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敗戦後の「平和のための教育」提唱をめぐる 平和と教育の問題

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(1)

【要旨】 平和のための教育という課題は,敗戦後の知識人の平和運動で提起され,

その後雑誌『世界』や『教育』といったジャーナリズムで必要性が説かれ,やがて 教員組合運動や民間教育運動を介して平和教育の実践として具体化されていった。

本稿は,平和のための教育が最初に論じられた

1948

12

月の平和問題討議会か

ら,

1950

年後半に民間教育研究団体が平和教育へ着手し始めるころまでを対象に,

平和のための教育という課題を投げかけ実践への道筋を拓いた思想や取り組みが,

いかなる意思や姿勢に支えられていたかを検証している。最初に平和問題討議会と その声明,および雑誌『世界』において,平和と教育の問題がいかに議論され, 要な課題として認められたかを探り,次にそこであがった平和と教育の問題を, 育現場の問題へと橋渡しする役割を果たした教育雑誌の記事を検討し,平和教育と いう課題が教育界でいかに浸透していったかを探った。それによって平和のための 教育が,知識人のあいだから人間と社会の変革による平和構築の方法として認識さ れるなかで,実践という課題となって教育界にもちこまれ,そのための方法や工夫 が,教育実践を担う教師のあり方や姿勢とともに模索されていく過程が浮かび上が る。またその過程を通じて,平和とはつくりだすものと解され,戦争の起こらない 平和な社会をつくりだす人間とその人間をつくる教育が重視されていることが明ら かになる。

敗戦後の「平和のための教育」提唱をめぐる 平和と教育の問題

平和教育成立の一つの背景として

A Background of the Origin of Peace Education:

How was the Responsibility of Education for Peace and Conflict Resolution Discussed in the Campaign for ‘Education for Peace’ after the World War II ?

YAMAZAKI, Masako

山嵜雅子

キーワード 平和のための教育,平和教育,「平和的方法」,知識人,平和問題討議会,

平和問題談話会,雑誌『世界』,雑誌『教育』

(2)

はじめに

 戦後日本の教育は,日本国憲法の前文と第

9

条,および教育基本法第

1

条に基づき,平和を 愛する国民の育成を期して出発した。すなわち,どんな目的のものであれ戦争自体を是認せぬと の立場から,平和を希求し,そのための諸条件をつくりだそうとする態度や能力の育成をめざし てきた。だが憲法第

9

条の改定は,平和のための戦争を認める含みもみせながら,たびたび議論 にあがっている。また

2006

(平成

18

)年

12

月に教育基本法が改正され,公共の精神や伝統の継 承を重視する方向をとったことで,今後それが平和と教育の問題にいかなる影響を及ぼすかは懸 念されるところである。さらに昨年

3

月の東京電力福島第一原子力発電所の大事故は,被爆国と して平和を重視してきたはずの日本が,「平和」の名目で核利用を進めてきたことの矛盾を,最 悪の事態をもって露呈させた。われわれは今,平和の意味と平和を実現するための方法をあらた めて検討する時を迎えている。本稿が平和教育の成立時に立ちかえってそこでの平和と教育をめ ぐる議論を検討しようとするのも,教育が平和を追求する方法としていかに認識されたかをふり かえり平和の意味を考えるためである。

 平和教育が「平和のための教育」という言葉で戦後はじめて人びとの意識にのぼったのは,

1948

(昭和

23

)年末から

1949

(昭和

24

)年にかけてである。

1948

年秋ごろから展開する知識人 の平和運動のなかで提起された平和のための教育は,

1949

年に入って雑誌『世界』や『教育』

をはじめとするジャーナリズムでその必要性が説かれるようになる。そして

1950

(昭和

25

)年 から

1951

(昭和

26

)年にかけて,講和問題や朝鮮戦争が深刻化し,長田新編『原爆の子』など の戦争の惨禍を訴える書が出版され反響を呼ぶなかで,切実な課題として受けとめられ,教員組 合運動や民間教育運動を介して教育現場での平和教育の実践へと具体化されていく2

 本稿は,平和のための教育という課題を広く世間に投げかけ,平和教育の実施への道筋を拓い た思想や取り組みが,いかなる意思や姿勢に支えられていたかを検証する。したがって平和問題 討議会でこの課題が最初に議論された

1948

12

月から,

1950

年後半に民間教育研究団体が平 和教育へ着手し始めるころまでを対象に,平和のための教育の普及に努めた知識人と教育者たち が,平和問題における教育の意義をいかにとらえたかを追究するものである。

 ここで着目する平和問題討議会とそれを引き継いだ平和問題談話会を基盤にした知識人の平和 運動については,すでに数多くの研究が積まれている3。だが平和と教育の問題がそこでどう論 じられ,知識人それぞれがその問題にどう取り組んだかを掘り下げた研究は,ほとんど見当たら ない。また教育学の分野でも平和教育に関する研究は多々あるが,平和問題が教育の重要な課題 となっていく経緯やそれを支えた思想的背景は,まだ十分に説明されていない4。そのなかで平 和教育の成立過程から戦後教育学の政治的性格の解明を試みた森田尚人の論文5は,平和問題討 議会からの平和と教育をめぐる知識人の動きを考察したものとして示唆に富む。ただし本稿が着 目するのは,その動きの政治的側面よりも,知識人による平和と教育への取り組みが,いかなる 問題意識や社会認識を形にしたものであったか,またその取り組みがいかに教育関係者に受けと められ,平和教育が成立していったのかという,平和教育成立の精神的・思想的側面である。し たがって知識人や教育者の平和に対する考えや姿勢,および教育への期待や求める人間像がおも な検討材料となる。

 以下,本論では,平和問題討議会とその声明,および雑誌『世界』において,平和と教育の問

(3)

題がいかに議論され,重要な課題として提起されるようになったかを探る。つぎにそうした知識 人の運動が提起した平和と教育の問題を引き取り,教育現場へ橋渡しする役割を果たした『教育』

を中心とした教育雑誌の記事を検討する。平和のための教育が知識人の平和運動と教育ジャーナ リズムのなかで重視され,やがて平和教育の実践へとつながる経緯を,知識人および教育者たち の議論と活動を通して見極めたい。

1

.知識人の平和運動と平和のための教育をめぐる動き

1

)平和問題討議会と「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」

 平和のための教育という課題をもっとも早く明確に提起したのは,岩波書店の総合雑誌『世界』

編集長の吉野源三郎の発案から成立した平和問題討議会であった。これは,

1948

7

月にユネ スコから出された

8

名の科学者による共同声明「平和のために社会科学者はかく訴える」(以下,

ユネスコ声明と記す)に共感した吉野が,これに応えるような日本の学者による平和研究と共同 声明を構想したところから実現した知識人の平和研究のための組織である。彼の呼びかけのもと,

同年秋ごろより東京と関西にそれぞれ文科,法政,経済,さらに東京に自然科学と七つの部会が 発足し,ユネスコ声明を中心に平和問題に関する討議を重ねた。そしてそれらの報告を持ち寄る 形で,

12

12

日に安倍能成,大内兵衛,仁科芳雄を発起者とする総会が東京で開催され,そこ での議論をもとに「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」が作成されて,『世界』

1949

3

月号の「平和問題特輯」で発表された。その後声明への署名者を母体に,平和問題談話会が京都,

東京でそれぞれ組織され,広汎な知識人を集めた平和運動を展開していくことになる6

 平和のための教育は,この「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」7(以下,日本の科学者 の声明と記す)の第十項でつぎのようにうたわれている。

十,政治的問題の解決にあたつて科学と教育とが占める役割,換言すれば,平和的方法の役 割がますます増大すべきことは,恐らく何人もこれを否定し得ないであろう。特に平和の確 立が民衆の科学的知識と共に,またその倫理的意志に依存することが少なくないところから 見ても,われわれは平和のための教育に重大な意義を認めるものである。特に久しい間の軍 国主義的支配によつて荒廃した日本の教育は,平和の理想を以て有効且つ光輝ある原理たら しめることによつて新しい出発をなし得るであろう。われわれ及びその子弟が平和的方法に 習熟することのうちに,日本再建の唯一の可能性は横たわつている。諸般の問題を平和的に 解決する習慣を有する青少年が世界の諸国に成長して行くことは,世界平和の最も広汎な地 盤を形作るものであり,日本の教育がこの事業のうちに先駆的意義を担うことは,われわれ の真摯なる願いである。

 ここでは,政治的問題の解決における「平和的方法」の役割を重視し,平和の確立は民衆の科 学的知識と倫理的意志の獲得によるという見地から,「平和のための教育」の意義を認めている。

日本の教育は,平和という理想を原理にすることで新たな出発が可能となり,日本の再建も人び とが「平和的方法に習熟することのうちに」かかっているとして,「諸般の問題を平和的に解決 する習慣を有する青少年」を育て,「世界平和の最も広汎な地盤を形作る」という事業を,日本

(4)

の教育が先駆的に担うことを主張している。

 いうまでもなく「平和的方法」に対する概念は戦争である。声明の第九項では,戦争を,問題 を解決するうえで「極めて原始的な方法」で,しかも現代においては,ひとたび起これば人類を 絶滅へと追いやる「時代に取り残された方法」と化していると表現していた。他方で「平和的方 法」は,ものごとの科学的な認識と人類の普遍的価値に基づく判断や行動から導かれる問題解決 の方法である。その方法に習熟し,それをさまざまな場で実践・活用できる人間を育成すること が,平和を確立するに必要な「平和のための教育」にほかならない。すなわち平和の確立という 課題において教育に期待される役割は,人類間に生じる非合理な争いや行き違いを平和的に解決 する能力や態度を人間のうちに育て,平和への意思を広げていくという,世界平和のための根底 的基盤としての平和的精神の形成にあった。

 こうした平和を希求する精神とその広がりを重視する姿勢は,声明全体の基調をなしていた。

声明の第一項は,人間の知性と努力が戦争を防止し平和の基礎を固めうるのだから,戦争を宿命 的なものと受け取るような態度は克服されなければならないと指摘した。つづく第二項は,「社 会組織及び思惟様式の根本的変化を通じて、人間による人間の搾取が廃止せられる時にのみ、平 和はわれわれのものとなることができる」と述べている。平和実現への前提として人間の有様を 問い,その条件に思惟様式や社会組織の変化を重視するこれらの条項に照らしても,教育を通し た人間の意識や態度の変革を平和実現への鍵とする内容が声明の一項目に盛り込まれるのは当然 であった。また第五項から第七項にみられる,科学と科学者の役割は偏見や対立の克服と人類の 福祉への貢献にあるという立場が,科学的知識に基づき合理的に考え行動するという平和的方法 に習熟した人間を育成すること,すなわちそのための教育の重視につながっていることもいうま でもない。

 日本の科学者の声明の土台となったユネスコ声明もまた,平和の問題を,「集団間乃至国家間 の緊迫や侵略をいかに統御可能の範囲内に抑え、さらに進んでいかにしてこれらを個人的にも、

社会的にも建設的な目的に指向させ、かくしてもはや再び人が人を搾取するがごときことなから しめるか」の問題で,その達成には「社会組織ならびにわれわれのものの考え方自体におけるさ まざまの根本的変化が肝要」であるとして(

B

項),平和のための物理的・精神的な基盤の形成 を重んじた。また自国の優越性を説く神話や伝統や象徴類が戦争を助長し,国境を越えた思想の 自由な交流を阻害していること(

D

項)をふまえて,教育は「そのあらゆる面において、国家主 義的自己正義観と戦わなければならず、さらにまた、自他いずれもの社会生活の諸形式に対して、

常に批判的な、自己抑制に充ちた評価をつくりあげるように努めなければならない」とした(

E

項)。そして広い規模での社会科学者の協力,国際的な研究機関の創設と科学的な調査研究の推進,

あらゆる場での平和的な教育方法の研究・開発と教育プログラムの必要性を提唱している(

J

項)。

 このユネスコ声明にみられる,人びとの考え方を平和志向に転換させ,自国主義や偏見にとら われない公平な評価や判断が成り立つ精神的土壌をつくりあげるというアプローチ,そしてそれ に貢献すべき教育の役割への期待は,日本の科学者の声明に受容され,平和のための教育という 考えが導きだされたことは明らかである。では平和のための教育は,いかなる議論を経て日本の 科学者の声明にうたわれたのか。

(5)

2

)平和問題討議会における平和と教育に関する議論

 日本の科学者の声明は,東京と関西に結成された七つの部会の研究成果に,平和問題討議会 総会での議論と決議をふまえ,安倍能成,清水幾太郎,中野好夫,川島武宜,磯田進,都留重人,

富山小太郎,稲沼瑞穂からなる起草委員が審議して作成し,総会参加者全員の承認を経て発表さ れたものである。総会の全体討議は,清水幾太郎が各部会の報告から共通項を抽出してまとめた 綱要に沿って執り行われた8。したがってこの声明は,

7

部会のユネスコ声明に関する研究報告 と,清水による綱要,およびそれに基づいた総会参加者の討議を反映している。なかでも討議の 叩き台に用いられた綱要は,それに前文を追加し字句修正を施したものが正式な声明となってお り,声明の草稿とみて差し支えない。

 上述のとおり,綱要の基礎となったのは,各部会の報告であった。そのなかでユネスコ声明の 人間の意識変革による平和追求という立場を肯定的に受けとめ,平和問題における教育の意義を 評価する報告を出していたのは,安倍能成,和辻哲郎,清水幾太郎,中野好夫,淡野安太郎,武 田清子,鶴見和子,南博,宮城音彌,宮原誠一から構成された東京地方文科部会と,桑原武夫,

久野収,重松俊明,新村猛,田中美知太郎,野田又夫からなる近畿地方文科部会であった。それ ゆえ総会の全体討議で綱要の教育に関する項が議論される際には,両文科部会を代表して宮原誠 一と新村猛がそれぞれ「平和問題に関する教育の実施」を提議した。 

 最初に提案に立った新村猛は,平和のための教育が行われていないことを問題にあげた。東京 裁判の判決を学校で教材にする場合でも,そこから日本の過ちを学ぶというよりも枝葉な事柄の 暗記に終わっていることや,真珠湾攻撃の場面に一人が拍手すると,観衆全員がこれにならって 拍手したという映画館でのエピソードをあげながら,教育界の人びとの反省を促す意味でも,平 和のための教育の実施が必要であると発言した。つづく宮原は,平和のための教育の実施に絡ん で「教師への訴えと教師の再教育」を主張した。平和のための教育を担う有力な主体となる教師 に対して,平和のための教育活動を展開するよう訴えることと,その教師の多くが平和のための 教育活動を行うための「自主的な態度」と「科学的態度」を身につけていないことに対して,教 師が相互の協力と団結を通じて自らを教育し直す「教師の自己教育」を可能にするよう,社会科 学者や自然科学者による支援と協力の態勢をつくる必要を説いた。なおここで宮原があげた「科 学的態度」については,会議の先のほうで同じ東京地方文科部会の宮城音彌が「実証的に、且つ 合理的に事を処理するという態度」で,また「権威に服従しないという態度」と説明している。

宮城は,学生を対象に実施した自らの調査と宮原が労働者(奈良県下の紡績女工)を対象に行っ た調査の結果から,学生の

15

%と紡績女工の

22

%が戦争を要求していることをあげ,そのよう な戦争を要求する態度を克服するために科学的態度の養成が必要であると述べていた。

 新村と宮原の発言を受けて,田畑忍,渡邊慧,中野好夫,沼田稲次郎,川島武宜といった参加 者から,社会科学者には社会科学の成果を民衆に浸透させ教育に生かす方法を講じ,戦争につな がる身勝手な教育が行われないようにする責任があるという見解や,平和問題に関するジャーナ リズムの社会教育的な役割を重視し,そのあり方を批判的にチェックする必要についての指摘や,

学者が組合のような「生きた教育の場」に入り,人びとに教えると同時に自らも教育されるとい う形で,民衆と結びつくべきだという主張,さらに民衆が平和思想をもたないかぎり平和は維持 できないとして,声明で平和思想を鼓吹することを求める意見などが出された。

 これらの提案は,平和のための教育を広く知らしめ普及させることを意図したものだが,いず

(6)

れもその前提に,学者が自己の社会的責任を意識し,平和実現のために行動することを求めてい た。そこには,平和を希求できるほど民衆は成熟しておらず,平和のための教育を押し進めるべ き教師もそれに見合う能力を有していない,それゆえに学者が民衆や教師を平和問題にめざめさ せ,平和思想を身につけさせる役割を担わねばならないとの認識があった。討議会に参加した知 識人の多くは,民衆を啓蒙するという立場に自らを置きながら,平和実現という課題へ学者とし ての良心をかけてどう立ち向かうかを論じていた。そしてそうした優越的意識も混じった強い責 任感のもとで,実現のための分野を超えた協力を模索していた。そのなかで平和のための教育は,

彼らが共通して賛同でき,しかも誰にとっても否定するところのない,平和実現への重要な方法 として認められたのである。

 しかして平和問題における教育の意義が確認され,その後起草委員の手を経て,「平和的方法」

や「民衆の科学的知識」への言及と,平和を原理として教育の再生をめざすという自省も込めた 決意表明を綱要の内容に加えた形で,平和のための教育が日本の科学者の声明にうたわれたので ある。そしてこの平和のための教育が声明の一項目から知識人や教育関係者にとっての喫緊の課 題へと浮上する契機となったのが,座談会「平和のための教育」であった。

3

)実践への示唆――座談会「平和のための教育」の役割――

 座談会「平和のための教育」は,声明の発表から

4

カ月後の『世界』

1949

7

月号に掲載さ れた。『世界』は

1949

年に入ってから平和問題を盛んに誌面にとりあげており,この座談会も『世 界』が押し進める一連の平和運動のなかに位置づくものであった。出席者は,清水幾太郎(二十 世紀研究所長),今井誉次郎(東京都西多摩小学校教諭),上飯坂好實(東京都杉並第四小学校長),

宮原誠一(東京大学文学部講師),猪野謙二(京華学園高等学校主事),新村猛(京都人文学園長),

中井正一(国会図書館副館長),そして『世界』の編集長で知識人の平和運動のオルガナイザー の吉野源三郎であった。

 既述のように,清水,宮原,新村は,平和のための教育が声明にうたわれる過程で重要な鍵を 握った人物であり,平和問題討議会から組織された平和問題談話会のメンバーであった。吉野の 厚い信望と要請を受けて日本の知識人の平和研究活動に関与し,綱要はもちろん,声明作成にも 大きな力を発揮した清水は,戦前より社会学者として,またジャーナリストとして活動し,敗戦 後は二十世紀研究所を興して啓蒙活動を展開してきた。宮原は教育学者で,戦前に教育科学運動 に携わり,戦時には昭和研究会で中等教育をはじめとする教育改革を進めた経歴をもつ。新村は 仏文学者で,戦前に反ファシズム文化運動へ関与し,敗戦後は京都人文学園を創設し園長を務め ながら,京都を中心に青年たちへ平和を伝える教育活動に取り組んでいた。さらに中井は,戦前 に新村と共に反ファシズム文化運動を闘い,敗戦からしばらくは尾道市立図書館長として広島県 下の社会教育運動を率いた経験をもつ美学者であった。

 これら学者という立場からの参加者に対して,今井,上飯坂,猪野は現職の教員という立場で 参加している。今井は戦前,小学校教員を経て郷土社を通した生活綴方運動に参加し,戦後は疎 開先の西多摩小学校を基盤に,西多摩村民主主義研究会や生活協同購買利用組合をつくり,社 会科教育の実践に努めた。上飯坂は小学校教員を務めながら,国語教育に深くかかわるとともに,

家庭教育や児童問題にも関心をもち,東京大学内に設置された児童問題研究会などにも参加して いた。猪野は新制高校の教員を務め,同時に戦前より作家,近代日本文学の研究者,評論家とし

(7)

て活動してきた。

 座談会は,「戦争をなくすという事業は、戦争をひきおこすような社会的、経済的、政治的条 件を取り除いてゆく仕事」であると同時に,「戦争の心理的原因を作るようないろいろな偏見や 利己的な考えを抜き取つてゆく仕事」であって,「それ自身が広い意味での教育に属しており」,「こ れからの平和運動と教育とは切り離せない関係にある」という吉野の趣旨説明から始まった。そ こでの議論は,大きく三つの点からとらえられる9

 まずは司会役の清水が投げかけた,平和という理想が教育勅語に代わる新しい教育理念となり うるかどうか,その理念のもとに平和の問題に積極的に取り組んで行く雰囲気や態勢が教育界に あるかどうかであった。これについては,教員層の無関心が指摘された。宮原によれば,教育者 の支えであったとされる教育勅語も,その枠組みに沿っていれば無事に教育できるという形式的 な支えであっただけで,教員は自分の教育活動について自主的な判断能力も教育への確固たる信 念ももちあわせておらず,平和を守ることにも積極的な関心を覚えずにいるというのである。さ らに猪野は,平和を教育の理想とする条件が備わっていないのは,教員の自覚が薄いためだけで はなく,社会のなかで平和とは反対の力が働き,生徒の戦争を否定する気持ちを邪魔しているこ とにも原因があるとした。そうした状況のなかで,昨今の教員組合運動を通した教員の意識の高 まりと自主的な活動の広がりは,教師の平和運動を考えるうえで看過できないとされている。宮 原や今井は,それが教育運動の発展や自立した人間たる教師の形成へつながっていくことを期待 した。この論点を出した清水も,平和は美しい理想として掲げられるのではなく,現実の困難な 問題を打開していく解決への積極的な取り組みとして追求されなければならないと述べている。

 つづいての論点は,生徒や若者たちへ平和の意義をいかに伝えるかであった。一般に児童や生 徒の戦争に対する忌避感は強いが,家庭や社会は必ずしもその気持ちを育み,平和について教え る状況にはなっていない。また年齢が上の学生のなかには,戦争に負けたのが悪くて勝てばよか ったのだと考える者もおり,戦争責任の問題に気づかせることが一つの課題となる。それゆえ教 師には,平和や戦争について教え,平和を大切にする思いを高める教育を行うことと,戦争責任 の説明も含め平和問題に取り組めるだけの能力を養うことが求められる。さらにそうした教師へ の教育活動を進める教員組合の役割も重要になる。

 一方,戦争を欲する若者たちにどう平和の価値を伝えるかについては,中井が理論を通じて理 性に訴えることを重視し,今井が映画や演劇も利用して感情的にわからせていくことを支持した。

当然のことながら,これらは相反する方法ではなく,人間の形成が学校や家庭に限らず,社会の さまざまな力から影響を受ける以上,対象者や状況によっていずれも有効な方法となる。とくに 良いものも悪いものも入り交じって働く社会的な力からの影響を,学校と家庭,啓蒙や政治がど うコントロールするかは平和を伝えるうえで重要である。その点で社会的な影響をコントロール するセンターとしての学校の意義と学校教育にあたる教師の使命と責任の大きさが,あらためて 確認されたのだった。

 もう一つの論点は,教員の再教育の問題であった。平和のための教育活動を行うには,教師自 身がそれを行うだけの能力を身につけていなくてはならず,そのための教員の再教育や自己教育 が不可欠である。新村や宮原は,平和の問題を取り入れた再教育を教員組合が主体となって実施 し,社会科学者や自然科学者がそれに協力することを求めた。現場の教師のあいだでは教材の解 説を再教育に求める声が多いが,その要求にも応えながら,平和のための再教育が行われるべき

(8)

であり,そのために平和問題についての解説や教材・資料が豊富に用意され,教員が学習活動や 課外活動のなかに平和というテーマを織り込んでいけるように整備されねばならない。こうした 議論を受けて清水は,軍国主義の教育の名残に代わって平和の観念が人びとの胸の底に入った とき,初めて日本が平和を一つの方針として自立する時代が来るとして,教員の再教育の実施と,

学校や社会のなかで平和的な処理の仕方を子どもの精神の発達に即して教えていくことを主張し た。猪野,今井,上飯坂も現職の教員として,教員の再教育への学者の協力を望むとともに,実 践のなかで平和を主眼とする教育を追求していく意思を明らかにした。

 最後のまとめで司会の清水は,日本教職員組合が主体となり,自然科学並びに社会科学の専門 家が協力して,教員の再教育を進めること,そして平和的な態度の育成へ一刻も早く着手するこ とをあげ,教員の問題に関心をもち,解決へ共に力を尽くすことが学者の任務であり,そこから 生まれた協力や提携が効果を生みだす旨を強調した。これが示すように,教員はもとより,さま ざまな分野の学者たちに,平和の価値の自覚と,平和のための教育活動へ取り組む意志や責任を 求めたところに,この座談会のねらいがあった。また平和問題討議会でも提案され,ここで参加 者の総意を得た学者が協力して教員組合を主体に平和のための教員の再教育を実施するという構 想は,すでに動きだしていた知識人の平和運動にとっては,知識人がいかに現実の問題と取り組 むかの一方向を示唆し,教育界にとっては,平和の問題が教師と学者が共に取り組むべき最重要 課題であることを確認させる意味をもった。その点でこの座談会には,平和のための教育という 提言を,具体的な実践へつなげる端緒を開こうとする意図も込められていた。

 現にこれに前後して,日本教職員組合(以下,日教組と記す)や各地の教職員組合の主催で平 和問題に関する講座が開かれ,そこに平和問題談話会の知識人が講師として参加し,教員たちの 平和への関心を高めるという取り組みが行われている。清水幾太郎,吉野源三郎,宮原誠一,さ らに田畑茂二郎,久野収,新村猛といった平和問題談話会のメンバーが,

5

月中旬頃より日教組 幹部と会い,講座について相談を行い,

7

月下旬の東京での中央大会とそれにつづく各地の教組 主催による大会の開催を実現させたのであった。実際のところ,東京での中央大会は,参加者も 少なく,主催者の日教組幹部も参加者も熱心さを欠いていたという。また会での討議は概して平 和問題一般に終始し,平和教育そのものに踏み入るには至らなかったらしい10。だが平和問題討 議会や上の座談会で議論された教員の再教育という課題に応え,各分野の専門家と教師が一堂に 会して平和問題を論じ,平和のための教育活動に協力して取り組むことを確認しあった点で,平 和教育の推進に大きな意味をもつ催しとなった。

 以上のように,平和のための教育という課題をいち早く提唱し,それを社会に知らしめる役割 を果たしたのは,平和問題討議会および平和問題談話会の知識人たちであった。しかもそのなか に教育を専門とする学者は,宮原誠一しかいなかった。平和のための教育という課題は,教育学 者や教育現場から実践と結んだ問題として出されたのではなく,平和実現への一つの方法として 教育の意義を認める知識人たちによって提起されたのである。

 つぎに,この課題が教育界にどう浸透していくかを,『教育』をはじめとした教育雑誌にみて いこう。

(9)

2

.雑誌ジャーナリズムと平和のための教育

1

)雑誌『教育』による平和教育の呼びかけ

1933

(昭和

8

)年に岩波書店から発行され,戦前の教育科学運動の展開を支え,

1944

(昭和

19

)年に廃刊となった雑誌『教育』は,

1951

(昭和

26

)年

11

月に現在の発行元である国土社に よって刊行された。だが『教育』の再刊は,それ以前にも社会社と世界評論社によって試みられ ていた。本稿で着目するのは,知識人の平和運動と重なる時期に発行されていた世界評論社版の

『教育』(

1948

4

月から

1950

2

月まで刊行)である。

 『教育』は,『世界』が日本の科学者の声明を発表した翌月の

1949

4

月号の巻頭にコラム「平 和のための教育活動」を載せ,つづく

5

月号に新村猛の「教育者再教育の問題」を掲載し,さら

10

月号で平和教育を特集した。先の座談会「平和のための教育」や日教組と平和問題談話会 の共同による平和問題の講座がこの間に開催されており,『教育』は知識人の平和運動と連動し て平和のための教育の問題をとりあげていた。そこには知識人の平和運動に参加し『教育』の編 集にも携わっていた宮原誠一の意向が大きく働いていたと考えられる。

 コラム「平和のための教育活動」は,「二つの世界の対立」という現実のなかで,ポツダム宣 言と憲法にのっとって武力と戦争を放棄した日本人は,世界に向かって平和を求めるためにも,

真に平和を愛し,平和のために献身する国民であることを立証していかなければならず,それが 教育の重要な仕事となるとした。ここで「平和のための教育」は,「人間的な心情の教育である と同時に、科学的なえい知の教育」であり,「戦争挑発者の宣伝をみやぶり、戦争にたいする無 知な期待を批判し、国際的理解と戦争防止とに必要な条件を探求する科学的な態度と能力とを育 成すること」と説明されている。そして「平和のための教育活動」は,世界の教師の任務であり,

なかでも日本の教師はそれを先駆的に担うべきであるとされた11。日本の科学者の声明と同様に,

ものごとを平和的に解決する態度や能力の育成を教育の役割としたもので,さらにその使命の自 覚と決意を教師に訴える内容であった。 

 翌号の新村猛の論文は,「近代的人間の形成」を使命とする教育者こそ「近代的人間」でなく てはならないとして,教育者をそうした人間にするための再教育を求めるものであった。しかも その実施主体には,各人の自由意志に基づき成立し,加入者の手で運営される自主的・民主的組 織としての教職員組合が望ましいとした。「再教育の企画を立てそれを実行するために組織をつ くったり運営したりする活動そのものが近代的人間形成の教育的作用を伴う」と考えるゆえであ る。さらに敗戦後の教育者が目標とすべきは平和のための教育であるとして,再教育の目標も「平 和のための教育をおこない得るような教師の育成,すなわち教育者を真の平和主義の精神のもと につくり直すことにおかれること」を主張した12。既述のように新村は,平和問題討議会の総会 で宮原とともに平和のための教育を主張していた。この論文は,彼自身が追求する教育の民主化 や平和構築という課題を,それを支える教育者の再教育という観点から論じたものであり,ここ での主張が,『世界』

7

月号の座談会「平和のための教育」での議論につながっていることはい うまでもない。

 さらに

10

月号の平和教育特集は,

4

月号で平和のための教育活動を呼びかけて以降,夏に日 教組主催で平和問題の講座が開催されるなど,平和教育への認識が広がりつつある状況を受けて 企画された。巻頭を飾ったのは,平和のための教育運動を,教師の日常的な活動に発展させ,人

(10)

びとの手による「下」からの運動として推進するために,平和教育委員会の設置を提案するコラ ムであった。平和教育委員会とは,「平和教育の目標・材料・方法についての具体的な基準案を 作成するために教師,教育行政官,学者,新聞社・放送局・図書館等の関係者,民主的諸団体の 代表者などがあつまる委員会」である。それを府県の教育委員会の機関として設置して,そこで 平和教育に関する内外の資料や意見,また学校や成人教育の場における平和教育の実践の報告を 集約し,それらに基づいた平和教育の成案や情報を教育現場へ提供する。そのことで平和教育の 実践経験が学校や地域に蓄積され,委員会相互の連絡により平和教育の実践成果の交流が行われ るようにするという構想を示したのであった13

 論文として,久野収「平和のための教育―― 一つの実践の紹介―― 」が特集を彩った。久野 は戦前に新村猛や中井正一と共に反ファシズム文化運動を闘った体験をもつ哲学者で,平和問題 談話会の有力なメンバーであった。この論文で彼は,戦争の暴力から平和を守る仕事はおとなに 課せられた重大な任務であるとして,おとなが戦争の惨害を青年層へ負わせていることを反省し,

現状維持でも,次の戦争までの準備期間でもない,進歩としての平和を確保するための真剣で粘 り強い運動を続けていくことが,次世代のためのすぐれた平和教育の実践であると述べた。おと なが真剣に平和を追求するかぎり,青少年は必ずや自発的意志と自主的判断に立ってその運動を 受け継ぐ,それゆえ平和のための教育の最良のプログラムは,おとなの真剣な平和追求の運動の プログラムにほかならない。そのうえで彼は,米ソ両国民の相互理解を進めようとするアメリカ のキリスト教徒たちの平和運動を,「平和のための実践と教育との統一」を教える事例として紹 介している14

 そしてもう一つの特集記事が,座談会「平和教育の具体的方法」であった。タイトルが示すよ うに,『世界』7月号の座談会「平和のための教育」を受けて,平和のための教育の方法を検討 するために設けられたもので,出席者は教育学者の宮原誠一(東京大学講師),法学者の戒能通 孝(早稲田大学教授),教育学者の勝田守一(学習院大学教授)に,川野健二郎(東京都立第五高 等学校),今井誉次郎(東京都西多摩小学校),岩上行忠(東京都四谷第四小学校),平田信子(東 京都文京区立第一中学校),松元俊雄(東京都立青山高等学校)という現職の教員たちであった。

 ここで最初に討議されたのは,平和教育の根本的なねらいはどこにあるかという平和教育の力 点についてであった。戒能通孝はそれを,戦争を必要とせぬ人間をつくること,つまり日本国憲 法を積極的に支持するような人間を育て,戦争のない平和な社会をつくることにあるとした。平 和については,現状を平和とみなし,それを維持するという考え方と,平和は維持するのではなく,

つくりだすのだという考え方がある。戒能は後者の平和をつくりだすという考え方に立ち,戦争 を欲する社会があるかぎり戦争となる可能性があるのだから,戦争の起こらない社会関係を打ち 立てていく人間が必要であり,それには平和を守る人格を育て上げようとする教師の熱意が根本 になると主張した。一方,現状の平和を維持するという立場が,ムラ社会に残る戦争肯定の考え をも維持させかねないという問題に対しては,宮原が「日本人ひとりひとりが自分に関係のある 問題は自分で自主的に判断し,自分のはつきりした意見を述べるという習慣をもたない限り平和 への正しい努力はできないのであつて,日本社会の近代化を進めることと,平和のための努力と は全く一致する」と述べている。封建的な秩序のなかに埋没せぬ,自主的に判断し主張できる人 間を育て,平和な社会の創造へと向かうことが,平和教育のねらいであることが確認された。

 つづいて平和教育がいかに行われているかについて,宮原は,平和を求め努力するという態度

(11)

と能力の教育という観点を欠いては,平和教育も単なる知識の伝達に終わるとし,アメリカにお ける「平和を意欲する人間をつくる教育」が,健全な批判的態度,公民的な責任感,他者や他国 に対する寛容と善意の態度,事実を確かめる態度,そして人間としての優しい気持ちの涵養をね らいにあげていることを紹介した。一方,参加者の教員たちからは,かつて自由教育が行き過ぎ と言われたころとは打って変わって,生徒の自由な活動が教師によって抑えつけられ,生徒の間 には強い日本を主張したがる者もみられるという学校の現状が語られた。そのなかで座談会「平 和のための教育」にも参加した今井誉次郎は,自校の社会科教育の実践を紹介し,戦争や平和に ついては小学校から徹底的に教え込んでいくべきで,そのための指導体系が不可欠であると主張 した。そしてその指導体系をつくる一つのヒントとして,生活に身近な題材から人種的偏見の問 題を考えさせるという事例を紹介し,子どものうちからでも工夫すれば平和教育の実践が可能で あることを示した。

 さらに平和のための教育活動として何を行うべきかへと議論が進むなかで,戒能は,子どもに は小学校から大学までを通して,自分の信じることを恐れず率直に表現できる機会をできるだけ もたせること,教師は子どもたちの意見や考えを真摯に受けとめる努力をすることをあげた。同 じく勝田守一も,思っていることをはっきり言える人間をつくる教育が大切で,そのためにそれ を困難にしているものをどう取り除くかが問題であるとした。また平和についての確固とした考 え方を小学校から教えるためにも,平和教育における平和の意味や内容を明確にして,平和につ いての知識を深め,人類の平和への歴史的な努力を理解させる具体策を考えていくことが肝要だ と述べている。

 最後に戒能は,強靱で,真理以外の何ものをも恐れない人でなくては平和を守ることはできな いとして,そのような人間を築くうえで学校は大きな役割を担うのだから,教師は強靱な性格と 真実を愛する力をもって,子どもたちをそれと同じ精神をもつ人間に成長させるべきで,そのた めにも教師の生活と活動を守る組織としての教員組合を通じて教師の毅然たる人格が形成されな ければならないと述べた。平和教育の基盤となる教師のあり方と教師の組織としての教員組合の 役割に言及して,座談会は締めくくられたのである。

 同号には教育学者の宗像誠也の「座談会傍聴記」があわせて掲載された。そのなかで宗像は,

座談会での討議が,民主化の現状の分析など,「いわゆる間接的な平和のための教育に関係する こと」に終始し,いかに平和問題を学習活動に組織するかという直接的な平和教育の問題は,今 井の実践紹介を除いてほとんど言及されなかったと述べている。直接的な平和教育の実践には,

平和が政治の問題であると同時に教育の問題であると自覚し,現況の問題解決を戦争に求める人 びとに,平和的手段での解決を説得するだけの理論とヴィジョンをもつことが不可欠である。し たがってそこに達していない段階では,平和のための教育の技術的な工夫よりも,教育者自身の 平和問題の研究討議が必要となり,ここでの討議や夏の日教組の講習会はそれをねらったもので あることを,宗像は補足して説明したのだった。 

 具体的な方法の検討までには至らなかったものの,自分で考えて判断し,それを主張できる人 間を育て,戦争に訴えない平和的な社会をつくるという平和教育のねらいを明言し,議論を発展 させようとした点では,この平和教育特集は一定の成果をあげたといえる。『教育』はこの特集を,

同誌がめざす「民主主義的教育の下からの建設」の取り組みの一つと位置づけ,今後も平和教育 の問題を追求し,すべての教育雑誌がそれを継続的にとりあげる機運をつくりだしたいとの抱負

(12)

を語った15。また

1950

年新年号では,平和教育の推進に全力をあげる旨を表した16。だが出版事 情の悪化により

1950

2

月号を最後に廃刊へと至ったため,平和教育のさらなる推進という構 想を果たすことはできなかった。他方で

1950

年には,平和教育の問題がほかの教育雑誌でもと りあげられるようになる。

2

)教育雑誌における平和教育の登場

 『読売新聞』

1950

年元旦号は,「講和の年」といわれるこの年の教育の重点が「平和教育」の 推進にあるとして,田中耕太郎と宮原誠一による「『平和教育』への提言」を教育欄に載せた。

ほかに『女性線』新年号が宮原誠一「平和のための教育」を掲載し,『

6

3

教室』新年号が「平 和の問題と教育」を特集に掲げた。さらに

1

15

日に平和問題談話会が講和問題についての声 明を発表し,全面講和を主張して内外に反響を呼ぶなかで,『教育新聞』は講和問題について国 民は積極的に意思を示すべきで,そのためにも講和問題を通した具体的な平和教育が必要である とする清水幾太郎の談話を載せた17。前年秋より活発化してきた講和問題に関する議論を背景に,

1950

年は平和と教育というテーマが年頭より新聞や雑誌に登場した。

 上述の『

6

3

教室』(

1947

7

月創刊)は,「初等並に中等学校における教育の改造進歩を図 り民主主義教育の普及徹底に寄与することを以て目的とする」18新教育協会の機関誌として,教 育学者の周郷博を編集者に大日本図書株式会社から発行されていた。道徳・しつけや各教科,教 師,カリキュラムなど教育一般から,やがては平和,愛国心,講和問題など社会問題と教育の課 題に至るまで,毎回さまざまな特集を企画し,現場の教師や教育学者および関連分野の学者たち による活発な議論を展開した。

 当誌は,すでに

1949

7

月号の「教育時評」(堀三郎「平和のための教育」)で平和問題に対 する教師の姿勢を論じていたが,さらに進んで

1950

年新年号の特集では,宮原誠一「日本の教 師は平和を愛さぬか」,周郷博「ハーバート・リード 平和のための教育」,石橋勝治「平和への 教育」,座談会「子供と平和の問題」,さらに滑川道夫,山崎己代治,近藤益雄,今井誉次郎とい う教師たちの「社会科と平和教育」に関する論考を掲載した。巻頭の宮原論文は,平和のための 教育とは,「平和のための社会的條件をつくりだしてゆく態度と能力とを培養する教育」で,基 本的人権尊重の教育,生産中心の教育,科学的実力の教育,共働的行動の教育という四つの側面 およびその相互の関連に基底づけられると説き,そうした平和のための学校教育活動に着手する ことを日本の教師の任務と訴えた,平和教育の基本的な方向とそれへの教師の姿勢を提示した論 文であった。またこの特集は,石橋勝治の四谷第六小学校での

2

年生への作文指導を通した平和 教育の実践の報告と,滑川,山崎,近藤,今井による社会科で平和教育を扱う場合の方法や内容 についての紹介といった,教師が平和教育にいかに取り組むかに関する具体例を示した点でも着 目できる。教育現場の参考となる平和教育の実践体験を出しあい,平和教育の実質をつくりあげ ていくという意図が表れており,『教育』

10

月号の平和教育特集での試みを進めたものともいえ るだろう。なお

6

月号には,上の宮原論文に応えて中学校教師の金田公平が「教育の現実はなぜ に平和に無関心であるか」を考察し,それが「平和をたたかいとる」という民族的経験の貧しさ ゆえの教師の平和問題の不勉強に帰することを指摘した「教育の現実と平和の問題」が掲載され ている。

 『

6

3

教室』が戦前の教育科学研究運動の関係者や東京大学教育学部系の教育学者という『教

(13)

育』と似た傾向の執筆者を並べていたのに対し,東京教育大学系の教育学者が中心となって,経 験主義の立場から教育論を展開したのが『カリキュラム』(

1949

1

月創刊)である。これは,

教授要目や国定教科書によって規定された戦前のカリキュラムのあり方を批判し,教師による自 主的なカリキュラムの編成をめざして

1948

10

月に結成されたコア・カリキュラム連盟の機 関誌であった。石山脩平,梅根悟,海後勝雄,馬場四郎らの教育学者を中心に,現場の教師をお もな執筆者として,カリキュラム研究を進めるうえでの理論と実践的な内容を提示し,加盟団体 となった学校を通して多くの読者をつかんだ。

 平和教育は,第

8

号(

1949

8

月)の海後勝雄「カリキュラム展望」で最初にとりあげられた。

海後は,世界平和への関心が高まるなか,平和教育がカリキュラムにおいて重要な位置を占める と予想し,平和教育をとりあげる場合の注意点として,「現実性の稀薄なサロン談議になつては ならない」ことと,「平和運動を利用しようとするものにかつがれてはならない」ことをあげた。

平和の実現に教育がすべきことは,「人間の一時的な利用ではなくて、人間そのものの変革にあ」

り,「人類平和の実現のために思想と行動をもつて、たたかいぬくような、たくましい人間を形 成すること以外にはない」と述べている。

 つぎに平和教育についての記事が載るのは,第

16

号(

1950

4

月)と第

17

号(

1950

5

月)

である。前者では山谷進介が「好戦的な平和教育論その他」と題する時評で,知識人の平和運動 の独善性にふれ,平和問題を学校教育のカリキュラムに生かす場合には,政治的色彩を入れない よう配慮するとともに,政治的立場をもつ平和運動とは無関係に,純粋に個人の心情の問題とし て学習させるよう提案した。後者では,和光学園の教師である久保田浩と大村栄が「小学校の 平和教育」「中学校の平和教育」と題して,平和教育の提唱者とその平和教育論の観念性や公式 論的粗雑さを批判し,それぞれが考える平和教育の有様を小学校,中学校の場合に即して述べた。

とくに大村は,平和問題討議会の総会で新村猛と宮原誠一が,平和のための教育が学校で行われ ておらず,また学校の教師の大部分がそのための教育活動を行う能力をもっていないと発言した ことを,高踏的で独断的と批判した。そして平和教育はすでにカリキュラム運動のなかで展開さ れており,中学校はその「とりで」で,社会科はそのすぐれて有効な方法であるという考えを示 し,中学校における平和教育の意義,中学生の戦争と平和の受けとめ方,そして中学校の平和教 育をどう進めるかについて詳しく論じた。

 一方,現場の学習指導と直結した内容の提供を旨とした実用志向の『教育技術』(教育技術連 盟の編集で小学館から

1946

年に創行された)も,国際情勢や講和問題に沿う形で,平和教育お よび平和問題へ言及した。当誌は

1950

3

月号で,原爆に被災した広島市の己斐小学校の平和 教育をめざす「己斐プラン」と,研究校として新教育にふさわしい学校づくりに取り組む翠町中 学校の教育活動を,広島市の教育復興への実践で,「平和日本の再建を示すもの」として紹介した。

8

月号では,

6

月の第

4

回教育技術研究全国大会における平和教育強調宣言大会で採択された「平 和教育宣言」や大会の模様を伝えている。また巻頭の「主張平和教育の実践」で教育技術連盟 の野瀬寛顯理事長が,「平和教育の問題は,もはや,主張の段階をすぎて,具体的実践のときに およんでいる」と述べ,平和教育を展開するうえで強調されるべき点として,「平和への知性開 発として,誤解と直接行動をさけるデスカッションの強化」,「たましいを純化する情操,とくに 宗教的情操の涵養」,「たがいに人の幸福のためにつくしあう奉仕的活動の実践」をあげた。

 ほかにも,西荻書店から発行され,総合的に教育問題を取り扱った『教育社会』(

1946

11

(14)

月創刊)が,

1950

年に入って巻頭言に「平和と自由をまもる教育」を掲げ(

No.39

1950

1

月),

国分一太郎の「戦争をつくる教師 平和をつくる教師」という論文を載せた(

No.43

1950

5

月)。また東京文理科大学内で組織された教育社会学会の機関誌で,広範で多彩な論説や調査報 告を特色とした『社会と学校』(

1947

4

月創刊)も,平和問題への関心の高まりのなかで,「海 外思潮紹介」として「平和と相互理解のために教育はどう努力するのか」を掲載し(

1950

10

月号),平和に関するアメリカの教育論を紹介した。 

 これらの記事や論考のなかには,平和問題討議会以来の平和教育を提唱する動きやその論者の 態度に批判や不信を示すものもあった。だがいずれの記事や論考も,社会的情勢に照らして平和 教育の重要性を認め,各誌の特徴に沿って平和教育をいかに有効かつ公正に進めるかを考究しよ うとしていた点では共通していた。平和および平和教育の問題が,教育界はもちろんジャーナリ ズムの世界で追求すべきテーマの一つにあがってきたことと,理念ではなく,まさに教育実践と して,指導する側の教師たちの姿勢とともに,平和教育の内実が問われるようになってきたこと を物語っていた。

 この

1950

年には,知識人や文化人のあいだから平和を求める声が高まり,

4

月に科学者平和 問題懇談会が上原専禄ら学術会有志の呼びかけで結成され平和声明を出し,

5

月に日本教育学会 が「全世界の教育学者に送る日本の教育学者の平和の呼びかけ」を発表するなど,平和運動が盛 り上がりをみせた。しかし

6

25

日の朝鮮戦争の勃発後,

GHQ

が占領政策を転換し,警察予 備隊の創設,レッドパージと,日本の再軍備化や戦争の危機を感じさせる動きが強まった。

 そのなかで

7

月に「日本綴方の会」が,

12

月に「教師の友の会」がそれぞれ結成され,すで に結成されていたコア・カリキュラム連盟(

1948

10

月結成)や日本学校劇連盟(

1949

4

結成)や歴史教育者協議会(

1949

7

月結成)とともに,教育研究運動を展開していったことは 特筆してよい。歴史教育者協議会が

10

月の全国大会で声明「平和と教育の自由のために」を採 択し,「教師の友の会」が大田堯「平和教育か平和主義的教育か」を巻頭論文に掲げて会誌『教 師の友』を創刊するなど,これら民間教育研究団体は,国内外の政治的緊張が高まり,教師の活 動にも制約や干渉が及ぶなかにあって,平和問題や平和教育へ果敢に取り組んでいった。また日 教組も,

1949

年末に平和運動の方針の一つに平和教育の徹底をあげて以降,平和教育へ取り組 む姿勢を顕著にし,

1951

11

月には第1回全国教育研究大会を開催する。同じころ雑誌『教育』

が国土社から発刊されて戦後の教育科学研究運動を始動させた。こうして日教組や民間教育研究 団体の活動が本格化し,一方で長田新編『原爆の子』の刊行(

1951

10

月刊)が平和を求める 気運を呼び起こすなかで,平和を教育によって守り追求する動きが,教師と教育界内外の良心的 勢力をあげて展開されていった。

おわりに

 考えてみれば,平和のための教育とは,日本が敗戦を経て平和国家として出発した際に,最初 にとりあげられてよい課題であった。それが戦後

4

年近くも経て知識人のあいだから問われたこ とには,経済学者で評論家の大熊信行が

1949

12

月の時点で指摘したように,東西対立とい う世界情勢が戦争の危機を伝えるなかで,民主主義そのものが平和主義を意味するというそれま での観念が揺らぎだしたことと,「平和国家」を構成するはずの日本人が,必ずしもそれをうた

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