青年訓練所反対運動の論理と実践日
長野県下伊那地方の場合口
大 串 隆 吉
一
大正一四年一二月三日︑政治研究会下伊那支部・軍事教育反対同盟と帝国在郷軍人会下伊那連合会との間に︑
軍事教育対談会が持たれた︒在郷軍人会側の発言をまとめるとおおよそ次のようになる︒
軍備は︑﹁国防﹂の為に必要である︒軍備を充実することによって平和を保てる︒それは︑﹁武力的平和﹂と言
える︒﹁国防﹂が必要な理由は︑朝鮮の独立運動︑中国の﹁赤化﹂︑﹂ダヤ民族Lによる世界的支配の陰媒があ
るからだ︒イギリスでもボーイスカウトにみられるように訓練をおこなっている︒﹁国防﹂のための軍備がなけれ
ば︑﹁祖国を挙げて外国の奴隷﹂﹁プロレタリアは国内の資本家の失うと同時に外国の奴隷となり更に列国資本
閥の奴隷﹂となる︒したがって︑青年訓練所は必要である︒
政研下伊那支部と軍教反対同盟側は︑次のように反対意見を述べた︒ ヨ ○ 世論もないのに政府が︑一方的に決めた︒それは︑﹁自治的・立憲的でない已 1
○ 軍国主義は︑第一次大戦をみればわかるように︑国内の矛盾を資本家的に解決する手段である︒犠牲にな
るのは労働者・農民である︒
◎ 軍事教育は︑民衆を仮想敵としている︒
⑲ 教官になる在郷軍人は︑﹁片輪的﹂である︒
㊧ 軍事教育をやる前に︑実補等の﹁一般的教育﹂を確立すべきだ︒
㊨ 国民の体力を向上さす為なら︑軍事訓練等やるより︑労働者に休養を与えるべきである︒
㊤ 軍事教育をやれば戦争を煽り︑国民が好戦国民となる︒仮想敵国を作る理由はない︒
⑪ ﹁すべて社会の改革をなすは青年である︒﹂軍事教育は︑青年の社会改革の力を阻害する︒
在郷軍人会側は︑軍事と国民教育を結合させ︑国民教育の場に軍事訓練を持ちこむことを主張した︒その為︑
﹁祖国擁護﹂︑排外主義を主張した︒それに対し政研側は︑軍事と国民教育の結合に反対し︑軍国主義教育が︑好
戦国民を作り民衆を敵視し︑民衆の犠牲をもたらすことを主張した︒それは︑﹃政治と青年﹄誌上における反対論
の論旨が︑ほぼもりこまれている︒
すでにのべたように︑青年訓練所は︑政府の政治状況の判断からストレートに作りだされたものであった︒そ
の意味で︑政治状況をめぐって論点のひとつが出されざるをえなかった︒その点では︑政研支部側に⇔︵前稿︶
でのべたような弱点があった︒これは︑在郷軍人側の主張とかみあうためにも克服されればならない課題であっ
た︒その他︑歴史的制約によって弱点は少なからずあるが︑仮想敵国は必要ないこと︑軍国主義と民衆の生活の
関係という視点は︑一九三〇年代初頭の農村恐慌の時ふたたび課題となっていく︒
政研側が︑教育と軍事との分離を主張したのは︑単に軍人が教師・指導者として適切でないということだけで
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はなかった︒教育は︑そもそも﹁自由﹂ではなくてはならないのであった︒では﹁自由﹂とはどう考えられてい
たのか︒ひとつは︑国家権力からの強制に対比して考えられていた︒﹁補習学校は強制的な義務教育ではない︑自由 ︵1一の学園である︒﹂その為に︑講師︑教科目の選任を青年生徒に任せることを要求した︒それを﹁自主的﹂と呼ん
だわけで︑﹁自︑王的﹂と﹁自由﹂とは同じ意味を持たされた︒そして︑それは科学の学習︑真理探究の自由を獲得
するものであった︒
﹁青年会は教養団体である従ってそれは社会現象の科学的批判的考察を︑青年自らの出発点として確保する為
に︑青年自身が自主的に強大な組織をつくり︑力となる必要があるのである︒
青年の科学的考察を︑批判的立場を妨ぐるものはひとり迷信や老入の伝統的観念のみではない︒
実に其の最大部分は支配階級の教化指導にある
其等のものから青年を保証し︑青年の真理探求の自由︑研究の自由を保証し︑科学的考察の出発点に立たし ︵2︶ むる為に彪大な青年会の組織力もなほ足りぬ憾みが多い已
郡青年会も同様の認識を持っていて︑より具体的に発展させていた︒高等学校等の高等教育は︑勤労青年大
衆がいけないにもかかわらず︑国家の財政によってまかなわれている︒したがって︑勤労青年大衆の教育機関で
ある青年団が︑国家あるいは地方自治体の財政支出を要求するのは当然である︒しかし︑青年団の教育は︑科学 ︵3︶教育であるかぎり︑研究︑検討の自由が保証されていなければならない︒それは権利である︒教育を軍事から分離
する要求は︑こうした教育の自由の主張に裏打ちされていた︒ ︵4︶ 吉田昇氏の研究以来︑自主化運動の弱点は︑財政を村・郡・県当局からの補助金にたよっていたことが定説に ︵5︶ 5なっている︒しかじ︑先の郡青年会声明書や︑翌年の﹁県会議員選挙に対する声明書﹂にみられるように︑青年 −
会を教育機関︵実補と同じ様な︶と位置づけた場合︑教育の自由とその権利に裏づけられて財政保障を要求する
事は正しい︒むしろ問題は︑次の点にある︒第一に︑郡青年会長北原亀二が︑﹁彪大な青年会の組織の力も
なほ足りぬ憾みが多い﹂と言ったように︑青年会だけではなく民主主義をめざす諸運動と支配階級との力関係に
左右されるという問題︒第二に︑後で述べるが︑昭和六年頃より郡青︑県連青に青年団の位置づけをめぐって影響
を与えた﹁階級分化論﹂の問題である︒この主張は︑青年団を公的な教育機関として位置づけるのと矛盾していた︒
いずれにしろ︑教育の自由をめぐる主張は︑青年教育の分野にとζまらず︑小学校教育にまで及ぶ論理的必然
性を持っていた︒事実︑﹃政治と青年﹄には極左的な面を持ちつつも次のような主張がのった︒
義務教育は︑﹁国家の画一的な教育方針のもとに︑非科学的な国家観社会観人生観を発育期の児童の頭にたたた
き込﹂むか︑﹁中等学校への予備教育﹂を行っている︒それにたいし村には︑発言権が与えられていない︒ ﹁学
校を建築し十分な設備をなした村は進んで︑教育の施行細目に付いての発言権監督権を持つべきである︒殊
に村費の大半を負担している無産階級は進んで︑この挙に出ずべきである︒即ち無産階級子弟の義務教育期間中
の一切の費用の国庫負担国庫支弁の職業学校の普及︑小学校より修身科を排してその監督権を青年団に付与 ︵6︶ する事等の要求の実現に努力すべき事であるe
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二郡青は︑大正十四年一一月に各ブロック︑各村青で軍教反対の宣伝週間を設けた︒しかし︑県・郡当局は︑こ
れに圧力を加え︑郡長は中止命令を出し︑各町村で集会︑研究会の為の学校貸与を禁止した︒その為︑千代村青
を除いて各村青は︑軍教反対の集会・研究会を中止した︒大島村青年会の記録には︑次のように書かれている︒
一一月︵日時不明−引用者︶代議員会
一〜四・略
五︑郡青代議貝会報告
ω軍教反対運動
来ル廿五日午后八時︵雨天ナレバ午后一時︶小学校二於テ研究会ヲナス事
=月一七日 第一支部代議員会
一 軍事教育反対二就テ
以下略
一一月一九日 軍教反対運動中止方郡長ヨリ通知アリ
一一月二五日 研究会午後八時ヨリ於大島小学校︑軍教問題ハ官権ノ干渉厳シキ為郡青年会二於テモ中止セシ ︵7︶ 関係上取止メトナシタル
軍教反対の宣伝は︑青年会員に充分伝わらなかった︒翌年︑青年訓練所設置を目の前にして︑郡青は七月の代
議員会で︑青訓入所︑管理権の獲得を方針にした︒それを受けて大島村青年会は七月一九日の役員会で︑﹁青年会
トシテモ入所ヲ誘励シ尚管理二対シテモ担当青年会トシテノ要求ヲナスコト﹂︵﹃大島村青年会会議録﹄︶を決定し
ている︒八月に郡下青年雄弁研究大会が開かれ︑青年訓練所に対する方針が決定されている︒それは︑郡青代議
員会の方針を支持した上で︑﹁其︵青訓の1引用者︶帝国主義的性質を暴露する一方其訓練をして青年自身の訓練
とする為﹂に︑﹁一︑訓練所管理権の獲得︑二︑訓練所員による自主化の確立﹂をかかげた︒さらに一二月には︑ 郡下青年訓練所員大会が開かれている︒千代村では︑これがきっかけとなって︑訓練所員︑実補生徒によって新 −
〆 ︵8︶ 生会なる団体が作られ︑﹁補習学校の刷新︑訓練所問題の改革︑研究﹂を目的とした︒ 8 1 軍教反対運動をきっかけとして︑警察による抑圧は強まり︑青年会主催の講演会が中止されている︒大島村
では︑長谷川如是閑や平林タイ子︑小堀甚二の講演会は禁止されている︒青年会員は︑憤激して﹁下伊那郡青年 ︵9︶ 会/講演ヲ何故警察ハカク迄危険視スルカ﹂と書いている︒にもかかわらず︑先にあげた活動の結果︑青年訓練
所に反対する気持は強かった︒昭和二年一一月に開かれた同村青年会研究会で青年訓練所に関して討論があつた︒
その討論は次のような内容であった︒﹁現在ノ青年訓練所二反対意見アリ青年研究会二於テ廃止ヲ決議セヨトノ主
張ト訓練ニハ反対ナルモ斯ル決議ヲナスコトハ反対ナリトノ意見アリ採決ノ結果二点ノ差ヲ以テ廃止決議ヲ否決
︵10︶ サル﹂
青年訓練所に反対する立場を徹底したのは︑私の知るかぎりでは︑千代村青年会である︒それは︑先にあげた
運動からも言えるが︑その規約に明確にあらわれていた︒昭和八年の改正まで︑﹁補習学校援助﹂はあっても︑青
年訓練所援助はなかった︒これと対照的だったのは︑上郷村青年会等である︒青年訓練所を奨励した上郷村青は︑
昭和二年の会則改正で﹁本会ハ補習学校及青年訓練所ノ援助連繋ヲ行フ﹂をつけ加えた︒又︑座光寺村青年会も
同様であった︒すなわち︑昭和二年︑規約に﹁団員中青年訓練所生ハ必ズ同所へ出席スルコト及ビ理事二対シ督
励ノ任二当ルコト﹂をつけ加えた︒大島村青年会は︑昭和四年の役員会で青年訓練所の後援を決定している︒
ちなみに︑上郷村青と座光寺村青は︑郡青の対抗組織郡連合青年会結成に努力し︑上郷村青年はその急先峰であっ
た︒上郷村青は︑大正一四年に︑郡青を脱退しなければ村費援助を打切るという攻撃に屈し︑郡青を脱退し︑国 ︵H︶ 民精神作興会︑在郷軍人会との結合を強めた︒その青訓督励理由は︑ほぼ政府・文部省の宣伝理由をうけついで
いる︒大島村青は︑郡青に加盟していたが︑青年会単一化の為に活動し︑三・一五事件後青年団を﹁政治的進出
二就テハ綜合団体トシテノ進出二止ムル事Lと性格付けした︒
上郷村青・座光寺村青は︑国民精神作興会︑在郷軍人会との結合を強めた︒それは︑同時に大日本連A呈目年団
との結合をも意味した︒座光寺村青の記録は︑そのことを物語っている︒
大正一五年三月四日︑講演会国民精神作興会の招聰に依り日本青年館理事長丸山鶴吉氏講演聴す︒三月一五日︑
日本青年館発行に依る雑誌﹃青年﹄を会員巡回にて購読することとなる︒十月廿五日講演会︑大日本青年館理
事田沢義舗氏を聰す︒昭和二年一月九日 国民精神作興会の主催に依り東京青年館に於て講習会開催され本団 ︵12︶ より三名受講者を送る︒三月廿三日︑大川周明氏の講演会開催す︒
千代村青が︑これらの人々を全く呼ばなかったのと対照的である︒とはいえ︑千代村青も在郷軍人会に対しては徹
底した態度を打ち出していたとは︑言いきれない︒大正一四年改定の千代青年会会則は︑その施行規則に﹁千代
村尚武会︑千代村在郷軍人分会と合同して軍人送迎会を開催す﹂を入れている︒
昭和二年に無産青年同盟南信支部が結成されたが︑昭和三年から四年にかけて︑三・一五事件︑四・一六事
件が起こり︑郡青の活動家が検挙︑投獄された︒又本多委員長が横領容疑で逮捕される等して︑郡青は動揺した︒
郡連青との合同には︑失敗して︑郡青は解散してしまった︒他方では︑経済恐慌の結果︑下伊那の主要産業であ
る養蚕業は大打撃を受けた︒まゆ価は︑大正期三・七五キロあたり一一円余りしたが︑昭和四年七円三〇銭︑五年三
円二三銭︑六年二円九四銭と暴落した︒長野県の製糸工場は︑四年末から五年一月にかけて一斉休業し︑岡谷の代
表的製糸工場も相次いで倒産した︒
郡青は︑昭和四年五月に再建された︒翌年二月に研究大会が開かれ︑議題のひとつとして﹁青年訓練所の存廃 問題について﹂をとりあげた︒この討議は︑青年訓練所と実業補習学校の合併の是非をめぐっておこなわれた︒ 1
それは︑先の青訓反対運動の時の賛否を再現している︒反対論者は︑﹁補習学校は小学校の延長である︒訓練の教
養方法は軍事的教練である﹂から︑﹁青訓と補習学校と合併すれば訓練所化する﹂から反対すると主張した︒賛成
論者は︑実補と青訓の目的は似たようなものであるから合併は﹁合理的﹂であり︑﹁訓練︵所︶は国庫の補助があ ︵13︶るから金のない補習学校が合同を成せばよりよい教養が出来る己と主張した︒結局︑結論はでなかったが︑反対
論は︑後に実補と青訓を合併して作られた青年学校の姿を予見するものであった︒
この議題がとりあげられた理由は︑つまびらかではないが︑長野県連合青年団の影響だと考えられる︒長野県 ︵14︶連青は︑すでに昭和三年一月青年訓練所調査委員会報告i﹁特二青年訓練所設置ノ必要ヲ認メズ﹂を承認し︑翌
年二月実補調査委員会報告ー青訓の軍事教練を単なる体操にした上で﹁青訓を実業補習学校に合併すべきである︒﹂
1を承認していた︒先の議論は直接的にはこの影響であろう︒さらに︑昭和五年七月には︑不況対策の一環として
青年訓練所廃止を実践に移すという方針を出した︒郡青も同年八日に不況対策委員会を作り︑青訓問題も不況
対策の一環として議論された︒その中で︑不況の波に襲われ︑青訓だ︑補習学校だと時間をつぶすわけにはゆか ⑭ないと廃止を主張する者も少なからずいた︒ ﹁俺はミリタリズムに絶対反抗せよと述べるのでは無いが比の不況
に直面した現在農村にはそんな実際生活より掛け離れた処の教育を受ける余裕のない事実なのだ自主化した訓練 ︵15︶所の更生は大いに喪心より双手を挙げて歓迎する所であるけれど兎に角比の際一時機能停止望む已
不況の中で︑青年訓練所を農村の青年の生活と関連づけてとらえる発想が生まれていた︒しかし︑結局のとこ
ろ青訓廃止の主張は通らず︑青年訓練所に対する経費の節減を要求することにした︒不況により町村の収入は減
った︒その為︑村によっては青年訓練所の経費を削減した︒例えば︑伊賀良村では八名いた指導員を半分に減らし
︵16︶た︒又︑長野県全体では︑指導員︑所員が昭和五・六年にかけて減っていた︒したがって︑この要求は可能な要求
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だったといえよう︒しかし︑これを﹁村予算の大部分を占める教育費の節減﹂﹁未曾有の経済不況に際して一般民
衆の支出の軽減を図るために小学校教員︑農会技術員の二割減俸﹂と同列においた事は︑軍国主義教育反対の視
点を貫く点で問題を残したと言えよう︒車力村のような要求を出すにはいたらなかったのである︒又︑市町村で
は︑教員の給料減俸だけでなく遅配をせざるを得ない状況においこまれていたのである︒
統 計
員職
所
訓 練
青年
数員所 3603293722785125120250ρO﹁8178181304911030294412 数員導指︶34304272︶952q5962︶43101052︶9112︵0052︶990q1342
D70口5632︶52108732︶82109932︶931q7832
数事主 083093193493293293393493893 数所673093193293293293393593893
年
15大2召日
3
4
5 6 7 8 9円14
蜘
憲
政
帳野
暉人
糊
胸は
︵ では何故こうなったのであろうか︒その考察に移る前に︑大正後期から昭和初期の間︑青年はどのような学習をやったのか︒それを︑千代村青に例をとって述べる︒何故なら︑自由大学を作る等最も学習運動が盛んだった青年会であるからである︒
21
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千代村青年会の学習には︑講演会︑研究会の他に︑図書館を使った学習と伊那自由大学千代支部での学習があ
る︒まず︑図書館を使ってどのような本が読まれたかをみてみる︒私のてもとに︑千代村青年会北部支会﹃文庫
貸出簿﹄大正一四年度︑昭和二年度がある︒この二冊には︑あきらかなちがいがある︒それは︑社会科学関係の
本が︑大正一四年度には全くないが︑昭和二年度には︑購入されているということである︒
千代村では︑講演会形式の社会科学学習を大正一二年項からおこなっていた︒大正一二年には︑大山郁夫﹁社会
の進化に就いて﹂等︑一四年には︑大山郁夫﹁政治学﹂︑市村今朝三﹁社会学﹂︑三輪寿壮︵題不明︶等を講師に呼
んでいる︒しかし︑これらは︑年五・六回であり︑系統的な学習にはほど遠かった︒その為であろうか︑昭和二
年四月の﹁活動批判演説会﹂では︑一青年会員が﹁青年社会科学入門のためパンフレット配布を希望する已と演 ︵17︶ ︵18︶説している︒青年は︑系統的な社会科学学習を求めていた︒同年に作られた伊那自由大学千代支部もこのあらわ ︵19︶れであった︒それは︑﹁新社会建設のための本格的な科学的理論の習得の必要性と理論の主体化を強調して﹂いた︒
図書館の購入図書の変化は︑こうした事情のあらわれであった︒千代村青は︑大正=二年に図書館の村費による
自主運営に成功していた︒︐大正一四年度の図書は︑五九冊︒そのほとんどは文学書であった︒参考のため幾つか
あげてみる︒︵下の数字は借出し回数︶
黒岩涙香訳﹃憶無情﹄︵七︶︑﹃独歩全集﹄︵六︶︑﹃憧憬﹄︵五︶︑厨川白村﹃近代の恋愛観﹄︵五︶︑松崎天民﹃恋と
名と金﹄︵五︶︑生田長江訳﹃罪と罰﹄︑︵四︶︑正宗白鳥﹃何処へ﹄︵四︶︑賀川豊彦﹃星より星への追路﹄ ︵四︶︑
大管酔月﹃桜咲く頃﹄︵四︶︑中村結郎﹃キリストの血に依って﹄︵四︶︑ ﹃布施太子の入山﹄︵四︶︑﹃新約聖書﹄
︵三︶その他︑島村抱月﹃復活﹄岩野抱明﹃耽溺﹄︑倉田百三﹃出家とその弟子﹄︑武者小路実篤﹃幸福者﹄︑
徳富蘇峰﹃大正の青年と帝国の前途﹄︑樋口廉陽﹃爆弾上の大日本帝国﹄︑賀川豊彦﹃死線を越えて﹄等︑借
出しのべ数一〇六冊︑これが︑昭和二年度になると次のようになる︒蔵書数は︑一〇〇冊︒
山川均﹃資本主義のからくり﹄︵六︶︑建設社﹃無産農民﹄︵五︶︑佐野学﹃農村問題﹄︵三︶︑室伏高信﹃共産主
義と社会主義﹄︵三︶︑麻生久﹃無産政党とは何だ﹄︵一︶﹃ゴータ綱領批判﹄︵一︶︑村上浪六﹃浪六傑作集﹄
︵九︶︑菊地寛﹃第二の接吻﹄︵七︶︑厨川白村﹃近代の恋愛観﹄︵五︶︑谷田佐市﹃山岡鉄舟の生涯﹄︵五︶︑木内
勇﹃新訳千夜一夜﹄︵四︶︑堀内新宗﹃復活の人﹄︵四︶︑仲根根源和﹃教育読本﹄︵四︶︑大杉栄﹃青年に訴う﹄
︵三︶︑北浦千太郎﹃青年読本﹄︵三︶︑その他︑﹃初恋の思い出﹄︑﹃罪と罰﹄︑仁木笑波﹃西郷南州﹄︑国木田独
歩﹃欺かざるの記﹄︑猪俣津南雄﹃金融資本論﹄︑ブハーリン﹃弁証法的唯物論﹄︑ボグダーノブ﹃経済科学概
論﹄︑細井和喜蔵﹃女工哀史﹄等︒のべ貸出し数約二〇〇冊︒
以上をみると顕著な変化があるのがわかる︒青年の人気を集めたのは︑純文学書︑人生論書から︑社会科学書
大衆文学書へと明白に移っている︒昭和二年にこのようになっているのは︑先に述べた社会科学学習への要求と
共に︑金融恐慌と共に未曾有の霜害がおこって︑養蚕業が大打撃を受け︑生活が苦しくなり心をいやす為に大衆
文学書を求めたと考えられる︒
さて︑社会科学書の中で山川均﹃資本主義のからくり﹄が最も読まれている︒この本は︑経済学の入門書とし
て書かれたもので︑大正十二年の初版以来昭和三年までの間に八版を重ねた隠れたベストセラーであった︒ペー
ジ数は︑七〇ページ︵四六版︶でパンフレットに近く︑しかも伏字が全くなく︑当時としては考えられないよう
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な本であつた︒伏字がないだけでも︑入門者には読みやすかったであろう︒
内容は︑﹁資本主義の生産﹂﹁経済組織の変遷﹂﹁生産者と生産機関との分離﹂﹁労働の商品化﹂﹁生産と消費との
矛盾﹂﹁資本制度の浪費﹂﹁社会的生産と個人的所有との矛盾﹂﹁生産力と財産制度との衝突﹂﹁私有財産主義の動
揺﹂﹁社会生活の不安﹂﹁生活の改造﹂﹁自己改造の努力﹂﹁社会の改造﹂﹁闘争の生活﹂からなっている︒
著者は︑まず﹁国民が日常品の暴騰に苦しんでいる時に︑一億五千万の綿織物は倉庫の下積みとなり一億八千
万円の砂糖は倉庫の中で溶けて流れていた已のは何故かと問うことからはじめている︒そして︑人間社会の歴史
は︑﹁原始共産制度の時代﹂から奴隷制度に変り︑生産力の発展によって農奴制度に変る︒その間に手工業︑都市
の発展によって生産力が発展し︑手工業生産にかわつて機械制大工業制度が生まれる︑と説明している︒つづいて
階級対立︑生産者の生産手段からの分離︑労働力の商品化︑恐慌︑産業予備軍等々の資本主義の特徴を説明し︑
その矛盾を﹁社会的生産と個人的所有との矛盾﹂においている︒そして︑資本主義社会の﹁改造﹂は︑個人の内面
にとじこもる哲学や文芸︑又﹁新しき村﹂のような空想的な共同生活にあるのではなく︑労働者の﹁正義の観念﹂
にあるとしている︒
理論的には︑不正確なものがみられる︒最も不十分なのは︑社会の変化があたかも生産力が発展すれば自然に
生じるかのように書かれている点である︒それは︑特に歴史の記述にはなはだしい︒又資本主義社会の生産の社
会化を︑生産手段の共同化と誤解しているから資本主義社会の矛盾の説明が混乱している︒すなわち︑ ﹁生産
方法と財産制度との矛盾﹂ー﹁造る間は社会的で︑持つ段には個人的である︒﹂と理解していた︒以上の為か︑社
会変革の力を権力問題にかかわってではなく︑イデオロギー闘争にせばめてしまつている︒
戦争の原因についての説明は︑どのようにされていたか︒それは︑﹁生産と消費との矛盾﹂の節で︑﹁戦争は何
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故起る?Lで説明されている︒生産と消費の矛盾の結果﹁植民地の競争と外国市場の争奪が起って来る﹂と説明
されている︒これ自体に限ってみれば︑誤りはない︒しかし︑帝国主義戦争を理解するには︑これだけでは不充
分な事は︑言うまでもないであろう︒この本を集団学習にとりあげる場合補足説明がされねばならなかった︒だ
が︑それを︑ページ数のかぎられているこの本にもりこむ事は︑適切ではなかったろう︒もりこむとなると︑パン
フレツト的なとっつきやすさがそがれるか︑具体性に欠けるかせざるをえない︒
もう一冊︑本が準備されねばならなかったとおもうが︑出版されなかった︒準備するとしても︑権力問題をあ
いまいにしたことは︑国家独占資本主義︑帝国主義への説明につながるものを見い出せなくしている︒その点の
問題意識を読者に与えなくしている︒
この本の長所は︑先にあげた点以外に次の点がある︒導入部分で︑誰でも気づきやすい生産の増加にもかかわ
らず生産物を購入できない民衆の問題を出し︑疑問をいだきやすいようにしてある︒さらに最後の部分で︑労働
者の生き方を提起している︒当時の支配階級の思想宣伝に出来るかぎりかみ合わせている︒一方︑伊那自由大学千
代村支部では︑次のような講議がおこなわれた︒昭和三年一二月高倉輝﹁日本民族史﹂︵四日間︶︑昭和四年二月
藤田喜作﹁農村社会について﹂︵三日間︶︑同三木清﹁経済学の哲学的基礎﹂︵日数不明︶︑ 一二月高倉輝﹁日本民族
史研究﹂︵三日間︶︒内容の一部分からみてみると︑三木は︑経済構造を生産力と生産関係から説明し︑又弁証法の
特殊と普遍の関係を日本と世界の関係で説明してる︒高倉は︑﹁従来の歴史は⁝⁝真の祖先の歴史でなく一部の支
配階級の歴史であった已 ﹁吾々は自らの真の歴史をさがさねばならない︒﹂といって︑唯物史観的な講議をおこな
い︑当時の状況を長野県に即して説明している︒これらの中で﹁政権﹂を獲得する必要性を間接的ではあるがわ ︵20︶ 5 2かるようにしているし︑﹁被支配階級﹂の﹁人間的解放の道﹂は﹁農民同盟以外に他なし﹂と明言している︒これ
︵21︶らの講議は︑﹃資本主義のからくり﹄を補足するのに充分であったとおもえる︒千代支部は︑高倉の講議を最後に 26して解散している︒その原因は︑﹁大恐慌と農村不況の過程で︑大半の農家が経営の基礎を根底から崩されたこと ︵22︶にある已といわれている︒
その後︑自由大学に参加したメンバーが︑中心となり︑各部落毎に社会科学の読書会を作り︑﹃産業労働時報﹄ ︵23︶﹃プロレタリァ科学﹄等の雑誌が読まれていた︒又千代村青は︑昭和七年に坂本三善︵プロレタリア科学研究所︶︑
高倉輝︑昭和八年には本庄陸男を講師に呼んでいる︒これらの講議では︑日本資本主義の半封建的性格︑植民地 問題︑農村の階級分析等︑相当突っこんだ講議がおこなわれていた︒ただ︑天皇制の問題は︑公開された講演で
は︑話す事が無理だったと考えられるし︑その他の問題も一定の制限があったと考えられる︒この点については
より一層の考察が必要であるが︑公開された学習の限界をなくす場としては︑サークル学習しか考えられなかっ
たのではないだろうか︒坂本三善氏の講議をきっかけとして︑大衆的な文化倶楽部の組織化も始まっていた︒
郡青は︑電灯料金値下げ運動︑二〇歳選挙権獲得運動を行なつた︒昭和六年には﹁満州事変﹂が起り︑排外主
義をあおる宣伝が︑ジャーナリズムをまきこんでおこなわれた︒又︑自力更生運動もはじまり︑産組青連が動き
だした︒しかし生活は︑依然として窮乏の度を深めていた︒昭和七年にある青年は次のように嘆じている︒﹁近頃農
作物の非常な下落から何処の農家でも赤字は出さない者はない︒それ程農民は困り抜いている︒特に居候なんぞ
は見じめな者だ耕すに土地はなし職業に就かうとしても職はなし︑借金は何処の家でも相当嵩ってゐる︒昔の農村
の平和な姿は今は見る影もない︒農村は淋しい︑希望がない︑と言つて鋤や鍬を捨てて懐しの農村を見捨てて都 ︵25︶会の地獄に惰ち込もうとする若者が絶えない已
こうした中で︑青年の中には︑社会主義的指向の存在と共に︑ニヒリズム︑反政党︑反官僚的思考︑農本主義的
思考︑反共産主義的思考が存在していた︒これらには︑恐慌の中で生活の変革と生き方を求める青年の苦悩が︑
表現されている︒社会主義的指向を持った青年は︑ソビェトの第一次経済五ヶ年計画を理想として﹁社会改造も
それ迄になれば申分ない﹂と言い︑その理由を根本的に農村生活の安定が出来るからだとする︒﹁俺の主張する事 ︵26︶は手のひらをかえす様な改造は出来而も農村つまりプロ階級の生活安定が期せずして実現されると思ふ︒﹂この主
張には︑千代村青の学習の結果が読みとれるのであるが︑遠い見通しを持っていたにもかかわらず﹁研究する事は
必要であるが実行に移す事は至難なのであると思ふ﹂と実践する事をためらっている︒それは︑当時の民主︑王義
的運動に対する弾圧の反映であろう︒普選の獲得←社会主義的改造へという見通しを持っていたようであるが︑
﹁一般大衆の目覚め﹂に期待することによって︑結局主体の入らない期待感というあいまいなものになってしま
っている︒
単なる期待感は︑ニヒリズムと同居していた︒﹁朝夕がある如く亦人間社会にも朝夕があろう︒まだかも現今は
夕であろうからすこしの口を待ち必定希望の朝が訪れるであろう已と書いた青年は︑次のような詩を書いている︒ ︵27︶﹁考へない/自分のことも/人のことも/未来のことも/然り/豚の如く考へないピ
青年達は︑徹底して政府の不況対策を攻撃した︒負債整理法を批判︑満蒙政策を批判した︒一青年は次のよう
に主張した︒負債整理のための資金の融通は︑国民の税金による国家財政によっている︒それは︑﹁哨が自分の足
を食って生きる﹂様なもので﹁どう考えても農村を甘く見ているとしか思︑之ない已のである︒満蒙政策について
も︑﹁満州の開発は大切だ︒だが三千万同胞より大切でないものはないのではないか︒﹂と批判する︒政府は︑農民
を無視していると考え︑徹底した政治不信を吐露し︑農本主義へ不況解決の道を求める︒﹁農村の歎きは日を追ふ
て深化しつつある︒政治家侍むべからず為政者桃るべからずの声が山野を風びする政党にも官僚にも頼むべき何
27
ものを見出し得ない農民は農本主義にかへりつつある農民のことは農民の手で︑そうだ残されている一つの途は ︵28︶ 28﹃政治を農民の手に奪還することだ﹄この一票を提げて政治的にも自力更生することなのだL
又︑ある青年は︑国家社会主義的な傾向を見せている︒それは反共主義に支えられている︒不況対策は︑徹底
したものでなければならないと主張して︑こう政府に言う︒﹁断言し且つ進言するが平々凡々な手段方法では絶対
駄目ですそ︒根本的方策を樹立し命懸けで断行する勇気がなかつたらきっと駄目ですそ已そして︑﹁モラトリアム﹂
は不徹底で﹁所有権返上運動﹂をしろとせまり︑﹁所有権返上運動を弾圧すればきっと共産主義非合法運動が勢
力をはる︒祖国を失わざらんとするならば大局に目を注いて小の虫を殺して大の虫を生かさねばならぬ已三所有
権返上運動を弾圧する︶連中こそ﹃共産主義者の養生者﹄である又其の主義を助長している国賊である﹂とまで ︵29︶断言している︒
昭和七年の時点での千代村の青年の思想状況を一文集からみたのだが︑ここにあらわれた思想状況は︑同年の
幾つかの研究会における主張にもみられ︑少なくとも千代村青全体のものであつた︒不況打開を基礎とした・自か
らの生き方の模索は︑農民の生活破壊に直面していたから﹁その日その日の問題﹂︵﹃残された一つの途︶﹄であり︑
﹁これを何とする︒これを如何にする︒平然としてこれをながめうる男子があるならば︑それは狂人か然らずん
ば低脳児だ已︵﹃農民運動とモラトリアム﹄︶と言う程切迫感を持って語られたのであった︒青年の関心は︑青年訓
練所反対運動そのものよりも︑不況打開に関心がむかっていた︒
不況打開は︑結局自力更生運動としてとりくまれた︒そのもたらした結果は︑﹁満州分村移民﹂であった︒昭和
十二年にたてられたその計画は︑村を二分し︑農家戸数を二百戸減らし︑常に五百戸にするため︑﹁満州移民﹂を
おこなうというものであつた︒﹁移民﹂の人数は︑下伊那郡下で二番目の多さであった︒千代村から︑満蒙開拓
青少年義勇軍が何名出たか︑つまびらかではないが︑長野県下では︑下伊那郡が最一口同の人数を出したのであった︒
四
大正後期︑反軍国主義に裏打ちされた軍国主義教育反対運動は︑恐慌期に次第に影をひそめていつたのだが︑
何故そうなったのであろうか︒幾つかの間題を出してみる︒
第一は︑平山和彦氏が指摘しているよ・つに︑再建郡主目の中で︑保守的勢力が強か露事実である.そして先の
郡青研究の討議からわかるように青訓についての見解は︑まっこうから対立していた︒
第二に︑そうした状況の中で青年団はどのような役割を果たさねばならなかったのだろうか︒それは︑青年団
の性格規定と密接にかかわっていた︒昭和六年頃から︑青年団﹁階級分化論﹂が撞頭してきた︒青年団﹁階級分
化論﹂とは︑次のような内容をさしていた︒すなわち︑﹁現実の社会は階級支配の社会﹂であるから﹁青年団の本
質も階級化されつつ亦現にそうである已したがって青年団は︑﹁個々の階級に分化し﹂﹁客観的条件の成長と青年
の意識の成長高揚に依って﹂そのことはあらわれる︒﹁既成青年団解消階級青年団確立﹂は︑﹁会員の階級意識の高 度に依ってのみ得られる已要するに︑現在の社会は階級社会である←青年団に階級分化があらわれる←会員の階級
意識を育てる←官制青年団の解消と階級青年団の確立という主張であった︒たしかに︑階級社会である以上︑勤
労青年の参加している青年団に階級分化があらわれるのは当然であった︒このことが︑自覚されたのは︑共産主
義運動の影響と共に︑恐慌による階級分化の進化にあつたことは︑いうまでもない︒そして︑大正後期の自︑王化
論を支えた青年世代論を否定したものであつた︒
問題は︑﹁階級意識の高度﹂化を青年団の役割としたことである︒青年団の構成員に階級分化が生じたことと︑
青年団に﹁階級意識の高度﹂化の役割を持たせることとは別の問題である︒﹁階級青年団﹂とは︑﹁階級意識﹂をも
った︵すなわち︑意織を問題にした︶青年の組織であるから︑ひとつの思想集団であり︑青年前衛党化を意味す
る︒したがって︑年令のみを資格用件とする青年団の組織形態そのものを否定するものであった︒ところが︑そ ︵32︶うした組織形態を肯定していたから当然矛盾を生じた︒︵昭和七年の︶郡青解消は︑それをひとつの理由としていた︒
又階級意識を持った青年のみに限定する青年団論は︑全青年に開かれた組織でないから︑教育の機会と﹁教育
の自由﹂を要求する教育機関としての意味を失うにいたった︒﹁階級青年団﹂形成のもくろみは下伊那に農民組合
が存在しなかったことと無関係でないとおもわれるが︑それを主張した人々は︑農民組合についてほとんど関心
を払わなかったようである︒それは︑﹁吾等青年団員は彼等眠れぬ民衆に其の幻影的見地より呼びさまし誤れる見 ︵33︶解を持して居る彼等に対し正しき意識に帰らしめる事こそ今日の青年団の本質的役割である︒﹂ということに端的
に表現されているように青年前衛党的な傾向のゆえであった︒その点では︑大正後期と変ってない︒それは結局︑ ︵34︶階級的な生活を基礎にした諸組織と青年団との関係を明確にする事を妨げた︒さらに︑この時期に﹁階級青年団﹂
を提唱したことは︑その叫びのはなぱなしさにもかかわらず一青年会員が危倶したように弾圧をうけるだけでな
く︑﹁まだ若年にして社会の制度の歓陥根本的に異なれる経済原則組織の矛盾に対し良く理解されない人々が青年
訓練所其の他の反動団体の中に訓育され其の思想に反動性を注入されてしまう時一部間の嘔歌する階級的青年会 ︵35︶から遠ざかり行く﹂ことは︑目にみえていた︒その点で︑奇妙な楽観論があったとしか思えないのである︒
第三に︑郡青幹部は︑農業教育に消極的であった︒それは︑社会科学教育・学習を強調し︑﹁教育の自由﹂を主張
したのに比べ奇妙な対照をなしている︒それは恐慌期だけでなく︑大正期の自主化運動の頃よりあった︒当時使
われていた﹁教養﹂という言葉は︑社会科学を指していたので︑生産技術は含まれていなかった︒それは︑結局農村
30
青年会が伝統的に有していた農業技術に関する教育を軽視し︑副業への要求を満たさないだけでなく︑農業や産 ︵36︶業組合にその機能をゆずる結果︑青年団指導部と一般会員の間を離れさせていったのではなかろうか︒
第四に︑たしかに青年訓練所反対運動は︑表面にあらわれなかったものの︑反対する青年がいたし︑千代村青 ︵37︶のように帝国主義戦争について正面からとりあげる青年会も生まれていた︒それは︑学習の結果だとおもえるが︑ ︵38︶千代村青の有志は︑昭和七年から八年にかけて文化倶楽部を作り︑学習を続けた︒この学習が︑先述した文集にあ
らわれた青年の意識とどのように関係していたのだろうか︒この点をあきらかにするためにも︑在郷軍人会はい
かなる活動をしていたのだろうか︒これらの考察は︑後の機会にゆずりたい︒
︵1︶ ﹁唯一の自由学園﹂︵﹃政治と青年﹄五号︑大正=二年一〇月二〇日︶ 註
︵2︶ 北原亀二﹁自主的青年会確立の真意義﹂︵前掲七号 大正=二年一一月一〇日︶
︵3︶ ﹁下伊那郡青年会声明書﹂︵大正一五年三月︶︵﹃千代青年会史﹄二九一〜四ページ︶その一部を引用する︒
﹁さて最後の問題は吾々は如何にして自主的青年会を擁護し発展せしめるか︑経済的基礎を作るべきかの
問題である︒法規或は反動宣伝に依り︑青年団の自由研究検討の範囲がますます縮少されしも其処に大な
る自由権拘束にあひ︑官僚軍閥其他の保守退嬰の反動分子の支配する処となり︑自由権は侵害されそれ等
の偽購的指導の下に軍国主義の鼓吹あるいは伝統的意識を中心とした︑教育訓練を施される如くに到れば
最早完全に彼等に奪取された事であり︑其処には既に自主的青年会の面影はないわけである︒吾々はかく
なさざらんが為に最善の努力を続けなければならぬ︒
31
今一つの自主的青年会のもっとも必要とするところは︑経済的基礎を確立しなければならない事である︒2 3 国家あるいは府県が一部特殊な階級の子弟を教育する為に高等学校に莫大なる出費をしているこれは︑決
して天才教育ではなく彼等は彼等の為めに教育を受けんためである︒然るに一般青年大衆はその圏外に置
かれている︒この関係を観れば青年団の青年教育費は多数民衆の子弟を教育する重要性から認める︒当然
之は国家あるいは地方自治体の支弁すべきものであろう已
︵4︶ 吉田昇﹁戦前における青年団の自主性をめぐる論争﹂︵﹃お茶の水女子大゜学人文科学紀要第八巻﹄
昭和三一年︶
︵5︶ ﹃千代青年会史﹄一一七〜一一九ページ
︵6︶ 荒井邦之介﹁地方自治体の財政﹂︵﹃政治と青年﹄二九号 大正一四年九月二〇日︶
︵7︶ ﹃大島村青年会会議録﹄ 大正一四年
︵8︶ ﹃千代青年会史﹄=三ページ
︵9︶ ﹃大島村名子青年会議事録﹄昭和二年ム一月一五日
︵10︶ ﹃大島村青年会会議録﹄昭和二年一一月三〇日
︵11︶ ﹃下伊那青年運動史﹄︵国土社︑一九六〇年︶八〇ページ
︵12︶ ﹃座光寺村青年団史﹄︵昭和七年︶
︵13︶ ﹃下伊那郡青年会報﹄二号 昭和五年一二月号
︵14︶ ﹃下伊那青年運動史﹄一一八ページ
︵15︶ ﹃不況対策に就いての愚感﹄︵﹃下伊那郡青年会報﹄二号︶
︵16︶ ﹃伊賀良村史﹄ ︵一九七三年︶九二〇ページ
︵17︶ ﹃千代青年会史﹄一一四ページ
︵18︶ この一要因として福本主義の影響を考えねばならない︒﹃千代青年会史﹄ 一〇七ページの記述からは︑
福本主義の影響を読みとれるし︑福本主義の理論斗争一面化は︑誤りであったが︑理論への関心をひろ
めたと考えられるからである︒
︵19︶ 山野晴雄﹁伊那自由天学の成立と経過﹂︵自由大学研究会﹃伊那自由大学関係書簡﹄一九七三年所収︶=五ページ
︵20︶ 自由大学研究会前掲書 一四六〜九ページ︒一一六ページ参照︒
︵21︶ ﹃資本主義のからくり﹄﹃青年読本﹄﹃農村問題﹄﹃近代の恋愛観﹄等を読んでいたS氏は︑自由大学に
も参加している︒これらにどのような感想を持ったかは︑後にゆずりたい︒
︵22︶ 自由大学研究会前掲書 一一六ページ
︵23︶ ﹃千代青年会史﹄一六三ページ
︵24︶ 前掲書二四六ページによれば︑二日間にわたった坂本三善氏の講議は次のようなものである︒
第一日
イ︑資本主義の一般的危機ロ︑ソビエット同盟と資本主義国との関係ハ︑第三期とは二︑資本主義的生
産方法の矛盾
第二日
一︑日本資本主義の特徴
イ︑半封建的農業経営ロ︑高度の資本主義生産ハ︑軽工業の盛大一︑インフレ政策一︑植民地下資本投下
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又︑本庄陸男は︑﹁農本主義批判﹂と題しておこなった︒ イ︑資本主義支配下における農村 ロ︑封建時代の社会的地位における農村 ハ・現在農業恐慌におけ 3
る土地制度 二︑権堂正郷氏の農本主義について ホ︑封建時代より現代農民歴史について へ︑ソビ
エットロシアの農業形態について︑
︵25︶ 峰狂生﹁農村は詰らぬ﹂︵千代北部青年会教育部﹃若人の叫び﹄三号︑昭和七年一〇月︶この雑誌は・
原稿用紙をとじた回覧雑誌である︒
︵26︶ 白雲生﹁林で感じた事﹂︵前掲書︶
︵27︶ S生﹁農村の朝﹂︵前掲書︶
︵28︶ 吉沢昌人﹁残された一つの道﹂︵前掲書︶
︵29︶ 吉田﹁農村運動とモラリスアム﹂︵前掲書︶
︵30︶ 加盟二一ヶ村のうち︑上郷︑座光寺はすでにみたとうりである︒又川路︑市田︑松尾の各青年訓練所
は︑昭和五年には︑全国優良青年訓練所にあげられている︒︵今村良夫﹃全国優良青年訓練所﹄直日のむ
すび出版部︑昭和六年参照︶
︵31︶ 奥村卓美﹁現代社会に於ける青年団の役割と進むべき道﹂︵﹃郡青年会報﹄三号昭和六年一二月︶
︵32︶ ﹁下伊那郡青年会解消声明書﹂︵昭和七年一一月二〇日︶は︑﹁単なる地域的に総合組織に過ぎない・郡
青年会では今後の青年運動の押進める事は断じて不可能である已と述べている︒
︵33︶ 郡青年会﹁不況対策についての指令﹂︵昭和七年︶︵﹃郡代青年会史﹄一七〇ページ︶
︵34︶ 昭和五年︑郡青︑北部青壮連︑社民党支部︑労働党準備会︑伊賀良村民組合準備会︑山吹村農会によっ
て作られた下伊那電灯料値下期成同盟は︑統一戦線組織として大きな可能性を持っていたし︑昭和六年に
﹁此の運動は青年自身第一線に立つ事は絶対不可能である為此の運動を需要家自身の手に移さればなら
ない﹂という発想も生まれていたが︑これらは方針として一般化されずに終った︒
︵35︶ ﹁向後の青年会の進路はどうなるか﹂︵﹃郡青年会報﹄第二号︶
︵36︶ 例えば︑﹃沿革史下市田青年団﹄︵草稿︑昭和二一︑二年頃に書かれたと思われる︶には︑ ﹁青年思想
の変化と共に事業に於て往時の実業部も立消の状態を見るに到り大正=二年青年会組織の改革に依り実
業部廃止となり残余の事務は教育部に移されたり已と書かれている︒
︵37︶ 昭和六年の県議員選挙の際︑立候補者への質問状を提出したが︑その際﹁産業合理化問題並帝国主義
戦争問題の箇条を警察当局に依って削除されるに至った已︵﹃千代青年会史﹄一五九ページ︶のである︒
︵38︶ この文化倶楽部作りの契機となったのは︑昭和七年のプロレタリア科学研究所所員坂本三善の講演で
ある︒したがって﹁プロレタリア文化連盟﹂︵コップ︶の影響力があったと考えてよかろう︒
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