現代神学から考察した「貧しさ」の問題
「解放の神学」を中心にして一
東條 隆進
目次 1.はじめに 2.時代と状況
3.「解放の神学」の神学的主題 4.「解放の神学」の神学的構造 5.神学と歴史社会の問題
6.神学的課題としての「貧しさ」の問題 7.「基礎的共同体」について
8.むすび
1.はじめに
1950年代の終り頃,ラテンアメリカ諸国に「キリスト教基礎共同体」
(BBC:Basic Christian Community)と呼ばれるカトリックの生活共 同体が形成され,祈りの中で信仰と生活を結びつける努力が始められた。
その特徴は「小さな人々」(マタイ福音書25章)に福音を伝えるために 神が人となられたというメッセージを中心にし,貧しい人々,抑圧され ている人々の立場から聖書を読み,信仰を理解する立場である。民衆は たんに説教を聞き,宗教儀礼を遵守することで事たれりとする受動的な 民にとどまるのでなく,民衆は語ること,参加すること,意思をもち行 動することを望み,今や自己を表現し始めたのである。
このような生活共同体の中から,「解放の神学」(Teologfa de la Liberacion)がペルーの神学者G.グティエレス(Gustavo Gutferrez)
によって展開されるようになったのである。「解放の神学」は主体とし
ての民衆から出発し,民衆自身が自らの神学をつくりあげることを目標 としている。神学者自身,共同体の一員として抑圧されている人々と共 に時のしるしを読み取り,歴史の中で信仰を生きようとしているのであ る。信仰が観念的なものでなく,生活の場で,生活という環境の中で生 きられているのである。
2.時代と状況
1950代,ラテンアメリカで流行したのはいわゆる「発展主義」の理論 であった。近代社会をモデルにした工業化主義であった。しかし自立的 な発展可能性を楽観的に信じた「発展主義」に基づいた政策にもかかわ らず,先進工業諸国との経済格差は縮まるどころか,ますます拡大して いくことになったのである。
このような事態から勢力を得てきたのが「従属論」であった。「従属 論」によれば,近代の巨大な資本主義諸国の発展と勢力拡大が世界に
「中心」地域と「周辺」地域を生み出して支配と従属の関係を生み出し てきたのである。少数の国では進歩と富の増大が生み出される中で,大 半の国では経済的貧困と政治的抑圧,社会的不安定が制度化されてきた。
経済的格差は政治的・軍事的従属関係を作り出す。支配・従属関係は不 平等な体制構造を作り出し,不平等な体制構造が支配・従属関係を再生 産していき,「暴力を制度化」して行く。さらに世界資本主義の展開が 世界市場体制を作り出すが,世界市場の拡張も諸国間に支配と従属の関 係を作りだす。新しい形の従属は強大な多国籍企業の支配を作りだし,
国内市場の国際化を通して従属の国際化を作りだす。先進工業国の発展 途上国への支配化が市場の国際化によってますます進行していくのであ
る。
帝国主義の国際的支配体制についての最初の考察はホブソンによって
現代神学から考察した「貧しさ」の問題 なされ始め,ローザ・ルクセンブルグ,レーニン,ブハーリン等によっ て理論的に研究されていった。しかし,「彼らは資本主義の世界の中心 に生き,中心国の視点から帝国の問題と取り組んでいる。彼らは発展途 上国で生ずる現象自体は中心国の搾取の影響であるという以上の分析は
していない。」(G.Guti6rrez[1973],p.85〜86,89〜90ページ)
ラテンアメリカ諸国はスペインの植民地政策の結果,現代の世界的な 相互依存体制の発展の歴史過程の中で「従属」側の国として苦難の道を 歩んできた。ラテンアメリカの歴史の大部分は従属状況からの修正の積 み重ねの歴史であり,今日でも「従属」という大きな枠組みから逃れな いでいる。かつての植民地体制から政治的に独立し,次に経済的発展が 必要とされる中で,国内的には植民地体制による不正義や前近代的文 化・社会制度を残し,グローバルな次元では米ソ超大国間の政治的・軍 事的対立の中に巻き込まれて,苦難の道を歩まされてきたのが現実であ
った。
このような理由から,世界を「支配される側の視点から研究すべく」,
「従属論」を明確にし深めようとする努力がラテンアメリカの社会科学 者たちによってなされた。しかし,このような社会科学は「直接的な政 治行動への関心」という圧力の下で行われている。こうした圧力は彼ら の強みであると同時に弱点にもなっている。その強みは,考察と研究に 確固たる出発点を与え,たゆまぬ研究の刺激を与え,社会変革に有効な 貢献をするであろうことを保証する。しかし直感的,イデオロギー的要 素を含むこの圧力は,「社会科学が科学としての特性を十分に供え,そ うした現実の解決のための確かな枠組み一幅広く,同時に詳細に見る一 を提供しようとする試みを危険に陥らせることもありうる。そこで科学 的とは言い難いアプローチを排除する純化の作業,用語の明確化,より 複雑化し絶えず変化する現実への一般的カテゴリーの適用が至急に必要
となってくる。」(p.86〜87,91〜92ページ)
「解放の神学」はこのような時代的課題に答えようとして構築された 神学である。「解放の神学」はラテンアメリカという具体的状況の場で 神学的営みを実践的に遂行しようとする。従来の神学や教会論を捉え直 し,社会科学と対話しつつ,新しい時代を切り開こうとする神学的試み
である。
3.「解放の神学」の神学的主題
「解放の神学」は時代が三つの挑戦を受けているという理解から出発
している。
第一は「愛」(チャリティ)という理念がキリスト教の中心として再 発見されてきているということである。この概念によって「信仰」を
「信頼のわざ」として位置づけることが可能になり,自己中心の殼から の脱出と,「神と隣人への関わり」が可能になってきた。「隣人」が「仲 間」として与えられ,「共同体」を形成する具体的可能性がでてきた。
「啓示」の人間学的次元,霊性の新たな展開可能性,神学の場としての 教会生活と奉仕の意義,社会生活と社会運動の意味が明確になってきた。
第二のポイントは現代がある「哲学的」な問題を抱えている時代であ るということである。「現代」が科学技術の「進歩」によって人間と自 然との関係に人類史上新たな事態を生じさせた。世界が自然科学的な世 界観と近代技術の問題的挑戦の前に立たされているということである。
そして世界を改造しようするマルクス主義的革命思想によって社会科学 的世界観,価値観が重要になったことである。神学が自らの思想の源泉 を探って行って歴史における人間行動の意義を考え,神学が信仰理解を 深めて人間判断力と歴史的実践の意義を明確にしょうとする時,マルク ス主義との対峙が重要になる。
現代神学から考察した「貧しさ」の問題 第三は「終末論」三次元の再発見である。人間の歴史が何よりもまず 未来への「開き」であるとするなら,歴史的実践はまさに政治的課題と
して現れる。人間は歴史的実践課題に携わることを通して,歴史に究極 的意義をもたらす神の「恵み」へと開かれ,恵みへと志向する。歴史の 意義は人間と神の出会いと関わり,人間同士の決定的な出会いと関わり の充実の中で明らかにされる。
「愛」という概念,近代的自然科学的世界観と社会科学的価値観,「終 末論」的歴史観すべてが一つのことを指し示している,というのが「解 放の神学」の立場である。「神との交わり」は,「必然的に他者への奉仕
という具体的・創造的な関わりを中心としたキリスト教生活を意味する ものである。」ということである。(p.11,14ページ)
従来,神学において「神」との関係のみが重視されてきた。神との関 わりを通しての「隣人関係」の重要性は忘れられがちであった。それと 反対に,近代哲学や近代科学主義は神を否定し,人間と自然との関係の みに関心をはらった。近代社会科学も神を否定しもっぱら人間の行動様 式と社会関係や社会構造のみに関心を払ったのである。
これに対して「解放の神学」は神と隣人との関係を新たな次元で統合 しようとする。近代とは形而上学が解体した時代であった。永遠の真理 といった何か超越的・絶対的なものがあって,それを上から下の方へ適 用させていくといった「演繹的」方法が崩壊した時代であった。この事 態を踏まえて「解放の神学」も超越的次元から「演繹的」に神学的営み をして行くのでなく,むしろ「下から」考察していく方向,現代世界が 実際に直面している課題は何なのかを問う方向から出発する。現実の生 活から出発して,「下から」模索していくという「帰納的方法」が重視
される。(山田経三[1986],29ページ)
さらに,カトリック教会で従来支配的であった中央集権的統一性にか
わって「多元主義化」の試みも重要になる。「カトリック」=「普遍主 義」とは何か。それはヨーロッパに中央集権化された形式的統一性を確 立することをさすのか,それとも形式的多様性が存在するなかでの「本 質的統一性」を探求することなのか。「解放の神学」は「真にカトリッ ク的とは,異質なもの(民族,人種,ハダの色,言語,文化,歴史,思 考様式とスタイル,神学,教会建築,典礼,社会制度など)の中に,す なわち独自のかたちのなかに福音の本質が生かされている」と考える。
(29ページ)
このような「帰納的方法」と「多元主義」が結びついて「下からの教 会」(lnitiative Kirche von unten)形成が試みられ,「民衆の教会」形 成が遂行されていく。宗教的君主・貴族主義とは違う宗教的民主主義の 道である。
伝統的なカトリック神学は三つの部門から成り立っていた。知恵とし ての神学,理性的知識としての神学,司面的・実践的神学である。従来 の神学体系のもとでは知恵としての神学と理性的知識としての神学が中 心を占めていた。これに対して「解放の神学」は「神学」を「実践上の 批判的考察としての神学」として位置づけ,歴史的社会的実践を重視す る。歴史的・社会的連関の中での共同生活,人格の尊厳性を重視する。
(G.Guti6rrez[1973], p.13〜15,18〜21ページ) 「人間」は神と隣人 との「愛」の座標軸の中でのみ健全でありうる。「人格」は神と隣人と いう座標軸の中で形成される。この座標軸が「権力」や「富の力」(マ ンモン)によってゆがめられるとき,人間は疎外状況に置かれる。存在 的病に陥ることになる。疎外と物象化は物神化を引き起こすが,それが 病となるのは人間が神と隣人関係を失うからである。神学は権力や富の 力で支配一従属関係を正当化しようとするものに対して批判的にならざ るをえない。
現代神学から考察した「貧しさ」の問題
「神学には自らの基盤に対する批判的考察が伴われなければならない。
こうしたアプローチを経てばじめて神学は観念的要素を十分に把握しな がら,自己について明確な意識をもった,真剣な議論たりうるのである。
しかし,われわれが批判的考察として神学について語るとき,われわれ はそうした認識的な視点だけを問題にしているのではない。われわれは またキリスト教共同体の生活とその考察における経済的・社会的・文化 的問題への明確で批判的姿勢についても言及する。そうした問題を無視 することは自分をも他人をも欺証することである。しかし,われわれは 第一に,この批判的考察ということばを,一つの限定的な実践を表すも のとして用いる。神学的考察は,それが神のことばから導かれ,神のこ とばによって取りかかれるものであるかぎりにおいて,必然的に社会と 教会に対する批判でありうるのである。すなわち神学的考察は,信仰の 内に受けいれられた神のことばに照らされて,実践的な目標に励まされ て,批判的考察となるのである。それゆえ,それは歴史的実践と不可分 に結びついている。」(p.11〜12,14〜15)
4.「解放の神学」の神学的構造
「解放の神学」はエルンスト・トレルチ(Ernst Troelcsch)の神学区 分に従うなら,「教油紙主義」神学であるというよりも「歴史主義」神 学に属するものであるといえよう。
今日のキリスト教神学研究と教会史研究は,四世紀初頭のコンスタン ティヌス体制の成立によってキリスト教の性格が決定的に変わったこと を明らかにしている。コンスタンティヌス体制以降,キリスト教は「コ ルプス・クリスティアヌム」つまりローマ帝国がキリスト教世界である という認識のもとに「キリスト教王国」(Christendom)主義を支える 宗教になっていった。
「解放の神学」もこのキリスト教の帝国国教化の反省から出発する。
(p.256,255〜256ページ)全古代かち中世世界の支配的神学となった のが「政治的アウグスティヌス」主義であった。政治的アウグスティヌ ス主義からすると,地上の現実は自立性を欠いたものでしかなく,真に 存在の根拠を主張できない。「神の国」の地上的真理を主張できるのは カトリック教会のみであり,カトリック教会のみが「権威」を主張しえ,
地上に秩序を与えることができるということであった。神学が諸学の女 王たるべきものであった。
しかし,16世紀以降,「新キリスト教王国」(New Christendom)思 想がカトリック世界で強くなる。それまでの過度に密接な「信仰」と社 会生活の関係が切り離されることになる。「恵みは自然を制圧したり,
自然にとって代わるようなものでなく,むしろ自然を完成に導くのだ」
という,トマス・アクィナスの神学が基礎にくる。教会と社会を切り離 さず区別するという立場が中心にくる。これによって教会の利害を離れ た自立的な政治の世界に道を拓き,世界は明確に自立的で固有な目的を 持つものとして現れた。地上の領域の自立性は教会の使命を個人的・倫 理的・内面的次元に制限するという結果をもたらした。教会の使命は evangelization and inspirationの領域に制限されるようになった。
聖職者と信徒の役割も区別される。聖職者の使命は地上世界に福音の 息吹を与えることである。聖職者は政治活動,経済活動に直接参加して はならない。それは信徒の役割である。信徒は聖職者によって息吹を与 えられた地上世界に聖職者の指導のもとに働くべきである。地上の秩序 を福音に基づいたものと」て,福音の息吹を与える教会と聖職者の使命 を犯すものであってはならないということであった。プロテスタント諸 教派と基本的に同じ立場であった。
「解放の神学」はこのような「領域区別の思考」(the distinction of 8
現代神学から考察した「貧しさ」の問題 planes mode1)は「危機」に陥っていると主張する。(p.63〜72,
65〜79ページ)現代世界の自立性そのものが重大な危機に陥り,疎外状 況の自覚が強まっていく中で,教会の聖俗二元主義も維持しえなくなっ た。教会が「地上の領域」に口を出さないというのが口実になって,教 会が独裁体制・抑圧体制と友好関係を保つことで,その体制権力・政治 権力に正当性を与える結果になる。教会は独裁体制・抑圧体制に正当性 を与えてはならないのである。神学こそ根源的な次元から権力や富のマ ンモン性を批判しえなければならない。そうしないと神学そのものが腐 敗し崩壊する。神学は世界を宗教的事象との関係で定義づけるだけでな く,神学の宗教的次元を歴史的・社会的出来事との関係で批判しなけれ ばならない。教会の観点で世界を見るだけでな.く,世界の観点で教会を 捉えなおす必要がある。
これらのことは「現世的一霊的」,「世俗二一神的」という二項対立 のもとで主張されたことがくずれつつあることを示している。「自然一 超自然」という二分法も再検討される必要に迫られている。現代におけ る神学的枠組みにとって「統合的」(integral)という概念の方が重要 になってきた。キリスト教の使命は分裂していくこの世界に「共同善」
を実現し,歴史的課題に実存的に参加しつつ,信仰的な次元からくる知 的ダイナミズムを生み出すことにある。
領域区別的思考に基づく教義学主義は,アウグスチヌスの新プラトン 主義,トマス・アクィナスのアリストテレス主義といったように,ギリ シャ的コスモス的世界観からきたものであった。これに対して「解放の 神学」はユダヤ・ヘブライ的世界観に立つ神学である。
「解放の神学」においては,「解放」の原型たる「出エジプト」の出来 事が決定的に重視される。ヘブル的世界においては「創造」と「救済」
の出来事の間に密接な関係を見ているが,それは「出エジプトの歴史的
な解放の体験に基づくものである。」(p.153〜154,157〜158ページ)
聖書は創造そのものを救済に先立つ段階としてではなく,救済の一部と して提示する。創造は出エジプトの視点からイスラエルの信仰を形づく る歴史的救済の事実と見なされる。
「キリスト教の秘義の中心的テーマたる「救い』は,したがって「再 生と完全なる完成』として理解され,『キリストの業』もこのようなあ がないの働きの一部を成しており,その全き完成をもたらす,存在すべ ての基盤であるキリストのあがないの業は,また,創造の業の文脈にお いて再生として理解され提示される。」(p.157〜158,162〜164ページ)
キリストの業は「新しい創造」である。「終末論的約束」は「歴史的約 束」でもあり,「キリストの完全なる解放」は「政治的解放の地平」と
しても表現される。
「創造」的世界としての宇宙は罪の結果に痛めつけられている。「罪と は社会的・歴史的事実,人間同士の関係における兄弟関係と愛の不在,
神と人との友情の破棄であり,したがって個人の内的崩壊として考えら れる。」「罪は,根本的な疎外,不正や搾取の情況の根として現れる。
我々は罪それ自体と出会うのでなく,ただその現実例やある特定の疎外 情況の内に罪と出会うのである。根底にある基盤を理解せずに具体的表 れは理解できないし,その逆もまた真である。罪の情況は根源的解放を 勝要とし,そうしてそこで必然的に政治的解放がその要素となってくる。
解放の歴史的過程に参加することによってのみ個々の部分の疎外に現存 する根本的疎外を示すことが可能となる。」(p.175〜176,185〜186ペ
ージ)
解放は政治的解放,歴史を通しての解放,そして罪からの解放と神と の交わりに入る「赦し」という三つの次元からなる。そして解放の過程 に参加する人の目標は「新しい人の創造」である。神に出会おうとする
現代神学から考察した「貧しさ」の問題
ものは「歴史における神」に出会う以外にない。「人類」は「神の神殿」
である。したがって「回心」とは「隣人」への回心以外無いし,「隣人 の内にあるキリスト」に出会う以外にない。「隣人」とは神に近づこう とするための一つの機会,一つの道具ではない。「隣人」その存在自身 が目的である。「隣人」は個人として見た人間に限るのではない。「隣 人」という言葉は社会関係の織りなす機能の中で考えられた人間,経済 的,社会的,文化的,民族的座標の中に位置づけられた人間にまで及ぶ のである。それは搾取された社会階級,支配されている民衆,周辺に追 いやられた民族にまで及ぶのである。(p.202〜203,209ページ)
「教会」とは「歴史の秘跡」であるが,それは必然的に「社会批判制 度」たらざるをえない。(p.220〜222,226〜229ページ)「キリスト教 の愛の普遍性は,それが具体的歴史,プロセス,闘いとならないかぎり,
絵に書いた餅に過ぎない。」(p.275,280ページ)「弁証法的に考えれば,
和解とは闘いの克服である。過越しの喜びの分かち合いは,対立と十字 架を通って過ぎ越す。」(p.276,281ページ)
キリストの内に人間は父なる神の前でその子供となり,互いに兄弟同 士となる。したがってキリストを自らの主と告白する共同体として「教 会」は人間間に一致と平和を作りだすものでなければならない。世界の 一致なくして教会の一致が成り立つことはない。深く分裂したこの世界 にあって,教会共同体の役割は世界の分裂の根本原因に対して闘うこと である。教会共同体の真の一致を生み出すのはこの関わりだけである。
今日の抑圧された人々の立場を選択するとは社会的分裂を生じさせるも のに対しての,誠実な断固たる闘いの道を歩むことである。「疎外され,
搾取されている人々の解放に向かうこの歴史プロセスとの関わりのうち に,教会それ自身がますます一致へと向かうであろう。」(p.278,283
ページ)
5.神学と歴史社会の問題
以.ヒのような「解放の神学」の神学的主題と神学的構造が指し示すの は,この神学がこれまでの西欧神学の根本構造の再検討を目指している ということである。単に伝統的なカトリック神学のみならずマルチィ ン・ルターやカルヴァン以降のプロテスタント神学の再検討も求める神 学的視座も持っているということである。
ルターは16世紀のスコラ神学を批判してアウグスティヌスまで帰って いった。個人の「信仰」と「自然的理性」を峻別したアウグスティヌス と同じ立場である。同じ宗教改革を志しながらルターは信仰と理性の調 和を求めたエラスムスとここから神学的に対立していった。しかしその ルターはアウグスティヌスの政治的立場は継承しなかった。ルターはそ の「二王国論」によって政治的アウグスティヌス主義とは異なる「新キ リスト王国」主義を継承した。この二王国論によって領域国家の自律性 が確保され,ルター神学がドイツ国家の「国家宗教」となっていった。
他方カルヴァン神学は政治的アウグスティヌス主義を継承していっ た。1)カルヴァン神学の影響のもとに神学的運動体となったピューリタ ン運動がイギリスに「市民社会」形成の原動力を与え,マックス・ウェ ーバーの主張にみられる「プロテスタンティズムの倫理」が「資本主義 の『精神』」にもなった。
ルターやカルヴァンは中世世界において聖職者にのみ認められていた Vocatio, Beruf, calling(召命,天職)概念を世俗の政治的,経済的 職業にも認めていった。とくに「労働」概念に革命を起こした。ルター やカルヴァンの神学を市民階層は市民宗教的に解釈した。人間はすべて 神の似姿に創造され,神の本質が宿っている以上,人はすべて平等に生 れ,したがって何人も他の人間に対して特権を有しない。近代市民階級
現代神学から考察した「貧しさ」の問題 はキリスト教神学と近代的「自由・平等」の理念および「人権」の思想 と密接な関係を持たせた。それだけでなく人間の労働も尊い。かりに罪 の状態にある人間による労働であっても,神の摂理と意思にしたがって 営まれる職業・労働は聖職者の職業と同じ価値をもつ。professionは profess(信仰告白)であり, professorもprofessする者であった。尊 い人間「労働」の結果与えられた「財産」は神の祝福と神への信仰告白 の正しさの証明であった。財産(property)は人間の尊厳にproper
(固有)なものであり,したがって神聖不可侵なものである。
かつて皇帝はローマ・カトリック教会から権威を得ようとした。しか し近代君主は教会の権威によるのでなく,神から「直接」に権威を得よ うとした。そして近代市民階級は自分達の職業・仕事・労働の根拠を神 から「直接」に得ようとした。政治的アウグスティヌス主義に立とうと したカルヴァン主義が近代市民社会という世俗社会の最も強力な宗教的 根拠をあたえる結果となった。
マックス・ウェーバーはカルヴァン神学の中にある神学的特徴に注目 した。「信仰」を神の「選びの予定」というように理解した仕方である。
形而上学的な次元が解体する中で,無限に広がった二本の矢印で交差す る座標軸以外,存在を確かめる方法が残されなくなったこの世界におい て,「信仰」も神の超越的・絶対的「選び」としてしか考えることがで きなくなった。無限大の世界と無限小の世界の中間領域の中を漂う以外 存在を確かめられない深刻さにパスカルはおののいた。神の「予定」の
中で人間のあらゆる計らいを超えた次元で決定される「選び」を前にし て人間に残された道は何らかの方法で神の意思を確かめる道である。神 の似二三の信頼の上にたって自分の職業・仕事・労働を信仰告白として 遂行する。職業・仕事が成功することによって神の「選び」を証明す
る。
市民階級はこの緊張をすぐに別の理念に置き換えた。神の「選びの予 定」信仰から世界の「予定調和」の価値理念への転換である。神のこと ばとしての「聖書」および教会神学かち神の作品としての自然世界への 転換によって,自然世界に神の予定調和を発見し始める。ガリレオ・ガ
リレイによって自覚的に神のことばとしての聖書から「神の作品」とし ての自然世界への転換が遂行される。ケプラーを媒介にしてニュートン によって自然世界の調和が「証明」される。予定調和の理念はアダム・
スミスの社会科学体系,経済学の確立となって,ダーウィンの「進化 論」と結びついて全近代思想の基本理念となった。
予定調和の世俗神学としてのニュートン的世界像は世界を物理的世界,
死せる客体の世界として認識させ,科学技術による「調和と進歩」の世 界を作ろうとする。「労働」は「科学技術」になる。工業革命・産業革 命が起こり世界全体が激動下に置かれるようになる。予定調和の世界が 崩壊する。進歩が破壊と同居するようなる。工業革命・産業革命に成功
した国は資源や市場を求めて世界を排徊する事になる。
この事態に対応しようとしてカール・マルクスの名前に結びついた革 命運動が世界的規模で爆発していった。1917年第一次世界大戦の最中に ロシアにレーニンによってボルシェビキ革命が起こって以来,1980年代 東欧の社会主義離脱,1991年旧ソ連の解体期にいたるまで世界を二分す る大運動になった。
ラテンアメリカ世界はヨーロッパの植民地支配と工業化・市場主義・
資本主義といった近代経済の変動過程に巻き込まれていった。ラテンア ルリカ諸国が「発展主義」的方法で進もうとしたが,その試みに成功せ ず「従属論」の立場に立つことになった。
「解放の神学」が「発展論」の立場ではなく,「従属論」の立場に立っ たのはこの神学が「支配する側」に立たないで「支配される側」に立つ
現代神学から考察した「貧しさ」の問題 ことを神学の使命と考えたからであった。
「解放の神学」は近代の神学的伝統から政治的アウグスティヌス主義 に帰りつつその方向を突き抜け,ローマ的政治世界,ギリシャ的理念世 界さえも突き抜けてエジプト帝国の奴隷民族状態にあった古代ヘブライ 民族の状況で形成された神学理念にまで帰っていった。そしてラテンア メリカ世界のみならず不正義の中に苦しんでいる世界に「解放」と「自 由・正義」を示しつつ,真に「共に生きる」神学的営みを可能にしたの
である。
古代予言者達が叫んだ「正義」,繰り返し不正な富と「貧しさ」の問 題が全面的に神学の主題になったのである。
6.神学的課題としての「貧しさ」の問題
「解放の神学」が今日重要な思想になりえたのは「貧困」ということ がらを根源的に解明しつつその解決の道をめざしている試みにある。
「真に福音を述べ伝えているかどうかは,貧しさを証ししているかどう かにかかっている」。(G.Guti6rrez, p.288,286ページ)しかし「「貧し さ』とはあいまいな言葉である。」(p.288,286ページ)
聖書に述べられている「貧しさ」は二つの意味に分かれる。恥ずべき 情況としての「貧しさ」であり,霊的幼なさとしての「貧しさ」である。
恥ずべき情況としての貧しさ
まず第一の意味について考察しよう。聖書で最も一般的な「貧しさ」
についての記述は,神の意思に反し,人間の尊厳に逆らう情況としてで ある。「貧しい入」は「エビオン」(eby6n)と呼ばれた。それは物を欲 しがる者をさし,物をもらい,物を持っていなくて他人がくれるのを待 っている者という意味である。「ダル」(da1)とは弱き者,はかない者 という意味である。「くにの民の貧しい者」という表現もみられる。貧
しい人は「アニ」(ani)とも呼ばれる。身をかがめた者,重荷を負うて 働いている者,本来の力と気力とを発揮できない者,賎しい者の意味で ある。そして「アナウ」(anau)という言葉がある。「神の前での賎し い者」という,より宗教的意味あいをもっている。新約聖書では「プト ーコス」(ptok6s)という語で貧しい者のことを語っている。プトーコ スは生きていくために必要なものをもたない者,物乞いを余儀なくされ る哀れな者を意味する。
こうした困窮した,「弱い」,「身をかがめた」,「哀れな」という言葉 は,疑められた人間の生活状況を如実に示している。こうした言葉のう ちに,すでにこうした事態に対する批判の意思が込められている。貧し さに対する力強い反抗と拒絶の立場が示されている。ヨブ記(24;2
〜12,14)やアモス書(2;6〜7),イザヤ書(10;1〜2)で貧し さの原因が指摘され断罪される。
預言書はいかなる濫用も,貧しい人々を貧しいままに押し止める事態 も,貧しい人々を生み出す機会も許さない。彼等は批判すべき者たちの 名前を具体的にあげて批判する。
不正な商法と搾取が断罪されている。(ホセア12;8,アモス8;
5,ミカ6;10〜11,イザヤ3;14,エレミア5;27,6;
12)
土地の買い占め(ミカ2;1〜3,エゼキエル22;29,ババクク 2;5〜6,)
不正な裁判(アモス5;7,エレミア2;13〜17,ミカ3;9〜11,
イザヤ5;2〜3,10;1〜2,)
支配階級の横暴(歴旧記下23;30,30,35,アモス4;1,ミカ 3;1〜2,6;12,エレミア22;13〜17,)
奴隷状態(ネヘミア5;1〜5,アモス2;6,8;6)
現代神学から考察した「貧しさ」の問題
不正な税金(アモス4;1,5;11〜12,)
不公正な官吏(アモス5;7,エレミア5;8)
新約聖書においては富んでいる者の抑圧もまた断罪されている。
ルカ(6;24〜25,12;13〜21,16;19〜31,18;18〜26)
ヤコブの手紙(2;5〜9,4;13〜17,5;16)
聖書は貧しさが神の民のうちに根付くのを防ぐための積極的,具体的 手段について語っている。レビ記と申命記では富の蓄積と,その結果と
しての搾取を防ぐために設けられた詳細な律法が述べられている。畑の 刈り入れや,ブドウやオリーブの収穫の後に残されたものを,拾い集め てはならない。それは,孤児と未亡人のためのモノなのである。(申命 記24;19〜21,レビ記19;9〜10)しかも畑はすみずみまで刈り取って はならない。貧しい人と他国の入のために残しておくのである。(申命
言己23;22)
「サバト」(sabbath;休息)は主の日として重要な社会的意味を持っ ている。その日は奴隷や外国の民のための休息の日である。(出エジプ
ト23;12,申命記5;14)
三年ごとに十分の一三を神殿に収めずにおくのは,それを孤児,未亡 人,外国人のために用いるためである。(申丁丁14;28〜29,26;12)
借金に利子をつけてはならない。(出エジプト22;25,レビ記25;
35〜37,申命記23;20)
そのほかに「サバトの年」,「ヨベルの年」がある。畑は七年ごとに
「あなたの民の貧しい者に食べるものを与えるために」取り入れずに休 ませるのである。(出エジプト23;11,レビ記25;2〜7)奴隷は七年 目にふたたび自由を得ることができる。(出エジプトが21;2〜6)そ してその負債は許される(申旧記15;1〜18)
こうしたテキストの背景には貧しさに対する強烈な拒否の理由を見る
ことができる。
第一の理由は貧しさは「モーセの教え」の精神に合わないからである。
モーセはその民をエジフトの奴隷,搾取,疎外の状態から救い出し,人 間としての尊厳をもって生きることの地に住まわせた。モーセの解放の 使命にはヤーウェの教えに奴隷状態を根絶すべき教えがあったからであ
る。
第二の理由はそれらが「創世記の掟」に背くからある。人間は神の姿 に似せて作られ,大地を治めるべく運命づけられている。人間は自然を 変革し,そうした他者との関係にはいって行くことによってのみ,自己 を完成する。こうして初めて人間は労働を通して実現される創造的自由 の主体としての自己を完全に自覚することができるようになる。貧しさ の内包する搾取と不正義は労働を何か卑しいもの,非人間的なものと化 す。疎外された労働は,人間を解放するかわりに,いっそう奴隷化して
しまう。
第三に,人間は「神の秘跡」でもある。貧しい者を抑圧することは,
神自身を痛めつけることである。神を知るということは人々の内に正義 を行うことである。つきつめれば,貧しさの存在は,人間同士の連帯と,
神との交わりの両者がともに引き裂かれていることを示している。貧し さは罪,すなわち愛の否定の表現である。それは神の国,愛と正義にみ ちた王国の到来とは相容れないものである。
霊的幼さとしての貧しさ
しかし「貧しさ」には新しい意味が与えられた。貧しい人はヤーウェ の「保護を受ける者」である。貧しさとは,神を迎え入れる能力,神へ の心が開かれていること,神に役にたっという,神の前での謙虚さであ
る。イスラエルの民の神の契約に対する再三の不忠実さから預言者は熱 心に「残されしわずかな人」という主題に取り組んだ。(イザヤ4;3,
18
現代神学から考察した「貧しさ」の問題 6;13)ヤーウェに対して忠実であり続けた人々である「残されし 人々」はイスラエルの未来を担うであろう。
彼らのまっただなかに救い主が現れ,その結果新しい契約の最初の実 りが生まれるであろう。(エレミア31:31〜34,エゼキエル36;26〜28)
ソフォニアの時代(紀元前七世紀)からメシアの解放の業を待ち望む 人は「貧しい人」と呼ばれた。こうして「貧しい」という言葉は霊的意 味をもつようになった。貧しさは自尊心,自己満足の態度とは対極に位 置する。それは信仰,主へ委ねることと信頼の同義語である。エレミア は神に感謝する歌を捧げるとき,自分を「貧しい者」(エビヨン)と呼 ぶ。(20;13)霊的貧しさは神に近づく前提条件である。詩篇もこうし た態度に立っている。ヤーウェを知ることは,ヤーウェを探し求めるこ と(9;11,34;11),自分を投げうってヤーウェに委ねること(10;
14,34;9,37;40),ヤーウェに希望を置くこと(25;3〜5,21,
37;9),主を畏れること(25;12,14,34;8,10),ヤーウェの掟を 遵守すること(25;10)である。貧しい人々とは正しい人,完全な人
(34;20,22,37;17〜18),信心深い人(37;28,149;1)である。
霊的貧しさの最高の表現はマタイ福音書の山上の垂訓に見られる。
「心の貧しい人は幸いである」という意味はソフォニア時代以降理解さ れてきた霊的貧しさである。すべて主の意のままになることである。こ の貧しさが神のことばを受けることができる前提条件である。貧しさは 霊的幼さという意味である。神と我々の交流によって愛の賜物が与えら れる。この賜物を受けるには霊的に貧しくなければならない。
解釈上重大問題を引き起こすのはルカ福音書である。「貧しい人々は,
幸いである」(6;20)
第一の解釈は次の解釈である。ルカは福音書記者中もっとも社会的現 実に敏感であった。使徒言行録と同様,彼の福音書において,物質的貧
しさというテーマ,財貨の共有というテーマ,金持ちの断罪というテー マがしばしば扱われている。このことは当然,ルカが祝福する貧しい人 は彼が断罪する富める者の対極に位置する者であるという考えに結びつ
く。ここで貧しい者とは必要な物を持たない人のことになろう。
しかし,この解釈は二重の意味で問題がある。まずこの解釈を採ると,
「ある社会階級が聖とされる事態に陥る危険がある。」(p297,299ペー ジ)貧しい者は天の国で特権を与えられ,天の国に入る権利を与えられ るという所まで保証される結果になる。自分たちの選択の結果としてで はなく,自分たちの階級に押しつけられたある社会的経済的状況によっ て,特別な権利が保証されると言う問題が起こるからである。
もう一つの解釈はマタイ的観点からの解釈である。ルカもマタイのよ うに「霊的貧しさ」か,あるいは神への全存在的「開き」について述べ たと考える立場である。この解釈はルカのテキストの意図を綾小化する ものである。「貧しさ」ということばのもつ具体的「物質的」意味を無 視することは福音書記者には考えられないことだからである。「貧しさ」
はなによりも地上の物を欠いている事であり,悲惨な生活と貧困にあえ いでいる社会的状況をさしているからである。貧しいという言葉は抑圧 され自由を欠いているという意味で疎外されている社会集団のこともさ
しているからである。
ここから終末の契約が示すように,神の国は必然的に地上に正義を打 ち立てることを意味するから,「我々はキリストが,神の国が始まった からこそ,貧しい人は幸いであると述べたのだと信ずる以外にない。」
(p.298〜299,300ページ)
「時は満ちた,神の国は近づいた。」(マルコ1;15)別の言葉で言え ば「貧しい人々を全面的に人間として相応しい存在になれないように妨 げている搾取と貧しさの駆逐が始まったのである。彼等が望んでいた以 20
現代神学から考察した「貧しさ」の問題
上のものでさえある正義の王国が始まったのである。」(p.298〜299,
300ページ)
それゆえ,キリスト教的貧しさは「貧しい人,悲惨と不正の情況に苦 しむ人々との連帯に関わっていくこととして示されて初めて,意義を有 するのである。…この連帯のゆえに,貧しい人,搾取されている人を助 けて,搾取の状態への自覚をうながし,そこからの解放を求めることが できるのである。キリスト教の貧しさ,愛の表現は『貧しい並々との』
連帯であり,『貧しさに対する』抗議である。これが,貧しさの証しの,
具体的・現代的意味である。」(p.301,303ページ)
キリスト教的「貧しさ」のもっとも深い意味は「キリストの内」に求 められる。キリストが貧困と迫害のうちに貝費いの業を完成されたように,
救いの成果を人々に分かつためにはキリスト教会もおなじ道を歩むよう に招かれている。キリスト・イエスは「神の身分でありながら,神と等 しい者であることに固執しようとは思わず,かえって自分を無にして,
僕の身分になり,人間と同じ者になられました。」(ピリピ2;6〜7)
われわれのために「富める者が貧しいものになられた」ように(第ニコ リント8;9),教会共同体もおなじ精神を生きるべきである。
7.「基礎的共同体」について
「解放の神学」はこのようにして「貧しい人,悲惨と不正の状況に苦 しむ人々との連帯」を神学の核として発見した。貧しい人,抑圧されて いる人々の立場から聖書を読み,信仰を生きようとしている。そして
「小さい人々」(マタイ福音書25章),神が「僕=しもべ」の姿になった
(ピリピ2章),「富める者が貧しい者になられた」(第ニコリント8章)
ということばが聖書の中心として理解されるようになった。このような 聖書のことばを土台にして人間生活の基礎的な次元から生きようとする
ことが「キリスト教基礎共同体」の試みになった。基礎的共同体は人類 の歴史を通年した権力と富に基づいたピラミット的秩序関係を拒否して ピラミット構造を逆転させようとしている。抑圧的構造を神聖化しよう とする力を批判する。「権力を脱ぎすてるための道」はより公正な社会 のための闘いにおいて,抑圧されている人,貧しい人と決然と運命を共 にすることに他ならない。力(能力)は特権の根拠ではなく,責任の根 拠である。
人類の歴史はヨーロッパ近代世界が確立するまで,基本的にピラミッ ト的権力・権威体制であった。近代市民社会がはじめて自由と平等な社 会を作ろうとしたが,その市民社会もアナーキーな社会になるか新しい
ピラミット体制になってしまった。暴力を基礎にしたピラミット主義に 対してかつて身分的に底辺に置かれていた市民階級は自由・平等の理念 でピラミット的価値体系を破壊しようとした。しかし生産力と富を握っ た市民階級は自ら貴族化し,生産力・生産手段を持たない階級を生み出 した。マルクス主義はこのような階級を「労働者階級」として位置づけ,
「絶対的不正義」の中に陥いれられていると主張した。労働者階級は絶 対的な不正義から解放される以外に生きるすべがない階級である。そし て労働者階級は自らを絶対的不正義から解放するためには他のすべての 階級を解放させる以外にないという意味で,労働者階級は「正義」と結 びついた階級である。労働者階級の解放過程が「普遍的人間」の解放で もあるとした。しかし実際には労働者による階級闘争は残酷な暴力闘争 になった。「プロレタリア独裁」体制は例外なく暴力体制になった。「社 会主義」体制はピラミット的権力体制になり,権力が特権を生む体制に なった。革命は完全に失敗に終わった。単なる状況の困難さから挫折し たのでなく原理的次元からの失敗であった。
前近代的なピラミット的権力的秩序体制が自由・平等を原理とする近
現代神学から考察した「貧しさ」の問題 代的市民杜会になったのであるから,労働者階級による新しい社会建設 は市民社会より根源的な普遍的人間の自由と正義を根拠とする解放の過 程でなければならないはずのものであった。労働者階級による革命が歴 史的意義をもつのは真の自由と正義を原理とする平和的な普遍的人間社 会の建設に成功する場合のみである。マルクス主義の試みが挫折せざる をえなかったのは「唯物主義」が何か人間世界の理念たり得ると錯覚・
誤解したからであった。
「解放の神学」はマルクス主義的唯物主義を否定する。「解放の神学」
は「貧しい人」という概念をより明確なプロレタリア階級と置き換える ことに反対しない。階級調和の神話も受け入れない。歴史的現実として の「階級闘争」の事実を認める。階級闘争が所有者と非所有者,抑圧者 と被抑圧者の区別のない,階級の存在しない社会を目指すことに反対し ない。階級闘争とは社会主義的社会,より公正で,自由な,人間らしい 社会を築く意思である。階級闘争は,我々の経済的・社会的・政治的・
文化的・宗教的現実の一部分であり,体制全体の在り方に挑戦し,現代 社会変革の中心理念であろうとすることを認める。
しかし「階級闘争」は「キリスト教的兄弟愛」で遂行されなければな らない。「闘いは,憎しみであってはならない。これは挑戦である。福 音とおなじ新しい挑戦である。我々の敵を愛するのである。」(pp.
272〜278,276〜280ページ)今日の階級闘争の文脈において「汝の敵を 愛せ」ということは,人には階級上の敵があり,その敵と闘うことが必 要であるということを認め,受け入れることを前提にしている。この挑 戦は敵を作らないという問題でなく,むしろ,敵を自分の愛から除外し ないという問題である。
ナチスのイデオローグ,カール・シュミットは「政治的なものの概 念」は「友一敵」関係を定め明確にすることであるといった。ナチズ
ム,ファシズム,ナショナリズムはすべてを友一敵関係におきかえる。
マルクス主義も階級関係を「融和なき矛盾」の下での徹底した友一敵 関係で捉えた。「解放の神学」も階級間の緊張関係を緩めばしない。し かしこの闘争は闘いの克服と,より根源的な「共に生きる」世界をめざ す「和解」の過程にならなければならない。対立は十字架の道を通って 愛の復活へと「過ぎ越す」ものでなければならない。革命は自由と正義 による平和の逆ピラミット革命でなければならない。非暴力による愛の 革命である。
しかし「解放の神学」の立場をとる神学者が「革命の神学」へと展開 していく中で暴力革命を肯定した事実を否定できない。権力を握ってい る側の体制的暴力の凄まじさの中で,権力に対抗しようとするいかなる 運動も悲惨な暴力の「限界状況」に陥る。権力と富の獲得過程はそれ自 体が腐敗の過程であり不正義の過程である。しかし権力と富を握ってい
る体制を変革する運動が暴力の使用を正義の名前で認める時にその運動 は真理の次元から観たとき敗北になる。本来の「解放の神学」の立場か らするとあらゆる運動は非暴力運動である。あらゆる運動は暴力の根絶 を基本前提とする平和運動である。すべてを友一敵関係に置換えて,
正義の名前で暴力的繊毛を主張する事こそ邪悪さの根源である。マルク スの名前に結びつくすべての運動が「宗教はアヘンである」という価値 観のもとに邪悪さを正義に名ですり替えた悲劇を「解放の神学」は克服 しなければならない。「解放の神学」は民族的種族主義やマルクス主義 という邪悪さと訣を分かたなければならない。そして虚偽と邪悪さを宗 教の名を借りて再生産する蛆虫が育つ基盤を浄化しなければならない。
あらゆる運動はその運動をより根源的に支える真理の基盤を必要とする。
この真理の基盤に十字架を実存の座標軸に置く「基礎的共同体」がなら なければならない。
現代神学から考察した「貧しさ」の問題
8.むすび
以上,ラテンアメリカのカトリック世界で試みられている「解放の神 学」の主張を紹介しつつ,その特徴を明らかにしょうとした。「解放の 神学」は重要な課題を提起している。人類史的次元をもつ問いかけをし ている。「貧しい人,悲惨と不正に苦しむ人々との連帯」による「神の 国」の表現としての生活世界の発見である。そしてマルクス主義の名で 遂行された革命運動の問題提起を真剣に受け止めつつ,マルクス主義の イデオロギーとは違う理念で人類世界の新たな地平を切り開こうとする 試みを遂行している。マルクス主義の名前で建設された社会主義は崩壊 した。しかしマルクス主義的価値観,経済学者ケインズが近代文明の中 の「蛆虫」と名付けたベンサム主義的功利主義に基づく社会運動はます ます力を得ている。「被害者の側」に立つ闘いは物理的次元からの困難 さを伴うが,精神的な次元ではまだ困難性が少ない。問題の本質が明ら かであるという意味で真理を味方に出来るからである。
しかし「加害者の側」に置かれた者の闘いは全く反対に非真理の再生 産過程で問題の本質それすらが見えない悲劇性の中にハマッテしまって いる。「酷酔,覚者を侮る」。知の暴力の制度化としての技術とその技術 による支配体制が世界を覆ってしまっている。「政治大国」・「経済大国」
という名の制度化され技術化された暴力体制は無自覚に邪悪さを再生産 し続けている。しかもこの邪悪さを「学問」が論理化し制度化している。
この様な深刻な状況からの「解放」はどのように可能なのか,「解放の 神学」の本当の困難さは始まったばかりである。
注
1>「解放の神学」を考えようとする時,宗教改革の過程でルター主義やカルヴ ァン主義と別の歩みをしたアナバプテイズムの思想を理解することが重要であ る。アナバプティスト達は政治的アウグスティヌス主義にも立たず,ルター的
「二王国論」にも立なかった。現在のカトリックの「基礎的共同体」と共通す る財産共同体を形成しつつ,独自の共同体を建設していった。(榊原巌,
(1967), (1972))
アナバプティスト達は主権的国民国家主義の土台をなした「戦争」への参加 を拒否し「良心的兵役拒否」運動の源流となった。(R.J. Sider(1979))そし てクェーカー派とともに現代平和主義の思想的基盤を与えた。(J.H, Yoder,
(1972), (1983))
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