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ルール闘争期のドイッ共産党ー1統一戦線運動の展開と挫折ー

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(1)

論 説

ル ー ル 闘 争 期 の ド イ ッ 共 産 党

ー 1 統 一 戦 線 運 動 の 展 開 と 挫 折 ー

山 田 徹

目 第 第

第 は 三 ニ ー じ 章 章 章 め 次 一 一 危 に

〇 九 機 月 二 の の 三 進

「 年 行 蜂 夏(

起 Lドの 以上

イ 本 ツ 号 共) 産 党  

は じ め に

本藻︑先に﹃神奈川法学﹄誌上で発表した拙肇ドイツ菱党の統一戦線運動の構造・8面Lの直接の続編をなすものであり︑先の稿(以下﹃醤削稿﹄とする)でその構造的な枠組が確定されたドイツ共露の統一戦線運動が﹄九二三年の危嚢況の中でどのような展開を示し︑また如何なる帰結をもったかを明らかにしようとするものである・鋤﹃前稿﹄を含めた本論文の全体にわたる問題視角は先の稿の序の部分で述べた通りであるが・この点を改めて警⑬

すると次のようになる︒‑

(2)

先ず共産党の指導する大衆運動の歴史を研究する場合︑第一義的に重要なことは︑この運動の性格が︑例え同党のよ

うに国外の組織によって如何に大きな影響を受ける場合にせよ︑結局のξ﹂ろ.﹂れはその運動を直接担う人々とそれ

を囲緯する人々との相互の行為乃至は交渉によって基本的に規定される︑というのが筆者の考︑秀である︒そして.﹂

れらの行為乃至交渉に定型的な形を与えるのは︑様々の状況的︑文化的︑伝統的な要因を刻印された組織であるから︑

筆者はこれらの組織の対象時期の特有のあり方或いは籍を先ず重視する.﹂とにしたい︒それらの組織の態様は政党

の指導する大衆運動の展開にとって独特2肝零俸と亦露を与えるのである︒ζ︑ろで共産党の政治指藻︑所与

の体制を全体として変芒そのために大衆を最も大規模な形で動員︑統合する.芝を目指すという﹁全体的な﹂政

治指導であるという点に特色をもつが(﹁全体嚢﹂という懇のイデオ早真を除くために上のような昌ゴ︑葉を使う.﹂とにす

る)・このため覧出された組織が協議会(図馨①)であった︒周知のように︑第一次大戦後に勃発したドイツ革命は︑

その主要な担い手として協議会という組織を生んだが︑この組織は蕃状況の喪失とともに﹁経営協議会法﹂により

経営内の組合下位機関に転成し共和国内秩序に饗された︒しかし讐羅会は︑大衆の蕃的気分の残存と相侯.

て・革命期後もなお様々な点で急進的なエネルギを発芒うる場でありえたのであり︑y﹂.渉ら﹃前稿﹄で述べら

れたような共産党の指導の体系が組み立てられたのであった︒さて︑革命期の経営協議会運動を詳鯉論述したエル

ツェソは・一盤革命時に発生した協議会(或いはそれに類似した組織)の機能のあり方をω闘争機関︑GO階級利益の代

表機関及び㈹国家欝・の三つの視角から類別し旋︑筆者は︑本論文が対象とする時期においては︑.﹂れをやや

改変して・ω共和国の秩序様式と見合う﹁組合下位機関﹂︑Gの経営協議会が可能性としてもった﹁闘争機関﹂として

のあり方・及び㈹共産党が目指した薗家機関Lとしての協議会︑という三つの型を提示する.とにしたい︒革命

期後の不安定状況下の協議会のあり方を共産党の指導の問題と関連させてみる場合︑上のよう姦型化の方がより適

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ル ー ル 闘争 期 の ドイ ツ共産 党

切であり︑協議会組織の上記のような両義的な性格の中にこそこの時期の共産党研究の﹁面白さ﹂があるといわなけ

ればならない︒

さて︑本論文が対象とする一九二三年という年は︑国際的な危機状況の進展の中でフランス︑ベルギー軍によるル

ール占領が強行され︑ドイツ国内では未曾有のインフレーションに見舞われて深刻な政治危機1﹁権力解体﹂の状況

が現出した年であった︒そしてこの年はまた前記エルツラによれば﹁夏のインフレ←ヨンが頂点に達した時期に・.﹂れまで意図的に育てられてきた共肇馨の経営協議会運動が⁝その固有の生命を獲得し陣年でもあった・筆

者はこの時期の共産党の大衆運動の性格とそれが有した影響力の問題を︑右のような協議会組織の三つの機能の相違

を念頭におきながら分析をすすめることにしたい︒このような視角からみると︑社会民主党と自由労働組合という巨

大な隣接組織に対し︑様々の局面で適応と対抗の二相を複雑に交錯させた同党の運動を︑より対象に密着した形で把

︑兄ることができると考・兄られる︒一九一二年後半以降に採用された共産党の統一戦線戦術は︑これらの巨大組織の対

抗に直面して︑様々の妥協を行いながら運動の統合を﹁全体として﹂果そうとした試みであり︑ここから同党は種々

の困難に逢着したのであった︒ではこの戦術は一九二三年にはどのような結果をもたらしたのであろうか︒﹁革命の

可薩をはらむ過覇﹂(Ψw 量圃・鼻Φ︒げ馨σ・.・憲飢Φrフレヒよ塵の最後の年にあたる同年の護党の﹁過

渡期﹂の戦術の展開を︑上のような問題視角から再把握することが本稿の課題となるのである︒

次に︑一九二三年の共産党に関する諸研究の動向と︑その中での本稿なりの特徴について若干述べることにしよう︒

先ず.謡らの研究の中の西欧側の袋的な文献としては︑アングレスの蓄とヴ︑ンツ︑ルの学位論文をあげるこ

とができる︒このうちアングレスの研究については﹃前稿﹄で簡単にふれたが︑そこでも述べたようにこの研究は幾つ

(395}

 

3

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かの包括的な視点の提示にもかかわらず︑分析の主眼が多くはドイツ共産党と・︑︑︑ンテルソの関係の問題におかれて

いる・この書の章題をかりるならば︑コーソテルンによる﹁﹃認容されざる﹄権力への意思﹂(﹁三月行動﹂を指す‑馨)

から﹁﹃馨された﹄権力への意思﹂(五一三年の﹁+月蜂起﹂を指す占)→.﹂の間の同党のコ︑︑︑ソテルソへの従属

の難を明らかにすることこそがアソグレスの主覆関心なのである︒しかしながら・︑︑︑ソテルソの路握確かに当

時のドイッ共産党の方針を左右させたとはい・兄︑これらの路渥ギツ国内の種々の内政状況の中にいわば癒過L

され﹁内化﹂されて始めて固有の具体性をもったのであって︑この占州を見逃すならば彼自身の述ぺる﹁共産党の理論的

な基礎とその実際の適用及び箪﹂は体系的箋瞼識することはできないであろう︒他方ヴ︑ソツ︑ルのモノどフフィ

ーはこ九二三年の共産党研究に関する限り最も詳細なものであり︑アソグレスの書も同年の叙述ξいては実はか

なりの部分をこの研窪負っており︑筆者もまた稗益するところ少なくなかった︒しかしヴェソツ︑ルの立場は︑彼

自身の言葉によれば﹁﹃ブルジョワ﹄工業家の立場﹂に立つものであり︑.︺.﹂から幾つかのバイアスが生まれてくる︒

例えば労働護府を﹁陰蔽されたソヴィエト政府﹂とする見方︑讐協議会ξいての同党の.フ.パガソダを﹁.シ

ヤで二月から+月にかけてソヴィエ乏与・舌れた機能を讐協議会にも課そうとした﹂ものであるという説明など

がそれである・このようにみてくると︑アソグレスとヴ︑ソツェルの研窪︑ともに共産党の大衆運動のこの時期の特

質を充全に把毛いるとはいい難のであって︑讐すればこれは両者が共産党の労働運動と共和派のそれとの独特

の緊張関係を視野の中最めえていないということになる︒特にこれらの研窪︑当時の協議会組織の固有のあり方

に蒼することが乏しく(楚アソグレスの場合)︑この点は方法上の;の欠陥になっていると思われる︒.航に対し

本稿は・この問題を軸としながら・充壬一菱の共産党の影響力の問題︑及び+月の雇起L闘争の旧来の路線との

連続性と断絶の問題を・これら二者の研究と箋らか異なる角度から検討するy﹂とを目指している︒その際︑﹃幕﹄

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4

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ル ール 闘 争期 の ドイ ツ共 産 党

で叙述されたような同党の運動の構造乃至目標がどのように実現しまた如何なる変容をこうむったかという点が重要

な論点になるのであって︑その意味でいうと︑先の稿で確定された運動モデルが一九二三年の共産党の運動を分析す

る際の﹁引照の基準﹂になるのであり︑この点に本論文の構成上の特色があるわけである︒

次に東独側の研究ξいてはここでは︑エルジル(≦国邑とクルシュ(ヨ閑N・.・&の地域舞を淳ることに

しよう(前者は中独のハレ"メルゼブルク地域︑後者はザクセンのエルツゲビルゲ・フォクトラントを対象とした研究である)︒

一般に東独側の共産党史は︑その歴史がこの国の正統性根拠の問題と深く関わりあうためにイデオロギー色の濃いも

のとなっているが︑前二者の研究のうちエルジルのそれは︑運動のナショナルな要素を強調しまた社会民主党左派へ

の評価も否定的であるのに対し︑クルシュの場合は︑﹁民主化﹂という課題の重視から社民党左派へも相当に肯定的

な評価を行ない叙述もおしなべて柔軟であって︑この間の東独側の歴史叙述の方法上の変化を窺わせる︒さてこれら

の研究では︑先に述べたような理由から共産党の運動が常に過大視される傾向をもつところに大きな問題点があるわ

けであるが︑それとともに︑両者の研究が八月の時点で叙述を打切っている点になお問題が残されているように思わ

れる︒これは︑東独側の正史の見解︑即ち一〇月の﹁蜂起﹂の時点で﹁独占資本︑軍国主義者が保有する権力の打倒 ヱのための客観的条件が拡大した﹂という見方を︑上記の詳細な地域研究を行なった著者らが結局確証しえなかったか

らではないか︑というのが筆者の推測である︒いずれにせよ︑八月の高揚した大衆運動が一〇月の﹁蜂起﹂にどのよ

うに連なっていったかという問題は︑一九二三年の共産党を論ずる場合逸してはならない問題であって︑この﹁蜂

起﹂の性格を考・兄る際に重要な論点としなければならないであろう︒この点については︑本稿では東独側のいま一つ

の特殊研究⊥ベダンク(臣・・げ§犀)の﹁ハンブルク蜂起﹂に関する舞とあわせて後の部分で検討することにし

たい︒しかしともあれ︑西独側の資料ではカヴァーしえないこれらの地域の研究は︑両書の巻末の資料を含めて利用

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しうる点はこの研究でも生かしたいと考えている︒

次に個別テーマを扱かった西側の共産党研究を紹介することにしよう︒この点では︑あまり知られていないが先ず

ルル地方の幾研究を行なったライζン(図.菊Φ一〇ゲヨ節コ昌)とギタ支ン(rP勺.叶..・.︒昌)の学位論文︑及び最近論

されたゾーリソゲソ市の同党の自治体政策を対象としたヴュソデリヒ(,く・ゼく口昌山Φユ6げ)の研究を挙げなけれぽならない︒

ルールその他の地域の文書館における豊富な資料を用いて作成されたこれらの論文は︑共産党の地域研究に関する新

たな可能性を切り開くものであり︑筆者には今のところここに盛られた事実それ自体を充分に批判する用意はない︒

ライクマンの研究は︑同地方の共産党の歴史をほぼクロノロジカルに総体として詳細に扱かっており︑ピータースソ

のそれは主として組合肘濫住を含む)内の同党の活動を記述しており︑また後者の研究では同時に共産党の同地域での

影響力︑組織の形態及びイデオロギーについて別に一項を設けて考察しているが︑これらの点について批判のある場

合は本文の中で記しておく︒さしあたりここでは︑筆者がドイツ滞在中に得た若干の資料をも用いながら︑上記著作

で叙述されたルール地方の同党の運動を可能な限り全体の運動枠組の視野の中に収め︑また各論文相互に齪臨のある

場合はこれを指摘することを行なう︑と述べるにとどめておきたい︒次に共和国初期を含めた共産党の組合内活動を

稿(司︒︒)ρ

ピ 餌量 琶 の 研 究 が 発 表 剥 煙 ・ レあ う ち ア イ ス ナ ゐ 書 は 共 和 国 全 期 に わ た る 共 産 党 の 主 と し て 対 馨 審 を (活

動の実態をというよりは)とりあげ︑またラウプシャーの著作は独立社会民主党を含めたADGB内反対派の研究を主

要には金属労組と印刷及び製本労組を対象として行なっている︒しかし総じてこれらの論文は﹁資料状況の困難﹂(一フ

ゥプシャー)の故にか一九二三年についての記述は厚味に乏しく︑また後二者のそれは組合内の活動に視野が限定され

ているために協議会組織を重視する筆者の問題視角からすると不充分なものとなっている︒但し﹃前稿﹄を含めた本

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ル ー ル 闘 争 期 の ドイ ツ共 産 党

論文の全体についていうと︑アイスナーの書は一九二〇年一月の﹁経営協議会法﹂成立の前後の事情について・また

ラウプシャーの著作は一九二一‑二二年の個別組合内の反対派の影響力について比較的詳しく述べられているので・先の稿のこれらに該当する部分については機会があれば補足したいと考えている︒

なお最近︑共和国初期の﹁労働運動と蜂起﹂の問題について︑その誘因︑大衆運動との関係︑武装問題︑各党の態

度などを検討したル歩ヴィ三ぎい民豊・・)の異色ある聚がでたが・この謹一九三年の﹁三月行動﹂まで

の記述に重点がおかれ︑一九二三年の問題については目新しい視点は提示されていない︒

と.﹄ろで上の個別研究の領域に属するが︑﹁学生叛乱﹂の世代が著わした︑そして一部には︒ート(塁男婁の﹁もう;の労働運動﹂という問題提起を受けて発表された︑産業内乃至は経営内の叢党の活動に関する二つの研究書曇目及しておかなければならない︒それはシ︑ック(国・ノ㍉.ωoぴひo犀)とζト←(ζω墓の著作で難・シェ

ックの研究は︑これまでの共産党研究の多くがその力点を中央の指導部(乃至はその内部の指導者間の相克の問題)の分

析においていう︑とを批判し︑同党の路線を生産過程の内部から︑いわば﹁内側﹂から把え直そうとした先駆的な作

品であり︑より具体的には﹁革命的労働組合反対派﹂(㌔①<︒匿︒鼻・︒oΦ蓄爵︒・︒ゲ聾︒・‑o署︒︒・ぎ昌駐i男OO)の戦術が採用されるまでに至る過程を︑﹁拠点産業﹂である炭鉱︑化学︑金属産業を対象としながら︑これをRGOの担い手たる・

生産過程内で労働の慧味Lを嚢した労働者層︑及び生産過程から排除された層(失萎)が相対的安定期の﹁合

理化﹂を通じて輩出されてくる過程として把亀あわせて共産党の労働運動内の雰裂Lの政策を・含の左派の立

場から批判することを意図したものである︒またシュトーレの著書はさらにふみこんで︑二つの化学会社蒙イアー窃暫団︒増)とBASF)︑一つの金属産業会社(ボッシュ爲9︒呂)及びゾーリンゲンの幾つかの企業の事例研究を行ない・

一九二四年来の共産党の政築その思考様式の点において実質的に後年の﹁社会ファシズム﹂論のそれとほぼ里で

X399)  

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あるという彼女のテーゼを︑政治的讐的鳶面変動(量⁝亘と関連させて︑熟練.半熟練.非熟練労讐︑婦

人.青年外人労働者が相互に織りなす過程の中で実証することを目指している︒ところで先にあげた.ートは︑ド

イツ労働運動の二つの流れを区別し︑革命期の経携議会運動は経営における熟練労働者(その多くが組盒辱る)

の共異定権の獲得を目指す運動であったのに対し︑その後の充二〇年三月のルル蜂起︑翌年三月の中独の嚢

行動は・多国籍の非熟練・非懇芙衆労働者の︑政党から自立した政治権力をめざす直接行動であり︑さらに二三

年δ月の﹁ハソブルク蜂起﹂すらもこの系列に属することが示唆されている︒総じて彼によれば︑戦前からヴァイ

マル初期に至る労働組合及び労働者政党(共産党を含む)の運動は︑これら大衆労働者の﹁もう一つの労働運動﹂と対

置される熟練労働者の運動であった︒これらの著作積向的には︑最近西独で新た試みられつつあ避業化過程に

おける労働者の生活"労働嚢を様々な方法で精緻に把え直そうとする動きの一環に連なるわけであるが︑ヴ.イマ

ル期に関してはこの動きは漸くその緒ξいたばかりであるとみるこ殊できる.事実.ートのやや荒削りな立論に

対しては・ルーヵ三曽 ・・)の地域研究からする批判が直ちになされ︑また前記シ言←を参照すれば︑熟練︑

非熟練労働者の運動の絡まり合いは特に蕃期後には企業毎糧め覆獲局面をもっており︑また闘争の形態も.

ートの三分法Lによっては到底収まりきれない諸相をもっていることが判明する︒しかしいずれにせよ.航らの研

窪讐の問題意識をさらに徹底させたものであり︑シ︑ックの饗︑1種々の領域(この場ム.は産業)における具体的

な研究を基礎として党史の一般化を図るーは馨も是とするところである︒しかしながら個々の産業或いは讐を

対象とするこのような共産党研窪いま述べたように開始されたぼかりであり︑今回のような本楚よる二般的

なL共産党研窪おいては資料に即してそれらの点に立ち入ることは到底不可態ことであった︒本稿は︑協議会︑

労働馨の行動様式・組織形態のこの時期の特徴的なパタ←を抽出し︑.航を共産党の指導と相関させて幾つかの

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(400)

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点を分析することを目的としており︑これらの点を労働者の様々な﹁存在様式﹂から﹁上向的に﹂把握することはな

されていないわけであって︑その意味でいうと本稿は多くの点でなお限界をもつことを承認しなければならないであ

ろう︒

なお筆者は一九八一年から八二年にかけて︑一年ほど神奈川大学の在外研究制度により西ドイツに滞在する機会を

得︑その間幾つかの文書館で資料を収集することができた︒未公開の党内文書を含むこれらの資料を︑筆者はとりわ

け一〇月の﹁蜂起﹂について叙述する際に利用することにしたい︒これにょり︑党内の﹁卒伍﹂の間における﹁蜂起﹂

についての了解とは何であったかという点を少しく検討してみたいというのがここでの筆者の狙いで紮・

(静)なお本稿では人名のドイッ語表記は﹃前稿﹄で記載されているものについてはこれを省略することにする︒論文の形式とし

てはいささか異例であるが︑繁瑚さを避けるためのものなので了解して頂ければ幸いである︒

ル ール 闘争 期 の ドイ ツ共 産 党

以下の章では︑先ず一九二三年初頭のルール占領事件に端を発するいわゆる﹁ルール危機﹂(・勧鼻学年博︒︒①︑.)の進行

を幾つかの局面にわたり簡単に述べ︑その後に同年前半期のドイツ共産党の大衆運動の展開を逐次詳しく検討してい

くこととしたい︒

(1)﹁ドイツ共産党の統一戦線運動の構造︑一九二一年後半から一九二二年を中心として︒e〜四﹂︑﹃神奈川法学﹄=一巻一一ニニ号︑扁三巻三

号︑一四巻二・三号︑一七巻一号︒

(2),♂O︒鳥器ロ・じロ①乱①げ︒・隷幹①貯畠霞Z︒︿①日げΦ箒く︒奪ぎ・田冨智薮︒︒準ミ一選鰐6冨臣導①d異器暮7唇︒q郎竃二α$謁Φ冨開§山Q︒件同艮葺﹁伽巽訂仲肖蓉芽げ①昌ロ昌飢乱H訂︒ゲ即詮睡6ぽ口卸鼠§糞2目瓢費鳥窪馨ぽロ幻薯9幾︒罰一黛Q︒\一ρ口づ巴旦望讐‑じ尊騨畠O鼠Φ︒︒訂おお①ω騙ψω葵

(3)園げ⁝α.qo﹄卜a8

(401)  

9

(10)

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いる︒

( 6 ) ≦ 国 邑 ; 犀 ま 邑 ま 紳 の錘 量 9 壼 N 葺 ︒ ︒ ・・ 骨 ゴ 芭 Φ ・・ ζ 羅 器 量 竃 Φ ・・ Φ 藁 ・ 9 曵 Φ 職 ︒ 械 口 昌 巴 コ ≦ 汁梓 ① 罷 Φ 償 一・︒ ︒ ぼ 餌 昌 言 ︒ ﹃犀 昌 ( ︒ ) 壽 ⁝

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九 二 三 年 の 共 産 党 に 関 す る 東 独 側 の 概 設 書 と し て は ︑ ρ = 景 量 ・・ ζ ・ : ・ 梓蔓 ・ < 塁 ユ ① 乙 Φ 直 梓・︒ ・ ゲ ︒ ロ 竃 ︒ 旨 ︒ 弓 ︒ 9 ① H § 藝 H ︒ ロ ま ︒ の

寄 暮 曼 巴 舞 ︒q 巴 コ ( ︒ ) 藝 が あ り ︑ 記 述 の 方 法 と し て は エ ル ジ ル と 同 様 の 系 列 窟 す る ︒ な お デ ィ ー ル (国 ﹄ Φ 9 の 学 位 論 文 N 縄 .

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{402)

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(11)

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(41)

九籠切醒嘱については︑坪郷実﹁ドイッ第二帝政末期の﹃労働者像﹄への接近e‑ベルリーン機工業﹂︑﹃北九州大護馨

( 妬 ) 翫 菜 ㊦ 宛 昌 醗 触 論 転 Φ 門げ ① 笥 Φ 撃 鄭 中 ・ロ ① ‑ Φ ﹃犀 離 昌 ・q ① ; ¢ 一昌 Φ 旨 昌 φ 口 ㊥ 瓢 閃 . N ・, . ﹃ 餐 鵠 ⁝ , 帥 昌 ・・ 阻 砕N h 麟 増 島 陣① ︒ ‑ げ 搾 げ g α ‑ ︾ 量 仲ー ・・ 馨

第 轍 章 危 機 の 進 行

ル ー ル闘 争 期 の ドイ ツ共 産党

一九二三年一旦百にドイツの賠償支払い不履行を理由として開始されたフランス・ベルギ堂のルール進駐・ドイッ国民の側に激しい抵抗のエネルギをひきおこし︑ドイツではいわゆる蔓動的抵抗L(も四.・.・一羨壽馨民・)が開始されることとなった︒以下先ず︑この全体的な状況について簡単に傭鰍することにしよう︒前年=月に成立したクーノ政府は︑その発蛋来ほとんど賠償膿を糞させ登﹂とができず・同年の末までには連ム.国との交渉は完全繕礁にのりあげた︒このため翌年百初頭のず会談が不調に終ると・対独誇外交を推進してきたフ一フンス︑ベルギ政府は︑ドィッ側の石炭禾材供給の不履行を根拠としてドイッエ業の心臓部ルール地方への武力進駐にふみきったのである︒占領の報に接したぞノ政府は︑直ちに占領地の賠償碧炭のフランス・ベルギ両け引渡しを歪す隊ともに︑国罠に﹁受動的抵抗﹂を懇することを呼びかけ︑この抵抗への訴えは・醐国民の間にコ九面年以来のL熱狂をもって迎えられた︒社会民主党は︑履行政策の主響として・フランス・ベルギ輩の﹁野蛮な方法﹂をドィッ経済の再建を麗する行動であると激しく非穫・畠労働組合もまたフランスu

(12)

帝里蓬対する民族の農権勤労者の団結のために闘うことを宣言し︑国民的統簸墾の参袈誘したので

魏)璽同月の一吾には占領地で半時間ストライキが敢行され︑その後も公務員︑鉄道労働者のサボタ←︑行為が

ルール地方では袈いだ・占蟹当局はこれに対し︑サボタ←︑行動を行なった霧員︑労働者の蟹︑ドイツ鉄

道の押収などにより抵抗運動に威圧を加え︑ここに共和国の第二の危機をもたらすいわゆる﹁ル董ル撃﹂(..閃︒ゴ.,

..)

(苦)な莱文で述べた社会民主党と畠労働組合の抵抗犠への支縫︑大灘の彼等の﹁城内平和﹂政策とは区別されるべき

ものである・両組織はともに彼等の主張が﹁城内平和﹂策とみられる.乏ついては極めて簸的であり︑特に墾.測鑛フスマ

ソ(謡自ぎ琶も述べるように﹁企業家及び他のブルジ・ワ諸グル﹂フの纂に対しては当初から距離をもって盛﹂︒.あ

点ξいては・占領時のライソ・ヴェスーファ←ソ石炭シンジ午ト本部のハソ.フルク移転に対する墾︒側の強い抵抗︑及び

一月の社会民主党ミュラゐ国会無などからも響ことができるが︑楚占領地の炭鉱︑金属労組では資黍側への不信が強

かった・このような社民党・畠霜側の態度は︑後にみるように次箆抵抗闘争の分化をもたらすとともに︑四月からは﹁和

解による紛争の早期終結﹂という彼等の主張によって政府側の方針とも分離してゆく.芝になるのである︒

ところでこのような事態の進庭対し︑ドイツ共産党竺月二三日に︑﹁ク}をシュプレー川で︑ポワソヵレを

駐 鯉 履 .雛 ︑肇 琶 .繋 盤 韓 .諜 軽 旙舞 薦 嚢

約していえば・抵抗運動によって高轡た鶴運動のエネルギに依芒それに参加しつつ︑同鷺﹁国内における

階級対立﹂の側面を強調して・畠支配層と対決する運動の強化を図るものとしてあった︒即ち.﹂の文書によれぽ︑

(404)

12

(13)

ル ール 闘 争期 の ドイ ツ共 産 党

ルールをめぐる闘争は独仏ブルジョワジi相互の闘いであるが︑また国内のブルジョワジーとプロレタリアートとの

闘いでもある︑とされ︑ドイツ・ブルジョワジーは広汎な国民大衆を動員し︑﹁戦争﹂の負担を彼等に転嫁しつつ・

フランスとのルールの二〇%の利益配分Lをめぐる闘争に勝利し︑あわせて国内の反革命への障壁を一掃しようと

している︑という状況認識が示されたのであった︒従ってドイツ労働者は︑フランスに対する防衛闘争を組織するとともに︑労働者の権利叢︑ル!ル労讐の自決とパンのため昏国支配層と闘うべきであるという三方向への闘い﹂が指示されたのである︒

ではドイツ共産党は︑右の課題を﹁ルール闘争期﹂の具体的な局面の中でどのように遂行したのであろうか︒周知

のようにこの帰結は﹁ドイツの十月﹂とされる蜂起の組織化にまですすむことになる︒先の文書が予測した通り・一九二三年の危機は︑深刻なインフレーションの進行と侯って国内各層の間に鋭い対立をもたらし︑同党はこの時期に

ヴァイマル期を通じて最も激しい﹁闘争の時代﹂を迎えるのである︒それ故に︑この﹁尖鋭な危機﹂の時代は・労働

者組織内における同党の統一戦線運動の進展とその結果が最も端的に一示されるであろう︒さて本章ではこのような激動の序曲にあたる一九二三年前半期のドイツ共産党の運動をこの時期の幾つかの個々の運動の分析を通じて概観する

ことにしたい︒とりわけここでは︑ルール闘争の初期の局面と五月のルール・ストライキ︑及び労働者武装組織をめ

ぐる国︑邦政府と各党の対応︑の問題を中心として叙述をすすめる︒それらの動きは︑七月以降の国内状況の危機を

直接準備するものとなる︒抵抗運動に依拠しつつ遂行すると考えられた﹁二正面への闘い﹂はどのように具体化され

たのであろうか︒㈲

α

独仏支配層に対する闘争の独自の強化として共産党にょり呼びかけられたのは︑先ずルール占領に際してのゼネラ

13

(14)

ル ・

(甚)ルール嶺に対するゼネラル三ト一フイキの組織化という共産党の方針は︑畠労稿の方針と全く乖離していたわけでは

ない・同労組の所辱る国際労働組合連盟(囹・§彗量Ω①曇⁝藝・・げ鼠‑冨)ば︑一九二二年四月の第三昊会で︑新

たな撃の穰に際してはゼネラル・ストライキの寡.で.﹂れに対抗する.︺とを蝶し︑同年三月の‑GBの招集になるハー

グでの平和会議も・ルール占領に対しての国際的なゼネ三トの方針を示唆していた︒従って共産党は薔では.託らの決定に

依拠して︑ゼネ・スあ霧を呼びかけたわけである.しかし自由財分組側は︑先の酪Bの方針を﹁道徳的な支持﹂として受け

とめたにすぎず︑華GB雫客国労組もこの行動を実施する意図をもたなかった.(㌦ため‑GBは二月の会議ではゼネ

ラル・ストライキ案を退け︑国際連盟に両国の調停を働きかけることを決定したのである︒

(406)

14

このゼネラル三トライキは・前述の方針に従って︑ルん占領に対する抵抗を目指すとともに︑従来﹁資本主義

的な﹂履行政策を遂行してきたとされるク多政府の打倒宵的とするものであった︒この呼びかけは︑ルル占領

の当昆直ちに﹃〒テ・ファーネ﹄紙上に掲載毒・その後も集会などで同党によりしばしば主張された︒組合側

は・これに対しゼネラル三トライキは騒擾を誘発するとしてこの方針を退け︑共産党との間で論象くり返された

のであった・しかし総じて共産党は︑牛ル闘争の初期にはゼネラル三上フィキを組織する力はもち︑手︑.﹂のス

ローガソは・社会民主党・労働組合指導者の国民的統一戦線への参加に対する批判の具として用いられた︑とみるこ

 とが妥当であろう・妻この呼びかけに対応するものは︑わずかに=日のギフムでの住民と占蟹との衝突事件

(天の死者を出した)の事例が報告されてい乏とどま稔共産党が︑受動的抵抗の結果醸し出された毘的統合の

(15)

雰 囲 気 を 打 破 す る 試 み と し て 実 質 的 に 推 進 し た 揚 は ︑ 後 述 す る 乏 ・ 賃 金 闘 争 を は じ め と す る 暑 的 な 諸 利 害 を

めぐる闘争においてであった︒

ル ー ル闘 争 期 の ドイ ツ共産 党

上 述 の よ う 巽 産 党 は ︑ 当 初 か ら 占 領 軍 に 対 し て と 同 繕 畠 の L 支 配 層 へ 向 け た 運 動 を 懇 す る こ と を 試 み た の

であるが︑国民的統籟に対抗する護党の瑠の肇は︑いわゆる﹁ル←支援金﹂(達閃島壇げ出ま軌軌)をめぐる蟹について重﹂れをみる.﹂とができる︒そこで以下この点について璽にふれてみよう・﹁ルル支援金﹂とは︑百二三日の中央労働蕎体会議で鷺者禦ら撃されたルール地方への嚢金制度を指す.,﹂れによれば︑募金は労讐の賃金より2部差引き及び獲瀟のその四倍額の瞥によって調達され・非占領地を含んだ失業者︑半失業者への援助︑食料品の購入などに充当されることが予定された・この募金案は翌日の

勤 露 襲 鶯 ガ灘 筋難 舞 毒 鶴 鍍 匙 い︑︑難 鍵

ゐ 毒 す る ﹁城 内 平 和 ﹂ 政 策 で あ り ︑ 集 め ら れ 奏 金 は 彼 楚 還 流 す 乏 す ぎ な い ・ と 強 く 批 判 し た ・ そ し て ︑ こ の 募 金 に 代 わ る 新 た な 闘 争 蓼 姦 立 す る た め に ︑ 改 め て 塞 階 級 寿 墾 す る 宥 価 物 没 収 L の 政 策 を 喧 伝 す る と

毯に同党は︑﹁ル!ル嚢金﹂を募集した党員に対しては党除名の処分を行なう・という強い姿勢を示したのである.と︑﹂ろで︑﹂のような共露の主張と撰の態度は︑幾つかの組合の内部でも存芒た・例えばルール地

勧難 蕪 職潰 雛 砺縫 舗諜 暴 と難 製 蕎 灘 翻隷 譲 甥 吻

てわれわれは︑︑﹂の面では共産党の主張が必ずしも孤立的なものではなく︑霧現実的な綴をもっていたとみる拓

(16)

ことができるのである︒

以上の例で示される通り・董党は占蟹に対しルル地方では抵抗運動を継続するとともに︑国内の支配庭対

抗する運動を同時に強化しようとしたのであり︑これは︑全国の労働者が﹁独立し薦力として階級として自らの利

益のために闘うならば﹂ギツのプルジョワジふもたらした琴の綾を除去しうる︑という主張簑打ちされた

ものであった・﹁受動的抵抗﹂に関連する零は︑より具体的には︑ω占領軍による雇傭の受け入れの歪︑㈲占領軍

が工場・炭鉱に妾入った際のス上フイキの霧︑㈹フ一フソス割㌣ジ︑ソトが党に接近した際の党指議関への即

時報告霧及び・㈹分離主馨との慧の愁不止︑であったとされる︒さらに同党は︑占墾削百初旬のエヅセ(恥︑三

月中旬のフラソクフ雫での国際労讐会議の開催によって︑運動の﹁国際的な﹂性格を示威すること霧めた︒し

かしながら共産党の運動は・三月中旬までは︑全体的な抵抗運動の陰に隠れて︑なお極立っ動きをみせる.︺とはな

かった・讐すれば・同党の独自の政治的地歩は︑禺の﹁挙国﹂体禦弛緩し始めたとき︑国民的竺戦墾分極

化の方向を辿ったときに・はじめて大衆の運動と蓉してその姿を明獲させたのである︒従ってわれわれは︑﹁受動

的抵抗﹂が分裂の霜を示し始めた四月以降の局面を重視し︑この状況の下での同党の運動の籍を検討することに

しよう・このために以下では・同月以後を中心とする国内の政局を藩し︑その後に.﹂の期箋生した各地の賃金闘

争とそれに関連する共産党の指導の問題を論述する︒

さて・当初麗的な支持をえて開始された﹁霧的抵抗﹂は︑早くも二月以降占讐当局のルール讐の強化と抵

抗闘争に内在する困難の増大によそ︑次第に各層の間の分裂を深め始めた︒

(4as)

16

(17)

フ一フンス︑ベルギー軍当局は︑百末からは畠の官吏︑労働者を占領地に導入し︑採掘炭の非占領地輸送を禁止するなどの謹を矢次ぎ早にとった︒また三月初旬には牛ルのドイッ側鉄道管理局を歪し・鉄道輸送の妨竃対

しては死刑を含む厳罰をもって処する.﹂とを決定した︒このように占領地経営が籍化するとともに・占領地の官吏・労働者の逮謹急増し︑さらに同地では百以上の新聞が発禁され︑占叢の鉱山占拠も袈いで行なわ遍・

他方︑ドイツ側も抵抗運動を維持するための財政が逼迫し︑戦線が分裂の萌しをみせ始めた・即ち・抵蓬動を支

える国の財政状態は︑操業を中止した経営の維持のための信用供与︑賃金支払い︑及び失業者への震金の支出などを通じて急速に悪化した︒それに伴い︑孕ル地方では縮小され窺模ながら生産を続行する鉱山薬家と・鉄道労働者を中心とするサボタージ論派の労働者との対立も表面化していったのであ(肥︒

ル ー ル 闘争 期 の ドイ ツ共 産党

しかしながら︑ドイツ側の曼動的抵抗Lが葵な転機にさしかかったのはとりわけ四月以降のことであった・と

みる.﹂とができょう︒戦線の膠謹よる抵抗湯の停滞は︑ドイツの側により苛酷な状況の悪化をもたらし・そのため抵抗運動の継続をめぐる馨が国民要レヴ︑ルで開始され始めたのである︒この時期には政府・護党.組織のそれぞれの愚を﹂めた外交︑財政政築入り乱れたが︑そのよう憲態は︑インフレ←ジの驚的潅行と相倹って国民的統一戦線の分解を帰結したのであった︒

既に三旦九是はドイツ重工業界の轟であるシ︑ティンネスがシュトレ←マンと会見を行ない・フラ三政

曜の早期の交渉を申し入れたが︑同時に彼は︑財界の賠讐担の見返りとして戦後の社会肇立法の廃止奏求し

た︒.﹂のような財界の動きに対しては︑社会民主党︑労働組合は反擾を強めたが︑しかしなおそれらの懇も抵抗闘争の危機を認め︑三月末のADGB全国責会では︑フラ三との抗争の早期終結のために穰的な態度をとること

(409)

(18)

(23)を決定した︒そして社会民主党全国執行部もまた︑ほぼ同時期に同様の見解に達するに至ったのである︒

他方︑国内のこれらの動きの中で四月以来交渉の糸口を模索してきたクーノ政府は︑とりわけ二〇日の英国外相力

(24)ーゾン(PO葺N自)の下院演説に鼓舞されて︑国内各界との協議を経た後に五月二日に新たな賠償提案をポワソカレ

に送つ梅しかしフランス側は・ルール撤兵と賠償総額の減額提案には応ぜず・イギリス政府もまたこの提案に失望

(26)の意を表明した︒そのため五月下旬にはドイツの代表的な企業家団体であるドイツ全国工業連盟が政府に書簡を送り︑

五百億金マルクの保障による支払いの猶予︑このうち産業界の二百億金マルクの負担︑全復員令の廃止︑国家の経済

(27)への干与の中止︑などを提案した︒しかしこの提案に関しては︑それが社会立法の廃止に及んでいる故に︑社会民主

(28)党全国執行部は直ちに反対の意を表わし︑自由労組もこの提案を﹁背後よりのヒ首﹂であるとして厳しく退けたので

あつ壌こうして四月以降には抵抗闘争の諸困難は籍し・国内各組織の政築分化したために︑曼動的抵抗Lは

もはや国民的な統一を得て継続させることが著しく困難になったのである︒

上述のような事態の混迷の中で︑クーノは六月七日に再度覚書を作成し各国に送付した︒この第二提案は︑賠償の

額及び支払い方法の決定を公平な国際機関に委託すること︑国有鉄道の特別会計化・国内商工農業及び銀行の不動産

(30)への第一抵当権の設定・税収入などで充当される支払い担保の提供︑などを内容とし︑イギリスでは新たに成立した

ボールドウィン(ψqd鋤鼠鼠昌)内閣によって好意的に迎えられた︒しかしポワソカレは今回もまた︑﹁受動的抵抗﹂の

中止︑及び賠償総額が明示されていない点を理由としてこの提案を拒否し︑賠償問題は全く暗礁にのりあげた︒この

ためドイツは絶望的な抵抗の継続を余儀なくされたのである︒

(410)

18

 

他面︑この間ドイツ国内のインフレーシヨンは︑破局的な様相をもって進行したのである︒一月末に暴落をみたマ

(19)

ルクは二月以降政府︑国立銀行のマルク支護策が一応功を奏し︑四皐ばまでは一ドル︒三〇〇9ルクの水準を馨した︒しかしながら.﹂の蒔的なマルク安定は︑よく知られるように四旦八日のシュティンネス商会による外国為替の買い占めを契機として崩壊を開始し︑以降マルク価値はとどめもなく下落することになる(次(蓼

ル ー ル 闘 争 期 の ドイ ツ共 産 党

.﹂の悪性のインフレ←ヨンに基づく国民生活の窮状は︑とりわけ労讐︑中間層に袈された・労働協約に嚢

された協定賃金額は直ちにその価値を喪失し︑実讐金は大幅に低落を続けた︒また中産階級の中小資産もたちまちに価値を減じ︑ドイッ国民の日常生活は極めて深刻な危機にさらされたのである︒

と.﹂ろで.﹂のようなインフレ←里ンの進行は︑当時の労働湯に二つの肇な藻を与えるレ﹂とになった・先ず

しうまでもなく︑生活状態の急速な悪化は︑賠償問題をめぐる論争とは比較にならぬ緊張関係を労使間にもたらした・賃金の急落︑食料︑石炭等の生活必需・剛の覆の困難︑失業者の増加にょり︑三﹂では対立は覆的であり・すぐ後

19

1411)

(20)

にみるように労讐の闘譲しばしば急進的にかつ不峯に誕したのである︒第二に︑イソフレーショソは労働組

合の利益袋欝としての機能を大幅に減殺させた︑とみることができよう︒組裏調達の困難︑組合費そのものの

価値喪失によって・労働組合は芒い財政の窮状におちいり︑闘書金︑スト一フイキ基金の畜は滞った︒また専従職

員への給与交付蓬滞し・ADGBの機関紙﹃ADGB穆紙﹄(㌔︒霞馨︒巳Φ自げ藝伽①・・︾∪畠︑︑)も広報活動を縮小さ

せ・この時期に箋行回数姦少すること察難くされた︒このように組合活動の規鰻縮小し︑その箪︑組合

指導部は所羅合員数の減少をもはや芒とどめるy﹂とができなくなったのである︒(次表.な蕎由労組側の賃金肇

については次章参照)

一九二二年九月八︑〇六八︑九三八一九二三年六月七︑二八七︑〇四九

"

"+

それでは・共産党の運動の進庭深い関わりをもつ五月以降の各地方の労働争議は如何なる籍をもち︑共産党は

これらの運動にどのように関芒たのであろうか︒ここではそれらの問題を︑当時遍︒懇の機能をもあわせてみ

るために・後に九回党大会で左派からは翼の器の萌芽をもつ最初の・叩揚Lとされた︑五月のルール地方の炭鉱.

金属ストライキを中心として検討することにしよう︒﹁牛ル占領への反対が︑一ブイソ・ヴェストファーレソでは撃

国民的な統奮たらす要因で窪くなつ(罷﹂とされる時点でのこの地方の争議の籍を探る.﹂とが.と﹂での鑑で

ある・ところでわれわれはこのストライキの経過を追う前に︑璽に︑この闘争の前提的な条件ξいて幾つかの点

(412)

20

(21)

を説明することにしよう︒

ル ール 闘 争 期 の ドイ ツ共 産 党

先ず第一に︑ルール地方では炭鉱︑金属︑建設︑鉄道の各産業が重要な産業分野としてあったが︑これらの産業の

労働者は熟練労働者を除くと一般に党︑組合などの組織活動への関心に乏しく︑組織労働者は少数派であった︑とい(鍾う事情がある︒しかしながら他面彼等は︑﹁一九二〇年三月の例のように︑反乱のエネルギーを突発的に爆発させる﹂

傾向をもち︑この点についてはルールの指導的な共産党員であったシュテーカーも︑この地方の労働運動を評して

(36)﹁受動性と突然の爆発﹂という特質をもつことを指摘している︒このような性格はさらに共産党員自身の間にも及び︑

ライクマソによれば︑﹁戦闘性と組織的ルーティンへの無関心がルールの組織では顕著であった﹂とされ︑この点は

(37)特に戦後労働運動に参加した党員において多くみられた︒右のような傾向が存在することは︑戦前の幾つかの大規模

な闘争において既に明らかであったが︑この問題は五月ストライキの際の共産党の指導にも改めて大きな影響を与え

(38)ることになる︒

次に︑ルール地方では連合軍の占領政策︑殊に不服従官吏の追放政策の結果︑警察力がこの時期には大幅に弱体化

していたことをみておかなければならない︒五月末にはルール地方の三分の二の地域で保安警察(ω昏慕N讐欝Φア留ゲ亭

(39)℃︒)が存在しない状態が生まれ︑市町村警察の力も極めて不充分なものとなった︒このような治安権力の真空状態が︑

労働者︑失業者の街頭での騒擾を容易にしたことはいうまでもないであろう︒

第三に︑この時期の共産党の党内抗争の問題についてふれておく必要がある︒党八回大会の人事政策によって暫定

的な妥協をみた両派の対立は︑ルール闘争の初期にはナショナリズム問題をめぐる﹃インテルナツィオナーレ﹄誌上

(40)での論争でひきつがれたが︑具体的な指導方針の問題をめぐり両派が再度激しい対抗関係にたったのは︑三月末のラ

(413) 21

(22)

(41)

イソ・ヴェストファーレン南地域党大会においてであった︒その経過の詳細についてはここでは省略するが︑両派の

立場を要約すれば︑右派が旧来の統一戦線戦術の継続を固執したのに対し︑左派はこの時点では特に工場占拠を手段

とした労働者統制の推進及び未組織労働者︑失業者の動員を通じた運動の急進化を図ることにより右派の路線に対抗

したとみることができよう︒これらの対立は︑しかしながら再度コミンテルンの調停により五月初旬のモスクワ会議

で和解が図られることになった︒その結果同月一六〜一七日の中央委員会では︑党中央部にこれまでの左派部員に代

わり︑新たに同派の中心的な指導者であるブイッシャi︑テールマン︑ゲシェケ(ρO.・︒︒葬︒)︑及びケーニヒ(︾

謹σq)が加わったのであ(砲・このうちケーニヒはルール地方の組織指馨(︒Hσ・匿)でもあり︑彼の任命は党指導

部がこの地方の左派の影響力を承認したことを窺わせる︒さらにこの会議では︑右派が先の党大会決議で言及した

(43)﹁大衆の民主主義的幻想﹂という表現が党内で誤解を与えたこと︑また左派の工場占拠方針が共に批判されたが︑総

じていえばブランドラーの路線がこの会議でも基本的には了承されたのである︒かくして︑ルール・ストライキが正

に開始された時点で開かれたこの中央委員会は︑左右両派の対立にひとまずピリオドをうった会議であることをわれ

われは銘記しておく必要があろう︒

(X14)

22

さて︑五月下旬にルール地方を席巻した炭鉱・金属労働者の大規模なストライキは︑以下のような経過を経て発生

(44)した︒従来の代表的な共産党研究であるアングレス︑ヴェソツェルの研究は︑特に党指導部の指導の問題について言

(45)

 及が不充分であるので︑この点にも留意しつつ叙述をすすめることにしよう︒

(囚一︒︒..︒︒εε

(23)

ル ー ル 闘 争 期 の ドイ ツ共 産 党

五〇%額の追加支払い︑及び以降の物価上昇にスライドした賃金の支払いを要求してストライキに入ったが︑この運

動は翌日には同地のシャルンホルスト(qりOぽ脚H自ザONoo紳)︑ドルンストフェルト(U︒ヨ︒︒再塗処)鉱山に飛び火した︒これらの

鉱山では従業員の示威行進が組織されたが︑その隊列に警官隊が発砲して五人の負傷者を出したことから︑ストライ

キは全ドルトムント地域にまたたく間に波及し︑一八日に同地の最大の工場ヘッシュ(国ひ︒︒︒げ℃溶鉱炉鋳物工場コンプレ

クス)がこれに加わったことによりこの地域は金属︑鉱山を中心としてゼネラル・ストライキの状況を呈したのであ

る︒

右のストライキは︑個々の工場︑鉱山における組織︑未組織を問わぬ労働者によって担われた運動であり︑魯如ゆ

経営協議会乃至経営全従業員集会で決定されたストライキの集合体︑ともいうべき性格をもっていた︒また鉱山スト

ライキの拡大に際しては︑この地方の闘争の伝統的なパターン通り︑スト中の鉱山労働者が周辺鉱山のストライキ参

(46)加のために説得に赴く︑という行動が多くとられた︒さらに個々の経営協議会によって提出された要求は︑経済的な

要求に限定されて政治的な主張は顧みられず︑以上のような意味において︑ストライキは︑中央組織︑政党の統制

を離れた極めて自然発生的な色あいの濃い運動であった︑と評することができる︒このような事情に関しては︑ミュ

ンスターの州長官(Oげ費箕帥隆Φ韓)が各地方庁の報告をもとに︑﹁あらゆる証拠はストライキが全く自然発生的である

ことを示しており︑⁝⁝要求は賃金に関する譲歩に限られている﹂とする状況報告をベルリンに送っているこ描Wま

た例・凡ば二二日にドルトムントで開かれた同地の経営協議会大会の次のような決定をみるならば︑改めて諒承するこ

とができるであろう︒即ちこの大会で決定された統一的な要求は︑ω未婚労働者へ一五万マルク︑既婚労働者へ二〇

万マルクの一時金即時支払い︑②五月前半期賃金の五〇%引上げ︑及び一六日以降の再度の五〇%賃上げ︑であり︑

政治的なス慣ーガンは採択されなかったのである︒加えてこのストライキは︑旧来の労働組合運動の枠を熱隣静に打

(415}

23

(24)

破することを目指したものではなかった︒大会は︑運動を統括するためにドルトムント地区の﹁中央ストライキ指導

部﹂(層Ng梓蕊︒︒g廷①騨§ゆq..)を選出したが︑この組織は指導機能を喪失した労働組合に代わる臨時指導部としての性格

を与えられた︒その際︑ストライキ指導部の構成員は︑各政治党派の代表を網羅したが︑彼等は同時に︑金属労組⑨︑

化学労組ω︑交通労組ω︑建築労組ω︑ヒルシュ・ドユンカー労組ω︑手工.頭脳労組㈲︑サンディカリストωの代

表者であり(カツコ内はその員数)︑このようにして各労働組合との回路は確保されていたのである︒そして指導部は

二四目の声明では︑ストライキが何ら政治的要求を基礎とするものではない旨を表明するとともに﹁その大部分が労

働組合員からなる中央ストライキ指導部﹂は︑各労働組合に対し︑ストライキ労働者の要求を支持し︑ストライキを

承認することを要請したのであった︒

上述のように︑ストライキは経営協議会を主要な担い手としながらも︑そこで表出された要求は経済的な枠をこ・兄

なかったのであるが︑かかるストライキの性格は︑なおそこに発揮された闘争のエネルギーを縮小させることはなか

ったのである︒むしろ︑旧来の指導部を離れて独自に発展した底辺組織の運動は︑部分的にはサンディカリストの影

響もあって︑従来の闘争の形態を破り急進化する場合が存在した︒われわれはその事例として︑二二日からストライ

キが拡大したゲルゼンキルヒェソとボーフムの状況をみることにしよう︒ここでは︑運動は次のような様相を呈した

のである︒

ゲルゼンキルヒェンでは従来より賃金闘争が拡がりつつあったが︑二二日には鉱山︑製練労働者及び失業者からな

る﹁プロレタリァ百人隊﹂(この組織の詳細については後述)と︑市民側の自衛組織(q︒.子︒︒紳︒︒︒ゴ自一国)との衝突事件が発生し

た︒﹁百人隊﹂はさらに警察︑消防隊との街頭での衝突をくり返しながら︑ついに市の警察署を占拠した︒その後こ

れらの組織は秩序維持隊(9曾琶αq︒︒騒昌︒︒一)と称する部隊を作り市街のバト官ール行動をつづけ︑このような事態は二

(Ors)

24

(25)

ル ー ル闘 争 期 の ドイ ツ共産 党

(馨四日までつづいた︒同日正午ゲルゼソキルヒェン市長は︑﹁驚くべき声明﹂を発表し︑組合︑政党との協定により労

働組合員から成る保安隊(ω闘島・島¢冨蓄9が設置された旨を告げた︒この部隊には︑自由労組(一五〇名)︑手工・

頭脳労組(一〇〇名)︑クリスト系労組(七五名)︑ヒルシュ・ドユンカー労組(七五名)︑の各労働者が参加し︑この措

置とともに自衛組織は解散され秩序維持隊も警察署から撤退し︑これに代わり市庁舎内に居をおいた統制委員会が︑

(49)小売店代表者とともに食料品価格を決定する︑というような状況が生まれたのであった︒

他方︑ボーフムでは二二日からストライキに入ったが︑武装した労働者が翌日には労働者地区を中心として市の三

(50)分の二の地域を掌握し︑アルコール販売の禁止︑二二時以降の通信の閉鎖などを布告した︒また二五日には手工・頭

脳労組と統制委員会の代表が市長と会見し︑ゲルゼソキルヒェンを範とした保安隊の建設について交渉した︒しかし

市当局は︑市側に立つ自由労組︑クリスト系労組の組合員からなる自衛組織の建設を後援し︑この組織は消防隊とと

もに︑サンディカリストに率いられた﹁百人隊﹂と街頭で衝突を続ける︑というようにボーフムもまた混屯たる様相

を呈したのである︒

この間ストライキの波は全ルールを掩い始めた︒二四日にはエッセソの鉱山労働者大衆集会︑デュイスブルクの経

営協議会総会がストライキを呼びかけ︑翌日にはハンボルンの最重要鉱山ティッセン(↓ξ馨ロ)鉱山の操業が停止さ

れた︒デュヅセルドルフでは労働者が一部商店の価格引下げを強行したが︑警察はこれに介入できず︑またランゲン

ベルクでは多くの失業者が︑市役所︑市貯蓄銀行を占拠するという事件も生じた︒さらに金属ストライキは︑レムシ

ャイド︑レンネップ︑ヴ晶ルネルキルヒェソ︑またルール東端に位置する共産党の拠点都市バーゲン︑ハムにまで広

(51)がったのである︒

以上のようなストライキの拡大に対し︑自由労組側はほとんど対応をなしえなかったといえよう︒金属︑炭鉱労組

25 (41の

(26)

はストライキを承認することを拒否し︑ストライキは共産党により計画された一挑であるとの見解をとった︒また二

四日には︑組合とルールの金属工業連盟が︑﹁生活費高騰のため﹂五〇%の賃上げに同意したことを宣したが︑これ

もストライキの進行に対しほとんどみるべき効果をもたなかった︒こうして自由労組側のスト収束の動きは︑ベルリ

(52)ンで﹁緩慢に続けられた﹂使用者側との中央交渉に委ねられたのである︒

(418)

26

それでは︑共産党はかかる底辺組織の闘争に対し︑どのような指導を賦与しようとしたのであろうか︒このストラ

イキに際しての共産党の指導は︑従来の﹁山猫ストライキ﹂に対する場合とは相当に異なる点がみられるのであり︑

それはこの時点で瞬時的に勃発したルール・ストライキの特殊な性格を反映するものとなっている︒

先ず各々の経営で個々の共産党員がこれらのストライキ運動の先頭に立ったことは疑いえないであろう︒ルール地

方ではサソディカリストの影響も強かったために︑これとの対抗上からも各経営で共産党員が個々的な指導にあたっ

たことは充分に想定されうるところである︒次のような一共産党員の回想1﹁始めて私はリヒトホーフ(=昂芽o{)鉱

(53)山で演説した︒私はそこに到着したが︑事態の推移についての私の驚きは少なかった﹂1はストライキ運動への下部

の党活動家のスムーズな合流を物語っている︒かくしてピータースンによれば︑ストライキの初期の段階で招集された(髄)経営協議会集会の多くは︑労働者側の圧力に応えて経営内の党員により招集されたものであった︒これに対し︑党中

央︑地域指導部の闘争への取組みは明らかに立遅れたといえる︒先の共産党員の回想とは逆に︑ストライキに対する

(55)

 党指導部の最初の反応は﹁驚愕﹂であった︒総じてルール・ストライキに対する彼等の態度は極めて両義的であり︑

受動性と能動性とがないまぜになった複雑なそれであった︒

第一に︑スト勃発時の﹃ローテ・ファーネ﹄紙の論調を追うと︑そこでは事実経過の報道とストライキへの強い支

(27)

ル ー ル 闘争 期 の ドイ ツ共 産 党

持の態度が打ち出されているが︑初期にはこの闘争を全国化する呼びかけはなされていない︒さらに二三日の党の見

解では︑ストライキを﹁エレメンタールで自然発生的な﹂運動であるとし︑﹁共産党員は︑運動を整然たる道に導き︑

プロレタリァ的な闘争規律を鍛え︑かくして︑提示された要求を労働者階級の断固たる闘争によって獲得するために

力の及ぶ限りすべてのことを行なう﹂というような指示がなされたのである︒しかしこの時期に出された党内指令︑

或いは党内の会議を仔細にみると︑事態はより複雑であり︑党中央のストライキとの関係は︑とりわけ闘争の初期に

はほとんど外在的であったといいうる︒︑ミュンスター邦文書館にはこの点に関し︑州長官ネルテルス(2︒幕邑なる

人物の状況報告書が残されており︑これによってわれわれは当時の党中央部の思考乃至行動の幾つかを知ることがで

(56)きる︒それによると中央部の最初の指令は一九日にエッセンに到着しており︑ここではストライキへの支持は示され

ているもののその展望に関しては極めて悲観的な見方が支配的であった︒即ち﹁組合に承認されていない孤立したス

トライキはおそらく何の成果ももたらさない﹂こと︑ストをできればフィングステン週末(二六日)までに終らせる

こと︑及び責任はあげて受動的な組合指導部にあり︑ストの指導を組合に委ねるぺきこと︑などが表明されたのであ

る︒また運動がルール全域に拡大する萌しをみせ始めた二三日には︑同地の地域党指導者会議が開かれ︑この席では︑

申央部員のシュテーカーが再び組合組織⁝を闘争に動員すべきことを述べ︑またドルトムントの党指導者からはプロレ

タリァ百人隊の行動への憂慮が示された︒これらの一連の会議の中で最も重要なものは︑二五目にエヅセソで開かれ

た党中央部と地域︑下位地域指導者の合同会議であり︑先の文書によれば︑この会議の後に党指導部は始めて具体的

な闘争の指導1しかも基本的にはその収束にむけた指導にあたりえたのであった︒会議にはベルリンから到着した中

央部のブランドラー︑フィッシャー︑ベッカー及びルール在のシュテーカーが出席しており︑そこでの目的は︑ω混

乱したルール地方の党規律の再確立と︑㈹党がストライキの指導を組合に代わり引受けることであり︑換言すれば︑

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