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ルネサンス文学に見る暴力の表象:

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ルネサンス文学に見る暴力の表象:

暴力・福音・聖体・カンニパリスム

一一「暴力の福音化」から「福音の暴力化jへ一一 ( 1 )『エプタメロン』を中心に

平 野 隆 文

一ご用心ください,院長さま,とセパスチャン・テウスは僧院長の手を握りし めながら言った.その哀れな男は三時間苦しみました.しかしながら院長さま は,幾夜幾日にわたってその最期を生き直されるのでございましょう.首斬り 役人がその不幸な男を苦しめた以上に,院長さまはご自身を苦しめておいでで す .

ーそれを言わんでくれ,と僧院長は首を振りながら言った.その門衛の苦悶と 拷問者の憤怒が世界を満たし時聞からあふれ出ている.それが神の永遠の眼差

しの一瞬ではなかったことにさせられるものはなにもない.苦しみのひとつひ とつ,悪のひとつひとつがその実質において無限であり,それらは数において も無数なのじゃ.

M. ユルスナール『黒の過程』(岩崎力訳)

I) 

異端の廉で,自身も「生きたまま火炎り J の刑を宣告されたゼノンは,

隠し持っていた剃万を一流の医師の巧みな技で操り,獄中で見事な自死を 遂げる.死は徹頭徹尾,彼自身の視線によって把捉されている.「目の肱 むばかりの日の光jが同時に「夜」でもある極限の一地点へと,「深淵に 深淵が,分厚い暗黒に分厚い暗黒が積み重ねられ」ながらも輝ける一地点 へと,ゼノンは横溢した生命の流出を意識しつつ傾斜していく

2

).死は,

天の底への墜落であると同時に,現世という牢獄からの開放でもあるかの ごとく,得体の知れない不思議な優しさで,ゼノンを包み込んでいる印象 を読者は拭えない.それは壮絶と言うにはあまりに静寂で、理路整然とした 格闘であった.

もちろん,ゼノンは作家ユルスナールが創出した架空の人物である.で

ありながら,世界から孤絶したこの医師=哲学者=錬金術師が,生きたま

まの焚刑という,想像を絶する苦痛を避け,自死を選んだ「事実jは,肉

体に宿る荒々しい力こそが神の顕現と直観したこの「異端者」に相応しい

(2)

と同時に, 1 6 世紀フランドル,いや, 1 6 世紀ヨーロッパの知的な潮流の 少なくとも一部が,やがて「無神論」へと近接していく事実とも呼応して いるであろう.ゼソンは,肉体の苦悩を通して神へと至る道を,暗示的な 自死によって退けていると読んで、も,あながち荒唐無稽とは言えまい.彼 は,苦痛と歓喜のいずれによっても痘撃するわれらの肉体という限りなく 愛しい奇蹟に,塗炭の苦しみを課すことこそ,「自然」への冒 i 賓と見なし たに違いない.

だが, 1 6 世紀のヨーロッパは,極限の苦痛に苛まれた人々を,新しい

「殉教者」の高みに押し上げようとした時代でもあった.宗教上の紛争や 騒擾は,拷問や焚刑による陰惨な最期を何度も招き寄せ,火刑柱で泣き叫 ぶ者を侮蔑する群衆を生むと同時に,炎の中でガラスの氷柱のごとき英雄 的な死を遂げた者を,新たな殉教者として祭り上げる文学が,隆盛を極め た時代でもあった.

もっとも,世紀後半ないし古典期初頭の時期へと一気に跳躍するのは早 計だろう.折に触れて紹介していくが,世紀前半から,カトリック側の

「新教徒」に対する暴力は,既に一定の闇値を超えていたような印象を受 ける.石で殴打されなぶり殺された者,火炎りに藻描き苦しんだ者,腹を 裂かれ嬰児を串刺しにされた上で,道路を引き摺り回された挙げ句,最後 は河に投げ捨てられた者一こうした暴力の実践は,世紀後半の内戦期のそ れを予兆しているかに思われるお.

だが,ここでは,歴史家として現実の暴力の様態そのものを採り上げる 積もりはない.むしろ,ルネサンス期,特にフランス・ルネサンス期の文 学が,アクチュアルな暴力を,如何にしてフィクショナルな磁場に取り込 んだのか,という観点から,幾つかの重要な作品を紹介し分析してみた い.無論,網羅的な記述を目指すのは不可能である.私はむしろ,暴力の 表象を軸に 1 6 世紀文学を烏撤した時,世紀の前半と後半との問で,ある 大きな変化が生じている点に注目したいと思う.世紀の前半,ラプレーは 人聞を人形ないし抽象的存在に仕立て上げる喜劇的手法で,戦争における 暴力描写から,血生臭さを徹底的に排除するのに成功している 4 ).マルグ

リット・ド・ナヴアールにも見出せる,広義の暴力的描写は,福音主義の

テーゼを際だたせるフイクショナルな道具立てとして機能しているように

映る.ところが,旧教側のジャンシアン・エルヴェやリシヤール・ヴェル

ステガン,あるいは新教側のアグリッパ・ド}ビニエ,シモン・グーラー

ル,テオドール・ド・ベーズの時代には,暴力描写そのものが,自らの

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ルネサンス文学に見る暴力の表象・暴力・福音・聖体・カンニパリスム

「福音主義」を倍加せしめる「場 J として自己目的化しているのではないか.

以上のような大まかな指針を確認した上で,私はユルスナールの『黒の過 程』のおそらくは淵源の一部となり得たであろう,作品群のテクストの深 い森の中に可能な限り分け入ってみたい.その端緒として,今回は,マル グリット王妃の『エプタメロン』を分析の姐上に載せることにしたい.

1 .   『工プタメロン』の場合

a )   プロローグ:暴力的表象から神の道へ

『エプタメロン』の冒頭は,篠つく雨が引き起こした大洪水が,ピレネ ーの湯治客らを襲う叙述から始まる

5

).「ある人々は,数人がかたまれば 流れに抗して押しわたれるかとやってみましたが,瞬く聞に流されてしま いました.それを見て,あとに続こうと思った人たちは,続いて渡る望み も気力も失ったのです 6 ).」こうして人々は方々に四散し,様々な経路を 辿って難を逃れようと試みる.「プロローグ」,すなわち演劇的な枠組みを 思わせるこの書き出しに,既に灰かな神学的暗示の香りが嘆ぎ取れないで もない.「ある人々は(…)瞬く間に流されてしまいました.」天の視界か ら見渡せば,彼らは,最初から激流に呑み込まれるべき運命にあったので はないか.)方,彼らを助けようともせず,方々に散じてしまった人々 は,「分散的」という点で,人類と生物とをー箇所に集めて絶滅から救っ た,あの「集中的 J なノアの方舟の,対瞭点に位置するのかもしれない.

現世は,神の約束を反故にせざるを得ないほどに,言い換えれば,新たな 大洪水を必要とするほどに,汚辱に塗れているのではないか.しかし,難 局を切り抜けて助かる者も存在するのは何故か η .

山の崇高美が讃えられるようになるには,おそらく 1 8 世紀以降を,特 にルソーの出現を待たねばなるまい.ルネサンス当時,山は,危険に満ち 満ちた場所,できれば,接近を避けるべき場所として認識されていた.つ まり,敵は洪水ばかりではなかったのだ.夫二人に従った貴婦人たちの一 行四人は,「百姓というより追い剥ぎを本業にしているある男の家」に宿 を乞う.湯治目的というよりも,貴婦人たちの「お供」としてず、っと後方 から随伴していた,「崇拝者」たる二人の若い貴族

とる.真夜中に,案の定追い剥ぎに襲われた一行を救うべく,隣家に乗り 込んだ若い貴族二人は,「盗賊どもめがけて猛然と襲いかかった」ため,

「たちまち死人の山ができ」たという 9 ).ある種の騎士道物語を思わせる

この干の戦いの場面は,結局は,「文明=貴族」の「野蛮=盗賊」に対す

4 1  

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カオス コスモス

る勝利に終わる.つまり,混沌に対し,秩序が再び終止符を打つ.しかし 貴族側にも犠牲者が一人出る.こうして三人の貴族と二人の貴婦人が生き 残る.貴族のイルカンとその妻のパルラマンテ,夫を失ったばかりの未亡 人ロンガリーヌ,若い二人の貴族ダグサンとサフルダンだ

10).

五人となった一行は,難渋しつつも山道を登り,サン・サヴァンという 修道院《 La b b a y es e  nomme S a i n t ‑ S a v y n .  ≫に到達する.彼らはそこで,

山中にて熊に襲われ,恐怖のあまり泣いていた,旧知の女性二人と再会す る(ノメルフィドとエナスィット).彼女らの侍女二人の話によると,召 使いたちは全滅したという.さらに,山中で三人の暴漢に襲われた知友ジ ュビュロンも,その内の一人を殺したものの,残りの二人に追われて裸で 修道院に逃げ込んで来たため,改めて彼らの仲間に加わる(敵の二人の暴 漢はイルカンたちに殺される).加えて,彼らの就寝前に僧院に到着した 一人の老修道士から,一行は,旧知の貴族スイモントーの身辺に起きた痛 ましい事件を知る.スィモントーは,駿馬と従者たちを使って,強引に急 流を渡ろうとしたが失敗し,命を落とす寸前で羊飼いに助けられる(ただ い従者たちは全員死亡したという).その後,老修道士の薦めで,敬度 かっ賢察な老婦人オワズィーユが辿り着いている筈の,ノートル・ダム・

ド・セランス寺院 Nostre‑Damede S e r r a n c e に向かったという.誰もが 慕うオワズィーユ夫人と,好漢スィモントーの名を聞いた一行は,「それ がどんなに険阻な山道か聞かされても思いとどまらず」,「あまり馬に乗ら ず,汗をかきかき,ょうやくの思いで」ノートル・ダム・ド・セランス寺 院に到着したのであった 1 1 ) . こうして,後に「語り手」≪ d e v i s a n s  ≫とな る十人が,セランスの修道院に「集結」する次第と相成った.

ところで,ルイーズ・ド・サヴォアがモデルだとされる,一同の中でも 最も老齢の賢夫人オワズィーユが,山頂近くの修道院にまで辿り着いた経 緯は,物語の冒頭近くに記されている.「ここにオワズィーユという人生 の経験豊かな一人の未亡人がいて,この人は悪天候や悪路の懸念にもめげ ず,セランスのノ}トル・ダム寺院にまで行って見ょうと決心しました.

(…)道は上り下りの激しい難所続きでしたので,彼女は老齢と重い身体 にも拘わらず,道のりの大半を歩き通してそこに着きました.が,かわい そうに,従者と馬の多くは途中でイ卜れ,セランスに着いた時には,わずか に従僕と侍女が一人ずつ残っていただけでした.この寺院で彼女はあたた かく迎えられたのです

12).

豪雨に起因する大洪水は,この「プロローグ」では明らかに神からの試

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ルネサンス文学に見る暴力の表象:暴力・福音・聖体・カンニパリスム

練として感知されている.同時に,水は人々の罪を浄化する物語上の装置 としても機能している.水は死すべき者(罪)を容赦なく運び去り,僅か な生存者のみに,山頂の聖なる避難所へと到達することを許す(思寵).

そもそも,ノートル・ダム・ド・セランスに最初に到着したのは,実は,

最長老のオワズィーユであった.「福音主義文化 J の中心に輝くこの賢夫 人は,言わば,迷える羊たちの指南役として,最初から選ばれていた

≪  e l u e ))と言っても過言ではない.その他の「語り手」たちも,追い剥 ぎ,殺人,暴漢,猛獣,奔流といった様々な「暴力的状況」を潜り抜け て,セランスの「神の館」へと導かれていく.オワズィーユの場合が最も 典型的だが,種々の困難や暴力が支配する山中を,難渋しつつも,聖母の 宿る館へと登る道筋は,ロマネスクの次元でこれを読みかえると,明らか に,険しい信仰の坂道を辿る試練に翻訳される.ここには,ゴルゴダの丘 が,朝霞の連想のごとく灰かに漂っている.しかも,その試練に耐えうる 者は,予め神により選ばれているかのような印象を,読者は強く受ける.

テクストもこう綴っている.「(そして,)彼らを一堂に集めたもうた神に,

御名の栄光のためにこの旅をつつがなく終えられるよう祈願を捧げたので す問. J 《 ( … ) s u p p l i a n t  C e l l u y  q u i  l e s   a v o i t  a s s e m b l e z  p a r  s a  b o n t e   p a r f a i r e  l e  v o i a g e 主 s ag l o i r e . 1 4 )》神は,選良としての「語り手 J を,実は 予め決めていたのだ.この背後に読者は,改革派の救霊予定説をすら想起 させる神学的概念が見え隠れする,という印象を禁じ得ないだろう.山中 で人々が出合う数々の暴力は,言わば,「悲惨の谷」 α v a l l e ed e  m i s と r e s ≫ たる現世,あるいはその現世を支配する「悲惨の遍在」≪ omnia  m i s e r i s   ≫の比険である.この暴力に発れる者も,この暴力を超克する者

も,神は予めその名を天に刻んでいるのである.「プロローグ」に於ける,

こうした暴力的描写は,実は福音主義の道を歩む者に対する選別的試練と して,言い換えれば,神学的真理を確証するためのロマネスクな飾とし て,随所に鎮められているのである.これを,発れるべくして祭れる者 と,救われるべくして救われる者とを分かつ,神学的メルクマールとして 機能している,と言い換えてもよい日).こうして,ノートル・ダム・

ド・セランスそれ自体が,選ばれし者十名が暫く憩う,水上に隔離された

一種のノアの方舟として,換言すれば激流を超越した不動点として,物語

空間内で信仰の灯台の如き役割を負うに至るのである.

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b )   第二話:強姦への抵抗と神学上の美学

『エプタメロン』は,殺人,疫病,強姦,処刑,私闘などなど,数々の 暴力沙汰が起爆剤として仕掛けられている逸話を満載している.ここで は,比較的短いが強烈な印象を残す第三話を例にとろう.ナヴアール王妃 に仕えていた一人の牒馬曳きの妻に,その下僕の一人が横恋慕してこっそ りと言い寄るものの全く相手にされず,逆に貞淑な妻は,我が夫にお前を 折艦して貰うぞ,と彼を脅かす.しかし,「胸の中でくすぶり続けていた 炎」≪ c e  f e u  c o u v e r t  en son c u e u r 1 6 J   ≫に突き動かされるばかりの下僕 は,主人である夫妻の留守を狙って,カーテンのゆえに夫婦の寝台からは 見えない壁の側面にこっそり穴をあげておき,機を伺って力ずくで彼女を 屈眼させようと企む.テクストに何気なく布置された《 c ef e u  c o u v e r t

は,色欲の強さを暗示するのみならず,その色欲が熱病〈〈自前 r e ≫ のごと く異常な域にまで嵩じていることの鍛ともなっている.また,強姦という テーマを,ナヴアール王妃に取り癌いた一種の強迫観念だと理解すると,

おそらくはアナクロニスムの弊に陥る.ジャルジ、ユ・デュビーは,中世に あっては,叔父が,長男以外の甥たちを引き取る習慣のゆえに,その甥が 奥方を犯すことは珍事ではなかったという(ここでは,当然, トリスタン とイズーを想起せざるをえない).こうした「雑居生活」が,後に論ずる 近親相姦へと安易に堕する可能性を高めたのも事実のようである.デユビ ーも主張するように,「抗いがたく燃え拡がってしまうムかっ「荒々しく 一気に燃え上がる愛」は,「男の血をたぎらせ」てやまないい c efeu  c o u v e r t   >小また,遍歴の騎士たちが,例えば田舎宿の娘たちと力ずくで

(ないし同意の上で)交わることも,日常茶飯事だ、ったという

17).

こうし た状況は,十六世紀に入っても大きな変化を被っていなかっただろう.む しろ強姦(および輪姦)は,青年が大人になる上での「通過儀礼」に近か ったと言える.『エプタメロン』に見られる強姦への指向は,当時の性的 実践とそれを巡るイマジネールの反映と見るべきだろう

18).

現に,この櫨馬曳きの下僕もまた,若い奥方のエロスと隣接しつつ暮ら していたのである.独身男の性的枯渇(性的悲惨)が,一気に暴力による 性的充足の欲望に変移したとしても,何の不思議もない.さて,主人の留 守を狙って,十ーか十二になる娘とベッドに入った奥方を,下僕は剣を手 にして襲う.ところが危険を察知した奥方は,下男を叱りとばした上で,

テーブルの周囲を巧みに走り抜けて逃げ回るために,組み伏すことすら適 わない.

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ルネサンス文学に見る暴力の表象:暴力・福音・聖体・カンニパリスム

(−−)それに彼女は力も強く,掴まえた手を二度も振りほどかれてしまいまし たので,ついに彼は相手を生け捕りにするのを諦め,その腰にぐさりと剣を突 き刺したのです.それは,いくら恐怖や腕力に屈しないこの女でも,苦痛には 屈服するだろうと思ったからです.が,その思惑は外れました.と言いますの は,よい軍人が自分の血を見ると,ますます敵を倒して名をあげようと武者震 いするように,彼女の貞潔な心もますます気負い立って,この暴漢≪ c e   malheureux ゅの手から逃げ回りながら,何とかして,男にその非を悟らせよ うと懸命に意見をして聞かせたのです.けれども相手は逆上していますので,

人の意見を聞く余裕などありません.それどころか,さらに二度,三度と突き かかって来ます.彼女はその剣先を逃れるため,足の続く限り走り続けまし た.けれども,激しい出血のため,やがて死が近づいたことを悟りました.そ こで彼女は天を仰ぎ≪ l e v a n t  l e s  o e i l z  au c i e l  e t  j o i n g n a n t  l e s  mains  h 合唱 して神に感謝しつつ,神をわが力わが徳わが操と呼ぴ,その捻を守るために御 子の血を崇めて流されたわが血によって洗われ,御怒りの記録から消されるこ とを確信します,と祈ったのです.ついで,主よ,「ご恩癒によって煩われた この魂をお受け下さい」 α S e i g n e u r ,r e c e p v e z  lame q u i ,  p a r  v o s t r e  b o n t e ,  a  e s t e  r a c h e p t e e  !  ≫と唱えつつうつ伏せに倒れました.その上から,ならず者

≪  c e  malheureux 》はさらに幾太刀も浴びせました.そして,相手が力尽きて 口もきけなくなると,この男は,もはや身を守る術を失った女を犯したので す.

19) 

名取誠ーによって「この暴漢」,「ならず者」と意訳されている α ( c e ) malheureux  ≫という語には,中世以来,よりテクニカルな意味が負荷さ れてきた.それは先ず「星の加護を失った者」であり,ひいては「神の寵 を失った者」を意味したのである.これに対し,瞳馬曳きの若く貞淑な女 房は,自らの栄誉のために,何度も暴徒の剣先に襲われながら,最後まで 抵抗し,神に祈りを捧げつつ床に倒れ伏す.劇しい欲情を巡って主体と客 体の関係にあった下僕と奥方は,この段階に至ると,神を巡ってその役割 を見事に主客転倒させている.神に見捨てられた下僕に対して,神に魂を 届けようと願う奥方は,明らかに,理不尽な暴力的欲求に屈しない,一種 の「殉教者」として描出されているからである.現世の劣情を象徴する

「死刑執行人」と,現世を棄て天上の至福を求める「殉教者 J . ここでの一

幕には,信仰の提に忠実な犠牲者を,聖人伝の系譜上で「神聖視」する構

図が巧みに利用されている.

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だが,動きに支配されていたテクストに,突如差し挟まれた静的な「祈 り」の場面は,ルー・ガルーとの蟻烈な戦いの最中に,パンタグリュエル が唱える長い「祈り」の状景

20

)を初練とさせるほどに,「本当らしさ」に 欠ける.猛り狂った強姦魔が,黙って祈りを聞いていたとは考えにくい.

それでも,おそらくはある深刻な懸念から,暴徒の動きを暫く封じる必要 があったのだろう.否,おそらくこの場面は,神の恩寵によって顕現し た,奇跡的状景と解釈する方が正しいように思われる.アリエスが強調し ているように,十八世紀に至るまで,「突然死」(幼児のそれに限らない)

α l a  mort s u b i t e 》は人々の恐怖の的であった.自然(流血,衰弱など),

超自然(幻視,死者の到来など)の如何を問わず,人々は「死の予感」

αl 白 p r e s s e n t i m e n t sde l a   mort 》ないし「予兆 J ≪  a v e r t i s s e m e n t s 分や

「徴」《 s i g n e s ≫を察知し,自らの死に備えるのを理想としてきた

21

).例 えば,畑には宝が埋まっていると嘘をついて,実は労働の尊さを説いた,

あのラ・フォンテーヌ描く賢明な農夫も,「自らの死期が近づいているの を悟って」《 s e n t a n ts a  mort p r o c h a i n e   ≫,死の床に子供たちを呼び集め たのである

22

).牒馬曳きの妻もその例に漏れず,「激しい出血のため,や がて死が近づいたこと」 α e l l es e n t o i t  q u '  e l l e  a p p r o c h o i t  de l a  mort  ≫を 悟ったのを思い起こそう.これに対し,中世以来,「突然死」は天から呪 われている証と見なされていた.アリエスがヲ|いているアーサー王物語の 一節を借りれば,それは「極めて醜悪にして愚劣な死」 αunemort s i   l a i d e  e t  s i  v i l a i n e  

23 

≫ l であった.我らが貞淑な女房は,この不条理な死を 避けるに必要な,最低限の祈りの儀式(それがたとえ孤独な儀式であろう といを挙げる暇を,神より恵まれたのである.ここには,暴漢と瀕死の 婦人に加えて,見えざる神(の恩寵)が,行間に濃密な存在感を渉ませて いる.哀れな女は,激越な苦痛の直中で,ある種の悦惚感の内に真撃な祈

りを捧げる傍倖に恵まれたのだ.

瀕死のヒロインは,慈悲深い人々や床屋外科医の手厚い看護にも拘わら ず,結局は一時間ほど後に息を引き取る.

4 6  

(…)しかし彼女は,それから一時間も無言のまま瑞ぎ続け,目と手で合図を しますので,意識が失われていないことがわかりました.そして,聖職者から 死を前にしての信仰と,イエス・キリストに於ける救いの希望について訊ねら れると,言葉もおよばぬほどしっかりした合図で答えました.こうして嬉々と

っ く り ぬ し

して目を天に向けつつ,この汚れなき肉体はその魂を造物主にお返ししたので

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ルネサンス文学に見る暴力の表象:暴力・福音・聖体・カンニパリスム

す α ( … ) e t  a i n s y ,  a v e c q  un v i s a g e  j o y e u l x ,  l e s  o e i l z  e s l e v e z  a u  c i e l ,  r e n d i t   c e  c h a s t e  c o r p s 主 s o nC r e a t e u r  ≫ .   2 4 )  

「そして,相手が力尽きて口もきけなくなると,この男は,もはや身を守 る術を失った女を犯したのです」という一節(一つ前の引用部)からも知 られる通り,ヒロインは形式的には強姦の犠牲となっている.しかし,

「主よ,魂をお受け下さい」≪ S e i g n e u r ,  r e c e p v e z  lame≫ と言いつつ倒れ 込んだ肉体は,もはや魂「亡き j 後の,文字通りの「亡骸 J に限りなく近 い.従って卑劣な下僕は,まさしく身体のみを相手にした,一種のマスタ ーベーションを行ったにすぎない.加えて,彼の下劣な所為は,明らかに

「屍姦」を想起させる.であるのに,この「邪悪な欲望」≪ meschante  concupiscence25 )》を満たした男は,「その場からどこかへ逐電し,きび

しい詮議にも拘わらず今もって行方が知れない 26 )」という.この素っ気 ない筆遣いからは,安易に道義的・倫理的な結末をつけるのを拒む姿勢が 看取できる.なるほど,卑劣な下僕は現世という平面では罰されぬかもし れぬ.しかし,神との垂直的な関係においては,既に地獄への墜落の深淵 が入念に用意されている筈だ.

現世の正義への不信が,来世の正義への確信に取って換わられる,とい う印象は,虫の息の「殉教者」が,聖職者との間で身振りにより交わす

「問答」によってさらに強まる

27).

ヒロインは,臨終に際して行われるカ トリックの典礼(終油の秘蹟)に与り,神の慈愛の内に抱きとられている からだ.「悲惨の谷 J ≪  v a l l e e  de mis 紅白〉〉である現世 αlemonde  〉 〉 か ら,神は自らの意志のみに基づいて,救うべき者を天に掬い(救い)上げ る.この逸話を語り終えたオワズィーユの「コメント」が,この点をくっ きりと浮き彫りにする.

「ご婦人の皆様,これは実際にあった話ですが,この話は,私たちが貞潔の美 徳を守る励みになるのではないでしょうか.哀れな灘馬曳きの妻でさえ無惨な 死を怖れずに避けた浮気心を,仮にも貴婦人である私たちが抱くようなことが あれば,それは死ぬほど恥ずかしいことです. ≪  E t ,  n o u s ,  q u i  sommes de  bonnes m a i s o n s ,  d e v r i o n s  m o r i r  d e  h o n t e  d e  s e n t i r  e n  n o s t r e  c u e u r 』

旦金旦出血~, pour l a q u e l l e  e v i t e r  une p a u v r e  m u l l e t i e r e  n '  a  p o i n t  c r a i n c t  

une s i   c r u e l l e  m o r t . 》この女のように血を流してまで抵抗したこともないの

に,自分は貞女だと自惚れている人を見かけますが,そう考えると私たちも謙

(10)

虚にならなければなりません.なぜなら,神の恩寵は家柄や富にではなく,神 の御心にかなった人々に与えられるものだからです. ≪  Parquoy s e   f a u l t   h u m i l i e r ,  c a r  l e s  g r a c e s  d e  Dieu ne s e  donnent p o i n c t  a u x  hommes pour  l e u r s  n o b l e s s e s  e t  r i c h e s s e s ,  m a i s  s e l o n  q u ' i l  p l a i 託証 sabonte:》神は依枯 最買をなさらず,選びたいとお思いになるものをお選ぴになる. ≪ :  q u i  ne s t   p o i n t 且 c c e p t e u rd e  p e r s o n n e ,  l e q u e l  e s l i t  c e  q u ' i l  v e u l t;》そのお選びにな った人間に徳を授け,栄光で飾られるわけですが,往々にして,世の人々が敬 い奉っている者を恥じ入らせるために,賎しい者をお選びになるのです. ≪Et  s o u v e n t  e s l i t   l e s   c h o s e s  b a s s e s ,  pour confondre c e l l e s   que 与且盟主 e s t i m e  h a u l t e s  e t  h o n o r a b l e s ,  (…)》それは神の御言葉に『われらの徳を侍ま

いのち ふみ

ず,我らの名が生命の書に録されることを侍まん.死も地獄も罪もその名を消 す能わず』とあるとおりです.」 2 8 )

1 6 世紀の貴族階級は,高貴な身分に生まれることに,既に神の選別を見 てとっていた.自分たちは,歴とした家柄に生まれるよう,予め神に選ば れた存在である.だからこそ,オワズィーユは,自分たちの権利にではな く,ひたすらその義務に焦点を絞る.俗世や,そこで人聞が抱く悪しき感 情 の 一 切 い lamond 日 i r e 川 ≪lemonde  〉〉)に,選良たる自分たちは屈 服しではならないのだ.だが同時に,自分たちは選良であるという直覚 に,安住しでもならない.なぜなら「神の恩寵は(…)神の御心にかなっ た人々に与えられるものだから」である.「われ今まことに知る,神は偏 ることをせず,何れの国の人にでも神を敬ひて義をおこなふ者を入れ給ふ ことを」(「使徒行停」 x ・ 3 4 ‑ 3 う)という一節を踏まえたこの箇所は

29)'

神の選別に於ける価値の逆転を説明してくれる.少なくとも語り部たちに はそう映った筈だ.神は「模範」《 exemplum 妙を示すために,時として 卑賎なる身分の者をその懐に迎え入れる.自らの似姿に創造した人間の中 から,自ら(=原型)を心底愛する者(=原型を渇望する似姿)を,神は

「現世の劇場」《 t h e a t r edu monde  〉〉の内に配し,そこで惨劇の主人公を

「演じさせる」ことを通して,天の選別の絶対性と,それに伴う「教訓」

とを,「観衆」に知らしめるのである.「現世の劇場」で展開される陰惨な 悲劇は,神の真の意図を解読すべきコードのパズルとして,聴衆および読 者の解釈に委ねられる.

オワズィーユの「コメント」は,しかし,神学的な教訓としてのみ閉じ

ているわけではない.それは同時に,理不尽にも惨殺された螺馬曳きの妻

48 

(11)

ルネサンス文学に見る暴力の表象.暴力・福音・重体・カンニパリスム

の死に,光明と意味を付与する演説として聴衆の胸に響き渡る.つまりそ れは,古典的な意味での「弔辞(追悼演説)」≪ o r a i s o n  fun と b r e 》として 心に迫ってくるのだ.従って,聞き手たちが感極まるのも無理はない.

「一座の婦人たちは,この螺馬曳きの妻の痛ましい栄ある死に同情して, はえ

みな目頭を潤ませました.めいめい心の中で,もし自分の身に閉じような ことが起こったら,この女の殉教に見倣おうと思ったのです《(...)

l '

  e n s u i v r e  en son m a r t i r e   ≫ .   J こうして,一市井の「殉教者」は,福音主 義の「伝道者j としての大役を,十全に果たしたことになるのである.

c )   第三 O 話:二重の近親相姦に見る自己卑下の神学

第三 O 話は,『エプタメロン』の中でも最も有名な逸話を収めている.

母親が実の息子と性的に交わり,その果実たる娘と,父である息子とが結 婚するに至って,二重の近親相姦が成立してしまう,というエピソードで ある.近親相姦の説話や伝説は中世以来幾百と存在し,二重の近親相姦に 関する類話も,数多く収集されている.主として十二世紀以降の口承伝承 や地方の伝説あるいは説教に於ける説話を皮切りに,中世末期の模範的例 話(例えばオリヴイエ・マイヤ}ル)を経て,一五世紀のマズッチョ,パ ンデッロ,プレーヴィオ,そして我らがマルグリット・ド・ナヴアールを 経由し, 1 7 世紀のノルマンデイー地方の「墓碑銘」やデフォンテーヌの

『無実な近親相姦』へと流れ込むのみならず,さらなる文学的将来をも約 束されている.それぞれの逸話には,多くの相違点があり,マルグリット の作品を中軸に置いて比較するなら,母親がその無知よりもむしろ積極的 な策略により息子を自らの虜とするヴァージョン,二重ではなくあくまで 母子の姦通に留まるもの,母親以外の侍女が登場する逸話とそうでない逸 話 , 2 度目の「近親相姦」が母親を悔俊に導く場合とそうでない場合な ど,類似の内部に種々の不協和音が随所で響いていくことになる.ニコー ル・カゾランによれば,そうした中で,マルグリットに最も近い構成を見 せるのは,聖書釈義の中に織り込まれたルターの紹介する逸話だとい

30).

しかし,二重の近親相姦がなぜ中世から近世ヨーロッパのメンタリティ

ーを惹きつけたのか,という社会学的・精神分析学的な解釈を施す能力

も,マルグリットのこの著名なエピソードの原型を比較文学的視点から細

かく辿る余裕も,今の私にはない.ここでは,主としてニコール・カゾラ

ンの優れた分析を下敷きにしつつ,この逸話の真の主題(があるとして)

(12)

に迫ってみたい.もちろん,近親相姦を「暴力」の範障に強引に引き寄せ る積もりはないが,いわゆる「おぞましい物語」が,その忌まわしさの果 てに,新たな地平へと切り聞かれている点を示したいがゆえに,この逸話 をあえて紹介しておく.

「ルイ十二世の御代」のこと,「若くして夫に先立たれた」ある裕福な貴 婦人は,残された一人息子への愛 情と亡き夫への追慕の念から,決して再 婚しないと決意する〈〈主主匙旦 d ene s e  j a m a i s  r e m a r i e r   ≫.そこで彼女 は,再婚の機会を避けるために「それ以来信心深い人々としか交わろうと はしませんでした.と言いますのも,彼女は機会が罪を作るものと考え,

罪が機会を作ることに気づかなかったからです《(…) c a r  e l l e  p e n s o i t   que lo c c a s i o n  f a i s o i t  l e   p e c h e ,  e t   ne s a v o i t  p a s  que l e   p e c h e  f o r g e   lo c c a s i o n . ≫ カゾランも指摘しているように,ヒロインは逸話の冒頭から 既に非難に晒されている 3 1 ) . 未亡人となって以降の人生を,自ら設計し ようとする態度《 d e l i b e r a ≫.「罪が機会を作る」のではなく「機会が罪 を作る」という致命的な勘違い.言い換えれば,ヒロインは自らの意志へ の過信と,自己に内在する原罪への無知のゆえに,言わば「犯行前」から 断罪されているのである.テクストの背後には,聖パウロの有名な言葉が 木霊している.日く,「もし自ら制すること能はずば婚姻すべし,婚姻す るは胸の燃ゆるよりも勝ればなり《(…) mieux v a u t  s e   m a r i e r  que de  b n 1 l e r   ≫」(「コリント人への前書」 V I I・  8 ‑ 9 ).淫欲に「燃ゆる

32

)」罪深

き人聞は,自らの内的悲惨(罪)が「悪」の機会を誘き寄せることに自覚 的でなければならない.

だが,「この未亡人は神への奉仕に一切を捧げ,世間の交際から完全に 遠ざかってしまいました.そしてついには,婚礼の席に出ることにも,教 会でオルガンの音を聞くことにも気が各めるようになったのです 3 3 )」.こ こには,極度の「敬度さ」ゃ「貞潔 J の内に秘められた強烈なエロティシ ズムという,その後ラ・ファイエット夫人やラクロないしパルザックたち に引き継がれる主題が潜んで、いる.なお,「教会でオルガンの音を聞くこ とにすら気が各めるようになった」という記述は,言うまでもなく音楽や ダンスが官能を刺激すると見なされていた当時の感性を反映している.周 知の通り,中世からルネサンスにかけて,特にダンスや舞踏は,教会や聖 職者から繰り返し非難を浴びてきたが,どちらかと言えば民衆的なこの気 晴らしが,禁止に追い込まれることはついぞなかったのである

34).

ところで,信心深さによって自らのエロスを抑圧しているこの婦人は,

ラ O

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ルネサンス文学に見る暴力の表象:暴力・福音・聖体・カンニパリスム

一人息子に対しでも,無意識の内に同じ棚をはめようとする.

(…)息子が七歳になった時,彼女は全き徳と信仰を身に付けさせるために,

ある志操竪閏な人物を家庭教師≪ m a i s t r e  de s c o l l e   ≫として選びました.と ころが,息子が十四,五歳になると,隠れた教師である自然〈〈型基旦些, q u i e s t  m a i s t r e  de s c o l l e  b i e n  s e c r e t   ≫は,彼が一人前になった体で暇をもてあま

しているのを見て α l et r o u v a n t  b i e n  n o u r r y  e t  p l a i n  do i s i v e t e   ≫,家庭教師 が教えなかった知識を彼に教え込みました.というのは,彼は自分が美しいと 思うもの,なかんずく母親と同じ部屋で寝起きしている,ある小間使いお)

≪  une d e m o i s e l l e  q u i  c o u c h o i t  e n  l a  chambre d e  s a  m と r e 》に目と心を吸い 寄せられるようになったのです.

36) 

いくら「志操堅固」≪ un homme de s a i n c t e  v i e   ≫とはいえ,ジュリア ン・ソレルを想起すれば即座に理解できる通り,外部の危険な閣入者であ る「家庭教師 J を家族内に招じ入れるのはあまりに軽率である.だが読者 の期待の地平は裏切られる.ここでの「家庭教師」は,主として宗教教育 を徹底させる役割のみを負わされているからだ.「家庭教師jは,身体と い う 「 隠 れ た 教 師 で あ る 自 然 j

Nature 〉〉を抑圧する「文化」

≪  C u l t u r e   〉〉の体現者として,登場しているにすぎない.逆に言えば,こ こでは,抑圧装置たる ≪Culture 》に反逆する ≪Nature 〉〉(身体)の生成 と発動という構図が,背後に透けて見える.平たい比聡を用いれば,「教 育ママ」の目指したカルチャーは,息子の身体を支配しつつあるネイチャ ーによって簡単に挫かれたのだ.しかも,息子の体内で起動しつつある性 欲は,その母親が隠蔽しようと躍起になっているエロスと,完全な並行関 係にある.つまり,息子は母親の一種の「クローン人間j として感知され ているのだ.彼は侍女にこっそり言い寄るが相手にされず,逆に母親に密 告されてしまう.ところが,この告げ口は自分と息子との仲を引き裂く意 図で為されていると,母親は誤解する(何たる盲目!).その上,「神様の こと以外は話題にならなかった」≪ on n '  o y o i t  p a r l e r  que de Dieu 》家の 中で,息子はいつまでも子供扱いされ続けていたのである.結局のとこ ろ,母親たるヒロインは,息子の肉体的=性的な成熟を受け入れることが できない.彼女は自らの身体(の潜在的建き)に関して盲目であり,その

「クローンjである息子の性的成熟に関して盲目であり(ないし盲目たろ

うと意志しており),延いては「人間の有り様 J ≪  humaine condition  ≫ 

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(モンテーニュ)全般に関して盲目なのだ.

侍女の言い分が本当なら息子を,嘘なら侍女を折櫨すると宣言した母親 は,若い娘に,息子との偽の逢い引きを仕掛けるよう言いつけ,約束の時 間に彼女のベッドに潜り込んで真実を確かめようと試みる.

そういう険悪な思い(=侍女の言うとおりなら息子をこっぴどく叱ろうという 思い)でいるところへ,息子は侍女と寝る積もりで入って来ました.けれど も,彼が自分の隣に横になっても,母親は,まだ息子がよからぬことをすると は信じられません.で,何か彼が悪心を抱いているという証拠を見るまでは,

黙って様子を見ることにしました.母親としては,床に入って来ただけでは,

まだ息子が欲望に負けて罪を犯すとは信じられなかったのです.ところが,人 間の性はあまりに脆く,そうして辛抱を続けているうちに,彼女の怒りは,母 の名を忘れた世にも忌まわしい快楽に変わってしまいました.そして,塞かれ た水が堰を落とされると激流となって流れ落ちるように,このあわれな貴婦人 も,自らの肉体を押さえ込もうとしていた倣慢な気持ちを,欲望へと変じてし まいました.慎みの梯子を一歩踏み外すや,彼女はたちまち罪のどん底まで落 ちて行きました.しかもこの夜,彼女は他の女の胎に宿らせまいとした男の胤 を,我と我が胎に宿してしまったのです.

37) 

En c e s t e  p e n s e e  e t  c o l l e r e ,  s o n  f i l z  se n  v i n t  c o u c h e r  a v e c q  e l l e   ;  e t  e l l e ,   q u i  e n c o r e s  pour l e   v e o i r  c o u c h e r ,  ne p o v o i t  c r o y r e  q u ' i l  v o u l s i s t  f a i r e   chose deshonneste, a c t e n d i t 主 p a r l e r 主 l u yj u s q u e s  ad c e  que l l e   c o n g n e u s t  q u e l q u e  s i g n e  d e  s a  m a u v a i s e  v o l u n t e ,  n e  p o v a n t  c r o y r e ,  p a r   c h o s e s  p e t i t e s ,  que s o n  d e s i r  p e u s t  a l l e r  j u s q u e s  au c r i m i n e l  ;  m a i s  s a   p a t i e n c e  f u t  s i   l o n g u e  e t  s a  n a t u r e  s i   f r a g i l e ,  que l l e  c o n v e r t i t  s a  c o l l e r e  en  ung p l a i s i r  t r o p  a b o m i n a b l e ,  o b l i a n t  l e  nom de m と r e ・ E t ,t o u t  a i n s y  que  le a u e  p a r  f o r c e  r e t e n u e  c o u r t  a v e c q  p l u s  di m p e t u o s i t e  q u a n t  on l a  l a i s s e   a l l e r ,  que c e l l e  q u i  c o u r t  o r d i n a i r e m e n t ,  a i n s y  c e s t e  p a u v r e  dame t o u r n a   s a  g l o i 民主 l ac o n t r a i n c t e  que l l e  d o n n o i t 主 s o nc o r p s .  Quant e l l e  v i n t 主 d e s c e n d r e  l e  p r e m i e r  d e g r e  d e  s o n  h o n n e s t e t e ,  s e  t r o u v a  soubdainement  p o r t e e  j u s q u e s  a u  d e r n i e r .   E t ,   e n  c e s t e  n u i c t  l a ,   e n g r o s s a  d e  c e l l u y ,  l e q u e l   e l l e  v o u l o i t  g a r d e r  de n g r o s s i r  ! e s  a u t r e s 戸 )

名取誠一は≪ par c h o s e s  p e t i t e s 》を「床に入ってきただけでは」と,ま

ラ 2

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ルネサンス文学に見る暴力の表象:暴力・福音・聖体・カンニパリスム

た≪ q u e l q u e  s i g n e  d e  s a  m a u v a i s e  v o l u n t e 》を「何か彼が悪心を抱いて いる証拠」と翻訳しているが,おそらく前者は「愛撫や接吻などの前戯」

を,後者は「勃起」を意味していると思われる.そう捉えるならば(そう 捉えるべきだが),このシーンが強姦とは無縁であることが如実に見て取 れる.むしろ,母親は自発的に性行為に身を委ねているという印象を強く 受 け る い m a i ss a  p a t i e n c e  f u t  s i   l o n g u e  e t  s a  n a t u r e  s i   f r a g i l e   〉〉という 一節もこの点を裏付けている).こうして,彼女の怒り(心の平静の喪失)

が,「忌まわしい快楽」(肉体の制御の喪失)へと急変する様子が手に取る ように伝わってくる.墜落のイメージを強く刻印された水の比倫は,彼女 が渦巻く愛欲に一気に呑み込まれる瞬間を際立たせている 39 ).水流の比 総は同時に,ヒロインの味わっている性的快楽の強烈さをも物語ってい る.また,《 s et r o u v a  s o u b d a i n e m e n t  p o r t e e  j u s q u e s  a u  d e r n i e r   》「(拙 訳)突如として最後の絶頂にまで、運ばれていった」という表現(特に《 s e t r o u v a   ( … )   p o r t e e   (…)抄という受け身的表現)は,このシーンの主役が

もはや彼女自身ではなく,性的快楽そのものであるかのような印象すら与 える.ヒロインは,言わば擬人化された快楽に自在に操られる玩具の如き である.いずれにしろ,この有名な一節は,女性の肉体的快楽を「分析」

した,ルネサンス期には極めて稀有なテクストと位置づけられよう.

ここで,テクストを「語柔」の観点から再分析してみよう.先ず読者の 目にとまるのは,≪ c r i m i n e l   ≫ , 《 a b o m i n a b l e 〉〉という当時の司法用語だ ろう.さらに注目すべきは,倫理学(モラル)の専門用語が多用されてい る点である. ≪  c o l l e r e 川≪ deshonneste 川≪ volunte 川≪ d e s i r   ≫ ,  

≪  p a t i e n c e   , ≫ αnature 川《 p l a i s i r , ≫ α g l o i r e   ≫ , 《 c o n t r a i n c t e ≫ ,  

≪  h o n n e s t e t e   ≫などのモラルに関わる専門語を駆使しつつ,マルグリット は,アンチ・モラルの極みである「シーン=テクスト」を逆説的に織り上 げていく.中でも注目すべき語葉は,当時のフランス語で「倣慢,思い上 がり」を意味した≪ g l o i r e 》であろう.ヒロインは,自分の身体を自力で 制御できるという愚かな「倣慢の罪」のゆえに,本質的に抑制の利かない 身体的快楽に簡単に屈しているのである.この場面が断罪しているのは,

タブー中のタブーである近親相姦そのものよりも,むしろその「機会」を 招き寄せた彼女の「罪」,七つの大罪の中でも最大の罪とされる「倣慢の 罪 jαpechedo r g u e i l   ≫の方であろう.司法用語や倫理学の用語は,断 罪の本当の標的を射抜く上できわめて効果的に使われている.こうして,

近親相姦という倒錯したエロスの場面が,実は重要な神学的概念の枠内に

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引き込まれていることが明らかとなる.

当時,いわゆる「私生児」は数多く存在した.しかしヒロインがこの夜 字んだ子供は,「私生児」である以前に,彼女の罪の明確な証として把握 されているのではないか.さて,彼女はそっとベッドから自室に戻り 4 0 ¥

「殊勝な決意で始めたことが最悪の行為に終わった顛末を想起しつつ,一 晩中一人で声をあげで泣き明かした J パ … ) ou rememorant 且主 Q 旦盟 d e l i b e r a t i o n  e t  S a  meschante e x e c u t i o n ,  p a s s a  t O U t e  l a  n U ̲ } : C t  a  p l e u r e r   e t  c r i e r  t o u t e  s e u l l e . 》という.「殊勝な決意」が「最悪の行為」へと繋が るその因果関係の糸を,ヒロインは全く解きほぐせない.ただ「声をあげ て泣き明か」すばかりだ.この長い夜《 t o u t

l anuyc いからも神学的な 暗示が掬い取れる.なぜなら,「長い夜 J は,彼女自身の人生の閣を,神 から遮断され「我」の中に閉じこもっている彼女の生の暗黒を象徴してい るからである.だが,「一晩中一人で声をあげて泣き明かした」後,つま り,情的な危機が一旦過ぎ去るや否や,彼女の本質的な荏はまたしても頭 を撞げてくる.

しかし彼女は,神の助けなしには罪を犯すことしかできない,我々の肉体の無 力を謙虚に思い知るどころか,自分の涙と力で過去を償い,自分の配慮で将来 の不幸を避けられるつもりでいました.己の罪の原因を,神の恩寵なくしては 救われぬ邪悪な性に求めず,あくまでも偶然のせいであるとして,どうすれば 同じ過ちを繰り返さずに済むか,ということばかり考えましたので,まるで人 聞が地獄に堕ちる罪は一つしかないと言わんばかりに,この一つの罪を避ける ことにのみ全力を傾注したのです.

41) 

Mais en l i e u  de 主主主旦旦単旦 e tr e c o n g n o i s t r e  li m p o s s i b i l i t e  d e  n o s t r e   c h a i r ,  q u i  s a n s  la y d e  d e  Dieu ne p e u l t  f a i r e  que p e c h e ,  v o u l a n t  1 2 a r  e l l e ‑

血豆旦呈 § . e tp a r  s 四 l a r m e ss a t i s f a i r e  au p a s s e  e t  1 2 a r  s a  1 2 r u d e n 臼 e v i t e rl e   mal de la d v e n i r 、 donnantt o u j o u r s  le x c u s e  d e  s o n  p e c h e 込 ' l o c c a s i o n  e t   non a  l a  m a l i c e , 主 l

q u e l l eny  a  rem と deque l a  g r a c e  d e  D i e u ,  p e n s a  d e   f a i r e  chose parquoy 込 ladvenirne s c ; : a u r o i t  p l u s  tumber en t e l   i n c o n v e n i e n t .  E t ,   comme Si i   nv  a v o i t  oue une e s o と c ede oeche 込 damner l a  o e r s o n n e 、 m i s tr o u t e s  s e s  f o r c e s 主 e v i t e rc e s t u v ‑ l a  s e u l .

ここに至って話者は,彼女の根源的な罪に明示的に接近している.神の前

ラ 4

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ルネサンス文学に見る暴力の表象:暴力・福音・重体・カンニパリスム

に「へりくだり」《 s eh u m i l i e r   ≫  ,「神の恩寵」《 g r a c ed e  Dieu 妙に鎚ら ねば,救済はあり得ないにも拘わらず,ヒロインはまたしても「自分の配 慮で将来の不幸を避け」ょうとする.「他力本願」に我が身を任せるので はなく,あくまで「自力救済」の虚しさにしがみついたままなのだ.彼女 は,恰も神が存在しないかの如く振る舞っている自分の愚かさに気づかな い.この数行には,懲りないヒロインの新たな側面が暗示されている.彼 女は「倣慢の罪」《 p e c h edo r g u e i l 妙に加えて,同じ罪に居座り続ける 罪,すなわち「強情の罪」《 p e c h edo b s t i n a t i o n 》をも犯しているから である(「強情の罪」は,主として異端審問で頻繁に用いられた司法・神 学の専門用語である).この「強情の罪 J のゆえに,彼女はひたすら「負 の連鎖」に引きずり込まれるばかりだ.話者イルカンはこう指摘する.

「ところが,罪が顕在化すれば砕かれる筈の倣慢の根は,彼女の心中で生 長し続けていたために,彼女は一つの罪を避けようとして,他の多くの罪 を犯すことになりました.」《 Maisl a   r a c i n e  d e     l ' o r g u e i l  que l e   p e c h e   e x t e r i e u r  d o i b t  g u e r i r ,  c r o i s s o i t  t o u s j o u r s ,  e n  s o r t e  q u e ,  e n  e v i t a n t  ung  m a l ,  e l l e  en f e i t  p l u s i e u r s  a u t r e s   ;  ( … )  

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)》こうして,第二の奈落への 扉を自らこじ開ける結果となるのである.

翌朝,母親は家庭教師を呼び,息子をイタリアの親戚の将軍のところに 連れて行って軍務につかせるよう命じ,路銀を渡すと同時に,辛い別れを 避けたいから挨拶は不要であると述べる.思いを遂げた(と思い込んでい る)息子は意気揚々と戦場に出かけていく.息子の子供を宿したこの女 は,病気を装って身体を外套でつつみ,出産の覚悟を決めると「この世の 中でこれほどの秘密を打ち明けられるのは,父親の落とし胤≪ ung s i e n   丘台間 b a s t a r d 》で,これまで何かと恩恵を施してきた弟以外にはないと考 え」,「相手が我が子であること jのみを隠したまま不義の過ちを語り,自 分に手を貸してくれるよう依頼する叫).この非嫡出の弟は,物語空間内 では,象徴的な機能を果たしている.なぜなら彼は,この世が「私生児」

すなわち人間の罪の可視的な証拠に満ち溢れていることを,身をもって証 している一人だからである.

異母兄弟の貴族は姉の懇願を快諾した上で,彼女に転地を勧めたため,

ヒロインは彼の家で美しい女の子を出産する.弟はその女の子を自分の子 供として里子に出す.一方,一ヶ月後に元気で帰宅した貴婦人の方は,

「その後,前にもまして厳しい断食と苦行の毎日を送った」《(…) e l l e  

v e s q u i t  p l u s  a u s t e r e m e n t  que j a m a i s ,  e n  j e u s n e s  e t  d i s c i p l i n e s . 》とい

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う.つまり,「強情の罪」に絡め取られたままの彼女は,司法的な「累犯 者」《 r e c i d i v i s t e ))の如く,ひたすら同じ過ちを繰り返しているのだ.そ こに真の信仰がない限り,現世の時間は,人間の罪を何一つ改めるには至 らない.

腹違いの弟は,美しく成長した娘を,素性の知れない遠方の家に預かつ て貰おうと決心し,結局は「ナヴアール女王のカトリーヌ様」に託す.一 方,イタリアでの戦火が収まったので,成年に達していた息子は,母親に 使いを出し,帰宅を許可してくれるよう懇願する.同じ過ちに陥るのを怖 れた母親は(何たる「強情j さ!もうう O 歳前後の筈である.当時は「婆」

の年齢である!!)最初は許可を出さないが,結局拒む理由がなくなり,

やむを得ず帰宅を許す.「で,とにかく帰ってきてもよいが,その前にま ず心底気に入った相手を見つけて結婚せよ,相手は貴族の娘でさえあれば 財産は考えなくてもよい,と言ってやったのです.」〈〈(…) mais e l l e   l u y   manda q u ' i l  n ' e u s t  j a m a i s 主 s et r o u v e r  d e v a n t  e l l e , ピ i ln '  e s t o i t  m a r i e 主 q u e l q u e  femme q u ' i l  aymast b i e n  f o r t ,  e t  q u ' i l  ne r e g a r d 制 p o i n c taux  b i e n s ,  mais q u '  e l l e  f u t  g e n t i l l e  f と mme,c 白 t o i ta s s e z . 4 5 )   ≫このような結 婚の条件は,当時としては非常識極まりないが,この点に触れる前に,

「ナヴアール女王のカトリーヌ様 J に預けられた美しい娘に目を転じてみ よう.

ラ 6

娘は十二か十三になっていました.彼女は顔も心も美しかったので,女王は大 層ご寵愛になり,是非良縁を見つけてやりたいとお思いになりました.ところ が,彼女は貧乏なので,恋人になりたがる男は大勢いても,夫になろうという 男はいません.ある日,彼女の未知の父親である例の貴族が,アルプスを越え て帰国の途中,ナヴアール女王の館に立ち寄りました.そこで彼は,その娘を 一目見て恋に陥りました.〈〈(…) ou s i t o s t  q u ' i l  e u s t  a d v i s e  s a  f i l l e ,  i i   e n  f u t   a m o u r e u x . 》しかも彼は,母親から自分の気に入った娘と結婚してよいとい

う許しを得ていましたので,相手が貴族の娘かどうかということしか調べませ

んでした.そして間違いないとわかると,女王の御前に出て,彼女との結婚を

願い出ました≪ E t ,  p o u r  c e  q u ' i l  a v o i t  c o n g e  d e  s a  m e r e  de s p o u s e r  t e l l e  

femme q u ' i l  l u y  p l a i r o i t ,  n e  se n q u i s t ,  s i n o n  s i   e l l e  e s t o i t  g e n t i l l e  femme ; 

e t   s i ; : a c h a n t  q u e  o u y ,  l a   demanda p o u r  femme 主 l ad i c t e  R o y n e ,  (  . . .   ) 》

女王は喜んで、お許しになりました.というのも,その貴族が裕福であるばかり

か,風采も人柄もよいことをご存知だったからです. 4 め

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ルネサンス文学に見る暴力の表象:暴力・福音・聖体・カンニパリスム

当時,貴族階級に於いて結婚相手を決めるのは両親(親権者),特に父親 であった.周知の通りラプレーは,ガルガンチュアの口を借りて,教会法

≪  l e   d r o i t  canonique  ≫が容認していた,両親の同意のない,本人同士の 意志のみに基づく結婚 αlemariage c l a n d e s t i n 》を,激越な口調で非難し ている.エラスムス,ルター,カルヴアン,パ}キエらも全く同意見であ った

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).ロメオとジユリエットの「恋愛結婚」を,ローマ法とガリカニ スムを奉じるラプレーのような人文主義者が認める筈もなかった.さら に,貴族問の結婚は,本人たちの「好み」とは無関係であって,政治的・

経済的・社会的な利害関係を勘案した上で,親権者が決定するのが常識で あった.従って,ここでの息子のように,いわゆる「一目惚れ」で即座に 結婚を決めることは,まず考えられなかった.その上,「心底気に入った 相手を見つけて結婚せよ,相手は貴族の娘でさえあれば財産は考えなくて もよい」という母親の指図は,親権の放棄を宣言しているに等しく,当時 の常識から大きく逸脱している.つまり,ここでの結婚の記述には「本当 らしさ」がほとんど感じられないのだ.物語の進行の必要上,マルグリツ トの筆は,二人を無理にでも結婚させねばならなかった,と言わざるをえ ない.

初夜の契りを結ぶと,息子は母親に手紙を書き,非の打ち所のない妻と ともに帰宅する旨を告げる.貴婦人が調査をしてみると,息子の相手は何 と自分たちの子供であることが判明する.

(…)それを知った彼女は悲嘆のどん底に落ち,今にも息が止まりそうになり ました.不幸を食い止めようとすればするほど,彼女はますます不幸になって いくのです.

48) 

( … ) ,   dont e l l e   e u t  ung d e u i l  s i   d e s e s p e r e ,  que l l e   cuyda mourir  s o u b d a i n e m e n t ,  v o y a n t  que t a n t  p l u s  d o n n o i t  dempeschement 主 s o n 思~, e t  p l u s  e l l e  e s t o i t  l e   m o " i e n  d o n t  a u g m e n t o i t ) ア

「不幸を食い止めようとすればするほど,彼女はますます不幸になってい く」のは,彼女が不幸を小賢しく回避することにばかり意を用い,決して そ れ を 正 面 か ら 受 け 止 め よ う と し な い か ら で あ る . 前 述 の 通 り ,

《 m a l h e u r ≫の原義は「神の寵を失った状態jである.言い換えればそれ

は,「神の寵を求めるべき状態」あるいはごく単純に,「神から与えられた

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試練」と解しうる.ヒロインは,神の摂理が与えてくれる試練を,自らの 信仰を賭すべき天与の機会として引き受けようとせず,ひたすらそれと戯 れるばかりである.「(拙訳)いっそ即座に死んでしまおうかと考えた」

《 e l l ecuyda mourir soubdainement 》という表現は,受け入れるべき

「試練」の神学的意味に関する,彼女の致命的な無知を簡潔に暴き出して いる.

万策尽きた貴婦人は,「アヴイニヨンの教皇特使の許に赴き,我が身の 恐るべき罪 α ie n o r m i t ed e  s o n  p e c h e 》を告白して,どうしたらよいか お伺いを立て」る.《 le n o r m i t ed e  son peche 》という用語は,彼女の 犯した罪が,《 c a s u sr 白 e r v a t u s 》 (α c a sr e s e r 吋》)「留保事項」であるこ とを示唆している.これは,司教以上の高位聖職者にしか赦免できない重 い罪を意味する.さて,教皇特使は自らの良心に照らして,複数の神学博 士を招集し,名前を伏せてこの事件の概要を語り意見を求める.「そして 彼らの意見により,母親はこの件について子供たちに何も言ってはならな い,ということになりました.なぜなら,子供たちは何も知らない以上罪 を犯したことにならないが,母親は彼らに気づかれぬよう蹟罪の一生を送 らねばならないから,《(…) c a r ,   quant  a  e u l x ,  veu  l'ig110ranq~, i l s   na v o i e n t  p o i n t  p e c h e ,  mais que l l e  en d e b v o i t  t o u t e  s a  v i e  f a i r e   p e n i t e n c e ,  s a n s  l e u r  en f a i r e  ung s e u l  s e m b l a n t .  ≫,というのです. J 神 学者たちの結論は,神学的次元と現実的次元の,二つの異なるモラルに基 づいて下されている.大罪を犯しかっ全てを知る者には一生を要する悔俊 が課せられ,何も知らぬ者(たち)に対しては,実質的な無罪が宣せられ たからだ.母親は,自ら欲し,全てを知り,神の摂理に逆らうという点 で,エパの姿と重なるだろう.息子と娘に関しては,その「無知」のゆえ に,原罪以前のアダムとエパが,想起されると言えなくもない.いずれに しろ,二重の近親相姦の状態は意図的に放置される.「彼らはどんな夫婦 も及ばないほど,お互いに深く愛し合っていました.それも道理,彼女は 彼の娘であり妹でありまた妻であり,彼は彼女の父であり兄でありまた夫 でもあるのですから.」 α ( … ) l e s q u e l z  s '  entre‑aymoient s i   f o r t   que  j a m a i s  mary ny femme neu

n tp l u s  da m i t i e  e t   s e m b l a n c e ,  c a r  e l l e   e s t o i t  s a 印 l e ,s a  s e u r  e t   s a  femme, e t  l u y 主 e l l e ,son p と r e , f r と r ee t   m a r y .沙他方,「罪を深く悔悟した憐れな貴婦人は,二人が愛し合う姿を 見るたびに,一人,部屋に閉じこもって涙にくれたのです.」この一族は,

恰も古代の神話の神々の如き運命を辿ってはいまいか.同時に,イルカン

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ルネサンス文学に見る暴力の表象暴力・福音・聖体・カンニパリスム

の語りが,時間的に聞かれたまま終わっている(つまり,終わっていな い)点にも注目すべきだろう.この聞かれた結末(の不在)は,恰も読者 を自己省察へと誘っているかのようだ.

カゾランは,ヒロインが教皇特使の許に大罪を告白しに行った事実を重 視し,そこに,彼女の「盲目状態から明断な自覚への,自己および自己の 善行に対する信頼から,神とその恩寵に対する信頼への(…)移行」を,

つまりは「改心の徴 J を読み取っている.同時に彼女は,この逸話に於け る悔俊の秘蹟の重要性を,ルターの主張と比較しつつ強調しているう

O)

「語り部」≪ d e v i s a n s   ≫たちも,自己や善行への過信を断罪する見解を示 し,珍しくほほ全員が意見の一致を見ている.語り手のイルカンが口火を 切る.

「ご婦人の皆様,こういうことは,神様から様々な力を賦与されている愛や自 然に,自分一人の徳と力で勝てると思っている女たちに起こることです.それ より人聞は自らの弱さを知って,こういう敵とは一戦も交えず,真の友である 神に帰依して,聖詩篇の作者とともに『主よ,われ深く苦しむ,我に答え給

え』と祈るのが一番でしょうに」

≪  V o y l a ,  mes d a m e s ,  comme  i i   e n  p r e n t 主 c e l l e sq u i  c u y d e n t  p a r  l e u r s   f o r c e s  e t  v e r t u  v a i n c r e  amour e t  n a t u r e  a v e c q u e  t o u t e s  ! e s  p u i s s a n c e s  que  Dieu y  a  m i s e s .  Mais l e   m e i l l e u r  s e r o i t ,   c o n g n o i s s a n t  s a  f o i b l e s s e ,   n e   j o u s t e r  p o i n c t  c o n t r e  t e l  ennemy, e t  s e   r e t i r e r  a u  v r a y  Amy e t  l u y  d i r e   a v e ι q  l e   P s a l m i s t e   :  ≪  S e i g n e u r ,  j e   s o u f f r e  f o r c e ,  respondez pour 

, ぅI)

mOV!≫ 

≪  amour e t  n a t u r e  avecque t o u t e s  l e s  p u i s s a n c 白 queDieu y  a  m i s e s

を名取誠ーのように「神様から様々な力を賦与されている愛や自然」と翻 訳すると,おそらく真意が伝わらない.ここでいう《 amoure t  n a t u r e

とは,神が人間への試練として肉体に予め組み込んだ「性的衝動」を指す のではないか.男女の別を問わず,我々の恥部とそこに由来する激しい欲 求は,我々が体内に抱え込んだ「悪魔」以外の何者でもない.そうした強 力な敵≪ t e l   ennemy  ≫と戦うには,人間の自力はあまりに脆弱である.

だからこそ,詩篇(実際は「イザヤ書 J X)αVIII ・ 14 )にある如く「主 よ,われ深く苦しむ,我に答え給え」《 Seigneur,j e   souffre f o r c e ,  

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r e s p o n d e z  pour moy  !》と祈るべきなのだ.実際のところ,この第三十 話のヒロインは,悔俊に至るまで,一度たりとも「祈って i いない.カゾ ランの表現を借りれば,「魂と神との関係を劣化する」には「倣慢 j だけ で十分であるロ).貴婦人は,自分の身体が自分の上半身のみに属するか の如く振る舞い,自らの肉体の下層性に気づかない.だが,息子との交接 の場面は,彼女が彼女自身の意志にではなく,自身の下半身にのみ属して いることを証してくれる.それほど肉体の誘惑に弱い人聞が,神と折り合 いをつけうる唯一の方法は,祈り以外にない.

オワズィーユもイルカンの言に賛意を表しつつこう述べている.「男も

こ3ハミ

女も皆神を畏れて頭を垂れるべきだと思います.よいことをするつもり で,ここまで罪を犯してしまうのが人間なのですから.」《(…) E t   me  s e m b l e  que t o u t  homme e t   femme d o i b t  i c y  b a i s s e r  l a  t 白 t es o u b z  l a   c r a i n c t e  d e  D i e u ,  v o y a n t  q 1 : 1 e ,   pour c u y d e r  b i e n  f a i r e ,  t a n t  d e  mal e s t   a d v e n u . 5 3 抄 「神を畏れて頭を垂れるべきだ」という指摘は,神学的に新 ) たな要素を議論に持ち込んでいる.オワズィーユは,「神への畏れ」を通 して初めて「神への愛」へと至る,と主張しているに等しい.キリスト教 徒にとって,神への「屈従」《 h u m i l i a t i o n 》は,他の宗教に於ける,身 体的な苦痛を伴うイニシエーションの儀式に当たるのだ.オワズィーユの 言葉は,この「屈従 j の儀式を通過せずして,似姿にすぎない人聞が真に 神と「出合う」ことはない,と告げているのである.イルカンの語りにも あった通り,貴婦人は, αseh u m i l i e r 》することに全く意を払わなかっ たことを,ここで想起すべきだろう.ルネサンス期の神は,どちらかと言 えば旧約的な「怒れる神」であったうの.「よく愛する者(神)は,厳しく 罰する」 αQuiaime b i e n  c h a . t i e  b i e n 》ものだ.我々人間もまた,神の 厳しさへの畏れを経て,神".'−..の愛に到達せねばならないのである.

第三 O 話は,近親相姦の「濡れ場」の詳細な記述にまで踏み込んだ,一

見極めて大胆な逸話( N o u v e l l e )である.だが,問題の場面や,息子と娘

の結婚の経緯などは,(アリストテレス的な)「本当らしさ」にあまりに欠

けている(そもそも,いくら暗闇での営為とはいえ,母親を別人と間違え

るであろうか.尤も,『エプタメロン』には,「人違い」《 q u i p r o q u o 》は

珍しくないが).もちろん,長々と論じてきたように,近親相姦は真の主

題ではない.真の主題は,「倣慢の罪」からの脱却であり,神およぴ恩寵

への信頼の回復である.この主題は,「信仰のみによって義とされる」と

見なしたルタ}派の「義認 j α j u s t i 五 c a t i o n 》の教義と重なり合い,その

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参照

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