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1青年会自主化から産業組合青年連盟までー

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長野県下伊那郡旧千代村役場青年教育関係資料と解説

1青年会自主化から産業組合青年連盟までー

大  串  隆  吉

解    説

 は じ め に

 ここに紹介する資料は︑長野県下伊那郡旧千代村︵現在飯田市千代︶の村会議事録及び村会事件簿から青年教育

︵特に実業補習学校︑青年訓練所︑青年会︶に関係するものを収録したものである︒私は研究の進展に応じて︑ ﹁青

年訓練所反対運動の論理と実践︵二︶﹂及び︵三︶ ︵﹃人文学報﹄一〇七号︑一一三号︶で下伊那郡の青年会の動きに

ついて検討して来た︒前掲︵三︶でふれたように旧千代村青年会は︑下伊那郡下の青年会の中で︑青年会自主化以

来︑青年訓練所反対運動や自由大学の設立等︑社会運動や教育運動を最も息長く活発に続けていた︒と同時に千代村

は満州分村移民の村でもあった︒

 千代青年会の歴史は︑昭和八年までは青年会員の手によって﹃千代村青年会史﹄ ︵昭和九年︶としてまとめられて       ヨ おり︑その歴史を知る上で︑また当時の青年団幹部の水準を示すものとして一級の資料である︒また︑郡全体の青年 8

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会運動を包括的にまとめたものとして﹃下伊那郡青年運動史﹄ ︵国土社︑一九六〇︶があり︑この運動は研究の対象 4       8 としてもとりあげられている︒その研究については︑前掲論稿︵二︶︵三︶で若干論及しておいたのでくりかえさな

いが︑一言述べれば︑それらは主として自主化運動にしぼられており︑経済更生運動における青年会の動きについて

ふれられていなかったとみてよい︒

 ここで紹介する資料は︑千代村における経済更生運動下における青年会の動向の資料を若干含み︑﹃千代青年会史﹄

が青年会の側から述べているのに対し︑主として村政の側からの資料及び実業補習学校や青年訓練所の資料を収録し

てある︒なお︑大正七年から資料の紹介をはじめたのは︑千代青年会が会則を修正し︑副会長を会員の選挙によって

選出するようにし︑自主化の口火を切った年だからである︒

 千代村は︑飯田線の天竜峡駅の次︑千代駅から東に車で二︑三〇分入った山間の村である︒産業の中心は養蚕業で

あった︒大正十四年に養蚕による収入は︑米︑麦の収入の五倍に達し︵﹁長野県下伊那郡郡治要覧﹂大正十五年五

月︶︑千代館という製糸工場があった︒また︑下伊那郡全体がそうだったように大地主は存在しなかった︒ ﹃下伊那

における農地改革﹄によれば︑農地改革前一〇町歩以上の地主は郡全体に四二名いたが︑千代村にはおらず︑千代村

では一〇町歩以下の小地主が在村地主一二三人︑不在地主三七人いた︒村会議事録で青年会問題等で発言し︑リード

する大平氏が村最大の地主であった︒

 資料について補足しておくと︑村会事件簿は︑予算審議の村会︵例年二月︶に提出する前年の事務報告書である︒

例えば︑大正七年度村会事件簿は︑大正六年の記録から成る︵ただし補助金のある団体は当年度の予定表が入ってる

ことがある︶︒なお︑頁数の都合で割合した資料もあり︑人名も省いたところがある︒︵この資料を収集するにあたっ

て︑千代公民館主事吉村氏や千代支所の職員の方々にお世話になりました︒︶

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 千代村の実業補習学校は︑大正五年当時︿二ー一﹀にみられるように各部落毎に分室を設けていたが︑大正七年に

規程が改正され︑分室は統合されて千代小学校と千栄分教場の二つになった︒この統合にあたっては青年会の意見が

反映されく一−一∨︑この点は︑教育内容にまで及びく二ー三∨︑生徒の希望する講師を呼んで︑課外教育が活発に

おこなわれていた︒実業補習学校で青年の自主性を認めたのは︑大正二年に校長に就任した熊谷春次郎であったと思

われる︒彼は青年会長でもあり︑青年に対し﹁青年会の団結と自治心の涌養﹂を説き︑青年の間に青年会自主化の意       ︵1︶ 向を作り出すのに力があった︒

 熊谷は︑大正七年まで小学校長の職にあった︒その在職最後の年に示した同校の教育方針は︑村会の報告書に次の

ように書かれている︒

 教育方針ハ個性尊重主義教育精神教育トヲ重ジ又体育ニハ格段ノ注意ヲ払ピタリ又創造力思考力ヲ涌養セン為メニ

  理科教授二力ヲ注ギタリ

 ー︑教授上 自学補導的教授方針ヲトリタリ

 2︑訓練上 児童ガ自律的二全人格ヲ以テ正シキニ進︑ミ邪ヲ避ケテ習慣養成二努力シタリ

      ︵大正八年村会事件簿︶

 この教育方針は︑大正八年の村会で問題にされた︿一−二﹀︒ここでは︑後任の吉田校長が説明していて彼の個人

的意見も入っているが︑それによって当時の千代小学校教師の主張を知ることができる︒すなわち︑教科書について        5       へ       は︑修身に欠点が多いから副読本を使用し︑国定教科書の改造を主張していた︒教育方法では生徒の自発性を尊重し

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ていた︒また政治的には民本主義を支持していた︒ここには自由主義教育の影響をみてとれる︒当時下伊那郡視学

は︑人格主義を主張した﹁東西南北会﹂の会員であり︑千代近辺には後﹁気分教育の本拠なり﹂と攻撃された飯田小

学校があり︑又隣村の竜丘村小学校では︑木下紫水が自由画教育に精力的にとりくんでいた︒千代小学校の教育は︑

こうした自由主義教育の流れの中にあったが︑村会では臨時教育会議の答申に反するものとして問題にされると共に

幾つかの疑問が出された︒

 青年会は︑大正七年に自主化され︑十一年には南信電気株式会社に料金割引交渉をして社会的運動に進出しはじめ

た︒さらに大正十二年末には米川支会で会則改正がおこなわれ︑青年会の目的として﹁社会問題及実際運動を行ふ﹂

が加えられた︒大正十二年の村会では︑こうした青年会の動向が問題にされたく一−三∨︒

 問題のきっかけは青年会発行の文芸雑誌の巻頭言だったが︑青年会の性格をめぐる議論であり︑青年会が社会改造

団体であれば補助金を打切ることが言外ににおわされていた︒青年会文芸雑誌巻頭言は︑ここで説明されているとこ

ろからみると︑青年ー進歩︑老人11保守という青年世代論的傾向を持っていた︒この傾向は︑拙稿﹁青年訓練所反対

運動の論理と実践口﹂ ︵東京都立大学﹁人文学報﹂第一〇七号︶で述べたように下伊那郡青年会が自主化を主張する

論拠となっていたし︑それに強い影響力を持っていた自由青年連盟の主張だった︒

 青年会会長林国男は︑世代論的傾向に対し賛成出来ない旨述べているが︑林は自由青年連盟の会員だったことを考

えると︑どこまで彼の意志であったかは疑わしい︒また林は︑ひたすら青年会が修養団体であることを強調してい

る︒しかし︑青年会のその後の活動からいっても︑又当時青年会の考えていた修養と村会議員が考えている修養とは

ちがっていることからみて︑林会長の答弁はあきらかに村会むけの発言だった︒こうした説明の結果︑前年どおり二

五〇円の補助が認められている︒

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 大正から昭和にかけての青年会補助金は︑大正八年に五〇円だったものか︑九年に一〇〇円︑十二年に二五〇円︑

十三年には三〇〇円となり最高の金額となった︒その後大正十五年から昭和五年まで一五〇円︑昭和六年には七五

円︑昭和十二年には六五円となっている︒大正十二年当時︑補助金︵二五〇円︶は決算額の三〇%を占めており︑会

費収入が二七四円一〇銭だったから青年会財政の中で大きな比重をしめていたことがわかる︒したがって︑︿ニー四

∨の意見書が出されたのである︒

 ︿一1四Vは︑村立千代図書館の新設に伴なう館則制定の際の村会の記録である︒千代図書館は︑大正十三年に

﹁皇太子殿下御成婚記念事業﹂として作られたものであり︑それ以前は︑青年会によって運営されていた千代小学校

教員と青年会有志によって作られた﹁千代文庫﹂なるものがあった︒この文庫の本は︑村立図書館に一部移された︒

∧一ー一∨∧一ー三﹀で問題とされている﹁文庫﹂とはこの千代文庫のことで︑青年会め各支会で設けられており︑

拙稿﹁青年訓練所反対運動の論理と実践国﹂︵前掲︶で紹介したように青年会の独自の文庫として後まで残っている︒

 図書館館則は︑九条から成っているが︑その中心点は図書選定の方法であった︒図書選定は評議員会でおこない︑

一七名の評議員の内訳けは︑公民が五名︑学校教員三名︑青年会処女会九名となっていた︒館長は村長が兼ねた︒評議

員中過半数が青年会処女会員だったから︑図書選定に際し青年の意向に左右されるのではないかという危倶が出され

ているわけである︒大正十五年の村会で図書館館則は改正される︿一ー五﹀︒それは︑評議員会から青年の代表をな

くし︑それにかわって村吏員及名誉職五名をいれ都合八名となった︒その為︑青年は図書館運営に参加できなくなっ

た︒青年会は︑この改正に抗議行動をおこし︑千代青年会史にょれば﹁本年度秋季図書館評議員会には青年会側数名

参加せしめ来年度に於て之に対し充分の考慮を払う回答を得﹂ている︒         大正十三年の村会では︑図書館館則の制定と共に︑千代実業補習学校学則改正がおこなわれた︒この学則改正は︑ 8

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大正九年の実業補習学校規程の改正に伴なうのである︒この実補規程改正は︑明治三十五年に規程された実補規程が

職業教育と小学校の補習教育を目的としていたのに対し︑小学校卒業者に対し前期課程に小学校の補習の意味を持た

せながらも職業教育と共に公民教育を授けることを目的にした︒この改正にもとついて千代実業補習学校の規程も改

正されたわけだが︑これについての村会は一回で決まらず︑検討期間を設けた後二回目で決定されているく一ー四V︒

 村会で問題となった点は︑改正規程では前期課程で文部省の﹁実業補習学校学科課程二関スル付二付依命通牒﹂に

くらべ農業科目が少ない点にあった︒たしかに︑後者の時間数が修身を一とすれば国語四︑数学︵算術︶三︑農業二

に対し︑前者では各々一︑二︑三︑一となるから︑農業科目の比重は相対的に低くなっていた︒議員の質問に対し︑

校長は﹁招集教授﹂で代用すると答えたが︑学科表の備考欄には﹁実習及召集教授︵三十六時間︶二於テハ教材ヲ本

表学科及法制経済地歴理科体育運動社会時事問題等ノ中ヨリ選択シ学習若シクハ実習セシム﹂と書かれ農業は入って

なかったから︑村会は納得しなかった︒村会が農業科目の減少に関心を持ったのは︑勧業の点から農業科を重視して

いたからである︒大正六年来農会技術員が実補で教えていたし︑大正十三年二月の村会ではあらたに農業科専任教員

を採用することにしていた︒しかし︑二回目の村会ではこの点について正面から議論されず︑実補前期課程は小学校

の延長であるから基礎教育を重視することに一致し︑前期課程を﹁小学校教育の補充﹂とした改正実補規程の趣旨を

強くおしだすことになった︒その後︑農業教育が重視されて︑村会の要望は通っており︑実習地が作られ︑昭和八年

になると不況に対応する為であろうか︑副業教育が重視されている︒

 大正十四年の村会で校長は︑実補規程改正で生徒の希望をきいて科目や講師の選択をすることをあらためることを

言明している︿一1五﹀︒これは︑実補において公民教育が重視されたからであろう︒そして︑その後の実補の講話

や講習会の講師の顔ぶれをみると︑思想善専が重視されているのがわかり︑青年会の動きとは対立している︒

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 青年訓練所は︑大正十五年に出来たが︑村会ではほとんど問題にされずに決められている︿一ー七﹀︒青年訓練所

は︑訓練服の制定︵昭和二年︶︑擬銃の購入︵昭和四年︶︑合同訓練・合同演習の実施等しだいに整備されてくる︵ニ

ー五・六・七・八︶︒そして︑村会では出席良好でありく一−八∨︑郡では優良青年訓練所として表彰される候補に

のぼっていることが報告されている︿一ー一〇﹀︒

 しかし︑各年度の村会事件簿から作った青年訓練所生徒数︵表1︶では︑該当年令入所率と出度率はわからない

       ものの︑修了率は低いことがわかる︒昭和二年に入所した者は四年次になる

数 徒

所 生

鞠 糠

4 年

年 次

次 3

2 年

1 年

昭 1⊥  1  1      11  1  1⊥  1  1       0 と六〇%になり︑昭和三年から六年にかけては入所者の七〇〜八〇%になっ ているものの昭和七年には五〇%にしかならなくなっている︒ちなみに︑昭 和八年の壮丁人員は四四名で︑昭和八年の四年次生が一五名であるから壮丁 の半数位しか青年訓練所を修了しなかったことになる︒  このように︑青訓は青年にとって魅力のうすいものであった︒千代青年会 は大正十四年に青訓反対運動をおこない︑昭和二年初頭になってからは︑青 年会有志が︑ ﹁訓練所員︑補習学校生徒を以って︑補習学校の刷新︑訓練所       ︵2︶ 問題の改革︑研究を標傍し﹂て新生会を結成した︒昭和二年の村会での川手 議員の発言は︑この影響だとおもえる︒新生会は昭和三年には自然消滅し︑         後このような青訓に対する組織的運動はみられない︒しかし︑千代青年会8

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は︑青訓発足当時から郡下の幾つかの青年会が青訓援助を規約にいれたにもかかわらず︑昭和八年まで青訓援助を規

約に入れることはなかったのである︒

 青年訓練所が︑生徒の出席を良くする努力を本格的におこないはじめるのは︑青年会が青訓援助を規約に入れた昭

和九年以降である︒生徒を班にわけ共同責任観念を持たせるようにしたり︑青訓後援会を作り出席良好な者を表彰し

たりするのがそれである︿一1一五﹀︿二ー一二︑=二﹀︒このとりくみは︑同じ下伊那郡にあって青訓発足当初か

ら後援会を組織していた上郷村にくらべはるかに遅いし︑松尾村の訓練予科制度︑川路村の研究分団の試み︑下久堅

村の表彰制度が︑昭和五年頃出来ていたことにくらべても遅いのである︒

 昭和三年の村会では︑伊那自由大学千代支部が問題とされている︿一1九﹀︒この自由大学は︑昭和二年十月に伊

那自由大学の千代村支部として設立されたもので︑十一月には今川尚の経済学原論︵島岡潔氏によれば︑﹃資本論﹄︶

の講義がおこなわれている︒これは︑その規約にあるように青年会と密接な協力関係を持っていた︒また︑その﹁趣

旨書﹂では千代村の新しい建設の為に︑将来は村の産業計画を建られるよう系統的な社会科学の教育の必要性を力強

く訴えていた︒

 昭和三年の村会では︑ ﹁思想上適当ノ者ト認メラレルヤ﹂という質問に︑議長は危険思想とは必らずしも認められ

ないと答え︑校長は講師によって対応する他はないと述べている︒これらは︑下伊那郡自由大学千代支部の﹁趣旨

書﹂であらわれた限りのものは消極的にしろ容認していたことを示している︒そして︑その後高倉輝︑三木清が講師

として来ているが︑昭和四年の高倉輝の講義まで禁止をされたことはなかった︒ ︵参加した島岡太郎氏によれば︑高

倉輝の講義の際予定の米川公会堂が貸してもらえず︑会場を大郡の公会堂に移したが︑警察が来て無届けだといわれ

開けず︑一日目は旅館で座談会になったと言う︒したがって︑なんらかの妨害はあったと言ってよいだろう︒︶

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 他方︑青年会に対しては村当局から働きかけがおこなわれている︒村会では︑青年会と懇談した結果︑ ﹁実生活二

近キ講演講習会等ヲ各種団体ト合同シテ行フ予定﹂になったと報告されているく一−九∨︒たしかに︑昭和三年の千

代青年会の活動は昭和二年にくらべ変わっている︒昭和二年に青訓反対運動や活発な演説会︑研究会が持たれたにも

かかわらず︑千代青年会史の記述をみると︑三年には三・一五事件をきっかけとした郡青年会の混乱と教育活動の記

述に終わっている︒村会で報告された懇談会の内容はわからない︒ちなみに︑昭和二年と三年の講演会の題名と講師

をあげておこう︒

 昭和二年

  文学史       高倉 輝

  普通選挙法問題        小島利夫

  青年運動の諸問題       宮内盛表︵無産青年同盟常任委員︶

  社会進化の進展        寄田春雄

  人生生物学         山本宣治

 昭和三年

  産業組合について       北原一郎

  養蚕経営及び飼育法      皆川氏

  陪審法      萩本隼人

  禁酒について         旧第二師団長井上一次中将

  日本民族史      高倉 輝

  農政問題       高島一郎︵帝国農会︶

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 青年会のことが村会で再び問題になるのは︑昭和八年及び九年の村会であるく一i一三︑一四∨︒それは次のよう

な事情からであった︒昭和二年からはじまった不況は︑下伊那の主要産業だった養蚕業に大打撃を与え︑昭和五年に

いたって深刻下する︒村税滞納者が増加して村財政が窮迫し︑教員の給料から村への寄付が依頼︑決定され︑青年訓

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年年 612 正和 大昭    練所指導員が減らされる等︿一1=﹀している︒表2は︑大正六年と昭和十二年の農民の    階層戸数の変化であるが︑自小作層が減少し︑自作層が若干増え小作層が二倍以上に増加し ら 抽らている︒不況を経過した千袋村が激しく階層分化している.︑とを物語っている︒

鶯 元静かにな.た圭・年会は︑昭和五年から不況対策の運動を精力的に展開する︒電灯料値

鑓下げ運動を組織し︑青年会の研究演説会では不況にどう対応するかが主要関心となる・青

ぐエ  僻蠕 年団階級分化論が︑不況に際しての階層分化に伴って生じてくる︒昭和六年には︑郡青年会 7更 正済  として︑一︑村予算の大部分を占める教育費の節減︑二︑青年訓練所費の節減等を要求し 大経 灯灯 た︒こうした中で︑千代青年会の招へいする講師や演題は︑社会主義的な性格を帯び︑昭和

碑埠 六・七年の青年会の研究会では︑不況の原因を資本主義社会の矛盾にあると主張する発言が  ユ 蒜呈ち・;・この影響を受けた文化サークルづくり釜められる・このような千代村青

   の動きを︑ ﹁亡国的青年運動﹂と断じて毛呂窪︑東部両支会が昭和七年に脱会している︒

 昭和八.九年の村会における青年会問題は︑これらに対する問題であった︒ここで注目すべきことは︑青年会のこ

とが村会で常に補助金に関して議論されたように︑補助金が青年会を統制する手段につかわれていたこと︒昭和九年

の村会では︑青年会が村長に調停を申し入れたことがあきらかにされ︑ ﹁青年幹部モ非常二転向ノ気分ナリ﹂と村当

局がとらえていたことである︒

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 青年会が調停を依頼したことは︑大正中期以来形成されてきた自主的青年会が︑青年会自からの力では内部問題を

処理できない程対立が激しくなり︑村落青年団としての機能を果し得なくなったことを物語っている︒拙稿﹁青年訓

練所反対運動の論理と実践日﹂で︑昭和七年の北部支会の回覧雑誌を分析しておいたように︑青年の不況打開をめざ

す思想上の対立ははっきりとしてきた︒千代村青は︑青年会内部の理論討議︑研究の自由を保証しようとしてきたの

だが︑それも千代村青の行き方に反対する部分から容認されなくなってきたのである︒そして︑昭和八年の自主化十

五周年記念会を境として︑千代村青は農本主義的傾向を選択するに至るのである︒

 この﹁転向﹂の事情について千代青年会史は二つの点から述べている︒ひとつは︑ファシズムの進行である︒他の

ひとつは︑郡青解消にみられる青年会を階級化する動きの挫折である︒すなわち︑千代青年会のような進み方は容認

されず非合法化されざるを得ない︒青年会が村落青年会としての特色を維持しようとすれば︑他の道を選ばなければ

ならないということである︒千代青年会史は︑この点について﹁郡青第一主義に生きてきた村落青年団は此処に新ら

たなる出発を前にして村落青年団として︑分散せる村落青年大衆の合法的サークル組織として︑時事刻々進展する社

      ロ      ぼ        会状勢に副って文化活動の重要性を認識しより良く村落青年会独自の使命を果すべく︑より一層青年活動に総動員集

中化し青年団の健全なる発展を企画﹂︵一九五ページ︶と書いている︒︵傍点引用者︒なお﹁青年団階級化﹂論に内在

する問題については︑拙稿前掲論文でふれておいた︒︶

 これらの動きには県の青年団指導の影響もあった︒長野県連合青年団は︑大日本連合青年団の中で異端的な存在で

あった︒昭和二年来︑長野県連青は︑大日本連合青年団の大会で青年団自主化と官僚青年団打倒を訴えていた︒この

動きに対する県のとりくみについて︑当時県社会教育主事補であった山浦国久にょれば︑ ﹁県指導当局は︑県郡市の        ヨ 連合体に対しては︑その補助金を与へることと︑その内部指導とに例年努めてきたが︑努めれば努めるほど反発的で 9

(12)

ある現状に鑑み︑各単位団たる町村青年会指導に主力を注いでゐたが︑しかし上部組織及一般社会思想の反官的気分 4

       ︵3︶       9 の濃厚なることにおされて積極的指導を加へることが出来ずに来た﹂と述べている︒しかし︑県は昭和六年になると

県連青に対する補助金打切りを通告した︒信濃教育会でも青年団の指導について意志統一がおこなわれるのは︑昭和

六年になってからである︒それまでは︑三・一五事件や四・一六事件に際して青年の思想善導について校長会等で討

議されているが︑その原因を教師の質に求め︑青年への指導は︑教師による実業補習学校や青年訓練所を通じておこ

なおうとしていた︒

 昭和六年十二月の実業補習教育振興に関する代表意見発表会で︑守屋幹事は﹁汽車が暗いトソネルを出たように︑       ︵4︶ 教育者が明るい自信を以て青年教育に対して奪起しなければならない時が来た﹂と述べた︒昭和七年一月には県下小

学校長会で青年団指導について指示が出され︑さらに昭和八年になると︑青年会対策も本格化し︑二・一事件いわゆ

る長野県教員赤化事件で県は教員対策だけでなく︑ ﹁社会教育委員会の設置促進︑青年の思想傾向思想運動に留意す

ること﹂と青年指導を強調している︒千代村では︑教労運動に関係した教員は出なかった︿一i一五﹀が︑前記の動

向に対応したかのように村会で青年会が問題にされている︒県や信濃教育会の対策が︑どのように千代青年会に具体

的におこなわれたかはっきりしないが︑先述した脱退した二支会で﹁国民としての意識﹂という言葉が使われてい

て︑県の指導の影響が読みとれる︒ ︵山浦国久等によって作られた青年団再出発を働きかける組織﹁信友会﹂は︑

﹁国民的自覚の上に立つ﹂ことを青年団に要望した︒ ﹃長野県青年団発達史﹄二〇六ページ︶

満州移民問題が︑村会で問題となるのは昭和九年の村会であるく一ー一五∨︒一議員が提案したのがきっかけだ

(13)

が︑やりとりをみてみると移民は村会で共通理解になっていたように受けとれる︵実補では︑すでに昭和六年来︑移

民についての講演がおこなわれている︶︒昭和十一年には︑経済更生計画を作る為に経済更生基本調査が計画された

く一i一六∨︒この経済更生計画の帰結が分村移民だったが︑経済更生計画基本調査は︑ ﹁本県ノ経済更生基本調査

ノ指導方針二基キ﹂ ︵昭和十二年度村会事件簿︶とあるように︑長野県さらには政府の計画にそったものだった︒

 長野県は︑昭和七年来経済更生運動を組織していたが︑すでにその初期から満州移民が提案されていて︑経済更生

運動の一貫として移民も位置づけられ︑昭和十一年には満州信濃村建設計画が立てられた︒﹁満州信濃村建設趣意書﹂

には次のように書かれている︒

 ﹁日満両国ノ不可分関係ヲ濃厚ナラシメ︑東亜ノ平和ヲ確保スルト同時二我ガ国農村二於ケル思想的経済的重圧緩

 和ノ為︑必要欠クベカラザル満州移民事業ハ前後三回ノ戦役又ハ事変二関シ最大ノ犠牲ヲ払ヘル同胞ノ後ヲ受ケ広

 漠未開ノ鍬ヲ採ラシムル所以ニシテ実二我等民族ノ宿命デアルト共二我大和民族ノ発展デアル︒

 酬ツテ本県ノ実状ヲ見ルニハ山岳重畳トシテ耕地少ク︑今わ︑農村ヲ挙ゲテ更生二努メッツアリト難モ次三男ノ如キ

 ハ郷土二於テ分家独立スルコトスラ容易ナラザルノ窮状ニアリ之ガ打開ノ途ハ一二海外移植民事業ノ振興二侯タザ

 ルベカラズ﹂

 すなわち︑中国に強固な植民地を作る為であり︑同時に経済更生をする為という論理であった︒この論理は︑昭和

十年の市町村移植民係打合会にも貫かれていたし︿三i一∨︑昭和十三年の分村移民の事業計画書∧三⁝八﹀も同様

である︒したがって︑千代村の経済更生計画の結論はすでに決まっていたのである︒それは︑ ﹁農村窮乏の根本を科

学的に深く堀りさげることなく︑土地と人口との単純な非科学的な比較から農村更生の障害たる﹃土地飢餓﹄の﹃実

       ︵5︶      5 態﹄を描きだし︑農民に押しつけた﹂という面を持っていたのである︒      9

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 千代村満州分村移民規程が決定され︑正式に分村移民が決定したのは昭和十四年だが︑すでに前年五月十日の村会 6       9 で﹁満州分村計画樹立二関スル件其他先遣隊出発二関スル件﹂が決定されていた︒ ︵このいずれも村会議事録には報

告内容討議内容が書かれていない︶︒また︑三井報恩会への共拠金申請書︿三−八﹀のように正式に決定される以前

から分村移民は具体化されており︑村とは別個の力が働いていたと見うけられる︒

 しかし︑信濃村建設趣旨書が﹁国策﹂から説いているのに対して︑千代村の事業計画書く三−八Vは村の産業問題

から説きおこし︑ ﹁満州千代村分村建設並先遣隊派遣二関スル協議会開催通知﹂︿三1七﹀では﹁国策﹂には全くふ

れていない︒ここには︑県と村の分村移民の論理のズレー村では経済生活から考えるーがみうけられる︒村民の移民

参加には︑映写会等の様々な働きかけ︿三ー一〇﹀がされたのだが︑﹁貧困﹂ の問題にかかわる二三男問題が底流と

して存在した︒ある少年は次のように述べている︒

 ﹁私が渡満を決意したのは︑十四才の時でした︒母の働くお金で︑食べ暮らす家族七人のうち︑家に居た三人の兄

 弟は︑本当にまずしい生活に明け暮れていた︒土地や資産もない私は︑先遣隊の家族招致で︑年頃の友達が親と一        ︵6︶  緒に渡満するのに刺激され︑心に決めました﹂︒

 分村移民の実行には︿三−七﹀にみられるように︑様々な団体がかかわっているが︑その中から青年会と産業組合

青年連盟︵産青連︶を検討しておこう︒

 青年会が︑村の中で占める位置︑各種︑団体の中での比重は次第に低下していた︒すでにみたように︑それは補助

金の額にあらわれている︒各種団体の補助金を昭和二年︑七年︑十二年︑十四年と比較すると次のようになる︒

       二年     七年    十二年    十四年

 青年会      一五〇円    七五円    六五円    六五円

(15)

 女子青年会     五〇円    二五円    二五円    三〇円

婦人会       五〇円    二五円    二〇円    二〇円

 連合衛生組合    三〇円    二〇円    二〇円    二〇円

 農会       一〇〇円   二〇〇円   四三〇円   四三〇円

 軍人分会     一五〇円   一三五円   一二五円   一五〇円

 従軍記念会     ナシ     ニ五円    二〇円    二〇円

 尚武会       五〇円   一一五円    四三円    ナシ

 銃後奉公会     ナシ     ナシ     ナシ   三九八〇円

 木炭組合      ナシ     ナシ     ナシ     八〇円

 勤労奉仕班     ナシ     ナシ     ナシ    五一〇円

 商業組Aロ     ナシ     ナシ     ナシ     三〇円

青年会︑女子青年会の比重は低下しており︑特に青年会の補助金の削減は顕著である︒それに対し︑軍人会︑従後奉

公会の軍隊に関係ある団体と︑農会︑木炭組合︑商業組合の産業関係団体が︑各々全体として増額されている︒補助

金の増減をとってみても村政の重点がわかる︒それは︑満州移民の論理と同じく戦争と経済更生の二つの道であっ

た︒  青年会が︑補助金の削減︑青年会の地位の低下に対応したのが︑昭和十年の産業部新設であったくニー一二∨︒こ

れは︑青年会が経済更生運動を積極的に推進することを公けに表明したものであるが︑補助金に関しては増額されな        かった︒産業組合青年連盟は︑千代村では昭和十年に支部ができている︒︵﹃下伊那青年運動史﹄一二三ページ︶下伊 9

(16)

那郡に産青連が正式にできるのは昭和十年で︑長野県では昭和四年にできており︑昭和七年頃からしだいに町村単位

の産青連ができ青年会と競合するようになった︒又長野県当局も青年団の反体制的エネルギーを吸いあげる為︑産青

連に着目し︑昭和八年には下伊那郡青出身で長野県連青幹事長であった奥村卓美を︑産青連運動従事者として採用し

ている︒  千代村で︑青年会員の中から産青連をめざす動きがでてくるのは︑昭和十年に青年会内部にできた農事改良青年実

行班である︒昭和十年の﹁青年ニュース﹂二月号︵千代村青︑女子青年会編集︶で農事改良実行班について︑ ﹁社会

改革及農村経済確立は産業組合的農業経営及農家経営の革新にあるのみ﹂と産業組合の必要性をのべ︑その為には

﹁協同作業﹂と共に﹁農家小組合内を単位とする青年男女に依り組織的実行団体設置の必要性を痛感﹂したとしている︒

 長野県産青連は︑ ﹁産業組合運動は協同の精神と互助の組織とを基調として農村を資本主義の極桔の上より解放せ          ︵7︶ んとする運動であった﹂と性格づけ︑昭和九年の第五次県下大会では︑ ﹁経済更生計画の実現を期す﹂ことと共に

﹁独占資本の農村に及ぼす悪影響排除の為に必要とする運動をなす事﹂を決議している︒この決議の後者について言

えば︑流通過程における問題にしかすぎない面を持っていたし︑前者の点では︑ ﹁産業組合に依る統制経済の実現を

図る﹂ことを目的としており︑ ﹁産業組合主義の幻想﹂とも言えるものである︒

 ﹁産業組合主義の幻想﹂は︑千代村青年会について言えば︑すでに昭和八年の変化の際にみられる︒愛知県安城町

の視察目的として次のように述べられている︒

 ﹁近時農村の窮乏打破運動︑農村振興の声は喧しい議論の的である︒その何れもが根本的な対策と確信を持ち得な

 い青年の現状であり︑農村窮乏が農村の反封建的農業形態にして︑小商品者の農業形態の生産様式で︑資本主義の

 流通経済渦中に奔弄される処にあり︑其の小商品生産者としての農産物が何時も工業生産価格と不均衡な処に存在

98

(17)

 する︒併せて諸税諸係の農民の負担は︑農業生産様式の改革といふ問題に迄到達せしめる余裕の無い現状に青年と

 して⁝⁝積極的に現状社会の産業部面に奪闘しなければならない︒それらを発揚させる為に︑先進地の視察等を享       ︵8︶  受させんと今回の挙を日本のデンマークの称ある愛知県安城の農村施設にとつた︒﹂

ここで述べられていることは︑農村の窮乏をいわゆる鋏状価格に求めている点で︑先の長野県連青と方針と同じであ

った︒そして︑それを解決する為に産業部面に進出し︑安城町を参考にする点で産業組合運動につながる発想であっ

た︒  さらに︑この論理では農民を資本主義社会における小商品生産者と考えているから︑自作農を農民の典型として考

えることになる︒昭和十年になって青年会が経済更生を担うのに描いた農民像は︑三力年︑五力年の経営計画をたて

記帳をおこない︑ ﹁収支のつぐなわぬ点は反省し︑検討し︑研究改良をして行く﹂︑そして農閉期には副業をする農

民であった︒これはあきらかに︑自作ないし自小作層を基盤にした農民像であった︒

 注

 ︵1︶ ﹃下伊那青年運動史﹄ ︵国土社︑一九六〇︶四一ページ

 ︵2︶ ﹃千代青年会史﹄一=ニページ

 ︵3︶ 山浦国久﹃長野県青年団発達史﹄ ︵信濃毎日新聞社︑昭和八年︶一七ニページ

 ︵4︶ ﹁実業補習教育振興に関する意見発表記事﹂ ︵﹃信濃教育﹄昭和六年十二月号︶

 ︵5︶ 抽木駿一﹁農村経済更生計画と分村移民の展開過程﹂ ︵満州移民研究会﹃日本帝国主義下の満州移民﹄竜渓書舎︑一九七

   六年︑二九七ページ︶

 ︵6︶ ﹃平和への願い千代村開拓団の記録﹄昭和五十二年︑=孟ぺージ

 ︵7︶ ﹁長野県産業組合青年連盟︑産青連使命達成に関する具体的方策﹂︵西尾愛治﹃産青連の活動事例﹄成美堂出版︑昭和十年

   一ご〇八ページ︶       9  ︵8︶ ﹃千代青年会史﹄二〇四ページ      9

(18)

       む 村会議事録の部      −o

一ー一 大正七年村会会議録 二月二十六日

 一番﹇萩一兀君:::圭目年会ノ補助ノ説明ヲ求ム

 番外熊谷校長 青年会補助七十円ハ青年会ノ原案ニテハ講話会ノ講師ト茶話会費ト文庫ノ書籍書入レト旅行費補助

ト郡ノ体育会出席者費用ト代議員出張費トシテ総計百五十円五十銭要請ス依テ会員ヨリ八十四円ヲ徴収シテ其ノ残七

十円ノ補助ヲロケソトスルモノナリト云ウ

 十二番大平君 文庫ノ買入ノ書籍ノ種類及ビ之ガ活用方法ヲ問ウ

 番外熊谷校長 文庫ノ書籍買入ハ支会長会議ニテ定メ買入レルモノナルガ伝記ガ多ク歴史其ノ他法律経済農業精神

修養等ノモノヲ多ク買入レルモノニテ交換読書ニハ支会長ノ会ノ節交換シテ之ガ活用二務メツッアリ

    同三月二十八日

 一︑村立千代実業補習学校学則改正ノ件

議長ハ議案ヲ配布シ番外ヲシテ之ヲ朗読セシメタル後提出ノ理由ヲ説明シテ日ク

実業補習教育ヲ各分教室ニテ分レテ教授シ来リシヲ千代学校一二同ヲ集メテ教授シ分教室ハ千栄分教場一ケ所トス

ルモノニシテ之ハ良キ方法ナルガ生徒ノ出席ノ如何ヲ顧ミ︑去ルロ日青年ノ各支会長ヲ役場内二会合シロロヨリ懇談

シタルニ各支会長共一ケ所教授二賛成シ尽力スル旨申サレタルニヨリ大正七年度二於テハ学則ヲ変更実行方通常村会

ノ時ニモ各員二御希望アリ本案ヲ提出シタルモノナリ

(19)

一1一一大正八年村会会議録

 十二番議員

 日 学事上ノ事務報告ニヨリ教育ノ方針ハ個性尊重主義ノ教育ヲ重ソジテ授教スル迫ナルガ之ノ個性尊重ハ所謂近

来ノ流行語タル民本主義ニアラザルヤマタ個性尊重主義ハ教育勅語二基クモノナルヤ否ヤ

 ⇔ 教育上二於テ自学補導的方針ハ新聞紙上二云ウ気分教育主義ニハアラザルヤ 幼少ナル児童二自学ヲ重ズルハ

何ノ自覚モナキ者二対シ平等二教育ヲ進ムルコトニ遺憾ナキカ児童二対シテハ誘導的注入的教授ヲ取ルヲ良法ト思料

セラルルガ自学補導的ノ勝レル理由ヲ問フ

 日 個性尊重主義ハ臨時教育会二於テ審議決定セラレタル﹁国体ノ本義ヲ明徴ニシ之ヲ中外二顕彰スルコト﹂ノ教

育方針ト矛盾セルルヤト質問ス

 学務委員校長吉田一郎君発言ヲ求メ答弁セントテ説明シテ日ク

 一︑問二就キテ教育ハ凡テ教育勅語二基クハ勿論ニシテ之ノ個性尊重主義ト云フハ金属ニテモ金銀銅鉄ト各個性ヲ

異ニスル如ク植物二於テモ梅桜松等ト果物二付テモ茄子西瓜等個々ノ性格ヲ異ニスルト等シク人類ト云ウモ之二共通

ノ性アリ依テ鉄ハ金ニナラザル如ク銀ハ銅トナラザル如ク梅ハ桜トナラザル如ク人ト云ウ共通ノ上二個性ヲ有ス故二

人間ノ天分ヲ見出シテ向フベキ方向ヲ見出シテハ教育スル方針ナリ 又民本主義ハ欧州ノ主義ノ如キ危険思想ノモノ

ニアラズ我々ノ民本主義ハ帝国ヲ基トスル民本主義ナリ

 六番議員

 個性尊重ハ個性二余リ重キヲ置ク中ハ普通小学教育ニハ適セズト思料セラルロノ理想二走リ個性ニノ︑ミ重キヲ置キ ー       10 放任二赴ク事ナキヤ規律秩序ヲ失フ事ナキヤ

(20)

吉田校長       02  規律ヲ重ンゼザル様ニナル事ナシト云ウ⁝・:      1

 五番議員       ママ  校長君ノ答弁セラルルコト実際ト違フコト多シト思料セラル只今ノ教育方大二放任二ロミ置カルルト聞キタリスル

ガ如何ト問フ

 吉田校長        ママ  決シテ放任的ニアラズ自張シテ行ヒマタ行ハシムルモノニシテ人類ト云フモノハ人道主義ニヨリテ帝国主義二重キ

ヲ置キ自分ハ日本ノ教育勅語二基キテ教育スルニ相違ナシト云ウ⁝⁝

 五番議員

 学校二於テハ教科書ヲ本ロトセザルヤヲ問フ

 吉田校長

 教科書中就中修身ノ教科書ハ欠点ガ多キト云フ故重キヲ置カズ伝記等ヲ附ケ加エテ教授スルモノナリト答フ

 五番議員

 国定教科書ハ尊重スルモノニシテ之ヲ基トシテ教育セラルルヲ至当ト思料スト述ブ

 吉田校長

 国定教科書ハ欠点アル故民意二適フ教科書ヲ作製スルヲ良トスルモノナルガ之ハ簡単ナル事二行カザルコトト思フ

ト述ブ  五番議員

(21)

 個々ノ御説明二依ル件ハ児童二対シテモ出来ル上成績ノ生徒ニハ多ク行ヒ不出来ノ生徒ニハ打チ捨テ置クト云ウモ

ノトハナラザルヤト問フ

吉田校長  良キ成績ノ生徒ニハ問題ヲ多ク科シ不成績ノモノニハ程度ヲ低クスルト云ウ様ニスルモノナリト答フ マタ

 第二間 自学補導的ハ日本ノ教育方針ナリ 之ノ方法ハ成ルベク多ク生徒二考ヘセシモルモノニシテ苦心セシメテ

出来ナイ事ぺ補フ的ニシテ注入ヲ先ニスルハ自ラ考ヘルカヲ失フモノニテ之ヲロクベキ開発教授ノテ自学補習的ト云

ウ人アリ之ハ直二注入セザル方針ナリ自カラ進デ習フ考ヘテハマタ習フモノナリ

 第三問ハ国体ノ本義ト矛盾スルモノニアラザルナリ

 自分ハ村長サンニ対シテ事務報告ヲ提出シタルモノナリ正シカラザルモノハ考ヘヲナヲス旨ヲ答フ

一−三 大正十二年村会会議録 十二月二十五日

 参番大平君ハ発言ヲ需メ村当局ハ青年会ヲ修養団体ト見テカ社会改造団体ト見テカ何者ノ如キ団体トスレバ補助費

ノ出所二付主違セリ村当局ノ所見如何

 議長ハ青年会ハ修養団体ト認メ補助セントスル旨ヲ述ブ

 大平君ハ更二前年度二青年会補助二百円軍人会補助百円ナトシガ本年特二青年会補助五十円増額計上ノ理由二付質

依頼シ講演会ヲ開ク事二決定シ居クタルヲ以テ右費用中ヨリ約五十余円ヲ支出シ居リ本年度ハ民力酒養費モ減額シア       10  議長ハ前年度二青年会補助ハニ百円ナリシモ前年度予算議決ノ際民力涌養費中ヨリ講師等ハ青年会ト村ト合同シテ 3 問

(22)

リ大体二於テ青年会補助ハ前年度事業ヨリ増額ヲ要スルモノハ講習会ヲ開催スル趣ニテ其講習二経済学ヲ開催スル由       04 ナルモ講師ノ招聰等二付テハ其方法ニョリ予算額ノ支出ヲ要セザル見込アリ一般緊縮方針ノ際ナルヲ以テ青年会補助 ー

モ最初村へ申請額ハ三百五十円軍人会ハニ百円ヲ申請シ来タルモ村財政ノ状態各種団体ノ事業等モ調査ノ上本年度補

助額ハ前年度全額ヲ計上シタル旨ヲ述べ

 萩元君ハ前年度予算議決ノ際文庫購入ノ事ハ村当局ト共二協議ノ上実施ヲ希望シ置キタリ其レガ実行方法二付質問

 議長ハ文庫購入ノ場合及講演会開催等二際シテハ村当局ト協議ノ上実施シ居ル旨ヲ述ブ

 萩元君四月十日発行ノ雑誌ハ内容ヲ見タルカ議長ハ文芸的ノモノデナク会報ヲ見タル旨ヲ述ブ

 大平君ハ議長ハ会報ノ内容ヲ見タル由ナルガ其内容二於テ修養団体ト認メタルヤ

 議長ハ其内容ノ一部ニハ多少考慮ヲ要スルモノアルモ其全体二於テハ修養団体ト認ムル事ヲ得ル旨ヲ述ブ

 村松君ハ発言ヲ需メ青年役員諸氏多数来場二付青年会発行文芸雑誌巻頭言二付一般青年役員諸氏ノ意志ヲ聴取スル

ノ可ナル旨ヲ述ブルヤ賛成多数二議長ハ一時休憩ヲ告ゲ懇談ヲナス

 懇談要巳日次ノ如シ

 楯議長ハ青年会長林国男氏二対シ文芸雑誌巻頭言二付会長ノ意見ヲ問フ

 林会長ハ巻頭言ハ雑誌編纂二際シ会員中巻頭言希望者アリ其者一二任シ置キ雑誌発行ヲ飯田町へ出張印刷ヲ依来

多種ノ為内容等充分研究ヲナス時日ナカリシ旨ヲ述べ随テ巻頭言ハ青年会員全部ノ意志ニヨルナキヲ述ブ

 大平君ハ会長トシテ巻頭言二対スル意見ヲ問フ

 林会長ハ文面中古老者云々トアルモ具等二対シテハ賛意ヲ表スル事能ハズ老人ハ村内ノ先輩者デアリ先覚者指導者

ナルヲ以テ吾々ハ尤モ尊敬スベキモノナリト認ム

(23)

 萩元君ハ青年会ハ修養団体ト認ムルハ村長ノ意見ノ通ナルモ社会的思想団体ノ如キ行動ナキカ

 会長ハ勿論修養団体ニシテ講演会トシテモ成ル可キ広キ方面一二旦リ最近二於テ講師トシテ山田阿水蒲中島ノ如キヲ

依来シ一般青年会員ノ考エヲ堅実ナラシメ其後社会方面二活動スルノ考ナリ

 林義男君ハ文庫ノ購入二付テハ幹部ノミニテ比較的程度高キ書籍ノ︑・︑購入スル如キ説アリ如何

 林会長ハ一般青年会員ノ学力程度等ヲ考慮シ各種ノ書籍ヲ購入スル旨ヲ述ブ

 更二大平君ハ物質主義精神主義二付力説スル処アリタリ

 休憩中清水会長ハ極力二百円補助セラレタキ旨ヲ陳状スル処アリタルモ萩元君ハ軍人会予算ヲ見ルト射撃費二大部

分ノ支出ヲナシ居ルヲ具等二対シ村二於テ補助スル事ハ不可能ナル旨ヲ述ブルヤ清水会長ハ軍備縮小ニョリ在郷軍人

ノ責任ハ一層重且大ナルヲ要シ職務上射撃ノ必要ナル所以ヲ力説ス

一−四 大正十三年村会会議録 十月二十日

第三 実業補習学校学則改正ノ件

前略ー  七番村松君ハ修業年限学年ヲ四ケ年トナスモノナルヤ

議長ハ今回ノ改正案ニヨレバ高等科ハ年限ヲ定メズ講座制トナリ居ル旨ヲ述ブ

議長ハ省令規程ヲ朗読シ説明ヲナス        ママ 大平君ハ教科書ハ一定ノ者出来居ルヤ       5       10 議長ハ学校長選定シ許可ヲ受クル事トナリ居ル旨ヲ述ブ

(24)

      06  番外中田校長ハ修身一トスレバ農業二国語三数学四トナリ居ルモ本村案ニヨレバ農業ハ勘ナキモ其代リ招集教授ヲ ー

以テ代用シタキ旨ヲ述ブ

 八番萩元君ハ備考ニヨレバ農業ヲ減ジアルガ如何

 中田番外ハ農業ハ勿論加入シ其他ノ学科目ヲ記載シタル旨ヲ答フ

 三番大平君ハ番外ノ説明ニヨレバ農業教授時数少ナキヲ招集教授ヲ以テ補ヲ趣ナルモ前期二於テ充分基礎ヲ堅メル

ノ要アルヲ以テ農業時間増加ノ必要アル旨ヲ力説シ本案ヲ充分研究シテ決定スルノ要アルヲ以テ本日決定セズ更二会

合協議決定スルノ可ナル旨ヲ述ブ

 ︵研究の上決定することになり継続審議となる︶

 議案第四号村立千代図書館々則制定ノ件

 議長ハ右議案ヲ配付朗読セシメタル後提案理由ヲ説明ス 本件ハ千栄分教場二分館ヲ設ケントスルモノニテ事実本

村ノ如キ遠障ノ地ニテハ図書ノ閲覧期間二日間位ニテハ閲覧至難ニシテ尚分教場図書ヲ図書館二移管シタルモ本館ヘ

ハ合併不可能ニシテ尚本館分館間書籍ノ運搬ハ分館部落青年ニテ行ハル事ニナリ是ヲ以テ分館設置ノ費用トシテハ差

シ当リ事務員一名増エルヲ以テ具レガ手当ノ増額ヲ要スルモノナル旨ヲ述ブ

 三番大平君評議員ノ選出方法二付質問

 議長ハ当初公民中ヨリ五名学校ヨリ一名青年会処女会ヨリ九名ナリシモ学校ヨリハ分教場主任本校主任訓導ヲ評議

員トナス予定ナル旨ヲ述ブ

 三番大平君ハ図書購入等ヲ評議員会二於テ決メル場合公民側ノ評議員少ナキ為支障ナキヤヲ問フ

(25)

 議長ハ実際二於テハ村ヨリ費用ヲ支出スル者ナルヲ以テロニ多数ナルノ故ヲ以テ決定スルガ事ナク館長同意セザル

場合ハ実行出来ザルヲ以テ支障ナキ旨ヲ答フ

    同      十一月六日

 一︑実業補習学校学則ヲ定ムル件

 議長ハ⁝⁝去ル十月二十日ノ村会二於テ飯田町二開カルル実業補習教育振興二関スル協議会二出席シ協議研究シタ

ル後決定スル事ニナリ居リ協議会ニハ学校ヨリ多数出席セラレ又本村学務委員中ヨリモ林義男君竹下栄太良君出席セ

ラレタルヲ以テ夫レ等ノ諸君二対シ模様ヲ報告セラレタキ旨ヲ述ブ

 番外中田校長ハ⁝⁝学校トシテハ協議会後職員中ニテ協議研究シタルモ時間割ハ先般ノ学則二依ルヲ適当ト認メ教

育上尋卒者二対シテハ基礎教育タル普通学科ヲ多カラシムル必要アルヲ以テ原案ヲ適当トスル旨ヲ述ブ

 十二番林義男君ハ協議会二学務委員トシテ出席シタル旨ヲ述べ⁝⁝或ル人ハ補習学校ハ小学校ノ延長ヲ以テ小学校

二併設スルノ可ナル旨ヲ述ベラレタルモ本委員ハ後説ノ如ク小学校ノ延長トシテ経営スルヲ適当ト認ムルモノニシテ

本村ノ如キ山間部二於テ数ケ村ヲ統一経営スルガ如キ至難ナルモノト認ムルヲ以テ小学校二併設スルヲ以テ得策ト信

ジ時間割ノ如キモ学校二於テ充分研究シテ立案セラレタル趣ナルヲ以テ原案二賛成ナル旨ヲ述べ尚西田先生ノ説ヲ聞

クヲ徒ラニ形式ヲ造ルヲ可トセズ当局ノ熱アルモノモ尤モ必要トスル旨述ベラレタリ依ツテ本村トシテモ現今議題ト

ナリ居ル専任教員ノ如キモ前説ノ如ク小学教員ノ延長ナルヲ以テ一人ノ専任教員ヲ置クヨリハ小学校先生ニヨルヲ可

ト認ムルヲ述ブ楯議長ハ⁝⁝学校当局者ノ意見トシテハ実業補習学校ハ小学校教育ノ延長ナルヲ以テ小学校教員ハ熱 7       10 情ヲ以テ実補教育二当ル旨ヲ述べ⁝⁝

(26)

一ー五 大正十四年村会会議録 大正十四年二月二十三日        08  三番大平君ハ実業補習教育改善二力ヲ尽クシタル旨今村君ノ説明ナルガカヲ尽サントスル要点二付質問     −

今後訓導ハ予算面二於テ著シキ変動ヲ来シタルハ教授嘱託等二於テ増額ヲ来シタル点ニテ実業補習学校ノ農業専任

ノ教員ヲ置キ更二教科専任ノ教員ヲ置キ小学校教員ト兼務セシメ更一二名ノ農業教員ヲ嘱託シ補習生徒ヲシテ実習地

ヲ経営セシメ之ガ指導ノ任二当ラシメントスル考ナル旨ヲ述ブ

 中田校長来場シ居リ説明ヲナス

 ・⁝−学校当局トシテハ昨年改正シタル補習学校学則ニョリ徒ラニ生徒ノ希望ノミヲ採用セズ相当考慮シ科目ノ選択

及人選ヲナス考ナル旨ヲ述ブ

 八番萩元君予算ニアル専任給九十円二付質問

番外今村君ハ実業補習学校専任ナル旨ヲ答フ

 九番松島君ハ月手当五円二付質問

 番外今村君ハ補習教員二実習地ヲ指導管理セシムルヲ以テ小学校教員二嘱託セシムルヲ以テ小学校教員二嘱託セシ

ムル者ノ手当ナル旨ヲ答フ

 番外今村君ハ実習地経営方法二付説明ス

 補習生徒ヲシテ単二学科ノ︑・・二限ラズ実学ノ人タラシムベク実習地ヲ設置セシメ生徒ヲシテ一日一様ノ仕事ヲナサ

シムルベク桑園水田疏菜等二付実習ヲナス予定ニテ第一年ハ桑植付等ノ為約十五円位ノ損失ヲ見越シニ個所位ヲ設置

シ漸次各部落へ設置セソトスル考ナル旨ヲ述ブ 経営方針ハ生徒ヲシテ実習地ヲ経済的二経営セシメル方針ナル旨ヲ

(27)

述ブ  番外川手学務委員ハ本件ハ有意義ナル催シニテ現今ノ青年ハ一般二議論ノ︑ミ発達シ土二親シムノ美風勘キ感アルヲ

以テ実地指導ヲナシ経営セシムルハ頗ス時宜二適シタル施設ナルヲ以テ具レガ実行ヲ期セラレタキ旨ヲ述ブ

一−六 大正十五年村会会議録 二月二十五日

 十番大平君講習講演会二付質問

 議長ハ前年ハ民力滴養費トシテ各種ノ講演等ヲナシタルガ本年度モ同様思想善尋勤倹奨励等ヲロロロ講演会ヲナス

予定ナル旨ヲ述ブ

 十番大平君ハ青年会軍人会等ニモ夫レ々講習講演会費等ノ計上アリ単独二開催スルヨリハ夫レ等ヲ統一シ村主催ニ

テ実施スルヲ得策ト認ムヲ巳日ヲ述ブ

 議長ハ青年会モ前年度ノ役員改選ニョリ大イニ面目ヲ一新シタルモノノ如ク講演講習会ヲナス村会モ村当局ト協議

シ講師等ノ選定二付テモ村当局ト打合セノ上実施スル事トナリ居ル旨ヲ述ブ

    同三月三十一日

 議案第六号 千代村図書館々則改正ノ件

 議長ハ右議案ヲ配布朗読セシメタル後提案ノ理由ヲ説明ス千代図書館々則ニョリ評議員数ハ十八名トナリ居リ青年        ママ 会処女会等ヨリ多数ノ評議員ヲ出シ居リタルモ評議員ハ他ヨリ選出シ置クヲ可トシ青年会処女会等ハ希望書籍ヲ呼出 9       10 ヲナサシメ評議員会二於テ選定スル考ニテ八名ヲ減員セソトスル者ナル旨ヲ述ブ

(28)

一ー七同  六月二十八日        10  一︑青年訓練所規程制定ノ件       −

 本件ハ本年中二決議ヲナシ七月一日ヨリ開所セントスル考ナル旨ヲ述べ本件ハ本年四月勅令第七十一号ヲ以テ青年

訓練所令ノ発布アリ

 更二文部省令ニテ規程ノ公布ヲ見更二文部省訓令ヲ実施上二付詳細ナル指示アリ且ツ監督官庁ヨリモ設置方ノ指示

アリタルヲ以テ去ル六月二十二日学務委員学校軍人分会青年会役員ヲ招集協議ヲ遂ゲ更二具レガ主旨ノ徹底ヲ図ル為

別紙ノ如キ印刷物ヲ村内各戸二配布シタリ

 尚本件ハ新規ノ施設ナルヲ以テ過般竜江村二於テ附近数ケ村ノ村長学校長ノ合同協議会ヲ開催シ準則ニョリ大体方

針ヲ決定シ夫レヨリ更二各村二適当ナル規程ヲ制定スル事トナリ本村トシテハ前述ノ如ク学校軍人会青年会ト協議シ

本案ノ如キ規程ヲ制定シ実施セソトスル考ナル旨ヲ述ブ

 ︵第一読会終了 小審議会で審議 可決︶

一ー八 千代村会議事録 昭和二年二月二十五・二十六日

 第六款実業補習学校費増額ノ主ナル理由ハ専任教員一名ヲ増額シ農会事務ヲ兼務セシムル方針ニシテ是レガ相当増

額シタリ其他ハ大体前年通リニシテ需要費中消耗品中へ木炭ヲ計上シ雑費ハ実習地費前年八百円ナリシガ収益関係等

ヲ勘酌シ設置後一年目二十五円二年十五円三年十円トナス事学務委員会二於テ決定シ第七款青年訓練所費ハ昨年新設

シタル者ニテ其当時二於テ附近各村ハ打合セノ上予算ヲ編成シタルモ実施後ノ経験ヨリ多少増額ノ必要ヲ認メ主事年

手当指導導員手当旅費講習手当ヲ計上シ講習会等ニハ努メテ出席ヲ希望スル考ナリ需要費ノ額ハ先般御協議ヲ乞イタ

(29)

ル訓練所服ノ計上木炭等ナル旨ヲ述ブ 第八款図書館費中図書購入ハ小学校ノ分ハ前日朗読シタシ処ナルモ一般購読

ノ分ニコノ百円ヲ増額シ尚電燈料ヲ計上セリ  ー中略−

 実業補習学校費ハ専任教員給ヲ除キ大体前年通リヲ計上シ青年訓練所ノ費用ヤ増額シタルモノハ手当ニシテ指導員

モ本年ハ三十日位ノ出勤アル筈ニシテ前年ハ中途ヨリ設置シタルモ本年ハ通年ニシテ一人二対シ十円宛増額シ旅費講

習手当等ハ新施設ニシテ度々集合協議会アリ尚講習会等ニハ努メテ出席ヲ乞フ事トシ新シク少額ヲ計上シ備品費ハ他

村トシテハ相当多額ヲ支出シ居ルモ本村トシテハ少額ニシテ消耗品中ニハ木炭ヲ計上シ雑費中ニハ講話会費ヲ計上シ

適当ナル講師ヲ依頼シ講話ヲ乞フ考ニテ被服費ハ先般ノ協議二基キ服装統一上必要ト認メ指導員ト協議ノ上計上シタ

リ青年訓練所出席ハ相当ナル成績ニシテ九十人余ノ出席アリ実業補習モ男子六十人女子七十人位宛ノ出席アリ相当ノ

成続ヲ挙ゲ居ル旨ヲ述べ以上ノ方針二基キ編成シタルモ政府二於テモ財政緊縮ヲ唱へ乍ラ予算額ノ増額スル如ク本村

トシテモ学級増加手工新設等ノ為増額シタル旨ヲ説明ス  ー中略−

 五番林君ハ図書購入ノ件二付昨年評議員会ノ際購入図書二付適当ナラザルモノアリ且ッ館長不在ナルヲ以テ館長ト

協議ノ上更二協議ノ上購入スル事トナリ居リタルモ其後何等ノ通知ナキガ購入図書二付テハ如何ニナリ居ルヤ聞ク

議長ハ先般評議員会ヲ開キ決定シタル旨ヲ答フ 八番川手君ハ青年訓練所費ハ前年ヨリ増額シ居ルガ前年来所員ヨリ

種々ナル風評ヲ聞クガ増額必要アルヤ 議長ハ附近各村ニテモ相当支出シ居リ増額ノ必要ナル旨ヲ答フ

 八番川手君ハ更二訓練服ハ百人トナリ居ルモ百人ノ希望者アルヤ答フ       ー       11  議長ハ少シク減ズルモ大差ナキ旨ヲ答フ

(30)

一−九 昭和三年度村会議事録 昭和一一一年二月十七日        12  九番林君ハ前年青年等ノ開催セル自由大学ハ思想上適当ノ者ト認ムルヤヲ問フ      ー

議長ハ必ズシモ危険思想ニシテ不可ナル者トハ認メザル旨ヲ答フ 更二金田校長ハ講師ニヨリ可不可アリ講師ニョ

リ其都度考慮スルノ外ナキ旨ヲ答フ

 八番川手君ハ青年会補助ハ前年来問題トナリ居リタル予算ハ前年度同額ヲ計上シアリ其ノ理由ヲ問フ

 議長ハ青年会補助二関シテハ去ルニ月一日懇談ヲ遂ゲ本年ハ実生活二近キ講演講習会等ヲ各種団体ト合同シテ行フ

予定ニテ予算成立後各種団体合同シ実際的ノ事業ヲ行フ事トナリ居ル旨ヲ答フ

.一1一〇 昭和五年度村会会議録 昭和五年二月二十五日

 ︵予算説明︶実業補習学校費ハ四十三円ノ増額ナルモ前年度当初予算二比スレバ四十七円ノ減額ニシテ専任教員給

ノ増加ハ裁縫教員給料二名分ヲ前年手当ヨリ支給シタルヲ専任教員給二組替ヘタル為二増額シ其他ハ何レモ減額シ居

リ青年訓練所費二於テハ五百三十円ヲ減額シタルモ減額ノ主ナル者ハ備品擬銃ヲ前年度ハ・︒貝入レタルモ本年度ハ他ノ

備品ヲ少額購入ヲナス予定二付減額シ雑費二於テハ軍隊見学等ノ為増額シタル旨ヲ説明ス

十一番川手君実業補習学校費ハ相当多額ノ経費ヲ支出シ居ルガ生徒ノ出席状況二付質問

番外金田君ハ実業補修学校生徒ノ出席状態ハ相当良好ニシテ本校六十人分教場三十人位宛出席シ居リ郡内ニテモ良

ノ部ナル旨ヲ答フ

(31)

 更二青年訓練所二於テモ日々出席生徒数六十人以上ニシテ郡下二於テモ優良ノ部ニシテ昨年松尾川路等表彰ヲ受ケ

タルモ本村モ最近二於テ表彰ヲ受クベキ候補者トナリ居ル旨ヲ答フ

 十二番大平君補習学校ト青年訓練所ト合併スルノ可否二付校長ノ意見ヲ問フ

 番外金田校長ハ本郡下二於テモ合同シ居ルモノアルモ成績ハ不良ニシテ各別ニアルヲ可ト認ムル旨ヲ述べ信濃教育

会ノ方針トシテモ各別二行フヲ可トスル事二決定シ居ル旨ヲ答フ

一ー一一 昭和六年度村会会議録 昭和六年二月二十五日

 ︵予算基本方針ノ説明︶村長ハ昭和六年度予算案並二関係諸議案事務報告書並二財産表ヲ提出スル旨ヲ述べ予算編

成ノ大体方針二付説明ス 昨年来未曽有ノ財界不況二際会シ予算編成二際シテハ勘カラズ困難シタルガ具レカ対策ト

シテ農村更新計画ヲ樹立シ研究中ニシテ一般ノ納税力等ヲ考慮シ編成シタル所ニシテ村税ハ租税中其ノ大ナル者ニシ

テ先般来町村長会等ヲ開催シ種々軽減二関シ研究シタル所ニシテ就中其ノ大部分ヲ占ムル教育費二対シテハ人件費中

ノ寄付金等ノ件二付テモ大体方針ヲ決定シ更二隣村関係村ノ会合ヲ催シ各方面一二旦リ研究シタルモノニシテ之レ以上

減額ノ余地ナク又教育費二附テハ教育者ト協調ヲ遂ゲ尚学務委員会ヲ数回三旦リ開催シ慎重二研究シ提案シタリー中

略−予算総額ハ参万六千九百八拾九円経常部参万六拾六円臨時部六千九百弐拾参円トシテ負担関係ハ前年度当初予算

ト比較シ多額ナル減額ニシテ本年度ハ本年予算以外二学校職員ノ寄付千六百六拾円アル予定ナルヲ以テ本年度戸数割

ノ実収額ハニ十一円三十四銭トナリ前年当初予算二比較スレば三割二分六厘ノ減額トナリ今迄ニナキ極端ナル減額ニ

シテ尚詳細二付テハ各要因一二旦リ更二教育費二付テハ学校長学務委員ヲ参与員トシテ嘱託シ置キタルヲ以テ詳細説明 3       1ー スル旨ヲ述ブ

参照

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