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 戦後,知的障害教育領域では,アメリカ連合軍総指令部民間情報教育局

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(1)

張 穎槙

1 はじめに

 戦後,知的障害教育領域では,アメリカ連合軍総指令部民間情報教育局

(CIE)に推奨された経験主義教育を取り入れていた。同時に当時文部省(現 文部科学省)の教育視学官であった三木安正は知的障害児の能力に限界があり,

人格にも欠陥があると強調していた1)。知的障害児に教科を教えても無理であ るという論調をとって,「社会に適応する生活態度」「生活する能力」「仕事を する能力」を求め,教科指導を軽視した経験主義教育を推し進めた。こうした 風潮が主流となる中で,近藤益雄(1907〜1964)は自らの実践経験をもとに,

知的障害児は生活経験が極めて乏しく,それだけに頼るのは困ることが多くな り,彼等の興味と要求といっても,それだけに偏ると,知的障害児が社会に生 きてゆくための訓練が手うすになる2)と指摘している。さらに「この子どもた ち(知的障害児一筆者注)自身を,この社会に適応するように教育するという ことには,いくっもの問題があることは,もちろんです。いや,むしろ,社会 のほうが,この子どもたちに適応するように,改造されることのほうが,のぞ ましいことかもしれません」と,知的障害児の自立生活を支援するような環境 づくりを要請し,時代を先取りした福祉観を提示した3)。近藤は知的障害児に

は教育の可能性があり,知的障害児と普通児の教育は同じであるという教育観 そして,上述したように社会が知的障害児を受け入れる体制を作ってほしいと いう福祉観を持っていた。さらに近藤は「無意識の生活はほんとうの生活では ない」4)といい,子どもの生活を中心に据え,教育内容をそこから取り入れ,

自主性,主体性,自治的な能力を育て,同時にそれらの能力をより高めるたあ

(2)

に認知的な能力を培う生活力を獲得させることをねらいとして実践を行ってい た。近藤は当時の論調とは異なり,親と子どもの願いを大切にし,子どもの実 態に応じて,子どもが意識的に主体的に働けるように指導を行っていた。この ようなことから,近藤の教育課程において生活指導,生活学習,教科指導がど のように関連していたかを明らかにする必要性があり,さらにその教育方法の 原理を明らかにする必要があると考える。

 近藤の知的障害児への教育方法は,清水寛(1969)によって研究されたよう に生活綴方教育から知的障害教育へ展開してきたものである。清水は近藤の教 育実践を概観して,「生活綴方的教育方法による子どもたちの認識力・行動力 の発達と生活の向上の 道筋 は,戦後の精神薄弱児教育においても基本的に は同じである。しかし,その具体的手だては一層リアルに,一層緻密に,そし て,一層深い理性的愛情に与えられたものになっている」と指摘している5)。

さらに清水(1985)は,近藤の「なかよくしかもはたらく子ども。それはやが て社会性のゆたかな勤労ずきの人間に成長していくにちがいない」6)という教 育観をとりあげ,rリアリズムの立場から公教育の矛盾を批判・克服しようと する生活綴方教育と,障害児の発達を保障しその人間としていきる権利を守ろ

うとする精神薄弱児教育とが,彼において統一的に結合される内的関連性があ る」と指摘した7)。さらに「諸教科の教授=学習や生活指導と,並列的・対立 的に把えられているのではなく,前者はいっ,どのような形態で行われるにせ よ,後者を正しく生き生きと進める役割をになっており,逆に後者による知識・

技能・情操や民主的な集団的行動力の発達が前者における表現活動を深く豊か にしてゆくという関係にある」8)として,近藤の教育方法は生活と教科を結び っけるものであったと結論づけている。しかし,清水の研究においては,近藤 の教育実践を概観することにとどまり,教育過程の構造と構成要素といった関 連性に立ち入っての詳細の分析がなされているとはいえない。

 湯浅恭正(1987)は授業論,学習論の視点から,近藤の教育課程において教 科学習を中心に,生活学習と基礎学習の特質と相互の関連を分析した。湯浅に

よれば,近藤の教育実践には「学習内容の特質・指導にふさわしい能力別のそ

れを配慮し,教科学習などでは,一人一人を対象にした個別の指導も導入され

(3)

ていた。しかし,一方,それは,領域としての生活指導とともに,学級づくり

(仲間づくり)の役割をになうものとしてとらえていた」と指摘されている9)。

湯浅は近藤の実践においては教科と生活とは一応区別されつっも,実際に両者 の融合という形で教科学習は展開されていたと両者の関係を解明してる。しか し,生活指導と学習指導,特に学習指導において生活学習と教科学習および基 礎学習の間にどのような関連性があるのか分析していない。

 小川英彦(2003)は学力保障論という視点から,近藤の教育課程の構i造を提 示して,生活学習を今日の総合活動として考察を行った。小川は近藤の実践は 生活綴方の経験を生かして,知的障害を持っ子どもたちに「生活を切り拓く力」,

「生活を考える力」,「生活を見通す力を形成するための実践である」と評価し ている1°)。小川は近藤の教育課程を提示しながらも,生活学習と教科学習およ び基礎学習はどのように結合したかにっいては分析していない。

 以上の一連の先行研究では,近藤が生活指導と学習指導を統一的に教育実践 に取り入れようとした点はほぼ同じ観点を持っている。しかし近藤の教育課程 の構造に基づいて,どのように生活指導と学習指導を結びっけて実践を行った かを分析する点にっいては欠落しており,近藤の教育実践と当時の知的障害教 育実践を対照的に分析して,近藤の教育実践の独自性を明らかにするものでは

なかった。

 本研究では近藤の教育課程の構造を分析して,子どもの生活を中心に教育を 行い,生活指導と学習指導および生活学習と教科学習を有機的に結びっけよう

とした近藤の教育方法を検討することを目的とする。併せて,その指導の独自 性を明らかにする。

 本研究は上記の目的を達成するために,近藤の教育課程における生活指導と 学習指導を主な柱として,近藤の著作,実践ノート,記録などの資料に基づい て,分析を進め,考察する。

ll 近藤益雄の知的障害教育観

(1)戦後の知的障害教育観

三木は,戦前,自らの心理学の研究から知的障害児は,①分化度が低く全体

(4)

的に原始的小児的で,②素材の質・生硬で融通性を欠き,③固執性があり,④ 新事態への順応が極めて困難で,⑤作業の代償が容易で,⑥素材の質が連続的 段階的な過度性を欠き,⑦内的闘争状態にとどまらず,⑧強情・心的領域の融 通性が乏しく抽象作用が困難で,⑨思考は具象的なものに限られ,⑩想像力・

創造力が貧弱で,⑪情意的にも小児性・被暗示性であるという特質をあげて,

彼らの能力に限界があると断定したn)。そして,戦後,教育視学官に就任した 後も「精神薄弱児は知能の構造が普通児と異なっているのであるから,普通児

向きのカリキュラムをいくら水増して与えてもむだであり,全く独自のもの,

しかも一人一人に別々のものを必要とし,しかもそのねらいは,彼等の生活が 立っていけるようにしてやることにあるとするものである。この考え方の基礎

には,レヴィンの云うように,精神薄弱とは単に知能の疾患ではなく,それは 全人格的な欠陥である」と主張した12)。このように知的障害児は知的遅れだけ ではなく,人格にも欠陥があると全面的に否定された。ここにおいて知的障害 児に教科を教えても無理であるという論調をとって,教科指導を軽視した経験 主義教育を推し進めたのである。三木は彼らが社会に負担にならないように

「立派な精薄児」に育てることを目標とした。そして,社会に順応できるよう な「生活態度」,「生活する能力」,「仕事をする能力」を求める教育観を提示し

た。

 (2)近藤の経歴

 近藤は,戦前,長崎県下の公立小・中学校の教員で,当時の生活綴方運動に 参加し,生活綴方や児童詩の分野で全国的に注目される実践を行った。そこで,

彼は低能児や劣等児や学習不振児といった差別された子どもの生活現実をリア

ルに認識し,彼らに対して,教育の必要性と可能性を積極的に追求した。これ

らの経験がその後,知的障害教育の道へ踏み出す一っの契機となったといえよ

う。1953年には教師として働くかたわら,自宅を開放して知的障害児の生活の

場「のぎく寮」を開設した。学校と寮を両立して,知的障害児の教育と福祉に

力を尽くしていた。1962年に退職とともに成人知的障害者の生活の場「なずな

寮」を創設した。国の援助なしに定員32名の知的障害児(者)と共同生活する

中で,経済的,肉体的に個人の極限まで苦闘をっづけたが,この道半ばにして,

(5)

1964年58歳で自ら命を絶った。

 近藤の教育実践報告と著作は当時知的障害教育の唯一の機関誌「児童心理と 精神衛生」(後に「精神薄弱児研究」,現「発達の遅れと教育」)に多く載せら れ,三木らによっても紹介されている13)。近藤は特殊教育への功績により,ヘ レンケラー賞,文部大臣賞,読売教育賞をはじめ,日本精神衛生連盟賞など多 くの賞を受けた。このようなことから,近藤は戦後の知的障害教育・福祉実践 の先駆者として知られ,教育実践も知的障害教育関係者に注目されていたとい

える。

(3)近藤の知的障害教育観

 戦中,徴兵された近藤であるが,同時期に長崎の原爆で長男が犠牲となった。

加害者と被害者を共に体験した近藤は天皇主義,国家主義の教育は平和と平等 を人間にもたらさないことを悟った。戦後,近藤は,一層平和と平等を希求す るようになる。「人間の子どもであることは,どの子どもだって,すこしもち がいはありません」,「こんな子ども(知的障害児一筆者注)にも,その生活は たいせっです。人間として,はずかしくないものにそだてなくてはならないこ とは,どの子どもだって,おなじことなのです」14)。差別をなくして,全ての 人が平等に生きる権利を求め,国に頼らず,自力で,また教師としての力で,

できるだけ多くの子どもの教育権を保障しようと努めた。

 さらに知的障害児の教育も普通児の教育も同じであることを明確に示し,戦 前の通常教育で出会った知的障害児への教育経験を生かし,「『平和と成長』と

をねがってこの子どもたちと,のろいけれども,たしかな足取りであるいてい くのです」と知的障害児の進歩の可能性を確実なものと肯定的に捉えた15)。さ らに最も注目すべきことは約50年も前に近藤は「この子どもたち自身を,この 社会に適応するように教育するということには,いくっもの問題があることは,

もちろんです。いや,むしろ,社会のほうが,この子どもたちに適応するよう に,改造されることのほうが,のぞましいことかもしれません」と社会がこの 子どもたちを受け入れる態勢を整えてほしいと提示していることである16)。こ のような時代を先取りした考え方は彼の教育課程の構造にも,また国の援助な

しに「のぎく寮」「なずな寮」を設立したことにも反映されている。

(6)

 以上みてきたように近藤は知的障害児に対して,彼らの成長の可能性を積極 的に取りあげていた。それは当時の知的障害教育の最高権威者であった三木の 知的障害観とはまったく対照的な立場をとるものであるといえよう。三木の知

的障害教育観は心理学の研究から得られたものである。それによって知的障害 児の能力に限界があると断言したうえで,彼らの人格までも否定した。そして,

彼らが社会に受け入れられやすいように,社会に適応させる態度,作業能力を 訓練する教育方針をとっていた。三木が関わった東京都立青鳥中学校(後に青 鳥中学校と略する)の1951年のバザー学習,その後の学校工場方式といった経 験主義教育はそれを反映したものであった。一方,近藤は「平和と平等」への 願いと実践経験から知的障害教育に使命感を見出していた。彼は社会が知的障 害児を受け入れる態勢を整えることを求め,生活指導においては,子どもの自 己主張する能力,主体性,自治的能力を育てることに注目していた。さらにそ れらの能力を高めていくには,子どもの認知能力が高められるように学習指導 において教科指導が重要であると確信していた。

皿 近藤益雄の教育課程の構造

(1)1950年代の知的障害教育の教育方法

 戦後まもなく,学習指導要領が示された。しかし,知的障害児は通常教育の 学習指導要領に沿って学習させることが困難であることを多くの実践が証明し た。ところが1963年まで知的障害者を教育する養護学校(以下知的障害養護学 校と称する)の学習指導要領は制定されなかった。一方,1958年,学校教育法 施行規則の改正によって,小・中学校の特殊学級は1961,1962年度から「特に 必要がある場合は,特別な教育課程によることができる」ようになった17)。そ

の後,知的障害養護学校においても同様な規定がなされ,知的障害教育は柔軟 な教育課程を採用することができることとされた。

 終戦直後,日本の教育はCIEに管理されていた。復興した知的障害教育領域 も例外ではなかった。1947年から文部省が開催した特殊教育教員再教育講習会 で,CIEのメンバーも指導を行った18)。また1948年〜1952年の間,文部省・

CIEが教員養成大学教官,教育長,指導主事などを対象に教育指導者講習会

(7)

(IFEI.)を共催した。そこでは,特殊教育班を設け,特殊教育に関する講義,

実習,授業研究が行われ,そして,CIEによって米国の経験主義に基づく総合 学習,コアカリキュラム,児童の実態調査・検査などの先進的教育事情が紹介

された19)2°)。さらに,1950年,当時アメリカ合衆国教育庁で特殊教育部長をし

ていたマーテンスが編集したrCurriculum Adjustments for the Mentally Retarded』という本を出版直後から日本の知的障害教育の関係者らは採用し て研究会を行った21)。1952年三木安正,外林大作によって『出来ない子供のカ リキュラム』という書名で訳され,広く読まれた。その後の日本の知的障害教 育に経験主義教育を重視する立場が貫かれたことを見てもアメリカの影響がい かに大きかったかうかがえる。

 終戦直後,教育現場では,戦前の知的障害教育から承け継いだ「水増し教 育」22)が中心となっていたが,上述のようにアメリカの経験主義から大きな影 響をうけ,三木の知的障害教育観に基づいた経験主義教育が推進されたことに

より転換が図られた。そして,全国的に注目されたのは,1951年に青鳥中学校

(現青鳥養護学校)が開始したバザー学習とバザーの製品を作るため1952年か ら始あた「学校工場方式」23)であった。「このバザー単元を中心とする総合単元 学習は,精神薄弱教育における『生活単元学習』と呼ばれる指導形態を確立し,

教科的学習は,『単元学習帳』等の中で消化されるものとされた」24)。即ち,工 場のように作業に対する態度,能力(生産量の追求)を求め,教科指導は軽視

されていた。このモデル校である青鳥中学校の教育実践の影響で,全国各地で

「学校工場方式」が行われ,「水増し教育」から経験主義教育へ転換された。

(2)近藤益雄の知的障害教育の教育方法

 戦前,公教育では,就学「免除・猶予」という名目で,知的障害児の就学権 が剥奪され,戦後しばらくの間にも,実質的に知的障害児は教育から排除され ていた。このような状況に直面した近藤は知的障害の教育課程を構想する際に,

法的基盤一教育基本法,児童福祉法,学校教育法一に基づいて知的障害児の教 育保障を強調している。そして知的障害児の福祉と成長を願い,精神的基盤と

して教育課程に位置づけた。さらに,近藤は知的障害児と普通児の教育は同じ

であることを主張し,教育課程に実践的基盤を位置付けた25)。このような意図

(8)

教科

w習  専

D曹

生活学習

基礎学習

健康な身体 善良な性格

法基 的盤

精神的

実践的

﨟@盤

       図1 近藤の教育課程の構造

で近藤iは図126)と図227)のように上記の三っの基盤を教育課程の基礎部分に位 置づけしている。

 近藤の教育課程は生活指導と学習指導という二っの大きな柱で構成されてい る。図1に示されたように生活指導は「善良な性格」「健康な身体」を培うこ とに重点をおいた。また図2に示されたように学習指導の中で,子どもの感覚,

手技,運動訓練のため,一般的に教科として捉えた図工,音楽,体育を教科の 中から抽出し,基礎学習として位置づけた。さらに生活学習を普通学習と作業 学習に分けているが,普通学習にっいては具体的な説明はない。表128)は1953 年度の週間時間予定表である。それによれば,生活指導に当てはまる授業の時 間割は設定されていない。生活指導はすべての学校活動,そして教師との関わ

りの中で随時に行う指導である。そして,学習指導においても直接的,間接的 に生活指導を行うべきとされた。っまり生活指導によって学習活動を促す一方 で学習指導は生活指導的役割も担っているという仕組みである。両者は形式的 に結びっくと同時に実質的にも統一されるよう意図されている。

(3)近藤益雄の実践に対する社会的評価

(9)

前述したように近藤の知的障害 基盤

教育観とこの時代の三木に代表さ れる知的障害教育観が異なるため,

反映された教育方法も異なってい る。しかし,両者ともに,従来の 通常教育の教育課程に従った教科

を中心とする「水増し教育」とい う教育方法から転換を図ることに 大きな役割を果たしたといえる。

ところで,戦後の日本では復興 から経済の成長と発展に向けて,

中・小企業の労働力が不足してい たという事情から,社会に順応し て,黙々と働くことができる単純 な作業者が必要とされていた。ま た当時知的障害児の能力に限界が あるという見方が強く,社会福祉 からは彼らに提供するサービスも 整えられず,知的障害児の生涯を 考慮するまでには至らなかった。

このような情勢に加えて,知的障 害児の進路先として,上記の中・

法的基盤 精神的基盤 実践的基盤

生活指∴聾(豆異同)

図2 教育課程の構成

小企業以外の選択肢は殆ど考えられなかったことから,学校は子どもたちをこ の社会に適応させるため,「順応する態度」「作業能力」の育成に向かわざるを 得なかった現実もあると考える。このような知的障害児が社会に適応するのは

当たり前とされていた時代で,近藤の,知的障害児の生涯を考え,子どもを中 心とする教育実践を行う姿勢は評価されながらも,受け入れられがたい状況で

あったといえよう。

(10)

表1 週間日程表(1953年)

火 水 木 金 土

1

生活 生活 生活 生活 生活 国語

2

生活 生活 生活 生活 生活 算数

3 国語 国語 算数 国語 音楽 自治会

4 音楽 算数 体育 算数 体育 大掃除

5

図工 理科(小)

ル縫(中)

飼育(男)

ル縫(女)

理科(小)

ル縫(中)

6 図工 理科(小)

ル縫(中)

飼育(男)

ル縫(女)

理科(小)

ル縫(中)

IV 近藤益雄の指導方法

(1)生活指導

 前述したように近藤は「どの子どもも,どの大人も,等しく人間として,大 切にされなくてはならぬ」29)という信念をもって,「平和と成長」「平等」を願っ

て子どもに生活指導を行っていた。桑原作次は「生活指導は,教材というよう な第三者を媒介としないで,教師の人間性が直接に子どもの人間性にはたらき かける指導活動である。……それはあらかじめ計画され用意されているもので はなく,そのときどきに展開される子ども自身の生きたすがたである」と定義 している3°)。近藤は「子どもの人間を形づくる教育は,空気や水のように,さ りげない形において,もっとまじめに,もっとながっづきのする方法,もっと,

忍耐つよく,徹底的な営みによって実践されなければなりますまい」と述べて いる3 )。近藤はまず全ての子どもを受け入れ,子どもの全てを認め,子どもの 中にはいって,「なかよく」を学級のスローガンとして掲げ,なかよく働く,

なかよく勉強することを意図して,子どもと共に生き,生活と学習を通して,

個に応じた生活指導を行った。

 ①自己主張する力を培う指導

 近藤は「こんな子ども(知的障害児一筆者注)だって,自分の力を信じ,自

分の力相応にいろいろな要求をもっことは,他の子どもたちと,すこしもかわ

りません。また,どんなにその力がささやかであろうとも,すこしでも他のも

(11)

のに,まさりたいとねがい,またその力をみとめてもらいたいと,のぞむこと も他の子どもと,おなじことなのです」とたびたび述べている32)。即ち知的障 害児でも,要求や願いを持っことは普通の子どもと変わらない。彼らも他人と 等しい生活をする権利があるべきである。そして彼らの要求や願いをひきだす ことが生活指導の重要な課題であるとした。近藤は,彼らも「怒るべきときに 怒り,抗議すべきことに抗議することができるようになる」ことを目標とし,

子どもたちが自分の要求,願いなど表明できる力を育てていくことに努めた33)。

教室では,「なかよしポスト」などを設置して,子どもたちが言いたいことを 自由に言えるような環境づくりをした。また,他の学級の子どもに対しても,

自己主張できる勇気と力を育てることに傾注した。例えば,近藤の学級の子ど もが通常学級の子どもにいじめられたことがあった。近藤は子どもたちの不満 を大切にして,通常学級の子どもにいじめへの抗議の手紙を書くこと,字が書 けない子どもにはこの題材で自分の主張を表明することを指導した34)。抗議す ることは書く力や話す力が必要である。そこで近藤は子どもたちに国語学習の 大切さを理解させ,国語の授業で抗議の手紙を書く指導を行った。

 ②自治的な能力を育てる指導

 知的障害児は発達の遅れのため,人に否定されることが多く,正しく自己認 識を身にっけていないことが多い。そのため劣等感が生じ,意欲を失うことに っながる。近藤が担任したみどり学級(特殊学級)の子どもも,これまで通常 学級で受けた軽蔑,差別で自信をなくし,劣等感をもっていた。これらの子ど もが近藤の学級に入って,蘇生しっっあった。しかし,自分が学級でどんな位 置づけになるのか不安で,喧嘩が頻繁に起こった。それに対して,近藤は子ど

もたちの喧嘩を全面的に否定するのではなく,それは自分の力を試す表現であ ると捉えた。いかに子どもたちの行動を正しく導くかという課題であると考え たのである。近藤はまずトラブルについては腕力で解決するのではなく,口頭 や文章で弁論するように子どもたちに求めた。そして,教室で「けんかのポス

ト」が設置され,どんな小さいことでも,字が書ける子どもには自分の弁護・

意見を,近藤や友達宛に手紙,文書,そして詩などで,投函するようにさせた

35)

Bまた字が書けない子どもには,近藤iは丹念に一人一人の子どもの意見を聞

(12)

くことにした。そのうえで,「話合い」の場を設け,子どもたちに自分の意見,

主張を言わせ,みんなで判断するといった指導を行っていた。このような指導 の結果,子どもたちの喧嘩が徐々に減少した。さらに近藤は子どもたちを定型 的でない自然発生的なグループに編成し,グループ内で能力の高い子が低い子

に援助する態勢をっくり,子どもたちに集団意識を持たせた指導に展開した。

それから学級活動はグループで行い,グループ間では競争させ,グループ内で は助け合いをさせるようにした36)。

 それらの指導を通して,みどり学級が設置された時には子どもたちだけでは 教室の掃除さえ出来なかったが,2年たって教師なしで子どもたちだけでも自 主的に学級活動が出来るまでになった。具体的な例でいうと,近藤の一週間の

出張の間に,代行教師なしで,能力の高い子どもをリーダーにして,子どもた ちに動物の飼育から教科学習まで自主的に学級活動を運営させたことが挙げら れる37)。結果的にはうまくいき,同校の通常学級の子どもにもなかなかできな いことであったと好評を得た38)。

 三木は「自立,勤勉,協調,職責の意識など」を持っ「立派な精神薄弱者」

を育てることを知的障害児の教育目標として掲げた39)。1950年代前半,三木ら の知的障害教育観が文部省の施策を支配しており,特殊学級の教育目標を掲げ る際には,これに準処せざるを得なかったものと思われる。このような背景で 全日本特殊教育連盟の一員であった近藤はある特殊教育研究発表会での研究発 表覚え書では,知的障害児への教育目標は,「よい精薄児の性格」を育ててい くことであると示した。具体的な内容は(1)他のものと協調融和する,(2)

よろこんで働き奉仕の心をもっ,(3)規律正しい生活をする,(4)根気づよ く忍耐する,(5)積極的で快活である,(6)従順で正直であると述べられて いる4°)。しかし,この「研究発表覚え書」の発表以前に,彼はみどり学級で

「怒るべきときに怒り,抗議すべきことに抗議する」といった実践を展開して いた。彼は子どもの生活指導において,子どもたちが他者と等しいことを強調 し,子どもの権利,自己認識 自己主張を大切に育てていき,自治的な能力を 養うことに努めていたし,それらの力を高あるたあに,子どもたちの学習意欲

と国語の力も育てていくように指導を行っていた。これらのことから近藤のこ

(13)

の教育目標は三木らの影響を受けたもので,個人としては全面的に支持してい なかったことは推測できる。

(2)学習指導  ①基礎学習

 前述したように近藤は図工,音楽,体育は「学習活動の基礎にも,生活能力 の基礎にもなる」として,基礎学習と名付けた41)。rこの基礎学習の『感覚訓 練』『手技訓練』「運動訓練』は,IQの低い子どもにもこれを課さなければな

らない」42)。一般的に基礎学習は国語と算数を示すことが多い。しかし近藤は 体を通した「感覚・手技・運動」の学習を基礎学習と取り上げた。それらの科

目は子どもの知的レベルが低ければ低いほど生活と密着することになる。同時 に子どもに「認識の能力」「表現の能力」「製作の能力」「作業の能力」を養うた め欠かせないものであり,社会生活および職業生活と知識と能力を啓培する43)。

このような理由から,近藤は体育と音楽を生活訓練として取り上げた。近藤の

「訓練」はただ脈絡のない説法や動作の繰り返しではなく,生き生きした体の 動きと健康とをすじがねとして行われ,さらに豊かな情操の気持ちにっっまれ てなされなくてはならないと考えていたからである44)。また,近藤は図工を精 神衛生,感覚訓練,性格陶冶,生活美化,職業指導,表現活動という六っの面 で捉えている。それらの学習は生活学習の中で行われるが,それらの学習の基 になる能カー描線,彩色,構成は教科学習として取り上げられていた45)。近藤 のこの基礎学習は主に生活訓練として考えていた。

 ②生活学習

 近藤は「生活こそ学習の場としてとりあげ,このなかで,生活からの教材で,

生活に役にたっような学習をする生活教育のねらいなのだ」といい,生活学習 は生活の態度,生活の技術,生活の知識そして働くこと,国語や算数の応用,

活用の場としてとりあげた46)。近藤は生活学習の指導を①働く生活,②強いか らだ,③楽しい生活,④決まりよい学級,⑤楽しい学級,⑥便利なくらし,⑦ 明るい社会,⑧楽しい家庭,⑨きちんとした家庭,⑩決まりよい生活といった 内容で行った47)。上記の学習内容には,理科,家庭・技術,体育・保健,音楽,

図画,作業,行事,そして国語と算数に関わる内容が含まれる。また,学習内

(14)

容を独立的に行うのではなく,生活指導と教科学習を関連した学習内容が多かっ た。活動形態は子どもを中心として,学級全体で,グループで行うことが多かっ たが,学習内容によって,個別指導も熱心に行っていた。

 近藤は子どもの生活を見っめたうえで,幅広い生活の内容を学習に取り入れ た。近藤は生活綴方教育の「常に→生活を見っめ→書き→読み合い→話し合い

→考え→生活する一ことをもって一ラウンドとして進められていく。それは生 活から出発して生活に密着し,生活に帰って生活を高める。徹底したリアリズ ム教育である」という教育方法を受けっいで,知的障害教育を展開した48)。彼 の生活学習は子どもに生活経験をさせながら,学習の意欲と教科への興味を啓 発するというものであった。

 このような意図から,近藤は子どもたちに最も身近なものを学習内容として 取り入れることにしていた。例えば,近藤の「教材研究(作文教育)」という

ノートに記録された事例がある。彼が研修に出かけた時,子どもたちに出した はがき(紙幅の関係で,はがきの内容は省略する)を後に学習内容として取り 入れて教材としたものである49)。まずはがきに書いた研修の場所,メンバー,

研修内容と子どもたちに対する思いといった内容を子どもたちが理解したかど うかを確認して,それを理解できるように勉強させた。次ははがきの中に書か れた日常生活によく使われる言葉を文に書かせ,習得させようとした。このは がきの学習を通して,子どもたちに文を読めることの楽しさを分からせ,文書 の理解と文章を書く学習へ展開した。近藤は生活の中の些細なことでも,子ど

もの学習の指導と結びっけるように展開していった。

 そして,年間計画を立てる時も,近藤は生活学習と教科学習を結びっけるこ とを念頭においた。例えば,資料ls°)に示された1953年度の第二学期の計画に よれば,11月の生活学習は状さし作りという単元であった。この単元は算数

(長さと金銭)に関わる知識が必要であった。近藤は10月,11月の算数学習に

は長さ,金銭の学習を設けた。このように近藤は,遊び,作業(労働)におい

ては子どもの教科学習へ展開させようとし,逆に,国語,算数の学習において

は,生活に応用できるように展開させようとした。さらに子ども一人一人の実

態に応じて指導を行った。近藤の生活学習は子どもの生活を豊にさせるため,

(15)

境=爾魁曜

、、

繁躍Q郭翠贔

圏遽即螂

、、

、、

、、

叫期溢Φ

㎝一 芝國愛Ro姻ζ

当遽曲鰹

(塁H)圓騒

曝捌H誓 葦e遡誕

墨扁姻鐘

(曲爾)矧羅

、、

、、

、、

鴫b傘心 ψ3 楓 来

、、

、、

咀b阜崎

鼎叡

懸葦貼澤

(囲猷)脈区

、、

、、

、、

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(馨慧)抽畷

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(16)

様々なことを体験させる場であり,同時に教科学習で獲得した知識の活用の場

でもあった。

 近藤は「生活と教科は二本立ではなく,この二っがひとっにとけあっていく ようなやり方でなければらない」と両立させて捉えていた。っまり,生活学習 を重視することは教科学習も重視することになり,両者は相補的ではなく相乗 的となる。逆に教科学習を重視することによって,それを適切に利用する機会 へ動機づけられ,生活場面への応用が不可欠となり,それによって得られる生 活経験が教科学習を必要とすることになるのである。

 近藤の生活学習は当時の知的障害教育での学校工場方式と対照的であった。

三木は「文字を教えるばかりが,計算ができるばかりが目標ではない。まず,

これらの子どもの日々の生活行動の指導が大切だ」,「一般に生活学習というと,

教材の配列が日常生活的なものに関連させられているものがおおいのではない かと思われるが,われわれの考えているのはもっと端的な生活に取り組んで行

うとするものである」と示していた51)52)。三木の考えを受けた青鳥中学校は教 科指導をさけて,子どもが社会に適応するような姿勢と単純な作業能力を獲得 する訓練を中心とした。

 ③教科学習

 教科学習は伝達する力,考える力,文化遺産の理解を子どもたちに習得させ るものである。近藤も例外ではなく,知的障害児にとって「まちがいなく生き てゆくたあの知識や技術の正しいうけっぎ」こそ彼らの学習であると考えてい る。そのため,教科学習は子どもの経験と興味に任せておけないと強調してい る53)。通常学級では,教科書を中心的な教材として取り入れているが,知的障 害児には同学年,あるいはより低学年の教科書でも無理な場合が多い。教科書

は,あくまで,道具なのである。近藤は教科書において子どもたちに適切と思 われる内容があれば取り入れるが,より多くの教材は生活の中から取り入れて

いた。

 資料1に示したように近藤は教科学習においては,子どもの実態によって,

四っのグループに分けた。そのうえで,個々の子どもが持っている力をあわせ

て,一対一の指導も多く行っていた。例えば,近藤は子どもたちに平がなを学

(17)

習させる時,単に無意味な「あいうえお」という五十音から教えるのではなく,

子どもたちの身近な果物から導入した。「みかん」から学習を進めることを例 とすれば,①まず「みかん」の絵を子どもたちに見せ,「みかん」にっいて話 させる。②「みかん」の文字カードを提示して,「みかん」の絵に添えて,「み かん」を読ませる。③文字カードとみかんの絵の結びっきを理解させる。④文 字カードとみかんの絵をあわせたり,分けたりして,「みかん」を読めるよう

に学習させる。⑤「みかん」が読めたら,「み」「か」「ん」をバラバラにして,

読めるようにさせる。そして⑥これらの平がなで組み合わせた別の単語を勉強 させる。このように広げていき,平がな,短文を読めるようにする54)。このよ うに子どもたちの身近なものを扱うことで,子どもたちは学習内容を受け入れ やすく,学習意欲も増していく。当然ながら学習に関わった具体的なものに対

しても学習前より一層深く理解できたという実感が湧くのである。

 近藤は算数も同様に生活と結んで,学習を進めていた。算数の学習を基礎学 習と発展学習に分けた。基礎学習では,(1)数以前の学習一あっめる・ふや す・へらす・わける・ならべる・くらべる,(2)数の学習一数をとなえ・物 をかぞえ・数字のよみかき・数と数字をむすび・数の順序(唱数)・金の種類,

さらに数の分解と構成,(3)計算の学習一四則計算,買い物の計算,(4)問 題解決の学習一問題解決と四則計算,買い物の問題解決(1000円まで)と内容

を子どもたちの発達レベルで分けてとらえている。発展学習は,金,物さし,

秤,ます,時計,旗を使って学習させる55)。基礎学習は子どもたちの身近なも のを教材として取り入れ,生活経験を活かして,「数」にっいて認識させる学 習であった。一方,発展学習は獲得した数の理解を日常生活に使う場面をっくっ て,生活に役立っ学習へ展開させるものであった。

 近藤は系統性と体系性を持つ教科の学習だけは子どもの経験と興味とにまか せておけないとした。それらの学習は学校という場でしか勉強ができないから である。近藤は教科への認識から教科の応用まで,その系統性と体系性を持っ て,国語,算数の指導を行っていた。このような考えから近藤は,教科内容を

も教科学習と生活学習に分けている。教科学習として取り上げた国語では,平

がなの読み書き,漢字の読み書き,ことばの読み書き,文の読み書き,算数で

(18)

は,数の認識,加法,減法,乗法,除法の計算,図工では,描線,彩色,構成 であった56)。一方,国語のはなすこと,きくことに関する学習は生活学習の中 に取り入れ,生活的に取り上げられた算数も生活学習になるのである。図工も 前述したように基礎的な学習は生活学習で行った。このように近藤は国語,算 数,図工においては,教科として取り上げる面と生活学習として取り上げる面 との両面性を持たせていた。それも近藤の教育実践と当時の経験主義教育の大 きな違いである。ところで,当時のモデル校一青鳥中学校は経験主義教育に目 指した理想が実現できず,実際は子どもたちはゴタゴタした体験を単に繰り返

しているすぎないと反省し,1961年から教科学習へ転換した57)58)。

V 終わりに

 近藤は戦争の被害の体験から,「平和と成長」,人間の平等を追求していた。

また自らの実践から知的障害児の可能性を認め,彼等にとって教育の重要性を 認識した。さらに近藤は知的障害児の生涯を見通して,知的障害児を無理に社 会に適応させるのではなく,社会が知的障害児の自立に支援することが望まし

いと時代を先取りして,実践を展開した。近藤は知的障害児と普通児の教育は 同じであることを前提として,知的障害児も他者と等しい学習権を持っべきで あると主張したのである。しかし,当時は,知的障害児の能力に限界があり,

人格にも欠陥があり,普通児と比較すれば異質的であるという三木らの論調が 支配的であったため,社会に適応でき,作業に黙々と従事できることを目指し た知的障害教育が主流となっていた。

 近藤は「特殊学級の教育の成否は,実にこの子どもたちが,成人に達した時,

安定した生活ができているかどうかということで,決定される」と述べ、知的 障害教育担当教師としての使命の重大さを認識していた59)。近藤は子どもたち の自己主張の勇気と能力,自治的な能力を培うことは将来の「安定した生活」

の鍵であると認識した。このような意図で,近藤は生活学習において作業学習 を重視し,子どもたちに働くことに意欲と主体性を持たせることに努めたので

ある。

 かって生活綴方に精を出した近藤は戦前の生活綴方を承けっいで知的障害教

(19)

育に展開させた。生活綴方は,文章を書くのはあくまでも手段であって,目的 は真正純乎たる自己確立を目指し,既成概念を克服して真正な人間性を磨き獲 得することとされる6°)。近藤は知的障害児の特質から,「この教育(知的障害 教育一筆者注)はまちがいなく生活教育だから,教科学習も,生活教育として とりあげなくてはならない」61)という教育方法を明示し,「私は教材を生活から 求め,それを勉強し,さらにそれを生活のなかにとかしこむ仕事だ」として生 活教育を追求していた62)。近藤は子どもの生活経験から得られることを素材と

して,生活にぴったりあったやり方で教科指導を行った。しかし,教科には教 科の系統性,教科の筋道も見逃さないということから,教科の学習は子どもの 経験や興味に任せておくことができないと強調した。そして子どもの実態に応 じて,グループでの学習と個人指導といった多様な方法で実践を行った。近藤 の教育実践は一貫して生活指導と学習指導,生活学習と教科学習の結合を強あ,

生活指導,生活学習,教科学習がそれぞれ独立の役割を果たしながら,全体は 一っの流れとなっていた。即ち,教科指導は生活学習を土台にして展開され,

一方,教科学習で獲得された読む力,書く力,考える力は生活学習を高ある道 具になるという相互の依存関係を示したのである。

 近藤の生活指導と生活学習と教科学習を結びっけた教育方法は当時知的障害 教育領域で主流となっていた学校工場方式とは異なったし,戦後日本の復興と 経済の成長発展へ向けて,中小企業の労働力不足を背景として,会社に1頂応で

き,黙々と働く労働者を求める風潮とも一致していなかった。しかし,この社 会の要求に応じた経験主義教育に対して,近藤は子どもたちの生涯の生活を考 え,子どもが主体的に生きることができるように,子どもの要求と願いを重視

した自らの実践で批判しようとしたのである。

引用文献

1)三木安正・熊谷君子『小学校特別学級の教育』牧書店1951年pp.252−253

2)近藤益雄「特殊学級のカリキュラムをどのように編成したらよいか」児童心理と精      神衛生No.151953年p.43

3)近藤益雄「おくれた子の生活指導」『近藤益雄著作集II』明治図書1975 p.13

4)近藤益雄『近藤益雄著作集III』明治図書1975 p.95

(20)

5)清水寛「近藤益雄における『精薄児』教育への発展」教育No.2411969年P.68 6)清水寛『発達保障思想の形成』青木書店1981年p.113

7)同上書,p.108 8)同上書,p,101

9)湯浅恭正「障害児教育における授業論研究ノートー近藤益雄の学習論について」香川       大学教育実践研究第7号1987年pp.14−17

10)小川英彦「知的障害教育の先達近藤益雄の学力保障に関する研究」岡崎女子短期大      学研究紀要第36号2003年p.51

11)日本臨床心理学会編『戦後特殊教育その構造と理論の批判』社会評論社1980年

  p.155(重引)

12)前掲書1),pp.252−253

13)1952年,近藤の「精神遅滞児の国語指導」という本が三木安正によって,「児童心   理と精神衛生」のNo10号で紹介され。また,「道を求め」というタイトルで,近藤   と息子(近藤原理)が教育実践の研究の手紙を「児童心理と精神衛生」で発表した   時,そこで,三木安正が前置きを書かれた。そして,1953年近藤の「この子らもか   く」という本を「児童心理と精神衛生」の編集部によって紹介された。さらに,山   口薫によって「精神薄弱児研究」誌のNo.25で,近藤の「造形学習のノート」が紹   介された。また1961年出版された近藤の『精神薄弱児の読み書きの指導』を基に,

  「精神薄弱児研究」誌のNo.36で「精神薄弱児のための国語学習指導内容」も紹介さ   れた。さらに近藤の多くの実践報告を当雑誌に載っている。

14)前掲書3),pp.11−13 15)前掲書3),p.20 16)前掲書3),p,13

17)『学校教育法施行規則』第73条の12,第73条の17

18)大庭伊兵衛,山本晋「戦後の精薄教育の歩みと杉田裕」精神薄弱児研究No.166   1972年p.10

19)文部省『特殊教育百年史』東洋館出版社1978年p.11,pp.176−177 20)前掲書18),pp.9−10

21)精神薬弱問題研究会編『人物でつづる障害者教育史(世界編)』日本文化科学社   1988年pp.198−199

22) 「水増し教育」とは,知的障害教育で,普通児を対象とする教育内容と方法をその   まま維持しながら,程度を下げ,学習速度も落として授業をしていくことをいう。

  知的障害教育の重要性と独自性が認識されなかった戦前や戦後の一時期に,この種   の教育が行われた(佐藤泰正編『障害児教育小辞典』協同出版1986年p.220)。

23) 「学校工場方式」とは,学校・学級(知的障害児を対象とする学校・学級)におけ

  る学習活動に一般工場体制に似かよったものを取り入れることである。一方では従

(21)

  来のクラス編成を解体して工場組織をもって,これに換え,他方では工場の流れ作   業方式によって,作業内容を単純化し,単一作業間の連けいを図ることによって生   産する。学校工場方式は,1955〜1965年の間に知的障害教育の一典型であった。そ   の後,授業過程が作業中心に偏り,人間形成的な視点の欠如などが批判されたが,

  職業教育においては学ぶものも多いともいわれている(宮崎英憲編『青鳥30年』

  1975年p.19,佐藤泰正編『障害児教育小辞典』協同出版1986年pp.33−34により)。

24)宮崎英憲編『青鳥30年』1975年p.126

25)近藤益雄「特殊才能の伸ばし方」教育と医学p.52 26)同上書,p,52

27)同上書,p.52

28)近藤益雄「計画」<授業の指導案一筆者注>1953年度第二学期 29)前掲書3),p.28

30)桑原作次「学習形態と生活指導」寒川道夫ら編『教科指導と生活指導』明治図書   1958年p.65

31)前掲書3),pp.11−12 32)前掲書3),p.122 33)前掲書3),p.87

34)近藤益雄「Midorigumi no Kiroku」ノート1955−2−1 35)前掲書3),pp.126−128

36)前掲書3),pp.98−99 37)前掲書3),pp.138−147

38)松尾敏氏へのインタビュー。2001年8月8日 長崎・国見山荘 39)三木安正『精神薄弱教育の研究』日本文化科学社1969年p.19 40)近藤益雄「特殊教育研究発表会研究発表覚え書」ノート

41)前掲書25),p.52 42)前掲書25),p.52 43)前掲書25),pp.52−53

44)近藤益雄『なずなの花の子ら一精神薄弱児教育のために一』新評論社1956年p.199 45)同上書,pp.203−204

46)近籐益雄『精神薄弱児の読み書きの指導』日本文化科学社1961年pp.56−60 47)前掲書44),pp.194−198

48)国分一太郎『っづり方教育について』むき書房1985年p.19 49)近藤益雄「教材研究(作文教育)」ノート

50)近藤益雄「計画」〈授業の指導案一筆者注>1953年度第二学期

51)三木安正・中村興吉『遅れた子らを導いて』1952年牧書店p.24

52)杉田裕『精神薄弱教育論』日本文化科学社1970年pp.78−79

(22)

53)近藤益雄・近藤原理「道は遠いけれど」『近藤益雄著作集IV』明治図書1975

  pp.229−230

54)同上書,pp.229−231 55)同上書,pp.246−249 56)前掲書44),pp.200−201

57)小宮山倭『精薄教育の授業研究』日本文化科学1967年p.6 58)前掲書24),p.34

59)近藤益雄「特殊教育一今までの10年・今からの10年」精神薄弱児研究No.33   1961年p.10

60)前掲書48),pp.18−19 61)前掲書53),pp.199−200

62)近藤益雄「生活教育と綴方教育」『近藤益雄著作集1』明治図書1975年p.224

参照

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