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チェコ語で書かれたこのジャンルの作品としては,『魂と肉体の(第一
ナー・ホラという2つの町が女性として擬人化され,キリストを前にした 裁判でフス派とカトリック派それぞれの論拠を展開して論争し,最後には プラハが勝利する,という内容である。 『人間と死の対話』(韻文)は,死についてのキリスト教的な教訓文学で ある。ここでは,死の近づいた富者が,擬人化された「死」と対話し,富 者は「死」に対して,死を免除して自分の代わりに貧者を連れて行くよう に頼む。しかし,身分の差を消し去る死の平等が強調され,フス派の立場 から社会的平等が強調される。激烈な肉体的な腐敗のイメージが死の恐怖 を駆り立てるが,ここでは「死」が悪魔と同一視されており,キリストの 救済の仕事によって「死」が打ち負かされる。 これらの作品とは異なり,「論争」のジャンルの最も重要な作品である 『織匠』は散文であり,かなり長い作品である。 チェコ語で書かれた『織匠』は,中世チェコ・ドイツ語文学の傑作とし
て知られる『ボヘミアの農夫(Der Ackermann aus Böhmen)』(1400年?)
慰め(consolatio Philosophiae)」のジャンルに繋がる作品だという相違が ある。ソウクプは,中世に良く読まれていて『織匠』の中でも4回引用さ
れている『哲学の慰め(De consolatione philosophiae)』の著者で,古代
ローマの哲学者・政治家アニキウス・マンリウス・セウェリヌス・ボエ
ティウス(480頃∼525頃)と『織匠』との関係を指摘している。更に,ボ
ヘミア地方司教総代理としてプラハに住んでいたこともあり,ドイツ語で
書いた『神の慰めの書(Das Buch der göttlichen Tröstung)』で知られる
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(milý Tkadle ku)」,「善良なる織匠よ(dobrý Tkadle ku)」,「善良にして 高潔なる織匠よ(dobrý, ctný Tkadle ku)」,「極めて賢き学徒よ(sob múdrý žá ku)」,「賢人よ(chytrá ku)」などと呼びかけたり,あるいは,恋人を 失った悲哀に囚われてそこから抜け出せない「織匠」に向かって「さあ教
養人よ,目を覚ませ! さあ学徒よ,分別を保て!(Ej, literáte, pomni se!
Ej, žá ku, bud’ p i pam ti!)」34
そしてこちらの膏薬は,修道士が修道女の上に座って, かわや 厠で作ったものです, あなた方の誰でも,それを試してみる者は, 半分,物乞いの杖みたいに立つでしょう。46 下品な下ネタも出て来る。 先生,私はあの場所で人々を治し始めました, すると,私の鼻先で,婆さんたちが屁をひり始めたんです。47 下ネタは,一種の罵り言葉としても使われている。 親愛なる先生,あなたはいつも私に怒鳴ります そしてご自分の怒りで私に食ってかかります! あなたは偉大な医術に通じておられますが, でもだから,糞のかけらさえ,もうお持ちでない。48 偽医者は,三人の女が町にいて良い膏薬を探していることを知って,助 手のルビーンに,彼女たちの所へ行って自分の方に来させるように言う。 三人の女,即ち三人のマリアは,チェコ語を話すが,ラテン語でも,イ エス・キリストを喪った悲しみと苦悩について,次のような真剣で深刻な 歌を歌う。 (第1のマリア)
Omnipotens pater altissime, 全能にして至高の父よ, angelorum rector mitissime, 天使たちの最も慈悲深い支配者よ
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のでしょうか?
Heu, quantus est noster dolor. ああ,私たちの苦悩はなんと大きなことで しょう!
(第2のマリア)
Amisimus enim solacium, なぜなら,私たちは慰めとなる人を失ったか らです,
Iesum Christum, Marie filium. イエス・キリスト,マリアの息子を。 Ipse erat nostra redempcio. あの方は私たちの救いでした。
Heu, quantus est noster dolor! ああ,私たちの悲嘆はいかに大きいことで しょう!
(第3のマリア)
Sed eamus unguentum emere, けれども,私たちは膏薬を買いに行きましょう, cum quo bene possumus ungere 主の聖なるお体に
corpus Domini sacratum. よく塗ることができるような。49
ン語の混成語が現れ,部分的にドイツ語のパロディーも出て来る。例えば 偽医者は,こんな風におかしなドイツ語を使う。 偽医者が呼ぶが,ルビーンの返事がない: ルビーン,ルビーン! もう一度呼ぶ: ルビーン,おまえはどこだ(vo pistu)? ルビーンが答える: ほら,先生,雌犬(娼婦)のけつを掴んでいるですよ。 偽医者はまた呼んで言う:
ルビーン,おまえはどこに行っていたんだ(vo pistu kvest)? ルビーンが答える:
ほら,先生,毛深い雌犬(娼婦)の尻をね。52
ここで「vo pistu」はドイツ語の「wo bist du」,「vo pistu kvest」は「wo bist du gewesen」のパロディーである。
また,ルビーンとポストルパルクが一緒に歌う歌では,一つの詩の中に チェコ語とラテン語が混在している。
ほら,ヒッポクラテス(Ypokras)先生があなた方の所へやって来ました 神の恩寵により(de gracia divina),
今,医術において(in arte medicina),先生より悪い者はいません。 何かの病気に冒されている者で,
生きていたい者は,
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このように,この作品は言語的な混交が見られるという点でも注目すべ き作品であり,チェコ・ゴシック時代の多言語状況を興味深い形で反映し ていると言えよう。また,決してキリスト教一色ではなかったゴシック時 代の社会の実体を垣間見せる作品としても興味深い。
『偽医者』と同様に,『陽気なマグダレナの劇(Hra veselé Magdaleny)』
102 専修人文論集108号 ク研究(1)――オロモウツと「クシヴァークのピエタ」――」(『専修大学人文科学 研究所月報』第295号,2018年9月,専修大学人文科学研究所),「チェコ・ゴシック 研究(2)――チェコのゴシック教会とヴォールトのデザイン――」(『専修人文論集』 第106号,2020年3月,専修大学学会),「チェコ・ゴシック研究(3)――チェコ・ ゴシックの華,「美しい様式」の誕生と受難――」(『専修大学人文科学研究所月報』第 306号,2020年7月,専修大学人文科学研究所),「チェコ・ゴシック研究(4)── カレル4世とチェコ・ゴシックの遺産──」(『専修人文論集』第107号,2020年11月, 専修大学学会)の続編である。
2 Cf. L Jan Lehár et al., eská literatura od po átk k dnešku(Praha: Nakladatelství
lidové noviny, 1998),s. 72―73.
3 同じテーマの3つの作品が残されており,そのうち最も重要なものが第一の論争で
ある。
4 『聖書』聖書協会共同訳,日本聖書協会,2018年,(新)343頁。
5 Cf. Walter Schamschula, ed., An Anthology of Czech Literature, 1st Period: From the
Beginnings until 1410(Frankfurt am Main ・ Bern ・ New York ・ Paris: Peter Lang,
1991),p. 183.
6 Cf. Daniel Soukup, „Tkadle ek: Vernakularizace filozofického myšlení,“ Bohemica
lit-teraria, 17(2014 / 2),s. 34.
7 原文は次の通りだが,これを一文で日本語に訳そうとすると,ほとんど意味が見通
せない文になってしまう。
14 Soukup, op. cit., s. 43―48. 15 ボエティウス『哲学の慰め』渡辺義雄訳,『世界古典文学全集』第26巻(筑摩書房,1966 年)所収,358∼359頁。 16 同,402頁。 17 同,363頁。 18 ヨハネス・フォン・テープル『ボヘミアの農夫――死との対決の書』石井誠士・池 本美和子訳(人文書院,1996年),44頁。 19 同,47頁。 20 同,48頁。 21 同,48頁。 22 同,80―82頁。 23 同,85―86頁。 24 同,32―33頁。 25 同,60頁。 26 前掲『聖書』,(旧)790頁。 27 同,(旧)778頁。 28 同,(旧)782頁。 29 同,(旧)764頁。 30 ボエティウスは次のように述べている。「神が支配者であることを知った今となっ ては,私の驚きは深まるばかりです。神はしばしば善人にうれしいことを,悪人につ らいことを与えるが,また反対に善人に苦しいことを授け,悪人に望みをかなえさせ るから,もしその原因が見出されなければ,どうして神はでたらめな偶然とは異なる と見られるでしょうか」(傍点引用者)(ボエティウス,前掲書,412頁)。(一方,も しもすべてが神の摂理に従って動いているとすれば)「事物のあらゆる秩序は摂理に 由来し,人間の計画には何も残されていませんから,私たちの悪徳もあらゆる善の創 造者(神)に帰せられることになります」(同,424頁)。 31 前掲『聖書』,(旧)792,815,816頁。 32 Cf. Soukup, op. cit., s. 38.
33 Tkadle ek, s. 110. 34 Tkadle ek, s. 68. 35 Tkadle ek, s. 114―118. 36 Soukup, op. cit., s. 40. 37 Tkadle ek, s. 80.
38 注1の「チェコ・ゴシック研究(3)――チェコ・ゴシックの華,「美しい様式」の 誕生と受難――」参照。
39 Cf. Soukup, op. cit., s. 30.
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頁参照。
41 Cf. Lehár et al., op. cit., s. 70―71. 42 前掲『聖書』,(新)95頁。
43 ミハイール・バフチーン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民
衆文化』川端香男里訳(せりか書房,1974年),11∼26頁参照。 44 Cf. Lehár et al., op. cit., s. 78.