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明治初期工学教育機関の設立 : 工学寮について

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(1)

著者 植村 正治

雑誌名 社会科学

巻 40

号 3

ページ 21‑47

発行年 2010‑11‑30

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012265

(2)

は じ め に

前工業化社会から急激な経済発展をとげ工業化社会へ変革させた最大の要因は,生産 活動における資源基盤の変化である。資源の分類基準には,生物⇔無生物,再生可能⇔

非再生,非化石⇔化石などがあるが,いずれの基準もすべての資源を分類することは困 難である

1

。本稿では,きわめて大ざっぱに,石炭・石油・天然ガス・ウラン・鉄鉱石・

銅鉱石などを鉱物資源とし,水力・風力・人力・畜力・木材などを非鉱物資源とした。

さらに,その資源がエネルギー資源として利用されるのか,素材資源(機械・設備・道 具などの素材構成物質)として利用されるのか,という分類基準を加えると,表1のよ うな分類表が描ける。

前工業化社会においては,エネルギー・素材資源として一部鉱物資源(たとえば製塩 業において石炭が利用されたり,砂鉄を用いて銑鉄などが生産された)が利用されたが,

非鉱物資源が主要なエネルギー・素材資源であったといえよう。このような非鉱物資源

明治初期工学教育機関の設立

工学寮について

植 村 正 治

本稿では,近代工業技術の日本への技術移転の一つの方法として,工学教育機関の 設立が重要であったという視点から,明治初期工学教育機関である工学寮を取り上げ て,その設立の経緯について細かく検討した。当初,明治政府は小学校と大学校から なる「工部学校」もしくは「工学校」という名称の教育機関を想定した。ところが,

イギリス人教師の来日が遅れたため,当初の予定では明治5年7月だったのが,実際 の授業開始は6年10月となった。しかも,開校したのは大学校だけで,小学校につい ては遅れて開校したものの,10年6月には廃校となり,その年に工学寮は文字通り工 部大学校に名称変更となっている。本稿では,主に工学寮開校までを取り扱い,イギ リス人教師の人選,校舎の建設や配置,工学寮カリキュラムや諸規則,第1回入学生 の内訳などを見てきた。これ以降の組織変更や,技術移転という視点にとって見逃す ことのできない,工学寮(工部大学校)における工学技術の教育内容については別の 機会に検討したい。

(3)

を利用する生産技術の発展により一定の経済発展は認められたが,上限があった。産業 革命期以降の近代社会において,エネルギー・素材資源を石炭・鉄鉱石などの鉱物資源 に転換することにより,それ以前の経済に比して急激な経済発展が達成された。

このような資源基盤変化を促進したのが,鉱物資源の効率的利用を可能とする近代工 業技術であった。技術進歩が何によって誘発されたかは別として,鉱物資源利用と結び ついた工業技術進歩により経済ばかりでなく,社会全体が大きく変革していった。この 時代ほど,生産技術が大きな社会変動を引き起こし,人々の価値観を変革した時代はな かったであろう。

工業技術という場合,暗に鉱物資源利用の意味が含まれているが,2つの技術,すな わち工学技術と職人技能に分けられる。工学技術は,科学的裏付けを持ち,生産工程に 関して言語,図面,数式などで表現することが可能で,多くの場合,教育機関を通して その技術情報が得られる。一方,職人技能は科学的裏付けを持たず,徒弟奉公などによ り親方・先輩などから生産工程を見様見真似で会得もしくは体得する技術,と考えてお きたい。もちろん,教育機関でも技能教育は行われ,またイギリスの場合のように,大 勢の職人たちがメカニックス・インスティチュート

2

と呼ばれる教育機関で科学的知識 を学んでいることから,技術者,職人ともに2つの技術を身につけている場合が多い。

工業化初期においては,生産技術の多くは職人技能に依存し

3

,そのノウハウは文書 や図面には示されず,先輩職人の行動様式を体得することにより技能習得が行われたの で,技術移転には人間の移動が必須条件であった。工業化初期におけるイギリス発の技 術移転は,道具や機械とともに人の移動がなければ円滑に進まなかった

4

K. ブルランド氏は

5

,19 世紀中葉以降のイギリス発技術移転の特徴として,イギリス における機械工業の発展を背景にした,プラット社などの機械メーカーによる紡織技術 の一括(packages )提供をあげ,これによりノルウェーにおいて近代紡織会社が勃興 したとし,その技術移転の仕方は,模倣というのではなく,イギリス工業化の延長

(extensi on )であったと論じる。氏の著書ではこのことをノルウェーについて検証し

表1 資源分類表

鉱 物 資 源 非 鉱 物 資 源

エネルギー資源 石炭,石油,ウラン,天然ガス等 水力,風力,木材(燃焼用),人力,畜力な

素材資源 鉄鉱石・銅鉱石等の金属鉱石,石油(プラス

チック) 木材等

(4)

たが,このような事例は他のヨーロッパ諸国ばかりでなく,日本にもあてはまると推論 した。

日本ではすでに幕末期からイギリスの紡織・製糖技術,フランスの造船技術がお雇い 技術者・職人を通して伝えられ,明治期においてはその規模が拡大するばかりでなく,

大阪紡績などのようにプラット社の紡績技術が,ブルランド氏的視点からすると,一括 導入され,技術移転が進んでいった,と見ることもできよう。

本稿では,もう一つの技術移転媒介である工学教育機関を検討していく。前稿では

6

, 工学技術の移転に大きな役割を果たした工学博士に関するいくつかの属性を取り上げ,

工学博士にどのような特徴があったのか,さらに工学博士の職歴を数量的に跡付けるこ とにより日本国内における技術移転経路をうかがった。工学博士の多くは帝国大学で工 学技術を学んでいたことから,本稿では,帝国大学工科大学の前身の一つである工学寮 に焦点を絞り,その設立過程をたどる。

1.工学寮の設立

イギリス人鉄道技師E・モレルの教示により工部省および省内工学教育機関が設立さ れたとされているが

7

,発足当初の工部省には教育機関を内包していなかった。明治3 年閏10 月20 日の太政官布告には,「掌褒勧百工,及管鉱山製鉄灯明台鉄道伝信機等

8

」 とあるのみである。三好信浩氏の指摘のように

9

,工部省内に教育機関を設置すること をはじめて明らかにした史料が,次の史料(明治4年4月)である(句点は筆者)

10

。 伊藤博文と山尾庸三より太政官に建議されたとされている

11

。しばしば引用されている が,本稿の問題関心と密接しているので全文を引用し,解説を付しておきたい。

自古国家ノ文明盛大ヲ成サント欲スル者,皆ナ其上下ヲシテ知識ヲ備ヘ厚生利用ノ 途ニ出シムルヲ要セサルナシ,御邦内ニ於テモ已ニ御開営被 仰出候当工部省所轄 ノ事業ハ即チ其基礎ニシテ, ニ功験相顕万国ト併立冨強ヲ保チ候様致度旦暮不堪

渇仰候,然ル処其事業ニ於ケル大小トナク技術上ニ相渉 皇朝未曽有ノ要務候ヘハ,

実学知識ノ徒ニ非ス候テハ誰カ能施行可致得理無之候,惜哉御邦内ノ人物其一科ヲ 了得候者未タ見当リ不申,依テ方今数多ノ外国人ヲ使役御創業ノ手順取継罷在候次 第実ニ無余儀事ニテ,終始彼等ノ余力ヲ仮リ功業漸ク相遂候様ニテハ一時開化ノ形 况有之候トモ,万世冨強ノ基本ハ迚モ相立申間敷戦兢ノ至ニ候,此機ニ臨ミ人材教

(5)

育ノ御方途不可欠場合ト被存候,就テハ当省中ニ於テ工部学校至急御取建相成,少 年有志ノ者ハ尽日校中ニ出入孜々勉学経,其歳月候ヘハ教師ノ指揮ニ依リ順次洋行 ヲモ為致,成器ノ上夫々奉職事ニ為徒可申,左候ハヽ自然外国人使役其他多少ノ煩 労ヲ省キ銕道始諸業功実海内ニ蔓布,万世不朽ノ御基本相立 皇威異域ニ輝キ上下 浴文明盛大ノ鴻沢候様必然ニ相覚候,此儀御採用被為在候ハヽ学校御取建ノ場所ハ 乕ノ御門内延岡藩邸至極適当ノ地ニ有之候間,可相成ハ此場所御渡相成尋テ営繕ノ 御下命モ有之度,左候上ハ精々特励ヲ遂ケ ニ落成可仕候,尤生徒取立方ノ手筈都 テ校中ノ規律ハ追テ取調ノ上可申上候様可仕候,差向前書学校御取建ノ儀御英断相 成至速御沙汰御座候様仕度候,依之此段奉伺候也

辛未四月 工部省

弁官御中

まず一般論として,古来より一国の文明を盛大にするためには,国全体で知識を開発 し厚生に利用しなければならない,とする。すでに設立された工部省が管理する事業は まさにこのための基礎であり,早急に実績をあげ「万国ト併立富強」していくことが常 に希求されてきた。しかし,官営工場の規模に関係なく,技術に関することが「皇朝」

にとってきわめて重要な任務であり,「実学」の知識を持つ者でなければこれを十分に 遂行することはできない。残念ながらわが国においてはその技術の一分野も理解してい る人物が見当たらず,このため今日多数の外国人により事業の設立・維持が行われてい ることはやむを得ないことである。常に彼等の余力を借りてようやく業績を上げ,一時 は順調に進んだ様にもみえたが,永遠の「冨強ノ基本」にはならないという不安な状態 である。このような状況を考慮すると人材教育が不可欠であると考えられる。工部省内 に「工部学校」を早急に設立し,「少年有志ノ者」を学校で勉強させ,一定の年数を経 た後,教師の指導の下に欧米に留学させ,学業成果を上げたのち奉職させることにすれ ば,外国人の雇用などが減少し,鉄道を始めとする諸官業の実績が日本国中に行きわた る。永遠に朽ちることのない基本となり,「皇威」が世界中に輝き,必ずやすべての国

民が文明盛大の恩恵に浴するに違いないと考える。学校設立場所として,旧延岡藩邸が 最適の場所なので,できるだけこの場所を譲渡していただき,学校建設命令を下してい

ただきたい。学校建設に当たっては(工部省が)最大限の努力で迅速に行うことにする。

竣工後の生徒募集などの学校規則については調査後に報告するので,学校設立の英断を

早急に下されたい,というのである。

(6)

構想段階の工部学校は

12

,小学校(スクール)と大学校(コウレージ)からなり,小 学校へは16 歳以下の少年を入学させ,定員は300 人とする。小学校で2年間学んだ後,

試験を経て大学校に進み,「諸工学科技術」について実地に修行し「学力并業前」に関 する試験に合格した者を推挙して欧米留学させる。本稿の文脈では「学力并業前」は科 学的知識と技能と理解できる。教師は外国人を想定し大学校教師,助教師それぞれ6人,

小学校教師7人を雇用する予定であった。授業料は個人負担で「官費ニ相立不申」とい う方針であった。

しかし,彼等が一人前になるまでには時間を要するため,「即今的用ニ充ル急弁法」

として同月,「質問並伝習」制度を導入することとなった。「官員及ヒ生徒ノ内自他ニ抽 テ勉励学術昇進スル者ヲ精撰シ,研究ノ為メ西洋各国ノ内各科ノ工事盛ニ行ハルル地ニ 達シ,現場ニ於テ質問伝習セシムル」こととなり

13

,さらに7月には「技術見習」制が 実施された。工部省伺書によると

14

,「当省管轄ノ諸工業追々盛大ノ目的ニ有之,随テ 機械運転ヲ始技術熟練ノ者各科各種ニ関渉致シ多ク必用ノ儀ニ有之候処,御国ノ儀学術 未洽ノ所致歟,可然人物別シテ乏シク御用支ノ件々不少,自今人材成育ノ目途ヲ以テ諸 人有志ノ者ハ官員ノ外見習申付日々出席伝習経験為致,熟達ノ上其器ニ随ヒ官員ノ内採 用イタシ候様取計候ハヽ漸次ニ適器ノ人物増殖」としている。工部省管轄の諸官業には 各種熟練技術が必要だが,人材不足のため支障が生じているので,有志の者を募って見 習いとして採用し熟練技術もしくは技能を伝習させようという,趣旨であった。明治5 年8月14 日には,「現時工業ニ従事セル官吏及ヒ当時各部局修技黌ノ工術見習生ヲ質問 生或ハ伝習生トナシ,之ヲ海外ニ航遣シ各科ヲ研究セシメン

15

」と,工術見習生を質問 生・伝習生として海外留学させることとした

16

この同じ日に,工学寮が一等寮として工部省内に設けられ,前述の延岡藩邸に建設さ れることになった。当初,山尾が工学寮頭と測量司正を兼務し,測量司も同場所に置か れた

17

。明治5年1月に制定された工部省事務章程には,「工部ハ工業ニ関スル一切ノ 事務ヲ総管ス,其綱領左ノ如シ

18

」とあるが,その最初の項目に「一 工学ヲ開明スル コト」とあり,工学教育に重点が置かれたことがわかる。

明治5年3月,「工学校略則19

」が太政官布告として公にされ,先の「工部学校」構 想がより具体化されている。大小2校とし教師はすべて西洋人で,西洋人の都検が彼等 を統轄する。小学校は,校舎が同年5月に竣工予定なので,開校は7月15 日とする。

定員は「工部学校」と同じ300 人であった。年2回の試験をクリアーした2年後,大学

校に進学する。大学校の開校予定日は2年後の明治7年7月15 日とした。大学校進学

(7)

の生徒は「其階級ヲ分ケ四級トシ毎六月其学業ヲ試検ス,四試若クハ五試ヲ経テ四級ニ 登ルヲ得ル者ハ之ニ洋行ヲ命シ,其学術ヲシテ益練磨成熟セシム,其六試ヲ経テ猶四級 ニ登ル不能モノハ内国工場ニ就キ実地ノ修術ヲ勉メシム」としている。毎年6月に試験 があり,これをクリアーして4級に到達するというのであるから,就学期間は4年間を 想定しており,6年間で卒業できた生徒は「洋行」させ,これができなかった生徒は国 内工場で勤務させるとする。学費は2校とも年間10 円で,この金額を「領収シテ其学 資及飲食衣服等一切ノ費用ヲ弁済ス」とあるから,すべて個人負担であった。

「工学寮職制並事務章程

20

」によると,「工学寮ハ工業ノ学ニ関スル一切ノ事務ヲ掌 管ス」とあり,教育機関を運営する事務組織体であった。主記課,主計課,文学課,選 輯課,図書課が配置され,文学課は「学則ヲ厳ニシ師徒ヲ督シ考課試業シ及ヒ通訳スル 等ノ事ヲ管」した。「工学寮及測量司分課処務規定

21

」にはより細かく,「生徒ヲシテ学 則ヲ厳守シ且身体ヲ保護シ専ラ精神ヲ謹学ニ用ヒシムルヲ要旨トス,若シ違背スル者ハ 之ヲ正頭ニ告ケ其規則ニ処ス,教師及生徒ヲ監督ス」とあり,生徒の健康管理や勉学奨 励,教師の監督までもその任務としていた。工学寮は小学校・大学校からなる教育機関 の監督官庁というポジションであった。

しかし,工学校に関し,明治5年5月,「都合有之教師航来延引ニ付十一月中開校可 致

22

」こととなり,入学出願期限の3月が8月に延期され,さらに同年11 月,やはり教 師の都合により来日が遅れることを理由に開校が延期された。開校日については「追テ 来着ノ上開校日限相定其日ヨリ二ケ月前可及布告

23

」と明記せず,出願期限についても 追って知らせるとした。

この間に,教師採用と学校建設が進んだ。

2.外国人教師の採用と学校建設

工学寮に関わる外国人教師については,多数の先行研究があり

24

,あらためてここで

繰り返す必要がないが,概観だけ見ておこう。明治5年2月,工部少輔にあった山尾は,

他部局の外国人技術者とともに工学校都検1人,工学校教師6人を雇用することを太政

官正院に伺い出て認可された。さらに岩倉使節団に加わった伊藤博文が外国人教師・技

術者を採用してくるということであったが,「英国ニテ人撰雇入方等周旋引受候者無之

候テハ百事不都合ニ付」,伊藤の知人であったヒュー・マセソンに彼等の採用を任せる

こと,さらに工学校などで実地の技術を身につけて英国留学する生徒の引き受けについ

(8)

てもマセソンに依頼すること,を伺い出た

25

。幕末期にイギリスに留学した伊藤ら5人 の長州藩士を世話したのが,ジャーディン・マセソン商会社長のヒュー・マセソンであっ た

26

。その縁故を伝ってイギリス滞在中の伊藤は明治5年8月,当時二等書記官であっ た林董をマセソンのもとに遣わし,教師の紹介を依頼したという

27

さらに,マセソンは,友人のグラスゴー大学工学講座初代教授のルイス・ゴードンに 人選を依頼したが

28

,ゴードンはすでにグラスゴー大学を退職していたので,後任のウィ リアム・ランキンに依頼がなされた。ゴードンはかつての同寮であった世界的物理学者 ウィリアム・トムソンとも親しく,トムソンの意向も人選に反映された。ランキンが推 薦した一人がヘンリー・ダイアーで,ゴードンは彼を気に入ったが,トムソンは当初,

ダイアーの能力について疑問を呈したという

29

ゴードン回顧録によると

30

,トムソンとロンドン大学のウィリアムソンのアドバイス を得ながら,ゴードンとマセソンとにより「Yeddo 」に設置される「aCol l egeof Ci vi landMechani calEngi neeri ng 」のカリキュラムの検討が行われ,さらに何人か の人選が行われた。とくにトムソンの影響が強く,来日した第一陣教師の多くはトムソ ンの人的ネットワークによるものとされている

31

。ランキンはもともと健康状態が悪く,

明治5年12 月に死亡したことも

32

,トムソンの影響が強くなった要因と考えられる。

前述のように,日本側の当初の採用予定人数は,都検を含めて7人であったが,実際 には9人が採用された。これは伊藤の判断によるもので,太政官からの工部省への達

(明治6年8月18 日)に「英人工学教師二名大輔伊藤博文専断ヲ以増雇候趣学課ノ都合 無拠次第ニ付,此度限聞届候得共今後ノ準拠トハ不相成,此旨相達候事

33

」とある。カ リキュラムの都合によりやむを得ず,伊藤の専断により2人増員されたが,このような 措置は今回限りのことで先例とはしない,というのである。これより先,工部省と法制 課との間に遣り取りがあり,8月2日付けの「法制課議案」に,「伊藤工部大輔見込ヲ 以テ雇入候趣当今実際ノ都合不得止次第モ可有之候ヘトモ,各省長官次官ノ見込ニ任セ

勝手ニ雇入候テハ不相済筋ニ有之」と,伊藤の専断に苦言を呈していた。

表2には,9人のイギリス人お雇い教師の当初の職名,契約日と解約日,また参考の

ため月給を掲げた。人名と職名は,明治6年7月段階の史料に記載されていたものを掲

げた34

。6月23 日付けの工部省届には「都検兼博士器械学専務ダイエル,数学博士マル

シヤル,雛形師キング,右ハ去壬申二月中伺済相成候,当省工学寮御雇入英人七名ノ内

書載ノ三名当月三日到着京候

35

」,また同月27 日の届には「英人クラーク,仝コーレー

右ハ去壬申二月中伺済相成候,……本月十九日横浜港到着」とあり,表2と対照させる

(9)

と,日本への到着と同時に雇用契約が始まっていることがわかる。表2の6月30日と 7月1日に日本に到着した4人のうち2人が伊藤の専断により雇用された教師である。

図1・2は,それぞれ安政3年(1856),明治17年頃の工学寮(のちの工部大学校)

が建設された地域地図である。明治4年7月,延岡藩邸(図1)の1万坪を超える敷地 に対して2300両が支払われることになった36。同年11月,同敷地が手狭なので,図1で は「御小姓組村瀬平四郎」の屋敷あたりに位置する吉井宮内大丞の宅地と,延岡藩邸西

表2 工学寮発足時のイギリス人お雇い教師

人 名 結約年月日 解約年月日 月給(円)

ダイエル HenryDyer 工学校都検兼工学博士

器械学* 1873年6月3日 1882年6月1日 660 マルシャル D.H.Marshall 工学校数学博士* 1873年6月3日 1881年3月26 350 キング King 工学校助教及工芸工作

場雛形師 1873年6月3日 1875年6月18 141 クラーク R.Clark 工学校助教 1873年6月19 1878年6月18 150 コーレー Y.Cauley 工学校助教 1873年6月19 1878年6月18 200 エルトン W.E.Ayrton 工学校理学博士* 1873年6月30 1878年6月29 500 ダイベルス EdwardDivers 工学校化学博士* 1873年7月1日 1885年12月(文部省へ) 500 クレゲー W.Craigie 工学校英学教授 1873年7月1日 1876年2月29 208 モンデー E.F.Mondy 工学校製図教師* 1873年7月1日 1878年6月30 208 注)大蔵省編纂『工部省沿革報告』(『明治前期財政経済史料集成』第17巻の1,明治文献資料刊行会,1964年),

1888年,409頁。旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料』虎之門会,1931年,74頁。

図1 安政3年(1856)の虎ノ門近辺

(注)『江戸明治東京重ね地図』丸善株式会社,2001年。本文と関係する屋敷名は横書きに書き換えた。

(10)

隣で溜池北側に位置する同人所有の畑地,さらにその西隣にあった副島種臣の畑地を買 収することになった。

明治5年1月,工学寮に造営掛を置き,「傭英人「アンデルソン」ヲ造家師トナシ小 学校及ヒ生徒館教師館ヲ経始」することとなった

37

。明治7年1月,内務省土木寮の営 繕業務が工部省製作寮に移管されるにともなって製作寮に営繕課(のちに営繕局,営繕 寮となる)が設置されたので,同年4月,アンデルソンは同課に転出し,8年3月まで 雇用された(月給100 円)。これらの建物建設にはイギリス人マークスが加わった

38

。彼 は明治2年2月から明治4年3月まで灯台建設担当官庁で「石工并職人頭取」(月給 150 円)として雇用されていた。工部省設置とともに灯明台掛に属した。工学寮では

「造家棟梁」(月給125 円)として5年1月から6年5月まで雇用されている

39

。灯台建 設のための石材加工技能を買われて造営掛に採用されたのであろう。2人とも職名や月 給から技能工と判断され

40

,小学校(建坪257 坪

41

),生徒館(631 坪),教師館(大教師 館206 坪,小教師館143 坪)の洋館を設計する能力があったかどうか疑問が残るが,こ れを排除する明確な史料は見当たらない

42

図3は工学寮建物の配置図であるが,No.2 が小学校で起工は5年1月,竣工は6年 12 月であったのに対して,生徒館,教師館の起工は6年8月であった。この時,化学 試験局,作工場の工事も始まった

43

。No.3 の生徒館についてはまず東側半分の東館が

図2 明治17年の虎の門近辺

(注)参謀本部陸軍部測量局「東京五千分一図」(日本地図センター),1886

(11)

建設され,竣工は7年9月だったようである

44

。西館は8年4月には竣工していたもの と考えられる

45

。小学校建物について,第1回入学生で造家学専攻の曽祢達蔵は,「建 物は格別大ではなかったが濠際の高き石崖に接して立ち,スツキリした姿態にて大いに 人の注目を惹いた」と述べ,中央部の広堂が図書室兼閲覧室であったことを指摘してい る。広堂部は2階フロアー中央部を除去した「高き一階」とし,2階フロアーに相当す る高さで壁に接するように廻廊を廻らし,「壁に接して一列に書棚が設けられ,其の反 対の欄干に接しては閲覧用の卓子が造り付けられてあった」と表現している

46

。広堂の 両脇の2階建て建物が教室であった。図4は小学校を堀の対岸から画いたスケッチで

47

「濠上の建物

48

」,「時計台の学校

49

」と称された。

大学校建設は7年2月22 日に決まり

50

,「傭工学寮内大学校建築首長英人

51

」として ウォートルスが着任した

52

。明治初年,彼は造幣寮を始めとして様々な西洋建築物を設 計した人物で,大蔵省土木寮・内務省土木寮を経て,アンデルソンより少し早く同月2 日に工部省製作寮営繕課に勤務することになった

53

。月給も650 円と最高額であった。

後に工部大学校建設の立役者となったフランス系イギリス人ボアンビールは

54

,彼より 1ケ月早く工学寮から営繕課に転出し,月給は360 円であった。ダイアーは,当初彼は ウォートルスの補佐役であったとしている

55

。しかし,ウォートルスには,大学校設計 能力がなかったようで

56

,大学校の起工はウォートルス退職後の8年4月1日であっ た

57

。1年以上のブランクが生じている。大学校建築首長は都検ダイアーが兼任するこ とになった

58

図3 工学寮建物配置図

(注)HenryDyer,ImperialCollegeofEngineer- ing,Generalreports,1877,挿入図。同一図 が『旧工部大学校史料』に転載されていたの で,鮮明な後者史料掲載図を引用した。

図4 小学校予定校舎

(注)『旧工部大学校史料』挿入図。

(12)

ウォートルスの退職後,ボアンビールが中心になって設計・建設が進んだ。竣工は10 年6月20 日で,建坪696 坪であった。小学校と似たような構造だったが,建設規模は3 倍ほどである。中央部が3階建てで,その前部は出入口と階段からなり(47 坪余),そ の後部が広堂(187 坪)となっていた。広堂の2階と3階が図書室兼閲覧室で,構造は 2階と3階が吹き抜けで,3階フロアー部分が廻廊となっている

59

。曽祢によると,そ の構造は小学校の広堂と同じであった。図5がその内部写真である。1階が講堂で卒業 式や各種式典が開かれた。中央部両脇は2階建ての建物(460 坪)でその多くは教室で あった。本館に引続き,No.1・ の建物が9年9月に起工され10 年9月に竣工したが,

本館左側(図3の波線部分)の建物は実際には建設されなかった。No.4 は暖房用機関 室,No.5 ~No.7 は,化学実験室,模型工作場などであった

60

。いずれも明治7,8 年には完成していたものとみられる。

3.工学寮の開校

明治6年6月,工部省は太政官に対して「已ニ教師モ来着罷在候」ため,生徒募集の 許可を伺い出た(「生徒募集伺

61

」とする)。ただ,それまでは私費を原則としたが,

「孰レ諸工業ヲ興隆センニハ,速カニ諸学課熟達ノ者ヲ得ルニ之レアリ候ヘハ官費」と すること,「当分人員三十名ヲ撰」ぶこととした。同年7月,工部省は「当省工学生徒 試験之上入学差許候様條,有志之者ハ別冊之通本人並引受人ヨリ願書相添,其管轄庁ヲ

図5 大学校本館広堂2,3階内部

(注)東京大学百年史編纂委員会『東京大学百年史』通史一,東京大学出版会,1984年,挿入写真

(13)

経八月十日限リ工学寮ヘ可願出事

62

」と布達した。この別冊が「工学寮入学式並学課略 則」であるが,「工学寮入学」とあることから,工学寮=教育機関となっていることが わかる。前述のように,それまでの工学寮は学校を管理する官庁という立場であったの が,この時,事務組織が教育組織に包含されたことになる

63

。ダイアーの影響によるも のであろう。

「工学寮入学式並学課略則」は,ダイアーの構想が主軸になっているとされている。

ダイアーは,6年4月初旬にサウサンプトンを出航して,6月3日に東京に到着した。

この時,ダイアーらに同行した林董は,6月9日に二等書記官から工学助に転じている。

ダイアーは日本に至るまでの船上で,工学寮カリキュラムの草案を作成し,東京に到着 すると,当時工部大輔であった山尾に草案を提出した

64

。ダイアーによると,この草案 はいかなる修正もなされず,政府により受け入れられた。この草案に基づいて刊行され たのが,「IMPERIALCOLLEGEOFENGINEERING,TOKEI.CALENDER

65

」と 考えられる。日本語表記は「工学寮学課並諸規則」であった。林や工学寮撰輯課が翻訳 に加わったものとみられる

66

。前者の学年暦が10 月1日から始まっていることから6年 9月末には出版されていたものと考えられる。以下,この文献を「明治6年諸規則英語 版」と称する。

『旧工部大学校史料』のうち「工学寮ノ組織」と題する記事に

67

,田辺朔郎が明治33 年にグラスゴー市に在住するダイアー一家を訪問した時,ダイアーから工学寮は「欧州 中稍々工学ヲ総合シタル学校ハ唯瑞西

(ママ)

T uri ch ニアリシノミ。工学寮ノ組織ハチューリッ ヒノ組織ヲ基礎トシテ構成セルモノ」であることを聞いた,とある。この聴取を評価し ない先行研究が多いが

68

,一定の根拠があったと考える。明治10 年10 月,ダイアーが工 部卿伊藤博文に提出した工部大学校全体報告には

69

,しばしば J ・スコット・ラッセル の『職業教育論

70

』が引用されている。同書は,19 世紀後半以降,イギリスの経済発展 がヨーロッパに遅れを取ったのは,政府が主導して工学教育制度を整備してこなかった ためであるとして,整備するための一助としてヨーロッパ各地の工学教育制度を紹介し た。その中でスイス・チューリッヒに設置された「ジューリッチ職業大学校(techni - caluni versi tyi nZuri ch )」をイギリスの模範とすべきであると指摘した。ラッセルは,

同校において「外国ノ理学芸術及製造(sci ences,arts,andmanufactures )ニ係ル最

貴重ノ事ハ秀抜非凡ノ外国教師ヲ募リ来リテ,最良至好ノ方法ヲ定メ又其智ヲ以テ発明

シ或ハ求得ス可キ一切ノ手段ヲ用ヰテ之ヲ教授シ」ており,同校設立はチューリッヒば

かりでなくスイス全体の利益になっているとする。さらに「近頃ハ盛ニ製造ニ従事シテ

(14)

大利益ヲ得ルコト実ニ驚ク可キハ亦或ハ此ニ原由セズンバアラズ」と,職業大学校の教 育によりスイス製造業において莫大な利益が得られたのではなかろうか,としている。

以下,大学の組織,教師の担当科目,時間割,学科などが紹介されている。構成学科は 8学科にのぼり, 建築学即築造科(A courseofarchi tectureandbui l di ng ), 土 木工学科(A courseofci vi lengi neeri ng ), 機械工学科(A courseofmechani cal engi neeri ng ), 応用化学科(A courseofmechani calchemi stry ), 農学及山林学 科(A courseofagri cul tureandforestry ), 理学専攻者及教師タル者ノ科(A courseformenofsci ence,professors,andteachers ), 哲学政治学芸術理財学等ノ 通科(A generalcourseofphi l osophy,statesmanshi p,l i terature,art,andpol i ti - caleconomy ), 予備科からなる。予備科は基礎的知識を持たない学生のために開設 したものであった。

チューリッヒ職業大学校を詳細に紹介した後,ラッセルは職業大学校の改善点を指摘 した。同大学校には化学実験室や各種博物場が設置され,一定の実地教育の成果をあげ ているが,工場との連携が欠けているとした。「実地ノ作業ト理論ノ修学ト適当ニ和合 セシム(Duemi xtureofpracti calworkwi ththeoreti calstudy )」ために,3年間 の修学期間に,工場実習を挿入すべきことを提案した。すなわち「夫レ修学ト実業ト相 交替(Theal terati onbetweenworkandstudy )スルトキハ大ニ身力ヲ補フヘク亦 大ニ心力ヲ快暢ス可シ,且実業ニ従事スル半年間ハ前ノ半年ニ学得セル原理ノ実地応用

(practi calappl i cati onofthepri nci pl es )ヲ知リ,又其之ヲ実行スルモ猶未其性質因 由等ヲ解セサル許多ノ事件ハ,次ノ半年ノ修学ニ於テ之ヲ詳ニス可シ,斯ノ如クスレハ 学生ノ進歩ハ極テ大ナリ」と,提案している。半年間ごとに学校学習と工場実習とを交 互に行うことによって,学校で学んだ原理を工場で実地に応用し,また実地で理解でき なかったことを学校に帰って理解を深めることができるというのである。ダイアーは,

ラッセルを通してチューリッヒ職業大学校のカリキュラム,組織などばかりでなく,ラッ セルの「Theal terati onbetweenworkandstudy 」を学び,工学寮に導入したもの と考えられる。ダイアーはこの方法を後にサンドイッチ方式と称した

71

一方,ゴードン,および彼を介してトムソンらの影響もあったものとみられる。前掲 のゴードン回想記に掲載された,ゴードンの姉に宛てたマセソンの手紙(1877 年1月)

によると

72

,マセソンが,工学寮のカリキュラムに関する貴重な提案が含まれる覚え書

きをゴードンから受け取り,その提案のほとんどがカリキュラムとして採用されたとし

ている。その覚え書きは,1873 年1月に書かれたもので,必要科目として土木工学・

(15)

機械工学,理学,数学,理論・応用化学,地質学・鉱物学,図学を掲げ,それぞれのポ ストは図学の教師(teacher )を除いて教授(professor )であることを提案している

73

。 前掲表2の職名欄のうち* 印を付した科目とポストは,地質学・鉱物学を除き,ゴード ンらのプランの通りである。さらに,マセソンは日本政府の求めに応じてとしているが,

結果的に地質学・鉱物学教授と土木工学教授がゴードンにより推薦され採用された

74

。 ミルンがゴードンらの提案した担当予定者と考えられ,日本には9年3月に到着し,担 当は「金石地質及鉱山学」となっている。土木工学教授は8年9月到着のペリーであろ う

75

。ミルンはロンドン大学キングス・カレッジ,ペリーはアイルランドのクイーンズ・

カレッジを卒業し,月給はそれぞれ350 円と333 円であった。「製図教師」のモンデーの 208 円を大きく上回っている(表2)。前者2人は teacher ではなく professor 待遇で あったことがわかる。カリキュラム編成にゴードンらの影響があったとみるべきであろ う。この2人についてもトムソンを介して日本に赴任したものとみられる

76

7月に布達された上記「工学寮入学式並学課略則」は略則であり,「明治6年諸規則 英語版」の一部を翻訳したものにすぎなかった。略則の第1条に「工部ニ従事スルノ士 官ヲ教育スル為ナリ,故ニ在寮ノ間ハ衣食住ヨリ諸経費ニ至ルマテ官ヨリ給与スヘシ」

とある。英語版には学費や募集定員の記載はないが,略則には学費は公費負担であるこ とが付け加えられ,またこの文言の前に「学寮ヲ設立スル所以ノモノハ大ニ工業ヲ開明 シ」という文言が書き加えられた。日本側の判断によるものとみられる。第2条による と,修学年数は6年間で,最初の4年間は半年ごとに在寮勉学と工場実地研修とを繰り 返し,最後の2年間は工場実地研修のみとなる。第3条は入学資格に関する事項で,

「工学志願ノモノハ華士族僧侶平民ニ至ル迄」という文言を付け加えた上で,入学年齢 は15

歳から18歳までとし,心身,学力の試験を行った上で採用するとしている。第4

条は入学試験に関するもので,略則のみに記されている内容である。試験期間は明治6 年8月12 日から16 日までで,募集定員を50 人とし,うち30 人を甲科及第として公費負 担で入寮させ,20 人を乙科及第として私費で通学させること,授業開始は8月20 日か ら,と規定された。

さらに,英語版と同様,入寮願書雛形や引受人保状雛形などが添付され,第5条に入

試科目,第6条,開講期間,第7条,学課(学科),第8条,予課学・専門学・実地学

の区分,第9条では,予課学における学習科目が定められている。第10 条では予課学

終了の際には試験を行うこと,第11

条では専門学に関する選考基準が掲げられ,本人

の希望とともに,英語版にない「技倆ノ長所」があげられている。第12 条では2年間

(16)

の専門学を終了し試験を経て実地学に進み,第13 条では,実地学で2年間の工場研修 のち「毎三月ニ理論ト実学トヲ試験」し,さらに「実地工術ノ試験」を経て「工業成業 ノ免状」を付与した上,「工部省ノ士官」に採用するが,成績に応じて等級が決まると している。第14 条では,より詳細な学課および諸規則を出版し希望者に配布すること が規定された。これについては,翌7年2月に出版されることになる。

前掲「生徒募集伺」には,上記内容を記したあと,この略則を「全ク一時ノ略則」と し,「工部一省サヘ未方法十全ニ至リ兼候ヘハ,猶全国一定ノ御規則ハ篤ト御評議御確 定ノ上御施行不相成候テハ実地上差支不少候間,先以工学生徒ノ議ハ最前伺ノ通御許可 相成度,此段申達候也」と,工部省内でも規則として十分ではないと判断している。ま してや全国に通用する規則とするためには,十分審議しなければ実施に支障をきたすが,

取りあえずは略則を公にすることを御許可願いたいとしている。上記史料に続いて太政 官「法制課議按」として同課の意見が述べられており,「申達」とあるのは伺い相手が 法制課であったことによろう。工部省布達となったのは,太政官のレベルの議論ではな く,形式上,下位機関相互の議論で決められたためではなかろうか。ただ前述の「工学 校略則」が明治5年3月に太政官第67 号布告として公にされているので,太政官は,

6年8月に「壬申三月第六十七号布告ニ学校略則御詮議ノ次第有之相廃候條,此旨布告 候事」と,廃止布告を行った。

6年7月に出された工学寮生徒募集の布達は周知されなかった。前掲の曽祢は,「其 の募集は新聞紙上の募集でもなくまた官報も未だなかったので甚だ狭き範囲であった

77

」 とし,同じく第1回入学生となる小花冬吉の言を引用して「工部省所属の局に在籍する 生徒すら其の募集を知らなかった」としている。さらに,小花は病気のため,2か月ぶ りに同じ工部省勧工寮「官費生徒」である三好晋六郎を訪ねたところ,三好宅に工学寮 試験問題を見つけてはじめて工学寮入学試験があったことを知り,急いで入試会場に出 かけたというのである。試験科目は,英語読書,聞書,算術,幾何学初歩,代数初歩,

地理学初歩,窮理学初歩であったが,小花は試験の2日目午後に試験場に行き,ダイアー に懇願して受験許可を得て,1日目の試験問題と2日目午前の試験問題を受け取って2

日目午後に一度に解答することになった。すでに三好宅で試験問題を見ていたはずだが,

小花は,ダイアーに問題は見ていないと答えたという。また石橋絢彦も測量司技師であっ

た数学塾の教師を介してはじめて知ったとしている

78

。この結果,応募者が83

人と少な

79

,甲科及第生は20

人にすぎなかった。そこで,工部省は,8月30日,「工学生徒人 員不足候ニ付猶来ル十月一日ヨリ三日間工学寮ニ於テ致試験候80

」ので,9月25

日まで

(17)

に願い出よ,と布達した。

表3は,「明治6年諸規則英語版」の最終頁に掲げられていたローマ字表記の合格者 氏名と,卒業生名簿81からその漢字名・卒業学科・卒業回数(かっこ内の数値)が確 認できた人物とを対照させたものである。合格者の多くは政府関係学校生徒で,上記の 小花や三好は勧工寮修技生,高山直質,南清,荒川新一郎はそれぞれ灯台寮,測量司,

勧工寮の修技生82,市川航次,近藤貴蔵,小鹿島果,近藤陸三郎,河合浩蔵は開成学校 生徒であった83。また『工部省沿革報告』にも,「明治六年三月ニ至テ(製作寮)黌舎 ヲ廃シ,尋テ該生徒ヲ工学寮ニ併ス」,「明治七年一月十九日(灯台寮)修技黌舎ヲ廃シ,

表3 工学寮第1回入学生

Cadets(甲科及第) Day-Students(乙科及第)

TakamineJokichi 高峰譲吉 化学科 OshimaTadashi

ShidaRinzbro 志田林三郎 電信科 *TakashimaYonehachi高島米八 冶金科 ArakawaShunichiro 荒川新一郎 機械科 *OkiTatsuo 沖龍雄 鉱山科 MinamiKiyoshi 南清 土木科 *YoshiwaraMasamichi吉原政道 鉱山科 MiyaDenjiro 宮伝次郎* (予科) *SaikiAtsutaka 佐伯敦崇 土木科

*ImaiZenichi 今井善一 化学科 *OgashimaHatasu 小鹿島果 鉱山科 SoneTatsuzo 曽祢達蔵 造家科 *HayashiRaijiro 林頼次郎 鉱山科 HaradaTokuma 原田(片山)東熊 造家科 *OharaMasutomo 小原益知 造家科 KurimotoRen 栗本廉 冶金科 *ShibuyaKisota 渋谷競多 土木科 MoriSeikichi 森省吉 化学科 *TsujimuraYokichi 逵邑容吉 土木科

ImadaSeinoshin 今田清之進 機械科 *SakaTanoshi 坂湛 機械科

AsawMasakane 麻生政包 造家科 *MatsokaSeitaro SugiyamaShiukichi 杉山輯吉 土木科 ShimanoSeijiro

ObanaFuyuyoshi 小花冬吉 冶金科 *TanabeHidenosuke 田辺英之助 化学科 SatachiShichijiro 佐立七次郎 造家科 *MorishitaTsutomu

FurushoSaburo *YoshimiKuro 吉見九郎 機械科

YamanouchiYoshio 鳥居烋夫 化学科 HosoiKikichi

AkibaNori *TadaraYoshinori

*TsukiyamaSotaro 築山鏘太郎 化学科 *ArakawaMinoji 荒川巳次 鉱山科 FukahoriSukeyuki 深堀芳樹 化学科 *MakiYoshinobu 牧相信 鉱山科

HitsudaSenichi TogawaAtaka

OkiNaomoto 大城(高山)直質 機械科 *KondoRokusabro 近藤陸三郎 鉱山科 IchikawaKoji 市川(宮崎)航次 機械科 *ImakiShichijiro

KawaguchiBuichiro 川口武一郎* (造家科)KawaiKozo 河合浩蔵 鉱山科 NakamuraSadakichi 中村貞吉 化学科 *KitsunezakiTominori 狐崎富教 鉱山科 KishiShinjiro 岸真二郎 化学科

MiyosoShinrokuro 三好晋六郎 機械科

*HayamiTadamasu 速水 (中退)

KondoKizo 近藤貴蔵 鉱山科

IshibasiAyahiko 石橋絢彦 土木科

TatsunoKingo 辰野金吾 造家科

(注)IMPERIALCOLLEGEOFENGINEERING,TOKEI.CALENDER.PrintedatCollege.1873.漢字名の かっこ内の数字は卒業回数を示す。漢字氏名欄*印の人物は在寮中に死亡した人物。ローマ字氏名の前に* のある人物は,「明治9年諸規則英語版」生徒名簿に3年生として掲載されている人物。

(18)

修技生ヲ工学寮ノ生徒ニ併ス」という記述が見出せた

84

。このこともあって,小花のよ うなルーズな受験が許されたのであろう。

日本銀行や東京駅を設計したことで有名な辰野金吾は,同じ唐津出身者の曽祢,麻生 政包,山中小太郎,吉原政道とともに試験に臨んだが

85

,甲科及第となったのは曽祢と 麻生だけであった。辰野は吉原とともに乙科で合格し通学生となったが,山中は不合格 であった。さらに,辰野と吉原は甲科の第2回試験を受けた結果,400 人余の応募者の うち10 人が合格し,辰野は最下位で合格したという。吉原は不合格であったが,乙科 では入学が決まっていた。辰野の成績から判断して,表3の名簿は成績上位者から順番 に名前が配置されていると考えられる。高山直質,川口武一郎も第2回試験合格者であっ たので

86

,『工部省沿革報告』の第2回試験合格人数12 人という数値に依拠すると

87

, 深堀芳樹以下が第2回試験合格者であったとみられる。吉原は乙科及第だったので

「Day-Students 」として登録された。荒川巳次や逵邑容吉も乙科及第であったことを 記録に残している

88

。彼らは,寄宿舎への入寮は許されず自宅通学であった。学費も自 費支払いで制服も支給されなかった。彼らの多くは第2回入学を認められ,第2回卒業 生となっているが,村瀬や小原のように第3回卒業生となった生徒もいた。乙科及第制 度は第1回入学だけで,第2回入学以降は廃止された。ちなみに,甲科及第の宮伝次郎 と川口武一郎は在寮中に死亡したことが確認され

89

,今井善一と築山鏘太郎は「専門学」

に進級できなかったために卒業が1年遅れたのであろう。

乙科及第人数は20 人であったとされているが

90

,表3では25 人にのぼっている。ロー マ字氏名に* 印を付した人物は,明治9年諸規則英語版

91

の生徒名簿に3年生として記 載されていた生徒である。「Oshi maTadashi 」,「Shi manoSei j i ro 」,「HosoiKi ki chi 」,

「TogawaAtaka 」,「KawaiKozo 」の5人がこの名簿に載っていなかった。何らかの 理由で辞退したものとみられるが,彼らを差し引くと乙科及第生20 人に一致し,20 人 全員が第2回入学生となったことが確認できる。

授業は6年10 月10 日前後から始まったようであるが

92

,校舎が完成していないので,

当初「大和屋敷」で授業が行われた。前掲図1のように,武蔵川越藩・松平大和守屋敷

であった。寄宿舎も同屋敷内東側に建設されていた西洋館を利用したという

93

。小学校

予定校舎(前掲図4)は6年12

月に完成しているので,7年1月からここを工学寮大

学校生徒の臨時校舎とすることになった。大学校本館が完成したあと,この校舎は博物

場となった。ちなみに小学校は同年2月,「私費ノ生徒ヲ募リ工学予科ヲ教授シ以テ大

学校ニ入ルノ階梯」として大和屋敷校舎を利用して設立されることになったが,明治10

(19)

年6月に廃止された。在学生は200 人ほどであった

94

表4-1は,工部大学校(工学寮)が東京大学工芸学部に併合される直前の明治18 年までの工部大学校入学・退学・死亡・卒業人数を見たものである。13 年間に493 人が 入学し,退学人数111 人,死亡数は18 人であった。入学人数493 人から退学・死亡・卒 業人数合計340 人を差し引いた人数153 人が在学生で,一旦,工芸学部に吸収された後,

帝国大学工科大学生となった。ちなみに平均卒業率は,明治6~12 年の入学人数合計 を卒業人数合計で除すことによって,74 %となる。

表4-2は工部大学校の学科別卒業人数を見たものである。また表5は東京大学理学 部卒業生を工学系と理学系に区分して明治10 年から18 年までの学科別卒業人数を見た ものである

95

。東京大学では工学系卒業生は58 人となる。理学部化学科が応用と純正に 別れる以前の化学科卒業生の約半分を応用化学科とみなしても,合計72 ,3 人にすぎな い。これに対して工部大学校は幅広い工学分野にわたって合計211 人を送り出しており,

表4-1 工学寮(工部大学校)入学・退学・死亡・卒業人数

明治6年 7年 8年 9年 10 11 12 13 14 15 入学人数 32 53 53 50 46 26 25 30 29 35

退学人数 3 3 4 1 13 7 18 1 8 8

死亡人数 0 0 0 0 0 6 2 1 3 1

卒業人数 0 0 0 0 0 0 23 40 38 35

16 17 18 合計 入学人数 50 34 30 493 退学人数 20 16 9 111

死亡人数 4 0 1 18

卒業人数 35 22 18 211

(注)『工部省沿革報告』,404頁。

表4-2 工部大学校学科別卒業人数

明治12 13 14 15 16 17 18 合計

土 木 科 3 8 7 7 11 4 5 45

機 械 科 5 11 9 6 5 3 39

造 船 科 3 3 2 8

電 信 科 1 2 6 6 5 1 21

造 家 科 4 2 3 5 5 1 20

化 学 科 6 5 3 2 3 4 2 25

冶 金 科 2 1 1 1 5

鉱 山 科 2 11 9 8 4 9 5 48

23 40 38 35 36 21 18 211

(注)『工部省沿革報告』,405~408頁。

(20)

明治前期における工学教育機関として重要であったことがわかる。

お わ り に

前近代社会においては,生産活動の中心的資源基盤は非鉱物資源もしくは再生可能資 源であったが,近代社会においては鉱物資源もしくは非再生資源が生産活動の基盤となっ た。18 世紀後半以降イギリスを最初とするいわゆる産業革命を機に,急速に資源基盤 の移行を促進させるような様々な技術革新が起こり世界的に普及していった。それまで の歴史が経験することのなかった大きな社会変動を引き起こしたのである。

技術移転を媒介する手段として,基本的には人,機械(道具),文献をあげることが できる。それぞれには生産技術に関する情報が包含されている。産業革命初期ばかりで なく,それ以前の生産技術は職人技能に依存するところが大きく,その伝播には人的移 動が必須であった。筆者はかつて江戸時代から明治期にわたる製糖技術の移転や国内普 及について検討したことがあったが

96

,江戸時代において製糖技術に関する出版物・写 本などの文献も普及に一定の役割を果たしたが,その際,製糖技能をマスターした職人 が必ず国内普及を媒介していることを確認した。見様見真似により技能移転が行われ,

人を媒介にしてはじめて技術もしくは技能が伝授された。ただ,伝授に成功したとして も移転先の気候や土質に応じて糖汁成分や成分比率も異なるし,糖汁の濃縮や分蜜など

表5 東京大学理学部学科別卒業生人数

学 科 明治10 11 12 13 14 15 16 17 18 合計 工学系学 科

機械工学科 1 2 3 1 7

採鉱冶金学科 3 1 5 4 1 2 16

土木工学科 3 5 6 6 4 4 1 1 30

応用化学科 3 2 5

化学科 3 7 6 6 4 4 8 38

理学系学 科

純正化学科 2 2 4

物理学科 3 1 1 2 7

物理学科(仏語) 5 7 8 20

数学科 1 2 3

植物学科 1 1

生物学科 3 3

地質学科 1 3 1 3 2 1 2 13

動物学科 1 1 2

3 15 22 24 17 20 22 11 15 149

(注)『帝国大学一覧』従明治28年至明治29年,431~490頁。

(21)

も気候に影響されやすく,移転先において独自の工夫が必要であった。このような事例 は,日本ばかりでなく欧米諸国でも同様であろう。コークス高炉法にしても,鉄鉱石や 石炭の成分・成分比率が地域により異なるので,一地域で成功した方法が人を介して伝 播しても,それぞれの地域の原材料に適した改良を試行錯誤で見つけなければならない。

「はじめで」でも指摘したように,工業化初期においてイギリスの各種工業技術がヨー ロッパ・アメリカに移転しにくかったのは,このような側面があったことも考慮しなけ ればならないだろう。

ところが,工業化の進展もしくは鉱物資源利用の拡大とともに生産技術と科学の融合 が進み,工学教育機関を通して技術移転や技術普及が可能になった。前掲のジェー・ス コット・ラッセルは『職業教育論』において自身の体験を次のように述べている。「余 ノ職業ニ於ケル別ニ教授ノ設有ル無ク,凡ソ此ニ従事スル者ハ皆之ヲ自得セシ者ノミ」,

「職業ヲ教フルハ猶游泳ヲ教フルニ水中ニ投シテ其浮沈ニ任スカ如クスルノ外他術無シ トセリ」と,先輩職人から技術もしくは技能を教わるのではなく,水中に投ぜられ浮き 沈みしながら自分自身で泳ぎ方を学ぶようなもので,これ以外に習得方法はなかったと している。しかし,チューリッヒ職業大学校(現在のスイス工科大学チューリッヒ校)

では,「学術ノ記録ヲ探リ其何国ヲ問ハス学識鍛錬アリテ教授ニ熱心ノ名アル人ヲ求メ」

たばかりでなく,工学教育に必要な実験室,各種機械模型を展示する博物館などを設け,

実地教育が行われていることを紹介し,「一切ノ秘訣ヲ発露シ一切ノ私密ノ知識ヲ公ニ シ,実地経験有ル教師ハ各其業ノ奥妙ヲ説明セリ,余ノ駭愕亦宜ナラズヤ

97

」としてい るのである。ラッセルは,イギリスにおいても政府が率先して工学教育機関を設置すべ きことを提唱した。

工学教育機関においては,人(教師,技能工),機械(各種模型,実物,標本),文献

(教科書・専門書,各種図面)を通して近代工学技術を移転・普及させることが可能と なる。上のコークス高炉法の事例で見ると,各地の石炭・鉄鉱石の成分・成分比率や炉

内で進行している化学変化などに関する科学的知見に基づき,コークス高炉の改良や原

材料の前処理が行われ,生産工程が標準化されている。工学教育機関では,これらの科 学的知見,最適な高炉の構造,原材料の前処理,標準化された生産工程などを,実習を

交えて講義することになる。

本稿では,帝国大学工科大学の前身の一つであった工学寮(工部大学校)の設立過程 を明治6,7年頃まで辿った。

明治4年に初めて工部省内に工学教育機関を設置することが決まった。当初,小学校

(22)

と大学校からなる工部学校を設立し,小学校へは16 歳以下の少年を入学させ,2年間 学んだ後,試験を経て大学校に進み,「諸工学科技術」について実地に修業させる構想 であった。この構想をより具体化するために工学寮が同年に設置され,明治5年3月に

「工学校略則」が公にされた。定員は300 人,就学期間は小学校2年,大学校4年を予 定した。また教師は全員外国人を雇用することになった。この段階では,工学寮は教育 機関である工学校の監督官庁的性格を持っていた。しかし,2回にわたる外国人教師の 来日延期により開校は遅延することになった。

このような設立の動きと並行して,外国人教師の選出や学校建設が進んだ。教師選出 については,伊藤博文や山尾庸三らがイギリス留学時代に世話になったヒュー・マセソ ンを介して行われたが,実際にはマセソンが懇意にしていたグラスゴー大学前教授のル イス・ゴードン,ゴードンの後任のウィリアム・ランキン,ゴードンのかつての同寮ウィ リアム・トムソンにより行われた。工学校の責任者(都検)としてランキンの弟子にあ たるヘンリー・ダイアーが選任された。工学校カリキュラムは,ダイアーにより書かれ たものであるが,ゴードンらの影響があったばかりでなく,工学校における理論と実地 教育の半年交替制については,チューリッヒ職業大学校のカリキュラムに関するラッセ ルの改良意見に強く影響を受けていた。

学校建設に関しても多数の外国人技術者や技能工が関わっている。小学校建設はイギ リス人のアンデルセンとマークスが担当したとされているが,彼らはいずれも技能工で,

近代建築物の設計能力があったかどうか疑問が残る。大学校建設については当初,イギ リス人建築家で造幣局などの設計で有名なトーマス・ウォートルスが責任者となったが,

フランス系イギリス人ボアンビールが彼に代わって設計・建築を行った。ウォートルス の設計能力に問題があったものとみられている。

外国人教師の来日にともない,明治6年7月に「工学寮入学式並学課略則」が公にさ れ,同年8月から大学校が開校されることとなった。この時,工学寮の組織としての性 格が,教育機関の監督官庁から教育機関そのものに変化した。都検に就任したダイアー の影響と考えられる。

工学寮の定員は50 人で,うち30 人が甲科及第,20 人が乙科及第として入学試験が行

われたが,入学試験について周知徹底されなかったため受験者数が少なく,甲科及第で

20 人しか採用することができず,2回目の試験により定員が満たされた。当初,授業

は工学寮の南に位置する大和屋敷で行われたが,翌年には小学校新校舎,さらに大学校

新校舎で行われた。小学校校舎は,工学教育に必須の実物機械,模形,各種標本などが

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