読み取れる。日戸は、日清韓三カ国圏域における日本の主導性を皇国中心史観によって正当化していたのである。その一方、そうしたH本は韓国官民の抵抗を呼び起こすような強硬な指導、施策を行ってはならないのであり、韓国官民が自ら進んで日本の指導に服すような施策をとらなければならないと考えていた。そして、韓国の改革は、日本が明治維新において天皇を中心としたのと同様に、皇帝を中心として行われるべきであるとも考えていた。これこそが日戸のめざす王道なのである□したがって、ことによると日戸は韓国併合策を批判的に見、この点では河野と意見を異にしていた可能性もある。河野自身のⅡ戸に対する反応を知ることができず、また(皿)河野は結局日一戸の渡韓要請に応じなかったことから、以上のH戸の構想は一見すると河野への一方的な期待の表明に過ぎなかったようにも見える。しかし、両者が密接な関係にあったことは確かであり、とりわけ日戸が提唱する王道的韓国指導論は、日韓連邦や日韓同盟を構想した河野にも共有されていたと考えられる。しかし、その後、河野の壬
韓国をめぐる河野広中の周辺(長井) 日戸は、当該期、韓国改革に臼uの生き方を見出し、渡韓して政治の舞台裏で活動した野心的な多くの日本人活動家の一人であった。その野望達成のために必要とされた人物が、自由民権運動以来の名声を有するものの当時は中央政界で凋落していた河野であった。Ⅱ戸の河野引き出し工作は、前述の通り、韓国併合の実現とともに終わったようである。n戸には、韓国併合後も同地で活動を継続する意志はもはやなかったのであろう。但し、日戸の河野支持は続いたようであり、大正二年一一月
九日付河野宛日戸書鰄には、盛岡在の日戸が桂新党に協力
する旨を伝えている。護憲運動という一大逆風の巾で桂新党に走る河野を日戸は支持したのであった□河野は、防穀今問題に際して対朝強硬外交の支持者であったが、それは韓国併合に直結する姿勢ではなかった。日露戦争開戦の頃、河野は王道的観点から韓国の独立を前提として日韓連邦あるいは日韓同盟を構想していたのであ 道的韓国指導論は韓国併合策を選択するに至ったのである□河野の対韓姿勢が、この様な段階を経たものであることは留意されるべきであろう。おわりに
一
五
る。これこそⅡ戸が河野を必要としたゆえんである。最終的に韓国併合策を選択したとはいうものの、河野のこうした一面を見落としてはならないであろう。最後に河野を始めとする自由民権運動家の性格について一一一一口及しておこう。彼らを敗戦後の民主主義の源流であると読み取る見方が(兜)ある。確かに、代議政体を原則とする政治において政治参加の権利拡大や二大政党制、政党内閣制、そして被選出エリートであることを追求した彼らのあり方はまさしくそれに合致するものと見て良い。しかし、彼らの多くが政治経歴の出発点とした幕末の尊(肌)王運動で手に入れた自由は、その後欧米の自由・民権山心想によって理念として洗練されたものの、依然として尊王論を基盤とするものであり続けたように思われる。それを日朝(日韓)関係に応用するならば、その尊王論に由来する皇国中心史観が、対朝(韓)強硬外交、そして最終的に韓国併合策への積極的姿勢を生み出したといえよう□こうした意味で自由民権運動家は、敗戦後の民主主義の源流となる手前で、植民地帝国化する日本の歩みを進めた存在でもあったと見ることができるのではあるまいか。もっとも、同時代の多くの国民は自由民権運動家から職 法政史学第七十四号一一ハ(妬)業政治家へと転身した民権派ナショナリストーたちのこうした複合的な性格を支持していたと考えられる。そうでなければ、河野が晩年の普通選挙運動で大衆の人気を博し、喝一米を浴びることはあり得ないからである。自由民権運動家にこうした性格を見出すことはもはや陳腐なのかも知れないが、河野とその周辺にいたH戸の朝鮮(韓国)に関わる具体的な言説と行動を通して改めてその(卵)ことが確認できたと考える。
註(1)当該期のⅡ糠関係全般については、森山茂徳「近代Ⅱ鯨関係史研究」(東京大学出版会、一九八七年)を参照した□(2)明治二六年五月六日付読売新聞は、議会での質問材料調査のためと報じている。(3)山保橋潔「近代Ⅱ鮮関係の研究」下巻(朝鮮総督府中枢院、一九四○年)、唐沢たけ子「防穀今事件」(朝鮮史研究会編刊「朝鮮史研究会論文集」第六集、一九六九年)、吉野誠「李朝末期における米穀輸出の展開と防穀令」(同化第一五集、一九七八年)、同「成鏡道防穀令事件」(東海大学文学部紀要委員会編刊「東海大学紀要・文学部」第六六、一九九七年三Ⅱ)、同「防穀今事件の外交交渉」(M1第八八、二○○八年三川)、安岡昭男「駐韓公使大石正己
と防穀賠償交渉」(土佐史談会『土佐史談」第二一一一四号、二○○七年一一一Ⅱ)、李穂枝「防穀賠償交渉(’八九三年)におけるⅡ情韓関係」(「中国研究月報」第六一一一巻第六Mヶ、中国研究所、二○○九年)。(4)河野磐州伝編纂会編『河野磐州伝』下巻(河野磐州伝刊行会、一九二一一一年)二四○頁。以下、同書を『磐州伝」と略す。(5)「磐州伝」r巻、一八○頁。なお、本柿において史料を引川する際には、漢字は現代のものに書き改め、仮名は平仮名に統一し、適宜句読点を付した。(6)『東邦協会報生口」第一(明治二旧年六月)’一一五’三六頁。(7)明治一一六年六Ⅱ、六九’七六頁。(8)明治二六年六Ⅱ一○Ⅱ付伊藤博文宛陸奥宗光僻翰。伊藤博文関係文書研究会編「伊藤博文関係文書」第七(塙書一房、一九七九年)二七○’二七一頁。以下、同書を「伊藤文書』と略すロ(9)原奈一郎糊「原敬Ⅱ記』第一巻・官界・言論人(福村出版、一九八一年)二一二頁、川治二六年六Ⅱ一七Ⅱの条。(皿)伊藤甘机は「容易にヲツヘンシーブ[&のどの一ぐの、筆肴註、以下同じ]之政略を執らざるは政府之方策なり」と一一一一口明していた。明治二六年五月六日付陸奥宛伊藤書翰、国立国会図書館憲政資料室所蔵「陸奥宗光関係文書」第二冊。(u)当時、外務省迦商局長兼取調局長であった原敬はこの大石の姿勢を「徒らに強暴なり」と評した。註(9)前掲
韓国をめぐる河野広中の周辺(長井) 『原敬日記」第一巻、二一一頁、明治二六年五月二○日の条・(u)何石、明治二六年五Ⅱ二○Ⅱの条・また、同上五月二一円付時事新報。(Ⅲ)原敬によれば、帰国後の大而は「朝鮮に懲りて再赴任を欲せず[中略]海外に遊ばんと欲し」たために、欧米漫遊の旅に細ることとなったという。何右、二一二頁、明治一一レハ年六Ⅱ二二Ⅱの条・(u)明治二六年六川一一二H付大阪朝H新聞。(巧)同右六月一四H付東京朝日新聞。(咽)同右六月二日付向右。(Ⅳ)註(u)に同じ。(肥)明治二六年六Ⅱ二一一Ⅱ付東京朝日新聞。なお、阿紙によれば、大石は帰川に際し喘翻民を招いて宴会を催し、京城小学校に一○○円、仁川小学校に二○円をそれぞれ寄付し、居留民の惜別の情をかき立てたという。さらに、火打公使の留任請願に向けた活留民の動きが報じられている。(四)明治二六年六月八H付河野・鈴木〃次郎宛青山好恵被川翰、囚立国会図普館憲政資料室所蔵「河野広中文書」Rl8.以卜、同文害を「河野文書」と略す。(別)昭和一○年七月一三日、東京市内で営まれた大石の葬儀に列席した斎藤隆夫は、大石について「明治時代の政治家として有名なり。晩年寂し」と記している。伊藤隆編「斎藤隆夫H記」下(中央公論新社、二○○九年)一五二頁。
一
七
(Ⅲ)註(8)前掲「伊藤文書」第七、二六八頁。(皿)明治二六年五月五日付伊縢宛陸奥書翰、何右、二六九頁。なお、同書翰の中で佐々には渡航前に同じ熊本出身の井上毅文相が「内話」をしたとして陸奥は憤慨している。(別)明治一一六年四月二一一日付河野宛梶山書翰、「河野文書」
Rl8C(別)明治二六年五Ⅱ一四Ⅱ付河野宛淵上体兵衛・山口太丘〈ママ衛・梶山新肋・和田常一・穂積寅九郎書翰、同宿「懇親〈蚕発起人の書翰(付)歓迎会有志人名」所収。(空註(皿)に同じ。(妬)明治二六年五月三一日付河野宛沼野書翰、「河野文書」Rl8。(〃)「防穀事件書類断片」、同右。(記)明治二六年五月二○日付読売新聞は、n--nに河野と同行した鈴木万次郎とが大石公使と会談したことを報じている。(羽)註(〃)に川じ。(別)明治二六年五月一一八Ⅱ付読売新聞は、河野が大阪の今宵村商業倶楽部で日朝貿易について講演したことを報じている。(虹)年代不明五Ⅱ二三日付河野宛H戸書翰、「河野文書」R
5。9(皿)国立国会図書館憲政資料室所蔵「大隈重信文書」RlⅢ、B乞司。以下、同文書を「大隈文書」と略す。 法政史学第七十四号
(翌年月日不明であるが第二次山県有朋内閣の頃と推定される大隈宛日戸書翰によればⅡ戸は大隈と直接面談できる関係にあったことが分かる(伺右、B乞留)。ちなみに、日戸は河野引き出し工作を進めつつ、大隈にも「R本に在りて藤侯[伊藤博文統監]を覚醒し得るものは恐く閣下の外なかる可く候」(明治阿○年月不明一一六日付大隈宛日戸許翰、「大隈文書」Rl脇、B弓会)と述べ、同人への期待感を表明していた。(弧)「河野文書」R1冊。(妬)「日比谷事件押収書類の中R戸勝郎書翰」、同右Rl妬。(鉛)「河野広中」(吉川弘文館、二○○九年)一九○頁。(辺「河野文書」R1門。(銘)M右Rl妬。(胡)また、明治一一一八年八Ⅱ七H付河野宛日一P書翰(三春町歴史民俗資料館自由民権記念館所蔵「河野和子家文書」AI的。以下、同文書を「三春文書」と略す)にも、韓国滞在中の鈴木への言及がある。(仙)明治三八年五Ⅱ二八H付同右、「河野文諜」R1冊。(似)明治四○年四月二八日付同右。(蛆)註(羽)前掲明治四○年月不明二六日付大隈宛日戸書翰。(卿)「朝鮮事変雑事」、「河野文書」Rl8。(仏)「三春文書」AIN。(妬)「明治川○年七月日韓併合建議」、小川平士Ⅱ関係文書研究
 ̄
八
会編「小川平古関係文書2」(みすず書房、一九九七年)二八頁。拙稿「河野広中覚書(下)」、法政大学史学会編刊「法政史学」第七一一一号(二○一○年三月)参照。(妬)明治三八年一一一月一一九Ⅱ付河野宛Ⅱ戸率川翰、「一一一春文書」AlW。(灯)M右七月二四日付同右AIM。(蛆)M右八Ⅱ二○日付同右AIM。(蛆)註(羽)に同じ。(別)明治一一一九年一一Ⅱ一九Ⅱ付河野宛Ⅱ|〃諜翰、「三春文書」AIM。(型明治四○年七月一七H付同右、「河野文書」Rl妬。(記)Ⅲ右一○Ⅱ一七Ⅱ付何右(「三春文書」AIM)には、「帰韓後日に忙殺の境に在り。兼て御話申せし韓人を以て韓比の不平を抑ゆるの議曾禰氏に阿淡して委細申述置候」とある。また、明治川一年二月二七日付同上(同上Al皿)に「副統監には二、一一一回面談。此人は充分に呑み込み川りⅡっn分の政策筆鋒も打川け話し川候。一一一一mや行行するに足り、従前の欠点を兇出せし点も仲々肯繁に中たり卑見と相合し候処喜はしく候」とある。Ⅲし、恐らく河野・日戸両人に関する情報は曾禰を通して政府にもたらされていたであろう。(記)明治三八年二月二Ⅱ付同右、「河野文書」Rl妬。(別)註(妬)に同じ。(弱)明治一一一八年九月一九日付河野宛日戸書翰、「一一一春文書」
韓国をめぐる河野広中の周辺(長井) Al伽。(卵)明治四○年二月一一日付同右Al川。(印)註(聖前掲明治四一年一一月二七日付同右。この書翰の文脈では、伊藤統監も「厄介物」に含まれている。(開)明治一一一八年囮月二五日付同右、「一一一春文書」Al肥。なお、日清戦後から韓国併合までの時期の朝鮮(韓国)における日本の施策の問題については、鈴木讓二「Ⅱ本の朝鮮統治』(学術出版会、二○○六年)「第一一一章鉄道・軍用地収川・挺森計剛と通貨改龍」を参照した。(田)明治一一一八年八月一四日付何右、「河野文書」R1%。(N)註(唖に同じ。(Ⅲ)註(聖に同じ。(腿)註(⑫)に同じ。(田)註(辺に同じ。(“)註(聖に同じ。(閉)明治一一一八年九月六日付河野宛H戸書翰、「一一一春文書」A
lNol(船)明治一一一九年一一月一一一一日付同右Al叩。(町)明治四一年月不明二川日付同右AlⅢ。(船)註(必)に同じ趣(的)註(肥)に同じ。(Ⅷ)註(侭)に同じⅢ(、)明治一一一八年一一月一九日付河野宛日一P書翰、「三春文書」Al妬。
■■---■・
九
(犯)明治三九年四月一一一日付同右、「河野文書」R1冊。(刃)註(聖前掲明治川○年一○月一七日付何右には「百万の団体組織を認可して統監府と黙契せしめて事に当らは暴徒は勿論今後の大勢を挽回するに至大の力に候・韓人側の有力者には殆んと此趣意を申談し説得し置候」とあり、また註(冊)前掲明治Ⅲ○年一一Ⅱ二日付同右には「小生[日戸]帰韓後奔走種々韓人を説き勧め金允植を主領として一協会を作らしめ回下請願中に候。此団体は大したものになるべく候。宋乗峻等大騒き致候⑪先っ金允植を敬遠して日本に派遣する奇策を弄し届り候よし。実に悠懐を催ふす許りに候・此団体出来候はぎ暴徒鎮撫一拳して奏功する見込に候」とある。さらに、明治四○年一二月一九日付何右(「三春文書」AIM)にも「別冊二部御閲覧被下度候。当地の一大機関として将来多望の経済団体に有之候。何卒之れを扶育して日韓の経営に資し度鋭意致居候Ⅶ[中略]曾禰副統監には再三面談致し商業団体に付ても一片の尽力を求め置候。Ⅱ本人にして此川体を把梶し得候へは一一、三年間に幾十万の純益を得る容易と存候」とある。(刊)註(田)前掲明治四一年一一月二七日付同右に「大韓協会なる者が設立ざれしことは御承知と存候。右は最初小生の雑誌及町兇n頭にて韓国の一一一、四人有力者を激励し漸く発起するに到り候ひしか、其後内部のことは余り立入らず唯報告のみ聴取し居候。当初の主意は此反対党を纏めて統監政策に結ひ付けしめ、斯くして時局勘定上彼等反対党を 法政史学第七十四号
して尽力せしめんと期せしもの。彼等も充分承知して此に成立を見るに到り候」とある。その後、大韓協会に対する統監府からの妨害工作として、伊藤統監が、当初同会の会長に推された張博に辞退を強要したこと、警務庁や一進会が異常な注意と嫉妬を同会に注ぎ「妨害運動」を腱開したこと、大韓協会が倒閣運動を始めたという流一一[が流されたことなどを指摘し、「実に実に馬鹿野郎共にて御話になり不申」と日戸は憤慨している。大韓協会については、田口容三「愛国啓蒙運動の時代認識」(註(3)前掲「朝鮮史研究論文集」第一(集、一九七八年)および川脚達彦「朝鮮開化思想とナショナリズム』(東京大学出版会、二○○九年)参照。(市)註(蛆)に同じ。(巧)註(堅に同じ。(江註(坐に同じ。(門)註(田)に何じ」(刃)註(〃)に同じ心(別)明治一一一九年七月一五日付河野宛H戸書翰、「三春文書」AIM。(皿)註(辺に同じ。(皿)註(皿)に同じ。(田)註(田)前掲明治四○年一○月一七日付河野宛日戸書翰。(M)註(町)にMじ。
 ̄
 ̄
○
(唖註(辺に同じ。(別)註(型前掲書翰同封光武十年七月一五日付河野宛閏衡植書翰。(町)註(妬)前掲書翰には、渡蝉したⅡ戸に対して林権助駐韓公使と長谷川好道韓国駐割軍司令官が前年とは違い丁寧に応対したが、これはH戸の渡韓をあらかじめ外務省が通知しており、そこにR戸が「反謀人とでも認められ」ていたからであるとの説明が付されていた。U戸は、Ⅱ本政府において警戒を要する人物の一人とされていたのである。(鍋)許(虹)前掲書翰には「吾人の王道的意見」という表現
(閉)註(弱)に同じ。(卯)明治四Ⅲ年六月一二R付河野宛日戸書翰、「河野文書」Rl妬。なお、この覗業構想には河野も賛同していた。(皿)たとえば、明治一一一八年八月三H付同右によれば、河野は日戸の周旋を得て来Hしたと思われる韓国人張応亮と時間が取れないことを班川に会わなかった。M封されている河野宛張応売書翰には「閣下渡韓之期、何不為之確定乎」とあり、何人の残念な気持ちが記されている。この出来事をH戸も「今更の遺憾」(註(印)に同じ)と河野に伝えた。
(処)尊王援夷運動が身分の低い志士にもたらした自由と自己 グーヘグーへ
9392
、_〆、-〆
韓国をめぐる河野広中の周辺(長井) もある。
年、-=
て)
坂野潤治「明治デモクラシー」(岩波書店、二○○万 戸も「今更の遺憾」「河野文書」R1冊□ 正当化の認識については、井上勲「坂本龍馬」(山川出版社、二○○九年)一一二頁、参照。(妬)拙稿「河野広中覚書(上)(下)」、註(運前掲『法政史学」第七二(二○○九年几Ⅱ)、第七三号、参照。(妬)同様の指摘を辛亥革命後の中国に関連して別稿で指摘する予定である。
一一一