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1  アメリカにおける社会事業教育の誕生

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(1)

社会福祉学の創設期を担った女性たち

ーシカゴ大学の場合一

窪 田 暁 子

1  アメリカにおける社会事業教育の誕生

2 C h i c a g a o  S c h o o l  o f  S o c i a l  S e r v i c e  A d m i n i s t r a t i o n  (S S  A) 

3  2 0 世紀初頭の女性と社会福祉

4  ブレキンリッジ及びアボットと SSA

はじめに

社会福祉の歴史はその実践においてのみならず,研究・教育においてもまた,

多くの女性をパイオニアとして持っている

o

社会福祉が,老・幼・弱者の世話 という「女性向き」の仕事であると見なされてきたこと,即ち家事・育児・病 人の看護という仕事との親近性と,社会的弱者としての自らの立場に根ざす弱 者への共感,家事や育児を通して培われる「生活感覚 J などが社会福祉に適し ているといった考え方が,その背景に存在する。慈善事業は,政治・経済的な 利害を越えて人々に訴えるものがあり,他面それ自体として大きな政策課題に ならないままに推移した長い歴史を持っている

O

したがってそれは野心的な男 性にとって,魅力ある領域にはならず,そのため社会的な活動を望む女性たち にとってしばしば,開かれた唯一のフィールドであった。しかしながら育児に しても弱者の日常的な世話にしても,それらが家庭内で行なわれるのと,社会 福祉事業として行なわれるときとでは,その性格は大きく異なる。それらが

「社会的に」行なわれることこそ,まさに社会福祉の本質なのであって,その

(2)

仕事は,高度の社会性,組織力を必要とし,きわめて積極的な,活動性の高い ものである。

したがって,社会福祉を,とくにその創設期において担った女性たちは,何 処でその組織者としての,社会的活動家としての,基本的力量を身につけたの か,新しい経験のなかで当面する困難にどう対処したかという問題が,あらた めて我々の注意をひくのである

o

ざきに我が国の慈善事業の創立に当たった女 性たちの,社会的,教育的背景について論じたが,それに引き続いて社会福祉 の研究と,専門教育の創設期を担った女性たちについて,同様の検討を試みよ うというのが,本小論の課題である。今回はそれを,アメリカで(そして世界 で)最初の社会福祉学の大学院として創設されたシカゴ大学 S c h o o lo f   S o c i ‑ a l   S e r v i c e  A d m i n i s t r a t i o n   (社会サービス行政管理学部)の中心であった,

ソフォニスノ

T

・プレキンリッジ S o p h o n i s b a  P r e s t o n  B r e c k i n r i d g e   ( 1 8 6 6 ‑ 1 9   4 8 ) とエディス・アポット E d i t hAbbott ( 1 8 7 6 ‑ 1 9 5 7 ) について行い,当時の

シカゴにおける社会福祉実践として大きな役割を演じたジェーン・アダムス J a n e  Addams とハルハウスの影響について言及したい。特に女性にとっての 新しい機会であった社会福祉学の研究と教育が,同時に彼女たちにどのような 課題を突きつけたかを中心に論じたいと考える。それは 1 9 世紀の終りから 1 9 2 0 年代にかけてのアメリカの社会状況,高等教育の発展,特にシカゴ大学社会科 学諸学部の発展と無関係には語れないものがあり,他方当時の社会福祉の実践 と,ケースワークを軸に専門職への道を強烈に指向していたソーシャルワーカー 達の動きと深い関連を持っていた。

1  .アメリカにおける社会事業教育の誕生

社会事業教育は,専門職業人の養成・訓練についての社会的要請と,社会事

業に関する研究の蓄積,またその基盤となる社会諸科学の進展を,その前提と

する。アメリカにおいて 1 9 世紀の末に生れた社会事業専門教育は,その大多数

が,有力民間社会事業団体としての慈善組織協会 (C 0  S :  C h a r i t y  O r g a n i z  

a t i o n  S o c i e t y ) の職員養成の必要に応える,職業教育としてのそれであった

O

(3)

当時の状況を概観してみよう

O

① 1 8 9 3 年 , Anna L .   Dawes がシガゴの万国博覧会で意見を発表し,貧困 問題に関する社会経済理論の基礎と,慈善事業入門,実習を含んだ,非教派的 教育課程が造られるべきことを主張した。これは安価な労働力を確保しようと

いう意図をも合わせ持ったものであったという

O

同じ年バッフアロー cos 協会の N a t h a n i e lS .   R o s e n a u は,慈善施設の長

や cos の友愛訪問員たちの質をもっと高めなくてはならないと主張し,この 種の仕事のために特別の訓練を受け,それを転職として選び取った人々によっ て担われるべき仕事であるとして,そのための訓練課程の新設を,ニューヨー

クの協会宛に依頼した。

② 1 8 9 7 年,全国慈善矯正事業大会で, Mary R i c h m o n d   は,当時各慈善組 織協会で一般に行われていた見習い研修制度は,あまりに実際的な教育に偏り,

同時にあまりに早い専門分化を強制するものであるとしてこれを批判し,医学 教育のように,社会事業に従事する人々の聞に共通の理解を作り出すとともに,

専門職としての知識を蓄積していくことのできるような広い基礎をもった教育・

研究機関を造るべきであるとの提案を行った。

③ 1 8 9 8 年,先のバッフアロー cos 協会の N a t h a n i e l S .   R o s e n a u の要請 に応えて,ニューヨークの cos Summer S c h o o l  o f  P h i l a n t h r o p y を設

立した。

背景には当時ますます複雑化し,巨大化する都市を中心とした社会問題と,

それに対する各地の cos 及びセツルメントに代表される民間社会事業の拡大 があった。 cos 職員の訪問活動は,移民の増加,貧困地域の膨張などにとも なって,ボランティアでは処理出来ない質のものへと複雑化していった。ソー シャルワーカーたちは,まもなく病院ソーシャルワーク,学校ソーシャルワー クにその活動の場を広げ,同時にその訪問活動の体系化も,やがて 1 9 1 7 : 年の M ・

リッチモンドの S o c i a lD i a g n o s i s に結晶するような交流と研究が始まっており,

人々は,教育という形で伝達すべき技能の存在を確信していた。その教育は,

徒弟的な実習による訓練の単なる代替としてではなく,社会事業が「科学的」

根拠をもったものであることを具体的に証明しようとの意図を含み,

(4)

専門職にむかつての意識的な努力を ( R . L u b o v e ,  1 9 6 5 ) 始めつつあった当時 の社会事業の状況をそのままに反映していた。

これら養成校の性格について,アメリカの専門社会事業職の成立を述べた著 書 T h eP r o f e s s i o n a l  A l t r u i s t  ‑ ‑ T h e  E m e r g e n c e  o f  S o c i a l  Work a s  a  C a r e e ‑

r 1 8 8 0

1 9 3 0 のなかで, Roy L u b o v e は,次のように述べている o r 多くの場合,

大学への所属は,形式的なものであって,財政,カリキュラム内容,入学者の 選抜方針等々,実際の「所属」はむしろそれぞれの都市の社会事業常設・団体・

機関へのそれであった。社会事業機関が,教師を,実習機関を,卒業生の職場 を提供し,学校は社会事業団体・施設の実際的要求を満たす方向でそのカリキュ

ラムを編成した。公式に表明されている入学資格とカリキュラムはそれぞれ異 なってはいたものの,何れの場合にも,極端な専門分化と,理論及び調査研究 よりも技術が優先される具体的,実際的カリキュラムへの傾向が見られた(R.

L u b o v e  1 9 6 5 :  1 4 3 ) 0   J  L u b o v e はまた,この分化した実際的教育という遺産と 併せて,ケースワークがカリキュラムのなかで中心的な位置づけを与えられた こと,それが最も明確化されたソーシャルワークの技術であると見なされ,社 会事業教育機関に必須の科目と考えられるようになったことを指摘して, r

門職団体と同じく,専門教育機関もまた,ケースワーカー達によってその性格 を定められ,専門職の分化を支配する手段とされ,ケースワークがソーシャル ワータの技能の中核に据えられることにつながっていった J ( R .  L u b o v   , e 1 9 6 5 :   1 4 3 ) と言命じている。

上述の各学校の設立経過に明らかなように,アメリカの社会事業教育は, c  os を中心とする社会事業団体が主導的な役割を演じて組織されたものであっ た。ケースワークに関する最初の体系的著書として広く受け入れられたメリー・

リッチモンドの S o c i a lD i a g n o s i s   ( 1 9 1 7 ) が,慈善組織協会における仕事に基 づいて書かれたということもあり,当時の教育の主目的は,後援者である慈善 組織協会,家庭福祉事業のケースワーカーとなる人材の養成にあったことは明

らかである

O

そのなかにあって, シカゴだけは,設立の背景が cos ではなくセツルメン

トであったこと,公的福祉とその科学的調査・研究が主眼とされたこと,そし

(5)

て大学院を中心とするシカゴ大学に正式に所属していたことの 3 点で,その他 の教育機関と大きく異なっていた。いいかえれば, C h i c a g o  S c h o o l  o f   S o c i a l  

S e r v i c e  A d m i n i s t r a t i o n  (以下 SSA と略記する)は,社会調査,福祉行政,

幅広い専門教育への際立つた関心を払い続けた当時唯一の例外であった。社会 事業の将来は広い範囲の制度的,地域福祉的問題を扱うことのできる行政・管 理者を養成できるかと、うかに掛かっているとの考えからであった。様々の経過 を経て 1 9 2 0 年に, S  SA がシカゴ大学の大学院となることが決定したとき,ア カデミックな環境ではケースワークと実習は生き延びることができないだろう という厳しい忠告と批判があったということも容易にうなずけるところである。

しかし SSA は世界で始めての大学院レベルの社会福祉教育・研究機関として その歩みをはじめ, 1 9 2 7 年には学術雑誌 S o c i a lS e r v i c e   Review  (以下 SSR と略記する)を創刊して全国的に重要な役割を演じ続けたのであった。 S o p h o ‑ n i s b a  B r e c k i n r i d g e と E d i t hAbott の編集方針によって, S S  R には社会福 祉の主要な任務を社会問題の解明と,その解決あるいは緩和の方策を見出すこ

とにあるとする立場が貫かれていた。

SSA の , このような独自のあり方は,当時のシカゴ,そこにおける社会問

題と,それに対するセツルメントおよびセツルメントを中心とする社会改良運

動,新興都市の,新しい大学として積極的にシカゴ地域および時代の問題と取

り組んでいたシカゴ大学,という一連の背景がある

o

S  S A をっくり, これを

社会福祉の学問的研究の拠点としようとして力を尽くしたのは,上記プレキン

リッジとアボット,当時ハルハウスを中心に,社会福祉の広い分野に活躍した

女性たちであった。その経過のなかに,当時の女性の社会的地位と,彼女たち

にとっての新しい機会であった社会事業の関係を読み取ることができるのであ

O

いわば社会福祉学の創設期というべきこの時期に,それを担った女性たち

は,どのような背景をもった人々であったか,まず SSA の設立の経過をやや

詳細に見てみよう

O

(6)

2 .   C h i c a g o  S c h o o l  o f   S o c i a l  S e r v i c e   A d m i n i s t r a t i o n  (S S  A) 

①  設立経過

既に述べたように C h i c a g oS c h o o l  o f  S o c i a l  S e r v i c e  A d m i n i s t r a t i o n は , 1 9 2 0 年 , シカゴ大学の一部となって,学部及び大学院における社会指祉の教育・

研究機関としてその歩みを始めた。 1 9 2 7 年には,全国的に大きな影響力をもっ た季刊雑誌, S o c i a l  S e r v i c e  Review を発刊し,米国はもちろん,国際的にも 社会福祉の研究に大きな役割を果たした。大学院を主体とする大学として急速 に発展したシカゴ大学にあって,国際的視野のもとに,社会諸科学の発展を日々 身近にしつつ研究の行なわれる,世界で初めての社会福祉の大学院の誕生であっ た。容易に想像されるように,その発足までには,様々の経過があった。

さてアメリカ合衆国中西部にはドイツ及びスカンジナピアからの移民が,そ のプロテスタント信仰をもってやってきたところから,その影響が強く,勤勉 で,教育熱心な人々が多いところでもあった。 1 8 9 1 年にシカゴ交響楽団が創ら れ,その音楽的伝統も高く評価されている

o

1 8 9 3 年のシカゴ万国博覧会は,ア メリカ大陸発見 4 0 0 年を記念して行われ,シカゴの文化的創造活動に活力を与 えた。

シカゴ大学が創られたのは,まさにこのようなときであった。大学は 1 8 9 0 年 に設立され,最初の学生を 1 8 9 2 年に受け入れている

O

ロックフエラーからの財 政援助と,シカゴ市の有力者たちからの支援が取りつけられ,大学は設立は当 初から, シカゴ市と深いつながりを持っていた。第 1 代の総長 Wi l l i a m  R a i n e ‑ y  Harper は大学を基本的に研究と大学院教育の場とすることを提案した

O

彼 は極めて短期間にシカゴ大学を,全国的に重要な大学として,その地位を不動 のものにした。研究を中心とする大学としては,既に 1 8 7 9 年にジョンズ・ホプ キンス大学ができていたが,シカゴ大学は,それよりもいっそう研究を爵見し,

その点で学部を中心とするそれまでのカレッジとは異なっていた。ジョンズ・

(7)

プキンスの影響は, 1 8 8 8 ‑ 8 9 年に歴史学で Ph .  D をとった社会学のスモール と , 1 8 8 3 ‑ 8 5 年に哲学と心理学を学んで Ph .  D を得たデューイを通して, シ カゴにも及んでいた。ジョンズ・ホプキンスにつづいてクラーク大学が,そし て第 3 にシカゴ大学が大学院中心の大学として開設されたのであった。

他大学の経理に学びながら,シカゴ大学は,多くの大学院研究科を作り,競 争を奨励し,専門分化を進め,多くの学術雑誌を刊行して,学問研究における 指導的地位を確保していった。またハーパーは彼の 1 8 8 0 年代のシャトクワ運動 における成人教育経験を生かして,有力な大学拡張部門を設け,シカゴ市民と の幅広い接触と,シカゴ地域問題との生きたつながりを取り入れようとした。

なかで、も社会諸科学部門の発展は,当時のシカゴ社会的諸条件を背景として いた。当時のシカゴの活力とその深刻な社会問題,東部の大学よりも自由で民 主的な雰囲気,シカゴ市との深い結び付き,体系的な研究の奨励, これらの要 素が働いて,社会諸科学部門の発展を促進した。

C h i c a g o  S o h o o l  o f  S o c i a l   S e r v i c e  A d m i n i s t r a t i o n は,もともと 1 9 0 3 年 , シカゴ大学の大学拡張部門の一環として, S o c i a l  S c i e n c e   C e n t e r  f o r  P r a c t i c ‑ a l   T r a i n i n g  i n   P h i l a n t h r o p i c  and S o c i a l  Work の名称のもとに組織され,

グラハム・テイラー (GrahamT a y l o r ) がその責任者となったものであった。

テイラーは,当時セツルメント シカゴ・コモンスの主任レジデントであって,

同時にシカゴ神学校の教授でもあり, シカゴ大学の講師でもあった。最初それ は , 1 2 週間のコースとして開設された。シカゴ大学は 3 年後にその運営から手 を引き,其の後はシカゴ・コモンスが責任をもつことになった。 1 9 0 8 年,ラッ セ

j

レセイジ財団が,社会調査部門の開設のために 5 万ドルの寄付を行なった

とき,それを機会に,独立した理事会をもっ法人として, C h i c a g o  S c h o o l  o f   C i v i c s  and P h i l a n t h r o p y がつくられた。その年,ラッセル・セイジが基金 を提供した社会事業学校は,シカゴのほか,ニューヨーク,セント・ルイス,

ボストンであった。シカゴでは,ジュリア・ラスロップ ( J u l i aC l i f f o r d  L a t ‑ h r o p   1 8 5 8 ‑ 1 9 3 2 ) がノ、ルハウスでの経験を生かして,その社会調査部門の主任

となった。このころまでの社会事業学校は,既に述べたように,社会事業団体

によってつくられ,それぞれの機関で働く職員の養成が,その存在の根拠とさ

(8)

れていた。 1 9 0 8 年セイジ財団の助成金は,より理論的,社会科学的側面を強化 するという効果をもたらした。プレキンリッジはラスロッフ。からその仕事に協 力を求められると,社会調査を中心に置くことに魅力を感じて,これに加わり,

1 9 1 3 年,新設の連邦児童局の長官としてラスロップがワシントンに去ったのち は,そのあとを継いで,社会調査部の主任を務め,さらにテ。ィーンとして学校 の運営に責任をもつことになる

O

エテーィス・アポットもウェルズレー大学から,

シカゴに再びやって来て,調査・研究部に加わった。

学校の経営は,なかなか困難であった

O

理事会は,主として経営上の観点か ら,シカゴ大学への所属が,存続のための最もよい条件であると考えるに至っ たが,大学との折衡の経過は, ジェーン・アダムス,ジュリア・ラスロップ,

グラハム・テイラーらの反対などもあって,円滑には進まなかったという ( S t e v e n   J .   D i n e r ,  1 9 7 7 ) 。セツルメント関係者たちが,大学への所属は社会福祉 研究と教育が十分に実践的な方向を持つことを困難にするのではないかとの危 慎を表明した。しかしプレキンリッジとアポットはその点について,はっきり

と異なった意見を持っていた

O

彼女たちは,既にシカゴ大学で何年もの講師と しての経験を持っていた。ブレキンリッジは家政学部で,アポットは社会学部 で講義を受け持つていたし, 1 9 世紀の宗教的傾向の強い慈善事業論,特にテイ

ラーの体系的でない講義に批判的で,大学組織に属することが,法学と医学の 研究をどれだけ前進させたかについて,身近な体験を持っていた。彼女たちは,

学生たちを社会諸政策を扱うことのできる公務員をめざすものとして教育のす べきことの重要性を認め,そのような教育は大学院レベルで行われるべきであ ると考えていた。 1 9 2 0 年大学への移行は実現し,彼女たちは,それまで十分に できなかった社会福祉の研究を行い,学部及び大学院の教育に専念することが できたのであった。 SSA の責任者としては,経営学部の経済学者 L . C .   Ma  r s h a l l が任命された。アポットが運営の実務を行った。

移行を巡る折衡の経過から,シカゴ大学は当初 5年間の期限を付して, S 

S A の大学への受け入れを承認した。それ以降は,基金の調達の見込が立った

ならば,という条件であった。しかし大学は 1 9 2 4 年の時点で, S  S A を恒久的

な大学組織の一部とすることを承認し,エディス・アポットを学部長に任命し

(9)

f

O

プレキンリッジとアポットは,ハルハウスとの密接なつながりを持っていた。

その点で cos を母体とするケースワークの研究・教育でなく,社会福祉及び 関連の公的制度,その立案の根拠としての調査,制度化,専門行政官としての 活動一一ーをその中心に据えて, S  S  A の仕事を始めたのであった。ここで当 時のシカゴを舞台としたジェーン・アダムスとハルハウスの活動について概観

しておきたい。

②  SSA の背景としてのジェーンアダムス及びハルハウス

当時アメリカ資本主義は,南北戦争後の,独占化の急激な進展を主軸として,

急激に展開していた。都市化と,大量の移民流入,そして都市問題,貧困問題 の顕在化もまた,前例を見ない規模でその姿を現わしていた。中でもシカゴは,

その新しい中心地であった。シカゴは労働問題の深刻さにおいて,犯罪の多発 において,他にその例を見ない体験をしていた。

イリノイ州ができたのが 1 8 1 8 年 , 1 8 5 0 年から 1 8 9 0 年の 4 0 年間に,シカゴは,

小さな田舎町から,大都市に成長した。 1 8 6 0 年には人口 1 0 9 , 2 6 0 人,アメリカ で 8 番目の都市になり, 1 9 1 0 年には, 2 0 倍 , 2 1 9 万の人口をもっ,ニューヨー クに次ぐ,アメリカ第 2 の都市となった。 1 9 3 0 年人口は 3 3 7 万 6 0 0 0 人と記録さ れている

o

1 8 6 0 年頃,鉄道の敷設にともなって,西部への進出の拠点として,

商業と交通の要地として中西部の中心的な都市となっていたシカゴはその後 1 8 7 1 年の大火を経て,木造の建物を一掃し,近代的な大都市の外観を整えた。労 働力はいくらあっても足りない状況で,次々に新しい移民が押し寄せた。当然 予想されるところであるが,当時のシカゴは,極めて不安定な,明暗共に激し い変動のなかにあった。 1 8 8 6 年のへイマーケット事件, 1 8 9 4 年のプルマン・ス トライキはその一つの現われである。犯罪の多発もまた, シカゴを代表する社 会問題の一つであった。それら社会問題はまた,社会福音運動 S o c i a lG o s p e l   Movement と,世俗的社会改良運動の指導者たちを引きつけた。ジェーン・ア

ダムスもそのセツルメントの開設の場所として,シカゴを選んでいることにも

明らかなように,多くの社会改良家達にとって,シカゴはまさにその働きを必要

(10)

としている最先端の都市であった。新しい時代は,新しい社会問題をもたらし ただけで、はなかった。急速に発展するアメリカ経済は,科学と教育における新

しい波を呼び起こしつつあった。それは一方における高等教育の改革と拡大,

そして他方において,教育の普及,特に社会教育,生涯教育の発展に見ること ができる

O

その双方に関わって,シャトクワの果たした役割は大きい。当時の急激な社 会変動のまえに,福音の新しい解釈と,積極的な社会活動を志した社会福音運 動の中心にあった牧師たちの多くが,新しい思想運動としてのシャトクワとそ

こにおける同志的結合に希望を見出した。彼らを進歩的教育者たちを結びつけ たものが,新しい社会研究であった。牧師たちは,自らの社会活動の指針を求 め,同時にその同志をふやす場所としての社会科学研究に期待した。 1 8 9 3 年 ,

シャトクワにアメリカキリスト教社会学研究所がつくられたのは,まさに象徴 的な出来事であった。各地の神学校は,その教育なかに社会学を取り入れ,あ るいは実践的に地域活動を展開した。シカゴでいえば,セツルメント,シカゴ・

コモンスがその例である。アメリカのセツルメントは,英国のそれよりも,は るかに宗教色が薄かった。多様な文化的・宗教的背景をもった移民達の存在が それをもたらしたといってもよい。セツルメントでは,宗教的社会改良家たち

と,世俗的な改良家達との出会いがあり,大学の研究者と多様な専門職・知識 人たちの出会いがあり,そのような場としてそれが,社会事業の学問的研究へ

の端緒を開くことになるのである

O

ちなみにセツルメント・ハウスについて,ウォルター・トラットナーは次の 点を指摘する(トラットナー,古川孝順訳, 1 9 7 8 :  1 3 8 ‑ 1 3 9 ) 。即ち,両者の違 いとしては,前者が要救護性に興味を示したのにたいして,後者は貧困に関心 をもち,前者の哲学が私的慈善と精神的引き上げ s p i r i t u a lu p l i f t に向かった のにたいして,後者は社会的並びに経済的な変革をもたらした点を挙げる。言 い換えれば,セツルメントが原理においても行動においても民主主義の典型で あるのにたいして, co s は家父長的,施与者であった。共通点としては両者 とも富裕な中間層を基盤としていること,物質的な状態だけでなく「精神的」

な状態に関心をもったという意味でいずれも「ロマンティック」であったこと,

(11)

そして両者共に,社会調査の必要性を確信していたことが数えられている。 c

O Sから出発したケースワーカー達も,複雑化する社会問題に当面するなかで,

次第により社会経済的視点の重要性に気づき,両者は接近してくるのであるが,

それはさらに後のことである

O

COSからはあまりにも心情的・楽観的・目的がた漢としていることなどを 批判されながら,セツルメントのレジデントたちは,住み込み R e s i d e n t ,調査 R e s e a r c h ,改良 Reform の三つの R をスローガンに,社会的勢力や政治構造に ついての現実的理解に基づいて,数々の制度的改良を提案し,次々に実施に移

していった。

これらセツルメント運動の担い手についてトラットナーは, r 一つには,彼

らも,男も女も,アメリカで大学を卒業したものがかなりの数を占めるように なった最初の世代に属する人たちである o 彼らのためのはっきりとした地位が 用意されていない産業乃至商業社会のなかで成人した人たちであった。頂点に たっ大企業と基底にある組織労働に挟まれて,多くの大学卒業生たちは,自分 たちが生まれついた社会から疎外されているように感じていた。だが大都市の 持つ複雑さと人間に対する挑戦が,彼らに,自分たち自身にとって有意義な生 涯を創造し,同時に急激な産業化及び都市化による変動から生じた社会的な弊 害から社会を救い出すという機会を提供したのであった。 J (トラットナー,古

川訳: 1 4 2 ) と述べている

o

1 8 9 3 年の不況が,その活動を発展させる契機となっ f

こO

セツルメントは, 1 8 9 0 年から 1 9 0 0 年の聞に 1 0 0 を数え, • 1 9 1 0 年ごろには,お よそ 4 0 0 と急速に発展した。シカゴにおいてはハルハウスが 1 8 8 9 年に,ク、、ラノ、

ム・テイラーによるシカゴ・コモンズが 1 8 9 4 年に設立され,共にシカゴ大学及 び SSAに大きな影響を与えた。

特にジェーン・アダムスは,ハルハウスを当時の最も知られたセツルメント とし,シカゴの貧困者街に幅広いサービスを提供するとともに,多くの有能な セツラーを育て,地域調査,行政への改良的提言,労働組合の組織イ t 援助等々,

あらゆる社会問題に挑戦し続けた。彼女はまた,貧困・失業問題,教育問題,

児童問題,そして第 1 次大戦前後は平和問題と,全米各地で講演を行ない,ア

(12)

メリカで最も高名な女性とよばれた。アメリカ全土及びヨーロッパで,各種の 運動団体,例えば, American C i v i l   L i d e r t i e s   Union ,  N a t i o n a l  A s s o c i a t i o ‑ n  f o r  t h e  Advancement o f  C o l o r e d  P e o p l e ,  J u v e n i l e  P r o t e c t i o n  A s s o c i a t  

lOn

等の組織化に尽力し,また連邦児童局や,女子労働者の労働組合等の組織 にも大きな役割を果たしている

O

彼女は,アメリカの経済発展の陰に存在する,

都市の貧困地域の諸問題について訴え続け,その人々の惨めな状態を明らかに した。 1 9 2 0 年代の保守的な時代に,彼女の反戦・平和運動は危険なものと見な され,アメリカ政府は,最も危険なアメリカ人のリストのトップに彼女の名前 を挙げたという。その後, 1 9 3 6 年に彼女がノーベル平和賞を受けるにいたって,

その評価は修正される。

ハルハウスは,多くの優れた女性レジデントを擁して,広い影響力を発揮し た。発足後まもなく加わった F l o r e n c eK e l l y は,チューリッヒに学んだマルク ス主義者で,エンゲルスの著作の翻訳家としても知られ,そのリーダーシップ のもとに行なわれた調査をまとめた H u l lHouse Maps and P a p e r s は,そこ で用いられたマッピングの技法とともに,シカゴ大学社会学部の社会調査にも 大きな影響を与えた。また,ケリーを含めて,ジュリア・ラスロップ,グレイ ス・アポットらをはじめ,多くのレジデントが,シカゴ市,イリノイ州,さらに 連邦の社会諸サービス機関の要職につき,あるいは有力な民間団体の指導者と

なって社会的活動の範囲を拡大していった。ブレキンリッジとアポットも 1 9 0 8

年から 1 9 2 0 年までの間,断続的にではあが,ハルハウスのレジデントであった。

ジェーン・アダムスは, シカゴ大学の社会学部のスタッフをはじめ,内外の 指導的知識人との親交があり,その尊敬を集めていた。彼らはハルハウスの講 演会,夕食会等のゲストとして,また好意的訪問者として,しばしば訪れていた。

③ r S o c i a l  Service Review  J 

社会福祉学の創設期における s . プレキンリッジと E . アポットの最も大き な貢献の一つが, r S o c i a l  S e r v i c e  Review  J の創刊であった。シカゴ大学は,

当時,多くの専門分野における学術雑誌の発行を通して,学問研究におけるリー

ダーシップを造りあげつつあった。大学創立の翌 1 8 9 3 年には既に 5 種類の雑誌

(13)

を発行していた。 J . L a u r e n c e  L a u g h l i n の編集による J o u r n a lo f  P o l i t i c a l   S c i e n c e もその一つである

O

当時発刊されていた社会事業関係の雑誌は,その殆どがサービスの分野毎の 主としてケースワークに関するものであった。例えば, B u l l e t i n  o f  t h e  Ame‑

r i c a n  A s s o c i a t i o n  o f  H o s p i t a l  S o c i a l  W o r k e r s .   B u l l e t i n   o f  t h e  American  A s s o c i a t i o n  o f  S c h o o l  S o c i a l  Workers  (これは後に V i s i t i n gT e a c h e r s  B u l ‑ l e t i n となる), N e w s l e t t r e  o f  t h e  American A s s o c i a t i o n  o f  P s y c h i a t r i c  S o ‑ c i a l   Workers , (後の J o u n a lo f  P s y c h i a t r i c  S o c i a l  Work) などが, それぞ れの分野における職能団体の機関誌として出されている

O

宗教団体の発行によ るものとしては, C a t h o l i c  C h a r i t i e s  Review と J e w i s hS o c i a l  S e r v i c e  Q u a r ‑ t e r l y があり,アメリカ児童福祉連盟は,後に C h i l dW e l f a r e となったその機 関誌 B u l l e t i n を出していた。

慈善組織協会の流れを汲む,家庭児童福祉分野におけるケースワーカーたち,

言い換えれば,当時の主流をなす集団に最も広く読まれていたのは, Family  (現在の S o c i a lCasework) であり, 1 9 3 0 年に創刊された AmericanJ  o u r n a l   o f  O r t h o p s y c h i a t r y であった。いずれも当時の精神分析に基礎をおくケース ワーク関係の記事を中心としたものであった。 Compass が N a t i o n a lS o c i a l   W  o r k e r s  Exchange の機関誌として,社会事業分野の個人,団体,会議等々の 情報を提供していた。 r S o c i a lS e r v i c e  Review  J の創刊の 3 年後に,もう一つ の大学発行の雑誌として SmithC o l l e g e  S t u d i e s  i n   S o c i a l  Work が生れるが,

これはスミスカレッジの修士論文に基づくもの,その殆どが精神医学ソーシャ ルワークを,そして主として精神分析の流れにそった論文を収録している

O

社会問題を扱っているものとしては S u r v e y が唯一とも言ってよい雑誌であっ たが, これは社会問題,社会改良,社会福祉等の広い範囲の題材を扱う一般誌 であって,シャーナリスティックであり,学術的な雑誌ではなかった。 r S o c i a ‑ 1  S e r v i c e  Review  J  (以下 SSR と略記する)はこのような状況のもとでの,

新しい学術雑誌発刊の提案であった。

SSR の内容には,学問的研究を極めて限定されていた分野で新しい定期刊

行物を出していくうえでの多くの困難にもかかわらず,社会事業の学問的研究

(14)

の目的についての編集者たちのしっかりした考え方が,その創刊時から反映さ れていた j ( D i n e r ,  1 9 7 7 :  1 3 ) 。

その形式は,創刊号から永年踏襲されるが,まず最初に社会福祉領域で顕 著な働きをした,あるいは現在行っている人物の写真が掲げられ,引き続い て,主要論文が掲載される。創刊号の内容は,社会学者 E . F a r i s の「人権の 優越性に関する意見」という論文,亡くなったばかりの SSA のスタッフ L . H o u g h t e l i n g の「不熟練労働者の家計 j ,シカゴ大学法学部の E . F r e u n d によ る「第6 2 議会における強制送還法 j , H .   L .   H a r r i s   による「シカゴにおける黒 人の死亡率 j ,D .   M.  L e v y   I 精神医学についてのノート J につづいてプレキ

ンリッジ自身が公的扶助の,連邦及び州の行政組織の問題を論じた「公的扶助 における統制の最近の動向」を書いている

O

これらにつづいて教材としての利用を意図した『資料』の部があり,創刊号 ではドロシア・テ。イックスの調査報告の一部が収録・紹介されている。ついで

『ノートとコメント J の欄で,会議や社会事業動向が紹介され,書評,そして 官庁資料の分析が続く。これはプレキンリッジの意見で,公文書及び公式統計 の知識が,ソーシャルワーカーに不可欠であるとの考えに基づいており,彼女 の法学における学識が発揮されたものであった。

執筆者は米国内に限られなかった。 1 9 2 7 年の創刊当時,プレキンリッジは英 国の T h e o d o r aB o s a n q u e t   に社会改良家 J o s e p h i n eB u t l e r の生誕 1 0 0 年を記念 して彼女の業績について書くことを求めている

O

ハンガリーの C h a r l o t t eLuk  a c s への依頼も行われた。

諸外国の社会保障・社会福祉事情,中でも当時の米国の研究者たちが多くを 学んだ英国とドイツの紹介がしばしば行われた。英国の社会保険についてのロ

ンドン COS と労働党の閣の論争も収録されている。フランス,チェコ,ギリ シャ,ラテン,アメリカ諸国の状況,また国際連盟の文献の紹介が行われ,書 評欄でも, ドイツ語, フランス語,またその他の言語で書かれた文献の書評も

まれではなかった。彼女たちの幅広い研究活動をうかがわせる

O

連邦児童局にいたエディス・アポットの妹,グレイス・アボットは,ワシン

トンからの資料と多くの執筆者の紹介を行った。それらを含めて社会福祉にお

(15)

ける法律的問題が数多く論議されている

O

家族法,家庭裁判所,不法入国者の 強制送還法,各州、 i の社会福祉法などが取り上げられている。

学問的,学際的,そして極めて活発な公的福祉の論議をその特徴とする SS R の強みは,大恐慌と,引き続くニューデ、ィール政策の展開とともに,その本 領を発揮する。

最初は SSA のスタッフの執筆が 3 分の 1 を占めていたが,それは次第に減 少し,シカゴ大学の他学部からの執筆者の比率も,当初の 12% から減少する。

代わって増加するのが, S  SA 以外の社会福祉の研究者及び大学院生,また社 会福祉以外の分野で,シカゴ大学以外の大学の研究者からの執筆であって, S 

SR が次第に全国的な学術雑誌としての地位を確立していく様子がよく現われ ている

O

ニューディールの時期には,行政官の執筆量が大幅に増えて,それも

SSR の基本的立場を示すものであった。

SSR にはまた SSA の調査・研究プロジェクトの報告が掲載されて,それ も当時の SSA の研究状況を反映して興味深い。具体的には,前記 L .H o u g h t ‑ e l i n g の,不熟練労働者の家計がそれであり,また 3 号に掲載された「慈善と 女性の賃金」がそれである。これはシカゴの社会事業団体協議会とシカゴ大学

の社会科学研究基金によって,その地域社会調査委員会 ( L o c a lCommunity  R r e s e a r c h  Committee) が行った一連の家計調査の報告である

o

黒人及びメ キシコ人のコミュニティ及び家族の調査,シカゴ社会福祉協議会の設立経過の 研究等も行われている。

民間社会事業調査が,全国社会福祉・共同募金会の協力を得て行われ,その 統計的分析が受け持たれた。この調査は 1 9 3 0 年,連邦児童局によって引き継が

れることになる。

歴史研究もまた SSR の重要な部分を構成する。実験的な研究が非常に多く の資金を必要とする社会福祉の分野において,それに代わるものとしての歴史 研究の重要性が強調された。従って, S  S  R の『資料』部分は,多くの史料採 録に費やされている

o

歴史,社会福祉行政,政策等に関連する論文の数と比べると,ケースワーク

及びクライエントの精神医学的理解に関するものは,際立つて少なく,それは

(16)

SSA における研究・教育の方針を反映するものであった。 SSA には, 1 9 3 2  

年に C h a r l o t t eTow  l e が加わったが,これがケースワークの理論及び実践の 専門家がスタッフに迎えられた最初であった。トウルは,それまでニューヨー クの児童相談所で働いており, 1 9 4 0 年代になってシカゴのスタッフに加わった H e l e n  H a r r i s  P e r l m a n と共に,いわゆる診断派と機能派の論争を越えて,折 衷的といわれるジェネリック・ケースワークの理論を展開し,公的扶助を含む 現場実践への適用についても鋭い感覚をもち,低所得者層の生活状況とケース ワークの可能性についての洞察を含む論文を発表して,全国的に大きな影響を 与えた人物で,この二人によって SSA のケースワークはシカゴらしい展開を 見たということができるのであるが, しかし彼女たちの影響が目に見えるよう

になるのは, 1 9 5 0 年代以降のことである

o

当時専門職としての社会的承認をめ ざして努力していたソーシャルワーカー達に最も広く読まれた専門誌 F a m i l y と SSR の比較をしてみると,既に述べたように,公的扶助を含む社会福祉政 策,行政についての論文や社会保障,社会福祉の歴史や史料掲載が SSR に多 いのにたいして, F a m i l y は圧倒的にケースワークにかかわる論文を多く収録 し,当時の社会事業教育の傾向をそのままに示している。 1 9 3 2 年から 1 9 4 1 年迄 の 1 0 年間を取って,当時のケースワーク分野における指導的人物を,発表論文 の数と専門職団体の役員歴から全国的影響力の大きさについて順位をつけた研 究によると,その上位 5 0 人の論文で, S  S  R に掲載されたのは,僅か 3 編に過 ぎない。最上位 1 0 人のうち,エディス・アポットとシャーロット・トウルだけ が SSR に書いており, しかもアポットの論文はケースワークに関するもので はない。さらにアポット以外の全ての指導者たちが F a m i l y に執筆しているこ とからみても,社会福祉専門職を志す人々にとっての SSR の位置づけを見る ことができょう

o

3 .   2 0 世紀初頭の女性たちと社会福祉

社会福祉の研究が体系的に行なわれ始めた頃,その主要な担い手は,女性で

あった。 COS の友愛訪問員も,またそれを 1 9 世紀末に徐々に号│き継いだ職業

(17)

的な訪問員も,女性たちが主力であった。セツルメント,特に宗教的なそれは,

神学校卒業生を中心に男性のレジデントを含んでいたが, しかし圧倒的多数,

特に世俗的なそれのレジデントは女性たちであり,それは英国のセツルメント との際立つた違いの一つでもあった。これらの女性たちを極めて実践的な社会 活動と社会改良運動に駆り立てた背景には,当時のアメリカのなかで,シカゴ に現われていた。激しい社会変化があり,そこに顕在化した大都市の社会問題 と,それに対応する市民の諸活動があった。

その諸条件を考察すると,そこに二つの大きな力の働いているのを見ること ができる。簡略化の危険を承知で要約すると,それらは,女性たちに高等教育 の道が開かれ,社会的活動の機会が拡大したことをめぐる社会的条件から生れ ている。ひとつは当時の社会問題とそれへの諸対策が,社会活動を志して,そ の具体的な場を見出せずにいた女性たちの,思想主義的な価値観に訴えるもの を持っており,それはまた多くの進歩的な宗教家,教育学者,哲学者,社会学 者たちの関心とも共通するところがあって,それまでの慈善的事業とは異なっ

た新しい視野と可能性を提供したという事実がある

O

そしてもう一つは,高等 教育や社会活動への女性の参加について協力的であった諸機関もまた,当時な お協力であった家父長制的な家族観や,男女の役割分担の思潮から自由ではな く,男女の平等を認ながらもなお,女性には女性に相応しい活動の場,活動の 形態があるとする考え方から解放されていなかったこと, したがって女性の活 動の場は男性のそれとは別個に設定されることが多かったことがある

o

しかも

それは,女性の主張する価値観が,当時独占の進行とともに興隆しつつあった アメリカ資本主義の,個人主義的な自由競争の価値観と矛盾するものであるこ とが明らかになるにつれて激しくなり,また, 1 9 2 0 年代にはいって,科学研究 を含む新しい専門職の制度化が急速に進み,科学研究自体もまた巨大化,専門 分化していくにつれて各所に混乱をもたらすようになった。

①  家庭的・教育的背景

さて,プレキンリッジとアポットを含めて,ハルハウスを中心に活動した指

導的な女性たちの社会的背景には,資本主義社会の形成過程におけるアメリカ

(18)

の歴史的条件が見事に反映している

O

彼女たちの父親の多くは裕福なアメリカ 国民で, リベラルな考え方をもち,奴隷廃止運動の活動家であったり,また地 方政治や連邦議会の舞台で,重要な働きをしており,教育熱心な人達であった。

彼女たちの生年と,父親の職業,思想・信条を見てみよう

o

ジュリア・ラスロッフ。

フローレンス・ケリー ジェーン・アタ。ムス

1 8 5 8   奴隷廃止論者の父をもっ 1 8 5 9   父は政治家,下院議員

1 8 6 0   父はクエーカー,奴隷廃止論者,イ リノイ州北部の富裕な事業家,イリ ノイ州上院議員

ソフォニスノ

f

・プレキンリッジ 1 8 6 6   アポット姉妹 1 8 7 6 ,  1 8 7 8  

父は政治家

父はネプラスカ州の第一副知事母は 高校長,婦人参政権運動家

社会的関心の豊かな家庭に育った彼女たちは,当時ようやく女性にも聞かれ た大学に学び,専門教育を受けている

O

一覧にすると,次のようである

o

ジュリア・ラスロップ ヴァッサ一大学 1 8 8 0  

フローレンス・ケリー コーネル大学卒,チューリヒ大学留学,ノー スウエスタン大学法学士

ジェーン・アダムス ロックフォード女子神学校

ソフォニスパ・プレキンリッジ ウェルズレ一大学 1 8 8 8 ,  1 8 9 4 年,ケンタッ キーで初の女性弁護士となる,シカゴ大学法 学部(はじめての女子卒業生)女性として初

めてのシカゴ大学 P h .D .   (政治経済学) エディス・アボット

グレース・アポット

ネプラスカ大学 1 9 0 , 1 シカゴ大学 P h .D .   ( 経 済学) 1 9 0 5 ,英国 LSE 留学

グランド・アイランドカレジ 1 8 9 8 ,

②  聞 か れ た 機 会 と し て の シ カ ゴ 大 学 及 び セ ツ ル メ ン ト

これらの女性たちの研究と教育活動の場として, シカゴとシカゴ大学が果た

した役割は,大きなものがあった。

(19)

1 9 世紀の半ばから,いくつかの大学と専門教育機関への女子の受け入れは始 まっていたとはいえ,未だ限られたものであった。職業活動の機会といえば,

家事使用人や雑役,農業労働から生産工まで,働く女性は存在していたが,専 門的な職業や, ビジネスの世界への女性の進出は未だ見られず,女性の自立や

自己実現を前提とした職業は,一部の女子教育機関における教育職を除けば,

殆ど無かったといってもよい。

全体的に見て, 1 9 世紀半ばまでのアメリカ高等教育機関は,一般に規模が小 さく,多くは教派的背景をもつものであった。高度の学問的研究を志す人々は,

ヨーロッパに学ぶのが常であった。その改革は, 1 8 7 6 年に,ジョンズ・ホプキ ンス大学にアメリカ最初の大学院が設置されたときに始まる

O

ジョンズ・ホプ キンスは特に歴史学,政治学におて全国をリードするとともに,引き続くハー ヴァード,コロンピア, ミシガン等の大学改革の口火を切ることになった。シ カゴ大学が,誕生したのは,このように,アメリカの教育の世俗化と専門化が,

新しい時代の要請を反映していた頂点ともいうべき時期に当たっていたのであっ た。急速な経済の発展がもたらした,新しい機会を生かしての階級的上昇を志 向する中産階級の要求は,これら世俗化し,専門化していく高等教育機関を積 極的に利用して,自らの生活を向上させようとの意欲につながっていた。そし てそれが女性の勉学意欲の活性化の背景でもあった。

シカゴ大学は, 1 8 9 2 年のその創立の当初から,女子を学生として受け入れた のであった。その進歩的な教育理念の一環として,女性教育は位置づけられて いた。当時女子に門戸を開いていた大学院は米国全体でわずかに 4 校,シカゴ,

エール,ペンシルヴ、ェニア,スタンフォードのみであった。女性たちは, シカ ゴに聞かれたこの機会を充分に活用した。 1 9 0 3 年の報告によれば,学士号を得 た 1 1 6 4 人の学生のうち, 6 1 4 人が男子, 5 5 0 人が女子で,その構成比率は 53%

と 47% であったことが記されている

O

そのうち, 1 4 5 人の男子と 1 9 9 人の女子

が優等で卒業しており, 4 4 人の男子と 7 3 人の女子が特別優等生として卒業して

いること,女子が,男子と同じ比率で優等賞を得るとすると,それは 1 3 0 の優

等賞と 3 9 の特別優等賞となるはずであって,実際の 1 9 9 及 7 3 という数字は,女

子学生のほうが,優れた成績を得ていることを示している

O

(20)

しかしこれらの機会を活用して教育を受けた,意欲的な女性たちは,自分た ちの力を発揮する場を見出せず,伝統的な,家父長的な価値観との相克のなか で苦しんでいた。象徴的なことであるが,この時期に社会的活動に乗り出した 女性たちの何人かは,その活動開始までの幾年かを,精神的な苦しみと,恐ら くそれと無縁ではない身体的な病患とに苦しんでいる

O

ジェーン・アダムスも フローレンス・ケリーもそうであった。少し時代をさかのぼれは, ドロシア・

ディックスもそうである

O

ブレキンリッジも例外ではなかった。ジェーン・ア ダムスは長い失意と混乱の時期の後,友人と二人で旅立つた 2 回目のヨーロッ パ訪問で,英国のセツルメント運動に出会うのである。

ひとたび目標を見出した後の,彼女たちの集中力と,激しいまでの活動力に は,自を見張るものがある。社会福祉の領域が,彼女たちにとって,まさに新

しい可能性を提供したことを示している

O

セツルメントは既に述べたような急速な発展を背景に,これら高等教育を受 けた若い女性たちにとって,またとない機会であった。セツラー達の平均年齢 は 2 5 歳前後,通常 3 年程度はレジデントとして住み込んでいるが,その 90% は 大学卒業生,その半数が大学院の修了者であったといわれている。 M i c h a e lK ‑ a t z は,セツルメントの雰囲気は,大学の寮の共同生活によく似ていて, 自由 で解放的であり,知的刺激に満ちていて, レジデント達は,いわばキャンパス ライフの延長としてそれを楽しんでいた面もあったにちがいないと指摘する ( M i c h a e l  K a t Z .   1 9 8 6 :  1 6 0 ) 。大学が,当時も今も,男女の平等を最も多く体 験できる場所であることを考えれば,うなづける一面である。

そして同じことは. cos から病院,学校,児童福祉とその分野を広げつつ

あったケースワーカー達にとっても言うことができる。教師と並んで,圧倒的

に女性の多い専門職として,そのアイデンティティを確立しようとする動きに

は,社会的必要と,自らの自己実現を重ねあわせるものの勢いがあったという

べきであろう

o

(21)

③  「新しい機会」をめぐる矛盾

1 9 世紀迄支配的であった家父長的家族観と,それに裏付けられた男女の役割 分担についての考え方を,女性の社会的活動とどのように調和させるか,それ ともそれらを過去のものとして否定するかといった課題は, 2 0 世紀初頭の,高 等教育を受けた女性たちにとっての共通の課題であった。それはまた,フェミ

ニストを自認する場合はもちろん,そうでなくても,指導的立場に立つ多くの 男性にとってもまた,対応の難しい問題であった。そしてそこには既に述べた

ように,二つの流れがあった。

一つは,社会的活動を, r 女性」の社会化,あるいは「母性」の社会化とし て位置付けようとするものである。さらに積極的には,久しく「女性的」とさ れてきた価値,例えば愛,平和,家族,子の教育,病人や老人の看護といった 領域に限定されてきた他者への配慮や信頼といった価値を,当時の激烈な競争 社会にむかつて,対抗価値として提起することを,社会的に進出する女性の責 務と考える立場もあった。その最も明確な形を,我々はジェーン・アダムスの

なかに見ることができる

o

第 2 の流れは,多くの男性たちによって唱えられた立場であるが,男女の区 別のもとでの平等という考え方である。男女はその能力において平等であって も,女性には女性の領域があり,それを守って,その範囲内で行なわれる社会 的諸活動は, r 女性らしさ j を生かすものとして承認するが,男性により適し た諸領域への参入は奨励しないというものである

O

これは当時の新しい社会的 要請に,真正面から答えようとして,それを自らの責務と考えていたエリート 男性たちに見られるものであった。本小論の主題との関連で言えばシカゴ大学

の社会学部を,全米の,また世界の社会学研究の頂点にたっ機関として作りあ げようとしていた人々のなかに,その表現を見ることができる

O

やや詳細に,それぞれの内容を見てみよう

O

前者の立場にたつジェーン・アダムスの場合は, r 女性的」であることを明確

に意識していた。女性の代表する価値を当時の自由競争原理に基づく社会にた

いして,対抗的に打ち出し続けたのか女性の生涯であった。 D . グリーンストー

(22)

ンは,アメリカ・リベラリズムの主流をなす「個人と集団(特に企業)の最大 の利益の調和への関心」に基づく思想と明確に異なる流れとして,アダムスと ドロシア・ディックスをおき,それを「文化的水準と個の発達への関心」に基 づくりベラリズムとする ( D a v i dG r e e n s t o n e ,  1 9 7 9 ) 。前者の立場にたてば,

アダムスらの社会改良運動は, r 名誉ある, しかし二次的な存在理由を人主義 に与える」という社会的合意のもとに,アメリカ資本主義の衝撃緩和剤として の位置を与えられることになる

O

しかしそれは 1 9 世紀アメリカ社会における,

公的生活への女性の参加がどれほど困難であったかを考慮しないまま,アダム スらの仕事の性格とその意義を無視することにつながるというのがグリーンス トーンの立場である

o

( G r e e n s t o n e ,  1 9 7 9 : 5 3 0 ) ドロシア・ディックスがエマー ソンの影響を受けて,道徳的堅固さと自律に重点をおいたのにたいし,デュー イを始めとするプラク

o

マテイズムに大きく影響され,独占化の進行とともに噴 出する貧困問題に直面したアダムスは社会的共同行動と道徳性のかん養に重点 をおいたという違いがあるが, しかし両者は共通して,激烈な個人競争,弱肉 強食の論理にたいして,伝統的に女性のものとされてきた文化に基づく,人間 性尊重の価値の主張があり,それらは社会集団閣の利害調整をその方法とする 社会改良とは異なった文脈を持つ,というのがグリーンストーンの論である。

女性学において,文化フェミニズムといわれるものの内容に近い。

この観点に立っとき,アダムスの行動は一貫性をもっ

O

彼女が, S  S  A のシ カゴ大学への移管に反対したのも,単に実践的な教育ができなくなるという危 倶ではなかったのではなかろうか。彼女はそれより 2 5 年も前に,創立聞もない シカゴ大学社会学部が,ハルハウスルをシカゴ大学の付属あるいは提携施設と したいと申し入れたとき,既にそれを断わっている

O

彼女にとっては,新興都 市の野心的な大学という制度そのものが,当時の支配的社会通念の強力な援護 者たるべく,精力的な計画を持っていて,彼女自身の価値体系とは鋭く対立す る要素を内包していることに気づいていたにちがいない。彼女の思想を文化フェ

ミニズムとみなすディーガンは,彼女の思想を現代の自然保護運動につながる 流れであるといっているが,そのような見方も可能であろう (M よ D e e g a n ,

1 9 8 8 ) 。進歩党も,ニューディール政策も,彼女の提案したプログラムを殆ど無

(23)

条件で取り入れながら,彼女が戦争反対を打ち出し,移民制限に闘すするとき,

一転して彼女を危険人物と見なす。 1 9 2 0 年は,世界を覆ったボルシェヴイキ革 命への恐怖と結び付いて,彼女への冷たい風当りの,最も強い時期でもあった。

もう一つの立場,即ち,男女の「区別」のもとでの「平等」の考え方が, シ カゴ大学社会学部にはどう表われていたかを,検討してみよう

O

社会学部の開 設された 1 8 9 2 年から,彼自身が7 0 才で引退する 1 9 2 4 年までその責任者の位置に あった AlbionSmall の,この問題についての考え方に関して,ディーガンは 次の点を指摘する (M. Deagan 1 9 8 8 :  1 9 6 ‑ 1 9 8 ) 。即ち,彼は男女の能力は同 じであるとしながらも,その特質はそれぞれに異なり,女性は,よりヒューマ ンで,情緒的バランスを重視し,調和を求めるのにたいして,男性はより競争 的であり,それぞれの特質を生かした分業であるべきであると考えた。同等の 教育の機会を提供することは重要だが,その教育への反応はそれぞれ異なる,

とした。女性の所属すべき場所は基本的に家庭であると考え, しかしその家庭 もまた,学問的研究の対象となるべきであるという彼の立場が,のちにブレキ ンリッジを援助することになるタ

l

レポットを女子学監として雇用することにつ ながり,社会学部のなかに家政学部門を設けることにつながるのであった。両 性の社会的,性的役割の相違がこれらのことの基盤に存在するというのがスモー ルの意見あった。スモールが,シカゴ大学においてその在任中に行なったこと で,男女の「区別」を定着させる要因となった特に重要なこととして,二つの

ことをディーガンは指摘する。

一つは, 1 9 0 3 年,学部の 1 年及び 2 年の教育を男女別学にするという決定で ある

O

社会学部のなかでも, ミードはこれに反対したが,男女の成熟の早さが 違うことが,特に男子の教育の妨げになるという理由で,スモールはこれに賛 成し,この制度は実施された。このことは, I 区別」された「平等」の思想を 示しており,それが制度的に定着した例として大きな意味を持っていた,とい

うのがディーガンの意見である o

もう一つは,より重要なことであるが,スモールがその実権を握っていた,

卒業生,特に大学院の修了者の就職をめぐる状況である。当時は大学院生は,

いずれかの研究・教育機関から, I 招かれて」就職するものであって,その交

(24)

渉は,学部長であるスモールと卒業生を求める大学の然るべき人物との間で行 なわれるのが慣例であった。少なくとも 1 9 2 0 年まではそれが普通であったとい う

o

卒業生たちは,自ら職を探すわけではなかった。当時のシカゴ大学が,米 国の社会学界に占めていた圧倒的な優位性からいって,また増加を続ける大学 及び大学院の数からいって,就職の機会はかなり豊かだ、ったはずである。スモー ルの自には,アカデミックな機関への就職は,男子にふさわしく,女子の修了 生にはセツルメントその他のこれに類する機関が適当とみえていた

O

この傾向 は,社会学が学問としての基盤を固めるにつれて一層強まり,女性は大学,特 に大学院における地位を斡旋してもらうことがますます少なくなったとディー ガンは言う。これは社会学の内部での,男性は「理論 J に,女性は「応用」に,

という分業,また男性は「大学」に,女性は「セツルメント」に,さらに男性 は「社会学」に,女性は「社会事業 J にという分業を固定化することになった,

といわれている

O

これらのこつの流れが,男女を問わず一般市民の目には, しばしば混同して 表われることが,事態を一層複雑にした。アポットらの働いた頃のシカゴであっ た 。

4 .   S . ブレキンリッジ及び E . アボットと SSA

S o p h o n i s b a  P r e s t o n  B r e c k i n r i d g e は , 1 8 6 6 年,ケンタッキーのレキシン トンに,政界の有力者であった家族に生れ,ウエルズレ一大浮を 1 8 8 8 年に卒業,

1 8 9 4 年に試験を通って,ケンタッキーにおける初めての女性弁護士として開業 するが,女性であることから依頼者を得ることができず,もんもんとした日を 過し,その悩みをシカゴ在住の同級生に訴えたところから,シカゴ大学の女子 学監をしていたウェルズレー大学当時の旧師, M . タルポットの計らいで,タ

ルポットの補佐としてシカゴ大学に赴いた。在職中に,彼女は法学と政治経済

学の二つの学位を取得した。法学部を卒業した最初の女子学生でもあった。際

立って優れた学生であったにもかかわらず,彼女には,フルタイムの地位が与

えられず,満たされない日々を送っていた。女性であるために機会を与えられ

ず,厚い壁に進路を阻まれている思いに取り付かれていたに違いない。

(25)

1 8 9 9 年,タルポットは,家政学部門を社会学部のなかの独立した部問として 組織する。ブレキンリッジはそこの講師として 5 つのコースを教えることに なった (M.Deegan 1 9 8 8 : 4 4 ) 。ディーガンはこれを「性別による分離」の原 理に基づく研究組織の始めであるとして,それを「常に明確な存在,男子のそ れよりも低い地位,にもかかわらず,特に女子学生にとっては,主要な訓練と 教育の場 J と述べている。

彼女が,自らの人生の主人公としての自覚をもって歩み出したのは, 1 9 0 7 年 ジェーン・アダムスのと出会いからであった。 4 1 歳になっていた彼女は, 1 9 0 8   年,ハルハウスに移り住む。その年,既に述べたようにラッセルセイジからの 助成金によって S c h o o lo f   C i v i c s   and P h i l a n t h r o p y 設けられた調査・研究 部門への協力をジュリア・ラスロッフ。から求められていたプレキンリッジは,

彼女のもとで大学院生としての訓練を,家政学部門で受けたエディス・アポッ トが,ウエルズレ一大学に行っていたのを呼び戻して,ともにかねてからの念 願であった社会福祉学の研究に打ち込むことになるのである。彼女の研究は,

法社会学,社会福祉行政といった分野にわたり,主な著作としては Women i n   t h e  T w e n t i e t h  C e n t u r y   ( 1 9 3 3 ) ,  S o c i a l   Work and t h e  C o u r t s ( 1 9 3 4 ) ,  P u b l i c  W e l f a r e  A d m i n i s t r a t i o n  i n   t h e   U n i t e d  S t a t e s   ( 1 9 3 8 ) 等を挙げる

ことができる o

ブレキンリッジはラスロップが連邦児童局長官としてワシントンに赴いたあ とを受けて学校の責任者となり, 1 9 2 0 年,それをシカゴ大学に移管するに当たっ ての中心人物となった。 SSA では, i ソーシャルワークと法廷 J i 家族と国家」

などのコースを担当している

o

1 9 3 3 年に引退するまで,極めて活発な研究者,

教育者,また社会活動家であった。アメリカソーシャルワーカー協会,イリノ イ社会福祉協議会,アメリカ社会事業学校連盟等の組織者の一人であり,その 役職を務めもした。その間一貫して,夏の 3 か月をハルハウスレジデントとし て過したという。

E d i t y  Abbott は,プレキンリッジよりも 1 0 歳年下で, 1 8 7 6 年ネプラスカに

生れる。ネプラスカ大学の学部では社会学者 E .A .  Ross の指導を受け, シカ

ゴ大学ではプレキンリッジの指導を受けて, W  omen i n   I n d u s t r y の研究をま

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