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い ざ 、 東 北 沿 岸 へ

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(1)

いざ、東北沿岸へ (その9『研究年誌』 ・最終稿) ―

自衛隊岩手地方協力本部・本部長と共に、自衛隊かく闘えり     「

危機管理の社会学」(

Sociology of Emergency Management

)、

   

新型コロナウイルス・中国武漢肺炎の蔓延とその政治的影響の分析

田    中    伯    知

はじめに

事実上、わが国において「災害社会学」(

Disaster Sociology

)を始め、広く社会科学的観点から、積極的に、災

害時における自衛隊の活動を捉えた研究は「皆無」といえる。この状況こそが、災害時の「危機的段階」において観

察される「緊急社会システム」(「一時的・暫定的な緊張処理体系」の「構造」と「機能」)に関わる実証的・実践的

研究が求められる所 以である。この「緊急社会システム」が生起する目的とは、既存(従前)の社会システムにおけ

る意思決定の構造とパターンの「再生」とにある。この点こそが、①防衛省・自衛隊及び他の救援組織・機関、また

②国家(単位)を含む「行政」一般における一時的な意思決定の構造とパターンの在り方を検討し、そして検証する

「社会学研究」が急がれる背景でもある。また、筆者が、領域社会学・部門別社会学としての「危機管理の社会学」

研究年誌65号(2021)

(2)

Sociology of Emergency Management

)の「確立」を謳う理由でもある。

一般に、「災害」は、安定した社会システムの下では決して見ることの出来ない社会関係や人間の行為を映し出す。

元来、自然の脅威は非社会的なものである。しかし、暴動、テロ(生物兵器、化学兵器、核兵器、ダーティ・ボム、

サイバー攻撃等)、武力紛争、戦争(住民、非戦闘員の大量虐殺を含む)等の「社会災害」を始め「自然災害」と見

做される事象もまた、多くの社会的・政治的・経済的・統計的・環境的・歴史―文化的諸条件との相互作用の「結果」(「所産」)として捉えられる。

したがって、「危機管理の社会学」(

Sociology of Emergency Management

)を規定する条件は、「災害社会学」

の観点に立って

災害の脅威に対する人間社会の「対応」を表す事例の中で

、特に、①「衝撃期」など災害の

危機的段階における「個人」や「集団」の対応行動の観察と分析を始め、②救援の主力を成す自衛隊(軍事型組織=

自己完結型組織)の対応を中心に、③自衛隊と(行政、消防、警察、民間組織等を含む)他の災害対応組織との「組

織間対応」、さらに④そこ(「組織的対応」や「組織間対応」)における意思決定の「構造」と「パターン」(及びその

特徴)を綿密に観察し、⑤これら組織の対応(「動き」)を規定する条件(要因)を、「中範囲理論」(

Middle Range

Theory

)の枠組みに沿って捉え、災害時における人間社会全体の対応の枠組みを実証的・理論的に説明する点にあ

る(表1)。

災害は「社会」や「人間」の本質を赤裸々に暴き出す。災害時には、社会成員を通して災害への対処に向けた全体

的合意が形成され、社会における既存の対立が一時的に「消滅」し、社会的・政治的葛藤が収まる。これは、とくに

「衝撃期」の段階では

民主主義社会の必須要件である「人命」救助を第一とする

緊急的・即応的規範(

Emer -

gent Norm

)が強く働くからである。少なくとも、「人権」(言論・思想・宗教の自由)を希求する社会では

「独

裁」と人治主義の下で強権的政治・軍事体制を敷く「中国」、「北朝鮮」等の国々とは大きく異なり

、この緊急的・

(3)

表1 災害の時期区分

警報期

突発型の災害とは異なり、洪水の危険性や伝染病の発生のように、比較的ゆっくりと 接近する災害においては、警報期は、災害対応行動の重要な一部を形成する。

 ① 警報と脅威にたいする人びとの反応には、懸念(不安)に対処する方法がみられる。

 ② 人びとが不安に対処する方法は、目前に迫ったインパクトにたいして、事前に明 確な対応を準備するといった形態をとる。

したがってこの時期に、ある程度の不安が適切に存在することと、その不安に首尾よ く対処することが災害のその後の段階において、有効な行動を導き出すのに役立つ。

脅威期

ある危険が差し迫っていることをしめす、他者からのコミュニケーションや接近しつ つある災害それ自体の兆候に接触する時期。この段階で人びとは、以下の問題にたい して決定を下さなければならない。

 ① 危険は、いったいどのようにしておこるのか、そしてそれはどの程度差し迫った ものなのか。

 ② もしかりにそれが起こった場合、またいかなる防御手段もとられることがなかっ た場合には、どれぐらいの人びとが犠牲になるのだろうか。

 ③自分はいったいどのような防御手段をとることができるのだろうか。

 ④その防御手段は、はたしてどの程度有効なものとなりうるのか。

 ⑤ そうした手段をとるのに必要なコスト(資金・時間・努力・不安・その他)は、

どの程度のものなのか。

衝撃期

被災者にたいする面接からえられたデータによれば、衝撃期における人びとの行動は おどろくほど理性的で冷静なものである。パニックは、ごく限られた災害状況の―

たとえば急速に火の手が拡がる密室火災のような―もとでのみ起こる。この段階で は、災害に見舞われた集団内部に、たいていの場合、災害ニーズを解消するための、

緊急的なリーダーシップが生起する。

被害の 査定期

衝撃後生存者は、自己のおかれた状況について理解するようになる。それにしたがっ て、彼らはある程度、災害が生み出した大量破壊について知るようになる。この段階 では、無傷の人びとや軽傷者を中心に、被災者にたいする救助活動がおこなわれるが、

相対的に未組織的で、効果の薄いものである。また人びとの間に、

 ①社会的地位の区分の消滅、

 ②関心や情緒の共有、

 ③親しい友人同士のような行動、

がみられるようになる。

救助期

負傷者の救助や消火活動などに活動がふり向けられる時期。多くの被災者たちの間に かなりの期間にわたって呆然自失とした症状をしめす「災害症候群」がみられるよう になる。この「災害症候群」は、個人的ストレスによって引き起こされるのではなく、

大災害という状況のもとでのみ見られる現象である。

救援期 生存者や被災地へ駆けつけた救援機関などによって、被災者や災害に見舞われたコ ミュニティにたいする、計画的な救援活動がとられる時期。

復興期

被災後のコミュニティや人びとの間に、災害以前の均衡を回復し、新たな状況にたい して適応をはかろうとする志向が生まれる時期。

しかし復興期の初期にみられたようなユートピア的な人間関係は、復興が進むにつれ てしだいに消滅していき、階層的な社会的区分が再びあらわれてくる。

(注) 本 表 は、D. W. Chapman, A Brief Introduction to Contemporary Disaster Research, pp.

7-22.の内容を基に作成した。本表は、災害時の各段階における人間及び社会の「対応」を類型化し たものであり、災害の社会学的研究にとって重要な仮説的知見を構成している(田中伯知作成)。

(4)

即応的規範は全体の中で人間社会における絶対的価値を識 しるし、また強く機能する(「働く」)。とくに災害の「衝撃期」

においては、日頃、わが国の安全保障のあり方、さらに憲法解釈等をめぐって政府(「自民党」)、ならびに防衛省・

自衛隊との対立軸を敷く一部の「左翼的」と目されるマス・メディア(新聞社、テレビ局等)でさえ、上述の緊急的・

即応的規範を否定し、自衛隊の積極的運用(部隊による救援活動)をあからさまに批判し、否定することは難しい。

災害や危機が社会の「統合」と「安定」を求め、人々の結びつきを強めるからである。言い換えれば、災害は社会に

潜む欠陥はもとより、「物事の本質」ならびに既存の政治的争点を

直接的、間接的に

映し出す鏡であると言っ

てよい。まさに、災害が社会学の重要な研究対象となる所 以である。

したがって、本稿で言う「危機管理の社会学」(

Sociology of Emergency Management

)を規定する条件とは、

以下のものである。

㈠①自然災害、疫病・伝染病、恐慌、社会的騒擾、暴動、テロ、奇襲攻撃、紛争、戦争等の危機的状況の下にお

ける人間行動の規則性を捉える米国の「災害社会学」(

Disaster Sociology

)を基礎に、

  ②災害の社会科学的研究において広く使用される方法論、手法及び技術、さらにその論理構造(主に、一定範

囲の社会的データに適応可能な「中範囲理論」)を援用し、㈡主に、災害の「衝撃期」、「被害の査定期」、「救助期」、「救援期」等における人間現象の綿密な観察を通して、

人間社会の対応(

Responses

)の「実相」を体系的に分析し、説明する。㈢言い換えれば、①危機的状況の下で「現れる」人間行動(人間性)及び、②その行動の枠組み(「準拠図式」)

を社会学的(あるいは、社会心理学的)観点から綿密に観察し、考察を加えるともに、本作業を通して

「災

害社会学」と同様

、既存の社会科学における作業概念の検証と敷

を行う。衍   えん

(5)

㈣災害因(

Disaster Agents

)がもたらす社会システムの機能の急激な崩壊(または、停止)の過程とその規則 性とを導き出し、当該システムに潜む欠陥や歪みを明らかにする。㈤(「緊急社会システム」(「一時的・暫定的な緊張処理体系」)に焦点を置く領域社会学・部門別社会学としての

「危機管理の社会学」(

Sociology of Emergency Management

)においては、災害の「衝撃期」の段階で、

救援の主力となる「自己完結性」を備えた「軍事型組織」がとる対応の分析が要点となる。つまり、わが国に

おいては、唯一、「自己完結型組織」としての自衛隊の「組織的対応」、及び自衛隊と他の関連組織・機関との

「組織間対応」のあり方が取り上げられる。(そのため、本研究シリーズでは自衛隊の対応(対処)に関わる事

例を、出来る限り、災害社会学の理論的枠組みに沿って類型的に記述した。)㈥以上の作業を通して、「領域社会学」・「部門別社会学」としての「危機管理の社会学」は、①社会システムの

危機的な変化(「変動」)を通して生起する「緊急社会システム」の様態(あり方)を始め、②危機的状況下に

おける自衛隊の「組織的対応」及び(自衛隊と他の関連組織・機関との)「組織間対応」の分析、及び③危機

的状況下における個人や集合体の対応行動を対象とした研究を行う。これにより、災害がもたらす(急激な)

社会システムの「変動」とその「再生」の問題に取り組む。㈦言わば、「危機管理の社会学」の中枢を構成する研究領域は、災害因がもたらす急激な社会システムの「崩壊」

(変動)に対して、如何にして「緊急社会システム」(「一時的・暫定的な緊張処理体系」)の構築を図るかにあ

る。以上、㈠~㈥の諸条件はすべてこの点に収斂する。

ただし、本諸条件は現在も検討中である。また、「領域社会学」・「部門別社会学」の概念(定義)については、東

京大学教授・富永健一の『社会学講義

人と社会の学

』(一九九五年、中公新書)を参考にした。

(6)

要するに、「危機管理の社会学」においては、救助・救援に当たる部隊・隊員の「目線」(「心の動き」)から捉えた

(あるいは、「心の動き」を写し出す)視点や事象が極めて重要となる。例えば、以下は東北地方・太平洋沖地震の救

援活動に赴いた、森山英介・1等陸尉の事例である。

  派遣当時は、第

25

普通科連隊(北海道紋別郡遠軽駐屯地)第1中隊長の職にあり、途中から連隊本部で第1科

長(人事担当)を務めました。また、第1科長を拝命した時は、当時の第3科長(作戦及び訓練担当)が異動の

ため不在になりましたので、派遣中の2週間という短い期間ではありますが第1科長でありながら第3科長を代

行(兼務)しました(かなり異例のことでした)。大規模災害派遣中の人事異動は、自衛隊としてもはじめての

経験だったのではないでしょうか。階級は今と同じ1等陸尉でした。私は北海道南西沖地震(平成五年〈一九九三

年〉七月十二日)の折、奥尻島青苗地区で「災害派遣」に従事した経験があり、今回は2回目の津波災害という

こともあり、他の者よりはノウハウがあったからではないかと思います。

  我々は、発災の翌日

12

日には遠軽駐屯地を出発し、岩手県宮古市に派遣され、私の中隊は当初は赤前地区を担

任し、逐次場所を変え津軽石地区、金浜地区、愛宕地区、そして鍬ヶ崎地区において行方不明者捜索及び応急復

旧活動にあたりました。

  赤前地区においては、高校裏に崖があるのですが、そこには過去に起こったであろうと思われる津波の痕跡を

地形から見てとることができました。何度もここまで津波が押し寄せていたのかと驚かされたのを覚えています。

後日、そこは地質学者の方がテレビで紹介していたので、あの跡はやっぱりそうだったかと思いました。

  東日本大震災で感じたことですが、津波が押し寄せて、被災している場所と安全だった場所の境目が現地では、

はっきり見て取れたことでした。特にあと1メートル、あと数十センチ位置が違えば被災しなかったのに、ある

(7)

いは、あと1メートル、あと数十センチで危なかった等、現地では明暗の差がくっきりとしていたのを覚えてい

ます。これは行方不明者捜索を担任する自分の中隊の受け持ち区域を細部偵察している時に確認することができ

ました。あともう少しで助かったのにと思うご遺体を発見した時は、衝撃的でした。被害を辛うじて免れた家で

は、水や電気はないにしても避難せずに生活しているわけですから、この境目が「本当に運命の境目なんだろう

な」と、私の目には特に印象的に映りました。

  そんな中で隊員達は、被災されて行方不明の方々を再び遺族に会わせてあげるため、家族に帰してあげるため

に、本当にくまなく捜しました。 

  鍬ヶ崎地区での活動途中に中隊長を下番し、連隊本部勤務となりました。第1科長は人事・服務規律の他、安

全指導や広報を司る職にあるので、連隊の各中隊・隊員が活動する広範囲を巡回しました。重茂地区、山田地区、

田老地区、久慈市にもこの時に活動しています。

  この時の経験は、翌年に派遣されたハイチ派遣国際救援隊での国際平和協力活動の任務遂行に活かすことがで

きました。

以上、森山英介・1等陸尉が自身の「目線」と自衛官としての「立場」で綴った「文面」には、大津波の被害に晒

された被災地の生々しい「実情」(「実相」)を始め、過酷な環境・条件の下で、懸命に、被災者に寄り添う自衛官の

真摯な「姿」が映し出されている。同時に、「文面」の奥底からは、(「軍事型組織」によって培われた)専門的な教

育と訓練、そして技術とによって培われた隊員の謙虚な「自信」が滲み出ている(写真1~3)。髙橋俊哉、元・陸将補は、「自衛隊」という組織に関して、「教育訓練の基準は、(ほとんどの場合)有事(戦時)

に置いている。その目標を簡単に説明すると、疲労困憊し困難で悲惨な状況においても、指揮官は断固『決心』し、

(8)

その決心に基づいて隷下部隊に『行動命

令』を与え、命令を受けた隊員は万難を

排して任務を達成する‥‥‥この様な指

揮官、隊員を育成するにあると言える。

戦場では、多くの部下が負傷、戦死して

もなお、指揮官は断固として決心し、命

令を下達し、任務達成に邁進することが

要求されるのであり、平素からこの様な

状況を想定した訓練を積み上げているか

らこそ、大規模災害においても、地形・

気象を克服しつつ必要により昼夜連続し

て行動できるのである」と、述べている

(田中伯知「いざ、東北沿岸へ

自衛

隊岩手地方協力本部・本部長と共に、自

衛隊かく闘えり「危機管理の社会学」

Sociology of Emergency Manage -

ment

)(その8)

」『早稲田大学高

等学院・研究年誌』第六十四号 二〇二〇年三月参照、ネットにて閲覧

写真1 岩手県山田町の被害。髙橋俊哉・1等陸佐(当時)撮影(2011年3月11日 13時33分)。2011年4月5日、筆者は、自衛隊岩手地方協力本部(本部長・

髙橋俊哉・1等陸佐)の直接支援を受け、山田町の実情を調査した。山田 町は地震・津波に襲われたが、同時に市街地に火災が発生。4月5日の段 階でも、壊滅した市街地には焼け跡の「臭い」が漂っていた。

(9)

可能)。

まさに、このような「自衛隊」は平和

と安全を願うすべての日本国民にとって

大きな財産となる。

戦後、反体制左派勢力(進歩的知識人)

や野党・日本社会党や日本共産党を始

め、政治家やマスメディアの中には、「自

衛隊」を災害派遣に特化した組織に再編

しようといった「主張」が見られた。

いわゆる謂、日本の「非武装化」を目論む「動

き」である。米ソ冷戦・対立の時期に、

社会党が提唱した「国土建設隊」などは

この典型である。(現在、日本社会党は

解体し、その人脈と政策の基軸は立憲民

主党と社会民主党などに収斂されてい

る)。

周知のように、中国の活発な「海洋侵

略」、「膨張主義」(新帝国主義)の動き

により、東シナ海や南シナ海をめぐる「情

写真2 岩手県陸前高田市の被害。田中伯知撮影(2011年4月5日09時08分)。津波 で壊滅した市街地。この段階では、既に自衛隊の懸命な努力によって――

本格的な組織的支援活動に必要な――「道路の啓開」が終了している。

(10)

勢」はますます緊迫化の度合を強めている。

さらに、周辺国(中国、ロシア、北朝鮮)に

よる核の脅威など、まさに、わが国の安全保

障は崩壊の危機に直面している。一方、自衛

隊は、総隊以来、圧倒的多数の国民の負託を

背景に、「日本」の独立と「日本国民」の安

全を守る礎(「自己完結性」を備えた「軍事

型組織」)としての役割を担ってきた。仮に、

自衛隊がこうした「軍事型組織」でなければ、

国内の「災害派遣」はもとより国際社会にお

ける「平和協力活動」の要請にも応えられな

い。第一に、被災時における安全保障や治安

維持の要求(

Security Functions

)に対処 することさえ覚 おぼつか束ない(図2)。

他方、来るべく大規模地震や大災害の対応

には

これまでの経験を生かし

、自衛

隊を軸(中心)に、海上保安庁、警察、消防

組織のすべて、そして一般行政、民間組織等

を始め、国家、国民が一丸となって事に当た

写真3 陸前高田市学校給食センターに集積された支援物資の配送作業に従事する 第5普通科連隊(青森駐屯地)の隊員。田中伯知撮影(2011年4月5日09 時35分)

(11)

らなくてはならない。この点こそが、現場での自衛隊の「動き」(活動)を積極的に支える仕組み、所 いわゆる謂、「緊急社会 システム」のあり方とその構築をめぐる研究が求められる所 以である。

東北地方・太平洋沖地震は、部隊の運用の在り方を始め、既存のシステムに潜む歪みや欠陥を白日のもとに照らし

出した。地震発生から一週間が過ぎようとした頃、防衛省陸上幕僚監部の貴島康二・1等陸佐から連絡が入った。「陸幕」(防

衛大臣の幕僚機関)も闘いの最中にあった。貴島1佐から送られてきた資料に目を通しているうちに、陸上自衛隊西

部方面隊(九州・沖縄部隊)の「動向」が気にかかった。自衛隊は、力を振り絞り、全力でもって「東北」を支えて

いた。少し「気が引けた」が、思い切って西部方面総監部に資料の依頼を行った。

西部方面総監部(熊本市・健軍)の堀部勇二・1等陸佐(西部方面総監部広報室長)の協力を得ることが出来た。

事態は刻々と変化していた。堀部1佐との「遣り取り」は一週間ほど続いた。(とにかく、現地調査を)「急がねば」

と思った。同時に、大きな不安に包まれた。神戸の時と比べて、「全て」が違っていた。被害は東北地方太平洋沿岸

の全域に広がっていた。さらに、東京など近隣地域にも少なからず被害が見られた。

送られてくる派遣部隊(九州・沖縄部隊=西部方面隊)に関する一連の資料と「聞き取り」から、地震発生後、盛

んに尖閣の海空域への侵入を繰り返す中国人民解放軍の「動き」に不安を覚えた。西部方面隊は

「戦力回復」の

ために部隊交代に留意しつつ、約4,600名の兵力を東北救援に派遣する一方

万一(有事)に備え、対処能力

を維持しつつ

、強大な中国人民解放軍の威嚇と挑発とに対して、厳然と、立ち向かっていた。「西方」は、「東北」

を支援しながら沖縄を含む「南西諸島防衛」の第一線に立ち上がっていたのである。言わば、九州・沖縄部隊は、国

民の見えない所で、本来任務の九州・沖縄の防衛警備態勢を維持し、かつ救援のための所要兵力を東北に派遣してい

たのである(田中伯知『陸上自衛隊の災害派遣の社会学的分析

東北地方・太平洋沖地震及び熊本地震を中心に

(12)

〈安全保障のグローバリゼーションと『立正安国論』の現代的・学術的意義〉平成二十九年八月一六日  早稲田大学 危機管理研究会  143~148頁参照)。

しかし、あまりにも大きな問題が立ちはだかっていた。それは、隊員を始め装備、物資等の絶対的不足である。未

曾有の大災害への対処と国土防衛を同時に遂行するには

部隊・隊員の優秀さを加味しても

、現在の自衛隊で

はあまりにも負荷が大き過ぎることである。特に、部隊の作戦遂行を支える「後方支援能力」(輸送能力、整備能力、

衛生能力、「野外手術システム」・「遠隔医療支援装置」といった野戦病院設備等)の著しい「欠落」は言うまでもない。

また、緊急性が問われる第一線救護衛生員(衛生兵)の活動や野戦病院等の運用には、ⅠTを駆使した「遠隔画像診

断支援」は欠かせないものとなる。

同時に、負傷者を出来る限り死亡させないために救出活動の在り方が問われてくる。所 いわゆる謂、陸上自衛隊の「救命ド

クトリン」(二〇一六年四月)の中で言及されている内容に則ると、受傷後、①一〇分以内に救護が取られる体制の

構築(すなわち、救命のための医学的処置を実施できる第一線救護衛生員の養成)と、②負傷者の迅速確実な後送態

勢・体制の構築(つまり、一時間以内に緊急外科手術が受けられるための体制構築)等の課題である。

第一線救護衛生員(衛生兵)を例に状況を想定すると、次のようになる(敢えて、分析上の要点を機械的に列挙す

る)。

  ㈠敵の銃撃を受け、味方に負傷者が発生する。

  ㈡残りの者で、(時には、弾倉が空になるぐらい)応戦し、脅威を(一時的に)排除する。

  ㈢この後、負傷者と自分の弾帯とをロープで繋ぎ止め、敵に撃ち返しながら、負傷者を木、車両、建物の陰など

敵の射撃の脅威を避けられる所まで引きずって行き、敵の射線下を避ける。

(13)

  ㈣自分自身と負傷者の安全を確保、確認した後、負傷者に対して止血や気道の確保、保温等を行う。

  ㈤第一戦救護衛生員(衛生兵)に引き継ぐ。

以上が、先の①一〇分以内に救護が取られる体制の構築(すなわち、救命のための医学的処置を実施できる第一線

救護衛生員の養成)の前提的条件・背景の一例である。

「衛生能力」の拡充・強化は、部隊の作戦遂行を支える重要な後方支援の一つであり、部隊・隊員の士気にも大き

く関わる。具体的に、「国連カンボジア暫定統治機構」(UNTAC)の「平和維持活動」(PKO)の要員として活

動中、ポル・ポト派(カンボジア共産党毛沢東派)の襲撃を受け、死亡した日本の文民警察官、岡山県警察の高田晴

彦警部補(当時、三三歳)の例を取り上げたい。襲撃時、文民警察隊は

護衛にあたったオランダ海兵隊の車両を

先頭に6台で

、車列を組んで前進していた。ポル・ポト派の襲撃部隊は、この車列にRPG―7対戦車ロケット

弾(ソ連製)と自動小銃でもって攻撃を仕掛けてきた。2両目と3両目の日本文民警察隊の車両は弾丸の雨に晒され

た。「弾丸が顔の肌をかすめ、何発かが髪を通過して髪の毛がバラバラと落ちる。頭から大量の血を流している者も

いる。『また当たりました』『今度は、腹に来ました』『俺も当たったよ。悔しいが生きて帰れないぞ。』」(雨宮処凛「大

臣。われわれがあと何人死んだら、日本政府は帰国させるのでしょうか」~

25

もに」場戦ののの年そ戦街市、「前派

遣された日本のPKO隊員の死」https://www.huffingtonpost.jp/karin-amamiya/pko-20180415_a_23411448/(二〇二〇年一〇月一日閲覧)。オランダ海兵隊の応戦にもかかわらず、「武器の不携帯」の日本警察隊に対し、ポル・

ポト派による執拗な攻撃が続いた。

高田晴彦警部補の殉職の知らせは、カンボジアに展開する日本文民警察隊に大きな衝撃を与えた(一九九三年五月

四日)。高田警部補は、二人の幼い子を持つ父親であった。また、この襲撃で高田晴彦警部補と共に活動していた残

(14)

り四名の警察官も重症を負った。「平和維持活動」への対応を巡り、国内にも大きな衝撃が走った。日本政府や国会

議員(特に、野党の政治家達)のPKO活動に対する認識の「甘さ」(平和ボケ)が改めて露呈した。一般に、審議

の場では反体制左派勢力の「PKO」を巡る関心は、国際社会の現状や常識にそぐわない非現実的な「争点」

まり、PKO要員が派遣される地域が「非戦闘地域か否か」

に終始する。現在でも、立憲民主党や日本共産党な

どの質問の多くは、常に、この点に争点が置かれる。現在も、日本共産党、立憲民主党などの国連PKO活動等 などに関

する質問の多くは、常に、この点に終始する。「戦闘地域」であるからこそ、国連は「平和維持活動」(「国連が行う

平和維持のための活動及び作戦」、

Peace-Keeping Operations of UN

)を迫られるのである。本来、子供でも分

かる理屈である。仮に、「治安」や「安全」が確保されている地域であれば、国連や各国がPKO要員を送り出す必

要など微塵もない。反体制左派勢力の議員等 は、厳しい国際社会の現実などを全く理解しようとしていないのが分か る。安全な日本の中で高慢な理想(を説いて「戦争」を批判し、「非現実的」な机上の空論)に塗 まみれ、悲惨な状況に

置かれた紛争地域の人びと(外交官、自衛官、警察官、ボランティアなどの国連PKO要員を始め、殺戮の恐怖の下

にある住民や人びと)を想い、労わる心はない。同様に、日本の「PKO」参加を批判する反日左派メディア(「第

4の権力」)においても然りである。その言動(「報道内容」)からは、日本のPKO要員を始め、その家族・親族な

ど関係者に対する感謝や慈しみの念は全く感じ取れない。結果、反体制左派勢力は傘下の「進歩的知識人」や反日メ

ディアと一体となり、一にも二にもただ政府・自民党を「攻撃」するために「国連PKO」への参加を政治的に「争

点化」(

Agenda-Setting

)し、輿論を煽るのである。一旦、PKO要員が送り出された後は、政府の責任が問われ

る「事件」でも起こらない限り、反日左派メディアを始め日本共産党や立憲民主党などの反体制左派勢力は、「PK

O活動」を政治的・社会的に争点化(明示)することはない。

本来、われわれ国民一人ひとりが国益との関連で、自衛隊が「PKO活動」に参加することの意義を正確に理解(あ

(15)

るいは、自身で評価)出来るようになることが重要といえる。もとより、自衛隊は日本国と日本国民のためにあり、

安全保障理事会常任理事国としてロシア(「権威主義国家」)や中国(「共産党が支配する軍事独裁型国家」)が多大な

影響力を行使する(「牛耳る」)国際連合のためにあるのではない。反体制左派勢力の提示する争点は、大方が国家の

存立や国益の問題を軽んじた論点である。これでは、日本のPKO要員(自衛官、警察官、外交官、民間のボランティ

ア)は国際社会との融和をはかり、そして国際社会における「孤立」を避けるために、単に、日本から「国連」に差

し出された「生 いけにえ贄」と何ら変わらなくなってしまう。

反体制左派勢力の「言動」を見ると、仏教思想・仏教哲学で示される「見 けんじょく濁」の概念が想起される。すなわち、汚 れた時代においては、自然の理(摂理)に反する誤った価値観や考え方が当然のように受け取られ、邪 よこしまな思念が常識

として蔓延り、思想や人びとの考え方の乱れが露わになることを指す。

当時、スウェーデン政府は国際社会からの「孤立」を免れるため、積極的に、国連の平和維持活動に関心を示して

いた。スウェーデンは、第二次世界大戦時に「中立政策」を掲げながら、①国有鉄道を使って独軍の軍需輸送に協力

する一方、その情報を連合国側に売り、また②英国に対してボールベアリングなどの戦略物資を輸出していた。ベア

リングは兵器、機械類、車両などの重要部品である。しかも、海軍を使って英国への海上輸送ルートの警備・護衛に

当たっていた。戦時中、「中立」を掲げたスウェーデンの軍事力はいっそう強化されるに至った。さらに、③大戦末

期に、独軍と共に「独ソ戦」に参加していた「バルト沿岸三国」の若者たちは、独軍の敗走に伴い、中立国・スウェー

デンへ亡命した。しかし、スウェーデンはソ連の報復を恐れ、(「国家反逆の罪に問われる」)彼らをソ連軍に引き渡

した。この若者たちは、「祖国」(母国)の独立を目指し、懸命にソ連軍と戦っていたのである(武田龍夫『闘う北欧』

一九八一年  高木書房、及び中山雅洋『北欧空戦史』〈航空戦史シリーズ

13

  〉一九八二年朝日ソノラマ参照)。今も、

スウェーデンはこの「非人道行為」を強く問われている。現在、スウェーデンは「中立」を掲げ「集団的自衛権」の

(16)

枠組みから距離を置き、地域の軍事同盟(NATO)に加わらず、「戦闘機の自主開発」や「男女が対象の徴兵制度」

(二〇一八年)の施策等を設け、ソ連の軍事的脅威に単独で立ち向かっている。結果、人口一〇〇〇万人のスウェー

デンは欧州有数の「軍事大国」と化している。「国連カンボジア暫定統治機構」(UNTAC)への参加をめぐり、日

本は、こうしたスウェーデンの経験から多くを学んだ。(因みに、二〇一四年のロシアのクリミア半島及びウクライ

ナ東部に対する軍事侵攻〈=クリミア危機・ウクライナ東部戦争〉を機に、国民の間で「NATO加盟」への関心が

高まっている)。

しかし、カンボジアの情勢(「実相」)はわれわれの想像をはるかに超えるものがあった。

「停戦合意」にも拘らず、国内では、中国軍事顧問団(中国兵)の支援を受けたポル・ポト派(カンボジア共産党・

毛沢東派)と政府軍との間で激しい戦闘が繰り広げられていた。大量殺戮の現場を聞き知る自衛隊関係者からは、「人

間がここまで『悪』に塗 まみれるのか」「共産主義の本当の恐ろしさを見た」「民主主義は共産主義に敵わない」「われわ

れは、共産主義に打ち負かされてしまう」などの声が上がった。

この点について、興味深い『報告』を目にした。朝日新聞記者・本多勝一氏の『検証・カンボジア大虐殺』(朝日

文庫  一九八九年)である。本書は、一九七五年四月、プノンペン陥落、サイゴン陥落直後から起こった、ベトナム

とカンボジア人民軍(「クメール・ルージュ」=「ポル・ポト派」)との戦闘の模様等を綴ったものである。つまり、「解

放軍」(共産軍)同士の戦闘である。本稿では、特に、本論文の趣旨と関連する「記述」を紹介し、さらに必要な解

説と解釈を添えたい。

(記述を「抜き出す」にあたって)敢えて私見を挟むと、本多勝一氏は『中国の旅』〈朝日新聞社、一九七二年〉の

中で、特に、「百人切り競争」(架空の作り話)の内容を紹介したことで、関係者から、朝日新聞社と共に名誉棄損の

訴訟を受けている。著者が、「百人切り競争」を「架空の作り話」と断定する最大の根拠は、(当時最新鋭の)自動小

(17)

銃(チェコ銃)などドイツ式・近代的兵装をまとった中国国民党中央軍(近代陸軍)に対して、日本陸軍の将校二名 が日本刀を抜いて切り込み百名の敵兵を斃 たおした話など、到底、二十世紀の近代戦の中では有り得ないといえるからで ある。しかもその内容は、どちらが先に百名を斃 たおすかを見届けるため、それぞれ一名の従兵を従え切り込んでいくと いうものである。戦国の長 ながしの篠合 がっせん戦(一五七五年)で火縄銃を構えた信長の足軽鉄砲隊が相手であっても難しいであろ

う。周知のように、本多氏の『中国の旅』の記述の多くに、中国共産党のプロパガンダ(「作り話」を基にした中国

共産党の「歴史観・戦争史観」)が色濃く写し出されているのである。「百人切り競争」の記述は、その一例である。

日中戦争当時、特に、一連の上海―南京―漢口戦(一九三七年)に従軍した、朝日新聞の多くの記者やカメラマンか

らも疑問の声が上がった。したがって、本多勝一氏の著述の取り扱いには、私自身一人の研究者として、その信憑性

をめぐり「慎重」な姿勢を取らざるを得ないと言える。筆者は、この点を十分に考慮した上で、本多勝一氏の『検証・

カンボジア大虐殺』における記述を参考にしたことを強く断っておきたい。(敢えて、分析上の要点を機械的に列挙

する)。

①「一九七七年の九月末にはきわめて大規模な攻撃があり、一二月はじめまでの二か月余りの間に、タンニン省

の国境240キロ全体が攻撃された。カンボジア軍の出動は四個師団に達し、ベトナム側の死者は1000人

を超えた。そのほとんどは老人と女性、子供であった。殺し方はきわめて野蛮で、たとえば腹を切って肝臓を

出し、耳を切り、目をくりぬいてから頭を切断し、妊婦の腹を裂いて胎児を出し、さらにその胎児を火の中に

投げ込んだ。また槍や刀や農機具で殺したりハンマーで頭を叩き割って殺しもした。死体を三つか四つかに切

断して井戸に投げ込む例もあった」(

29

頁。傍線は田中による)。

(18)

②「一九七八年の一月に入ると、‥‥‥カンボジア軍は130ミリ砲、122ミリ砲、105ミリ砲などを使う

ほか、H―

12

ミサイルでも攻撃してくる。これらは抗米戦争(ベトナム戦争=田中伯知注)中かれらが持って

いなかったもので、最近外国から入手した武器である。つまり、国外から弾薬をカンボジアに補給している者

がいることを意味する」(

30

頁。傍線は田中による)。

③「『プノンペン解放当時にはなかった各種の大砲』とはどこで生産されたもののことか?という質問に対して、

ビン氏(ベトナム共産党中央委員会対外連絡委員会委員長=田中伯知注)は『これはこれからあなた方が訪ね

る現場へ行って破片や捕獲された実物を見て下さい』と答えた。いうまでもなく中国製であることをかれらは

示唆しているのであるが、この時点ではまだ中国との紛争が表面化してはいなかった」(

35

頁。傍線は田中に

よる)。

④「カンボジア・ベトナム国境問題は‥‥‥中越国境問題の延長線上にある。‥‥‥しかし、もっと重大な問題

は政治的国境だ。中国は『自分は世界でもっとも正しい社会主義国である』といっているけれども、われわれ

からみると中国とカンボジアは正しくないと思う。‥‥‥中国の『三つの世界論』は、第一を米ソの二大超大

国、第二を日本や西欧の先進諸国、第三はその他の発展途上国というふうに分けているが、さらに中国はソ連

を中心とする分類を行い、アメリカおよび第二世界の「金持ち国」と第三世界の「貧乏国」と「ソ連(および

その衛星国)」に大別したうえ、金持ち国と貧乏国が連帯してソ連の覇権主義に反対するという。しかしわれ

われは、「金持ちか貧乏か」や領土で世界を分類しないで、政治の性質から考える。その結果として、世界の

全革命勢力が連帯して「第一の敵」アメリカ帝国主義に反対すべきであり、そのためにはソ連とも団結すべき

(19)

だと考える。中国はソ連とくいちがった兄弟だけれども、やはり団結すべき革命勢力のはずだ。ところが中国

は、自分と異なる考え方をする国はみんな敵とみてしまう。中国は覇権主義反対というけれど、ベトナムから

見れば中国自身が申し分なく覇権主義である」(

36

37

ま中党産共ムナトベた、(頁。)。るよに中田は線傍央

委員会対外連絡委員会が示した本指摘については、本稿の第三節「『災害の政治性』(「災害政治学」の論理的

枠組み)が照らし出す、ソ連・中国の「新たな帝国主義」の軌跡

アルバニア労働党第一書記・ホッジャの

批判

」を参照)。

⑤「『ある国』(中国を指す=本多注)は、ベトナムが平和に繁栄・発展することを望んでいない。これもまたカ

ンボジアと利害が一致することだ。中国は本当はベトナムが南北を統一することを望んでいなかった。われわ

れのホーチミン作戦はソ連にも中国にも黙ってやったことだ。‥‥‥中国は、統一ベトナムによって東南アジ

アが独自のブロック化へと進んでいくことを好まなかった。中国の東南アジアへの影響力がそれだけ減少する

と考えたのであろう」(

46

頁。傍線は田中による)。

⑥「‥‥‥ラオス北部五省は中国の力がその指導部に対してたいへん強い。この五省にはほぼ一個軍団の中国軍

が滞 ・・・・在(駐屯・駐留=田中伯知注。強調は田中による)している」(

46

頁。傍線は田中による)。

本多氏は、前述の『検証・カンボジア大虐殺』の中で、自身で撮った多くの「生々しい」写真を掲載している。南

ベトナム政権崩壊直後から、(この地域の支配を目論む)中国の軍事支援を受けたカンボジア人民軍(ポル・ポト派)

と中国の覇権主義を批判するベトナム軍との間で、両国の国境を挟んで激しい戦闘が続いていた。ベトナム側による

(20)

と、国境付近の村々がポル・ポト派の攻撃に晒され、多くの農民が殺戮された。本多氏が、カンボジア人民軍(民主

カンボジア軍)の攻撃の犠牲になった農民らを撮った写真(147~153頁)は、人間がいとも簡単に「悪の化身」

と成り得ることを証明している。「‥‥‥虐殺に際して、カンボジア兵(ポル・ポト派=田中伯知注)は首を切り、

肝臓をえぐり出し、幼児を燃える家の中へ投げ込み、婦人は強姦してから殺した」(

50

頁)。まさに、中国国内でよく

知られた「猟奇的殺戮」の連続である。

本多氏が撮った写真からは、女性は強姦された後、陰部に棒を突き刺されて殺されていた(148頁)。小さな子

供や赤ん坊は、頭や全身を地面や木に叩きつけられ殺されていた。本多氏は、「‥‥‥女性の死体の一部が灰色(写

真の加工=田中伯知注)になった箇所がある。ここには棒が突きさされていた。‥‥‥」(155頁)と綴っている。

特に、女性に対するこのような残酷極まりない「猟奇的殺戮」の方法は、日本人の精神構造(精神性)や行動様式(文

化)からは、到底、理解し難いといえる。カンボジア人民軍(ポル・ポト派)は中国軍事顧問団を招き入れ、中国製

の武器や装備を担い中国軍の強い影響下にあった。ポル・ポト派(カンボジア共産党・毛沢東派)のベトナムに対す

る攻撃と彼らの住民虐殺(皆殺し)の蛮行から、(チベット仏教や東トルキスタンのイスラム教徒を弾圧する社会主

義国家=非宗教国家)中国及び中国共産党軍=人民解放軍部隊(中国兵)の存在と「影」が窺える。

本多氏は、前述のように「ラオス北部五省は中国の力がその指導部に対してたいへん強い。この五省にはほぼ一個

軍団の中国軍が滞在(駐屯・駐留=田中伯知注。傍線は田中による)している」と記述している(

46

頁。傍線は田中

による)。通常、各国では一個軍団の編成は数個師団からなる。いずれにせよ、ラオス国内に中国軍大部隊が駐留し

ていることになる。事実上、中国・共産党は弱小国・ラオスの「属領」化を推し進めている。「悪の化身」を思わせる、

ポル・ポト派(カンボジア共産党・毛沢東派)による「猟奇的殺戮」の光景は、ベトナム戦争の終結と米軍の撤退を

機に、弱小国のラオスやカンボジアへの支配力(影響力)の拡大をはかり、また他の東南アジア諸国への影響力の拡

(21)

大を目論む、社会主義国家・中国の真の姿、つまり「新・帝国主義」国家・中国の恐るべき「動き」を感じさせる。

即座に、戦前(昭和一二年七年二九日)に、通州(北京郊外)の日本人街が一軒残らず総勢4千名(一説に、6千

名位と伝えられている)の中国保安隊と中国人学生たちに襲撃され、住民がほぼ皆殺しにされた「事件」(猟奇的大

量殺戮)が思い起こされる。女性は悉く強姦され、多くは陰部を銃剣で突き刺され殺されていた。中には、強姦後に

ほうきを突き刺された女性の遺体があった。また、腹部を銃剣で刺された妊婦の死体がごみ箱から発見された。腹を

引き裂かれ、内臓を引きちぎられた死体もあった。小さな子供たちは、頭を壁などに打ち付けられ割られていた。数

百名に上る日本人居留民と朝鮮人とが惨殺された。中国兵や中国人が敵側の女性や子供を殺害する際に見られる、彼

ら独特の「言語に絶する」猟奇的殺戮の方法である。所 いわゆる謂、「通州事件」である。

「通州事件」に関しては、当初から余りにもよく知られており、①当時の新聞(号外)、②極東国際軍事裁判(東京

裁判)に関わる資料、③安藤利男「虐殺の巻

通州を脱出して

」『續對支回顧録(上)』原書房  一九七三年八

月二五日等(ネット上の資料を含め)多数を参照することが出来る。

カンボジアは、紛れもない「戦闘地域」であった。こうした情勢の中で、「武器の不携帯」の日本文民警察隊がポル・

ポト派に襲撃されたのである。本論では、主に(前述の)「文民警察隊」や(後述する)「国連停戦監視員」(陸上自

衛隊幹部自衛官)などを例に挙げ、幾つかの課題について説明していきたい。当時(高田晴彦警部補らが襲撃された

件)の関係者によると、事態の概要は以下の如くである(敢えて、分析上の要点を機械的に列挙する)。

①襲撃の直後、高田晴彦警部補は重症を負っていたが、その時点では意識が見られた。さらに、無線通信は確保

されていた。

②銃撃後、ポル・ポト派の襲撃グループの一人が車から降りて「とどめ」を刺しにきたが、互いが、親しくした

(22)

ことのある「顔見知り」であることに気づくと、襲撃グループはその場を立ち去っていった。結果的に、日本

の非武装の文民警察隊(五名)は「皆殺し」(全滅)を免れた。

③直ちに、救援のヘリが現場に向かったが、「襲撃地点」の確認に手間取り救出が間に合わなかった。

高田晴彦警部補は、「銃弾に首の付け根から肺を貫通され、胸から足まで無数の弾丸に貫かれながらも2時間以上

生き続けた」(雨宮処凛「大臣。われわれがあと何人死んだら、日本政府は帰国させるのでしょうか」~

25

年前、「市

街戦そのものの戦場」に派遣された日本のPKO隊員の死。」https://www.huffingtonpost.jp/karin-amamiya/pko-

20180415_a_23411448/ (二〇二〇年一〇月一日閲覧)。ここでの争点は、「国連平和維持活動」を担う要員(軍や警

察などの部隊、各国政府職員、民間人等)に対する教育訓練のあり方である。特に、①警察隊が十分な「地図判読」(「地

図の読み方」)の教育訓練を受けていなかったことが挙げられる。通常、軍隊(軍事型組織)は地図上で自分たちの「位

置」を確認しながら前進する。地図が無い場合でも、山や川など地形を基に確認作業を行う。言わば、「自己位置」

の標定を行うのである。また、日本の警察隊は②緊急止血を行う標準的テクニックを身につけていなかった。例えば、

米軍では、イラクでの戦闘経験を生かし、腰を屈 かがめ射撃を行いながら、片方の膝で負傷者の動脈を圧迫(直接圧迫止

血)し、大量出血を止める等の教育訓練が施されている。要は、③日本の文民警察隊が(自らの命を守るために)現

地(戦闘地域)の治安状況に則して、充分に対応出来るような知識や技術を教育(訓練)されていなかった点である。

一方、他国の文民警察隊は、軍警察を始め軍事訓練を受けた警察官で構成され、防弾ヘルメットや背面まで覆う防

弾チョッキ等を装備していた。日本の文民警察隊は、事実上の紛争地域、戦闘地域に送られるにも関わらず、充分な

装備も与えられず、しかも「武器の不携帯」の原則を強いられた。

「国連カンボジア暫定統治機構」の要員として派遣された日本人警察官は、総勢七五名である。要は、普通の「お

(23)

まわりさん」達が、戦闘が打ち続くカンボジアの紛争地(戦地)に送られたのである(一九九二年一〇月、PKO要

員としてカンボジアへ出発。国連からの指示により、カンボジア国内の9つの州、

29

か所に数名ずつが分散配置され

た。一九九三年一月、シェリムアプ州の日本人文民警察官の宿舎がロケット弾と自動小銃の銃撃による攻撃を受け、

跡形もなく破壊されるなど、国民選挙を前にして現地の治安情勢は緊迫していた)。

文民警察官は防弾チョッキを身に着けることはできたが、「武器の不携帯」が各国の原則であった。しかし、日本

から派遣された一部の文民警察官の間では、担当地区のあまりに厳しい治安を考慮し、独自に自動小銃を入手してい

た。ナパーム弾の攻撃に晒される隊員もいた。ネット上では、設置された野戦病院のヘリポート(空地)の中を

プロペラの風圧で舞い上がる土埃を背に

、高田晴彦警部補の遺体を搬送するオランダ軍兵士と日本の文民警察官

の姿がある。彼ら兵士・警察官の表情からは、戦場の悲しさと厳しさを感じる。人類の歴史は、今も戦争の歴史その

ものである。まさに、高田晴彦警部補の殉職は、侵略に対して国家(祖国)防衛の確たる信念と覚悟を欠く、日本政

府や政治家(与野党)の安全保障に対する観念(思考)の甘さと、そこに潜む「歪み」や「欠陥」を鋭く照らし出し

たのである。つまり、高田晴彦警部補の無念の死は、われわれにとって大切な掛け替えのない母国、日本の歴史・文

化・伝統をしっかりと受け継ぎ、これらを護り抜こうとする強い積極的姿勢(「心構え」)が、国民の間に深く「欠落」

していることの証でもある。(雨宮処凛「大臣。われわれがあと何人死んだら、日本政府は帰国させるのでしょうか」

25

https://www.huffingtonpost.jp/ka-「れ前、」死の員隊OKPの本日たさ市年派に」場戦ののものそ戦街遣 rin-amamiya/pko-20180415_a_23411448/(二〇二〇年一〇月一日閲覧参照のこと)。

さらに、カンボジアPKOでは、日本の文民警察隊に対する襲撃・殺害に先立って一人の日本人が殺害されている。

「国際連合ボランティア」の中田厚 あつひと氏である(一九九三年四月八日)。中田厚 あつひと氏は「国連カンボジア暫定統治機構」

が予定したカンボジア総選挙を支援する「選挙監視員」として活動中であった。

(24)

現地の国連事務局では、万一、PKO活動に従事する陸軍将校が「殺害」された際には、当該国の独自の判断で断

固とした「軍事的報復処置」を講じることを暗黙の了解としていたと言われる。結果的に、ポル・ポト派は、「報復

対象」から外されていた①民間人で「武器の不携帯」の中田厚 あつひと氏と、同じく②「武器の不携帯」の日本文民警察隊

を襲撃している。しかも、こうした状況からは、ポル・ポト派は、敢えて(「平和憲法」を謳う)日本政府が軍事的

報復を行わないことを確信して、日本人に「狙い」を定めていた可能性が問われる。第一線に「丸腰」で立ち、「国

連カンボジア暫定統治機構」のPKO活動を担った彼らの尊い犠牲は、(既述の如く)外国からの「侵略」に対して

国家防衛の揺ぎ無い信念と覚悟とを欠いた、当時の日本政府要人(自民党・宮澤喜一首相)を始め、多くの政治家(与

野党)に蔓 延る①国家の安全保障に対する「確たる」意志や信念の欠如と、②国家の自立と存続はもとより、戦後、

ソ連、中国、韓国などに阿 おもねり国家と国民に対する尊厳を軽んじる、③彼らの安全保障に関する政治的思考の「歪み」 を白日のもとに晒 さらしたのである。

特に、国会質疑の場で、敢えてPKO活動への参加と「非戦闘地域」とに焦点を置く反体制左派勢力(自称、リベ

ラル派)の野党議員の「軍事」一般に関する知識レベルの低さには,大いに驚かされる次第である。その典型を成す

一人は、東日本大震災における対応の数々を非難された、民主党(現・立憲民主党)の菅直人(元首相)である(田

中伯知『陸上自衛隊の災害派遣の社会学的分析

東北地方・太平洋沖地震及び熊本地震を中心に

』〈安全保障

のグローバリゼーションと『立正安国論』の現代的・学術的意義〉148頁参照)。

(前述の如く)カンボジアは「停戦合意」の下にあったとはいえ、各地でポル・ポト派と政府軍との間で激しい戦

闘が続いていた。こうした情勢の下で、日本は(文民警察隊に加え)「国連カンボジア暫定統治機構」のPKO要員

として、陸上自衛隊から①停戦監視員、②施設大隊、さらに③「国連カンボジア暫定統治機構」司令部と派遣施設大

隊との連絡業務に就く幹部自衛官(連絡将校)を派遣した。特に、停戦監視員は危険な戦闘地域にも赴く。しかも「丸

(25)

腰」である。例えば、彼ら停戦監視員が周囲の仲間らに漏 らした「体験」の多くは、平和な国、日本ではにわかに信

じ難いものであった。以下は、その事例である。

国連からの指示により、ある村の状況を確かめに行った。村には人の気配が全く無かった。捜索を続けている

内に何か強い異臭を感じた。その方角へ行ってみると、大きな「血」の池に出くわした。大量の「血糊」だった。

おびただしい量の「血液」が朽ち果てた肉片などと混ざり、しかも、表面は分離した血清で黄色味を帯びていた。

それは、屋内に設けられたコンクリート製の「プール」のような形状をした構築物の底に溜まっていた。「恐らく、

血糊の量から推察して村民はここで皆殺しにされた」という趣旨の報告書を国連に提出した(この陸上自衛官=

停戦監視員は、現場でこの「プール」状の構築物の縦 たてよこ横の長さを測り、次に底に棒を突き刺し深さを確認して血

糊全体を量った)。「人間がこれ程までに『悪』に染まるのか」、「自分たちは共産主義には適わない」、「共産主義

の『悪』の化身を見た」、「主義主張の違いだけで、人はこれ程までのことが出来るのか」。(これが、現場の陸上

自衛官の「生」の言葉であった。)

さらに、停戦監視員等 (複数)の報告(要旨)によれば、

ポル・ポト派と反ポル・ポト勢力との間でバレーボール試合を行った。その際、審判(停戦監視員)が下した

判定をめぐって双方が紛糾し、暫らくすると双方がバレーボール・コートを挟んで銃撃戦を始めた。

ヘリで移動中に地上から激しい銃撃を受け、ヘリに向かって「銃弾」がぶち込まれてきた。何発もの「銃弾」

(26)

がヘリを突き破るようにして、一部は自分たちの足元からも抜けて行った。

停戦監視員は、不法な武器や弾薬等の搬入を阻止するため「往来」の監視など、様々な任務を遂行する。ある

時、国連の指示でヘリで現場へ向かった。到着後、暫 しばらく周囲を見渡して歩き始めた。それから僅か数分が経つか

経たないかの内に、自分たちがもと立っていた場所に数発の迫撃砲弾が撃ち込まれてきた。弾着点からは100

メートルも離れていない地点に、監視員らは立っていた。

村の若い女性と親しげに話しを交わしたりするだけで、文民警察官の宿舎にロケット砲を浴びせかけられた。

他には、米国の停戦監視員(米軍将校)が、村の若い女性に(せがまれ、親切心で)コーヒーを出すだけで、襲

撃の対象になりかねないような情勢であった。文化の違いによる誤解を指摘する声もあるが、外国の軍隊に女性

をとられることへの強い反発である。

カンボジアは、紛れもなく「地獄の戦場」であった。停戦監視員(陸上自衛隊)等 は、カンボジアの厳しい状況を

肌身で感じ取り、互いに、遺書を交換して持ち合っていた。まさに「戦友」に等しい。危険に満ちた任務であったに

も関わらず、彼らは、最後までそれを全うした。国民はこうした事実を理解しなければならない。本来、訓練を重ね

た優秀な部隊や隊員は、日本や日本国民のためにあるのである。関係者等 からは、「国際貢献」という人道的な「建前」

の陰に、国連でのより良いポストを目指す外務官僚の思惑を指摘する声がある。カンボジアを例に取ると、一施設大

隊の派遣で一ポイント、また停戦監視員一名毎の派遣によって、一ポイントとして計算された。

現地では予断は許されなかった。当初から、軽武装の施設大隊(工兵部隊)への襲撃が懸念された。陸上幕僚監部

(27)

によると、「ポル・ポト派幹部は

陸上自衛隊の『精強さ』を恐れ、襲撃を躊 躇ったというよりは

先の太平洋

戦争(大東亜戦争)における帝国陸軍の厳正な規律と精強さとを十分に理解しており、敢えて襲撃を仕掛けてこなかっ

た」と言われている。具体的には、ポル・ポト派の幹部は「かつての大日本帝国陸軍は精強な軍隊であった。彼ら自

衛隊は、精強で知られた帝国陸軍の伝統と歴史とを受け継いでいる。われわれが敵う相手ではない。だから絶対に手

を出すな」と指示を出していた。帝国陸軍の伝統の「精華」が、「無形」の戦力(無形の国防の要素)を構成してい

たのである。誰の目にも、当時のカンボジアは「地獄の戦場」であった。因みに、戦中(厳密には、終戦間際に帝国

陸軍がとった「仏印武力処理」までの期間)、ベトナム、ラオス、カンボジアの「インドシナ三国」を直接統治した

のは、現地のフランス植民地政府である。つまり、フランス総督とその下 もとにある(フランス軍、フランスの警察機構・

組織を含む)統治機構である。当時、日本とフランスとは軍事協定を締結しており、「同盟関係」にあった。「史実」

の誤解を避けるため、改めて、この点を断っておきたい。

(既述の如く)一九九二年、陸上自衛隊は初めて国連の「PKO活動」に参加した。この頃、ベトナム国境に近いジャ

ングル地帯で米陸軍特殊部隊とポル・ポト派のゲリラが遭遇する事態が起こった。

米陸軍特殊部隊は、ベトナム戦争で捕虜となった米軍人等 の捜索に当たっていた。周知のように、既にベトナ

ム戦争は一九七五年に終結している。米軍特殊部隊は、その目的が「敵部隊の撃破ではなく、敵側の情報を取る

こと」つまり、ベトナム軍の捕虜収容所と捕らわれている米軍人に関する情報の収集にあった。このため、米軍

特殊部隊は自軍の交戦規定に従い「戦闘回避」を行った。他方、ポル・ポト派は「米国が『国家の意思』として

カンボジアに軍事介入してきた」と誤認し、慌てて民間人を人質に取り抵抗の構えをみせた。その後、米軍側が

極秘裏にポル・ポト側に「攻撃の意図のない」ことを通告したため、結果的に、この時の人質は解放されている。

(28)

米軍は、二〇年近く経っても、極秘裏にカンボジアから国境を越えベトナム側に入り、「仲間」の捜索を行って

いたのである。米国の「一人の軍人も見捨てない」との強い意思が伝わる出来事である。それは、国家として国

民を護り抜くという米国の「確たる信念」の表れである。

事実、ベトナム戦争時、米軍はベトナムのソンタイ捕虜収容所を襲撃し、米軍人の奪還を図っている。所 謂、「ソ ンタイ捕虜収容所  捕虜奪回作戦」である。しかし、この「捕虜奪回作戦」が決行される直前に、既に、米軍捕虜は

他の場所へ移送されていた。米兵の奪還はならなかったが、米国ではこの捕虜奪回作戦は有名な映画のモデルにもなっ

ている。シルヴェスター・スタローン主演の「ランボー」シリーズの中の第二作目がそうである。当作戦は米軍太平

洋軍司令官の指揮の下、一九七〇年十一月二十日、サイモンズ陸軍大佐以下五十三名の特殊部隊により決行されてい

る。関係者によると、同太平洋軍司令官の子息もベトナム戦争で捕虜となり、ベトナム側に捕らわれていたと言われ

る。同時に、北朝鮮に拉致された多くの「日本人」のことが思い浮かぶ。「自明の理 ことわり」のようにしてグローバル経済を

並べたて、国家、国民を軽んじ、己の利益を貪り、そして①友好を謳いつつ、日本に核ミサイルの照準を合わせ、②

沖縄県の領有を宣言(一九九二年)する中国に阿 おもねる、一部の与野党政治家の対応を始め、③かつて拉致問題の存在を

否定した(反日メディアと称される)「朝日新聞」等の対応と比べると、大きな落差を感じる。

カンボジアでは、(米国の支援を受けたロン・ノル政権以降に限っても)既に、数十年に渡り共産主義勢力による

戦闘や虐殺が続いていた。カンボジアでの状況は、平和を自明視する現代の日本人には理解し難いものであった。停

戦監視員や関係者等 によると、「昼間は田畑で普通に働いている村民が、夜になると、「クメール・ルージュ」(ポル・

ポト派)に変身する。そして、RPG―7対戦車ロケット弾(ソ連製)などの兵器を持ち出し、「人」殺しに出かけ

(29)

金品を強奪する。「人」に対する殺害が日常化していた。「人」としての最低のモラルを子供や人びとに教えようにも、

知識人である教師達は、極左共産主義のポル・ポト派によって全土にわたり粛清されていた」(停戦監視委員)。状況

を知る関係者からは、「アフガニスタンの現状になぞらえる」声が聞こえてきた。

既述の如く、日本政府(自民党・宮澤喜一首相)がカンボジアへ送り込んだPKO要員は、①文民警察隊(七十五

名)、②陸上自衛隊の幹部自衛官(停戦監視員、のべ一六名)、③防衛庁長官直轄部隊として編成された陸上自衛隊「第

一次カンボディア派遣施設大隊」・「第二次カンボディア派遣施設大隊」(第一次、第二次の派遣部隊人員は、のべ

一二〇〇名)である。停戦監視員は「丸腰」で危険な戦闘地域での任務に立った。また、施設大隊は

日本政府の

「意思」により

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式小銃と9ミリ拳銃だけの軽武装で、殺戮や虐殺が打ち続く「戦火の地」、カンボジアに派遣さ れた。まさに、「生 いけにえ贄」である。

カンボジアへ派遣された施設大隊(第2次派遣部隊)の中に、二十二歳の永井孝典陸士長がいた。当時、永井陸士

長は入隊して一年余りの新兵に毛の生えたような存在であった。彼は危険なカンボジア行きを強く志願した。しかし、

隊内ではまだ半人前としか扱われていなかった彼は、当初、カンボジアへの派遣要員から外されていた。諦められな

い永井孝典陸士長は、懸命に小隊長に食い下がった。

以下は、杉山隆男(『兵士に聞け』新潮社  一九九六年八月一〇日〈第九刷〉)が記したカンボジアにおける先の施

設大隊の活動の軌跡(の一端)である。杉山隆男によると、

‥‥‥永井士長の小隊が橋の補修を主に受け持ったのは、カンボジア西部の都市カンポットからシャム湾に突き

出た港町シハーヌクヴィルに向かう一帯で、‥‥‥(総選挙の粉砕を叫ぶ)ポル・ポト派の勢力が地下にしみ通

る清水のように浸透しっている。‥‥‥作業現場の橋につくと、橋のたもとにクメール語で「止まれ」と書かれ

参照

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