社会福祉学の創設期を担った女性たち
ーシカゴ大学の場合一
窪 田 暁 子
1 アメリカにおける社会事業教育の誕生
2 C h i c a g a o S c h o o l o f S o c i a l S e r v i c e A d m i n i s t r a t i o n (S S A)
3 2 0 世紀初頭の女性と社会福祉
4 ブレキンリッジ及びアボットと SSA
はじめに
社会福祉の歴史はその実践においてのみならず,研究・教育においてもまた,
多くの女性をパイオニアとして持っている
o社会福祉が,老・幼・弱者の世話 という「女性向き」の仕事であると見なされてきたこと,即ち家事・育児・病 人の看護という仕事との親近性と,社会的弱者としての自らの立場に根ざす弱 者への共感,家事や育児を通して培われる「生活感覚 J などが社会福祉に適し ているといった考え方が,その背景に存在する。慈善事業は,政治・経済的な 利害を越えて人々に訴えるものがあり,他面それ自体として大きな政策課題に ならないままに推移した長い歴史を持っている
Oしたがってそれは野心的な男 性にとって,魅力ある領域にはならず,そのため社会的な活動を望む女性たち にとってしばしば,開かれた唯一のフィールドであった。しかしながら育児に しても弱者の日常的な世話にしても,それらが家庭内で行なわれるのと,社会 福祉事業として行なわれるときとでは,その性格は大きく異なる。それらが
「社会的に」行なわれることこそ,まさに社会福祉の本質なのであって,その
仕事は,高度の社会性,組織力を必要とし,きわめて積極的な,活動性の高い ものである。
したがって,社会福祉を,とくにその創設期において担った女性たちは,何 処でその組織者としての,社会的活動家としての,基本的力量を身につけたの か,新しい経験のなかで当面する困難にどう対処したかという問題が,あらた めて我々の注意をひくのである
oざきに我が国の慈善事業の創立に当たった女 性たちの,社会的,教育的背景について論じたが,それに引き続いて社会福祉 の研究と,専門教育の創設期を担った女性たちについて,同様の検討を試みよ うというのが,本小論の課題である。今回はそれを,アメリカで(そして世界 で)最初の社会福祉学の大学院として創設されたシカゴ大学 S c h o o lo f S o c i ‑ a l S e r v i c e A d m i n i s t r a t i o n (社会サービス行政管理学部)の中心であった,
ソフォニスノ
T・プレキンリッジ S o p h o n i s b a P r e s t o n B r e c k i n r i d g e ( 1 8 6 6 ‑ 1 9 4 8 ) とエディス・アポット E d i t hAbbott ( 1 8 7 6 ‑ 1 9 5 7 ) について行い,当時の
シカゴにおける社会福祉実践として大きな役割を演じたジェーン・アダムス J a n e Addams とハルハウスの影響について言及したい。特に女性にとっての 新しい機会であった社会福祉学の研究と教育が,同時に彼女たちにどのような 課題を突きつけたかを中心に論じたいと考える。それは 1 9 世紀の終りから 1 9 2 0 年代にかけてのアメリカの社会状況,高等教育の発展,特にシカゴ大学社会科 学諸学部の発展と無関係には語れないものがあり,他方当時の社会福祉の実践 と,ケースワークを軸に専門職への道を強烈に指向していたソーシャルワーカー 達の動きと深い関連を持っていた。
1 .アメリカにおける社会事業教育の誕生
社会事業教育は,専門職業人の養成・訓練についての社会的要請と,社会事
業に関する研究の蓄積,またその基盤となる社会諸科学の進展を,その前提と
する。アメリカにおいて 1 9 世紀の末に生れた社会事業専門教育は,その大多数
が,有力民間社会事業団体としての慈善組織協会 (C 0 S : C h a r i t y O r g a n i z
a t i o n S o c i e t y ) の職員養成の必要に応える,職業教育としてのそれであった
O当時の状況を概観してみよう
O① 1 8 9 3 年 , Anna L . Dawes がシガゴの万国博覧会で意見を発表し,貧困 問題に関する社会経済理論の基礎と,慈善事業入門,実習を含んだ,非教派的 教育課程が造られるべきことを主張した。これは安価な労働力を確保しようと
いう意図をも合わせ持ったものであったという
O同じ年バッフアロー cos 協会の N a t h a n i e lS . R o s e n a u は,慈善施設の長
や cos の友愛訪問員たちの質をもっと高めなくてはならないと主張し,この 種の仕事のために特別の訓練を受け,それを転職として選び取った人々によっ て担われるべき仕事であるとして,そのための訓練課程の新設を,ニューヨー
クの協会宛に依頼した。
② 1 8 9 7 年,全国慈善矯正事業大会で, Mary R i c h m o n d は,当時各慈善組 織協会で一般に行われていた見習い研修制度は,あまりに実際的な教育に偏り,
同時にあまりに早い専門分化を強制するものであるとしてこれを批判し,医学 教育のように,社会事業に従事する人々の聞に共通の理解を作り出すとともに,
専門職としての知識を蓄積していくことのできるような広い基礎をもった教育・
研究機関を造るべきであるとの提案を行った。
③ 1 8 9 8 年,先のバッフアロー cos 協会の N a t h a n i e l S . R o s e n a u の要請 に応えて,ニューヨークの cos が , Summer S c h o o l o f P h i l a n t h r o p y を設
立した。
背景には当時ますます複雑化し,巨大化する都市を中心とした社会問題と,
それに対する各地の cos 及びセツルメントに代表される民間社会事業の拡大 があった。 cos 職員の訪問活動は,移民の増加,貧困地域の膨張などにとも なって,ボランティアでは処理出来ない質のものへと複雑化していった。ソー シャルワーカーたちは,まもなく病院ソーシャルワーク,学校ソーシャルワー クにその活動の場を広げ,同時にその訪問活動の体系化も,やがて 1 9 1 7 : 年の M ・
リッチモンドの S o c i a lD i a g n o s i s に結晶するような交流と研究が始まっており,
人々は,教育という形で伝達すべき技能の存在を確信していた。その教育は,
徒弟的な実習による訓練の単なる代替としてではなく,社会事業が「科学的」
根拠をもったものであることを具体的に証明しようとの意図を含み,
専門職にむかつての意識的な努力を ( R . L u b o v e , 1 9 6 5 ) 始めつつあった当時 の社会事業の状況をそのままに反映していた。
これら養成校の性格について,アメリカの専門社会事業職の成立を述べた著 書 T h eP r o f e s s i o n a l A l t r u i s t ‑ ‑ T h e E m e r g e n c e o f S o c i a l Work a s a C a r e e ‑
r 1 8 8 0
・1 9 3 0 のなかで, Roy L u b o v e は,次のように述べている o r 多くの場合,
大学への所属は,形式的なものであって,財政,カリキュラム内容,入学者の 選抜方針等々,実際の「所属」はむしろそれぞれの都市の社会事業常設・団体・
機関へのそれであった。社会事業機関が,教師を,実習機関を,卒業生の職場 を提供し,学校は社会事業団体・施設の実際的要求を満たす方向でそのカリキュ
ラムを編成した。公式に表明されている入学資格とカリキュラムはそれぞれ異 なってはいたものの,何れの場合にも,極端な専門分化と,理論及び調査研究 よりも技術が優先される具体的,実際的カリキュラムへの傾向が見られた(R.
L u b o v e 1 9 6 5 : 1 4 3 ) 0 J L u b o v e はまた,この分化した実際的教育という遺産と 併せて,ケースワークがカリキュラムのなかで中心的な位置づけを与えられた こと,それが最も明確化されたソーシャルワークの技術であると見なされ,社 会事業教育機関に必須の科目と考えられるようになったことを指摘して, r 専
門職団体と同じく,専門教育機関もまた,ケースワーカー達によってその性格 を定められ,専門職の分化を支配する手段とされ,ケースワークがソーシャル ワータの技能の中核に据えられることにつながっていった J ( R . L u b o v , e 1 9 6 5 : 1 4 3 ) と言命じている。
上述の各学校の設立経過に明らかなように,アメリカの社会事業教育は, c os を中心とする社会事業団体が主導的な役割を演じて組織されたものであっ た。ケースワークに関する最初の体系的著書として広く受け入れられたメリー・
リッチモンドの S o c i a lD i a g n o s i s ( 1 9 1 7 ) が,慈善組織協会における仕事に基 づいて書かれたということもあり,当時の教育の主目的は,後援者である慈善 組織協会,家庭福祉事業のケースワーカーとなる人材の養成にあったことは明
らかである
Oそのなかにあって, シカゴだけは,設立の背景が cos ではなくセツルメン
トであったこと,公的福祉とその科学的調査・研究が主眼とされたこと,そし
て大学院を中心とするシカゴ大学に正式に所属していたことの 3 点で,その他 の教育機関と大きく異なっていた。いいかえれば, C h i c a g o S c h o o l o f S o c i a l
S e r v i c e A d m i n i s t r a t i o n (以下 SSA と略記する)は,社会調査,福祉行政,
幅広い専門教育への際立つた関心を払い続けた当時唯一の例外であった。社会 事業の将来は広い範囲の制度的,地域福祉的問題を扱うことのできる行政・管 理者を養成できるかと、うかに掛かっているとの考えからであった。様々の経過 を経て 1 9 2 0 年に, S SA がシカゴ大学の大学院となることが決定したとき,ア カデミックな環境ではケースワークと実習は生き延びることができないだろう という厳しい忠告と批判があったということも容易にうなずけるところである。
しかし SSA は世界で始めての大学院レベルの社会福祉教育・研究機関として その歩みをはじめ, 1 9 2 7 年には学術雑誌 S o c i a lS e r v i c e Review (以下 SSR と略記する)を創刊して全国的に重要な役割を演じ続けたのであった。 S o p h o ‑ n i s b a B r e c k i n r i d g e と E d i t hAbott の編集方針によって, S S R には社会福 祉の主要な任務を社会問題の解明と,その解決あるいは緩和の方策を見出すこ
とにあるとする立場が貫かれていた。
SSA の , このような独自のあり方は,当時のシカゴ,そこにおける社会問
題と,それに対するセツルメントおよびセツルメントを中心とする社会改良運
動,新興都市の,新しい大学として積極的にシカゴ地域および時代の問題と取
り組んでいたシカゴ大学,という一連の背景がある
oS S A をっくり, これを
社会福祉の学問的研究の拠点としようとして力を尽くしたのは,上記プレキン
リッジとアボット,当時ハルハウスを中心に,社会福祉の広い分野に活躍した
女性たちであった。その経過のなかに,当時の女性の社会的地位と,彼女たち
にとっての新しい機会であった社会事業の関係を読み取ることができるのであ
る
Oいわば社会福祉学の創設期というべきこの時期に,それを担った女性たち
は,どのような背景をもった人々であったか,まず SSA の設立の経過をやや
詳細に見てみよう
O2 . C h i c a g o S c h o o l o f S o c i a l S e r v i c e A d m i n i s t r a t i o n (S S A)
① 設立経過
既に述べたように C h i c a g oS c h o o l o f S o c i a l S e r v i c e A d m i n i s t r a t i o n は , 1 9 2 0 年 , シカゴ大学の一部となって,学部及び大学院における社会指祉の教育・
研究機関としてその歩みを始めた。 1 9 2 7 年には,全国的に大きな影響力をもっ た季刊雑誌, S o c i a l S e r v i c e Review を発刊し,米国はもちろん,国際的にも 社会福祉の研究に大きな役割を果たした。大学院を主体とする大学として急速 に発展したシカゴ大学にあって,国際的視野のもとに,社会諸科学の発展を日々 身近にしつつ研究の行なわれる,世界で初めての社会福祉の大学院の誕生であっ た。容易に想像されるように,その発足までには,様々の経過があった。
さてアメリカ合衆国中西部にはドイツ及びスカンジナピアからの移民が,そ のプロテスタント信仰をもってやってきたところから,その影響が強く,勤勉 で,教育熱心な人々が多いところでもあった。 1 8 9 1 年にシカゴ交響楽団が創ら れ,その音楽的伝統も高く評価されている
o1 8 9 3 年のシカゴ万国博覧会は,ア メリカ大陸発見 4 0 0 年を記念して行われ,シカゴの文化的創造活動に活力を与 えた。
シカゴ大学が創られたのは,まさにこのようなときであった。大学は 1 8 9 0 年 に設立され,最初の学生を 1 8 9 2 年に受け入れている
Oロックフエラーからの財 政援助と,シカゴ市の有力者たちからの支援が取りつけられ,大学は設立は当 初から, シカゴ市と深いつながりを持っていた。第 1 代の総長 Wi l l i a m R a i n e ‑ y Harper は大学を基本的に研究と大学院教育の場とすることを提案した
O彼 は極めて短期間にシカゴ大学を,全国的に重要な大学として,その地位を不動 のものにした。研究を中心とする大学としては,既に 1 8 7 9 年にジョンズ・ホプ キンス大学ができていたが,シカゴ大学は,それよりもいっそう研究を爵見し,
その点で学部を中心とするそれまでのカレッジとは異なっていた。ジョンズ・
プキンスの影響は, 1 8 8 8 ‑ 8 9 年に歴史学で Ph . D をとった社会学のスモール と , 1 8 8 3 ‑ 8 5 年に哲学と心理学を学んで Ph . D を得たデューイを通して, シ カゴにも及んでいた。ジョンズ・ホプキンスにつづいてクラーク大学が,そし て第 3 にシカゴ大学が大学院中心の大学として開設されたのであった。
他大学の経理に学びながら,シカゴ大学は,多くの大学院研究科を作り,競 争を奨励し,専門分化を進め,多くの学術雑誌を刊行して,学問研究における 指導的地位を確保していった。またハーパーは彼の 1 8 8 0 年代のシャトクワ運動 における成人教育経験を生かして,有力な大学拡張部門を設け,シカゴ市民と の幅広い接触と,シカゴ地域問題との生きたつながりを取り入れようとした。
なかで、も社会諸科学部門の発展は,当時のシカゴ社会的諸条件を背景として いた。当時のシカゴの活力とその深刻な社会問題,東部の大学よりも自由で民 主的な雰囲気,シカゴ市との深い結び付き,体系的な研究の奨励, これらの要 素が働いて,社会諸科学部門の発展を促進した。
C h i c a g o S o h o o l o f S o c i a l S e r v i c e A d m i n i s t r a t i o n は,もともと 1 9 0 3 年 , シカゴ大学の大学拡張部門の一環として, S o c i a l S c i e n c e C e n t e r f o r P r a c t i c ‑ a l T r a i n i n g i n P h i l a n t h r o p i c and S o c i a l Work の名称のもとに組織され,
グラハム・テイラー (GrahamT a y l o r ) がその責任者となったものであった。
テイラーは,当時セツルメント シカゴ・コモンスの主任レジデントであって,
同時にシカゴ神学校の教授でもあり, シカゴ大学の講師でもあった。最初それ は , 1 2 週間のコースとして開設された。シカゴ大学は 3 年後にその運営から手 を引き,其の後はシカゴ・コモンスが責任をもつことになった。 1 9 0 8 年,ラッ セ
jレセイジ財団が,社会調査部門の開設のために 5 万ドルの寄付を行なった
とき,それを機会に,独立した理事会をもっ法人として, C h i c a g o S c h o o l o f C i v i c s and P h i l a n t h r o p y がつくられた。その年,ラッセル・セイジが基金 を提供した社会事業学校は,シカゴのほか,ニューヨーク,セント・ルイス,
ボストンであった。シカゴでは,ジュリア・ラスロップ ( J u l i aC l i f f o r d L a t ‑ h r o p 1 8 5 8 ‑ 1 9 3 2 ) がノ、ルハウスでの経験を生かして,その社会調査部門の主任
となった。このころまでの社会事業学校は,既に述べたように,社会事業団体
によってつくられ,それぞれの機関で働く職員の養成が,その存在の根拠とさ
れていた。 1 9 0 8 年セイジ財団の助成金は,より理論的,社会科学的側面を強化 するという効果をもたらした。プレキンリッジはラスロッフ。からその仕事に協 力を求められると,社会調査を中心に置くことに魅力を感じて,これに加わり,
1 9 1 3 年,新設の連邦児童局の長官としてラスロップがワシントンに去ったのち は,そのあとを継いで,社会調査部の主任を務め,さらにテ。ィーンとして学校 の運営に責任をもつことになる
Oエテーィス・アポットもウェルズレー大学から,
シカゴに再びやって来て,調査・研究部に加わった。
学校の経営は,なかなか困難であった
O理事会は,主として経営上の観点か ら,シカゴ大学への所属が,存続のための最もよい条件であると考えるに至っ たが,大学との折衡の経過は, ジェーン・アダムス,ジュリア・ラスロップ,
グラハム・テイラーらの反対などもあって,円滑には進まなかったという ( S t e v e n J . D i n e r , 1 9 7 7 ) 。セツルメント関係者たちが,大学への所属は社会福祉 研究と教育が十分に実践的な方向を持つことを困難にするのではないかとの危 慎を表明した。しかしプレキンリッジとアポットはその点について,はっきり
と異なった意見を持っていた
O彼女たちは,既にシカゴ大学で何年もの講師と しての経験を持っていた。ブレキンリッジは家政学部で,アポットは社会学部 で講義を受け持つていたし, 1 9 世紀の宗教的傾向の強い慈善事業論,特にテイ
ラーの体系的でない講義に批判的で,大学組織に属することが,法学と医学の 研究をどれだけ前進させたかについて,身近な体験を持っていた。彼女たちは,
学生たちを社会諸政策を扱うことのできる公務員をめざすものとして教育のす べきことの重要性を認め,そのような教育は大学院レベルで行われるべきであ ると考えていた。 1 9 2 0 年大学への移行は実現し,彼女たちは,それまで十分に できなかった社会福祉の研究を行い,学部及び大学院の教育に専念することが できたのであった。 SSA の責任者としては,経営学部の経済学者 L . C . Ma r s h a l l が任命された。アポットが運営の実務を行った。
移行を巡る折衡の経過から,シカゴ大学は当初 5年間の期限を付して, S
S A の大学への受け入れを承認した。それ以降は,基金の調達の見込が立った
ならば,という条件であった。しかし大学は 1 9 2 4 年の時点で, S S A を恒久的
な大学組織の一部とすることを承認し,エディス・アポットを学部長に任命し
f
こOプレキンリッジとアポットは,ハルハウスとの密接なつながりを持っていた。
その点で cos を母体とするケースワークの研究・教育でなく,社会福祉及び 関連の公的制度,その立案の根拠としての調査,制度化,専門行政官としての 活動一一ーをその中心に据えて, S S A の仕事を始めたのであった。ここで当 時のシカゴを舞台としたジェーン・アダムスとハルハウスの活動について概観
しておきたい。
② SSA の背景としてのジェーンアダムス及びハルハウス
当時アメリカ資本主義は,南北戦争後の,独占化の急激な進展を主軸として,
急激に展開していた。都市化と,大量の移民流入,そして都市問題,貧困問題 の顕在化もまた,前例を見ない規模でその姿を現わしていた。中でもシカゴは,
その新しい中心地であった。シカゴは労働問題の深刻さにおいて,犯罪の多発 において,他にその例を見ない体験をしていた。
イリノイ州ができたのが 1 8 1 8 年 , 1 8 5 0 年から 1 8 9 0 年の 4 0 年間に,シカゴは,
小さな田舎町から,大都市に成長した。 1 8 6 0 年には人口 1 0 9 , 2 6 0 人,アメリカ で 8 番目の都市になり, 1 9 1 0 年には, 2 0 倍 , 2 1 9 万の人口をもっ,ニューヨー クに次ぐ,アメリカ第 2 の都市となった。 1 9 3 0 年人口は 3 3 7 万 6 0 0 0 人と記録さ れている
o1 8 6 0 年頃,鉄道の敷設にともなって,西部への進出の拠点として,
商業と交通の要地として中西部の中心的な都市となっていたシカゴはその後 1 8 7 1 年の大火を経て,木造の建物を一掃し,近代的な大都市の外観を整えた。労 働力はいくらあっても足りない状況で,次々に新しい移民が押し寄せた。当然 予想されるところであるが,当時のシカゴは,極めて不安定な,明暗共に激し い変動のなかにあった。 1 8 8 6 年のへイマーケット事件, 1 8 9 4 年のプルマン・ス トライキはその一つの現われである。犯罪の多発もまた, シカゴを代表する社 会問題の一つであった。それら社会問題はまた,社会福音運動 S o c i a lG o s p e l Movement と,世俗的社会改良運動の指導者たちを引きつけた。ジェーン・ア
ダムスもそのセツルメントの開設の場所として,シカゴを選んでいることにも
明らかなように,多くの社会改良家達にとって,シカゴはまさにその働きを必要
としている最先端の都市であった。新しい時代は,新しい社会問題をもたらし ただけで、はなかった。急速に発展するアメリカ経済は,科学と教育における新
しい波を呼び起こしつつあった。それは一方における高等教育の改革と拡大,
そして他方において,教育の普及,特に社会教育,生涯教育の発展に見ること ができる
Oその双方に関わって,シャトクワの果たした役割は大きい。当時の急激な社 会変動のまえに,福音の新しい解釈と,積極的な社会活動を志した社会福音運 動の中心にあった牧師たちの多くが,新しい思想運動としてのシャトクワとそ
こにおける同志的結合に希望を見出した。彼らを進歩的教育者たちを結びつけ たものが,新しい社会研究であった。牧師たちは,自らの社会活動の指針を求 め,同時にその同志をふやす場所としての社会科学研究に期待した。 1 8 9 3 年 ,
シャトクワにアメリカキリスト教社会学研究所がつくられたのは,まさに象徴 的な出来事であった。各地の神学校は,その教育なかに社会学を取り入れ,あ るいは実践的に地域活動を展開した。シカゴでいえば,セツルメント,シカゴ・
コモンスがその例である。アメリカのセツルメントは,英国のそれよりも,は るかに宗教色が薄かった。多様な文化的・宗教的背景をもった移民達の存在が それをもたらしたといってもよい。セツルメントでは,宗教的社会改良家たち
と,世俗的な改良家達との出会いがあり,大学の研究者と多様な専門職・知識 人たちの出会いがあり,そのような場としてそれが,社会事業の学問的研究へ
の端緒を開くことになるのである
Oちなみにセツルメント・ハウスについて,ウォルター・トラットナーは次の 点を指摘する(トラットナー,古川孝順訳, 1 9 7 8 : 1 3 8 ‑ 1 3 9 ) 。即ち,両者の違 いとしては,前者が要救護性に興味を示したのにたいして,後者は貧困に関心 をもち,前者の哲学が私的慈善と精神的引き上げ s p i r i t u a lu p l i f t に向かった のにたいして,後者は社会的並びに経済的な変革をもたらした点を挙げる。言 い換えれば,セツルメントが原理においても行動においても民主主義の典型で あるのにたいして, co s は家父長的,施与者であった。共通点としては両者 とも富裕な中間層を基盤としていること,物質的な状態だけでなく「精神的」
な状態に関心をもったという意味でいずれも「ロマンティック」であったこと,
そして両者共に,社会調査の必要性を確信していたことが数えられている。 c
O Sから出発したケースワーカー達も,複雑化する社会問題に当面するなかで,
次第により社会経済的視点の重要性に気づき,両者は接近してくるのであるが,
それはさらに後のことである
OCOSからはあまりにも心情的・楽観的・目的がた漢としていることなどを 批判されながら,セツルメントのレジデントたちは,住み込み R e s i d e n t ,調査 R e s e a r c h ,改良 Reform の三つの R をスローガンに,社会的勢力や政治構造に ついての現実的理解に基づいて,数々の制度的改良を提案し,次々に実施に移
していった。
これらセツルメント運動の担い手についてトラットナーは, r 一つには,彼
らも,男も女も,アメリカで大学を卒業したものがかなりの数を占めるように なった最初の世代に属する人たちである o 彼らのためのはっきりとした地位が 用意されていない産業乃至商業社会のなかで成人した人たちであった。頂点に たっ大企業と基底にある組織労働に挟まれて,多くの大学卒業生たちは,自分 たちが生まれついた社会から疎外されているように感じていた。だが大都市の 持つ複雑さと人間に対する挑戦が,彼らに,自分たち自身にとって有意義な生 涯を創造し,同時に急激な産業化及び都市化による変動から生じた社会的な弊 害から社会を救い出すという機会を提供したのであった。 J (トラットナー,古
川訳: 1 4 2 ) と述べている
o1 8 9 3 年の不況が,その活動を発展させる契機となっ f
こOセツルメントは, 1 8 9 0 年から 1 9 0 0 年の聞に 1 0 0 を数え, • 1 9 1 0 年ごろには,お よそ 4 0 0 と急速に発展した。シカゴにおいてはハルハウスが 1 8 8 9 年に,ク、、ラノ、
ム・テイラーによるシカゴ・コモンズが 1 8 9 4 年に設立され,共にシカゴ大学及 び SSAに大きな影響を与えた。
特にジェーン・アダムスは,ハルハウスを当時の最も知られたセツルメント とし,シカゴの貧困者街に幅広いサービスを提供するとともに,多くの有能な セツラーを育て,地域調査,行政への改良的提言,労働組合の組織イ t 援助等々,
あらゆる社会問題に挑戦し続けた。彼女はまた,貧困・失業問題,教育問題,
児童問題,そして第 1 次大戦前後は平和問題と,全米各地で講演を行ない,ア
メリカで最も高名な女性とよばれた。アメリカ全土及びヨーロッパで,各種の 運動団体,例えば, American C i v i l L i d e r t i e s Union , N a t i o n a l A s s o c i a t i o ‑ n f o r t h e Advancement o f C o l o r e d P e o p l e , J u v e n i l e P r o t e c t i o n A s s o c i a t
lOn